サンフランシスコ平和条約11条・東京裁判(極東国際軍事裁判)

 

 

「作成日」2013年04月30日―「最終更新日」2014年02月16日。

 

「さて、サンフランシスコ平和条約(講和条約ともいう)「11条」で日本語訳文では「裁判を受諾する」と訳されていることから、「東京裁判(極東国際軍事裁判)の中身や、「東京裁判」「正当性を受諾している!?」というような論争があるのは、よく知られたことですよね?」

第11条

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の“裁判を受諾”し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

「ちなみに、サンフランシスコ講和会議の席で、日本に対して懲罰的な講和条約「第十一条」がやはり問題となりました。ラファエル・デ・ラ・コリナ駐米メキシコ大使はメキシコ代表として、「我々は出来ることなら、本条項[第十一条]が連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化し続けることを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しないと、我々は信ずる。」と東京裁判を批判している。アルゼンチン代表のイポリト・ヘスス・パス駐米アルゼンチン大使も、「この文書の条文は、大体において受諾し得るものではありますが、二、三の点に関し、わが代表団がいかなる解釈をもって調印するかという点、及びこのことが議事録に記載されることを要求する旨を明確に述べたいのであります。…本条約第十一条に述べられた法廷[東京裁判]に関しては、我が国の憲法は、何人といえども正当な法律上の手続きを踏まずに処罰されない事を規定しています。」と、東京裁判を間接的に批判したのです。」 (世界がさばく東京裁判)

「英語のサンフランシスコ平和条約11条の場合は、「Judgements」と複数形になっており、「裁判」にはならずに「判決」となる。というような訳し方についても意見が分かれているのも、よく知られていると思います。まず、このへんについて意見を見てみましょう。」

最初に、サンフランシスコ条約11条の冒頭部分を掲載します。

『Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and…(日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ…)

東急エージェンシー社長だった前野徹氏の著書「新歴史の真実」に以下の記述があります。

『実は日本語で「裁判」と訳されている個所は、英語では「Judgment」です。いうまでもなく、これは「判決」であり、「裁判」ではありません。だが、どういうわけか、日本の官僚による訳文では「裁判」にすり替えられています。あたかも、裁判全てを受け入れたかのような表現になっているのです。何かの作為が働いているとしか考えられません。』

日本語の「裁判」「判決」はこの場合、ほとんど同じ意味であって、前野氏の言うように「すり替え」ではないし、特に「何かの作為が働いている」わけでもないのです。「法律用語」では、「裁判」とは裁判所や法廷の意味ではなく、「判決・命令・決定」を合わせて「裁判」と言います。このため、サンフランシスコ条約11条の「judgment」の訳語を「裁判」「判決」どちらにしても、基本的に同じ意味になります。

極東国際軍事裁判所では判決が下りました。このため、サンフランシスコ条約11条の指す「judgment」が極東国際軍事裁判所の「判決」のことであるならば、「judgment」「裁判」「判決」どちらに訳しても同じ意味になります。しかし、日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷に「判決」のほか「命令」があるならば、サンフランシスコ条約11条の「judgments」「判決」と訳すと「正確さ」を欠くことになります。このため「裁判」と訳すことが正解なのかもしれません。

最後に、広辞苑の裁判の説明を掲載します。

『〔法〕裁判所・裁判官が具体的事件につき公権に基づいて下す判断。訴訟法上は、判決・決定・命令の3種に細分。』

せめて広辞苑ぐらい調べて欲しいですね。

「と、言う、とある先生の主張なのです。「judgments」「判決」と訳すか「裁判」と訳すか、ということについてですが、「裁判」と訳したところで問題は無いと思うのです。それについての理由は追々説明していきます。「広辞苑」「裁判」を調べると…」

「広辞苑」

@「宰判」とも書く)物事を治め管理すること。また、民政を管理すること。
A正邪・曲直
不正なことと正しいことを判定すること。
B
〔法〕裁判所・裁判官が具体的事件につき公権に基づいて下す判断。訴訟法上は、判決・決定・命令の3種に細分。

「とありますが、先生は「法律用語」では、「裁判」とは裁判所や法廷の意味ではなく、「判決・命令・決定」を合わせて「裁判」といいます。」と言っていますので、「法律用語大辞典・弁護士ドットコム」で検索してみました。」

「裁判」

社会紛争の解決手段の一つであり、ある一定の権威を持つ第三者の判断に紛争当事者を従わせることにより紛争を解決させるもの。

「判断(判決)、従わせる(命令)、紛争を解決させる(決定)、なので意味は合っていますよね?ちなみに、「判決」は…」

「判決」

訴訟において、裁判所が当該事件について一定の厳重な手続を経た上で示す裁判のこと。

「判決も「裁判のこと」ですので、法律用語としては先生の言う裁判、判決どちらにしても、基本的に同じ意味になります。」は、合っているのですね。「judgments」が複数形になっている理由についても、「judgments」が、「the International Military Tribunal for the Far East(極東国際軍事裁判所)の裁判の他に、「other Allied War Crimes Courts(その他、複数の戦争犯罪法廷)の裁判を指していることは明らかです。サンフランシスコ条約11条では「judgments」は複数形になっています。複数の法廷で複数の裁判が行われたのだから、複数形になるのは当たり前のことです。judgment(裁判)sentence(刑の宣告)の意味に誤用されているわけでは有りません。』と言っていますが、複数の裁判を行うのなら、複数の刑の宣告も出ます。でも、問題はそんなことではありません。一般的に争点になっているのは、「裁判(内容や判決理由)と訳すか「判決(刑の執行の継承)と訳すか、「受諾する」とは、当時の日本が受け入れたのはどういう解釈か、ということが聞かれます。なので、それらについて調べていきましょう。先生はですね…。」

サンフランシスコ条約で日本が受諾したものは東京裁判の判決裁判かの問題で、条約の日本語文が誤訳であるとの誤った説があります。この説の震源は、国際法学者の「佐藤和男」氏ではないだろうかとの気がしたので、ちょっと確認しました。

『judgments は法律用語として使われる場合、日本語の「判決」の意味に用いられるのが普通であり「裁判」を通常意味する trial,proceedings とは区別されるべき』

となっていて、誤訳とは書いてありませんでした。佐藤氏は『裁判を通常意味するtrial,proceedings』と書いています。日本語の「日常語」「裁判」「法廷」の意味に使われることが多いと思います。法律用語では「裁判」とは「法廷」の意味ではなく、「判決・命令・決定」を合わせて言います。佐藤氏はjudgmentsの訳語は「裁判」では無いと言っているのではなく、「日常語」の裁判が意味する「法廷」ではない、と言ってるので、正確な記述です。佐藤氏は『裁判を通常意味する』と書いていますが、ここの部分を『裁判を意味する』と軽率に誤読した右翼などが、いい加減な発言を繰り返しているに過ぎないのでしょう。

「と、言っているのですよね。でも佐藤和男氏が言っているのはこれだけではないのですよね。次のように言っています。先生が言っている箇所は赤色のところです。」

日本は東京裁判史観により拘束されない――サンフランシスコ平和条約第十一条の正しい解釈

一 平和条約第十一条についての誤解

 大東亜戦争の終結直後に連合国占領軍によって強行されたいわゆる東京裁判
(極東国際軍事裁判)が、国際法に違反する政治的茶番劇であったということは、近年においてすっかり日本国民の常識として定着した観があります。しかし、その反面、あくまでも東京裁判を肯定して、その判決中に示された日本悪玉史観を奉持し続けたいと考えている人々もいることは事実のようです。そのような人々は、えてして「日本は、サンフランシスコ平和条約十一条の中で東京裁判を受諾しているから、東京裁判史観を尊重する義務がある。」と主張する傾向があるように見受けられます。最近では、政府部内にも同じような考え方で東京裁判史観に拘泥する人が若干いることが判明しています。しかし、平和条約十一条を右のように解釈することは、国際法理上、間違っています。その理由を以下に説明します。
 まず問題の十一条の規定を次に掲げます。
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」(外務省訳)
 右の十一条の全文を読めば、本条の目的が、いわゆるA級およびB・C級戦争犯罪人を裁いた連合国側の軍事法廷が日本人被告に言渡した刑の執行を、日本政府に引受けさせるとともに、赦免・減刑・仮出獄の手続を定める点にあることが、明らかに理解されましょう。
 
これらの軍事法廷では、被告とされたのは個人で、国家ではなく、はっきりいえば、日本国家は軍事裁判には直接のかかわりを持ちません。その日本国家が連合国に代わって(国内の受刑者の)「刑を執行する」責任を負うなどするためには、「受諾」という行為が必要となるのです。
 ところで、十一条の日本文では
「裁判を受諾する」となっている点が問題です。サンフランシスコ対連合国平和条約(昭和二十六年九月八日調印、翌二十七年四月二十八日発効)は、日本語のほかに、等しく正文とされる英・仏・西語で書かれていますが、アメリカのダレス国務長官が原案を起草したという歴史的事実にかんがみ、まず英文の十一条から検討してみましょう。初めの部分は次のとおりです。

 Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

 これで見ますと、日本文で
「裁判を受諾する」となっている箇所は、英文では accepts the judgments です。英語の judgments は法律用語として使われる場合、日本語の「判決」の意味に用いられるのが普通であり、「裁判」を通常意味する trial, proceedings とは区別されるべきことは、例えば権威ある法律辞典 Black's Law Dictionary の説明からも明白です。そこでは judgment は、The official and authentic decision of a court of justice upon the respective rights and claims of the parties to an action or suit therein litigated and submitted to its determination.(司法裁判所が、同法廷に提起されてその判定が求められている訴えないし訴訟の当事者の、それぞれの権利ならびに請求に関して下す、公式かつ有権的な決定)と説明されています。以上から、英語の本文では、問題の箇所は「判決を受諾する」意味であることが明瞭です。
 次に、フランス語正文で同じ箇所を見てみましょう。

 Le Japon accepte les jugements prononcés par le Tribunal Militaire International pour l'Extrême-Orient et par les autres tribunaux alliés pour la répression des crimes de guerre,au Japon et hors du Japon, et il appliquera aux ressortissants japonais incrarcérés au Japon les condamnations prononcées par lesdits tribunaux.

 ここで注目されるのは、日本が、諸軍事法廷により
「言渡された判決を受諾する」(accepte les jugements prononcés par……)と書かれていることです。フランス語では prononcer un jugement と使った場合、「判決」を下す(言渡す、宣告する)の意味であって、この場合 jugement は裁判を意味しません。
 最後に、スペイン語正文で同じ箇所を見ることにします。

 El Japón acepta las sentencias del Tribunal Militar Internacional del Extremo Oriente y de otros Tribunales Aliados de Crimenes de Guerra, tanto dentro como fuera del Japón,y ejecutará las sentencias pronunciadas por ellos contra nacionales japonesses encarcelados en el Japón.

 ここでは、日本は諸軍事法廷の
「判決」(las sentencias)を受諾し、それらの法廷により言渡された刑(las sentencias pronunciadas por ellos)を執行すべきものと書かれています。スペイン語の sentencia は、判決、または宣告された刑を意味しますが、裁判を意味する言葉ではありません。
 以上、語義論的に説明しましたが、日本が平和条約十一条において受諾したのが
「裁判」ではなく、「判決」であることが、おわかりいただけたことと思います。「裁判」「判決」とでは、条文の意味が随分変わってきます。もともと英語正文の翻訳を基礎に書かれた日本語正文で、なぜ「判決」ではなく「裁判」の語が使われたのか、その理由と背景を探ることはある意味で重要ですが、ここではこれ以上深追いしないことにします。

(世界がさばく東京裁判・監修・佐藤和男氏)

「誤訳とは書いてありませんけど、「平和条約十一条を右のように解釈することは、国際法理上、間違っています。」とか「十一条の日本文では「裁判を受諾する」となっている点が問題です。」とか「権威ある法律辞典 Black's Law Dictionary の説明からも(中略)英語の本文では、問題の箇所は「判決を受諾する」意味であることが明瞭です。」等々、言っていますね?先生の言う『佐藤氏は『裁判を通常意味するtrial,proceedings』と書いています。日本語の「日常語」で「裁判」は「法廷」の意味に使われることが多いと思います。』ですが、それ先生が思っているだけで、「裁判」「法廷」は意味が全然違いますよ?」

【裁判】

1 物事の正・不正を判定すること。「公正に―する」「宗教―」

2 裁判所が法的紛争を解決する目的で行う公権的な判断。その形式には判決・決定・命令の3種がある。「―に訴える」「―を受ける」

【法廷】

裁判の行われる場所。ふつう、裁判所またはその支部にある。

(大辞泉)

【裁判】

@「宰判」とも書く)物事を治め管理すること。また、民政を管理すること。
A正邪・曲直
不正なことと正しいことを判定すること。
B
〔法〕裁判所・裁判官が具体的事件につき公権に基づいて下す判断。訴訟法上は、判決・決定・命令の3種に細分。

【法廷】

裁判官が裁判をする所。裁判廷。

広辞苑)

「要するに、裁判は物事の判定、「判決・決定・命令」とあるように、判定するのも判断するのも、判決を下すのも決定するのも、命令するのも、人間が行うことです。つまり「言動」ですよね。法廷はそれが行われる「場所・建物」ですよ?「裁判所・建物」があっても誰も人がいなければ、「裁判・言動」は出来ません。人が誰もいなくなっても「裁判所・建物」はあります。授業が終わって先生も生徒も、みんな帰っても学校も教室もそこにあるでしょう?先生の『佐藤氏は“judgments”の訳語は「裁判」では無いと言っているのではなく』ですが、佐藤氏は「英語の本文では、問題の箇所(つまり、judgmentsは「判決を受諾する」意味であることが明瞭です。」と、「判決が明瞭」と言っています。英語でもフランス語でもスペイン語でも、日本が受諾するのは「裁判」ではなく「判決」だと言っていますよ?『「日常語」の裁判が意味する「法廷」』って、それは先生が『日本語の「日常語」で「裁判」は「法廷」の意味に使われることが多いと思います。』と、先生が思っていることが前提にあるからですよね?でも、説明した通り「裁判」「法廷」は意味が違います。しかも、何で「右翼」になるのですか?」

「さて、もう少し佐藤和男氏の言っていることを見ていきましょうか?」

二 講和条約とアムネスティ条項

 国際法においては通常、講和条約
(平和条約)の締結・発効によって、戦争が正式に終結するものとされます。つまり、講和の成立(平和条約の効力発生)によって、国際法上の戦争状態が終了するのです。日本の場合、昭和二十年九月二日に米艦ミズリー号上で連合国との間で「降伏文書」(連合国側の命名)の調印を行いましたが、この文書は「ポツダム宣言の内容を条約化」して、「日本の条件付終戦」――日本政府が“無条件降伏”したというのは大きな間違いです――を正式に実現したもので、法的には「休戦協定」の性質を持ちます。
 連合国占領軍は、日本が戦争終結の条件として受諾した事柄
(ポツダム宣言六項〜十三項に列記されています)を、日本に履行させるために、およそ七年間駐留して軍事占領行政を実施しますが、サンフランシスコ対連合国平和条約が発効する昭和二十七年四月二十八日までは、国際法的には日本と連合国の間に「戦争状態」が継続しており、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判と、B・C級戦犯裁判とは、連合国が軍事行動(戦争行為)として遂行したものであることを、よく理解する必要があります”
 日本国民の中には、大東亜戦争は昭和二十年八月十五日に終わったと思い込んでいる人が多いのですが、国際法の観点からいえばこれは間違いで、戦闘期間が終わっても軍事占領期間中は
「戦争」は継続されていたと見るのが正しく、事実、連合国側は平和条約発効の時まで、戦争行為として軍事占領を行うという意識を堅持して、連合国の目的にかなった日本変造に力を注いだのです。
 さて、ここで、アムネスティ条項
(amnesty clause)の説明に移ります。前述のごとく戦争を終了させるものは講和ですが、第一次世界大戦以前の時代にあっては、交戦諸国は講和に際して、平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」を設けるのが通例でした。これがアムネスティ条項と呼ばれるものですが、アムネスティとは「国際法上の大赦」を意味します。
 国際法では伝統的に戦争それ自体は合法的制度とされ、戦争の手段・方法を規律する交戦法規に違反した者だけが戦争犯罪人として、戦時敵に捕らえられた場合に裁判にかけられて処罰されました。戦争を計画・遂行した指導者を犯罪人
(いわゆるA級戦犯)とする国際法の規則は、厳密には今日でも存在していないと考えられています。(第二次世界大戦後、国際連合憲章の発効とともに、自衛戦争とは反対の侵攻戦争[俗訳・侵略戦争]は、明らかに違法行為とされましたが、重大な違法行為としての犯罪とは正式にはまだされておらず、このことは国際連合国際法委員会においても認められています。)
 アムネスティ条項の説明の実例として、アメリカの国際法学者C・G・フェンウィック博士が自著
『国際法』(一九三四年)の中で述べているものを要約しますと、同条項は「戦争中に一方の交戦国の側に立って違法行為をおかしたすべての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つものとされます。しかも、講和条約中に明示的規定としてアムネスティ条項が設けられていない場合でも、このような責任免除は講和(戦争終結)に伴う法的効果の一つであることが確認され、アムネスティ(大赦)が国際慣習法上の規則となっていることがわかります(五八二頁)
 国際法史上で有名なアムネスティ条項に、三十年戦争を終結させた一六四八年のウェストファリア平和条約の二条があります。そこでは、戦乱が始まって以来、言葉、記述、暴虐、暴行、敵対行動、毀損、失費のかたちで行われたすべてのものにつき、
「交戦諸国相互間で、永久の忘却、大赦ないし免罪があるべきものとする」と規定されています。このような「全面的忘却」(oubli general)――すべてを水に流すこと――の精神に基づくアムネスティ条項は、戦争を燃えたたせた国家間の憎悪の焔を鎮めるために必要とされ、ウェストファリア条約のほかにも、一六七八年のナイメーヘン条約三条、一七一三年のユトレヒト条約二条、一七四八年のエクスラシャペル条約二条、一七六三年のパリ条約二条など多くの講和条約中に見いだされます。
 ナポレオン戦争後の一八一四年五月三十日にパリで調印された英仏間の平和友好条約は、十六条で次のように規定しています。
「両締結国は、欧州を震動させた不和軋轢を完全な忘却の中に埋没させようと願望して、いかなる個人も、その地位や身分にかかわりなく、(中略)その行為、政治的意見、またはいずれかの締結国への帰属の故をもって、訴追されたり、権利を侵害されたり、あるいは虐待されたりすることがないと、宣言しかつ約束する。」
 同様の趣旨の規定は、一八六六年八月二十三日にプラハで調印されたオーストリア−プロシャ間の平和条約の十条三項、一九一三年十一月十四日にアテネで調印されたギリシア−トルコ間の平和友好強化条約などに見られます。一九一八年三月三日のドイツ−ソ連条約の二十三〜二十七条、一九一八年五月七日のドイツ−ルーマニア条約の三十一〜三十三条は、一般的アムネスティ条項を構成しています。
(第二次世界大戦後にも、連合国側が結んだ対ハンガリー平和条約三条、対ブルガリア平和条約三条、対ルーマニア平和条約四条、対フィンランド平和条約七条に、「連合国の側に立って行われた行為」についてのアムネスティ規定が見られます。)
 以上のような諸国の慣行を基礎にして、講和の法的効果としてのアムネスティを当然のものと認める国際慣習法の成立が確認されるのです。こうして、第二次大戦以前には、平和条約中にアムネスティ条項が置かれなくても、講和がもたらすアムネスティ効果には変わりがないとの考えが一般的で、戦争犯罪の責任を負う者も、平和条約中に特別の例外規定がない限り、講和成立後に責任を追及されることがないというのが、
(第一次大戦後のドイツに関連して一時的に変則的事態が起こりかけたにもかかわらず)国際法学界の通説でありました。

