安倍政権

第1次安倍内閣 / 安倍晋三菅義偉長勢甚遠麻生太郎尾身幸次伊吹文明柳澤伯夫松岡利勝赤城徳彦若林正俊甘利明冬柴鐵三久間章生小池百合子塩崎恭久溝手顕正高市早苗山本有二大田弘子佐田玄一郎渡辺喜美諸話
第1次安倍内閣(改造) / 増田寛也鳩山邦夫町村信孝額賀福志郎舛添要一遠藤武彦鴨下一郎高村正彦与謝野馨泉信也上川陽子岸田文雄
野党時代諸話 / ・・・諸話
第2次安倍内閣 / 谷垣禎一石原伸晃新藤義孝小野寺五典下村博文田村憲久林芳正茂木敏充太田昭宏根本匠古屋圭司山本一太森まさこ稲田朋美諸話2013諸話2014
第2次安倍内閣(改造) / 諸話
第3次安倍内閣 / 西川公也宮澤洋一望月義夫中谷元竹下亘山谷えり子山口俊一有村治子石破茂遠藤利明諸話
第3次安倍内閣(改造1) / 岩城光英馳浩森山裕林幹雄石井啓一丸川珠代高木毅河野太郎島尻安伊子加藤勝信諸話
第3次安倍内閣(改造2) / 金田勝年松野博一世耕弘成山本公一今村雅弘松本純鶴保庸介山本幸三諸話
第3次安倍内閣(改造3) / 野田聖子齋藤健中川雅治吉野正芳小此木八郎江崎鉄磨松山政司梶山弘志鈴木俊一諸話
自由民主党の派閥 / 主要派閥派閥歴史衰退と解消派閥と領袖
 
戦後政治 吉田茂・岸信介・中曽根康弘
平成の総理大臣・政治家
懺悔の値打ち

雑学の世界・補考

第1次安倍内閣

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
菅義偉      
長勢甚遠                
麻生太郎      
尾身幸次                
伊吹文明              
柳澤伯夫                
松岡利勝                
赤城徳彦                
若林正俊              
甘利明        
冬柴鐵三              
久間章生                
小池百合子                
塩崎恭久          
溝手顕正                
高市早苗          
山本有二              
大田弘子              
佐田玄一郎                
渡辺喜美              

2006年9月26日 - 2007年8月27日
内閣総理大臣 / 安倍晋三 衆議院 / 無派閥
総務大臣 / 菅義偉 衆議院 / 古賀派
法務大臣 / 長勢甚遠 衆議院 / 町村派
外務大臣 / 麻生太郎 衆議院 / 麻生派
財務大臣 / 尾身幸次 衆議院 / 町村派
文部科学大臣 / 伊吹文明 衆議院 / 伊吹派
厚生労働大臣 / 柳澤伯夫 衆議院 / 古賀派
農林水産大臣 / 松岡利勝 衆議院 / 伊吹派 2007年5月28日死去
        赤城徳彦 衆議院 / 高村派 2007年6月1日任命
        若林正俊 参議院 / 町村派 2007年8月1日任命
経済産業大臣 / 甘利明 衆議院 / 山崎派
国土交通大臣 / 冬柴鐵三 衆議院 / 公明党
環境大臣 / 若林正俊 参議院 / 町村派
防衛大臣 / 久間章生 衆議院 / 津島派
        小池百合子 衆議院 / 町村派 2007年7月4日任命
内閣官房長官 / 塩崎恭久 衆議院 / 古賀派
国家公安委員会委員長 / 溝手顕正 参議院 / 古賀派
防衛庁長官 / 久間章生 衆議院 / 津島派
内閣府特命担当大臣 / 山本早苗(高市早苗) 衆議院 / 町村派
内閣府特命担当大臣 / 山本有二 衆議院 / 高村派
内閣府特命担当大臣 / 大田弘子 民間
内閣府特命担当大臣 / 佐田玄一郎 衆議院 / 津島派
        渡辺喜美 衆議院 / 無派閥 2006年12月28日任命  

就任表明では「美しい国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」などのカタカナ語を連発し、他の議員からは「分かりにくい」と揶揄された。  
安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。  
北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、国連の制裁決議とは別に、より厳しい経済制裁措置を実施した。  
同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える、郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が肝煎りで任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎行改担当大臣が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが相次いだ。  
2007年3月の安倍の慰安婦発言が「二枚舌」と欧米のマスコミから非難されたが、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップを行い、当選させた(島尻はその後で自民党に入党)。  
5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺。官邸で訃報に接した安倍は涙を流し「慙愧に耐えない」と会見し、その晩は公邸で妻の昭恵に「松岡さんにはかわいそうなことをした」と語っている。また年金記録問題が大きく浮上した。  
こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアに大きく報じられた。同月6日-8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には久間章生防衛大臣の原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は当初続投を支持していたが、批判の高まりを受け久間に厳重注意を行った。久間は直後に辞任し、後任には小池百合子が就任した。  
参議院議員選挙での敗北  
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。安倍はこういった閣僚の諸問題への対応が遅いと非難された。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。2007年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」と楽観視していたが、結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を大きく下回る歴史的大敗を喫した。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、東北地方や四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。  
安倍は選挙結果の大勢が判明した時点で総理続投を表明したが、これについては、応援演説において「私か小沢さんか、どちらが首相にふさわしいか」と有権者に「政権選択」を迫るような趣旨の発言をしていたことから内外から続投に対する厳しい批判が出た。また、参院選直後の7月31日の自民党総務会においても、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)。同日、アメリカ下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と批判された。この頃から安倍は食欲の衰えなど体調不良を訴え始め、8月19日から8月25日のインドネシア、インド、マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。  
安倍改造内閣  
選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良によりAPECの諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。  
2007年9月10日に第168回臨時国会が開催され、安倍は所信表明演説の中で「職責を全うする」などという趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。午後には「(改正案を通すのは)厳しいでしょうか」と辞任を示唆する発言を麻生幹事長に漏らしていたが、麻生から「テロ特措法があがった後でよろしいのではないですか。絶対今じゃないです」と慰留された。9月11日には妻の昭恵に対し「もうこれ以上、続けられないかもしれない」と語ったが、辞任の具体的な日程までは一切明かさなかった。  
辞意表明  
2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を行った。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。  
安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢代表は記者会見を開き「打診を受けたことは1回もない」と否定。なお、小沢は党首会談について報じられてからも「意見を変える気はない」と明言している)。一方で、自身の健康に不安があるという理由も与謝野馨内閣官房長官が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。  
もともと胃腸に持病を抱えているといわれており、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でもそのことについて触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしているが、辞意表明の当時はこの点を報じた者は皆無であり、過去に脳梗塞のために首相を辞任した石橋湛山や小渕恵三などと比較して「命に関わらない程度の健康問題」を理由にした退陣と見られたため、立花隆をはじめとして辞任に追い込まれた実質的原因が(本人が記者会見をこなしていることなどを理由に)健康問題ではないとする見方をする論者も存在するなど、批判にさらされることとなった。  
臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明は、各界各方面から批判を浴びた。野党側は安倍の辞意表明について「無責任の極み」であるとして次のような批判を行った。  
「40年近くの政治生活でも、過半数を失って辞めず、改造し、所信表明をし、そして代表質問の前に辞職と言う例は初めてで、本当にどうなっているのか、総理の心境・思考方法については良く分かりません」(民主党小沢一郎)  
「参院選の後に辞めていればよかった。こういう形の辞任は国民に失礼」(民主党・鳩山由紀夫幹事長)  
「所信表明直後の辞任は前代未聞」(共産党・志位和夫委員長)  
「タイミングがあまりにひどい、無責任です。『ぼくちゃんの投げ出し内閣』だ。小沢代表との会談が断られただけで辞任するのは子供っぽい理由」(社民党・福島瑞穂党首)  
与党側でも古賀誠元自民党幹事長などから退陣に至る経緯・理由が不透明であるという批判や、その他議員からも「なぜ今日なのか、無責任だ」という批判が出た。かつて安倍派四天王と呼ばれ清和研幹部で引退後は自由国民会議代表務める塩川正十郎も「非常に無責任な辞め方。熱意と努力で乗り切ってもらいたくて支えてきた。支えてきた者から見たらこんな辞め方は無い」と批判した。また、公明党の北側一雄幹事長からも「なぜこの時期に辞意表明なのか、非常に理解しがたい」と批判された。  
麻生太郎自民党幹事長は同日の会見において、記者からの「総理はいつ辞任を決断していたのか」との問いに対し、「2日くらい前といえばそうだし、昨日と言えばそうだし…、この3日間意向は全くかわらなかった」などと述べ、安倍の辞任を2日前(安倍晋三が臨時国会でテロ特措法の延長ができなければ内閣総辞職すると述べた日と同日)にはすでに知っていたことを明らかにした。  
9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している。  
安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道では批判的な意見が多かった。  
入院・内閣総辞職  
退陣表明の翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。これについても海外メディアで報道され、イギリスBBCは「昨日官邸をチェックアウトした安倍首相は、今日は病院にチェックインした」「日本は1週間以上も、精神的に衰弱しきった総理大臣を抱えることになる」と報じた。  
遠藤武彦農相に不正な補助金疑惑が発覚した際、遠藤の辞任の流れを与謝野馨内閣官房長官と麻生幹事長の2人だけで決めて安倍を排除したことから、安倍が「麻生さんに騙された」と発言したと言われる。この内容について9月14日の報道ステーションが麻生にインタビューで問い質したところ、麻生は「(9月14日に安倍氏の見舞いに行った時)『そんなこと言われて与謝野とふたりで困っている』と安倍総理に言ったら、『そんなこと言ってない』と笑っておられました。どなたかが意図的に流したデマでしょう」と反論をしている。同日のNEWSZEROは、番組終盤に安倍の「麻生さんに騙された」という発言を速報という形で伝え、麻生と安倍との間に不穏な空気が流れていたとする報道を行った。  
また、自民党の若手による「麻生-与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した。  
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージの下、これをもって最終号を迎えた。  
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復軌道には入っているものの退院できる状態ではないとした。病室内では新聞は読まずテレビも基本的には視聴せず、外部の情報をシャットアウトした環境下で治療を行った。9月21日は安倍首相53歳の誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた。  
入院中、妻の昭恵から政治家引退を勧められたが、安倍は「いや、それは違う」と答え、議員辞職は拒否した。  
9月23日に行われた自民党総裁選には欠席して前日に不在者投票を行い、前総裁のあいさつは谷川秀善両院議員総会長が代読した。  
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。また、自民党若手による「麻生クーデター説」については本人の口から改めて否定された。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては政府内でも批判の声があった。  
9月25日、安倍内閣最後の閣議に出席し、国会へ登院して衆議院本会議での首班指名選挙に出席する意思を明らかにした。9月25日の安倍内閣最後の閣議で閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍前首相は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席した後、再び病院へと戻った。なお、安倍内閣の在職日数は1年あまりとなる366日であり、日本国憲法下では歴代7位の短期政権となった。改造内閣はわずか31日の短命に終わった。
 

安倍晋三

 

安倍晋三(1954年- ) 自由民主党所属の衆議院議員(8期)、第96・97代内閣総理大臣(再登板)、第25代自由民主党総裁(同)。内閣官房副長官、内閣官房長官、内閣総理大臣(第90代)、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第21代)を歴任した。
成蹊大学卒業後、神戸製鋼所社員、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。内閣官房副長官、自由民主党幹事長(第37代)、同幹事長代理、内閣官房長官(第72代)などを歴任。2006年(平成18年)9月26日に戦後最年少の52歳で自由民主党総裁(第21代)、内閣総理大臣(第90代)に就任するも、2007年(平成19年)に第21回参議院議員通常選挙での敗北と、体調の悪化を理由に同職を退任。2012年(平成24年)9月、自由民主党総裁に就任、同年12月26日に内閣総理大臣に就任した(他の内閣をまたいで再度就任した事例は、1948年(昭和23年)の吉田茂以来64年ぶり)。

1954年(昭和29年)9月21日、当時毎日新聞記者だった安倍晋太郎と、その妻・洋子の次男として東京都で生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)である。 父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父にはやはり後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であった。安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。幼い頃は野球選手や刑事になることに憧れていた。
成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業した。
小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていた。高校ではクラブは地理研究部に所属。高校卒業後成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。
1979年(昭和54年)4月に帰国し、神戸製鋼に入社。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点」、あるいは「私の原点」だったと回顧している。

神戸製鋼に3年間勤務した後、1982年(昭和57年)から当時外務大臣に就任していた父・晋太郎の下で秘書官等を務める。1987年(昭和62年)6月9日、当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。媒酌人は福田赳夫夫妻が務めた。1987年、参議院議員・江島淳の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長・二木秀夫が出馬を表明したことから晋太郎に断念するよう説得され立候補を見送った。
1991年(平成3年)に総裁候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。1993年(平成5年)に父の地盤を受け継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選。当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)。1995年(平成7年)の自民党総裁選では荒井広幸や石原伸晃と共に小泉純一郎選対の中核になった。1997年(平成9年)自民党青年局長に就任。1998年(平成10年)に政策集団NAISの会を結成。
派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年(平成12年)の第2次森内閣で、小泉純一郎の推薦を受け、政務担当の内閣官房副長官に就任。第1次小泉内閣でも再任した。2002年(平成14年)、水野賢一が外務大臣政務官在任中に台湾訪問拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した(この拉致問題への対応により、内閣官房長官だった福田康夫との関係に亀裂が入ったといわれる)。西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。また、北朝鮮対策として通信傍受法の要件緩和・対象拡大を主張した。
2003年(平成15年)9月、小泉によって、閣僚未経験者ながら自民党幹事長に抜擢された。事前には筆頭副幹事長もしくは外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。同年の総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党の単独過半数はならなかった。幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年(平成16年)4月の埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した柴山昌彦が当選)。同年夏の参議院選挙では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。
小泉政権末期の早い段階から自民党内の「ポスト小泉」の最有力候補の一人と言われ、2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣。2006年9月1日に自民党総裁戦への出馬を表明。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示す。また、総裁選に当選した場合、所属する派閥の森派を離脱する考えを示した。
最初の内閣総理大臣就任
2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名される。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。
第1次安倍内閣
就任表明では、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示し、「美しい国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」などのカタカナ語を多く用いた。
安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に就任後の初外遊先となった中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。11月3日に行われた日米野球では、第1戦の始球式を務めた。
北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派のジョン・ボルトンらと連携して国連の対北制裁決議である国際連合安全保障理事会決議1718を可決させ、個別でより厳しい経済制裁措置も実施した。
同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が肝煎りで任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎国・地方行政改革担当兼特命担当大臣(規制改革大臣)が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが続いた。
2007年3月の安倍の慰安婦発言が「二枚舌」と欧米のマスコミから非難されたが、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップおこなった(島尻は当選し、その後自民党に入党)。
5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺。また年金記録問題が大きく浮上した。
こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。同月6日 - 8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には久間章生防衛大臣の原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は当初続投を支持していたが、批判の高まりを受け久間に厳重注意を行った。久間は直後に辞任し、後任には小池百合子が就任した。
参議院議員選挙(2007年)での敗北
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。同年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」と楽観視していたとも言われるが、結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、東北地方や四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。
体調の悪化と総辞職
安倍は選挙結果の大勢が判明した時点で総理続投を表明したが、これについては、応援演説において「私か小沢さんか、どちらが首相にふさわしいか」と有権者に「政権選択」を迫るような趣旨の発言をしていたことから内外から続投に対する批判が出た。 参院選直後の7月31日の自民党総務会において、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)。 同日、アメリカ下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と自民党内からも批判された。
広島平和記念式典に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる。そして、8月19日から8月25日のインドネシア・インド・マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。しかし、慶應義塾大学病院の主治医によると、(17歳のときに発症したという)潰瘍性大腸炎の血液反応はなく、機能性胃腸障害という検査結果であったという。
選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(第1次安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催された APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。
2007年9月10日に第168回国会が開催され、安倍は所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。
2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った。また、理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。
退陣表明の翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージの下、これをもって最終号を迎えた。
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした。9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた。9月23日に行われた自民党総裁選には欠席して前日に不在者投票を行い、前総裁としてのあいさつは谷川秀善両院議員総会長が代読した。
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた。
9月25日、安倍内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席した。安倍内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席し正式に辞職、その後、再び病院へと戻った。なお、第1次安倍内閣の在職日数は1年余りとなる366日であった。第1次安倍改造内閣は31日の短命に終わった。
突然の辞任への反応
小川栄太郎によると、多くの国会議員は、記者から安倍が退陣表明をすると聞かされた。亀井静香が記者に向かって「えっ嘘でしょ。これから代表質問だよ。何かの間違いでしょう」と驚く映像は、繰り返し放送されたという。
安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。
もともと胃腸に持病を抱えており、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしているが、辞任表明当時は病名等が認知されておらず、過去に脳梗塞のために首相を辞任した石橋湛山や小渕恵三などと比較して「命に関わらない程度の健康問題」を理由にした退陣とみなされた。そのため、立花隆をはじめとして辞任に追い込まれた実質的原因が(本人が記者会見をこなしていることなどを理由に)健康問題ではないとする見方をする論者も存在するなど、批判にさらされることとなった。
臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した。与党側でも驚きや批判の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た。
9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している。
安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった。
辞任の原因
潰瘍性大腸炎の病状17歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症す。自民党国体副委員長となり、食事ができずに三ヶ月入院して点滴の日々で体重激減した頃が、最も症状が重かった。このとき、「癌でこの先長くない」という噂も流れる。妻の昭恵をはじめ、潰瘍性大腸炎という病名を公表するべきだと、訴える者もいた。しかし、安倍は、官房副長官時代の2000年に、症状を出たのを最後に、幹事長、官房長官などの激務にも体調は万全だったため、2007年8月の段階までは、病気を克服できたものと判断していた。麻生・与謝野クーデター説安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党の新人議員の一部によってメディアを通じて広められた。また、遠藤武彦農相に不正な補助金疑惑が発覚した際、遠藤の辞任の流れを与謝野馨内閣官房長官と麻生幹事長の2人だけで決めて安倍を排除したことから、安倍が「麻生さんに騙された」と発言したと言われる。この「麻生・与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した。また安倍が9月24日に行った記者会見の中で本人の口から改めて否定している。
内閣総理大臣退任後
体調回復と活動の再開
その後、入院していた慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った。
11月13日に新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、福田康夫首相や公明党の太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた。
2007年末、『産経新聞』のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」と答えている。
2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」と語り、同懇話会の座長に就任した。3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」と述べて所属議員に謝罪した。この総会にて安倍の派閥への復帰が承認され、清和政策研究会相談役に就任した。4月28日に「主権回復五十六周年記念国民集会」でスピーチ、4月30日には「中国の人権状況を考えるシンポジウム」に参加した。8月15日朝には、首相在任中に果たせなかった終戦の日の靖国神社参拝を行った。
第45回衆議院議員総選挙直後に行われた2009年自由民主党総裁選挙では、麻生太郎とともに、平沼赳夫の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、西村康稔を支援した。
2010年4月義家弘介が初代塾長の信州維新塾開講式や6月(後に最高顧問に就任する)J-NSC自民党ネットサポーターズクラブ設立総会にゲスト参加。10月25日、インドのマンモハン・シン首相を来賓として迎えて開かれた日印友好議員連盟の会合で「(日印両国は)民主主義と法の統治を共有する同盟に近い関係だ」と述べた。
2度目の総裁就任
2012年9月12日、谷垣総裁の任期満了に伴って行われる2012年自由民主党総裁選挙への出馬を表明。自らが所属する清和会の会長である町村信孝の出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、前会長の森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされた事や5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった石破茂、党内重鎮からの支援を受けての出馬となった石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、麻生派、高村派が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となり、9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決戦投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は1956年12月自由民主党総裁選挙以来となった。なお、安倍はこの時、自身の体調に関して前回の総理大臣辞任後に発売された特効薬によりほぼ寛解したと説明している。
内閣総理大臣に再就任
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、政権与党に復帰。同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目である。
首相再登板後は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示す。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、アベノミクスと称される。「アベノミクス」は2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞した。
 
菅義偉

 

菅義偉(1948- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、内閣官房長官(第81・82代)、沖縄基地負担軽減担当大臣。現在歴代の内閣官房長官で最長の在位記録を持つ(更新中)。横浜市会議員(2期)、総務大臣(第7代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣(第3代)、自民党幹事長代行(第2代)などを歴任した。
秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後の雄勝町、現:湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿いに家があった農家に長男として生まれる。家族は父、母、と姉2人、弟1人。父・菅和三郎は、南満州鉄道職員として満州国首都通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任し、2010年に93歳で死去した。母や叔父、叔母は元教員であり、2人の姉も高校教諭となった。雄勝町立秋ノ宮小学校(現:湯沢市立雄勝小学校)卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現:湯沢市立雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、フライデーから「特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時教員にだけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後、集団就職で上京する。「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感する。上京から2年後、当時私立大学の中で一番学費が安かったという理由で法政大学法学部政治学科へ進学する。1973年、法政大学法学部を卒業し、建電設備株式会社(現:株式会社ケーネス)に入社した。
1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉秘書を紹介され、同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。以後11年に渡り秘書を務めた。1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める。
1987年、横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。
1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し、新進党公認・公明推薦の上田晃弘、旧:民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した。
1998年の自由民主党総裁選挙では所属していた平成研究会会長の小渕恵三ではなく、師と仰ぐ梶山静六を支持し、同派閥を退会。その後宏池会に入会した。2000年の第2次森内閣不信任決議をめぐる「加藤の乱」では、加藤紘一らに同調して不信任案の採決では欠席したが、その後の加藤派分裂では親加藤派の小里派(会長:小里貞利)ではなく、反加藤グループの堀内派(会長:堀内光雄)に参加した。
2006年、再チャレンジ支援議員連盟の立ち上げに参加。この議連は実質、ポスト小泉を選出する2006年自由民主党総裁選挙に、安倍晋三を擁立する原動力になった。結果、総裁選で安倍は勝利する。同年9月に発足した第1次安倍内閣では当選わずか4回で総務大臣(郵政民営化担当大臣を兼務)に任命され、初入閣する。同年12月、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)の補職辞令を受けた。
2007年、第21回参議院議員通常選挙敗北を受けた内閣改造では、安倍は菅の内閣官房長官(次善案として内閣官房副長官)起用を模索したが、直前に菅に事務所費問題が発覚し実現せず、自民党選挙対策総局長に就任した。菅は自民党選挙対策総局長への就任早々「私の仕事は首を切ること」と発言し、候補者の大幅な調整を示唆した。
同年9月、安倍の首相退陣に伴い行われた2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持する宏池会の方針に反して麻生太郎を支持し、推薦人にも名前を連ねた。福田政権の下で、選対総局長を格上げした選挙対策委員長に古賀誠が就任すると、古賀に手腕を買われ、同副委員長として引続き衆院選対策にあたることになった。古賀の配慮で選対総局長時代の部屋を選対副委員長室として引き続き使用した。麻生内閣発足後は麻生の側近として低支持率にあえぐ政権を支え、中川秀直や塩崎恭久ら党内の反麻生派を硬軟取り混ぜた様々な手段で抑えた。また、積極的な政策提言を行い、政府紙幣や無利子国債発行、世襲制限を唱えた。
2009年7月、古賀が東京都議会議員選挙敗北の責任を取る形で辞任。麻生の解散予告後だったこともあり、選対委員長代理として総選挙を取り仕切ることになる。
同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川2区で民主党の三村和也の猛追を受けるも548票の僅差で三村を破り、5選。(三村は比例復活。)2009年自由民主党総裁選挙において、96年当選同期の大村や新藤義孝・松本純と共に河野太郎の推薦人になるとともに、宏池会を退会した。
2010年、自民党国会対策副委員長及び広報本部本部長代理に就任。2011年、自民党組織運動本部長に就任。
2012年4月、郵政民営化法改正案の採決で、賛成する党の方針に反して反対した。
同年9月、盟友関係にある安倍晋三の自由民主党総裁就任に伴い、自民党幹事長代行に起用された。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、三村を比例復活も許さずに破り6選。選挙後に発足した第2次安倍内閣において内閣官房長官に起用された。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で7選。第3次安倍内閣においても内閣官房長官に再任された。
竹中平蔵総務大臣の下、総務副大臣として総務省内部統制のトップを任され、事実上人事権なども行使した。
2006年10月、NHK短波ラジオ国際放送への放送命令に定義されている放送事項に、「拉致問題」という具体的な内容を加える方針を示し論議を呼んだ。日本の放送法33条には『国際放送等の実施の命令等』という項目があり、そこには「総務大臣は、協会に対し、放送区域、放送事項その他必要な事項を指定して国際放送を行うべきことを命ずることができる」とある(2007年12月の放送法改正で「命令」から「要請」に変更された)。菅は「北朝鮮国内で厳しい生活環境で救出を待ちわびている多くの拉致被害者に対し、日本政府も国民も見捨てていないことが生きる希望になる」と強調し、11月10日に放送事項に「北朝鮮による日本人拉致問題に特に留意すること」を追加する命令をNHKに出した。一方で菅は「報道の自由は守らなければならない。番組内容や放送回数を指示する訳ではない」とNHKに対して編集権の配慮も示した。放送法44条には「編集権」に関して『放送番組の編集等』という項目があり、そこでは「NHKは、国際放送の放送番組の編集に当たっては、海外同胞に適切な慰安を与えるようにしなければならない」とある。また、当時海外から放送していた、短波放送『しおかぜ』に対して、無線局免許状を交付し、日本国内からの放送に道を開いた。
2007年に発覚した年金記録問題では、厚生労働大臣の柳澤伯夫を差し置き、総務大臣の菅が検証を担当した。日本郵政公社総裁の生田正治と会談後、生田から総裁辞任の申し出があったことを発表した。その後、後任の日本郵政公社総裁には、三井住友銀行出身の西川善文が就任することが発表された。なお、生田自身が政府に辞任を申し入れたことはない。
2012年12月、第2次安倍内閣の発足に伴い、内閣官房長官に任命される。
2013年、郵政民営化の考えにそぐわないとして、日本郵政社長坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任した。同年に発生したアルジェリア人質事件では、防衛省の反対を押し切り、前例のない日本国政府専用機の派遣を行った。
2014年5月、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信を任命したとされる。元内閣参事官の高橋洋一によると、局長人事を機に官僚を統制下に置き「歴代官房長官の中でも屈指の情報収集能力」を持つようになったという。同年7月、自らが出演したNHK『クローズアップ現代』の放送内容について、放送後のNHKに官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられたが、事実や関与を否定した。さらに、同年11月には衆議院解散による第47回衆議院議員総選挙執行を安倍に進言した。
2016年7月7日、内閣官房長官の在職期間が1290日となり、歴代1位の在職日数を記録した。  
 
長勢甚遠

 

長勢甚遠(1943- ) 自由民主党所属の元衆議院議員(7期)。法務大臣(第78代)、内閣官房副長官(第3次小泉改造内閣)、法務副大臣(第2次森改造内閣)等を歴任。
富山県富山市生まれ。富山市立柳町小学校、富山大学教育学部附属中学校、富山県立富山高等学校、東京大学法学部卒業。大学卒業後、労働省(現厚生労働省)に入省する。1988年に退官。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧富山1区(定数3)から自由民主党公認で出馬し、得票数3位で初当選した。以後7期連続当選。1995年、村山改造内閣で厚生政務次官に任命される。翌1996年の第41回衆議院議員総選挙では新設された富山1区から出馬し、新進党公認の広野允士を破り当選。小渕内閣・第1次森内閣で労働総括政務次官、第2次森改造内閣で法務総括政務次官に就任し、中央省庁再編に伴い高村正彦法務大臣の下、初代法務副大臣に就任した。
2005年、第3次小泉改造内閣で内閣官房副長官に就任。続く安倍内閣では法務大臣に任命され、初入閣した。その後、党労政局長や党衆議院議員総会長を歴任した。
2012年3月、第46回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退する意向を表明した。
2013年11月、秋の叙勲にて旭日大綬章を受章。 
 
麻生太郎

 

麻生 郎(1940年- ) 実業家。自由民主党所属の衆議院議員(12期)、副総理、財務大臣(第17・18代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)、デフレ脱却担当、為公会(麻生派)会長。内閣総理大臣(第92代)、経済企画庁長官(第53代)、経済財政政策担当大臣(第2代)、総務大臣(第3・4・5代)、外務大臣(第137・138代)、自由民主党政務調査会長(第44代)、自由民主党幹事長(第40・42代)、自由民主党総裁(第23代)を務めた。
学習院大学政治経済学部にて政治学士(学習院大学)を取得。その後、麻生産業に入社し、麻生セメント(後の麻生)の社長や日本青年会議所の会頭などを経て、1979年(昭和54年)衆議院選挙に初当選。以後1983年(昭和58年)の落選を除き、当選回数12回を数える。相続した自宅は25億円など世襲議員として資金力を有する。経済企画庁長官(第53代)、経済財政政策担当大臣(第2代)、自由民主党政務調査会長、総務大臣(第3・4・5代)、外務大臣(第137・138代)、自由民主党幹事長を経て2008年自由民主党総裁選挙により、第23代自由民主党総裁に選出され、第92代内閣総理大臣に就任した。第2次安倍内閣で副総理兼財務大臣兼金融担当大臣として入閣した。首相経験者の入閣は幣原喜重郎、宮澤喜一、橋本龍太郎に続き戦後4人目。モントリオールオリンピッククレー射撃(クレー・スキート競技)日本代表(41位)。弟の麻生泰は、人材派遣会社アソウ・ヒューマニーセンターを傘下に持つ麻生グループ代表である。また、実妹は皇族の寛仁親王妃信子殿下にあたる。信仰宗教はキリスト教(カトリック)であり、洗礼名は「フランシスコ」。
福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。麻生塾小学校を経て、小学3年生の頃上京し、学習院初等科に編入。当初は父親と親交があった水野成夫の伝手で産業経済新聞社に入社するもスタンフォード大学の試験にも合格したため、1日も出社せず休職して海外留学を選んだ。帰国後は産経からも退職し、1966年に実家の麻生産業(後に清算)に入社し、1960年代後半にブラジル、サンパウロに1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。その後、1970年から2年間に渡ってシエラレオネにて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していたが、シエラレオネ内戦勃発で帰国した。
1973年にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現:株式会社麻生)の代表取締役社長に就任。炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代にまた、社長業の傍らで、1976年のモントリオールオリンピックにクレー射撃の日本代表選手として出場(結果は41位)している。
1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に旧福岡2区(現:福岡8区)から出馬、4位(定員5名)で初当選し政界入りする。1982年、自民党青年局局長に就任。2期務めた後、所謂田中判決解散後に行われ自民党が過半数割れした第37回衆議院議員総選挙で5位当選した共産党候補に2600票余り及ばず次点となり落選する。その後第38回衆議院議員総選挙で2位の社会党候補に3万6000票余りの差をつけトップ当選し国政に復帰して以降、現在まで全ての総選挙で選挙区当選している。宏池会に所属。
1996年には第2次橋本内閣の経済企画庁長官に就任し、初入閣。1999年1月、党内で長年所属した宏池会を離脱し、河野洋平を会長とする大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。
2001年1月、不祥事により引責辞任した額賀福志郎の後任で、経済財政政策担当大臣に就任。4月、01年自民党総裁選に出馬し、小泉純一郎、橋本龍太郎と戦い31票で3位。その後発足した小泉政権では党政務調査会長を務め、その後、総務大臣、外務大臣を務める。
2004年9月に、国民年金保険料未払い期間があったことが判明している(1996年11月から2000年9月までの3年10か月間。経済企画庁長官就任時、国民年金への切り替えを忘れたため)。後に自身も未納期間があることが発覚した民主党代表の菅直人(当時)が「未納三兄弟」と呼称したうちの1人である。
2006年9月、06年自民党総裁選に立候補するも内閣官房長官(当時)の安倍晋三に敗れる(安倍:464票 麻生:136票 谷垣禎一:102票)。安倍新総理の下、引き続き外務大臣を務め、12月、河野グループが解散し、新たに為公会(麻生派)を結成、会長に就任する。
2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。同年8月の内閣改造、党役員人事で、幹事長就任するも、ほどなく安倍が退陣を表明。9月、07年自民党総裁選に立候補し、党員票では福田康夫を僅差で上回ったが、133票差で敗れ(福田:330票 麻生:197票)、1ヶ月で幹事長の座を退く。
翌2008年8月、再び幹事長に就任するも、またしてもひと月後に、総理、総裁の福田が退陣を表明。同年9月の08年自民党総裁選に4度目の立候補をし351票を獲得。自民党総裁に就任する。9月24日、第92代内閣総理大臣に就任。麻生内閣を組閣する。首相就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。
2009年8月1日、1977年に横田めぐみが北朝鮮工作員に拉致されたとされる新潟市内の現場周辺を、現職首相として初めて視察した。
2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で自由民主党が惨敗、衆議院第1党の座から転落。同日夜に退陣を表明。9月16日、自由民主党総裁を辞任。同日の臨時閣議にて内閣総辞職を決定。政権を最大野党党首で同選挙で300を超える議席を獲得した民主党代表の鳩山由紀夫に明け渡した。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が政権を奪還。まもなく成立した第2次安倍内閣では副総理兼財務大臣兼金融担当大臣として再入閣した。首相経験者の入閣は第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)に宮澤喜一が財務大臣、橋本龍太郎が沖縄及び北方対策担当大臣として入閣した時以来となる。また、首相経験者が副総理として再入閣するのは第1次吉田内閣の幣原喜重郎以来である。また、内閣総理大臣退任後に財務大臣に就任したのは宮沢喜一以来2人目である。 
「さっさと死ねるように」 2013/1/21  
麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。 
 
尾身幸次

 

尾身幸次(1932- ) 元衆議院議員(8期)。沖縄政策や科学技術政策に詳しく、経済企画庁長官、沖縄及び北方対策担当大臣、科学技術政策担当大臣、財務大臣等を歴任した。旭日大綬章受章。
群馬県沼田市に生まれ。少年期は父親の商売を手伝い、しばしば行商にもでた。群馬県立沼田高等学校を経て1952年に一橋大学商学部入学。奨学金とアルバイトにより1956年に同大学を卒業し、通商産業省に入省する。同期には、杉山弘(通産事務次官)、野々内隆(資源エネルギー庁長官)、川崎弘(経企審議官、東京電力副社長)、守屋一彦(日本化学繊維協会理事長)など。
1970年外務省在ニューヨーク日本総領事館領事、1974年通商産業省通商政策局南アジア東欧課長、1976年大阪通商産業局総務部長、1978年中小企業庁小規模企業政策課長、1979年科学技術庁長官官房総務課長、1981年中小企業庁指導部長などを歴任し、衆院選に出馬するため1982年に退官。翌年末の第37回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して初当選。その後自民党入りして福田派に所属し、先の選挙で落選・引退した久保田円次の地盤を引き継いだ。
1990年大蔵政務次官、1992年自由民主党商工部会長、1993年自由民主党科学技術部会長、1995年衆議院大蔵委員長。小選挙区比例代表並立制導入後は平成研究会の佐田玄一郎とコスタリカ方式で共闘。1997年、第2次橋本内閣改造内閣において経済企画庁長官として初入閣。在任中は、ヤオハン、北海道拓殖銀行、山一證券と大企業が次々に破綻する困難な時期だった。2000年、総裁・森喜朗の下で自民党幹事長代理に就任。2001年の第1次小泉内閣では科学技術政策担当大臣兼沖縄及び北方対策担当大臣を務めた。また大臣時代は訪米中に、アメリカ同時多発テロが発生し、日程を急遽変更してボストンからニューヨークに移動し、現地状況の把握や米国関係者との意見交換や現地日本人の保護等に努めた。
2005年の郵政国会では6月27日の自民党総務会の郵政民営化修正案の了承決議に賛成票を投じた。派内では町村信孝と並んで早くから安倍の総裁就任のために奔走し、主に派内のベテラン議員を安倍支持でまとめた。2006年9月26日、安倍内閣で財務大臣に就任。内閣改造で離任。
2007年7月の群馬県知事選挙で自民党公認候補の大沢正明(当選)を積極的に支援しなかったとして自民党群馬県連より次回の国政選挙において県連として党本部に公認申請を出さない、という宣告を受けた。知事選挙の応援よりも長女・尾身朝子の参議院選挙応援を優先させたため、と言われる。だが、一転して2008年1月までに、群馬1区の全県議7人が公認推薦を内諾した。同年2月の前橋市長選で自民党推薦候補を勝たせるために尾身後援会の不満を解消させる目的があるとみられている。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙には自民党公認で公明党の推薦を受けて出馬したが小選挙区で敗北。党の73歳定年制により比例北関東ブロックとの重複立候補をしていなかったため議席を失った。同年9月17日、町村派の総会で政界引退を表明した。
2010年4月に旭日大綬章を受章。2006年に特定非営利活動法人STSフォーラムを創立し、同法人の理事長も務める。2013年10月、自身が設立に関わった学校法人沖縄科学技術大学院大学学園理事に就任。公益財団法人天風会理事長、一般社団法人日本経営調査士協会名誉会長も務める。2013年マレーシア工科大学名誉博士、2014年1月ヨーク大学名誉博士、6月ケベック大学名誉博士。
83年衆院選当選同期には田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・額賀福志郎・衛藤征士郎・田中秀征・北川正恭・伊吹文明・自見庄三郎・中川昭一・大島理森・野呂昭彦・鈴木宗男・甘利明などがいる。 
 
伊吹文明

 

伊吹文明(1938- ) 大蔵官僚。自由民主党所属の衆議院議員(11期)。文部科学大臣(第8代)、財務大臣(第9代)、労働大臣(第64代)、国家公安委員会委員長(第66・67代)、防災担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第41代)、志帥会会長(第4代)、衆議院議長(第74代)などを歴任した。
京都府京都市下京区に生まれる。生家は文久年間に創業した室町の繊維問屋・伊吹株式会社で、現在も室町で営業している。御室小学校、同志社中学校、京都府立嵯峨野高等学校を経て京都大学経済学部卒業。京大在学中はテニス部に所属した。
大蔵省入省。入省同期に篠沢恭助、千野忠男らがいる。外務省在イギリス大使館二等書記官、国際金融局国際機構課長補佐、主計局主計官補佐、理財局国庫課長などを歴任。大蔵大臣秘書官を最後に退官。
1983年に第37回衆議院議員総選挙に田中伊三次の後継者として旧京都1区から自民党より出馬し初当選。以後連続10期当選。初当選後、秘書として仕えた渡辺美智雄が所属していた中曽根派には加わらず、1990年に中曽根派が渡辺派に代替わりするまでは無派閥を通した。3選し、伊吹が渡辺派に加入した直後に発足した第2次海部内閣では厚生政務次官就任を希望したが、リクルート事件に伊吹が少なからず関与していたため、同年暮れの第2次海部改造内閣の発足まで10か月ほど就任を留保された。
1994年6月30日、首班指名選挙で自民党・社会党・新党さきがけの新連立与党3党は日本社会党委員長の村山富市に投票することで合意したが、元首相の中曽根康弘らと共に造反。新生党など旧連立与党が擁立した、直前に自民党を離党した元首相の海部俊樹に投票した。同年10月、衆議院文教委員長に就任。1996年の第41回衆議院議員総選挙では京都1区で当選したものの、日本共産党の穀田恵二に2600票差まで猛追され苦戦した。
1997年9月11日、第2次橋本改造内閣で労働大臣に任命され、初入閣。2000年の第42回衆議院議員総選挙では公明党の支援も受けて再選した(穀田も比例復活)。12月には第2次森改造内閣で国家公安委員会委員長に任命された。また、2000年4月に開校したきょうと青年政治大学校初代校長に就任。
2005年12月、会長の亀井静香が離党したことで空席となっていた志帥会の会長に就任。2006年3月、衆議院行政改革に関する特別委員長に就任した。同年9月26日、安倍内閣で文部科学大臣に就任。安倍改造内閣でも留任。11月17日、学校におけるいじめを原因とした自殺の多発が問題となったことを受け、緊急アピール「文部科学大臣からのお願い」を発し、全国の児童生徒、及びその保護者らに配布した。12月15日、教育基本法改正案の審議に絡み、民主・社民・共産・国民新の野党4党から参議院に問責決議案を提出されたが、反対多数で否決された。
2007年同年9月24日、福田康夫の元、自民党幹事長に就任。2008年8月2日発足の福田康夫改造内閣では財務大臣に任命された。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では京都1区から立候補するも、民主党の平智之に敗北。重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、9選。11月12日の伊吹派の会合で民主党政権による行政刷新会議の事業仕分けについて、「公の場で、悪代官をみんなで懲らしめる絵を作ろうとした知恵者は大したものだ」と述べつつも、「民主党の価値観で無駄か無駄でないかを判断するのは乱暴だ」と仕分けのあり方に苦言を呈し、自身の大蔵官僚時代の経験を振り返って「昔の評判の悪い主計官だって、あんな態度はとらなかった」と仕分けチームの高圧的な姿勢に疑問を呈した。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では京都1区で10選。12月26日、第74代衆議院議長に就任。それに伴い、志帥会会長を退任する(後任は二階俊博)。
2014年11月21日、衆議院解散により議長を退任。衆議院議長が解散詔書を読み上げる際、御名御璽以下を読まないのが慣例となっていたが、伊吹は慣例に反して読み上げ始めた。このとき伊吹が「御名…」と言いかけたところで議場から万歳が起こったため、静まったところで改めて詔書を最後まで読み上げた後、万歳を先にやった議員に「万歳はここでやってください!」とフライングでの万歳を渋面で窘めた。同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では京都1区で11選。
2015年6月16日、後任の衆議院議長である町村信孝が死去した際には当選同期である伊吹が町村への追悼演説を行った。 
 
柳澤伯夫

 

柳澤伯夫(1935- ) 大蔵官僚。勲等は旭日大綬章。城西国際大学学長、社団法人日本茶業中央会会長、静岡県土地改良事業団体連合会会長、全国土地改良事業団体連合会理事、静岡県農業共済組合連合会会長理事、特定非営利活動法人日本茶インストラクター協会理事長。報道等では柳沢 伯夫とも表記される。衆議院議員(9期)、国土庁長官(第31代)、国務大臣(金融再生担当)、金融再生委員会委員長(初・7代)、金融担当大臣、自由民主党税制調査会会長、厚生労働大臣(第7代)、明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科特別招聘教授などを歴任した。
静岡県袋井市出身。静岡県立静岡高等学校に進学、新聞配達で学費・生活費を賄う。高校1年生の夏休みに母が死去、2学期から定時制に移り、昼も働く。2年次から地元に近い静岡県立掛川西高等学校に転校。当時は貧しさを題材にした石川啄木に励まされたという。進学した東京大学法学部ではマルクスらの社会主義に心酔した。しかし大学4年生の時、池田勇人内閣が掲げた所得倍増計画に関する講義を受ける。社会主義にしかできないと思っていた貧困の克服が、経済政策でも可能だと気付き感銘を受けた。
1961年、東京大学を卒業すると大蔵省(のち財務省)に入省。田中六助内閣官房長官の秘書官を務めたことなどがきっかけで政界に転じた。自民党の宏池会に所属し、衆議院文教委員長、国土庁長官、金融再生委員会委員長、金融担当大臣、厚生労働大臣を歴任。学究活動としては、慶應義塾大学では講師として経済学部で金融資産市場論や中小企業金融論を講じた。また、明治大学では大学院の特別招聘教授に就任し、グローバル・ビジネス研究科にて教鞭を執った。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙にて静岡3区から立候補したが、小山展弘に敗れ落選した。政界を引退し、2010年4月より、城西国際大学の学長に就任する。
2011年1月31日、菅政権によって、社会保障と税の一体改革を議論する「集中検討会議」の有識者メンバーに選任されたことが発表された。 
 
松岡利勝

 

松岡利勝(1945-2007) 農水官僚。元衆議院議員(自由民主党)。
熊本県阿蘇町(現阿蘇市)に貧しい農家の長男として生まれた。父は日中戦争中、満州で憲兵をしていた。日本に戻ってからは定職を持たず林業ブローカーのような仕事で糊口を凌ぎ、時には酔って妻(松岡の母親)に手を上げることもあったという。非常に厳格な人物だったが、気に入らないことがあると怒鳴り散らすなど気性の荒いところもあり、周囲から怖れられた。
中学卒業後熊本県立済々黌高等学校に進学し、空手部に入部。親元を離れて下宿生活を送る。2年生の時の修学旅行で東京を訪れた際に、単身で赤尾敏(大日本愛国党元総裁)を訪ね、活動への参加を志願している。結果は断られたものの、右翼思想への傾倒は松岡にとって大きな転機になった。防衛大学校を目指すが失敗し、2浪ののち鳥取大学農学部林学科に進学する。
国家公務員採用上級甲種試験に林学区分で最終合格、林学技官として官僚人生のスタートを切り、政治の世界への足掛かりを掴んでいく。大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁(当時)地方振興局山村豪雪地帯振興課長補佐などを務める。1988年、林野庁林政部林政課広報官を最後に退官し、地元熊本に戻った。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で立候補。当初は泡沫候補と見られていたが、北口博、松野頼三らを下し最下位ながらも初当選、以降連続6回当選(当選同期に岡田克也・佐田玄一郎・亀井久興・森英介・福田康夫・石原伸晃・河村建夫・小林興起・塩谷立・古屋圭司・細田博之・小坂憲次・山本拓・赤城徳彦・簗瀬進・山本有二など)。議員一期目に、三塚派の先輩である小泉純一郎や石原慎太郎に同調して小選挙区導入に猛反対し、同じ三塚派所属の一年生議員らと共に党中枢と敵対した。他にもコメの自由化に反対して国会前で座り込みをしたり、1994年11月の熊本市長選挙で魚住汎英と乱闘を起こすなど、武闘派として知られるようになる。一方で、選挙で対立候補を支援した建設会社に対して、その後公共事業の発注を行わせないようにするなどの一面もあった。
1995年8月8日、村山改造内閣で農林水産政務次官(翌年1月11日まで)、1999年10月29日、衆議院農林水産委員長(翌年6月2日まで)、2000年12月6日、第2次森改造内閣で農林水産総括政務次官となる。2001年1月6日、初代農林水産副大臣となり、WTO交渉等に精力的に取り組む(同年4月26日まで)。
党内では、安倍晋太郎派→三塚博派→亀井グループを経て1998年に江藤・亀井派結成に参加していた。当初は小泉改革に反対する立場だったが、衆議院予算委員会理事、衆議院郵政民営化に関する特別委員会理事を経て、小泉を積極的に支持する姿勢に転換、郵政国会を機に長年仕えてきた亀井静香・平沼赳夫らと事実上訣別した。同年の通常国会では、2003年に解党された自由党の政党交付金を同党の党首を務めていた小沢一郎が着服したとされる疑惑を追及した。また、同年8月に郵政関連法案が参議院で否決されたことにより当時の小泉首相は衆議院の解散を決断するが、同日に小泉と改革への決意を首相官邸で語っていた人物は松岡である。他方、これまでの主張であったコメの輸入自由化・FTAへの頑強なまでの反対姿勢を一転させたことは、従来の支持基盤だった農家からの激しい反発を招いた。
2006年9月26日、松岡は第1次安倍内閣で農林水産大臣に就任した。松岡農水相は早い段階で安倍支持を表明し、松岡農水相が地盤とする熊本県での安倍晋三首相の党員得票率は75%を記録した。しかしその後、松岡農水相の事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上し大きな批判を受けるようになる。安倍首相は自身の内閣の威信を貫くため松岡農水相を庇い続けたが、マスコミは連日のように松岡農水相の不祥事を報道した。
2007年5月28日、松岡農水相は衆議院議員宿舎(新赤坂宿舎)で首を吊っている所を警護官らに発見され、警視庁本庁指示の下、救急車で高度な救急医療に対応している慶應義塾大学病院にまで運ばれたが既に心肺停止状態だった。 
松岡農水相が自殺 議員宿舎で首つる 2007/5/28
28日正午ごろ、東京都港区赤坂2丁目の衆議院赤坂議員宿舎1102号室で、松岡利勝・農林水産相(62)が首をつっているのを秘書らが発見、119番通報した。警視庁によると、松岡氏は自殺を図ったとみられる。松岡氏は新宿区の慶応義塾大学病院で治療を受けていたが、午後2時、死亡が確認された。
赤坂署によると、松岡氏はこの日午前10時ごろまで、宿舎の室内で秘書と話をしていた。その後、出かける予定だったが、正午ごろになっても本人が室内から出てこないため、秘書が、警護に当たっていた警察官と一緒に室内に入ったところ、松岡氏が居間のドアの金具に、布製のひもで首をつっていたという。
松岡氏をめぐっては資金管理団体の光熱水費や事務所費の不透明な支出や、入札談合事件で理事らが逮捕された農水省所管の独立行政法人「緑資源機構」に関連する団体からの献金問題など「政治とカネ」をめぐる問題が野党から次々と追及されていた。
松岡氏の資金管理団体をめぐっては、電気代も水道代もかからない議員会館を事務所としているにもかかわらず、政治資金収支報告書には05年までの5年間に光熱水費計約2880万円がかかったと計上していた。松岡氏は国会で「ナントカ還元水とかいうものを付けている」と答弁したが、その後は「適切に報告している」などと繰り返すだけで具体的な説明は一切避けていた。
また、議員会館は家賃もかからないのに、年間約2500万〜3300万円を事務所費として支出していたと政治資金収支報告書に記載していた。
一方、緑資源機構をめぐっては、共産党が、林道などの事業と関係のある7政治団体を含む計9団体が松岡氏に約1億3000万円の政治献金をしていたと指摘している。
このほか、出資法違反容疑で福岡県警の家宅捜索を受けた会社の関連団体のNPO法人申請をめぐって、松岡氏の秘書が審査状況について照会していたことが発覚。松岡氏の後援者に対し、都内の会社経営者が「松岡氏への資金協力」として渡した100万円が使途不明になっていることが判明するなど、「政治とカネ」をめぐる問題を指摘されることが絶えなかった。
松岡氏は熊本県出身。69年、鳥取大農学部卒。69年に農林省に入り、天塩営林署長などをへて林野庁広報官を最後に88年農林水産省を退官。90年2月の総選挙で衆院議員に初当選し、当選6回。農水政務次官や衆院農水委員長、農水副大臣など一貫して農林水産畑を歩んできた。
06年9月の安倍政権発足時に初入閣し、農水相に就任。農水族の中心的な存在として知られ、対中コメ輸出や豪州などとの経済連携協定(EPA)の交渉にあたっての手腕が買われた。安倍首相は「攻めの農政を進めるうえで必要な人材」と評価し、光熱水費問題をめぐっても擁護する姿勢を貫いてきた。  
緑資源機構 2007/6 
疑惑は緑資源機構の受注業者でつくる特定森林地域協議会(特森協)と、その政治団体・特森懇話会の存在だ。公正取引委員会が同機構に立ち入り検査に入ると、同機構の前身の森林開発公団元理事で、自殺した特森協副会長の指示で両団体とも直後に解散した。同副会長は緑資源機構主導の受注調整の仕組みをつくった人物で、政界の窓口役といわれていた。特森協には約330社が加盟、機構からの受注額2000万につき75000円が会費として徴収され、松岡氏ら林野族議員に流れる仕組みになっていたといわれる。特森懇話会の政治資金収支報告書によると、資金提供を受けていた政治家は、松岡氏のほか、中谷元・元防衛庁長官、青木幹雄参院議員会長、佐藤雄平参院議員(現福島県知事)、綿貫民輔前衆院議長など21人にのぼる。もう一つは、熊本、島根両県で進む総額約270億円の同機構発注の特定中山間保全整備事業をめぐる談合疑惑。松岡氏が自殺したのは、特捜部の家宅捜索が同事業発注元の九州整備局や、宮崎、島根の特森協元幹部の会社に及んだ直後だった。松岡氏は、同事業のうち熊本県の阿蘇小国郷区域の林道工事などを受注した業者14社から1340万の献金を受け取っていた。青木参院議員会長にも特森協松江協議会関係を中心に2000万を超す献金があった。緑資源機構が行う事業は大半が補助金で、受注企業からの献金は、いわば税金の還流と言われても、政治的道義的責任は免れられない。 
 
赤城徳彦

 

赤城徳彦(1959- ) 元農林水産省職員。第43代農林水産大臣、衆議院議員(6期、自由民主党)を歴任。
茨城県真壁郡明野町(のちの筑西市)出身。東京学芸大学教育学部附属高等学校、東京大学法学部卒業。1983年農林水産省へ入省。林野庁林政部、大臣官房企画官等を経て退官。祖父赤城宗徳の引退後、その地盤を受け継ぎ、1990年2月の総選挙で旧茨城3区から立候補して初当選、以来6回連続当選。自由民主党では番町政策研究所(旧名称:新政策研究会、通称:河本派-高村派)に所属した。1994年6月29日に行われた内閣総理大臣指名選挙では、自民党は新党さきがけと共に日本社会党委員長の村山富市を支持したが、赤城や山本有二、野田聖子は党議拘束に反し、新生党代表幹事の小沢一郎に担がれた派閥の先輩でもある海部俊樹を支持。海部は翌日離党し自由改革連合代表-新進党初代党首となるが、赤城は野田らと共に自民党に残留した。政府では総務政務次官、防衛庁副長官、自民党では国防部会長、農林部会長、副幹事長などを歴任。
2007年6月1日、数々の疑惑の中で自殺した松岡利勝の後任として農林水産大臣に就任。しかし後述のような不祥事に見舞われ、同年8月1日、赤城は自身の不祥事が参院選に影響を与えた責任を取る形で安倍に辞表を提出し、農林水産大臣を就任から2ヶ月で辞任した。辞任か更迭かどちらなのかと騒がれたが、赤城も安倍も塩崎官房長官も当日中の会見で「首相が赤城を官邸に呼び出し、その場で辞表を書かせた」という趣旨のことを述べているため、事実上の更迭とみられる。なお、第1次安倍内閣で交代した閣僚としては4人目にあたる。辞任前後は地元の関係者などを訪ね、不祥事の件について謝罪していたようで、保守王国の茨城県選挙区で民主党の藤田幸久に大差をつけられた自民党の長谷川大紋には、投開票日のうちに秘書の携帯電話を使って「すみません」と謝罪、また辞任後には茨城県議会議員・山口武平の元にも謝罪に訪れ「次の選挙(衆院選)は甘くはないぞ」と言葉をかけられたようである。
第45回衆議院議員総選挙では、支持者から贈られた絆創膏を貼って挑んだが、三度目の対決となった福島伸享に6万票近くの大差をつけられ小選挙区で落選、惜敗率が低かったため比例北関東ブロックでの比例復活もならず、議席を失った。2009年11月、自民党から茨城1区の公認候補となる小選挙区支部長の内定を受けていたが、12月9日、これを返上することを表明、事実上、次期衆院選茨城1区からの出馬を辞退する考えを示した。ただ、政界引退という趣旨かどうかについては明言していない。しかし、2011年2月に空席だった衆議院茨城1区支部長へ田所嘉徳が就任し、田所嘉徳は2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で茨城1区から出馬し初当選、2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で再選されている。 

家賃や光熱水費の掛からない議員会館に主たる事務所を置く赤城の資金管理団体「徳友会」が計上した事務所費が、少額の時は19万円程度、多額の時はおよそ1000万円となるなど、大きく変動していることが明らかになった。「備品・消耗品費」がゼロとなっている年があることも明らかになったが、事務所は休眠状態ではなく、政治資金パーティーなども開かれていた。本来は大きく変動するものではないという声もあるが、赤城の事務所は、「年によって活動の濃淡がある」と主張している。
赤城の政治団体「赤城徳彦後援会」が、事務所としての実体がない赤城の父親の自宅(茨城県筑西市赤浜)を、主たる事務所として届け出た上、2005年までの10年間に、およそ9045万円(75.4万円/月)の経常経費を計上していたことが明らかになった。茨城県選挙管理委員会に提出された政治資金収支報告書によると、家賃などに当たる事務所費だけでも10年間でおよそ1631万円(13.6万円/月)、この他にも(いずれも10年間で)人件費およそ5353万円(44.6万円/月)、光熱水費およそ794万円(6.6万円/月)、備品消耗費およそ1266万円(10.6万円/月)を計上していた。
2007年6月30日、赤城の母は『週刊現代』の取材に対し、筑西市の自宅について「事務所として使ったことはまったくありません」と明言し、「赤城徳彦後援会」に対する光熱費や家賃の請求は「したことはありません」と語っている。上記の発言のように、ここに住む赤城の父親・母親は当初、祖父の赤城宗徳の現役時代には使用していたが、現在は事務所としての実態がまったくないことを認めている上、後援会の代表者である前茨城県議会議員青木来三郎(自由民主党)に至っては、今は使われていないし自分が代表者になっていることさえ知らなかったなどと話している。2007年7月11日、赤城宗徳の元秘書で茨城県議会議員を務める磯崎久喜雄(自由民主党)は「実家には事務所として実体はありませんでした。彼は『活動の拠点だった』という説明をしたことを深く反省し、潔く謝罪すべき」と指摘している。
2007年7月7日、内閣総理大臣の安倍晋三は、野党から赤城の辞任要求が出ていることに対し、赤城の行為に法的問題は無いとの認識を示し、前年末に行政改革担当相を辞任した佐田玄一郎のケースとは違うと主張した。
事務所費の架空計上であった場合、10年間に渡り政治団体の架空の事務所費を計上し、辞任した前内閣府特命担当大臣(規制改革担当)佐田玄一郎と同じケースであり、後援会関係者は実家での事務所としての稼働はないと認めているため、第21回参院選を直前に控えた野党は、各地の街頭演説などで一斉に批判した。
民主党幹事長の鳩山由紀夫は「自ら職を辞していただきたい」と述べ、日本共産党書記局長の市田忠義は「佐田玄一郎前行政改革担当大臣と全く同質の問題」、「松岡さんの後(後任)にこのような人を出してくる安倍総理はひどい」などと述べた。 
 
若林正俊

 

若林正俊(1934- ) 農林水産官僚。勲等は旭日大綬章。「若」の字は、くさかんむりの部分が3画の「艹」ではなく、4画の「十十」である字体を正式な表記としている。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)、環境大臣(第8代)、農林水産大臣(第44・46・47代)などを歴任した。
長野県篠ノ井市(現在の長野市)出身。成蹊中学校・高等学校を経て、東京大学法学部卒業。
大学卒業後は農林水産省に入省。食品流通局市場課、経済局金融課、構造改善局農政課、大臣官房総務課にて、それぞれの課長を歴任した。1981年より国土庁に出向し、長官官房総務課の課長を務めた。1983年1月に農林水産省に戻るとともに退官した。
1983年の第37回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧長野1区から初当選(倉石忠雄の地盤を継承)した。続く1986年第38回衆議院議員総選挙で再選を果たす。総務政務次官などを歴任するが、1990年の第39回衆議院議員総選挙で落選した。
1993年の第40回衆議院議員総選挙で当選する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では2度目の落選となった。
1998年に参議院議員に鞍替えし第18回参議院議員通常選挙長野県選挙区で当選。2004年第20回参議院議員通常選挙で再選。
2006年、第1次安倍内閣で環境大臣として初入閣。2007年5月28日から6月1日まで、自殺した農林水産大臣・松岡利勝の後を受けて農水大臣臨時代理を務めた。これは松岡の外国訪問中にはおおむね若林が臨時代理に指定されていたことなどによる。8月1日、松岡利勝の正式な後任として農林水産大臣を務めていた赤城徳彦の辞任に伴い、農林水産大臣を兼任。8月27日の内閣改造(第1次安倍内閣改造内閣)により一度は閣僚を退任したが、自分の後任農林水産大臣として入閣した遠藤武彦の辞任に伴い、7日後の9月4日に専任大臣として再度就任。
臨時代理を含めると「3ヶ月あまりで3回目の大臣就任」という事態となったことで、「不祥事を起こした農林水産大臣の後のリリーフ役」というイメージが定着し、農林水産省では「抑えの切り札」「ミスター・リリーフ」と呼ばれるようになった(ただし、自身にも関連政治団体への不透明な政治資金が発覚したことがある)。同年9月26日に発足した福田康夫内閣でも農林水産大臣に再任され、2008年8月の内閣改造まで1年間在任した。
体調不良で自民党参議院幹事長を辞任した山崎正昭の後任に自民党両院議員総会長の谷川秀善が就任したことを受け、空席になった自民党両院議員総会長に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙で自民党下野が決まった後の9月16日には、内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となり、119票を得た(民主党代表の鳩山由紀夫は327票)。これは、総選挙で惨敗した責任を取って麻生太郎を初めとした自民党幹部が総裁など党役職を辞任すること、この時点で自由民主党総裁選挙が実施されておらず、次の総裁が決まらない状況でもあったことから、自民党議員全員が一致して投票できる候補として、両院議員総会長の職にあった若林に白羽の矢が立ったものである。相次いだ農相リリーフに続く「大役」が話題となり、参議院議員初の自民党指名候補となった。若林本人は「若林正俊(の名前を書くこと)自体に、大きな意味があるとは思わない。(自民党の)結束のためだ」とコメントした。同年12月5日、翌年行われる第22回参議院議員通常選挙へ出馬せず、引退する意向を表明した。2010年7月に任期満了後の夏の参院選には、代わりに長男が公募という形で自民党公認として出馬する段取りが既にできていた。
2010年4月2日、3月31日の参議院本会議での採決において、自民党が党議拘束によって投票行動が一致していた日本放送協会平成22年度予算案など計10件で押しボタン式投票で欠席していた自民党前参議院議員会長の青木幹雄の投票ボタンを押した責任を取って参議院議長・江田五月に議員辞職願を提出し、同日の参議院本会議にて若林の辞職案件が可決され、若林の議員辞職が決定した。代理投票をした理由としては、参議院本会議で導入されている押しボタン式投票では有権者が個々の議員の投票先が容易に閲覧できる仕組みになっていることから、棄権が多くなると国会欠席で政治活動が怠慢であるとして有権者にネガティブな印象を与えてしまうために、青木から代理投票を依頼されたと推測されたが、若林は記者会見で「魔が差したとしか言いようがない」「青木さんから依頼されたことはない」と謝罪・釈明を行い、青木からの代理投票の依頼を否定した。
不祥事で辞任した農水大臣の3度の代役、総裁不在時の自民党首相候補、参議院本会議での代理投票など、最後まで「誰かの代わり」ということが印象に残る政治家人生であった。また、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、農林水産大臣等として国政の枢機に参画した」功労により、2011年6月24日、皇居での大綬章等勲章親授式において旭日大綬章を授与された。 
 
甘利明

 

甘利明(1949- ) 自由民主党所属の衆議院議員(11期)、さいこう日本代表、自由民主党総務。自由民主党政務調査会長(第54代)、労働大臣(第67代)、経済産業大臣(第7・8代)、内閣府特命担当大臣(規制改革)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)等を歴任した。戦国時代の武田氏の重臣で知られる甘利虎泰の子孫である。元衆議院議員の甘利正は父。
神奈川県厚木市生まれ。神奈川県立厚木高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1972年、ソニーに入社したが1974年に退社し、父・甘利正の秘書に転じる。
1983年、正が政界引退を表明したため、代わって第37回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から、父の地盤を引き継いで新自由クラブ公認で出馬し、初当選。1986年、新自由クラブの解党に伴って同党の所属議員の多くが自民党に復党し、甘利も自民党に入党した。自民党入党後、新自由クラブの同僚であった山口敏夫の勧めにより、中曽根派に入会。1989年、通商産業政務次官に就任。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い神奈川13区から自民党公認で出馬。選挙区では新進党新人の冨沢篤紘に1,751票差で敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活した。1998年、小渕内閣で労働大臣として初入閣。同年、それまで所属していた旧渡辺派を退会し、山崎派の結成に参加。
2004年、衆議院予算委員長に就任。党商工部会長や衆議院商工委員長も務めた。2005年、党政務調査会長代理に就任。
2006年9月、第1次安倍内閣で経済産業大臣に任命された。組閣後の記者会見において、ロシアが8月30日に石油・天然ガス開発計画である 「サハリン2」の一部事業の中止を命じたことについて「日本側に過剰反応の面がある。ロシア側が指摘する環境破壊にどう対処するのか精査してから、反論を組み立てるべきだ」と述べた。また、日本と中国が対立している東シナ海のガス田開発の件に関しては「日本と中国は共同で(開発に)取り組む方向で一致しており、粛々と取り組みたい」と発言した。
2007年8月、第1次安倍改造内閣で経済産業大臣に再任。同年9月3日、農林水産大臣・遠藤武彦の辞任を受けて、臨時代理を兼務。安倍の総裁辞任に伴う自由民主党総裁選挙においては、山崎派は福田康夫を支持する方針を決定したのに反し、劣勢が伝えられた麻生太郎への支持を表明。麻生への支持を表明した後に山崎派に退会届を提出したが、受理されなかった。このため経産相に再任されず、退任する公算が高まっていたが、福田康夫内閣でも留任した。
2008年の自由民主党総裁選挙では、自由民主党幹事長であった麻生を支持し、麻生の推薦人に名を連ねる(麻生は与謝野馨ら4候補を破り、当選)。同年9月に発足した麻生内閣で内閣府特命担当大臣(規制改革)に任命され、また行政改革、公務員制度改革を担当する国務大臣も兼務した。在任中、麻生内閣が推進する公務員制度改革に対し、人事院総裁(当時)の谷公士から強い反発を受け、2009年1月30日には、麻生が本部長を務める国家公務員制度改革推進本部の第3回目の会合が予定されていたが、流会。同日の記者会見において、甘利は流会の理由を、谷が欠席したためと説明した。同年2月の山崎派総会においてこの一連の騒動に言及し、谷について「内閣に指名された役人が、テレビで政権交代にまで言及した。極めて傲岸不遜で信じられない」と強い不快感を示した。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で民主党公認の橘秀徳に1,960票差で敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで9選。
2011年6月、派閥横断型の政策集団さいこう日本を立ち上げ、代表に就任。参加者の多くは山崎派の議員であるが、町村派の松野博一や高木毅、高村派の佐藤ゆかりも参加した。同年10月、自民党広報本部長に就任。
2012年自由民主党総裁選挙では、同じ山崎派の石原伸晃が出馬する中、安倍晋三の選挙責任者を務めた。安倍の総裁再任後は自由民主党政務調査会長に就任した(初の党三役入り)。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で10選。選挙後、所属していた山崎派の新会長に石原の就任が決まり、これを機に正式に派閥を退会、無派閥となった。選挙後に発足した第2次安倍内閣では内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に任命された。併せて経済再生担当、社会保障・税一体改革担当の国務大臣を務める。また第2次安倍内閣が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結交渉への参加を決定したことを受けてTPP担当国務大臣に就任した。
2013年12月2日に体調不良のため検査入院。5日の記者会見で、「早期の舌癌」であることを公表。これを理由に首相に辞任を申し出たが、慰留されたとして続投と休養を表明。翌週に手術を受け、26日に公務に復帰した。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で11選。その後第3次安倍内閣においても内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に再任した。
2016年1月28日午後5時から開かれた記者会見の中で、週刊文春が報じた金銭授受疑惑の責任を取って内閣府特命担当大臣(経済財政政策)を辞任すると表明した。これ以降、「睡眠障害」を理由に第190回国会を閉会まで欠席。閉会直後の6月6日「主治医の許可が下りたので少しずつ」と人前に姿を見せた。 
「秘書の監督責任及び、政治家としての矜持に鑑み、閣僚の職を辞す」 1/28
甘利明経済再生担当相は28日の記者会見で「閣僚のポストは重いが、政治家としてのけじめはもっと重い」と辞任の理由を語った。  
今回の報道により、野党の皆さんに経済演説を聴いていただけないばかりか国会運営に支障を生じかねない事態になった。本来、安倍政権を支えるべき中心たる人間が逆に安倍政権の足を引っ張る。安倍内閣の一員としての閣僚、甘利明にとっては誠に耐えがたい事態だ。  
希望を生み出す強い経済を推進してきた閣僚、甘利明が、そのポストにあることで重要な予算審議に入れない。いささかといえども国政に停滞をもたらすことがあってはならない。私に関わることが、権威ある国会の、この国の未来を語る建設的な営みの足かせとなることは、閣僚、甘利明の信念に反する。
閣僚のポストは重い。しかし、政治家としてのけじめをつけること、自分を律することはもっと重い。政治家は結果責任であり、国民の信頼の上にある。たとえ私自身はまったく関わっていなかった、知らなかったとしても、何ら国民に恥じることをしていなくても、秘書に責任転嫁することはできない。それは私の政治家としての美学、生き様に反する。  
安倍内閣は経済最優先で取り組み、我が国経済は緩やかな回復基調が続き、ようやくもはやデフレではないという状況までやってくることができた。15年以上続いたデフレの重力圏から脱却できるかの瀬戸際にある。デフレから脱却し、強い経済を実現するには、予算案及び重要関連法案の一刻も早い成立が求められており、その阻害要因となることを取り除かなければならない。もとより私もその例外ではない。国会議員としての秘書の監督責任、閣僚としての責務、および政治家としての矜持(きょうじ)に鑑み、閣僚の職を辞することを決断した。  
 
2013年11月14日の大臣室における表敬訪問では、大臣室で菓子折りが入った袋をいただいたと思う。社長らが退出された後に秘書から「紙袋の中にのし袋が入っていました」という報告があった。それで私から秘書に「政治資金としてきちんと処理するように」と指示をしたと思う。  
次に、14年2月1日の(神奈川県大和市の)大和事務所での面談は、地元事務所長であるA秘書から、あらかじめ(建設会社の)総務担当者が大臣室訪問のお礼と病気の快気祝いに来ると聞いていた。  
お礼とお祝いの話や総務担当者の私生活に関する雑談などをした後、総務担当者が「敷地から産廃が出て困っている」という話があった。  
私は「地主が責任を持つんじゃない?」と話したように思う。ただ、資料を持参していたので、東京のE秘書に渡しておいてくれとA秘書に指示し、話を終えた。  
帰り際に、総務担当者が菓子折りの入った紙袋と封筒を差し出した。大臣室訪問のお礼と、病気を克服して頑張れ、という政治活動への応援の趣旨だと思い、これを受け取り、A秘書が部屋に戻ってきた際に、菓子折りと白い封筒を渡し、「適正に処理しておくように」と指示した。  
週刊文春は、大臣室にて私がお見舞いの袋から現金の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまったと2度にわたり報道した。  
実はこの部分が私の記憶と週刊文春が2度にわたって報道した内容の違いの一つだ。しかも、音声など決定的な証拠がすべてそろっているとの報道だった。お客の前で紙袋から現金の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまうという行為が本当だとしたら、政治家以前に人間としての品格が疑われる行為だ。そんなことは、するはずがない。  
 
