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近畿地方

播磨(兵庫県西部)

賤ヶ岳七本槍の一人・糟屋武則の居城

播磨 加古川城[かこがわじょう]  (平 城) 【所在地】 兵庫県加古川市加古川町本町

築城時期:  鎌倉時代 築城者:  糟屋有数

かこがわ じょう 城址 の称名寺山門

 遺 構  《 遺構/なし 》
 加古川城は鎌倉時代の播磨守護所であり、また、賤ヶ岳七本槍の一人・糟屋武則の居城でもあったが、現在、城址としてのその面影は全く残っていない。

 加古川城は、現在の国道2号線近くの称名寺境内から北西部にかけて存在していたと言われているが、かつて、この地に城があったと証明できるものは、称名寺境内に置かれている加古川城址の案内解説板のみで、遺構などは何も残っていない。


 1184(寿永3)年に平氏追討の戦功により糟屋有数が源頼朝よりこの地を与えられた。 その後、加古川城は糟屋有数がこの地に築城し、鎌倉時代には加古川城は播磨守護所で、守護代糟屋氏が在城した。

 1577(天正5)年、羽柴秀吉が播磨に侵攻し、毛利氏討伐の軍議を加古川城(糟屋の館)で開いた。
 この時の加古川城主・糟屋武則は、秀吉につき従って小姓頭となり、“賤ヶ岳の戦い”で七本槍の一人に数えられるなどの活躍を見せ、 加古川1万2千石を秀吉より与えられた。

 1600(慶長5)年の“関ヶ原の戦い”では、七本槍の中で唯一西軍に与したため、領地没収となり、加古川城も廃城となった。
 糟屋武則は後に許され、慶長7年には旗本として召抱えられ、500石という小禄ながら徳川家臣となる。だが、武則の死後、糟屋家は再び断絶となった。


称名寺境内に置かれている
城址案内解説板
称名寺境内に祀られている七騎供養等
南北朝時代の1350(正平5)年、都を追われて本国出雲へ落ちて行こうとした塩治判官高貞を助けようとして、足利
尊氏の軍勢と戦いこの地で討死した郎党七名の供養塔

登城アクセス
 車  : 山陽道加古川北IC〜右折/加古川北IC出入り口〜県道43号線〜JR
  神戸線〜左折/平津〜加古川・加古川橋〜右折/加古川町本町〜称名寺

駐車場 : 称名寺の参拝者用無料駐車場を利用


「加古川市」 公式HPへ

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