(世界がさばく東京裁判)

「さて、「日本の条件付終戦」――日本政府が“無条件降伏”したというのは大きな間違いです。』のところですが、これについて説明しましょう。これについても先生はですね…。」

日本は“「無条件降伏」”したのだ!

「と、言うのですけどね。名前だけ裁判の「私刑(個人や集団が、法律によらずに加える制裁。私的制裁。リンチ)でしかない悪名高い「東京裁判」で、キーナン首席検事は「日本は“無条件降伏”したのだから、連合国最高司令官の命令に絶対に服従するのが当たり前だ!」と言い放った。この「無条件降伏」というのは、連合国が日本に対して本土決戦を避けるため、日本国の「無条件降伏」「日本軍隊」だけの「無条件降伏」に変更したもので、現にポツダム宣言の第十三項には「十三、吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し」と明記している。清瀬一郎弁護人は…「日本は連合国が日本本土に上陸しない間に発せられた、ポツダム宣言を受諾しました。この宣言の第五項には、『第五項、吾等(われら)の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし右に代る条件存在せず吾等は遅延を認むるを得ず。』連合国自身もここに書かれてある条件は守ると言っている。すなわち条件付き申し込みであり、条件付き受諾である。」と言う。ポツダム宣言受諾に伴う日本の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、「日本は国際法上、「条件付き終戦」、せいぜい「有条件降伏」をしたのである。何でもかんでもマッカーサーの言うことを聞かねばならないという、そういう国として「無条件降伏」をしたわけではない。」(東京裁判と国際法・大東亜戦争の総括)と反論しましたが、GHQの怒りを買って萩原局長は左遷を命じられてしまうのです。」

「清瀬弁護人の言う通り、ポツダム宣言の第五項には連合国自身も「われらは右条件より離脱しない」、以下の条件はこれを守ると言い、第十項に「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとする」「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」、日本人を奴隷化するものではない。国民として滅亡させるものでもない。言論”、宗教および思想の自由ならびに基本的な人権は尊重する。と約束している。いわば一種の条件付き申し込みであって、日本政府はこの条件を呑んで、ポツダム宣言を受諾したのです。」

「でも、GHQ「ポツダム宣言」に違反して、民間検閲局を組織して、全国に2万4千人もの日本人を検閲員として配置して、デパートのチラシなどまでも徹底した「言論検閲」を行っていたのです。新聞・放送及び一切の情報、言論機関に加えられた悪名高い「検閲」ですよ。占領軍により日本の報道機関、全般に向けて実施された「検閲制度」は事前の綿密な準備段階を経て、1945年(昭和20年)9月の占領の開始と殆ど同時に発足したのです。なので、東京裁判の法廷における、例えば捏造「南京大虐殺」の検察側証言が全て如何に悪質な「捏造」「誇張」であることを、たとえどこかの報道機関が感知し得たとしても、それを報道することは出来ませんでした。「ポツダム宣言」の内容を「条約」化したと言うのなら、GHQは条約に違反しているじゃないですか?それと、突如として法廷に登場した「南京問題」。これは日本にとっては寝耳に水の衝撃でした。南京問題の証言に法廷に呼び出された、検察側証人達は簡単に言えばそこで思う存分に見て来たような嘘をつき放題に言うのです。南京問題、いわゆる「南京大虐殺」が全く検察側証人達の虚言から「捏造」された架空の事件であることは、もはや言うまでもなく周知の事実ですね。法廷では本当の事を言わなければいけないのに、東京裁判には「偽証罪」なんて無いのかな…?」

「国際法の意味における「戦争」(戦争状態)が終了するのは、原則として交戦国間に締結された平和(講和)条約が発効する時点においてです。したがって大東亜戦争が法的に終結したのは、日本と連合国との間の「サンフランシスコ平和条約」の発効の時点、1952年(昭和27年)4月28日においてであり、日本国民一般が考えているように、1945年(昭和20年)8月15日ではないのです。連合軍は戦闘段階終了後の占領段階において、連合国の利益にかなった日本社会の改造政策を、戦争行為(軍事行動)として推進したのです。それに「日本の有条件終戦」をアメリカ国務省は認めていた。「ポツダム宣言」についてアメリカ国務省が作成した「1945年7月26日の宣言と国務省の政策の比較検討」という文書で、「ポツダム宣言」「有条件」であることに対して国務省が明らかに困惑していることが次の文面からも窺えるのです。この宣言は日本国および日本国政府に対し『降伏条件を提示した』文書であって、受諾されれば国際法の一般規範により国際協定をなすものであろう。国際法では、国際協定中の不明確な条項はその条項を受諾した国に有利に解釈されている。条件を提示した国は、その意図を明確にする義務を負う。国務省の政策はこれまで「無条件降伏」とは何等の契約的要素も存しない一方的降伏のことだと考えていた。」国際法上、「ポツダム宣言」の条項は受諾した国(日本)に有利に解釈されることになり、日本政府が「無条件降伏をしたのは軍隊だけであって、政府ではない。」と解釈してもその解釈を否定する事は出来ない。とするならば、連合国の政策に一切黙って従う「無条件降伏」方式は「ポツダム宣言」によって「変更」されてしまったことになる、と国務省は分析していたのです。それから、「降伏文書」に調印したのですが、日本政府は「ポツダム宣言」を受諾し、「日本国軍隊の無条件降伏」を一条件に休戦することに合意したのですから、調印したのは国際法上、厳密に言えば「休戦協定」なのですね。アメリカ政府は「ポツダム宣言」に伴い「無条件降伏」政策が変更を余儀なくされていることを承知しながら、日本政府が休戦に応じた途端「日本は無条件降伏をした。」と悪質なデマを流して、なおかつ検閲によって日本側の「発言権」を奪って反論できないように追い込んだ上で、「ポツダム宣言」を大きく逸脱して実質的な「無条件降伏」政策を日本に強要したのです。連合国、特にGHQの政策を主導したアメリカが、自国の政治目的を達成するためには、「国際条約「ポツダム宣言」の内容を「条約」として法的拘束力のあるものとした、休戦協定・連合国側が「降伏文書」と名付けたもの)さえいとも簡単に反故にしたのです。」

(パール判事の日本無罪論)(東京裁判・日本の弁明)(世界がさばく東京裁判)

「さて、さて、佐藤和男氏の論文の続きを見ましょうか?」

三 平和条約十一条の機能

 アムネスティ条項に関する以上の理解を前提とすれば、
「サンフランシスコ平和条約十一条」の機能ないし役割は、おのずから明らかにされましょう。すなわち、十一条が置かれた目的は、この規定がない場合に、講和成立により完全な独立を回復した日本の政府が、国際慣習法に従って、戦犯裁判判決の失効を確認した上で、連合国側が戦犯として拘禁していた人々を――刑死者の場合はいたし方ないが――すべて釈放するかまたは釈放することを要求するだろうと予想して、そのような事態の生起を阻止することにあったのです。長い歴史を持つ国際法上の慣例に反した十一条の規定は、あくまでも自己の正義・合法の立場を独善的に顕示しようと欲した連合国側の根強い感情を反映したものと見られますが、平和条約草案を検討した昭和二十六年九月のサンフランシスコ会議では、「連合国の間からも十一条に対し強力な反対論が噴出しました」
 要するに、
「十一条の規定」は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかったのです。日本政府は十一条の故に講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示されたいわゆる東京裁判史観(日本悪玉史観)の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がありません
 筆者は昭和六十一年八月にソウルで開催された世界的な国際法学会
〔ILA・国際法協会〕に出席して、各国のすぐれた国際法学者たちと十一条の解釈について話し合いましたが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻(夫人は裁判官)、オーストラリアのD・H・N・ジョンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも右のような筆者の「十一条解釈に賛意を表明」されました。議論し得た限りのすべての外国人学者が、「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはない。」と語りました。これが、世界の国際法学界の常識なのです。
 外国の学者の中には、裁判官の人的構成が違っていたら、違った判決理由となる得る可能性を強調する人もいました。わが国の民事訴訟法一九九条一項は
「確定判決ハ主文ニ包含スルモノニ限リ既判力ヲ有ス」と規定しています。既判力とは、裁判の内容としての具体的判断が以後の訴訟において裁判所や当事者を拘束し、これに反する判断・主張を許されない効力をいいます。右規定は文明諸国の「法の一般原則」を表していますが、この原則を重視する国際法学者もいたのです。もちろん、戦犯裁判なるものは普通の司法裁判とは異なり、本質的に国家の戦争行為(軍事行動)の具現であり、アメリカに即していえば、大統領により行使が決定される行政権(戦争遂行権)の延長戦上にあるものと考えられ、司法裁判と同じレベルでの議論は適当ではないのですが、判決文中の判決理由は既判力を持ち得ないとの原則の一種の類推適用は妥当でありましょう。
 外国には
「裁判官は判決理由を説明する義務を有しない」(Judices non tenentur exprimere causam sententiae suae)という法諺すらあって、判決理由がさまざまであり得る可能性を認めて、重要なのは事件の決着であり、刑事裁判でいえば、刑の宣告が緊要であって、判決主文中に宣告された刑の執行により一件落着をはかることが急務であるとの考え方を含蓄しています。
 対連合国平和条約の発効により国際法上の戦争状態を終結させて完全な独立を回復した日本の政府は、東京裁判の判決理由中に示された歴史観ないし歴史的事実認定 ――歴史の偽造
(パール博士の言葉)として悪名が高い――を盲目的に受けいれる義務を負わず、いかなる批判や再評価をもその裁判や判決理由に下すことが自由であり、この自由こそが、講和を通じ代償を払って獲得した国家の「独立」の実質的意味なのです。
 戦後すでに四十余年
〔平成七年では、五十年〕を経て、学界の研究成果は、東京裁判の判決理由中に示された史実とは異なる多くの真実(例えば、日本側共同謀議説の虚構性、判事・検事の立場にあったソ連こそ中立条約を侵犯した文字通りの侵略国であった事実など)を明らかにしています。戦前、戦中、日本国家の対外行動の中には政治的に賢明でないものがあったかも知れません。しかし、それをただちに実定国際法上の犯罪と誣いることは許されません。近年わが国ではいわゆる“冤罪”事件について再審が行われ、あらためて無罪の判決が下される事例も少なくありませんが、上訴・再審の機会も与えられなかった復讐劇兼似而非裁判(エセ)である東京裁判について、日本国民みずからの手で主体的再審を行って、日本民族にとり歴史の真実とは何であったのかを、先人ならびに児孫のために、明らかにしようではありませんか。

(世界がさばく東京裁判)

「ふむ…。「十一条の規定は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず」とあるように、服役中の人など全員をいきなり「無罪」にしたら、既に「死刑」を執行された人もいたために、連合軍側が「悪者」になってしまって都合が悪いから、便宜上第11条があっただけで、これによって「刑の執行の即時停止を阻止した」に過ぎないということです。」

「それと、『東京裁判の「判決」中の「判決理由」…』とありますが、これもまた問題があったようです。これまでの国際法には戦争そのものを、犯罪とするような規定は無く、そこで連合国は「東京裁判」を行うために新たに「裁判所条例(チャーター)なるものを作って、戦争犯罪を定義しこれを裁く権能を付与し、裁いたわけですが、「裁判所条例の第17条」「判定及び審査」では「判決は公開の法廷に於て宣告せらるべく、且つ之に判決理由を附すべし。」とある。しかし、法廷はインド、オランダ、フランス、フィリピン、オーストラリアの各判事の少数意見の判決を認め、これを法廷記録に集録しながらも、多数派意見をもって全裁判官の判決かのように形式を装い、これのみを公開の法廷において宣告して少数意見の宣告はしなかったのです。これは公開の原則ならびに宣告の原則を無視した違法手続きでした。しかも、条例には「判決理由を付す」ことになっているのに、宣告された判決は偏った見方による日本の政治史、軍事史を羅列しただけで各被告の有罪を断じて、判決の理由たる事実と証拠の提示はこれを欠いたのです。(東京裁判の正体) これに対して「パール判事」は、1952年(昭和27年)、広島弁護士会においての演説の中で「1950年(昭和25年)のイギリスの国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけで、理由も証拠も無いと書いてある。ニュルンベルク(ドイツ)においては、裁判が終わって三ヶ月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由書とその内容を発表した。しかるに東京裁判は判決が終わって4年になるのに、その発表が無い。他の判事は全部有罪と決定し、私一人は無罪と判定した。私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事等は、有罪の理由も証拠も何等明確にしていないのである(以下省略)と言っているのです。」 (平和の宣言)

「ついでに「東京裁判(極東国際軍事裁判)条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)においては、「judgment」は次のように用いられ、次のように訳されています。訳は三省堂『解説・条約集』から引用しています。」

Article 15. Course of Trial Proceedings. The proceedings the Trial will take the following course:
第15条裁判手続の進行)
 本
裁判に於ける手続は、左記の過程を経べきものとす。

(h) The Tribunal will deliver judgment and pronounce sentence.
(チ)裁判所は、有罪無罪の判決を下し、を宣告す。

Article 17.
Judgment and Review. The judgment will be announced in open court and will give the reasons on which it is based. The record of the trial will be transmitted directly to the Supreme Commander for the Allied Powers for his action thereon. A sentence will be carried out in accordance with the order of the Supreme Commander for the Allied Powers, who may at any time reduce or otherwise alter the sentence except to increase its severity.
第17条判決及び審査)
 
判決は、公開の法廷に於(おい)て宣言せらるべく、且つ之(これ)判決理由を附すべし。裁判の記録は、速やかに連合国軍最高司令官に対し審査を受くる為め送付せらるべし。宣告刑は、連合国軍最高司令官の指令に従ひ執行せらるべく、連合国軍最高司令官は、何時にても宣告刑に付、之を軽減し、又は刑を加重せざる限り其の他の変更を加ふることを得。

 

「このように、裁判所条例においては、「judgment」「判決」の意味で用いられています。そして判決理由は判決に含まれるものではなく、判決に添附されるべき別個のものと定められています。」

「ちなみに、「パール判事」は裁判官の中で唯一の国際法学者。東京裁判で戦勝国11人の判事のうちただ1人インド代表判事ラダ・ビノード・パール博士は、この東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する非法・不法の復讐のプロパガンダに過ぎないとして、被告全員の無罪を判決した。インドはイギリスの属領で完全なる独立主権国家ではなかったけど、大戦に協力し多くの犠牲を払ったということで構成国に加わったのです。「裁判所条例(チャーター)について、パール博士は「復讐の欲望を満たすために法律的手続きを踏んでいるような“ふり”をするものだ。」と、批判している。それと、パール博士は証拠および証言の多くが、「伝聞証拠」であり、連合国側の現地における一方的な聴取書であることを指摘している。」 (パール判事の日本無罪論)

