関東大震災の朝鮮人虐殺について

 

最終更新日・2013年4月06日。

 

正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」さんのブログ記事(2013年02月04日)と、月刊WiLL2013年5月号に掲載された「加藤康男(ノンフィクション作家)氏の記事からも引用しております。

 

 


「関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真」として韓国「聯合ニュース」に掲載された写真。 

チョン・ソンギル名誉博物館長は「女性の死体だけ選んで下衣をはがし、もう一度恥をかかせたことは虐殺を凌駕する蛮行の極限状態。」と憤慨した。

関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か。韓国研究家が公開。

2013年02月03日14時24分[聯合ニュース]

【ソウル聯合ニュース】関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺をめぐり、東京都教育委員会が来年度版の高校日本史の副読本から「虐殺」の文言を変更すると発表したことに批判が高まる中、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギル氏が3日、虐殺事件当時に撮影されたとみられる写真を聯合ニュースに公開した。

写真の上部には「大正十二年九月一日」と日付が書かれている。大正12年(1923年)9月1日は関東大震災が発生した日。

写真には数十人の遺体が写っており、遺体の下衣は取られている。遺体の周囲には男性らが長い棒を手にして立っている。

チョン氏は「犬が亡くなっても碑石を立てる日本人が自国の人だったら死人の遺体の下衣を脱がせただろうか。虐殺以上の蛮行」と憤った。「棒を持っている」男性らは大震災当時、朝鮮人を虐殺した自警団と推定されるという。別の写真では腐敗した遺体が積み重なっている様子が収められている。

3〜4年前、日本で写真を入手したチョン氏は「写真を見て驚愕した。女性の下衣が脱がされているなど、残酷で恥辱的だったので公開したくなかった」と話す。だが、東京都教育委員会の発表をニュースで知り、歴史を正しく知らせるため公開を決めた。チョン氏は「恥辱的な歴史だが、虐殺で犠牲になった約6000人に上る朝鮮人の魂はわれわれが守らなければならない。写真など資料を示し、日本人が過去に犯した蛮行を告発すべきだ」と強調した。

朝日新聞によると、東京都は高校日本史の副読本「江戸から東京へ」に記述されている「大震災の混乱のなかで数多くの朝鮮人が虐殺された」との記述を(朝鮮人虐殺犠牲者の追悼)碑には、大震災の混乱のなかで、『朝鮮人の尊い命が奪われました』と記されている」と変更することにしたと報じた。都教育委員会は「誤解を招く表現」のため修正を決定したという。

関東大震災が起きた当時、日本政府は荒れた民衆の気持ちをなだめるため、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」などの流言飛語を流し、興奮した日本人により在日朝鮮人約2600〜約6600人が虐殺された。

http://japanese.joins.com/article/893/167893.html?servcode=A00§code=A10

今回、チョン・ソンギルが公開した写真を掲載した「聯合ニュース」の記事とは、次の記事です。

「韓国語」 http://www.yonhapnews.co.kr/international/2013/02/01/0602000000AKR20130201199200005.HTML

>写真の上部には「大正十二年九月一日」と日付が書かれている。大正12年(1923年)9月1日は関東大震災が発生した日。


聯合ニュースに掲載されたその写真。「大正十二年九月一日」と日付を書き加えた写真。

しかし、この写真は、【横網町公園(よこあみちょうこうえん)関東大震災直後。被服廠の敷地を埋める避難民の遺体】として以前から存在した写真であり、「朝鮮人虐殺」とは全く関係ない写真です。


横網町公園(よこあみちょうこうえん)関東大震災直後。被服廠の敷地を埋める避難民の遺体

>写真には数十人の遺体が写っており、遺体の下衣は取られている。遺体の周囲には男性らが長い棒を手にして立っている


聯合ニュースに掲載されたその写真。「大正十二年九月一日」と日付を書き加えた写真。

明治、大正、昭和初期は文章は「右から左」に書いていた。大正時代だったら、文章は右から左に書きますよね。上の事例は大正の記事ですが、見出しと下に書かれた3行の説明文が「右横書き」となっています。

