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注目アニメ  戦国時代の名築城家

築城家
主 な 経 歴 代表的な城郭
加藤清正
1562年
(永禄 5)

1611年
(慶長16)

主な築城ブレーン
飯田覚兵衛

幼名は虎之助。豊臣秀吉子飼いの勇将で賎ヶ岳七本槍の一人。「虎退治」など数々の逸話を残す。関が原では東軍に属し、本国肥後で、西軍の小西行長・立花宗茂らと戦い、戦後、肥後一国52万石を与えられた。しかし、豊臣家への思いは強く、秀吉亡き後秀頼の保護に尽力、大坂冬の陣前に秀頼が二条城で家康と会見した際に警護役として随行。帰国直後に謎の急死、家康が豊臣家を滅ぼすに当たり最も動向を注視した人物の一人。

★ 22歳時、主君羽柴秀吉により大坂築城の見回り役を拝命、初めて築城に携わる
★ 秀吉の朝鮮出兵の拠点としての、肥前・名護屋城の築城責任者となる
★ 江戸城修復工事の清正の石垣だけは大雨で崩れなかった話は有名です
★ 名古屋城天守台の建設と総責任者を務めている
★ 朝鮮の役で習得した築城技法や今までの経験を注いで完成させたのが居城・天下の名城「熊本城」(350年後の西南戦争時の近代兵器を持つ薩摩軍の猛攻をも凌ぐ)です

「清正流」と呼ばれる、下方は緩やかで上部につれて急になる石垣の築き方は特に優れている。「清正の石垣」は、現在も各地に残っています。

肥前・名護屋城

肥後・熊本城

尾張・名古屋城

武蔵・江戸城

韓国・西生浦城
[ソセンポ・ソン]

慶尚南道蔚山広域市

黒田如水
1546年
(天文15)

1604年
(慶長 9)
通称「官兵衛」・最初は孝高(よしたか)、洗礼名 ドン・シメオンを持つキリシタン大名で播磨・姫路の生まれ。竹中半兵衛亡き後秀吉を補佐した戦国時代の代表的な軍師であり、茶人・築城家である。信長の重臣・荒木村重の謀反時に使者として派遣されたが摂津・有岡城内の牢獄に幽閉され、約一年後に救出されたがこれが元で終生足が不自由に。後に豊前・中津12万石の国主となり、黒田長政(筑前52万石国主)は嫡子。

★ 秀吉より豊前・中津国を与えられ、中津川が分流する三角州に中津城を築城。
★ 家督を長政に譲り隠居した後、長政が関が原後、筑前に加増されると、博多湾の近くに福岡城を築城開始(1601年・慶長6)する。完成は如水の死後の慶長12年であるが、その縄張りの大きさを加藤清正が絶賛したと言う。

福岡城は内城と外城に別れ、内城だけでも8万坪の面積が有り、城の規模としては九州一ですが、如水は黒田家安泰の為に天守閣を築かせなかった。

豊前・中津城
筑前・福岡城
肥前・名護屋城
讃岐・高松城
安芸・広島城
播磨・姫路城
摂津・大坂城
藤堂高虎
1556年
(弘冶 2)

1630年
(寛永 7)

主な築城ブレーン
渡辺勘兵衛

浅井氏に始まり、織田信澄(信長の弟、信行の子)・羽柴秀長(秀吉の異父弟)・豊臣秀吉から最後、徳川家外様筆頭となるまで十度も主家を変え、先見の明・処世術に優れ、いち早く権力者に取り入り戦国の荒波を生き抜いた武将であり名築城家。伊勢・津32万3千石余の城主となる。

★ 一生の間に17もの多くの城を築く。それらが名城と言われている
★ 秀忠(徳川2代将軍)に京都・二条城築城の縄張りを命じられた時の、2枚差し出した内の精巧な図面を秀忠が選ぶと、「将軍家が縄張りされた」と、“ヨイショ”した話は有名である。

豊臣家包囲網の一城として大改修された伊賀・上野城の日本一の高石垣は見事であり、高虎は、平事には津城を、有事には上野城を居城にと考えて築城した未完の堅城です。

紀伊・赤木城
紀伊・猿岡山城

紀伊・和歌山城
伊予・大洲城
伊予・宇和島城
伊予・今治城
山城・二条城
山城・伏見城
近江・膳所城
丹波・亀山城
丹波・篠山城
伊勢・津 城
伊賀・上野城
武蔵・江戸城
(日光・東照宮)
大田道灌
1432年
(永亨 4)