「証拠」についての「条例」の諸規定は、パール博士によって、「法廷は通例ならば「伝聞証拠」として却下されるような材料をも受理したのである。」と指摘されて、いわゆる「反対訊問」によって吟味される機会を欠いた証言、証拠が検察側の法廷証拠として、受理されてしまう危険を招いたとして厳しく批判されたのです。 (東京裁判・日本の弁明) 日本政府(内閣情報局)、外務省、軍部などの公式の声明や新聞を通じての見解表明の類が、元々宣伝と自己弁護の性格を有するものとして、初めから「却下の枠内」に入っていた。また、グルー大使、クレーギー卿、ジョンストン氏、パウエル氏などの著書からの引用もそれらはある事件についての「個人の意見」を述べたに過ぎないとの理由で、多くが却下されている。しかし、検察側の立証においては「個人の日記」「回想録」「見聞」の証言が重要な、時には決定的な判定資料として参考とされていた事実と比べても明らかに公正を欠いた審理でした。」 (パール判事の日本無罪論)

「さて、ほんじゃちょっと話が変わりますけどね、先生がこんなことも言っていたのですが…」

サンフランシスコ条約11条の目的は何で有るのかを説明します。1951年(昭和26年)の平和条約国会で、西村熊雄条約局長はサンフランシスコ条約11条の目的を以下のように説明をしています。

『平和条約に戦犯に関する条項が入りません場合には、当然各交戦国の軍事裁判所の下した判決は将来に対して効力を失う…というのが国際法の原則でございます。併しこの国際法の原則は、平和条約に特別の規定がある場合にはこの限りにあらずということでございます。従つてこの第十一条によつて、すでに連合国によつてなされた裁判を日本は承認するということが特に言われておる理田はそこにあるわけでございます。』

つまり、サンフランシスコ条約11条の目的は、極東国際軍事裁判所などで有罪になった者の刑の執行を、日本が連合国から引き継いで実行することに有ったわけです。では、受刑者に対して「刑の執行」を求めただけなのかというと、そういうわけでもありません。もし、「裁判を受け入れないで」、刑の執行のみを行ったら、犯罪行為になってしまうでしょう。「日本の正当な裁判として、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾したからこそ」「刑を執行する」ことができたのです。日本政府は、サンフランシスコ条約11条で日本が受諾したものとは、裁判所の設立及び審理、法律、起訴状の訴因についての認定、それから判定、及び刑の宣言、このすべてを包含していると、説明しています。

政府参考人(林景一君) お答えいたします。』
『先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。
 このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。
 ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、
そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております
 したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。』 
(001・162回参議院・外交防衛委員会・13号2005年平成17年06月02日)

即ち、日本がサンフランシスコ条約で「受諾したものは」「極東国際軍事裁判所の正当性、審理・法理の正当性、これらすべてのものなのです」。もし、そうでなかったならば、刑の執行は違法行為になってしまいます。学者や評論家には、極東国際軍事裁判所の設立や法理が「不当」だとか「正当」だとか、いろいろと議論が有ります。刑の執行の当事者でないから、なんとでも言えるわけです。しかし、刑を執行した日本政府が、極東国際軍事裁判所などの裁判を不当とすることは有り得ないのです。

昭和26年の平和条約国会の西村熊雄条約局長の答弁では、『日本は東京裁判を受諾する』『日本国民に課した刑を執行する』2つの規定があることが明確に説明されています。(国会会議録検索システム

『第十一條は戰犯に関する規定でございます。この條約の規定は、日本は極東国際軍事裁判所その他連合国の軍事裁判所がなした裁判を受諾するということが一つであります。いま一つは、これらの判決によつて日本国民にこれらの法廷が課した刑の執行に当るということでございます。そうしてこの日本において刑に服しておる人たちに対する恩赦、特赦、仮釈放その他の恩典は、将来は日本国政府の勧告に基いて、判決を下した連合軍のほうでこれをとり行うという趣旨が明かにされております。極東軍事裁判所の下した判定については、この極東軍事裁判所に参加した十一カ国の多数決を以て決定するということになつております。一体平和條約に戰犯に関する條項が入りません場合には、当然各交戰国の軍事裁判所の下した判決は将来に対して効力を失うし、又判決を待たないで裁判所が係属中のものは爾後これを釈放する、又新たに戰犯の裁判をするということは許されないというのが国際法の原則でございます。併しこの国際法の原則は、平和條約に特別の規定がある場合にはこの限りにあらずということでございます。従つてこの第十一條によつて、すでに連合国によつてなされた裁判を日本は承認するということが特に言われておる理由はそこにあるわけでございます。』(No、001・12回・参議院・平和条約及び日米安全保障条約特別委員会・4号・1951年昭和26年10月26日・[004]西村熊雄)

もし、極東国際軍事裁判所に正当性が無いのならば、刑の執行は不当です。刑を不当に執行された日本国民は刑を不当に執行した者に対して、損害賠償を求めることができます。日本政府が、極東国際軍事裁判所の裁判を不当であるとしたならば、刑の執行に対して損害賠償責任が生じます。

 

「さてさて、先生の言う『サンフランシスコ条約11条の目的は、極東国際軍事裁判所などで有罪になった者の刑の執行を、日本が連合国から引き継いで実行することに有ったわけです。』ですが、「11条の規定」は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎないということは先に説明した通りです。『日本の正当な裁判として、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾したからこそ』のところですが、ここはもう少し後で説明します。林景一議員の『この裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはない』と言うところと、また先生の『受諾したものは「極東国際軍事裁判所の正当性、審理・法理の正当性、これらすべてのものなのです』というところも一緒に説明します。ちなみに、『刑の執行は違法行為になってしまいます』と言っていますけど、元々「東京裁判」自体が、国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり政治的茶番劇に過ぎなかったことは、常識です。「西村熊雄」条約局長の答弁での『日本は東京裁判を受諾する』『日本国民に課した刑を執行する』の2つの規定があるというところですが、一つ目は「受諾」の意味になりますので、これももう少し後で説明します。「刑を執行する」というのは、訳語が「裁判」ではなく「判決」と言う人は『日本が受け入れたのは、“刑の執行”の継承(判決)と言っていますので、まぁそうなのでしょう。」

「西村熊雄条約局長の名前が出てきたので、1951年(昭和26年)10月17日の衆議院、平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村熊雄条約局長の、平和条約各条文の解釈を引用します。」 (No、001・12回・衆議院・平和条約及び日米安全保障条約特別委員会・2号・1951年昭和26年10月17日・[006]西村熊雄)

第十一條は戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞(とろ)は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。従つて十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております。後段は内地において服役しております戦犯につきまして、日本が判決の執行の任に当るということと、こういう人たちの恩赦、釈放、減刑などに関する事柄は、日本政府の勧告に応じて、判決を下した連合国政府においてこれを行う、極東軍事裁判所の下した判決につきましては、連合国の過半数によつて決定する、こういう趣旨でございます。従いまして第十一條後段の利益は、国外において服役中の戦犯者には適用ありません。これは国民の一人としてまことに遺憾と思う次第でございまして、一日も早くわれわれの念願がかないまして、現在外地において服役しております約三百五十余名の同胞が、一日も早く内地服役になるように念願いたす次第であります。

「ここで示されている第11条の解釈は、「アムネスティ条項」阻止のためのもの、というまっとうな性質のものです。「裁判を承諾いたす」と表現されていますが、これは判決が効力を有すると認める、という意味でしかありません。」

「では次に、1951年(昭和26年)11月14日法務委員会における大橋武夫法務総裁の発言を、部分的な抽出による誤解を避ける為、前後の質疑を含めて紹介します。「WGIPに対抗する為の資料収集を目的とするサイト」さんのホームページより引用させてもらいました。ちなみに「WGIP」とは「War Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)のことです。」

(No001・12回・衆議院・法務委員会・12号・1951年昭和26年11月14日・[017]佐瀬昌三)

○佐瀬委員 法務総裁に承つておきたいのです。参議院でも所信を御披瀝になつたように承知しておりますが、この講和を機会に、これは国内犯罪を含めて、一般に恩赦の措置がいかように構想されておるか、簡単でけつこうでありますから、衆議院の法務委員会としてもこの際一応承つておきたいと思います。

○大橋国務大臣 恩赦のことにつきましては、かねて本会議においてもお答え申し上げましたる通り、何分にも今回の平和條約の締結ということが、日本といたしましては、被占領地でありましたものが独立をするという、歴史的にきわめて意義深い時期でございますので、この機会は恩赦法によるところの恩赦を行いますに、まことにふさわしい時期ではなかろうかと存ずるわけでございます。そこで具体的な時期といたしましては、いよいよ現実に独立をする時期、すなわち講和條約の効力発生の時期をもつて恩赦の発動をいたすようにいたしたい、こう考えておるわけでございます。この恩赦につきましては、法務府といたしましては、各般の準備を進めておる次第でございまするが、何分未曽有の有意義な機会でございますので、従来の先例等にとらわれることなく、広く受刑者に対して恩典を与えるようにいたしたい、この機会を真に国家再建のために有意議な機会たらしめるという方針のもとに、調査を進めておるような次第でございます。特に戦時中あるいは戦後におきまする過渡的な時期に、いろいろな戦時的な立法が行われておりまするが、これらの法規は、この講和條約によりまして解消するものが大部分でございますが、こういう戦争遂行のための法規に触れて刑罰を受けておる、しかもその法規は今後において引続き存続せしめる必要がない、こうした廃止されるような戦時立法による刑余者につきましては、できるだけ大赦を行うというようなことが、適切ではないかと考えておるのであります。なお受刑者の範囲につきましても、できるだけ広く考えておりますし、また恩赦の方法といたしましても大赦、特赦、減刑等、広く行うようにいたしたい。ただいま当局において準備を進めておる次第であります。
 
次に戦争犯罪その他外国の軍事法廷の裁判をわが国は「平和條約第十一條によつて受諾」をいたし、日本国内において拘禁されております日本国民に対する“刑の執行は、今後日本政府が担当いたすこと”に相なるわけでございますが、この引継ぎは講和條約の発効によつて行われると存じます。発効後におきましては、政府といたしましてはこの條約において日本政府に許されておりまするところの権限によりまする赦免、減刑、仮出獄等に対する、関係国政府に対する勧告権の行使に当りましては、十分に注意をいたしまして、でき得る限り国民のこれらの戦争犯罪者として処刑されておりまする者が早く釈放されますように、できる限りの努力をいたしたい、かように存じておる次第でございます。
 なお委員長ちよつと速記をとめて……。
○押谷委員長代理 速記をとめて。
    〔速記中止〕
○押谷委員長代理 速記を始めて。

○佐瀬委員 戦争犯罪及び犯罪人の法的性格というものが、ニユールンベルグ裁判及び東京裁判あるいは学界の論説等を通じて、今日相当論議されておるのであります。一九四二年一月十三日の九連合国によつて発せられたセント・ジエームズ宮殿の宣言という有名なものがございます。これによると、当時もつぱらドイツの戦犯を対象にして論議されたのでありますが、この宣言の結論として、戦犯は近代文明諸国の理解する意味における政治犯罪人であることを確信すると記載されておるのであります。言いかえるならば、戦争犯罪は普通の犯罪にあらずして、政治犯罪であるというふうに性格づけられておるのであります。元来政治犯罪については国内刑法において、また国際刑法において、特別に寛大な処遇をするというのが古今東西一致した原則であります。国内刑法においては名誉拘禁制を採用するとか、あるいは国際刑法においては、政治犯罪が不当に処罰されないように、逃亡した場合庇護する庇護権があるとか、いろいろと寛大な処遇方法が政治犯罪人については講ぜられ、かつ制度化され、実施されて、今日に来ておるのであります。私は講和を契機として、連合国がみずからかように解釈を下しておるこの戦争犯罪、すなわち政治犯罪であるという考えのもとに、でき得べくんば東京裁判における受刑者に対しては、極東国際軍事裁判所條例第十七條を活用されんことを連合国最高司令部に期待するとともに、せつかく平和條約第十一條において相当寛大な処置がなし得る道を開かれた今日において、政府が関係諸国と十分折衝されて、この二つの方法に基いて戦争犯罪人を、あげてわれわれとともに和解のための、しかして正義のための講和の祝福に均霑さしていただきたいということをこの際強く政府にも善処方を要望して、その点の質疑を終りたいと思います。
 
次に「平和條約第十一條」の解釈に関連する問題でありますが、この條約によると、日本が極東裁判あるいは各地の戦争犯罪の軍事法廷において下された「判決を受諾する」、そして「刑の執行」について国内にある受刑者を担任するということになつておるわけでありますが、この「判決受諾」という意味が多少あいまいな点があるように見受けるのであります。申し上げるまでもなく、「裁判というものは法を大前提として」、また事実を小前提として三段論法で結論つけられた判決主文によつて構成されております。ところが戦争犯罪に適用さるべき法そのものについて、あるいは軍律あり、あるいは成文化された国際條約あり、あるいは国際慣習ありで、なかなかこの法自体が捕捉しがたいものがあるのであります。しかして事実については、外地における戦争犯罪、特に俘虜虐待とかいうような事柄になりますると、言語の関係あるいは弁護の不十分等いろいろな点からして、事実を証拠上確定することがきわめて困難であるにもかかわらず、そういう法に基いて、またそういう事実のとらえ方に基いて、死刑に、あるいは無期、あるいは有期の懲役に処されておるというのが戦犯裁判の実相であります。そこでこの條約十一條のその判決を受諾するという意味は、そういう法やまた事実等の前提とされた事柄をも全部含めて、裁判全体として日本がそれを承認する意味であるのか、あるいはさにあらずして単に有期懲役あるいは無期懲役というようなものに処せられたその結論的な主文だけを日本が承認して、その刑の執行を連合国にかわつて、あるいは委任に基いて、あるいは委譲に基いてそれの執行の任に当るにすぎないのかどうか。もし法や事実の認定についてもこれが日本政府として受諾するということであると、いわゆる再審すること、すなわち再び調べ直しをするということは、これは除外され、出来ないということにもなるように考えられ、もしまたそうでないとするならば、あるいはこれに対する再審なり、あるいは異議の申立てとかいつたような、さらに根本的に救済する道がなおそこに許されておるやにも思われるが、どうか。御承知のように平和條約第十七條ですか、これには外人に対する日本裁判が戦時中粗雑であつたために、再審制度を設けて日本が審理し直すということが約定されております。私はひとり外人に限らず、正義の前には日本人も差別する必要はないと思う。従つてもし十七條の精神がこの場合に振りかえられるならば、十一條の場合について日本として考えるべく、あるいはこの條約自体について解決されないならば、将来の外交交渉なり折衝によつてそういう救済の道がなお開かれる余地があるのではないかというふうにも考えるので、「政府としてはこの十一條の判決受諾という意味を、現在においてはいかように考えられておるか」。またもしそういう再審制度が将来交渉によつて設けられる余地があるように見通されておるのであるかどうかということについて、政府の所見を承つておきたいのであります。

○大橋国務大臣 極東軍事法廷あるいは連合国の戦争犯罪法廷におきまする裁判というものは、これは申すまでもなく日本の法律による裁判ではないのであります。従いましてまたそれのみならず、これらの犯罪とせられておりまする行為そのものも、あるいは国際法上の通念により、あるいは人道上の理由によつて犯罪とせられておるものとは思いますが、しかし国内法によるところの犯罪と目すべきものでは、いかなる意味においてもない。実質上は国内法において犯罪とする事柄と同じような非人道的な活動はあつたかもしれません。しかしそれが国内法による犯罪ではないということは、これは争う余地がない。しかしながら第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定めその法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります。従いまして「今後これらの受刑者に対する刑の執行にあたりまして、日本政府が日本の裁判所あるいは行政手続によつてその『判決の内容を再審査する』というようなことは考えられないと思います」。一応確定の裁判としてこれを受諾する。但しこの確定の裁判の執行にあたりましては、條約においても明らかにせられておりまするごとく、赦免、減刑、仮出獄等のごとき執行上の行政的措置は可能なのでございまして、この行政的措置につきましては、日本政府において勧告の権限があり、関係国政府の決定によつてかような行政措置が決定される、こういうことに相なつておりますから、政府といたしましては、今後刑の執行にあたりましては、十分に裁判の経緯等も調査をいたしまして、そうして必要なものに対しましては、これらの赦免、減刑、仮出獄等に対して日本政府に認められたる勧告権を十分に活用することによりまして、でき得る限り合理的なる結果を期待をいたすとともに、なるべくすみやかに多数の人々が、この法文から、釈放されるように努力をいたしたい、こう考える次第であります。

○佐瀬委員 法務総裁にもう一、二点簡単にお伺いしておきたいのですが、この受諾の効果としては、日本の国内法上犯罪人としては処分しないという御趣旨のように拝聴したのです。従つて日本の国内法においてただ行刑の部門だけを担任されて、その他の国内法の上からは、たとえば前科とかその他いろいろな取扱いについては何らこれを考えないということに結論は相なつておるのであります。そこでそういう受入れ方について政府は何か立法上の用意をなされておるかどうか、その点を承つてみたいと思います。