「新吉原公園の惨状」の写真について。

しかし、先のもう一つの写真は、元々は【新吉原公園の惨状】という明治44年の「吉原大火」の時の写真として掲載されていたものですが、この写真が明治時代の「吉原大火」のものか、大正時代の「関東大震災」のものかを判断しなければならない。


新吉原公園の惨状。東北芸術工科大学・東北文化研究センター・アーカイブス

「状惨之園公原吉新」と右から左に書いている。

明治44年(1911年)4月9日のいわゆる「吉原大火」は昼間だったこともあり、吉原での死者は比較的少なかったとされる。当時の新聞記事によれば、4月9日午前10時30分頃、新吉原の貸座敷から出火した火の手は烈風に煽られて瞬く間に遊郭全体を焼き尽くし、更に近隣の浅草、山谷、千住一帯まで延焼、10時間後ようやく鎮火する。数千人からの娼妓たち(東京朝日新聞)はいったん各楼から解放され吉原病院や検査場などへ避難させられた。

ところが、火勢がそれら施設にまで及んだため、楼外への避難を許されて、市内の知己姻戚などを頼って保護された者も多数に及んだ。いわば天災時の「解き放ち」措置が講じられたわけだが、娼妓たちの大多数は鎮火とともに焼け野原となった吉原に戻って来たとされる。翌日になって行方不明者の捜索が進んだ結果、吉原内で「8名」の死者が出た、との報道がなされている。

「焼死体続出す。発見されし者8名。」

9日夜は、余炎未だ消えず10日朝に至りてようやく焼け跡の取り片付けを始めたるが、焦土の下より焼死体続々現れ出で、甚だしき焼けただれて男女の区別さえ判明せざるものあり、凄愴のうち更に酸鼻を極めたり(明治44年4月11日付東京朝日新聞)

吉原内の死者は8名(他に浅草など各地で若干名死亡)に留まったと記されているので、数十体はあると思われる公開写真を「吉原大火」だとする根拠は崩れたと言っていい。

「被服廠跡の惨状。」

チョン氏はこの段階では意を強くするかもしれない。

場所は同じ吉原だとしても、明治44年ではなく、大正12年9月の「関東大震災」時の吉原の惨状である可能性が高くなったが、念のため「吉原大火」としてアップされている「東北芸術工科大学東北文化センター」に問い合わせをしてみた。以下は、同センターによる回答文の概要である。

本センター所蔵の該当資料につきましては、購入品にて出所来歴など、不明な点が多くございます。購入先については現在確認中でございます。本資料が「関東大震災時に虐殺された朝鮮人を写したものではないか」という点をめぐる一連の報道などを受け、あらためて確認をいたしました。第一に申し上げたいのは、本資料には、チョン・ソンギル氏が公開された写真と明確に異なる点として、「新吉原公園之惨状」という記述が見られることです。本センターとしては、その記述をもとに当初、可能性の一つとして、「吉原大火」をキーワードとして含めておりました。しかし、その後、やはり不確定なキーワードであるということで、まずはそのキーワードを削除いたしました次第です。更に、その後も検証を続けましたところ、チョン氏の公開された写真には本資料に写っていない箇所まで写っている。すなわち、本資料は他の写真をトリミングした可能性が高く、原本ではないと思われる。「新吉原公園之惨状」という文字は後から書き込まれた文字であると思われる。この記述通りに当地を新吉原公園だと判断する確証は得られておらず、年代も未詳である。といったことが確認されました。上記のような確認事項をふまえ、本センターとしては、資料として関連情報に不確定な部分が多く、世情に鑑みて現時点での公開は不適切であると判断し、中断させていただくことにいたしました。

