近畿地方
山城(京都府)
桃山の美に彩られた徳川家盛衰の舞台

二条城[にじょうじょう]
別称=二条新御所、新二条屋敷 (平 城) 【所在地】 京都市中京区二条通堀川西入ル

築城時期 :  1602(慶長7)年、1625(寛永3)年 築城者 :  徳川家康、徳川家光

にじょうじょう

雅の文化に育まれた
千年の都に築かれし
戦いのための城ではなく
政治のための豪華絢爛な城

 遺 構  《 現存/本丸御殿・二の丸御殿・櫓・城門・多門塀・土蔵  遺構/曲輪・天守台・石垣・堀 》
都と朝廷を押さえた優雅かつ壮大な城

家康、家光が天下人の威を示し、
慶喜が幕を下ろした城

懐中に短刀を忍ばせ、
命をかけて秀頼を守った清正


◇◇ 二条城を訪ねる ◇◇

 古来、武家の頂点に立つ者の多くは政権を得るため、朝廷のある京都に居所を設けた。
室町時代から戦国期には二条通に面して、室町将軍の御所や織田信長の二条城、羽柴秀吉の二条城が次々に建てられた。
 関ヶ原で勝利した徳川家康は、信長、秀吉の二条城にならい、慶長七年(1602)五月より、築城を開始。翌八年三月二十七日、今日の二の丸東側に竣工した二条城に勅使を迎えて、家康の征夷大将軍宣下の賀儀が行なわれた。

 家康時代の二条城は現在の東半分の大きさで、天守は西北の隅(二の丸北中仕切門の辺り)に五層であがり、現存する国宝二の丸御殿の素型が成立。家康が豊臣秀頼と対面したのも、改築前の御殿といわれる。

 二代将軍秀忠の女・和子が、後水尾天皇の許へ入内するに及び、二条城は和子の宿所となる。
さらに寛永三年(1626)九月より、後水尾天皇の行幸に先立ち、三代将軍家光により大規模な改築と拡張が行なわれ、伏見城からも多くの建物が移築された。
 現在みられる、天守台や本丸のある西側が増築され、行幸御殿が建てられるなど、二条城は幕府の力を最大限に誇示する城となる。

 しかしその後、幕末の文久三年(1863)に十四代将軍家茂が入城するまで、将軍上洛はなく、城は二条在番役、ついで二条定番の与力・同心たちが留守居した。
定番たちが守った城門や、御清所詰所には、閑つぶしの刻落書きと墨書落書きが今も残る。
 慶応三年(1867)、二の丸大広間で十五代将軍慶喜が「大政奉還」を行なうまでの二条城の天下泰平の様子を、これらの落書きは物語っている。

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二条城ライトアップ 開催期間:2009/3/20(金)〜4/12(日) 入城料:一般 400円

二条城ものがたり

 征夷大将軍の威勢を示すための城

 ――内大臣徳川家康を右大臣に任じ、征夷大将軍に補す!
 慶長八年(1603)ニ月十二日、家康を“将軍”に任ずる宣旨が下った。宮中で宣下の儀式が行なわれ、広橋兼勝を上卿とする勅使の一団が伏見城に宣旨を運び、家康に授けたのである。
 将軍になる手続きはこれで充分だが、家康は満足せず、ついに手中におさめた将軍の名を、いやがうえにも輝かしいものにする儀式を予定していた。二条城から内裏まで盛大な行列を組んで参内し、将軍宣下を感謝する拝賀の式である。

 そもそも二条城は、家康が将軍宣下を見込んで築いたものだった。
 慶長六年(1601)、家康は二条城の造営に着手する。関ヶ原合戦での勝利からほぼ一年、将軍宣下が現実のものと決まった時点で、拝賀の儀式の場を新しく造営する計画を固めたのであった。
近畿の大名に造営費が課せられ、二条堀川の西一帯の町家四〜五千戸が立ち退きを命じられたと「義演准后日記」に記録されている。ほかの場所がないわけではなかったが、家康としては新しい城はぜひともこの場所に建てなければならなかった。
 まず、桓武天皇が造った平安京の庭園、神泉苑の跡地であるということ。
 次に、二条通の正面に城を建てることで、織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城(室町第)とのゆかりを強調したかったということ。