1486年
(文明16)
幼少の頃から学問に励み、11歳にして「五三無双の学者」と言われた。古河公方と主君・扇谷上杉氏が戦った「亨徳の乱」(1454年)では、30を超える戦を戦い抜き武名を馳せる。この強さの秘訣は彼の編み出した“足軽隊の集団戦術の確立”であった。

★ 「亨徳の乱」後の山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立年代に、河越城・岩槻城・江戸城などを築き築城家としての名声を得る

山内上杉氏に謀られた上杉定正(扇谷上杉)により、相模伊勢原糟屋館で暗殺される。

武蔵・江戸城
武蔵・川越城
武蔵・岩槻城
武蔵・鉢形城
山本勘助
1493年
(明応 2)

1561年
(永禄 4)

生年は1500年説もあり

出生地は駿河、三河、讃岐と諸説あり。入道して道鬼斎と称す。武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
12歳の時、三河牛久保の牧野家家老・大林勘左衛門の養子となる。
20歳の頃、故あって養家を辞し、諸国修行の旅に出る。
51歳時、武田家重臣・板垣信方の推挙を受け信玄に仕え、一説には知行300貫文(当時の石高にして三千石)の破格の待遇であった。

★ 諸国を遍歴した勘助は兵法家と交わり、城取り、陣取りの軍略、軍配術を習得した。しかし、隻眼、色黒の容貌に短躯、破足の姿が仕官を拒まれ、嘲けりを受けた。
 闇を背負った異形の男の力量を即座に見抜いた信玄との邂逅が、戦国最強と畏怖される武田軍団 を形成し、双方それぞれの夢を託した「風林火山」の旌旗が野望渦巻く戦国の世に高々と翻った。

第4回川中島の戦いにおいて、自らが考案した「啄木鳥の戦略」を上杉謙信に見破られ、信玄本陣の楯となるべく、敵中に躯け入り討死する。

信濃・高遠城

信濃・深志城(松本城)

信濃・小諸城

信濃・海津城(松代城)

馬場信春
1514年
(永正11)

1575年
(天正 3)
武田家の譜代家老衆で「四臣」の一人。民部少輔、美濃守。教来石(きょうらいし)氏の出自
後に武田一族の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となる。
合戦において一度も負傷せず、世に「不死身の鬼美濃」と称された。
武勇だけではなく、一国の太守になれる器量人と評されるほど文武に秀でており、信虎・信玄・勝頼の武田氏3代に仕える。

★ 河岸段丘などの台地の突端に主郭を置き、それを取り囲むように横堀を巡らせ、さらに虎口に三日月堀と丸馬出を設けるなどの特徴を持つ武田流軍学。その武田家中一の名築城家と称される
★ 甲陽軍鑑には山本勘助から築城術を教授されたとある。

長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、殿軍を務めて大敗を喫した勝頼を無事に退却させると、自身は反転して織田軍に突撃して戦死した。

駿河・田中城

駿河・江尻城

遠江・小山城

遠江・諏訪原城

三河・古宮城

荒木村重
1535年
(天文 4)

1586年
(天正14)
初め、池田勝正、後に織田信長に仕え、有岡城(伊丹城)を居城とする。信長に謀反して、使者の黒田如水を投獄したりして篭城、兵量は尽き、毛利氏に援軍を求めるとして脱出。その後、城は陥落、一族郎党は皆殺しにされた。

★ 河岸段丘の地に築かれた有岡城は、信長によって築かれた(1578年[天正4])安土城の石垣よりも古い石垣が発掘調査で解った。鉄砲が戦に用いられるようになった天正3年以前より石垣を築いていたことになる。また、当時の城は軍事上必要な物だけが作られていたが、庭園を設けて風雅を楽しんでいたことも遺構から解る。

毛利氏に亡命後、出家し、晩年は茶人としても名を成し(利休七哲の一人)、豊臣秀吉のお伽衆として仕えた

摂津・有岡城
小堀遠州
1579年
(天正 7)

