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関東地方

武蔵(埼玉県)

“大構”の有る全国でも珍しい総曲輪型城郭

岩槻城[いわつきじょう] 別称=岩付城、白鶴城 (平 城) 【所在地】 埼玉県岩槻市大田一丁目
更新 合併(2005.04.01)により 埼玉県さいたま市岩槻区太田1丁目 に住所変更 

 築城時期:  1457(長禄元)年  築城者:  大田道灌(父の道真説もあり)

元荒川の湿地帯を天然の外堀とし、半島状に突き出た台地に曲輪を築き、
延長二里余り(約8km)の土居を巡らした縄張り。 【小田原城と同じ 
“大構”(おおがまえ) 】
の有る全国でも珍しい総曲輪型城郭から、別名
 「浮城」 とも呼ばれている

いわつき じょう

「大構」 土居

 遺 構  《 移築/門・藩校  遺構/大構・土塁・空堀 》
黒門[長屋門形式](旧大手門) (移築) 
裏門(旧搦手門) (移築)

 1457年(長禄元)、大田道灌(一説には、“大田道真”【道灌の父】)によって築かれた(同時期に、江戸城・武蔵川越城も築城)関東の名城であり、扇谷上杉氏の重要拠点であった。
 1486年(文明18)、大田道灌が謀殺された後、孫の大田資頼が城主となった。一時、城は後北条氏に渡るが、1531年(享禄4)に奪還し、大田氏4代が居城。

 1567年(永禄10)、大田資正(三楽斎)は、“佐竹義宣”を頼り常陸片野城(茨城県八郷町)へ逃れ、この地は後北条氏の支配となり、1586年(天正14)以降、“大構” も築かれ城の規模は拡大した。
1590年(天正18)、豊臣秀吉の“小田原征伐”により2万の軍勢に攻められ、2ケ月の篭城戦後、5月22日落城した。

 江戸時代は、三河譜代の重臣達(老中)の居城として、高力・青山・阿部・板倉・戸田・松平(藤井)・小笠原・永井氏と中期までめまぐるしく城主が変わった。
その間、1609年(慶長14)に城の大部分を焼失するが、三の丸(本丸・二の丸は空き地)に復興された。
 1756年(宝暦6)、大岡忠光が上総勝浦(千葉県勝浦市)より入封してから、藩主は固定化され、大岡氏が8代にわたり在封して明治に至った。

 明治5年、入札により民間に払い下げられ、現在、公園として整備されている(新曲輪・鍛冶曲輪[南側の部分])。他に、本丸・二の丸・三の丸の北側に新正寺曲輪が有り、城域全体は32,900坪の面積であった。

“岩槻に過ぎたるものがニつある”・・・・・「児玉南柯」と「時の鐘」

「時の鐘」 鐘楼

「遷僑館」(岩槻藩校)
 「時の鐘」は、1671年(寛永11)、時の城主阿部正春が作らせたもので、今でも朝夕の6時には鐘がつかれています。 


 「遷僑館」(岩槻藩藩校)は、1799年(寛政11)、岩槻藩に仕えていた儒学者・児玉南柯が開いた私塾で、後に藩校となる。江戸時代、全国に藩校は200余りあり、そのうち私塾が昇格したものは15校である。

 [茅葺・平屋建て、約40坪の小規模なもの 開館日 土・日のみ]

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