近畿地方
播磨(兵庫県西部)
舞い降りた白鷺を思わせる世界遺産

姫路城[ひめじじょう]
別称=白鷺城・日女道の城・姫山城 (平山城 ) 【所在地】 姫路市本町68

築城時期 :
 15世紀末頃(16世紀中頃説もあり)
 1580(天正8)年
 1601〜1609(慶長6〜14)年
 1618(元和4)年
築城者 :
 赤松氏(黒田重隆説もあり)
 羽柴秀吉
 池田輝政
 本多忠政


ひめじじょう

 内濠土塁より桜花爛漫の天守を仰ぐ
 「にの門」木連れ格子より望む新緑の三国濠
 東方より見上げた夕映えに聳える天守群
 雪の降りしきる厳寒の西の丸化粧櫓付近


 遺 構  《 現存/大天守・乾小天守・東および西小天守・櫓計27棟・門計17基・塀  復元/桜門橋
  模擬/大手門(桐三の門)  遺構/曲輪・石垣・土塁・石段・水濠・井戸 》
姫路駅に降り立てば、目に飛び込んでくる白亜の天守閣群
池田輝政が築いた優美な天守最上階から俯瞰して
三重の濠でわかる姫路城の威容を垣間見てみよう


 東は姫路城の搦手にあたるが、羽柴秀吉の時代には、こっちが大手であったという。
中濠(現在の国立姫路病院の東側)の脇を生野街道が南北に走り、その外側に外濠があった。
そして、さらに東を市川が、大きく湾曲しながら流れている。

西
 男山、景福寺山など、姫路城の西方には合計十四の丘が点在する。
これらの丘は「播磨国風土記」の神話にも描かれている。
城と男山の間を、中濠と接して流れるのが船場川。
また、西北には「西の比叡山」こと円教寺のある書写山が聳える。 


 大手門から南へ真っ直ぐに、中の門跡を経て姫路駅までのびているのが大手前通り。
中の門跡のある国道二号付近がかつての中濠、姫路駅付近が外濠にあたる。
駅をこえて、さらに南進すると姫路港に至り、播磨灘が広がる。


 姫路城北方には広峰山、増位山など、篤く信仰される神聖なる山々が聳える。
池田輝政は、この広峰山を築城の際の基準線にした。城南の城下町から望むと
広峰山を背景にした天守は、まさしく「君臨」している印象を与えたことだろう。

大天守6階から見下ろした
国立姫路病院・市立美術館などがある東方向
大天守6階から西方向の
三国濠・菱の門・西の丸化粧櫓などを見下ろす
大天守6階から見下ろした
三の丸広場・大手通り・姫路駅などの南方向
大天守6階から見下ろした
広峰山・増位山などがある北方向


備前丸(本丸)から見上げた大天守と西小天守閣

姫路城物語

官兵衛、秀吉、輝政が駆け抜けた城


 古より交通の要衝であった日女道(ひめじ)

 姫路城が聳え立つ姫山には、中世には天台宗の称名寺の伽藍がつくられていたが、南北朝期に入って、足利尊氏に味方して播磨守護となった赤松則村の子・貞範が正平元年(北朝年号貞和2年・1346)にこの地に初めて城を築き、「姫山城」と称したという(「播磨鏡」)。

 ここから姫路城の長い歴史が始まった(ちなみに姫路城と呼びならわされたのは秀吉入城以降である)。
姫路城は古来の基幹道である山陽道と山陰道を結ぶ基点で、出雲・因幡・但馬街道が分岐する交通の要地である。赤松氏はここに目代の小寺氏を置いて、播磨平野を守らせた。だが、嘉吉元年(1441)に突発した、いわゆる“嘉吉の乱”で、姫路城は新しい城主を迎える。嘉吉の乱は、赤松満祐が6第将軍の足利義教を殺害した事件で、赤松氏はこれによって没落し、代わって城は山名持豊(宗全)の支配に置かれたのである。

 しかし、“応仁の乱”(1467〜1477)で、赤松政則が山名氏から姫路城を奪回、再び小寺氏を目代にしたが、戦国の下克上で赤松氏は凋落。代わって浦上氏などが台頭すると、小寺氏は姫路城を家臣の黒田重隆(官兵衛の祖父)に預けて、近くの御着城に移って武威を張るようになる。
 こうした城主交代のいきさつをみると、それまでの姫路城は、さほど重要な戦略的規模を持つ城郭ではなかったことがうかがえる。それを一変させ、姫路城に戦略的意義を与えたのが、黒田官兵衛孝高(如水)と羽柴秀吉(豊臣秀吉)であった。

 戦略拠点として秀吉に献上された姫路城

 織田信長から播磨経略を委ねられた秀吉は、本城となる御着城主の小寺則職の優柔不断さに見切りつけ、その重臣の小寺官兵衛、すなわち黒田孝高を味方につけて、周辺土豪たちの誘降策をすすめた。小寺則職は、織田氏と毛利氏のいずれにつくかと迷った末に、孝高のすすめと違って、毛利氏に味方したために敗亡、姫路城は黒田氏の完全な居城となったのである。やがて、姫路城が戦略拠点として注目されるときがくる。

