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東北地方

磐城(福島県)

発掘調査により、蒲生氏時代の野面積みの石垣などが発見された

磐城 守山城[もりやまじょう]  (平山城) 【所在地】 福島県郡山市田村町守山字三の丸

築城時期:  鎌倉時代 築城者:  田村庄司氏(藤原姓田村氏)

もりやま じょう 二の丸と三の丸の間の石垣と堀

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・堀・土塁 》
 磐城守山城は、谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、現在の城山八幡神社のある小高い場所が本丸跡とされ、その西側の三の丸跡地となる守山小学校のグラウンド脇には、蒲生氏時代の野面積みの石垣と堀跡が残されている。
 この石垣と堀跡は、平成12年度から15年度にかけた行なわれた四次にわたる発掘調査により発見されたものです。

 主郭(本丸)と推定される城山八幡神社にも曲輪と明確な低土塁が残存しています。


 磐城守山城は、坂上田村麻呂が蝦夷追討の際にこの地に城を築いたと伝えられている。
 その後、坂上田村麻呂の子孫である田村庄司氏が本拠地として南北朝時代までこの地方を支配した。 
1396(応永3)年の“守山城の合戦”で関東公方側に敗北し奥州南朝方の最後の拠点であった田村荘司一族は没落した。

 その後、三春田村氏が磐城三春城に居城を移すまで本城となった。その後、三春田村氏は、伊達氏の傘下に入る。

 1592(文禄元)、豊臣秀吉による“奥州仕置”により、伊達政宗がこの地を去ると、代わって会津領・蒲生氏郷の支配下に入り、守山城へは氏郷の家臣・田丸直昌が配され改修が行われた。

 1598(慶長3)年に上杉景勝の領地になると、家臣の須田長義・本庄繁長・竹俣利綱が支城主となり、1600(慶長5)年、蒲生秀行の領地に変わると、家臣の蒲生郷成が城代となった。
 1609(慶長14)年、郷成が家中対立から蒲生家を出奔し、子の郷舎とともに藤堂高虎へ仕えたことから、磐城守山城は、1615(元和元)年の一国一城令により破城されたと考えられます。


守山陣屋

 守山藩は徳川御三家の一つ・水戸藩の藩祖である徳川頼房の四男で、水戸黄門で有名な徳川光圀の異母弟である松平頼元が、1661(寛文元)年に宗家である水戸藩より常陸国額田に2万石の分与を受けていたが、その子・頼貞の代の1700(元禄13)年に幕府(第5代将軍徳川綱吉)より新たに2万石が与えられ、額田領を返上して守山に移って立藩し、水戸支藩としての四御連枝藩の一つ(他には、頼房の長男・頼重が讃岐高松、五男・頼隆が常陸府中および、頼房の七男・頼雄の常陸宍戸)となったのである。
 歴代藩主は江戸の藩邸に定住し、参勤交代を行なうことも無く、陣屋には代官が置かれた。

 幕末期の1864(元治元)年、水戸藩の“天狗党の乱”事件に巻き込まれ、守山藩でも乱に関わった者が多数いたため、藩士の多くが処罰されている。
 “戊辰戦争”の際には新政府軍の北上の前に、守山藩は戦う事無くして降伏している。

 “版籍奉還”で第7代藩主・松平頼升は守山藩知事となるが、明治3(1870)年、松平頼之が藩庁を常陸松川に移したため、守山藩は松川藩と改められる。翌年の廃藩置県で松川藩は廃藩となった。


 江戸時代の守山陣屋は、守山城の西方400〜500メートルの、現在の守山地区の中心部にあたる位置に設けられていたが、現在は道路と住宅地となっており、遺構などは何も残されていません。


本丸跡とされる城山八幡宮の入口
表掲の石垣と堀をアップで
高さ約6m、長さ約70mの「野面積み」(古式穴太積み)
の石垣が積まれ、幅約25mの空堀が存在する

守山陣屋跡付近の様子
右端の海鼠壁土蔵は陣屋跡とは無関係です

登城アクセス
 車  : 東北道須賀川IC〜左折/インター出口〜左折〜影沼橋・国道118号線
  〜左折/サンルートホテルの先〜県道54号線〜右折/北町〜江持橋〜左折
  /下川端〜右折/薬師堂前〜左折/園通寺前〜右折/守山小学校南側入口〜

駐車場 : 城山八幡宮前に駐車スペースあり


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