○大橋国務大臣 行刑の面についての政府の責任がきめられておるのであります。これが国内法上の一般犯罪と同様な前科であるとか、そうした日本の国内裁判に伴う当然ないろいろな“効果”というものは、この裁判には伴わないものと考えるわけであります。従つてなお御質問になりましたこの刑の執行、赦免等については、これは国内法上の裁判の執行について規定いたしておりまする現在の監獄法その他の行刑法規をもつて律すべきではないと考えますので、これにつきましては特別の立法によつて諸般の規律を定めたい、こう考えるわけです。この法案につきましては、ただいま事務当局においてある程度の成案を得まして関係当局と折衝中でありまして、なるべく早い機会に御審議を煩わしたいと存じます。

○佐瀬委員 それから十一條にいう赦免その他の取扱いをするために、各連合国の決定なり政府の勧告なりが同時に必要とされておるわけでありますが、何かそういうことをきわめて迅速にかつ合理的に進行せしめるために、国際的な特別な機関でも設置されたならばよいのではないかというふうにもわれわれ考えるのおります。この点については今政府はどういうお考えをお持ちになつておられるか、あわせてこの点も承知しておきたいと思います。

○大橋国務大臣 これはなお決定的な考えという段階には至つておりません。しかし寄り寄り内部において話合いをいたしておりますところを申し上げますと、この刑の執行につき、ことに刑の執行に伴いまする赦免、減刑、仮釈放等の日本政府の勧告権を行使いたしまするその基礎的事実を調査する機関として、国内において何らか委員会の、ごときものを設けることが適当ではなかろうか、こう考えております。なお日本政府の勧告権が通常の外交上の手続によつて行われまするということは、これは行使につきましていろいろ不便もございますので、何らか便宜な方法によりまして、一つの国際的な委員会のごときものができて、そこにおいて簡易迅速に関係各国の決定が処理されるというふうなことはきわめて望ましいものである、こう考えまして、さような方法に向つて努力をいたしたいと考えております。

○佐瀬委員 私もその点はきわめて同感でありますが、こういう司法事務については、今日の国際関係を見ると、一般外交事務と分離して、いわゆる司法協定を締結して、これを中心に委員会その他の機構を設置して、そうして司法交渉という簡易な手続をとるのが、最近の例になつておるようにわれわれ承知しておりますが、どうか政府はその点に御善処を賜わりたいと思います。
 もう一点お伺いしておきたいのは、国外にある受刑者はこの條約からは一応除外されております。しかしこれは條約発効のときに日本内地にある者のみを限定してこれを対象として規定したものであるか、あるいは将来引続いて條約発効後といえども、日本に何らかの形で帰られた者はやはり十一條の適用を受けるものであるかどうかということについて、私どもは疑問を持つのでありますが、しかし第十一條の精神からいうならば、やはりその適用のときに国内にある者であるならば、すべてこの処遇を与えせしめていいものであるというふうに私個人は考えるのであります。従つてでき得べくんば発効前に国外にある者を内地に帰還させるということも必要であると同時に、発効後といえども、外地にある日本の戦犯者を日本に帰還せしめるように努力されるということが政府に強く要望されることであると思うのでありますが、この点についてどういう御構想で臨んでおられるか、ここに明確にしておいていただきたい、かように考えます。

○大橋国務大臣 佐瀬委員のお述べになりました点につきましては、政府といたしましてはまつたく同感でございまして、この條項は條約発効の際にすでに国内に帰還をいたしておりました者について適用あるばかりでなく、その後においても、帰還した後においては、当然十一條の適用があるものと考えておるのであります。従いまして政府といたしましては、今後におきましても機会あるごとに、なるべく日本国民が外国において刑の執行を受けることなく、できるだけ故国に帰つて刑の執行を受けることのできますように、あらゆる努力をいたしたいと思うわけであります。

 

「大橋総裁の答弁は、「事実認定」「法律効果」を分別し、裁判の法律効果を受入れることが裁判を受諾するということの意味だと述べています。そして「この確定の裁判の執行」という表現で、裁判を受諾するとは刑を執行することだと述べています。」

「ちょっと話が変わりますけどね、先生はこんなことも言っていました…。」

ソ連」の参戦は、国際法廷である「東京裁判(極東国際軍事裁判所の判決)で、「正当」なものと認定されています。

「ルーズベルト・チャーチル・スターリンの三馬鹿トリオによる会談で「日本領」であった南樺太と千島列島はソ連に渡されることが内密に取り決められました。いわゆる「ヤルタ協定」ですね。ソ連は対日宣戦して、千島列島などはソ連のもの、という「密約」のもと、一気に択捉・国後島などの北方領土までソ連軍が侵攻・占領してしまうことになったのです。これは有名ですね。そもそも、ソ連を不問にするという、それが問題です。「人道に対する罪」などと言うのなら、満洲での日本人婦女子に対するソ連軍の暴虐、交戦法規の重大な侵犯を行ったでしょう。連合国との停戦の仲立ちを日本政府から依頼されて、日本が早期停戦を求めていたことを知りながら、ソ連は満洲、千島列島、北方領土に侵攻してそのままそれらの地域を不法占拠した。ソ連が裁かれないのはおかしい。ルーズベルト大統領と同時代のアメリカの著名な政治家であったハミルトン・フィッシュ下院議員は、「ソ連の『戦争犯罪』に目をつぶってしまったことが、ソ連によるバルト三国併合や戦後の東欧の共産化という悲劇をもたらすことになった。」として、スターリンと手を結んだルーズベルト大統領の戦争責任を戦後、厳しく追及している。さて…。先生はソ連の参戦は「東京裁判」で正当なものと認められているから、正しいと言いたいのでしょう?「東京裁判」で認められたら「正当」?おかしなことを言いますね?先生はこうも言っていました。」

「真珠湾攻撃」「騙し討ち」なのです!!

「真珠湾攻撃」「騙し討ち」…?「東京裁判」で認められたら「正当」ではないのですか?まず、戦後、アメリカの軍法会議および上下両院の合同調査委員会で明らかにされたところによれば、日本の「真珠湾攻撃」よりも前に、ルーズベルト大統領は秘密命令を発して、戦争指令をしていたことが判明した。開戦当時、太平洋艦隊司令官だったセオボルト少将は、著書の「真珠湾の最後の秘密」の中で、「真珠湾は日本に最初の一発を放たせるためのオトリであった。」と証拠を挙げてはっきり告白している。 (第二次大戦責任論) 「真珠湾攻撃合同調査委員会」の調査報告書は、日本海軍航空隊の奇襲が『騙し討ち』にあらざることの証拠として各種が提出されたのですが、それらは殆どが却下されました。ところが、それにもかかわらず結果的に『騙し討ち』と言われる原因となった「開戦通告が遅れた」のは、陰謀でも計画的なものでもなく、現地の大使館員の怠慢と不注意から来た過失に過ぎない、ということが認められているのです。あんな茶番劇「東京裁判」の判決でさえも、「日本の真珠湾攻撃は『騙し討ち』では無かった。」ことが認められている、と言うことはあまり知られていないようですね。」 (東京裁判・日本の弁明)

「ルーズベルトは狂気の男」フーバー元大統領が批判。

2011年12月07日産経

【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874年明治7年〜1964年昭和39年)が、日本軍が1941年(昭和16年)12月8日、米ハワイの「真珠湾」を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882年明治15年〜1945年昭和20年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』。」と批判していたことが分かった。

アメリカ歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)で明らかにした。

「真珠湾攻撃」に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした、などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、アメリカ大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。

ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。

その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった。」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ。」と語ったという。

マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった。」と批判していた。

著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう。」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。

ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい。」と話している。

「清瀬一郎弁護人の冒頭陳述(総論A)より引用しますと…、」

『検察官は我が国の開戦意思の通告に欠くところがあるがため、犯罪を構成するという意見を立てています。弁護人はこの点につき次の事実を主張し、かつ立証するものであります。まず、我が国の通告書の交付の時間並びにその経緯について次のことを証明致します。「1941年12月6日(ワシントン時間)には東京外務省はワシントンの日本大使に対し、英文の対米覚書を決定した旨通告いたしました。そしてこれを米側に提示する時期については別に電報するであろうが、電報到着の上は何時にしても、米側に交附し得るよう文書の整理その他万端の整備を為し置くように、この電報は命じているのであります。これ等の電報は総て米側に傍受されているのであります。通告文は、14部に分かれていますが、その内13部は「6日」夜にワシントン大使館に到着しております。米国側はこれをも傍受し、「6日午後9時半頃」に大統領は、これを読んでおります。最後の第14部もまた、「12月7日」米国側で傍受しております。この部分の到着と前後して、重要なる通告交付の時間を指定した電報が大使館に到着しております。その時間は同日午後1時であります。そこで、野村大使は右交付のために国務長官コーデル・ハル氏に午後1時に面会する約束をしたのでありました。この約束通りに、この通告が「1941年12月7日午後1時」に交付されておりましたならば、この交付はワシントン時間に換算して「午後1時25分」に始まった「真珠湾」その他の攻撃よりも前になるのでありました。しかし大使館における電報の解読と印字に時間を取りまして、検事立証の如くに実際は野村大使は「2時」に国務省に到着したのであります。「2時20分」に通告書を交付したのであります。野村大使が国務省到着後、直ちに通告書を交付し得たならば、「真珠湾攻撃」後35分となります。20分待たされたがため、これが55分の遅延を生じました。東京政府は「7日午後1時」、即ち軍隊の作戦開始より半時間前には安全に通告文の交付が出来るように電報の大部分を前夜に電送し、ごく僅かな部分がその日の午前に到着するよう発送したのであります。もし事務が順調に行っておったならば、この通告は予期の通りに「攻撃前」に交付し得られたのであります。ただ東京においては、支配することの出来ない出来事によって交付は遅れました。この事実を弁護人は適当なる場合に正確に証明致します。<以下省略>』 (東京裁判・日本の弁明)

「あと、高柳賢三弁護人の冒頭陳述(総論B)からも抜粋。」

(前略)多数の大国が宣戦なくして戦闘を開始している。英国のモーリス名誉中佐は、1883年「宣戦を伴はざる戦争」(ロンドン、政府印刷局、1883年)と題する労作を公刊して、1700年から1872年までの間に起った多くの戦争の開始を検討したが、1904年4月、「19世紀以後」誌のうちに次のように書いている。「数字的に言えば、私の比較的詳しく検討した期間を通じて、英国は三十回、フランスは三十六回、ロシアは七回、(但しトルコ及び支那を含む隣接アジア諸国に対する慣行的な無宣戦戦争は算入しない)、プロシアは七回、オーストリアは十二回、北米合衆国は少なくとも五回、戦争開始の宣言を伴わない戦争行為を行っている。」と。』 (東京裁判・日本の弁明)

「インドのパール判事は、茶番劇「東京裁判」「もし「ハル・ノート」のようなものを突き付けられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも立ち上がる。」と言った。今迄、1941年12月8日の日本軍による「真珠湾攻撃」は、卑怯な「奇襲・宣戦布告なき戦争」と言われてきたが、実はその「5ヶ月も前」、1941年(昭和16年)7月23日にルーズベルト大統領だけではなく、当時の陸軍長官、海軍長官などによって承認されていた「JB355」と名付けられた計画、アメリカには既に「日本本土爆撃計画」が密かに存在していた。「日中戦争(支那事変)に対して、アメリカは中立ではなく既に1940年11月30日に、国民党(中国国民党)政府に、一億ドルの借款の提供を約束していた。アメリカ国立公文書館で発見された「モーゲンソー財務長官の回顧録」には、1940年11月ごろ「中国軍を装ったアメリカ海軍を投入して、ビルマルートを防衛する。」という構想があり、1941年7月23日には日本本土爆撃を正式に署名した、と記されている。それの航空部隊は「フライング・タイガース」です。日中戦争当時、義勇軍として参加したアメリカ民間人ボランティアのパイロットが中心となっていたという。契約で雇われたアメリカ軍の「正規兵」もいたようです。計画が遅れたのは、欧州戦線に大量のアメリカ爆撃機が必要で、中国輸送を延期したことによるものだったという。中国支援という理由の日本への先制攻撃の本当の目的は、将来の「巨大な中国市場」を確保するための「国益」からであったということが、国立公文書館で発見された「日本空爆計画」の統合計画委員会報告「JB355」という文書に明記されているという。アメリカは日本を戦争に引きずり込もうとしていた。」 (中国・韓国が死んでも教えない近現代史)

「日本に開戦を決意させハワイを攻撃させることになる、1941年(昭和16年)11月26日の「ハル・ノート」について、レーリング博士は次のように述べている。(日米交渉に関連して)日本の見地からして、アメリカ(イギリス・支那・オランダ)側のとった行動のうち最も重要なものは、「石油禁輸」であり日本はこの禁輸措置が解かれることを切望すること非常なものがあった。11月26日にワシントンの態度が明確にされたが、それは日本がインドシナおよび支那から撤退する事が経済的譲歩の代償とされるというものであった。しかし、日本政府としては(いかなる政権であっても)そのような代償を支払う意思も能力も持てなかった。ハルが提示した諸条件は端的に戦争を意味しており、そのことをハルは知っていた。彼はスティムソン陸軍長官やノックス海軍長官に「問題は今や貴下の手中にある。」と語った。アメリカ政府は戦争が始まることを確信していたが、それが日本によって開始されることを熱望していた。“我々はあまり多くの危険がもたらされないようにしながら、日本を操って最初の第一撃を発射するようにさせなければならない。”と、確かにハルは言った。」(東京裁判とそれ以後) ちなみに、「ハル・ノート」の原案を作成したのが財務次官補ハリー・D・ホワイト。ソ連のスパイであったことが後に判明している。ソ連の指示で書かれたとも言われる。」

「BBC(イギリス放送協会)が制作したテレビ番組「真珠湾攻撃・暗号を解いた情報部員たち」で実証しているように、ルーズベルト大統領と数名の閣僚は真珠湾に迫る軍事的危機を知っていながら、真珠湾の防衛責任者のキンメル海軍大将やショート陸軍中将にその情報を知らせず、二千有余のアメリカ人将兵を犠牲にしたのです。歴史学の権威であったチャールズ・ビアード博士が1948年(昭和23年)、アメリカの公式資料に基づいて「ルーズベルト大統領と第二次世界大戦」という著書で「日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカをして海外に秘密なる軍事行動を為さしめた。」と指摘し、「戦争責任」を問われるべきは日本ではなく、ルーズベルト大統領だと訴えたのです。イギリスの軍需生産大臣オリバー・リットルトンは戦時中の1944年(昭和19年)6月20日、ロンドンの商工会議所で「日本がアメリカを戦争に追い込んだというのは歴史の狂言である。真実はその逆である。アメリカが日本を真珠湾に誘い込んだと見るのが正しいのだ。」という。(世界がさばく東京裁判) 合衆国前大統領ハーバート・フーバーも当時、「もし我々が日本人を挑発しなかったならば、決して日本人から攻撃を受ける様なことは無かったであろう。」という。(東京裁判・日本の弁明) アメリカ・カリフォルニア大学のジョン・W・ダワー教授によれば、(東京大空襲など)日本の都市を火の海に化すという考え方は、「真珠湾攻撃」の少し前からアメリカ軍内部では台頭していたという。当時、マーシャル陸軍参謀総長は「日本の人口密集都市の木と紙で出来た家屋を焼き払う、“無差別焼夷弾攻撃”を想定した計画を立てるように部下に命じている。」 (世界がさばく東京裁判)

「ついでに、ルーズベルトは日本の攻撃を誘うため、早々とハワイ・オアフ島の「真珠湾」を太平洋艦隊の基地にしたのですが、おびき寄せの実行段階が近付くと襲撃をより確実にするため、太平洋艦隊の「弱体化」を図ったのです。ロバート・A・シオボールト著「真珠湾の審判(邦訳の題名)によれば、1941年(昭和16年)3月、ルーズベルトは戦艦三、航空母艦一、巡洋艦四、駆逐艦十八の各隻を太平洋艦隊から引き抜き、大西洋方面に向かわせた。この動きはハワイとパナマ運河地帯にいたスパイを通じて日本側の察知するところとなる。11月中旬に入ると、日本海軍は真珠湾攻撃に参加する艦船を千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)に集め、19日(ワシントン時間、以下同じ)には先発部隊として一群の潜水艦がハワイに向けて出発し、次いで25日、連合艦隊の機動部隊が出撃を開始した。通信傍受でこの事実を知ったアメリカは一時間後、自国と連合国の船舶に対し、進路にあたる海域から引き揚げ、太平洋を横断する船舶はオーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通るように命令したのです。このため日本の機動部隊は一隻の船舶とも遭遇せず、敵に発見されていないと錯覚したのか、電報発信も手控えなかった。このあと、ルーズベルトは真珠湾の被害を小さくする措置を取りました。27日、スターク軍令部長を通じて、ハワイにいた戦闘機25機ずつを空母でウエーキ島とミッドウェー島へ送れと指令しました。当時、太平洋艦隊の戦列にあった空母はエンタープライズとレキシントンの二隻で、三隻目のサラトガは米本土西岸で修理中でした。キンメル司令長官は緊迫する情勢下、護衛も無しに空母だけを派遣する勇気が出なかったのか、28日、空母エンタープライズに重巡洋艦三隻、駆逐艦九隻を加えた機動部隊を編成して真珠湾を出発させました。12月5日には空母レキシントンが重巡洋艦三隻、駆逐艦五隻とともにミッドウェー島に向けて出港した。1941年(昭和16年)12月7日(日本時間の8日)、日本軍が空襲した日、真珠湾に残っていたのは太平洋艦隊兵力の半分強であったのです。アメリカ太平洋艦隊の一挙全滅を狙った日本の作戦は失敗して、ルーズベルトは艦隊主力の温存に成功しました。」 (誰が「南京大虐殺」を捏造したか)

