番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

朔月記 番外編

甘き咎に溺れて

written by 相馬 周
「遅い」
唸り声を微かに出してから、謝罪を述べる相手へと、深呼吸を一つ。
「……早く、帰ってきて。あんまり遅いと、先に寝ちゃうよ?」
甘えた響きのその言葉に息を呑んでから、穏やかな声で彼は応じる。

「……ずっと、待ってるから」
心得たような柔らかな応えに、彼女は緩く綻ぶ口元を覆って、天井を見上げた。
少しでも早く、少しでも長く。今日が今日である間に。









照り返す日差しが、無機物で構成された場所で眩暈を呼び起こした。
きつく目を閉じれば感じるのは、線香の匂いと、花の香り。
入り混じって溶け合って、鼻孔をくすぐる。
少女は、目の前の光景を黙って見詰めていた。

何処か深い闇を持って捉えるのは、黒いスーツを着込んでしゃがむ青年の背中。
女性とするには広く、男性にしては狭い背は、無駄のない動きで、必要な作業をこなす。
振り返り、穏やかだが何処か憂いを帯びた笑みを浮かべて、彼は彼女に前を譲った。

開けた視界に映るのは、自分の名字が彫られた長方形の石。足元に眠るのは、自分の縁者。
墓石の脇に比較的新しく彫られた名は、年の離れた兄のもの。
なぞる日付は今日と同じ。7月10日は、少女の兄の命日だった。





黒いスーツより雄弁に理由を語るのは、白いワイシャツと黒いネクタイ。
亡き人を想うには十分すぎる服装で、彼は制服姿の少女の半歩前を歩く。
「帰り、どうしましょうか。また電車で構いませんか?」
普段なら車を運転する彼がそう提案するのに、少女は一つ頷きを返す。
彼と彼の悪友は、バイク事故で亡くなった友人の命日には運転をしなくなった。

たったそれだけの事に哀愁を感じ、たったそれだけの事が重荷になる。
その理由を思い返して、彼女は緩く唇を噛み締めた。
顔を上げた時、ふと色鮮やかなウィンドウに視線が行く。
幾つものぬいぐるみの中で、一際目を引くのは中央の巨体。
可愛らしい茶色の毛並みを持つ熊のぬいぐるみは、大きな黒い瞳で少女を見返した。
長い毛並みが、茶色い毛が、少し似ていただけかもしれない。


「……ぬいぐるみは、好きですか?」
柔らかく降りて来た声に頷いて、彼女は微笑んで彼を見返す。
「余り、今まで縁はなかったんですが……可愛いですよね」
「良いですよ、買いましょう」
「いえ、高価ですし……」
あっさりと隣で吐き出された台詞に断りの言葉を口にしてからそれを理解し、次いで彼女にとっての意味を思い出して、何より正直に身体は強張る。

「……では、誕生日プレゼントという事で。明日で貴女が僕の家に来てから一年ですから、その記念でも良いですね」
目を見開いて固まる少女の前で、彼は瞬くと緩く首を傾げる。
青年にしては珍しく、少し困った表情で問いを口にした。

「……女性に対して礼儀がなっていませんでしたね。今更になりますが、お誕生日をお伺いしても?」
「私の、誕生日……ですか?」
慣れが、怠慢が、なかったとは言い切れない。
見上げてくる瞳が、一瞬陰りを帯びたのに、返された声が僅かに掠れていたのに、彼は気付けなかった。


「ええ。お聞きしていませんでしたよね」
穏やかに尋ねてくる彼の意図は、善意であるという事は分かり切っていた。しかし、だからこその迷い。
蠢く感情は、囁く声は、正直に求める。彼と出会ってから、常に与えられるべきであった断罪を。

「……私の、誕生日、は……」
欲しかったのは、どこまでも優しい彼からの罵倒だろうか。
自分には相応しくない、穏やかな日常の崩壊だろうか。


「7月…………10日……です」
「……っ……!」
その意味に気付かない程、彼は愚鈍ではなかった。
取り繕う事を忘れた顔は、あっさりと驚愕と予想される過去に歪んで。


「言ったんです、私」
顔を見上げる勇気はなくて、視線は青年の胸元を彷徨う。
「早く帰って来てって。そうしないと、もう寝ちゃうから……って」
彼女はそう呟いて、無理矢理に笑みを浮かべる。しかし、それは酷く歪んで、ただ虚しさを煽るのみ。

