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東海地方

駿河(静岡県中部)

陣を構えた武田軍、薩タ山の北条氏康軍と対峙

横山城[よこやまじょう] 別称=興津城 (平山城) 【所在地】 静岡県清水市谷津二丁目
更新 政令指定都市移行(2005.04.01)により 静岡県静岡市清水区谷津二丁目 に住所変更

 築城時期:  延文年間(1356〜61年)  築城者:  興津美作守氏清

よこやま じょう

城址銘碑

 遺 構  《 遺構/土塁・空堀・曲輪 》
 横山城は、国道52号線谷津の点滅信号の50m先、三晃設備さん脇の道を南に1キロほど入った身延路沿いにあった。
谷津地区の道幅は狭く、駐車場所が無い。小さな山だが雑木が多く、草が背丈以上に伸びブッシュ状態。やむなく攻城を断念。

 車にて裏手の本丸位置の高さ地点まで廻り込み、上手い具合に車両退避所があったのでそこで周辺観察。
眼下には、興津川が蛇行し、周辺は山また山。自然の要害地であることが解る。

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この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。
興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(または近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、初めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部して以来はその被官となった。

 延文年間(1356〜61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。

 連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長日記」に残されているが、大永5年(1525)の項には「興津横山の城にて春の雲のよこやましるしなみのうえ」と記されている。

 そして永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。

 そしてこの年正月、今川氏真救援のため出兵した北条氏康の軍(薩タ山に陣取る)と、4月29日に撤退するまで90日余りにわたり、興津川を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が薩タ山を攻めた記録も残されている。

 その後武田氏は横山城に城番を置き、支城のひとつとして重要視したと云うが、天正10年(1582)武田氏の滅亡と共に廃城となった。  (現地案内板より)

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 攻城は冬季の落葉期に限ります。 (-_-メ)

鳥瞰図
(現地案内解説板より)

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