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関東地方

武蔵(埼玉県)

武蔵の覇権をかけた源氏一族抗争の舞台となった居館

武蔵 大蔵館[おおくらやかた] 別称=源義賢館 (居 館) 【所在地】 埼玉県比企郡嵐山町大蔵(大蔵神社)

築城時期:  1152(仁平2)年 築城者:  源(東宮帯刀先生)義賢

おおくら やかた 大蔵神社の入口両脇に残る 土塁
下部の玉石による腰巻石垣は後世のものです

 遺 構  《 遺構/土塁・空堀 》
 大蔵館は、都幾川を挟んで菅谷館の対岸に位置している。現在、大蔵神社となっている境内および、その周辺一帯の土塁と空堀に囲まれた方形の居館であった。
その規模は、東西170〜200m、南北約220mであり、館の東方100mには鎌倉街道が南北に通過していて、館の入口は街道に面して東方に設けられていた。

 現在、神社入口の南側と西側に高さ2.5〜3メートルほどの土塁が残されている。また、館跡南東角部(実測図のDの地点)にも土塁が残り、ここは空堀が良好に残っている唯一の場所でもある。
 嵐山町周辺は、南北朝〜室町、戦国時代にかけて戦乱の耐えなかった地域であり、源義賢が居住した当時の遺構に、軍事上の重要拠点として幾度となく後世の手が加えられ、造りかえられて利用されたようである。

 近くには、菅谷館の他に、木曾義仲ゆかりの地や笛吹峠、鎌倉街道や嵐山渓谷などの名所旧跡が数多く点在しているので、こちらと併せて見学するのも楽しいと思います。
 また、源(帯刀先生)義賢の墓は、大蔵館から少し離れた東方の新藤氏の屋敷内に祀られた小さな祠の中にある五輪塔だと伝えられています。


 大蔵館は、1152(仁平2)年に源氏の棟梁(六条判官)源為義の次男・源(東宮帯刀先生)義賢によって築かれた屋敷跡である。

 義賢はこの地を中心に武威を高めたが、1155(久寿2)年の“大蔵の戦い”で、兄・源義朝の嫡男の悪源太義平に殺害されてしまった。
実力者・義賢の死により、源義朝・義平父子の勢力はさらに拡大され、以後、東国関東の武士団は源義朝に従うようになった。

 この戦いの時、2歳になる義賢の遺児・駒王丸は難を逃れ、畠山重能・斉藤実盛らに匿われたのち、信濃に逃れ、木曾谷の豪族・中原兼遠の庇護下に育ち成人した。この男子が後の朝日将軍(旭将軍)・木曾義仲である。

西方からの館跡遠望 大蔵神社の南東角にある大蔵館跡の案内板
下の実測図のA地点
大蔵神社入口の右(東)側の土塁 大蔵神社入口の左(西)側の土塁
入口参道から見た大蔵神社境内
下の実測図のB地点
神社境内の遊具のある周りには土塁が巡る
大蔵神社の東側からの入口
下の実測図のC地点
館跡南東角部の様子
下の実測図のD地点
館跡北西角部の様子
下の実測図のE地点
北方を流れる都幾川方面に向かって
地勢は段々低くなっている
下の実測図のF地点

大蔵館跡 実測図
(現地案内解説板より)

登城アクセス
 車  : 関越道東松山IC〜左折/東松山IC出口〜国道254号線〜左折/上唐子
  (北)〜県道〜右折/上唐子〜都幾川/月田橋〜大蔵神社(進行方向県道右側

駐車場 : なし


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