近畿地方
摂津(大阪府)
天下人の威信をかけた空前の巨城

大坂城[おおさかじょう]
別称=石山城 雅称:金城・錦城 (輪郭式平城 ) 【所在地】 大阪府大阪市中央区大阪城1-1

  築城時期
1496(明応5)年
1583(天正11)年〜1588(天正16)年
1620(元和6)〜1629(嘉永6)年
  築城者
本願寺八世・蓮如
豊臣秀吉
徳川幕府(徳川秀忠・徳川家光)

おおさかじょう

「太閤さんの城を復旧したい」
という浪速っ子の熱い願いのもと
甦った大坂城は、いまもなお
「喰い倒れの街」、大阪市民の
シンボルであり続けている

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・水濠・空堀・土橋・雁木・井戸  現存/大手門・大手土塀・大手渡櫓門&続多門櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・焔硝蔵・御金蔵・金明水井戸屋形・桜門  復元/天守閣・北仕切門・青屋門・桜門土塀・二の丸西土塀・極楽橋・二の丸東側水濠 》
大坂城を訪ねる

 大坂城は、浪速の歴史を育んできた上町台地の最北端に築かれている。
城の東は寝屋川(大和川)、平野川、猫間川が洗い、城の北端で三河川は淀川に合流、難波の湊をつくった。城の西は湿地デルタ(船場は埋立て地)であった。
従って大坂城は、南の台地続きから最も攻められやすい。慶長19(1614)年の“大坂夏の陣”で、真田信繁(雪村は俗称)が城の南に真田出丸を構築したのは、この弱点を補うためだった。

 大坂城は広大な台地先端部に建つため、平城のように見える。しかし、北から望むと、標高約33メートルの丘上に天守が築かれていることがわかる。
この河川と海上交通の要の「石山」の地に、蓮如が御坊をつくり、証如が山科から本願寺を移した。以後、一向宗の本拠となり、織田信長と約11年間の攻防戦を繰り広げた。

 天正8(1580)年、本願寺顕如・教如父子退去後、信長は甥・織田信澄と丹羽長秀を城代として大坂築城をはじめる。
信長の築城着手があったからこそ、羽柴秀吉は天正11(1583)年着工、天正13年春、天守竣工という短期間で大坂城本丸を築くことができた。

 豊臣氏時代に拡張され続けた大坂城は、“大坂の陣”で灰燼に帰したのち、徳川幕府の手で元和6(1620)年より、まったく新しい大坂城へと造りかえられたのである。


◇◇ 大坂城ものがたり ◇◇

信長が欲し、秀吉が築き、徳川が拠点とした 天下人の城


■ 蓮如が坊舎を建て、寺内特権で栄えた石山本願寺

 大坂城の歴史は、室町時代に民衆信仰の頂点をきわめた本願寺八世の蓮如が、念仏信仰(一向宗・浄土真宗)の坊舎を建てた明応5(1496)年から始まる。
 すでに京都に山科本願寺を建立していた蓮如は、大坂湾と淀川、大和川に臨む上町台地に坊舎を建てることで、摂津(大阪府)、播磨(兵庫県)、河内・和泉(大阪府)から紀州(和歌山県)、さらには海運を通じて瀬戸内海から四国への教線の浸透を考えた。これは後に織田信長が、この地を西日本への戦略拠点として執拗に欲したことと発想は同じである。

 天文元(1532)年、山科本願寺が細川晴元と結ぶ六角定頼や法華宗徒によって焼き討ちされると、十世証如は大坂の坊舎を本願寺の本山とし、以来、大坂本願寺は各地の門徒衆から多大な寄進を受けて、壮大な伽藍を聳え立たせ、難攻不落ともいわれる城郭を整備していった。
商業都市堺と比肩するほどの繁栄を見せた大坂本願寺繁栄の背景には、守護や戦国大名などの介入を拒み、自由な生産・交易・生活空間を保証する「寺内特権」があった。

■ 信長の遺志を継いだ豊臣大坂城の誕生

 元亀元(1570)年九月、それまでしばしば大坂の明け渡しを求め、応じなければ破却すると脅かしていた信長に対し、ついに本願寺は挙兵した。通称、“石山合戦”である。
本願寺十一世顕如は、各地の門徒に対して信長との対決を求めた。これに呼応したのが伊勢(三重県)長島であり、近江(滋賀県)や越前(福井県)の一向一揆であった。
堅固な城郭に阻まれて後退を繰り返した信長は、包囲作戦に切り替え、兵糧攻めを策した。やがて長島と越前の一向一揆が制圧され、天正6(1578)年、本願寺に協力して兵糧を運ぶ毛利水軍が木津川沖の海戦で敗退すると、四年間の篭城で疲弊した本願寺の顕如は、ついに寺地を信長に明け渡して紀州の雑賀に退去した。天正8(1580)年のことである。このとき、伽藍は焼失。信長は城番をおき、四国侵攻の兵站拠点にした。

