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ザ・登城

東海地方

美濃(岐阜県南部)

日本三大山城の一つ、女城主(織田信長の叔母)が在城

岩村城 別称=霧ケ城 (山 城) 【所在地】 岐阜県恵那郡岩村町城山
更新 2004.10.25の合併により 岐阜県恵那市岩村町城山 に住所変更 

 築城時期:  1185年(文治元)  築城者:  加藤景廉・遠山景朝

いわむら じょう
本丸虎口石垣(六段壁

 遺 構  《 移築/旧藩校知新館正門  模擬/太鼓櫓・御殿門・平重門・土塀  
 遺構/曲輪・石垣・空堀 》
太鼓櫓および御殿門(模擬)  平重門および土塀(模擬)
 備中松山城大和高取城とともに「日本三大山城」の一つであり、“日本一標高の高い山城”(本丸部分721m)です。

 現在では本丸下まで車で上がることも出来るが、徒歩で登るための登城路が整備されているので、圧倒的な石垣群が出迎えてくれるのでこちらをお薦めしたい。
31ケ所、総延長1.7kmもの石垣群が鬱蒼とした樹木の中に累々と現れるさまは、見事!の一語に尽きる。

 山頂に建物遺構は何も無いが、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧が湧き易い気象から、別名「霧ケ城」とも呼ばれています。

 縄張りは、本丸・二の丸・三の丸・東曲輪・帯曲輪・八幡曲輪・出丸及び10ケ所の屋敷、11の矢倉からなり、一の門・土岐門の先の大手門・追手門手前には畳橋(現在は空堀)が掛かっていた。

 藩主邸のあった山麓は、現在、城址公園となっており、太鼓櫓・御殿門・土塀などが復元され、移築された旧藩校正門があり、歴史資料館もあります。


 城の起源は、1185年(文治元)、鎌倉幕府の御家人・加藤景廉、子の遠山景朝が築いたことに始まる。

 戦国期の遠山景任が城主の時、武田信玄に攻められるが、妻(おつやの方)の叔父・織田信長の救援を求め撃墜する。

 1571年(元亀2)、景任が病没すると、信長は景任夫人を女城主とし、嗣子として5男・御坊丸(信吉)を入れた。
 翌年、武田方武将・秋山信友が再び攻撃してくる。そして落城寸前、おつやの方に結婚を申し込み、城兵を救うことで和議が成立し、二人は結ばれ、信友が城主となり城は武田方のものとなる。(御坊丸は人質として甲府に送られる)
 激怒した信長は、1575年(天正3)、嫡子信忠に命じて攻撃落城させ、信友・おつやの方夫妻を逆磔に処刑する。

 その後、森蘭丸(長定)・長可・忠政の森氏3代の城代・各務兵庫が、18年余りをかけて城を近代城郭に改修した。

 次いで、田丸氏・松平(大給)氏・丹羽氏と城主が入れ替わり、元禄17年に松平(大給)乗紀が信濃小諸(長野県小諸市)から入り、3代乗賢が老中となり3万石を領した。松平(大給)家は、8代乗命まで続いて明治を迎えた。

旧藩校・知新館正門(移築)  本丸跡にある城址銘碑
二の丸から見た本丸裏門跡
ここは3種の石垣、「野面積み」・「打ち込みハギ」・「切り
込みハギ」が一ケ所に見られる日本でも珍しい場所です
 

出丸より二の丸に通ずる搦手虎口(不明門)石垣

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