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「変装を見破る」 

Uコリント11章1−15節

古代コリント教会が陥った危険は、現代教会に対する警鐘でもある。神と人との敵である狡猾なサタンが蛇のように忍び込み、エデンの園でエバが騙されたように、キリストの花嫁である現代の教会も誤った教えに翻弄されている。取り分けヨーロッパの教会から人々が離反する現象は、教会がいつの間にか真理から逸脱しているからだろう。「別のイエス」「異なった霊」「異なった福音」に対して無抵抗であっていいはずがない。統一原理やエホバの証人、モルモン教といった異端宗教よりも、教会内部に忍び寄る偽教理に対して敏感でいよう。そして聖書が説く正真の主イェスを信じ愛し受け入れ、助け主である御霊により頼み、十字架の福音を誇ることにしよう。礼拝において神の言葉の前に傾聴し、聖餐に預かり自己吟味することを怠らないようにしよう。誤った教理に陥った人には、忍耐をもって健全さの回復を祈り対処しよう。

2008年  4月 第1聖日  第2聖日 第3聖日 第4聖日
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4月13日

「日々押しかかる心遣い」  

Uコリント11章16-33節

「毒をもって毒を制す」、偽教師に翻弄されたコリント教会に対処するパウロは苦肉の策をとった。誇り高ぶる偽教師に惑わされるキリスト者に悟らせるため、パウロは愚か者のすることと知りつつ自らの誇りを民族的、宗教的、霊的に、とりわけキリストのしもべとしていかに他に抜きん出ているかを明らかにした。私たちはその列挙された誇りのリストに驚かざるを得ない。この箇所で最後に彼が誇ったのは、パウロが諸教会のために並々ならぬ心遣いをしてきたことであった。「心づかい」と訳された原語メリナムは「心配、思い煩い」と訳されるのが常である。だが、ここでは種々の生活の心配、不当な思い乱れでなく、愛のこめられた「思いやり」である。コリント前書12:25では、キリストの体、教会の機能にも使われ「相互のいたわり」だと教えられる。明日への心配、生活の思い煩いを主に委ねて克服し、私たちもまた互いに愛あるケアに生きたいものである。

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4月20

「弱さと強さの同時性」  

Uコリント12章1−10節

「わたしが弱いときにこそ、私は強いのです。」弱くて強い。弱さと強さが自分には同時に同居している。これは一見して矛盾のようだが自分にとっての現実なのだと使徒パウロは証言します。彼を弱らせたのは肉体に刺さるトゲ(何か不詳)でした。何度か祈ってその苦痛の除去を訴えましたが、主からの答えは意外でした。「わたしの恵みは、あなたに十分である。」それは苦痛の除去ではなく、苦痛の意味を悟らせるものでした。苦痛が除去されずに許容されているのは、優れた啓示を与えられているパウロが謙遜になるためであると同時に、その弱さにおいてキリストの力が完全に現われるためであるという理由を彼は悟らされました。重荷や苦痛で悩むときには、訴え主に祈ることが許されています。人間の行き詰まりは神の働かれる機会であります。八方塞がり、四面楚歌のような状況をキリストの力がおおう機会と理解しようではありませんか。

 
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4月27日

「伴うしるし」  

Uコリント12章11−13節

「創造された者が創造主に優らず、設計されたものが設計者に優らず、また法則が法則制定者に優らないのであれば、神がご自身の聖なる目的を遂行するために、もしそうするのが必要であり、また願うところであるならば、自らの目的達成のために、神が宇宙に干渉し得ることは必然の結論といわざるを得ない。」神が奇跡なされるのは合理的であり当然であります。使徒パウロは自分の使徒であることを弁明するのに、自分を通して神が成された奇跡の働きを証言しました。奇跡を表現する「しるし、不思議、そして力ある業」は神が成される奇跡の目的を説明します。しるしはイェスが神であることを示し、不思議は語られた神の言葉を確証し、そして力ある業は人々に信仰を呼び覚ます働きをします。主イェスは今も変わらず、その名は「不思議」であり、イェスに信頼する者には不思議なしるしが、ワンダフルな業が伴うことでしょう。

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