14年2月1日に大和事務所で渡された50万円は、13年11月14日の大臣室で社長から渡された50万円と合わせ14年2月4日に(自民党神奈川県)13区支部で寄付として入金処理した。弁護士によると、13区支部の政治資金収支報告書には14年2月4日に建設会社から100万円の寄付金の記載があることが確認できた。  
A秘書による弁護士への説明によると、13年8月20日、総務担当と大和事務所で会った。総務担当が1000万円を出してきて、そんな多額の献金は受け取れないといって500万円は返し、結果として100万円と400万円に分けて受領し、事務員に分けて領収書を切るように言った。  
その後、経理事務員と400万円の取り扱いをどうするか相談したところ、やはり400万円は返した方がいいとなった。総務担当者に伝えたが、「いったん渡したお金なので受け取ってもらいたい。自由に使ってほしい」と言ってきた。  
そこで400万円のうち100万円を大臣の元秘書の県議に回し、9月6日に渡した。300万円は返せず、自分の机の引き出しに保管した。  
この300万円はその後、自腹ですべき支出支払いに使った。自腹負担の誘惑に負けた。県議に100万円を渡したことと300万円を自分で使ったことは甘利大臣や事務所には伝えていない。  
関係資料によると、13年8月20日の500万円のうち100万円は建設会社からの寄付として入金処理され、13年の収支報告書で計上しているのを確認。県議が代表を務める大和市第2支部の13年収支報告書にも建設会社からの100万円寄付計上が確認された。  
秘書2人は総務担当や建設会社社長から飲食や金銭授受などの接待を多数受けたことは認めている。調査している弁護士を通じ両名から辞表が提出された。辞表は本日付で受理することにした。  
総務担当と建設会社からの政治献金はすべて返金するよう事務所に指示した。  
 
冬柴鐵三

 

冬柴鐵三(1936-2011) 弁護士。報道などでは冬柴鉄三(ふゆしば てつぞう)とも表記される。本人サイトや選挙公報などでは冬しば 鉄三(ふゆしば てつぞう)とも表記された。衆議院議員(7期)、公明党幹事長、国土交通大臣(第7・8代)、公明党常任顧問などを歴任した。
1936年、満洲国の奉天省奉天市に生まれる。関西大学二部法学部法律学科を卒業後、司法試験に合格し弁護士となった。
1986年、第38回衆議院議員総選挙にて当選し、以降連続7回当選した。創価学会員であり、国会では公明党に所属した。細川内閣では自治政務次官に就任した。その後、公明新党を経て新進党に合流し、同党の解党後は新党平和を経て公明党の結党に参加した。その間、新党平和幹事長や公明党幹事長を務めた。第1次安倍内閣および第1次安倍改造内閣では国土交通大臣を務めるとともに国務大臣として観光立国と海洋政策を担当し、福田康夫内閣でも再任された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙にて落選する。以降も引き続き公明党の常任顧問を務めた。2011年11月上旬には、高齢により政界を引退すると報道されたが、11月24日にはこれを撤回。次期衆院選へ比例区で出馬することとなり、政界復帰に向けた準備を始めた矢先の12月5日午前8時3分、兵庫県尼崎市内の病院で急性肺炎のため死去した。 
 
久間章生

 

久間章生(1940- ) 元農林官僚。長崎県議会議員(3期)、衆議院議員(9期)、防衛庁長官(第59・73代)、防衛大臣(初代)などを歴任した。
長崎県南高来郡加津佐町(現・南島原市)の農家に生まれる。両親は教育者(父は高校教員、母は中学教員)。長崎県立口加高等学校・東京大学法学部卒業後、農林省に入省。農林省退職後に長崎県庁に入庁し、長崎県議会議員を経て、1980年に衆議院議員に初当選。第2次橋本内閣で防衛庁長官として初入閣。
小泉政権時代、同じ橋本派の野中広務・綿貫民輔らが反小泉の姿勢を採る中、額賀福志郎らと共に、親小泉の姿勢を見せていた参議院の実力者・青木幹雄と共同歩調をとり、衆院橋本派の大幹部となった。2002年6月に鈴木宗男事件が発生して衆議院本会議で鈴木宗男議員辞職勧告決議が採決された時は、起立採決の際に出席議員で唯一着席したままで、反対票の意思表示を示した。小泉政権下では、2003年に自由民主党幹事長代理、2004年〜2006年に自由民主党総務会長に起用される。2005年の郵政国会では6月28日に自由民主党総務会における郵政民営化法案の決議においては、総務会長として議事を担当し、全会一致の慣例を破る形で多数決で採決させ党議拘束の理由を作った。
2006年9月26日、第1次安倍内閣で再び防衛庁長官として再入閣。その後、2007年1月9日に防衛庁が防衛省に昇格したのに伴い、初代防衛大臣となったが、2007年6月30日に開かれた講演会での原爆投下をめぐる発言で、被爆者団体を筆頭に被爆者や遺族などから問題視され、同年7月3日、この発言の責任を取る形で大臣の座を追われた。その後もマスコミによる批判報道や、反核平和団体や、被爆者団体などからの反発や、抗議活動が続き、同年8月9日に長崎で行われた平和祈念式典を欠席せざるを得ない状況に追い込まれた。(→後述を参照)
士志の会に属し、同会を構成する麻生太郎の後見人的立場にある。 
「原爆しょうがない」発言
2007年6月30日に麗澤大学比較文明文化研究センター(千葉県柏市)主催の講演会で行い、そこで「原爆しょうがない」と発言したと報道された。久間は7月1日のフジテレビ「報道2001」で批判や責任を問う声について、「そんなような内容(の発言)ではない」、「訂正する必要はない。誤解を与えたところがあれば、そこは丁寧に説明しなければいけない」と述べて、撤回・訂正はしない考えを明らかにしていたが、その後中川秀直幹事長や公明党からも批判を受けたため、同日の記者会見で「被爆者を軽く見ているかのような印象に取られたとすれば申し訳なかった」と陳謝して発言を事実上撤回し、かつ、毎年8月9日に行われる長崎の平和記念式典に参列する意向を示していた。
「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。」
この「原爆しょうがない」発言報道による騒動に関して、安倍晋三首相から厳重注意を受けた。当初、首相と久間の意向から辞任はしないとしていたが、被爆者団体、反核平和団体などからの激しい抗議を受けた。同年7月2日、長崎市議会が久間の発言に抗議して『発言撤回を求める』意見書を全会一致で可決した上で、田上富久長崎市長は、市議会の議長とともに7月3日に上京し、安倍首相と久間サイドへ抗議した。同月3日には、長崎県議会でも発言に対する抗議決議が全会一致で可決され、金子原二郎長崎県知事も「二度とこのような発言を繰り返さないようにしてほしい」と釘を刺した。
同年7月3日午前、久間は自身の進退について「辞任の必要はない」と強気の姿勢を見せていたが、午後、一転して「選挙で与党に迷惑が掛かる」として辞任した。安倍首相は慰留せず、その場で辞任の申し出を了承した。久間は防衛大臣の座を辞職という形で追われることになり、毎年参加していた8月の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を被爆者団体などの反発から欠席せざるを得ない状況へ追い込まれた。秋葉忠利広島市長が発言の撤回と広島・長崎訪問による被害の直視を求める抗議声明を出した。また、7月1日に日本原水爆被害者団体協議会や連合長崎、それに長崎県原水禁などもそれぞれ批判して、抗議の意を表明するため長崎市の平和公園での座り込みや、抗議文あるいは声明文の送付を行うなどの抗議活動を繰り広げた。
一方、本島等元長崎市長は、1975年10月に昭和天皇が広島への原爆投下について「遺憾に思っているが、やむを得なかった」と久間の発言に近い事を述べたのを紹介し、「当然の認識で僕も同感。久間さんの発言も同じで、原爆の肯定だ、容認だと批判するのはおかしい。天皇陛下も原爆容認論だと批判するのか」と抗議活動を展開する被爆者団体に苦言を呈した。但し、本島の「仕方なかった」というのは日本人が報いを受けた罰である、という意味での「仕方ない」であり、久間や昭和天皇の意図とは微妙に違う。
産経新聞は、本島等元長崎市長の発言にみられるような原爆は仕方なかったという考えの原点は、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』という原爆死没者慰霊碑の碑文にあるとして、「素直に読めば、原爆投下は、日本人に責任があるということになる。」「これをありがたがる人たちに、久間の発言を非難する資格はない」と断じた。なお、産経新聞は、広島市長平和宣言の内容を毎年批判している。
民主党・日本共産党・国民新党は久間を一斉に批判した。
久間は辞任後の記者会見でも、「原爆が日本を全面降伏に導いたのは事実」との主張を続け、「九州弁でしょうがないというのが口癖で、すぐに出るんですよ」と釈明したが、方言研究をしている九州の大学教授や島根大学の田籠博教授は、九州の方言として多用するのは聞いたことがないと疑問視、長崎市平和推進室は同じく疑問視した上でこの釈明を認めていない。また、広島市長の秋葉忠利や、長崎原爆被災者協議会の事務局長はそれぞれ、久間が防衛大臣の辞任は当然のこととした上で、日本政府や自民党の原爆に対する認識や姿勢の問題と批判し、さらに、久間の歴史認識に疑問を呈している者もいる。
この辞任について、当然であるとする意見や、選挙対策であるとする意見がある一方で、残念がる意見もあった。
大臣の座を追われた後も、久間に対して議員辞職を求めるデモは続き、議員辞職を求める文言とともに公開質問状が被爆者団体から送付されるなど対応に追われた。
この騒動の直後に行われた第21回参議院議員通常選挙(長崎県選挙区)では、自民党は久間が主導となり、国見高校サッカー部元監督として有名な小嶺忠敏を擁立して必勝を期したが、民主党の大久保潔重に敗れた。
また、文藝春秋平成21年(2009年)6月18日号では、久間にとっては義母に当たる妻の母が一連の騒動に抗議するため、8月9日の長崎原爆祈念日に自殺したと報じられた。
久間の原爆投下に関する歴史認識に関して、秦郁彦・日本大学講師(現代史)が「米国の原爆投下がソ連の参戦を食い止めるためだった側面があるとの指摘は、歴史的事実とは違う。ソ連は長崎への原爆投下と同じ日に参戦しているし、終戦後も北海道を占領しようとして米国に拒否された。何かの思い違いがあるのでは」と指摘している。
元長崎大学学長の土山秀夫は、久間の発言について、『極めて不見識であり論外である』と非難した上で、久間のイラク戦争に対する批判を引き合いに出して、『アメリカへのポイント稼ぎ』と皮肉ったコメントをした。
現代史家の保阪正康は、『原爆の投下と終戦に関連性はなく、久間の発言は、アメリカの原爆投下正当化論と一体化しつつ、そこに史実無視の姿勢をつけ加えたものである』と批判している。保阪は、『日本国民は、「投下された側の反論」として、当時の日本の軍事指導層を中心とする抗戦派を強く批判しつつ、投下した側の一方的解釈を徹底して排除すべきだ』と主張している。
原爆投下の是非については現在は、原爆は第二次世界大戦を終結させると同時に冷戦を開始させたとする見方がアメリカ・韓国など主流である。 
 
小池百合子

 

小池百合子(1952‐ ) 東京都知事(第20代)。自由民主党所属。東京都銃剣道連盟会長。アラビア語通訳者、ニュースキャスターを経て、1992年に政界へ転身した。テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』キャスター(初代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、総務政務次官(細川内閣)、経済企画総括政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣・第2次森内閣)、環境大臣(第5・6・7代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣(第2代)、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長(第49代)、自由民主党無電柱化小委員長、自由民主党国際人材議員連盟会長、日本ウエイトリフティング協会会長などを歴任した。
兵庫県芦屋市生まれ。芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経て、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部、E.S.Sに所属。高校在学中の1969年、神戸市で衣料関連の貿易商を営んでいた実父が、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から同年12月の第32回衆議院議員総選挙に立候補したが落選している。甲南女子高校卒業後に関西学院大学社会学部に入学するものの、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年9月に大学を中退してエジプトへ留学。カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修め、カイロ大学に移り卒業した。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこともある。
通訳・ニュースキャスター時代
カイロ大学卒業後はアラビア語の通訳として活動。PLO議長アラファトやリビアのカダフィの会見では、コーディネーター兼インタビュアーを務めた。1984年、東京大学に在籍していたトルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリの抗議を受け、「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に改められた。小池はこの青年を当時から支援しており、本人も後日新聞報道でそれを認めている。小池によれば、トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、氏への個人的な共感の結果だったという。自ら厚生省(現在の厚生労働省)に乗り込み、当時第2次中曽根内閣の厚生大臣(同厚生労働大臣)だった渡部恒三に「日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ」と直談判、渡辺の指導により『トルコ風呂』という名称は使用されなくなった。
1979年から1985年まで、日本テレビ『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めた後、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた。
1990年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞した。
参議院議員
1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由で、前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選した。細川とは、同年5月に「ワールドビジネスサテライト」に細川がゲスト出演した際が初対面であり、番組出演をきっかけに細川が参議院議員候補として小池に白羽の矢を立てたという。
衆議院議員
1993年、参院議員を任期途中で辞職。第40回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から日本新党公認で出馬し、当選した。同年、細川内閣で総務政務次官に就任。
1994年、日本新党の解党に伴い新進党結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市・宝塚市・川西市)から出馬し、再選。新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近であり、1997年の新進党解党後は小沢が党首を務める自由党の結党に参加。1999年、小渕第2次改造内閣で経済企画政務次官に任命され、第1次森内閣まで務める。
2000年の自由党分裂に際して小沢と決別し、保守党結党に参加した。2002年、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に保守党を離党し、保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。清和政策研究会に入会した。
小泉政権 / 環境大臣
2003年、第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に任命され、初入閣した。同年の第43回衆議院議員総選挙では、比例近畿ブロック単独で立候補し、4選。第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。環境大臣は第3次小泉改造内閣まで務め、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役を務める。
2005年衆議院議員総選挙
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政国会で郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の当選を阻止するため、東京10区に刺客として国替えする意向を表明。この総選挙では、小泉純一郎の意向で女性候補が比例区の名簿で上位に優遇される措置が取られ、小池もその対象であった。しかし、小池は対立候補から事実上当選が確実な状態であることを指摘され、選挙区での戦いが不利になることを懸念。優遇の措置を辞退して選挙に臨んでいる。選挙の結果、民主党の鮫島宗明や小林を大差で破り、5選。
第1次安倍政権 / 防衛大臣
2006年に発足した第1次安倍内閣では、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に任命される。その後、2007年7月3日、防衛大臣久間章生の辞任後の後任の防衛大臣に起用された。防衛大臣就任後、 テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した。
2007年8月には、米下院慰安婦決議問題で内閣総理大臣安倍晋三、外務大臣麻生太郎、駐米大使加藤良三が日米関係に与えていたマイナス・イメージを払拭すべく、第167回国会を欠席してアメリカを電撃訪問し、国防長官ロバート・ゲーツや副大統領ディック・チェイニーと会談する。野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは米(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした。なお、訪米のための国会欠席について8月9日に行われた自民党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判されている。8月24日、訪問先のインド・ニューデリーにて、同行した記者団に対しイージス艦機密情報漏洩事件に言及。「防衛省内で誰も責任を取っていない。私は責任を取りたい」と述べた上で、3日後に行われる内閣改造で自身の再任を固辞し、防衛大臣を離任する意向を表明した。
2008年自由民主党総裁選挙
2008年9月、福田康夫の辞任に伴って実施された自由民主党総裁選挙に20人の推薦人を確保し、立候補した。自民党結党以来、女性の自民党総裁選出馬は史上初である。結果は、麻生太郎、与謝野馨に次ぐ3位の得票数で、地方票は0票であった。ただし、党員票では麻生に次ぐ2位に付けており与謝野を大きく引き離している。これは多くの都道府県が地方票の1位総取り方式を採用したためである。
2009年衆議院議員総選挙
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、公明党の推薦を受け、再び東京10区から出馬。また、同じ東京10区に候補者を擁立していた幸福実現党に選挙協力を打診し、幸福実現党は候補擁立を取り止めて小池を支援した。「風車のお百合」をキャッチフレーズに、自身が所有する電気自動車を使用して環境を前面に押し出した選挙運動を展開し、選挙協力を得た幸福実現党と共に演説を行ったが、民主党新人の江端貴子(105,512票獲得、得票率47.2%)に敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックで復活した。小池が獲得した96,739票(得票率43.3%)は、比例東京ブロックで復活した自民党候補の得票数では下から2番目に低く、惜敗率の低さから比例東京ブロックで復活できなかった石原宏高や佐藤ゆかり、伊藤公介の得票数を下回っている(ただし、東京10区は東京都で2番目に有権者数が少ない選挙区である)。9月3日、「派閥単位でなく、党全体で結束すべき」として町村派を退会し、無派閥となった。麻生総裁退陣に伴う2009年自由民主党総裁選挙には立候補せず、谷垣禎一の推薦人に名を連ね、谷垣総裁の下で党広報本部長を務める。2010年6月9日の自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)設立総会で、相談役に就任した。
自由民主党総務会長
2010年9月の党役員人事で、谷垣総裁の下、第49代自由民主党総務会長に就任した。党三役に女性が就任するのは結党以来初めてだった。2011年9月、自民党総務会長を退任した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、東京10区で前回敗れた江端を大差で破り7選(108,983票獲得、得票率53.7%)。。選挙後、自由民主党広報本部長に就任する。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、東京10区で8選(93,610票獲得、得票率50.7%)。
2016年東京都知事選挙
2016年6月29日に記者会見を開き、舛添要一の辞任に伴う同年7月の東京都知事選挙に立候補する意向を表明する。自民党東京都連会長石原伸晃に推薦を依頼するも、「7月10日の参院選の投開票後に結論を出したい」と返答された。7月6日、「このままでは(自民党からの)推薦が得られない中での立候補になるが、東京の改革のために覚悟を持って臨みたい」として正式に立候補を表明する。7月10日、小池は自民党に提出していた推薦依頼を取り下げた。その後、自民党は増田寛也の推薦を正式に決定し、都連では石原と東京都連幹事長内田茂らの連名で、自民党が推薦していない候補者を応援した場合は「除名などの処分対象になる」との文書を自民党所属の国会議員や地方議員に配布した。7月31日に執行された選挙の結果、2位以下の候補を大きく引き離して291万2628票を獲得し、女性としては初めて東京都知事に当選した。同年8月2日、東京都選挙管理委員会が当選の旨を告示し、同日付で第20代東京都知事に就任した。  
 
塩崎恭久

 

塩崎恭久(1950- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、厚生労働大臣(17・18代)、自民党愛媛県連会長。参議院議員(1期)、衆議院法務委員長、内閣官房長官(第73代)、拉致問題担当大臣等を歴任。
愛媛県松山市生まれ。東京都立新宿高等学校卒業後、駿台予備学校で1年間の浪人生活を送った後、東京大学に入学する。1975年、東京大学教養学部教養学科アメリカ科を卒業し、日本銀行に入行。1982年にハーバード大学大学院(ケネディスクール)を修了し、行政修士号を取得した。同年、父・塩崎潤の経済企画庁長官就任に伴い、日銀を退職し父の秘書官に転じる。後に日銀に復職した。1985年、父の総務庁長官就任に伴い再び日銀を退職し、再度父の秘書官を務めた。
1993年、父・潤の引退を受け、第40回衆議院議員総選挙に旧愛媛1区から自由民主党公認で出馬し、初当選。2年後の1995年、小選挙区比例代表並立制の導入に伴う選挙区調整により、参院への鞍替えが決定(新愛媛1区は関谷勝嗣が引き継いだ)。第17回参議院議員通常選挙に愛媛県選挙区から出馬し当選する。1997年、大蔵政務次官に就任。
1998年頃から安倍晋三、石原伸晃、根本匠に塩崎を加えた政策グループNAISを結成し、社会保障・福祉政策を中心に議論、提言を行う。また金融危機に伴う1998年の金融国会では石原伸晃や民主党の若手議員らと連携。金融再生トータルプラン、金融再生法の策定に奔走し、政策新人類と呼ばれて注目された。また橋本内閣の下でも日本版金融ビッグバンを提唱し、バブル崩壊後の日本の金融再生に取り組んだ。
2000年、参院議員を任期途中で辞職。関谷の地盤を引き継ぎ、第42回衆議院議員総選挙に愛媛1区から出馬し当選(変則コスタリカ方式により関谷が参院へ転出)。同年末の第2次森内閣不信任決議案をめぐる、いわゆる「加藤の乱」では、当時加藤派に所属していたため加藤紘一に同調するも、加藤の思うように内閣不信任決議案への同調者が集まらず、倒閣運動は頓挫する。塩崎は石原と共に加藤を強く非難し、無派閥に転じた。行動を共にした石原ら、加藤の乱に同調した議員たちがその後、小泉純一郎首相の下で重用される中、塩崎には目立った復権の動きがなかった。
2005年、5年間の無派閥生活から加藤の乱による加藤派分裂により堀内光雄や古賀誠ら反加藤グループにより結成された堀内派に入会。同年、第3次小泉内閣で外務副大臣に就任する。2006年、自民党愛媛県連会長に就任。同年の自由民主党総裁選挙では自身の当選同期である安倍晋三を支持した。安倍が総裁に選出された後、塩崎は安倍内閣に内閣官房長官(拉致問題担当大臣を兼務)として初入閣した。首相、官房長官の出身派閥が異なるのは1989年の宇野内閣以来17年ぶりである(宇野宗佑首相は中曽根派、塩川正十郎内閣官房長官は安倍派。2000年の第1次森内閣も森喜朗首相(森派)、青木幹雄内閣官房長官(橋本派)で出身派閥が異なったが、これは小渕恵三の危篤(後に死去)に伴う居抜き内閣であり、小渕・青木は同一派閥に所属していた)。自殺対策基本法の成立にともない、内閣府に特別の機関として自殺総合対策会議が新設されると、その初代会長に就任した。2007年、安倍改造内閣では再任されず、内閣官房長官を退任(後任は与謝野馨)。
内閣改造後間もなく、安倍が首相辞任の意向を表明。安倍の辞任を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙に際して、世耕弘成ら一部の中堅・若手議員から塩崎の立候補を望む動きがあったものの、出馬には至らなかった。麻生内閣発足後、2008年の国籍法改正をめぐっては、法改正を強く推進し改正法成立に尽力するも、国籍法改正反対派からは「A級戦犯」と非難された。また、速やかな政策実現を求める有志議員の会を結成し、同会の中心になって麻生おろしに動いたため、津島派会長の津島雄二を「敵に塩を送っている」と嘆かせた。2009年東京都議会議員選挙での与党惨敗を受け、かつて袂を分かった加藤紘一の意向を受け、第45回衆議院議員総選挙の前に両院議員総会を開催し、自民党総裁選挙を実施するよう党執行部に求めるための署名集めに奔走したが、党執行部の巻き返しによりこの動きは頓挫した。第45回衆議院議員総選挙では、愛媛1区で民主党が擁立した元南海放送アナウンサー永江孝子の猛追を受けるが、約2800票差で永江を破り、通算5回目の当選(永江も比例復活。愛媛1区で次点の候補者が比例復活したのは初めて)。
2011年9月30日に成立した東京電力福島原子力発電所事故調査委員会法の立法、修正過程には、松井孝治参議院議員らとともに、当初から実務者として関わった。2012年からは自由民主党政務調査会会長代理、経済再生本部本部長代行に就任。2014年9月、第2次安倍改造内閣で厚生労働大臣に就任し、同年12月の第3次安倍内閣でも再任したが、岸田派を退会した。  
 
溝手顕正

 

溝手顕正(1942- ) 実業家。自由民主党所属の参議院議員(5期)、参議院懲罰委員長。国家公安委員会委員長(第75代)、内閣府特命担当大臣(防災)、自由民主党参議院議員会長(第28代)、自由民主党参議院幹事長、参議院予算委員長・議院運営委員長・国家基本政策委員長・総務委員長・政府開発援助等に関する特別委員長等を歴任した。
広島県広島市南区皆実町生まれ。その後は安芸郡や加茂郡原村(現東広島市)を経て、三原市に転居した。広島大学附属三原中学校、広島大学附属高等学校、東京大学法学部政治学科卒業。東大卒業後、富士製鐵(現新日本製鐵)勤務を経て幸陽船渠に入社し、同社代表取締役社長を務める。この間、日本造船工業会常任理事や三原商工会議所副会頭を務めた。
1987年、地元商業界の後押しを受け、三原市長選挙に出馬し、当選。1991年に再選され、2期6年務める。この間、全国市長会評議員や広島市長会副会長を務めた。1993年12月、藤田雄山の広島県知事選挙立候補に伴う参議院広島県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で出馬し、当選。以後、当選5回。2004年、参議院議院運営委員長に就任。
2006年9月、第1次安倍内閣で国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(防災)に任命され、副大臣や大臣政務官を経ずに初入閣した。しかし、在任中は数回にわたる失言や大臣規範違反が発覚。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、広島県選挙区から自民党公認で出馬し、4選。選挙戦中に発生した新潟県中越沖地震に際しては、広島県での選挙運動を中止し、政府調査団長に就任して被災地を視察に訪れた。選挙後に発足した第1次安倍改造内閣では再任されなかった。2007年12月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自由民主党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、副委員長に就任した。2008年に参議院予算委員長、2009年に参議院国家基本政策委員長をそれぞれ務めている。
2011年9月、自由民主党参議院議員会長の中曽根弘文は、参議院自民党の執行部人事において、当初は参院幹事長の小坂憲次、参議院政策審議会長の山本一太の両名を再任する意向だったが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選し、2010年に参院に鞍替えしたばかりの小坂や、同じ群馬県選出の山本の続投に、町村・額賀・古賀3派からは批判が高まり、中曽根は一旦参院幹事長を鴻池祥肇に交代させる人事案を議員総会に提出するも、否決される。これを受け、中曽根は古賀派の溝手を参院幹事長に、町村派の岩城光英を政策審議会長に起用する新たな人事案を提出して承認され、溝手が自民党参議院幹事長に就任した。
2013年7月26日、中曽根の任期満了に伴う参院議員会長選挙に町村・額賀・古賀3派の後押しを受ける形で立候補し、82票を獲得。31票を獲得した鴻池祥肇を破り、自由民主党参院議員会長に選出された。
2014年9月9日、参院執行部会において、参院幹事長の脇雅史から一票の格差を是正するための選挙制度改革に対する後ろ向きな姿勢を批判され、参院議員会長を辞任するよう求められるが、溝手は辞任に応じず、12日の特別総会で脇を参院幹事長から更迭した。選挙制度改革については新党改革の荒井広幸代表が事実上提案していた4つの選挙区を2つ合区して2つの合同選挙区を創設する公職選挙法改正案を受け入れる政治的決断をし、同年7月28日に法案が国会で成立した。 
 
高市早苗

 

高市早苗 (戸籍名 / 山本早苗 1961年- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)。総務大臣(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)。 自民党政務調査会長(第55代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・男女共同参画・食品安全・イノベーション・少子化対策)を務めた。
奈良県出身。奈良県立畝傍高等学校、神戸大学経営学部経営学科卒業。専門は経営数学。大学卒業後、1984年に松下政経塾に入塾(第5期生)。1987年、アメリカ合衆国へ渡り、左派リベラルでフェミニズム運動の急先鋒だった民主党下院議員、パトリシア・シュローダーの個人事務所でコングレッショナル・フェロー(一定の団体のスポンサーシップにより、アメリカ合衆国議会の議員事務所や委員会に派遣される制度)として勤務した。なお、1988年当時は「アメリカ合衆国議会立法調査官(コングレッショナル・フェロー)として議員を補佐した」と高市は説明していたが、「立法調査官」という肩書きは評論家の桃井真と話し合って意訳したものであった。1992年の参議院選挙に出馬する頃から、「立法調査官」という名称を使うことをやめ、コングレッショナル・フェローに統一している。高市の経歴については、高市の滞米中の暮らしぶりを知る当時のワシントン特派員が「実際の仕事はコピー取りみたいなもんです」と評していたとの報道もあった。1989年に日本に帰国し、亜細亜大学系列の日本経済短期大学(現・亜細亜大学短期大学部)助手に就任。1990年には、フジテレビ系列の朝の情報番組「朝だ!どうなる?」のメインキャスターを務める。1992年には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し、会長に就任する。同年、第16回参議院議員通常選挙に奈良県選挙区から保守系無所属として出馬したが、落選した。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から無所属で出馬し、得票数トップで初当選。1994年、政策集団「リベラルズ」に参加し、リベラルズを母体に自由党(柿澤自由党)が結党され、党首の柿澤弘治が羽田内閣で外務大臣に就任し、与党入りする。同年7月、自民党を離党した海部俊樹を代表に自由改革連合を結成し、同年末に新進党に合流。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い、奈良1区から新進党公認で出馬し、再選。11月5日に新進党を離党。新進党離党後、当面は無所属に留まる意向を示していたが、1ヶ月後の12月27日に自民党に入党した。新進党離党の理由には「総選挙前、新進党の税制調査会で徹底的に議論した上で「大規模な減税は不可能」という結論を出したにもかかわらず、小沢一郎新進党党首が総選挙の公示日に突然、十八兆円の大規模減税策を公約に掲げたこと」を挙げている。自民党への入党については、「時間がもったいなくなっちゃった」などと述べた。自民党入党後は清和政策研究会(三塚博→森喜朗→町村信孝派)に所属。 
高市総務相が改めて電波停止に言及、与野党に波紋  
高市総務大臣は9日の国会で、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じる可能性について改めて言及しました。  
「総務大臣の権限として放送を止めることができるわけですよね」(民主党・奥野総一郎議員〔8日〕)
きっかけは、8日の衆議院予算委員会のやりとり。民主党の奥野議員が高市大臣に、「政治的公平」などを定めた放送法第4条に違反したことを理由に総務大臣の権限で放送局の電波を止めることはないと明確に否定するように求めたのに対して・・・  
「電波の停止は絶対しないと、私のときにするとは思いませんけれども、何度、行政の方から要請をしても全く(放送法を)順守しないという場合、その可能性が全くないとは言えない」(高市早苗総務相〔8日〕)  
9日の朝の閣議後の記者会見では・・・  
「(電波停止は)非常に極端な場合であるのは、過去の総務大臣答弁からもある」(高市早苗総務相)  
高市大臣は、違法な放送が行われたことが明らかで、公益を害し、同一の事業者が同様の事態を繰り返す場合などの条件を明示。電波の停止について「未来永劫、適用することがないかと言われると、それを否定するわけにはいかない」と述べました。  
こうした発言に、政府与党内からは・・・  
(Q.電波停止の判断を時の政権が恣意的に運用する可能性は?)  
「それはありえないでしょう」(菅義偉官房長官)  
「果たして大臣の答弁のようなことが実際に起きるかどうかというとは、ちょっと考えにくいのではないか。基本的には慎重な運用が望ましい」(公明党・山口那津男代表)  
石破地方創生担当大臣は、高市大臣の発言を詳しく把握していないと断った上で・・・「民主主義において、言論機関の自由な表現は常に保障されなければならない。気に入らないから統制するとか、民主主義とメディアの関係がおかしくなると思う」(石破茂地方創生相)  
放送法に詳しい専修大学の山田教授は・・・「本来ならば、放送法というのは放送の自由を規定する法律であって、その自由を規定する法律を使って電波法に規制をかけるのには矛盾がある」(専修大学文学部言論法研究室・山田健太教授)  
放送法の理念を説明した上で、こう指摘します。「繰り返し政府の首脳が国会の場で正式に答弁をすることで、どんどん(放送の自由に規制をかける)考え方が既成事実化していくことの恐ろしさがある」(山田健太教授)  
この問題は、9日の国会でも取り上げられました。  
「ある個別の番組において、憲法9条の改正に反対する政治的見解を支持する内容を相当の時間にわたり繰り返し放送した場合も、電波停止になる可能性は否定できませんね」(民主党・玉木雄一郎議員)  
「1回の番組で電波停止ということはまずありえません。繰り返して全く公正な放送が行われない 、改善措置もなされていないときに法律に規定されている罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」(高市早苗総務相)  
高市大臣は、「極めて慎重な配慮のもと運用すべき」と答弁しましたが、民主党の玉木議員は「放送に対して萎縮効果を与えるような発言は厳に慎まれた方がいい」と批判しました。
危険すぎるマイナンバー新施策で国民騒然!全カード一体化  
1月5日、総務省が各種ポイントカードをマイナンバーカードへ一本化することを検討し始めたと報道され、方々で話題が沸騰した。  
総務省の仕事始め式で高市早苗総務大臣が指示したという。早ければ来年春に導入したいとの意向を示したが、各種ポイントカードや銀行、図書館、商店街などのカードをマイナンバーカードに一本化するシステムを構築するには、数年はかかる。それを知らずに本気で来春導入を考えているのか、はたまたもうすでに実行に移しているのか、気になるところだ。  
総務省は昨年、消費税の軽減税率に関連して、買い物する際にマイナンバーカードを提示することで軽減税率相当分を還元する案を提案したが、その際も国民や識者から買い物のたびにマイナンバーカードを提示することに強い反発が起きたこともあって廃案となった。  
とにかくマイナンバーカードを普及させたいとの意向がありありと透けて見えるが、そもそも人に知られてはいけないマイナンバーを、買い物の際に提示するなど矛盾も甚だしい。紛失のリスクなどを考えると、持ち歩くことすらはばかられるものではないだろうか。  
また、マイナンバーは社会保障・税金のための制度で、「国民生活を支える社会的基盤として」導入すると内閣は発表している。いきなり制度の趣旨から外れたことを始めようとするあたり、早く普及させようと焦っているのだろう。  
報道によると総務省幹部は、マイナンバーカードとポイントカードを統一することのメリットとして、各企業が磁気カードからICチップ入りカードに移すための莫大な投資を行わずに済むと語っている。しかし、そもそも各企業は自社や提携グループ内に顧客を囲い込むためにポイントカードを発行しているのに、統一してしまうとポイントカードを発行するメリットそのものが消失してしまうことに総務省は気づいていないのだろうか。  
公共事業に民間企業を参入させる、あるいは公共事業を民営化するのが本来の流れで、民間の事業に政府が介入してもうまくいかないことは自明の理である。  
個人情報流出のリスク、システム構築のための無駄な税金支出、国民の購買行動を国が把握することの不気味さなど、早くも国民の間からは批判が噴出している。少なくともインターネットで調べる限り、好意的な意見は見当たらない。マイナンバーカードを国民に無理矢理でも使わせたい、新システムをつくることで管理団体を立ち上げて天下り先を増やしたいという狙いがあるのではないか、との指摘も数多く上がっている。  
総務省、ひいては政府の真の狙いがどこにあるかはともかく、マイナンバーが税と社会保障に限定した制度ではないことは確かだ。麻生太郎副総理兼財務大臣兼金融担当大臣が、制度発足から3年ほどしたら銀行の預金口座への紐付けを義務化していくことを検討するとの発言をしたことからもわかるように、今後徐々に適用範囲が広がっていく可能性は高い。国民はマイナンバー制度の方向性を注意深く見守っていかなければならないだろう。 
 
山本有二

 

山本有二(1952- ) 弁護士。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、農林水産大臣(第60代)、のぞみ代表。衆議院経済産業委員長、衆議院法務委員長、財務副大臣(第2次小泉内閣)、金融担当大臣(第1次安倍内閣)、衆議院懲罰委員長、衆議院予算委員長を歴任。
高知県高知市出身。土佐高等学校、早稲田大学法学部卒業(早大在学中は雄弁会所属)。1980年、27歳で司法試験に合格し司法修習第35期を修了(同期に鈴木喜久子)。
1985年、高知県議会議員選挙に出馬し、初当選。1990年、第39回衆議院議員総選挙に高知県全県区(定数5)から自由民主党公認で出馬し、3位で当選する。第40回衆議院議員総選挙では、得票数最下位(5位)で再選。羽田内閣総辞職に伴う1994年6月29日の内閣総理大臣指名選挙では、自民・社会・さきがけ3党は日本社会党委員長の村山富市を擁立したが、中曽根康弘・海部俊樹両元首相や渡辺美智雄らが村山擁立に反発し、新生・公明・民社・日本新ほか旧連立与党が海部を擁立。山本や伊吹文明らは党本部の決定に造反し海部に投票したが、決選投票で海部は村山に敗れた。同年、衆議院議事進行係に就任。小選挙区比例代表並立制導入後の第41回衆議院議員総選挙(1996年)以来、高知3区から出馬し、小選挙区で連続6選。対立候補が比例復活したのは1996年の春名眞章(日本共産党)のみである。
2003年、財務副大臣に就任。2006年自由民主党総裁選挙では、ポスト小泉純一郎候補に内閣官房長官の安倍晋三を擁立する。山本は安倍を支持する再チャレンジ支援議員連盟会長を務めており、中堅・若手議員の票の獲得に奔走し、安倍の圧勝に貢献。その後、第1次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任。また、「再チャレンジ可能な社会を構築するための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当した。第1次安倍改造内閣では続投せず、退任。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、高知3区で民主党の中山知意を約1万票差で破り、7選。山本は高知3区で当選、対立候補に比例復活を許さなかった。
2010年1月、所属していた高村派を退会。政策グループ「のぞみ」を結成し、代表に就任。
2011年3月、自由民主党高知県支部連合会にて、再選を目指し会長選挙に立候補するも、副会長の中谷元も立候補した。2004年に会長を公選する規定が導入されていたため、初の会長選挙が実施されることになった。その結果、山本が938票を獲得したものの、1904票を集めた中谷に破れ落選した。その後、中谷の下で副会長に就任した。2011年5月、山本拓が事務局長を務める地下式原子力発電所政策推進議員連盟(略称 地下原発議連)の顧問に就任。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙でも、高知3区で共産党候補を大差で破り、8選。なお同選挙を最後に高知3区は廃止されるため同選挙区から選出された最後の国会議員となった。同年12月、衆議院予算委員長に就任。2013年1月31日、無派閥連絡会の初会合に参加。
2014年12月の第47回衆議院議員総選挙でも、高知2区で9選。2016年、第3次安倍第2次内閣で農林水産大臣に就任。 
のぞみ
自由民主党の勉強会。2010年1月19日、山本有二を代表として発足。外国人参政権付与の反対や憲法改正、社会保障政策などを提言していくとしている。理念については、石破茂が主宰するさわらび会や同じく石破を中心とする無派閥連絡会にも共有されている。
代表の山本は、派閥のサロン化に警鐘を鳴らしたいとして所属する高村派を退会したものの、他の議員は所属派閥を離脱せず、横断的な政策グループで派閥ではないとしている。参加する5人の議員は全員が平成21年自民党総裁選で西村康稔の推薦人に名を連ねていたが、谷垣禎一総裁ら現執行部への支持を明言した。
2010年2月25日、無所属の平沼赳夫ら3人と意見交換会を開いた。会合では、外国人参政権などに反対することで一致し、今後、定期的に会合を開くことを確認した。会合後、山本は「平沼氏からともに行動できるグループとの評価をいただいた」と述べ、平沼は「山本氏らは良質の政治家で(平沼が結成を明言している)新党に加わってくれるのが望ましいが、なかなかそこまでいっていない」と述べた。 
 
大田弘子

 

大田弘子(1954- ) エコノミスト。政策研究大学院大学教授。専門は公共経済学、経済政策。現内閣府規制改革推進会議議長、株式会社みずほフィナンシャルグループ取締役会議長、公益財団法人日本生産性本部副会長(経済成長フォーラム座長、日本創成会議構成メンバー)、国立新美術館評議員、公益社団法人日本経済研究センター理事、独立行政法人宇宙航空研究開発機構広報対応外部委員会委員、公益財団法人新日鉄住金文化財団評議員、政府税制調査会(内閣府)委員、資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会臨時委員、一般財団法人企業活力研究所社会保険料負担を考える研究会委員、国際公共政策研究センター番号制度に関する研究会委員、パナソニック株式会社取締役、JXホールディングス株式会社社外取締役。内閣府政策統括官(経済財政分析担当)、経済財政政策担当大臣(第8代・9代)、フランス・社会科学高等研究院客員教授などを歴任した。
鹿児島県出身。中学時代は生徒会長。高校は、鹿児島県立鶴丸高等学校。部活は体操部。両親に上京を反対されたが担任の先生の説得などで、一橋大学社会学部に進学。大学時代は授業にはほとんど出ず、陸上部に打ち込んだと語る。1976年一橋大学社会学部卒業(社会学士)。経済学や経営学等の学士は取得していないが、財団法人生命保険文化センターで生命保険料控除などの税制を始めとした経済学研究を十数年間行った。
もともとはジャーナリスト志望だったが男女雇用機会均等法施行前であったため女子の採用自体が少なく、大学卒業後は無職となり、新聞広告の求人情報をもとに就職活動を行っていた。出版業について学ぶため、社内報担当を募集していた株式会社ミキモトに入社。
1981年から大学の先輩である高原須美子(のちに経済企画庁長官)の紹介で財団法人生命保険文化センター研究員となり、経済学研究を行う。本間正明(元大阪大学教授)からの誘いを受け、1993年から大阪大学経済学部の東京海上火災保険の寄付講座で客員助教授を務め「リスクと情報の経済学」を講じた。
1996年、政策研究大学院大学(1996年当時は埼玉大学大学院政策科学研究科)で教授等を務め教鞭を執る。
2001年1月、内閣府経済財政諮問会議の「サービス部門における雇用拡大を戦略とする経済の活性化に関する専門調査会(会長:牛尾治朗)」の専門委員に選任され、現場での政策立案作業にも携わる。
小泉政権
2002年、大学を離れ第1次小泉内閣の内閣行政官に転進し、内閣府参事官に就任。経済財政諮問会議の事務方を務め、各省庁との折衝にあたった。 / 2003年、内閣府政策統括官に昇格。経済財政政策を担当。2人目の民間議員。女性としては初。 / 2005年に内閣府政策統括官を退任。後任の政策統括官も民間出身のエコノミスト・高橋進。
第一次安倍政権
2006年〜2008年:安倍内閣、第1次安倍改造内閣及び福田康夫内閣で民間人閣僚として経済財政政策担当大臣を務めた。 / 2008年に大臣を退任し、政策研究大学院大学教授に復帰。 / 2009年4月政策研究大学院大学副学長に就任。国立大学法人政策研究大学院大学特別顧問会議委員・研究教育評議会委員。 / 2011年副学長退任。
福田康夫内閣
2007年から経済財政政策担当大臣を務め、2008年に大臣を退任し、政策研究大学院大学教授に復帰。 / 2009年4月政策研究大学院大学副学長に就任。国立大学法人政策研究大学院大学特別顧問会議委員・研究教育評議会委員。 / 2011年副学長退任。
第二次安倍政権
2013年1月、第2次安倍内閣で内閣府規制改革会議議長代理に就任。 / 2013年6月、政府税制調査会(内閣府)委員にも就任。同会法人課税ディスカッショングループ座長。 / 2016年9月、第3次安倍第2次改造内閣で内閣府規制改革推進会議議長に就任。 
 
佐田玄一郎

 

佐田玄一郎(1952- ) 自由民主党所属の衆議院議員(9期)。安倍内閣で内閣府特命担当大臣(規制改革担当)を務めた他、総務副大臣(第1次小泉内閣)、衆議院議院運営委員長(第66・74代)、衆議院総務委員長等を歴任した。元参議院議員の佐田一郎は祖父。元佐田建設社長の佐田武夫は父。
群馬県前橋市生まれ。群馬県立前橋高等学校、北海道大学工学部卒業。1979年、大学卒業後の4月、鉄建建設に入社。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧群馬1区(定数3)から自民党公認で出馬し、日本社会党の田邊誠、自民党の尾身幸次に次ぐ3位で初当選。当選後は、同郷の小渕恵三が所属する平成研究会に入会。1993年の第40回衆議院議員総選挙では尾身に次ぐ2位で再選。
1995年、村山改造内閣で大蔵政務次官に就任。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では、旧群馬1区でライバル関係にあった尾身幸次が群馬1区から出馬し、佐田は比例北関東ブロック単独で立候補する住み分けがなされた。同年、文部政務次官に就任。第41回衆議院議員総選挙以降、コスタリカ方式により尾身、佐田が群馬1区、比例北関東ブロックから交互に出馬している。2000年の第42回衆議院議員総選挙では群馬1区から出馬し、3選。
2001年、第1次小泉内閣で総務副大臣に任命された。2005年、衆議院議院運営委員長に就任。
2006年に安倍内閣で内閣府特命担当大臣(規制改革担当)に任命され初入閣。あわせて国・地方行政改革、公務員制度改革、地域活性化、道州制を担当する国務大臣も兼務した。
2006年12月25日、自身の政治団体「佐田玄一郎政治研究会」が1990年から2000年までの10年間、実態のない架空の事務所費を計上し、約7800万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を提出していた問題が発覚。佐田の公設第1秘書の証言によれば、同団体には活動実態が無く、1990年から1999年までに活動費として収支報告書に記載していた2億1300万円についても虚偽記載の可能性が指摘され、佐田は同年12月27日に閣僚を辞任した(後任は渡辺喜美)。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では比例北関東ブロックから出馬し、7選。一方、群馬1区から出馬した尾身は落選し、その後政界引退を表明した。
2012年10月、安倍晋三総裁の下で自民党財務委員長に就任。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では群馬1区から出馬し、8選。当選後、衆議院議院運営委員長に就任。2013年6月、週刊新潮に女性問題を報じられたため引責辞任。同誌の報道記事は「『佐田玄一郎』常習的買春の現場報告」と題するもので、壇蜜を彷彿とさせる20歳の女子大生と1回4万円で援助交際していたとの内容であり、佐田が背広姿で湯島のラブホテルから出てくる写真も掲載されていた。役職を辞任するのは前述の事務所経費問題に続いて2回目で、いずれも安倍政権下であった。
2014年、第47回衆議院議員総選挙で群馬1区から出馬し、無所属の上野宏史に7000票差まで迫られながらも9選。なお、この選挙で公明党は他の群馬県内の自民党候補に推薦を出す中、佐田陣営が比例北関東ブロック単独で出馬した自民党の尾身朝子(尾身幸次の長女)と連携する方針を示したことや、自民党公認をめぐって混乱がみられたことを理由に佐田を推薦しなかった。2016年、群馬県第1区の自民党県議団が、次期衆議院選挙での自民党公認を推薦しないことを決定する。 
 
渡辺喜美

 

渡辺喜美(1952- ) 日本維新の会所属の参議院議員(1期)、日本維新の会副代表。衆議院議員(6期)、内閣府特命担当大臣(規制改革)、内閣府特命担当大臣(金融)、みんなの党代表(初代)を務めた。父は元衆議院議員で副総理、外務大臣、大蔵大臣、通商産業大臣等を歴任した渡辺美智雄。
栃木県那須郡西那須野町(現那須塩原市)生まれ。栃木県立大田原高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。その後中央大学法学部に学士入学し、卒業。1983年から父・渡辺美智雄の秘書を務める。のちに美智雄が通商産業大臣、外務大臣に就任した際はそれぞれ政務秘書官に就任。
1995年9月、父・美智雄が死去。父の地盤を継承し、1996年の第41回衆議院議員総選挙に栃木3区から自由民主党公認で出馬し、初当選した(当選同期に河野太郎・菅義偉・平沢勝栄・大村秀章・河本三郎・桜田義孝・下地幹郎・下村博文・新藤義孝・滝実・棚橋泰文・谷畑孝・田村憲久・戸井田徹・松本純など)。当選後、美智雄がかつて会長を務めた旧渡辺派に入会。1990年代後半の金融危機では「政策新人類」の1人とされ、金融再生法の成立に尽力。
2000年11月、加藤の乱をきっかけに江藤・亀井派を退会し、同党離党まで無派閥。
2006年、第1次安倍内閣で内閣府副大臣に就任。同年12月、事務所費架空計上問題で辞任した佐田玄一郎の後任の内閣府特命担当大臣(規制改革)に、副大臣から昇格して初入閣した。内閣府特命担当大臣に加え国・地方行政改革担当、公務員制度改革担当、地域活性化担当、道州制担当のポストを担当。在任中は国家公務員の再就職を一元的に管理する「人材バンク」や「中央省庁幹部の1割の公募制」導入を提唱。
2007年8月、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(金融)に横滑りし、引き続き国・地方行政改革担当、公務員制度改革担当の大臣ポストを兼務。同年9月発足の福田康夫内閣でも留任、翌2008年の内閣改造時に退任。
2008年12月24日、民主党提出の首相・麻生太郎に対する衆議院の解散総選挙を要求する決議案に与党議員でただ1人賛成し、自民党から戒告処分を受ける。その後も麻生内閣や党執行部への批判を繰り返し、自民党離党の意向を表明。
2009年1月9日、国家公務員のワタリ斡旋に関する公開質問状を、事前のアポイントを取らずに首相官邸に持参するが、首相秘書官から公開質問状の受け取りを拒否された。1月13日、自民党に離党届を提出、2月11日に「国民運動体」を発足させ、5月1日に団体名を「国民運動体 日本の夜明け」に改める。この組織を母体に、総選挙前の8月8日にみんなの党を結党。無所属の江田憲司に加え、自民党離党組の山内康一・広津素子、民主党を離党した浅尾慶一郎が参加し、所属国会議員5名を集めて政党要件を満たした。
第45回衆議院議員総選挙にはみんなの党公認で栃木3区から出馬し、5選。当初、自民党は栃木3区に元法務大臣の森山眞弓を擁立する方向で調整していたが、自民党栃木県連の反対により撤回。栃木3区は日本共産党も候補を擁立しない共産空白区となり、他に候補が立候補する気配を見せなかったため、戦後衆議院選挙初の無投票当選の可能性があったが、幸福実現党の斎藤克巳が立候補したため無投票当選とはならなかった。選挙結果は渡辺が14万2482票・得票率95.3%で圧勝。渡辺の得票率は、小選挙区制導入後現在に至るまでの最高記録である。
2011年2月、第22回参議院議員通常選挙後初めて行われた党首討論において党首討論への参加を希望したが、渡辺が国家基本政策委員会の委員ではないことを理由に拒否された。同年4月11日に自民党から国家基本政策委員会委員ポストを借りる形で出席して、党首討論に参加した。
2014年に、後述の8億円借入問題が発生し、4月にみんなの党の代表の辞任を余儀なくされる。これを契機にみんなの党は離党者が相次ぐなど、内部対立が激しくなり、第47回衆議院議員総選挙を前に解党に至る。渡辺本人は無所属で出馬するも、落選した。
2015年3月、自身を支持する石崎英幸・市川市議会議員らが設立した地域政党「闘う改革の会千葉」の顧問に就任した。同年12月、8億円借入金問題(後述)について最終的に不起訴(嫌疑不十分)となったことから政治活動を再開、国政復帰への動きを見せ始めた。
2016年4月、同年7月の第24回参議院議員通常選挙比例区に出馬する意向を表明した。また衆議院解散・衆参同日選となった場合は衆議院議員総選挙に再び栃木3区から出馬、比例代表北関東ブロックにも重複立候補する考えを示した。渡辺は「複数の政党から出馬要請がある」と述べ、また渡辺自身が再び新党を結成することも検討していたが、結局5月14日おおさか維新の会(現・日本維新の会)に入党。7月10日、参議院議員として初当選した。 
 
諸話

 

再チャレンジ支援議員連盟
2006年(平成18年)6月2日、小泉改革の負の側面として格差がクローズアップされる中、改革の姿勢は継続しつつも機会の平等という観点を重視して誰もが再挑戦ができる社会の実現する再チャレンジ政策について議論するための議員連盟として発足した。しかし、真の目的は時の内閣総理大臣小泉純一郎の最有力後継者であった安倍晋三(当時内閣官房長官)を支援するための議連であり、安倍応援団の中核組織として平成18年自民党総裁選での安倍圧勝の流れを決定付けた。
議連の設立は、菅義偉が安倍に出身派閥である森派に頼らずに、超派閥で臨むべきだとの進言によってなされた。政策を旗印とすることで、参加へのハードルを低くすると同時に各派閥の締め付けを難しくし、議員の囲い込みに成功した。また、世論に対しても安倍の派閥色を打ち消す効果があった。
更に、世代交代を打ち出すために衆院の参加者は当選6回以下、参院は2回以下の議員に絞り、ベテラン議員を中心に待望論が広がっていた福田康夫に対抗する形となった。
発足総会には、代理出席を含めて94名の国会議員が集結し、党内での安倍支持の広がりを見せつけて福田を出馬断念に追い込んだ。総裁選では、選対本部の構成などで森派と主導権争いを繰り広げた。
山本有二が会長を、菅が幹事長を務めている。
所属議員
森派
衆議院議員(計12名) 塩谷立 / 木村太郎 / 高市早苗 / 高木毅 / 吉野正芳 / 柴山昌彦 / 西村康稔 / 萩生田光一 / 赤池誠章 / 亀岡偉民 / 高鳥修一 / 松本文明
参議院議員(計5名) 世耕弘成 / 山本一太 / 岡田直樹 / 岸信夫 / 山谷えり子
津島派
衆議院議員(計5名) 桜田義孝 / 山口泰明 / 新藤義孝 / 加藤勝信 / 福岡資麿
丹羽・古賀派
衆議院議員(計9名) 塩崎恭久 / 岩永峯一 / 菅義偉 / 近藤基彦 / 平井卓也 / 宮沢洋一 / 葉梨康弘 / 林潤 / 清水鴻一郎
山崎派
衆議院議員(計5名) 田中和徳 / 江崎洋一郎 / 山際大志郎 / 平将明 / 冨岡勉
伊吹派
衆議院議員(計8名) 松岡利勝 / 小島敏男 / 中野清 / 西川公也 / 西川京子 / 谷公一 / 松浪健太 / 山本朋広
参議院議員(計1名) 秋元司
高村派
衆議院議員(計3名) 山本有二 / 七条明 / 河本三郎
河野グループ
衆議院議員(計1名) 松本純
無派閥
衆議院議員(計32名) 小此木八郎 / 浜田靖一 / 水野賢一 / 梶山弘志 / 後藤茂之 / 吉田六左ェ門 / 菅原一秀 / 御法川信英 / 秋葉賢也 / 赤間二郎 / 赤沢亮正 / 石原宏高 / 上野賢一郎 / 浮島敏男 / 遠藤宣彦 / 大塚拓 / 片山さつき / 木原誠二 / 木原稔 / 坂井学 / 清水清一朗 / 鈴木馨祐 / 関芳弘 / 田中良生 / 渡嘉敷奈緒美 / 中森福代 / 西本勝子 / 萩原誠司 / 平口洋 / 牧原秀樹 / 武藤容治 / 山内康一  
 
第1次安倍内閣 (改造)

 

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
伊吹文明              
若林正俊              
甘利明        
冬柴鐵三              
大田弘子              
渡辺喜美              
増田寛也                
鳩山邦夫                
町村信孝                
額賀福志郎                
舛添要一                
遠藤武彦                
鴨下一郎                
高村正彦                
与謝野馨                
泉信也                
上川陽子            
岸田文雄        

2007年8月27日 - 2007年9月26日
内閣総理大臣 / 安倍晋三 衆議院 / 無派閥
総務大臣 / 増田寛也 民間
法務大臣 / 鳩山邦夫 衆議院 / 津島派
外務大臣 / 町村信孝 衆議院 / 町村派
財務大臣 / 額賀福志郎 衆議院 / 津島派
文部科学大臣 / 伊吹文明 衆議院 / 伊吹派
厚生労働大臣 / 舛添要一 参議院 / 無派閥
農林水産大臣 / 遠藤武彦 衆議院 / 山崎派 -2007年9月3日
        若林正俊 参議院 / 町村派 2007年9月4日 -
経済産業大臣 / 甘利明 衆議院 / 山崎派 留任
国土交通大臣 / 冬柴鐵三 衆議院 / 公明党
環境大臣 / 鴨下一郎 衆議院 / 津島派
防衛大臣 / 高村正彦 衆議院 / 高村派
内閣官房長官 / 与謝野馨 衆議院 / 無派閥
国家公安委員会委員長 / 泉信也 参議院 / 二階派
内閣府特命担当大臣 / 大田弘子 民間
内閣府特命担当大臣 / 上川陽子 衆議院 / 古賀派
内閣府特命担当大臣 / 岸田文雄 衆議院 / 古賀派
内閣府特命担当大臣 / 渡辺喜美 衆議院 / 無派閥 
 

増田寛也

 

増田寛也(1951- ) 元建設官僚。東京大学公共政策大学院客員教授。都留文科大学特任教授。岩手県知事(3期)、新しい日本をつくる国民会議副代表、総務大臣(第8・9代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)、内閣官房参与、野村総合研究所顧問、日本創成会議座長、東京電力社外取締役などを歴任した。
東京都出身。父は農林官僚で参議院議員を務めた増田盛。九品仏の農林省官舎で育つ。父が退官したのちは小山台に転居。東京都立戸山高等学校に進学する。高校卒業後は予備校に通い、2年間の大学受験浪人生活を送る。1972年、東京大学に入学。東京大学法学部4年時には、2年間浪人しているため民間企業への就職は厳しく、旧司法試験も難関であったため、大学の定期試験を受けずに1年留年し、国家公務員試験を受験。建設省に入省する。
1982年から千葉県警察本部交通部交通指導課長に出向し、ひき逃げ事故の捜査などにあたった。また射撃訓練に熱中し、柔道段位も取得。この間に結婚もした。1986年から、建設省の先輩にあたる茨城県知事竹内藤男の下、茨城県企画部鉄道交通課長を務め、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス建設の準備を4年半進め、東京都知事鈴木俊一の説得などにあたった。1993年から建設省河川局河川総務課企画官を務め、大蔵省総括主査の香川俊介と共に、ダム削減のため技官との交渉にあたった。
国政選挙への出馬打診は断っていたが、1994年、岩手県知事選挙への立候補を決意。建設省上層部や妻の反対を受けたが、夫婦に子供がなかったことから落選しても何とかなると妻を説得し、退官した。小沢一郎らの支援を受け、1995年に当選。岩手県知事在任中は、2期目から小沢と決別し、宮城県知事浅野史郎や三重県知事北川正恭、高知県知事橋本大二郎などと親しみ、「改革派知事」の代表格として知られた。県知事時代の最高支持率は78%に達し、同時期の都道府県知事の中では東京都知事石原慎太郎の66%などを抑えて最も支持率が高かった。
第1次安倍改造内閣、福田康夫内閣、福田康夫改造内閣では総務大臣に任命され、知事出身の民間閣僚として地方再生に取り組んだ。
2016年7月、自由民主党・公明党・日本のこころを大切にする党から推薦を受けて東京都知事選挙に立候補したが、自由民主党前衆議院議員の小池百合子に敗れて落選した。 
 
鳩山邦夫

 

鳩山邦夫(1948-2016) 位階は正三位。勲等は旭日大綬章。「邦」の字体は、偏の縦の払いが上にはみ出ないのが正式とされる。衆議院議員(13期)、文部大臣(第116代)、労働大臣(第59代)、法務大臣(第79・80代)、総務大臣(第10代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、民主党副代表、裁判官訴追委員会委員長、地方創生に関する特別委員会委員長等を歴任した。
東京都に鳩山威一郎の次男として生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を経て、東京大学法学部政治学科卒業後、同公法学科に学士入学し卒業。学習院の同級生に作曲家の都倉俊一、東京大学名誉教授の能見善久、ゆうちょ銀行社長(元シティバンク銀行会長)の長門正貢、元朝日新聞編集委員の萩谷順などがいる。早くから政界入りを志望し、田中角栄の下を訪ねる。田中は「もし自分が首相になったら秘書にする。福田赳夫が首相になったら、福田に紹介する」と約束した上で、見聞を広めるため海外への遊学を鳩山に勧めた。鳩山は田中の助言を受け、東大を卒業しアメリカ・スタンフォード大学に留学していた由紀夫を頼り、数ヶ月間アメリカに滞在した後、帰国した。その後、田中の秘書となり、事務所では1つ年下で1976年(昭和51年)の衆院選で共に当選した中村喜四郎と机を並べた。
1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し、初当選。同じく無所属の宇都宮徳馬、麻生良方と衆院無党派クラブを結成した(1978年に解散)。1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙において落選するが、8か月後に行われた第36回衆議院議員総選挙で国政に復帰。1978年12月に自民党入党後は、田中派→竹下派に所属した。1991年(平成3年)、宮澤内閣で文部大臣に就任し、政界入りから16年目で初入閣した。文相在任中、「学力偏差値追放」を訴え一斉業者テストを廃止した。
1993年(平成5年)に自民党を離党し、第40回衆議院議員総選挙では無所属で当選。細川内閣発足後もしばらくは無所属で通していたが、1994年(平成6年)1月、前年に自民党を離党した西岡武夫、石破茂らと院内会派・改革の会を結成した。細川護煕首相の退陣を受けて発足した羽田内閣では労働大臣に就任するも、羽田内閣は2ヶ月で退陣に追い込まれた。改革の会は高志会(海部俊樹代表)、新党みらい(鹿野道彦代表)、自由党(柿澤弘治党首)と共に自由改革連合を結成するが、同年12月に解散し、新進党結党に参加した。
1996年(平成8年)に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結党、副代表に就任する。更に1998年(平成10年)、民政党の合流により民主党が結成され、東京都連初代会長に就任した。しかし、党の路線をめぐり、徐々に兄弟間で対立が目立つようになった。その後、民主党を離党し、1999年東京都知事選挙に立候補した。不出馬を表明した青島幸男知事の後継指名、及び民主党・生活者ネット・改革クラブの推薦を受け、石原慎太郎の後塵を拝し、2位で落選した(3位は東大法学部の同級生である舛添要一)。前述の通り選挙戦で民主党の全党的な支援を受け、同党衆院議員の岩國哲人が選対本部長、吉田公一が事務総長を務めた。都知事選落選後は民主党からは距離を置き、2000年(平成12年)に自民党に復党する(かねてから邦夫は、民主党の実質的なオーナーである兄・由紀夫との不仲が囁かれており、都知事選出馬は民主党を離党するための口実であったとする見方もある)。東京2区補欠選挙には系列都議中山義活を擁立し、鳩山の中選挙区時代からのライバルで1996年(平成8年)第41回衆議院議員総選挙で鳩山に敗北し、比例復活した深谷隆司は自民党総務会長在職中のため出馬せず、中山が初当選した。
2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では、自らは東京ブロック比例単独候補として出馬し、東京2区で深谷を支援した(鳩山は当選したが、深谷は通商産業大臣在任中でありながら比例復活が出来ず、落選)。2002年(平成14年)に衆院議院運営委員長に就任した。
2003年(平成15年)10月、衆議院永年在職議員の表彰を受ける。
2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では突然「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表の菅直人の選出選挙区である東京都第18区に国替えし、出馬。小選挙区では落選したが比例東京ブロックで復活当選した。
2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡県第6区へ国替えし、東大法学部の同級生で、かつ兄・由紀夫の側近である古賀一成を破り、当選した。
2006年(平成18年)9月の自由民主党総裁選挙への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。麻生太郎を支持した。鳩山は自民党復党以降無派閥を通していたが、2006年(平成18年)10月、かつて所属した経世会の流れを汲む津島派(平成研究会)に入会した。
2007年(平成19年)の安倍改造内閣で法務大臣に就任するが、安倍晋三首相は間もなく病気辞任する(鳩山自身は13年ぶりの入閣)。2007年自由民主党総裁選挙では麻生太郎自由民主党幹事長の推薦人代表を務めた。福田康夫内閣でも法務大臣に再任された。
2008年(平成20年)5月、津島派の役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。同年9月に発足した麻生内閣では総務大臣兼内閣府特命担当大臣(地方分権改革)に就任したが、翌2009年(平成21年)6月12日日本郵政西川善文社長の進退問題を受け、辞任(事実上の更迭)。
政界再編のための新党構想を公言するも、邦夫も兄・由紀夫同様実母から多額の贈与を受けていた問題が発覚し、自民党内で徐々に孤立する。2010年(平成22年)3月15日、自民党に離党届を提出し、24日の党紀委員会で了承された。邦夫に近いとされてきた麻生派の岩屋毅、平成研究会の田村憲久、河井克行、無派閥(のぞみには参加している)の古川禎久らは同調せず自民党に残留。離党後の内閣総理大臣指名選挙では無所属ながら衆院では唯一新党改革代表の舛添に投票。
2011年(平成23年)8月30日の総理指名選挙では一転して古巣の自民党の谷垣禎一総裁に投票した。また、自身も無所属の中島正純より一票を得た。
2011年(平成23年)12月21日、自民党に復党届を提出するが、党内の調整がつかず、復党の許否判断が先送りされる。
2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙には無所属で出馬し、自民党の推薦を受けて12選を果たした。翌日、安倍晋三総裁宛ての復党願を同党福岡県連に提出。その後、党紀委員会にて復党が了承され、11日後の12月28日に2年ぶりに復党した。2014年(平成26年)12月14日の第47回衆議院議員総選挙には自民党公認で出馬し、13選。
2016年(平成28年)6月21日、十二指腸潰瘍のため、都内の病院で死去した。行年67歳。死去する三週間ほど前の6月1日、衆議院本会議に出席した時に非常に痩せ細った姿が見られた。余りの変貌ぶりから健康不安が囁かれたが、この時はあくまで否定していた。政府は没後、正三位に叙するとともに、旭日大綬章を追贈した。 
 
町村信孝

 

