| 関東地方 |
| 下野(栃木県) |
その山容から、法螺貝城の異名を持つ皆川氏累代の山城
下野
| 築城時期: 寛喜年間(1229〜1232) | 築城者: 皆川宗貞 |
余湖図の 竪堀A を上部より見下ろす
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・空堀・竪堀・水堀・井戸 》 | |
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皆川城は、山の形をそのまま利用したものでその形から「法螺貝城」とも呼ばれている。
山を何重にも取り巻く曲輪群の塊はまさに法螺貝であり、その山容をみれば一目瞭然であろう。 主な曲輪は腰曲輪であるが、意外と幅も広く居住性にも富んでいたようである。
山そのものは比高70mほどで、さほど巨大なものではないが、現在は城址公園として整備され、遺構も全山にわたり良好に残っています。
また、城址から南西約500mのところにある金剛寺には、歴代の皆川氏一族の霊廟があります。
「蟠竜斎(ばんりゅうさい)」の異名を持ち、「結城家中にこの人あり」と畏怖されたバリバリの猛将・水谷正村を叔父に持つ皆川広照は、1576(天正4)年、兄の広勝の急死により、皆川氏五代の家督を継ぐ。
1590(天正18)年、秀吉の“小田原征伐”のとき、徳川家康に投降して所領を安堵され、不便な山城の皆川城を廃して、平地に栃木城を築いて居を移した。
その後、忠輝の補佐役を務めていた広照は、いくら諫言しても改められない忠輝の行状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格と断罪され、1609(慶長14)年に改易されてしまった。
しかし、広照は1623(元和9)年に赦免されて、広照の息子である皆川隆庸が常陸府中藩を継ぐ。隆庸のあとは広照の孫の成郷が継ぐが、嗣子無く死去し、1645(正保2)年に皆川氏は断絶する。なお、成郷の弟の皆川秀隆の系統が江戸時代、旗本として存続したという。
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JP皆川手前のY字路を右折してから、ここを右折します
ここに矢印の付いた「皆川地区公民館」の 案内板があります |
麓の居館跡に建つ立派な「皆川地区公民館」 |
公民館建物手前から、ほら貝の山容をした城址を見上げる
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山麓南西部の居館跡に残る土塁
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居館跡南側の水堀
近くの老人の話では、子供の頃ここでよく 水浴びをしたものだという |
こちらは居館跡西側部分の水堀跡です
下の余湖図の「い」の部分 |
南麓居館跡に建つ公民館の西側の芝生広場から山城部分を見上げる |
下の余湖図の「横堀A」の部分
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西郭(2郭)の一段下の腰曲輪にある井戸
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西郭(2郭)への虎口部
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城内で一番広い曲輪の西郭(2郭)
休憩広場となり、四阿が設けられています |
東郭(本丸)に建つ城址碑
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東郭(本丸)からの南西方向遠望
歴代の皆川氏一族の霊廟がある「金剛寺」も見えます |
東郭(本丸)からの北方向遠望
下に見えるのは、皆川城CCのコースです |
金剛寺境内の歴代皆川氏一族の霊廟 |
第五代皆川広照の墓石
嘉永4年12月22日、80歳にて没 戒名は「三清院殿善翁慶勝大居士」 |
出典元
余湖図コレクション 「余湖くんのお城のページ」−「皆川城」のページに 掲載されているものを借用させていただきました
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| 参考サイト |
「余湖くんのお城のページ」 余湖 殿 独特のタッチで描かれた2,000城以上掲載の 「余湖図コレクション」は圧巻です |
| 登城アクセス | |
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車 : 東北自動車道栃木IC〜右折/栃木IC出口〜県道32号線〜右折/箱森 町〜右折/とりせん角〜右折/皆川郵便局手前Y字路〜市道〜右折〜皆川地 区公民館〜 駐車場 : 皆川地区公民館の駐車場を利用 |
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