「ルーズベルトは、兵士の命を犠牲にしただけではなかったのです。司令長官のキンメルと米陸軍ハワイ部隊司令官ウォルター・ショート中将に被害の責任を擦り付けて、日本の機動部隊が空襲を終えたあとで、二人を降格させたのです。キンメルは二度にわたり、日本が明らかに武力行使するまで戦闘行為に出るなと命令を受けていた。それと、日本の機動部隊が進撃を開始した頃、キンメルは艦隊にハワイ北方海域で日本機動部隊の捜索を命じたのですが、これを知ったルーズベルトは、捜索隊を真珠湾に戻せと指示している。しかも、日本艦隊がハワイに接近し始めても、傍受解読した日本の通信内容をキンメルらに伝えなかったのです。ちなみに、真珠湾攻撃計画は下準備の段階でアメリカ側に漏れていたのです。だからキンメルらは、日本の山本司令長官が12月2日に「8日(日本時間)を期して真珠湾を攻撃せよ。」と命令したことを知らなかった。真珠湾でアメリカが「“奇襲”を受けて、多数の命が失われた」との報告にアメリカ世論が激昂して、ルーズベルトの謀略は成功したのです。ルーズベルトは念願のヒトラー打倒に乗り出すことになっていく。」 (誰が「南京大虐殺」を捏造したか)

「それに、実際はですね、「真珠湾攻撃(12月7日午後1時25分に始まった。日本時間では8日)の前の、「12月7日の午前6時33分から6時55分」迄の間(これはハワイ時間)アメリカ海軍が、ハワイ近海において日本の小型潜航艇を撃沈している。暗号は解読されていたので、潜水艦の位置など筒抜けだったのです。あの茶番劇「東京裁判」の判決でさえも、「日本の真珠湾攻撃は『騙し討ち』では無かった。」ことが認められているというのに、どうして先生は『「真珠湾攻撃」は「騙し討ち」なのです!!』って教えているのでしょうね…?ついでに言うと、アメリカ・ドイツ関係に限定すれば、侵攻戦争を先に仕掛けたのはアメリカだった。1941年(昭和16年)9月4日、大西洋上でアメリカの駆逐艦グリーア号とドイツの潜水艦が撃ち合った。この時は双方損傷が無かったけど、10月17日に再度戦闘があり、アメリカの駆逐艦カーニ号が撃破され、乗員11名が行方不明となった。更に11月30日、アメリカの駆逐艦リュベン・ゼームス号が今度は撃沈され乗員115名が戦死した。ところが、驚いたことに、最初の事件以来アメリカ軍内に憤激の声はほとんど上がらない。不審に思ったアメリカ上院海軍問題委員会は一連の質問状を海軍作戦部長H・R・スタークに発し、事件が「アメリカ軍の挑発によって起こったことを突き止めた」。ルーズベルト大統領は「第二次大戦」に参加したいがために、ドイツを挑発し攻撃まで仕掛けていたのです。こうした経緯から、自国の対ドイツ参戦を正当化するためにもアメリカはドイツの戦争を不法だと決め付けなければならなかったのです。(世界がさばく東京裁判)…続いてこんなことも言っていました。」

日本は「東京裁判(極東国際軍事裁判)「正当性」「受諾」しているのです。日本はサンフランシスコ平和条約第十一条で、極東国際軍事裁判所の判決を「受諾」しました。日本国内からは、以下のようなおかしな説明がなされることがあります。

「講和条約で日本が受け入れたのは、判決が科した刑罰の執行の継続であって、裁判や判決の趣旨を受け入れたわけではない。(稲垣武ジャーナリスト・正論・扶桑社・8月号・平成17年度)

このような主張が成り立たないことは、東京裁判の判決文を読めば、疑問の余地のないことです。右翼評論家はデタラメを書いているのでしょうかね?不思議ですよ。東京裁判の判決文では、裁判所の設立の根拠を次のように説明しています。

「極東国際軍事裁判所はカイロ宣言ポツダム宣言降伏文書、それから1945年12月26日のモスクワ会議に基づいて、またこれらを実施するために設立された。モスクワ会議の結果、米・英・ソ・中により、次のことが協定された。 「最高司令官は日本降伏条項の履行、同国の占領及び管理に関する一切の命令並びに之が補充的命令を発すべし」この機能に基づいて、最高司令官は特別宣言書により極東国際軍事裁判所を設置した。この宣言書によって、裁判所の構成、管轄および任務は、同日最高司令官の承認を得た裁判所条例中に規定されたところによると宣言された。」

要するに「カイロ宣言、ポツダム宣言、降伏文書に基づいて、マッカーサーが命令して設立された」、これが、「東京裁判の正当性の根拠」になっています。これで、正当性の根拠になるのかどうか、評論家や法律学者にはいろいろと意見があることでしょう。しかし、日本国は条約によって判決を受け入れたのだから、後になってから「この判決に書かれていることは受け入れない」と言える筋合いではないのですよ!

「日本が「東京裁判の正当性を受諾」した?前述した、『日本の正当な裁判として、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾したからこそ』のところと受諾したものは「極東国際軍事裁判所」の正当性、審理・法理の正当性、これらすべてのものなのです。』というところも、「西村熊雄」条約局長の答弁での『日本は東京裁判を受諾する』と、やたら出てくる「受諾」の意味が重要になるわけですね。それでは、この「受諾」とはどういう意味なのか?外務省は2013年(平成25年)3月7日、太平洋戦争やその後のサンフランシスコ平和条約に関する外交文書(全72冊)を公開した。ちなみに、これは外務省のHPの「日本外交文書デジタルアーカイブ」では見られません。東京都港区の「外交史料館」でファイルが公開されています。「サンフランシスコ平和条約の11条」「裁判を受諾する」と訳されていることから、被告が問われた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は大戦終了後に出来た「事後法」であり、条約11条の「受諾」「東京裁判」の問題点も含めて日本が受け入れたのか、そうでないのか論争が展開されてきた。公開された外務省条約局第3課の文書は…、」

1953年(昭和28年)2月24日、条約局第3課作成文書。

「軍事裁判・本邦戦争犯罪人」

平和条約第十一条は、『日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の“裁判を受諾”し…』と規定している。この「受諾」とは、日本国が(イ)戦争状態の継続中連合国のなした右裁判(連合国戦争犯罪法廷の裁判)の国際法上の適法性及び(ロ)戦争状態終了後連合国がその刑を続いて執行する場合に、その執行の合法性について、争わないことを意味する。即ち、同(サンフランシスコ講和条約)第十一条によって、日本国は、右裁判によって判決を受けた事件に関する限り、国際法上の犯罪であることについて反対しない義務を負ったのである。

 「元サイズ見られます

「つまり、「受諾」とは@戦犯裁判の国際法上の適法性A戦争状態終了後に連合国が戦犯の刑執行を続けることの合法性−について「争わないことを意味する。」と記している。その上で、「判決を受けた事件に関する限り、国際法上の犯罪であることについて反対しない義務を負った。」と踏み込んだ。日暮吉延帝京大法学部教授(日本政治外交史)は、「裁判の国際法上の適法性に反対せず、主権回復後も判決の効力を認め、日本政府が戦犯の刑を執行すると外務省が解釈していたことが解った。」と解説する。坂元一哉大阪大教授(外交史)は、「今回の文書を見ても、「11条」により日本が「東京裁判」やその他戦犯裁判を「正しいもの」として受け入れたわけではないことは明らか。」と指摘している。裁判の内容や正当性は別として、結果(判決)に異議は唱えないという意味です。前述の2005年平成17年の林景一議員の『我が国は、この受諾ということによりまして(中略)この裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはない』と言うところですが、「受諾」とは@戦犯裁判の国際法上の適法性「争わないことを意味する。」と記しているので、「この戦犯裁判は国際法上、不法、不当だ。」と争わないで判決、つまり「刑の執行の継承」をするということなので、言っていることは、まぁ合っているのですかね?」

「それと、1951年昭和26年の衆議院・法務委員会での大橋国務大臣が『今後これらの受刑者に対する刑の執行にあたりまして、日本政府が日本の裁判所あるいは行政手続によつてその『判決の内容を再審査する』というようなことは考えられないと思います。』と言っていたのは、少し違うと思います。第十一条の規定により本来ならば、日本政府は講和条約の発効と共に、戦犯として拘禁されていた人達を釈放して良いはずなのですが、アメリカは講和独立後も、アメリカの「審判」に従った「刑の執行」を日本政府に要求したのです。日本はサンフランシスコ講和条約に調印して、1952年昭和27年4月28日に発効、日本は晴れて独立を回復しましたが、講和条約第十一条に、関係国の同意無くして日本政府は独自に戦争受刑者(戦犯)を釈放してはならないと規定されていたため、講和条約の恩恵を受けることなく、巣鴨、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)で引き続き1224名もの日本人、および戦時中日本国籍を有していた「朝鮮人」「台湾人」「A級」および「B・C級」戦犯として服役しなければならなかったのです。ちなみに、連合国は、戦前・戦時中、日本軍が中国大陸、ジャワ、シンガポール、マニラ、香港などその戦闘地域および占領地域において、略奪、暴行、凌辱、殺人、俘虜虐待などの非道の限りを尽くしたと言い、それら戦争の法規・慣例(交戦法規)違反の残虐行為を命令したり、あるいは手掛けたとする日本人将兵を、戦時中に日本国籍を有していた「朝鮮人」「台湾人」も含む、「B・C級」戦犯として訴追し、アジア各地に設けた軍事裁判所で裁判にかけて、一千余名を処刑しました。「B・C級」戦犯とされた日本軍の将兵には、実際には「復讐」の対象とされた者が多かったという。「山下奉文大将」「本間雅晴中将」などに対する連合軍の軍事裁判は悪名高き実例であるという。1981年(昭和56年)弁護士であり法律関係のジャーナリストでもある、ローレンス・テイラー氏が「山下・本間裁判」の開廷から処刑までを、アメリカの公式記録などから克明にたどり、「A Trial of Generals」としてまとめ、末尾に次のように記しました。「山下奉文と本間雅晴の裁判は、恐るべき悲劇であった。一人の輝かしい米軍指導者の記憶の陰にあって、あまりに長い間それは埋もれてきた。山下も本間もまた輝かしい指導者であったし、それに高潔な品性をも備えた人物だったのだ。彼等の記憶もまた、大いに尊ばれるべきである。…マニラ裁判は、戦争犯罪裁判は戦勝軍指導者による「個人的」または「政治的」仇討に悪用されてはならない、という教訓を突き付けているのである。」という。」 (将軍の裁判)

「バターン死の行進」

1942年(昭和17年)4月、フィリピン・ルソン島バターン半島を攻略した日本軍がアメリカ軍やフィリピン軍の捕虜約7万人を炎天下で約100km歩かせ、多くの死者を出したとされる事件。2009年に藤崎一郎駐米大使が、2010年には岡田克也外相がそれぞれ生存者に謝罪している。

「バターン死の行進、終戦直後に釈明」

太平洋戦争初期、フィリピン・ルソン島で起きた「バターン死の行進」は、日本軍による残虐行為として連合国により広く宣伝された。2013年3月7日外務省が公開した外交文書、1945年(昭和20年)10月22日付の文書によると、終戦直後、陸軍と連合国軍総司令部(GHQ)の連絡役を務めていた有末精三陸軍中将が、GHQ法律課長のカーペンターアメリカ軍大佐と面会して、事件について釈明した。有末中将は、@約4万と予想したアメリカ軍捕虜が実際には7万に達して、受け入れ態勢が整わなかった。A投降前に栄養失調やマラリアにかかっていた捕虜が多数いた上に、薬品など衛生材料が不足して、捕虜に回す余裕が無かった。などと説明したという。

また、有末中将の同席者は事件を起こした第14軍司令官の「本間雅晴陸軍中将」について、既に中将の「礼遇剥奪」の処分をしたこと、アメリカ軍から通報を受ければ「厳重処分するの用意あり」と伝えた。日本側が先手を打って処分する姿勢を示すことで、本間中将が戦犯として訴追されないように考えたようですね。しかし、本間中将はマニラの軍事法廷で有罪となり、銃殺刑に処されました。

日本軍の「蛮行」として言われる「バターン死の行進」。しかし、日本軍には捕虜を護送するだけのトラックが無い。したがってその移動は徒歩以外には方法がなかったのである。移動が辛いのは敵弾に傷付き、重装備の日本兵士も同じだった。日本軍は「サンフェルナンド」から「カパス」までアメリカ・フィリピン兵士の捕虜を『汽車で護送』しており、虐待するために故意に歩かせたわけではなかった「バターン死の行進」の終着点といわれる「サンフェルナンド(SAN FERNANDO)には鉄道駅があった。

当時、鉄道は首都マニラからサンフェルナンド北方44キロに位置するカパスまで敷かれていたのだという。バターン半島南端のバガクとマリベスの2ヵ所から徒歩行進した捕虜達は、マニラ湾に面するピラルで合流し、サンフェルナンドまで歩き、そこから「汽車」でカパスまで護送されていたのだった。その後、収容所のあるオドネルまでの6キロを再び歩いたのである。

 

「それと、外国出身戦犯の釈放はGHQが強く反対していたようです。サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月)により、「朝鮮半島・台湾出身」の戦犯を釈放するかどうかが問題になりました。条約十一条は日本が独立を回復した後も、連合国の戦犯裁判で下された「刑の執行」を続けるとしていますが、「朝鮮半島出身者」らは条約発効で「日本国籍」を失ったからです。結局、日本政府は戦犯を釈放しなかった。その経緯について、「外務省条約局第3課」の文書(1952年6月20日付)は、「外務省は当初(刑の執行継続に)否定的見解をとっていたが、その後主管官庁たる法務府(現在の法務省)及び総司令部(GHQ)法務局の意向がこれを肯定的に解しているのに同調した。」と記している。(2013年3月8日読売新聞)更に「SCAP(GHQのこと)側は強硬に肯定論を主張して譲らなかった。」とし、「刑の執行継続」GHQの意向が大きかったことを示唆している。」

「講和条約発効後の1952年昭和27年6月5日から全国一斉に「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が始められました。合計約4千万に達しました。こうした国民世論の後押しを受けて、政府は直ちに国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を日本に送還する措置について関係各国と折衝を開始しました。でも、連合国側が戦犯釈放になかなか同意しなかったようですね。釈放の見通しも立たないまま1953年昭和28年に入り、喫緊の課題として、一家の主を失って困窮を極めている戦犯の遺族達への援助問題が浮上してきました。戦犯の遺族達にも他の戦没者遺族と同じく弔慰金などの援助をするべきではないか、そのためには、「戦犯を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなった「公務死」と認定するべきではないか」、という議論が起こりました。「戦犯」とされた人でも「靖国神社」には戦没者としてお祀りするべきという、意見の前提に「東京裁判は間違った裁判だった。」という認識があることは言うまでもないですね。それで、1953年昭和28年8月、「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」の一部が改正されて、困窮を極めている戦犯とされた遺族の人達に対しても遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。連合軍により軍事裁判で「有罪」とされた全ての人達は、「日本の国内法」においては「罪人」と見なさないということです。だから、日本には所謂、「A級戦犯」なんてものも存在していないのです。一方、日本政府の熱心な働き掛けにより、受刑者の釈放も徐々に進んでいきました。「A級戦犯」は1956年昭和31年3月31日までに関係各国の同意を得て、全員出所したのですが、「B・C級」の最後の18名の仮出所が許されて全員出所したのは、1958年昭和33年5月30日のことでした。」 (世界がさばく東京裁判)

「さて、「受諾」とは合法性について「争わない」、要するに国際法的におかしなところがあり、「違法」「不当」だと解っても、それについて、「違法だ!不当だ!」と異議を唱えて訴えたりはしないで、「刑の執行の継承(判決)をするという解釈だったのですね。訳語が裁判でも判決でも「受諾する」ということは、「刑の執行を継承する」ということであって、(侵略や虐殺などを捏造された)裁判の内容や「正当性」を受諾する」ということではないのです。『刑の執行を継承するのに、戦犯を釈放しているじゃないか!?』と言われそうですが、規定に基づき関係各国の同意を得ているのだから何が悪いの?先生がこう言っていたのを覚えていますか?」

もし、極東国際軍事裁判所に「正当性」が無いのならば、「刑の執行」「不当」です。刑を不当に執行された日本国民は刑を不当に執行した者に対して、「損害賠償を求めることができます」。日本政府が、極東国際軍事裁判所の「裁判」「不当である」としたならば、「刑の執行」に対して「損害賠償責任が生じます」