町村信孝(1944-2015) 衆議院議員(当選12回)、文部大臣(第124・129代)、内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)、科学技術庁長官(第62代)、文部科学大臣(初代)、外務大臣(第135・136・139代)、内閣官房長官(第75代)、衆議院議長(第75代)などを歴任した。
静岡県沼津市に内務官僚・町村金五の次男として生まれた。町村家は、父・金五が静岡県水産課長時代からの縁で、沼津市郊外にあった静岡県原町漁業組合長植松与三郎の別宅に疎開していた。東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校を経て東京大学経済学部卒業。体格は、小学4年生の時点で身長1m60cm・体重60kgあり、相撲大会で優勝したこともあって、相撲部屋から勧誘されたことがある。高校ではラグビー部に入り、早稲田、慶應から勧誘された。町村の東大在学中は東大紛争の真っ只中であり、ノンポリ学生のリーダーの一人として、東大紛争終結のための学生運動を率いた。大学3年時に、サンケイ新聞社奨学金を受けて米国コネティカット州ウェスリアン大学に留学。
1968年(昭和43年)11月、東大経済学部ストライキ実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを打っている。1969年(昭和44年)1月、秩父宮ラグビー場にて東大7学部の学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、大学自治の議定書である「東大確認書」には経済学部代表として署名している。大学でもラグビー部に所属していた。
1969年(昭和44年)東大を卒業し、通商産業省(現・経済産業省)に入省。昭和44年入省同期組らで、「44」(しし)と高倉健の歌である「唐獅子牡丹」に掛けて、「獅子の会」なる集まりを結成し、エネルギー問題などに関して血判状(連判状)を作って大臣、事務次官らを突き上げたこともあった。その後、米国ジェトロ出向経験を経て、1982年(昭和57年)4月に通商産業省を退官する。
政界入りを父・金五に大反対され、夫人には3回落選するまで付き合ってほしいと懇願する中で1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。以降10期連続当選(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・額賀福志郎・衛藤征士郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・伊吹文明・自見庄三郎・中川昭一・大島理森・野呂昭彦・鈴木宗男・甘利明など)。1991年北海道知事選挙では現職横路孝弘の圧倒的な強さの前に鳩山由紀夫・舛添要一と共に当時の選挙区でのライバルで落選中の中曽根派の佐藤静雄を支援したが惨敗。
4年後の1995年北海道知事選挙では、自民党などが推薦する伊東秀子を支援したが、日本社会党などが推薦する前副知事の堀達也に敗北。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、当初は国政復帰を目指す横路が出馬する北海道1区での擁立が検討されたが、選挙区調整により先祖代々営むまちむら農場の在る北海道5区から出馬し、新進党の党首小沢一郎の甥である新人・小野健太郎に圧勝し初の小選挙区を制した。
1997年(平成9年)の第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任し、初入閣。小渕内閣では大臣経験者ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官を務める。2000年第42回衆議院議員総選挙でも民主党の小林千代美と小沢自由党の小野が出馬して野党の票が割れた恩恵もあり小選挙区で勝利、第2次森改造内閣では文部大臣・科学技術庁長官を務め、中央省庁再編により初代文部科学大臣となった。
小泉政権では自民党総務局長、自民党幹事長代理を務め、2003年北海道知事選挙では通商産業省の後輩である高橋はるみを擁立し、北海道史上初の女性知事誕生に貢献した。同年の札幌市の市長再選挙では北海道放送キャスター経験者の石崎岳を支援したが横路後援会が支援した上田文雄に敗北。
2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣では外務大臣に就任した。町村の外相起用を強く働きかけたのは、同じ派閥の後輩にあたる安倍晋三で、9月22日に安倍が小泉と会談した際に起用が決まったとされる。外相としては対中ODA廃止や尖閣諸島の灯台管理などを行い、第3次小泉内閣まで務めた。政治家の年金未納問題が注目された際には年金の未納が発覚している。
民由合併で北海道5区でも候補者が小林に一本化された事で2003年第43回衆議院議員総選挙や2005年郵政選挙で町村は小選挙区の勝利が厳しいとの予測もされたが、結果的に連立政権を構築する公明党(2003年は解党直前の保守新党も)の支援もあり小選挙区で連勝(小林は2003年が比例復活、2005年は比例北海道ブロック次点)。また、郵政選挙の際は北海道全体では全国の中で比較的自民党が苦戦したが政令指定都市・札幌では小泉フィーバーが発揮された。
2006年自由民主党総裁選挙では同選挙へ立候補した安倍の選対本部長代理として、安倍の総裁選出馬に奔走、総裁選後に発足した第1次安倍内閣では要職への就任が有力視されたが実現しなかった。その後、元首相森喜朗に代わり、清和政策研究会会長に就任し、町村派を率いる。
2007年(平成19年)8月27日、第1次安倍改造内閣で外務大臣に就任。当初は内閣官房長官への就任が確実視されていたが、安倍と麻生太郎の最終的な話し合いで、土壇場で与謝野馨の名が浮上し、町村は2度目の外相就任となった。外相再登板後は、麻生が提起した「北方領土面積二等分論」を論外だと批判。従来の方針通り「4島一括返還論」を主張する立場に回帰した。
安倍の退陣表明を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙では立候補に意欲を示したが、同派閥の福田康夫の立候補表明を受け福田を支持。自身の立候補は見送った。
2007年(平成19年)9月25日、福田康夫内閣の発足に伴い外相から内閣官房長官に横滑りした。派閥の領袖が官房長官を務めるのは初めてのことである。なお官房長官に就任したため町村は閥務に時間が割けなくなり、町村派は会長職を廃止して町村、中川秀直、谷川秀善の3人を代表世話人とする集団指導体制となった。福田康夫改造内閣でも内閣官房長官に留任。福田改造内閣発足後初の閣僚記者会見において、会見場に掲揚された国旗に登壇・降壇する時共に敬礼したのが町村ただ1人であったため、後に潮匡人が福田首相をはじめ、町村を除く全ての福田改造内閣の閣僚を批判している。
2009年(平成21年)2月5日、町村派内で依然として強い影響力を持っていた前会長の森は、麻生総理に批判的言動をとる中川の派内での影響力を削ぐために、町村を会長に復帰させた。森同様に町村自身も、中川との関係は良くないようで、町村派の会合などで「町村派の中には確か広島県選出の議員はいらっしゃらなかった……ああ、中川先生がいらっしゃいましたか」などと皮肉とも取れる言動が見られた。同年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で民主党元職の小林に3万票余りの差をつけられ敗北。重複立候補した比例北海道ブロックで自民党2枠に対し、名簿順1位内の惜敗率で武部勤(北海道12区)に次ぎ2番目となり、復活当選で9選。10月15日には衆議院予算委員会の筆頭理事に就任。
その後、小林は選対幹部の公職選挙法違反での公訴提起と北海道教職員組合からの不正な政治献金の問題が発覚し2010年(平成22年)6月に議員辞職。これに伴う補選に出馬するため10月に議員辞職する。補選ではJ-NSCの会員の支援も受け自身の長女の札幌南高校の同級生だった民主党の新人中前茂之に勝利し、10選(投票率は過去最低の54.34%で、同選挙区の過去最低だった1996年の60.53%を大きく下回った)。
2012年(平成24年)9月14日、2012年自由民主党総裁選挙に立候補するも、9月18日に体調不良を訴えて入院する。9月26日の投開票では34票を獲得するに留まり、5人中4位となった。その後も入院生活を継続し、11月22日には脳梗塞が見つかった。
2014年(平成26年)12月24日、衆議院議長に就任したが、2015年4月21日、再び軽い脳梗塞を発症したため辞任した。
2015年(平成27年)6月1日午後2時15分、東京都内の病院で脳梗塞のため死去。70歳没。6月3日、町村に対して従二位への追叙ならびに桐花大綬章が没後叙勲にて授けられることが日本政府の持ち回り閣議にて決定された。
2016年4月24月、町村の死去に伴い実施された北海道5区補欠選挙で娘婿の和田義明が接戦の末、無所属の池田真紀(民進党・日本共産党・社民党・生活の党と山本太郎となかまたちの4党推薦)を破り、当選した。 
 
額賀福志郎

 

額賀福志郎(1944- ) 自由民主党所属の衆議院議員(11期)。平成研究会会長、日韓議員連盟会長。防衛庁長官(第60・72代)、経済企画庁長官(第58代)、経済財政政策担当大臣(初代)、財務大臣(第7・8代)、自由民主党政務調査会長(第45代)、内閣官房副長官(第2次橋本改造内閣・小渕第2次改造内閣)等を歴任した。
茨城県行方郡小高村(後の麻生町、現・行方市)生まれ。父・額賀万寿夫は地元の森林組合長や村議会・町議会議員を務め、橋本登美三郎の後援会・西湖会の幹部でもあった。佼成学園高等学校、早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。佼成学園高等学校への進学は、立正佼成会の信徒であった額賀の母の希望だったといわれる。早大在学中は雄弁会に所属。卒業後は産経新聞社に入社し、記者として静岡支社、本社経済部、政治部に配属される。政治部では三木武夫や田中派の番記者であった。
1978年、産経新聞社を退社。同年12月、茨城県議会議員選挙に地元・行方郡選挙区から出馬し、初当選する。出馬に際しては父も後援会幹部だった橋本の支援を受けた。
1983年、前回の選挙で落選した橋本の地盤を引き継ぎ、第37回衆議院議員総選挙に旧茨城1区から出馬。この時は自由民主党の公認を得られず無所属で出馬したが、党茨城県連の推薦を受けて4位で初当選し、追加公認を受けた。当選後はかつて番記者を務めていた田中派に所属するが、竹下登が派を割る形で創政会を結成した際はいち早く竹下の下に馳せ参じた。
1997年、第2次橋本改造内閣で内閣官房副長官に起用される。
翌1998年小渕内閣で防衛庁長官に任命され初入閣するが、防衛庁調達実施本部背任事件をめぐって同年10月16日に参議院で額賀に対する問責決議案が可決され(当時自民党は参院で単独過半数を占めていなかったため)、11月に防衛庁長官を辞任に追い込まれた。なお、このスキャンダルをめぐり多くの防衛庁幹部が引責辞任したため、額賀は当時防衛施設庁施設部長だった守屋武昌を、防衛庁長官官房長に抜擢している。
1999年、小渕再改造内閣で再度官房副長官に就任。
2000年、第2次森改造内閣で経済企画庁長官に任命され、2度目の入閣。
2001年11月の省庁再編により、初代経済財政政策担当大臣に就任する。しかしKSD事件をめぐり、KSDから1500万円の献金を受領していたため、2度目の閣僚辞任を余儀なくされる。
2001年の小泉純一郎の自由民主党総裁就任後、小泉によって「抵抗勢力」の代表格とされた橋本派は厳しい立場に追い込まれるが、額賀自身は2003年に自由民主党政務調査会長に起用されている。政調会長時代には、自民党政権の聖域であった税制調査会の改革に踏み切り、長老クラスの税調メンバー(インナー)による非公式幹部会の廃止を要請。ベテラン議員だけで税制が最終決定される、党税調の閉鎖的な仕組みの廃止に踏み切った。
2005年には第3次小泉改造内閣で再度防衛庁長官に任命される。この間、派内のライバルであった鈴木宗男が汚職で、藤井孝男が郵政民営化法案採決での造反により離党したため、橋本派を引き継いだ津島派で唯一、総裁候補に目される存在になった。ポスト小泉をめぐる2006年自由民主党総裁選挙への出馬にも意欲を見せていたが、久間章生らの反対により立候補を見送った。
2007年、安倍改造内閣で財務大臣に任命される。額賀は経済企画庁長官や経済財政政策担当大臣を務めた経験があるが、財務省にはあまり縁がなかったため、額賀の財務相起用は財務省からもやや意外性をもって受け止められた。しかし、安倍は内閣改造後間もなく突然辞意を表明し、額賀は「私は先頭に立つつもりです」と、安倍の後継総裁を選出する2007年自由民主党総裁選挙への出馬を示唆した。
ところが福田康夫の出馬が伝えられると、津島派の石破茂や船田元は福田を、また鳩山邦夫や久間章生は同じく出馬を表明していた麻生太郎幹事長への支持を表明したため、額賀自身は福田と政策協定を結ぶ形で出馬を断念した。福田康夫内閣でも財務大臣に再任され、翌年の内閣改造に伴い退任。福田首相辞任に伴う2008年自由民主党総裁選挙では、津島派から石破が出馬する一方、前参議院議員会長の青木幹雄は与謝野馨を支持した。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、当初は茨城2区の民主党候補者の選定が遅れたため額賀の優勢が伝えられていたが、民主党新人の石津政雄に敗れ、重複立候補していた比例北関東ブロックで復活して9選。なお額賀が小選挙区で落選(比例復活)したのはこの選挙が初めてである。選挙後、引退を表明した津島雄二の後任として津島派の会長に指名され、この決定が9日の津島派臨時総会で了承され、会長に就任。
2012年の第46回衆議院議員総選挙で小選挙区で返り咲き10選。なお、当選時点での自民党の各派閥会長では病気の身であった町村信孝(後に75代衆議院議長)を除けば唯一、閣僚・衆参議長・党三役のいずれにも就いていない。
同年12月の第47回衆議院議員総選挙で小選挙区で11選。 
 
舛添要一

 

舛添要一(1948‐ ) 国際政治学者。株式会社舛添政治経済研究所所長、一般社団法人地域経済総合研究所評議員。参議院議員(2期)、参議院自由民主党政策審議会長、厚生労働大臣(第8・9・10代)、新党改革代表(第2代)、東京都知事(第19代)などを歴任した。
福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)に父・彌次郎、母・ユキノ(母は長野県駒ケ根市の小池家の出身)の長男として生まれた。4人の姉がいる。公式サイトによれば、舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系である。父は戦前の昭和5年の若松市議会選挙に立憲民政党陣営から立候補したこともあった(次点で落選)。若松で石炭商(現在のガソリンスタンドのような存在)を営んでいた父は、行き詰まって八幡東区で八百屋に転じたものの商いは厳しく、要一が小学2年の時に近くの材木店の火災で類焼して以降は酒に溺れ、一家は長女らの働きで糊口を凌いだ。八幡市立祝町小学校(現:北九州市立祝町小学校)、同大蔵中学校を経て福岡県立八幡高等学校では陸上部の短距離選手としてインターハイにも出場した。東京大学へ進学し、教養課程では佐藤誠三郎のゼミに所属。法学部では第3類(政治コース)に進学し、1971年6月に卒業した。
1971年7月、東京大学法学部助手に採用されヨーロッパ政治史を専攻した。東大では篠原一、岡義達らの指導を受けたが、間もなく渡仏。蔵書資料や指導教官など東大の研究環境の悪さに辟易しての決断だったが、当時、助手の身分での留学は異例で始末書まで書かされた。日仏学院、グルノーブル大学にてフランス語研修を受けた後、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ国際研究大学院(HEI)研究員としてフランス外交史の研究を行った(主に戦間期フランスの安全保障政策の研究)。1979年に東京大学教養学部助教授に就任(政治学)。フランスを初めとする欧州の政治・外交・安全保障に関する研究を専門とし、国際関係論などを講じていた。
1980年代末から『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』『ビートたけしのTVタックル』などの討論番組に頻繁に出演した。1989年6月に東京大学の体質を批判して退官、舛添政治経済研究所を設立し独立する。独立後はバラエティ番組などにも活動の場を広げた。
1991年北海道知事選挙では自民党からの立候補が盛んに報じられ、舛添も別荘を所有する白老町に住民票を移すなど出馬準備を進めたが、事前調査で革新系現職横路孝弘との圧倒的な差を見て、出馬を辞退した。
以後も度々政界進出が噂されたが、後述の介護体験も一つのきっかけとなり、1999年東京都知事選挙に無所属で出馬。当初、出馬表明していた野末陳平は出馬を断念し、舛添を支援した。3位で落選したが84万票を獲得した。
2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に比例区から自民党候補として立候補し、158万8862票を獲得してトップ当選。参議院議員として政策部会に多く出席し、委員会でも多く質問に立った。2005年、自民党が結党50年に発表した憲法草案においては、党新憲法起草委員会の事務局次長として草案作成の取りまとめに大きな役割を果たした。こうしたことが青木幹雄、片山虎之助といった参院自民党幹部に評価され、2006年10月、安倍内閣発足に伴い当選1回ながら参院自民党の政策責任者である政策審議会長に就任した。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、再選を目指し自民党公認で比例区より立候補、与党への逆風の中で票を減らしたが、467,735票を獲得して自民党トップで当選した。選挙前後を通じて、党参院執行部の1人でありながら安倍内閣の政権運営を厳しく批判してきたが、2007年8月27日の第1次安倍改造内閣において厚生労働大臣に任命され、安倍晋三が首相を辞任した後の2007年9月26日に発足した福田康夫内閣、さらに2008年9月24日に発足した麻生内閣においても続投した。
2009年の第45回衆議院総選挙で自民党が歴史的な大惨敗を喫し、麻生内閣が総辞職したため、舛添は厚生労働大臣を退任した。その後、辞任した麻生に代わり谷垣禎一が新総裁に就任したが、舛添は総裁選の直後から執行部への批判を口にするようになり、たびたび離党・新党結成が取り沙汰された。舛添の動きは、自民党内で批判の的となり、2010年4月には、舛添を党から排除すべきとの意見も出た。
2010年4月22日、自民党に離党届を提出。矢野哲朗と共に改革クラブへの合流を表明し、入党する。同年4月23日、改革クラブの党名を新党改革に変更し、同党の代表に就任した。自民党党紀委員会は、政党票で当選した比例選出議員であることや新党結党首謀者として他の自民党国会議員(矢野哲朗、小池正勝)に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で舛添に対して除名処分を下した。
2013年6月7日、同年7月の第23回参議院議員通常選挙に立候補せず、議員の任期満了とともに党代表も辞任する意向を表明した。同年7月22日、新党改革代表を辞任。
2014年1月8日、2014年東京都知事選挙に無所属で出馬することを表明する。同年1月10日には自民党東京都連が支援することを発表し、同月15日には自民党本部で自民党幹事長の石破茂と会談した。自民党東京都連が舛添の推薦を決めたことを踏まえて、石破は「本部としてもしっかり支援していく」と述べた。しかし、同年1月15日に小泉進次郎が「一番苦しい時に『自民党の歴史的使命は終わった』と言って出て行った人だ。応援する大義はない」と述べたほか、舛添の前妻である片山さつきも「舛添氏は障害を持つ婚外子に対する慰謝料や扶養が不十分だ。解決されていない」と主張するなど、一部の党所属議員からは支援に対して反発の声が上がった。
その後、連合東京、公明党東京都本部、新党改革も支持を決める。一時、公明党幹事長の井上義久は「都本部から支援の要請があれば党本部としても支援したい」と政党を挙げての支援を示唆していた。民主党も当初は支援を検討していたが、細川護煕の支援に転じた。
東京新聞(中日新聞)が同年1月10日から12日にかけて実施し、13日に発表した世論調査によると、次期都知事にふさわしい候補予定者として舛添を挙げる意見が最も多かった。
同年1月14日、東京都庁舎で記者会見を開き、立候補を正式に表明。「私も(福島第一原子力発電所事故以来)脱原発を言い続けている」と述べ、細川護熙、宇都宮健児、鈴木達夫らと同様に脱原発を主張した。政策の3本柱として、「2020年東京オリンピック・パラリンピックの成功」「首都直下地震などに向けた災害対策」「社会保障対策」を訴えた。同年1月31日の記者会見では、「現在6%の再生エネルギーを20%にする」「東京を『特別経済特区』と位置付ける」「8000人の待機児童を4年間でゼロにする」と宣言した。街頭演説では、「都政の課題はエネルギー政策だけでなく、待機児童、多摩の格差是正、教育、高齢者福祉など、やらなきゃならないことがたくさんある」「『原発なしでも電気はある』と言うが、廃炉予定だった火力発電所を慌てて稼働してなんとか凌いでいる。燃料の98%は輸入で、昨年は3.6兆円もかかった。1日100億円かけて国民の暮らしをなんとか守ってきたが、これでは続かない。依存度を下げていくことは政治家であればみんな考えているが、それは都政ではなく、国政で腰を据えてやることだ」と話したほか、若者への雇用対策、東京を国家戦略特区とする構想などを訴えた。
同年2月9日に選挙が執行された結果、211万2979票を獲得し東京都知事に当選。同年2月11日に当選証書授与式が行われ、翌12日には東京都庁舎へ初登庁して第19代東京都知事としての職務を開始した。 
 
遠藤武彦

 

遠藤武彦(1938- ) 愛称はエンタケ。置賜農業共済組合組合長理事、山形県農業共済組合連合会会長理事、社団法人全国農業共済協会理事、山形県議会議員、衆議院議員(6期)、農林水産大臣(第45代)などを歴任した。
山形県米沢市出身。父は米沢市議会議長、山形県議をつとめ、山形農政に強い影響力を持っていた遠藤清海。現在の山形県立米沢興譲館高等学校を卒業後、1961年に中央大学文学部を卒業し、帰郷。県指導主事、米沢市農業協同組合理事などを務めた後、山形県議会議員(3期)を経て、1986年、第38回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選。以降、1度の落選を挟んで通算6回当選。
小選挙区比例代表並立制が導入された1996年に近藤鉄雄と党公認を争ったが、敗れて離党。しかし、閣僚経験者の近藤を破って当選し、自由の会を経て復党した。以後は近藤の長男の洋介と激しい選挙戦を繰り広げた。
党内では近未来政治研究会に所属した。総務、農水、通産の各政務次官、農林水産副大臣のほか、党副幹事長、党国際局長、党総務局長などを歴任。
2007年8月27日、第1次安倍改造内閣に農林水産大臣として初入閣。しかし金銭問題でわずか8日間で辞任。記者団から「農林水産大臣として何か功績は残せましたか?」と聞かれた遠藤は「結果として辞任に至ったことは大変残念」と答えた。後任には前任者の若林正俊が再度就任した。
2008年9月、次期衆院選に立候補せず、健康上の事情を理由に政界を引退する事を表明。
2010年4月、春の叙勲において旭日大綬章を受章した。 
選挙区支部への不適切献金
安倍改造内閣にて農林水産大臣就任直後の2007年8月30日、遠藤が代表を務める自由民主党山形県第二選挙区支部が、山形県家畜商業協同組合から不適切に献金を受け取っていたことが発覚した。
同組合は山形県第二選挙区支部に5万円を献金した。しかし、山形県家畜商業協同組合は独立行政法人農畜産業振興機構から受け取る交付金や奨励金の給付決定通知書を2004年9〜12月に受領していた。政治資金規正法では国からの補助金を受ける法人に対し交付決定1年以内の献金を禁じている。ただ、総務省は「国費の事業でも独立行政法人や都道府県が交付を決定している場合は違法とまでの解釈はしていない」としている。
遠藤は、同組合に献金を返金し山形県選挙管理委員会に政治資金収支報告書の訂正を届け出たうえで、「事務所費などの支出については徹底的に洗ったつもりだったが、お受けした分は手抜かりがあった」と謝罪した。遠藤の事務所は「補助金を受けている団体との認識が無く、受け取った後の調べも不十分だった。こちらのミスでご迷惑をおかけし、申し訳ありません」と話しており、故意に受け取ったわけではないと釈明している。だが、内閣官房長官の与謝野馨 は「法律や規則で定めたことにミスとはいえ、きちんとこたえていなかったことは残念なことだ」と苦言を呈した。しかし上記のように、総務省は「国費の事業でも独立行政法人や都道府県が交付を決定している場合は違法とまでの解釈はしていない」としている。
置賜農業共済組合掛金不正受給問題
2007年9月1日、遠藤が組合長を務める置賜農業共済組合(米沢市)が1999年に、自然災害による果樹の被害に対して、その損害補償を目的とした果樹共済を農業災害補償法に基づき申請した中で、ぶどう共済の申請に関して261戸中105戸が当時の組合課長らによる農家名義の無断使用による水増し申請であったことや、その申請の結果として共済掛金の国庫負担分である約115万円を補助金として不正受給していたことが取り上げられた。
この不正受給については2004年に会計検査院の実地検査で判明し、山形県に指摘。組合は当時の課長らを厳重注意処分とした。その後、返還方法について県と協議し農林水産省からの認可待ちであった2007年5月に、未処理事項として会計検査院から再度指摘されたのである。
遠藤は当初、組合長については辞任することを表明したが大臣職の辞任については否定したことから、7月の参院選で多数派となった民主党など野党は9月10日召集予定の臨時国会において参議院で遠藤の問責決議案を提出・可決する方針を示唆し辞任を迫った他、与党である公明党からも説明責任を果たすべきであるとの声が挙がり、2007年9月3日に大臣職を辞任した。
大臣就任期間は8日間であり、戦後政治史の短命閣僚としては竹下内閣の長谷川峻法相がリクルート事件に絡み4日間で法相辞任した記録、麻生内閣の国土交通大臣・中山成彬が度重なる舌禍により5日間で国交相辞任した記録に次ぐ。ただ、長谷川は法相就任以前に計3年近く労相や運輸相などの閣僚を歴任、中山も国交相就任以前に文科相を1年1ヶ月歴任しており、戦後通算在任最短記録では遠藤が最短記録となる(遠藤以前の戦後通算在任最短記録1位だったのは羽田内閣の永野茂門の11日間であり、戦前を含めた通算在任最短記録は海軍大臣・野村直邦の5日間がある)。 
 
鴨下一郎

 

鴨下一郎(1949- ) 医師、医学博士。自由民主党所属の衆議院議員(8期)。環境大臣(第9・10代)、厚生労働副大臣(第1次小泉第1次改造内閣・福田康夫改造内閣)、衆議院厚生労働委員長、自民党国会対策委員長(第54代)、自民党幹事長特別補佐等を歴任。
東京都足立区青井生まれ。足立区立第四中学校、東京都立足立高等学校卒業。中学・高校の2年先輩にビートたけしがいる。都立足立高校卒業後、日本大学医学部医学科へ進学。日本大学大学院医学研究科博士課程を修了し、医学博士の学位を取得。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧東京10区(定数5)から出馬し、公明党の山口那津男に次ぐ2位で初当選。1994年、羽田内閣で環境政務次官に就任するも、羽田内閣は64日で退陣に追い込まれた。同年末、日本新党が解党し、新進党結党に参加。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では東京13区から新進党公認で出馬し、再選。
1997年7月、新進党を離党し、同年12月に自由民主党に入党。2000年の第42回衆議院議員総選挙では自民党公認で東京13区から出馬し、民主党の城島光力らを破り3選(城島も比例復活)。2002年、厚生労働副大臣に就任。2003年の第43回衆議院議員総選挙では前回下した城島に敗れるも、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、4選。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、前回敗れた城島に比例復活を許さず、東京13区で5選。2007年8月、安倍改造内閣で環境大臣に就任し、初入閣。入閣後間もなく資産等報告書の記載の不備が発覚した。安倍晋三首相が内閣改造からわずか1ヶ月余で辞意を表明した。当時は事務所費架空計上問題が騒がれ、安倍内閣の農林水産大臣だった松岡利勝が自殺する事態にまで発展しており、新内閣で鴨下が再任されるかが一部で注目されたが、福田康夫内閣で環境大臣に再任された。
2008年の福田康夫改造内閣では、大臣経験者ながら再び厚生労働副大臣(年金担当)に就任。しかし福田康夫首相も内閣改造から1ヶ月余で辞任し、福田の辞任を受けて行われた2008年自由民主党総裁選挙では、石破茂の推薦人代表を務めた。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人の平山泰朗に東京13区で敗れたが、比例東京ブロックで復活し、6選。翌2010年、山本有二が立ち上げた政策グループのぞみに参加。2011年、「日本の復興と再生を実現する議員連盟」の設立を呼びかけ、同議連の世話人に就任。同議連には民主、自民、公明の各党から計162名の国会議員が参加した。
2012年自由民主党総裁選挙では、石破茂の推薦人代表を務める。2012年9月、安倍晋三執行部において幹事長代理に就任。同年12月、自民党国会対策委員長に就任。2013年10月11日、体調不良のため自民党国会対策委員長を辞任した。2014年2月17日、新設された幹事長特別補佐に就任。 
 
高村正彦

 

高村正彦(1942- ) 弁護士。自由民主党所属の衆議院議員(12期)、自民党副総裁(第13代)。経済企画庁長官(第50代)、法務大臣(第70・71代)、防衛大臣(第3代)、外務大臣(第127・141代)、衆議院農林水産委員長、番町政策研究所会長(第3代)を歴任した。徳山市長、衆議院議員を務めた高村坂彦の四男。
山口県徳山市(現周南市)出身。父・高村坂彦の衆議院議員初当選を機に東京都へ移る。東京都立立川高等学校、中央大学法学部法律学科卒業。23歳で司法試験に合格。司法修習第20期を修了し、1968年に弁護士登録。同期に江田五月(元参議院議長・法務大臣・科学技術庁長官)、横路孝弘(元衆議院議長)、神崎武法(元公明党代表、郵政大臣)、村井敏邦、五十嵐敬喜がいる。
1980年、父・高村坂彦の引退に伴い、第36回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧山口2区から出馬し、初当選。同期で中大法学部の同窓に長野祐也(中曽根派)がいる。小選挙区比例代表並立制導入後は山口1区から出馬し、中選挙区時代も含めて通算12期連続当選している。早くから河本敏夫率いる新政策研究会の次世代を担う領袖候補に目されていた。
1994年、自社さ連立政権の村山内閣で経済企画庁長官に任命され、初入閣。当時大学生だった長男を秘書官に任命し、批判を受けた。1995年、所属していた派閥の名称が、新政策研究会から番町政策研究所に変更される。
1996年には第2次橋本内閣では、閣僚経験者でありながら池田行彦外務大臣の下で外務政務次官に就任し、ペルー日本大使公邸人質事件では解決に向けて奔走した。
1998年、小渕内閣で外務大臣に就任。ガイドライン関連法の成立に尽力し、国会答弁では「スーパー政府委員」の異名を取った。小渕改造内閣でも留任。2000年には第2次森改造内閣で法務大臣に就任し、この頃から総裁候補の1人に目されるようになった。
2000年7月、番町政策研究所(旧河本派)の会長に就任。河本敏夫の死去した2001年以降、旧河本派は、高村派と称される様になる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の「YKK」に森喜朗を加えた「MYKK」に高村を加えて、「MY3K」と称されることもあった。この頃、小泉の後継を窺い、麻生太郎、古賀誠、平沼赳夫らと共に士志の会を結成した。
2003年、自由民主党総裁選挙に出馬。高村派所属議員の他、宏池会堀内派の林義郎やその長男・林芳正、大勇会の鈴木恒夫や森英介、平沢勝栄らが高村の推薦人に名を連ね、保守党党首から自民党に復党した野田毅も高村を支援した。結果は最下位(54票)に終わったものの、議員票では高村派議員数の16人を大きく上回る47票を獲得。一定の存在感を示した。
総務会で郵政民営化法案の提出に反対した。衆議院本会議の採決では棄権した。後に参議院の審議で付帯決議付きの法案が可決され、過疎地の郵便局も存続の見通しが立ったため、衆議院の解散後に賛成の立場を明らかにし、自民党の公認を受けた。
2006年自由民主党総裁選挙では、同じ山口県選出の安倍晋三を高村派を挙げて支持し、安倍内閣では内閣府特命担当大臣(金融担当)に山本有二、在職中に死去した農林水産大臣・松岡利勝の後任に赤城徳彦を送り込んだ(赤城は事務所費問題が発覚し短期間で更迭)。2007年、第1次安倍改造内閣では防衛大臣に任命される。安倍の後継総裁を選出する2007年自由民主党総裁選挙では、早くから麻生太郎包囲網に参加し、福田康夫を支持。
福田康夫内閣では外務大臣に任じられる。福田康夫改造内閣でも再任された。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、全国的に自民党への猛烈な逆風が吹き荒れる中、保守王国・山口県で圧倒的な強さを見せ、山口1区で民主党新人の高邑勉を破り、10選(派閥領袖で小選挙区で当選したのは高村正彦、麻生太郎、二階俊博、古賀誠の4人)。高邑勉には5万票弱の大差をつけたが、比例復活を許した。山口1区で次点以下の候補が比例復活は初。
2012年自由民主党総裁選挙では、再び安倍晋三への支持を表明。総裁に当選した安倍の下、自民党副総裁に起用された。番町政策研究所の会長職は、副総裁を退任した大島理森が継いだ。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、山口1区で11選。
2013年3月25日、横綱審議委員会委員に就任。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、山口1区で12選。 
 
与謝野馨

 

與謝野馨(1938- ) 勲等は旭日大綬章。学校法人文化学院院長・理事。報道や政治活動においては新字体で与謝野 馨(よさの かおる)と表記されることが多い。衆議院議員(10期)、衆議院議院運営委員長(第50代)、文部大臣(第117代)、通商産業大臣(第63代)、自由民主党政務調査会長(第46代)、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策、規制改革担当)、内閣官房長官(第74代)、拉致問題担当大臣、財務大臣(第11代)などを歴任した。
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に与謝野秀・与謝野道子の長男として生まれる。父・秀(しげる)は歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻の二男で外交官(戦前は外務省情報部長、調査局長などを経て在外公館勤務)。生後すぐに父が中国・北京に赴任したため、馨も0歳にして北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母・晶子が死去している(祖父・鉄幹は馨が生まれる3年前に死去しており、会ったことはない、また祖母・晶子との思い出も殆どなく、祖父母は身内ではなく、教科書に載っている歴史上の人物であるような気がすると自身の著書で著している)。戦時中、父はベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母とともに交番に連れて行かれたこともあったという。戦争末期には東京大空襲にも遭遇している。港区立麻布小学校卒業後、麻布中学校に進学。父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学し、平沼赳夫の同級生となる。東大受験に失敗するが、平沼によれば卒業式で表彰されるような優等生だった。駿台高等予備校(現駿台予備学校)で1年間の浪人を経て東京大学文科I類に入学。いわゆる全学連世代だが、学生運動には一切関わらなかった。駒場時代は授業に失望して文学書を濫読。学生時代の記憶に残る本として有島武郎の「カインの末裔」、後々まで自分の思考に影響を与えた本として、碧海純一「法哲学概論」、団藤重光「刑法綱要」などを挙げている。硬式野球部に所属し、マネージャーを務める。このときの2年後輩に新治伸治がいる。
1963年東京大学法学部第3類(政治コース)卒業(三井住友銀行特別顧問の岡田明重は東大法学部の同期)。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する。日本原子力発電では、当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事していた。会社の命により、民社党の核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行、スイス、ユーゴスラビア、イギリス、イタリア、ドイツなどを訪問した。調査団メンバーは後の委員長佐々木良作を始め曽祢益、岡沢完治、渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。佐々木と共にドイツ滞在中には中曽根康弘と邂逅、2人の政治家の食事のお供などをしたが、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。
1968年日本原子力発電を退職し、中曽根の秘書となる。この頃読んだシュテファン・ツヴァイクの「ジョセフ・フーシェ」は愛読書の一つであり、著書などでフーシェに触れることが多い。
1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京都第1区から自由民主党公認で立候補するが落選。1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補し初当選。中曽根派に所属する。
1979年の第35回衆議院議員総選挙で当時の大平正芳首相が打ち出した一般消費税による逆風を受け落選したが、1980年の第36回衆議院議員総選挙で、日本社会党委員長の飛鳥田一雄を抜きトップ当選し返り咲いた。以後、科学技術・通商産業関係を皮切りに、通商産業政務次官、自民党商工部会長、衆議院商工委員長などを歴任し、商工族、政策通として頭角を現す。中曽根派に所属しながらも、竹下派の実力者であった梶山静六の門下ともいうべき関係を形成。梶山は自身の国対委員長、幹事長、官房長官在任時に、与謝野をそれぞれ国対筆頭副委員長、議運委員長、官房副長官と常に身近において重用し続けることになる。
1994年、自民党が政権復帰した村山内閣(自社さ連立政権)で文部大臣として初入閣。1996年、自民党単独内閣となった第2次橋本内閣では、梶山内閣官房長官の下で内閣官房副長官(政務)に就任。通例なら長官とともに総理総裁派閥から起用されるポストだが、梶山の篤い信頼のもとで、他派閥ながら橋本政権を中枢で支えた。 1998年、橋本内閣の次の小渕内閣で通産大臣に就任。通産大臣でありながら、所管外(法務省管轄)の通信傍受法成立に力を注ぎ、『噂の眞相』などに「盗聴法成立の黒幕」と批判された。
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙で民主党の現職・海江田万里に敗れ、重複立候補していた比例代表東京ブロックでの復活も果たせず落選。自民党は民主党に都市部を中心に議席を奪われ、「1区現象」と呼ばれる事態に陥ったが、閣僚経験者で総裁候補とも目されつつあった与謝野の落選は、1区現象の象徴として大きく報じられた。なお、与謝野の落選について小泉純一郎は後に、「(与謝野さんが)落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていただろう」とも述べている。
浪人時代はCS放送「朝日ニュースター」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになった他、復活を期した2003年の総選挙前に派閥を離脱した。これには、当時所属派閥であった志帥会における亀井静香との権力抗争での敗北という事情もあった。
2003年、第43回衆議院議員総選挙で選挙区では僅差で海江田に敗れたが、比例復活で3年ぶりの国政復帰。2004年、自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力、翌年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙では、海江田に対して比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収め、5年前の雪辱を果たした。2005年発足の第3次小泉改造内閣では、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策担当)に就任。2006年、小泉内閣の終わり近くに景気が少し持ち直してくると、消費者物価指数がマイナスにもかかわらず、量的緩和解除のゴーサインを出した。「デフレのほうが良い。インフレは絶対悪だ。だから物価上昇率がプラスになったら悪魔である」と語っていたという。
2006年9月26日に安倍政権が発足、安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという。結局自民党税制調査会会長に就任したが、就任直後の10月に口内に痛みを覚えるなどしたため入院し、11月には税調会長を辞任、療養生活に入った。
2007年1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、同年4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開した。同年6月8日に発売された『文藝春秋』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。2007年8月27日発足の第1次安倍改造内閣において官房長官に就任。改造にあたって安倍は菅義偉の登用を模索したが、菅の事務所費問題から断念。その後は町村信孝の就任が確実視されていたが、最終的には与謝野を官房長官に起用した。2007年9月12日、所信表明演説直後に突如安倍が辞任表明。その後安倍は体調不良で入院という事態となった。安倍が入院しても首相臨時代理は置かれなかったが、官房長官である与謝野が官邸を事実上仕切り、「与謝野官邸」と呼ばれた。また、同様に党務を仕切った幹事長の麻生とともに、麻生クーデター説のやり玉の一人に挙げられ、強く批判された(その後この説はデマと判明)。同年9月26日の福田康夫内閣発足に伴い内閣官房長官を退任した。
福田政権では自民党税制調査会の小委員長に就任。政権の指南役として薬害肝炎問題の議員立法を提案し、解決に導くなど存在感を見せる。
10月の大連立構想においては、かつての中曽根・渡邉との関係から、ある程度の動きは掴んでいたようである。自身も大連立には肯定的な発言をしているが、特に具体的な行動は起こさなかった。福田・小沢会談の直前に小沢と囲碁で対決し、メディアから大連立に関する話し合いが行われたと報道されたが、与謝野本人は大連立とは全く関係が無いと主張している。
2008年2月20日、派閥横断型勉強会「正しいことを考え実行する会」(正しい議連)の活動再開を機に、同会に参加する。8月2日、福田内閣改造により内閣府特命担当大臣(経済財政政策、規制改革担当)に就任。福田首相の辞任表明に伴う自民党総裁選挙に出馬。財政再建を訴えて2位につけ、麻生太郎内閣では経済財政政策担当相に再任した。
2009年2月17日、財務大臣並びに金融担当大臣である中川昭一が辞任したことに伴い、その後任に指名されたため、与謝野一人で経済関連3閣僚を兼任することとなった。兼任は予算成立後に解かれる予定だったが、結局7月2日の閣僚補充で経済財政担当大臣に林芳正が任命されるまで続いた。同月行われた東京都議選で自民党が敗れたことにより党内の麻生おろしが最高潮に達すると重要閣僚でありながら麻生の自発的辞任を求める立場に立ったが、最終的には麻生内閣のもとでの衆議院解散に同意した。第45回衆議院議員総選挙では再び民主党の海江田万里に2003年以来3度目の敗北を喫するも、比例代表で復活当選。9月4日と9月5日に開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議には病気を理由に出席しない意向を示した。同年9月16日、麻生内閣総辞職により財務大臣を退任した。
その後は衆議院予算委員会に所属した。2010年2月12日の衆院予算委員会において、当時の鳩山由紀夫首相の偽装献金問題を追及し、鳩山を「平成の脱税王」と呼んだ。さらに、その弟で与謝野と当選同期の鳩山邦夫の「うちの兄貴はしょっちゅう母(鳩山安子)のところへ行って子分に配る金、子分を養成する金が必要だと言って金をもらっていた」という発言を引き合いに出し、鳩山を厳しく追及した。
文藝春秋(2010年4月号)で自民党執行部を批判する記事を書き、同年4月3日自由民主党総裁の谷垣禎一と直接会談し、4月7日付で離党届を提出。会談で与謝野は谷垣に「自民党分裂とはとらないでください、大げさに感じないでください」と述べ、会談後も記者に「“自民党の分裂ではなく、一個人・与謝野馨が去ったということだと考えてほしい”と伝えた」と述べ、自身らの離党は自民党分裂ではないとした。4月10日の午前には「反民主・非自民を貫く」と述べ、結成を予定する新党は反民主の党であるとの認識を示し、4月10日午後、平沼赳夫、園田博之らとともに、新党「たちあがれ日本」の結党を正式に発表した。しかし、そんな与謝野の思いとは裏腹に4月27日、自民党党紀委員会は政党票で当選した比例選出議員であることや新党結党首謀者として他の自民党国会議員(園田博之・藤井孝男・中川義雄)に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で与謝野に対して除名処分が下った。
2010年12月に民主党政権からたちあがれ日本の連立政権参加の打診を受けたが、与謝野が賛成する中で他5人が反対し、党内で孤立。2011年1月13日、平沼代表に離党届を提出、たちあがれ日本から離党した。翌1月14日、菅再改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(経済財政政策、男女共同参画、少子化対策)に就任し、社会保障と税の一体改革担当大臣も兼務した。1月19日に無所属議員として衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、再び与党議員となった
与謝野の民主党政権参加には、除名処分にした自民党など野党から強く批判をされている。与謝野はたちあがれ日本の離党において、「私は『打倒民主党』という言葉を使った覚えはない」と弁明しているが、朝日新聞2010年4月7日に掲載されたインタビュー記事では与謝野は「打倒民主党」という言葉を使っており、与謝野のHPにも掲載されている。また入閣から7ヶ月前の2010年6月16日には衆議院本会議で菅内閣不信任決議に賛成票を投じている。
2011年9月、野田内閣発足に伴い経済財政政策担当大臣を退任。同月5日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」を離脱。無所属議員となった。
菅直人内閣での閣僚退任の後、体調を崩して2012年6月から約2ヶ月間入院。その間に咽頭がんの修復手術を受けたがその影響で声を失い、筆談での会話を余儀なくされた。声のリハビリなども開始していたが、早期の回復は困難なため、9月5日になって次期第46回衆議院議員総選挙への出馬をあきらめ、政界引退を表明した。水面下で1区新人山田美樹の支援目的で自民党への復党を打診したが、「節操がなくなる」とされ、認められなかった。2013年4月、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、内閣府特命担当大臣等として国政の枢機に参画した」功労により、旭日大綬章を受章した。 
 
泉信也

 

泉信也(1937‐ ) 運輸官僚。勲等は旭日大綬章。参議院議員(3期)、国家公安委員会委員長(第76・77代)、内閣府特命担当大臣(防災担当、食品安全担当)などを歴任した。
福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。福岡県立明善高等学校、九州大学工学部土木工学科卒業。
運輸省に入省、本省港湾局開発課長、同建設課長、第四港湾建設局長などを歴任した。また、和歌山県庁に一時出向しており、土木部港湾課にて課長を務めた。1991年4月、大臣官房審議官を最後に退官。なお、この間には、中国、フィリピン、ペルー、メキシコなどの発展途上国を訪問しており、技術協力等の活動を展開した。また、アメリカ合衆国との間で行われた日米建設交渉にも出席している。
1992年の第16回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で比例区から出馬し初当選。翌1993年には自民党を離党し、新生党の結党に参加。その後、新進党を経て、1998年の自由党結党に参加する。2000年には保守党結党に参加。
自公保連立政権である第2次森政権では、第2次森内閣の発足に伴い運輸総括政務次官に就任し、続く第2次森改造内閣(中央省庁再編前)では運輸総括政務次官に加えて北海道開発総括政務次官にも就任した。さらに、第2次森改造内閣(中央省庁再編後)では、新設された国土交通副大臣に就任した。
自公保連立政権である第1次小泉政権では、2度目の内閣改造による第1次小泉第2次改造内閣にて、経済産業副大臣に就任した。さらに、第2次小泉政権でも、第2次小泉内閣発足に伴い、再び経済産業副大臣に就任した。なお、第1次小泉政権下では、与党の一角を占めていた保守党が解散し、新たに保守新党を結成している。さらに、第2次小泉政権下では、保守新党が解党したため、自公保連立政権から自公連立政権となった。それにともない、保守党に所属していた泉も、保守党から保守新党を経て、2003年に自民党に復党している。党内では新しい波(のちに志帥会に合流し解散)に所属し、事務総長を務めた。
2007年8月27日、第1次安倍改造内閣にて初入閣し、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(防災担当)、および、内閣府特命担当大臣(食品安全担当)の3つのポストを兼務する。
9月26日、福田康夫内閣では、再び国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(防災担当)、および、内閣府特命担当大臣(食品安全担当)の3ポストを兼務した。内閣府特命担当大臣(防災担当)在任中、2008年6月14日に岩手・宮城内陸地震が発生した事を受けて、福田の要請に基づいて現地へ赴き、視察した。翌15日に東京に戻って福田に視察内容の報告を行った。17日に衆議院にて、20日には参議院において開催された災害対策特別委員会において、岩手・宮城内陸地震の被害状況及びその対応について、報告を行った。なお、その際に内閣府の事務方により準備された読み上げ原稿は、内閣府防災情報のページにおいて、公開されている。
2010年に政界引退。同年11月、秋の叙勲において、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、国家公安委員会委員長等として国政の枢機に参画した」功労により、旭日大綬章を受章した。 
 
上川陽子

 

上川陽子(1953- ) 自由民主党所属の衆議院議員(5期)。第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画)を務めた他、法務大臣(第95・96代)、総務副大臣(第2次安倍内閣)、総務大臣政務官(第3次小泉改造内閣)、衆議院厚生労働委員長等を歴任した。
静岡県静岡市生まれ。静岡雙葉中学校・高等学校、東京大学教養学部教養学科(国際関係論専攻)。大学卒業後、三菱総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)に入所し、研究員を務める。1988年、アメリカ合衆国のハーバード大学ケネディスクールで政治行政学修士号を取得した。その後はアメリカ合衆国議会のマックス・ボーカス上院議員の政策スタッフを務める。同年12月、株式会社グローバリンク総合研究所代表取締役に就任。
1996年、第41回衆議院議員総選挙に静岡1区から無所属で出馬したが、得票数5位で惨敗。その後、自由民主党に入党したが、2000年の第42回衆議院議員総選挙には再び無所属で静岡1区から出馬し、自民党元職の戸塚進也、民主党元職の牧野聖修(比例復活)、公明党前職の大口善徳らを僅差で振り切り、初当選した。自民党公認候補がいながら静岡1区での出馬を強行したため自民党を除名され、同じ保守系無所属で当選した衆議院議員9人で院内会派「21世紀クラブ」を結成。同年11月の加藤の乱では、森内閣不信任決議案に反対票を投じる。2001年、自民党に復党した。2003年の第43回衆議院議員総選挙では、静岡1区で牧野に敗れたが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、再選。2004年10月、自民党女性局長に就任。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、静岡1区で牧野に比例復活すら許さない大差をつけ、3選。第3次小泉改造内閣で総務大臣政務官に任命された。
2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画)に任命され、当選3回で初入閣した。続く福田康夫内閣でも再任され、新たに公文書管理担当の国務大臣の補職辞令も受けた。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、静岡1区で牧野に敗れ、比例復活もならず落選した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、静岡1区で民主党元職の牧野聖修、みんなの党新人の小池政就らを破り、国政に復帰した(小池は比例復活)。2013年9月、第2次安倍内閣で閣僚経験者ながら総務副大臣に任命された。2014年9月、第2次安倍改造内閣発足により総務副大臣を退任し、衆議院厚生労働委員長及び新設された自由民主党女性活躍推進本部長に起用される。
2014年10月、公職選挙法違反の疑いで辞任した松島みどりの後任の法務大臣に任命され、7年ぶりに2度目の入閣。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、静岡1区で民主党元職の牧野、維新の党前職の小池らを今回は比例復活も許さず破り、5選。選挙後に発足した第3次安倍内閣においても法務大臣に再任された。
2015年6月、2007年に発生した闇サイト殺人事件で死刑が確定し、名古屋拘置所に収監され再審請求中だった死刑囚1名の死刑を執行した。同年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣の発足に伴い、法務大臣を退任。その後、自民党憲法改正推進本部事務局長に就任。
 
岸田文雄

 

岸田文雄(1957- ) 自由民主党所属の衆議院議員(8期)、外務大臣(第147・148代)、宏池会会長(第8代)。内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・規制改革・国民生活・再チャレンジ・科学技術政策)、消費者行政推進担当大臣、宇宙開発担当大臣、自民党国会対策委員長(第52代)などを歴任。中小企業庁長官、衆議院議員を務めた岸田文武は父。戦前戦後に衆議院議員を務めた岸田正記は祖父。参議院議員・経済産業大臣を務めた宮澤洋一は従兄弟。
東京都渋谷区出身。本籍地は広島県広島市比治山町(現・南区比治山町)。父・岸田文武は広島県出身の通産官僚。小学校一年生から三年生まで、父の仕事の関係でニューヨークに居住し、パブリックスクールに通う。帰国後、千代田区立麹町小学校の三年次に転入し、千代田区立麹町中学校を経て開成高等学校を卒業。1982年早稲田大学法学部卒業、同年日本長期信用銀行に入社。
1987年、父・衆議院議員岸田文武の秘書となる。1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続7選。2000年の宏池会分裂に伴い、堀内派の旗揚げに参加。2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・規制改革・国民生活・再チャレンジ・科学技術政策)に任命され、初入閣した。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・規制改革・国民生活・科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。併せて消費者行政推進担当大臣、宇宙開発担当大臣の特命事項も任された。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任(2012年9月退任)。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第8代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し、第2次安倍改造内閣で留任、更に2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決する事で合意する日韓合意がなされた。2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う。同年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドームなどについて説明を行う。参議院選挙後、同年8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任。 
 

 

 
野党時代諸話

 

 

 

 

 

 

 

 
諸話

 