 秀吉は別所長治の三木城を二年がかりで落すと、三木城を毛利氏攻略の本拠にしようと考えた。そのとき黒田孝高が、「播磨の北にある三木城より、西の宇喜多氏・毛利氏攻略には、姫路の地が最適です。わが姫路城をお譲りしますから、ぜひ姫路城を本拠に」と申し出たのである。
 秀吉は孝高の提案を受け入れて、天正8年(1580)四月、それまで土塁であった城を石垣の堅固なものに改修、三重四層の天守を持つ姫路城を造営した。天守は当時、西国では見られなかったために、周囲に織田氏の威光を示すものとなったのである。

 中国大返しと中継地点としての姫路城

 秀吉が備中高松城を水攻めにして毛利氏と対峙していたとき、“本能寺の変”で信長が倒れた。秀吉は毛利氏と急遽和睦するや、一気に軍勢を姫路に反転させた、いわゆる“中国大返し”である。
 軍勢を姫路城に集結させ、二日の休養の後、「死すとも生きるとも、この姫路に二度と戻ることはない」と言って、城中の金銀財宝・秤量をことごとく部下に分け与えてさらに進軍、“山崎の合戦”で明智光秀を討ち、やがて天下を掌中にした。

 そして、西国大名への押さえとして重視された姫路城には、秀吉が絶大な信頼を寄せる弟の小一郎秀長が守っていたが、秀吉の威光が高まり、中国の毛利氏が服従すると、姫路城の戦略的な意味が激減する。秀長を大和郡山城に移した秀吉は、妻の“ねね(北の政所)”の実兄の木下家定を、2万5千石で姫路城主に任じたのである。実力よりも情実的な配置であり、姫路城の戦略的・政治的な位置づけが低下したことを表している。

 「大略あり」と家康に信頼された池田輝政

 関ヶ原合戦で完勝した徳川家康は、西軍に与した大名の領地を没収し、味方した豊臣恩雇の大名には大幅に加増して、西国の遠地に追いやった。それはまるで、「大名を植木鉢に植え替えた」(荻生徂来『政談』)と形容されるようなものであった。
 そこで、西国の外様大名の押さえとして、再び重要視された姫路城主には、池田輝政をおいて他にはいないと家康は考えた。

 白羽の矢が立てられた池田輝政は、織田信長の家臣であった池田恒興のニ男である。信長が“本能寺の変”で倒れた後、恒興は秀吉の重臣となるが、秀吉と家康が戦った天正12年(1584)の“小牧・長久手の戦い”で、恒興は長男の元助とともに戦死してしまった。
 そこで池田家の家督を継いだ輝政は、秀吉によって美濃大垣城主、岐阜城主、さらに三河吉田城15万2千石を与えられた。
 輝政は豊臣恩雇の大名であったが、秀吉のすすめもあり、家康の二女・督姫を後室としていた。このことから、“関ヶ原合戦”では徳川方に与したのである。岐阜城攻めでは福島正則と先陣争いをして活躍し、関ヶ原本戦においても南宮山にいる毛利軍の動きを封じて、岳父の家康の勝利に貢献した。家康は輝政を、「沈毅、寡欲にして大略あり」(「名将言行録」)と評して信頼し、輝政を姫路城に置くことで、安芸広島城の福島正則、長門萩城の毛利輝元などの、西国と九州の外様大名への睨みを利かせようとした。

 そのため“関ヶ原合戦”後の慶長5年(1600)十月、輝政を五十二万石の姫路城主とし、また家康の孫にあたる輝政の二男・忠継に備前(岡山県)二十八万石、三男・忠雄には淡路六万石を与えた。これに新たに検地で打ち出した分を加えると、池田一族の石高は合計九十二万にも上った。

 西国将軍にふさわしい人と城を

 「西国将軍」「姫路宰相百万石」と呼ばれた池田輝政は、慶長6年(1601)、それにふさわしい城の修造に取りかかった。輝政は、秀吉・秀長・家定と続いた姫路城の大改造を打ち出した。その際、重臣の多くは、「この城の近傍に山があって、要塞としてはよろしくない。別の所に築城すべし」と進言した。だが輝政は、「この城に篭城するなどと、小さいことを考えるな。戦いは大地に打って出て、勝利するものぞ」といったという(「名将言行録」)。
 城より人――である。輝政は諸国の優秀な人材を集めるためには、財を惜しまなかった。
 しかし、城を軽視したわけではない。輝政は「西国将軍」にふさわしい城郭をつくるために、多大な財力を投じた。五層六階の大天守と、乾と西・東の三層の小天守をつくり、さらにその四基の天守を結ぶ二層の渡櫓という、今日に見る秀麗にして堅固な姫路城を聳え立たせたのである。