「東京裁判に「正当性」が無いのならばって、最初から東京裁判に「正当性」なんて無いではありませんか?東京裁判が、国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり政治的茶番劇に過ぎなかったことは、もはや世界で認識されている。佐瀬委員が「裁判というものは法を大前提として」と言っているように、「裁判」はあくまで「法律」「準拠(あるものをよりどころとしてそれに従うこと)するものでなければならない。戦争に勝ったからといって、戦争の一切の責任を負けた国の指導者や国民に負わせ、自分達に都合の良い敗者だけを裁く急ごしらえの法律を作り、これを昔にさかのぼって裁いたのが東京裁判です。先生の言う『刑の執行は不当です。損害賠償を求めることができます。』というのは、出来ないのですね。実際に不当ですが、それを合法性について「違法だ!不当だ!」と異議を唱えて「損害賠償」を求めるなど訴えたりはしない、「争わない」で、「刑の執行の継承(判決)をするという解釈ですよね。そこまで踏み込んだのです。そういうことを「受諾」したのでしょう?「東京裁判」の中身が「正しいもの」「正当性」なんて受諾していませんよ。」

「先生が言っている『要するに「カイロ宣言ポツダム宣言降伏文書に基づいて、マッカーサーが命令して設立された」、これが、「東京裁判の正当性の根拠」になっています。』というところを見ていきましょうか?ちなみに、「降伏文書」はこれです。読み易いようにカタカナをひらがなに古い漢字を直したりしていますが、内容は同じです。」

「降伏文書」

1945年(昭和20年)9月2日


上から重光葵(しげみつ まもる)、梅津美治郎(うめづ よしじろう)、マッカーサーのサイン。

 下名はここに合衆国、中華民国及「グレート・ブリテン」国の政府の首班が千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」において発し、後にソヴィエト社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及び、日本帝国大本営の命により、かつこれに代り受諾す、右四国は以下これを連合国と称す。

 下名はここに日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問わず、一切の日本国軍隊及び、日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す。

 下名はここに何れの位置に在るを問わず、一切の日本国軍隊及び、日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し、これが毀損を防止すること、及び連合国最高司令官又は其の指示に基き、日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず。

 下名はここに日本帝国大本営が何れの位置に在るを問わず、一切の日本国軍隊及び、日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し、自身及其の支配下に在る一切、富岡定俊(とみおかさだとし)少将の回想。

 下名はここに一切の官庁 、陸軍及び海軍の職員に対し、連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し、又は其の委任にもとづき発せしむる一切の布告、命令及び指示を遵守し、かつこれを施行することを命じ並に右職員が連合国最高司令官により、又は其の委任にもとづき特に任務を解かれざる限り各自の地位にとどまり、かつ引績き各自の非戦闘的任務を行うことを命ず。

 下名はここに「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること、並びに右宣言を実施する為連合国最高司令官、又は其の他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し、かつかかる一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及び其の後継者の為に約す。

 下名はここに日本帝国政府及び日本帝国大本営に対し、現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜(ふりょ・捕虜)及び、被抑留者を直に解放すること並びに其の保護、手当、給養及び指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず。

 天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施する為、適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。

 千九百四十五年九月二日午前九時四分、日本国東京湾上において署名す。

 大日本帝国天皇陛下及び日本国政府の命により、かつ其の名において。

 重光葵

 日本帝国大本営の命により、かつ其の名において。

 梅津美治郎

 千九百四十五年九月二日午前九時八分、日本国東京湾上において合衆国、中華民国、連合王国及びソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、並びに日本国と戦争状態に在る他の連合諸国家の利益の為に受諾す。

 連合国最高司令官 ダグラス・マッカーサー(DOUGLAS MAC ARTHUR)

 合衆国代表 シー・ダブリュー・ニミッツ (C.W. NIMITZ)

 中華民国代表者 徐永昌(じょ えいしょう)

 連合王国代表者 BRUCE FRASER

 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者 KUZMA DEREVYANKO

 「オーストラリア」連邦代表者 THOMAS BLAMEY

 「カナダ」代表者 L. MOORE COSGRAVE

 「フランス」国代表者 JACQUES LE CLERC

 「オランダ」国代表者 C.E.L. HELFRICH

 「ニュージーランド」代表者 LEONARD M. ISITT

(調印者のサインなのですが、資料によって訳がバラバラですので、そのため一部を除き原文引用にしました。)

「次は「ポツダム宣言」です。「哲野イサクの地方見聞録」さんの解りやすい「ポツダム宣言条文・全訳」を引用させてもらいました。」

「ポツダム宣言・条文全訳」

1945年(昭和20年)7月26日

(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。

(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。(poised to strike the final blows)

(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。

(4) 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。

(5) これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。

(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。

(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

(9) 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものとする。

(10) われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする

(11) 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。

(12) 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。

(13) われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。

「第十項の部分、この条文全訳では「われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。」とありますね?一般的に知られている文書は「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」ですよね?カタカナはひらがなに直しました。この条文全訳では「断固たる正義」で、よく知られているポツダム宣言の訳語は「厳重なる処罰」。この「厳重なる処罰」の原語は『stern justice』なのですが、中には「厳重なる裁判」と訳すのが適当である、という意見もあるようです。何でかって言うと、訳語の統一の問題でもあるようですが、これが「裁判」を意味することは解っていたという。8月9日深夜から10日未明にかけての歴史的な「御前会議(明治憲法下で、国家の重大事に関して、天皇の出席のもとに、重臣・大臣などが行う最高会議)の席上で、参謀総長、軍令部総長、陸軍大臣の三人が、「ポツダム宣言」受諾に際しては、「戦争犯罪人の裁判は日本側の手で行う。」との条件を提示しようと主張したということにも、そのことは読み取られるという。同時に「厳重なる裁判」とこの表現を押し出すことで、それが「とにかく『裁判』でなければならない。」という意味も込められていると、事実この「東京裁判」「裁判」とは名前だけで「復讐」「私刑(個人や集団が、法律によらずに加える制裁。私的制裁。リンチ。)の儀式以上のものではなかったからです。」 (東京裁判・日本の弁明)

「最後に「カイロ宣言」ですね。」

「カイロ宣言」

1943年(昭和18年)12月1日

「ルーズ・ヴェルト」大統領、「蒋介石」大元帥及「チャーチル」総理大臣は各自の軍事及外交顧問と共に、北「アフリカ」に於て会議を終了し、左の一般的声明発せられたり。

各軍事使節は日本国に対する、将来の軍事行動を協定せり。

三大同盟国は海路、陸路及空路に依り其の野蛮なる敵国に対し、仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり、右弾圧は既に増大しつつあり。

三大同盟国は日本国の侵略を制止し、且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり、右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず、又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず。

右同盟国の目的は、日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て、日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること、並びに満洲、台湾及膨湖島の如き、日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り。

日本国は又暴力及貪欲に依り、日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。

前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す。

右の目的を以て、右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすに必要なる重大且長期の行動を続行すべし。

「さて、さて。一般的に言われる「カイロ宣言」ですが、「芋太郎の広場」さんの「対訳・カイロ宣言」より引用させてもらいました。」

Cairo Conference
「カイロ宣言」

Released December 1, 1943
「1943年12月1日公開」

The several military missions have agreed upon future military operations against Japan.
「各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。」

The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, land, and air.
「三大同盟国は、海路、陸路及び空路によって野蛮な敵国に仮借のない圧力を加える決意を表明した。」

This pressure is already mounting.
「この圧力は、既に増大しつつある。」

The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan.
「三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている。」

They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion.
「同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。」

It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the First World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to the Republic of China.
「同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。」

Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed.
「日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。」

The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.
「前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。」

With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan.
「以上の目的で、三同盟国は、同盟諸国中の日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する。」

「日本語では「カイロ宣言」で知られているけど、正式な英語では「Cairo Conference」なのです。「カイロ会議」です。『宣言』に相当する英語である、『Declaration』『Proclamation』は使われていない。それに、「Yale Law Schoolイェール大学法学部・アメリカの大学)のホームページでも「Cairo Conference 1943(カイロ会議1943)になっています。しかも、内容もひどいですね。日本が正式な国際条約によって取得した領土を、勝手に「奪取」「占領」「盗取」などと呼んでいる。」

「イェール大学法学部」
 

「カイロ宣言、ポツダム宣言、降伏文書」「東京裁判の正当性の根拠」になっているということですが、もう少し具体的に言うと東京裁判で検察側は、東京裁判の「法的根拠」「カイロ宣言」および、これを受け継いだ「ポツダム宣言第八項」にあると言う。カイロ宣言の部分は…。」

右同盟国の目的は、日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て、日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること、並びに満洲、台湾及膨湖島の如き、日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り。

日本国は又暴力及貪欲に依り、日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。

前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す。

「これを受けた「ポツダム宣言の第八項」は…。」

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

「パール判事の判決文の第五部ではこの裁判の「管轄権の範囲」について論述していますが、検察側は「カイロ宣言」「ポツダム宣言」を日本が受諾した以上は戦犯裁判を受けるのは当然であると言うけど、この両宣言が示した「戦争」とは、「真珠湾攻撃(1941年昭和16年12月8日・日本時間。現地時間は12月7日の早朝となる)をもって始まる「太平洋戦争」を指すのであって、「満洲事変(1931年昭和6年9月18日)「ノモンハン事件(1939年昭和14年5月〜9月)のことを言っているのではない。したがって、この裁判の「管轄権」「太平洋戦争」以前に「拡大する」ことは、「事後法」をあえて成すもので不法も甚だしいとしている。いかに戦勝国の最高司令官が絶大なる権力を持っていても、「国際法」までもねじ曲げて、これ(マッカーサーの作った裁判所条例)に従って裁判しろと判事達に命令することは出来ないはずです。法律の「不遡及(法律が、その実施以前の事実にさかのぼって適用されないこと)「事後法」の禁止ということは、法治社会における根本原則です。東京裁判においては、これをあえて侵しているのです。「事後法」立法は裁判の仮面をかぶった「私刑(個人や集団が、法律によらずに加える制裁。私的制裁。リンチ)に他ならないのです。さっきの通り、検察側は、東京裁判の「法的根拠」「カイロ宣言」および、これを受け継いだ「ポツダム宣言第八項」にあると言うのですが、検察側はこれに基づいて、「東京裁判」の管轄権は1931年の満洲事変以後、45年に太平洋戦争の終った時までの全期間における日本が侵した一切の行為であると言うのです。これに対して弁護人側は、「ポツダム宣言」が発せられたのは1945年の7月26日で、日本がこれを受諾し、ここに初めて東京裁判の「法的根拠」が成り立ったのだから、したがってポツダム宣言が発せられた7月26日現在において存在した戦争、つまり、いわゆる「太平洋戦争」のみが本裁判所の審理目標たるべき「戦争」であるというのです。」

「我々が大東亜戦争と言い、諸君が太平洋戦争と言われた戦争の戦争犯罪人に限定すべきで、この戦争に関係が無く、既に過去において終了している戦争を想い起して、起訴するなど不可解千万である。その一つは遼寧、吉林、黒竜、熱河における日本政府の行動を戦争犯罪としているが、これは満洲事変を布告なき戦争と見てのことだろうが、満洲事変の結果満洲国ができ、その満洲国は多数の国によって承認されている。ソ連も東支鉄道を満洲国に売却した以上は、満洲国を承認したものと解釈できる。更に驚くべきことは、1938年8月および1939年9月に、日ソ間において協定が成立したところの張鼓峰事件、ノモンハン事件まで起訴されている事実である。しかも日ソ間には1941年4月、中立条約が締結され、1945年7月26日(ポツダム宣言が発せられた日)には、何等戦争状態は存在しなかったのである。」(清瀬弁護人の弁論)

「パール博士はこの弁論を支持して次のように述べています。」

「裁判所の管轄権に関する第一の実質的な異議は、本裁判所が裁判することのできる犯罪は1945年9月2日の降伏によって終結をみた戦争の継続期間中、もしくはその戦争に関連して犯された犯罪に限るべきである、ということである。本官の判断ではこの異議は容認されなければならない。戦争に敗れたからといって、その結果、戦敗国家およびその国民が、その存在の全期間を通じて行われた不法行為の全てに対して、裁判に掛けられる立場に置かれると考えるのは、不条理である。今次戦争を除いた、他の戦争の継続期間中、あるいはそれに関連して犯罪を犯したかもしれない人々を起訴する権限を、連合軍最高司令官、もしくは連合国に付与している条項は「ポツダム宣言」および「降伏文書」中には何も無い。」 (パール判事の日本無罪論)

「更にパール博士は、いったい「カイロ宣言」「ポツダム宣言」等というようなものが、国際法律上どれだけの価値があるのか、という大きな疑問符を投げかけ、次のように述べています。」

「これらの両宣言は、たんに連合諸国の意向を表明しただけのことである。法律上、価値あるものではない。それ自体だけでは国際社会に法律上の権利を生じさせるものではない。」
(中略)
「したがって本官の意見としては、1945年9月2日の降伏によって終わりを告げた戦争
(大東亜戦争)以外の紛争、敵対行為、事変もしくは戦争の継続期間中、またそれに関連して犯されたと称する犯罪は、本裁判所の管轄の範囲外にあると考えるのである。」 (パール判事の日本無罪論)

「戦勝国が例えどのような宣言を発しても宣言は宣言であって、条約でもなければ法的拘束力を持つ法律でも規律でもない。ポツダム宣言が日本側において受諾されて、調印されて、初めて法的拘束力が生じるのです。日本が調印したそのポツダム宣言は、明らかに第二次大戦中の戦争犯罪のみを規定しているのです。検察側はポツダム宣言はカイロ宣言を受け継いでいると言いますが、カイロ宣言のどこにも戦犯に関した文字は見当たらないのです。」

「さて、ところでその「カイロ宣言」ですけど、カイロ宣言は署名がないニセモノ」です。詳細は下記のページを参照のこと。降伏文書」には「ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること」と明記して、連合国と共に日本にも署名されたけど、これについても、「無署名」のものに対して「宣言」としていること自体が誤りであり、「ポツダム宣言」の第8条の「カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし」の部分は「無効」であるとの指摘もあります。「カイロ宣言」が捏造ですから、正式な英語では「Cairo Conference」なので、「カイロ会議」ですが、このため「ポツダム宣言第八項」「カイロ宣言の条項は履行される」という条文に含まれている意味を、確定することはできないのです。」

カイロ宣言は署名がないニセモノ

カイロ宣言は捏造、1972年の日中共同声明の再検証を

「ついでに、東京裁判で弁護人を務めた菅原裕氏は、「ポツダム宣言『八「カイロ宣言」ノ条項ハ履行セラルベク又、日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』−本項は「カイロ宣言」ならびに「ヤルタ協定」の実施として日本より台湾、樺太、千島を剥奪したものであるが、日本が本来領有し、もしくは堂々たる講和条約によって取得し既に数十年にわたり国際的に公認せられているこれらの島嶼を一方的宣言や「秘密協定」によって奪い去ることは明らかに国際法の蹂躪であり、かくの如く戦勝国が無制限に過去にさかのぼっていっさいの公認されている現実を否認するとすれば、いずれの時にか国際秩序の安定が有り得るであろうか。またこれは1941年(昭和16年)8月英米が宣言した、大西洋憲章第二項の「両国は関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる、領土的変更の行なわることを欲せず。」に違反するものである。」という。菅原裕弁護人は“八「カイロ宣言」ノ条項ハ履行セラルベク”−第八項の結果、同宣言中の「右同盟国ハ自国ノ為ニ、何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ」の個所は日本の利益のために援用し得るものである。ゆえにベルサイユ条約による第一次世界戦争以後、日本が取得したる島嶼や、台湾、澎湖島は盗取したのではなく、正当なる日清講和条約により取得したものなることが判明したならば、この後段の剥奪措置が適当であるかどうかの再検討や原状回復措置も後日に残ることになる。いわんや「ヤルタ秘密協定」による千島、樺太の奪取の如きは明らかに本条項と抵触するもので当然無視されるべきものと信ずる。」という。」 (世界がさばく東京裁判)

「法律は制定以前の事実に対してさかのぼって適用することは「事後法禁止の原則」として、固く禁じられている。法はさかのぼらず、ということは法治国家における根本原則です。アメリカ自身もこれを憲法で禁じており、およそ文明国においてはこれが法治の原則です。何故なら、「事後法」「私刑(個人や集団が、法律によらずに加える制裁。私的制裁。リンチ)であるからです。ところが、「東京裁判」はあえてこれを侵し、「満洲事変」にまでさかのぼってこれを裁いている。高柳賢三弁護人の冒頭陳述(総論B)より引用しますと…。」

『事後法禁止の法則は全ての文明国において、刑事裁判の準則として承認されている。そしてこの準則は国際的又は国内的政治犯罪に関する事件においては、特に尊重されなければならないのである。英国議会はその無制約的権能にもかかわらず、1688年以降においては政治犯人を処罰するため「事後立法」を行ったことはない。又アメリカ合衆国憲法は、州法たると連邦法たるとにかかわらず、等しく「事後法」を禁止している。そしてアメリカの立法史を通じて、政治犯に関する事後立法は極めて稀であるようである。南北戦争後かような事後立法が行われ、南部連邦の援助者の処罰を定めた州法及び連邦法に関連した二つの事件が合衆国最高裁判所に提起されたことがあるが、同裁判所は当時の興奮した民衆感情のただ中にあって、フィールド判事を通じ州法連邦法ともに「違憲」であると判示し、その歴史に永遠の栄光をそえたのである。』 (東京裁判・日本の弁明)

「結局、この裁判は「法」に基づくものでもなく、「正義」に根ざすものでもなく、連合国側の「人道に対する罪」は一切不問に付して、要するに「政治的・政策的」なものでした。東京裁判は、明らかに一つの狙いを持ったデモンストレーションであり、「ショー(show)であったと言われています。その狙いというのは占領政策の宣伝効果ということです。パール博士の言葉を借りて言えば「この裁判所は、法律執行機関としての裁判所ではなくして、権力の表示としての政治機関。」でありました。つまり「この裁判は、法律的外貌はまとっているが、実はある政治目的を達成するために設置されたもので、それは占領政策の宣伝効果を狙った、『興行』以外の何ものでもなかった。」のです。パール博士は、東京裁判の判事の中で、唯一の国際法の専門家であり、第二次大戦前の1937年(昭和12年)、既に国際法学会の総会で議長団の一人に就任していました。東京裁判の終了後には、国際法学会は圧倒的多数で東京裁判でのパール判決は正しいと評価を下した。」 (パール判事の日本無罪論)

日本は「条約」によって判決を受け入れたのだから、後になってから「この判決に書かれていることは受け入れない」と言える筋合いではないのですよ!!