キングメーカーに躍り出た麻生太郎 2012/9
 総選挙を前に強まる「民自公大連立」の流れ。その中心に元首相がいる。
韓国が竹島を不法占拠している、と明言した8月24日夕の野田佳彦首相の記者会見。“肝”はこの部分にあった。
「当事者同士がいかなる場合においても大局を見据え、決して冷静さを失わないということもかかせない。価値を共有する大切なパートナーである隣国・韓国の賢明なみなさん、主張に違いはあってもお互いに冷静に対応すべきだ」
一見、冷静対応を呼び掛けているように見えるが、首相はこの前段で、李明博大統領の上陸を非難している。韓国側からすれば、竹島上陸を「大局を見据えず、冷静さを失った」行為と位置付けられたに等しい。韓国外交通商省の報道官は1時間後に記者会見し、「分別がなかったり、慎重さに欠ける行動をしたことはない」と反論した。
竹島上陸の4日後、植民地支配からの解放を祝う「光復節」を翌日に控えた14日に、李大統領が天皇訪韓は「謝罪」が前提と発言した際にも、野田は周囲に「最低だね……」と漏らしている。
野田にしてみれば、24日の会見は、国内向けには外交問題における「毅然とした」対応をアピールするとともに、対外的には日韓の一連の軋轢を李個人の言動に起因するものと位置付けることで、次の政権との関係修復の道をギリギリ残したつもりだった。
だが、そもそも、この軋轢のタネを撒いたのは野田自身だった。発端は昨年12月18日、京都迎賓館で行われた日韓首脳会談だった。
「韓国と日本の間で障害となっている従軍慰安婦問題を優先的に解決する本当の勇気を持つ必要があります」。会談冒頭、慰安婦問題についてこう口火を切った李大統領に対し、野田は「日韓経済連携協定(EPA)の交渉を早く再開したいと思います」とテーマを変えてしまったのだ。
当然、李は「経済関係の前に従軍慰安婦問題について話さねばならない」と色をなして野田を非難。野田は「慰安婦問題は決着済みだ」と紋切り型の答えをして、火に油を注ぐ結果となった。
「内憂外患」は常にセットでやってくる。親書受け取り拒否の応酬に至って、日韓関係のテンションはピークに達したが、今の野田の頭を占めるのは、むしろ内憂の方であろう。衆院解散の時期を見定めつつある野田にとって、内憂とは、橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会の動向に他ならない。
野田首相の記者会見の4日前の20日。大阪市内のホテルで、橋下とみんなの党の渡辺喜美代表が、向かい合っていた。議題は両者の合流問題。国会議員もおらず、国政選挙も戦ったことのない維新の会は、政党ではなく政治団体に過ぎない。政党化にあたってはみんなの党の力を借りるはずと見られていたが、ここに来て、国会議員を引き入れ、独自に政党化する構想が強まっていた。
「対等合併する形で、政党を立ち上げよう」。所属議員が個別に吸収されてしまうことをおそれた渡辺がこう提案したが、橋下の答えは「数ありきではなく政策で結集すべきです」。地方の政治団体が、小なりといえど衆参両院に議席を持つ政党との対等合併をあっさり拒否するあたりに維新の会の勢いがうかがえる。
「橋下―安倍」密談の真相
野田がもっとも警戒するのは、維新の会と自民党の一部が連携する動きをみせていることだ。
橋下―渡辺会談の直前、8月15日には、朝日新聞が橋下による安倍晋三元首相への合流打診を報じたが、両者の接近は、実は2月26日まで遡る。
この日、安倍は大阪市で開かれた日本教育再生機構主催の教育シンポジウムに招かれていた。同機構の理事長で安倍内閣の有力ブレーンだった八木秀次がシンポジウム後の夜、安倍と維新の会幹事長の松井一郎大阪府知事をつなぎ、橋下との会談へ布石が打たれた。
3月12日夜、安倍は翌日に予定する学生のシンポジウム「Japan Youth Summit」で講演するため大阪市のリーガロイヤルホテル大阪に投宿していた。
午後9時すぎ、7階にある掘り炬燵式の特別和室に通された安倍の前に座っていたのは、橋下徹その人だった。橋下は人目を避けるように、ホテル裏口からエレベーターに乗り込み、安倍を待っていた。仲居の出入りを最小限にするため、用意された和食弁当を前に、ビールで杯を交わした後、橋下が切り出した。
「安倍内閣で成立させた新教育基本法を実現するために、私は大阪で教育改革に取り組んでいます。安倍先生とは政策が一致している。一緒にやっていきたいと考えています」
新教育基本法は「我が国と郷土を愛する」と明記するなど保守色が色濃い。安倍は橋下の言葉に頷きながら「一緒にやれるところは協力したい。目指す政策をどう実現するかとの観点から考えていきたい」と連携に前向きな考えを伝えた。
2日前に発表したばかりの維新の会の政策「船中八策」のたたき台をテーブルに置き、個別に政策論を交わして、○△と記号を付けていくと、大半の政策で方向性の一致を確認した。「安倍さんが首相になってくれれば、全面的に協力できる」と橋下が言うと、陪席した維新の会幹事長の松井が口を挟んだ。
「安倍総理、橋下総務大臣でもよろしいんじゃないですか。総務大臣ならば大阪市長との兼任も可能になる……」
この言葉に橋下も黙って頷いた。
さすがに、安倍サイドで同席した参議院自民党幹事長代行の衛藤晟一が「総理大臣までやった安倍さんが自民党から出て行くのは不可能だ。9月の党総裁選の結果を見てから判断してはどうか」と遮り、合流話は一時棚上げとなった。
だが、この会談の意味は重い。
安倍は首相退陣を余儀なくされた07年秋の雪辱を果たそうとポスト谷垣を射程に入れる。党内や世論では「自民党転落の引き金となった」と批判の声が強いが、党内外の保守層にはなお待望論が根強い。9月の総裁選でポスト谷垣の座を射止めれば、次期衆院選後に、大阪維新の会と連立を組む芽が膨らむ。
仮に総裁選で敗れても、一定の得票があれば、党内で影響力を行使して維新の会との連携カードを生かせる。さらに橋下と安倍の会談において、もっとも熱を帯び、両者の見解が一致したのは、集団的自衛権や憲法9条に関する議論だった。橋下との連携の先に、安倍は秘かに「憲法改正」を思い描く。
一方、社会保障と税の一体改革で3党合意を結んだ野田首相と自民党の谷垣禎一総裁の目指す方向は安倍とは異なる。野田と谷垣の表向きのさや当てとは裏腹に地下では、民主、自民両党で協力していく水脈が流れる。「民主・自民・公明が消費税増税法案を可決し、特例公債法を上げて話し合いで解散する。総選挙後、第1党になったところに他党が協力する」。こう繰り返す森喜朗元首相の言葉がそれを裏付ける。
「解散しろ、解散しろとばかり言って、本当に自民党は勝てると思っているのか。自民、民主、公明3党の一体化を具体的なものにしないと政治は安定しないんだぞ」。森は7月20日夜、解散に向けて攻勢を強めた谷垣禎一総裁と都内の日本料理店で向き合い、選挙後の大連立の必要性を懸命に説いた。次の衆院選で仮に自民党単独、あるいは自民、公明両党で過半数ラインを超えても、参院の過半数割れは変わらない。このため、自民、民主両党は大連立も視野に協力していくしかないとの判断からだ。
この森と見事なまでに歩調をあわせるのが野田の“後見役”である藤井裕久・民主党税調会長。消費税増税法案成立にあたっては、野田は「森さんと話をすすめてください。お任せします」とすべてを藤井に託している。その藤井は新聞各紙のインタビューなどで「衆院選後は、民自公3党が、協調していくのが理想。3党路線は、3党協議から事実上始まっている」と、民自公路線を推進する発言を繰り返しており、野田の“真意”もそう遠くないことは想像に難くない。
09年の衆院選で民主党に政権の座を明け渡した麻生太郎元首相も今や民自公路線を視野に入れる「谷垣応援団」だ。宏池会の跡目をめぐる加藤紘一元幹事長と河野洋平元総裁との確執の影響を受け、疎遠だったはずの谷垣と麻生。しかし、昨年来、谷垣が政局対応で頻繁に相談したことで関係が深まった。
衆院解散・総選挙の時期をめぐり、谷垣が、野田とぎりぎりの調整をしていた8月8日も、麻生が「近いうちに」という表現で折り合うよう谷垣に電話でアドバイス、消費税増税を柱とする一体改革関連法に賛成するよう促した。
実は官邸サイドも“麻生詣で”に余念がない。一体改革関連法案をめぐる民主、自民、公明の3党協議が始まった前後から藤村修官房長官らが「是非とも総理のお知恵とお力をお借りしたい」と持ち上げ、協力を取り付けていた。3年前、自民党を下野させた元首相は一躍、キングメーカー的存在になりつつある。
町村信孝元官房長官は森の強い影響下にあり、すでに選挙後の「民自公大連立」を選択肢とすることを表明している。大島理森副総裁も同様で、自民党内は総裁選の行方にかかわらず衆院選後の政権復帰を前提に「民自公志向の派閥領袖系」対「維新の会との連携を目指す安倍、中堅若手」に分かれつつあるのだ。
真紀子節に凍りつく会場
一方の民主党には、「下野前夜」の暗雲が重く垂れ込める。
21日夜、東京・紀尾井町にあるホテルニューオータニ16階の高級上海料理店「Taikan En」。「桜田門外の変」に斃れた大老・井伊直弼の屋敷だった日本庭園を眼下に見下ろす個室に、民主党の輿石東幹事長の呼び掛けで、当選5回以上の同党議員約30人が集まった。
藤村官房長官や安住淳財務相、玄葉光一郎外相、前原誠司政調会長といった執行部の面々と、米軍輸送機MV22オスプレイの配備に反対する平岡秀夫元法相、環太平洋連携協定(TPP)交渉参加阻止を訴える山田正彦元農相など反執行部派が同席する「ぎこちない会合」(参加者の1人)。輿石が「これからもみんなで力を合わせて頑張っていこう」とあいさつしたものの、一向に意気はあがらない。
居心地の悪さを感じたのは「呉越同舟」ばかりが理由ではない。野田内閣の支持率低迷で党勢は衰退傾向に歯止めがかからない。9月21日の党代表選を控え「このままでいいのか」との不安、かといってポスト野田も見当たらない閉塞感。互いにライバル意識を燃やす玄葉と前原は言葉も交わさず、ほかの出席者も他愛ない世間話に終始した。
締めのあいさつに立った田中真紀子元外相の発言で、その気まずさは頂点に達した。おもむろに化粧を直して立ち上がった田中は「神宮花火ナイター」で彩られる夜空を見つめながら「これが民主党への最後のはなむけになりませんように」と切り出した。すぐに「そうならないように、私も全力で支えます」と付け加えたものの、出席者は一様に凍りつき、沈黙がその場を支配した。間を置いて、輿石が「いや、そんなことにはなりませんよ」と漏らしたが、誰もがフォローに窮した。その光景は、暗闇を漂う民主党の姿を象徴していた。
首相と谷垣は「近いうちに国民の信を問う」ことで合意したが、野田内閣の支持率は20%台の低迷から抜け出せず、とても積極的に解散に打って出られるような状況ではない。内閣の要の藤村官房長官、与党の司令塔である樽床伸二幹事長代行ともに、民主、自民両党が行っている選挙情勢調査では、すでに「負け」判定が出ている。
党勢衰退のみならず、今の民主党には、そもそも選挙という一大決戦に出場するコマさえそろっていない。
300小選挙区のうち民主党候補が固まっているのは約230だけで、新人はわずか5人にすぎない。小沢一郎元代表らが離党して新党を立ち上げた余波で、これから空白区が埋まる見通しも立たない。本来、選挙の指揮を執るべき幹事長、輿石の頭の中には“解散先送り”しかなく、永田町では「10月解散、11月選挙」が公然と囁かれているにもかかわらず、一向に動く気配はない。
一方、自民党は280近くが埋まり、このうち新人が約90人に上る。空白区の多くでは公明党と選挙協力するため臨戦態勢を整えており、「空き家」の目立つ民主党とは対照的だ。
松下政経塾の後輩で、かつては盟友関係にあった樽床幹事長代行はお盆の地元回りでさらなる情勢悪化を痛感したのか、19日、福井市内の講演で「4年間の任期を全うすべきだ」と、野田に解散権放棄を求めるに至った。
注目の維新の会は、初めての国政選挙で一気に第2党に躍り出る勢い。本来なら単独過半数を回復してもおかしくないのに勝ちきれず、連立枠組みで路線が分かれる自民党。あまりの惨状に思考停止状態に陥りつつある民主党。
「近いうち」の解散時期をめぐって攻防を繰り広げる両者だが、実はその腹は一致しているという見方もある。
「総選挙後は、民自公の連立でやっていくしかないんだから、時期は重要じゃない。早期解散を求める自民党も本音は、来年の衆参ダブル選挙が望ましい。
来年までに民主党提出の選挙制度改革をやることで、維新の会など第三極の獲得議席を抑えられるし、ダブル選挙で衆参ねじれを一挙に解消すれば一石二鳥だ」(自民党執行部周辺)
いずれにしろ「2大政党による政権奪い合い」というここ十数年続いた日本政治の構図は、総選挙を前にすでに変わりつつある。 
安倍新総裁は失敗に学んだのか 2012/10
 激戦を制した安倍陣営では、早くもポストをめぐる「さや当て」が……。
次期衆院選の顔を決める「ダブル党首選」に決着がついた。9月21日の民主党代表選では首相・野田佳彦が対立3候補を寄せ付けずに再選。26日の自民党総裁選では元首相・安倍晋三が40年ぶりの決選投票の末、前政調会長・石破茂を破った。1回目投票で2位だった候補の逆転は元首相・石橋湛山以来、実に56年ぶりだ。当時逆転負けを喫した元首相・岸信介の「雪辱」を、孫の晋三が果たした。
07年に首相の座を退いてからは、党の役職につくこともなかった安倍だが、辞任の一因となった潰瘍性大腸炎は、2年前に開発された新薬のおかげで、本人によれば「ほぼ完治」。安倍は同じ病気に苦しむ患者の会に講演で招かれた際には、こうも語っている。
「こういう病気でも総理大臣まではできます」
今回の勝利により、「次の首相」の座が再び安倍の視野に入ったことになる。
政権奪還をうかがう自民党のトップ選びが混戦で盛り上がる一方、民主党代表選は低調なまま推移し、両党の勢いの差が鮮明に映し出された。安倍新総裁という想定外のカウンターパートを迎えた野田を待ち受けるのは、惨敗必至の次期衆院選での敗軍の将という、つらい役回りだ。
野田は、環境相・細野豪志が出馬断念を決めた9月7日の時点で、事実上、代表再選を確実にした。だが、細野が一時、出馬を検討した際に待望論が思わぬ広がりを見せ、党執行部が火消しに走った事実は、野田の前途多難を物語る。
消費税増税をめぐる自民党との接近を機に、輿石との関係が微妙になった野田は、細野擁立論の背後に輿石の存在を感じた。野田は9月3日に官邸で開いた政府・民主三役会議の後、輿石を呼び止め「引き続き力を貸してほしい」と要請した。野田と自民党による解散密約の存在を疑った輿石が、細野擁立で野田をけん制したとの見方がもっぱらだっただけに、野田は「解散については慌てない」とも約束した。輿石はこの後、一転して細野出馬論の沈静化を図る。輿石の意を受けた松井、松本は5日、細野と会い「首相というポストを甘く見ない方がいい」と出馬見送りを求めた。
とはいえ、細野が将来の代表候補として認知されたのは疑いない。細野は代表選後の24日、党政調会長に内定、確かな地歩を築いた。
野田の対抗馬は元農相・赤松広隆、元総務相・原口一博、前農相・鹿野道彦の3人。いずれも知名度不足は歴然としていた。自然、世間の耳目は自民党総裁選へと集まった。
引きずりおろされた谷垣
その自民党総裁選は現職総裁・谷垣禎一の不出馬により、波乱のスタートを切った。幹事長・石原伸晃が立候補の意向を固めたことを受け、執行部メンバー同士で争うのを避けるという名目だったが、長老・派閥領袖に見捨てられて20人の推薦人さえ確保できず、出馬断念に追い込まれたのが実態だ。
2009年9月、「党再生の捨て石になる」と宣言して総裁に就いた谷垣は、副総裁・大島理森や側近の元運輸相・川崎二郎らと党運営を進め、元首相・森喜朗ら重鎮や、元幹事長・古賀誠ら派閥領袖を意思決定ラインから排除した。谷垣は野田政権発足後、消費税増税法の成立と引き換えに衆院解散を迫る「話し合い解散」路線を選択。しかし、この手法は、政界引退後も隠然たる影響力を残す元参院議員会長・青木幹雄や森の不興を買った。青木は周囲に「解散権は総理にある。話し合い解散なんて、できっこない」と断言。自身が秘書を務めた故・竹下登が首相在任中に導入した消費税について「旧経世会の銘柄だ。絶対に成立させる」と、増税法案成立に向け民主党への協力を主張した。谷垣執行部に不満を抱く森も同調し、話し合い解散戦略を主導する大島に「大島君、君はあんまり出しゃばらない方がいい」と圧力をかけた。
青木の指摘通り、野田は通常国会での解散には応じず、谷垣の命脈は尽きた。9月3日、出馬への協力を求める谷垣に、古賀は「ご苦労さまでした」と言い放ち、3年間続いた「冷や飯」の恨みを晴らした。
一方で、その古賀に背中をおされる格好になった石原は、谷垣との調整に乗り出した大島に「今回、立候補しなかったら私の政治生命がなくなるんです」と言い放って出馬した。
石原は、谷垣との一本化交渉が決裂した翌9日、両親と墓参りに赴いた。その後の食事の席で、父・慎太郎は伸晃にこうハッパをかけた。
「マスコミは俺には噛みつけないから、その恨みも含めて、お前のバッシングをしてくる。それを覚悟して頑張れ」
この言葉は、まさに予言となった。選挙戦の間、「(中国は尖閣に)攻めてこない。誰も住んでないんだから」「(福島第一原発を指して)福島第一サティアン」などの失言を繰り返した石原は、マスコミの格好の餌食となった。谷垣を引きずり降ろした行いから「平成の明智光秀」とも批判され、支持は伸び悩んだ。
今期限りでの引退を表明している森は、久しぶりにキングメーカーの地位に復活。自身が率いた「清和会」出身の安倍晋三や元官房長官・町村信孝が総裁選立候補を望むや、一本化を促して派閥の分裂回避に腐心した。
「君は派閥をどうするのか。岸信介、福田赳夫、君の父親の安倍晋太郎が守ってきたのに、壊すのか。派閥会長の町村が出馬して総裁を目指すのなら、君が派閥を守るべきなんじゃないか」。森の説得に安倍は「そ、そ、そうですね」と詰まりながら返答したが、結局、忠告を聞き入れずに出馬した。
森が「危険人物だ」と敵視する石破茂は、旧新進党から自民党に復党した出戻り組。今回、「脱派閥支配」を象徴する候補として総裁選に臨んだ。しかし、石破は08年、元首相・麻生太郎らと総裁選を争った際、告示前日に「推薦人が2人足りません」と青木の事務所に駆け込んで推薦人を融通してもらい、派閥の後押しで何とか出馬にこぎ着けた過去がある。それでも石破は今回、党員・党友による地方票でリード。森、青木、古賀の「三長老」は焦燥感を強めた。
運命の総裁選の前日、この日たまたま三長老に渡邉恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役会長、日枝久フジテレビ会長といったメンバーでの会食の席が設けられていた。話題は当然、翌日の総裁選に及んだ。この会食の終了から間もなく永田町には、「三長老は石原でやれるところまでやって、もし石破と安倍の決選投票になったら、石破に乗るようだ」との憶測が流れた。こうした憶測が流れること自体が、石原が実質、総裁選レースから脱落したことを物語っていた。
一方で、森の説得を振り切って出馬した安倍をなりふり構わず支援したのが元首相・麻生太郎である。この総裁選においてキングメーカー然とふるまった麻生は、町村からの支援要請に「あんたとはメシも食ったことないしな」と冷たく言い放ち、石破については派閥の会合で、「(党を)出たり入ったりする奴は信用できねぇ」と切り捨てた。
「後ろ足で砂をかけて額賀派を出た」と評される石破に、派閥領袖らの恨みは深かった。額賀派幹部は「石原が決選投票に残れなければ2位の候補に入れてほしい」との方針を確認。決選投票直前にも安倍への投票を促す伝言が回り、石破は地方票の半数以上を獲得しながら敗れた。結局、派閥の長老たちのお眼鏡にかなったのは、石破ではなく、安倍だったわけだ。
決選投票での安倍(108票)と石破(89票)の差となった約20票は、麻生がとりまとめた麻生派(12名)と高村派(7名)の票にほぼ等しかった。
だが総裁選後の安倍陣営の打ち上げの席では、安倍側近と麻生周辺との「同床異夢」ぶりが早くも露呈した。
「中川(秀直)や世耕(弘成)なんかが、偉そうに部屋に入ってきて『このたびはどうも有難うございました』なんて、安倍の名代みたいな顔をして挨拶してまわっている。安倍との関係の近さをアピールして、いいポストにありつきたいというのが見え見えだ。これで安倍がまた“お友達”で周りを固めようものなら、ただじゃおかない」(麻生グループ関係者)
その麻生グループ内からは「安倍政権誕生なら、麻生は副総理兼外相だ」とすでに政権をとったかのような皮算用の声も漏れ聞こえてきた。
崩壊した安倍政権で幹事長を務めていたのが、他ならぬ麻生である。その麻生をまた重職に据えれば、党内のみならず、安倍グループからも、疑問の声が上がるだろう。安倍にとっては「お友達内閣」と揶揄され、結果的に安倍政権崩壊のきっかけをつくった人事における失敗に学んでいるかどうかを問われる試金石ともなる。「腹痛」だけが退陣の理由だったかのように語る安倍が、小泉政権時代の衆院296議席という絶対的な多数を基礎にしながら、参院選で敗北を喫し、政権運営が破綻したことを本人はどう受け止めているのか。
野党・自民党を立て直す困難な役目は谷垣らに任せ、権力が眼前に迫れば、これを引きずりおろして、野党時代、党の役職にもつかなかった安倍がなりふり構わず横取りする――。終わってみれば、今回の総裁選の構図は、3年を超える野党暮らしで、自民党が党再生を果たすどころか、その体質を変えていなかったことを白日のもとに晒した。
総裁選を通じて露呈したのは、政権の座を前にうごめく「権力亡者」たちの姿だ。旧態依然たる長老支配、派閥支配が完全復活し、有権者の幻滅を呼ぶのは間違いない。
解散の行方は?
ダブル党首選後の政局はどこへ向かうのか。
目下のところ、野田の最大の悩みは、政権基盤の崩壊が止まらないことだ。日本維新の会に参加する元官房副長官・松野頼久ら衆院議員3人は既に民主党へ離党届を出しているため、連立を組む国民新党(3人)を除くと、与党は実質的に247人となっている。あと9人が離党すれば、衆院過半数を割り込み、内閣不信任決議案の可決が現実味を帯びる。
「これからも一緒にやっていこうや。考え直すことはできんのか」。代表選に先立つ9月19日深夜、自身のグループ「青山会」に所属する衆院議員・今井雅人の離党話を知った樽床は今井を呼び出し、数時間にわたって説得した。維新の会幹部が「対立候補を立てて落選させる」と標的にする樽床は、自身の配下が敵方に走る皮肉な巡り合わせへの怒りを押し殺したが、今井は「また機会があれば一緒に頑張りましょう」と、つれなかった。
「衆院で過半数割れしたら政権は終わりだ。自民、公明両党との連携を大事にした方がいい」。野田の指南役である税調会長・藤井裕久は20日、官邸に野田を訪ねて、事態の深刻さを説いた。
ところが、野田は代表当選後の21日夕、輿石を公邸に呼び、幹事長続投を要請した。早期解散に強く抵抗する輿石の続投は、野田が自民、公明両党首に約束した「近いうち」解散をほごにするに等しい。自公両党の反発をよそに、輿石は上機嫌で報道各社番記者の携帯電話を次々に鳴らし「俺が交代させられると書いた社には、落とし前をつけてもらわないといけないな」と、はしゃいだ。党分裂を防げなかった責任など、みじんも感じていない風だった。
安倍にとって、自民党総裁としての最初にして最大の仕事は、衆議院の解散を勝ち取ることに他ならない。
安倍にそのことを示すかのように、総裁選の前日の25日、谷垣は公明党代表・山口那津男と会談した。
「総裁選後に、野田首相から3党党首会談の申し出があるだろうが、そこが最初の勝負だ」と語った谷垣は、野田が約束した「近いうち解散」を速やかに実行させることを、山口と確認した。その意味するところは、臨時国会において、赤字国債発行法案と定数是正法案の成立と引き換えに解散へ追い込むことだ。
安倍もまた、新総裁就任後の記者会見で「(近いうち解散は)国民との約束だ。それを前提に(野田首相と)いろいろな話をさせていただく」と語った。
これに対して、野田もまた秘かに解散を覚悟しているという見方もある。
「輿石幹事長留任だけをもって、解散先送りのメッセージととるのは間違い。首相が輿石に期待するのは党内融和で、これ以上の離党者を出さないことだけ。むしろ輿石とツーカーだった樽床を外してまで、安住を幹事長代行に持ってきたことに注目すべきだ」(官邸関係者)
安住は、過去2回選対委員長を経験している。解散先送り一辺倒で、まったく解散に備えようとしなかった輿石・樽床に替わり、これからは安住が選挙準備を仕切ることになるのは明白だ。
ある民主党議員は自民党総裁選の結果を受けて、こう嘯(うそぶ)く。
「新総裁が安倍になってよかったよ。国民は『お腹が痛い』といって投げ出した姿を絶対に忘れていない。安倍が相手なら選挙での負け幅は大分小さくなる」
ダブル党首選が終わってみても、漂流する日本政治の行き着く先はまだ、見えてこない。唯一わかっていることは、早期解散を勝ち取れなければ、安倍の命脈が尽きるのもまた早いということだ。 
輿石VS.石破「幹事長最終決戦」 2012/11
 「水と油」の2人による解散をめぐる攻防。そして第3極が動き出した――。
10月19日午後4時、国会内。首相・野田佳彦は、自民党総裁・安倍晋三、公明党代表・山口那津男と向き合っていた。3党の党首が会談するのは8月8日、野田が「近いうちに国民に信を問う」と約束した時以来。自民党総裁は谷垣禎一から安倍に代わっていた。
野田は「『近いうち』という言葉の重みと責任は十分自覚している」といいながら、結局その具体的中身には踏み込まなかった。
安倍は「谷垣には『2013年度予算編成はするつもりはない』と言ったではないか」と迫った。「予算編成しない」発言は、8月の会談時には表に出なかった。谷垣は周囲から「オープンにすべきだ」と促されたが「2人だけの時に出た内容だから」と応じなかったのだ。8月の段階で、表に出ていたら年内衆院解散の流れができたかもしれないし、谷垣が総裁選で再選されていたかもしれない。
安倍は2カ月以上、谷垣が胸にとどめていた言葉を口にした。野田の二枚舌を批判する切り札となるはずだったが、野田は顔色一つ変えず「そんなことは言っていない。『概算要求をすることが予算編成には直結しない』という趣旨だ」と突っぱねた。さらに野田は「谷垣は『内閣不信任決議案と問責決議案は、武装解除する』と言ったではないか」と反論。自民党が問責決議案に賛成したことを暗に責めた。「言った」「言わない」の議論は収拾つかなくなり、会談は打ち切られた。
安倍、山口も「新提案」が見掛け倒しなのは予測していた。党首会談の朝行われた自公の党首、幹事長らによる朝食会では、決裂を前提として「会談ではイスに座らずに野田の話を聞き、すぐに外に出ようか」という意見さえ出たほどだ。
だが、野田の木で鼻をくくったような対応で、頭に血が上った安倍と山口が、反論に時間を費やしたため、会談は結局40分を要した。
同席した民主党幹事長・輿石東は、ひと言も発しなかった。が、もの別れは解散の先送りを意味する。輿石の思惑通り。その表情は、満足そうに見えた。自民党幹事長・石破茂が「不誠実の極み。久しぶりに腹が立った」と吐き捨てたのとは対照的だった。
小学校教員出身の輿石は76歳。日教組活動から政界入りし、落選経験もある。義理人情の世界で生きている。一方、石破は鳥取県知事や自治大臣を歴任した石破二朗を父に持つ2世。29歳で衆院議員になって以来、当選を重ねる。政策通だが、自説は曲げず、時に軋轢(あつれき)を生む。日教組などの官公労を「職場が倒産する心配もない中、要求を釣り上げて勝ち取ることだけを考える体質」と批判する石破は、輿石が、その手法を民主党に持ち込み、組織防衛だけ考えていると決め付けている。
幹事長になった時、石破はカウンターパートのことを思い「何を話したらいいんだ。話題なんかないぞ」とため息をついた。実際、2人は互いの携帯電話の番号さえ知らなかった。静の輿石、動の石破。水と油の2人による「近いうち」解散をめぐる戦いのゴングが鳴った。
事実上の輿石政権
野田は代表選で初当選した昨年8月、輿石を三顧の礼で幹事長に迎えた。だが、その時は「輿石幹事長は1年限り」と決めていた。党を固め、1年後に代表再選を果たしたら、若い幹事長を起用して衆院選態勢にギアチェンジするつもりだった。その考えは輿石にも間接的に伝えてあった。だが1年たち、党内情勢はギアチェンジの余裕がなくなった。野田にとって最悪のシナリオは、離党者が大量に出て、衆院で過半数を失うこと。離党ドミノを止めるには、輿石に頼るしかない。野田は幹事長を続投させ、衆院選は先送りのメッセージを党内に送った。この時以来、野田と輿石の力関係は逆転。事実上の輿石政権になった。
10月1日の内閣改造も輿石人事だった。輿石は改造前日の9月30日、計8時間にわたって首相公邸で首相の隣に座り「民主党は崖っぷちだが、今回の人事で浮上の余地はある」とささやきながら、あれこれ注文をつけた。副大臣人事まで細かく口を出し、この日のうちに大筋を固めた。「情」の人事だった。幹事長代行、国対委員長として輿石を支えた樽床伸二、城島光力らを閣内に推薦。輿石の同世代の田中慶秋も、入閣した。城島や田中は、内閣情報調査室や党の「身体検査」でイエローカードが出ていたが、それを理由に入閣させない気力は野田にはなかった。一連の人事は「滞貨一掃」「冥土の土産」など酷評され、田中は懸念通り、就任後わずか3週間で辞任に追い込まれた。
今回の人事で際立っていたのは情報管理の甘さだ。組閣日・1日の新聞朝刊には、ほぼ全閣僚の名簿とポストが掲載された。同日朝、財務相就任が固まっていた城島は、記者団に「このネクタイをしてきたよ」と言い破顔した。国対委員長の時の担当記者から「入閣日に締めてください」とプレゼントされたものを律義に締めてきたのだ。
田中は野田から前夜9月30日7時すぎに法相就任の連絡を受けた。「明日まで内緒にしておいてください」と言われたのを「明日なら話してもいい」と理解し、午前零時になって「明日」になると、かかってきた電話にはすべて「法相だ」とていねいに教えた。
首相補佐官だった手塚仁雄の更迭も、輿石の意向だった。野田側近を自任する手塚は、首相執務室前に机を置き、自分を通さないと野田との面会をできないようにして、与党議員や官僚からの不満が噴き出していた。輿石は「手塚は交代させた方がいい」と野田に迫った。手塚の交代は官僚らからも歓迎され、「輿石人事で唯一のヒット」とも言われる。
新体制下で輿石は、時計の針を戻そうとする動きを続けている。10月10日夜、都内で元首相・鳩山由紀夫と極秘会談。「力を貸してほしい」と鳩山を持ち上げた。気分を良くした鳩山は「私は外交で尽力したいが、動くと二元外交と言われる」と愚痴をこぼした。輿石は大げさに同調して見せ外交担当の党最高顧問就任を要請。鳩山はあっさり受け入れた。鳩山の離党は当面食い止めた。
次の標的は「国民の生活が第一」の小沢一郎。非公式に接触しながら、よりを戻す機会を探る。輿石は小沢を「別れても好きな人」と呼んではばからない。
最近の野田は元気がない。内外で自分への批判が高まっているのを肌で感じているのだ。10月は6日に東京・紀尾井町のホテルで張富士夫トヨタ自動車会長らと食事してから月末まで、外食を絶った。酒豪の野田が、外で酒を飲まない日を続けるのは珍しい。
そんな野田の周囲では、さまざまな臆測が流れる。1つは不信任決議が可決した時、野田が衆院解散ではなく内閣総辞職を選ぶというシナリオ。新しい民主党代表が選ばれ、支持が上向いたところで解散するという筋書きだ。不信任決議の可決は、与党が過半数割れに追い込まれていることを意味する。首相指名選挙で民主党新代表が首相に選ばれる保証はないが、党内では「社民党や共産党は安倍に投票しないから決選投票は数票差で勝てる」という細かい票読みが飛び交う。
さらには「解散せず7月に参院選を先に行って敗北。野田が引責退陣し、後継首相で任期満了の衆院選を迎える」という説もある。「野田後継」が語られる時、41歳の政調会長・細野豪志の名が必ず上がる。それを本人も意識しているのだろう。自身が会長の勉強会「基本政策研究会」を立ち上げた。
これらの奇策は、いずれも衆院選を来年以降に先送りするという発想で一致する。当然、輿石の選択肢の中にもある。
一方、安倍自民党の党支持率は高値安定。党が衆院選小選挙区ごとに行う調査では、民主党の鳩山、菅直人の首相経験者や現文部科学大臣・田中真紀子さえも落選させる勢いだ。政権奪取前夜の高揚感も手伝い、党本部で行われる役員会や十役会議は笑い声が絶えない。
官僚も民主党幹部を素通りして自民党議員の所で列をなすようになった。安倍が総裁選で「デフレを脱却できなければ消費税は上げない」と言うと、財務省幹部が飛んできて「『デフレ脱却の方向に向かわなければ上げない』という表現に変えていただけませんか」と懇願した。官僚の動きで権力が近づいてきていることを自民党議員たちは体感している。
ただ安倍と石破のツートップ間には、微妙な緊張感も漂う。同じタカ派・保守の2人だが、政治的志向は違う。
安倍は10月6日、地元山口県に入り、先祖の墓の前で手を合わせた。1993年、衆院選に初出馬した時も選挙運動をここから始めた。父・晋太郎の墓に向かい「あなたは何度か総裁選に挑戦したがかないませんでしたね。私はたまたま今回も勝利を得ることができました。その任に就いた以上、全力を傾注します」と誓った。晋太郎や祖父・岸信介という昭和の政治家を見て育った安倍らしい光景だ。歴史や伝統を重視する。
一方の石破は20代の時、故田中角栄が実質的オーナーの派閥「木曜クラブ」の事務局員を務めた。田中軍団の釜の飯を食ったことで「選挙に強い」と自負する。その点で、自民党全盛期を知っているという点では安倍と共通する。だが古参議員によると石破の選挙術は田中流とは似て非なるものだという。田中は親分肌で人間味のある調整を行ったが、石破は「情」を入れない。小選挙区の候補者を「当選確実」「当落線上」「当選困難」に分類。「当選確実」は無視して「線上」を重視する。合理的だが、派閥の論理も、親分子分の関係もない。
石破は「総裁はいい総理になるように準備してくれればいい。選挙は幹事長の俺がやる」と自民党本部の幹事長室にこもる。党の実権は誰にも渡さないというライバル意識がにじむ。
10日夜、石破の後見人の元総務会長・笹川堯の声かけで議員約15人が銀座に集まった。名目は総裁選の打ち上げだったが、党員投票で圧倒的な票を得ながら、国会議員の決選投票で安倍に競り負けたことへの恨み節も出た。
安倍、石破の両雄は、共通の目標に向けて走っている今は強力なペアではある。だが総裁選を激しく争った陣営同志は、まだ溶けあっていない。
石原辞任のインパクト
25日午後3時。東京都知事・石原慎太郎が辞職して新党を結成する考えを表明した。
「諸般の事情に鑑み、今日をもって都知事を辞職する」
普段使う会見室ではなく、都庁7階大ホールでの緊急会見。新党結成は予想していたが即日辞職を表明すると思っていなかった記者団の驚く表情をうれしそうに眺めながら、80歳の石原は48分間、熱弁をふるった。石原新党は、民主党の離党ドミノを誘発し、第3極の結集を加速する起爆剤になろうとしている。
だが第3極のもう1つの結集軸、大阪市長・橋下徹が率いる日本維新の会は、一時の勢いを失っている。10月の週末を利用して大阪市住之江区の研修施設「大阪アカデミア」で行われた衆院選候補者の面接も、お寒い内容だった。府議らが面接官になって約450人を審査したが、候補者は玉石混交。「日本の国家予算はいくらか」という基本的質問に詰まったり、経歴に「英語が得意」と書きながら英語の質問に答えられなかったり、という光景もみられた。
面接官の質問も、政治家の適性を見るよりも、候補者の資金力を瀬踏みするものが多かった。維新は、選挙資金はすべて候補者の負担にする方針。能力よりも財力が大切なのだ。1人当たり約10分の面接で「ABC」ランクがつけられた。大学生の就活面接並の調査で橋下チルドレン予備軍が製造されようとしている。
もう1人、第3極をうかがう勢力で忘れてならないのが小沢だ。脱原発勢力との連携を目指す。小沢は16日から5日間「脱原発先進国」ドイツを訪問。連邦議会環境委員会のシュレーター委員長らと会談した。脱原発を訴えるのは「左翼みたいだ」と難色を示していた小沢だが背に腹は換えられない。25日、東京・ホテルニューオータニ鶴の間で行われた「生活」の結党パーティーでは約4000人の出席者を前に「今年の夏は歴史上最も暑い夏だった。東京電力管内は原発は1基も動いていなかった。それなのに電力不足はなかった。やればできる。原発ゼロを実現する」と訴えた。首相官邸前でデモをしている脱原発派とそっくりそのままの論理も板についてきた。
第3極の結集の先導役を果たそうとする石原は、辞任表明をした25日夜から、新党の母体となる、たちあがれ日本の平沼赳夫らと協議を重ねた。だが、たちあがれ側からは、維新やみんなの党との連携に難色を示す意見が相次いだ。
石原は「何で大連合しないんだ。嫌なら私1人でやる。永田町にいる人間は視野が狭い」と語気を荒げたが、結論は出なかった。
しかし、その石原も、小沢とは組まないと断言する。第3極は、同じパイを食い合うライバルでもある。大同団結は容易ではない。
解散時期をめぐり神経戦を続ける2大政党。そこに第3極がからむ「近いうち」政局は最終局面が近づいてきた。
25日夜、野田は首相公邸に国対委員長・山井和則ら国対幹部を招いた。厳しい国会情勢を報告する山井に対し野田は「できることは1つずつやってほしい。細かいところは任せた」といい、山井が持参した日本酒をしこたま飲んだ。参加者の1人は「久しぶりに元気な野田を見てほっとしたが、あれは景気付けの痛飲だったのか。やけ酒だったのか」とつぶやいた。 
安倍政権誕生に慄(おのの)く霞が関 2012/12
 佳境を迎えた選挙戦。だが既に政局は参院選に向けて蠢きだしている。
事実上の選挙戦が佳境に入った11月25日の日曜日。首相で民主党代表の野田佳彦、自民党総裁・安倍晋三はともに、街頭に出て熱弁を振るった。
金融緩和発言で市場を味方につけた、と意気込む安倍は三重県津市で「総理はいろいろ言っているが、この論争は勝負あった」と勝利宣言。衆院選で台風の目となった日本維新の会の本拠、大阪府に乗り込んだ野田は豊中市で「第3極にかじ取りは預けられない」と声を張り上げた。翌26日は愛知県安城市で、街宣車の梯子から転げ落ちそうになったが、「アクシデントがあったが、民主党はずっこけない。必ずよじ登る」「第3極、第4極がどの方向へ向かっているのか分からない」と第3極への敵意をむき出しにした。
12月16日投開票の衆院選を皮切りに、来夏の参院選を経て、日本の政治は本格的な政界再編期を迎える。そこで野田が警戒するのが「第3極」である。
その第3極の真打ち、日本維新の会代表・石原慎太郎は「第3極じゃダメだ。第2極にならなきゃ」と断言する。なんとしても民主党を2大政党の座から蹴落とし、自民党も巻き込んだ政党の大再編を成し遂げる――。80歳で勝負をかけた石原の執念はすさまじい。
11月16日午前9時、ホテルオークラ。石原は自民党時代からの盟友、平沼赳夫や園田博之らを従えて大阪市長・橋下徹とひざ詰めの談判に臨んだ。平沼らの「たちあがれ日本」を母体とした石原の新党との合流に、橋下は懸念を示していた。その前日に石原が、名古屋市長・河村たかしの党との合流も決めたことで、「石原さんのマネジメントに疑問を持っている」と橋下は半ば、あきらめかけていた。
石原はこの会談ですべてを一気に覆しにかかった。会談場所も橋下が東京の定宿とするホテルニューオータニではなく、石原や平沼が好むオークラに設定して主導権をとる。石原は「現状では自民、公明両党で衆院過半数」との世論調査結果も示して「小さなことは気にするな。一緒にならなきゃダメだ」と政策も丸のみすると言い切り、合流を迫った。
会談が始まって3時間近くがたって橋下は遂に承諾した。
翌11月17日、石原は大阪まで橋下を追いかけ、正式に合流をぶち上げた。「要するに僕は源義経に惚れた武蔵坊弁慶だ。いや、義経に終わらせず、天下をとった源頼朝にしないといけない」と公言する入れ込みようだった。
1989年に自民党総裁選へ出馬して果たせなかった「総理総裁」の夢を託した長男・伸晃は9月の総裁選に敗れた。そして今回、伸晃ではなく、慎太郎本人の「石原首相」へ、23年ぶりの大勝負に出たのだ。
橋下にも思惑があった。今回は政局の行方を読み違え、候補の擁立も、準備も不足した。大阪市長を放り出して出馬すれば、地盤が揺らぐリスクがある。先に石原を出して足場を固めておけば来年の参院選、次の次の衆院選もある。事実、維新幹事長の大阪府知事・松井一郎は「維新の勢いが続けば、橋下さんは参院選に出馬するかもしれない」と漏らす。
わずか11議席で衆院選に臨む維新にとってメルクマールとなるのは、50議席。96年、初の小選挙区比例代表選挙で、第3党だった民主党は52議席を獲得して選挙前の勢力を維持した。50を超えれば、衆院選以降に「石原首相」もしくは「橋下首相」を実現する足がかりになる。
電撃解散の内幕
その石原と橋下の合体を促した首相・野田佳彦の「電撃解散」。野田が12月4日公示・16日投開票の日程を最終的に決めたのは、第3次改造内閣を発足させた10月1日にまで遡る。
後押ししたのは、財務省の国会・政局カレンダーだった。
財務省は今年度特例公債発行法の成立を最も重視し、11月末に「財源が枯渇する」と自ら設定した締め切りから逆算し、10月29日の臨時国会召集、会期末は11月末がタイムリミットと弾いた。そして2014年の消費税率引き上げを左右する2013年4―6月期の国内総生産(GDP)を落ち込ませないため、13年1月の通常国会冒頭で大型補正予算を成立させる日程を想定した。
こうすれば来年度当初予算が越年編成になって2月に国会提出、1カ月程度の暫定予算でもいっこうに構わない。実は19年前にも、当時の大蔵省事務次官・斎藤次郎が消費税引き上げを実現するため首相・細川護熙に「政治改革を優先してください」と進言した結果、越年編成となった例がある。
財務省が越年編成より恐れるのは、戦後一度も例のない予算の組み替えだ。予算を組んでからの1月解散は、政権交代必至の状況では予算組み替えと直結する。とすれば12月衆院選しかない。しかも年内に新政権を発足させて予算への影響を最小限にするなら、答えは「12月16日投開票―25日の特別国会召集」しかない。野田はこの日程に乗った。
「どうせ負ける解散なら、主体的な解散にしたい」と野田が明かしたのは副総理・岡田克也、官房長官・藤村修に加えて民主党幹事長代行・安住淳らごく少数の政治家、それに松下政経塾出身の信頼する民間人に限られた。
安住は「来年に選挙を先送りすれば、いまボーダーラインにいる30人ほどが落選してしまう。この30人は、民主党でもっとも良質な部分だ」と唱えた。「30人」のほとんどが、国家戦略担当相・前原誠司が率いる凌雲会と、野田グループのメンバーだった。野田も安住の主張を是とした。100議席を確保すれば、05年の郵政選挙とほぼ同じ勢力となり、次につながる。
野田は「純化路線」へ走り出す。「主体的な解散」の目玉にしようとしたのが環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加と、中選挙区制復活による「自公民」の枠組み構築だ。
TPP参加の意図が漏れれば、党内は大騒ぎになる。幹事長の輿石東は反対勢力をたきつけ、倒閣に動くだろう。野田は民主党内に漏れることを警戒して外務省にも秘匿し、前原に「TPP交渉参加への地ならしを進めてほしい」と指示した。この指示で「解散する気だ」とピンと来た前原は、「首相は年内解散の意向だ」と公言した。
問題は自民党とのパイプだった。「近いうちに解散」で合意した前総裁・谷垣禎一は安倍に取って代わられている。安倍は野田を「嘘つきだ」と決めつけ、なかなか微妙なやりとりができない。同じ早大雄弁会出身のよしみで安住が元首相・森喜朗にそれとなく伝えても、安倍と森のぎくしゃくした人間関係がわざわいして、うまくゆかない。
11月2日、野田は首相公邸での閣僚懇親会で岡田と藤村を残すと、解散への具体的な日程を約1時間半にわたって話しこんだ。12月16日投開票には16日か、22日の解散しかない。党首会談でも取りつく島のなかった安倍に解散を通告するため、党首討論の場を活用することも話題に上った。
そして14日、午後3時からの党首討論で野田は「あさって、解散します」と安倍に明言する。倒閣封じ込めのため、この日を選んだので討論を聞いていた輿石は「いま、16日って言ったのか」と動揺を隠せなかったが、「総理の意向だから、しかたがない」と早々に白旗をあげた。
こうして財務省は解散で本懐を遂げたが、驚愕したのが外務省だ。
野田は解散総選挙の目玉としてTPP交渉への参加を決断、「日米首脳会談で米大統領・バラク・オバマに伝達」との青写真を描いていたが、大統領選と議会選挙が終わったばかりの米国の事情をまったく考えていなかった。「いま参加を唐突に言われても、米国は困るだけ」と外務省は苦虫をかみつぶす。TPP交渉への参加表明は、後退せざるを得なかった。
安倍の経済政策は「素人の作文」
党首討論では野田に差し込まれたものの、政権獲得と首相返り咲きを確信した安倍はそう状態になった。
「大胆な金融緩和」「日銀法改正」に市場は好反応を示し、再登板での成功は約束されたと安倍は受け止めた。経済がよければ、次は外交。「総理になったら、最初に米国へ行きたい」と安倍は内々の調整を外交当局に指示した。「民主党政権が破壊した日米関係を自分が立て直す」と、安倍は酔った。
だが、野田のTPP交渉参加と同じく、外務省は訪米を目論む安倍の青写真にも閉口させられた。再選されたオバマの大統領就任式は1月21日で、それまで日程に余裕はほとんどない。しかも1月は「財政の崖」を巡る議会との調整がヤマ場を迎えている時期だ。日本の首相にかまっているヒマはない。
それだけではない。米国の知日派の間でも、日米同盟を強調して中国に対抗すると張り切る安倍の姿勢に、懸念は募るばかりだ。いまは日中のどちらにも肩入れしたくないオバマ政権にとって、安倍のラブコールはありがた迷惑でさえある。困惑を訴える米国の関係者に自民党副総裁・高村正彦は「安倍さんが米国へ行き、私が1月に中国に行くことで、うまくいくでしょう」と語りかけたが、不安は尽きない。
野田内閣では「わが世の春」を謳歌した財務省も、安倍に対しては警戒感を強める。
安倍内閣当時の官房長官・塩崎恭久らはあからさまに「反財務省、とりわけ主計局」の態度をとり続け、その空気は変わっていない。
追い込みで安倍の経済政策を一読した財務官僚は「素人の作文だ」と吐き捨てる。
外務省、財務省だけでなく、安倍の下へ早くも「ご説明」に出向いた各省官僚の表情は一様に暗い。「安倍さんの思考は、自分が首相を辞めた5年前で止まってしまっている」「謙虚に反省し、研鑽を積んだ形跡がない」。安倍への危惧が、霞が関では膨らむ一方なのだ。
すでにして「安倍政権」の前途は多難だ。参院選まで持つのか、また投げ出すのではないのかといった風評まで、選挙戦序盤で早くも自民党内で囁かれた。「安倍ではなく石原伸晃を総裁にしておけば、慎太郎が国政に出ることもなく、もっと楽に選挙を戦えた」との恨み節まで上がる。永田町と霞が関のプロの視線は、参院選に向かっている。
衆院選後の「安倍内閣」は、参院で過半数がない以上、本格政権たりえない。安倍は周辺に「労組体質の民主党とは組みたくない」と漏らす一方で、年初から気脈を通じてきた橋下への親近感を隠さない。だが、自公と維新で組んでも参院過半数には到底、届かない。
小沢の「口説き文句」
「ポスト安倍」を狙う自民党幹事長・石破茂は11月20日、政権枠組みについて「基本的には自民、公明、民主の3党合意を維持しなければ、参院選まで国会のねじれ状況は解消できない」と、自公民による「パーシャル連合」を提唱した。石破だけでなく、安倍の懐刀を任じる自民党幹事長代行・菅義偉も「あわてて連立を考える必要はない」と安倍に耳打ちしている。少数与党での政権発足も、自民党は視野に入れる。
石原・橋下の「衆院選後」をにらんだ戦略は、現下の政治状況を的確にとらえている。自民、公明、民主、維新の陣取り合戦は、衆院選後に本番を迎える。
民主党は第2党の確保を足場に、参院選後の自公民連立を狙うだろう。武器となるのは野田が構想した中選挙区制の復活だ。そのためにも、民主党は死にもの狂いで第2党を確保しなければならない。
石原と橋下の維新は、第2党に躍進すれば参院選後までをにらんだ「維新の首相」実現へ足がかりができる。第3勢力であっても、96年民主党の例をみれば、次へ望みはつながる。
今回、引退に追い込まれた元首相・鳩山由紀夫が前首相・菅直人と手を携えて民主党を結党した96年から16年。自民党と民主党の2大政党時代は、6回目の小選挙区選挙で幕を閉じる。
鳩山、菅とともに「トロイカ」として民主党の中核を担いながら離党せざるを得なかった元代表・小沢一郎は、2大政党の終わりを予知して潜行していた。連携を呼びかけた橋下が自民党時代からの宿敵、石原と組むのは避けられないとみるや「反原発」のヒロイン、滋賀県知事・嘉田由紀子と10月にひそかに会って新党の結成を説いた。「メルケル独首相は反原発の象徴。日本のメルケルになってほしい」「私は党首にはならない」と口説く小沢に嘉田はほだされ、11月24日には再び小沢と会談して新党を最終決断した。いまや誰も見向きもしない民主党のマニフェストを野田が発表した11月27日、嘉田は「日本未来の党」結党を宣言し「この指止まれ方式で個人、政党に参加を呼びかける」と表明した。小沢は直ちに「国民の生活が第一」の解党、新党への合流で答えた。先に新党をつくっていた亀井静香と河村名古屋市長も呼応した。「小沢色」を薄める狙いもあって音楽家の坂本龍一らの名前も「賛同人」として公表した。なにもかもがシナリオ通りだった。
「野合」と呼ばれようと、石原も「小異を捨てて大同につく」と政策は問わずに橋下と合流した。「脱原発」の一点でもう1つの第3極をつくり、衆院選後の再編に備える――。20年間、日本の政治を動かしてきた小沢の最後のカンだ。
衆院選後に日本の政治を待ち受けるのは「決められる政治」ではなく、「政界再編」という名の容赦なき混沌(カオス)である。 
 

 

 
第2次安倍内閣

 

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
菅義偉      
麻生太郎      
甘利明        
岸田文雄        
谷垣禎一                
石原伸晃            
新藤義孝                
小野寺五典              
下村博文              
田村憲久                
林芳正            
茂木敏充              
太田昭宏              
根本匠                
古屋圭司                
山本一太                
森まさこ                
稲田朋美              

2012年12月26日 - 2014年9月3日
内閣総理大臣 / 安倍晋三 衆議院 / 町村派
副総理 財務大臣 / 麻生太郎 衆議院 / 麻生派
内閣官房長官 / 菅義偉 衆議院 / 無派閥
法務大臣 / 谷垣禎一 衆議院 / 谷垣グループ
環境大臣 / 石原伸晃 衆議院 / 石原派
総務大臣 / 新藤義孝 衆議院 / 額賀派
外務大臣 / 岸田文雄 衆議院 / 岸田派
防衛大臣 / 小野寺五典 衆議院 / 岸田派
文部科学大臣 / 下村博文 衆議院 / 町村派
厚生労働大臣 / 田村憲久 衆議院 / 額賀派
農林水産大臣 / 林芳正 参議院 / 岸田派
経済産業大臣 / 茂木敏充 衆議院 / 額賀派
国土交通大臣 / 太田昭宏 衆議院 / 公明党
復興大臣 / 根本匠 衆議院 / 岸田派
国家公安委員会委員長 / 古屋圭司 衆議院 / 二階派
内閣府特命担当大臣 / 甘利明 衆議院 / 無派閥 (経済財政政策担当)
内閣府特命担当大臣 / 山本一太 参議院 / 無派閥
内閣府特命担当大臣 / 森まさこ 参議院 / 町村派
内閣府特命担当大臣 / 稲田朋美 衆議院 / 町村派 
 

谷垣禎一

 

谷垣禎一(1945- ) 自由民主党所属の衆議院議員(12期)、京都府遺族会会長、有隣会顧問。法務大臣(第93代)、財務大臣(第3・4・5代)、国土交通大臣(第9代)、国家公安委員会委員長(第69代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、科学技術庁長官(第56代)、産業再生機構担当大臣、自由民主党総裁(第24代)、自由民主党政調会長(第50代)、自由民主党幹事長(第47代)等を歴任。文部大臣(第100代)を務めた元衆議院議員の谷垣専一は父。元陸軍中将の影佐禎昭は祖父。
京都府福知山市生まれ。谷垣専一の長男。麻布中学校・高等学校、東京大学法学部卒業。大学卒業後、司法試験を数回受験し、1979年に合格。司法修習第34期を修了し、弁護士登録。
1983年、父・専一の死去に伴い、父の地盤を継承。1983年の旧京都2区補欠選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選した。当選後、選挙戦中に旧京都2区に20日間泊まり込みで支援をした白川勝彦が所属し、なおかつ亡父も籍を置いていた宏池会に入会。この補欠選挙では、前尾繁三郎の死去に伴って同じ旧京都2区から野中広務も当選しており、選挙の実務を担当したのが当時党総務局長だった小沢一郎である。
1995年、衆議院議院運営委員長に就任。1997年、第2次橋本改造内閣において科学技術庁長官兼総理府原子力委員会委員長に任命され、初入閣した。1998年の第18回参議院議員通常選挙で大敗した橋本龍太郎が退陣、その後成立した小渕内閣では大蔵政務次官に起用された。首相の小渕恵三が元首相の宮澤喜一に蔵相就任を要請した際、就任の条件の一つに挙げたのが谷垣の大蔵政務次官への就任であったため、閣僚経験者ながら政務次官に就任した。金融国会においては金融二法の成立に尽力し、小渕第2次改造内閣で金融再生委員長の越智通雄が失言により辞任した際、後任に起用された。第1次森内閣において、金融再生委員長に再任。2000年の加藤の乱では、宏池会会長の加藤紘一に同調するも、内閣不信任決議案可決の試みは不発に終わった。その際の 谷垣の言動は非常に印象深く、たびたび回顧される。乱以後の宏池会分裂に際しては加藤派に参加した。
加藤の乱以後、加藤や山崎拓に連座した議員らは一様に森政権下では不遇であったが、2001年に内閣総理大臣に就任した小泉純一郎の下で谷垣は重用された。第1次小泉第1次改造内閣で国家公安委員会委員長に任命され、産業再生機構担当大臣・内閣府特命担当大臣(食品安全)の補職辞令を受けたことを皮切りに、第1次小泉第2次改造内閣では塩川正十郎の後任として財務大臣に横滑りし、小泉が退陣するまでの丸3年務めた。2005年、加藤派を引き継いでいた小里貞利が政界を引退し、また同派最高顧問の加藤紘一が離脱したのに伴って小里派を継承、谷垣派会長に就任した。
2006年9月、自由民主党総裁選挙に立候補。
総裁選では、政権構想に
1.財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)
2.東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話が可能な「アジアホットライン」の構築)
3.地域社会の活性化(法人税、地方交付税等の税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正に取り組む)
等を掲げた。投票の結果、谷垣は703票中102票(国会議員66票・地方36票)を獲得し、安倍晋三(当選)、麻生太郎に次ぐ最下位に終わったが、比較的タカ派色の強い安倍、麻生に対しハト派の谷垣が対立軸を明確に打ち出し、3桁の票を獲得する健闘を見せた。
第1次安倍内閣において谷垣派は閣僚および党三役ポストを一つも獲得できず、党内非主流派に回った。与党が過半数割れの大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙後は、安倍内閣の政治姿勢や続投に公の場で疑問を呈する等、批判の度合いを強めていたが、参院選後の内閣改造・党役員人事においても谷垣派からの閣僚・党三役への起用は見送られた。同年9月、安倍首相の辞任を受けて行われた自由民主党総裁選挙に一時、出馬を検討したが、出馬表明を行った元内閣官房長官の福田康夫を派を挙げて支持し、自身の出馬は見送った。幹事長(当時)の麻生太郎を破り総裁に選出された福田の下で政務調査会長に起用され、初めて党三役入りした。福田政権の発足を契機に、加藤の乱以来の懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、2008年1月には古賀・谷垣両派の合併が決定(中宏池会構想)。
同年5月に発足した古賀派では代表世話人に就いたが、新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、また派内には菅義偉ら麻生を支持する議員も少なくなく、派を挙げて谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった。2008年、福田康夫改造内閣で国土交通大臣に任命されるも、福田は間もなく辞任。それに伴う自由民主党総裁選挙でも出馬に意欲を見せたが、福田康夫内閣の一員であった立場を考慮し、断念。宏池会は自主投票を決定した。この総裁選では、宏池会から麻生派会長の麻生太郎、無派閥の与謝野馨を率先して支持する議員が現れ、2度続けて出馬を見送った谷垣の影響力低下を感じさせた。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、京都5区で民主党新人の元自衛官、小原舞の猛追を受けるも7,032票差で逃げ切り、10選。
2009年9月28日、499票中300票を獲得し、第24代自由民主党総裁に選出された。自民党総裁就任時に内閣総理大臣に指名されなかったのは河野洋平、橋本龍太郎に次いで3人目(橋本は村山富市首相の退陣を受け、内閣総理大臣に就任)。河野は総裁退任後に衆議院議長を務めており、三権の長を経験していない総裁経験者は谷垣のみである。同年10月、政権奪還を意識する観点から「影の内閣」の設置に意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけばポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した。10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社に参拝。自民党総裁の靖国神社参拝は、2006年8月15日(終戦記念日)に内閣総理大臣(当時)の小泉純一郎が参拝して以来、3年2ヶ月ぶりであった。その後産経新聞の取材に対し、2006年自由民主党総裁選挙において「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していた ことについて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべきだという意味です」 と述べ、「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるということを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場は必要だと思う」と答えた。靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施設を造るのは賛成できない」と述べており、この時も記者団に対し、「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祀られる』という思いを持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重な構えを見せた。11月26日、民主党や公明党などが成立を目指す永住外国人への地方選挙権付与について「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつもりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしないという意向を示した。天皇特例会見問題では、民主党政権を批判。民主党幹事長(当時)の小沢一郎による“国事行為発言”についても批判 し、「天皇の政治利用」とする認識を示した。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した。
2010年1月1日、自由民主党総裁として自民党本部から全国の党員・党友組織自由国民会議会員に向けて新年のメッセージを送った。1月4日、伊勢神宮に参拝。記者たちに「特に政治とカネの問題を見ると、必ず内閣総辞職、あるいは解散によって国民に信を問うところまで求めていかなければならない」と述べ、偽装献金問題などを追及し首相の鳩山由紀夫が辞任することを強く求めていく考えを強調した。また、衆参同日選挙の可能性について「1つの選択肢として視野に置く必要がある」と述べた。民主党幹事長の小沢一郎については、小沢が先日の天皇特例会見を内閣の助言と承認に基づく「国事行為」だとして正当化したことに触れ「小沢幹事長のごときにいたっては、あたかも内閣が判断をすれば天皇陛下に何でもお願いできるかのような表現すら取っている。まったく日本国憲法の構造をはき違えたものだ」と批判した。1月7日の新年初の自民党総裁定例記者会見にて、産経新聞の記者から「鳩山首相がTwitterを始められましたが、総裁はやられるのか?」との質問に対し「つぶやくようなことはしない。ごまめの歯ぎしりでもあるまいし」と否定し、フリーランスの記者から「鳩山首相がブログを始めましたが、総裁としてブログを書くつもりはあるか?」との質問に対しては「具体的に考えていない」と答えた。1月19日、BSフジの番組「BSフジLIVE プライムニュース」にて、永住外国人への地方選挙権付与法案について「米軍普天間基地移設問題を地方の首長選(2010年1月24日の名護市長選)に委ねようとする動きを見ていると、地方参政権を付与するのがいいのかどうか」と述べ、外国人参政権に反対する意向を改めて表明。賛否では党議拘束をかけるべきだとの考えを示した。また同市長選と同日の党大会には自身の選挙区に含まれる網野町(平成の大合併で京丹後市)出身の野村克也を来賓として招聘した。2月11日(建国記念の日)、神社本庁や日本会議などでつくる「日本の建国を祝う会」主催の「建国記念の日奉祝中央式典」であいさつし、「現在、わが国は非常に厳しい経済情勢のもとにありますが」「むしろ、危機は飛躍するための好機であるととらえ、今こそ人づくり国づくりに力を尽くす時であると考えます」と述べた。また、「国の発展には、伝統文化の継承と心豊かな人材の育成が必要不可欠」として、道徳教育の必要性などを訴えた。2月25日、鳩山由紀夫内閣がまとめた天皇の公的行為に関する見解 について、国会内で記者団に「象徴天皇のデリケートさに全く何の配慮もない、政治的英知を欠いた見解だ。その都度その都度便宜的に判断すればいいという答えだが、憲法のイロハも心得ない噴飯物の解釈だ」と批判した。4月16日、韓国の与党であるハンナラ党の鄭夢準代表から、日本における永住外国人への地方選挙権付与に協力するよう求められたが、「憲法上の問題もあり自民党は反対の立場だ」と述べた。4月22日、自民党本部にて行われた定例記者会見で、鳩山由紀夫の元秘書が東京地方裁判所にて有罪判決が出たことに関して「弁護士は総理を守る、依頼者を守るのが仕事で、総理の責任は説明責任をきちっと果たす」と述べ、弁護士の国会への参考人招致を求めていく方針を示し、「鳩山首相は、秘書の疑惑は議員の責任と、過去に誠にあっぱれな発言された経緯があります。ご自身の責任も明らかにすべきであると、申し上げたいと思います」と追及する構えを見せた。参議院議員の舛添要一より離党届が提出された問題では、「比例代表から選出されており、議員辞職をするのが筋」と離党届を受理しない旨を示唆した。その結果、舛添は27日の党紀委員会会合で除名処分となった。
また、フリーランスの記者から「この程、Twitter を始められた心境の変化について」を尋ねられた際には「若い方々から多くの方の生の声を聞く、非常に良い手法であると。必ずしも、公式の、四角四面の街頭演説や集会では得られない声が返ってくるということもある」と周りから勧められた事を述べた。
4月28日、宮崎県で家畜伝染病である口蹄疫が拡がっていることを受けて、宮崎県で口蹄疫の視察をした。2日後、口蹄疫対策本部(本部長・谷垣禎一総裁)を設置し、政府に対し万全の対策を講じるよう申し入れ。野党の自民党が対策本部を設置する異例の事態となった。7月の第22回参議院議員通常選挙を控え、「与党を過半数割れに追い込めなかった場合は総裁を引責辞任する」と表明し、背水の陣を敷いて選挙戦に臨んだ。公明党との協力戦略が奏功し、自民党は51議席を獲得して改選第1党となり、連立与党は過半数を割り込んだため、谷垣は総裁続投を表明した。
2011年8月30日の菅内閣総辞職に伴う内閣総理大臣指名選挙で、衆議院において自民党議員の他に無所属の鳩山邦夫からも票を得た。参議院では1回目は民主党代表の野田佳彦に次ぐ2位の票を獲得し、野田との決選投票では、たちあがれ日本、公明党、無所属の大江康弘、長谷川大紋からも支持を受けた。
2012年1月8日から12日にかけ、総裁就任後最初の外遊として、ベトナムとインドネシアを訪問した。中国の存在感が増す中、ASEANの重要国である両国との間で、安全保障や経済面での連携についての協議が行われた。なお、法務大臣に就任した第2次安倍内閣では、法務省の所管は国内事項が中心であるものの、施設等機関である法務総合研究所の一部局である国際協力部は、アジア圏でのルール形成に日本が積極的に関与していくという見地から、ベトナム、インドネシアを含めたアセアン諸国等に対し、法律の整備や法律家人材育成といった法整備支援を行っている。同年9月の自由民主党総裁選挙に再選を目指して立候補を予定していた。しかし、石原伸晃幹事長が立候補を表明したため「執行部を含めて党内を掌握できなかった責任を取る」として、9月10日に再選出馬を断念。これにより、河野洋平以来2人目の内閣総理大臣に就任しなかった自由民主党総裁、また任期中通して野党であった唯一の総裁となった(河野は任期中に自社さ連立政権発足に伴い与党に復帰した。次代の安倍晋三も就任直後は野党総裁であったものの2012年12月26日に内閣総理大臣に就任、また第21代総裁時代も首相を務めた)。平成年間では谷垣までの時点で13名が総裁を務めたが、任期満了による退任は1995年の河野、2006年の小泉純一郎に続く3例目である。総裁退任後も宏池会へは戻らず、総裁選で再選出馬を支持していた議員らを中心に有隣会を旗揚げし、同会顧問に就任した。
2012年12月、第46回衆議院議員総選挙で11回目の当選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で法務大臣、厚生労働大臣、復興大臣の中から法務大臣を選択し入閣。法相就任後、2013年は2月21日・4月26日・9月12日・12月12日の4度8人の死刑囚の死刑を執行した。
2013年9月4日に最高裁判所が婚外子を差別する民法の規定が、日本国憲法に対して違憲であるとの違憲判決を下したことを受けて、兵庫県明石市が10月1日、出生届の記載事項である 「嫡出子」「嫡出でない子」の記載を削除した届出用紙を独自に作成したことや、婚姻歴のないひとり親家庭に対する寡婦(夫)控除のみなし適用を実施することを明らかにしたことに対し、「法令で定められたところに背く扱いを行おうとすることは極めて遺憾」と述べた。
2013年10月8日、宇都宮市で開いた自身のグループ研修会で講演し、消費税率を10%に引き上げることについて「10%に引き上げる時に最大の問題は原発を動かせるかどうかだ。できるかどうかで日本の景気動向は大きく変わる」と述べた。
2014年6月26日、死刑囚1人に対して死刑の執行をした。この執行は年が変わってから初めてとなる。そして同年8月29日には2度目となる死刑囚2名の死刑執行を行った。法務大臣就任中に合計6度11人の死刑囚の死刑を執行した。これは歴代法相の中で鳩山邦夫に次ぐ執行回数である。
2014年9月3日、第47代自由民主党幹事長に就任。自民党総裁経験者の幹事長就任は初めて。そして同日午前中の記者会見では、年末の消費税10%引き上げに関して、法律上は8%から10%に引き上げるためのレールが敷かれており、基本的には法律に則って進める考えを示す一方で、同時に景気情勢をよく見ていかなければならないと述べた。また安倍晋三首相からは「諸般の事情もよく目配りして進めてほしい」と指示があったことも明かした。
2016年7月16日午前、趣味のサイクリング中に転倒し、頸髄損傷で入院することとなり、谷垣本人は、辞任の意向を示した。これを受け、続投の意向であった安倍晋三首相は、同年8月3日に行われた内閣改造に伴う自民党役員人事において、総務会長の二階俊博を幹事長に任命し、谷垣は幹事長の職を辞することとなった。
 
石原伸晃

 

石原伸晃(1957- ) 自由民主党所属の衆議院議員(9期)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)、近未来政治研究会(石原派)会長。規制改革担当大臣(第1次小泉内閣・第1次小泉第1次改造内閣)、国土交通大臣(第3・4代)、自民党政務調査会長(第49代)、自民党幹事長(第45代)、環境大臣(第19代)、内閣府特命担当大臣(原子力防災)等を歴任した。
神奈川県逗子市生まれ。鎌倉市立御成小学校卒業。中学校から慶應義塾に通い、慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部都市社会学専攻を卒業。大学時代の部活は日本正統少林寺拳法部の主将を務めていた。大学在学中、エルマイラ大学(アメリカ合衆国ニューヨーク州エルマイラ)に留学した。大学卒業後、1981年、日本テレビ放送網に入社。報道局に入局し、大蔵省や外務省、首相官邸等を担当した。1989年、日本テレビを退社。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧東京4区(定数5)から無所属で出馬し、自由民主党の粕谷茂に次ぐ得票数2位で初当選。当選後、自民党に入党し、安倍派に入会。1993年の第40回衆議院議員総選挙では、新党ブームに押されるも得票数5位で再選。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、東京8区から自民党公認で出馬。後に杉並区長に転出する新進党の山田宏を約7千票差で下し、3選。1996年、第2次橋本内閣で通商産業政務次官に任命された。1998年の金融国会では、金融再生関連法案の成立に尽力し、所謂「政策新人類」に名を連ねる。同年、三塚派(安倍派の後身)を退会し、加藤派に入会する。2000年の加藤の乱では、首相・森喜朗らに対する政権批判の急先鋒であり、内閣不信任決議案の採決では欠席した。加藤の乱の後、分裂した加藤派を退会し、その後2007年までは無派閥であった。
2001年、第1次小泉内閣で規制改革担当大臣に任命され、初入閣。あわせて「行政改革を推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣も兼任し、第1次小泉第1次改造内閣まで務める。2003年に発足した第1次小泉第2次改造内閣では国土交通大臣、「首都機能移転の具体化に向けた検討を推進するため行政各部の所管する事務の調整」や「観光立国を実現するための施策を円滑に推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣を兼任。国交相在任中は主に道路公団問題等に取り組み、民営化に強く反対していた道路公団総裁の藤井治芳を更迭した。2004年、第2次小泉改造内閣発足に伴い国交相を退任し、党金融調査会長に就任。2005年には、長らく古賀誠ら道路族がそのポストを占めていた党道路調査会長に就任した。
2006年、総裁・安倍晋三の下で幹事長代理に就任。翌2007年の党役員人事では自民党政務調査会長に起用され、初めて党三役入りした。同年12月、山崎派に入会。2008年、福田康夫の辞任に伴う自由民主党総裁選挙に出馬するが、得票数4位で落選した。新総裁・麻生太郎の下、再び幹事長代理に就任。2009年7月、自民党は東京都議会議員選挙で大敗。東京都連会長であった石原は、敗北の責任を取り都連会長を辞任する意向を表明したが、第45回衆議院議員総選挙が迫っていたため辞任は了承されなかった。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、東京8区で社会民主党前職の保坂展人を破り、7選。選挙後の自由民主党総裁選挙では谷垣禎一の推薦人に名を連ねた。
谷垣執行部で国民運動本部長に起用された。また、東京都連会長に再任される。2010年4月、政権力委員会発足に伴い、本部長代理に就任。同年9月の党役員人事で、自民党幹事長に起用された。2011年の党役員人事においても幹事長に再任。2012年9月、自由民主党総裁選挙に出馬する意向を表明。尚、現職の総裁である谷垣も出馬に意欲を示していたため(最終的に出馬を辞退)、総裁を押し退ける形で出馬を強行した幹事長の石原に対しては党内から批判の声が上がり、麻生太郎は9月13日の会見で「下克上とか平成の明智光秀(という)、ありがたくない冠をこの人は当分頂くことになる。私の人生哲学には合わない」「石原氏を支援する人の神経がよく分からない」と批判した。9月26日の総裁選では、1回目の投票で96票を獲得したものの得票数は5人中3位であった。
同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、東京8区で無所属で俳優の山本太郎らを破り、8選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で環境大臣・内閣府特命担当大臣(原子力防災)に任命された。また、近未来政治研究会を山崎拓から継承し、同会第2代会長に就任した。2014年9月の内閣改造で閣僚を退任。2016年1月28日、第3次安倍第1次改造内閣の甘利明経済財政相の辞任を受け後任の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に就任した。天皇がフィリピン訪問中のため、閣僚認証式は国事行為臨時代行中の皇太子徳仁親王が行った。閣僚の認証式が臨時代行されるのは平成初。同年8月3日、東京都知事選挙の党推薦候補の敗北を受けて、都連会長を辞任(後任の会長は下村博文)。  
 
新藤義孝

 

新藤義孝(1958- ) 自由民主党所属の衆議院議員(6期)、自民党埼玉県連会長。総務大臣(第17代)、道州制担当大臣、地域活性化担当大臣、内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域担当)等を歴任。
埼玉県川口市出身。川口市立前川小学校、浦和市立岸中学校、明治大学付属中野高等学校を経て明治大学文学部を卒業。川口市役所に勤務した後、1991年(平成3年)の川口市議会議員選挙で当選。
1996年(平成8年)、38歳で第41回衆議院議員総選挙に埼玉2区から自由民主党公認で出馬。新進党現職の石田勝之に敗れるも、比例北関東ブロックで復活し初当選。当選後は当時の橋本龍太郎首相の出身派閥である平成研究会に入会。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では、新進党解党後改革クラブ幹事長を務めていた石田も与党の一員だったが一本化に失敗し、新藤、石田が共に同一選挙区から出馬。新藤は保守党、石田は公明党から推薦を得た。結果は新藤が埼玉2区で当選。
2001年(平成13年)に総務大臣政務官、2002年(平成14年)に外務大臣政務官にそれぞれ就任した。例外的に夫婦の別姓を実現させる会の活動も行った。2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、改革クラブ解党後に民主党へ移っていた石田に敗れ、比例復活もならず落選した。2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙では、逆に石田に比例復活を許さず当選し、2年ぶりに国政へ復帰した。安倍改造内閣、福田康夫内閣で経済産業副大臣を務めた。
2009年(平成21年)8月30日の第45回衆議院議員総選挙には埼玉2区から出馬し、石田に再度敗北を喫するも、比例北関東ブロックで復活し、4選。総選挙大敗により、山口泰明が埼玉県連会長を引責辞任したため、後任の県連会長に就任した。
ネットメディア局長在任中、ネットボランティア組織自民党ネットサポーターズクラブ (J-NSC) を立ち上げた。同局長退任後は後任の平井卓也にJ-NSC代表の座を譲り、自身は事務局長に就任した。
2010年(平成22年)9月、自由民主党政務調査会「領土に関する特命委員会」委員長代理に就任。2011年(平成23年)9月には、衆議院決算行政監視委員会委員長に就任。2012年(平成24年)10月22日、自由民主党シャドウ・キャビネット経済産業大臣に就任(党経済産業部会長兼任)。
2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙では埼玉2区で石田を含む他候補に比例復活を許さず勝利し5選。同年12月26日成立の第2次安倍内閣で総務大臣として初入閣。2013年(平成25年)12月13日には、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域担当)に任命された。2014年9月3日、退任。同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で6選。
2015年(平成27年)4月30日、安倍晋三首相のアメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦いでかつて海兵隊大尉として戦闘に参加したローレンス・スノーデン退役中将と握手した。  
 
小野寺五典

 

小野寺五典(1960- ) 自由民主党所属の衆議院議員(6期)、自由民主党政務調査会長代理。旧姓は熊谷。防衛大臣(第12代)、外務大臣政務官(第3次小泉内閣)、外務副大臣(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、自由民主党宮城県連会長等を歴任した。気仙沼市長を務めた小野寺信雄は義父。
宮城県気仙沼市生まれ。宮城県気仙沼高等学校、東京水産大学水産学部海洋環境工学科(現東京海洋大学海洋科学部)卒業。1983年、宮城県庁に入庁し、水産資源の研究に携わった。1990年、宮城県庁を退職し、松下政経塾に入塾(11期生)。1993年、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。東北福祉大学専任講師を経て、1996年より同大助教授。
1997年、衆議院宮城6区で菊池福治郎の公職選挙法違反による辞任を受けて補欠選挙が行われ、小野寺は自由民主党公認で立候補し、無所属の大石正光を破り初当選した。しかし、選挙区内の有権者への線香セットの配布が、公職選挙法で禁止されている「寄付行為」に該当し、仙台地方検察庁に書類送検されたため2000年に衆議院議員を辞職。略式命令による罰金40万円の有罪判決を受け、公民権が3年間停止された。議員辞職後はジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所客員研究員を経て、学校法人増子学園(東北福祉情報専門学校)理事長、東北福祉大学特任講師を務めた。
公民権停止が解除された2003年、第43回衆議院議員総選挙に自民党公認で宮城6区から再び立候補し、民主党前職の大石正光、社会民主党前職の菅野哲雄を破り、当選した。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、社会民主党公認の菅野哲雄を宮城6区で破り、 3選(菅野も比例復活当選)。選挙後に発足した第3次小泉内閣で外務大臣政務官に任命された。2007年、第1次安倍改造内閣で外務副大臣に任命され、福田康夫内閣でも再任された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、宮城6区で社民党の菅野哲雄に比例復活すら許さず、4選。この総選挙では自民党が大敗し、宮城県内の6選挙区で議席を獲得したのは小野寺ただ1人だった。選挙後、自由民主党宮城県連会長に選出された。同年の2009年自由民主党総裁選挙では一時立候補に向けた準備を行ったものの、中堅・若手の票の分裂を懸念し、最終的には立候補を断念した。総裁選では、自身が所属する宏池会の谷垣禎一ではなく、麻生派の河野太郎に投票した。翌年10月に設置された自由民主党シャドウ・キャビネットでは、「影の外務大臣」に起用される。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、小野寺の選出選挙区である宮城6区も津波の被害を受け、小野寺の実家や自宅も全壊した。
2012年、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、民主党元職の鎌田さゆりに7万票超の大差をつけ、5選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で防衛大臣に任命され、初入閣した。第2次安倍改造内閣の発足により退任し、自由民主党政務調査会長代理に就任。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、宮城6区で再び民主党の鎌田さゆりを破り、6選。  
 
下村博文

 

下村博文(1954- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、自由民主党幹事長代行(第4代)、東京都支部連合会会長。群馬県高崎市(旧倉渕村)出身。文部科学大臣(第18・19代)、内閣官房副長官、文部科学大臣政務官、法務大臣政務官などを歴任。自由民主党では総裁特別補佐、副幹事長、国会対策副委員長、広報局次長、新聞局次長、国会では、衆議院法務委員長、議院運営委員会理事などを歴任。あしなが育英会の副会長を務める。
1963年、小学3年生の時に父親がオートバイの単独事故で死去。その後、母がパートをして3人の子供を育てる。交通遺児育英会の交通遺児奨学生第1期生となり、群馬県立高崎高等学校、早稲田大学教育学部を卒業。大学4年生の時、友人らと共に小学生対象の学習塾「博文館」を開設。早稲田大学時代に雄弁会で幹事長を務めた経験などから、政治家を志すようになった。
1985年東京都議会議員選挙・板橋区に新自由クラブから出馬、落選。1989年東京都議会議員選挙に民社党・社民連・進歩党推薦の無所属候補として初当選。1993年東京都議会議員選挙に自民党から出馬、再選。
1996年、第41回衆議院議員総選挙に自民党から出馬し、初当選。以降7期連続当選。当選後は清和政策研究会へ入会。同年、自民党青年局長安倍晋三の下で同次長。2000年、第42回衆議院議員総選挙に自民党から出馬し、再選。自民党「明日を創る会」のメンバー。2002年、衆議院議事進行係に就任。自民党の文部科学部会副部会長。2003年、法務大臣政務官に就任。2005年、文部科学大臣政務官に就任。未来を見据えた教育のあり方、法整備に関する官民学の勉強会を立ち上げる。その後、自民党副幹事長に就任。皇室典範改正に対しては、慎重な姿勢を見せている。2014年1月28日の定例記者会見で、「いわゆる“自虐史観に基づいた歴史教科書”について、学習指導要領解説の改定を行った」とを表明した。同年9月26日、安倍内閣の内閣官房副長官に就任。幼保一元化を推進するための制度改革に着手。福田康夫内閣では「留学生三十万人計画」の委員会委員長。
2009年の第45回衆議院議員選挙に自民党から出馬し、新党日本新人の有田芳生を約3500票差の僅差で破り、5選。2010年9月に発足した自民党シャドウ・キャビネットでは、「影の文部科学大臣」を務めた。2012年、安倍自民党総裁のもと、教育再生実行本部が設立され教育再生実行本部長就任。同年12月発足の第2次安倍内閣に文部科学大臣兼教育再生担当大臣として初入閣。
2013年9月、第32回夏季オリンピック東京大会並びに第16回夏季パラリンピック東京大会開催が決定したことを受け、同年9月13日付で、国務大臣としての所管事項として「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会の円滑な準備に資するため行政各部の所管する事務の調整」を担当することとなり、新設される五輪担当相を兼任することとなった。
2014年12月24日の第3次安倍内閣で文部科学大臣(教育再生担当、国立国会図書館連絡調整委員会委員、東京オリンピック・パラリンピック担当)に再任。2015年6月25日に専任の五輪担当相が設置され遠藤利明が任命されたことに伴い東京オリンピック・パラリンピック担当の兼務からは離れた(ただし、メイン会場となる新国立競技場の整備や競技力向上は文部科学省の所管として引き続き担当)。
2015年10月7日、内閣改造に伴い、大臣を退任し、総裁特別補佐と特命担当副幹事長に就任。
2016年8月3日、自民党幹事長代行に就任。
2016年9月に、東京都知事選敗戦の責任をとって辞任した石原伸晃代議士に代わり、自由民主党東京都支部連合会の会長に就任。 
 
田村憲久

 

田村憲久(1964- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)。厚生労働大臣(第2次安倍内閣)、総務副大臣(第1次安倍内閣)、文部科学大臣政務官(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)、厚生労働大臣政務官(第1次小泉内閣)、衆議院厚生労働委員長、自民党副幹事長等を務めた。伯父は労働大臣や運輸大臣、通商産業大臣、衆議院議長を務めた元衆議院議員の田村元。祖父は元衆議院議員の田村稔。
三重県松阪市生まれ。三重県立松阪高等学校、千葉大学法経学部経済学科卒業。大学卒業後の1987年(昭和62年)、日本土建に入社。1994年(平成6年)から伯父・田村元の秘書を務める。
1996年(平成8年)、引退する伯父・元の地盤を引き継ぎ、第41回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で三重4区から出馬し、初当選。
2002年(平成14年)に第1次小泉内閣で厚生労働大臣政務官、2003年(平成15年)に第1次小泉第2次改造内閣で文部科学大臣政務官に任命。2003年から自民党三重県連会長を務める。2006年(平成18年)に発足した第1次安倍内閣では総務副大臣を務めた。
2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙では、三重4区で民主党の森本哲生に敗れるが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し5選(惜敗率2位)。2010年9月に発足した自由民主党シャドウ・キャビネットでは「厚生労働大臣」に就任。
2012年(平成24年)12月の第46回衆議院議員総選挙では、三重4区で前回敗れた森本を下し6選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で厚生労働大臣に任命され、初入閣。2014年(平成26年)の内閣改造で退任。同年にそれまで所属していた平成研究会を退会し無派閥となった。2015年(平成27年)には水月会に参加。 
 
林芳正

 

林芳正(1961- ) 参議院議員(4期)、参議院環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員長。参議院外交防衛委員長、防衛大臣(第5代)、参議院政府開発援助等に関する特別委員長、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)、農林水産大臣(第55代・第58代)などを歴任した。学位はMPA(ハーバード大学・1994年)。
三井物産、サンデン交通、山口合同ガスを経て政治家秘書となり、第17回参議院議員通常選挙にて初当選を果たし政界に入る。小渕第2次改造内閣と第1次森内閣にて大蔵政務次官を務め、第1次安倍内閣では内閣府副大臣を務めたほか、参議院では外交防衛委員長や政府開発援助等に関する特別委員長などを務めた。また、自由民主党においては、参議院議員副会長、政務調査会長代理、外交経済連携調査会長など要職を歴任した。福田康夫改造内閣においては防衛大臣、麻生内閣においては内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)、第2次安倍内閣では農林水産大臣を務めるなど閣僚を歴任し、第3次安倍内閣では西川公也の辞任により農林水産大臣に再登板することになった。厚生大臣、大蔵大臣を務めた元衆議院議員の林義郎は父。高祖父の林平四郎、祖父の林佳介もそれぞれ衆議院議員を務めた。大分県知事の広瀬勝貞は義理の叔父にあたる。
通産官僚である林義郎の長男として、東京都で生まれる。1969年、父・義郎が第32回衆議院議員総選挙に旧山口1区から出馬するのに伴い、一家で山口県下関市へ転居し、下関市立文関小学校に転入。1973年に下関市立文関小学校を、1976年に下関市立日新中学校を卒業。1979年、山口県立下関西高等学校を卒業した。1984年、東京大学法学部を卒業。
1984年、三井物産に入社。1989年に同社退社、林家のファミリー企業であるサンデン交通に入社、同社社長秘書を務める。1990年に同社退社、山口合同ガスに入社。1991年4月、アメリカ合衆国のハーバード大学大学院に入学(身分は「特別研究生」)。1992年9月、ハーバード大学ケネディスクールに入学。また、1991年9月より代議院議員スティーブ・ニールの銀行委員会スタッフを務めた。1991年11月に退職し、元老院議員ウィリアム・ロスの国際問題アシスタントを務めた。1992年12月、父の義郎が宮澤改造内閣にて大蔵大臣に就任したため、大学院休学。帰国、大臣秘書官を務める。1993年、国会議員政策担当秘書資格試験に合格。1994年2月にケネディスクールに復学し、1994年6月に修了。1994年8月 林義郎の秘書を務める。
1995年、第17回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口県選挙区から出馬し、初当選。2001年7月、第19回参議院議員通常選挙で再選。2007年、第21回参議院議員通常選挙では、自由民主党に逆風が吹く中、山口県選挙区で民主党の戸倉多香子を大差で破り、3選。2012年8月、次期衆議院議員総選挙での山口3区からの出馬を検討するも、現職・河村建夫の選挙区のため、断念。2013年、第23回参議院議員通常選挙では、現職大臣として選挙に臨み、民主党からの出馬はなく、圧倒的な得票数で4選。
その間、参議院や内閣の公職を歴任している。1999年10月、小渕第2次改造内閣で大蔵政務次官に任命される。2004年10月、参議院外交防衛委員長に就任。2006年、第1次安倍内閣で内閣府副大臣に任命される。2008年8月、福田康夫改造内閣で防衛大臣に就任し初入閣を果たしたが、福田康夫首相の唐突な辞任に伴い、1ヶ月あまりで退任した。2009年7月、麻生内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に就任。これは、中川昭一の辞任により財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)を兼務していた与謝野馨の兼任を解くために行われた補充人事(同時に、鳩山邦夫の辞任により総務大臣、国家公安委員会委員長を兼務していた佐藤勉の兼任を解くために、林幹雄が入閣した)。2009年8月、第45回衆議院議員総選挙での自民党惨敗、野党転落に伴う麻生内閣総辞職により、麻生内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策)退任。2012年12月、第2次安倍内閣で農林水産大臣に任命。2014年9月、内閣改造により退任。2015年2月23日の西川公也の辞任にともない、同日に後任の農林水産大臣に任命された。
また、党においては、2009年9月、谷垣禎一自由民主党総裁の下で政務調査会長代理・参議院政策審議会長に就任。2010年、中曽根弘文の参議院議員会長就任に伴い、参議院議員副会長に昇格。同年9月、政調会長代理に留任するとともに、党シャドウ・キャビネットでは財務金融部会長として「影の財務大臣」に就任。2011年9月21日、党人事に関する中曽根への不満から、参議院議員副会長の辞表を提出。中曽根は辞表を受理せず、林を慰留する方針を取った。なお、当初小坂憲次参院幹事長、山本一太参院政審会長の続投を模索していた中曽根は党内の反発を受け、一旦参院幹事長を鴻池祥肇に交代させる人事案を諮ったが否決されたため、参院幹事長に溝手顕正、参院政審会長に岩城光英を起用する新たな人事案を提示して了承され、林も辞表を取り下げた。2012年9月、自由民主党総裁選挙に立候補した。1972年に総裁選挙に推薦人制度が導入されて以降、参院議員が出馬したのは初めてであった。2009年自由民主党総裁選挙に際しても党内の中堅・若手議員を中心に林を擁立する動きがあったが、経験不足を理由に固辞している。総裁選では1回目の投票で27票を獲得するに留まり、5名中最下位に終わった。 
 
茂木敏充

 

茂木敏充(1955- ) 自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自民党政務調査会長、自民党栃木県連会長。第2次安倍内閣で、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)。福田康夫改造内閣で内閣府特命担当大臣(金融)、行政改革担当大臣。第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、個人情報保護、科学技術政策)。第1次小泉第1次改造内閣で外務副大臣を務めたほか、衆議院厚生労働委員長、自民党政務調査会長(第53代)、自由民主党選挙対策委員長等を歴任。
栃木県足利市生まれ。栃木県立足利高等学校、東京大学経済学部卒業。大学卒業後、丸紅、読売新聞社に勤務。その後ハーバード大学ケネディ行政大学院に留学し、行政学修士号を取得した。帰国後、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。1992年、マッキンゼー・アンド・カンパニー会長の大前研一が代表を務める平成維新の会事務局長に就任した。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧栃木2区から出馬し、同区でトップ当選。翌1994年の日本新党解党に際しては新進党結党には参加せず、無所属を経て1995年に自由民主党に入党。1996年の第41回衆議院議員総選挙以降は、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い栃木5区から出馬し、連続6選。1999年、小渕第2次改造内閣で通商産業政務次官に任命され、第1次森内閣まで務める。
2002年、第1次小泉第1次改造内閣で外務副大臣に就任。翌2003年、第1次小泉第2次改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・個人情報保護・科学技術政策)に任命され、第2次小泉内閣まで務めた。
2007年、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、同議連幹事長に就任。2008年、福田康夫改造内閣で内閣府特命担当大臣(金融)として入閣し、また、国務大臣として『行政改革を推進するため企画立案及び行政各部を所管する事務の調整』や『公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部を所管する事務の調整』の担当もした。2009年の第45回衆議院議員総選挙では与党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、栃木5区で民主党の富岡芳忠を破り6選したが、初めて対立候補に比例復活を許した(富岡は比例北関東ブロックで復活)。
2011年9月、自由民主党政務調査会長に就任( - 2012年9月)。2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では、民主党からみんなの党に鞍替えした富岡に比例復活すら許さない大差をつけ、7選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で経済産業大臣・内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)として入閣した。
2014年9月、自民党役員人事で、自由民主党選挙対策委員長に就任。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では8選。
2016年8月の自民党役員人事で、4年ぶりに自由民主党政務調査会長に再任。 
 
太田昭宏

 

