| 関東地方 |
| 常陸(茨城県) |
三方を牛久沼に囲まれた、見事な一大中世城郭
| 築城時期: 天文年間後半(1550年頃) | 築城者: 岡見頼勝 |
二の郭への進入路である土橋
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・空堀・土橋・舟入り(推定) 》 | |
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牛久城は、周囲三方を牛久沼に囲まれ、残る一方の北側は台地を掘切った要害堅固な大規模な城郭になっています。
稲荷川が牛久沼に注ぐ河口の左岸に位置しており、標高は約20m、低地との比高差は10m前後を測る。古城部は複雑な舌状台地をうまく利用して構築されていて、主郭、二の郭はその突端部にある。 ただ、残念ながら主郭の南側突端部は国道6号線建設の時の土取り場となったために破壊され、現在、絶壁状の無残な姿を曝している。
牛久市城中町の南端にある牛久古城跡には、主郭・二の郭・三の郭・腰郭の曲輪が存在し、土塁・空堀・枡形・馬出・土橋・木戸口などの遺構がそっくり残っており、他に、推定搦め手口や推定舟溜まりと思われる遺構なども確認できます。
現況は、ほとんどが山林であり、三の丸の一部が宅地になっている。遺構の残存状態はは抜群に良いのだが、整備は全くと言ってよいほどされておらず、ブッシュと足の踏み場もないほどの竹薮・木に覆われています。
小田氏が佐竹氏に滅ぼされると、岡見氏は独立領主としての道を歩み始め、常陸下妻の多賀谷氏と対峙し抗争を繰り返す。
“小田原征伐”の後、上野金山より由良国繁が牛久城に移封された。
1629(寛永6)年、山口重政が1万5千石で牛久に封じられ、2代弘隆の時の1669(寛文9)年、牛久城の外郭部に牛久陣屋を築き、以降明治維新まで牛久藩の藩庁として利用された。
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城址遠望 南東の根古屋橋から見る。左方に牛久沼があります |
木戸口
この場所を発見できるかどうかが城跡探索のキーポイント です。判らなかったら近所の人に聞くべし。台地の東南端、 通称は「城山」です |
木戸口の入口に建つ縄張図付きの案内解説板
奥の竹林は三の郭跡になります |
木戸口より二の郭へ至る入口部分
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二の郭の堀と谷津によってつくられた独立陣地みたいな馬出しとされる場所 |
二の郭周囲の深くて見事な堀
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こちらも二の郭周囲の堀
どこもかしこも竹薮ばかりです |
牛久沼に面した主郭内部
竹が密生していて、人一人がやっと通れるくらいの 幅しかありません |
主郭南端から見下ろした牛久沼
主郭南端部は土取りされたため、絶壁状に改変されている |
主郭西側に深く入り込む谷津。かつての舟溜まりだったのではないかと推定されています |
牛久沼に面した推定搦め手口
木戸口が判らなかったら、南端のこちらから 探索する方法もあります |
推定搦め手口から見た牛久沼 |
外郭部の大手門跡
台地を掘切ったほぼ中央に構え、「食違い虎口」と 「枡形馬出し」を備えた厳重なものであった |
城址内に建つ得月院を開基した由良国繁の母・妙印尼の五輪塔 1594(文禄3)年11月6日没 |
縄張図
(現地案内解説板より) |
牛久城跡・牛久陣屋跡周辺 空中写真
出展元:「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」 撮影年度:平成2年度、ファイル名:ckt-90-3_c23_15 編集・加工/Webサイト管理人46(しろ) |
牛久沼周辺 城址分布図
出展元:「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」 撮影年度:昭和59年度、ファイル名:ckt-84-5_c4a_17 編集・加工/Webサイト管理人46(しろ) |
| 参考サイト | 「UshiQネット」 さま 詳細に優しく紹介されている牛久の総合リンク集です |
| 登城アクセス | |
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車 : 圏央道つくば牛久IC〜合流/国道6号線〜左折/国道408号線〜右折/ 学園都市南入口〜国道6号線〜右折/栗原紙材前〜根古屋橋・市道〜右折〜桜井麺製造所前〜右折〜右折〜 駐車場 : 木戸口に1〜2台の駐車スペースあり |
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