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近畿地方

山城(京都府南部)

応仁の乱、船岡山合戦の際の西軍陣地となった城

山城 船岡山城[ふなおかやまじょう] 別称=船崗山城・山名城 (山 城) 【所在地】 京都市北区紫野北舟岡町

築城時期:  1467(応仁元)年 築城者:  大内政弘

ふなおかやま じょう 北側中腹部の 横掘 屈曲部

 遺 構  《 遺構/土塁・横堀・削平面 》
 船岡山城址のある船岡山は、標高約112メートル、東西約200メートル、南北約100メートルの孤立丘陵で、その地形が船に似ていることから古来船岡と呼ばれ、頂上からの眺望はよく京の町、特に西陣一帯が見渡せる景勝地である。

 現在、一帯は船岡山公園として整備され、京の夏の風物詩「五山の送り火」の一つである「左大文字」のビュースポットとして、観光客でごった返すそうです。
 明治13(1880)年には織田信長を祀る建勲神社(公園区域外)が中腹に東面して建立され,その後山頂に移されました。

 船岡山は平安京遷都の際、都を守る四神のうちの一つ、北方の守護「玄武」に見立てられ、大内裏の北にあたり御苑に近かったことから,王朝時代には王候貴人の散策の地とされ,円融天皇譲位の後は,この山に「子」の日の遊びが催されました。その後、“応仁の乱”等の陣地となったことで知られています。

 船岡山城は、臨戦用の陣城と推定されており、恒久的な城郭施設の存在は不明である。遺構としては山腹に横堀が掘られており、堀の外側土塁が積み上がっている。


 船岡山城は、1467(応仁元)年に始まる“応仁の乱”において、西軍・山名宗全の主力として参戦した西国最強の守護大名・大内政弘の城塞として船岡山に築造された。

 “応仁の乱”で、備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山城で立てこもって守備した。
 翌年、船岡山城は東軍・浦上則宗勢らに攻められ落城したが、東軍方はこの陣城を捨ておいたため、以後、乱の終息するまで、西軍・一色勢がこの地に駐屯していたらしい。

 次いで、船岡山がクローズアップされるのは、約五十年後の1511(永正8)、将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた室町幕府の内紛、“船岡山合戦”の際で、「永正の船岡山の戦い」ともいう
 いったん丹波に逃れていた将軍義稙が強大な大内軍を含んだ細川高国らと、船岡山にて対峙する細川澄元勢の細川政賢を攻め、京を挽回した。

 その後も船岡山は陣城として使われた形跡があるが、いつのまにか廃止されたらしい。

船岡山城址のある船岡山公園入口(南西口) 、“船岡山合戦”永正の戦跡の石柱と案内板
横掘屈曲部の東側郭跡 北側中腹部の横掘
外側は土塁になっており、総延長300mの大規模なもの
南西側の何段かある削平地の最高所(郭跡) 左の最高所(郭跡)から
南方の京都市街地を眺望する
南東の建勲神社区域の北面
に見られる城壁切岸
左の建勲神社区域内に残る三重の堀切遺構
神社神域で立入禁止となっている

五山の送り火
 大文字、妙法、船形、鳥居形、左大文字の五山で護摩木を燃やし、冥府に帰る精霊を送る京都の夏の風物詩です。
ここ船岡山公園は、「左大文字送り火」の夜は、ビュースポットとして、観光客でごった返すそうです。
 五山の送り火は、毎年8月16日開催、点火時間は各山とも約30分間(時刻は要問い合わせ)

 また、船岡山城址(公園)のすぐ北側には、桃山時代に豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立した大徳寺 (だいとくじ)があり、境内には、千利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった三門(二階部分を金毛閣と称す)があります。
 さらに、秀吉造営の聚楽第の遺構である唐門が移築されています。

船岡山公園から見た大北山の左大文字跡 左画像の「左大文字」の送り火

参考サイト 落穂ひろい ふーむ さま 岡山・兵庫・京都などの戦国史とお城、そして和歌に彩られた味わい深いサイトです。

登城アクセス
 車  : 名神道京都東IC〜左折/京都東IC出入口〜国道1号線〜右折/堀川
  五条〜堀川通り〜左折/今宮門前の先の交差点〜左折/突当たり〜船岡山
  公園

駐車場 : なし(周辺の有料コインパーキングを利用)


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