太田昭宏(1945- ) 公明党所属の衆議院議員(7期)、公明党全国議員団会議議長。北区ボディビル・フィットネス連盟最高顧問。新進党副幹事長、公明党幹事長代行、公明党国会対策委員長、公明党代表(第2代)、国土交通大臣(第18・19代)、水循環政策担当大臣(第1・2代)などを歴任した。
愛知県新城市に生まれ、生後間もなく豊橋市へ転居する。愛知県立時習館高等学校、京都大学工学部土木工学科卒業。京大在学中は相撲部に所属した。京都大学大学院工学研究科修士課程を修了した後、1971年4月に公明党機関紙局に就職し、公明新聞で国会担当記者を務める。1982年、創価学会青年部長に就任。公明党の「プリンス」とよばれる。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に公明党公認で旧東京8区から出馬するも、落選。
1993年の第40回衆議院議員総選挙では旧東京9区に国替えして出馬し、初当選した。同年8月、当時の公明党委員長石田幸四郎の下で党副書記長、政策審議副会長に就任。早くから「公明党のプリンス」と目された。
1994年、公明党解党により公明新党を経て新進党結党に参加する。新進党では副幹事長に就任した。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、再選。
1998年、新進党解党により、旧公明党系議員が結成した新党平和に参加した後、新党平和・黎明クラブ・公明の合併による公明党再結成に伴い、党幹事長代行に就任。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、3選。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では比例単独から東京12区に国替えし、初めて小選挙区で当選。この選挙では自由民主党、保守新党の推薦を受けた(保守新党は選挙後自民党へ合流)。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案の採決で反対票を投じた八代英太(自民党の公認が得られず無所属で出馬)らを破り、5選。
2006年、神崎武法の退任に伴う公明党代表選挙に立候補し、太田以外に立候補者がいなかったため無投票で党代表に選出された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙で従来通り重複立候補を辞退し東京12区のみに立候補したが、民主党の青木愛に僅差で敗れ現職の与党党首でありながら落選した。公明党で党首が落選するのは立党以来初めてであった。総選挙後、9月3日の党常任役員会で党代表辞任を表明し、了承された。なお、同じく落選した党幹事長の北側一雄も併せて辞任した。同年9月8日の公明党全国代表者会議において、太田の辞任と山口那津男の新代表就任が正式に決まる。これに併せて党規約が改正され、太田は新設ポストである全国代表者会議議長に就任、執行部に残留した。同年12月6日、2010年7月の第22回参議院議員通常選挙における比例区候補として公明党から公認された。しかし、2010年2月2日には一転、公明党は太田の公認を取り消し、党ホームページの参院選立候補予定者欄から太田の名前を削除した。太田の参議院への出馬に対し、創価学会婦人部など学会内部から否定的な意見が多かったことが遠因といわれる。
この公認取り消しの混乱で政治生命の衰えも一部で指摘されたが、その後も党議長として党内序列2位を維持し、参院選や地方選挙の候補者応援などの政治活動を継続。
2011年11月17日、公明党中央幹事会は太田を第46回衆議院議員総選挙の東京12区候補予定者に決定。なお、太田の出馬は議員在任中に66歳を超えないとする党の内規に抵触するが、党は太田を例外扱いとすることを認めた。
2012年12月16日に行われた総選挙の結果、太田は民主党から日本未来の党に移籍した青木を破り当選、国政に復帰した。
12月26日、第2次安倍内閣において国土交通大臣として初入閣。
2013年5月26日、ミャンマー訪問中の内閣総理大臣安倍晋三の代理として大相撲夏場所総理大臣杯を白鵬に授与した。
2014年5月20日、国土交通大臣と兼務して初代水循環政策担当大臣に就任。9月3日に発足した第2次安倍改造内閣でも同職に再任された。同年9月21日、公明党全国代表者会議の廃止に伴い、衆参両院議員団と全国地方議員団会議で構成する公明党全国議員団会議の初代議長に就任した。同年12月14日に執行された第47回衆議院議員総選挙で7期目の当選を果たし、12月24日に発足した第3次安倍内閣では国土交通大臣及び水循環政策担当大臣に再任される。
2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣発足に伴い、党政務調査会長の石井啓一に後を託し、大臣職を退任した。 
 
根本匠

 

根本匠(1951- ) 建設官僚。自由民主党所属の衆議院議員(7期)。第2次安倍内閣で復興大臣、第1次小泉第1次改造内閣で内閣総理大臣補佐官(行政改革の推進及び食品安全委員会(仮称)等に係る施策担当)・内閣府副大臣、第1次安倍内閣で内閣総理大臣補佐官(経済財政担当)を歴任した他、衆議院経済産業委員長を務めた。曾祖父は貴族院議員を務めた根本祐太郎。父は根本正良。
福島県郡山市生まれ。福島県立安積高等学校、東京大学経済学部卒業。1974年、建設省に入省、建設省大臣官房政策企画官を最後に退官。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に粟山明の地盤を継承し、自由民主党公認で旧福島1区(定数4)から出馬し、得票数2位で初当選した。当選後、宏池会に入会。1998年、小渕内閣で厚生政務次官に就任。2002年、第1次小泉第1次改造内閣で内閣府副大臣及び内閣総理大臣補佐官(経済財政、行政改革、道路公団民営化、構造改革特区・産業再生機構・食の安全など7分野担当)に任命された。2003年、衆議院経済産業委員長に就任。2006年、第1次安倍内閣で内閣総理大臣補佐官(経済財政担当)に任命された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では福島2区で、千葉7区から国替えをした民主党前職の太田和美に敗れ、比例東北ブロックでの復活も叶わず落選した。2010年、東北志士の会会長に就任。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、日本未来の党から出馬した太田らを破り、福島2区で6期目の当選を果たした。選挙後に発足した第2次安倍内閣で復興大臣に任命され、初入閣した。2014年の内閣改造に伴い退任。同年12月の第47回衆議院議員総選挙で、7選。 現在、金融調査会会長、税制調査会副会長、東日本大震災復興加速化本部常任顧問、同本部福島会議代表、東京農業大学客員教授。 
 
古屋圭司

 

古屋圭司(1952- ) 自由民主党所属の衆議院議員(9期)、自由民主党選挙対策委員長。国家公安委員会委員長、拉致問題担当大臣、防災担当大臣、国土強靭化担当大臣(初代)(第2次安倍内閣)、経済産業副大臣(第1次小泉内閣)、衆議院文部科学委員長・商工委員長等を歴任。旧姓は松本。伯父は自治大臣を務めた元自民党衆議院議員の古屋亨。
東京都出身(本籍地は岐阜県恵那市大井町で、選出選挙区の岐阜5区に含まれる)。出生時の姓は松本であったが、母方の伯父にあたる古屋亨の養子になったため、以後古屋姓を名乗る。中学生の頃、アメリカに3年間ホームステイしていた。1970年に成蹊高等学校へ編入学し、1972年3月に同高等学校卒業。1976年3月に成蹊大学経済学部経済学科卒業後、同年4月に大正海上火災保険(現三井住友海上火災保険)へ入社。1984年に退社し、安倍晋太郎(当時外務大臣)の秘書に転じる。翌1985年から養父である古屋亨の秘書を務める。
1990年、養父の後継者として第39回衆議院議員総選挙に自民党公認で旧岐阜2区から出馬し、初当選。当選後、安倍派に入会。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い岐阜5区から出馬し、再選。1998年の自由民主党総裁選挙では同じ三塚派から立候補した小泉純一郎ではなく、亀井静香、平沼赳夫らと共に梶山静六を支援。総裁選後に亀井らと三塚派を離脱して亀井グループを結成。翌1999年、村上・亀井派の旗揚げに参加した。2001年、第1次小泉内閣で経済産業副大臣に任命された。
2005年の郵政国会では、郵政民営化法案に反対票を投じる。派閥領袖の亀井は自民党を離党して国民新党を結党したが、古屋は新党には参加せず岐阜5区から無所属で出馬し6選。なお、古屋は当時自民党岐阜県連会長を務めていたが、党公認を得られず無所属で出馬するのに際し、会長を辞任した(後任は金子一義)。選挙での自民党圧勝を受け、総選挙後の特別国会に再提出された郵政民営化法案には一転して賛成票を投じたが、離党勧告を受けたため自民党を離党する。
2006年11月、自民党に復党届及び誓約書を提出し、12月に党紀委員会で復党が認められたため、自民党に復党(郵政造反組復党問題)。2007年5月、価値観外交を推進する議員の会の会長に就任し、麻生太郎が提唱する価値観外交への支持を表明。同年9月の自由民主党総裁選挙では、麻生に投票したが、麻生は福田康夫に敗れた。同年10月、伊吹派に再入会。2008年自由民主党総裁選挙では、麻生の推薦人に名を連ねる。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、自民党公認で岐阜5区から出馬。民主党の阿知波吉信に敗れたが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、7選。同年、自由民主党中央政治大学院の学院長に就任。
2010年1月、のぞみに参加。なおのぞみへの参加に伴い、所属していた伊吹派を休会。2011年1月、民主党、自民党所属議員を中心とする超党派の議員連盟「憲法96条改正を目指す議員連盟」の結成に参加した。
2012年9月の自由民主党総裁選挙では安倍晋三を支援し、推薦人にも名を連ねた。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、岐阜5区で前回敗れた民主党の阿知波に比例復活すら許さないほどの大差をつけて破り、8選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で国家公安委員会委員長兼内閣府特命担当大臣(防災)および拉致問題・国土強靭化を担当する国務大臣に任命され、初入閣した。
2014年9月の内閣改造により国務大臣を退任。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、阿知波を再び下して9選。
2016年8月、自由民主党選挙対策委員長に就任。 
 
山本一太

 

山本一太(1958- ) 参議院議員(4期)、参議院予算委員長、自由民主党総裁ネット戦略アドバイザー・政調担当、中央大学大学院客員教授。自由民主党参議院政策審議会長、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)、内閣府特命担当大臣(宇宙政策担当)、外務副大臣(福田康夫改造内閣)、参議院外交防衛委員長を歴任した。学位はMSFS(ジョージタウン大学)。
群馬県吾妻郡草津町出身。1976年、群馬県立渋川高等学校を卒業した。その後、中央大学に進学し、1982年に同大学の法学部を卒業した。1985年5月、ジョージタウン大学大学院の国際政治学修士課程を修了した。大学院時代について、山本は「1983年(84年?)に米国のジョージタウン大学でMSFS(Master Science of School of Foreign Service )という国際政治学の修士号を取得した。2年間、毎日のように授業に通い、夜遅くまでキャンパスにある図書館で猛勉強した」(原文ママ)と述懐している。大学院修了後に朝日新聞社の入社試験を受けて合格し、福島支局に配属された。1986年11月に国際協力事業団に採用され、一時は国際連合開発計画に出向していた。父の死去に伴って1995年の第17回参議院議員通常選挙に群馬県選挙区から出馬し、初当選。同年の自民党総裁選挙においては、小泉純一郎が出馬するために必要な推薦人集めに奔走した。小泉は出馬したが結果は惨敗だった。2001年の第19回参議院議員通常選挙で再選。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で3選。安倍応援団として活躍。
2008年8月発足の福田康夫改造内閣で外務副大臣に就任。直後の8月26日にアフガニスタンで起きた邦人の拘束・殺害事件の対策本部長となった。
その後、福田の総理総裁辞任を受け、9月5日、自民党総裁選への出馬を表明し、外務副大臣の辞任を表明(1972年に自民党総裁選で推薦制が導入されて以来、参議院議員の自民党総裁選立候補表明は初である)。河野太郎ら、プロジェクト日本復活のメンバー6人に支持されたが、出馬に必要な20人の推薦人集めが難航し、棚橋泰文との一本化も決裂したために3日後の9月8日に出馬を断念した。
2010年4月、所属していた町村派を退会。同年8月11日に行われた党参議院議員会長選挙では中曽根弘文の推薦人に名を連ねて当選させ、その後の参院自民党の人事で山本が参院政審会長に起用された。参院政審会長として党務における3つの目標(自民党役員会の正式メンバー昇格、執行部の一員としての総務会出席、本部政調会長代理との兼任)を掲げ、翌9月に発足した新党三役(幹事長:石原伸晃・総務会長:小池百合子・政調会長:石破茂)が山本の主張を取り入れたことで3つの目標が実現した。
2011年10月6日、自民党参議院政策審議会長を退任。2012年8月、衆議院群馬2区への転出要請があるも、9月、出馬しないこととなる。
2012年12月26日に発足した第2次安倍内閣にて初入閣し、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)、内閣府特命担当大臣(宇宙政策担当)の3ポストを兼務することとなった。また、国務大臣としての所管事項として、「情報通信技術(IT)による産業・社会構造の変革を円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」と「海洋及び領土問題に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」をそれぞれ担当することとなった。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙では、次点候補に40万票以上の差をつけ4選。2014年9月の内閣改造により退任。
その後、安倍晋三に対して「総裁ネット戦略アドバイザー」を創設するよう要望するとともに、その候補者として自分で自分を推薦していた。その結果、2014年10月29日、自由民主党の総裁ネット戦略アドバイザーに任命された。
2015年12月15日、自由民主党の総裁ネット戦略アドバイザー・政調担当に任命された。
2016年9月26日、参議院予算委員長に就任。
2016年10月1日、自民党群馬県連会長に就任。 
 
森まさこ

 

森まさこ(1964- ) 弁護士。参議院議員(2期)。本名は三好 雅子(みよし まさこ)。国務大臣としての公権力の行使等に際しては正式な本名を使用しているが、選挙活動等においては通称を用いている。金融庁総務企画局課長補佐、金融庁検査局金融証券検査官、参議院行政監視委員長、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)などを歴任した。
福島県いわき市生まれ。12歳の時、全財産を失った父親が弁護士に救われたのをきっかけに、自身も弁護士を志望した。いわき市立植田小学校、いわき市立植田中学校、福島県立磐城女子高等高校(現福島県立磐城桜が丘高等学校)、東北大学法学部卒業。大学時代の同期に枝野幸男(民進党幹事長)がいる。大学卒業後、1992年に27歳で司法試験に合格。司法修習47期(同期に西脇亨輔、加藤武徳)を経て、1995年に弁護士登録。
1998年、独立し弁護士事務所を設立する。翌1999年、日本弁護士連合会による人権弁護士育成のためのアメリカ合衆国留学制度を利用し、出産したばかりの長女を連れて渡米。名門ニューヨーク大学(NYU)ロースクールに入学した。米国留学中、金融の専門知識の必要性を痛感した。帰国後、金融庁の任期付職員募集に応募し、金融庁に入庁。総務企画局企画課信用制度参事官室課長補佐、信用制度参事官室課長補佐を務める。その他、日本弁護士連合会消費者問題対策委員やニューヨーク大学(NYU)ロースクール客員研究員を歴任した。
2006年、佐藤栄佐久の辞職に伴う福島県知事選挙に自由民主党・公明党・新党日本の推薦を受けて無所属で出馬したが、民主党が擁立した前参議院議員の佐藤雄平に敗れた。翌2007年、第21回参議院議員通常選挙に自民党公認で福島県選挙区から出馬し、初当選。当選直後の2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持し、半年後に福田が所属する町村派へ入会した。2008年自由民主党総裁選挙では与謝野馨、2009年自由民主党総裁選挙では谷垣禎一の推薦人名簿にそれぞれ名を連ねた。
2010年4月、自民党が設置した政権力委員会(ネクスト・ジャパン)では治安・法務・政治改革担当に就任。同年9月、政権力委員会の廃止に代わり新設された自由民主党シャドウ・キャビネットで影の法務副大臣に起用された。同年の参議院議員会長選挙では、元外務大臣・中曽根弘文の推薦人に名を連ねた(中曽根は参議院幹事長の谷川秀善を破り当選)。
2012年、参議院行政監視委員長に就任。同年12月、第2次安倍内閣にて当選1回ながら初入閣し、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)の3閣僚を兼務した。同時に国務大臣としての所管事項として、女性活力・子育て支援を担当することになった。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙で再選。同年9月17日、国務大臣としての所管事項として特定秘密保護法案も担当することとなった。2014年9月の内閣改造で退任。2015年10月23日、自民党環境部会長に就任。2016年、参議院環境委員長に就任。 
 
稲田朋美

 

「稲田朋美」報道情報
稲田朋美(1959-) 弁護士。旧姓は椿原。自由民主党所属の衆議院議員(4期)、防衛大臣(第15代)、自民党福井県連顧問。内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、国家公務員制度担当大臣、自由民主党政務調査会長 (第56代)、自民党福井県連会長を歴任。
1959年 – 福井県今立郡今立町に、椿原泰夫の娘として出生
1981年(昭和56年)3月 – 早稲田大学法学部卒業
1985年(昭和60年) – 弁護士登録(大阪弁護士会、2008年12月以降は福井弁護士会)
2004年(平成16年) – 弁護士法人光明会代表就任
早稲田大学法学部在学中、当時男女雇用機会均等法も無く就職先がほとんど無かったので、司法試験を受けようと考えた。1日約16時間ほど勉強して司法試験に合格し、弁護士になると5年間法律事務所の雇われ弁護士として法律の仕事を習得したが、子供ができたのを機にやめた。その頃夫が『産経新聞』と『正論』を読んでいたので稲田も読むようになり、やがて「いまの教育はおかしいんじゃないでしょうか」などといった投稿をたびたびするようになった。その後弁護士の高池勝彦から電話で「南京事件についていっしょに裁判をやらないか」と声をかけられる。本人はその当時の心境を「東京日日新聞、現在の毎日新聞が戦意高揚で書いた〔南京事件の際の「百人斬り競争」の〕嘘の記事が唯一の証拠になって、戦後の南京の軍事裁判のBC級戦犯として〔競争をしたと書かれた野田毅少尉と向井敏明少尉の〕2人が処刑された。まったく嘘のことが、日本の名誉を傷つけるようなことが教科書でも教えられているし、本当のこととして流布されているという現状を私は日本人として放置できないと思ったんです」と述べている。最終弁論の日、向井少尉の次女の向井千恵子に出会い、女性ひとりで戦っている姿を見て感銘を受ける。これがきっかけで野田少尉と向井少尉の遺族が『毎日新聞』『朝日新聞』本多勝一らを相手取り、名誉毀損の裁判を起こすことになった。稲田は「私は政治には全然興味がなかったんですけど、嘘のことで日本の名誉が毀損されているという状況を何とかしたいと思ったんですね」と述べている。郵政解散のちょうど2週間ほど前に、自民党本部で「百人斬り競争」はでっち上げであるという内容の講演をする機会があり、これが聴講していた安倍晋三幹事長代理の目に留まり、政治家にスカウトされることになった。
○2005年(平成17年)
8月18日 - 自由民主党本部にて、小泉純一郎首相から郵政民営化法案に反対した松宮勲衆議院議員への「刺客」候補として福井1区から自民党公認で総選挙に出馬することを要請され、受諾(同3日前に安倍晋三幹事長代理から要請受けていた)。同21日、立候補を正式表明。
9月11日 - 第44回衆議院議員総選挙(福井1区・自民党公認)で初当選。51,242票。次点の民主党元職・笹木竜三とは373票差だった。自民党はこの総選挙で女性候補を比例上位優遇とし、稲田も比例北陸信越ブロックで他の重複立候補者よりも上位の2位に登載された。
○2006年(平成18年)
9月20日 - 自民党総裁選で麻生の推薦人名簿に名を連ね松本純と共に立候補届出人を務める。
○2007年(平成19年)9月 - 自民党総裁選で、清和研所属国会議員では唯一人派閥創始者福田赳夫の長男で親中派・リベラル福田康夫ではなく麻生を支援
○2008年(平成20年)9月22日 - 自民党総裁選で、麻生の推薦人に名を連ねる。
○2009年(平成21年)
○8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙(福井1区・自民党公認)で笹木を下して再選。72,639票。この選挙において民主党の現職候補を都道府県庁所在地のある小選挙区(1区)で破ったのは稲田のみである。
○2010年(平成22年)
4月6日 - 自民党政権力委員会(谷垣禎一自民党総裁を首班とする影の内閣)社会資本・ネットワーク整備・情報通信副担当(同年9月廃止)
9月22日 - 自民党シャドウ・キャビネット法務副大臣。
○2012年(平成24年)
9月26日 - 自民党総裁選で、安倍晋三の推薦人に名を連ねる。
12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙(福井1区・自民党公認)で3選。68,027票。
12月26日 - 第2次安倍内閣の閣僚人事で、内閣府特命担当大臣(規制改革担当)に就任し、同時に、行政改革、公務員制度改革、再チャレンジ、クールジャパン戦略等を担当する国務大臣もそれぞれ兼務した。
○2014年(平成26年)
5月30日 - 兼国家公務員制度担当大臣。
9月3日 - 第56代自由民主党政務調査会長
12月14日 - 第47回衆議院議員総選挙(福井1区・自民党公認)で4選。116,855票。
○2016年(平成28年) 第3次安倍第2次改造内閣の閣僚人事で、防衛大臣に就任した。 
 
諸話 2013

 

安倍政権の命運を握る「新・四人組」 2013/1
 「お友達」内閣の苦い教訓は活かされるのか。人事で占う安倍内閣の行方。
「安倍晋三君を第96代総理大臣に指名します」――。
自民党・公明党合わせて325議席という圧勝で、「逆」政権交代を果たした第46回総選挙から10日後の12月26日、安倍晋三は、衆院での首班指名を受け、5年3カ月ぶりに総理大臣に返り咲いた。06年に発足した第1次安倍内閣が掲げたキャッチフレーズ「再チャレンジ」を自ら果たした形だ。
だが、安倍の再チャレンジの成否は、5年前に“お友達内閣”と揶揄され、官邸崩壊の引き金となった人事下手を克服できるか、にかかっている。
「来年夏の参院選では公明党の協力を得なければなりません。日本維新の会やみんなの党とは予算案や政策ごとの部分連合で協力をあおいでいきましょう」
すでにマスコミの情勢調査で「自公で300議席超」が明白になっていた衆院選投開票日数日前の12月中旬。自民党幹事長代行だった菅義偉は、携帯電話で、安倍にこう進言した。安倍は当初から日本維新の会と連立して憲法改正を打ち出すことも視野に入れていたが、菅の言葉で、参院選までは自公体制を基軸とした「安全運転」に徹することに落ち着いた。
内閣の司令塔である菅官房長官に対する安倍の信頼は絶大なものがある。菅は秋田県の農家に生まれ、高校卒業後、集団就職で上京した。働きながら法政大学を卒業、故小此木彦三郎元通産相の秘書から、横浜市議となり1996年、47歳で、初当選を果たした「苦労人」。
そもそも、06年の自民党総裁選で候補の座を、同じ森派の福田康夫元首相と争い、派閥分裂も覚悟した安倍の命を受け、衆院当選6回以下、参院当選2回以下の自民党所属議員94人を集めて「再チャレンジ支援議員連盟」を立ち上げ、勝負の流れを決定的にしたのが菅だった。その論功行賞で当選4回にして総務相に就任。ふるさと納税の創設、地方分権改革推進法の成立、NHK受信料値下げなど、お友達内閣の中で、その剛腕ぶりは異彩を放った。
昨年の自民党総裁選に出馬するにあたっても、8月の時点では迷いを見せていた安倍に対して「自民党支持層には安倍待望論があるが、向こうからはやってこない。飛び込んで局面を打開するべきです」と“主戦論”を唱え、出馬の意思を固めさせた。お友達から一歩踏み込んだ盟友に近い存在だ。
その菅より関係の長い盟友が首相補佐官となった衛藤晟一参院議員だ。
衆院選圧勝の熱気が冷めやらない12月18日午後5時、自民党本部。衛藤は記者の目を避けるように、地下駐車場から4階の総裁室裏手へ直行するエレベーターで安倍を訪ね、ある文書を手渡した。それは安倍の指示を受けた衛藤が、中西輝政京大名誉教授、八木秀次高崎経済大教授らと水面下で接触し、とりまとめた安倍政権の“工程表”だった。
この工程表においては、長期的な目標として「国防軍」の創設を柱とする憲法改正を明記。中期的には米国を狙う弾道ミサイルの迎撃など限定的な集団的自衛権の行使容認、例外を設けた環太平洋経済連携協定(TPP)参加を掲げ、項目ごとに具体的な手法も付記した。短期的な目標としては、尖閣諸島への公務員常駐に加え、「河野談話」の事実上の撤回や拉致問題の解決も盛り込まれた。
いずれも戦後レジームからの脱却を唱える安倍の思想を色濃く反映したものだが、実はこうした安倍の思想形成に大きな影響を及ぼしてきた人物こそ衛藤なのである。衛藤は大分大生時代、右派の学生運動家として全国に名をはせた。25歳で大分市議当選後、大分県議を2期務めて、90年に衆議院議員に初当選した。安倍の父、晋太郎の全面支援で大量当選した新人の1人だった。
晋太郎が志半ばで病に倒れ、晋三が後を継ぐと、衛藤は「晋太郎の夢を晋三に果たさせる」と心に期す。今や、安倍の有力なブレーンとなっている右派のシンクタンク「日本政策研究センター」の伊藤哲夫代表を、若き日の安倍に紹介したのも衛藤だった。伊藤と衛藤は学生運動の同志の関係である。
衛藤は、保守政治家としての安倍晋三の「生みの親」とも言える。
「安倍一族」の登場
新内閣の人事で目新しさを感じさせるのが加藤勝信官房副長官の存在だ。党外からは「加藤って、誰?」という反応で受け止められたが、党内、特に旧福田派(清和会)関係者では、「安倍らしい人事だ」と頷く向きが多い。
2人の関係の源流は、今から20年以上前に遡る。加藤は、加藤六月元自民党政調会長の女婿。六月は安倍の父、晋太郎の「最側近」として、故三塚博元蔵相、塩川正十郎元財務相、森喜朗元首相とともに「安倍派四天王」と称された。安倍にしてみれば、勝信との関係は、父と六月との関係にも重なってくる。
さらに六月の妻で、加藤の義母にあたる睦子夫人は、晋太郎の妻で安倍の母親の洋子夫人と極めて親しく、「姉妹」関係と評されるほど。山中湖畔にある富士急行が開発した別荘地には、安倍、加藤両家の別荘が歩いて行ける距離にあり、毎年、家族ぐるみのつきあいをしている。「安倍一族」という扱いなのだ。
加藤は東大経済学部から旧大蔵省に進み、主計局主査を務めた「政策通」でもある。衛藤の下で「『創生』日本」の事務局長に就任、安倍の発信したいメッセージを巧みに演説の草稿に仕立てたことで、「一族」としてだけでなく、政治家としても信任を得た。額賀派に所属しているが、ここ2年ほどは衆院第1議員会館12階の安倍の部屋で、安倍から呼び出された加藤の姿が頻繁に目撃されている。安倍が総裁に返り咲いた際の党人事では、総裁特別補佐のポストで、重用されたが、一時は、「政調会長」という大抜擢さえ取りざたされた。総裁選で安倍に敗れた石破茂が、安倍主導の人事を牽制するため、その加藤を「政調会長に抜擢して目玉人事にすればいい」と安倍に伝わるよう周辺に言い触らしたためだ。これが後に安倍と石破の間がぎくしゃくする一因にもなった。安倍のお友達である甘利明の政調会長起用を牽制したと受け止められたのである。
この自民党総裁選の直前、甲府市内での街頭演説の帰途、東京・新宿のホテルに安倍が密かに呼び寄せたのが、菅、衛藤、加藤の3人だった。この場には甘利明も呼ばれていたが、安倍選対本部長という立場で声がかかっており、コアメンバーはあくまで前出の3人である。
「1回目の投票で国会議員票は54票となります」
そこで披露された票読みは、決選投票に至るまで、実際の結果とほぼピタリと一致するものだった。事実上、この夜、安倍の中で第2次安倍内閣の陣容が固まっていたのである。
一方で今回の人事において、目立たないが、注目すべき人物が経産省資源エネルギー庁次長から政務秘書官に就いた今井尚哉だ。通常、自民党の首相ならばこのポストには事務所の古参秘書が就くが、安倍は第1次内閣でも内閣府から井上義行を登用している。もっとも、国鉄の機関士出身で、ノンキャリアだった井上と対照的に、今井は経産省のキャリアだ。日本経団連名誉会長の今井敬元新日鉄会長の甥という毛並みの良さも目を引く。今井は、第1次安倍内閣では事務秘書官として安倍を支え、自身も「安倍さんとは相性がいい」と認めるほど、良好な関係を築いた。
その今井は電力自由化が持論という改革派の一面を持つが、関西電力大飯原発再稼働問題では、稼働に向け水面下工作を展開した際の活躍ぶりが際立った。今井は栃木県立宇都宮高校の後輩である枝野幸男前経産相に接近し、閣僚会議に陪席することに成功すると、終始会議をリードした。また、2月下旬には都内のホテルで、「再稼働反対」を掲げていた橋下徹大阪市長と会談、「電力不足になると難病患者が亡くなるなど社会的な犠牲者が出る」という理屈で、橋下をも説得している。
「毛並みの良さや、『ザ・官僚』のような見かけとは裏腹に、鼻っ柱が強く政治的な行動も多い。小泉純一郎元首相の政務秘書官だった飯島勲とは全くタイプが違うが、『新・官邸のラスプーチン』になるかもしれない」との評もある。
菅、衛藤、加藤、今井。この「新・四人組」が安倍政権の命運を握る。
かつての「お友達」は
一方で、第1次安倍内閣で重用されたかつての「お友達」の影は薄くなった。その象徴が、塩崎恭久元官房長官だ。
安倍と塩崎との間に距離ができたのは総裁選直後のことだった。塩崎も安倍の距離感を察したのか、解散後は、自分の選挙に専念。塩崎は、安倍の経済財政政策を策定する日本経済再生本部(安倍本部長)の事務総長に就任すると見られていたが、ふたを開けてみると事務総長は、総裁選で安倍と争った石原伸晃前幹事長の陣営幹部だった茂木敏充前政調会長。
参院枠の官房副長官には、「お友達」の残党である世耕弘成元首相補佐官が就いたものの、安倍が脱・お友達を意識しているのは確かなようだ。
だが、いくら「お友達」を遠ざけても、安倍政権への懸念材料は残る。
「石破幹事長に菅官房長官か……。言っても分からないんだな」
衆院選の投開票翌日から、マスコミで報じられた政権の中枢人事を見ながら森喜朗元首相は苦虫を噛み潰したような表情を見せていた。
かつて自民党を離党した経験があり、脱派閥を掲げる石破や、旧小渕派でスタートしながら、次々と派閥を離脱しては、故梶山静六、加藤紘一、古賀誠そして安倍と、いつの間にか時の党内有力者の傍にいる菅に対して、森は苦々しい思いを抱いてきた。そもそも、自民党が野党に転落した09年の総選挙の際、時の首相、麻生太郎に対して解散先送りを進言し続けたのが、当時選対副委員長だった菅だった。
森は解散前と選挙後の2度にわたって安倍に対して、「菅も塩崎も、君が重用する連中は党内の嫌われ者ばかりじゃないか」と苦言を呈した。安倍は「そうなんですよね。わかっているのですが……」と応じたが、森の忠告が受け入れられることはなかった。
衆院選圧勝の熱気が完全に冷めたとき、今回の人事がベテランの反発を招き、一気に議員の数が膨れ上がった自民党内で遠心力として働く恐れは十分にある。そうなったとき、幹事長に石破を留任させたことも、安倍の党へのガバナンスを低下させることになりかねない。安倍を支持する議員たちは、「石破はポスト安倍を狙っている。参院選後には幹事長から外さなければ」と警戒感を露わにする。
安倍の決断が吉と出るか凶と出るかは、不透明だ。
もう1つの懸念材料は、安倍が「克服できた」と言い張る体調問題だ。首相退陣の原因となった潰瘍性大腸炎を、新薬「アサコール」でコントロールできていると言っているが、衆院選直後の記者会見で自ら認めたようにアサコールは特効薬ではなく、完治したわけではない。政治家の脳内に最もアドレナリンが放出され、免疫力が高まるはずの衆院選の最中、12人の党首の中で、顕著に風邪をひいたのは安倍1人だった。
さらに最も身近で健康管理にあたるべき昭恵夫人の「能天気さ」が関係者の心配の種という。昭恵夫人はアサコールの効用を信じてか、手づくりで、安倍の体調に合わせた料理をつくるようなことも特にせず、反原発の友人たちと都内に開いた居酒屋経営に没頭する日々だ。
「アベノミクス」として市場関係者から歓迎された安倍の経済対策も、この先の経済状況によっては、懸念材料のひとつになりかねない。
12月20日に開かれた日銀の金融政策決定会合。前年比2%の上昇率を達成する消費者物価の目標設定を検討することを決めたことに政財界の注目が集まったが、市場関係者はむしろ「景気は一段と弱含んでいる」という、景気判断の引き下げに着目した。
「憲法改正など右派色を消して、景気回復に全力を注ぎ、7月の参院選で議席増を図る」のが、安倍と菅らの基本戦略だが、半年あまりで、「一段と弱含んでいる」景気を上向かせることは困難だ。
政権の中間評価と位置付けられる参院選も04年以降の3回、与党が勝利したことはない。そして、長引く景気低迷を背景に、いずれも「年金」や「消費税」など生活に直結する課題が争点になり、07年参院選では自民党が惨敗、その後、ほどなく安倍は退陣している。
高揚感の裏で、安倍らの脳裏には「あの悪夢」がちらつき始めている。 
麻生太郎が安倍政権の火種になる日 2013/2
 順風満帆の「ASA」政権。脇の甘い実力者をコントロールできるか。
「私はかつて病のために職を辞し、大きな政治的挫折を経験した人間です。国家のかじ取りをつかさどる重責を改めてお引き受けするからには、過去の反省を教訓として心に刻み、丁寧な対話を心掛けながら、真摯に国政運営にあたっていくことを誓います」
1月28日午後、衆院本会議。首相・安倍晋三が演壇から所信表明演説を行った。安倍が国会で演説をするのは2007年9月10日以来。この日も首相として所信表明したが、わずか2日後に政権を投げ出してしまった。安倍にとって今回の所信表明はリベンジの舞台だった。
演説は「安倍らしさ」がない。中国、韓国などを敵視する勇ましさは影を潜め、憲法改正も訴えない。安全運転の内容だ。とかくニュースを発信することに固執し、批判されるとムキになって反論していた一度目の首相の時の「反省と教訓」が安倍を変化させている。
こんな安倍に世論は好意的だ。共同通信社が27日に発表した世論調査で内閣支持率は66.7%。6年前、失望した有権者は、当時より成長したと評価しているのだろう。
安倍も国民から「1回目と同じ」と思われた時は、終わりだと自覚している。安倍は昨年大みそかの夜、経済再生担当相・甘利明ら、頼りにする閣僚にメールを送った。
「不可能と思われた2回目の首相を担当することになりました。命がけでやります」という決意表明だった。受け取った閣僚は、安倍の決意を感じ「全力で支えます」などと返している。
安倍がものごころついた時、祖父・岸信介は首相だった。そして退陣も目の当たりにした。その後、岸は「もう一度、首相になったら、もっとうまくやれる」と語っていたが、その夢は果たせなかった。祖父、そして一度のチャンスにも恵まれなかった父・安倍晋太郎のためにも、二度目の自分は失敗できないと心に言い聞かせる。大みそかのメールには安倍の決意が感じ取れる。
だが上手の手から水が漏るように、政権下では、ほころびの目が見えるようになってきた。
安倍は1月16日から4日間の日程で、ベトナム、タイ、インドネシアの三国を訪問した。懸案のない三国を比較的ゆったりとした日程で回るのは、体調不安を抱える安倍にとっては格好の「慣らし運転」だった。
ハノイに向かう政府専用機で安倍は上機嫌だった。自衛隊のジャンパーを着てスタッフの席を回り、愛嬌を振りまいた。このジャンパーは7年前、一度目の首相の時にもらったのを大切に保管していて、わざわざ持ち込んだのだった。この後、安倍は、新しいジャンパーも受け取っている。
ハノイで宿舎に入り、少しくつろごうとしていた時、アルジェリアで邦人が拘束された、との一報が入る。「慣らし運転」は終わった。以後は、事件対応の合間に公式日程をこなすようなものだった。
安倍が外遊すると、何かが起きる。07年8月、インドなどを歴訪した際に体調を崩し、結果として辞任に追い込まれたことはよく知られている。首相としての初外遊は06年10月の中国、韓国訪問だったが、移動の政府専用機の中で、北朝鮮が核実験を強行する知らせを聞いた。期せずして今回の外遊の前も、北朝鮮が核実験を強行する可能性があったため、官邸は北朝鮮に対しては万全の備えをしていた。ところが実際は、北朝鮮ではなく無警戒のアフリカで起きた問題に振り回されることになった。
日本はアフリカ外交に弱く、独自の情報収集能力は皆無に近い。湾岸危機の頃から指摘されてきたが、今も変わらない。官房長官・菅義偉は会見で「情報が錯綜していて……」を何度も何度も繰り返し、官邸詰めの記者からは「今年の流行語大賞になるのでは」と苦笑交じりの声が漏れた。安倍が帰国を早める判断が遅れたこと。首相と外相・岸田文雄が同時に日本を離れていた時期があったこと。そして事態が緊迫する19日の夜、安倍が都内のキャピトルホテル東急の「水簾」で自民党政調会長代理・塩崎恭久、みんなの党代表・渡辺喜美らと会食を楽しんだこと……。揚げ足を取られても仕方ないようなミスを政府はいくつも犯している。民主党政権が続いていたら、集中砲火を浴びていただろう。今回、安倍があまり批判されなかったのは政権発足直後の「ご祝儀相場」が残っていたにすぎない。少なくとも安倍政権が、危機管理に強いことをアピールすることはできなかった。
「ASA」政権の火種
安倍は今回の内閣を、副総理兼財務相・麻生太郎と二人三脚で運営しようとしている。
安倍は麻生に恩義がある。07年の7月29日、参院選投開票日のこと。マスコミの出口調査では自民党の敗北が濃厚だった。元首相の森喜朗、参院会長の青木幹雄、幹事長の中川秀直の3人が極秘に会談して「安倍辞任」を決め、中川が公邸の安倍に面会に向かった。まだ投票が続く夕刻の話だ。ところが麻生は、先回りして公邸に駆けつけ「参院選は政権選択ではない」と力説。退陣論を粉砕した。続投した安倍は、結局は体調を崩し1カ月ほどで退陣するが、麻生が、安倍降ろしに体を張って止めてくれたことを今も忘れないのだ。
安倍と麻生は昨年の衆院選で、一緒に遊説する機会が時々あった。選挙戦最終盤のある日、車中で一緒になった際、麻生は安倍の膝をたたきながらこう語りかけたという。
「参院選までは、金だけどんどん刷ってりゃいいんだ。他のことは何もしなくていい。あんたが倒れたら俺が骨を拾う」
安倍は「はい、はい、そうですね」とうなずいた。積極財政派で、言葉が乱暴な麻生らしい話だが、このやりとりから「アベノミクス」の原型がうかがえる。既に2人の間では、麻生が副総理兼財務相となるのは了解事項だった。
安倍、麻生の共通の盟友が菅と甘利。麻生政権のころ「NASA」という言葉が、政界でよく使われた。麻生と、中川昭一、菅、甘利の頭文字を並べたもので、衆院解散の時期など重要な政局判断は4人が決めていた。安倍政権は、NASAのうち急死した中川を除く3人が支えている。「ASA政権」とでも言おうか。麻生は、菅や甘利の顔を見る度に「俺たち3人が支えるしかないんだから」と諭すように語る。
ところが、あろうことかその麻生自身が火種になりつつある。邦人拘束事件で、7人の邦人死亡が確認された1月21日。官邸が最も緊迫したのは、事件とは関係ない麻生の失言だった。
官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で麻生は高齢者の終末期医療にからみ「死にたいと思っても、生かされたんじゃ、かなわない。しかも政府のカネでやってもらっていると、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと……」などと放言したのだ。
発言が報じられると、安倍は秘書官や官房副長官・世耕弘成らを集め協議。前回政権の時も、閣僚が失言を繰り返し、参院選敗北の要因となった「苦い記憶」が頭をよぎった。安倍は麻生に電話し「個人の信条は分かるが、撤回してください」と伝えた。通常、この種の連絡は秘書官を通じて行うことが多いが、首相自らが伝えたことから官邸の危機感が分かる。
麻生は夜に開かれた邦人拘束事件対策本部に赤みがかった顔で出席するのが見届けられている。酒を飲んでいたのか直接確かめる者はいなかったが、脇の甘い実力者との間合いには、安倍も苦労することになるだろう。
麻生といえば、産業競争力会議の一員になった慶応大教授・竹中平蔵との確執も火種だ。2人の対立は小泉政権時にさかのぼる。首相・小泉純一郎の威光を背に郵政民営化など進めた竹中に対し、政調会長、総務相などとして党内世論に配慮する立場にあった麻生は反目した。
今回、安倍政権発足にあたり、竹中は入閣や日銀総裁への起用も取り沙汰された。麻生は反対だった。結局、競争力会議の一メンバーという「格下」のポストで落ち着いた。
だが、麻生はもちろん、自民党内の多数派は今も竹中に冷たい視線を向ける。競争力会議の初会合が首相官邸で行われた23日、自民党で開かれた政調全体会議では「政府の会議から竹中を外せ」という声が響いていた。竹中は、平然とした顔で「私のことを嫌っている人がたくさんいるのは知っているから、小泉さんに相談した。そうしたら『どんどん正論を吐け。それを受け入れるかどうかは政治の責任だ』と励まされた」と反論。これがまた反竹中勢力を刺激する。
安倍が掲げる財政政策・金融緩和・成長戦略の「3本の矢」のうち成長戦略は、競争力会議にかかる。経済・財政の司令塔・麻生と、競争力会議の主要メンバーの確執が広がれば3本の矢は空中で折れてしまう。
命運を握る「前哨戦」
今年前半の政治日程で最重要なのは7月21日に予定される参院選だ。自民、公明の両党が参院でも多数を確保してねじれを解消すれば、政権の安定度は増す。そのためには両党で64議席が必要。公明党の議席が10と仮定すると自民党は54議席を確保しなければならない。この数字をクリアしたのは01年以来ない。高いハードルだ。安倍も、ハードルを強く意識している。憲法改正などの持論を封印しているのも、参院選での公明との共闘を優先しているからだ。
安倍は参院選を、ねじれの解消の機会としてだけでなく、長期政権へのパスポートと捕らえている。参院選を乗り切れば、3年間は大型国政選挙はない。長期政権が現実味を帯びる。
安倍は一度目の時、自民党総裁を2期務め首相を6年続ける目標だったが、あっけなく頓挫した。今回こそ6年間続け、自分の手で憲法改正を実現しようと夢見る。岸は晩年、こうも語っている。「政治家というものは、地位にかじりつく必要がある」
だが安倍は、参院選と相性が悪い。9年前、幹事長で指揮を執った時は民主党に後れをとり、首相の時は惨敗した。
今回の参院選で安倍を支えるのは、安倍とのすき間風がささやかれる幹事長・石破茂。2人は20日夕、首相公邸で会談した。サシの会談は政権発足後初めて。「電話やメールで頻繁にやりとりしている」というが、首相と幹事長の会談がニュースになること自体、普通ではない。
2人のさざ波は政権が発足した昨年12月26日夜に始まったという説もある。東京・紀尾井町のホテルニューオータニで石破は、同年9月の総裁選で自身を応援した議員約50人を集めて打ち上げを行い「困ったことがあったら何でも言ってほしい。ここに来た人は責任を持って絶対次に当選させるから」と気炎を上げた。「次」を見すえた動きと取られかねない会合だった。
内閣を切り盛りする麻生が早くも弱みをみせ、党の要役・石破と安倍の関係は微妙……。支持が高い間はいいが、下降線になるとほころびは大きくなる。
衆院選で壊滅的な敗北を喫した民主党。新代表・海江田万里と幹事長・細野豪志のコンビで立て直しを目指す。2人の関係は長い。細野は学生時代、海江田の選挙を手伝い、政治と出会った。以来、20年来のつきあいだ。「3・11」の後は、海江田が経済産業相、細野が原発担当の首相補佐官として不眠不休で対応にあたった。
民主党も参院選に生き残りを賭ける。候補者の決まっていない選挙区も多いが、衆院選で敗れた閣僚経験者らを多く抱えているため、候補者探しには苦労しない。元農相・鹿野道彦、前財務相・城島光力らのくら替え出馬も噂される。
だが海江田は「参院選前の都議選が命運を握る」と党幹部にゲキを飛ばし続けている。6月23日に行われる都議選は、国政にも影響を与えることが多い。特に12年に一度、都議選の直後に参院選が行われる巳年は、注目度が高まる。12年前の都議選で自民党は勝ち参院選でも勝った。24年前はその逆だった。
民主党が都議選でも後退すると、もう参院選での浮上は絶望的になる。前哨戦に勝つのが唯一の生き残り策なのだ。東京都選出の海江田らしい判断ではある。
背水の陣の民主党に立ちはだかるのが、都議選を踏み台にして参院選で飛躍しようという維新の会、みんなの両党だ。両党は参院選に向けた選挙協力のモデルケースを都議選でつくろうとしている。(1)定数1か2の選挙区は候補を一本化する(2)定数3以上の選挙区はそれぞれ候補を擁立して競う(3)選挙後、統一会派を組む――というシナリオもささやかれる。昨年衆院選の東京比例得票率は、維新とみんなを合わせると3割を超え、民主はもちろん自民党をもはるかに上回る。選挙協力が機能すれば民主党は大打撃を受け、安倍の長期政権戦略も狂う。
安倍は最近、酒を飲む。以前は乾杯の時、ビールに口をつける程度だったが、水割りやワインを2杯程度は飲み干す。「こんなにうまいものだったんですね」などと軽口たたきながら。健康をアピールするパフォーマンスの一環でもある。
気が張っていて、政権運営がうまくいっているうちはいいだろう。だが悪い方に回り始めると疲労とストレスは蓄積される。実際、アルジェリア対応で忙殺された三国外遊の終盤の安倍は、あきらかに疲れ切っていた。
これから数カ月後、参院選を前にしたころ、安倍が明るくグラスを傾けていられる体力を維持できるかどうか。周辺は気をもんでいる。  
永田町に甦る“大乱世の梶山”流 2013/4
 安倍官邸を仕切る官房長官・菅義偉は「現代の梶山静六」になれるのか。
安倍内閣が発足して約3か月がたった3月23日。首相・安倍晋三は神奈川県茅ヶ崎市内の名門ゴルフ場、スリーハンドレッドクラブでプレーを楽しんだ。桜は満開、同行したのは経済産業省から安倍の下に駆けつけた政務秘書官・今井尚哉ら官庁出身の秘書官たち。日銀総裁人事は国会承認され、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加表明も片付いた。7月参院選までの大きな2つの課題をこなした安倍は「花がきれいで、気持ちよくやれた」とご満悦だった。
ハネムーン期間の3か月を終えても、内閣支持率は高止まりし、景気も上向き。安倍に、今のところ死角は見当たらない。
そんな春爛漫の中での安倍のゴルフは、政権が好調な3つの要因をくっきりと反映している。
まず第一は「復活した」と胸を張る日米同盟関係。ゴルフを首相在任中もプレーするきっかけとなったのは米大統領、バラク・オバマなのだ。
話は昨年末にさかのぼる。初めてオバマとの電話会談に臨もうとした安倍は、先方の都合でかなりの待ち時間ができた。手持ち無沙汰の間、ワシントン勤務の経験がある外交官たちは、オバマがいかにゴルフが好きか、いかに毎週のように首都ワシントン郊外のアンドリュース空軍基地内のゴルフ場でプレーしているかを安倍に伝えた。「へえ、そうなのか。じゃあ、俺もやろうかな」。乗り気になった安倍は年が明けると、ゴルフを再開した。「ゴルフ」は2月の首脳会談の隠し味にもなり、オバマが「今度一緒にラウンドしよう。ただし、ゴルフが上手いこの人は抜きで」と副大統領、ジョー・バイデンを指して大笑いになった記憶も新しい。
そもそも、安倍が3月に満開の桜のもとプレーしたスリーハンドレッドクラブは祖父、元首相・岸信介が元大統領、ドワイト・アイゼンハワーとプレーしたバーニング・ツリー・ゴルフクラブにならったゴルフ場でもある。「強い日米同盟」は、ゴルフと強くリンクしているのだ。
2つ目は、安倍が気のおけないプレー仲間として選んだのが今井たち官僚出身の秘書官であるということだ。
「オバマのゴルフ好き」を伝えた外務審議官・斎木昭隆、政務秘書官の今井、同じく安倍とラウンドした秘書官・柳瀬唯夫ら経産省組が、安倍に近い筆頭格の官僚たちだ。外務省と経産省はTPPの事前交渉でも連携し、秘密を外部に漏らさなかった。そこに政治家代表として加わる官房副長官・加藤勝信も旧大蔵省OB、官僚出身だ。「根回しはお前たちがしろ」と無理難題をふっかけた民主党政権とは異なり、役人の生態を熟知する加藤は自ら携帯電話とメールを駆使し、要所に根回しする。「昔のやり方、普通に戻った」と霞が関の官僚たちが安堵する所以だ。
TPP問題も、政権に就いてからの斎木たちの粘り強い進言がモノをいった。「オバマと1月に会談できないと分かったときは残念だったけど、今にして思えば準備する時間がとれてよかった」と安倍は周辺に語り、外務省への感謝を隠さない。
第1次内閣当時の安倍は、前任者の元首相・小泉純一郎の存在に引きずられ、「政治主導」と気負いすぎていた。だが、今度の比較対象は民主党政権。「普通」にやっているだけで、世間の評価は「よくやっている」となる。
理想像は梶山静六
良好さを演出する日米関係と、円滑に動く官僚機構をベースに、内閣では2人の大物政治家が安倍を助ける。官房長官・菅義偉と副総理兼財務相・麻生太郎だ。
「夏の参院選に勝って初めて、政権交代が完成する」が口癖の菅は、政治の師と仰ぐ元官房長官・梶山静六を、理想像にあげる。梶山は大向うを唸らせる政治的な大技と、緻密な日程づくり、大胆な政策で名をはせた。いまや一般的な用語となった政治日程を示す「工程表」とは、もともとは梶山が国会カレンダーをつくる時に好んで使った表現である。梶山は決断が必要な部分以外は官僚に任せ、一喝すべき時は一喝した。
菅は官僚たちの駆け込み寺にもなり、調整が必要な案件なら「俺に任せろ」と引き受ける。安倍が首相官邸に登用した民間人たちの「ご意見拝聴」係もつとめる。慶応大教授・竹中平蔵は、放っておけば政権批判に回りかねないとみて産業競争力会議のメンバーに取り込んだ。菅と竹中は小泉内閣の総務副大臣、総務相以来の仲である。「総理の指導力をアピールするために、内閣にもめ事をつくり、総理決断の舞台を設定した方がいい」と物騒なアドバイスをする竹中を、菅は「内閣支持率が高いから、そんな必要はない」と軽くいなす。ここでも、政治主導・官邸主導を印象づけた小泉の“呪縛”から解放された政権の姿がある。
菅は野党の頃から付き合いのある日本維新の会国会議員団幹事長・松野頼久とのパイプもつなぎ、民主党政調会長・桜井充ら馴染みの薄かった野党幹部とも精力的に会談する。縦横無尽に与野党議員に人脈を持った梶山譲りの動きだ。
官僚ラインが練り上げた政策を土台に国会の折衝は政治家が担う方針は、鳴り物入りで起用されたはずの内閣官房参与の使い方でも分かる。元外務事務次官・谷内正太郎はTPP交渉の実務には立ち入っておらず、元財務事務次官・丹呉泰健は日銀総裁人事に関与していない。小泉の元秘書官・飯島勲も、官邸の入館カード整理にいそしむ。「小泉内閣の人材を活用する」のは、潜在的な批判勢力を抑え込むカモフラージュでもあった。
梶山が遺言として残した著書『破壊と創造』を、菅は官房長官執務室に持ち込んで拳々服膺(けんけんふくよう)する。副長官の加藤と官僚チームの上に乗る菅は日々、安倍に接して直言する役回りも演じる。これも梶山が元首相・橋本龍太郎に仕えた当時、自らに言い聞かせた日課であった。
「まるで太子党だ」
そして安倍の守護神となった麻生がいる。スリーハンドレッドクラブでのプレー前日の3月22日、麻生は東京・富ヶ谷の安倍の私邸を夜遅く訪ね、1時間半以上も2人で密談に及んだ。下手をすれば命とりになりかねなかった日銀総裁人事も、麻生の「組織運営の経験がない人が日銀を動かすのは難しい」との助言に配慮し、大蔵省OBの元財務官・黒田東彦に落ち着き、無事に国会も通過した。節目節目で、麻生は安倍の精神安定剤の役割を果たしている。
麻生が「ポスト安倍」に野心満々なのは安倍も十分に承知している。それでも蜜月な2人の関係を、ある経済人は「まるで中国の太子党だ」と評する。国家主席・習近平を支える太子党グループとは、共産党高級幹部の子女たちを指す。岸と元首相・吉田茂を祖父に持つ2人の毛並みの良さからくる同胞意識には、余人にうかがいしれない強さがある。
もう1つ忘れてはならない要素がある。外側から安倍政権を支えているのは、野党第1党、民主党の致命的なまでの弱さだ。首相が2度も3度もゴルフすれば、第1次安倍内閣の頃なら「危機管理上、問題だ」との批判が野党から出て、一定の支持を得たに違いない。ところが、今回はそんな声すらあげられない。
3月27日。民主党最大の支持団体、連合の古賀伸明会長は敵地だったはずの自民党本部に足を運んで幹事長・石破茂に「政労トップ会談実現を」と懇願した。夏の参院選で自民党が「31ある1人区で全勝」との調査結果まで出ている。民主党の敗北は織り込み済み。古賀は「選挙の後、誰を担ぐかっちゅう問題が出てくるやろ」と、早くも代表・海江田万里の退任論にまで言及している。
自民党が圧倒的に有利との声に、参院選挙区の候補が決まらない地区も多い。元代表・前原誠司らが必死になって前回衆院選で落選した前議員を口説くが、落選を嫌がってなかなか前向きの返事が得られない。「民主党が1人区で勝てるのは元代表・岡田克也の地元三重と、あと1つくらい」だからだ。
代表辞任どころか、参院選後の遠くない時期に民主党は分裂、消滅するだろうというのが、いまや永田町の常識なのだ。
新進党と重なる民主党
局面打開には野党が共闘するしかない。だが、連合を媒介とした野党協力には日本維新の会、みんなの党は乗ってこない。民主党の最終兵器と目された幹事長・細野豪志は、いったんは「脱連合依存」を提唱しながら日教組のドン、参院議員会長・輿石東に「その方針はまずいぞ」と叱られるや、たちまち「連合との連携は極めて重要だ」と軌道修正した。連合と輿石を重視するなら、維新・みんなとの連携は諦めざるを得ない。
一方で、生活の党代表・小沢一郎と協力すれば、民主党は選挙前に空中分解してしまう。どちらにも進めないジレンマが細野にはある。
だからこそ小沢は「このまんまじゃ民主党は参院選で10議席しかとれない。どうして簡単な足し算ができないんだ」「細野は何をやってんだ。政党間の協力は幹事長の仕事だ」といら立ちを隠せない。このままでは自分も民主党も沈んでしまうことは、過去の経験が教える。1994年、小沢が中心となって非自民勢力を結集した新進党は内紛を抱え、第3勢力だった民主党の追撃もあってあえなく解党した。
いまの政治状況に置き換えれば新進党が民主党で、当時の民主党は維新になる。維新は着々と「第2極」への布石を打つ。
3月26日夜、東京・羽田空港ターミナル内にある中華料理店「赤坂璃宮」で維新幹事長・松井一郎はみんなの党幹事長・江田憲司と向かい合った。大阪府知事としての公務もあり、大阪へとんぼ返りしなければならない松井が指定した場所に江田が出向き、参院複数区での選挙協力を詰めたのだ。
みんなの側には江田と代表・渡辺喜美の対立があり、渡辺は江田を「選挙協力の権限を持っていない」と当て擦る。維新の側にも前東京都知事・石原慎太郎を筆頭とする旧太陽の党と松井、共同代表の大阪市長・橋下徹との間に温度差がある。いずれにせよ、橋下ら大阪勢は維新を中心とした野党再編に、前原や岡田、前首相・野田佳彦ら民主党からの非労組脱藩組を巻き込む戦略を描く。
折しも3月25、26の両日、昨年の衆院選での「1票の格差」に関する訴訟で広島高裁、同岡山支部が相次いで「違憲、選挙は無効」の判決を出した。国会周辺では「今夏の衆参ダブル選」さえ囁かれる。待ったなしとなった選挙制度の抜本改革が進めば、必ずや政界再編を伴うのは、20年前の小選挙区制導入とその後の推移をみれば歴史の必然でさえある。永田町の関心は、与野党とも既に7月の参院選後に向いている。
「参院選で親の敵を討つ」
安倍内閣の剣が峰は、むしろ「選挙後」にある。
内閣の大番頭、菅が言う「参院選に勝って政権交代が完成する」は、裏返せば参院選で与党が過半数を制して「ねじれ国会」が解消すれば、自民党の低姿勢も終わることを意味する。安倍が憲法改正や集団的自衛権の行使など自らのカラーが強い政策の実行に踏み出せば、いまは鳴りを潜めている公明党も動き出す。自民党では内閣改造・党役員人事をにらんだ猟官運動が激しくなり、これまで我慢してきた予算や政策への口出しも始まるのは避けられず、官僚との関係はまた大きく変わる。「過半数に1、2議席届かない結果ぐらいの方が、謙虚さが持続して良い方向に転がるんだが……」。あるベテラン官僚の言葉が、霞が関の不安を物語る。
袖の下の鎧は見え始めている。3月25日夜、東京・平河町の赤坂四川飯店に「郵政選挙」での初当選組約30人を集めた会食の席で、安倍は「参院選は親の敵を討つものだ。これに勝たなければ、死んでも死に切れない」と一席ぶった。「親の敵」は、このところ安倍が好んで使う表現だ。「勝つ自信があるからだろうが、大丈夫かな……」と出席者の1人は独りごちた。
驕りが出れば政界、一寸先は闇だ。仮に苦言を呈してくれる菅をも遠ざけるようになれば危険信号だ。菅が師と仰ぐ梶山の言葉に耳を傾けなくなった橋本が政権の座から滑り落ちたのは梶山の官房長官退任から、1年もたっていなかった。
スリーハンドレッドクラブでのプレーと、前後数日間の出来事は、安倍内閣を取り巻く事情を象徴している。
潮目が変わるのは7月21日、参院選当日である。 
「新・三本の矢」に狙われる公明党 2013/5
 参院選後へ向けて突き進む安倍に“下駄の雪”はどこまでついていくのか。
4月20日朝、東京都の新宿御苑。「日本語を学んでいるインドネシアの若い人たちが、『桜よ』という歌をつくって贈ってくれました。こういうフレーズがあります。『桜よ咲き誇れ、日本の真ん中で咲き誇れ、日本よ咲き誇れ、世界の真ん中で咲き誇れ』。安倍政権としては、日本を世界の真ん中で咲かせるためにこれからも全力をつくしていきたい」恒例の「桜を見る会」に出席した安倍晋三首相は、約1万人の招待客を前に終始、上機嫌だった。
「参院選までは経済だけやる」を合言葉に、ここまで高い内閣支持率を維持することに成功してきた安倍は、いよいよ「参院選後」を見定める。「親の仇」と力の入る参院選で与党過半数を獲得した暁には、これまで“封印”してきた安全保障や憲法改正という「戦後レジームからの脱却」へと突き進むハラだ。
だが、順風満帆に見える安倍政権の足元には、小さな「亀裂」が走っている。
まるで政権の行く末を暗示するかのように、この日の空は鈍く曇り、桜はほとんど散ってしまっていた。
米国との溝
「亀裂」のひとつは、日米関係である。
安倍の思い描く「世界の真ん中で咲き誇る日本」を実現するために、外交・安全保障面で中核となるのが、日米同盟であることは言うまでもない。2月に行われた日米首脳会談では、両国の蜜月を“演出”したが、内実は異なる。
両国に横たわる溝が露呈したのは、4月中旬の北朝鮮による一連の“ミサイル発射騒動”への対応をめぐってだった。
4月15日午前、首相官邸。この日は、北朝鮮の故・金日成国家主席の生誕100年にあたり、この日に合わせて、ミサイルが発射される可能性があった。
「北朝鮮が極めて挑発的な言動を繰り返し、緊張を高めていることは容認できない。日米で断固とした対応を取り、我が国の安全に万全を期していくことが大変重要だ」
韓国・中国歴訪後に来日した米国のケリー国務長官に安倍はこう力説し、拉致問題についても「自分の政権で完全に解決を図りたい」とアピールした。
だが、「断固とした対応」を唱える安倍に対して、ケリーは「対話」の重要性を繰り返し説くばかり。官邸筋は「両者の溝は覆い隠せなかった」と明かす。
来日前に訪れていた韓国で朴槿恵大統領と会談したケリーは、朴が「非核化という前提条件を付けない対話」に前向きな姿勢を見せたことを「大変歓迎すべきだ」と評価していた。これに対して日本政府内では「脅しに屈する外交が先例となれば、北朝鮮に主導権を握られる」(外務省筋)との懸念が広がっていた。
実際に安倍との会談でケリーが「対話」を繰り返したことで、官邸サイドは、対北朝鮮をめぐって「日米が対話重視で一致」という報道が先行しかねないと警戒。世耕弘成官房副長官が夜回りの番記者に、次のような非公表の会談内容をリークした。
――安倍は約1時間の会談終了間際、ケリーに対して恫喝外交で食料援助や重油提供を引き出してきた北朝鮮の過去を列挙し「対話と言っても、これまで北朝鮮には何度も裏切られてきた。それは忘れないでほしい」と念押しした――。
会談後、日本政府内では、「ケリーは東アジア情勢に詳しくない」との声も漏れたが、これは必ずしも正しくない。
ケリーが融和的な発言をする背景には、昨年12月に北朝鮮が長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の改良型を発射して以降、ワシントンで「北朝鮮脅威論」が台頭していることがある。
北朝鮮の暴発だけは何としても避けたいという米国の基本姿勢の微妙な変化を日本政府内で理解する者は少ない。
日米同盟を基軸として、北朝鮮、中国に毅然とした対応を志向することで国民の支持を得たい安倍と、東アジアの流動化は避けたい米国。両者の溝は、安倍政権の外交・安全保障戦略の根幹を揺さぶりつつある。
「新・三本の矢」
一方で、内政面でも「亀裂」はある。
最近、安倍と官房長官の菅義偉の周辺では、「集団的自衛権の行使」「憲法96条改正」「道州制導入」を「新・三本の矢」と称するネーミングが生まれている。元祖「三本の矢」が景気刺激、経済回復を狙いとしたのに対して、この「新・三本の矢」が狙うのは、政界再編である。
そして、結果的にではあるが、その矢の先に立たされることになるのは、連立を組む公明党なのである。
「明日、日本維新の会の橋下徹が、安倍首相とも会うようだ。憲法改正について協議するのではないか」
4月8日夜、公明党幹部は降ってわいた「安倍・橋下会談」についての情報収集と確認作業に追われた。
もともとは、9日にJR大阪駅北側の再開発に関する要望を受けるため、菅が橋下と会う予定になっていたが、菅が安倍に「明日、橋下代表が私のところに来ます。時間があったら会いませんか」と持ちかけたことで、急遽、実現させたものだった。
翌9日に行われた会談では、公明党の分析通り、安倍と橋下は、憲法96条で定めた憲法改正の発議要件を、現行の衆参両院議員の「3分の2」以上の賛成から「2分の1」以上の賛成に緩和すべきだとの認識で一致した。
もっとも安倍と菅にとって会談内容はそれほど重要ではなかった。重要なのは、「安倍と橋下が官邸で会談する」という事実だけだった。菅は「会うだけで、後は勝手にマスコミが書いてくれる」と周辺に漏らした。
その最大の目的は、「96条改正」を、参院選の目玉として、既定路線にしてしまうことにあった。
安倍と菅の念頭にあるのは、参院選勝利後の、「憲法改正」「道州制導入」を基軸とした日本維新の会、みんなの党との連携だ。そしてその先には「自民・公明」から「自民・維新・みんな」への政権枠組みの変更も視野に入る。
参院選の結果によっては、公明党は安倍から切り捨てられる可能性があるのだ。公明党が先の安倍・橋下会談の行方を警戒するのも当然だろう。
安倍が連発した「宿題」
一連の安倍政権の動きの背景にあるのは、外交・安全保障や憲法をめぐる両党のスタンスの違いだ。
象徴的だったのは4月19日に政府が閣議決定した在外邦人救出の活動対象を広げる自衛隊法改正案をめぐる駆け引きだ。この改正案は1月のアルジェリア人質事件を受け、自公が法改正を検討し、3月に安倍へ提言したもの。緊急時に在外邦人を救出するため、自衛隊による陸上輸送を可能とする内容で、これまで飛行機と船舶に限定していた在外邦人の輸送手段に車両を追加する。
もともと自民党は野党時代の2010年から、現地の安全確認がない場合でも、自衛隊が陸上輸送を含めて邦人避難のための輸送を担える自衛隊法改正案を国会へ提出していた。当時の改正案では武器使用基準も正当防衛など「合理的に必要と判断される限度」と規定し、これを大幅に緩和する方向だった。
今回の法改正においては、輸送条件については、防衛相と外相が事前協議して「安全が確保されていると認めるとき」から「予想される危険と、危険を避ける方策を協議し、安全に輸送できると認めるとき」との表現に改めて明確化を図った。公明は「安全」との言葉を必ず明記するよう譲らなかった。武器使用権限についても、公明の根強い慎重論に配慮して、緩和されなかった。
結果的に公明の主張が認められた格好だが、この法改正の根底には、「憲法9条」をめぐる問題が横たわる。公明党が「派遣先で他国の軍隊と協力すれば、憲法解釈で行使を禁じる集団的自衛権の問題に突き当たる」と指摘したとおり、たとえ邦人救出が目的ではあっても、危険地帯であれば、自衛隊が戦闘に巻き込まれる可能性は否めないからだ。
4月16日の衆院予算委員会。
「自衛隊が任務を遂行するための使用ができないわけだから、自衛隊法改正案にはさまざまな課題、宿題が残ったのは事実だ。武装勢力によって邦人が襲撃を受けている際、遠く離れて自衛隊の保護下にないと判断された場合には救出に行けない。当局の警察を呼ぶかあるいは軍隊組織を呼ぶかしかない。自衛隊がそういう能力と装備を持っていながら、できないというのは最高指揮官として忸怩たるものがあるだろう」
安倍は民主党の長島昭久前防衛副大臣から在外邦人救出の際の自衛隊武器使用について問われると、こう答え厳しい表情を隠さなかった。安倍が連発した「宿題」の言葉には新たな連立枠組みも視野に入れた改憲への意欲が含意されているのは間違いない。
安倍の“公明党嫌い”
「僕、山口(那津男)さんは苦手なんだよなあ。形式的なことばかり言うんだもの」
安倍は側近の1人に電話口でこう漏らしたことがある。
側近が「今は参院選に勝つことが何より大事なのだからとにかく意志疎通を緊密にして下さい」と釘をさすと、安倍も「わかっているよ」と応じたが、本音が「苦手」という言葉にあることには変わりはなかった。
山口は、公明党内でも「原理主義者」と呼ばれ、木で鼻を括ったような話しぶりは評判が悪い。記者会見などでは「(憲法改正は)政権合意の枠外にある話だ。連立政権で取り組む課題では必ずしもない」「優先課題を間違えずに国民の期待に応えるべきだ」。いっそう強い口調で「平和と福祉の党」の原理原則で安倍を牽制する発言を繰り返す。山口は衆院選の最中には「憲法の柱を守ることが重要だ。はみ出したいなら限界が来るかもしれない」とまで発言している。
その背景には、支持母体「創価学会」の意向がある。今年1月に東京・巣鴨で行われた衆院選後初となる創価学会の本部幹部会。
「公明党は平和・福祉の党として庶民のための政治の実現に邁進し抜いてもらいたい」
原田稔会長は、山口ら出席していた公明党執行部にこう強く要求した。学会の覚えがめでたいことで現在のポストにある山口は、学会の意向に沿った発言をせざるをえないのである。
一方の安倍は、そもそもが“公明党嫌い”だ。
かつて公明党が小沢一郎らと組んで自民党を野党に追い落としていた頃、自民党の亀井静香らが、反学会の学者・文化人を集めて「四月会」なる組織を結成、学会・公明党への攻撃を執拗に繰り返したことがあった。当時は安倍もこれに参加した。山口県下関市の安倍事務所には「四月会」制作の池田大作の糾弾ビラが山積みになっていたこともある。自公連立政権の発足後も親しい議員らには「自民党がきちんと保守の旗を立てて戦えば、公明党の支援など当てにしなくても勝てるんだよ」と繰り返していた。
「ポスト池田」をめぐる争い
公明党にとって唯一の強みは、ことあるごとに「参院選は親の仇。今度の参院選で勝利してこそ本当の政権交代になる」と力説する安倍にとって、参院選までは学会からの支援は喉から手が出るほど欲しいという点だ。
だからこそ山口は、参院選前の今こそ、安倍が目指す集団的自衛権の行使を可能にする解釈改憲や憲法改正問題等でことさら批判的な発言を繰り返し、学会員、とりわけ婦人部に「平和の党」の代表であることをアピールするのだ。
ポイントは、仮に参院選の結果、自民党が参院で単独過半数を確保し、躍進した維新、みんなの党との連携を重視して憲法改正に突き進んだ時、公明党は「平和の党」の看板を旗印に、連立離脱に踏み切る覚悟を決めるかどうか、だ。
その判断に影響を与えそうなのが、「ポスト池田」をめぐる争いだ。
学会の最高指導者である名誉会長の池田大作は事実上、指揮を取れない状態にあると見られている。根城にしている信濃町の創価学会第2別館で幹部たちに会ったり、ごく稀に海外からの訪問者に会ったりはしているが、病気で組織の重大決定には関与できない状態にあるのではないか。
当然、学会内では「ポスト池田」が最大の関心事となっているが、組織拡大が行き詰まりを見せている昨今の学会においては、国政選挙でどれだけ成果を上げたかが、「ポスト池田」をめぐる争いにおいて、最も重要な指標になっているといわれる。
「ポスト池田」の大本命といわれ、実質的に選挙を仕切る事務総長(副会長)の谷川佳樹は、池田後継の地位をより確実なものにするためにも、自民党との連立を維持し、選挙でも自民党と協力して戦うべきだと考える可能性が高い。
一方で、実は学会内では民主党が大勝した4年前の政権交代選挙の頃から、「小選挙区撤退論」が燻り続けている。
小選挙区から撤退し、比例代表に絞れば、自民党との全面的な選挙協力も必要ない。小選挙区での議席確保のため、長年、自民党との全面的な選挙協力を行ってきたことが学会員を疲弊させ、組織にとってはマイナスの方が大きいとの意見は以前からあった。ここにきて再び、自民・民主両党から一定の距離を置いて第3極として存在感を発揮した方が得策だとの主張が広がりつつある。ある公明幹部は「小選挙区で議席獲得を目指すのはもう最後にしたい」と漏らしている。
踏まれても蹴られても自民党に付いてゆく「下駄の雪」と揶揄されて久しい公明党。参院選後に正念場がやってくる。 
安倍圧勝「6年間長期政権」シナリオ 2013/8
 国会より選挙の方が楽……美酒に酔う安倍の周囲は落とし穴だらけ。
「前回とは、まったく違う選挙だったね」
「親の仇」とまで称した参院選に圧勝した首相・安倍晋三は投票日翌日の7月22日夜、感慨深げに振り返った。首相官邸にほど近いザ・キャピトルホテル東急にある日本料理店「水簾」に集めたのは、惨敗して無念の退陣に追い込まれた6年前の参院選をともに戦った第1次内閣の秘書官たち。「国会より選挙の方が楽だった」「これから引き締めていかないと」。首相秘書官・今井尚哉、財務省主税局長・田中一穂、内閣情報官・北村滋らとの勝利の宴は1時間を超えた。
参院選は危なげのない運びで、番狂わせのない予想通りの勝ち方だった。秘書官たちとの美酒に酔う数時間前には、党本部での記者会見で「新しい自民党に生まれ変わった」と宣言した。だが古来、戦いは「勝って兜の緒を締めよ」と言われる通り、圧勝した時こそ落とし穴が待っている。
「新しい自民党」を宣言した安倍のように、1986年の衆参ダブル選挙に大勝し「自民党は左にもウイングを広げた国民政党になった」と自賛した首相・中曽根康弘は長期政権を夢見たが、すぐに売上税の問題でつまずき、総裁任期の延長も1年にとどまった。「1年や2年ではなく6年かけないと、憲法改正などの宿願は達成できない」と漏らす安倍の周囲にも、いくつもの罠が待ち受ける。それは参院選当日から1週間ほどの政界の動きを見ても明らかである。
1つ目は来年4月から消費税を予定通り8%に引き上げるかどうか、だ。
参院選投票日の7月21日昼、安倍は副総理・財務相の麻生太郎と向き合っていた。「このままでは独裁者になりますよ。謙虚にゆかないと」と語りかける麻生に、安倍は「そうですね……」と答えるばかりだった。モスクワで開いていた主要20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議から帰国してすぐ、麻生が安倍と食事をともにしたのは、今後の政局への対応と「アベノミクス」をめぐる国際的な評価を伝えるだけではない。消費税率の引き上げと財政再建が、国際公約になっている重要性も刷り込んでおく意味合いがあった。
安倍は選挙戦終盤から「消費税はよほどの対応策を考えなくては、消費が落ち込む」と思案していた。参考となるのは1997年、消費税を3%から5%に引き上げた橋本龍太郎政権の対応だ。橋本内閣は消費増税による国民負担増に金融危機が重なり、参院選に大敗して退陣した。長期政権を目指すには、橋本内閣の二の舞を演じてはならない――。安倍は当時の政策効果を検証するよう関係部局に指示を出した。これを聞いた麻生は、消費増税を予定通り実施することを訴える必要性を感じたのだった。
麻生との食事がきいたのか、投票日21日夜にハシゴ出演したテレビ各局のインタビューでは「財政再建は重要だ」「財政は市場もみている」と財政再建に理解を示してみせた。だが翌22日、党本部の記者会見では「デフレ脱却に向けて経済政策を進める。強い経済がなければ、社会保障の財政基盤を強くすることもできない」と表明。「強い経済」実現の方に力点を置いて発言した。
「これはまずい」。財務省の危機感は募り、首相会見翌日の23日、麻生が閣議後の記者会見で「増税は法律に書いてある。国際公約に近いものになっている」と力説し、来年1月召集の通常国会には補正予算案を提出して、消費税引き上げの影響を最小限にとどめる案も提示した。
だが「国際公約」「来年1月の補正」は、財務省事務方が推進している案でもある。「国際公約だ。引き上げを見送れば大変なことになる」との論法は安倍の民間ブレーンたちからも「財務省の脅迫じみたやり方だ」と評判が悪い。一方、予定通り増税なら、「秋の補正は不可欠」と考える一派からすれば、1月の補正はあまりに定石通りで、官僚臭が漂いすぎるのだ。
米国が抱く安倍への懸念
こうした状況に安倍と内閣の大番頭、官房長官・菅義偉は「大蔵省の言うことは昔も今も信用できない」との感情を抑えきれない。「1年に1%ずつ、あげるやり方もある」「財政再建の道筋を示す中期財政計画も、消費税上げを決め打ちして8月に閣議決定するのはおかしい」との2人の意向が漏れはじめる。
経産省も「来年4月以降の落ち込みが心配だ」と進言した。
財務省は24日、陣立てを整えて安倍の下に向かった。麻生を筆頭に事務次官・木下康司、主計局長・香川俊介、主税局長の田中、総括審議官・浅川雅嗣。財務省オールスターによる協議は1時間以上に及んだ。安倍は財務省の説明には納得しない。結局、官邸側が譲歩したのは「中期財政計画の策定自体を先送りするのは難しい」と、閣議決定はしない暫定案にとどめる折衷方式。曖昧さは増すばかりとなった。
消費増税にこれだけ焦点があたるのは、裏返せばほかに経済政策の「タマ」が見当たらないからでもある。アベノミクスを構成する「異次元の金融緩和」「財政」「成長戦略」の3本の矢は、すでに放ったあとだ。追加の成長戦略も、法律と予算を伴って実現するための本格的な臨時国会は10月になる予定で、8、9の2カ月は来年度予算案のシーリング策定以外、空白となる。
落とし穴は経済だけではない。“得意技”のはずの外交にも潜んでいる。
参院選から5日後の7月26日午後、シンガポールの高級ホテル、リッツ・カールトンで安倍は米副大統領、ジョセフ・バイデンと会談した。安倍と同じ時期に東南アジアを訪問する予定のあったバイデン=ホワイトハウス側からの打診だった。
会談は型通りに日米同盟の重要性を確認し、安倍は防衛計画の大綱見直しや、米国にならった日本版NSC(国家安全保障会議)の設置は「日米同盟の強化につながる」と語りかけた。だが、米側の真の懸念は、安倍政権が中国、韓国と緊張を激化させる方向へ動いていることにあった。
バイデンには苦い記憶がある。4月、ワシントンを訪れて会談した内閣ナンバーツー、麻生は日本に帰国するや否や靖国神社を参拝し、中韓との緊張緩和を直接、伝えたバイデンは愕然とした。バイデンの「緊張緩和の措置をとるべき」との言葉には、「あんなことは二度とないように」とクギを刺す意味が込められている。バイデン=ホワイトハウスが安倍に会談を申し入れたのは、選挙に勝って一段と同盟を強化しようという肯定的な面だけでなく、中韓との関係改善を安倍がどこまでやる気なのかを「瀬踏み」するためでもあった。
バイデンの要請も踏まえ、安倍は「常に対話のドアは開いている」と応じ、前提条件なしの日中首脳会談実現に意欲を示した。だが「前提条件なし」は、中国と韓国からみれば「歴史認識発言も不問に付せということか」になる。「韓国は日本に引き付け、中国と分断する」との伝統的な戦略に従い、7月に実施した韓国外相・尹炳世との外相・岸田文雄、外務事務次官・斎木昭隆の会談も不調に終わった。斎木は7月29日に訪中し、日中関係の打開を探る構えを示した。だが、官邸にも外務省にも成算はない。米国、中国、韓国との外交は、一歩誤れば安倍の致命傷になりかねない。
もう1つ、懸念すべきは党内の動きだ。
「内閣改造は小幅なのか」「俺たちはどうなる」。選挙直後、人事についてはっきりした方針を安倍が示さず、「党3役は全員留任」との情報も流れ、自民党内には戸惑いと怒りが交錯した。
「幹事長・石破茂の続投はともかく、政調会長・高市早苗まで留任するのは認められない」
野党暮らしと安倍内閣の4年間、冷や飯を食ってきたベテランは憤る。やっと予算の分配にあずかれるのだから、実権を握る政調会長は大派閥に渡すべきだとの論理だ。
町村派、額賀派、岸田派と、かつての福田―安倍派、田中―竹下派、大平―宮沢派の流れをくむ大派閥は参院選でも新人獲得に鎬を削ってきた。引退した後もなお、永田町近くに事務所を構える元参院議員会長・青木幹雄、元幹事長・古賀誠らも「何もかも安倍の思い通りにさせるな」と発破をかける。衆参合わせて400人を超えた自民党の要求はいつになく、強い。
そこで元経済財政担当相・竹中平蔵のように「対決を使って総理決断を演出し、政権の求心力を高める方がいい」との意見が、政権内に出てくる。安倍が官房長官、幹事長として仕えて5年半に及ぶ任期を得た元首相・小泉純一郎にならい、「抵抗勢力との対決」で長期政権を築け、というわけだ。
小泉が長期政権を維持できた理由は、党内問題だけでなく当時の米大統領、ジョージ・ブッシュとの間に、強固な個人的関係があったことも大きい。この点が安倍と小泉では大きく異なる。
輿石に頼る海江田の体たらく
さらに自民党総裁選、衆院選、参院選と3連勝した安倍には「少しずつ独自色を出したい」との思いも強い。それはまず選挙戦最終日の7月20日夜、東京・秋葉原の街頭演説に表れた。
駅前広場には日の丸を手にした聴衆が詰めかけ、前座を務めた司会役の議員らは「領土、領海、国民の生命と安全を守る」と繰り返す。場の雰囲気もあってか、安倍は街頭演説の最後に、これまで封印してきた憲法改正に触れて「誇りある国をつくっていくためにも憲法を変えていこう」と呼びかけた。憲法改正は祖父、元首相・岸信介の悲願でもある。「安倍の本音が出た」と与党は受け止めた。
そこで出てくる火種が公明党だ。
「憲法解釈を変えて集団的自衛権を行使できるようにする、と政府が勝手に決めてしまうのは、国民や国際社会の信頼を損なう恐れがある。私も法律家の端くれだ」。公明党代表・山口那津男は7月23日、大見得を切った。「6年間の長期政権」で憲法改正を実現するため、その第一歩として安倍が考える集団的自衛権の行使にも、反対する姿勢を明確にしたのだ。
公明党は今回、比例代表の得票で自民党に次ぐ第2党の地位を確保し、4つの選挙区でも完全勝利した。もはや第3極を恐れる必要はなく、10年以上に渡る自公協力の実績で、衆院議員は公明党・創価学会の票がなければ選挙はできない状況にまでなっている。公明党幹部は「デフレ脱却に全力をあげろ。集団的自衛権などやっている暇があるのか」と安倍政権を挑発する。「下駄の雪」どころか、公明党は自信を深めているのだ。
これだけの火種がくすぶるのに、当面は政権が安泰にみえるのは、参院選で壊滅した野党の体たらくだ。
安倍がバイデンと会談した26日、民主党は党本部で惨敗を総括する両院議員総会を開いた。結党以来、最低の17議席で、1人区は全敗した。それでも代表・海江田万里は「党をつぶすわけにはいかない。信頼回復は道半ばだ」と続投を宣言し、代表選実施の要求も退けて中央突破した。参院議員会長・輿石東と両院総会前日の25日に何度も会って乗り切り策を協議。前幹事長・細野豪志に代わるナンバーツーに日立労組出身、元経産相・大畠章宏を指名したのは、輿石の意向も汲んでのことだった。
東京選挙区で無所属候補を支援した元首相・菅直人を除籍(除名)処分にする案も覆され、窮地に立った海江田が頼る先は輿石しかいなかった。菅の除名を推進した細野は代表選実施と野党再編に動こうとしており、海江田と輿石周辺は「細野は主殺しだ」「あいつはもう終わりだ」と息巻き、辞任時期も1カ月、前倒しした。混乱だけが、民主党を覆っている。
海江田・輿石ラインの主導権に期待を寄せるのが生活の党代表・小沢一郎だ。小沢は金城湯池だった地元・岩手で初めて敗れ、比例代表では100万票に届かず、獲得議席ゼロの屈辱を味わった。民主党との復縁による再編だけが、71歳になった小沢の最後のよすがなのだ。
野党再編をめぐってはみんなの党で代表・渡辺喜美と幹事長・江田憲司の対立が再燃。日本維新の会では「旧太陽の党」組の園田博之が、民主党の反海江田・輿石・小沢ラインの元外相・前原誠司らとの連携を模索する。次の衆院選直前まで続くであろう野党再編の動きは、1つの新党には収斂しそうもない。
強い外敵がいないことが、安倍の「6年間長期政権」の夢を膨らませる。2015年9月の総裁選で再選を果たし、16年夏に衆参同日選挙を断行して信任を得て憲法改正に取り組む。18年9月、偉大な祖父の岸も実現できなかった憲法改正を成し遂げ、小泉と中曽根の政権も超えて静かに退陣する――。これが安倍周辺の描くシナリオだ。7月22日の記者会見での「今回の参院選で自民党が頂いた議席は、私の20年間の政治家人生で最も多い」「憲法改正は腰を落ち着けて、じっくりと進めていきたい」との安倍の言葉が、それを証明している。
だが、安倍がバイデンと会談し、民主党が両院総会を開いた7月26日、日経平均株価は400円超も下落した。消費税を上げるかどうかの決断も、株価と景気には密接にかかわってくる。長期政権へ越えなければならない壁は早くも秋にやって来る。 
米国も警戒する「安倍のリベンジ」 2013/10
 消費税増税も決着し、いよいよ念願の安保問題に舵を切り始めた。
予定通り来年4月、消費税率を5%から8%に引き上げる――。
デフレ脱却の足かせになりかねないと消費税増税に慎重だった安倍晋三首相。増税へその背中を押したのは、好転した経済指標だけではなく、皮肉にも政権発足以来ともにアベノミクスを強力に推進してきた日本銀行の黒田東彦総裁、そして菅義偉官房長官だった。
「3%の上げ幅を2%に圧縮、2%相当分の経済対策を打って、デフレ圧力を相殺することはできないか」
来年4月の引き上げ時期を先送りにするか、予定通り引き上げるとしてもデフレ圧力を抑え込む方法はないか。安倍は8月上旬まで、本田悦朗内閣官房参与らと模索していた。
そんな安倍に真正面から釘を刺したのが、黒田だった。
「消費税率引き上げを先送りした場合の国債に対する信認の影響を見通すことは非常に難しい。国債価格が大幅に下落するリスクがどれほどあるか分からないが、リスクが顕現化した場合の対応は非常に難しくなる」
首相官邸で8月26日から31日まで行われた有識者から消費税率引き上げについての意見を聴く「集中点検会合」の席上、黒田は婉曲な表現で、予定通りの消費税率引き上げを求めた。この発言の公表は伏せられたが、安倍の耳にはすぐに届けられた。
安倍がそれでも、引き上げ幅の圧縮を模索しているとの情報を得ると、9月5日の会見で、さらに強い表現で牽制した。
「14年4月に3%、15年10月に2%引き上げることは法律で定められており、それと違うことをすることは、新たに法律を出し、国会で可決しなければいけない。そのような状況が、市場やその他にどのような影響を及ぼすかは予測しがたい。私の意見ではないが、例えば、政府が一回決めたことを止めて『今度は違うことをやります』と言った時、その『違うことをやります』ということを市場が本当に信認するかどうか分からない」
〈本当に信認するかどうか分からない〉という表現は、先送りや引き上げ幅を圧縮した場合、「国債が暴落する」という見方を示したに等しかった。官邸内では「自分の発言を市場に織り込ませることで、予定通り実施しない場合のリスクをより高め、安倍を踏みとどまらせようという瀬戸際作戦」と受け止められた。
一方、官房長官の菅は、もともと消費税率引き上げには慎重だった。ただ、「白紙から見直す」という安倍の指示を「実施見送り」から「影響を最小限に抑えて予定通りに実施」する可能性まで、幅広く受け止めた。そして、自らの役割を、景気への影響を最小限に抑えるため、財務省から大胆な経済対策を引き出すことと見定めていた。
「実施しなかったら国債が暴落するというのが財務省の口癖だが、オオカミ少年みたいなもんだ」
「何にもしないで税金を引き上げるだけなんて、そんなの政治じゃねえだろう。仮に実施するにしても思い切った景気対策が必要だろう」
菅は、「陳情」に来る財務省幹部に、絶対に首を縦に振らず、一層の財政出動には及び腰の財務省をつるし上げ続けた。
財務省が折れたのは、有識者からのヒアリングが始まる直前の8月20日すぎのことだった。
「財務省としても思い切った対策をやらせていただきます」
首相官邸の菅の執務室で、財務省の木下康司事務次官らは頭を下げた。
財務省が、最後のカードを切ったことで、東日本大震災の復興に充てるため上乗せしている「復興特別法人税」の、1年前倒しとなる13年度末廃止、法人税率の引き下げ方針などからなる5兆円規模の経済対策に道筋が付いた。
さらなる決め手は「東京五輪」だった。一時は、東京電力福島第一原発の汚染水漏洩問題の影響で、苦戦が予想されただけに、決定後の世論の反応は大きかった。
「経済波及効果は100兆円、150兆円との声もある」との威勢の良い声があがり、財務省の「思い切った経済対策」を大きく上回る規模の景気浮揚策となった。安倍が放ったアベノミクスの「第4の矢」が、消費税率引き上げという決断の最後の後押しとなった。
集団的自衛権への反対包囲網
消費税問題が片付くと、今後の焦点は安倍の宿願である「集団的自衛権の行使容認」の調整に移る。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が今年12月に、憲法解釈変更による行使容認を求める提言を安倍に提出する見通しだ。水面下では、集団的自衛権の行使を「全面的」に認めるか「限定的」にするか、調整が進んでいる。
五輪招致決定の余波が続いていた9月11日の首相官邸。そこには、記者の目を避けるように官邸に入った兼原信克官房副長官補(外交担当)と高見澤將林(のぶしげ/安全保障・危機管理担当)が、安倍と向き合っている姿があった。
「言わんとすることは理解できなくはないが、やはり私は全面的な行使容認が望ましいと考えている」
全面的に容認するのは困難、という政府内調整の結果を説明する2人に、安倍はこう伝えた。
この密会に先立ち、外務、防衛両省と内閣法制局、内閣官房の幹部が内々で断続的に集まって、この問題を協議していた。その中で、日本の安全保障に直接影響がある場合に限り、行使を容認するという方針を固めていた。
しかし、安倍は頑なに、全面的な行使容認に向けた調整を求めている。
第1次安倍内閣で発足した安保法制懇は、「(1)米国を狙った弾道ミサイルの迎撃」「(2)国連平和維持活動(PKO)で他国軍への攻撃に反撃するための武器使用」「(3)共通の目的で活動する多国籍軍への後方支援」などの4類型で実施可能とするため、「国際的に適切な新しい憲法解釈を採用することが必要だ」としていた。安倍は、後任の福田康夫首相にその継続を求めたが、「憲法解釈を変えるなんて話をしたことはない。憲法は憲法だ」と一蹴されている。それは安倍にとって屈辱以外の何物でもなく、今回はなんとしてもリベンジしたいのだ。
政府内では内閣法制局を中心に、(1)は、「日本有事として防衛出動が下されていなければ自衛隊法第82条の弾道ミサイル等に対する破壊措置に基づいて迎撃され、警察権の行使に該当。日本の領空を通過する場合には個別的自衛権により対応可能」、(2)も「自己の管理下にある状況なら、自衛隊法が定める『武器等防護』で対処できる」との解釈が支配的だ。
となると、実際に自衛隊が集団的自衛権を行使するようなケースは何か。
それを検討した結果、最も可能性が高いのは「日本の周辺事態」との見方に集約されてきた。政府は公言しないが、具体的には朝鮮半島有事に加え、中国と台湾の紛争を想定している。こうした事態に米軍と一緒に自衛隊が正面で戦う。それが考え得るシナリオである。
具体的な検討が進む中、連立相手の公明党は、集団的自衛権の行使容認について反対を貫いている。
「行使容認は、私たちの支持者を裏切ることになる。党の存立基盤にかかわる重大な問題。他の政策では妥協できても、これだけは絶対に妥協できない」
安保法制懇が再開された翌日の9月18日、公明党の山口那津男代表は、井上義久幹事長、石井啓一政調会長ら幹部を集めて対応を協議し、断固反対の方針を確認した。政府、自民党は水面下のルートで、集団的自衛権の行使容認問題は年明け以降に結論を出す段取りを伝え、配慮の姿勢を見せている。しかし、この日の公明党幹部会談では「問題を先送りしても決して歩み寄らない」「安倍首相が解釈改憲で行使容認に踏み切ることは認められない」ことでも一致した。
これらの発言には前段があった。公明党の支持母体である創価学会もお盆明けの8月下旬、この問題をめぐり原田稔会長ら最高幹部が議論した。その結果、婦人部を中心に「他国の戦争に巻き込まれる恐れがある」と反対論が支配的で、「平和と福祉」を金看板とする公明党が行使容認に踏み切ることは困難との結論に至った。
公明党は、米艦船が狙われた場合の対応や米国向けミサイルの迎撃など詳細な検討を加え、個別的自衛権の枠内と判断されるケースに限り自衛隊による対応を認める方向で協議を進めていく。
米が抗議した「幻のやりとり」
安倍内閣は、集団的自衛権問題と同時に、自衛隊による敵基地攻撃能力の保有を検討しているが、こちらは公明党どころかオバマ政権も強く警戒している。
「ミサイル攻撃に日本として、どう対処するのか、議論を活発化させなければならない」。小野寺五典防衛相は参院選前から、巡航ミサイルなどで相手のミサイル発射基地を攻撃できる態勢を整える必要性を繰り返し、12月に策定する新たな「防衛計画の大綱」に反映させる意向も示してきた。北朝鮮のミサイル攻撃などに対抗する狙いだが、米側から見ると違った意味合いを持つ。
8月28日、ブルネイの首都バンダルスリブガワン。第2回拡大ASEAN(東南アジア諸国連合)国防相会議に合わせて、小野寺はヘーゲル米国防長官と会談した。その席上、小野寺が「敵基地攻撃能力の保有については、日米間で慎重に検討していくことが大切と考えている」と切り出し、ヘーゲルは「その通りだ。日本を取り巻く厳しい状況は理解している」と応じた、と防衛省サイドは同行記者団にブリーフした。
だが、米政府関係者によると、実際の会談では敵基地攻撃能力に関し、小野寺から具体的な言及はなく、一般論として米軍と自衛隊の連携強化の重要性を確認したに過ぎなかったという。米側は、この「幻のやりとり」を問題視し、防衛省に抗議したと明かす。
防衛省が「慎重」「大切」との言葉を繕ってまで、あえてこの問題を記者にアピールしたのは、米側から敵基地攻撃能力保有に対する不快感を事前に伝えられていたことに配慮した結果だった。だが虚偽のやりとりは、逆に米側の不信感を増幅させた。そもそも自衛隊による敵基地攻撃能力の一方的な保有は、「矛」の米軍と「盾」の自衛隊という役割分担を大きく変容させる。
「米国の軍事的な傘から、日本が擦り抜けていくことになりかねない。自衛隊が日本防衛以外で前線に立てないがゆえに、日本は米軍に施設・区域を提供している。対等な関係になれば、米軍基地の不要論が高まる」(政府関係者)
このように調整を欠いたまま、集団的自衛権の行使を容認し、自衛隊が敵基地攻撃能力まで保有することに対してこう懸念する声も米側には根強い。
10月初旬には、外務、防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2+2)が東京で開かれる。そこで、米軍と自衛隊の有事での任務と役割を規定する防衛協力指針の改定作業に入ることで合意する見通しだ。
だが、安倍の目指す方向と、米国の志向は必ずしも一致していない。歴史認識や従軍慰安婦の問題でナショナリズム色が濃くなっている安倍に対して、米国の警戒感は容易に和らぎそうにない。
東京五輪が生んだリスク
順風に見える安倍内閣のアキレス腱は、安保政策に限らない。
五輪を招き寄せるため、汚染水漏洩について「コントロールされている」とまで言い切った福島第一原発である。
実際には、海への流出は止まっておらず、強弁であることは東京電力のみならず政府関係者も認めている。
「既に私がブエノスアイレスで話したように、この汚染水の影響は湾内の0.3平方キロメートル以内の範囲において完全にブロックされている」
9月19日、福島第一原発を訪れた際、安倍が「0.3平方キロメートル以内の範囲」と前提条件を付けて「ブロックされている」と言い方を変えたのは、「コントロール」という言葉が実態と余りにもかけ離れているからだ。20日、猪瀬直樹東京都知事も、記者会見で「必ずしもアンダーコントロールではない。だから(首相が)アンダーコントロールになると表明した」と説明した。
さらに安倍が頭を悩ませているのが、汚染水対策の切り札とされている凍土遮水壁の設置の可能性と実効性だ。凍土遮水壁は現在、事業化の調査の最中。原子炉建屋の四方約1.4キロの土を凍らせなければならないが、今回ほどの大規模な凍土遮水壁を設置した実績はなく、10年単位という長期間の運用も世界的に前例はない。他に有効な手がなく、完成時期の前倒しを打ち出してはみたものの「本当に前倒しできるのか。そもそも、これで原子炉建屋への地下水の流入を防ぐことができるかどうかはやってみないと分からない」(政府関係者)のが実情だ。
福島第一原発訪問に合わせ、安倍が東京電力に指示した「5、6号機の廃炉」は事実上の既定方針で、首相指示は特に必要がなかった。それをわざわざ指示して見せたのは、有効策を打ち出せない窮状の裏返しである。
福島第一原発事故の「収束」に道筋を付けられなければ、野党時代に民主党政権に向けた批判が、ブーメランのように自らに返って来る。
今後、IOCから事故対応について注文が付く可能性も指摘されている。となれば、東京五輪という「第4の矢」が予想していなかった求心力低下の可能性を招き寄せたとも言える。 
混線する「対米中韓」官邸外交 2013/12
 安倍へのすり寄り合戦が続く政権は、「春」を無事に乗り越えられるか。
株価は上がり、野党は壊滅、自民党内にも向かうところ敵なし、内閣支持率も高値安定――。
首相・安倍晋三が政権への返り咲きを果たして12月26日で1年を迎える。この1年間の絶好調はおそらく、平成26年度予算の成立が見込まれる来年春までは続く。だが、政権の落とし穴はえてして、得意技にあらわれる。安倍が長年、心血を注いできた外交と、アベノミクスで好調を謳歌した経済だ。安倍へのすり寄りを競い合う官僚たちの存在と公明党の動向が、この2つの課題の前途に暗雲を投げかけ始めている。11月下旬のある1週間を追えば、その予兆はすでに出ている。
11月23日土曜日。安倍は母・洋子らと映画鑑賞を楽しんだ後、予定外に首相公邸に立ち寄った。官房副長官補・兼原信克、高見沢将林たちから緊急の報告を受けるためだった。
「中国が沖縄県の尖閣諸島を含む東シナ海空域に、防空識別圏を設定しました」
「米政府とも緊密に連携し、中国へ厳重に抗議します」
官僚たちの報告に、安倍は「それでいい」と指示を出すと、わずか40分足らずで公邸を後にした。
翌24日の日曜日も、首相官邸と外務省の事務方は休日返上で調整に奔走した。米国務長官ジョン・ケリー、米国防長官チャック・ヘーゲルも相次いで中国の動きを懸念する声明を出した。一触即発の危機を勃発させかねない中国の動きに対する安倍内閣と米国の連携は、政権交代前は考えられなかった。米国からは故ジョン・F・ケネディ大統領の長女で米政界のセレブ、キャロライン・ケネディが駐日大使として着任し、米国でもケネディの動静が連日、伝えられる。駐中国米大使のゲイリー・フェイ・ロックは突然の辞任を表明したばかり。日中の差は歴然としている。
一見すると好循環にみえるこの一件も、一皮めくればそれほど簡単ではない。米大統領、バラク・オバマとの関係はギクシャクしているのだ。
中国が防空識別圏を発表する2日前、11月21日。官邸と外交当局は、外電で伝わってきた「オバマ大統領が来年4月にアジアを訪問する」との一報に驚いた。官房長官・菅義偉は「大統領の訪日は調整中」と記者会見でとりつくろったが、安倍も「一体、どういうことなんだろう」と困惑と不快感を隠せなかった。
オバマは10月、米国内の債務削減問題の解決を優先するため、予定していたインドネシアなどのアジア訪問を中止した。来春の日程はその代替策に過ぎない。オバマのアジア訪問を発信した国家安全保障担当の大統領補佐官、スーザン・ライスは「今度、創設される国家安全保障会議(日本版NSC)の私のカウンターパートと連携することを待ち望んでいる」などとリップサービスはしたものの「4月」という時期や、日本へ行くのかなどの肝心な事項は、一切事前に通報していない。
日本メディアが「オバマ大統領、来春訪日へ」と書き立てたのは「アジアに来るなら日本も当然だろう」との読み筋に過ぎない。日本政府の高官は「日程が窮屈だ。訪日しない可能性がある」と懸念する。仮にオバマが来日しなければ、今度は「日本は素通り」「日米関係に打撃」と評されかねない。駐米大使・佐々江賢一郎はワシントンでオバマ政権に「もう少し日本に連絡してほしい」と陳情せざるを得なかった。これが来春に訪れるかもしれない。
中国の防空識別圏設定は、韓国との関係改善策にも影響を与えた。
霞が関の官僚群が「外交も取り仕切っている」とみる官房長官の菅は「中国の習近平国家主席と会談すれば、韓国は必ず折れてくる」と読んで独自人脈で感触を探り、「中国との間合いは縮まりつつある」と周辺に自信のほども漏らしていた。
韓国も防空識別圏問題で中国に懸念を伝えたとはいえ、大統領・朴槿恵の反日姿勢は変わらない。菅の戦略は水泡に帰した。
ここで、もう1つの不安定要素となる官邸外交が登場してくる。首相の安倍、官房長官の菅、2人の意向を忖度した対韓強硬論を主導する経産省組だ。
「対韓投資規制を」。今秋、官邸内で浮上した秘密作戦は内閣広報官・長谷川榮一のアイデアだ。
長谷川は第1次安倍政権でも内閣広報官を務め、山登り仲間でもある。今回も安倍本人に直訴して首相補佐官と広報官の兼職という、役人社会の常識を超えた厚遇を受ける。
経産グループが中心となったアイデアは官房副長官・加藤勝信の下まであがったが、安倍が「外務省の意見も聞くように」と言って立ち消えになった。官邸の内部は、安倍に「いかにして気にいられるか」の競争となり、道具として外交関係が弄ばれている。
北朝鮮、中国とのパイプを自任した内閣官房参与・飯島勲も、その延長線上にいる。「日本人拉致問題は動き出す」「中国との首脳会談は近い」との予測はことごとく外れた。飯島は元外務事務次官・谷内正太郎を小泉内閣のころから嫌っており、谷内が責任を担う日本版NSCの運営を阻害する恐れもある、と関係筋は懸念を隠せない。
もう1つ、外交上で官邸内部の人間関係が入り乱れる最大の難問は、安倍の靖国神社参拝問題である。第1次内閣で靖国参拝しなかったことを「痛恨の極み」とまで振り返った安倍は、近いうちに参拝する意向を変えていない。
脱原発発言で話題を呼んだ元首相・小泉純一郎は11月12日、日本記者クラブで「私が首相を辞めた後、首相は1人も参拝しないが、それで日中問題はうまくいっているか。外国の首脳で靖国参拝を批判するのは中国、韓国以外いない。批判する方がおかしい」と安倍を挑発した。中韓との関係が冷え込んだ今こそが好機だ、という小泉流の論理だ。
だが、小泉が靖国を参拝しても政権が盤石だったのは、イラクへ自衛隊を派遣して米国の対テロ戦争に全面的に協力し、当時の大統領、ジョージ・W・ブッシュと個人的な強い結びつきがあったからにほかならない。しかも米国の力は小泉=ブッシュ時代より遥かに弱まっている。「コイズミの言う通りにやってやれ」と日本に甘かったブッシュの米国はもう、存在しない。ドライなオバマの米国は、防空識別圏設定には戦略爆撃機B52を飛ばして応酬したものの、安倍の靖国参拝は「中国、韓国との決定的な関係悪化と東アジアの緊張激化をもたらし、無用な負担を米国にもたらす」と警戒している。外交は単純な敵味方関係ではない。
官房長官の菅も「体を張ってとめる」とは言うものの、「本当に行ったら……」と不安を隠せない。米、中、韓とのパワーゲームでもある靖国問題は、オバマ訪日の有無とも絡んでくる。遅くとも来春までには結論が出るのでは――。関係当局では緊張感が高まっている。
春の大型選挙に戦々恐々
内政でも来春は1つのメルクマールとなりつつある。
中国が防空識別圏を設定した前日の11月22日。東京都知事・猪瀬直樹は衆院選と同時に実施された都知事選前に大手医療法人「徳洲会」グループから5000万円を借り入れたことを認めた。事件の渦中にある徳田毅衆院議員が失職か議員辞職し、鹿児島2区で来年4月に補欠選挙が行われるのは不可避とみられている。仮に猪瀬知事の進退にまで波及すれば、安倍自民党は政権に返り咲いて以来、初めての大型選挙を迎えることになるからだ。
平成26年4月は、消費税率が現行の5%から8%へ引き上げられた直後にあたる。鹿児島補選は「消費増税への審判」と位置付けられる。万が一にも敗れるようだと打撃は大きい。
このところ地方首長選で自民党推薦候補は相次いで敗北しており、支持基盤の揺らぎは明らかだ。中でも痛かったのは10月、政権最大の実力者、官房長官の菅が神奈川県連会長として候補擁立を主導した川崎市長選だった。菅は総務相時代から旧知の元官僚を擁立し、公明、民主両党との相乗り体制をつくって臨んだものの苦戦。終盤3日間で菅は県選出の国会議員らに「団体を回れ」となりふり構わず指示を出し、自らも現地入りしたが、敗北を喫した。3割強と低い投票率で組織力がモノをいう「選挙の常識」が通じない。
自民党の選対幹部は「劣勢を伝えられてからは、どこから手をつけていいのか分からない不気味さを感じた」と振り返り、神奈川選出の自民党衆院議員・田中和徳も「人口が増え、自分たちの力が及ばない住民が増えている」と川崎市内のホテルでの反省会で吐露している。
かつての政・官・財が一体となった自民党の基盤は、大きく崩れているのだ。
その証左は議員会館、霞が関の中央官庁街のそこかしこにあふれている。
11月20日、安倍は東京・神南のNHKホールでの全国町村長大会で「景気回復の実感を全国の隅々にまで届け、地域を元気にしていかなければいけない」と訴えた。そこに集まった全国の町村長や、随行の自治体職員らは三々五々、陳情に出向く。昨年の予算編成は衆院解散、新政権発足直後だったため、ほとんど陳情はできなかった。自民党系の地方首長や議員たちにとっては5年ぶりの晴れ舞台。国土交通省の1階ロビーは陳情客であふれ、永田町の宿泊施設も満室となった。
ところが、自民党の古参秘書は「5兆円の大型経済対策、大盤振る舞いの予算といっても、新規案件の陳情は少ない。ほとんどが継続ばかり」と首をひねる。地方自治体は合併を重ね、人口が減り、借金が膨らんだ。公共事業圧縮とデフレ不況で、地方の中小ゼネコンはその多くが退場した。5年ぶりに「アメ」を与えて支持団体をフル回転させようにも、受け皿が衰退してしまった。
消費税が上がれば、地方の経済が縮み、政治活動がまた塞ぎ込む可能性は高い。これも来春リスクの1つだ。
名誉会長の復活で原点回帰?
そしてもう1つ、連立政権を組む公明党と支持母体、創価学会の動向がある。
11月18日、永田町で「創立記念日を迎えた創価学会で、会長人事があるのでは」との噂が駆け巡った。
結局、人事はなく過ぎ去ったが、この噂は長く病気療養中とされてきた名誉会長・池田大作の健康回復が伝えられたことと深い関係がある。与党へ復帰する前後から、消費増税や安保体制強化に協力した現実路線で行くのか、それとも反戦・平和を掲げる公明党の原点へ回帰するのか。「名誉会長の健康回復が、トップ人事とその後の路線選択を左右するのは間違いない」というのが、学会ウオッチャーの一致した見立てだ。
創価学会内では反戦・平和色の強い婦人部の発言権が、名誉会長の健康回復が伝わるとともに強まっているとされ、代表・山口那津男や幹事長・井上義久ら党執行部の方針に影響している。経済政策でもその意向は無視できない。
「軽自動車が生活の足となっている地方の実態を考えれば、軽自動車を狙い撃ちした大幅な増税には理解が得られない。党として慎重な立場で臨む」
11月13日、公明党政調会長・石井啓一は断言した。軽自動車の増税反対、消費増税での軽減税率導入は学会婦人部の要望が特に強い事項でもある。軽減税率導入に「眦(まなじり)を決して臨む」と語る山口の決意は、表向きだけではない。
学会人事の噂が伝わった翌日の11月19日、山口は安倍との党首会談で「政治決断すべきだ」と迫った。安倍も「承りました」と引き取ったが、友党支持団体の人事、路線闘争までが絡んでいるだけに、通常の案件とは異なる難しい判断になる。
税の問題で齟齬を来せば、来年4月の予算成立後に公明党の動向が注目を集める。公明党・創価学会の意向を汲んで来春以降に結論を先送りした集団的自衛権の行使容認問題が、政局の焦点となるからだ。
自民党の大勢は「公明が連立から飛び出すなどあり得ない」と楽観的に見ている。特定秘密保護法案などで日本維新の会、みんなの党と協調を進めたのも「自維み」の枠組みでも国会運営は可能だと公明に圧力をかける狙いだった。
しかし、300小選挙区の1選挙区あたり2万票を持つとされる公明党・創価学会は、15年近くにわたる選挙協力によって、自民党の重要な票田となっている。小選挙区制しか知らない当選6回以下の世代は「創価学会こそが自民党の最大支持勢力。学会抜きの選挙は考えられない」と実感している。自民党が、公明党を簡単に切れない仕組みは、全国にビルトインされている。
来春以降に公明の動きが政権の攪乱要因となる可能性は十分にあるのだ。
疲弊した支持団体と地方、混線する一方の官邸内外交、複雑化した米中韓とのパワーゲーム、不気味な公明の動向……。どれもが対処をあやまると、連動して政権は危機に陥る。
11月24日、神奈川県茅ヶ崎の名門ゴルフ場、スリーハンドレッドクラブでプレーした安倍は「気持ちいいですね、秋晴れで」と空を仰いだ。特定秘密保護法案は2日後の26日、強行採決で衆院を通過させた。秋晴れのように順風満帆な政権運営を脅かすのは慢心と「内なる敵」である。 
 