「…と、先生は言っていましたよね?既に説明したように「受諾」とは、要するに法的におかしなところがあり、「違法」「不当」だと解っても、それについて、「違法だ!不当だ!」と異議を唱えて訴えたり、合法性については争わないで、「刑の執行の継承(判決)をするということですね。それと、「条約」と言いますけどね、既に説明した通り、「ポツダム宣言」の内容を「条約」化したと言うのなら、GHQは「条約」に違反しているじゃないですか?GHQ「ポツダム宣言」に違反して、徹底した「言論検閲」を行っていたのですよ?しかも、ポツダム宣言で日本人を奴隷化するつもりはない、なんて言いながら、全国にて2万4千人もの日本人を検閲員としてこき使っているじゃないですか?1952年(昭和27年)4月28日の占領終了まで約七年間、「ポツダム宣言」「言論の自由の尊重(第十項)が謳われていたにも関わらず、GHQは連合国批判、東京裁判批判につながる意見の一切を原則的に「検閲」で封じ込めてしまったのです。しかもこの検閲は、「検閲制度への言及」を厳禁した上で実施されるという、極めて周到かつ隠微な形をとって行われた。戦前の日本の検閲は「伏せ字(印刷物で、明記を避けるために、その部分を空白にしたり、○や×で表したりすること。また、その部分や印)であったから、国民は検閲が行われていることを明らかに認識することができた。しかし、GHQの検閲は、「検閲制度」そのものを周到に隠したまま行われたのです。この検閲制度によって日本のあらゆる新聞、雑誌などのジャーナリズムは、ほぼ完全に占領政策批判の姿勢を放擲(ほうてき・投げ出すこと)させられたのです。」 (世界がさばく東京裁判)

「国際法にも無い罪名をもって起訴したり、戦勝国の裁判官だけで国際裁判所を構成したり、「事後法」まで犯して日本の過去の争いを裁いたり、勝手に侵略戦争の定義を下したりその犯罪を個人にまで及ぼしたりといった、この一連の不法行為は一体どの様な名目によって行われたかと言うと、それはマッカーサーが作った「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)によるものです。現行の「国際法」「条約」などでは日本とドイツの指導者を裁くことは出来ない。そこで連合国である、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四ヵ国は1945年8月、ロンドンに集まって戦争犯罪会議を開き、戦犯の意義を拡張することを決めた。これがすなわち「ニュルンベルク裁判」のチャーターです。この戦犯会議の前に「ポツダム宣言(発したのが1945年昭和20年7月26日)は発せられ、日本がこれを受諾したことを銘記すべきです。更にアメリカ、イギリス、ソ連の三ヵ国外相は、同年の12月モスクワにおいて会議を開き、連合国軍の日本占領統治は最高司令官マッカーサー元帥によって統一実行されることを協定した。そこで、マッカーサーは前述のニュルンベルク裁判のチャーターに倣って「東京裁判」のチャーターを作ったのです。」

「パール博士が3年間の日数を費やし、心血をそそいだ判決文は、法廷においては公表されず、多数派の判決のみが、あたかも全判事の一致した結論であるかのように宣告された。ブレークニー弁護士は、少数派意見も法廷において公表すべきことを強硬に主張したけど、容れられなかった。このことは、「裁判所条例」を、「裁判所」自らが無視した不法行為です。ブレイクニー弁護人の発言で「原子爆弾」に関する内容で、一言に要約するなら「広島・長崎への原爆投下という空前の残虐(これこそ起訴状に言う「人道に対する罪」だった)を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格は無い。」というものでした。この発言は、『条例』に定めてあるはずの、法廷における日本語への同時通訳が俄かに停止して、最後まで復活しなかった。それは日本語に通訳されればそれは日本語の法廷速記録に留められて後世に伝わることでしょうし、第一、法廷の日本人傍聴者の耳に入り、その話は世間に広がっていくでしょう。そしてその発言にある道理の力は、反転してかかる非人道的行為を敢えてしたアメリカの国威と欺瞞に満ちたこの裁判所の威信を決定的に傷付け、「原爆」の被害を受けた日本人の憤激の感情を新たに刺激するでしょう。裁判所からすれば、それだけは何としても回避したい打撃です。そこで(どう考えても意図的に)同時通訳は瞬時に停止されて、早口の英語の弁論を理解出来ない日本人の傍聴者には、現在そこで何が起きているのか解らない。一般に人々がその弁論の内容を知ったのは、実にそれから36年余を過ぎた昭和57年の夏、講談社の企画・製作による長編記録映画「東京裁判」が公開上映された時に、その字幕を通じてのことでした。ブレイクニー弁護人の発言は英文の速記録には載せられている。」 (東京裁判・日本の弁明)

「東京裁判(極東国際軍事裁判所)条例」

「第九条 公正なる審理の為めの手続。」

被告人に対する公正なる審理を確保する為め、左記の手続を遵守すべきものとす。

(ロ)用語 審理並に之に関連せる手続は英語及び被告人の国語を以て行はるべきものとす。

文書其の他の書類の翻訳文は必要なる場合請求に応じ提供せらるべきものとす。

「GHQも東京裁判も『条例』、ガン無視ですよねぇ…。最初に「裁判と訳したところで問題は無いと思うのです。」って言ったのを覚えていますか?「受諾」の意味は説明した通りですが、「“裁判”を受諾した」と言うのであれば、その通り『裁判』をやらなくてはいけなかったのです。『法』に基づく『裁判』をです。名前が「東京裁判(極東国際軍事裁判)」じゃないか!?」って言うのですかね?なら「名前」だけ認めれば良いのですか?中身は「私刑・茶番劇」です。検察側は、東京裁判の「法的根拠」「カイロ宣言」および、これを受け継いだ「ポツダム宣言第八項」にあると言うのは先の通りで、しかし、「カイロ宣言は署名がないニセモノ」です。しかも「カイロ会議」です。「ポツダム宣言第八項」「カイロ宣言の条項は履行される」という条文に含まれている意味を、確定することはできないのです。元々、検察側はこれに基づいて「事後法」まで侵して、「東京裁判」「法的根拠」として「満洲事変」にまでさかのぼってこれを裁いている。でも、これでは「法的根拠」は無いじゃないですか?「でも、日本は受諾したんだ!」とでも言うのでしょうか?誰かが日本に「あっ!、ちなみに「カイロ宣言」は偽物の捏造ですからね?」なーんて教えてくれたのですか?捏造して騙すのに成功したら「合法」になるなんて、それじゃ、「架空請求」「振り込め詐欺」も騙すのに成功したら犯罪ではなく合法にしますか…?そんな馬鹿な!」

日本なんか後々になってから、ごちゃごちゃと文句を言える筋合いではないのですよっ!!

「…って、言いそうなので、ほんじゃ世界の人達に言ってもらいますか?「東京裁判」などの「偽物裁判」が国際法上では、「正当性」のかけらもない「茶番劇」であるという評価は、すでに世界の常識となっている。」

「東京裁判や日本などの世界の認識と評価」 (「パール判事の日本無罪論」、「世界がさばく東京裁判」など。)

「東京裁判」を演出し指揮した「マッカーサー」は、裁判が終わって一年半後、ウェーク島でトルーマン大統領に「この裁判は間違いだった。」と告白している。連合軍最高司令官であったマッカーサーは戦後のアメリカ議会において、日本が開戦したことについて「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」(したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。)と証言しており、この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたと捉える意見もある。証言は、朝鮮戦争中に国連軍司令官や連合国軍総司令部(GHQ)司令官など極東で全ての公職を解任されたマッカーサーが1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会の聴聞会で行いました。「日本を糾弾した東京裁判」の責任者だったマッカーサー自身が、日本が対米開戦に踏み切ったのには正当な理由があったと明言したわけです。

●ダグラス・マッカーサー司令官は1951年(昭和26年)5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で次のような答弁を行った。「日本は、絹産業以外には固有の産物はほとんど何も無いのです。彼等は綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼等は恐れていました。したがって彼等が戦争に飛び込んで行った動機は、大部分が「安全保障」の必要に迫られてのことだったのです。」 (東京裁判・日本の弁明)

●1950年、イギリス枢密院顧問官で政界の元老であると共に、国際法の権威であるハンキー卿が「戦犯裁判の錯誤」を著し「裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを私は全然疑わない。」と言明して、幾多の慣行法や実定法や歴史的事実とパール判決の内容とを照合しつつ、戦犯裁判そのものに根本的な疑問符を投げ掛けるとともに、「東京裁判」の不公正を衝いている。

●イギリス法曹界の重鎮であるF・J・P・ビール氏が「野蛮への接近」という著書で、戦争と処刑に関する古今東西の歴史的考察を行い、東京とニュルンベルクにおいて行われた二つの裁判は、原告は「文明」であると僭称しているが、実は、戦勝者が戦敗者に加えた野蛮時代の「復讐行為」の再現に他ならないことを明らかにしている。

●イギリスでは国際法で有名なW・フリートマン教授、国会議員であり、かつ王室弁護士であるR・T・パジェット博士などのパール支持論が優勢を占めて、ついにロンドンの世界事情研究所監修「世界情勢年鑑(1950年版)には、54ページから104ページにかけて、東京裁判を解説し、パール判定が「正論」であることを裏付けた。

●アメリカでも、東京裁判に関する批判と反省の論争は活発に行われた。チャールス・ベアート博士は、歴史学・政治学の泰斗として有名で、日本へも来たことのある人ですが、「ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究」という長い題名の著書の中で「日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令した」と発表し、日米開戦前夜におけるパール博士の指摘した点を裏付けた。

●アメリカ最高裁のウィリアム・O・ダグラス判事は、東京裁判の被告らがなした大審院への再審査請求事件に対して、1949年6月意見書を発表したけど、その中でパール判決を支持して「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外の何ものでもなかった。」と批判している。

●マンレー・O・ハドソン判事は、著書の「国際裁判所の過去と将来」において「政治機構に関してどのような発展が行われようとしているにせよ、国際法の及ぶ範囲を拡大して、国家もしくは個人の行為を不法とし、これを処罰する司法作用を包含させるには、現在はまだその時機が熟していない。」と述べている。

●C・A・ウィロビー将軍(アメリカ・GHQ参謀第二部長)は、判決後に帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のレーリング判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁止するつもりだ。」と語っている。

●ベルト・ファン・A・レーリング判事(東京裁判オランダ代表判事)は、「国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加えることを求められているにもかかわらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法のためにこの上なく有害なことをしたことになるだろう。」と言う。(勝者の裁き)

●オランダのレーリング判事は次のようにも述べている。「自分が(東京裁判の判事に)任命されたのは偶然なことだった。私がユトレヒト(オランダ中部の商工業都市)で裁判官をしていて、同時にインドネシアの刑法の特任教授であったことが、そうなった理由だ。私がアジアと多少関係しているというので、極東でこの任務に就くのが良かろうと勧められた。私は国際法学者ではなかった。その当時、私は国際法については何も知らなかった。」 (東京裁判とそれ以後)

●ウェッブ(オーストラリア・東京裁判裁判長「私は日本が9千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15パーセントにすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私はアメリカなりイギリスなりが同じような状況に置かれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。アメリカもイギリスも日本が1941年におかれたような状況に置かれれば、戦争に訴えていたかもしれないのである。」と言う。(天皇の陰謀)

●実は裁判長に就任する前の、1945年(昭和20年)6月26日、クイーンズランド州首席判事だったウィリアム・ウェッブはオーストラリア外務省にあてた同日付書簡の中で、準備が進められていた東京裁判について、「国際法に基づく厳密なやり方を諦めて、特別法廷で蛮行とも言える見せ物的な公開裁判を行うべきではない。」と強く反対していた。

●エドウィン・O・ライシャワー博士(アメリカ・元駐日アメリカ大使、ハーバード大学教授)「軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。」と述べている。(将軍の裁判。マッカーサーの復讐。日本版裏表紙に寄せた文章より)

●ケ小平(中国共産党副主席)「日本は中国を助けたことになっている。…日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。…皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。」と述べている。(中国との友好交流20年の感想)

●K・R・ナラヤナン(インド大統領)「パール博士の有名な反対判決は、勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和そして国家間の和解と親善のために努力すべきことを説いた、感銘深い呼びかけでありました。博士はまた、そのように行動されたことにより、インドと日本との友好と理解のシンボルとなったのであります。」と述べた。(1997年10月16日京都のパール博士顕彰碑建立の際に寄せたメッセージ)

●プライス(アメリカ陸軍法務官)「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰するからやめたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。」1945年12月のニューヨーク・タイムズ紙(東京裁判の正体)

●カール・ヤスパース(ドイツ哲学者)「私はどう考えても、1つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う。“自分には罪はない”などというのは、薄っぺらで、ごまかしの道徳意識だ。これこそひとりよがりというものだ。その証拠に、彼らはすでに、次の戦争の準備をし、これを促進しているだけではないか。…いっそ明白なる暴力の方がましである。その方が正直で我慢しやすい。そこに存在したものは戦勝国の強権ばかりであった。それは人類の将来の平和のために、無益なばかりか、極めて有害な存在となった。」(戦争の責罪)

●アメリカのロバート・A・タフト上院議員は講演の中でドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判に言及し、「事後法」による裁判は将来の侵攻戦争の発生を食い止める役に立たないこと、また、この裁判は正義の実現ではなくして復讐心の発現であることを力説し次のように述べた。「勝者による敗者の裁判は、どれほど司法的な体制を整えてみても、決して公正なものではありえない。」

●東京裁判の実質的な遂行者であり、演出者であったGHQ内部でも批判があった。マッカーサー司令官のアドバイザー役を務めた対日米国政治顧問、対日理事会議長のウィリアム・シーボルド総司令部外交局長は、後にこう述べている。「私は起訴状のなかに述べられた、忌まわしい事件の多くをよく知っていたけれども、本能的に私は、全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた。当時としては国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかったのだ。もちろん、これと反対の意見の中にも相当の説得力を持ったものもあった。そして歴史によってその正当性が証明される時が、来るかもしれない。しかし、この点に関しては私の感じは非常に強かったので、この最初の演出された法廷の行事が終わるまで、私は不安な感じに襲われ、再び法廷には戻らなかった。」 (日本占領外交の回想)

●マッカーサー司令官から戦犯リストの作成を命じられたGHQ対敵情報部長エリオット・ソープ准将は後に次のように漏らしている。「敵として見た場合、東條をはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害を受けて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後に作りだされたものであり、リンチ裁判用の「事後法」としか思えなかった。」

●イギリスの政治家モーン卿は次のように論評していた。「チャーター(極東国際軍事裁判所条例)は決して国際法を規定したものでもなく、また戦争犯罪というものを規定したものでもない。ただ単に裁判に掛けられた僅かな人達を裁くためにのみ作られたチャーターであった。」 (東京裁判の正体)

●アメリカのウィリアム・ローガン弁護人は判決を待たずに急遽帰国したが、全被告に対して、次のような挨拶を述べた。「私は最初、日本に着いた時にはこれはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもなかった。しかるにその後種々調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考えていたこととは、全然逆であって、日本には20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じて無かったことに確信を持つに至った。したがって起訴事実は当然全部無罪である。しかしこれは弁護人である私が2年半を費やし、あらゆる検討を加えてようやくここに到達した結論である。したがって裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである。」 (東京裁判の正体)

●満洲事変以降の日本の国策を「共同謀議」で説明できるとした検察側の主張にも強い反論が出された。例えばアメリカ人のウィリアム・ローガン弁護人は1947年(昭和22年)2月25日の冒頭陳述において、次のように述べた。「侵略戦争を開始し遂行するための継続的共同謀議というものは有り得なかったという事は、事実をもって立証せられます。その事実とは1931年(昭和6年)9月の満洲事変、1937年(昭和12年)7月の支那事変並びに1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争がそれぞれ勃発した当時の二つの内閣のいずれかの閣僚たりし者は被告の中には居らぬということであります。」 (東京裁判・日本の弁明)

●アメリカ・マサチューセッツ州立大学のリチャード・マイニア教授は1971年に刊行した著書「勝者の裁き」の中で、「アメリカも「人道に対する罪」を犯した疑いが極めて強かった。「極東国際軍事裁判所条例」「人道に対する罪」を、「一般市民に対する非人道的行為」と定義した。この定義は、広島や長崎に対する「原爆投下」にも適用されないのであろうか。」という。

