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ザ・登城

近畿地方

近江(滋賀県)

鎌の刃形状・急斜面の尾根頂部をもつ境目・要衝の山城

近江 鎌刃城[かまはじょう]  (山 城) 【所在地】 滋賀県米原市番場

築城時期:  応仁年間(1467〜1469)頃か? 築城者:  土肥元頼

かまは じょう 主郭 内枡形虎口

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・石垣・堀切・竪堀 》
 鎌刃城は中山道番場宿南東約1.2kmの標高384mの峻険な峰上に築かれていて、近年大規模な発掘調査により安土城築城以前の遺構でありながら織豊系城郭の築城法が取り入れられていたことが判明し、一躍有名になった城です。

 番場宿を見下ろす位置に築かれた鎌刃城の眼下には中山道(東山道)が走り、城からは北に伊吹山、京極氏の居城・上平寺城(米原市弥高)、浅井氏の小谷城まで見通せる要衝にあります。

 境目の城として重要視されていた鎌刃城は、城名どおり急斜面となる尾根頂部が峻険となり、南東尾根続きには七条にのぼる堀切を設けています。主郭は石垣によって構成されており、虎口は枡形となっています。北東尾根上の削平地には石段を持つ、みごとな内枡形虎口も認められます。また、西側尾根上の削平地群先端には近江では数少ない畝状竪堀群も認められます。
 なお、城跡南東にある清竜滝付近には水の手と伝えられる岩盤をくり抜いて作られた石樋も現存しています。


 鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。しかし城跡は番場の村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。おそらく土肥氏は番場に今も残る「殿屋敷」に居館を構えていたのでしょう。

 鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。文献からも文明4年(1472)以降に登場し、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られています。

 堀氏は元亀元年(1570)、“姉川の戦い”に際し、同族の樋口氏とともに織田信長に降り、翌年5月6日には浅井長政に攻められています。この時、横山城(長浜市堀部町)を守備していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆け付け、長政軍を撃退したことが「信長公記」に記されています。

 「現地案内解説板より」

途中の滝ヶ谷林道
無理強いして車で行きましたが、この写真の場所は違いますが、道が狭く、片側断崖で片側絶壁のところが多く、倒木などもあり、車で登るのは危険なので辞めたほうが良いです
徒歩での登り口
←矢印の方向に上がります
ここから主郭まで約500mです
切り通し
鎌刃城の最南端にあたり、番場から武奈へ抜ける幹道の切り通しで、堀切として利用されている
鎌の刃形状の主郭背後の南東尾根頂部
城の名の由来となった幅2mほどの痩せ尾根に、
8条の堀切を入れてある
主郭に建つ丸太製の城址碑 主郭跡
主郭をめぐる土塁基部の残存石垣 主郭下部の腰曲輪を主郭から見る
主郭から北方の小谷城、横山城方面を眺望する 主郭東面の石垣
下の腰曲輪から主郭の内枡形虎口を見上げる 副郭と自然岩盤を利用した土塁

鎌刃城城主
土肥三郎元頼の墓

 戯曲『瞼の母』の作者で名高い長谷川伸の悲願をこめ
 て建立された番場忠太郎地蔵尊が建つ城址山麓の
 蓮華寺にあります

登城アクセス
 車  : 名神高速米原IC〜左折/米原IC入口〜国道21号線〜左折/樋口西〜
  県道240号線〜左折/最初の信号〜西番場〜徒歩(山道)〜

駐車場 : なし(名神高速ガード下付近に駐車スペースあり)


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