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ザ・登城

関東地方

相模(神奈川県西部)

北条早雲
小田原北条氏の祖・北条早雲

北条早雲から5代(氏綱・氏康・氏政・氏直)にわたって関東に君臨した
後北条氏の総構えの本城

小田原城[おだわらじょう] 別称=小早川館 (平山城) 【所在地】 神奈川県小田原市城内

 築城時期:  1495年(明応4)以降  築城者:  北条早雲

おだわら じょう
天守閣(復興)

 遺 構  《 復興/天守閣・櫓門・平櫓  遺構/土塁(総構え)・堀  》

「総構え(そうがまえ)」の一部 小峰大堀切 
   この城、他の日本の城と少し違うところがある。なんと城下町全体を壁で囲っていたのだ。ヨーロッパの城に発想が似ているが、この日本唯一の城郭都市の構造、総構えと呼ばれるこの構築物によって、敵の侵入を許さなかった。

 かの上杉謙信(9万6千の軍勢)、武田信玄(2万5千の軍勢)も真っ向から攻めると、攻めきれず撤退したという。


 小田原に初めて城を築いたのは、小早川隆景の先祖、土肥一族の小早川遠平が小峰山に居館を構えたのが始まりと言われているが定かではない。

 室町時代の1416年(応永23)に乱があり、この一族は失脚し、大森頼明が城主になり、城を拡張する。

 1495年(明応4)、伊豆韮山城(静岡県韮山町)の伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が夜襲をかけ、大森実頼を相模真田城(神奈川県平塚市)に追い、後に大森氏を滅ぼした。

 小田原城を手中に治めた北条氏は、その後、着々と関東覇者への道を歩み始める。
その北条氏の本拠地として、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代に渡り拡張工事が続けられ、総構えを持つ大規模城郭となる。

 1590年(天正18)、豊臣秀吉の“小田原征伐”の末、城は開城し、慶長19年、徳川幕府によって外郭の破却が行われた。
今日ある近世小田原城は、1633年(寛永10)の大地震の後、稲葉正則(春日局の孫)の時代に改修・整備された。

 江戸時代の小田原城は、大久保氏・天領時代・阿部氏・天領時代・稲葉氏と城主が替わり、1686年(貞享3)、再び大久保氏が下総佐倉から入封し、10代続いて明治に至る。

 明治3年に廃城となり、天守をはじめ殆どの建物が解体され、残っていた石垣も1923年(大正12)の関東大震災により、ことごとく崩れ落ちてしまいました。現在は、大久保氏時代の三層4階の天守閣が昭和35年に復興されています。


銅門(あかがねもん)  

 江戸時代の小田原城二の丸表門。
 石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた
 桝形門形式です。
 銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に
 銅が用いられたことに由来します。

 平成9年復元、平成10年4月一般公開


常盤木門(ときわぎもん)

 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、
 最も大きく堅固に作られている。
 多聞櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式です。
 常盤木とは常緑樹の意味で、門の傍らには往時から
 松が植えられており、松の木が常に緑色をたたえて
 何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変
 に繁栄することを願って名付けられたと言われています

 市制30周年事業として、昭和46年(1971)に復元

天守閣 遠望


北条早雲 銅像
小田原駅西口ロータリーに設置

二の丸平櫓

◇◇ 城郭復元の情報 ◇◇

小田原市では、「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を定め、江戸時代の曲輪の配置を明確にすることを目標に、小田原城の整備を進めています。この整備事業の一環として、馬出門一帯の復元を行っています。

二の丸馬出門復元事業

〓〓 問い合わせ先 〓〓
「小田原市役所 生涯学習部 文化財課」TEL 0465-33-1717まで 


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