「私が、今日生まれなければ、私が、あの時電話をしなければ……兄は死なずに済んだのに」
そう自嘲気味に呟いた声は、微かに震える。
胸で、耳で、どくりと脈打つ鼓動は、緊張と後悔とを訴え掛けたけれど、真実を口にしないままで彼と生活を続ける事で軋んでいた心の痛みよりは、余程ましに思えた。


彼女が口にした言葉を吟味するのと同時に、彼は自分が何をすべきか考え始めた。
結論は、酷く簡単。しかし、繰り返しではないそれを行動として起こすのに、躊躇いがざらりと心の底を這う。
けれど、目線を上げた先で、少女は確かに苦渋の色をこれ以上ない程に浮かべていたから。
気取られぬように深呼吸をして、震える指先を拳の中に強く握り込んだ。


ゆっくりと手を開き、俯く彼女の手を優しく握ると、静かに引いて青年は店内に入る。
揺れる心を抑え込む為に、殊更冷静に言葉を手繰って。
目的を果たすと、彼は再び彼女の手を引き歩き出す。
すれ違う人が皆一瞬目を見開くのも、囁き合うのも、振り返るのも、全て視界に写る情報でしかない。
日差しに応えるように草木の茂る公園へ赴くと、木陰のベンチへと彼女を導いた。

握っていた手をそっと離すと、柔らかい動作で肩に手を乗せて少女をベンチに座らせる。
彼は首にリボンを結ばれた大きな茶色の熊を、彼女の目の前に差し出した。
膝を折って、座っている彼女と目の高さを同じにする。
向き合う事に、勇気は要らなかった。


「18回分の、おめでとうを。僕は、貴女に会った事を後悔していません」
そう言い切る為の強さを、彼はずっと欲し続けていた。
きっぱりとそれを口にした瞬間、何かが崩れ、同時に何かが動き始める。
「例え、貴女が自分のせいで兄が死んだと思っていても、それで僕は友人を失ったのだとしても、構いません」
一言一言を噛み締めるように、自分にも言い聞かせるように、言葉を重ねていく。
苦しみに歪む少女の顔を見詰め、しかし止めようとは考えずに、彼は口を開く。

「栞、隼人が亡くなったのは貴女のせいではありません。隼人のせいでも……ありません」
もっとも、と彼は少し呆れと懐かしさを混じらせた声を発する。
穏やかな微笑みは、僅かに苦みを併せ持って。
「……雨の日にカーブで転ぶなんて、何処までも隼人らしいですけど」
「じゃあっ……」

「事故だったんです。偶然が重なっただけなんです。そして、それはもう…」
躊躇いを全く感じない自分は、きっと既に壊れているだけ。
そして、壊れ掛けている彼女を直したいのか、壊し尽くしたいのかは分からなかった。
「取り戻せは、しないんですよ」
静かな宣告に、びくりと肩を震わせて、少女はぬいぐるみ越しにスカートを掴む。

「……幾ら悔いても、呪っても、足りないんです。兄を殺したのは…」
「……僕も、まだ僕を許せません。未だに、過去を悔い続けています。栞に、何かを言う資格なんて……ありませんね」
苦笑してみせてから、ですが、と落とす声は自らを嘲る響きで。
「それはいけない事だと、何処かで解っているんです……彼女の為にも、良くはないのだと」
目を伏せて、それから栞を見詰め、彼は静かな声で言い切る。


「僕らのすべき事は、事実を認める事だ、と友人は言っていました」
「……事実……?」
戸惑いの滲む声に、頷きを返して記憶を辿り始める。
「ええ。個人的な感情は置いておいて、事実だけを認める事」
「……難しい、です」
俯いて小さく呟かれた否定的な言葉に、しかし彼は安堵の色を浮かべて笑んだ。

「良かった……無理だ、とは言いませんでしたね」
認める為に首肯するのが酷く困難に思えて、彼女は無理矢理唾を飲み込んだ。
押し出す声は、あくまで平静を装い続けて。
「……はい」

「僕は、友人を失いました。それは、事実です。隼人は、もう戻って来ない……」
静かに口にされた彼の言葉をなぞらなければ、事実も、過去でさえも直視出来なかった。
「……私は、大事な人を失いました。兄はもう……お兄ちゃんは、もう、二度と……帰って来ない」
その言葉に静かな眼差しで頷いて、静かに口を開く青年。