 二年後、信長が“本能寺の変”で倒れると、その後継を狙う羽柴(豊臣)秀吉は、信長の戦略的意図を継いで、大坂に巨大な城を構築した。これが豊臣大坂城である。
秀吉は、柴田勝家との“賎ヶ岳の合戦”や、徳川家康らと戦った“小牧・長久手の戦い”の間も築城を進め、天正13(1585)年には本丸・天守を完成させた。さらに三年かけて二の丸・西の丸を築き、なおも京橋口曲輪、生玉口曲輪、玉造口曲輪などを拡張(晩年には広大な三の丸も造営)、訪れた豊後(大分県)の大友宗麟をして「三国無双の城」と驚嘆の賛辞を述べさせている。

 秀吉当事の城は“大坂の陣”で消滅したが、キリスト教宣教師などの報告によると、天守は金色と青色が施され、城全体は壮大にして精巧、美しい外観であった。内部はいたる所に金を施し、絢爛豪華を極めていたという。
 秀吉はまた町造りにも英知を傾けて、商業や交易を保護し、今日の大阪経済の基盤を築いている。

■ 難攻不落の堅城、“大坂の陣”で灰燼に帰す

 「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」と辞世の句を詠んだ秀吉は、慶長3(1598)年、伏見城で没した。
 翌年正月、秀吉の遺児・秀頼は、伏見城から大坂城に入り二代目城主となったが、すでに徳川家康の輿望が高まっており、一年半後に“関ヶ原合戦”で勝利した家康は慶長8(1603)年、江戸に幕府を開いて天下の政治を司った。
 “関ヶ原合戦”後、秀頼はかろうじて大坂城主の地位を保っていたが、領地はわずか六十五万石余に減じられていた。それでも秀頼の母・淀殿とその側近は、家康の孫娘の千姫が秀頼に嫁いできたことから、いずれ家康は天下を豊臣家に返すであろうと期待していた。

 しかし家康の子・秀忠が二代将軍となって、徳川の天下支配は明確になり、さらに慶長16(1611)年に秀頼が家康から京都二条城に呼び出されるに及んで、家康の意図するものが明らかとなる。豊臣家の不満は高まり、家康もまた、大坂城をつぶして豊臣勢を一掃することが徳川幕府の安泰につながると考えて、その機会を虎視眈々と窺っていた。
 豊臣家の憤りが最高潮に達したのが、京都方広寺の大仏殿落慶の際、鐘銘へ難癖をつけた徳川の嫌がらせであった。かくて慶長19(1614)年10月、“大坂冬の陣”に突入する。

 家康は約二十万人の将兵を動員して、大坂城を完全に包囲した。対する大坂城には、“関ヶ原合戦”で改易された真田雪村、長宗我部盛親など約十万人を超える軍勢が集まった。
真田丸を築いて防御をさらに堅固にした大坂城に対し、攻めあぐんだ徳川方は大砲を放ち、城内に通じる坑道を掘るなど攪乱戦術をとって、篭城者の心理的な動揺を誘い、講和を結んだ。 
条件は総構えと三の丸の破却であったが、徳川方は本丸と内堀を除くすべてを破却し、堀を埋めたのである。かつて家康を大坂城に案内した秀吉は、「この城を攻めるには、まずいったん講和して堀を埋めた上で、本丸を落すしかない」と得意になって語ったというが、家康はそれを実行したのであった。

 翌年四月に始まった“大坂夏の陣”では、裸城となった大坂城に篭城はできず、豊臣方は野戦に打って出た。そして真田雪村らの猛攻によって一時家康本陣を後退させるが、多勢に無勢。いたる所で敗北し、やがて大坂城中に侵攻されて、秀頼母子らは山里曲輪の櫓で自害した。
 天下無双の偉容を誇った大坂城は、すべて灰燼に帰したのであった。

