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関東地方

武蔵(東京都)

武蔵東部の名族・豊島氏滅亡の城

武蔵 平塚城[ひらつかじょう]  (平山城) 【所在地】 東京都北区西ヶ原二丁目(平塚神社)

築城時期:  平安時代末期 築城者:  豊島近義

ひらつか じょう 平塚城址 と伝わる平塚神社

 遺 構  《 遺構/なし 》
 上中里駅を出てすぐの「蝉坂」と呼ばれる緩やかな坂道を登ったところに平塚神社があるが、ここが平塚城址と言われている。

 平塚神社の祭神は源義家(八幡太郎義家)。頼朝や義経の高祖父にあたる人物で、武勇に優れ、人望も厚く、東国武士の心をつかんで武家の棟梁と見なされた名将である。
社伝によると、この義家が“後三年の役”で奥州に遠征した帰路、豊島氏の平塚城に立ち寄った。その際、城主の豊島近義からこころを込めた歓待を受けた御礼に、義家は近義に鎧を与えた。
 近義はこの鎧を城内に埋め、城を守る鎮守とした。さらに社をもうけて義家とその二人の兄弟の木像を安置し、豊島一族の繁栄を願ったのである。これが平塚神社の始まりだという。

 室町幕府の重職・関東管領の山内上杉顕定の重臣であった長尾景春が起こした謀叛“長尾景春の乱”(1476/文明8年)の際、これに同調した平塚城主・豊島泰明は、兄で豊島家の当主である泰経とともに挙兵した。

 この事態を受けて、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌も兵を動かし、手はじめに平塚城を攻めると、豊島泰経が弟を助けるべく居城石神井城を出陣。泰明も城を出て兄の軍と合流し、豊島・太田両軍は江古田・沼袋原(現在の中野区)で激突した。

 この戦いで豊島軍は大敗。弟の泰明は討死した。余勢を駆って道灌は石神井城を攻め落とす。
かろうじて城を逃れた泰経は平塚城に逃げ込み再起をはかるが、ここも道灌に攻め落とされた。
 泰経は再び逃げおおせ、小机城に落ち延びたとも伝わっているが、こうして武蔵東部で栄えた豊島氏は滅亡した。

城址東側を断ち切る蝉坂(せみざか)
幕府の編纂した「新編武蔵風土記」に30〜40間の登り坂
とあるように、江戸時代後半にはあった名称です
「甲冑塚」のある本殿裏手
祭神「八幡太郎義家」の鎧を埋めたと伝わるものだが
柵があるため立ち入りで出来なかった

登城アクセス
 車  : 首都高中央環状線王子北IC〜左折/王子三丁目〜右折/王子駅前〜
  本郷通り〜平塚神社前〜

電 車 : JR京浜東北線「上中里」駅より徒歩2分
駐車場 : 平塚神社の参拝者用駐車場を利用


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