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ザ・登城

関東地方

下野(栃木県)

宇都宮氏領の西端を守備する「境目の城」は直線連郭式の山城

下野 西方城[にしかたじょう] 別称=西堀山城・鶴ヶ岡城 (山 城) 【所在地】 栃木県上都賀郡西方町本城

築城時期:  不明 築城者:  西方氏

にしかた じょう 3の郭と2の郭との間の 空堀

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・櫓台・堀切・横堀・竪堀・虎口・枡形・土橋・水の手 》
 西方城は思川の右岸、西方町西方の城山に築かれた山城で、高低差のない南北に細長い尾根を削平して曲輪を配置した直線連郭式の縄張りを持つ城です。
 城址へは、長徳寺脇の横堀・竪堀を利用したような堀底道を登ります。比高は約130mですが、途中、随所に案内板が設置されていますので、迷うことなく城内を散策できます。

 現在、城の西側と南側はゴルフ場ができているが、遺構は完存といっていいほどよく残っている。それもかなり技巧的で、折れを伴った複雑な進入経路などは特筆な遺構である。

 また、西方城の東南山麓には、西方城の支城、或いは対をなしたと思われる二条城があります。


 一説には永仁元(1293)年、宇都宮景綱の三男・遠江守景泰が西方(西方の語源は宇都宮領の西方に位置することから)に分知され築いたともあるが、西方城の築城時期は不明である。
 その後、景泰の系統は西方氏を称し、西方城は宇都宮氏領の西端を守備する「境目の城」として機能したと推測されます。

 戦国時代、宇都宮氏は周辺の皆川・壬生・芳賀氏らと対峙しながら自領の安堵・拡張を図ったが、1551(天文20)年の「河越夜戦」以後、小田原北条氏が北関東に進出。さらに1560(永禄3)年には関東管領・上杉憲政の要請を受けた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東に出兵し、関東の土豪・諸将は北条対上杉の対立軸に組み込まれていくこととなる。

 宇都宮氏は終始、上杉・佐竹氏と同盟を組み、北条氏と対抗するが、隣国の皆川氏は1585(天正13)年、北条氏の侵攻を受けて降伏・臣下し、北条氏から宇都宮氏攻略の先陣を命じられた皆川広照らに攻められた西方綱吉の西方城は北条軍に占拠される。

 1588(天正16)年、佐竹義重の支援を得た宇都宮国綱は皆川領に侵攻して西方城の奪還に成功する。
 その後、宇都宮氏対皆川氏間の軍事緊張は、1590(天正18)年の“小田原の役”まで続き、同年の「宇都宮仕置」により、宇都宮国綱は豊臣秀吉から本領安堵されるが、1597(慶長2)年、宇都宮氏は秀吉から突然改易され、宇都宮氏庶流の西方城も、この時に廃城になったと推測されます。

城址遠望
比高は約130mです。麓近くに長徳寺も見えます
長徳寺脇(南側)の登り口
竪堀状の斜面を垂直に登る通路 北の丸北側の横矢がかかった堡塁

北の丸の櫓跡
北の丸
長軸70mほどの城内最大の曲輪で、西側に
高さ1.5mほどの土塁、東側下には腰曲輪を配している
四の郭の下(東側)に二筋設けられている仕切り土居 四の郭から三の郭に至る土橋
三の郭からの東方向遠望 二の丸
城塁の東側下には竪堀があります
本丸北側の虎口
二の郭に至る虎口であるが、本丸内部から見る
本丸
約2mの城内で一番高い土塁が四周を巡っている
本丸南側虎口の櫓台のようなところに祀られている八幡宮
居合わせた教育委員会の人の話では
地主の方が祀っていうそうです
本丸南側の土塁で囲まれた枡形のような屈曲する進入路
ここには「横矢」という案内板が立っています
枡形虎口
南の丸と西の丸(消滅)とを隔てる小曲輪的空間です
南の丸北側虎口の内側に設けられている
特異な構造をした空堀
南の丸
南の丸の南側一段下には武者溜と呼ぶ曲輪があります
ゴルフ場のコースとなって消滅してしまった西の丸跡
西の丸(消滅)跡越しに見た北北西方向 本丸下部から東の丸に向かう途中にある水の手(井戸)
東の丸
東西60m、南北30mほどの規模です
当日、教育委員会と西方町文化財愛護ボランティアの
方々により設置されていたNEW案内解説板

西方城 城郭図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 北関東自動車道都賀IC〜右折/都賀IC出口〜県道・国道293号線〜
  左折/工業団地入口〜左折/工業団地東〜右折〜右折〜左折〜東北自動車
  道下隋道/直進〜長徳寺〜

駐車場 : 長徳寺脇の城址登り口の駐車スペース(2〜3台)を利用


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