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関東地方

常陸(茨城県)

栄光と苦難の道を歩んだ佐竹氏四百年の居城

常陸 太田城[おおたじょう] 別称=舞鶴城 (平山城) 【所在地】 茨城県常陸太田市中城町
(太田小学校・若宮八幡宮周辺)

築城時期:  1109(天仁2)年 築城者:  藤原通延

ひたちおおたじょう 太田小学校の校門近くに建つ舞鶴城址の石碑

 遺 構  《 遺構/ほとんどなし 》
 常陸太田城は佐竹氏の本城としてよく知られている。戦国期には常陸一国を完全掌握した戦国大名佐竹氏。新羅三郎義光の流れを汲む名門中の名門である。

 誰が呼んだか「関東七名城」の一つとされる常陸太田城は、現在の太田小学校に本郭が存在したとみられ、里川と源氏川に挟まれた比高約20mほどの南北に細長く広大な台地上に展開していた。 

 城域としては、南端が若宮八幡宮、北端は大田一高の北側までの南北1000m、東西は最大500mという広大なものであると思われている。
遺構としては本郭跡と推定される太田小学校の西側に城塁および、櫓跡が残る程度である。


 この城の起源は明らかではないが、1109(天仁2)年に藤原(小野崎)通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。

 “後三年の役”(1051〜1062年)の功により領有することになった地名をとって佐竹氏を称した2代・佐竹隆義は、太田城主・藤原通盛(通延の孫)を服属させて小野台地に追い、小野崎氏を名乗らせ、自らは太田城に入った。隆義入城の際、鶴が城の上空を飛んだので「舞鶴城」という別名が生まれたとも言う。

 その後、常陸国に覇を唱え、「鬼義重」「坂東太郎」の異名で恐れられ、北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた名将の18代佐竹義重が、本拠を水戸城に移すまでの約460年間にわたり、佐竹氏の本城として使われた。
 この間、佐竹氏は、「源頼朝との戦い」、「南北朝の騒乱」や「山入の乱」等で何度か城を離れたり奪われるなど、苦難と挫折の連続であった。

 豊臣秀吉と誼を通じていた佐竹義重・義宣は、1590(天正18)の“小田原征伐”の功により、秀吉から常陸54万石の領有を安堵され、水戸城の江戸重通を追い出し、常陸府中城の大掾氏を滅ぼし、本拠を水戸城に移した。
 常陸一国を完全掌握した佐竹義重は実権を義宣に譲り、常陸太田城にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。

 1600(慶長5)年の“関が原の戦い”での去就を徳川家康に咎められた佐竹義宣は、慶長7年、石高未確定のまま羽後久保田に国替えとなる(禄高が確定したのは60年以上も後の1884(寛文4)年のことで、20万5千8百石であった)。

 佐竹氏の久保田移封後に廃城となっていた常陸太田城は、水戸徳川家の入封後、徳川頼宣の付家老・中山氏の6代信敏が、1707(宝永4)年に松岡城(茨城県高萩市下手綱)から移って居所とした。

 1804(文化元)年、10代中山信敬は松岡城を再建して戻り、常陸太田城の館は焼失した。

太田小学校前景 北郭との間の城塁
太田小学校西側の出っ張り部分のところ
右手の太田第一高校が北郭、道路を挟んだ左手が
三の郭。この道路は堀だったはずです
北郭の西側、この現在の帰願寺あたりが
「駒柵」と呼ばれる出丸のようなものであった
ケヤキの巨木がある若宮八幡宮は二の郭の
一角に位置していました。八幡宮は源氏の氏神です
若宮八幡宮から西方の源氏川沿いの低地部と
西山公園のある丘部を望む
西山公園には徳川光圀の隠居所「西山荘」があります

西山荘 ご殿

 元禄3年(1690)、家督を3代綱條に譲った水戸藩2代藩主徳川光圀は、元禄
 4年正月に自らが始めた「大日本史編纂事業」に生涯を捧げるべく、完成間
 もない西山荘に移り棲み、以後、10年間この地に隠棲した

所在地 : 常陸太田市新宿町590

登城アクセス
 車  : 常磐道日立南太田IC〜左折/インター出口〜国道6号線〜左折/大和
  田町〜国道293号線〜右折/常陸太田駅前〜すぐに左折〜左折/法然寺前
  〜突き当たり左折/JP太田前〜右折/若宮八幡宮の先〜市道〜太田小学校

駐車場 : なし


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