諸話 -2014/9

 

靖国参拝、知られざる官邸の暗闘 2014/2
 “同志”と参拝を強行した安倍。しかし、同盟国の「真意」は計れなかった。
「今年は第一次大戦から100年を迎える年である。当時、英独は大きな経済関係にあったにもかかわらず第一次大戦に至ったという歴史的経緯があった」
スイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に参加した安倍晋三首相が1月22日、外国メディアに向けて述べた発言が、国際的な波紋を呼んだ。現在の日中関係を第一次世界大戦で対決する前の英独関係に例えたことから、安倍が「日中戦争」の可能性を認めたと受け止められたのだ。
もちろん安倍に中国と軍事的にことを構える考えは毛頭ない。しかし、国際社会がそう受け止めた背景には、尖閣諸島をめぐる日中の応酬、そして昨年末、安倍が踏み切った靖国神社参拝の生々しい記憶があった。
靖国参拝をめぐっては、官邸の「奥の院」でも暗闘が繰り広げられていた。
「総理が私の意見を聞き入れなかったのは、これが初めてのことです」
安倍が靖国参拝に踏み切った12月26日の夕刻、首相官邸。菅義偉官房長官は衛藤晟一首相補佐官(国政の重要課題担当)に問わず語りにそう漏らした。
中韓関係や経済への影響を懸念して参拝に慎重な菅と、大分大生時代から右派活動に身を投じ「他国に干渉されるべきではない」と参拝に積極的な衛藤。靖国参拝をめぐる2つの水脈は、安倍が2度目の首相に就任した一昨年12月26日夜に、いきなり表面化していた。
就任翌朝の参拝を推すのは衛藤と小泉政権で首相政務秘書官を務めた飯島勲内閣官房参与。これに対して、今井尚哉首相政務秘書官が「私が体を張って阻止する」と猛反対し、菅は今井を支持した。
菅―今井ラインは経済を最優先し、靖国参拝に否定的な世論を重視する。衛藤や飯島も同じ考えだが、いつまでも参拝を封印できないとの思いも持っていた。安倍は、衛藤―飯島ラインに心情的には共鳴しながらも、この時は菅―今井ラインに軸足を置き、参拝を見送った。
この抑制的な対応は、昨年4月の春季例大祭、8月の終戦記念日まで続いた。次のヤマは10月17日から20日まで行われた秋季例大祭だった。飯島が靖国参拝を強く進言したのだ。結局は、台風26号への対応に万全を期すことを理由に見送ったとされたが、実態は異なる。
安倍と衛藤は、沖縄県の仲井眞弘多知事が米軍普天間飛行場の移設予定地である名護市辺野古沿岸部の埋め立てを年内に承認するのかどうか、その一点を見極めて参拝を判断する方向に傾いていたのだ。というのも、仲井眞の承認を得られれば、辺野古移設に向けた米国との約束実現へ大きく歩を進めることになり、オバマ政権は靖国参拝に異を唱えにくいと読んだのである。
一方、菅は、安倍が「首相としての参拝は国民との約束なんです」と漏らすようになった心情を理解はしていた。しかし当面、アベノミクスによる経済再生に集中すべきで、外交、経済など様々な領域で対応が必要となる靖国参拝は可能な限り見送った方がいいと考えていた。
特に、中国は、秋季例大祭直後の10月24、25両日に共産党最高幹部7人が「周辺外交工作座談会」を開き、習近平国家主席が「(相手国の)感情を重んじ、常に顔を合わせ、人心をつかむ必要がある」と融和姿勢とも取れる異例の重要講話を発表。日本政府では「強硬な対日外交が行き詰まり、距離を縮めるシグナルかもしれない」との見方がささやかれた。さらにその見方を裏付けるようなメッセージが習、さらには韓国の朴槿恵大統領の周辺から届いていたことも大きかった。
「まず中国と、第一次安倍内閣の実績である『戦略的互恵関係』を再構築する。そして、日中の急接近に遅れまいとする韓国とも関係を修復する」というのが、菅の描く東アジア外交の正常化シナリオだ。「戦略的互恵関係」の大前提は、靖国参拝について有無や時期を明確にしないことだ。靖国参拝は首相の任期が終わる間際に行うことで、外交的利益と「国民との約束」の両立を図ってはどうかと安倍に進言していた。政権の弱体化を招きかねない事態を避けたい菅が、靖国参拝を「悲願」とする安倍と衛藤に配慮した妥協案だった。
米国への密使派遣
菅、衛藤がそんな神経戦を繰り広げる中、事態が動いた。秋季例大祭を見送った直後、衛藤が安倍と首相官邸で対峙した。仲井眞サイドから埋め立て承認の感触を得た時期だった。
「次のタイミングは、就任1年の節目ではないですか。任期は残り2年ほど。2014年4月にはオバマ大統領の訪日が検討され、秋には北京でAPECが開かれる。翌年春には統一地方選を迎えます。ベストではないが、ベターな選択は1周年だと思います」
衛藤の進言に安倍は答えた。
「中韓は首脳会談を呼び掛けても頑なな姿勢は変わらないので、靖国参拝しても同じでしょう。むしろ米国にはしっかりと事前に説明しなければいけないと思います。衛藤さん、行ってもらえますか」
安倍が就任1年での参拝を決断した瞬間だった。このタイミングを逃せば「なぜ1年目は行かなかったのか」と保守層から不満が出かねない。参拝に批判的な勢力からも「筋が通らない」と非難される懸念があった。就任1年は安倍にとって無視できない時機だった。
衛藤は、ワシントンのシンクタンク「ランド研究所」で開かれる北朝鮮崩壊シナリオのセミナー出席を表向きの理由として訪米することになった。菅が靖国参拝への布石と感じ取り、「セミナーの報告書を取り寄せれば、米国まで行かなくとも構わないでしょう」と難色を示すと、衛藤は「実は、靖国参拝について米側に説明してきたい。総理も了承しています」と打ち明けた。菅が事後承諾する形で密使の派遣計画が固まった。
衛藤は11月20日から23日まで訪米、ラッセル国務次官補(東アジア・太平洋担当)ら米政府高官、アーミテージ元国務副長官と相次いで会談した。
「安倍総理は近く靖国神社を参拝する。参拝を支持する日本国民のほとんどは日米同盟の強化を歓迎している。一方、参拝に否定的な人は親中国派が多い。靖国参拝と日米同盟強化は矛盾しない」
衛藤の説明に対し、ラッセルは「中国や韓国との関係を悪化させるような挑発的行為は控えてほしい。慎重に対応すべきだと考えている」と異論を唱えた。アーミテージも「オバマ大統領はリベラルだ。この民主党政権が終わるまで靖国参拝を控えることはできないか」と自粛を求めた。衛藤はワシントンの日本大使館を通じて一連の会談内容を安倍と菅に報告した。この時点の米側の反応は、衛藤にとってさほど驚きではなかった。
さらに衛藤が米国を発つ直前、中国は尖閣諸島を含む防空識別圏(ADIZ)の設定を発表した。この一方的な通告に国際社会は反発し、米国も戦略爆撃機B52を、中国の設定したADIZに飛行させる対抗措置を取った。結果、中国が孤立する形になったことも、靖国参拝への弾みを付けた。
12月18日夜、安倍は森喜朗元首相や麻生太郎副総理、下村博文文科相らと東京五輪をめぐり公邸で会食した。新聞各紙によると、安倍にその後の来客はない。だが人目を避けて、公邸の食堂で待機していたのは、衛藤その人だった。すでに、1周年での参拝は2人の暗黙の了解となっていた。安倍は「アメリカには改めて連絡できる態勢を取ってほしい。齋木(昭隆外務事務次官)さんとも緊密に連絡を取ってください」と指示した。
衛藤は翌日、東京・赤坂の米国大使館にカート・トン首席公使を密かに訪ねている。そして「総理が靖国に行く前にきちんと連絡します。米政府として反対しないでほしい」と説いたが、「慎重に対処すべきだ」との応答は変わらなかった。
「アメリカは何なんだ……」
そして、26日午前11時過ぎ、安倍は靖国神社へ向かったのだ。
参拝直後、安倍は記者団に力説した。
「靖国神社の鎮霊社にもお参りした。諸外国の人々も含めて戦場で倒れた人々の社だ。中国、韓国の人の気持ちを傷つける考えは毛頭ない。戦場で散った英霊の冥福を祈り、リーダーとして手を合わせることは世界共通のリーダーの姿勢だ」
だが米国大使館と国務省は相次いで声明を発表した。「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米政府は失望している」
「アメリカは何なんだ……」
米国の反応を聞いた安倍はこう漏らした。賛成してくれとは言わない。だが同盟国に対して「失望(disappointed)」という表現まで使って批判するのか。自らの行動を理解してくれない米国に対する苛立ちが、安倍のひと言に凝縮されていた。
しかし、苛立っていたのは米国側も同様だ。米国からみると、靖国参拝は多くの若者の血を犠牲にして民主主義を守り抜いた栄光の戦いと、その後の国際秩序に対する「異議申し立て」に映る。靖国には米国が主導した「東京裁判」のA級戦犯、東條英機元首相らが合祀されているからだ。
また米政府は、昨年3月の衆院予算委員会で、安倍が第二次大戦の総括をめぐって「日本人自身の手によることではなくて、東京裁判という、いわば連合国側が勝者の判断によってその断罪がなされたということなんだろう、このように思うわけであります」と述べたことに着目していた。
「わが国としてはサンフランシスコ講和条約第11条により極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係においてこの裁判について異議を述べる立場にはない」と事実関係にとどめるのが、それまでの政府答弁。「不公正」というニュアンスを伴う「勝者による断罪」という表現は、これまでの見解と異なっていた。さらに安倍はこの前後、衆参両院の予算委員会や米外交専門誌で「首相の靖国参拝は米大統領のアーリントン国立墓地参拝と同様だ」と述べ、米国を念頭に参拝の正当化を図っている。
安倍の主張に業を煮やした米政府は行動に出ている。10月3日、東京で開かれた外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)に出席するため来日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れ、献花、黙とうを捧げたのだ。同行した国防総省高官が一部記者団に、墓苑はアーリントン国立墓地に最も近い存在だとブリーフする念の入れよう。安倍の主張に対する反論であり、靖国参拝に対する警告でもあった。
首相在任中、参拝を重ねた小泉純一郎元首相には表立って抗議しなかったのは、小泉が歴史認識に踏み込まなかったからだ。ケリーらの墓苑訪問後も参拝に意欲を見せる安倍に米政府は直接、間接の忠告をしたが、参拝は現実化した。
米政府関係者によると、安倍の参拝に備えて米大使館が事前に用意したコメント案では「disappointed(失望した)」の前に「deeply(深く)」が付いていたという。『同盟国』に対する配慮で、最終的には削られたが、米側の苛立ちは尋常ではなかったのだ。そんな米側の真意を安倍は見誤っていた。
都知事選でも「誤算」
安倍はこの時期、内政でも想定外の事態に直面している。
「細川さんが出馬すれば、小泉さんも応援すると言っています」
安倍が靖国参拝した翌27日午後、田中秀征元経済企画庁長官は細川護熙元首相と会い、小泉純一郎元首相の支援があるとして「脱原発」を旗印に東京都知事選に立候補するよう迫っていた。
かつてのブレーンの強い要請を、細川はやんわり断ったものの「小泉さんは本当に支援してくれるんでしょうか」と尋ねた。田中は、小泉の支援が確実なら検討の余地があると受け取った。さっそく、小泉側の代理人的な役割を果たしていた中川秀直元自民党幹事長にその感触を伝えた。中川は小泉に報告、細川支援の内諾を得るとともに翌日以降、安倍、菅、石破茂幹事長に相次いで電話する。
「小泉さんの支援を受けて細川さんが出馬する可能性がある。そうなれば強い。対決は避けた方がいいのではないか」
そう言って相乗りするよう提案した。しかし、安倍らは中川の提案を一笑に付した。首都とはいえ自治体の首長選挙で、首相経験者連合が成立するわけがないと踏んだのだ。
1月に入って、細川が出馬する意向を固めたことが報道されると安倍ら官邸サイドは「昨年から動きは知っていた。織り込み済みだ」と平静を装った。だが、それは強がりだ。自民党が世論調査を頻繁に行ったことがそれを裏付ける。
ふがいない野党に助けられる「ぬるま湯政局」が続いたせいか、小泉、そして米国といういわば内外の「身内」との間合いに誤算が生じた。
1月24日の施政方針演説。安倍は集団的自衛権の行使容認に言及した。そこにはオバマ政権の「失望」を挽回するためにも、同盟強化の証しを示したいとの思いが読み取れる。
しかし、連立相手の公明党は行使容認に本音では反対だ。来年春には統一地方選、16年夏には衆院選との“ダブル”も予想される参院選を迎える。いずれも公明党の選挙協力が欠かせない。行使容認と憲法解釈を変更しても、その手続きを定める法改正が必要だ。一部野党の賛成を見込んで強引に関連法案を提出すれば、公明との選挙協力に支障をきたす。次は、公明党という「究極の身内」の真意を見極めなければならない。
安倍は大きなジレンマを抱えながら、1年をスタートさせた。 
「失言連鎖」が呼び起こす悪夢 2014/3
 細川陣営の自滅で都知事選も圧勝。安倍政権のたがが緩み始めた。
「米国がディスアポインテッド(失望した)と言ったことに対して、むしろ我々の方が失望なんですね。米国が同盟関係の日本を、何でこんなに大事にしないのか。あの言葉(失望)は、中国に対する言い訳として言ったにすぎないという具合に理解している」
首相補佐官・衛藤晟一が、動画サイト「ユーチューブ」に投稿した国政報告で、首相・安倍晋三の靖国神社参拝に「失望」を表明した米国に猛反発したことが2月19日、明らかになった。
衛藤は昨年12月26日の参拝前、安倍の密使として訪米し、政府高官らに参拝の真意を説明して回っていた。しかし、米側の反応は予想を上回る厳しいものだった。動画での発言は、衛藤の苛立ちの表れだった。
衛藤は筋金入りの超保守派で、憲法改正や「東京裁判史観」見直しの必要性を唱える点で、安倍と通じ合う。そもそも、安倍が1993年に初当選した直後から付き合いを深め、まだ政治的な軸足が定まっていなかった安倍をタカ派色に染め上げた中心人物とされる。
2人の関係は、安倍が第1次政権当時の2007年、郵政造反組だった衛藤を特例で復党させたことでも明らかだ。当時、自民党党紀委員会は復党について異例の採決を行い、わずか3票差で容認した。郵政造反組のなし崩し的な復党に対して世論の批判が集中し、参院選惨敗の一因となったことは記憶に新しい。
衛藤は動画での発言が明らかになった19日、記者団に対して、「個人としての発言は自由だ。あなた方の指摘の方がおかしい」と開き直り、さらには、最初に報じた毎日新聞の記者に対して、「馬鹿じゃないか。あなたに話すことは何もない」とまで言い放った。
さすがに波紋の拡大を懸念した官房長官・菅義偉は直ちに衛藤を電話で叱責。衛藤は「誤解を与えるのなら」として発言を撤回し、動画も削除した。
安倍発言で公明も刺激
安倍周辺の失言騒動は続いた。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は2月19日、政権の経済ブレーンを務める内閣官房参与・本田悦朗が、安倍の靖国参拝について「誰かがやらなければならなかった。勇気を称賛する」と語ったとの記事を掲載した。本田は「発言の趣旨が違う」と同紙記者に抗議したものの、本田が特攻隊などを引き合いに「日本人にとっての靖国」について熱弁を振るったことが誤解され、安倍政権異質論に拍車を掛けた。
安倍がNHK経営委員に任命した作家・百田尚樹、埼玉大名誉教授・長谷川三千子の言動も物議を醸した。
百田は、東京都知事選で元航空幕僚長・田母神俊雄の応援演説をした際、南京大虐殺を全否定したほか、他の候補者について「人間のくずみたいなのが知事になったら日本は終わる」と酷評した。
長谷川は経営委員就任前の昨年10月、朝日新聞東京本社で93年に拳銃自殺した右翼活動家・野村秋介をたたえる文章を野村の追悼集に寄せたと報じられた。
NHKの政治的中立性に疑問符が付きかねないとの懸念が広がり、駐日米大使館はNHKが申し込んだキャロライン・ケネディ大使のインタビュー取材に難色を示した。
20日には、安倍の後ろ盾である東京五輪・パラリンピック組織委員会会長・森喜朗が、ソチ五輪・フィギュアスケート女子で6位に入賞した浅田真央を「大事なときには必ず転ぶ」と評し、自民党本部にも抗議電話が殺到するという、とばっちりまで受けた。首相在任中に見せた森の失言癖が復活した形だった。
「閣僚の失言で苦しめられた第1次政権と同じ展開ですね」
官邸スタッフの一人は20日、衛藤らの言動に激怒して、そう安倍にこぼした。1次政権は当時の厚労相・柳澤伯夫の「女性は子供を産む機械」発言、防衛相・久間章生の「原爆の投下はしょうがない」発言などに苦しめられた。
安倍は「それは分かっている」と応じたが、内閣支持率は依然として高水準を保っており、安倍の危機感がどの程度か定かではない。
安倍自身の発言もやり玉に挙がった。
12日の衆院予算委員会で安倍は、集団的自衛権行使をめぐる憲法解釈に関し「最高責任者は内閣法制局長官ではない。私だ。政府の答弁に対しても私が責任を持っている。その上で私たちは、選挙で国民から審判を受ける。審判を受けるのは法制局長官ではない。私だ」と明言。20日には、憲法解釈見直しは国会論議を経ずに閣議決定で決めると答弁した。
これに対し、21日の自民党総務会で「閣議決定で解釈を変えていいのか。内閣法制局が精緻な答弁を積み重ねていくべきではないのか」と、異論が噴出した。戦後日本の安全保障政策を大転換することになる憲法解釈見直しには、与党内でも慎重論が多い。公明党の支持母体・創価学会の固い組織票に支えられて国政選挙を戦ってきた自民党の議員は、安倍が集団的自衛権行使容認を決めた場合の公明党の対応に気をもむ。
公明党代表・山口那津男は1月24日、「政策的な意見の違いだけで連立離脱は到底考えられない」と明言したが、最大の「武器」である連立離脱カードをやすやすと手放すはずはなく、安倍に方針転換を促した発言との見方が有力だ。
細川陣営に飛び交った罵声
2月9日に投開票された東京都知事選は、自民、公明両党が支援した元厚生労働相・舛添要一の圧勝に終わった。
安倍の「政治の師」だった元首相・小泉純一郎は、原発ゼロを掲げて元首相・細川護熙を応援したが、共産、社民両党推薦の前日弁連会長・宇都宮健児にも及ばず、3位に沈んだ。当初、小泉の挑戦を警戒した安倍は脱原発ムーブメントの不発に安堵し、予定通り原発再稼働を進める考えだ。
細川と小泉は96年、「行政改革研究会」を設立、同年8月には天下り原則禁止や郵便事業への民間参入自由化を柱とする緊急提言をまとめた仲だ。細川が首相就任後、太平洋戦争は侵略戦争だったと明言した際、異論が根強い自民党にあって小泉は「その通りだ」と細川に同調するなど、意外に波長が合う間柄だった。
「元首相タッグ」は注目を集めたが、細川陣営の選挙戦術は混乱を極めた。
細川と昵懇の元駐仏大使を父親に持つ元衆院議員・木内孝胤や、元総務相・鳩山邦夫の秘書だった元衆院議員・馬渡龍治が当初、選挙戦を取り仕切っていた。
馬渡らが目指したのは、原発ゼロを訴えの中心に据えてテレビ出演や街頭演説で世論喚起を図る「空中戦」だった。
だが、公約の取りまとめに手間取ったほか、細川が首相を辞める契機となった佐川急便からの借金問題をめぐる釈明の詰めに時間を要し、立候補表明から告示までにテレビ出演する機会を見送ってしまった。告示後は主要候補の扱いが平等になるため、思うようにテレビでの露出を増やせない。出馬の決断が遅れたことの代償だった。
政党色を極力排除するため、支援に動いた民主党の議員でさえ細川選対への出入りを禁じられた。ところが、1月23日の告示直後に行われた報道各社の調査で舛添優位の情勢が判明すると、かつて細川が率いた旧日本新党系の関係者が選挙戦術に異を唱えた。
選対事務局長を務めていた馬渡は解任され、細川周辺から「選挙戦を盛り上げてほしい」と要請された民主党議員らが選対に顔を出し始めた。
民主党は電話作戦などの組織戦を主張。演説では、社会保障や防災、東京五輪など脱原発以外のテーマにも触れるよう求めた。細川は1月31日、国会前での脱原発デモに参加したが、民主党関係者が「デモでの訴えは公選法違反に該当するかもしれない」と反対し、マイク・パフォーマンスを封じられた。
このころの陣営の選対会議では、細川の目の前で選挙戦術をめぐりしばしば怒鳴り合いになることもあった。細川は「こんなにも事務所内がもめるとは思わなかった」と、ぼやいたという。
さらに、首都圏を襲った大雪は、過去3番目という投票率の低さに繋がり、無党派層獲得を狙った細川の惨敗を決定付けた。
元航空幕僚長・田母神は、「ネトウヨ」(ネット右翼)と呼ばれる愛国的なネットユーザーらの支持を集め、大方の予想を上回る約61万票を得た。保守化傾向を強める世論を背景に、国政進出もうかがう。
政権の「中間選挙」ともいえる都知事選を乗り切った安倍は、集団的自衛権の行使容認手続きを加速させる。
有識者懇談会の議論や公明党との与党内協議を急ぐ背景には、4月から消費税率を引き上げた後の景気失速に対する不安がある。自身の求心力が健在なうちに最大の政策目標を実現する狙いだ。さらに、来年9月には安倍が再選を目指す自民党総裁選が予定される。大きな課題を片付けるなら年内、という計算があるのは間違いない。
「清和会はいないんですね?」
相変わらず自民党内に有力な「反安倍」勢力は存在せず、再選を阻む要因は見当たらない。みんなの党や日本維新の会を政権側に引き寄せ、野党の分断にも成功した。
とはいえ、政策決定に関して政府から自民党に対する説明が足りないとの反発が表面化しており、不穏なムードが皆無とはいえない。安倍が一昨年末の第2次政権発足以来、内閣改造や本格的な党人事に手を付けていないことには入閣待望組の不満が募っている。
「うちのムラはまだ総裁選対応を決めていない」
元財務相・額賀福志郎がトップを務める額賀派に隠然たる影響力を保持する元参院議員会長・青木幹雄は周囲にそう語り、安倍をけん制する。
来るべき人事で額賀派をどう処遇するか、見極めようという腹だ。
青木は同派出身の党幹事長・石破茂について、「石破は総裁選の地方票で勝ったが、国会議員票で負けた。うちが安倍についたからだ」と指摘。次期総裁選から地方票の比重が高まることを念頭に、石破を担ぐ可能性に言及している。消費税増税や環太平洋連携協定(TPP)交渉に地方の反発が強まれば、総裁選で安倍の対抗馬に地方票が集まる展開もあり得る。
当の石破は集団的自衛権の行使容認で安倍に歩調を合わせ、支える姿勢は揺らいでいないものの、自身が勝てる可能性が出てきたときにどんな対応に出るのか予断を許さない。
石破は2月、党幹事長特別補佐に腹心の前国対委員長・鴨下一郎を充てると決めた。この人事は官邸への根回しなしで実施された。安倍周辺では石破の真意をいぶかる声が上がった。
額賀派からみれば、首相の靖国参拝にからんでも、不信感を増す出来事があった。
額賀派の元少子化担当相・小渕優子ら日中友好議員連盟訪中団が昨年12月に訪中する際、小渕は安倍に事前報告した。
「清和会(町村派)の議員はいないんですね?」
そう念押しした安倍は、直後の同月26日、靖国を参拝。小渕らと中国副首相ら要人との会談はキャンセルされた。
小渕がメンツをつぶされたことで額賀派は不快感を抱き、安倍の独走を苦々しく見つめている。
石破以外の動きはどうか。内閣を支える立場の副総理兼財務相・麻生太郎は、安倍が失速した場合の後継は自身だとみて、麻生派の勢力拡大や他派閥との友好関係構築を進める。73歳という年齢を考えれば、再登板のチャンスは多くない。
12年の総裁選で推薦人を確保できず再選出馬断念に追い込まれた法相・谷垣禎一が、集団的自衛権行使容認に反対する自民党リベラル派に担がれることも想定される。弁護士出身の谷垣は2月14日の記者会見で「憲法解釈は時代で変遷する可能性も否定できないが、同時に安定性もないといけない」と、憲法解釈変更に前のめりの安倍にくぎを刺した。
6月22日に会期末を迎える通常国会後、9月の党役員人事に合わせて安倍が内閣改造などに着手する場合、石破や麻生ら総裁候補を引き続き要職にとどめて囲い込むとの観測がもっぱらだ。
石破は有力閣僚への横滑りが取り沙汰される。官房長官・菅の幹事長起用説もあるが、官邸を取り仕切って霞が関ににらみを利かせてきた菅が代われば、政権のパワーダウンは避けられないだろう。
「今の政治状況、どちらかというと右に傾きすぎる競争をしているグループがある。その対極にある共産党も元気になってきた。国民が期待をしている中道リベラル、穏健保守の支持層を集める担い手がみえなくなっているのが、日本の最大の課題だ」
民主党の前首相・野田佳彦は2月23日、岡山市内での会合で、現在の政治状況を評した。
安倍が集団的自衛権や教育委員会制度見直しなど「戦後レジームからの脱却」に血道を上げる中、戦後日本の国造りを主導してきた保守本流路線が衰退しているのは事実だ。
日本政治でぽっかりと空いたポジションを誰が取りに行くのか。それが来年の自民党総裁選や民主党代表選の対立軸となり、安倍の再選や野党再編の行方を左右するかもしれない。 
「株価依存内閣」の危うい舵取り 2014/4
 成長戦略を描けず伸び悩む経済。外交では首相周辺の不甲斐なさが目立つ。
ロシアのクリミア併合と中国の進出。2つの帝国主義勢力の勃興は、「冷戦後」を終わらせ、世界を20世紀前半の弱肉強食時代に戻しつつある。日本は、どう対処すべきなのか。艦長としてその舵をとるべき首相・安倍晋三は内政、外交ともに誤算が続き、身動きがとれない。東日本大震災から3年を迎えた日からの2週間ほどを振り返るだけでも、明瞭になる。
「アベノミクスのバロメーターは、なにより株価だ」
3月11日、首相官邸。安倍は居並ぶ経済関係閣僚を前に漏らした。
安倍の側近、経済再生担当相・甘利明が8%への消費増税、6月の成長戦略とりまとめを控えて呼びかけ、経済財政諮問会議の閣僚メンバーを集めた会合だった。副総理・財務相の麻生太郎、官房長官・菅義偉も顔をそろえた。
「事務方がいては率直な議論ができない」と甘利が関係省庁の官僚を出席させなかった席での安倍の発言。内閣支持率が高止まりし、国会もすいすいと乗り切る源が株高である。この政権は「株価依存内閣」であると、ほかの誰よりも安倍自身が承知していると告白した発言でもある。
民主党政権の8000円台から一気に跳ね上がった株価は、昨年末に1万6000円台をつけて以降は伸び悩む。金融緩和、財政出動に続く第三の矢となるはずの成長戦略、中でも核となる規制緩和に「見るべきものはない」と市場関係者も官僚たちも、見切ってしまっているからだ。
危機感を強めるのは官房長官の菅だ。菅は安倍に「とにかく経済優先で」と説き、靖国参拝にも最後まで反対の立場をとった。それだけに、株価の下落傾向が定着してしまえば自らの立場は揺らぎ、政権の勢いも失われる。
首相官邸で横目にする日経平均株価のボードは、師と仰ぐ元官房長官・梶山静六が旧官邸時代に初めて持ち込んだ。株価と支持率、政権の勢いが密接に絡み合い始めたのは梶山が官邸にいた1990年代後半を嚆矢とする。梶山は山一證券の自主廃業に端を発した金融危機への対応策として、10兆円の国債を発行して破綻処理と財政出動に充てる案を官房長官退任後に打ち出し、官僚群を驚かせた。「あんなアイデアはないものか」と菅は日々、株価の即効薬を探すが、妙案はみあたらない。
3月19日、諮問会議で菅は「法人税の実効税率引き下げに来年から取り組んでほしい。首相は引き下げを明言している」と下げ幅、実施時期まで明確にするよう促した。
1週間前の3月12日には都内のホテルに中堅・若手議員を集めて法人税の勉強会を開いた。「党の税制調査会が税の権限を握っているのはおかしい」を持論とする菅が、安倍と経済閣僚による「御前会議」の結果を踏まえ、自民党内から援護射撃させる戦略である。
それでも市場は冷たい。
外国人投資家、株式ディーラーたちは「昨年と同じように、今年もできない」「安全保障政策に気をとられている安倍政権が、財務省の反対する法人税引き下げを実現できるのか」と会話を交わした。
法人減税以外に、アベノミクス効果を維持する手段はみあたらないというのが「経済優先」を唱える菅、そして経産省出身の首相政務秘書官・今井尚哉の共通認識。第一次安倍内閣で経産相を経験した甘利も「骨太の方針に、法人税引き下げの方向性はできるだけ具体的に書きたい」と後押しした。昔ながらの商工族が一致団結し、法人減税に反対する財務省を屈服させようというのだ。
菅はもう1つの課題でも財務省と対決姿勢をとる。2015年10月に予定する10%への消費税再引き上げだ。
「10%の前提で持ってくるな」
戦後3番目のスピードで本予算が成立し、早くも2015年度予算の政策を「ご説明」に来る官僚たちを、菅はこう言って押し返す。
予算カレンダーでいえば6月には成長戦略と骨太方針が確定し、これをもとに概算要求基準を定め、各省の要望が決まる。10%への引き上げ判断の「今年末まで」という期限は、実は「来年度予算編成にぎりぎりで間に合う」意味しかない。中央官僚界での既成事実は、どんどん積み上がっていく。
菅が消費税10%に慎重なのは、安倍とも気脈を通じる。8%への引き上げでさえ、最後の最後まで悩んだ安倍は今、「再増税は白紙だ」と周囲に漏らす。
消費増税の影響、株価の動向を見極め、場合によっては消費税を8%のまま据え置く――安倍の本音はこれだ。
7―9月期の景気指標がそろうのは11月。そこまで株価を持たせるのが、政権の至上命題なのだ。
「もったいない……」
しかも、株価には思わぬ「敵」があらわれた。外交だ。
ウクライナ問題が緊迫し、クリミア自治共和国が住民投票でロシアへの編入を支持。ロシア大統領・プーチンは3月18日、直ちにクリミアを併合した。
「これではロシアと北方領土問題交渉はできない」
国会答弁の勉強会などで、安倍を中心とする政権中枢はこう判断せざるを得なかった。翌3月19日、参院予算委員会で安倍は「ウクライナの統一性と主権、領土の一体性を侵害するもので、非難する」と踏み込んだ。これまで我慢して控えてきた「非難」を初めて使っただけではない。重要なのは、次の表現だった。
「我が国は力を背景とする現状変更の試みを決して看過できない」
沖縄の尖閣諸島をめぐる対立で、中国に対して使う表現だ。ロシアのクリミア併合を非難しなければ、中国が尖閣で力を行使した場合も非難できなくなる。中国は米国のロシアへの対応を見極めている。米国は共和党ブッシュ政権でも、ロシアとグルジアの紛争に手をこまぬいた。民主党でも共和党でも、武力行使はもはや、できない。国際法、条約交渉の専門家の意見に、安倍は断腸の思いで乗らざるを得なかった。
再登板してから5回も会談を重ねたプーチンは、安倍にとって最もケミストリーの合う首脳だった。ソチ・サミットでの首脳会談、秋のプーチン訪日に期待をかけ、米欧とは一線を画してまで慎重姿勢に徹したことがすべて、無駄になった。
安倍はその一方で、「しかし、もったいない……。残念だ」との未練もみせた。
ロシアを排除したG7体制に回帰しても、最も緊密な同盟相手であるはずの米大統領、バラク・オバマへの不満が、内にはたまっているからだ。
3月14日。国会答弁で、普段は自分の言葉で質問に答える安倍が珍しく、手元の資料を読み上げた。従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話、いわゆる「河野談話」について「安倍内閣で見直すことは考えていない」と答弁したのだ。
険悪な日本と韓国の関係を懸念するオバマ米政権が、慰安婦問題にこだわる韓国大統領、朴槿恵の意向を汲み、安倍に明言を求めていたのだ。もとより安倍の本心は、河野談話に懐疑的だ。その想いが安倍に資料を棒読みさせたのだろう。
そこまでの「河野談話」への思いは封印し、オバマの要請に応えて「見直さない」と答えざるを得なかったのは、オバマが仲介した日米韓首脳会談がオランダのハーグで実現できるかどうか、の瀬戸際にあったからにほかならない。
いま、米国の要請を無下にするのは、日本が世界で孤立することを意味する。
3月19日、予算成立を翌日に控えた夜。安倍は官房副長官・世耕弘成ら政治家との会合を30分そこそこで切り上げ、南麻布の日本料理店「有栖川清水」に向かった。待っていたのはJR東海会長・葛西敬之や富士フイルムホールディングス会長・古森重隆ら経済人。アベノミクスの効果と賃上げをほめそやす経済界は、もともと強固な対米関係を望んでいる。
「今回のウクライナ、クリミア問題は対米関係改善のチャンスだ」
「欧州が慎重なロシア制裁を強化してオバマ大統領に恩を売ればよい」
経済界の声は、安倍の真意とはズレていた。
菅が声荒げた萩生田発言
無念続きの外交で、安倍にとって唯一の光明となったのは北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさんの娘キム・ウンギョンさんと横田滋、早紀江さん夫妻が3月10日から14日までの間、モンゴル・ウランバートルで面会したことだった。
拉致問題への取り組みは安倍が官房副長官から首相にまで駆け上がるきっかけとなった重要な課題だ。外務省の正規ルートを駆使してようやく面会にこぎつけた。横田夫妻にとっては喜ばしい悲願の面会だったが、外交的なタイミングは間が悪かった。
金正恩体制の北朝鮮は中国と距離を置き、米国も韓国も、核問題をめぐる6か国協議が停止状態にある中での「日朝突出」を嫌う。オバマが仲介の労をとって日本と韓国を同席させようとしていたさなかの横田夫妻の面会。米韓、そして中国も日本を警戒する構図だ。
政治主導が叫ばれる中、米中韓露を相手に、複雑な連立方程式を解かねばならない安倍政権の外交を遂行するのは、政治家ではない。プロの外交官である。
ウクライナ危機後、直ちにロシアへ飛んだのは、国家安全保障局長・谷内正太郎。そして、日米韓首脳会談の露払いを務めるため、3月12日にソウルへ飛んだのも外務事務次官・齋木昭隆だった。
齋木は、昨年7月にも韓国を訪問するなど、最悪の日韓関係にあっても外交官としてのパイプを水面下ではつないできた。ソウルでは「齋木次官と韓国側で激しい応酬があった」と日本政府高官は明かす。硬軟取り混ぜた国際交渉を展開するのは、古くからの「事務方」である。
事務方が表舞台に出ざるを得ないのは、政治家や首相周辺にいる民間人たちの不甲斐なさをも浮き彫りにする。
環太平洋経済連携協定(TPP)担当相も兼ねる甘利は「俺が決めてやる」と意気込んだ米国との交渉がうまくゆかず、米通商代表部(USTR)代表、マイケル・フロマンとの仲は、いまや険悪だ。
北朝鮮との独自のパイプを誇示していた内閣官房参与・飯島勲は、横田夫妻の面会を「外交カードとしては失敗の策かもしれない」と批判する。
そして自民党総裁特別補佐・萩生田光一は日米韓首脳会談が正式に決まった2日後の3月23日、「河野談話」の検証について「新たな事実が出てくれば、その時代の新たな政治談話を出すことはおかしなことではない」と河野談話に代わる談話の必要性に言及した。
政治家たちが、事務方の交渉を踏みにじる発言を続ける現象は止まらない。
官房長官の菅は業を煮やした。
同時多発的に起こる外交問題で、外務省と二人三脚で歩む菅は萩生田の発言を聞くや否や「またか!」と声を荒げた。2月には首相補佐官・衛藤晟一が、安倍の靖国参拝を「失望(disappointed)」と評した米国を「我々の方が失望だ」と批判して物議をかもし、この時も菅が火消しに追われた経緯がある。
菅や外務省が神経を尖らせるのは、首相周辺の発言が中韓との関係をより悪化させるだけでなく、米ホワイトハウスや国務省にも「安倍首相が自らの真意を代弁させている」と受け止める空気があるからだ。
日本政府筋は「米国の本音は『失望』ではなく『怒り』だ。同盟国だからこれ以上は言えない、と我慢しているに過ぎない」と解説する。
衛藤、萩生田ら政治家の発言、さらにはNHK会長・籾井勝人の、従軍慰安婦は「戦争をしているどこの国にもあった」などの発言を、米政府は「アベの真意ではないか」と疑い始めている。靖国参拝、周辺発言は戦前への回帰――つまり、米国主導の国際秩序への挑戦ではないか、と懸念する。
それだけに「経済優先」の菅は気が気でない。菅に同情する自民党議員からは「今国会終了後の内閣改造・自民党役員人事で、側近たちは重要ポストから外すべきだ」との声も聞こえる。
ところが、首相と保守的な心情をともにするグループの受け止めは異なる。
韓国との首脳会談に関して、要求を重ねる青瓦台にうんざりしている安倍の様子も、彼らはうかがっている。安倍の悲願である靖国参拝すら反対した菅の方が「総理の心を分かっていない」というわけだ。世界は20世紀初めの動乱期に匹敵する波乱に直面しているのに、安倍の周囲では内閣改造を巡る小さな鞘当てばかりが目立つ。
日本時間の3月26日未明、安倍はハーグで日米韓首脳会談に臨み、初めて朴と公式に顔を合わせた。とはいえ安倍、オバマ、朴三者の空気はぎこちなく、先行きは楽観できない。
戦前、列強のパワーゲームに翻弄され「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出して倒れた内閣があった。自主的な外交ができなくなれば、国は滅びる。長期政権を求める世論を背景に、どこか緊張感を欠く国内政治状況とは裏腹に、列強がしのぎを削り始めた国際状況が、安倍内閣の潮目を変えつつある。 
「白旗」揚げさせられた公明の急所 2014/7
 集団的自衛権をクリアし、絶頂期の安倍政権。焦点は内閣改造に移った。
第186通常国会が6月22日に閉会し、政界の関心事は内閣改造・自民党役員人事に移った。
内閣改造は、各省庁による2015年度予算の概算要求終了後の9月が有力視される。閣僚人事では政権の屋台骨を支える官房長官・菅義偉、副総理兼財務相・麻生太郎、経済再生担当相・甘利明の続投は確実とみられ、大幅な入れ替えにはならないとの見方が多い。
しかし、12年12月に発足した第2次安倍内閣では一度も閣僚の入れ替えがなく、自民党内に膨れ上がった衆院当選5回以上、参院当選3回以上の「入閣待機組」には不満がたまっている。首相・安倍晋三は金銭スキャンダルや答弁ミスのない現在の陣容におおむね満足しているが、来年9月に控える自民党総裁選を意識すれば、各派閥の期待に応えねばならない立場にある。
「最後は金目でしょ」。環境相・石原伸晃は6月16日、東京電力福島第一原発事故の除染廃棄物を保管する国の中間貯蔵施設建設に関し、難航する福島県側との交渉について記者団にこう語り、最終的には交付金など金銭で解決するとの立場を示した。
慌てて電話で経緯を問いただした官房長官・菅に対し、石原は「何が問題になっているんですか」。のんきな石原に、菅は、ただあきれるしかなかった。
結局、石原は緊急に記者会見して、「住民説明会で金銭の話がたくさん出たが、具体的内容は受け入れが決まるまで説明できないという意味だった」と釈明したが、過去に福島第一原発をオウム真理教施設になぞらえ「福島第一サティアン」と発言したことに続き、失言癖を強く印象づけただけだった。野党が提出した不信任決議案と問責決議案は20日の衆参両院本会議で否決されたものの、交代閣僚の一番手に挙がったのは間違いない。
改造では当然ながら、自民党幹事長・石破茂の続投の有無が焦点だろう。
石破は来春の統一地方選での陣頭指揮に意欲を見せるが、生来の「政策優先思考」が災いし、相変わらず人間関係の構築や根回しが得意ではない。集団的自衛権をめぐる与党協議を担当する自民党副総裁・高村正彦との意思疎通を欠き、協議の行方について石破、高村が首相官邸に違う内容を報告することもしばしばだった。
見かねた菅は6月13日、2人を官邸に呼び出している。その上で、安倍から密に連絡を取り合うように指示させた。
石破の出身派閥・額賀派の後ろ盾である元自民党参院議員会長・青木幹雄は「今さら閣僚をやってどうする。入閣を打診されても断れ」と、幹事長続投を勝ち取るよう石破の尻を叩いている。「ポスト安倍」一番手に目される石破に政権禅譲をにおわせて留任させるのか、党内での足場固めを阻止するため軽量級の閣僚ポストを与えて閣内に封じ込めるのか。
長期政権を狙う際、対抗馬になりかねない石破の処遇は、安倍にとって悩ましい案件だ。石破が18日に開いた自身の勉強会「さわらび会」には衆参両院議員80人以上が集まり、侮れない勢力であることを見せつけた。
腰砕けの公明
集団的自衛権をめぐる与党協議では、公明党が限定的な行使容認を受け入れた。政府が例示した行使事例の個別撃破を試み、憲法解釈変更の閣議決定を先送りさせようとしたが、安倍は「決めるときには決める。内閣支持率が多少下がっても仕方ない」と強硬姿勢を貫き、公明党・創価学会をねじ伏せた。
公明党代表・山口那津男が1月の段階で早くも連立政権離脱を否定し、安倍と対峙するための切り札を封印したことも響いた。結党50年の節目を迎える「平和の党」は、集団的自衛権行使を認める憲法解釈変更を不本意ながらも受け入れることになった。
自民党副総裁・高村は6月24日の与党協議で、集団的自衛権の行使容認に向けた新3要件の修正案を提示した。
修正案は、憲法9条の下で認められる武力行使について(1)わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、(2)これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと――に該当する場合の自衛措置とした。日本への攻撃がなくても、他国に対する武力攻撃が発生した場合に自衛権行使を認める内容だ。
お互いの携帯電話番号を交換するところから始まった高村と公明党副代表・北側一雄による協議は、水面下でも続いた。
6月23日に死去した小松一郎の後任として内閣法制局長官に就いた横畠裕介が2人の協議に立ち会い、微妙な文言調整に知恵を出した。公式には憲法解釈変更に抵抗した公明党も早くから妥協点を探り、受け入れ可能な案を自民党側に伝えた。
議員会館の各事務所には「新3要件は公明党が作った」と主張する怪文書が送り付けられ、それを知った北側は苦渋の表情を浮かべた。憲法解釈変更に反対するある公明党議員は「次の選挙は負ける覚悟だ。北側の首を締め上げてやる。北側と井上義久幹事長が責任を取ればいい。何が平和の党だ」と、息巻いた。所属議員や支持者と自民党の板挟みになった北側は「俺もつらいんだよ」と、周囲に嘆いた。
公明党が白旗を揚げた背景には、安倍サイドからの露骨な圧力があった。
「公明党と創価学会の関係は政教一致と騒がれてきたが、内閣法制局の発言を担保に、その積み重ねで政教分離ということになっている」
安倍のブレーンである内閣官房参与・飯島勲は6月10日、ワシントンでの講演で集団的自衛権をめぐる自公対立に触れて、そう指摘した。さらに「法制局の答弁が一気に変われば、政教一致が出てきてもおかしくない」と、公明党をけん制した。
自民党は1995年、宗教法人法改正問題に絡み、創価学会名誉会長・池田大作の参考人招致を要求。当時の「公明」が参加していた野党の新進党は反発したが、秋谷栄之助会長が参考人招致されるに至った苦い記憶がいまだに残る。飯島は憲法解釈変更をちらつかせ、譲歩を求めた訳だ。
歴代の自民党政権は、1小選挙区当たり平均で2〜3万票をたたき出す公明党・創価学会の選挙協力に期待して政策面で最大限の配慮を見せてきたが、集団的自衛権行使容認に前向きな日本維新の会やみんなの党が政権にすり寄る中、安倍サイドは連立組み替えも辞さない構えをにじませた。
安倍周辺は「『集団的自衛権をのめないなら連立から出て行け』という首相の思いは十分に伝わっているはずだ」と、言い放った。
99年の連立参加以来、政権党の政策実現力を痛感してきた公明党に、連立離脱の選択肢はなかった。
「責任与党として、国民の命と暮らしを守るため、決める時にはしっかりと決めてまいります。経済であろうと外交・安全保障であろうと、私たちは自らの力で壁を突き破り、前に進んでいくほかありません」。通常国会閉会を受けて行われた24日の記者会見で、安倍は憲法解釈変更の閣議決定にあらためて決意を示した。山口は26日夜のNHK番組で、限定行使容認を表明した。
勝者なき野党再編
巨大与党に圧倒され存在感を示せない野党側では、日本維新の会分裂を機に野党再編論議が活発化している。
統一地方選や次期衆院選をにらんで再編を急ぐ日本維新共同代表・橋下徹は、結いの党との早期合流を目指し、同じく共同代表の石原慎太郎とたもとを分かった。
両党の政策協議では、石原が掲げる「自主憲法制定」の文言が焦点になった。結いの党代表・江田憲司は、現行憲法の破棄を意味する自主憲法明記に反対。石原は6月11日の党首討論で「何とかいう党の党首は、集団的自衛権には反対、自主憲法制定と言ったら外国からとんでもない誤解を受けかねないと公言しているが、これは昔の社会党と同じような言いぶりだ」と、江田の名前を口にすることさえはばかられるといった体で不快感をあらわにした。
しかし、日本維新の分裂は、結いの党との隔たりだけが原因ではない。
石原は5月29日の記者会見で、橋下との出会いについて「人生の快事だった」と語る一方、旧太陽の党と合流する際に橋下が「私たちが必要としているのは石原さん1人で、平沼赳夫さん(代表代行)は必要がない」と発言したことを紹介。「その時の心理的な亀裂が尾を引いた」と明かした。
橋下にとって、石原が結成する新党「次世代の党」への参加者が衆参両院で22人に上り、自身の新党が38人にとどまったのは誤算だった。
「多数派工作なんていうのは、そんなに意識していない」。橋下は6月5日の記者会見で平静を装ったが、橋下が目指した「維新・結い新党」に民主党議員が雪崩を打って参加する状況にはない。
民主党幹部は「石原には企業や宗教団体などの組織がついている。橋下には風しかない。選挙を考えれば議員は石原を選ぶ」と読み解いた。
そんな橋下が民主党との橋頭堡に見定めたのは元代表・前原誠司だ。
橋下と江田は5月下旬、前原と京都市内で会談した。前原は維新分党決定後の6月7日、読売テレビの番組で「小選挙区では野党がバラバラだったら自公を利するだけだ。民主党も含めた野党再編の努力をしなくてはいけない」と発言。橋下と合流する可能性を問われ「100パーセントだ」と言い切った。
番組後、記者団には「海江田万里代表は去年の参院選後、『1年で目に見える成果が出なければ辞める』とおっしゃっていた。その総括をしっかりしていただくことがまず大事だ」と、海江田降ろしをぶち上げた。これに先立ち、前外相・玄葉光一郎も代表選の前倒し実施を要求。前原、玄葉に近い若手議員約10人は16日、来年9月に予定される代表選の前倒し実施を海江田に直談判した。元行政刷新担当相・蓮舫ら参院議員約10人も18日、海江田に辞任を迫った。
海江田ら党執行部がそれに応じる様子はない。
日本維新や結いの党主導の再編論議には乗らず、次期衆院選まで我慢すれば他の野党が息切れし、党勢を回復した民主党が主導権を握れるとの見通しを持っているためだ。
民主党幹部は「地方組織のネットワークや支持団体・連合の集票力、豊富な資金は日本維新や結いの党の比ではない」と強調する。
次期代表に色気を持つ前原の態度も煮え切らない。日本維新幹事長の大阪府知事・松井一郎は6月7日、前原の発言に関し「『100パーセント』というなら『いつですか』ということだけだ。政治は結果だ」と記者団に語り、「言うだけ番長」と揶揄される前原に決断を促した。
6月11日の党首討論で論戦力不足をさらけ出した海江田で次期衆院選を戦おうという声は、民主党内でほぼ皆無だ。元代表・岡田克也や前原とともにポスト海江田候補に挙げられる前幹事長・細野豪志は7日の会合で「安倍政権は単一の考え方を押し付けている。異論に聞く耳を持たない政治指導者は恐ろしい」と批判。「民主党は困った時に助け合う『共生』を大事にする政党だ」と述べ、発信力不足の海江田に取って代わる意気込みを見せた。
「野党全党が足並みをそろえて自民党政権に対峙する姿は、これからも大切にしていかなければならない。そうした動きの中で、団結した民主党が中心にいることが極めて重要だ」
民主党が24日に開催した両院議員総会で、海江田は懸命に党の結束を訴えた。海江田にとっては就任後1年間の「成果」を訴え、辞任論を封じ込めるはずの場だったが、出席者からは代表選の前倒し要求が続出。海江田を明確に擁護したのは、わずか1人にとどまった。
海江田は「外からは、我々の党にバラバラ感があるという風に見えている。その克服に当面、意を注がなければいけないという大変残念な現状だ」と嘆くしかなかった。
政府は6月20日、従軍慰安婦問題をめぐる河野洋平官房長官談話の作成経過に関する検証結果を公表した。
談話自体の見直しはしない方針だが、安倍は戦後70年を迎える来年夏に「安倍首相談話」を出し、歴史問題に関する過去の政府見解をいわば上書きする構えだ。「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍の最終目標は憲法改正。16年の参院選や次期衆院選で発議に必要な3分の2を確保し、早ければ17年の国会発議を狙う。集団的自衛権行使を認める憲法解釈の変更に続き、次々に安倍カラーを実現するつもりだ。
安倍を止める対抗勢力は現れないのか。圧倒的な数の力と野党のふがいなさ、腰砕けに終わった公明党の非力さを考え合わせると、安倍政権は絶頂期に入ったといえるだろう。ただ、それで国民がどこに導かれるかは別問題である。 
安倍と石破、覆い隠せない溝 2014/9
 内閣改造で見えてきた自民党内政局。二大知事選が新体制の運命を決める。
8月9日昼。首相・安倍晋三は、官房副長官・加藤勝信、世耕弘成にそれぞれ電話し、いたずらっぽく話しかけた。
「産経新聞見た? そういうことだから、まあよろしく」
同日の産経新聞には、安倍のインタビューが載った。そこで安倍は官房長官・菅義偉のほか加藤、世耕、杉田和博の三副長官らの続投を明言している。改造の約1カ月前、特定の新聞に首相が具体的人事を語るのは前代未聞のこと。加藤や世耕は他のポストに異動するとの見方もあっただけに、周囲はもちろん本人たちも驚いた。「新聞辞令」とは、伝聞に基づいてマスコミが伝える不確かな人事報道を指すことが多いが、加藤や世耕は正式な辞令を新聞を通じて受け取ったことになる。
安倍が首相に返り咲いて600日を過ぎた。安倍にとって第1次政権の発足時、改造時、第2次政権発足時に続く4度目の人事は、知恵袋でもある菅ら少人数で練り上げられた。元財務相・額賀福志郎ら、派閥領袖の要望には耳を傾けたが、言質を取らせることは、ほとんどなかった。その代わりサプライズ人事を連発して党内を翻弄した元首相・小泉純一郎の名をあげ「小泉さんも人事は嫌だと言っていました」などと、けむに巻いてみせたりもした。
第2次安倍政権の強みは、少々失敗しても、早く修正して傷を大きくしないところにある。昨年暮れ、特定秘密保護法を強行成立させた時や、今年7月に集団的自衛権を行使できるように閣議決定した時は、内閣支持率が大幅に落ちたが、その後、支持を回復した。その粘り腰が、小泉政権以来の長期政権の気配を漂わせている。
夏の“気の緩み”
ただ酷暑の中、8月には政権の緩みも随所に見えた。
20日早朝。山梨県鳴沢村の別荘でくつろいでいた安倍に、広島市の土石流災害の一報が入った。安倍は、十分な対応をするように指示をした上で車に乗り込んだ。向かった先は富士河口湖町の「富士桜カントリー倶楽部」。元首相の森喜朗、経済産業相の茂木敏充、加藤らとゴルフをする予定になっていたのだ。車中では、秘書官から「場合によっては帰京する事態になるかもしれません」と報告を受けたが、ゴルフ場に到着した安倍は、予定通り数ホールをラウンドした。
「首相とゴルフ」といえば、真っ先に思い浮かべるのが2001年2月に起きた愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸と米原潜との衝突事故だろう。当時の首相・森は、事故の報告を受けた後もゴルフを続けたことで批判され、退陣の遠因となった。森が世論の袋だたきになるのをそばで見ていたのが当時官房副長官だった安倍だった。
広島での死者が多数にのぼりそうだという続報が入ったのはプレーを始めて1時間半後だった。13年前の痛い思い出のある森は「あの時は大変なことになった。早く戻った方がいい」と安倍に忠告。安倍も帰京を決断する。
米原潜との事故と災害。性格はまったく違うが、「えひめ丸」の死者は9人。今回の土砂災害の犠牲者は、それをはるかに上回る。「えひめ丸」で森は、ゴルフを始めてから一報が入ったが、今回、安倍は一報を受けた後にゴルフを始めている。森よりも安倍の方が非難される要素が多いようにも感じられるが、マスコミは、安倍に対し総じて温かかった。「えひめ丸の事故を教訓に対応した」と評価した新聞さえあった。これも、今の政権の求心力が保たれているからだろう。
だが安倍は、この後も軽率と言われかねない行動をとった。東京に戻り、状況の報告を受けて対応を指示した後、夜になって再び別荘に戻ったのだ。天皇、皇后両陛下が長野、群馬両県での静養を取りやめられると発表されたことと対比され、野党側からは批判の火の手が上がった。
自然災害の中で、首相が実際に果たす役割は限られている。首相官邸にとどまっていたからといって、被害拡大が食い止められたというわけではないだろう。だが、世論に敏感な政治家なら、被災地の住民感情に配慮して「快適な別荘に戻る」選択はしなかっただろう。災害発生後、ゴルフをしていたという引け目を感じているなら、なおさらだ。
安倍が首相に返り咲いてから、メディアの報道は二極化している。新聞では読売、産経、日経などが常に政権に好意的で、朝日、毎日、東京などは厳しい目を向ける。安倍は「何をやっても批判する勢力は批判する。自分の信じるようにやれば、わかる人は分かってくれる」という思いが強くなっている。いきおい周囲の批判に鈍感になってきているともいえる。
安倍は今年4月にも、熊本県内で鳥インフルエンザの発生が確認された日にゴルフをしていたとして批判された。今回も責められることは自覚していたことだろうが、それを承知で取った行動は、よく言えば一徹さの表れ、悪く言えば開き直りでもある。
「緩み」は他の場面でもみられた。8月6日、広島で行われた平和記念式典で、安倍のあいさつが去年のあいさつと同じ内容の部分が多いことが指摘され「コピペ疑惑」と話題になった。
毎日のように会議やパーティーに出席する安倍のあいさつ文は、秘書官ら事務方が原案をつくる。それが昨年と似ているのをチェックできなかったとして首相を責めるのは酷だろう。ただ広島で「コピペ疑惑」が指摘された3日後の9日に長崎で行われた平和祈念式典でも、同様の事態が起きた。長崎で安倍は約1000字のあいさつ文を読んだが、約半分は前年の長崎でのあいさつとほぼ同じ。残りの半分は3日前の広島でのあいさつとそっくりだった。
この日の式典では被爆者代表の城台美弥子さんが集団的自衛権の行使を認める閣議決定をした安倍政権に対し「憲法を踏みにじる暴挙」と痛烈に批判。生中継していたNHKテレビは苦々しい表情をした安倍をアップで捕らえている。その後に首相が行ったあいさつが「コピペ」と指摘される内容だった。被爆者団体からは、失望の声があがった。
経済失政を待つ海江田
来年は夏から秋にかけて大きな節目がある。自民党は総裁選。民主党は代表選。秋以降の政局は、その2つの節目をにらみながら動き始める。
民主党代表・海江田万里は今年、夏休みをほとんど取らずに党本部か議員会館の自室にこもり、本を読んだり有識者に会ったりした。
「海江田降ろし」は不発に終わったが、来年の代表選で海江田が再選されると思う議員は、ほとんどいない。代表就任以来、自民党を攻め込んでポイントを稼ぐシーンがほとんどなかったからだ。それでも代表の座にこだわる海江田を、口の悪い同僚議員は「(退陣要求を受けながらなかなかイラク首相を退かなかった)マリキ」と揶揄する。
だが海江田は、あわてるそぶりを見せない。夏休み中、海江田が読んだ本の中に、先輩の元財務相・藤井裕久の近著『政治改革の熱狂と崩壊』がある。この中で藤井は、これまで日本では、極端な金融緩和の後には社会不安が起きていると指摘。金融緩和政策を続ける安倍政権の危うさを強調している。経済通を自任する海江田は藤井に同調、経済で安倍政権が急失速する時が来ると読み、その時を待っている。実際、消費税増税の影響もあり、4〜6月期の実質国内総生産(GDP)成長率が前期比年率マイナス6.8%となった。藤井の表敬訪問を受けた海江田は「今の民主党の再生には奇手はない。パフォーマンスはいらない。地道にやるだけだ」と激励され、わが意を得たりという表情でうなずいた。
民主党が浮上するには野党再編を主導するしかない。党内でも野党再編には異論はないが、道筋をめぐり対立がある。海江田は、社民党や生活の党などリベラルな勢力との結集を優先させる。一方、海江田と対立する元外相・前原誠司らは、維新、結いらとの合流を優先。生活の党の代表・小沢一郎との「復縁」には絶対反対だ。
野党再編の主導権争いは代表選に直結する。海江田にとっては生き残りをかけた戦いでもある。7月末、「海江田降ろし」が吹き荒れたころは「人間、いつ死ぬかわからない」などと弱気な発言をもらしていた海江田だが、最近は「闘志がわいてきた」と自分を鼓舞するように語ることが増えてきた。
「私はふられますか」
自民党の政局は今後、石破茂を中心に進む。石破は改造前に、安倍の安保政策、憲法論について「100%同じというわけではない」と明言し、対立軸を鮮明にした。安倍も石破に対し「仕事はできるが、迫力がない」と不満をもらす。8月29日、首相官邸で行われた2人だけの会談で、石破は安倍を全力で支え、緊密に連携することを確認したが、2人の間の溝は、覆い隠せないレベルに達している。
8月上旬、事実上の自民党石破派でもある「無派閥連絡会」の研修会が新潟・湯沢温泉で開かれた。これまで連絡会は、派閥に属さない若手議員をサポートするために幹事長の石破が教育係を担う組織で「いわゆる派閥ではない」という建前になっていた。だが研修会の冒頭、石破は約30人の出席者を前に「よく『脱派閥』だと言われるが、3人寄れば派閥はできる。それを否定しても始まらない」と話し始めた。出席議員は、名実共に「石破派」の旗揚げ宣言と受け止めた。
石破の懐刀で幹事長特別補佐を務めてきた鴨下一郎は、「ポスト安倍」の戦略を練る。山本有二、小坂憲次、浜田靖一ら石破と政治行動を共にしてきたベテラン、中堅もここに加わる。
石破は衆院のバッジをつけて28年たつ。「政治を辞めたら夏目漱石を読んだり、鉄道の旅に出たりのんびりしたい」と冗談めかして引退を口にすることもある。だが石破は、まだ57歳。政界では、これから円熟期に入る年齢だ。本人の意思がどうであろうと安倍の対抗勢力の頭として注目度を高めることになる。
連絡会の懇親会では、柏原芳恵の隠れた名曲「夏模様」を歌った。自他共に認めるアイドルおたくの石破らしい選曲だが、この曲は、別れの歌。
「さよなら 私はふられますか」
「さよなら 夏模様」
二人三脚で安倍を支えてきた1年8カ月に区切りをつけて、新しい道を歩む決意のようにも聞こえた。
秋から暮れにかけて自民党、野党の力関係を左右する2つの地方選挙がある。10月の福島県知事選と11月の沖縄県知事選だ。福島は、福島第一原発事故の後、初の知事選。沖縄は、米軍普天間基地移転問題に直結する。野党結集の動きは加速し、安倍の求心力は低下する。「今のままで来春の統一地方選が戦えるか」という声も自民党内で高まりかねない。
安倍はこれから1年の間に日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を再改定し、集団的自衛権関連の法を整備し、来年の8月15日には「戦後70年談話」を出す考えだ。これで安倍が目指す「戦後レジームからの脱却」に一定のめどをつけようとしている。
当然、党内リベラル派、野党、そして国際社会とのあつれきを生むこともあるだろう。その時、政権が弱体化していれば亀裂はさらに深まる。ただ安倍は逆風にさらされても自分が進もうとする道を変えないだろう。1960年の日米安保条約改定をまとめ、改憲を目指した祖父の元首相・岸信介を最も尊敬する安倍は、その遺志を引き継ぐことに迷いはない。それが、安倍のアキレス腱でもある。
首相執務室には岸と、元米大統領・アイゼンハワーのツーショット写真が飾られている。 
 

