ザ・登城TOPへ

ザ・登城

近畿地方

播磨(兵庫県西部)

羽柴秀吉の「播州三木の干殺し」の城跡

播磨 三木城[みきじょう] 別称=釜山城、別所城 (平山城) 【所在地】 兵庫県三木市上の丸町

築城時期:  1492(明応元)年頃 築城者:  別所則治

みき じょう 城址に立つ 別所長治 騎馬像

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・空堀・天守台・井戸  模擬/城壁 》
 三木城は、美嚢川南岸の台地上にあり、明石の北約19km、姫路の東約31kmの地に位置している。
 本丸は標高58.2m、比高約20mの切崖に囲まれ、南側と北側に空堀が設けられている。現在、ここには稲荷神社、三木市立金物資料館、保育所が建てられている。また、本丸北側には「かんかん井戸」と呼ばれている本丸井戸があり、直径は3.6m、深さ25mほどあるという。なお、本丸には天守台と呼ばれている場所がある。

 西の丸跡には、今は三木市立図書館と堀光美術館が建設されている。標高は57mで、高さが2間(約3.5m)の土塁があり、三方に空堀があったと思われている。

 新城曲輪は、その名が示すとおり比較的後世(“三木合戦”以後ではないか)になって築かれたものと思われている。
 雲龍寺は三木城の城郭の一部だったと思われている。“三木合戦”で開城の際には別所長治が雲龍寺の和尚に後事を託し、日ごろ愛用していた品々を贈り、それが現在も寺宝として残されている。また、この寺の南側には別所長治と照子婦人の首塚が残されている。

 鷹の尾曲輪は別名「鷹尾城」とも呼ばれており、東西に細長い丘陵上にあり、新城曲輪より比高18mと高い場所にある。本丸、西の丸、新城曲輪をよく見通すことができる。現在は三木市市役所が建設されている。
 雲龍寺から南に250mのところに八幡山曲輪があった。鷹の尾曲輪との比高は15mで、羽柴秀吉がここに陣取り三木城を見下ろしたと言われている。現在は三木市の浄水場があり、遺構は全く残っていない。


 播磨国東部の雄として君臨した別所氏代々の居城・三木城は、別所氏初代則治が築き、その築城時期は諸説あってはっきりしないが、1492(明応元)年前後ではないかと推定されている。
この則治は謎の人である。十五世紀末、突如として歴史の表舞台に登場するや、播磨守護赤松氏の復権に大功をなし、やがて赤松家臣団内に重きをなしていった。
 別所氏は守護赤松氏を支え続けたが、頼りない盟主の赤松氏は、1538(天文7)年と翌年、山陰の雄・尼子氏が侵攻すると、国を捨てて逃げ出す有様で、さすがに別所氏も見限り、自立していった。 

 自立といっても、まだまだ後ろ盾がいる別所氏は、畿内政局を握る細川晴元を頼った。しかし、この選択は真の実力者・三好長慶の反対勢力となり、やがて三好方の攻撃を受ける。1555(天文24)年、別所氏は三好方と和睦、配下に組み込まれた。
 その後の永禄年間(1558〜1570)、別所氏は宿敵であった依藤氏を滅ぼした。

 1568(永禄11)年、織田信長が入京すると時の城主・別所安治は、すばやく織田方に鞍替えした。
 安治から長治の代にかけ、別所氏は東播磨に威を唱える戦国大名化していった。

 1578(天正6)年、毛利氏攻めの先鋒を務めるはずであった別所長治は、突如三木城に立て籠もり、織田方の羽柴秀吉に叛旗を翻した。
秀吉勢は三木城を包囲し、頼みとする支城・砦をしらみ漬しにしていった。兵糧搬入ルートを完全に遮断されてしまった別所氏は、長治ら一族の自決により、ほぼ2年にわたる“三木合戦”に終止符を打った。

 その後、姫路城を居城とした羽柴秀吉は、三木城には杉原家次、前野長康らを城代に入れた。
 1585(天正13)年から、中川清秀の子の秀政、秀政の弟・秀成が城主となり、その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入る。
 池田輝政が播磨に入国し姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、池田家宿老の伊木氏が三木城主となった。

