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近畿地方

近江(滋賀県)

湖水に消えた明智光秀築城の名城

近江 坂本城[さかもとじょう]  (平城・水城) 【所在地】 滋賀県大津市下阪本三丁目

築城時期:  1571(元亀2)年 築城者:  明智光秀

さかもと じょう 舟着き場跡の 残存石垣

 遺 構  《 移築/城門2基  遺構/石垣(一部) 》
 現在、坂本城の遺構らしきものは殆ど残されていない。僅かに舟着き場跡の石垣の一部が残っているのみである。

 坂本城址公園は国道161号線沿いに整備されていますが、想像していたよりはるかに小規模な公園で、気をつけて見ていないと、うっかり通り過ぎてしまうほどの小さい公園である。
 この公園内に、舟着き場跡の石垣の一部と案内解説板、妙にデフォルメされた光秀の石像が建つのみである。
 城址碑は、国道161号線を挟んで2ヶ所にある。一つは琵琶湖側の城址公園内に、もう一つの碑は、下阪本の街中の東南寺付近にあります。往時はどちらの場所も坂本城内であった。
 過去の渇水期には石垣などが露出したことがあり、発掘調査がなされたそうですが、現在、坂本城の中枢部は、琵琶湖の湖底に眠っている。

 なお、坂本城の城門が、比叡山麓の西教寺と天台宗の名刹来迎寺の山門として移築利用されている。また、西教寺境内には、明智光秀とその一族郎党の墓や光秀の妻・煕子の墓があります。

 さらに、来迎寺境内には、宇佐山城(大津市錦織町)将で浅井・朝倉連合軍との戦いで、信長の弟の信治とともに討死した森可成(もり よしなり)の墓(本能寺で討死した森蘭丸や美作津山城の初代藩主である森忠政らの父)があります。


 1571(元亀2)年の織田信長の“比叡山焼討”のあと、明智光秀が近江国志賀郡を与えられ、京と比叡山の押さえとして、この地に坂本城が築城された。
 信長自身の居城となる安土城築城の前から、北陸と京とを結ぶ要衝・琵琶湖沿岸に坂本城を築いたのちも、1575(天正3)年には長浜城を築いて羽柴秀吉を、さらに、1578(天正6)年には大溝城をを築いて一族の織田信澄(信長の弟・勘十郎信行の子)を配置した。

 1582(天正10)年の“本能寺の変”のあと、急遽、備中高松城から軍をかえした羽柴秀吉との“山崎の戦い”で敗れた光秀は、この坂本城を目指して敗走する途中の京・小栗栖にて土民の槍にかかって自害した。
 安土城を守備していた光秀の娘婿・明智秀満は、“山崎の戦い”での光秀の敗死を知るや、坂本城に引きかえし、羽柴軍の攻囲するなか、光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害して果てた。

 その後、坂本城は丹羽長秀が再建したが、1586(天正14)年、豊臣秀吉の命により大津城が築かれて、坂本城は破却されて廃城となった。

城址碑 僅かに残る舟着き場跡の石垣
城址公園内に建つ光秀像
あまりにもデフォルメし過ぎてあって。。。
城域の湖岸より南東を見る

比叡山麓の西教寺に残る移築総門
巾5.6メートル 薬医門形式の大きな門です
所在地:大津市阪本五丁目13-1
西教寺にある明智光秀とその一族郎党の墓
光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓 来迎寺の移築城門
所在地:大津市比叡辻一丁目

坂本城址より琵琶湖対岸の彦根城(彦根市)方面を望む

             
尾張より発し、敵対する勢力を悉く下し戦国を席捲した“天下布武”の道程
比叡山焼き討ち」と「坂本築城

 尾張・美濃を制し戦国大名となった覇王・織田信長は明智光秀の仲介により、足利義昭を奉じ“天下布武”に乗り出す。
ところがやがて信長と不和となった義昭は、反信長勢力と連携して大包囲網を築く。
 伊勢長島一向一揆、越前の一向門徒、浅井・朝倉連合、三好三人衆、松永久秀、石山本願寺、紀伊雑賀衆、中国の毛利一族、武田信玄らが結束して形成しつつあった大包囲網に、さしもの信長も窮地に追い込まれた。

