| 近畿地方 |
| 但馬(兵庫県北部) |
癒しの回廊・山陰路の山峡に静まる「但馬の小京都」出石
但馬
| 築城時期: 1159(慶長4)年 | 築城者: 小出吉英 |
本丸跡の東西に建つ 隅櫓(西側・復元)
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・石垣・土塁・水堀・井戸 現存/家老屋敷 復元/櫓 》 | |
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但馬(兵庫県)の山峡に静まる盆地の出石は、「但馬の小京都」とよばれ、多くの観光客で賑わっている。
都に遠くありながら時代の波に翻弄されつつも、いまも京の町割りにならった古い面影を残し、風土に根ざした個性と伝統文化が息づいている。 大盗賊・石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されている仙石(権兵衛)秀久を祖とする 仙石政明が信濃上田より入国して広めた皿蕎麦に舌づつみを打ち、城下を散策すれば、癒しの回廊山陰路のゆったりとした時間の流れに、こころ魅せられる。
出石城は、標高321,5メートルの有子山の麓に、城主小出吉英が築いた居城である。
本丸の上段、出石の町並みを一望できる稲荷曲輪には城の鎮守が祀られているが、江戸時代には、城下の人びとのお参りに開放されていたという。
この有子山の麓に城を移し、出石城が築かれたのは24年後の1604(慶長9)年、有子山城主・小出吉政の跡を継いだ小出吉英が藩主となってからであった。
1697(元禄10)年には武蔵岩槻から松平(藤井)忠徳が入り、9年後の1706(宝永3)年に信濃上田藩主・仙石政明と国替えになる。
なお、1824(文政7)年に早世した6代城主・仙石政美の後継をめぐってお家騒動が起こり、幕府の裁決が下る。仙石氏一族で家老の仙石左京は処罰をうけて鈴ヶ森の露と消え、所領の半分近くの3万石に減知されるという結末で鎮静。世はすでに幕末、時代錯誤的な御家騒動ではあったが、芝居・講談などで「仙石騒動」として今なお語りつがれている。
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城址望見 |
辰鼓楼(しんころう)
1871年(明治4)に建てられた鼓楼である。高さ20m、かつては太鼓で刻を告げていたが、明治14年、直径2mのオランダ製大時計が据付られ、時計台となる |
三の丸跡北側の水堀 |
三の丸跡の旧出石町役場
本丸は有子山を背にする北側で陰湿のため、1702(元禄 15)年、松平(藤井)忠徳がこの地に御殿・対面所を造営 して以来、歴代藩主は明治維新までこちらに居住した |
登城橋と登城門
橋は城前を流れる谷山川に架けられ、渡れば登城門に いたる。周囲一帯は三の丸跡で、橋・門ともに1994 (平成6)年に復元された |
登城門を潜った先の西の郭跡 |
北側の二の丸・下の郭跡
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二の丸・上の郭跡
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本丸に建つ隅櫓(東側)
東西の隅櫓とも、1968(昭和43)年に復元されたものです |
本丸に建つ隅櫓(西側)
木造総塗籠めの二層の櫓です |
二の丸の東に位置する山里曲輪跡 |
東側の朱色欄干の稲荷橋から、水路沿いの石段を本丸に向かう 橋からは157段の石段に、37基の朱の鳥居が立ち並ぶ |
本丸跡に建つ唐破風のある感応殿
藩主仙石氏の祖である権兵衛秀久を祀って 明治期に旧家臣が造営した |
本丸背後(南側)の石垣
本丸の一段上部には稲荷曲輪があり、小出吉英が城内鎮護のために旧領和泉から勧請した稲荷社が鎮座している |
稲荷曲輪入口脇の有子山城への登山口
標高321.5mの山頂部に、1574(天正2)年 山名祐豊が築いた山城です |
最高所の稲荷曲輪に鎮座する稲荷社
当初、稲荷台には天守建設が計画されていた と伝わるが、天守が築かれなかった |
稲荷曲輪から望見した北方の出石の町並み
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城址東方の藩校「弘道館」跡地
藩校は、1775(安永4)年に仙石政辰が創設したものです |
経王寺の二層望楼型の鐘楼
日蓮宗の寺院だが、城下町の東の拠点であり 城郭の隅櫓を思わせる建造物である |
家老屋敷長屋門
“仙石騒動”の家老・仙石左京の屋敷跡であり、重厚な武者窓を持つ門の奥には現在、隠し二階のある上級武士の居宅が移築されている |
旧三の丸大手門跡の櫓台に建てられた出石町のシンボル「辰鼓楼」
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桂小五郎潜居跡
のちに木戸孝允と改名し、維新の三傑とよばれた彼は 出石で荒物屋を営み、八ヶ月間潜伏していたという |
出石名物「皿そば」
「乙女の湯」で紹介された「沢庵」の出石焼の 白磁に盛られた蕎麦は本当に旨いです |
出典元
余湖図コレクション 「余湖くんのお城のページ」−「出石城」のページに掲載されているものを借用させていただきました
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| 参考サイト |
「余湖くんのお城のページ」 余湖 殿 独特のタッチで描かれた2,000城以上掲載の 「余湖図コレクション」は圧巻です |