勝願寺
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勝願寺の寺号は、鎌倉時代に良忠(りょうちゅう)という僧が登戸に堂宇を建立したことに始まります。(もう一つの勝願寺を御参照ください。)
本町に勝願寺が建立されたのは、時代が下り天正年間(1573〜92)の頃で、清厳上人がこの地に再興されました。
2世住職となった円誉不残上人は学僧の誉れ高く、慶長11年(1606)に後陽成(ごようぜい)天皇から、僧としては最高位の紫衣(しえ)を与えられました。
この頃には名声も高まり、壇林(だんりん:現在の大学のようなもの)として隆盛し、寛文年間(1661〜1673)には関東十八壇林の一つとして固定されました。
勝願寺と徳川家康
徳川家康(とくがわいえやす)は、文禄2年(1593)、慶長2年(1597)、同6年(1601)、同9年(1604)と、何度も鴻巣へ訪れ、鷹狩を行行っています。
その文禄2年、初めて来訪した家康は、勝願寺へ訪問し、不残上人の学識に深く感銘したことから帰依(きえ)されました。そして様々な宝物を寄進されたと伝えられています。残念ながら、これらの宝物は度重なる災厄によって、殆ど残されていません。
家康の庇護を受け、勝願寺では将軍家の家紋である三つ葉葵を使用することを許されており、現在でも軒丸瓦や仁王門に散見することができます。
また家康は、腹心である牧野家、伊奈家などに檀那契約を結ばせることで、勝願寺の地位を安泰にします。おかげで勝願寺には、両家の墓が残されることになります。
勝願寺と結城御殿
徳川家康にはたくさんの子供がいましたが、戦国の終末から治世の世へ移り変わる動乱の時期であり、その影響は否が応でも受けることになります。
長男・信康(ひでやす)は、織田信長から、武田家との内通を疑われ、切腹。当時家康は信長と同盟関係(勢力の上からほぼ主従関係)にあり、涙を呑んでこの命を受けたと云われています。
次男・秀康(ひでやす)は、豊臣秀吉に10歳頃に人質としてとられ、その後養嗣子として羽柴(はしば)を名乗ります。秀吉に嫡子・秀頼(ひでより)が生まれると、結城家へ養子として迎えられました。家康と秀康の仲はよくなかったと云われていますが、長男、次男と跡目を失った家康の心中は複雑なものがあったでしょう。
結局、将軍職は三男の秀忠(ひでただ)が継ぐことになりますが、家康が37歳の時の子で、平均寿命が50歳の当時としては、その将来に不安を覚えたのではないでしょうか。
家康は健康管理のため、自らの手で薬を調合していましたが、幕府の権力を安定させるため、また後継者を育てるためにも不可欠だったのでしょう。
話は逸れましたが、結城家当主となった秀康は、関が原の戦い(1600年)の後、越前(現:福井県)北ノ庄など75万石を与えられ、常陸(現:茨城県)結城(ゆうき)10万石から移封されます。
天領(幕府直轄領のこと)となった結城城は領主不在となった訳ですが、慶長6年(1601)、家康が来鴻した際に、城中の御殿、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀(つきじみすじべい)、下馬札、鐘などを勝願寺へ寄進しました。
移築された結城御殿
御殿は当主が日常生活を送る建物ですから、当然結城にあった時には秀康もここで起居したことでしょう。
移築された御殿は、桧皮葺(ひわだぶき)、大入母屋(おおいりもや)破風作りで大規模なものだったとされており、本堂に向って右手奥に建てられていました。
中は、百十四畳敷きの大方丈、九十六畳敷きの小方丈とに分けられ、大方丈には長押(なげし)に金の葵御紋が貼り付けられたことから「金の間」と呼ばれ、東照宮の御像安置されました。小方丈には銀の葵御紋が貼り付けられたことから「銀の間」と呼ばれ、こちらには秀康の念持仏で、黒本尊と称する弥陀の木像が安置されていました。
さらに獅子の間と呼ばれる本堂への廊下がありました。
大方丈は、将軍が御成りの際に使用されたことから、「金の間」以外に「御成の間」とも呼ばれ、将軍以外には使用を禁じられていたと云われています。
鴻巣御殿も、将軍の鷹狩の際に使用された建物ですが、この御殿とは別の場所にありました。
御台所は庫裏(くり)として御殿の右手に建てられ、客間、応接間、僧の居室などがあり、御殿よりも大規模な建物だったようです。
太鼓櫓は手を加え、仁王門として利用されました。仁王像は登戸の勝願寺から移されたもので、運慶作だったと伝えられ、その巧みな技をもって作られた像には「児喰い仁王」の話が伝えられています。
仁王門の階上には、釈迦無仁仏(しゃかむにぶつ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が安置されていたようです。