■ 秀吉時代を凌賀する巨城・徳川大坂城完成

 廃城に近い状態になった大坂城の新たな城主に任ぜられたのが、伊勢亀山五万石から五万石を加増された松平(奥平)忠明であった。忠明の母は家康の長女・亀姫である。忠明は毛並みの良さだけでなく、夏の陣では“道明寺の戦い”などで奮戦し、軍功が高く評価されていた。
 忠明の大坂在城は、夏の陣直後から四年余であったが、城の再建より、まず大坂の町の復興に取りかかり、町割や河川の開削を行なって、のちに「天下の台所」といわれる大坂の経済・流通の下地をつくった。
 元和5年、松平忠明を 大和郡山に移封させた幕府は、大坂と大坂城を直轄地とし、伏見城代の内藤信正を大坂城代として、以降七十人が城代となって明治維新を迎える。

 徳川幕府の威信をかけた城造りが始まったのは、城代が置かれた翌年からである。豊臣氏の威光と記憶を一掃し、西国大名に睨みを利かせるためにも、大坂城は「徳川の城」でなければならない。将軍秀忠は、築城術に優れた東堂高虎に「豊臣大坂城」をしのぐ高層にして堅固な城郭造りを命じた。
 再建は三回にわたって行なわれた。第一期は旧本丸を取り囲む三方と北外曲輪(三の丸)で高大な石垣が築かれた。今日現存する千貫櫓と乾櫓は、この時に建てられたものである。第二期は寛永元(1624)年からで、旧本丸の上に盛土を行ない、石垣を新たに築いて、天守と本丸御殿などの豪壮な建造物を並び立たせた。第三期は同5年からで、二の丸南面を強化し、広大な外堀と高い石垣が築かれた。そして、三期9年に及ぶ大工事の末に寛永6(1629)年、城の再築がなり、ここに「徳川大坂城」が完成した。
 この間、主に西国の外様大名の多くが普請を命じられた。大名たちの中には、度重なる動員に不平を漏らす者もいたが、幕府への忠誠心を示すために、大切なご奉公と割り切って従事したという。

■ 徳川の世の終焉を炎で彩った主亡き城

 「徳川大坂城」は、しばしば落雷にあって天守や大手門、多門櫓などを焼失した。城代が置かれた大坂城の役割は幕府の出先機関であり、城として機能したのは、天保8(1837)年の“大塩平八郎の乱”のとき、幕兵が城から出撃して鎮圧したくらいのものであった。

 幕末になると、威信が揺らぎ始めた幕府は、それを回復するために大坂城の修復を計画、大坂や堺などの商人に御用金の献上を命じ、本丸御殿や大手門、多門櫓などが再建された。

 幕末の激動期、14代家茂は将軍として初めて大坂城に入り、大坂城は長州征伐の進発基地となった。しかし慶応2(1866)年、家茂は大坂城中で病没し、幕府の威信はさらに弱まっていく。同年、最期の将軍に就任した慶喜は、翌慶応3年、大政奉還を行なって徳川の世に幕を下ろした後、大坂城に入った。しかし旧幕府軍が“鳥羽・伏見の戦い”で敗れると、大坂城を密かに脱出して江戸に戻る。主君を失った旧幕府軍は離散し、城は長州兵の攻撃を受けて本丸付近から出火、城のほとんどが焼亡してしまった。



天守閣の鯱鉾


豊臣氏(五七の桐)幟旗


(写真素材「フォトライブラリー」 さまの無料画像を使用)


大阪城公園 案内図1


大阪城公園 案内図2


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登城アクセス
 車  : 阪神高速13号線東大阪線<森之宮>出口〜中央大通り〜右折/法円坂
  〜

駐車場 : 大坂城周辺の有料駐車場を利用


「大阪城天守閣」ホームページへ リンク

■  大坂城あんあい1 (大坂城天守閣)・(大坂城の遺構)・(大坂城ものがたり)・(大阪城公園案内図)
■  大坂城あんない2 (大手口・大手枡形・二の丸六番櫓・一番櫓・豊国神社・六字名号碑・外堀・
  算用曲輪・玉造門跡・梅林・高石垣・青屋口・二の丸東および西仕切門跡・極楽橋・伏見櫓跡・
  二の丸北仕切門・京橋口・乾櫓など)
■  大坂城あんない3 (本丸桜門・銀明水井戸井筒・本丸東南隅櫓跡・御金蔵・無縁仏回向供養塔・
  日本庭園・残念石・金明水井戸屋形・天守閣・天守から東西南北を望見・帯曲輪・山里丸など)
■  大坂城あんない−外郭部

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