やや回りくどい表現だが、要するに「吉原大火」の確証が持てないのでアーカイブスから降ろした、というわけだ。

一方、写真史研究家の小沢健志編「写真で見る関東大震災」(ちくま文庫)によれば、ほぼ同一の写真が、本所区横網町の「被服廠跡に並べられた死亡者」と書かれて掲載されている。写真史では実績のある小沢氏編纂となると、陸軍被服廠跡(被服廠は赤羽に移設され、2万4百坪の広大な空き地になっていた)説もむげには捨てにくいが、被服廠跡では3万8千人の死者が出ており、山のように折り重なった死体の写真が一般的だ。このように整列された数十人規模の死体が並ぶ被服廠跡の写真は、ほとんど目にしたことがない。被服廠跡だとしたのは、おそらく小沢氏の勘違いで、やはり多くの写真資料を比較検討すれば、「関東大震災」時に新吉原で「焼死した娼妓たち」の写真と判断すべき、というのが私(加藤康男)の結論だ。

更に加えて、この写真のどこを探れば『朝鮮人虐殺』を証明するものなのか?常識では理解を超えた言い分としか言いようがない。

「一片の証拠も写っていない。」

戦後になって、富士山をメインテーマとした風景写真で名を成す写真家に岡田紅陽氏がいる。彼は関東大震災時に東京府の嘱託カメラマンとして、震災の被害状況を記録し「関東大震災大火記念写真帖」(大正13年1月刊)として残された。岡田は新吉原で被災して死んだ多数の遊女を撮ったが、遺体写真の公開は東京府の指導もあって非公開とされ、私(加藤康男)が所有している同写真集からも外されている。

ちなみに、「岡田紅陽写真美術館」は今回、ホームページ上で次のようなコメントを発表し、岡田撮影による震災時の写真であると認めている。

岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について

韓国人研究家、日本人による朝鮮人虐殺写真を公開という記事について、チョン・ソンギル氏が公開した写真は岡田紅陽が撮影した震災の記録写真です。『大正大震災大火災惨状写真集』には同一の写真が掲載されています。なお、この書籍は震災後89日後に発売し、すぐに発禁になったもので、その存在はあまり知られていません。東北芸術工科大学のアーカイブのものは絵葉書のようですが、こちらでは上記写真集および私家版のアルバム内に同一写真が見受けられます。なお、私家版のアルバムには写真の横に吉原公園魔ノ池附近と書かれています。この写真については上記以外の情報は不明です。なお、この写真については以前にも2008年5月に「ル・モンド」に掲載され、「広島・世界が見たことがなかったもの」と紹介されましたが、本当は関東大震災の写真だったということでニュースとなりました。ネット上には岡田紅陽が撮影したであろう関東大震災に関する写真が数多く見られます。様々な人の手を経て、情報が錯そうしてしまっていますので、写真の使用・掲載等につきましてはご確認いただきますようこの場をかりでお願いいたします。

これから解るように、チョン氏が公開した吉原写真は岡田紅陽撮影によるもので、刊行直後に発禁になった写真集が何等かのルートを経て氏の手に入った。あるいは発禁写真集の一部コピーを入手した、という経緯が想定される。震災直後、多くの記録を残したが、いずれも残酷な遺体写真を公開することはしなかった。しかし、多くの遺体写真、特に裸体写真が闇で売られたり、写真集が絵葉書になって出回ったケースは数え切れないほど存在する。

>3〜4年前、日本で写真を入手したチョン氏は「写真を見て驚愕した。女性の下衣が脱がされているなど、残酷で恥辱的だったので公開したくなかった」と話す。だが、東京都教育委員会の発表をニュースで知り、歴史を正しく知らせるため公開を決めた。