 家康は、将軍宣下をうけた約四十日後の三月二十一日、威儀を正して伏見城から入京し、二条城の主として最初の夜を過ごす。伝奏をはじめとして、主だった公卿は洛東の大仏あたりまで出張って、家康を迎えた。
 そして、まさに盛儀という名にふさわしい拝賀の礼の参内が三月二十五日に挙行され、久しぶりに誕生した征夷大将軍の威勢をふりまき、朝廷を威圧するには充分なものであった。

 戦うための城ではなく政治のための城

 伏見城は戦いの場、二条城は公武の宥和を謳いあげる政治の場として使い分けられた。
 家康の拝賀参内の翌々日、八条宮智仁親王と伏見宮邦房親王、関白と前関白、前左大臣と右大臣など、皇族と公卿が二条城を訪れ、家康に対面して将軍宣下を祝賀した。
数日して演能が催され、二条城は朝廷の存在を強く意識した、政治の舞台としての色彩を濃厚にしてゆく。
 それと対照的に、伏見城は武士の棟梁の城として、いいかえれば大名統制と武力行使の号令を発する参謀本部としての機能をますます強化していった。四月十九日、諸大名は家康の将軍宣下を賀すために参上するが、その場は二条城ではなく伏見城であった。

 寛永行幸が天下に示した公武宥和の姿

 元和6年(1620)、二代将軍秀忠の娘・正子が、後水尾天皇の後宮に入内する。正子の入内行列が二条城から始まったのはいうまでもない。
 天皇と正子の間には、明正天皇をはじめとする二皇子、五皇女が生まれる。この正子の入内、そして正子の兄である家光が三代将軍になったのを受けて、後水尾天皇の二条城行幸が行なわれることになった。二条城の歴史の頂点をなす盛儀である。

 寛永3年(1626)九月六日、行幸のさきがけとして、中宮正子の行啓行列が二条城に入る。続いて中和門院(後陽成天皇の女御)の御幸、女一宮(のちの明正天皇)の御成りと、入れ替わるかたちで将軍家光が参内し、二条城でお待ち申し上げると奏上して、引き返した。

 徳川時代の終わりを告げた大政奉還の舞台

 寛永十一年(1634)、家光が大軍を率いて上京し、姪にあたる明正女帝の即位を賀し、家光が二条城を宿所としたが、その後は城番が留守をまもるだけの、さびしい情況が続き幕末にいたった。

 文久三年(1863)、皇女和宮の降嫁に謝辞をのべ、攘夷決行の策を上奏する名目で十四代将軍家茂が上京、二条城から参内するが、かえって幕府の威厳の低下を招く結果となる。
 第二次長州征伐の苦戦が伝えられるなか、家茂は亡くなり、慶応二年(1866)十二月、徳川慶喜が十五代将軍として二条城の主となった。

 慶喜は、孝明天皇の崩御を契機として征長軍を解兵し、倒幕派勢力の機先を制する強力な政策をつぎつぎに打ちだした。中でも、兵庫開湊の勅許を引き出したことは倒幕派を動揺させたが、この頃から、薩長倒幕同盟がその効果を表してくる。
 薩摩の島津久光が慶喜との絶縁を決意して帰国し、入れ替わって薩摩の大軍が京都に姿を現したのだ。

 慶応三年(1867)十月十三日、慶喜は二条城大広間に諸藩の重臣をあつめ、大政奉還を告げた。十二月九日、明治天皇が王政復古を宣言したことをうけて、慶喜は二条城から大坂城へ去っていく。こうして二条城は、「征夷大将軍の城」の幕を下ろした。

 家康の将軍拝賀から慶喜の大政奉還まで、二条城の歴史は幕府の寿命と一致し、まさに徳川幕府の盛衰を見守り続けた城であったといえよう。


桜散る

(写真素材「フォトライブラリー」さまの無料画像を使用)

配置案内図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 名神道京都東IC〜左折/京都東IC出入口〜国道1号線〜右折/堀川五条〜堀川通り〜
駐車場 : 二条城観光用有料駐車場を利用


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  丸御殿・釣鐘・二の丸庭園・本丸東門・東側内堀・本丸御殿・本丸雁木・塀重門・天守台・本丸西
  虎口と西橋・桃山門・南中仕切門・土蔵・米蔵・出枡形・北中仕切門・鳴子門・土蔵長屋門・二の丸
  御殿台所内部・収蔵庫・築地塀など)

世界遺産・元離宮二条城 公式ホームページ

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