| 関東地方 |
| 武蔵(埼玉県) |
石田三成が、壱ケ月水攻めしても落城しなかった浮城(!?)
| 築城時期: 1479(文明11)年頃? | 築城者: 成田正等・顕泰父子 |
天守代わりの御三階櫓(復興) 明治6年に解体され、昭和62年に再建 |
| 遺 構 《 移築/門 復興/御三階櫓(天守)・鐘楼 模擬/水堀・大手門・冠木門 遺構/土塁・堤 》 | |
模擬 大手門 |
鐘楼・水濠 |
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関東7名城の一つである忍城は、豊臣秀吉重臣・石田三成に水攻めされても落城せず、浮城かと言わしめた城として有名です。その堤(当時の築堤は総延長28kmに及ぶ)の一部が「石田堤」と呼ばれ市内(堤根地区)及び吹上町(新幹線高架下)に残っています。
本丸には、かって三の丸にあつた御三階櫓(天守)が復興され、また、鐘楼も復興されています。
本丸内の郷土博物館には、忍城模型ほか城に関する資料が豊富に展示されており、郷土博物館と御三階櫓は内部で繋がっており、御三階櫓の方は2〜4階が資料室になっています。 現在は、忍城の外堀跡を利用して、周辺一帯が「水城公園」として整然と整備されています。
1590年(天正18)、豊臣秀吉の関東平定による相模小田原・北条氏との戦いの中で、石田三成・長束正家らの水攻めにも、篭城一ヶ月落城せず、相模小田原城開城の後、開城する。
徳川家康の関東入国により、1592年(文禄元)家康四男松平忠吉が10万石で入城、関が原合戦後、忠吉は尾張清洲に移り、その後、天領となり城番が置かれた。
1626年(寛永3)、武蔵深谷から酒井忠勝が5万石で入封。寛永10年に松平信綱が3万石の城主となり、寛永16年には、下野壬生より、阿部忠秋が5万石で入る。1702年(元禄15)頃に大修築が完了、阿部氏は、9代184年間続く。
1823年(文政6)、、伊勢桑名から松平忠堯が10万石で入封し、4代(48年あまり)続いて明治を迎える。
明治維新の戦火を逃れた忍城も、明治6年には主な建物が競売に付され、かっての面影は全て失われた。
江戸時代中期より発達した、行田の足袋は現在でも、年間約500万足、国内シェア約50%を占めています。
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模擬 大手門裏側 |
模擬 冠木門 |
現存 土塁 |
石田堤(行田市側) |
石田堤(吹上町側) |
水攻めイラスト図 現地解説板(吹上町石田堤史跡公園)より |
移築現存 黒門(北谷門) 所在地:加須市不動岡2丁目 總願寺境内 |
『忍城時代まつり』 にリンク