「当時の女性は、もともと下着を着けていた人は少ない。」

報道によれば、チョン・ソンギル氏は「遺体の下衣は取られている。虐殺以上の蛮行。写真を見て驚愕した。女性の下衣が脱がされているなど、残酷で恥辱的だったので公開したくなかった。」など、憤慨した。吉原の遊女は、当時の遊女が下着を着けていたとは聞いたことがない。また、「女性だけ」かどうかは判別できないが、新吉原公園では遊女たちを中心に集めたものだから、女性が多くても何の不思議も無い。衣服が無いのは「焼死体」であるとともに、水中で腐乱、膨張したり、火に煽られたり、水に流されたためであろう。前の晩から泊まっていた客もいるかもしれない。それら死者の全てが日本人だと言う証拠も無いが、「朝鮮人」である証拠も更に無い。この火炎地獄の最中に「虐殺」が行われたと考える事自体、極めて不自然なだけではなく、一片の証拠も写真に写っていないことは明白だ。

岡田紅陽は消失した吉原の風景写真の脇に、次のような説明文を付けている。

(遊郭からの)避難者は潮の如く一路吉原公園に逃れたが、たちまち吉原病院の猛火に迫られ池中(遊郭敷地内の弁天池)に落ち込み、水に溺れ火に焼かれ、血の池地獄の光景を出現した。娼妓2千5百余の内、半数は惨死し、その他の者を加えて廓内の死者は2千余に上った。(関東大震災大火災記念写真帖)

チョン氏の主張が何でもかんでも、当時の死体写真を見付けては「これは朝鮮人虐殺の証拠だ。」としてきたこれまでの捏造デマゴギーの延長線上のものでしかないことは、もはや明白です。チョン・ソンギル氏は、岡田紅陽氏が撮影したと思われる吉原の遊女の死体写真を「虐殺された朝鮮人。」だとして公開して、根も葉も無い嘘で塗り固めたに過ぎないということです。

チョン氏は「棒」を持っている男性らは大震災当時、朝鮮人を虐殺した自警団と推定されるという。しかし、この写真にある「棒」は、単に遺体処理のためや廃墟の片付け用の竹ぼうきレベルに過ぎない。

本当の自警団は「テロリスト」から町内の安全や妻子の生命を守る為に、荒縄、竹やり、こん棒、日本刀などを用意して戦わなければならなかった。元々、それはあくまで「不逞鮮人一千名と横濱で戦闘開始」「発電所を襲う鮮人団」(下記参照)とあるように、「デマ(風評)もあり民間の自警団による「過剰防衛」も発生したが、爆弾火器まで用意していた「テロリスト集団」に対する「正当防衛」でした。

「虐殺」で犠牲になった「約6000人」に上る「朝鮮人」という数字の根拠はデタラメ。

>チョン氏は「恥辱的な歴史だが、虐殺で犠牲になった約6000人に上る朝鮮人の魂はわれわれが守らなければならない。写真など資料を示し、日本人が過去に犯した蛮行を告発すべきだ」と強調した。

「虐殺で犠牲になった約6000人に上る朝鮮人」というのも真っ赤な嘘だ!

●関東大震災と朝鮮人。

反日左翼や朝鮮人は、関東大震災のとき、約6千人の朝鮮人が殺されたと言うが、大嘘だ。

『写真 明治大正60年史』(1956年、毎日新聞社)では数百人となっている。

『朝鮮人虐殺関連官庁資料』によれば、朝鮮人被害者死亡231人、重軽傷43人。

『関東戒厳司令部詳報』の兵器使用調査票によれば、震災後一週間の「治安維持のため」朝鮮人殺害254人、日本人殺害27人。

加藤康男氏によると、かつてロンドンのナショナル・アーカイブスで発見した謀略小冊子(当時、各国大使館などへ送り付けられた)によれば、何と「2万3千人」となっている。テロリスト組織が上海で発行した「独立新聞」調査では、「6千4百人」。日本側で朝鮮人関係者から聞き取り調査をしたという「民本主義」運動の指導者「吉野作造」によれば、「2千6百人」「虐殺された」と言い募られてきた。要するに、「2万3千人説から2千6百人」説まで混在するというデタラメぶりなのです。結果的に「吉野説」「独立新聞」説の数字がもっとも多く流用され「2千6百人から6千4百人」という数字が定着してきた。