 さらに輝政は、壮麗な城にふさわしい城下町づくりををすることで、商工・交易を発達させて、財力の確保を目指した。市川まで広がる城下町の形成である。
 その構想で形成されたのが、東は神屋の橋元町、西は船場の龍野町、北は野里の威徳寺町、南は飾磨口――ここに八十八町の城下町が誕生したのである。

 千姫の化粧料で造営された西の丸

 慶長18年(1613)正月、池田輝政は再発した中風のため、姫路城中で没した。五十歳であった。姫路城主を継いだのは、嫡男で三十歳の利隆である。
 利隆は輝政の先妻(中川清秀の娘・糸子)の子であった。督姫(剃髪して良生院と号す)の子で備前岡山城主の忠継が15歳であり、まだ大坂城に豊臣秀頼がいる状況では、家康は孫とはいえ忠継に姫路城を託すわけにはいかなかった。
 利隆は“大坂冬・夏の陣”で活躍するが、その間に良生院と忠継が病死し、利隆も翌年に33歳で病没する。姫路城は利隆の子・光政が継いだが、わずか8歳ということで、元和3年(1617)、因幡鳥取城三十二万石に移された。

 新たな姫路城主となったのが、伊勢桑名城十万石の本多忠政である。忠政は、徳川四天王の一人で家康の創業を支えた本多忠勝の子である。
 本多忠政は、“大坂夏の陣”では道明寺の戦いで武功を立てていたが、このとき大坂城から救出された家康の孫娘の千姫を、子の忠刻の妻に迎えていた。
 姫路城主となった忠政は、五万石の加増で十五万石が与えられた。このとき、忠刻は部屋住みであったが、千姫の化粧料ということで十万石を与えられている。そのため、父子の所領を合わせれば、二十五万石である。

 姫路城は池田・本多の二家にわたって、将軍家の姫を迎えたことになる。秀麗な姫路城、さらに華やぎを増した。
 忠政は息子夫婦のために、三の丸と西の丸に、美麗な邸宅を築いた。用材や建具などは、秀吉がつくった伏見桃山城の遺構を多く用い、三の丸の殿中の戸襖には金箔を貼り、武蔵野のすすきの絵が描かれていたことから、「武蔵野御殿」と呼ばれた。 
 西の丸の殿舎も立派なもので、櫓を設けた化粧櫓や塗りごめの長局(多門櫓)が建てめぐらされた。
 さらに庭園には築山が築かれて、諸国から名草木が取り寄せられ、亭が設けられた。また、泉水が穿たれ、内濠には屋形船が浮かべられたという。
 姫路城は千姫を迎えて、その壮麗さにさらに美麗さを加えた。忠刻との間には一男一女が生まれて、本多家の前途は洋々かと思われた。
 ところが、嫡子の幸千代がわずか三歳で夭折、忠刻も三十一歳で病没すると、千姫は髪を落して天樹院を号し、江戸に戻った。姫路城にいること、十年であった。

 その後、本多氏は政朝・政勝と続いて、寛永16年(1639)に大和郡山へ転封。代わって姫路城主となったのは、豊臣氏亡きあと唯一の大坂城主を務めた大和郡山城主の松平(奥平)忠明である。
 忠明の子の忠弘以降、姫路城主は、松平(越前)氏2代、榊原氏、松平(越前)氏(返り咲き)、本多氏(返り咲き)2代、榊原氏(返り咲き)4代、松平(越前)氏(返り咲き)2代と目まぐるしく交代した。
 そして寛延2年(1749)、酒井重忠を祖とする雅楽頭系の酒井忠恭が十五万石で入城して以後、明治維新まで酒井氏は十代、百十余年続いて、姫路城は城郭としての役割を終えたのである。

(写真素材「フォトライブラリー」さまの無料画像を使用)

姫路城 空撮写真 中濠周辺一帯
姫路市HP|姫路フォトバンク」さまの 「写真ダウンロードサービス」 画像を使用

姫路城 案内図
(現地案内板のものに加筆)

登城アクセス
 車  : 山陽道姫路東IC・播但連絡道花田IC〜右折/花田IC出入口〜左折/上
  原田〜国道372号線〜左折/二本松〜国道312号線〜右折/大善町〜県道
  〜姫路城前〜

駐車場 : 姫路城周辺の有料駐車場を利用

参考サイト

姫路城大図鑑「姫路市公式HP」へ リンク

世界遺産「姫路城」

WELCOME TO HIMEJI CASTLE

姫路観光コンベンションビューロー | ひめのみち:姫路城の達人

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  6階(最上階)  備前丸(本丸)〜折廻櫓・備前門〜井郭櫓〜「ち」の門番所・「ち」の門〜「との一
  門」・「ト」の櫓〜「へ」の門〜「イ・ロ・ハ・ニ・ホ・へ」の各渡櫓・ホの櫓〜姥が石  帯の櫓〜帯郭櫓
  (腹切丸)〜「り」の門・太鼓櫓〜上山里曲輪・お菊井戸〜「ぬ」の門・リの一および二の渡櫓〜
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