ザ・登城TOPへ
ザ・登城

東海地方

遠江(静岡県西部)

武田信玄・勝頼と徳川家康との争奪戦が繰り広げられた遠江の要衝

高天神城[たかてんじんじょう] (山 城) 【所在地】 静岡県小笠郡大東町下土方
更新 合併(2005.04.01)により 静岡県掛川市下土方 に住所変更 

 築城時期:  不明  築城者:  今川氏

たかてんじん じょう 城址 銘碑

 遺 構  《 現存/井戸・石窟  遺構/曲輪・土塁・堀切 》
 高天神城は、武田信玄・勝頼と徳川家康が争奪戦を繰り広げ、「高天神城を制するものは遠州を制する」と謳われた要衝の城です。

 高天神城は、大手口と搦手口を除けば、周囲を絶壁と深い谷に囲まれている。

 縄張りは、自然の形から東峰(本の丸・二の曲輪・三の丸など)と西峯(西の丸・二の丸・馬場など)を結ぶように井戸曲輪が配置された(ちょうど「H」型)連郭式一城別郭式となっている。

 唯一、この城の弱点は西の丸の堀切を経て、馬場曲輪から西の隣峯に向けて緩やかな斜面となっている点か? ここが「犬戻り・猿戻り」と呼ばれる間道で、落城の際の逃げ口となっているとか。

 事実、武田の武将横田尹松がここより脱出に成功している。 また、2回の落城も西の丸から攻められて落とされている。


 高天神城の築城年代には諸説があり、特定することは出来ないが、室町時代、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で築かれたとする説が有力である。

 今川氏の滅亡後、徳川家康の持ち城となり、小笠原長忠が城番となる。
1571年(元亀2)、武田信玄が攻めたが落城させられず、1574年(天正2)、再度、子の武田勝頼が2万の大軍で攻め、ついに開城させる。

 しかし、翌天正3年の“長篠の合戦”で、織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、その後、滅亡への道を転げ落ちることとなる。

 家康は高天神城攻略の足場として、横須賀城(静岡県大須賀町)を築き、1581年(天正9)、ついに、10ケ月にわたる激しいの攻防の後、高天神城の奪還に成功する。

 武田氏の遠江最大の拠点、高天神城は家康の手に戻ると廃城となった。

本丸跡から見た眼下の風景

城址遠望 搦手門跡への入口案内看板
搦手口登城石段 三日月井戸

大河内政局 幽閉の石牢(石窟)
天正2年、武田勝頼により落城させられた
際、徳川方軍監・大河内政局は、ひとり
勝頼の命に服さず投獄され、天正9年の
徳川家康の奪還・救出までの、じつに、足
掛け9年間にわたり幽閉され続けた石牢

是、武士道の鏡と賞賛された。

掛川市公式HPへリンク
「掛川市」 公式HP へ

ザ・登城TOPページへ 東海地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  東海地方の城郭へ

岐阜県静岡県愛知県三重県