焼却された後で灰になったり、原形を留めないほど腐乱した遺体を見て、どのようにして「朝鮮人」「日本人」の区別ができたのか?当時の検死の技術から推しても、不可能なことは明らかである。

当時の東京と京浜(けいひん・東京と横浜。また、その周辺)地区には、いったい何人の「在留朝鮮人」がいたのだろうか?工藤美代子著『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)で明らかにされているので引用しておきたい。同書によれば、震災時の東京には約「9千人」(労働者6千人・学生3千人)の朝鮮人がいたとされる。東京以外の横浜や埼玉などの近県には3千人おり、合計「1万2千人」がいたといわれる。夏休みの帰郷、その他で学生など「2千2百人」が震災時の東京を離れており、差し引き「9千8百人」が東京・横浜にいたことは多くの関係資料が認めるところだ。更に、被災した朝鮮人「6千7百97人」が、習志野の陸軍収容所や警察などに保護されていた。また、内務省調査によれば、自警団による「過剰防衛」のために死亡した死者が「2百33人」おり、警察は多くの自警団関係者をそのために逮捕している。

当日の昼、東京・横浜にいた「9千8百人」からこれ等を引けば、残るのは「2千7百70人」となる。そのなかに、行方不明者と死亡した朝鮮人が含まれるわけだが、「朝鮮人だけ」が震災から免れるとは考えられず、むしろ被災した気の毒な朝鮮人は多かったと見るべきだろう。

彼等が捏造した「虐殺数字」で、最も少ない例は「吉野作造」説の「2千6百人」。独立運動家たちによれば「6千4百人」から「2万人」以上にまで膨れ上がる。この数字を当時在留した朝鮮人の人口に当てはめれば、「吉野説」なら震災での朝鮮人の死亡者は「百数十人」足らず。他の調査では、東京・横浜一帯の全朝鮮人の人口を遥かに上回ってしまう。

「震災」によって命を落とした「朝鮮人」「一人もいない。」とでも言うのだろうか?

ちなみに、被害の大きかった本所区、深川区における日本人の震災時における対人口死亡率が約15%なので、それを上回る20%(当時の朝鮮人の住宅事情から鑑みて、被害は甚大だったと見るべきだろう)を乗じて算出してみれば、朝鮮人の震災死亡者は「1千9百人」ほどではないかと思われる。

在日朝鮮人の当日の人口が約「9千8百人」であることは先の通り。その20%となる約「1千9百人」余が、震災による死亡者となる。したがって、「2千7百70人」からこの「1千9百人」を引いた約「8百数十人」前後が、殺害の対象となった人数と推定される。その殺害された人数全てではないにしても、「テロリスト」とそれに付和雷同(ふわらいどう・一定の主義・主張がなく、安易に他の説に賛成すること。「多数派に―する」)した者達である。

大震災による大混乱の最中、それまで散々悪事を働いていた不逞朝鮮人がデマも加わった民間の自警団による過剰防衛によって殺害される事件が起きると、不逞朝鮮人以外の朝鮮人まで殺害される事件が起きた。

そのような混乱が発生したとき、日本の警察や軍隊は命がけで朝鮮人を守った。

 

>関東大震災が起きた当時、日本政府は荒れた民衆の気持ちをなだめるため、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」などの流言飛語を流し、興奮した日本人により在日朝鮮人約2600〜約6600人が虐殺された。

一般的には「関東大震災のときの朝鮮人の暴徒化や略奪、強姦、放火とのデマがあった」と言われているが、全てがデマだったわけではない。確かにデマもあったが、デマではない事実もあった。デマの代表例とされるのは、「井戸に毒を入れ〜」というものであり、このデマを流布した首謀者は、時の警視庁官房主事で後に読売新聞社主となる正力松太郎と言われている。