 元亀3(1572)年、信長が最も恐れていた信玄が西上軍を発した。が、天は信長に味方した。
信玄は病を得て、甲斐へ軍を返す途次、信濃駒場にて歿するのである。最大の脅威が排除されるや、信長は大々的な逆襲に転じた。
 これら覇道を突き進む信長の所業は、永禄末期(12/1568年)の上洛から、元亀年間(1570〜1572)、天正中期(1573〜1582)まで、旭日の勢いの信長に怒涛の快進撃が続く。

 信長の苛烈なまでの“破壊と想像”は数多あれど、その一つに天魔の所業たる「比叡山焼討」がある。
 当時、叡山の僧兵たちは魚肉を喰らい、酒色に溺れ、女人をかき抱き、その権威と武力をかさに腐敗・堕落した武装勢力と化していた。さらに、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿うなど、公然と信長に叛旗を翻した。
 元亀2(1571)年9月12日、織田軍は突如湖水を渡り、対岸の坂本の街、叡山に次々と火を放ち 、四〜五百の堂塔伽藍を灰燼に帰し、撫で斬りされた犠牲者の数は3,000人にものぼったという。
 夜陰に沈む叡山全体を赤く焦がす紅蓮の炎は、驚愕のジェノサイドとして、信長の脅威を人々に知らしめ、何にもまさる戦慄の衝撃を与えたのであった。

 “比叡山焼討”の後、叡山監視と志賀郡統治を信長より任された光秀は、坂本に新城を築く。光秀が信長に仕えてから4年目のことであった。
 天守閣を備え、琵琶湖水を引き入れた美しい水城は、宣教師ルイス・フロイスの記録によれば「安土城に次ぐ豪壮なもの」であったと礼賛されている。
 城持ち大名に大抜擢された喜びの反面、ことごとく焼き尽くされた坂本を領した光秀の労苦は計り知れないものがあったことだろう。今でも、坂本では豊臣秀吉よりも光秀の方が人気があろとか。さすが善政を施した光秀の城下町だ。
 光秀が義昭を見限り信長の直臣となるのは、坂本築城から2年後、義昭追放の半年前のことだ。さらに、天正8(1580)年には丹波攻略の軍功が認められ、丹波一国29万石と亀山城を得るまでになった。

 歴戦の強者数多の織田家中にて、途中参上ながら、秀吉とともに一、二の地位を有するまでに出世を遂げた光秀であったが、いつしか明らかに常人と違う狂気の言動が顔をのぞかせ、自身を神であるかのように振る舞う魔王信長に、周囲も困惑を強め、光秀も憂鬱さを増し、信長との距離が徐々に離れていくことを感じていた。 
 天正8年、長年織田家に仕えた重臣の佐久間信盛、林通勝、安東守就らが、「無能な者は去れ!」とばかりに、信長より追放された。この件を「信長の狂気の表れ」とするか?、着々と天下統一に向かう信長の組織における停滞の害を排除するパフォーマンスととるか?

 徳川家康への饗応役を仰せつかっていた光秀に御役御免の沙汰があり、秀吉の援軍としての中国出陣が命じられ、これからの戦功次第でいまだ毛利領の出雲・石見二国を与え、丹波は召し上げるとの下命がなされた……。

…今、織田の各軍団はすべて京より遠く前線に出払っておる…
…今をおいて…機はない!? 今なら…
殺られる前に…殺る…!?

千載一遇の好機、賽は投げられた。

 光秀が本能寺を急襲して信長を弑逆したのは、坂本築城から11年後の天正10(1582)年6月2日の払暁であった。
 ここまで光秀を突き動かしたのは、すべての価値を破壊し尽くし飲み込んだ「魔王信長」への恐怖だったのかもしれない。

登城アクセス
 車  : 名神高速大津IC〜左折/大津IC入口〜左折/打出浜〜県道18号線・
  国道161号線〜下阪本三丁目のマクドナルドの南側〜坂本城址公園

駐車場 : 坂本城址公園の無料駐車場(10台程度)を利用


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