 三木城は、江戸時代初期の1615(元和元)年、一国一城令によって破却されたが、その歴史は、東播磨の雄・別所氏が“播州三木の干殺し”によって滅亡した時に、終えていたのではあるまいか?。


本丸の天守台跡
本丸跡に建つ別所長治の辞世の句碑
「今はただうらみもあらじ諸人の
いのちにかわる我身をおもえば」
かんかん井戸(本丸) 模擬城壁
本丸跡より崖下北方向の三木市立病院
美嚢川および、神戸電鉄栗生線を見る
南西端城域内の雲龍寺の
別所長治と照子婦人の首塚

「播州三木の干殺し」 e紙芝居

以下のボタンをクリックすると、残像を残しながら画像が切り替わります。

草木までも食べつくして ついに最後を迎えた
 image01
 天正六年二月、加古川城(加須屋館/糟屋館)において、毛利氏攻略の軍議が開催された。秀吉から招かれた別所長治は、叔父の別所吉親と家老の三宅忠治を参列させた。
 若い三木城主・別所長治には、吉親、重棟という二人の叔父が後見役として実権を握っており、毛利と織田に対する姿勢を巡って二人の叔父は反目していた。

 image02
 重棟とともに上洛し信長に謁見もしていた長治は、はじめ織田方に与し、毛利攻めの先導役を務めるはずであったが、三木城内での評定の結果、山城守吉親の意見が勝り、毛利氏側に鞍替え篭城することとなり、絶望した重棟は城を出て織田方に付いた。
 別所氏の離反理由として、播磨守護・赤松氏一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというのが通説であるが、信長の残虐さを嫌悪していた、姻戚関係にあった丹波八上城の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感、これ以前の毛利氏からの強い働きかけが功を奏した、などが挙げられる。

 image03
 頼みの支城・砦を一つづつ落され、幾度か戦いを挑むが戦局を打開するに至らず、海陸からの兵糧搬入の試みもほとんど失敗に帰し、孤立した三木城内は餓死を待つばかりとなった。
 篭城人数は、当初、婦女子を含めて七、八千人と伝える。そこへ、敗れた各砦から兵が入り込んだ。ことさらに、秀吉は城へ敗兵を入れさせたらしい。人数のふくれあがった三木城は、草木に至るまで食べ尽くし、この世の地獄図が描かれた。
 叔父重棟からの降伏勧告もあり、敗北開城を決意した長治の三木城内には、秀吉方の浅野長政を通じて酒樽と肴が贈り届けられた。

 image04
 長治ら一族の自決と引きかえに、城兵・領民の命を助けるとの条件を受け入れた三木城内では、天正八年正月十七日、古式通り、まず長治の3人の子を刺殺、各正室らは懐剣を口にくわえ突っ伏して絶命した。

 image05
 つづいて、雲龍寺住職・春泰禅師に後事を託し、城主の別所長治および、その弟の別所友之が城内にて切腹。こうして、一年十ヶ月にもおよんで酸鼻を極めた「播州三木の干殺し」は最後を迎えた。
 また、老臣の三宅治忠は自刃しますが、「最後の一兵まで戦う」と息巻いた叔父の吉親は家臣の衣笠八郎に成敗されたという。

「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかわる我身をおもえば」

 なお、秀吉から「三顧の礼」をもって迎えられ、“諸葛孔明に劣らぬ名軍師”と謳われた竹中半兵衛重治は、肺の病に侵され、三木城攻めの戦い半ばの天正七年六月十三日、平井山の陣中にて没している(行年三十六歳)

城址内略図

三木城の推定縄張り図/昭和60年度撮影の空中写真

三木城 想像図

登城アクセス
 車  : 山陽道三木小野IC〜左折/三木小野IC出入口〜国道175号線〜右折/
  樫山〜県道23号線〜美嚢川・福有橋〜左折/本町〜左折/大手公民館入口
  〜上の丸公園

駐車場 : なし(上の丸公園内の駐車スペースを利用)


「三木市」 公式HPへ

ザ・登城TOPへ 近畿地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  近畿地方の城郭へ

滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県