警視庁官房に集まっていた各新聞の記者が、警視庁官房主事だった正力松太郎の話を鵜呑みして記事にしたことによってデマが広がったとのことだ。そして、これら様々な話がデマだと最初に言い出したのは、後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁だ。


後藤新平

工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」によると、後藤新平は、「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」と正力に語り、正力はあえて風評の打消し役に徹したという。

したがって、関東大震災の時に言われたり報道されたりした朝鮮人の悪行の中には、デマ(風評)もあったが、事実もあった。雑誌「SAPIO」に1年余りに渡り連載されていた工藤美代子著『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』は、加筆・訂正を加え、2009年12月2日、産経新聞出版から新刊本として発売された。

同書では、1923年(大正12年)の関東大震災時にあった「朝鮮人によるテロ行為や日本人襲撃」「日本人による朝鮮人虐殺」のそれぞれの事実について、多数の資料・新聞記事などから検証している。当時の内務大臣・後藤新平が「朝鮮人襲来報道」を抑えた理由や、後藤新平の命を受けて奔走する警視庁官房主事・正力松太郎の姿などが、文献や関係者の証言から伝えられる。

次のブログで、その「SAPIO」の上記連載について一部を紹介している。http://ameblo.jp/sinesayoku/entry-10260524567.html

本当に有った関東大震災における朝鮮人による暴動・破壊・放火・強姦

2009年05月14日

雑誌SAPIOで「本当に有った関東大震災における朝鮮人による暴動・破壊・放火」について、昨年から連載中ですが、量が膨大で中々まとめ切れていないので、ネット上から集めた当時の新聞記事を集めてみました。SAPIOの資料、証言を読んでもとりあえず言えるのは、「少なくとも横浜〜品川において朝鮮人による暴動破壊活動は有った。」という事です。ネット上から集めた当時の新聞記事です。

横浜から品川方面へ朝鮮人の集団が刀や爆弾を持ち、暴れまわって婦女を強姦していたという事実を追求して行くと、この騒動の実態が見えると思われます。詳細に追求中です。

横浜から品川方面へ朝鮮人の集団が刀や爆弾を持ち、暴れまわって婦女を強姦していたという証言は間違いなく存在します。

一連の調べで習志野と江東地区で間違いなく不穏な動きがあった事は間違い無いと思われます。この記事もその証拠の一つです。

司法当局が朝鮮人の犯罪を報道する事を規制し圧力を掛けた決定的証拠。10月20日、ようやく自由報道が解禁され、真実を記載し始めた。幾多の報道されてきた犯罪は事実であると、さらに下には四ツ木で朝鮮人が少女を輪姦した上に殺害し、荒川に放り投げ逃走したという恐ろしい記事が書いてある。

日本橋の倉庫に朝鮮人が火を放って逮捕。深川の食糧倉庫が時間を置いて火が立ったのも朝鮮人の同時多発テロだったと言う事を裏付けるひとつの事実である。

 

横浜で実際に有った、関東大震災における朝鮮人による暴動・破壊・強姦

2009年05月14日

横浜〜品川での朝鮮人による暴動・破壊・放火・強姦の目撃談です。引用元・「SAPIO2008.5.28」

 

関東大震災において朝鮮人が暴動・放火を行ったのはデマと捏造したのは社会・共産主義の学者

2009年05月19日

SAPIOの連載によると、つまり朝鮮人と社会主義者=アカが結託してクーデターを起そうと準備していた。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて朝鮮人が暴動・ 放火・強姦行為をやった。特に横浜方面から品川にかけてのエリアで物凄い人数で襲い掛かってきた。横浜方面だけでなく、深川、墨田他のエリアでどうみても火災が起きるはずの無いエリアで爆発や火災が発生した。 その情報が警察とかに上がって丸の内とか外国の要人が居るので朝鮮人の暴動に備えて厳戒態勢で備えていた。この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団がそいつらをとっ捕まえて自衛の為に殺害した。なかには無実の朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人も居た。