1647年
(寛永24)
元、豊臣秀長(秀吉の異父弟)の家臣で、後に、徳川幕府に仕え、作事奉行などの行政官として活躍。

★ 1606年(慶長11)徳川幕府の作事奉行となる。
★ 1608年(慶長13)駿府城作事奉行を拝命して、遠江守に任ぜられる。(遠州は遠江守のニックネームです)
★元和年間には、伏見城本丸や大坂城外曲輪修築工事を
★ 寛永年間には二条城御殿の作事奉行として活躍。また、徳川家光(3代将軍)より江戸城西の丸庭園工事を拝命。
★ 水口城は将軍上洛時の宿舎用として遠州が築城。

本名・小堀政一(まさかず)。造園家として有名であり、また、三大茶人の一人として名高く、茶道・遠州流の始祖でもある。

近江・水口城

備中・松山城

蒲生氏郷
1556年
(弘冶 2)

1595年
(文禄 4)
織田家〜豊臣家に仕えた、数少ない知勇兼備歴戦の名武将。平時は和歌や茶の湯をこよなく愛した文化人であり、合戦ともなれば常に先頭に立ち突撃する猛将であった。

★ 1584年(天正12)、日野6万石から伊勢・松ケ島城に移封された時、交通が不便な為新しく築城したのが松坂城です
★ 秀吉の九州征伐や小田原攻めの軍功により42万石、また、伊達政宗や徳川家康への牽制役として加増92万石の会津若松城を大修築。

期待された人物であったが、京で40歳の若さで謎の急死。家康嫌いで有名。切支丹大名として知られ、茶道では「利休七哲」の筆頭格。

伊勢・松坂城

会津・若松城

松永久秀
1510年
(永正 7)

1577年
(天正 5)
戦国時代屈指の謀略家である。初め、三好家に仕えるが主の三好長慶から実権を奪い。時の将軍・足利義輝を二条御所に攻め殺害。さらに戦で奈良大仏殿を焼く。後に織田信長に臣従するが、再三背き、ついに信貴山城にて名器“平蜘蛛茶釜”とともに爆死、波乱万丈の生涯を閉じる。

★ 1559年(永禄2)大和方面の軍事を任され再興して居城としたのが信貴山城で、翌年には、我が国最初の天守を造営
★ 1560年(永禄3)、大和北部・佐保丘陵の東南隅に櫓の一方を横に長くとって長屋形式の櫓とする城を築き居城としたのが多聞山城。

後に、信長は信貴山城を真似て大型化した城を築城。また、後の多聞櫓の原型となったのが多聞山城で、後世の築城に大きな影響を与えた名築城家であり、茶人・教養人でもあります。

大和・信貴山城

大和・多聞山城

丹羽長重
1571年
(元亀 2)

1637年
(寛永14)
安土城を手掛けた織田信長の重臣(家老)・丹羽長秀の嫡子。度重なる家臣の軍律違反により父の遺領(若狭・越前・加賀半国)を失い、関が原では西軍に属し失領するが、常陸・古渡から大坂の陣で戦功を上げ磐城・棚倉5万石に、更に磐城・白河10万石の主に。 外様ながら築城術に長けていて幕府より重用され、棚倉・白河小峰・二本松と普請を命じられ、完成すると転封という処遇を受けている。

★ 徳川幕府2代将軍秀忠の命により、1625年(寛永2)に磐城・棚倉に新城(平城)を築城開始。次の役割を帯びて1627年に磐城・白河へ移封。
★ 1628年(寛永5)、外様大名の多い奥羽の地の抑えとして重要な拠点である磐城・白河小峰城を大改築し、城下町を整備。

磐城・白河小峰より二本松に移された長重嫡子・丹羽光重が山城を廃し、1643年(寛永20)山麓に近世城郭としての
岩代・二本松城を築き、12代続いて幕末を迎えている。

磐城・棚倉城

磐城・白河小峰城

高山右近
1552年
(天文21)

1615年
(慶長20)
松永久秀の家臣で大和沢城主・高山飛騨守友照の子、12歳時、父とともに洗礼、受洗名ジュスト。
1573年(元亀4)、主筋の和田惟長を放逐して摂津高槻城主となる。その後、織田信長・豊臣秀吉に臣従。
1585年(天正13)、秀吉の命により、海の関所、播磨明石・船上城 に転封。天正15年の秀吉のバテレン追放令に改宗せず領地を失い、小西行長の庇護を受け、一年余り、瀬戸内・九州を流浪する。
1588年(天正16)、加賀前田家の客将となり、26年間、利家・利長の2代に渡り重鎮として仕える。
1613年(慶長18)、徳川幕府のキリシタン禁教令により国外追放。マニラ上陸後、40日余りで病没、享年63歳。

