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近畿地方

丹波(兵庫県北東部)

織田信長の家系が治めた、数少ない御殿の遺構が残る陣屋

丹波 柏原陣屋[かいばらじんや]  (陣 屋) 【所在地】 兵庫県丹波市柏原町柏原

築城時期:  1714(正徳4)年 築城者:  織田信休

かいばら じんや 陣屋御殿 (書院)
1820(文政3)に再建されたもの

 遺 構  《 現存/御殿(書院)・長屋門  移築/太鼓櫓 》
 結果的に明治まで残った織田家の血筋を引く大名家は、織田信長の二男の織田信雄の系統と、信長の弟、有楽斎こと織田長益の系統の二系統・四家(信雄の系統は、この丹波柏原と上野小幡{のちに出羽高畠(のち天童{山形県天童市}へ移転)}、長益の系統が、大和柳本(奈良県天理市)と大和芝村(奈良県桜井市))があります。

 柏原藩の織田家は、最初、織田信長の弟・信包が入封して三代継ぐが無嗣絶家となってしまう(こちらを前期織田家と呼ぶ)。
 その後、世にいう“松山騒動”で大和宇陀を除封となった織田信休(信長の二男・信雄の五男・高長の孫)が入封、このとき築かれたのが柏原陣屋であり、こちらの後期織田家が明治まで存続した。

 柏原陣屋には、現在でも表御殿の一部と長屋門が現存遺構として残っている。この御殿書院は 、最初1714(正徳4)年に造営されたが、1816(文化13)年に全焼し、現存建物は1820(文政3)年に再建されたものである。この書院は遠江掛川城武蔵川越城などと並んで、現存する城郭書院遺構の一つである。
 また、陣屋正面の長屋門は造営当事から残る唯一の建物で、内部は門扉を挟んで北側が番所、南側が馬見所・砲庫となっていた。

 さらに、陣屋の大手通りには、出入を監視すると共に時を知らせる三重の太鼓櫓があった。この櫓は、明治維新後に陣屋近くの大歳神社に移築され現存している。
最上階に吊り下げられた太鼓には「大和松山」の墨書が残り、信休持参の太鼓と判明している。

 柏原陣屋藩主・織田氏は織田信雄の系統で、織田信長の子孫は嫡孫の三法師・織田秀信が関ヶ原西軍について絶えたあと、信雄の系統が結果的に嫡流となり、江戸時代を通して大檀家として 、安土城址にある総見寺を保護していたそうです。


 柏原陣屋は、前述の経緯の通り、1598(慶長3)年に織田信長の弟・信包が、36,000石を領し柏原へと入城し信則・信勝と継ぐが、信勝に嫡子が無く、1650(慶安3)年に絶家となった。

 前期織田氏の改易後はしばらくの間天領となっていたが、1695(元禄8)年、“松山騒動”(宇陀松山藩・織田氏4代信武は、突如重臣を斬り、自分も自刃した)で宇陀松山を除封となった信武の子の信休が、織田家嫡流の家柄を重んじられて、減封配置替・国主格待遇の剥奪となって丹波柏原で存続が認められた。

 信勝以後、後期織田家は、10代続いて明治に至った。柏原は小さいながらも、歴史を感じさせる町であり、陣屋跡は国史跡に指定されている。


柏原陣屋跡の石碑
陣屋 長屋門(現存)
初代藩主・織田信休が表御門として
1714(正徳4)年に築いたもの
陣屋 長屋門
向かって左側が畳敷きの番所、右側は板張りの馬見所
と砲庫の三室に仕切られている。桁行13間半(約20.7m)
梁間2間(約3.6m)
表御殿 書院
1714(正徳4)年に造営されたが、1818(文政元)年に
火災焼失し、1820(文政3)年に再建されたものである

表御殿の玄関式台
太鼓櫓(移築)
櫓内部に吊るされている太鼓は、1668(寛文8)年制作
のもので、宇陀松山から持参したものである
市内の大歳神社に移築

登城アクセス
 車  : 舞鶴若狭道丹波篠山口IC〜右折/丹波篠山口IC出入口〜右折/
  味間新〜国道176号線〜右折/柏原新町〜

駐車場 : なし


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