| 東海地方 |
| 遠江(静岡県西部) |
全国でも数少ない二の丸御殿が現存し、本格木造天守を復元
掛川城 別称=雲霧城 (平山城) 【所在地】 静岡県掛川市城下8-12
| 築城時期: 文明年間(1469〜1485) | 築城者: 朝比奈泰熙 |
天守閣 遠望
天守下手前が四足門 下部は逆川 再々訪問時画像(2008/04/06) |
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遺 構
《 現存/二の丸御殿・太鼓櫓・番所 復元/天守閣・大手門・四足門 遺構/ 曲輪・石垣・土塁・水堀 移築/蕗の門 》 |
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日本初の本格木造によって、東海の名城と讃えられた掛川城天守閣が復元され、威風堂々としたその雄姿を甦らせました。天守閣は、平成6年、約140年ぶりに復元。外観三層・内部四階。
「掛川城二の丸御殿」は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務を司る役所という三つの機能を合わせ持った施設です。
静岡県下、これだけの城郭建造物が整備されているのは他にありません。徳川家康居城の浜★城・駿★城も負けていますゾ!
1590年(天正18)、豊臣秀吉の命により徳川家康が関東に移封となり、山内一豊が近江長浜城より5万石(後に6.2万石)で入り、天守閣を築き、城下の整備を行うなどして、掛川城を平山城の近世城郭へと改修築した。
松平(久松)家2代・定行は伊予松山城に転封となり、その後、駿府藩領
や10家22代の居城として栄えたが、嘉永7年(1854)の大地震により、天守閣など大半が損壊。明治2年に廃城となる。
なお、最後の藩主・太田家は、江戸城を築くなどの名築城家である太田道灌の後裔であり、戊辰戦争後の徳川宗家(将軍家)駿府(城)移封まで7代続いた。
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天守閣&冠木門(天守曲輪)
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二の丸御殿からの天守閣
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天守閣内に陳列してある鯱鉾瓦
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天守閣から大手口方向を見下ろす
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二の丸御殿前景
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二の丸御殿の内部
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| この上は再々訪問時の画像です(2008/04/06) | |
大手門近くの大手門駐車場 |
大手門
天守閣から東南250mの場所に復元された、 櫓門形式の鯱瓦をあげた豪壮な門 門奥に見えるのが大手門番所です |
大手門 番所
区画整理により本来の位置から北約50mに復元された 大手門に合わせて配置された。1859年(安政6)再建 |
天然の要害・逆川に架かる緑橋越しに天守・太鼓櫓を見る |
三の丸跡
イベント等に使われる広場となっています |
三の丸跡越しに見た太鼓櫓・四足門・天守閣
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四足門の奥の 本丸門跡
向かって左側石塁上に太鼓櫓があります |
天守下石段から見た 太鼓櫓
太鼓櫓は本来他の場所にあったもので、この場所には 荒和布(あらふ)櫓と呼ばれた見張りの櫓があった |
天守閣より見た二の丸御殿
再々訪問時の画像(2008/04/06) |
天守丸から見た 三日月堀(奥)と十露盤(そろばん)堀
右端は四足門、奥が三の丸跡 |
天守丸から南東方向を望む
天守閣の天守台の高さは海抜56mです 手前は「山内一豊と妻・お千代」の幟旗と太鼓櫓 |
竹の丸跡
江戸時代の侍屋敷跡で、城を守る竹の大藪があった 建物は明治年間に建てられた個人邸宅で、 現在は柔道・弓道の練習場などになっている |
三光伏見稲荷
山内一豊が秀吉の伏見桃山城築城 に加わった御縁で、大手郭と大手厩 の鎮守として勧請されたもの |
はす池
かつては、主郭部を護る要害であった |
本丸より一段高く、天守閣を配置する独立した曲輪(天守丸)にある 霧吹き井戸 城郭の井戸としては日本第3位の45m |
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城郭巡りの最初、生業柄、日本初の“本格木造天守閣”復元と云う事でトップ登城した掛川城は、城周辺が城下町風街並みとして綺麗に整備され、人力車が走り、風情一杯のゆったりした時間が流れていた。
山内一豊が掛川城を模して造らせた高知城の形や構造、間取りを参考に、当時そのままに復元しただけに、まさに、高知城の縮尺8掛で、違うと言いば、石高の違いからくる階層の差ぐらいかな! 皆さんはどう思われますか? 高知城はコチラからどうぞ |
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(現地案内板のものを切抜)
図中表記の二の丸と三の丸が反対になっています |
大手門跡近くに屋外展示されている模型
正保(1644〜1648年)城絵図によるもの |
移築 御玄関前大手二之門
1659(万治2)年、井伊直好の創建で、1872(明治6)年に油山寺に移築したもの 間口9m、奥行4.55m、片潜り戸付き櫓門、前後に庇屋根、 柱は65cm角、二階は15畳敷の広さ
所在地 : 油山寺 静岡県袋井市村松1番地
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