| 東遊園地内のモニュメント | ||||
| マリーナ像 (地図@) | ||||
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東遊園地の北側(市役所側)の入り口すぐのところに、阪神・淡路大震災発生当時の時刻のまま停まってしまった時計を抱える『マリーナ像』があります。 |
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| 1.17 希望の灯り (地図A) | ||||
| 「1・17希望の灯り」は、震災から5年目にあたる2000年1月17日に震災で失われた命と、培われた人と人とのつながりを語り継ぐために作られた。 被災10市10町と全国から寄せられた種火を一つにしたガス灯で、昼夜を問わず点灯されている。ガス灯はガラスケースで覆われ、台座にはモニュメントの理念を綴った碑文(右の画像)が記されている。 毎年1月17日には分灯され、市民ランナーなどの手によって全国に届けられている。 |
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| COSMIC ELEMENTS (慰霊と復興のモニュメント) (地図B) | ||||
| 「1・17希望の灯り」のすぐ東にレンガ造り風の「阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」である「COSMIC ELEMENTS」の建物がある。 2001年4月21日に完成し、皇太子ご夫妻も出席され、除幕されたものである。 地下室には、神戸市内外の六千余名の震災犠牲者の名前が掲示されている。 通路には、このモニュメントを建設するために寄付された多くの人々の名が掲示されている。 |
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| 加納 宗七 記念碑 (地図C) | ||||
| 銅板の解説文 加納町の由来
居留地の東端、現在のフラワーロードを流れていた旧生田川は、豪雨のたびに氾らんし、居留地の外国人から苦情が絶えませんでした.そこで明治四年(西暦一八七一年)六月、生田川付替工事が行われ、誕生したのが現在の生田川です。 今度のフラワーロード整備では、小川の流れを取入れ、旧生田川をしのぶことができます。 加納宗七は、紀州の酒造り、廻船業の家に生まれ、神戸で材木・廻漕を開業していましたが、この生田川付替工事を中心となって請負うとともに、跡地である旧生田川敷も整地して新しい町づくりを進めました。神戸の中心地に「加納町」 の名が残っているのは、その業績を讃えたものです。 なお、同郷の先輩、陸奥宗光と親交がありこのモニュメントに刻まれている加納宗七字も宗七宛の陸奥の手紙机が原典です。また、小川の流れの橋詰に建っている加納橋と彫られた石づくりの欄干は、架橋位置は不詳ですが、風雪に風化した石の表に歳月の流れを感じさせます。 このモニュメントの建立にあたって、加納氏の遺族始め、多くの方がたの協賛 を得たことを付記します。 昭和56年3月
神戸市 |
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| 日本近代洋服発祥の地顕彰彫刻 (地図D) | ||||
| 日本近代洋服発祥の地の【説明版】 顕彰彫刻建立の趣意
明治2年(1869)英国人ガベル氏(通称)が元居留地(現神戸市役所東遊園地附近)一六番館に洋服店を開業したのが神戸に於ける洋服商の嚆矢であります。ついで三〇番館に英国人スキップ氏と其の附近に中国人其昌号氏とが開店し、日本人では泉小十郎氏が創業し、続いて明治5年(1872)西田正太郎氏が開業しました。 明治政府はこの年大政官発令第二七三号を以て「爾今礼装は洋服を着用する事」と布告しました。爾来一〇〇年神戸における先輩業者の刻苦精励は、遂に神戸洋服と云う固有名詞を作り上げ、其の輝しい名声は全国に喧伝されて今日に至って居ります。 此所に神戸洋服商工業協同組合は業界の総意に依って大政官発令一〇〇年に当る昭和47年(1972)を記念しファッション都市神戸の宣言を背景に、栄光ある先覚者への敬慕と、業者一層の精進研鑚とをこの彫刻に託して後世に伝えんとするものであります。 昭和49年(1974)10月吉日
神戸洋服商工業協同組合理事長 渡邊利雄 顕彰彫刻建立委員会名誉会長 竹馬準之助 顕彰彫刻建立委員会会長 柴田高明 |
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| A・C・シムの記念碑 (地図E) | ||||
| A・C・シム記念碑の解説 A・C・シムは、スコットランド人化学者であり薬剤師。K・R・A・C(神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部)の創設者。今は、懐かしい"ラム ネ"の発明者としても知られている。 1870年来日から1900年に死去するまで神戸の青少年のスポーツ振興 だけでなく居留地共同社会のために大いに貢献した。義勇消防隊の編成及びその隊長を永年に渡って勤めた。 その他道路の建設・改修など公共事業の指揮・監督の任に当たり、全力を尽くした。また、1891年の岐阜大地震など各地の災害を聞くと自ら有志をつのり、外国人社会からの救援物資を現地に運んだ。 彼は、1899年、居留地返還に際しては、その返還証書の署名者でもあった。1900年死去。再度公園外人墓地に永眠している。この記念碑は、彼の死後、神戸はじめ横浜・長崎の友人たちが、シムの奉仕的精神に富んだ社会奉仕を記念して、現在の東遊園地の南一隅(旧K・R・A・Cクラブハウス前) に建立したものである。 1981年 神戸市 |
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| モラエス翁胸像 (地図F) | ||||
| モラエスの解説文 ウェンセスラオ・デ・モラエス(1854〜1929)はポルトガルの元軍人、文豪である。明治22年(1889)35歳のとき、私用で初めて神戸の地を踏んだ。その後、二度日本を訪れ日本の美しさに心をひかれた。海軍中佐になってから日本移住を決心し、本国からの帰国命令に反して、明治31年から神戸に住むようになった。 同年11月、友人のすすめで大阪、神戸のポルトガル領事館につとめ、のちに副領事となる。明治33年(1900)11月、福本ヨネと結婚し、山本通2丁目、加納町2丁目などに住んで、日本風の生活を身につけた。 大正元年(1912)8月ヨネが死に、彼女のことを忘れ得ず、公職(神戸総領事兼イタリア領事)を退いて大正2年、ヨネのふるさと徳島に移り住んだ。その後、ヨネの姪コハルと結婚したが、コハルにも先立たれ、徳島市伊賀町で、独居生活をつづける。75才のとき土間から落ちて重傷を負い逝去した。 著書には「極東遊記」「日本夜話」「日本支那風物誌」「日本精神」「おヨネとコハル」など二十数編がある。 |
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| ボウリング発祥の地 (地図G) | ||||
| 日本で最古のボウリングの記述として現存するものは、長崎・出島の外国人居留地で発行されていた英字新聞「ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー」に掲載された小さな広告記事である。 ボウリングレーン付きの社交サロンが、新装開店するというものだった。 その後、1864年5月7日に横浜にボウリングサロンが開店し、1869年4月20日には、神戸にボウリングレーン付きの外国人社交クラブが誕生した。 |
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| おまけ(笑) ルミナリエ会場 | ||||
| 神戸ルミナリエはイタリアのアートディレクター、ヴァレリオ・フェスティ氏と神戸在住の作品プロデューサー、今岡寛和氏とによる光の彫刻作品です。 神戸ルミナリエは、阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂と街の復興・再生への夢と希望を託して、大震災が発生した1995年12月に初めて開催され、神戸の街と市民に大きな感動と勇気、希望を与えてくれました。 市民や各界から開催継続を望む強い声が寄せられたことから都市と市民の希望を象徴する神戸の冬の風物詩としての定着を目指すことになりました。 |
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