6月1日
「勝利のフィナーレ」

Tコリント131113
コリント教会への手紙の結びに使徒パウロは勝利のフィナーレで締めくくりました。教会がたとえどんなにほころび混乱したとしても再生することができると確信していたからです。喜びなさい
!完全な者になりなさい!慰めを受けなさい!一つ心になりなさい!平和を保ちなさい!命令と言うよりも実現可能なビジョンであり、絵に描いた餅ではありません。愛と平和の神が教会と共におられるからに違いありません。神がすべてであり、神が必要の源泉なのです。「神はあなたがたと共にいてくださいます。」この確かな保証はインマヌェルとして来臨された救い主イエス・キリストによって実現しているのです。舎や、教会を取り囲む状況がどうあれ、聖霊の交わりを通してキリストの恵みと父なる神の愛はいやがうえにもキリストの血の代価で県費われた教会と共にあることを覚えて主の御名を崇めることにしましょう。主の昇天された後に降られた「別な助け主」である聖霊は、聖徒たちの日々の祈りを通して働きかけられ、人知では想像を越えた神のお取り扱いへと教会は導かれることでしょう。

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6月8日

「深淵に差込む光」

ルツ記1章1〜6節

「世界のいかなる詩人も、これ以上に美しい短編を書いていない」とまで絶賛されるルツ記のプロローグは、流血の闘争に終始した士師時代を背景に、主人公の家族をおおう食料難と愛する者の相次ぐ死別に始まり、そこに私達は人の生きる人生の深淵を見せられます。飢饉により生計の見通しが立たなくなったこの家族は、やむなく故郷を後にして国外移住を決意します。ところが家長エリメレクはそこで死去し、二人の息子もモアブの女を妻としたものの、彼ら二人もまた10年後に死去してしまいます。エリメレクの妻ナオミは夫と息子に死別させられ、打ち続く苦難に呆然とし悲嘆にくれてしまいます。まさに深い淵に落ち込んだかのようです。しかし、私達はナオミが故郷に帰ろうと決意した経緯の中に深く暗い淵に差し込む一条の光を見ます。「主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さった」という噂をナオミは聞き、そこに希望を見出すことができたのです。神が民を顧みてくださる。神が訪れて直接介入してくださる。私達は主イエスが人となって生まれ十字架への道を歩まれた事実の中に神の訪れの光を見ることができます。どんな深みに落込んだとしても神は必ず光に導き出されるのです。
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6月15日
「故郷に帰る」


ルツ記1章6〜14節
異国の地モアブで夫と二人の愛する息子を失った寡婦女ナオミは
、傷心の思いで故郷のベツレヘムに帰ろうとしました。一人ではなく同じく寡婦となった若い二人の嫁たちも一緒でした。だが、若い彼らの将来のしあわせを配慮したナオミは彼らに自分の親族、自分の故郷へ帰るよう説得しました。この箇所には動作を表す「帰る」が
10回も観られます。故郷に帰る!故郷とは「安息の場所」であり「身の落ち着き所」を意味しています。では、私達の故郷はどこだろう。「母の家」がある。「父の家」もある。「夫の家」かもしれない。しかし、永続する故郷ではない。聖書は、人の地上の生きる姿を「旅人」または「寄留者」と表現しています。人は永遠の故郷、永遠の身の落ち着き所を目指して生きているのではないだろうか。人のルーツは創造者である神にあります。人が出て来た所、神に帰ることこそ魂の帰郷であります。ルツは姑のナオミに同行して神の安息に入りました。今、私達は神への道である主イエスキリストに従うことで魂の永遠の故郷、神に帰ることができるのであります。

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6月22日

「全能者の陰に宿る」

ルツ記11922

傷心のナオミが嫁のモアブの女ルツを伴いベツレヘムに帰郷すると町は騒然としました。「ナオミではないか。」と安否を問う町の女たちに、「ナオミと呼んでくれるな。マラと呼んでくれ!」とナオミは暗い気持ちで応じます。ナオミの心境はマラ(苦しい)だったのです。ナオミは自分の悲劇の張本人は神であると断定し「自分をひどい目に会わせたのは主なのです。」と苦しみを説明しました。そこでは二回も神の御名を「全能者」とナオミは表現します。神が全能者であると告白することは、「神にはなんでもできる。」「神にとってできないことは何一つない。」ことを意味するでしょう。ナオミはその時点では自分の体験に基づいて否定的にしか神の性質を観ることができなかったようです。しかし、全能の神はナオミを見過ごしにされてはいませんでした。祝福を与える全能の力によって、神はナオミを償って余りある人生へと導かれるのです。ベツレヘムにたどり着いた季節が「大麦の借り入れの始まったころ」と何気なく記されたことも、これからナオミが受けようとする豊かな神の恵みを暗示するかのようです。「神は神を愛する者たちとともに働いて、すべてのことを益としてくださることを私たちは知っています。」ローマ828


6月29日
「それは、はからずも」

ルツ記213
主人公のひとりナオミは、愛する家族と死別し、あまりにも受けた大きな打撃のゆえに、何をする気力もありませんでした。それでもベツレヘムにたどり着けたことは幸いです。この「パンの家」を意味するベツレヘムにおいて、ナオミとルツの前には、遠縁の親戚で町の有力者ポアズが立ち現れたのです。ポアズを新約の光に照らしてみるなら、彼はキリストの型といえます。だれでも人がキリストの教会にたどりつくなら、そこでは、真の意味で力ある有力者、イエスに出会うのです。彼こそ崇めるべき至高の方、困窮する人を富ませる万物の所有者、厳しい試練の戦いに遭遇する者に勝利をもたらす戦いの勇士なのです。ルツは義理の母を愛し、その神を受け入れ、何も知らずに異国に来ました。そして神の約束を信じて果敢に落穂拾いに打って出ました。するとどうでしょう。「はからずも」その畑はポアズの所有地だったのです。これを一つの契機に、思いがけない展開が始まります。決して偶然ではありません。神の深い愛ある摂理的な働きだったのです。状況がどうであれ神に信頼し、人を尊敬し愛し行動すると玉に神の見えざる御手がそこには必ずあるのです。

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