戦後アカが主導になってでっち上げの人数を6000人とか捏造してデマで殺されたと言い回った。本当はアカと朝鮮人が結託してテロ行為を起した事実を知られるとまずいから。苦し紛れにデマ説を必死で流した某学者は日本の社会・共産主義の土台を作った一員でも有った(しかしそのアカの学者でさえ、実際に朝鮮人の暴動破壊行為が合った事を大筋認めている)つまり、隠蔽工作である。

朝鮮人が暴動を起していたという証言は多数であり、リアリティが有り、当時の新聞はそれを伝えているが、当時の内務大臣、後藤新平が「朝鮮人の暴動が有った事は事実だが、自警団による自衛行為はやめさせてこの混乱を収拾させるべきだ。」と考え、風評の打ち消しに徹した。→それが所謂デマ説の正体。

「それではアカ朝鮮人から市民の安全を保証出来ない。」と読売の正力氏は後藤大の決定に怒り、反発して、9月末に地方へ転勤願いを提出した。

後藤新平は社会主義者と交友が有り、社会主義への知己も持っていた(後藤は右翼とも関係が有り、いわば両刀使いだった)が、一連の暴動をきっかけに、これではまずいと、治安維持法が制定され、社会共産主義者への弾圧へと、政府は政策を見直し、遂行して行った。「デマ説を必死で流した某学者」と言うのを調べてみた。その学者とはズバリ、「吉野作造」ですね。(以下省略)

つまり、「関東大震災時の朝鮮人の悪行」には「事実」もあったが、「デマ(風評)もあり、民間の自警団による過剰防衛が発生した。そんな中、最後は、日本政府、そして日本の軍や警察が、自警団による朝鮮人殺害(過剰防衛)から朝鮮人を守った。例えば、警視庁の当時の文書(大正大震火災誌)は、そうした情報を「流言蜚(飛)語」として、噂が時々刻々変化していく様子を記録していた。また、軍の文書(横須賀鎮守府参謀長あて)「真相を確かむるを得ず避難者や青年団より誇大な情報」と書いていた。

更に、戒厳令で出動する軍隊には、「不逞鮮人ノ動作ニツイテ計画的二不逞ノ行為ヲナサントスルカ如キ形勢ヲ認メス、鮮人ハ必スシモ不逞者ノミニアラス、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルヘカラス」と訓示があった。

東京日日新聞大正12年9月19日※ 斉藤「流言飛語は面白くない」「日鮮融和上影響を及ぼす」
 
殊に上海にて某々新聞等が盛んに鮮人問題を悪用して宣傅しているが〜
(中略)目下東京及び近県にては鮮人に対しつとめて保護を加えているが〜

実際に、日本政府(警察や軍隊)が、自警団から朝鮮人を保護した事例を挙げよう。

神奈川県鶴見警察署の大川常吉署長は、警察に駆け込んだ朝鮮人(約三百人)を命がけで庇護した。警察署を包囲する千人の暴徒に対し「井戸水を持って来い」と言い、その場で飲んで、朝鮮人の潔白を示し、朝鮮人を救った。

また、真田さんという人は、朝鮮人一家をかくまい、自警団が押しかけ、詰め寄っても、かくまい続け、数日後、真田さん宅から約2キロ離れた寺島警察署(現向島署)まで従業員の警護をつけて送り届け、化九さん一家は難を逃れた。

そのほか、平成9年12月12日付け産経新聞夕刊に、軍が朝鮮人を救ったという資料を載せている。

関東大震災直後 戒厳軍が朝鮮人救済 デマに踊る自警団制す 横須賀で2資料発掘

1997年12月12日 産経新聞(夕刊)

