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ザ・登城

近畿地方

近江(滋賀県)

鎌倉時代より朽木谷を領した朽木氏の本拠

近江 朽木陣屋[くつきじんや] 別称=朽木城 (陣 屋) 【所在地】 滋賀県高島市朽木野尻478

築城時期:  江戸時代初期 築城者:  朽木元綱

くつき じんや 井戸および井戸屋形

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・堀・井戸 》
 朽木陣屋跡は、安曇川本流と支流の北川が合流する朽木谷の野尻に存在する。この地は若狭や越前などと京都を結ぶ朽木街道に面し、古来より、軍事的・政治的・経済的に重要な交通の要衝であった。

 朽木陣屋は、近江源氏・佐々木氏の庶流である朽木氏の館跡に建てられたもので、江戸時代には陣屋へと変遷を遂げたものと推定される。
 朽木陣屋は、江戸時代の分家創出により、禄高が減少したため陣屋の規模も縮小されたが、朽木稙綱(たねつな)が立藩して築城した当初は、約10万平方メートルの敷地に本丸・二の丸・三の丸を配した広大な渦郭式縄張りであった。

 現在は、朽木郷土資料館横の史跡公園に、わずかな石垣とともに土塁、井戸が、また県道脇には堀の一部が残されている。

 朽木氏中興の祖といわれる朽木元綱は、朽木家が代々室町幕府の奉公衆を務めていたため、三好長慶に京を追われた将軍足利義輝を匿っている。
 また、織田信長の越前朝倉攻めにおいて、浅井長政との挟撃を避けた信長の京都撤退(朽木越え)を助けて、その後は織田家に仕えている。

 さらに、“関ヶ原の戦い”において、当初は大谷吉継の陣に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らとともに東軍に寝返った。戦後、寝返り理由を明らかにしなかったことにより減封(9,550石)されたが、のち大名格に復帰している。


 朽木氏は、“承久の乱”(1221年/承久3)の後、朽木庄の地頭職に補任されたことに始まり、その居館は、岩神館〜西山城〜朽木城〜朽木陣屋へと時代と共に変遷している。

 織田家に仕えた朽木元綱は、信長麾下として、磯野員昌、その追放後は近江大溝城主の織田信澄(信長の弟・信行の子)に配され、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、朽木2万石を領していた。
 元綱は“関ヶ原の戦い”での挙動を家康から不信に思われ、大名の資格を失い交代寄合として遇されたが、本領の近江朽木は安堵され、独自の陣屋を持つことを認められて準大名格の扱いを受けた。

 元綱の死後、その遺領を宣綱・友綱、稙綱の3子に分割したため、この近江の朽木宗家は大名格を失って旗本(6,300余石)となり、江戸時代は交替寄合として続き、之綱の代に明治を迎えている

 他方、元綱末子の朽木稙綱は、3代将軍徳川家光の寵愛を受けて、万石を得て大名として取り立てられ近江朽木藩を創設した。分家筋となる稙綱はさらに加増(2.5万石)を受けて下野鹿沼(栃木県鹿沼市)藩主として転出し、次いで常陸土浦3万石に転封となって奏者番に任ぜられほどに栄進した。
 なお、稙綱の子の稙昌の時、土浦から丹波福知山へ転封となり、分家の福知山朽木家は、譜代大名格として13代続いて明治に至っている。

 なお、宗家朽木家を継いだ宣綱の二男・高通は、京極高知(高次の弟)の養子となって京極高通を名乗り、丹後峯山(京都府京丹後市)に陣屋を構えて立藩し、明治まで続いている。

陣屋跡にある「郷土資料館」への入口 馬場跡に僅かに残る堀と土居
県道23号線に面しています

朽木陣屋 古図(江戸時代末期の状況)
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 北陸道木之本IC〜左折/国道8号線〜左折/塩津〜国道303号線〜
  左折/野口〜国道161号線〜右折/弘川〜国道303号線〜左折/保坂
  〜国道367号線〜左折/山神橋〜県道23号線〜

駐車場 : 郷土資料館の無料駐車場(約20台程度)を利用


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