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近畿地方

近江(滋賀県)

秀吉の姉の子・悲運の関白、豊臣秀次の居城

近江 八幡城[はちまんじょう]  (山 城) 【所在地】 滋賀県近江八幡市宮内町

築城時期:  1585(天正13)年 築城者:  豊臣秀次

おうみはちまん じょう 八幡堀

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・堀 》
 近江八幡城は、JR近江八幡駅の北西約2.5キロメートルにある独立丘の鶴翼山、通称八幡山の南半分に築かれた城で、比較的急峻な山城である。八幡山山頂へはロープウェイが通じており、約5分で到着できる。

 標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ、二の丸、西の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。
 往時の城下町は安土城城下町を移住させて形成し、琵琶湖の水を引いて作られた八幡堀を配して、戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。

 現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和36年(1961年)に移転されている。
 また、平成13年(2001年)には山麓で豊臣秀次の館跡が発見された。


 近江八幡城は、1585(天正13)年に豊臣秀吉の甥の豊臣秀次によって築かれた。秀次は43万石を領して入封し、安土城の一部と城下町を移転させて形成した。

 秀次は、1590(天正18)年の“小田原征伐”の軍功により、戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張、伊勢北部5郡などに100万石の大領を与えられて尾張清洲城に入る。
 替わって、近江八幡城には京極高次が2万8千石で入城したが、高次は、1595(文禄4)年に大津城へ移ったため、近江八幡山城は廃城になった。

二の丸跡の石垣
ロープウェー山頂駅を降りると直ぐに、
二の丸跡の石垣が目に飛び込んできます

二の丸跡の石垣
二の丸に建つ展望館&お土産売店
ロープウェー山頂駅を降りて、
石段を登った削平地にあります

西の丸跡
西の丸跡から西方向を遠望する
八幡堀と琵琶湖、対岸の比良山系が望めます
北の丸跡

北の丸跡より北東方向を望む
本丸跡に移築された村雲御所瑞龍寺の山門
豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼により、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と京都村雲の地に賜り創建され、この場所に移築された日蓮宗の寺院です
八幡堀
 琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるため
 に設けられた運河が八幡堀です。

 現在は城下の一部となる「日牟禮八幡宮境内地」を含め
 て「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていて、
 時代劇の撮影に使われるなど名所の一つとなっている

豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)
1568(永禄11)〜1595(文禄4)

 豊臣秀吉の姉の子で、秀吉の養子となる。通称は孫七郎。幼名は治兵衛。はじめ、戦国大名・三好康長に養子入りして三好信吉と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名する。
正室は池田恒興の娘、継室は右大臣・菊亭晴季の娘。側室は、最上義光の娘・駒姫ほか多数いる。

 近江八幡に43万石を与えられ、“小田原の役”の後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張、伊勢北部5郡などに100万石の大領を与えられた。

 秀吉嫡男の鶴松死去の後、秀吉の養子となり、秀吉の後継者として、関白職を継いで聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉に秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになり、秀吉の命で高野山に追放後、切腹させられた。享年28歳。

 秀次の首は三条河原へ晒され、その塚の前で、秀次の一族・妻妾・息子・娘ら三十数名が処刑され、追って家臣の多くが処罰された。

近江八幡城 絵図
(「近江八幡観光物産協会」さまのフリー画像をダウンロードして使用)

居館跡の八幡公園に建つ豊臣秀次の像
(「近江八幡観光物産協会」さまのフリー画像をダウンロードして使用)

登城アクセス
 車  : 名神高速八日市IC〜左折/八日市IC入口〜国道421号線・県道〜
  左折/県道多賀〜右折/白雲館前〜

駐車場 : 日牟礼八幡宮前の参拝者用無料駐車場を利用


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