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近畿地方

丹波(京都府中部)

“戊辰戦争”時の万が一の天皇避難の行在所と定められた城

丹波 園部城[そのべじょう] 別称=園部陣屋 (平山城) 【所在地】 京都府南丹市園部町小桜町

築城時期:  1618(元和5)年 築城者:  小出吉親

そのべ じょう 園部高校の敷地に現存する 本丸櫓門(表門)

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・堀の一部  現存/櫓・櫓門・番所・塀  移築/
  櫓 》
 園部総合公園駐車場近くに建つ、ひときわ立派な天守閣風の建物、「園部国際交流会館」に圧倒されながら、これを横目に園部高校敷地内に残る本丸櫓門(表門)を目指す。
 本丸は、園部高校の敷地となっているため、許可を得ないでで徘徊することはまずいが、この表門と番所、近くに残る二重の巽櫓(隅櫓)周辺のみの見学はOKの様だ。塀の一部、石垣、土塁、堀の一部も見られる。

 園部城は北に流れる園部川を大きく迂回させて延々二キロメートルにわたる外堀を造り、陣屋と城下を内部に設けていたという。方形の本丸を中心に、周囲に家臣屋敷となる二の丸を配した。
 当初は陣屋形式であったが、幕末、天皇避難の御在所候補に挙げられ、城址背後の詰城(小麦山)へ天守代用の御三階櫓が築かれ、さらに、櫓が四基(乾櫓・巣鴨櫓・太鼓櫓・巽櫓)建てられ、城郭の構えとなった。
 現在、巽櫓が園部高校敷地に残され、太鼓櫓が市内の安楽寺に移築保存されている。


 小出秀政と長男の小出吉政は、“関ヶ原”で西軍についてしまうが、二男の小出秀家が東軍方として活躍し、その功をもって、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵される。

 その後、複雑な経緯と辿ることとなるが、秀政の死後、子の吉政は和泉岸和田に移り、但馬出石領はそのままに嫡男の小出吉英が領することを許された。この時点で、父子相勤めの形となる。
 吉英が和泉岸和田を継ぐと、出石領は吉英の弟、小出吉親(秀政の二男)が別家として継ぐ。しかし、その後、岸和田藩宗家の兄・吉英が、但馬出石に返り咲くこととなったため、弟の小出吉親は、丹波園部へ移り、園部藩2万6千石が成立する。

 丹波園部に入封した外様大名の小出吉親は、1619(元和5)年より2年の歳月をかけて園部陣屋を築いた。

 但馬出石の小出宗家はその後、無嗣断絶してしまうが、この園部藩の小出家(吉親系小出家)は一家支配のまま10代続いて、幕末まで園部を領した。

 1867(慶応3)年の“大政奉還”に際しては、10代藩主・英尚が上洛。孝明天皇の皇后の御殿である准后殿を守護した。翌年、旧幕府軍と新政府軍が内戦(戊辰戦争)に突入し、新政府側は万が一の事態に備えて、園部を天皇避難の行在所と定めた。

 すぐさま陣屋は大改修され、前述の御三階、櫓その他などが建てられ、その体裁が整えられた。
 天皇のために改修された園部城であったが、ついに天皇が行幸することは無かった。

園部城址の石碑 城址背後の小麦山は詰城であった

園部高校敷地に残る巽櫓(隅櫓)
巽櫓を城内側より見る
往時、四基(乾櫓・巣鴨櫓・太鼓櫓・巽櫓)
あったうちの一つで、二層の隅櫓である
番所を備えた本丸櫓門(表門)を城内側より見る
社寺建築のような優美な姿だが
実戦むきとはいいがたい
たいそう立派な天守閣風建物の
「綾部国際交流開館」
途中より運悪く、デジカメのシャッターが全開出来なくなってしまい、見苦しい画像となってしまいました。お詫びいたします。

登城アクセス
 車  : 京都丹波道路園部IC〜右折/園部IC出入口〜県道19号線〜左折/
  綾部河原町〜国道9号線・園部川・園部大橋〜右折/園部町宮町〜園部総合
  公園〜園部高校〜

駐車場 : 園部総合公園の無料駐車場を利用


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