「僕は、貴女になにも禁じません。そんな権利は、僕には……いいえ、貴女以外の誰にもありません」
穏やかに告げられた言葉の真意に、少女の瞳は戸惑いに揺れた。
「笑うなとも、怒るなとも、喋るなとも、感じるなとも、言いません。それは僕のするべき事ではありません」
何をしても良い、と、好きにするように、と、言い続けた自分を悔いる事はない。
彼女を引き取る事を含め、全てを選んだのは自分だったから。

「貴女は、笑っても、怒っても、喋っても、感じても良いんです。全ては、貴女のなさりたいように」
でも、と呟きを落として彼は微笑む。少し寂しげな色を浮かべて。
「自ら死を選ぶ事だけは、僕は黙ってみている事はしません。それだけは、止めます。絶対に」

言い切る事の出来る彼の強さが眩しくて、彼に目の当たりにさせられた自分の弱さが後ろめたくて、少女は俯いた。
或いは、自分が死を選べば、彼は怒るのだろうか。
それとも、悲しげな顔で、ただ静かに、名を呼ぶのだろうか。
試せはしない事に思いを馳せて、そんな自分を微かに哂う事しか、栞には出来なかった。



俯いたままの少女へと、彼はそっと声を掛ける。
共に暮らした間に何度も繰り返したのと変わらぬ声で、変わらぬ言葉で。
「栞、貴女は今、どう感じていますか?」
「……悲しい、です。痛い……」
衝動のままに握り込んだ拳を胸に強く押し当てれば、柔らかな膨らみの下で跳ねる音が、兄との違いを強調するように響く。
その鼓動は、自分にだけ与えられたものである気がして、少女は俯く。

揺れる眼差しに、彼は少し彼女を見詰めてから僅かにネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外すと、促すように掌を差し出した。
恐る恐る自分の掌を重ね合わせるのを柔らかく笑うと、改めて手の甲へ掌を添わせて白い首筋へと導く。
少し強く押し付けられた彼の首筋から響く振動は、右の拳から伝わるそれと同じ。
確かに刻まれていく鼓動の分だけ、自分達が彼から離れていく気がして、少女は瞠目した。
諮詢を見て取って、そっと手を離せば、ゆっくりと小さな手は柔らかな毛並みの上に行く。


「貴女は、泣いても良いんですよ」
静かな言葉に、固く口を結び彼女は首を振る。幾度も、幾度も。
「……それ、は……駄目です……」
「悲しい時に、泣いてはいけない理由なんて、何処にもありません」
か細い否定を否定する言葉は、強く彼女に働き掛ける。
「……私は、悲しんじゃいけないんです」
「どうしてですか?」

「私のせいなのに……私が悲しむのは、違います」
そう言いながら、強くぬいぐるみを抱きしめる栞。
泣く事すら自分に許しはせずに、震える身体もそのままに。
「……自分のせいだ、と。そう思うから……だから、余計に悲しいし、苦しいんじゃありませんか?」


彼に嫌われれば、彼に罵られれば、そんな自分に満足できたかもしれないのに。
それなのに、彼は何故、自分を責めてはくれないのだろう。
兄を殺してしまった、自分を。


弱々しげに小さく幾度も首を横に振った少女を見詰めて、彼は事実をなぞる為に言葉を紡ぐ。
一瞬の沈黙は、予測出来る事態に彼自身が躊躇ったから。

「……貴女が罪だと思ったのなら、それは誰がどう言おうが何をしようが、貴女の中で罪なのかもしれません」
「……はい」
「許しを乞う相手を亡くした以上、貴女の中で罪は消えないのかもしれません」
「はい」
強く首肯するのを見やって、彼は視線を落とす。

既に感覚が麻痺した己が言葉を手繰れば手繰る程、彼女の傷は増えていく一方のように思えて。
それでも止めない自分の罪深さなど、直視出来る筈もなかったけれど。
「……ですから、人の言葉は、貴女にとって意味を持たないのではないでしょうか」
「……え……」
彼は一瞬躊躇してから、ゆっくりと顔を上げ少女の瞳を見詰めた。
その言葉は、いっそ静かに響く。


「貴女の中でしか罪にならない事を、他者の言葉で罪にしてはいけません。貴女がそれを罪だと思うのなら、貴女は誰よりも貴女に罰される」
「……っ!」
強張った顔も、震える身体も、正直に事実への恐怖を伝える。
そしてその事を告げる彼への感情もまた。
変化を見届けて、そうして青年は寂しげに微笑む。
その笑みで、その声で、断罪と、慈悲とを与える。