★ それまで砦程度だった高槻城、転封後の船上城などを大修築
★ 1592(文禄元)、金沢城二の丸・北の丸の新造及び1599年末(慶長4)の、対徳川戦を想定しての金沢城の内惣構え工事
★ 1609年(慶長14)、前田利長の隠居城としての、越中高岡城の新城縄張り・工事指揮

キリシタン大名として高名で、布教活動の中心人物であるとともに、山崎の合戦での先鋒役・九州平定の前衛指揮官など勇猛果敢な武将であり、また、利休七哲の一人など、3つの顔を持つ「忠誠と正直の権化」なる人物。
高槻・船上・金沢城は、存在していた城を修築したものであり、また後世、大規模な改造も行われているため、右近の築城コンセプトは不明だが、南蛮渡来の技術・工法・知識を駆使したことであろう・・・。平城の設計を得意としている。

摂津・高槻城

播磨・船上城

加賀・金沢城

越中・高岡城

加藤嘉明
1563年
(永禄6)

1631年
(寛永8)

主な築城ブレーン
足立重信

嘉明の父・教明は、三河の徳川(当時は松平)家に仕えていたが、三河一向一揆と家康との戦いで一揆側に味方し、戦後浪人して隣国尾張に身を寄せ、出世の道を歩んでいた豊臣(当時は木下)秀吉に仕えた。
嘉明が歴史にその名を顕すのは、天正11(1583)年の“賤ヶ岳の戦い”で、「賤ヶ岳七本槍」の一人として秀吉より三千石を賜る。
のちに、淡路志知1万五千石、伊予松前6万石(のちに10万石)の城主として淡路水軍を統率、秀吉による四国征伐・九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵などに水軍として出陣する。
東軍として参陣した“関が原の戦い”の戦功により、家康から伊予半国20万石に加増され、松山城の創設者となる。
65歳時、会津40万石に増転封、城の改修と領内整備を進める。大大名に出世した嘉明は、4年後、江戸にて病没した。

★ 武勲を重ねた豊臣水軍としての海城・松前城の大修築を行う
★ 26年の歳月を費やし、複雑且つ巧みな防衛構想の堅固にして壮麗な天下の名城「松山城」を完成させる。

茶道も愛した堅実無比、海で戦っても陸で戦っても強い水陸両用の勇将・嘉明が精魂込めて創りあげた、平山城の傑作松山城は必見です。

嘉明の没後、跡を継いだ明成は、地震で傾いた天守閣を五層に改築、北および西の出丸の増築、追手口の変更などの改修を加え、今に見られる堅牢優美な鶴ヶ城とした。
(明成は重臣との対立騒動から会津領返上となるが、徳川幕府は嘉明の永年に渡る功績から、明成の子・明友に石見吉永に領地を与え、秀吉子飼えの嘉明を藩祖とする加藤家は、のち近江水口〜下野壬生〜近江水口2.5万石と、譜代格として幕末まで命脈を保つのである)

伊予・松前城

伊予・松山城

岩代・会津若松城

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堀尾吉晴
1544年
(天文13)

1611年
(慶長16)

尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町)の土豪である堀尾泰晴の長男として生まれた。父は岩倉織田氏の重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とは同輩である。幼名は仁王丸。通称は小太郎・茂助など。官位は従四位下、帯刀先生
岩倉織田氏が滅亡したため浪人となり、その後、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に従って各地を転戦する。 備中高松城攻めでは、敵将清水宗治の検死役を務め、山崎の戦いでは天王山占拠に繋がる武功を挙げ、天正12(1584)年には若狭国高浜に2万石に加増された。
田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山に4万石を与えられる。小田原の役では山中城攻めに従軍して活躍するが、ともに出陣した嫡子・金助が戦死している。これらの戦功を賞され、遠江国浜松に12万石を得る。
秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。
秀吉死後は徳川家康に接近し、老齢を理由に慶長4(1599)年、家督を次男の忠氏に譲って隠居したが、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、忠氏が参戦した。戦後、家康から出雲富田24万石に加増移封された。

