月3日

「広く開かれた心」      
                Uコリント6章11−18節


 使徒パウロはその愛するコリントの教会に、「私たちの心は広く開かれている」と述べ、「あなたがたのほうでも心を広くしてください。」と訴えている。「広く開かれた心」とは霊的に成熟した成人の考え方ができることである。キリストを信じて新生することは素晴らしい。だが霊的に成長するためにはキリストにあって誰であるか認識していることが大切である。5章17節によれば、信じた者は「新しく造られた者」なのであり、それゆえに「古いものは過ぎ去った」のであるから、信じない以前にはこだわっていた不用な物事は放棄しよう。そして、慈愛に富める父であって、どんなことでもおできになる全能の神が、今まさに生きて働きかけようと日ごとに語りかけてくださるその言葉に耳を傾けることにしよう。心を窮屈にせず広く眼を見開き、神と共に生きることは何と素晴らしいことか。「あなたがたはわたしの息子、娘となる」

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2月10日

「気落ちする者を慰めてくださる神」
  
                                                       Uコリント7章1−16節


 「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。」(ヨブ5:7) 避けがたい苦しみに遭遇し恐れ落胆させられることがある。だが、慰めてくださる神がおられる。福音の果敢な宣伝者パウロでさえも気落ちすることがあった。しかし、力強く証言してはばからない。「気落ちした者を慰めてくださる神は、、、私たちを慰めてくださいました。」と。慰めるとは「側に近寄って助ける」ことを意味する。この箇所から神が人を通して慰めたもうことを知る。コリント教会に代理として問題解決に派遣されて帰ってきた弟子のテトスによりパウロは慰めを受けることができた。キリスト者が出会うことは秘儀のひとつである。二人、三人が主イエスの名により出会うと、そこに主ご自身が立たれる。気落ちした者に慰めの神として立たれる。私たちはその意味でも兄弟姉妹を必要としている。慰めを受ける者、慰める者として出会いたい。 

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2月17日

「この恵のわざ」

Uコリント8章1〜9節

 厳しい天災と迫害で経済的に窮するエルサレム教会を支援するための献金を使徒パウロはコリント教会に勧告します。献金とは、マケドニア教会の実例から、神の恵みが注がれ人の心が喜びに溢れるときに実行できる「恵みのわざ」であることが明らかにされます。そればかりか、献金は恵みを神からいただいた結果であると共に、聖徒たちを支える恵みの交わり(コイノニア)でもあります。コイノニアとは「ひとつのものを共有すること」です。献金する者は献金を受けて奉仕される者との間に喜びを共有する経験へ導かれるのです。そして、最後の9節により、献金する動機が、主イェス・キリストの恵み、すなわち、イェスが神であられたのに人となられ、富んでいたのに貧しくなられたので、信じる者が霊的に富める者とされたことを自覚するところにあることも明らかにされます。収入力に応じて恵みのわざに参与したいものです。

 
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2月24日

「自分でできることを」

Uコリント6章1〜10節

教会で献金をすることを聖書は「恵みのわざ」と呼ぶ。世俗の募金、醵金や税金とは全く異質な行為である。神の恵みを受けた人のみが、そうせざるを得ないほどに祝福された行為である。神の御子として富んでおられたキリストが救いのために人となり貧しくなられたために信じる者が霊的に富む者とされた、それが恵みである。それはまた、交わりの恵みとも呼ばれ、献金により恩恵を受ける者と献金者とが喜びを共有する営みでもある。この恵みのわざはその人が持てる物ですればよい。それ以上を要求されも期待もされない。人々の必要に応じてその欠乏を補うために、それによって平等になるためになされるのが献金である。かつてイスラエルが40年、荒野を旅したときに天からマナが食料として降った。彼らはそれによって必要が満たされた。教会は献金によって相互の必要が満たされることを経験する共同体であることを覚えよう。

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