 

 
第2次安倍内閣(改造)

 

2014年9月3日 - 2014年12月24日 
 
諸話

 

W辞任で狂った解散シナリオ 2014/11
 人事と消費増税で消耗する政権。解散に出る“体力”は残っているのか。
9月の内閣改造で起用されたばかりの経済産業相・小渕優子と法相・松島みどりが10月20日、そろって辞任した。首相・安倍晋三は2012年末の第2次政権発足以来、最大の逆境に直面している。
改造人事で安倍は歴代最多に並ぶ5人の女性閣僚を並べ、看板政策である「女性活躍」を誇らしげにアピールしていただけに、小渕と松島のダブル辞任は皮肉な事態と言うほかない。
消費税率10%への再増税や原発再稼働といった難しい政策判断を控える時期に、政権の求心力は急降下してしまった。安倍がタイミングを熟考する衆院解散・総選挙の戦略にも影響するのは不可避だ。
「国会対策を長年やった感覚から言えば、2人とも続投は厳しいですよ」
若手の頃、国対畑に身を置いた自民党幹事長・谷垣禎一は17日、官房長官・菅義偉に警告した。巨大与党が腹を固めれば、数の力で法案成立を無理押しすることは可能だ。しかし、疑惑にふたをすれば民意の離反は避けられず、安倍長期政権を悲願とする菅にとっては受け入れがたい選択だった。危機管理にたける菅は谷垣の進言を踏まえ、週明け20日のダブル辞任で幕引きを図ると決めた。
小渕の関連政治団体は、支援者向けに10年と11年に東京・明治座で開いた観劇会をめぐり、費用の一部を負担した疑いが浮上していた。
有権者に対する利益供与を禁じた公選法に抵触する恐れが指摘され、政治資金収支報告書の記載によると、負担額は約2642万円に上る可能性があった。故・小渕恵三元首相の次女である小渕は父の代から続く政治資金処理システムを踏襲したとみられる。
辞表提出後の記者会見で小渕は「私自身も、何でこうなっているのかという疑念を持っている。私自身が甘かった」と繰り返した。
小渕は盤石の選挙基盤を持ち、歯切れの良い弁舌も手伝って「初の女性首相候補」といわれてきたが、大きな痛手を被った。小渕が所属する額賀派(平成研究会)は、かつて絶大な権力を保持する一方、大物議員らの金銭スキャンダルが後を絶たなかった。清新なイメージのある小渕までが疑惑にまみれ、直近の首相候補を持たない額賀派の復活は遠のいた。
政界引退後も同派への影響力を誇る元自民党参院議員会長・青木幹雄は「10年たったら小渕首相」と公言してきた。青木は秘蔵っ子の苦境を見かね「さっさと身を引いた方が将来のためだ」と、潔い辞任を促した。
一方、松島は国会審議で「討議資料として、成立した法律の内容などを印刷して配った。うちわのような形をしているかもしれないが、有価物である物品ではないと解釈して配った。公選法の寄付には当たらない」と強弁。官邸側も当初は「たかがうちわの問題」と軽視していた節がある。
だが、民主党は17日、松島を公選法違反容疑で東京地検に告発した。弁護士出身の幹事長・枝野幸男の発案だった。「外形的なものであっても疑惑を持たれてはならない」(法務省幹部)はずの現職法相が刑事告発されるに至り、安倍は松島辞任やむなしとの判断に傾いた。前防衛相・小野寺五典が選挙区内で線香セットを配ったとして書類送検され、2000年に議員辞職した例が念頭にあった。
松島は初登庁の際、法務省職員の出迎えが少ないとしてやり直しを求めるなど、就任直後から傲慢な振る舞いを見せた。うちわ問題発覚後の国会審議では、答弁資料を渡そうとする事務方をひじで押しのける姿も目撃され、自民党内でも「尊大な態度が目に余る」と不興を買っていた。
辞任を決めた安倍=菅会談
安倍は19日午後、東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京に入り、ひそかに菅と約2時間、会談した。
菅は「小渕は辞めざるを得ない。松島を残しても野党の攻撃が集中し、いずれ辞任に追い込まれる。だったら一緒に辞めさせた方がいい」と早期収拾を進言。小渕と松島を20日に同時辞任させるシナリオが固まった。
安倍と菅の脳裏に、1年間で閣僚5人が交代し、回復不能のダメージを受けた第1次政権当時の記憶があったのは間違いない。安倍は閣僚の辞任ドミノを回避するため、事務所費疑惑が発覚した農相・松岡利勝を約5か月間にわたってかばい続け、結果的に松岡は07年5月、自ら命を絶った。松岡の悲報を聞いて首相執務室で号泣した安倍は今回、その痛恨事を教訓に決着を急いだ。
「任命責任は総理大臣である私にあります。こうした事態になったことを、国民の皆様に深くおわびを申し上げる次第であります」
安倍は2閣僚の辞表提出後、事務方が作成した応答要領にはない「おわび」の文言を使い、記者団の前で国民に陳謝した。
野党側は、久々の「見せ場」に勢いづいた。10月21日には「閣僚が交代したばかりで審議はできない」として、広島市の土砂災害を受けた土砂災害防止法改正案の衆院本会議での審議入りを蹴った。与党は23日に審議入りを遅らせ、想定した国会日程に狂いが生じつつある。民主党などが反対する労働者派遣法改正案や、カジノ導入に向けた関連法案の成立は危うくなってきた。
「野党の追及が厳しいとお考えだろうが、私たちが野党の時はこれ以上だった。2年間、静かにここまで来たが、ある意味正常な形に戻った」
自民党国対委員長・佐藤勉は22日、当選1回の衆院議員との昼食会で強がって見せたが、23日には小渕の後任に就いた経産相・宮沢洋一の資金管理団体が10年、広島市内のSMバーに政治活動費を支出していたことが発覚した。宮沢は「事務所関係者が誤って政治資金として支出した」と釈明。所管する東京電力の株式保有も判明し、たちまち野党の標的に加わった。環境相・望月義夫には政治資金収支報告書の虚偽記載問題が浮上した。望月は28日未明に緊急会見し、亡くなった妻が処理したものだとして「私自身の法令違反はない」と主張した。
消費増税と解散の関係
安倍にとって当面の最重要課題は、12月上旬に予定する消費税率10%への引き上げ判断だ。
閣僚のスキャンダル連鎖により政権がパワーダウンする中で、増税という国民負担増を決断するのは容易でない。安倍は「一内閣で二度の増税なんて、あり得ないよね」と周囲にぼやく。4〜6月期の実質国内総生産(GDP)は年率で前期比7.1%減の大幅マイナスになった。10月には日米欧で株安が連鎖し、経済情勢は厳しさを増している。
「アベノミクスは順調に進んでいた。株価が上昇し、円安になり、雇用も増え、給料も上がった。4月の消費税増税によって、水を掛けられた」。自民党の元経済産業副大臣・山本幸三は22日、自ら主宰する議員連盟「アベノミクスを成功させる会」の会合を開き、再増税の延期を提唱した。会合には首相補佐官・衛藤晟一ら約40人が出席した。山本は「首相には国民生活のために何が一番、大事かということを踏まえて決断していただきたい」と訴え、増税延期論の拡大を目指す。
副総理兼財務相・麻生太郎や自民党幹事長・谷垣ら、政権中枢には有力な増税派が並ぶ。民主党政権当時の自民党総裁で、公明党とともに増税の3党合意を実現した谷垣は「法律に明記されている以上、絶対に税率を上げないといけない」と主張する。
これに対し、官房長官・菅は経済状況を見極めて判断すべきだとの立場だ。安倍の在任期間を最大限延ばすのが自身の役割と心得る菅にとって、増税判断が国民の批判を浴びて政権転落につながる事態は何としても避けねばならない。「増税は1年半、先でいい」と、16年の参院選後まで増税を先送りするよう求める菅に、財務省幹部は様々なルートで説得を試みるが、菅が揺らぐ気配はない。
安倍が税率8%への引き上げ判断時以上に慎重を期すのは、衆院議員の任期が今年12月で折り返し地点の2年を迎え、衆院解散戦略を本格的に練り上げる必要があるためだ。再増税の有無と解散時期の判断は、政権の消長に直結する。
安倍は内閣改造前の8月、周辺に早期解散をシミュレーションさせた。野党の態勢が整わないうちに「電撃的な総選挙」で勝利を収め、増税判断への追い風とする狙いがあった。
安倍が幹事長・谷垣や総務会長・二階俊博ら選挙向けの看板にはなりにくい重鎮を起用したことを受け、解散論はいったん沈静化した。ところが、臨時国会での閣僚不祥事を踏まえ、安倍周辺では「政権が本格的に下り坂になる前に選挙をした方が、負け幅を少なくできる」との早期解散論がくすぶり続けている。ある側近は「11月解散―12月総選挙」を唱えるが、解散の明確な大義名分を見いだしにくいのが最大の難点だ。
公明にも増税見送り論
閣僚問題で野党の反撃を許したことにより、解散に関する安倍の選択肢は狭まったとの見方が強まっている。
当初、集団的自衛権行使容認の関連法案を来年の通常国会で成立させた後、夏の解散が本命視された。
同年9月には自民党総裁選が予定され、与党が過半数を確保すれば安倍が無投票で再選できるとの算段だ。
しかし、来年の通常国会は、安保関連法案の採決強行などで、恐らく大荒れになる。今年夏、憲法解釈変更の閣議決定を強行した際のような「体力」は、安倍政権からもはや失われた。通常国会の終盤以降、安倍が内閣支持率下落を無視して解散を打てるのか、疑問視する向きは少なくない。
また、安倍が来年9月の総裁選を無難に乗り切った後に再び改造人事を行い、知名度が高い選挙向けの「顔」を並べて解散に踏み切る案も取り沙汰される。ただ、安倍が再増税を決めた場合、10月からの税率引き上げと同じタイミングの選挙となるため、影響を不安視する声も多い。
公明党は、安倍が再増税を決断すれば15年中には解散に踏み切れず、結果として最も警戒する16年夏の参院選との同日選が現実味を帯びかねないと危惧する。選挙戦でフル回転する支持母体・創価学会の負担が増えることから、是が非でも避けたい展開だ。
このため公明党執行部の一部には、再増税の先送りを容認する声さえ出始めた。支持者の理解取り付けに苦労した税率10%への引き上げを白紙にする「禁じ手」だ。公明党の悩みは深まるばかりだ。
「結局、安倍は解散できないんじゃないか」
自民党幹部は、難題続きの安倍が解散時期をずるずると引き延ばし「追い込まれ解散」を余儀なくされるのではないかと危ぶむ。08年に首相就任直後の解散を検討しながら、リーマンショックを理由に見送った麻生と同じパターンだ。不利な選挙情勢を承知の上で「負け幅」を少なくできるとみられたタイミングを外した麻生は、翌09年の衆院選で惨敗。自民党は政権の座から転落した。
政府は年末以降、九州電力川内原発1、2号機の再稼働判断を控える。成立に際して世論の批判を浴びた特定秘密保護法も12月10日に施行されるなど「不人気政策」は今後も続く。変数が多い解散政局で最適解を見出せるのか。安倍内閣が最大の岐路を迎えているのは間違いない。 
安倍・菅が謀った師走「覇道」解散 2014/12
 戦慄の財務省、冴えぬ野党。18年まで続く「絶対王政」は実現するか。
2018年末まで4年間続く「安倍絶対王政」を認めるのか、否か。これこそが今回選挙戦の真の争点である。
衆院が解散された翌日、11月22日から24日までの3連休。自民党総裁、首相・安倍晋三はメディア対応や長野県北部地震の対応に勤しみ、街頭には出なかった。
野党は出遅れ、過去2回の総選挙とは違って政権交代の可能性は絶無なことが、永田町に弛緩した空気を生んでいる。
野党を焦らせた「電撃師走選挙」はいつ、軌道に乗ったのか。発端は前経済産業相・小渕優子、前法相・松島みどりのダブル辞任だった。
10月19日午後、東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京。安倍は、官房長官・菅義偉と約2時間、2人のスキャンダルについて収拾策を話し合い、その中で「年内解散で難局を打開してはどうか」という案が急浮上した。菅はその場で、得意とする世論調査で感触を探ると約束した。
そして翌週の10月25、26両日に実施した極秘調査の結果は、小渕と松島のダブル辞任と野党の攻勢にもかかわらず「自民党は過半数確保、公明党は現状維持、民主党は伸び悩み」と出た。「スキャンダル国会を仕掛けてくる民主党に目にものみせる」。安倍、菅の意見は一致した。相前後して安倍は外交当局に「12月は外交日程を入れないように」と指示を出した。
党内の根回しは2日間
安倍に解散を急がせた民主党以外の勢力は、財務省だ。
11月18日、解散を宣言した記者会見で安倍が冒頭から「5%から8%への引き上げを決断したあの時から、10%へのさらなる引き上げを来年予定通り行うべきかどうか、私はずっと考えてまいりました」と語ったのは、本音の吐露だった。
昨年の引き上げでも、安倍と周辺は「税率引き上げを見送る場合は法改正が必要」と定めた法律の仕組みに「財務省に地雷を仕掛けられた」と不満を隠さず、その不信感は1年間にわたって続いていた。「同じ総理の任期中に2回も消費税を引き上げるなんて、あり得ないよね」。安倍がこう漏らすのを聞いた議員、官僚、関係者は多い。
危機感を募らせた財務省は、各方面への「ご説明」で大々的な反攻に出た。自民党内に広がった増税実施論に対して、安倍と菅は「皆が嫌がる増税は今の首相官邸にやらせ、景気が悪くなれば責任を押し付けようという政局にらみの動き」を見てとった。消費税問題は、官邸奥の院では「政局」と同義語になっていた。
官邸、自民党、財務省の三者暗闘のクライマックスは10月31日、日銀総裁・黒田東彦が異次元金融緩和の第2弾を放ったその日に訪れた。日経平均株価は急騰し、「消費税10%への下地は整った」とみたのは政局の素人で、事実は逆だった。
2日前の10月29日、安倍は自民党幹事長・谷垣禎一に「4月に8%に引き上げた後、景気の戻りが弱い。もう一度の消費増税は見送り、そのために解散を検討したい」と伝えていたのだ。谷垣は会談後、記者団に「厳しい状況を打開しなきゃいけない時には、いろいろ議論が出てくる」と間接話法で安倍の意向を内外に知らしめていた。
財務相を経験し、自民党総裁として民主党と手を携えた消費増税に道筋をつけた谷垣の陥落。財務省は眦(まなじり)を決した。
10月31日午後2時過ぎ、首相官邸に副総理兼財務相の麻生太郎が、財務省事務次官・香川俊介、主計局長・田中一穂、主税局長・佐藤慎一らを伴って現れた。消費税10%を前提とする来年度予算編成、社会保障施策を説明する財務官僚たちに、安倍は目を合わそうともしない。「増税先送りのため、総理は衆院解散を考えている」。財務省は戦慄した。
自民党内の増税派と、安倍政権の失速を願う勢力を粉砕するには「平時ではなく有事を作り出すしかない」と首相周辺は解説した。有事、即ち衆院解散だ。
日銀緩和を実施した翌日からの11月初めの3連休、安倍は目立った日程は入れずに黙考し、11月4日から本格的に動いた。一連の国際会議への出席を目的とした外遊への出発が5日後に迫ったタイミングで、一気に根回しをすまそうというのだ。
元参院議員会長・青木幹雄、元幹事長・古賀誠の2人が「何としても増税は実現すべきだ。そうでなければ無責任すぎる」と、ベテランOB議員の根城となった東京・平河町の砂防会館の事務所で訪問客が来るたびに説いていた。青木と古賀、さらに元首相・森喜朗も加われば、安倍に不満な勢力が「増税実施」を旗印に結束し、最近は長老連中と和解した地方創生担当相・石破茂を担ぐ可能性も否定できない。一刻の猶予もならない、と安倍・菅の官邸コンビは調整を急いだ。
まず11月4日夜、安倍と菅は首相公邸に経済財政担当相・甘利明をひそかに呼びよせた。麻生、菅と並ぶ内閣の大黒柱で、政権の方針立案に常にかかわってきた甘利に、安倍と菅は「消費増税は見送り、衆院を解散して信を問う」と告げた。「今なら勝てる。野党は時間切れだ」と力を込める2人に、甘利は「分かりました」と了承した。あとは財務省の立場を代弁せざるを得ない麻生の説得だ。
麻生は11月5日、事務方の「総理を説得したい」との要請を受け、安倍の日程をおさえていた。午後5時前、麻生は前回と同じく香川、田中、佐藤らを引き連れて首相執務室に向かった。ほぼ1時間にわたった会議の様子は前回と変わらない。「増税見送り、解散は濃厚だ」。官僚たちは呻いた。
その夜、安倍は前日の甘利に続いて麻生を公邸へ呼び、ブランデーのオンザロックを自らつくりながら「年内に解散したい」と打ち明けた。予算編成への影響を考えれば、選挙日程は12月2日公示―14日投開票しかない。政権を担当した時、解散の機を逸した麻生には、安倍の気持ちは手にとるように分かる。「解散権は総理の大権です。尊重します」と返した。すでに増税実施派の筆頭格、谷垣も取り込み、自民党内の根回しは2日間で終わった。残るは公明党・創価学会ブロックだ。
「年内選挙」歓迎の公明党
成算は十二分にあった。2015年4月の統一地方選、16年夏の参院選を考えれば、14年中の衆院選は組織戦を展開する公明党にとって、ダブル選を回避でき、選挙の間隔があく好都合な日程になる。
11月7日、首相官邸で安倍から「年内解散を検討している」と聞いた公明党代表・山口那津男は即座に動いた。支持母体の創価学会に急報すると、学会は翌8日、一連の会合を開き、会長・原田稔が「常在戦場」とゲキを飛ばし、11日には選挙担当者が集まる方面長会議を招集して「12月2日公示―14日投開票」を想定した準備に突入した。1選挙区あたり2万とされる票を持つ創価学会は、いまや建設業界や農業団体をも凌駕し、自民党にとっても最大の支持勢力。公明党・創価学会が、解散風を一気に強める役割を果たした。
一方、財務省は、無駄な足掻きと知りながら「解散はするが、消費増税は予定通り実施」に一縷の望みをかけた。解散が既定路線となった11月17日、安倍が豪州から帰国する政府専用機に麻生が同乗した。だが、7―9月期の国内総生産(GDP)の伸び率は予想外に2期連続のマイナスとの結果が直前に伝わった。「消費増税は1年半先送りに」で安倍と麻生は一致した。
「大義なき解散」と批判されようとも、安倍チームに迷いはない。「負けない選挙」さえ展開できれば、先にあるのは「黄金の4年間」だ。
2015年9月の自民党総裁選は無風で再選し、16年夏の参院選にも勝ち、17年4月に消費税を10%へと引き上げ、18年9月に総裁任期切れを迎える。18年12月までの衆院議員任期とほぼ同じ期間を、安倍は手にすることになる。憲法改正にも手が届き、上手くゆけば総裁任期の延長さえあり得る時間の余裕だ。
安倍と菅に不意打ちを食らった野党は、それでも必死に候補者調整を進めた。主役の1人は生活の党代表・小沢一郎だ。
1993年の非自民連立政権、2009年の民主党政権と2度にわたる政権交代を成し遂げた小沢の哲学は「小選挙区制なら、野党は一つにならなければ勝てない」とシンプルだ。11月19日、小沢は所属議員たちに「新党を模索したが時間切れになった。君たちは総選挙で勝ち残る一番いい方法を考えてくれ」と党の移籍を容認すると伝えた。11月20日には恩讐を超え、民主党代表代行・岡田克也と会談し、自らの側近2人の民主党への移籍を決めた。2年前、日本未来の党として71人の小選挙区候補を擁立しながら、小沢本人以外は誰も勝てなかった轍は踏まない。これで前回は小沢一派にも票を出さざるを得なかった連合の動きが、一本化される期待もある。
梶山静六の見識はどこへ
だが、野党の動きは冴えない。
「今回は戦わず、統一地方選で戦いたい」
11月23日、維新の党共同代表・橋下徹は大阪市内のホテルで公明党陣営への殴り込みを諦め、立候補はしないと表明した。「勝てる戦いしかしない」と評される橋下の不出馬は、野党の先行きを暗示もしている。「第三極」のもう一方の雄だったみんなの党は分裂の果てに解党した。
事実、自民党が解散直前の11月15、16両日に実施したサンプル調査では「自民は多くて30議席減、民主は85から95議席で、100議席には届かず」と出た。仮にこの結果でも、民主党は前回の57議席と比べれば「大躍進」。党代表・海江田万里の責任論は封殺される。民主党にとっても今回は「負けない選挙」が保証されているのだ。
安倍と菅が謀りに謀って持ち込んだ「アベノミクス解散」は政略的には正しくとも、王道ではなく覇道の匂いがする。
菅が師と仰ぐ元官房長官・梶山静六は96年1月、橋本龍太郎政権の参謀となった時、「解散はいま、支持率が高い政権発足時が最も好都合だ。しかしそれは覇道、奇策だ」と見送り、予算成立と米軍普天間飛行場の返還合意、政策課題の遂行を果たしてからの9月に解散した。小選挙区制で初めての解散・総選挙は、これだけの好材料があっても自民党は28議席増だったのだ。
今回、解散時点で自民党が弾いた「30減プラスマイナス5」が下振れし、40議席以上減れば政局は流動化する。仮に「25―35議席減」の幅におさまっても、15年の景気動向や集団的自衛権法制の審議など、いくつも課題はある。総裁選と組み合わせる解散日程を放棄した以上、政権が落ち目となれば対抗馬が出てくる公算は大きい。
各種世論調査でも、アベノミクスそのものへの評価は割れている。安倍が解散会見の参考にした元首相・小泉純一郎の口癖は「政界、一寸先は闇」だった。
11月26日、岩手県で初めて街頭に立った安倍は「負けられない選挙だ」と力を込めた。
「黄金の4年間」か、政局激変か、総裁選前の流動化か。いずれの可能性も孕んだ選挙戦の結果は、間もなく出る。 
 
第3次安倍内閣

 

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
菅義偉      
麻生太郎      
甘利明        
塩崎恭久          
高市早苗          
上川陽子            
岸田文雄        
下村博文              
林芳正            
太田昭宏              
西川公也                
宮澤洋一                
望月義夫                
中谷元              
竹下亘                
山谷えり子                
山口俊一                
有村治子                
石破茂              
遠藤利明              

2014年12月24日 - 2015年10月7日
内閣総理大臣 / 安倍晋三 衆議院 / 細田派
副総理 財務大臣 / 麻生太郎 衆議院 / 麻生派
総務大臣 / 高市早苗 衆議院 / 無派閥
法務大臣 / 上川陽子 衆議院 / 岸田派
外務大臣 / 岸田文雄 衆議院 / 岸田派
文部科学大臣 / 下村博文 衆議院 / 細田派
厚生労働大臣 / 塩崎恭久 衆議院 / 岸田派
農林水産大臣 / 西川公也 衆議院 / 二階派
        林芳正 参議院 / 岸田派 2015年2月23日就任
経済産業大臣 / 宮澤洋一 参議院 / 岸田派
国土交通大臣 / 太田昭宏 衆議院 / 公明党
環境大臣 / 望月義夫 衆議院 / 岸田派
防衛大臣 / 中谷元 衆議院 / 谷垣グループ
内閣官房長官 / 菅義偉 衆議院 / 無派閥
復興大臣 / 竹下亘 衆議院 / 額賀派
国家公安委員会委員長 / 山谷えり子 参議院 / 細田派
内閣府特命担当大臣 / 山口俊一 衆議院 / 麻生派
内閣府特命担当大臣 / 有村治子 参議院 / 山東派
内閣府特命担当大臣 / 甘利明 衆議院 / 無派閥
内閣府特命担当大臣 / 石破茂 衆議院 / 石破派
国務大臣 / 遠藤利明 衆議院 / 谷垣グループ 
 

西川公也

 

西川公也(1942- ) 衆議院議員(6期)。学位は農学修士(東京農工大学・1967年)。栃木県議会議員(5期)、栃木県議会議長(第81代)、内閣府副大臣、衆議院農林水産委員長、農林水産大臣(第56・57代)、衆議院環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員長などを歴任した。
栃木県塩谷郡氏家町(現さくら市)生まれ。栃木県立宇都宮高等学校、東京農工大学農学部卒業。東京農工大学大学院修士課程修了。1967年、栃木県庁に入庁。1971年9月、千振ダム汚職事件での収賄容疑により、栃木県警察本部刑事部捜査第二課に逮捕された。起訴猶予処分となったものの、同時に逮捕された上司らは有罪判決を受けた。1978年に退職。
1979年、栃木県議会議員選挙に出馬し、初当選した。以後、5期連続で当選し、1993年に栃木県議会議長に就任した。1996年、栃木県議会議員を5期目の任期途中で辞職。
第41回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で栃木2区から出馬し、民主党前職の小林守を破り、当選した(小林も比例復活)。以後、4期連続で当選。2001年、第2次森改造内閣(中央省庁再編後)で内閣府大臣政務官に任命される。
第1次小泉第1次改造内閣では経済産業大臣政務官を務め、第1次小泉第2次改造内閣では再び内閣府大臣政務官に任命された。2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例北関東ブロック選出であった森山眞弓元法務大臣が衆議院比例区の73歳定年制により比例単独での出馬が不可能になったため、栃木2区から出馬。入れ替わる形で西川が比例北関東ブロック単独で出馬し、3選。第2次小泉内閣でも内閣府大臣政務官に再任された。2004年、第2次小泉改造内閣で経済財政諮問会議及び郵政民営化を担当する内閣府副大臣に任命された。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、4選を果たす。第3次小泉内閣にて内閣府副大臣に再任された。
2006年、衆議院農林水産委員長に就任。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、引退する森山に代わり栃木2区から自民党公認で出馬。公明党や栃木県建設業協会の政治団体「県建設業協会政治連盟」の推薦も受けたが、民主党前職の福田昭夫に敗れ、比例復活も叶わず落選した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では栃木2区で福田を破り、同年12月19日に当選が告示され、国政復帰を果たした(福田も比例復活)。同年、二階派の事務総長に就任した。2013年より自民党の環太平洋パートナーシップ対策委員会にて委員長を務める。2014年9月の第2次安倍改造内閣で農林水産大臣に就任。現職大臣として臨んだ12月の第47回衆議院議員総選挙は栃木2区で福田に199票差で敗れるも、比例復活で6選した。同年12月20日に当選が告示され、中央選挙管理会から当選証書が授与された。なお第2次安倍改造内閣の閣僚としては、辞任した小渕優子と松島みどりを含めて小選挙区で敗北した唯一の候補者である。同年12月24日に発足した第3次安倍内閣で再任されたが、政治献金問題が発覚し、責任を取る形で2015年2月23日に辞任した。この問題を追及した玉木雄一郎は自民党から圧力をかけられたという。 
 
宮澤洋一

 

宮澤洋一(1950- ) 元大蔵官僚。自由民主党所属の参議院議員(2期)、自民党税制調査会長(第35代)。衆議院議員(3期)、経済産業大臣(第19・20代)、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)、参議院政策審議会長代理を歴任。内閣総理大臣などを歴任した宮澤喜一は伯父にあたる。
1950年4月21日出生。1963年、東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1966年、東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)を卒業。藤巻健史(参議院議員・為替ディーラー)とは小・中学校9年間同じクラスだった。1969年、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業。
1974年、東京大学法学部を卒業して、大蔵省に入省。1978年、米国ハーバード大学行政大学院を修了(行政学修士(MPA:Master in Public Administration)取得)。大阪国税局岸和田税務署長、 内閣総理大臣首席秘書官を経て1993年に退官した。
2000年、伯父で元首相の宮澤喜一が比例中国ブロックに回ることになったのを受けてその地盤を継ぎ、第42回衆議院議員総選挙で広島7区から立候補し初当選。3期務めた。2008年8月、福田康夫改造内閣で内閣府副大臣に就任。2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙で、民主党の和田隆志に敗れ、比例復活もならず落選。2010年の第22回参議院議員通常選挙に広島県選挙区から初の自民党予備選挙を経て、自民党公認候補として立候補し当選、国政に復帰した。
2014年10月21日、政治資金問題で辞任した小渕優子の後任として経済産業大臣に就任。
2015年10月7日、内閣改造に伴い、大臣を退任し、自民党税制調査会長に就任。
2016年7月10日、第24回参議院議員通常選挙に自民党公認で立候補し、再選。 
 
望月義夫

 

望月義夫(1947- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、自由民主党幹事長代理。環境大臣(第20・21代)、内閣府特命担当大臣(原子力防災)、国土交通副大臣(第1次安倍内閣)、環境大臣政務官(第1次小泉第1次改造内閣)、外務大臣政務官(第2次森内閣)、静岡県議会議員(2期)、清水市議会議員(4期)等を歴任した。
静岡県清水市(現静岡市清水区)生まれ。生家は八百屋。静岡県立清水東高等学校、中央大学法学部卒業。清水市議会議員を4期務めた後、1991年に静岡県議会議員に当選し、県議を2期務める。
1996年、第41回衆議院議員総選挙に無所属(新進党推薦)で静岡4区から出馬。自由民主党新人の倉田雅年を破り、初当選する。当選後、自民党に入党した。第2次森内閣で外務大臣政務官、第1次小泉第1次改造内閣で環境大臣政務官、第1次安倍内閣で国土交通副大臣に任命された。2008年より衆議院国土交通委員長。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、静岡4区で民主党の田村謙治に敗れ、重複立候補していた比例東海ブロックでも次点で落選した。2011年1月、比例東海ブロック選出(愛知13区で落選し比例復活)の大村秀章衆議院議員が愛知県知事選挙に出馬するため、衆議院議員を辞職。大村の辞職により、次点だった望月が繰り上げ当選した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、前回敗れた民主党の田村謙治に比例復活を許さず、6選。2014年9月、第2次安倍改造内閣で環境大臣、内閣府特命担当大臣(原子力防災)に任命され、初入閣した。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、入閣後に報じられた政治資金問題の影響を受け、民主党元職の田村に前回より票差を縮められるも、静岡4区で7選。同月に発足した第3次安倍内閣で、環境大臣、内閣府特命担当大臣(原子力防災)に再任された。 
 
中谷元

 

中谷元(1957- ) 元陸上自衛官(二等陸尉、レンジャー)。自由民主党所属の衆議院議員(9期)。防衛庁長官(第67代)、防衛大臣(第14代)、衆議院総務委員長、自由民主党副幹事長(特命担当)、自由民主党高知県連会長等を歴任した。祖父は、実業家で戦前に立憲政友会に所属し衆議院議員を務めたこともある中谷貞頼。
高知県高知市生まれ。土佐高等学校、防衛大学校本科理工学専攻卒業(24期)、陸上自衛隊で3尉任官。同期には番匠幸一郎・田邉揮司良・磯部晃一・松尾幸弘・福田築などがいる。防衛大学校在校中はラグビー部に所属。第20普通科連隊小銃小隊長、第1空挺団空挺教育隊レンジャー教官を経て2尉で退官。その後加藤紘一、今井勇、宮澤喜一衆議院議員の秘書を務めた。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で高知県全県区(定数5)から出馬し、得票数2位で初当選した。1993年の第40回衆議院議員総選挙では、高知県全県区でトップ当選する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い高知2区から出馬し、2012年の第46回衆議院議員総選挙まで、高知2区で6期連続当選。
2000年の加藤の乱では、第2次森内閣不信任決議案に賛成票を投じる意向を示した加藤紘一に同調。結果的に加藤派・山崎派の造反は不調に終わったが、中谷は不信任案の採決では欠席した。
2001年、第1次小泉内閣において歴代最年少で防衛庁長官に任命され、当選4回で初入閣した。防衛大学校・陸上自衛官出身者で防衛庁長官に就任したのも中谷が初であった。2005年、衆議院総務委員長に起用される。
2011年3月、自由民主党高知県連会長選挙への立候補を表明。これに対して現職の山本有二も出馬を表明し、2004年に会長を公選する規定が導入されていたため、初の会長選挙が実施され、中谷が県連会長に選出された。
2012年10月、宏池会を退会し、総裁を退任して間もない谷垣禎一を中心に結成された勉強会「有隣会」に参加した。同年12月、石破茂の下で自由民主党副幹事長(特命担当)に起用される。
2014年の第47回衆議院議員総選挙では、選挙区の区割り変更に伴い、新設された高知1区から出馬。日本共産党元職の春名眞章らを破り、9選。選挙後に発足した第3次安倍内閣では、再任を辞退した江渡聡徳の後任の防衛大臣に任命され、13年ぶりに2度目の入閣。安全保障関連法案の審議を巡っては、審議入り当初は答弁が不安定な場面もあり批判を浴びたが、最終的に成立に漕ぎ着け、省内からは「中谷氏でなければ乗り切れなかった」と高い評価を得た。 
 
竹下亘

 

竹下亘(1946- ) 衆議院議員(6期)、自由民主党島根県支部連合会会長。現在は自民党国対委員長。環境大臣政務官、財務副大臣、復興大臣(第3・4代)、衆議院予算委員長、自由民主党組織運動本部本部長などを歴任した。
島根県飯石郡掛合町(のちの雲南市)出身。竹下家は300年続く旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末から代々造り酒屋を営んでいる。慶應義塾高等学校を卒業し、慶應義塾大学の経済学部に進学する。1969年、慶應義塾大学を卒業した。大学卒業後は日本放送協会に入局し、『NHKモーニングワイド』や『NHK経済マガジン』等の番組で、経済リポートや解説を務めた。日本放送協会を退職後、腹違いの兄である竹下登の秘書に転じる。
2000年、引退を表明した竹下登に代わり第42回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で島根県第2区から出馬し、民主党公認の錦織淳を破り初当選を果たした。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案の採決で反対票を投じたため自民党の公認を得られず国民新党を結党して出馬した同党幹事長の亀井久興を破り、3選(亀井は比例復活)。同年、第3次小泉内閣で環境大臣政務官に任命され、第3次小泉改造内閣まで務める。2008年、福田康夫改造内閣で財務副大臣に任命され、麻生内閣でも再任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、亀井久興を約3万票で下して比例復活を許さず4選。
2012年、自由民主党の組織運動本部長に就任。同年の第46回衆議院議員総選挙でも民主党の新人らを下し5選。2013年、細田博之の後任として、自由民主党の島根県支部連合会にて会長に就任した。2014年9月に発足した第2次安倍改造内閣で復興大臣に任命され、初入閣した。併せて、国務大臣としての所管事項として「東京電力福島原子力発電所事故からの再生の総括に関する施策を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当することとなった。
2014年の第47回衆議院議員総選挙で6選。2015年10月の内閣改造で大臣を退任。
2016年、衆議院予算委員長に就任。8月の再内閣改造に伴う党人事で国会対策委員長に就任。 
 
山谷えり子

 

山谷えり子(1950- ) 参議院議員(3期)。本名は小川 惠里子(おがわ えりこ)。「惠」が旧字体のため、新字体で小川 恵里子(おがわ えりこ)と表記されることもある。選挙活動等においては通称を用いているが、国務大臣としての公権力の行使等に際しては正式な本名を使用している。衆議院議員(1期)、国家公安委員会委員長(第89・90代)、拉致問題担当大臣、海洋政策・領土問題担当大臣、国土強靭化担当大臣、内閣府特命担当大臣(防災担当)、参議院環境委員長、参議院政府開発援助等に関する特別委員長、自由民主党参議院政策審議会長などを歴任した。尾崎行雄記念財団顧問。
東京都武蔵野市生まれ(出身は福井県)。父は新聞記者・ラジオパーソナリティの山谷親平。福井県で幼少期を過ごす。東京都立駒場高等学校、聖心女子大学文学部卒業。出版社勤務を経て、日本テレビ系『ウィークエンダー』のリポーター、『サンケイリビング新聞』編集長、政府広報番組のニュースキャスター、フジテレビ系『おはよう!ナイスデイ』コメンテーターとして活動した。
1989年、第15回参議院議員通常選挙に民社党公認で立候補するも落選。2000年、第42回衆議院議員総選挙に民主党から立候補し、初当選した。民主党では「次の内閣」の教育科学技術大臣を担当した。
その後、民主党を離党し、保守新党に参加。2003年の第43回衆議院議員総選挙で落選。2004年、第20回参議院議員通常選挙で自由民主党から立候補し、当選した。
第3次小泉改造内閣にて内閣府大臣政務官に就任。第1次安倍内閣では内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)に就任し、第1次安倍改造内閣でも留任、福田康夫内閣でも再任された。
2014年9月3日、第2次安倍改造内閣の発足にともない初入閣。国家公安委員会委員長と内閣府特命担当大臣(防災担当)の2ポストを兼務することになった。同時に、国務大臣としての所管事項として「北朝鮮による拉致問題の早期解決を図るため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」と「海洋及び領土問題に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」と「事前防災の観点から国土の強靭化を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」をそれぞれ担当することとなった。同年12月の第3次安倍内閣で再任。 
 
山口俊一

 

山口俊一(1950- ) 自由民主党所属の衆議院議員(9期)。第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・宇宙政策)、第3次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)を務めたほか、内閣総理大臣補佐官(麻生内閣)、財務副大臣(第2次安倍内閣)、総務副大臣(第1次小泉再改造内閣・第2次小泉内閣)、衆議院決算行政監視委員長・財務金融委員長、徳島県議会議員(4期)等を歴任した。
徳島県三好市生まれ。徳島県立城南高等学校、青山学院大学文学部卒業。パリ第4大学留学中に政治を志し、パリ第4大学を中退。
1975年4月に徳島県議会議員選挙に出馬し、初当選。以後連続4期務める。1990年、第39回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で徳島県全県区から出馬し、初当選。当選後は中曽根派に属する。小選挙区制導入後は徳島2区から出馬している。
1994年6月29日の首班指名選挙では自民党は党議拘束により日本社会党委員長の村山富市への投票を決定していたが、山口は旧連立与党側が擁立した元首相の海部俊樹に投票し、造反した。2015年2月16日、衆議院本会議で永年在職表彰を受けた際の挨拶において、この村山が選出された首班指名に言及している。2003年、第1次小泉再改造内閣で総務副大臣に任命され、第2次小泉内閣まで務める。
2005年7月5日の郵政国会では、衆議院本会議における郵政民営化法案の採決で党の方針に反し、反対票を投じる。このため、2005年の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属での出馬を余儀なくされた。自民党本部は、刺客候補として七条明に公認を与えた。だが、七条や民主党公認の高井美穂らを破り、6選。当選後、再提出された法案に対しては一転して賛成票を投じた。
2006年11月27日、復党届及び誓約書を提出。12月4日に党紀委員会で復党が認められ、自民党に復党。
1998年12月から無派閥を通してきたが、かねてから親交のあった麻生太郎が為公会を旗揚げした際、結成に参加し、以後は麻生派に所属。自民党復党後、徳島2区の候補者選定をめぐり山口、比例復活した七条の2人で公認候補の座を争っていたが、2008年2月に自民党選対委員長の古賀誠が七条の処遇を後回しした上で、山口を徳島2区の自民党公認候補に内定した。
2008年9月、麻生内閣で内閣総理大臣補佐官に起用された。2009年の第45回衆議院議員総選挙では徳島2区から出馬し、前回は比例復活で当選した民主党の高井美穂に敗れるも、比例四国ブロックで復活した。
2012年自由民主党総裁選挙では、麻生派所属ながら石破茂を支持したが、石破は麻生が支持する安倍晋三元首相に敗れた。安倍総裁の下で幹事長に就任した石破の推挙により、選挙対策局長代理に起用される。同年の第46回衆議院議員総選挙では、徳島2区で民主党の高井に比例復活すら許さず、8選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で財務副大臣に任命される(2013年9月に退任)。
2014年9月、第2次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・宇宙政策)に任命され、当選8回で初入閣した。併せて「情報通信技術(IT)による産業・社会構造の変革を円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」「再チャレンジ可能な社会を構築するための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」「日本が誇る文化の国際展開を図るため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣に任命された。同年の第47回衆議院議員総選挙では、徳島2区で9選。2014年12月、第3次安倍内閣の発足に伴い、新たに内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)の補職辞令を受けた。2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣の発足に伴い、内閣府特命担当大臣を退任した。2015年10月11日、自民党徳島県連会長に就任。 
 
