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近畿地方

播磨(兵庫県西部)

鶏籠山頂の山城と麓の居館からなった城

播磨 龍野城[たつのじょう] 別称=鶏籠山城 (平山城) 【所在地】 兵庫県たつの市龍野町上霞城

築城時期:  1499(明応8)年 築城者:  赤松村秀

たつの じょう 龍野公園として整備された一角に建つ 隅櫓 (模擬)

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣  現存/茶室  復元/御殿・多門櫓  模擬/埋門・
  隅櫓 》
 城の遺構として標高210mの山城(鶏籠山城)には、石垣がよく残っており、さらに山の平坦部や斜面には土塁、竪堀、掘切が残っている。
 脇坂氏が入封して、山麓に陣屋形式の城を築くが、5万3千石の城としては、きわめて貧弱で小規模と言わざるを得なかった。城内が狭いため、対岸の台山の麓に別邸(上屋敷)が営まれた。
ちなみにここに残る聚遠亭茶室は、9代安宅(やすのり)が京都所司代として尽力したため、孝明天皇より賜り移築したと伝わる。

 城は小さく、脇坂家は外様であったが、累代幕府の要職を務めた。2代安照は浅野内匠頭による刀傷事件で断絶となった播磨赤穂城の受け取り、8代安薫は老中となって但馬出石城を舞台とした「仙石騒動」を裁き、9代安宅が京都所司代から老中にまで進んだ時、“桜田門外の変”が起こっている。
 脇坂家が重用されたのは、二度にわたって春日局の縁者である堀田家から養子を迎えたためで、准譜代格の扱いを受けた。
 ちなみに、龍野のうすくち醤油は、8代安薫の時から始まった産物である。

 鶏籠山麓から揖保川の間に形成された龍野の城下町は、「播磨の小京都」と称えられ、武家屋敷や商家、寺町と昔ながらの城下町風情を色濃く今に伝えている。
 昭和54(1979)年、多門櫓、埋門(櫓門)、模擬二重隅櫓、模擬御殿、土塀などが復興され、城跡の雰囲気がよみがえり、重厚さを増した。


 龍野鶏籠山城は、築城年代には諸説があるが、1499(明応8)年頃に、播磨の土豪・赤松村秀が 築いたと伝わる。

 城は1577(天正5)年、4代赤松広秀の時に羽柴(豊臣)秀吉によって攻められ開城。天正9年、秀吉は蜂須賀正勝を置いた。その後、秀吉配下の福島正則、木下勝俊、小出吉正、山口広貞、石川光元が城代となり、光元の時に山麓に居館が設けられた。

 近世初頭には播磨姫路城主の池田輝政の持城となるが、1617(元和3)年、上総大多喜城から本多政朝が5万石で入封。
 政朝が姫路城に移ったあとは、小笠原長次、岡部宣勝、京極高和が相次いで入封した。

 京極高和が讃岐丸亀へ転封したあとは、一時期天領となるが、1672(寛文12)年、信濃飯田(長野県飯田市)より脇坂安政が5万3千石で入って、鶏籠山麓に城を新たに築いた。

 脇坂家の祖・脇坂安治は“賤ヶ岳七本鎗”の一人であり、筋金入りの豊臣大名である。 “関ヶ原の戦い”でも当初西軍で、現場で寝返ったくちの外様大名だが、実子があるにも関わらず、春日局の縁者の堀田家から養子を迎え、家名の安泰を図る。さらにそのコネで願い譜代(願って譜代となること)を申し出、譜代格を得る。
 脇坂氏代々の藩主は幕政に参画し、8代安董、9代安宅は老中にまで立身する。脇坂家は10代続いてこの地を領して幕末まで存続する。

鶏籠山を遠望する
中世に、山頂部に城砦が築かれた
鶏籠山をバックにした隅櫓は石垣・城壁などと
マッチして絵になる佇まいである
隅櫓の先へ進むと、裏門(模擬)がある
御殿横裏の鶏籠山城への登城口近くにあり
模擬隅櫓を城内側より見る
復興された本丸模擬御殿 大手埋門(櫓門)と隅櫓

本丸御殿(城内)側から見た大手埋門
聚遠亭茶室
安政年間(1854〜59)に脇坂安宅が
御所復興の功により孝明天皇から賜ったもの

城下町絵図 1752(宝暦2)年頃

登城アクセス
 車  : 山陽道龍野IC〜左折/龍野IC出入口〜県道29号線〜左折/富永〜
  国道179号線・龍野橋〜右折/龍野信金前〜右折/突当たり〜

駐車場 : 龍野城内の龍野歴史文化資料館の無料駐車場を利用


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