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近畿地方

播磨(兵庫県西部)

出雲の名門・尼子氏終焉の地の城

播磨 上月城[こうづきじょう]  (山 城) 【所在地】 兵庫県作用郡作用町下上月

築城時期:  正治年間(1199〜1201) 築城者:  得平頼景

こうづき じょう 上月城址 遠望

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・空堀 》
 上月城は、姫路から北西約四十キロの山間部、播磨・美作・備前の三国の境にあたる要衝の地に位置し、中国路の要所を扼する位置にあるこの城の重要性が窺える。

 上月城は、標高140mの荒神山の山頂に築かれた比高100mほどの連郭式山城で、東を流れる熊見川(作用川)を防衛前線としていた。
 “上月城の戦い”による尼子氏終焉の地として知られる上月城は、その有名さとは対照的に、意外とその規模が小さい城郭であった。
 北側山麓・大手門跡付近の登城口脇に、「尼子勝久公400年遠忌記念碑」・「上月城戦没者合同慰霊碑」・、「山中鹿之介公追悼碑」の石碑が建てられています。
 主郭周囲には石垣が残されていて、羽柴秀吉に攻められてで討死した赤松政範らの三基の供養碑が祀られている。

 上月城は、直接関わったのは羽柴秀吉であるが、織田信長の播磨侵攻策戦で、戦略上の義性となった城である。
 宇喜多方を追い落した秀吉は、代わって尼子氏一党を上月城に入れた。尼子氏再興の執念を利用して、強敵毛利氏を迎撃させるためだ。
秀吉は別所長治の三木城攻撃に取り掛かっていたが、上月城危急の報せに、高倉山砦に出陣して毛利勢と対峙する。
 「上月城への陣など引き払い、三木城攻めに専念せよ」との信長の命に、秀吉軍はやむなく撤去して三木城に向かった。

 信長に見捨てられ、結果的には二階に上げられて梯子を外された格好の尼子主従は、万策尽きて滅亡。尼子勝久は自害、捕らえられた山中鹿介は、毛利輝元のもとに護送される途中の備中松山・“阿井の渡し”で謀殺された。


 上月城は、正治年間(1199〜1201) に赤松氏一族の得平頼景により築かれたとあるが、諸説あり真実は定かではない。
 山陽・山陰の交通の要地に位置する上月城は、室町時代から戦国時代にかけて、赤松・山名・尼子氏らの幾多の争奪戦が繰り広げられた。

 1557(弘治3)年、赤松政元が、置塩城(兵庫県姫路市)から入城。政元の子・赤松政範は、この地周辺の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれたが、1577(天正5)年、織田信長の武将・羽柴秀吉の攻撃を受けて落城し赤松氏は滅亡する。上月城には織田方の助力を得て再興を目論む尼子氏一党が入った。

 翌天正6年、毛利輝元率いる大軍に囲まれ、救援の羽柴秀吉も三木城攻略のため撤退、孤立した尼子主従の拠る上月城は落城し、その後、廃城となった。

城址北側山麓に建つ「上月歴史資料館」 歴史資料館前から城址を見上げる
城址への登り口に立つ
「上月城の沿革と攻防」説明板
登り口近くにある「尼子勝久公四百年遠忌追悼碑」
この碑の両側には、「上月城戦没者合同慰霊碑」(左側)
と、「山中鹿之介公追悼碑」(右側)があります
城址への登り口
山上までここから約20分だそうですが、降雨と日没が近かったため登頂しませんでした

余湖図コレクション「上月城」 出典元
余湖図コレクション
余湖くんのお城のページ」−「上月城」のページに
掲載されているものを借用させていただきました

参考サイト 余湖くんのお城のページ 余湖 殿 独特のタッチで描かれた2,000城以上掲載の
「余湖図コレクション」は圧巻です

登城アクセス
 車  : 中国道作用IC〜右折/作用IC出入口〜国道373号線〜右折/上町〜
  国道179号線〜直進/上月三差路〜国道373号線〜右折/踏切の少し先〜
  すぐに右折〜上月歴史資料館〜

駐車場 : 上月歴史資料館の無料駐車場を利用


「作用町」 公式HPへ

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