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近畿地方

丹波(京都府中部)

“本能寺の変”の際の、明智光秀出陣の城

丹波 亀山城[かめやまじょう] 別称=亀宝城、亀岡城 (平山城) 【所在地】 京都府亀岡市荒塚町

築城時期:  1578(天正6)年 築城者:  明智光秀

かめやま じょう 大本教敷地内に残る 本丸の高石垣

 遺 構  《 遺構/天守台・石垣・曲輪・堀  移築/城門 》
 亀山城跡は、現在、宗教法人「大本」の本部が置かれていますが、本部受付にて見学希望の申し込みをすれば、すんなりOKです。
 次に、受付の指示に従って、三の丸跡にある万祥殿の拝殿前にて、簡単な「清めのお祓い」を受けて、二の丸・本丸へ入ることができます(勿論、無料です)。

 本丸天守台の上が大本教の聖地となっていて、石段の途中から先は禁足地であり、天守台上に登ることは出来ない。本丸・二の丸は教団の保護・管理が行き届いているため、旧状をよく残している。
 大本が城址を買収した際、石垣など荒れ放題だったものを、本丸跡の石垣など、昭和初期に教団が積み直したそうで、往時のものではありません。三の丸前にある池(万祥池と呼んでいる)は、内堀の名残です。

 亀山城には明治10(1878)年まで、徳川幕府による天下普請の際、東堂高虎が伊予今治城から献上・移築した層等型五層の天守閣が存在していた。
 亀岡市内の千代小学校と桂林寺には、城門が移築され、現存しています。


  ときは今 天が下知る 五月哉

…今、織田の各軍団はすべて京より遠く前線に出払っておる…
…今をおいて…機はない!? 今なら…
殺られる前に…殺る…!?

千載一遇の好機、賽は投げられた。

 明智光秀率いる一万三〇〇〇の軍勢が松明を掲げ粛々と歩を進めていた。
向かうは備中高松ではなく、主君・織田信長が宿所とする京都本能寺
馬上に跨る光秀の視線の先には、深更の今、京の街並みが深い闇の底に沈んでいた。

 「こは謀叛か、いかなる者の企てぞ」
 「明智が者と見え申し候」………「是非に及ばず」

信長は御殿に火をかけさせ、殿中おく深く戸を閉じ、渦巻く紅蓮の焔と黒煙が包むなか、
腹をかき切り、四十九年を一期として今生に別れを告げた。

 亀山城は1578(天正6)年、明智光秀が丹波攻略の拠点として築城した。
 1582(天正10)年、光秀は主君・信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣したが、老の坂を下り、沓掛で馬首を返し、本能寺に軍勢を転じて信長・信忠父子を横死させた。

 羽柴秀吉との“山崎の合戦”において光秀が敗死した後、秀吉の拠点として亀山城には、羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥)・小早川秀秋などが入った。

 1609(慶長14)年、天下を手中にした徳川家康は譜代の岡部長盛を入封させ、京の背後の要地ということもあり、天下普請として藤堂高虎に縄張りを命じ、西国大名を動員し、近世城郭として亀山城を大修築した。

 要衝の地の亀山城主は、三河西尾より松平(大給)家、近江膳所より菅沼家、遠江掛川より松平(藤井)家、備中庭瀬(岡山市庭瀬)より久世家、美濃郡上八幡より井上家、遠江浜松より青山家と頻繁に譜代大名の交替が行われる。

 1748(寛延元)年、丹波篠山より松平(形原)信岑が5万石で入り、以降は形原松平家の支配で8代にわたって明治に至る。
 なお、明治2(1869)年、亀山藩から亀岡藩に改称している。

城址北側の南郷池を東から見る 南郷池北東角の保津門跡
南郷池北東側の桜並木
ちょうど見頃の満開でした
天守閣鯱瓦のレプリカブロンズ像
片方だけ残り、京都府立医科大学に収蔵
されているものを復元
城址北側部分(大本敷地)と南郷池 南郷池の辺に建つ「明智光秀築城亀山城跡」の石碑
城址東側の「おおもと通用門」 三の丸の内堀
二の丸(左)と三の丸(右)との間の空堀は
現在、通路となっている
天守台方向へ至る石段
ここから先は、大本の禁足地のため立入禁止です

移築 新御殿門
所在地 : 亀岡市千代川町小川一丁目1番地近く
千代川小学校

他に、亀岡市内の桂林寺表門として
移築保存されている城門もあります

丹波亀山城 絵図
(現地案内図より)

登城アクセス
 車  : 京都丹波道路亀岡IC〜左折/亀岡IC出入口〜国道372号線〜左折/
  風ノ口〜右折/亀岡市役所前Y字路〜右折/南郷公園角〜大本教

駐車場 : 大本教の参拝者用駐車場を利用


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