大正十二(1923)年九月一日の関東大震災が発生した直後、神奈川県横須賀市で、旧日本軍がデマによる朝鮮人殺害を懸念し、二百人以上の朝鮮人を保護するとともに、延べ千百余人の被災朝鮮人の治療を行い、希望者を朝鮮半島に送っていたことが、十二日までに中村粲・獨協大教授の研究で明らかになった。教科書では、関東大震災が発生した際、東京都内や横浜で朝鮮人が多数虐殺された事件に関連し、「旧日本軍も関与した」とする説明が記されているが、資料では、保護された朝鮮人側が謝意を表し、震災復興費用を寄付したケースもあるとしている。

噂ハ虚報。虐待スルナ

中村教授によると、旧日本軍による朝鮮人保護を記しているのは、横須賀市震災誌刊行会が昭和七年に発行した「横須賀市震災復興誌」と、横須賀市在住の元大蔵省職員、毛塚五郎氏のまとめた「関東大震災と三浦半島」の二資料。

この二つの資料によると、震災直後、「朝鮮人による暴行があった」などとするデマが流れているという情報を入手した軍当局が、「概ネ虚報ナリ」として、朝鮮人による暴行や井戸への毒の投げ込みなどのうわさは「デマ」であると判断。市内の重砲兵連隊「不入斗(いりやまず)練兵場」に朝鮮人を保護し、市内各所に「デマに惑わされないように」とする掲示を出してデマの鎮静化を図った。

(以下略)

 


関東大震災

韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える。別の写真を使い捏造の可能性?

これは、2013年02月03日の「ガジェット通信」に掲載された記事。

関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺をめぐり韓国記録写真研究家のチョン・ソンギル氏が虐殺事件当時に撮影されたとみられる写真を公開した。写真には大量の遺体が並べられている。写真上部には「大正十二年九月一日」と書かれており、この日付は関東大震が発生した日でもある。

この日付は分かりやすくするために後付けであることはわかるが、実は問題はそこではなかった。この写真そのものが「関東大震災の朝鮮人虐殺」はおろか、「関東大震災」とは無関係である可能性が浮上している。

関東大震災が発生したのは写真にも記されているように大正12年(1923年)9月1日の11時58分32秒発生である。そんな当日に遺体を並べ虐殺まですることは可能なのだろうか。自分達が生き延びることで必死な状況だったはずだ。更にチョン・ソンギル氏は「写真を見て驚愕した。女性の下衣が脱がされているなど、残酷で恥辱的だったので公開したくなかった。」と発言している。しかし当時の女性は下着を着けていた人は少なく裾除けを当てていただろう。日本の文化を知らずに一方的に発言しているチョン・ソンギル氏。

またこの関東大震災当日の物とされている写真は、全く別の物だと言う疑惑も挙がっている。明治44年に起きた「新吉原公園の惨状」がその写真に該当する。東北芸術工科大学のアーカイブを覗いてみると全く同じ写真が存在するのが確認出来る。そちらの写真をみると前にある石の箇所に「新吉原公園之惨状」と書かれているが、チョン・ソンギル氏が訴えかけている同じ写真はその文字が消えている

仮にチョン・ソンギル氏がわざとこのような捏造をしたのなら、何のためにこのようなでっち上げを行ったのだろうか。アメリカやシンガポールに作られる慰安婦像を更に訴えかけ、賠償、謝罪を求めるのだろうか……。

新吉原公園の惨状

この報道の写真については、先に述べた「岡田紅陽写真」のことですね。

 

「デマ(風評)もあり、民間の自警団による「過剰防衛」が発生したが、朝鮮人による暴動・破壊・放火・強姦「テロリスト」を自己防衛のために殺害しても「虐殺」とは言わないのが、戒厳令下での国際常識ではないだろうか?それに、日本人も朝鮮人に間違われて沢山殺されている。

チョン・ソンギル氏が主張するような一方的な「朝鮮人虐殺」というものではないでしょう。写真の「捏造」は常套手段です。

それでも「虐殺」があった、と主張するのであれば、少なくとも「震災」によって死亡した「朝鮮人」は全くいないことを証明しなければならない。

 

 

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