★ 治政に不向きな山城の月山冨田城から、亀田山に精魂込めて築城したのが、宍道湖へと羽を広げた千鳥の名城「松江城」である

温厚で人望厚く、優しそうなその容貌から『仏の茂助』と称されたが、戦場での鬼神の如き武勇ぶりに、秀吉から「仏の茂助ではなく、鬼の茂助というべし」と称賛されたという。
関が原の本戦直前、吉晴は家康の密命により、近江・北国の情勢を探るべく越前府中に戻る途中、三河(愛知県)の池鯉鮒で刈谷城主の水野忠重(家康生母の於大の弟/勝成の父)と親交を深めた。ところが、その場に同席した加賀井秀望が突然、忠重を斬殺した。驚いた吉晴は加賀井を斬り倒したが、水野の家臣は吉晴が二人を殺害したと勘違いし、斬り込んできた。吉晴は全身に十七ヵ所の傷を負いながらも窮地を脱し、後日、吉晴の冤罪は晴れた。
忠氏が早世し、孫の忠晴が家督を継ぐが、幼年のため、その後見役を務め、伯耆国米子の中村家の御家騒動において、中村一忠の応援要請を受け、他家でありながらも出兵して騒動を鎮圧している。

出雲・松江城
丹波・黒井城
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真田昌幸
1547年
(天文16)

1611年
(慶長16)

信濃の小豪族から身を起こし、天下にその名を轟かせた真田一族。その真田氏・六連銭の祖・真田幸隆の三男に生まれる。
秀吉から「表裏比興の者」と評された戦国屈指の策謀家。初め武田信玄の近従でいたが2人の兄(信綱・昌輝)が“長篠・設楽が原の戦い”で討死したため、真田当主の座に就く。武田氏滅亡後は、織田・北条・徳川・豊臣氏とめまぐるしく臣従しつつ乱世を泳ぎ抜き、独立城主として自立。
“関が原の合戦”では、次子幸村とともに西軍につき、上田城に篭る。中山道を西上する別働隊徳川秀忠軍は、降参すると見せかけて時を稼ぐ昌幸にたぶらかされ数日を空費された挙句、兵の損害を受け大混乱に陥り、9月15日の関が原の本戦に遅参する憂き目に遭った。敗戦後は高野山麓(和歌山県九度山町)に流され、その地で病没する。

★ 武田勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の作事奉行を務める。
★ 武田家滅亡後、独立領主となった昌幸は上田城を築いて本拠とする。

上田城に拠って、徳川の大軍を二度にわたり撃退した奮戦はあまりにも有名で、「徳川家の斑猫(はんみょう=毒虫)だ」と言わしめた。

信濃・上田城

甲斐・新府城

護佐丸盛春


1458年
(長禄2)
「毛国鼎(もうこくてい)」の唐名をもつ。 琉球が三山(北山・中山・南山)分立から統一に向かった頃の有力な智将であり、琉球きっての名築城家である。

山田グスクの城主であった護佐丸は、中山の尚巴志による北山討伐には読谷山按司として参陣し、北山滅亡の後、初代北山監守として在城した。
琉球王国の統一後、山田グスク西方4.5キロの丘に戦略的な新城・座喜味城を築いて居城とする。
琉球王国統一初期、首里王府の王権は沖縄全土に確立されていたわけでなく、勢力を強め脅威を感じた勝連城主・阿麻和利を牽制するため王府の命により中城城に移る。

★ 座喜味城の築城にあたっては、遠く奄美諸島の人々まで工事人夫として徴用し、山田グスクより手渡しで積石を持ち運んだという。
★ 中城城に移り、グスクの強化を図り、阿麻和利の居城・勝連に面する北東側に三の曲輪と北の曲輪を増築する。

勝連の阿麻和利に対峙していた忠臣護佐丸は、阿麻和利の策謀に乗せられた阿麻和利を総大将とする王府軍の前に、中城城の門を開き、夫人・子もろとも自害した。

琉球・山田城

琉球・座喜味城

琉球・中城城

築城家
主 な 経 歴 代表的な城郭

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素材提供 「さひたふ藩」 さま

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