5月11日

「平和を造る者」  マタイ5章9節 (石川秀和師による)

平和を口先で語るのは簡単であるが、平和は造り出すものであって、自然に平和になるものではない。争いはあらゆる分野に果てしなく、国々は対立し、民族同士で争い、職場にも家庭にも学校にも紛争は絶えない。人が争いぶつかるのはエゴがあるからだ。自分なりに良かれとエゴを主張するときに人は争う。自分が正しいと確信するが、正しさの基準は各自が違っている。価値観が違うためにお互いに無理解であることを嘆き、挙句の果てに争い戦う。10節で「義のために迫害されている者は幸いです。」更に11節に、「わたしのために、迫害されたりするとき、あなたがたは幸いです。」と言われたがイェスこそ義なのである。イェスに注目し、イェスを機軸としなければならない。平和の創始者であるイェスの生き方に学ぶべきである。信仰は大切だが、ヤコブは「信仰は行いによって全うされる」(2:22)とも教えた。私たちは平和を造りだすために何をするべきだろうか。

2008年  5月 第1聖日  第2聖日 第3聖日 
もどる ホームへ
もどる ホームへ

5月18日

「全能の神の前で」 

 創世記17章1節 (嵐 時雄師による)

アブラハムは神の啓示を確信して75歳にして約束の地に出立した。経済的には祝福されてはいたが悩みは世継ぎに欠けていたことだった。たまりかねた妻サラの提案に従い、奴隷女ハガルによってアブラハムはとりあえず世継ぎを確保したかに見えた。だが、14年後、「わたしは全能の神である。」と主は彼に顕現された。99歳にして彼は特別な啓示を受けたのだった。次善の策として奴隷女から世継ぎイシマエルを得て、その範囲内で納得したつもりではあった。だが、神の計画はそれとは別に、彼らの生殖機能の及ばぬ年齢に達したときに実行に移されようとした。私達は日常生活の中に神の全能性を信じているだろうか。困難に直面するときに意識的に「主の御手にお任せしよう」と祈れるだろうか。神は「私の前を歩み、全き者であれ」と言われる。神の温かい慈愛に富める眼差しを意識して生活し、健全な神との関係に生きるように求められているのではなかろうか。 
もどる ホームへ

5月25日

「健全な自己吟味」  

Uコリント13章1〜10節 

赦された者が集まる教会は、罪赦された罪びとの集まりでもある。だから問題が起こるのは避けられないが、ここに問題に対処する5つの原則がある。事実を確認するのに慎重であろう。風評や陰口の一人歩きは禁物である。またパウロは「容赦しない」と除名処分も覚悟したがその動機は深い愛であった。厳しくも愛ある対処が必要だ。ジェームス・ドブソン博士の言葉を借りれば「愛はタフに違いない。」それに問題がある相手には十分考える時間を与えよう。手紙を書き、口頭で促し、パウロは十分に気配りしていた。キリストに従い苦しむなら慰めが相手に、死に直面するなら命が相手に、弱さも強さを相手に提供することができる。キリストに従うなら聖霊の力が問題の解決の秘訣となる。そして健全な自己吟味こそ解決の鍵であろう。自己吟味のポイントはキリストが「お互いに愛し合う」ことにより自分の内にお住まいくださっているかどうかではないだろうか。アーメン!

もどる ホームへ
もどる ホームへ