●連合国は、日本の戦争は侵略戦争に決まっているのだから、侵略戦争の定義が有ろうが無かろうが、日本は犯罪国家なのだ。こう断言したのである。この判決をアメリカ・マサチューセッツ州立大学のリチャード・マイニア教授は“皮肉”を込めて次のように痛烈に批判している。「定義というものは、個々の事例を考察してのちに、下されるべきものであって、初めに具体的な定式を作ってはならないことは明らかである。だが我々[連合国]は、「侵略」何であるか解らないのに、ドイツと日本が「侵略」をなしたことは、解っていたことになる。」 (勝者の裁き)

●戦後、アメリカ政府指導者たちは、戦争を短期に終わらせるために「原爆投下」が必要だったと釈明に努めた。そして、更に百万人のアメリカ人将兵の命を救うためには、20万以上の日本人が殺されても止むを得なかったのだと、「原爆投下」を正当化したのである「ユナイテッド・ステイツ・ニューズ」(USニューズ&ワールド・リポートの前身)編集長のデービッド・ローレンスは1945年(昭和20年)10月5日、同誌で次のように問いかけた。「もし原爆を使う権利が容認されるなら、いわゆる安楽死を行う兵器、ブーヘンバルトのガス室なみに手っ取り早く即効性のあるもの、を開発する権利も容認されるはずだ。…合衆国は何においても原爆を非難し、それを使用したことについて日本に謝罪すべきだ。陸軍航空軍のスポークスマンは、原爆投下はいずれにせよ必要性は無く、戦争はすでに勝利していたと言っている。原爆が落ちる何週間も前に日本が降伏しようとしていたとする確たる証言がいくつもあがっている。

●実は、戦時中のアメリカの軍人達は「原爆投下は不必要」と考えていた。原爆実験に初めて成功し、原爆投下の是非を検討した1945年(昭和20年)7月16日の統合参謀本部の会議において、キング海軍作戦部長は「海上封鎖だけで日本は飢えて降参し、戦争にトドメをさせる。」と主張し、アイゼンハワー連合軍欧州最高司令官は原爆投下は全く不必要だ。もはやアメリカ兵の生命を救う手段としては必須ではなくなった。この恐怖の兵器を使えば、世界に反米世論を巻き起こすだけだ。」と注意を促していた。

●1952年(昭和27年)11月、広島を訪れた国連国際法委員会委員で、元東京裁判判事のラダビノッド・パール博士は世界連邦アジア会議で次のように述べた。「広島、長崎に原爆を投下したとき、どのような口実がなされたか。日本として投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の用意をしていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにも関わらず、この残虐な兵器を日本に投下した。しかも「実験」として広島と長崎に投下したのである。(以下省略)という。

●1946年(昭和21年)9月9日には、アメリカの第三艦隊司令官のウィリアム・ハルゼー大将が、原爆が使用されたのは指導者層が科学者たちの持っている「おもちゃを実際に試したかったから」だと発言し、次のように続けた。「史上初の原爆投下は全く必要の無い実験だった。…そもそもあれを落とすこと自体が間違いだった。」 (原爆投下決断の内幕・下)

●この直後、「サタデー・レビュー」の編集長ノーマン・カズンズは、原爆投下という犯罪を真っ向から非難した。「海軍のスポークスマンによると、日本は広島に原爆が投下される前に降伏の用意があったという。となると、何千何万という数え切られないほどのアメリカ人の命が救われたという主張は、どうなってしまうのだろう。」という。

●アメリカのウィリアム・リーヒ海軍大将が、1950年(昭和25年)次のように公言しました。「私の意見では広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは、対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本は既に打ちのめされており、降伏寸前だった。…あれを最初に使うことによって、我々は暗黒時代の野蛮人並みの論理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない。」

●1990年(平成2年)、保守系のアメリカ原子力規制委員会で首席歴史記述者を務める、J・サミュエル・ウォーカーは権威ある学術雑誌「外交史」にて、(前略)まだいくつかの問題で専門家の意見の対立は見られるが、重要な疑問には答えが出ている。日本侵攻を避けるために、また、比較的短期間で戦争を終わらせるために、原爆は必要なかったというのが、研究者の統一見解である。原爆に代わる選択肢があったことは明白であり、そのことをトルーマンとその側近が知っていたことに議論の余地は無い。…原爆は50万人のアメリカ戦闘部隊の命を救ったというカビの生えそうな主張には全く根拠の無いことは、疑いの余地は無い。」という。

●公判でアメリカ人のジョージ・ファーネス弁護人は全被告に代わって、「この裁判所の判事は総てこういう(戦勝国の)国家の代表であり、これが原告国家の代表であり、又検察官もその国家を代表しているのであります。我々はこの裁判所の各判事が明らかに公正であるに拘らず、任命の事情によって決して公正で有り得ないことを主張するのであります。でありますから、この裁判は今日においても又今後の歴史においても、公正でなかった、合法的でなかったという疑いを免れることが出来ないのであります。」という。 (勝者の裁き)

●1948年(昭和23年)12月16日、アメリカ連邦最高裁の口頭弁論を開いて、その席でアメリカのディビッド・スミス弁護人は、法手続きの不備、不公正さを指摘して次のような激烈な「東京裁判」法廷攻撃を行った。東京法廷は、真の国際法廷ではない。あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である。元帥は、彼自身を国際的代表者と呼ぶことによって、アメリカの法律と縁を切ることはできない。東京法廷は、マッカーサー元帥のための事実審議機関であって、判決は、直接マッカーサー元帥のところに移されたし、最終の決定はマッカーサー元帥にかかっていた。−訴願者[日本人の被告たち]は、今迄どんな文化的、現代的法廷も直面したことがないような弛緩(しかん・ゆるむこと。たるむこと)した証拠と手続きに関する規則に晒されたのである。法廷は、反対と、例外とにかまわず、署名されていない口述書、宣誓されていない声明、新聞報道、二流、三流の伝聞証拠を受理した。」

●1988年(昭和63年)イギリスでロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)から英語版「極東国際軍事裁判記録」が発行されたが、その編集責任者でロンドン大学のジョン・プリチャード研究員は、過去14年間、裁判の全記録を詳細に研究してきた歴史学者の立場から、裁判は真実の解明よりも最初から日本側旧指導層の処罰と国民の再教育(正確に言えば「洗脳」であろう)を目的とする勝者の裁きだったとして、「東京裁判の問題点」を次のように列挙している。@検察は真実の解明よりもとにかく日本側の指導者たちを厳しく処罰して、日本国民を再教育することを目的としていた。判事達は検察側の主張を鵜呑みにして弁護側の証拠とか主張は一方的に却下した明確な形跡が多い。A一般に戦争犯罪とされる捕虜や民間人への残虐行為に関する記録は全体の5−10%で、ニュルンベルグ裁判よりずっと比率が低い。残りの「戦争についての政策」の部分は戦争を侵略と自衛に分けることは難しいし、日本の歴代指導層が一致して「侵略戦争」を企図したとも言えないから「戦争に関する共同謀議」とか「不法戦争による殺人」という訴因にも「法的根拠」をほとんど見い出せない。B戦争後までは存在しなかった「平和に対する罪」を過去にさかのぼって適用する点やその「罪」の根拠を1928年の「パリ不戦条約」に求める点にも無理がある。

●カサブランカ会談から十ヶ月後の1943年昭和18年10月30日、連合国はドイツを対象とした「モスクワ宣言」を発表した。同宣言には、国際法に規定された「通例の戦争犯罪」を犯したドイツ軍将兵、ナチス党員をその犯罪がなされた国に引き渡し、その国の裁判によって処罰する旨が明記されていた。しかし、この宣言にはある致命的な欠陥があった。「連合国側の戦争犯罪人」をどうするかについて全く言及していなかったのである。常設国際司法裁判所(PCIJ)規程作成のため1920年(大正9年)、オランダのハーグに会同した法律家諮問委員会は、「戦争の法規慣例に違反したかどうかで訴追されるものを裁判するにあたっては、戦勝国も戦敗国もともに公平な裁判所においてこれを裁判しうるものでなければならない。」という「希望」を表明していた。にもかかわらず、「第二次世界大戦」において「連合国は敵国の戦争犯罪人だけを裁く意向を表明」し、連合国側の交戦法規違反者については全く口を閉ざしてしまったのだ。国際法の大家であるアメリカ、カリフォルニア大学のハンス・ケルゼン教授は当時、こう指摘した。(前略)被害を受けた国が、敵国国民に対して刑事裁判権を行使することは、犯罪者側の国民からは正義というよりはむしろ復讐であると考えられ、したがって将来の平和保障の最善策ではない、ということである。戦争犯罪人の処罰は国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。戦敗国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して、戦争犯罪に対する処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民に対する裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである。」 (パル判決書・上)

●既に東京裁判当時、アメリカ・コーネル大学のP・W・シュレーダー教授も歴史家の立場から「歴史の過程は複雑過ぎて、一つの軍事裁判所の判決で説明し切られるものではない。」と指摘していた。後にシュレーダー教授は「裁判の構成、政治情勢、戦後の初期の世論などが、東京裁判の問題についての冷静かつバランスのとられた判定を下すことを不可能にしてしまった。歴史家は、東京裁判の判決が、国際法と正義を大きく前進させたという考えを疑問視するかも知れない。」と否定的な見解だ。

●1994年(平成6年)12月、インド教育省事務次官のP・N・チョプラ博士は、「日本は戦時賠償をしなければいけないとか、日本は戦争犯罪を犯したという告発に、パール博士は賛成しませんでした。博士は、インド政府の立場を十分に代弁したのです。我々は、全面的にパール博士を支持しています。このことを、我々は現在に至るまで誇りに思っています。過去と現在を問わず、インド政府はパール博士の判決を支持しており、それは我々全てのインド人にとっても言えることです。」と語った。 (自由と独立への道)

●西ドイツ(当時)のルール大学学長、国際法の権威、クヌート・イプセン教授は、「ニュルンベルクと東京の国際軍事裁判所以後の国家実行を見ると、各国は両裁判所の「条例」に盛られた法の適用を躊躇しているように見られます。例えば、合衆国対カリー事件(ソンミ[村住民虐殺]事件)において、軍事裁判官が軍法会議構成員に与えた結論は、類似事件の国際的先例については一切触れていない。」(東京裁判を問う)と指摘し、二つの戦犯裁判で国際犯罪とされた「平和に対する罪」「人道に対する罪」を裁いた側の連合国が、その後の国際社会においてそれらの罪を犯した恐れがあるにもかかわらず、その「法」を自らに厳格に適用しようとはしなかったと暗に非難した。

●マレーシアのマラヤ国立大学のダトゥク・ザイナル・アビディン教授は自ら著した歴史教科書で『日本のマレー占領は人々を覚醒させ、独立のキッカケを作った。日本は民族の平等を訴えた。』と明確に述べている。

●マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は、大東亜戦争中、マラヤ南方特別留学生として来日していた。陸軍士官学校に学び、戦後は知事、下院議員も歴任した政治家だが、同氏は日本の歴史的役割をこう述べている。『私たち、アジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍はとても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に驚異の感動と自信とを与えてくれました。』

●マレーシアの外交官であるガザリー・シャフィー元外相は1988年(昭和63年)に訪日した際、次のように述べている。『日本の政治家はどうしてアジアの国にお詫びばかりするのか。われわれはペコペコする日本人は嫌いだ。なぜ、侍らしく毅然としないのか。大東亜戦争でマレー半島を南下したときの日本軍はすごかった。『われわれにはとてもかなわない』と思っていた英軍を屈服させたのだ。あの時は『神の軍隊がやってきた』と思った。日本は敗れたが、そのおかげでマレーシアは独立したのだ。その偉業を政治家が忘れるとは、何たることだ。日本くらい、アジアのために尽くした国はないのに。』

 

「世界の多くの権威ある国際法学者などが、「東京裁判」などの「非合法性」とその過誤を認めているのですね。」

「要するにこの「東京裁判」は、「裁判」に名前を借りた「復讐」であり「占領政策」の宣伝効果を狙った「政治行為」でした。平和に対する罪を裁く「裁判」である以上は、国際裁判の構成は当然に「戦争の勝敗」とは関係無く考えられるべきです。つまり、審判はあくまで厳正なる国際法廷において、国際法に準拠して世界各国民に対して普遍的になされるべきものであるのです。「裁く者は戦勝国民」だけで、「裁かれる者は敗戦国民」だけであるというのでは、公正なる「国際裁判」ということは出来ない。言うまでもないですけど、戦争に勝った者だけが正しく「正義」で、戦争に負けた者だけが不正で「悪」であるという理屈はどこにも無い。戦争犯罪を裁く国際司法裁判所の構成は、戦勝国や戦敗国を問わず平等・不偏でなくてはなりません。「戦勝国の判事だけ」で、戦敗国の国民を裁く裁判というものは、公平なる「裁判」とは言えない。連合国側が何故、東京裁判を行おうとしたのか、結論から言えば敵国の哲学(民族精神)を粉砕して連合国の意のままになるように、「精神的」国家改造を行うことが「占領政策」の目的であり、東京裁判はその目的達成の手段の一つでした。国際正義に基づいた「国際裁判」を称しましたが、その実態は連合国による「武器無き」軍事作戦の一環でした。」

「それから、未だに日本国内でも、海外(特に中国・朝鮮)でも、日本を「侵略国家・侵略戦争」と言われ続けていますが、国際法の「交戦権」の行使とは、平時ならば禁止されていることでも、戦時に合法的に遂行できる権利で、例えば「敵国領土への侵入とその占領」などで、アメリカ、イギリス、オランダなどの敵国の植民地(その国の領土の一部である)であったフィリピン、ビルマ(ミャンマー)、東インド諸島(インドネシア)等への日本軍の進攻は、合法的な「交戦権」の行使であって、「侵略」などではない。国際法は認められているのは「日本だけ」ではないでしょう?それで「侵略」と言うのなら、アジア諸国を植民地にして現地人を奴隷のようにこき使っていた欧米は、まさに「侵略」でしょう。ソ連は満洲、千島列島、北方領土に侵攻してそのままそれらの地域を不法占拠した。言うならソ連だって「侵略」でしょう。日本を「侵略」と言うならアメリカ等の列強もどこも「侵略」でしょう。日本を「侵略国家・侵略戦争」と言うのなら、他の国々にも見事に言える「日本だけ」を侵略と言えた筋合いではありません。「日本だけ」「侵略国家・侵略戦争」などと言うのは歴史の捏造・歪曲です。毎度、毎度、お約束の如く非難している中国や朝鮮は少しくらいは自国の歴史を見たらどうですか?しかも、現在その「侵略」を南シナ海や東シナ海でもやらかしているのが、国連の常任理事国の中国でしょう。中国は強引に道路を建設し、国境線を書き換える暴虐行為で、ブータンでは知らぬ間に国土が「2割」も奪われていた。未だに日本だけ「侵略!侵略!」と言われる筋合いは無いです。言うなら他の国々にも言えることだから、言えば良いじゃないですか?もちろん日本には悪いところが全く無いなんて言いませんが、何もかんも全て「日本だけ」が悪いと言わんばかりに「過去を反省しろ!謝罪しろ!」なんて言い続けられるのは、おかしいですよ?」

「イギリスの元老であるハンキー卿は、「未来に対して極めて重要な裁判を行う法廷を、偏見の度合いの少ない連合国の構成国、もしくは、もっと公平な中立国の判事を参加させずに、戦争の矢面に立った連合国の構成国の指名した判事だけで構成することに決定したことは、果たして正しく賢明であっただろうか?我々は今少しで負けるところだった、仮に負けたとしたら、我々は日本、ドイツ、イタリアの三国だけによる裁判に納得しただろうか。また、歴史がそのような裁判を受け入れると期待されるだろうか。」と述べている。 (戦犯裁判の錯誤) 幾十万という女性、子供を含めた一般人を一瞬にして皆殺しにしてしまった「原子爆弾」の投下を、命令して授権した責任者が、何等、戦争裁判の対象ともならず問題ともされなかった。満洲になだれ込み、「婦女子を強姦」して住民の財産を「略奪」して、大量の日本人をシベリアに連れ去って「虐待」して奴隷労働を強いた「ソ連」の行為が全く容認されたかたちで、「東京裁判」は終わったのです。こんな不公正極まる、「裁判」と言うより「私刑(個人や集団が、法律によらずに加える制裁。私的制裁。リンチ)。パール博士が国際法学界の強い支持を受けているのは当然ですね。」

「今尚進行する、War Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)。こんなものにいつまで縛り付けられて、惑わされなければいけないのでしょうか…?歴史の捏造歪曲をする、いつまでも、いつまでも、いつまでも、「謝罪しろ!謝罪しろ!賠償しろ!」、解決している問題でさえも蒸し返して「謝罪!賠償!」と言い続ける国々。それらの国々の「捏造・歪曲」に洗脳されてしまう日本人もいる。反日日教組のように例えば、捏造プロパガンダ「南京大虐殺」なるものを「事実」として、生徒に教えて「自虐史観」を植え付ける。そういう人達がいるから厄介なのですよね…。政治家でもいますよね…。」

「そんなものに未来永劫、縛り付けられるつもりですか!?「東京裁判史観を尊重する義務がある」なんて、そんなことは無いです。捏造自虐史観にいつまでも取り憑かれる必要はありません。反日日教組先生は黙りなさい!毅然たれ日本!です!」