仁王門の左右に移築されたのが築地三筋塀で、表面に瓦の筋が三本見えたことから、この名が付けられていました。
下馬札は総門の外、中山道に面した参道に柵が廻らされ、その真ん中に立てられました。当時、壇林の権威は高く、たとえ将軍といえども下馬しなければならないほどでした。加賀の前田家はこの下馬札を見落としたことから、法要寺との縁を深めることになりました。
鐘は結城の花蔵寺にあったもので、応永2年に鋳造されたものでした。
勝願寺を描いた絵図によると、総門、中門、仁王門は朱塗りで、威風堂々とした門構えであり、また、御殿に面した本堂も桧皮葺だったようです。
勝願寺を襲った災厄
それらの建物群が現在に伝われば、間違いなく文化財となったでしょうが、残念ながら明治3年の大旋風による被害と、同15年に起こった火災によって殆どが失われてしまいました。
明治3年の風害は被害が大きかったようで、鴻巣全体でも、倒壊した家屋は数知れず、屋根瓦が2〜3町は飛び、屋根がそっくりそのまま木の上にかぶさるほどの風ですから、想像を絶するものだったようです。勝願寺では、山内の巨木が多数根倒しになり、鳥たちの死骸で埋め尽くされる程の被害が出ました。 金の間、銀の間は壊滅し、そのまま破却。三筋塀や開山堂と共に売却されてしまいました。
同15年の火災では、本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など、殆どの建物を嘗め尽くし、鐘もこの時に割れてしまいました。
幸い、総門が残り、仁王像も運び出され無事でしたが、像は後日、何者かによって売却されてしまいます。
勝願寺の再興
既に朱印地や山内の一部は明治政府によって国有地化されていたため、この災厄は勝願寺にとっては手痛いものでした。
当時の住職、了寛和尚は各地へ赴いて浄財を募り、その苦労の甲斐あって明治24年に現在の本堂及び庫裏を復興されました。
その後、明治43年に鐘楼が建立され、勝願寺の末寺でもあり、鴻巣の時の鐘を知らせていた、五智堂の鐘が移されました。しかしこの鐘も、太平洋戦争のあおりを受けて供出されてしまいました。現在の鐘は、昭和44年に鋳造されたものです。
仁王門は大正9年に建立されたもので、仁王像は秩父三峰神社より寄贈されたものです。
現在の勝願寺
栄華を極めた勝願寺の面影を残すものは総門くらいなものですが、再興された仁王門や仁王像はそれに相応しく力強い印象を与えていますし、入母屋屋根や唐破風を持つ本堂は威風堂々としており、当時の姿がしのばれます。
11月には勝願寺でお十夜が催され、関東三大十夜として親しまれています。
今や鴻巣公園となって市民の憩いの場となっている鴻巣公園には、かつて学寮が立ち並んでいましたが、明治以降はグラウンドとして整備され、競馬や自転車競走、サーカスなど、さまざまなイベントが催されました。
公園には明治41年(1908)に桜を植樹、昭和10年(1935)に躑躅(つつじ)が植えられました。
さらに園内には忠霊塔が建ち、日清・日露・太平洋戦争の戦没者が合祀されています。
勝願寺に眠る武将達
勝願寺には、伊奈家の墓以外にも、文化財登録されてはいないものの、戦国時代に活躍した人達のお骨が分骨され、墓石が残されています。
真田小松姫(さなだこまつひめ)
父は徳川家康の家臣で、”徳川四天王”の一人として名高い本多忠勝(ほんだただかつ)。家康の養女となり真田信幸(のぶゆき:信之)の妻となる。
慶長5年(1600)上杉討伐の折、信幸と昌幸(まさゆき:信幸の父)・幸村(ゆきむら:同弟)がたもとを分かち、急ぎ上田城に戻る途中、沼田城に立ち寄った義父(昌幸)を、甲冑に身を固め、城門を硬く閉じ、夫不在の城を守った話は有名。
生前に同寺の二世、円誉不残上人(えんよふざん)に帰依した縁から、二女が一周忌の際に分骨した。本廟(ほんびょう)は長野県上田市にある。
真田信重(さなだのぶしげ)とその室
信重は信幸の三男で慶安元年(1648)鴻巣で病没。
小松姫の縁で同寺に埋葬される。本廟は長野県上田市にある。
仙石久秀(せんごくひさひで)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣で、淡路国洲本城(あわじこくすもとじょう)主として5万石を領し、天正18年(1590)小田原征伐の功績により小諸(こもろ)を賜る。その後、家康(いえやす)に仕え、慶長19年(1614)に江戸出府の帰路、鴻巣で病没。本廟は長野県上田市にあるが、遺名により同寺に分骨された。
秀吉に仕えた折、石川五右衛門(いしかわごえもん)を捕縛したという伝説が残る。