「……そしていつか、貴女は誰よりも、貴女に許される時が来る筈です」
「……無理、です……賢一。そんな日は……来ません」
震える唇から零れ落ちた断言に、青年は表情を曇らせた。
決別と再起とを促す声は、何故か酷く弱く響く。


「栞、過去は過去なんです。誰しも、どう足掻いても、取り戻す事も、やり直す事も出来ません」
「……頭では、解っています。でも……解りたく、ないんです」
「……そうですね。よく、解ります……」
困ったような苦笑は自分へのもの。少し彷徨わせた目線はしかし、柔らかく彼女を見詰める。
彼女を通して見詰めているのは、或いは彼自身。

「大丈夫です。人は、過去と向き合える。受け入れる事も、闘う事も出来ます。貴女なりの答えをいつか出せれば、それで良いんです」
「そう……なんでしょうか」
「ええ。僕だって、後回しにしている事は山積みですよ?父との事は、せめて僕が中年になる前までには決着を付けたいんですけどね」
その言葉に何を想像したのか吹き出す少女へ、軽い笑みを零す賢一。
ふと表情に陰りを落とし、栞は自分の足元を見詰めた。


「良いんでしょうか、このままでも」
「そのままで、良いんです。死ぬ時に、後悔しなければ」
さらりと発された言葉に過ぎるのは、早過ぎる死を迎えた大事な人。
「……兄は、後悔したでしょうか」
「したかもしれませんね……妹との約束を守れなかった事、自分の信条を守りきれなかった事」
口にされた言葉の中の、予想しなかった単語に、疑問は易く落ちる。

「……信条、ですか……?」
「何があっても、兄として成人するまでは妹を護り抜く事。但し、手段は後悔しない程度に選ぶ」
兄を呼ぶ言葉は、声にはならずに、ただ目を伏せた。
一層強く抱きしめたぬいぐるみが与える温もりは、自分のものだと分かっていても。

「でも、その信条は僕が引き継ぎましたから。きちんと、護り抜きますよ。貴女を」
あっさりと告げられて、けれど少女は柔らかく微笑むに止める。
虚無と嘘とで他人を守る彼の傍に居るという選択をした以上、過度な期待と過分な望みは、抱かないと決めていたから。


「……さてと……帰りましょうか、栞」
「はい」
さり気なく伸ばされた手を握って、ぬいぐるみを抱いたまま彼女は立ち上がった。
その時彼の手に縋るのに、何の躊躇いも、何の迷いもなかった事を、後悔しないと信じていた。

ただ、互いに虚しさが増すだけだと、分かってはいたけれど。









受話器を握る手が、微かに震えているのに気付き、少し眺めてから元の場所へ戻す。
幾度も置いては取ったそれは、汗で少し濡れていた。
時計を見上げる動作も、夕方から何度繰り返したか覚えていない。
決意を固める為に、一つ頷いて、そうして彼女は今度こそしっかりと受話器を取った。

力の入らない指は、数度押しても素直にダイヤルをしてくれない。
思い切って押した直後に耳元で響き始めたコール音に反射的に電話を切り、それから自分のやってしまった事に気付き、あ、と呟きを落とす。

盛大な溜息に対して控えめに響く呼び出し音に、目を丸くしてからディスプレイを覗き込んだ。
見慣れた名前に、そわそわと視線を彷徨わせてから、深呼吸をして受話器を取る。
異変を気遣う声に、まずは謝罪を告げ、彼女は再び深呼吸を一つ。
促しをしない沈黙は、気遣いと共に何より強く背中を押して。


「早く、帰ってきて下さいね。ずっと、待ってますから」
優しい応えに綻ぶ口元をそのままに天井を見上げれば、滲む景色は何処までも優しく、あの日のまま。
本編情報
作品名 朔月記
作者名 相馬 周
掲載サイト Without you
注意事項 年齢制限なし / やや女性向き / 暴力表現あり / 連載中
紹介 父親に異母兄弟での骨肉の争いを仕掛けられた青年は、平穏だった筈の日常を崩されていく。
望まぬ争いの渦中に引き込まれて行く中で、彼はそれでも己の信じる道を貫こうと足掻き続ける。
怒りと憎しみを際限なく生みだす闘いの果てに、彼らが手にするのは、莫大な富と名誉か、或いは、何者にも侵害されぬ自由と平穏か…
救いなど何処にもないと最初から知っていても、人はなお、愚かしいまでに明日に希望を見出そうとする。
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