有村治子

 

有村治子(1970- ) 学位はMasters of Arts in Conflict Transformation(スクール・フォー・インターナショナル・トレーニング・1997年)。参議院議員(3期)。桜美林大学講師、参議院環境委員長、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)、内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、女性活躍担当大臣、行政改革担当大臣、国家公務員制度担当大臣などを歴任した。
2001年、第19回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬。選挙戦では日本マクドナルドの全面的な支援を受けた他、神社本庁の政治団体である神道政治連盟や全国小売酒販政治連盟の支援を受け、得票数党内19位で初当選。当選後、高村派(当時)に入会。2005年、第3次小泉改造内閣で文部科学大臣政務官に任命。2007年の第21回参議院議員通常選挙では、得票数党内最下位の14位で再選。同年8月、自民党女性局長に起用。野党転落後の2010年4月、自民党に新設された政権力委員会(ネクスト・ジャパン)で環境・温暖化対策分野の副担当(副大臣相当)に起用される(政権力委員会は同年9月に廃止)。
2013年の第23回参議院議員通常選挙では得票数党内12位で3選。2014年9月3日発足の第2次安倍改造内閣で初入閣を果たし、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)、内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)の4ポストを兼務した。同時に、国務大臣としての所管事項として「行政改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」や「内閣官房が所掌する国家公務員制度及び行政組織に関する事務」と「女性が活躍し全ての女性が輝く国づくりに関する施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」をそれぞれ担当した。同年12月14日、第3次安倍内閣発足にともない閣僚を退任し、あらためて内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)の3ポストに再任された。あわせて「行政改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」と「内閣官房が所掌する国家公務員制度及び行政組織に関する事務」と「女性が活躍し全ての女性が輝く国づくりに関する施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣も兼務することになった。なお、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)については、後任として山口俊一が任命された。
2015年10月7日、内閣改造に伴い、退任。 
 
石破茂

 

石破茂(1957- ) 自由民主党所属の衆議院議員(10期)、水月会(石破派)会長。防衛庁長官(第68・69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域担当)兼地方創生担当大臣等を歴任した。父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗。
鳥取県八頭郡八頭町出身。東京都生まれ。父は建設官僚の石破二朗。父二朗が1958年に鳥取県知事になったので、茂に東京の記憶は全くない。茂の出生時、父・二朗は48歳であり、二朗の秘書を務めていた高岩迪資によれば、自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩が茂の父親と間違えたことがあったという。母親は、自身国語教師だったということもあり、結構教育熱心な人物だった。小学校の頃は毎晩1時間くらい、偉人伝の朗読をさせられた。鳥取大学教育学部附属中学校を経て、慶應義塾高等学校に進学した。1979年、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。慶大2年在学中に、全日本学生法律討論会で第一位。
1979年、三井銀行(現三井住友銀行)に入行。石破の三井銀行入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました。そのとき私は本人の志望会社を認められることを強調し、たまたま入社志望会社の人事担当役員が古くから親交がありましたので、石破(二朗)さんと一緒に訪ねたこともありました。又、令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています」と述べている。東京都中央区にある本町支店に配属。
1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった。なお、石破本人は田中派からの出馬を希望していたが、鳥取県全県区からは既に田中派の平林鴻三が選出されていたため、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄を頼り、中曽根派から立候補した。以後、9期連続当選。1990年の第39回、1993年の第40回衆議院議員総選挙では、鳥取県全県区でトップ当選する。1993年、細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため、自民党を離党。改革の会に参加し、改革の会・新党みらい・柿澤自由党が合流した自由改革連合を経て、新進党結党に参加した。しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命され、2001年の第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。
元々、石破は農水族として地歩を築いてきたが、自身も「国防がライフワーク」と語るように「新国防族」などと称され、外交・安全保障に精通する政策通で知られた。拉致議連の会長を務めた後、2002年、第1次小泉内閣第1次改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣した。防衛庁長官在任中はアメリカ同時多発テロ事件の発生による有事法制の制定や、陸上・航空自衛隊のイラク派遣に取り組んだ。
安倍晋三の退陣に伴う2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持し、福田が総裁に選出される。福田康夫内閣では防衛大臣に任命され、約3年ぶりに防衛省へ赴任する。翌2008年、福田首相の退陣に伴う自由民主党総裁選挙に出馬し、25票で立候補者5人中最下位に終わった(当選者は麻生太郎)。
2008年、麻生内閣で農林水産大臣に任命される。農林水産大臣は松岡利勝(自殺)、赤城徳彦(辞任)、遠藤武彦(辞任)、太田誠一(辞任)ら前任者の多くが不祥事に見舞われていたが、石破は特に目立った不祥事を起こさず、約1年間、農林水産大臣を務めた。2009年の第45回衆議院議員総選挙では鳥取1区で民主党の新人に比例復活を許さず8回目の当選を果たした。鳩山由紀夫内閣の発足に伴い、農林水産大臣を退任。
2009年9月、自民党の野党転落後に行われた自民党総裁選挙では、前回の総裁選の対立候補であった与謝野馨から立候補を促され、マスメディアも石破の立候補を有力視していたが、前回総裁選の推薦人であった議員20人のうち13人が落選し、推薦人集めの難航が予想されたため、立候補を断念。谷垣禎一元財務大臣への支持を表明し、総裁に選出された谷垣の下で自由民主党政務調査会長に起用された。自民党鳥取県連の関係者によれば、党三役入りした鳥取県選出議員は石破が初めてであった。政調会長就任に伴い、所属していた額賀派を離脱した。
2010年4月22日の記者会見において、自民党を離党した与謝野馨、園田博之らが参加する新党たちあがれ日本について「私自身、新党「たちあがれ日本」に参加した与謝野馨と園田博之とは、政策的に非常に近いスタンスだ。2人は、自民党で中心的な政策の立案をしてきており、共闘していくのは当然だ」「たちあがれ日本とは、「民主党の過半数を阻止しなければならない」という思いは共通しており、今後、政策面で共同歩調をとることは多々ある」と述べ、たちあがれ日本と共闘する可能性を示唆し、講演でも「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ」と述べ、たちあがれ日本と協力する可能性に言及した。同年9月、自民党政調会長に留任。
2011年9月、党役員人事により自民党政調会長を退任(後任は茂木敏充)。政調会長退任後は所属していた額賀派には復帰せず、同年12月に派閥横断型政策勉強会「さわらび会」を立ち上げた。衆議院予算委員会野党筆頭理事、自民党安全保障調査会長に就任。
2012年9月10日、自由民主党総裁選挙への出馬を表明。9月26日に実施された投開票では、1回目の投票で立候補者5人中トップの199票(地方票165票、国会議員票34票)を獲得し、特に地方票では2位以下の候補を大きく引き離したが、過半数の確保には至らなかった。国会議員のみによる2回目の投票では、大きく上積みし89票を獲得するも、108票を獲得した安倍晋三元首相に敗れる。
自由民主党総裁に選出された安倍の下、無派閥ながら自由民主党幹事長に起用され、2012年の第46回衆議院議員総選挙、2013年の第23回参議院議員通常選挙の陣頭指揮を執った。
2014年9月3日の第2次安倍改造内閣発足に先立ち、安倍は石破に対し、新設する安全保障法制担当大臣への就任を打診していたが、石破は8月25日にラジオ番組に出演し、安全保障法制担当相への就任を辞退する意向を明言し、内閣改造後も引き続き幹事長職に留まりたい意向を表明した。しかし、日刊スポーツによると、「幹事長が公の場で人事の希望を言うなど前代未聞」等、石破に対する批判が高まり、自民党参議院幹事長の脇雅史は「個人の見識があるのは当然だが、内閣、組織の意向に従うのが常識だ」と苦言を呈した。安倍はさらに、挙党体制の確立のため石破に安全保障法制担当相以外での入閣を打診し、8月29日に正式に会談した際、石破もこれを受け入れた。9月3日に発足した第2次安倍改造内閣では、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)及び「元気で豊かな地方の創生のための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当を行う国務大臣(地方創生担当大臣)」に任命された。
同年9月30日、党内の無派閥の議員を中心に構成される、無派閥連絡会に入会、その2日後に顧問に就任した。同会は2012年の総裁選で石破を支持した議員が中心メンバーであるため、一部のマスメディアや自民党議員から、「事実上の石破派」と結成当初から目されていたが、石破本人は無派閥の議員の共助が同会の趣旨と述べ、これを否定した。
同年12月24日に発足した第3次安倍内閣では、大臣(地方創生・国家戦略特区担当)に留任。
2015年9月8日の自民党総裁選には立候補せず、安倍の無投票再選となった。石破は後に、「閣僚か党役員として仕えているときは総裁選に出ないのが私の信条」、「安倍政権の支持率が比較的高い中で出馬することに意味があるのか」と語っている。翌日の9日に、自身の派閥を結成する意向を表明。同月28日に「水月会」の名称で石破派が発足し、石破を含め20名が参加した。石破は派閥発足時の会見で、自身が大臣を務める安倍内閣を支えると同時に、安倍の任期2期6年の折り返しの段階から時間をかけて、政策体型・政権構想を練り上げたいとの意向を示し、「私のようなものでも、仮に政権を担うのが望ましいということであれば、それを目指したい」として総理就任を目指す意欲を表明した。
同年10月7日に行われた第1次内閣改造においても、大臣(地方創生・国家戦略特区担当)に留任。
2016年8月3日、国務大臣(地方創生・国家戦略特区担当)を退任。 
 
遠藤利明

 

遠藤利明(1950- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、自由民主党2020年オリンピック・パラリンピック東京大会実施本部長、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長代行。国務大臣(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当)、文部科学副大臣、自民党幹事長代理、自民党教育再生実行本部長、自民党スポーツ立国調査会長、衆議院農林水産委員長・青少年問題に関する特別委員長、山形県議会議員(2期)などを歴任した。
山形県南村山郡(現・上山市)出身。山形県立山形東高等学校に進学した。同級生には、のちに山形県副知事となった細谷知行らがいた。高等学校卒業後、中央大学法学部法律学科に進学。卒業後、衆議院議員の近藤鉄雄の下で秘書を務めた。
1983年から山形県議会議員を2期務める。県議時代は自由民主党に所属していた。1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧山形1区(定数4)から出馬したが、6位で落選した。1993年の第40回衆議院議員総選挙では無所属(日本新党推薦)で再び旧山形1区から出馬し、3位で初当選する。
衆議院議員当選後は日本新党の追加公認を受けるも、程なくして自民党に復党し、同じ山形県選出の加藤紘一の側近となる。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では山形1区から出馬し、小選挙区では鹿野道彦に敗れたが、重複立候補していた比例東北ブロックで復活した。1998年、小渕内閣にて建設政務次官に就任し、小渕第1次改造内閣でも留任した。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では山形1区で鹿野に敗れ、比例復活も叶わず落選。同年、第2次森内閣不信任決議案をめぐる「加藤の乱」による宏池会(加藤派)分裂後は宏池会(小里派を経て谷垣派)に所属し、以降は谷垣禎一の側近となる。
2003年の第43回衆議院議員総選挙及び2005年の第44回衆議院議員総選挙では連続で鹿野を破り当選を果たした。2006年自由民主党総裁選挙では谷垣陣営の選挙対策を取り仕切り、安倍晋三、麻生太郎に次ぐ3位に終わったものの予想を上回る議員票66票の獲得に貢献した。第1次安倍内閣では文部科学副大臣に就任した。2007年10月、自民党政務調査会に設置されたスポーツ立国調査会の事務局長に就任した。2008年衆議院農林水産委員長に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、山形1区で9年ぶりに鹿野に敗れるが、比例復活により5選を果たした。2011年10月、自民党幹事長代理(総括)に就任した。
2012年10月、自民党国際局長に就任。同月に宏池会を脱退し、谷垣禎一による勉強会・有隣会(谷垣グループ)に参加した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、山形1区で前回敗れた鹿野を破り6選を果たした。
2013年5月21日、スキーの普及、振興と競技力向上を目的としたスキー議連を発足させ、会長に就任した。10月にはスポーツ庁設置を検討するプロジェクトチームの座長に就任し、15日には衆議院青少年問題に関する特別委員長に就任した。また、自民党山形県連会長として、鈴木憲和、大沼瑞穂の落下傘候補を衆院選・参院選に擁立し、当選を支援した。
2014年、日本オリンピック委員会と東京都により設立された一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に就任した。同委員会は翌年より公益財団法人に移行したが、引き続き理事を務めている。9月に稲田政調会長のもとで政調会長代理に就任した。12月の第47回衆議院議員総選挙では、山形1区で7選を果たした。
2015年6月25日、東京オリンピック・パラリンピック特別措置法の施行を受け、第3次安倍内閣にて東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当の国務大臣として入閣した。
2016年8月、国務大臣を退任して、自民党2020年五輪・パラリンピック東京大会実施本部長に就任。同年11月、一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の副会長に就任。 
 
諸話

 

農相辞任に揺れる余裕なき一強政権 2015/3
 W辞任に続く不祥事。首相自ら記憶違いのヤジ。求心力低下は避けられない。
「衆院予算委員会の基本的質疑も終わりましたし、私がいくら説明しても分からない人は分からない、と。そういうことで、辞表を出してきました」
自身が支部長を務める自民党支部への寄付問題が浮上していた農相・西川公也は2月23日夕、官邸で首相・安倍晋三に辞意を伝えた後、吹っ切れたような表情で記者団に語った。
安倍は12日に行った施政方針演説で「戦後以来の大改革」に取り組むと訴え、具体的な政策課題の筆頭に農政改革を掲げたばかり。昨年10月に前経済産業相・小渕優子、前法相・松島みどりがダブル辞任した危機を電撃的な衆院解散・総選挙で乗り切った安倍が、再び閣僚不祥事に見舞われた。
西川が支部長を務める自民党支部は、国の補助金支給が決まった木材加工会社や砂糖業界から寄付を受けていた。政治資金規正法は補助金の交付決定から1年間、政党や政治資金団体への寄付を禁止している。
「違法性はないが、農相の職責に鑑みて、いささかも疑問を持たれないよう返金した」。17日の記者会見などで疑惑を否定していた西川は、農相就任前には自民党の環太平洋経済連携協定(TPP)対策委員長として交渉を支える立場だった。砂糖は、日本が米や麦とともに関税撤廃の例外とするよう求める重要5項目の一つであるだけに、民主党などは「疑惑の構図」として追及を強めていた。
西川が弱気を見せ始めたのは、辞任表明の数日前からだ。
「家族が参ってしまっている。もう嫌になった」
西川は親しい議員らに繰り返した。週末土曜日の21日、自身の選挙区にある栃木県日光市で開かれた会合に西川は欠席。心配した同じ栃木選出の自民党選対委員長・茂木敏充は「どうされたのですか」と電話をかけ「法的問題はない。支えますよ。安倍首相も西川さんの仕事ぶりをほめていました」と励ました。
「ありがとう」と元気に応じた西川だったが、辞意は首相官邸側に伝わっていた。
23日、西川が安倍に辞表を提出した直後、官邸に後任の前農相・林芳正が現れた。林は20日の時点で、周囲に「ひょっとしたら農相をやれと言われるかもしれない」と漏らしていた。官房長官・菅義偉を中心に、人選が進んでいたとみられる。
「任命責任は私にあります。国民の皆様にお詫び申し上げたい」
西川が退出した後、記者団にこう語った安倍は公邸に入り、自民党幹事長・谷垣禎一ら党幹部と予定通り会食した。安倍は「西川さんには、もう少し頑張ってもらえると思ったんだけど」と漏らした。
西川の問題が気に掛かっていたのか、安倍は変調をきたしていた。
民主党議員・玉木雄一郎が19日の衆院予算委員会で西川問題をめぐり「脱法献金だ」と追及した際、安倍は「日教組はどうするの」と自席からやじを飛ばし、翌20日に予算委員長・大島理森から注意を受けた。
安倍は同日の予算委で「日教組は補助金をもらっていて、民主党には日本教育会館から献金をもらっている議員がいる」と発言。これについて安倍は23日、「教育会館から献金という事実はなかった。記憶違いであり、正確性を欠いた。遺憾だ」と陳謝した。
西川の辞任を受け、野党側は「基本的質疑をやり直せ」と要求。24日に予定されていた衆院予算委の一般質疑は取りやめとなった。
政府、与党が目指した2015年度予算案の年度内成立は絶望的だ。
「もっと早く辞めるべきだった。首相も変なやじまで飛ばしてかばったわけだから、責任は重い」
民主党代表・岡田克也は23日夜、視察先の福島県庁で記者団に追及強化を宣言した。大臣2人が辞任した昨年の臨時国会に続く敵失に勢いづいたのは間違いない。
翻弄された「イスラム国」対応
それまで政府は、中東の過激派組織「イスラム国」による2邦人人質事件に忙殺されていた。
フリージャーナリスト後藤健二さん殺害の一報は、日本時間2月1日早朝に入った。急報を聞いた官房長官・菅は、全速力で首相官邸のエレベーターに駆け込んだ。安倍は記者団の前で涙を浮かべ「テロリストたちを決して許しません。その罪を償わせる」と表明した。
イスラム国が1月20日、湯川遥菜さんと後藤さんを拘束している映像を公開した際、安倍はイスラエル・エルサレムに滞在中だった。安倍はホテルのスイートルームに官房副長官・世耕弘成や外務副大臣・中山泰秀を集め、身代金要求に応じない方針や、ヨルダン・アンマンの現地対策本部に中山を派遣することを決めた。安倍は菅に電話でこう指示した。
「日本の2億ドルの中東支援は、あくまで人道支援だと発信してほしい」
今回の事件で特異なのは、後藤さんを拘束したとのメールを昨年12月初めに受け取った妻が、英国の危機管理コンサルタント会社に犯行グループとの折衝を依頼した点だ。後藤さんが英国保険会社の誘拐保険に加入していたため、そうした運びになったという。
日本政府は「テロリストと交渉はしない」との立場を決めており、イスラム国と直接交渉することはなかった。イスラム国が後藤さん解放の条件として、ヨルダンに収監されていた女死刑囚の釈放を要求してからは、ヨルダン政府の交渉に依存した。
政府対応に目立った問題点はなかったとの評価が支配的だが、政府内には「犯行グループとの折衝を妻任せにせず、政府が当たるべきだった」との意見がくすぶり続けている。日本政府が犯行グループに翻弄されたという敗北感が痛恨事として外交史に刻まれた。
野党は、政府が邦人2人の身柄拘束情報を昨年から把握しながら、1月17日のエジプトでの安倍演説でイスラム国対策として2億ドルの人道支援を発表したことの是非や、イスラム国に言及した演説内容の妥当性を追及した。
「ご質問はまるでISIL(イスラム国)に対して、批判をしてはならないような印象を我々は受ける。それはまさにテロリストに屈することになるんだろうと思う」
2月3日の参院予算委員会。安倍は共産党議員・小池晃が人質事件の政府対応をただしたのに対し、不快感をむき出しに反論した。
「これは首相の意向です」
安倍の「一強」らしからぬ余裕のなさは、足元で続く不協和音と無縁ではない。安全保障法制をめぐっては、与党内でも、公明との駆け引きも続いている。
「公明党は『ガチンコで議論したい』と言っている。与党協議は大変な運びになる」
自民党副総裁・高村正彦は2月12日、安全保障法制に関する与党協議の自民党メンバーと首相補佐官・礒崎陽輔らが党本部で開いた会合で、議論の先行きに不安をにじませた。
実際、翌13日、7カ月ぶりに再開された与党協議は早速紛糾した。政府側が武力攻撃に至らない「グレーゾーン事態」で、自衛隊が米軍以外の艦船なども防護対象にする法整備を提案したのに対し、公明党は「必要性が分からない」と反発した。
20日の協議では、政府が朝鮮半島有事を想定した周辺事態法を改正し、自衛隊の活動について地理的概念を撤廃する案を提示。他国軍の後方支援に向けた自衛隊の海外派遣を随時可能とする恒久法の新規整備も提案した。公明党側は地理的概念の撤廃をめぐり「99年の周辺事態法制定時、小渕恵三首相は『中東やインド洋は想定されない』と国会答弁している。整合性はどうなるのか」と指摘。恒久法についても「個別事案ごとに特別措置法を制定して対応すべきではないか」と疑問を呈した。
しかし、安倍は16日の衆院本会議で、「あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とすることが重要で、将来、具体的なニーズが発生してから、あらためて立法措置を行うという考え方は取らない」と、恒久法制定への意欲を強調し先手を打っている。通常国会での法整備を急ぐ安倍の方針に全くぶれはない。むしろ、ガチンコで協議に臨んでいるはずの公明党の抵抗が“及び腰”になっているのが実態だ。
「これは首相の意向です」。政府側は公明党幹部への個別説明の場で「殺し文句」をささやく。同党内には恒久法制定を容認する声も既に出始めている。現在の与党協議での強硬姿勢は、4月の統一地方選を前にした支持者向けのポーズだとの冷めた見方が強い。
何よりも大きいのは、支持母体・創価学会の変化だ。公明党が昨年末の衆院選で議席増を果たしたことについて、創価学会は自公選挙協力が成果を上げたと評価、官邸との良好な関係を維持する思惑がこれまで以上に先行している。昨年夏の集団的自衛権行使容認の閣議決定に関する自公協議当時の緊迫感には、ほど遠い。
今夏に発出する戦後70年の首相談話も、当面の焦点だ。政府は2月18日、談話策定に向けて設置する有識者懇談会の座長に日本郵政社長・西室泰三、座長代理に安倍ブレーンの国際大学長・北岡伸一を充てるなどの人事を内定した。ただ、有識者懇談会の結論は、今回は参考材料として扱われるにすぎないだろう。
談話内容は、もちろん安倍自身が決めることになる。東京裁判史観に違和感を抱く安倍は、談話で「未来志向」を強調する一方で、1995年の村山富市首相談話を上書きして「自虐的」な文言を葬り去るとの見方が大勢だ。連立与党の公明党は、村山談話に盛り込まれた「日本の植民地支配と侵略」などのキーワードが姿を消す事態を懸念する。
「改憲の争点化」に慎重な菅
安倍の究極の目標は、初の憲法改正だ。5月に予定される大阪市の住民投票で、維新の党の大阪都構想が認められた場合、最高顧問の大阪市長・橋下徹が来年の参院選に出馬するとの見方が浮上している。橋下の国政転出が起爆剤となって参院で現有11議席の維新が躍進すれば、安倍が悲願とする改憲がいよいよ現実味を帯びる。
安倍は2月4日、自民党憲法改正推進本部長・船田元と会い、参院選後に改憲を国会発議する日程案を確認した。首相補佐官・礒崎は21日の講演で、国会発議を受けた国民投票を「できれば来年中、遅くとも再来年の春ぐらいには実施したい」と語った。
一方、官房長官・菅は改憲を参院選の争点として打ち出すことには一貫して慎重な構えを取る。第一次政権当時の07年、参院選で改憲を掲げて惨敗した記憶がトラウマになっているからだ。安倍が維新との連携を強化すれば、公明党が連立政権の組み替えにつながりかねないと警戒することも想定される。公明党は憲法に環境権などを盛り込む「加憲」には前向きだが、官邸が維新と接近した場合、自民党の改憲草案が復古的だなどとして難色を示すかもしれない。
「どういう条項で国民投票にかけようか、発議しようかというところに至る最後の過程にある」
安倍は20日の衆院予算委で、改憲の現状認識を口にした。だが、衆院選での勝利もつかの間、西川辞任による求心力低下や与党内のあつれきなど、不安材料も目立ち始めた。9月の自民党総裁選に向けては、既に引退した元幹事長・古賀誠らリベラル派が安倍の対抗馬擁立をうかがう。
安倍が本当に長期政権を実現し「戦後レジームからの脱却」を果たせるのか、難所はこれからだ。 
「お友達内閣」安倍晋三内閣の菅義偉官房長官が「自爆気味」 2015/3
「お友達内閣」と言われている安倍晋三首相の女房役である菅義偉官房長官が、このところ、「友達関係」を鼻にかけて、わがまま三昧に振る舞い、内閣を攪乱している閣僚に、頭を悩ましているという。
その筆頭が、下村博文文科相だそうだ。熱烈な「支持者」の集まりである任意団体「博友会」にかかわる「政治とカネ」問題で安倍晋三内閣が揺さぶられているので政権運営を心配して、「辞めて欲しい」と伝えると、「どうして止めなくてはならないのか。安倍晋三首相と私との関係は、あんたより古くて長い」などと言って反発して、テンで相手にしないのだという。しかし、某週刊誌が近々に下村博文文科相に関する「スキャンダル」をすっぱ抜くという情報が伝えられているので、菅義偉官房長官は、下村博文文科相を助けるつもりはないという。「事と次第では、菅義偉官房長官自身が、安倍晋三首相を見限って自爆するのではないか」とさえ言われている。
やはり「友達関係」の塩崎恭久厚労相も、菅義偉官房長官の言うことに耳を貸そうとしないという。世耕弘成官房副長官が、130兆円にも上る国民の巨額の年金資産を運用しているGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に新設の最高投資責任者(CIO)に、水野弘道氏(大阪市立大学法学部卒、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院卒、英プライベートエクイティ=PE、未公開株=投資会社コラー・キャピタルの水野弘道パートナー)を送り込み、自由に運用させようとしたところ、日本銀行出身の塩崎恭久厚労相が2014年9月の内閣改造で就任し、待ったをかけたのがキッカケで、いがみ合うようになった。調整役の菅義偉官房長官が、世耕弘成官房副長官の上司という立場から、塩崎恭久厚労相に注意したのだが、安倍晋三首相とのお友達関係を鼻にかけて、これを聞き入れようとしない。このため、閣内でギクシャクが続いていて、菅義偉官房長官の「鼎の軽重」が問われているという。
9月の総裁選挙出馬に意欲を失っているかに見える麻生太郎副総理兼財務相や石破茂地方創生相は、「他人事」と冷ややかで、我関せずの構えだ。
中川郁子農水政務官が、不倫路上キス問題や緊急入院先の病室で喫煙した問題で野党の追及を受けた際、菅義偉官房長官は、「辞めさせることは考えていない」としながらも、積極的に庇う姿勢を見せず、「不祥事ドミノ」が続いて、安倍晋三政権が、自壊するのを待っている感さえある。安倍晋三内閣が、バラバラになってきていることと連動して、自民党内でも、バラバラ現象が起きているという。
谷垣禎一幹事長も覇気がなく、勢いづいているのは、二階俊博総務会長のみ。さりとて、総理総裁の大器であるかは、未知数である。中川郁子農水政務官とその相手の門(かど)博文衆院議員(和歌山1区落選→比例近畿ブロック復活当選)が、二階派所属というのも、辛い。
「巨象」をシンボルマークにしている自民党が、大勢力を誇りながら、統制が取れなくなったとき、「一体、だれを中心にまとまって行けばいいのか」という不安感が漂い始めているのだ。大きく太り過ぎると、かえって身動きが取れなくなるものらしい。 
サラリーマン組織に堕した自民党 2015/4
 経済で批判を封じる安倍。しかし、議論なき党内は静かに弱体化している。
「俺は安倍さんの後をヤル気はないね。もう年だ。あんたがやったらどうだい?」「いやいや、とても……」「私はとことん、尽くしていきますよ」
副総理兼財務相・麻生太郎と経済財政担当相・甘利明、さらに官房長官・菅義偉を加えた3人が、最近かわした会話の一端だ。
今秋の自民党総裁選での再選が確実視される首相・安倍晋三に、党内の死角はない。民主党が仕掛けた「政治とカネ」スキャンダルの攻勢も不発に終わった。再選されて参院選に勝ち、悲願の憲法改正へと突き進むため、安倍は高い支持率を支える「経済」に、まずは全力をあげた。
3月17日、春闘の一斉回答を翌日に控えた閣議前。安倍は甘利にこうつぶやいた。
「賃金が上がれば、野党が国会で私を攻める決め手はなくなる」
「アベノミクス」が恩恵をもたらしたのは富裕層、都市部、株を持っている人たちだけ――そんな不満が、じわじわと広がる。その芽を摘むため、安倍と甘利は賃金引き上げ=ベースアップに照準を合わせた。
準備は昨年12月から進められていた。
衆院選での自民党勝利を確信した安倍、甘利、麻生らは、春闘を見据えて製造業の集積地、愛知に足を運んだ。トヨタ自動車など世界に名だたる大企業の裾野は広い。その賃上げは、下請け企業を通じて愛知から全国へと波及する。安倍の意を受けた甘利は、「賃上げの効果を下請け企業にまで波及させることが重要だ」と説いて回っていた。
甘利と春闘について囁きあった日と同じ3月17日、安倍は参院予算委員会で「原材料価格の上昇分を、適正に取引価格に転嫁できるよう、下請けガイドラインを改定する」「下請け企業がしっかりと賃金を上げられる状況ができて、初めて本格的に消費が拡大していく」とぶった。
「取引価格」という業界用語を安倍が使いだしたのは年初からだ。「内閣総理大臣が『取引価格』という言葉を使うとは」と、経済界と労働界に驚きが広がった。
安倍と甘利の理屈は極めてシンプルだ。「輸出型の製造業が史上最高益を記録できるのは円安だから。円安はなぜ起こったか。アベノミクスだ。よって政権に協力するのは当然だ」。
官製春闘の標的となったトヨタは安倍に「満額回答」した。すでに凍結していた取引先への部品価格の引き下げ要請を今回も見送り、賃上げも一気に4000円にのせた。
3月16日、経産省出身のトヨタ副社長・小平信因は、甘利に「全力でやりました。もう一段のご理解をお願いします」と頭を下げた。
地方にアベノミクスを波及させる切り札としての賃上げには、官邸チームも動いた。
経産省出身の首相補佐官・長谷川榮一、政務秘書官・今井尚哉は財界人脈をフル動員した。民主党支持母体の連合にも手を伸ばした。連合にとって、どんな形であれ賃上げは歓迎すべき事象である。連合対策は経団連が引き受け、会長の榊原定征が連合会長・古賀伸明に頻繁に声をかけた。
古賀は「ベアの要求水準は2%以上とする」と高めの目標を打ち出し、結果として安倍内閣を後押しした。大企業、経産省、経団連、連合――政労使官によるスクラムが組まれた。
賃上げと同時に注力したのはアベノミクスの要である金融政策を司る日銀、とりわけ総裁・黒田東彦との関係であった。
黒田総裁との“復縁”
昨年10月末、予想外の追加金融緩和で日経平均株価を急騰させた「黒田バズーカ」。安倍はこの緊急緩和を、当時判断期限が迫っていた15年10月の消費税再引き上げへの「援護射撃だ」と受け止めていた。周辺には「結局、黒田も大蔵省の人間だということだ」と不快感を隠さなかった。
黒田は財務官、アジア開発銀行総裁を経て日銀トップに転じたが、大蔵省主税局の経験が長く、DNAは旧大蔵省の財政再建にある。財務省が仕掛けた消費増税を蹴散らすために、衆院解散・総選挙にまで打って出た安倍にとって、黒田日銀は「許されざる者」となっていた。
安倍と黒田の間は冷え込み、2月12日の経済財政諮問会議ではオフレコを前提に黒田が「日本国債が大変なリスクになる可能性がある。財政健全化を急ぐべきだ」と訴え、安倍が苦虫を噛み潰す一幕もあった。
株価が2万円近い水準にまで上昇してきたのは、日銀が指数連動型上場投資信託(ETF)を買い入れ、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が日本株買いの比率を高めた「官製相場」の色合いが濃い。春闘で賃上げ目標が「2%以上」となったのは、日銀の物価上昇目標「2%」とも連動する。春闘と日銀はこの一点でつながる。安倍は黒田との関係修復に応じた。
3月23日、首相官邸で安倍と黒田は昼食をともにしながら1時間、半年ぶりで会談した。
会談後、黒田は「経済、金融の一般的な話をした」とだけ記者団に説明した。会談の中身よりも、不仲を囁かれていた首相と日銀総裁が顔を合わせたことが、なにより市場へのメッセージになるのだ。この日、日経平均株価の終値は194円高で約15年ぶりの高値を回復した。安倍の狙いはまたもや的中した。
「経済」で後顧の憂いはひとまずなくなった。集団的自衛権の行使容認を具体化する安全保障法制も3月20日、自民党と公明党でなんなく合意に達した。
折しも公明党の支持母体、創価学会では元総関西長・西口良三が3月15日に死去している。現在はミニ政党の党首に甘んじている元自由党党首、元民主党代表の小沢一郎が学会で最も気脈を通じていたのが選挙と政局のプロとみなされていた西口だった。1990年代から「反自民」の旗手だった小沢に近い西口の死と、安保法制のスムーズな合意は、もはや公明党が「自民党最大の集票基盤」になっていることを象徴的に示してもいた。
自公で合意した以上、安保法制は時間がかかっても必ず今国会中に成立する。安保法制の次に見据える憲法改正に向け、安倍は「維新の党」取り込みも怠りない。
2月20日、衆院予算委員会。維新国会対策委員長・馬場伸幸は2027年に東京―名古屋間で開通する予定のリニア中央新幹線について、2045年開通予定となっている名古屋―大阪間の建設前倒しを要請した。
実は、リニア新幹線に関しては維新創設者の大阪市長・橋下徹が「大阪都を実現して、東京―大阪間をリニアで結び、国の行政機構をまずは二極化。東京一極集中の是正策の切り札が大阪都構想と、東京―大阪間のリニア開業だ」と、大阪都構想実現に絡めて積極的に言及し始めていた。
安倍は「関係者で相談していただきたい」と公式答弁は型通りにとどめたが、答弁後には馬場に「JR東海の葛西敬之名誉会長に個人的に言っておきますよ」と話しかけた。安倍と菅は、橋下の意向を踏まえてリニア延伸にまで網の目を張り巡らせている。
総裁選も節目にならず
ひと昔前ならば予算案成立がかかる2、3月こそが、与野党攻防で最大のヤマ場だった。しかし最大野党・民主党のカゲは薄い。代表・岡田克也は網膜剥離で統一地方選の応援にさえ思うように飛び回れない。
政局の次の節目は9月の自民党総裁選だ。ところが、総裁選でさえも節目とはほど遠い状況にある。
「ポスト安倍」の最右翼と目される地方創生担当相・石破茂は3月21日、安倍の無投票再選でよいのか、とテレビ番組の収録で問われて「それぞれが与えられた役割をきちんと果たす、それ以外は考えてはいかん」と早々に白旗をあげた。
本来なら「ポスト安倍」に名前のあがっておかしくない麻生、甘利、菅の政権中枢も冒頭で紹介した会話のように、手をあげる気配はない。
わずかに前総務会長・野田聖子が3月8日に「危機的な状況にある日本を支えようとする人であれば、誰でも出馬を考える」と意欲をにじませた程度だ。野田は安倍と同期の衆院当選8回、元幹事長・古賀誠が初当選のころから目をかけて「将来の宰相に」と今に至るまで推す政治家だ。
とはいえ、野田への支持が広がるとも思えない。元防衛相・浜田靖一らが秋に向けて奔走するが、「総裁選出馬に必要な20人が集まるのか」と懐疑的な声も、党内には根強い。
安倍本人は「最初から誰も出ない、と決まるのはよくないよね」と余裕の言葉を漏らすが、これは本音でもある。無投票再選は、いいことばかりではない。総裁選は対立候補と争い、勝ち抜いてこそ党内基盤は固まる。1997年9月、無投票で再選された当時の首相・橋本龍太郎は2か月後の金融危機で失速すると翌年には退陣に追い込まれた。出身派閥の小渕派は橋本とは遠く、他派閥も様子見していた。橋本の退陣は再選から1年もたっていない。
「安倍一強」は、当時の橋本と同じように、砂上の楼閣に過ぎない。
いま自民党内では、政権の方針に逆らえば役職に就けないだけでなく、次期衆院選で公認されないかもしれないとの恐怖感が強い。事実、選挙区で負けて比例代表で復活した議員に対しては内閣官房参与・飯島勲らの進言で「連続して小選挙区で負けた議員の公認は、実績を評価して考え直す」とのアイデアが浮上している。小泉純一郎内閣は郵政民営化反対派に「刺客候補」を送り込む荒業を現にやってのけた。自民党は新人議員から幹部までが「上」の意向を気にせざるを得ない、“悪しきサラリーマン組織”に堕しているのだ。
古賀や総務会長・二階俊博らが「リベラルな自民党を」「党内議論の活性化を」といくら提唱しても、国会議員の意識は変わってしまったのだ。政権の勢いが持続しているうちは、反対論が大きくなるはずもない。
ワシントンとの鞘あて
反面、何かのきっかけで支持率が下がれば、党内にたまった不満と鬱憤は爆発し、政変を引き起こす。97年から98年にかけて橋本が直面したのは経済危機だった。一方の安倍も、経済の変調に直面する危険は否定できないが、蓋然性が高いのは外交だ。
3月23日、一時帰国中の駐米大使・佐々江賢一郎は外務省事務次官・齋木昭隆とともに首相執務室へ入り、安倍に4月26日から5月3日までの訪米日程を報告した。
首都ワシントンだけでなく西海岸までを回る一大旅行だが、正式決定前から鞘あてがあった。
2月、米大統領国家安全保障担当補佐官、スーザン・ライスが安倍の訪米を発表する直前の折衝では、中国国家主席・習近平の訪米を「State Visit(国賓訪問)」と呼びながら、安倍は「Official Visit(公式訪問)」と差がついていたという。日本側の主張で正式発表は日中とも「国賓級待遇」となったが、米オバマ政権と安倍官邸の距離はかくも遠いのが実態だ。
夏には戦後70年談話があり、米国、中国、韓国とのパワーゲームは本番を迎える。テロの懸念も消えず、ウクライナ情勢も不透明なままだ。25年前の夏に起こった湾岸危機は当時の首相・海部俊樹の覚束なさを際立たせ、翌年の退陣につながった。
いつ起きるか分からぬ危機とその対応は、永田町の空気を一変させかねない。 
安保法案を迷走させる「慢心」の官邸 2015/7
 憲法学者の違憲発言、支持議員の暴言。プロの手借りぬ国会対策は緩みきった
「好事、魔多し」「政界、一寸先は闇」。それは得てして、宰相の得意分野にあらわれる。
株価も高値で推移し、党内に敵もおらず、内政が万全なはずの首相・安倍晋三が窮地に陥ったのはまさに内政――国会対策である。
「戦後最長の会期にしよう」
6月19日昼、安倍は首相官邸で自民党幹事長・谷垣禎一、官房長官・菅義偉に伝えた。
1回しか会期を延長できない通常国会で、これまでの最長記録は鈴木善幸内閣の94日間。これを1日だけ更新し、95日間とすることで、日本の針路を変える重要法案である安全保障関連法案は「審議を尽くした」とアピールする狙いだ。この後、安倍は公明党代表・山口那津男にも「世論は丁寧な審議を求めている。戦後最長の期間で、じっくり議論する意思を国民に示したい」と説明した。
だが、安倍と菅の意向が当初、お盆休み前の8月10日までの延長だったのは公然の事実だ。それが、さらに長い会期延長に追い込まれたのは、潜在的に安倍に反感を持つ参院自民党の動向と、稚拙な国対のためにほかならない。
国会対策を軽視した官邸
6月16日、自民党の参院議員会長・溝手顕正は「9月末まで会期をとらないと、安保法案の成立は保証できない。他の重要法案もダメになる」と安倍に告げた。参院側は6月9日にも衆院執行部に「8月10日で会期を締めたら、法案に責任は持てない」と通告している。にもかかわらず、官邸と衆院の反応は鈍い。業を煮やした溝手の最後通告だった。
国対には「荷崩れ」という概念がある。
衆院で強行採決し、混乱した状態で参院に法案が送られてくることを指す。参院で自民党は過半数に届いておらず、野党が長期間、審議に応じなければ、会期は足りなくなる。溝手ら参院執行部がおそれたのは「荷崩れ」をきっかけに法案を成立させられない事態だった。
参院自民党は1989年以来、26年の長きにわたって一度も過半数を回復したことがない。しかも、来年に選挙を控える参院議員は安倍が第一次内閣の当時、参院選で惨敗した記憶が忘れられない。
「野党は大したことない」と周辺に漏らしていた安倍も参院の意向は聞かざるをえない。政権に返り咲いて衆院選に勝った安倍にとって、来年の参院選での勝利は第一次政権の悪夢を払拭するためにも、不可欠だからだ。
なぜ、安保法案がここまでトラブルの種になったのか。直接の原因は衆院憲法審査会で自民党推薦の学者までが、集団的自衛権の行使を「憲法違反」と断じたことにあるが、本質的には安倍政権が議会対策を疎かにし、国対や政策のプロの手を借りなかったことに尽きる。
国会対策委員長・佐藤勉や官邸サイドは「参院はだらしない、弱腰だ」「見通しが甘い」と参院の責任を言いつのる。だが、国対の司令塔は幹事長であり、官邸の力が強いときは官房長官が司令塔であることが、自民党の歴史だった。全体の日程、法案の進捗状況を把握し、的確な手を打つのが司令塔の役割だ。剛腕官房長官、菅の手腕はどうだったか。
会期延長を決める直前、菅は維新の党対策に全力をあげた。
6月14日、日曜日の夜に虎ノ門ヒルズにできた超高級ホテル「アンダーズ東京」の下界を見下ろすレストランで約3時間、菅は安倍とともに大阪市長・橋下徹と大阪府知事・松井一郎を歓待した。
安倍は大阪都構想で一敗地にまみれた橋下を「結果は結果だったけれど、よくここまで来たね」と労うとともに「維新のあの質問は本当によかった。本質をついていた」と、自らも出席した6月12日、衆院厚生労働委員会での一幕を披露した。この日の審議で、維新の足立康史が「日程闘争のための日程闘争だ。55年体制の亡霊がこの部屋にいる」と、審議拒否する民主党を批判していたからだ。
足立は経産官僚出身、当選2回の大阪系議員。橋下シンパの一員である。民主党と維新を離間させたい安倍と菅の、この維新大阪系議員への賛辞に、橋下と松井は相好を崩した。
このやりとりを踏まえ、橋下は「維新は審議引き延ばしなどの日程闘争はやりませんから」と応じてみせた。
さらに安倍は「橋下徹という政治家への期待は、なくなっていないんじゃないですか」ともリップサービスした。もともとの安倍―菅構想は「都構想で橋下が勝利→来夏の参院選で橋下出馬で維新が増加→野党再編派と維新大阪が分裂、橋下一派と連携する」とのシナリオだった。
いずれにせよ、橋下を担ぐ議員たちが、維新内の親・民主グループと袂を分かつことは安保法案の行方だけでなく、将来の憲法改正にとっても好都合であることは間違いない。その直後から橋下は「民主党とは一線を画すべき」などとツイッターで連続発信。野党陣営から維新を引きはがし、安保法案に賛成はしないまでも、審議には協力する態勢はできる、と菅は踏んだ。
菅は2日後の16日には、維新前代表の江田憲司、17日は維新国対委員長・馬場伸幸ら橋下に近い「大阪系」メンバー、19日には維新代表・松野頼久と次々に会談し、維新の感触を探った。
かつての国対政治なら、この手の会談事実が漏れてくるのはことを成してからだったのが、いまはリアルタイムで漏れてくる。菅が「会っていない」と否定しても、維新側が「官邸は俺たちのことを気にかけている」と喜び、会談が公知の事実となってしまう。
維新対策に奔走する姿に、連立を組む公明党からは不快感が出て、肝心の維新内部でも「政権に協力するのはおかしい」と揺り戻しが起きた。菅と安倍が頼みとする「橋下大阪系」は10人程度にとどまり、ほとんどの議員が当選回数も2回と少なく、松野や江田ら野党再編派の力は、いかに橋下の意向があれども無視できない。
菅をはじめとする官邸は「維新対策は長期戦だ」と見切り、大幅延長を決断する。参院の審議が滞っても、衆院で再可決できる「60日ルール」の適用を視野に入れた会期が、戦後最長のもう一つの理由だ。
サミット開催地と経産人脈
「国対」政治の本質は時間をかけた野党との話し合い、信頼関係にある。公明党との連立が始まって既に15年以上がたち、法案の調整は専ら与党内調整だけで済んだ。自民党全体に、野党と協議して果実を得る経験も実績も乏しい。
加えて安倍官邸には「世論の支持は野党にはない。内閣支持率がその証拠だ」との思いがある。この驕りが、時間をかけた野党との協議を軽視させる。
実は国対=議会対策は、民主主義国家の首脳にとって避けることのできない問題なのだ。「G7」の場では、共通の話題として「いかに議会対策が大変か」で盛り上がるのが通例。議会対策を上手くこなした首脳は、非公式な場で称賛される。米大統領、バラク・オバマも環太平洋経済連携協定(TPP)関連法案を通すため、野党・共和党と組んで複雑な議会対策を余儀なくされた。
議会対策の基礎となるのは日程、「国対カレンダー」だ。予算審議を軸に外交日程、自民党総裁選、野党の党首選や党大会、皇室日程を織り込み、審議できない時間を差し引いて日々更新していく。その時、大きな力となったのが野党にも人脈のあった旧大蔵省の日程管理表だった。
安倍官邸は財務省を敵視し、遠ざける。かわって差配するのは首相秘書官・今井尚哉を中心とする経済産業省グループである。今回、官邸の「国対カレンダー」が大幅に狂ったのは、議会対策に慣れぬ「経産カレンダー」をもとにしたことにも原因がある。
経産グループは国対だけでなく、外交でも蠢く。来年5月26、27両日に決まった伊勢志摩での主要国首脳会議(サミット)を主導したのも経産省一派だ。
サミット開催地となる三重県の知事、鈴木英敬は経産官僚出身で、第一次安倍内閣では官邸に勤務していた。安倍は鈴木に「政治家になるなら、30歳代でなった方がいい。私もそうだったから」と薦め、昨年の欧州訪問にも鈴木を参加させるなど親密な関係にある。さらに、鈴木は秘書官の今井とも先輩後輩の関係。サミット招致レースで最後に名乗りをあげたのは、今井が「今からでも遅くはない。サミットに手を挙げたらどうか」と鈴木に示唆したからだった。
鈴木は今年1月5日、伊勢神宮を参拝した安倍に立候補の意向を伝え、安倍も「いいよ」と即答した。外交を司る外務省もあずかり知らぬうちの今井―鈴木―安倍の連携によるサミット立候補の経緯が示すのは、最初から伊勢志摩が大本命だった事実だ。国対も外交も、財務省や外務省のプロフェッショナルを軽視して進めるのが、いまの手法だ。
総裁選は無投票濃厚
9月末までの延長で自民党総裁選と日程が重なり、安倍の対立候補が出るとすれば「この人がキーマン」とみられていた総務会長・二階俊博は6月23日の記者会見で「もし出馬の意向のある人がいれば、今年初めから動いているはずだ。今日現在、誰からもそんな話は聞かない」と安倍の無投票再選だと断言した。
延長を決めた衆院本会議に先立つ6月22日夜、自民党代議士会で安倍は「安保法制など戦後以来の大改革を断行する国会。もとより議論百出は覚悟のうえだ」と大見得を切ってみせた。周辺に「答弁は全部俺がやる。民主党などの反対論は論破してやる」と漏らす意気軒昂ぶりが、挨拶に表れていた。
しかし、超長期の延長は総裁選に好都合に働いても、副作用ももたらす。
8月の「戦後70年の談話」は国会会期中になる。野党の追及、中国・韓国の反応、米国の態度など、不確定な要素が安保法案の参院審議のヤマ場にかかってしまうのだ。
日米首脳会談、ドイツでのサミットと外交で成果をおさめながらの内政の失態に、内閣官房参与・飯島勲は「これはまずい。宮沢喜一内閣は国連平和維持活動(PKO)協力法でしくじったとき、国対委員長を剛腕の梶山静六氏に交代して成功した。あの故事にならい、国対関係者を総入れ替えすべきだ」と声をあげた。
官房長官の菅が師と仰いだ梶山は国対カレンダーを「工程表」と呼び、国会対策は「芸術作品だ」と言って憚らなかった。沖縄対策の法案を通した時には国会議員だけでなく連合や創価学会にまで手を伸ばした。その細心さは、いまの官邸にはない。
それどころか、安倍を支持する保守系議員の勉強会では沖縄、マスコミを巡る暴言が相次ぎ、執行部は土曜日の6月27日に党青年局長・木原稔を更迭せざるを得なかった。緩みと慢心は安倍支持グループ全体に広がっている。
不吉な符合もある。通常国会では戦後最長だが、実は総選挙を受けた特別国会なら最長は田中角栄内閣の280日間がある。
日中国交正常化をなしとげて「決断と実行」を掲げ、高い支持率を誇ったはずの田中内閣はこの国会の途中で失速。最後は重要法案を力でごり押しし、国会閉幕の翌年には退陣に追い込まれた。その特別国会閉幕日は、くしくも今回と同じ9月27日。まさに「政界、一寸先は闇」である。 
首相 礒崎氏は法的安定性重視し職務続ける 8/4  
安全保障関連法案を審議する参議院の特別委員会で、安倍総理大臣は、法案を巡り「法的安定性は関係ない」などと発言した礒崎総理大臣補佐官について、政府として法的安定性を重視していることを礒崎氏も十分理解して職務を続けていくと強調しました。  
この中で、自民党の佐藤正久元防衛政務官は、国連のPKO活動に参加する自衛隊について、「国内でできることがPKO活動ではできないギャップに、これまで現場の隊員が悩んだり迷ったりしたことがあった。実情を見極め自衛隊が動けるよう法改正するのが政治の責任だ」と質問しました。  
これに対し、安倍総理大臣は「法律が不十分であることを、現場の自衛官に埋めさせてはならない。法律の不備を埋めるのは行政と立法府の責任であり、今回はそのための法整備だ。現場の課題に対処する形で法整備されてきたが、まず現実を見て法律を整備してから、自衛隊員を現場に送るという順番でなければならない」と述べました。  
民主党の櫻井元政策調査会長は「安倍総理大臣は日頃から『自衛隊員のリスクは軽減する』と言っているが、新しい任務に機雷の除去作業が入ればリスクが高くなるのは当然ではないか」とただしました。  
これに対し、安倍総理大臣は「私は『リスクが減る』ということを機雷の除去について言ったことはなく、PKO活動で同じ基地をともに警護できるようになるという文脈で申し上げている。従来も、自衛隊はペルシャ湾における機雷の掃海にあたったが、停戦後に行ううえでも相当な危険が伴う作業であることは言を待たない」と述べました。  
公明党の矢倉克夫参議院議員は「いろいろな人が防衛費が2倍、3倍に膨れあがるのではないかというイメージを持っているが、今回の法案は、自衛隊が、今持っている能力をしっかり活用するためのものであることを確認したい」とただしました。  
これに対し、安倍総理大臣は「新たな法制により、全く新しい装備が必要になったり、装備の大増強が必要になったりすることはなく、防衛予算が2倍、3倍に膨れあがることは全くない。今後も厳しい財政事情を勘案し、効率化・合理化を徹底した防衛力の整備に努めていく」と述べました。  
維新の党の小野幹事長代理は、集団的自衛権の行使について、「『われわれや国家が生き延びるための最小限の自衛権の行使だ』と言っていながら、国民保護法制や国内の防衛体制にもリンクしていない。他国のドンパチを応援に行くだけではないか」と指摘しました。  
これに対し、安倍総理大臣は「公海上でアメリカの艦船を守る行為などの際に、国民保護法制をかけることは、国民にさまざまな義務を負ってもらうことにもなり、国民の権利も縛ることになる。存立危機事態においては、そこまで求める必要はないだろうと考えた」と述べました。  
共産党の仁比参議院国会対策副委員長は、海上自衛隊の内部資料では存立危機事態で機雷掃海や後方支援、アメリカの艦船の防護などを同時に行うことが想定されていると指摘したうえで、「わが国への武力攻撃がないにもかかわらず、これだけのことをやるのは憲法違反でなくて何だというのか」とただしました。  
これに対し、安倍総理大臣は「何ができるかをイメージ図として1枚の紙にまとめて書いているものだ。武力行使の新3要件にあたることが前提で、この中のものを全部やるということではなく、総合的に判断していくことになる」と述べました。  
社民党の福島副党首は、法案を巡り「法的安定性は関係ない」などと発言した礒崎総理大臣補佐官について、「更迭すべきだ。集団的自衛権の行使を初めて合憲とし、法的安定性を最も破壊している安倍総理大臣だから更迭できないのではないか」と指摘しました。  
これに対し、安倍総理大臣は「礒崎総理大臣補佐官は発言を取り消し、撤回した。政府としては法的安定性を重視しており、昭和47年の政府見解の基本的な考え方や論理はそのまま踏襲している。そのことは礒崎氏も十分理解しており、今後、誤解を受ける発言をしないことは当然だ。そのうえで職務を続けていく」と述べました。  
また、中谷防衛大臣兼安全保障法制担当大臣は、外国軍隊への後方支援で弾薬の提供を可能にすることに関連して、「ミサイルや劣化ウラン弾、クラスター爆弾は弾薬にあたるのか」と質問されたのに対し、「劣化ウラン弾もクラスター爆弾も弾薬だ。ミサイルについては、あえて当てはめるとすれば弾薬にあたる」と述べました。これに関連して、安倍総理大臣は「クラスター爆弾については、日本は禁止条約に加盟し、所有していないので、提供することはありえない。劣化ウラン弾もそうだ」と述べました。  
さらに、中谷大臣は、「サイバー攻撃に対して集団的自衛権を行使することはありうるのか」という質問に対し、「新3要件を満たす場合に、武力攻撃の一環として行われたサイバー攻撃に対し、武力を行使して対応することも法理としては考えられる。ただ、これまで、サイバー攻撃に対して自衛権が行使された事例はなく、現実問題としては、国際的な議論を見据え、さらに検討を要する」と述べました。 
無念の安倍談話、決着の舞台裏 2015/9
 「村山談話」を上書きするという宿願は、なぜ叶わなかったのか
8月14日午後6時。首相官邸の1階にある会見場は、張り詰めた空気に包まれていた。海外メディアも生中継しているその場で、安倍は戦後70年談話をこう切り出した。
「8月は、私たち日本人にしばし立ち止まることを求めます。今は遠い過去なのだとしても、過ぎ去った歴史に思いを致すことを求めます」
安倍は25分もかけて、演台横に備え付けられた左右のプロンプターに交互に目をやりながら、静かな口調で談話を読み上げた。だが、これまで会見への準備を怠らない安倍には珍しく、6カ所も談話を読み間違えた。4月29日の米議会演説でみられたような高揚感も、全く感じられない。
村山談話からの脱却にあれほど意欲を示していた安倍。過去の植民地支配と侵略を認めた20年前の村山談話を、どこまで「上書き」するかに、国内外の注目が集まっていた。しかし、村山談話で用いられた4つのキーワード「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「おわび」は次々と読み上げられ、結局は全てを踏襲する結果となった。
これらのキーワードを使う際に引用や間接話法を駆使したこと、「子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と謝罪外交の終わりを提示したことが、精一杯の「安倍カラー」だった。欧米諸国は歓迎し、反発が予想された中国、韓国ですら抑制的な反応だった。これが、当たり障りのない談話となったことの証左だろう。
内外が注目した談話だけに、内容が事前に漏れないように細心の注意が払われた。メディアへの談話の事前配布は勿論なかった。さらには、談話を閣議決定した臨時閣議ですら、ある閣僚は内閣官房副長官・世耕弘成が読み上げることで内容を知り、封筒に入った談話本文を見ることなく署名を促されたというほどの念の入れようだった。
言及回避を狙った「おわび」
談話の内容をめぐって、安倍はこの数カ月間、理想と現実の間で揺さぶられ続けていた。
4月末、スタンディングオベーションに包まれた米議会演説を終え、ワシントンからサンフランシスコに向かう政府専用機の機上にいた安倍は手応えを感じていた。
「今回の原稿は非常に良かった。70年談話にも十分使えるよね」
満足げな表情を浮かべながら周囲に語った。安倍にとって、喉に刺さった小骨のように引っかかっていたのは、側近からの「談話の本質は外交問題。対象は中韓ではなく米国だ」という忠告だった。この議会演説の成功で、米国における「歴史修正主義者」との懸念が払拭され、新談話へ弾みがついたのだ。
議会演説では先の大戦への「痛切な反省」「深い悔悟」を盛り込む一方で「おわび」は回避していた。この1週間前のバンドン会議の演説でも「侵略」に言及したが、引用にとどめた。この時点で、新談話では「侵略」は引用、「おわび」は回避とのプロットが固まった。
しかし、この構想は2カ月足らずで転換を強いられる。原因は、この夏のもう一つの肝煎り案件である安全保障関連法案の審議難航だ。通常国会として戦後最長となる95日間の延長を余儀なくされ、70年談話も国会開会中に出さざるを得なくなったのだ。
国会開会中の談話発表は、安倍の選択肢を狭めた。自身の思いを反映させた談話を発表すれば、村山談話の継承を訴える公明党との「閣内不一致」と野党から追及を受ける。「今回は好きなようにやりたい」との安倍の要望を踏まえ、検討していた閣議決定をしない安倍個人の談話とする案も、国会での野党の追及をかわすため、公明党の太田昭宏国土交通相の署名が必要な政府の公式見解である閣議決定とする方針に傾いた。
それまで、安倍の口述を聞き取りながら原案作りをしていたのは内閣官房副長官補・兼原信克や首相秘書官・今井尚哉らだった。安倍は彼らを執務室に呼び、「おわびを入れた文案を作るように」と、指示せざるを得なかった。ただ同時に「この件に関してはマスコミに漏れないように」とくぎを刺すことを忘れなかった。この時点ではまだ「おわび」の言及を回避する機会をうかがっていたからだ。
そんな安倍のかすかな期待すら打ち砕いたのが内閣支持率低下だ。7月16日の安保法案衆院通過後、各社の世論調査ですべて内閣支持率が不支持を下回る逆転現象が起きた。支持率に過敏な官邸は大いに揺れた。
そして、安倍が最終的に決断を下したのは、7月下旬だった。
「今の状況では、これでいくしかない」。無念の表情を浮かべながら、兼原らに新たに作成させた「おわび」入り原案を了承した。
決断を受けて、8月5日から7日までの3日間で、自民党幹事長・谷垣禎一や総務会長・二階俊博、公明党代表の山口那津男ら政権幹部と次々と会談し、14日の閣議決定と原案了承を取り付けた。
同時に安倍を支持する保守派の政治家、論客らへのケアも怠らなかった。自ら電話をかけ、ある議員には「私が謝ったわけではないですから」と、引用を多用した談話の内容を説明し、理解を求めた。
「おわび」を受け入れた安倍が、最後にこだわったのは、謝罪を繰り返すことに「区切り」をつけることと、さらには談話を発表する「場」だった。
「区切り」については、総務相・高市早苗から差し入れられた、戦後処理で常に引き合いに出される西ドイツ大統領のワイツゼッカーの資料が役立った。彼が1985年に行った演説にあった「自らは手を下してはいない行為について自らの罪を告白することができない」との文言から着想を得て、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との一文を盛り込ませたのだ。
「場」については、国民に丁寧さをアピールしようと、国会本会議での発表を模索した。しかし、参院自民党幹部が「国会で発表すると、発言を受けて予算委開催などを求められ、安保法案審議に影響しかねない」と大反対。安倍も引き下がらざるを得なかった。
「これで良かったんだろう」
14日の会見直後、安倍は執務室に戻る途中、今井ら秘書官にそう呟いた。その日の夜、夕食を共にしていた副総裁・高村正彦にも「良かったでしょ」と会見の感想を求めた。安倍の心中をおもんばかった高村は、その時点で会見を見ていなかったが「良かった」と同意するしかなかった。
沖縄と官邸を繋いだ男
安保法案、70年談話、原発再稼働……。大きな課題が続く中、支持率低下に歯止めを掛けるため官邸が動いたのが、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題だ。
表面化したのは、8月4日午前の官房長官会見だった。安倍にこの問題を丸投げされている菅は、8月10日から9月9日までの1カ月間、全ての移設作業を中断し、沖縄県側と集中的に協議することを明らかにした。
この種の発表には珍しくメディアに事前に漏れることはなかった。背景には、半年以上に及ぶ菅と沖縄県副知事・安慶田(あげだ)光男による水面下の入念な摺り合わせがあった。
安慶田は那覇市議会議長を務めた那覇市政の重鎮。「辺野古移設反対」を掲げ自民党沖縄県連に反旗を翻し、那覇市長だった翁長雄志を県知事に担ぎ上げた立役者の1人で、翁長の知事就任とともに副知事に起用された。
菅と安慶田の2人をつないだのは、全国市議会議長会の前会長で、前横浜市議会議長(現市議)の佐藤祐文だ。佐藤は菅と同じ小此木彦三郎の秘書出身で、菅には仲人をしてもらったほどの間柄。一方、九州市議会議長会会長だった安慶田とは、議長会を通じて旧知の仲だった。
佐藤の仲介によって、1月以降、水面下も含めた菅と安慶田の会談は十数回にも及んだ。2人は同い年ということもあり意気投合したものの、当然ながらスタンスは大きく異なる。菅は「辺野古移設が唯一の解決策」との立場で、安慶田は「辺野古移設は反対」。両者の“水面下のチャンネル”として機能しても、具体的な動きが生まれるわけではなかった。
そこに手を差し伸べたのが、菅と初当選同期で沖縄県出身、維新の党の下地幹郎だ。5月下旬、訪米中の翁長にメディアが集中するのを見計らって、安慶田は密かに上京、菅と会談した。下地、外務省国際法局長の秋葉剛男、防衛事務次官の西正典も同席していた。下地が「政府は移設工事を中断、県も埋め立て承認の取り消し手続きを中断し、両者が集中的に交渉すべきだ」と提案。安慶田の感触も悪くない。決定的な対立を回避したい菅にとっては渡りに船だった。早速、秋葉に米国の理解が得られるか探るように指示した。
その後も、2人は水面下で交渉を重ね大筋合意。7月4日、東京・虎ノ門のホテルオークラの日本料理店「山里」で、菅はいよいよ翁長、安慶田と向かい合った。この日、普天間問題は話題に出なかったとされるが、当然ながら事実は異なる。
「方向性は違っても互いが険悪にならないようにしましょう」
テーブルに出された天ぷらを前に、菅は集中協議期間の設置を提案。翁長も赤ワインのグラスを置き、菅の申し出に対し前向きに返答した。
しかし、両者が同床異夢なのには変わりはない。
9月9日という集中協議の終了時期にも危うさが伴う。この時期は、参院での安保法案審議が佳境を迎え、自民党総裁選の告示が控える。当初、中断期間を3カ月にする案もあったが、沖縄県側の要望で1カ月に落ち着いた。
政治日程を考慮すれば、政府側は一方的に打ち切ったと思われないように譲歩せざるを得ず、沖縄県側が期間延長を見越してまずは「1カ月」という期間を打診したとみられる。政府と県の腹の探り合いはしばらく続く。
秋の難題は「人事」「経済」
集中協議の終了時期と重なる自民党総裁選は無風の公算が大きく、安倍の再選は確実だ。関心は、10月にも予定される内閣改造と党本部人事に移りつつある。副総理兼財務相・麻生太郎、経済財政担当相・甘利明、官房長官・菅ら主要閣僚と、幹事長・谷垣、総務会長・二階らの留任は既定路線だ。
問題になるのは、地方創生担当相・石破茂の処遇だ。石破は18日夜、東京・永田町のホテルで側近の元金融担当相・山本有二、元環境相・鴨下一郎と意見交換。この日は結論が出なかったが、石破は総裁選出馬を見送る方針。改造で閣外に去れば、一時の求心力は失っているとはいえ、ポスト安倍という立場が鮮明になる。
昨年末の衆院選を経て、“入閣適齢期”と呼ばれる衆院当選5回以上の議員は自民党で50人以上に膨れあがった。安倍の出身派閥細田派の細田博之会長も「アフター・ユー(お先にどうぞ)、アフター・レディー(女性優先)の精神は少し修正しなければいけない」と待機組の処遇を公言する。安倍が総裁再選後、人事で誤れば党内にたまる不満が噴出する。
安倍政権の最大の支えだった経済にも「黄信号」が灯り始めた。8月17日に発表された4―6月期のGDPの伸び率は、3四半期ぶりのマイナス成長。甘利は「(景気)回復の見込みはかなりある」と強気の姿勢だが、25日には中国の景気減速懸念に端を発した世界同時株安が進行、日経平均株価は終値で1万8000円を割り込んだ。
重要課題が続いた猛暑の夏を過ぎても、安倍が穏やかに過ごせる日は遠い。 
 

 

 
第3次安倍内閣(改造1)

 

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
菅義偉      
麻生太郎      
甘利明        
塩崎恭久          
高市早苗          
岸田文雄        
石原伸晃            
中谷元              
石破茂              
遠藤利明              
岩城光英                
馳浩                
森山裕                
林幹雄                
石井啓一            
丸川珠代              
高木毅                
河野太郎              
島尻安伊子                
加藤勝信            

2015年10月7日 - 2016年8月3日
内閣総理大臣 / 安倍晋三 衆議院 / 細田派
副総理 財務大臣 / 麻生太郎 衆議院 / 麻生派
総務大臣 / 高市早苗 衆議院 / 無派閥
法務大臣 / 岩城光英 参議院 / 細田派
外務大臣 / 岸田文雄 衆議院 / 岸田派
文部科学大臣 / 馳浩 衆議院 / 細田派
厚生労働大臣 / 塩崎恭久 衆議院 / 無派閥
農林水産大臣 / 森山裕 衆議院 / 石原派
経済産業大臣 / 林幹雄 衆議院 / 二階派
国土交通大臣 / 石井啓一 衆議院 / 公明党
環境大臣 / 丸川珠代 参議院 / 細田派
防衛大臣 / 中谷元 衆議院 / 谷垣グループ
内閣官房長官 / 菅義偉 衆議院 / 無派閥
復興大臣 / 高木毅 衆議院 / 細田派
国家公安委員会委員長 / 河野太郎 衆議院 / 麻生派
内閣府特命担当大臣 / 島尻安伊子 参議院 / 額賀派
内閣府特命担当大臣 / 甘利明 衆議院 / 無派閥
        石原伸晃 衆議院 / 石原派 2016年1月28日就任
内閣府特命担当大臣 / 加藤勝信 衆議院 / 額賀派
内閣府特命担当大臣 / 石破茂 衆議院 / 石破派
国務大臣 / 遠藤利明 衆議院 / 谷垣グループ 

慰安婦問題 真剣白刃取り
ミステリー・ドラマ 「甘利大臣 嵌められる」
報道指針 政治的公平性を欠かないこと
餓鬼の要職 大盤振る舞い
退屈な委員会質疑
「新しい判断」
シャンパンタワーで景気の好循環
年金消滅
 
岩城光英

 

岩城光英(1949- ) 自由民主党所属の前参議院議員(3期)。法務大臣(第97代)、内閣官房副長官(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣・福田康夫改造内閣)、国土交通大臣政務官(第1次小泉第1次改造内閣)、参議院議院運営委員長(第61代)、自由民主党参議院政策審議会長、いわき市長(2期)、福島県議会議員(2期)、いわき市議会議員(2期)等を歴任した。
福島県いわき市生まれ。会津美里町で幼少期を過ごし、町立尾岐小学校に入学したが、父の転勤のため一日だけの在校で、小野町立小野新町小学校に転校した。いわき市立小名浜第二中学校、福島県立磐城高等学校、上智大学法学部卒業。大学卒業後、サントリーに入社する。1974年、父親の死去により出身地のいわき市へ戻り、警備員等の職を経て学習塾を経営。1979年、いわき市議会議員補欠選挙に出馬するも、落選した。翌年10月のいわき市議選で初当選し、市議を2期6年務める。1986年8月、2期目の任期途中に市議を辞職し、福島県議会議員に当選。1990年に福島県議に再選されるが、中田武雄いわき市長の急病を受け、公示直前に急遽いわき市長選への出馬を表明。10月の選挙で元日本社会党衆議院議員の上坂昇を破り、当選した(当時の東北地方最年少市長)。1994年、いわき市長再選。また、全国青年市長会会長も務めた。
2期目の任期途中の1998年、いわき市長を辞職。第18回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で福島県選挙区(定数2)から出馬し、得票数2位で当選。この選挙では、自民党は現職の佐藤静雄、岩城の2人を擁立したが、野党系無所属(民主・社民・公明推薦)の佐藤雄平がトップ当選し、佐藤静雄は落選した。2002年、第1次小泉第1次改造内閣で国土交通大臣政務官に任命される。
2007年8月、第1次安倍改造内閣で内閣官房副長官に任命され、福田康夫改造内閣まで務める。
2011年10月、中曽根弘文自由民主党参議院議員会長の下で、参議院政策審議会長に起用される(〜2012年10月)。2012年より参議院議院運営委員長。2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣で法務大臣に任命され、初入閣した。法務大臣就任後、靖国神社に参拝した。
2015年12月18日、2011年に神奈川県川崎市のアパートで3人を殺害し、裁判員裁判で死刑が確定した死刑囚を含む、死刑囚2名の刑を執行した。裁判員裁判による死刑判決が確定した死刑囚は7名いるが、死刑が執行されるのは初。
2016年第24回参議院議員通常選挙において、福島選挙区より立候補するものの野党統一候補の増子輝彦に敗れ落選。 
TPP 紛争解決条項など右往左往答弁に「全く整理ができていない」  
民主党は9日の衆院予算委員会で、岩城光英法相を標的に政権追及を強めた。前日の予算委で環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の紛争解決(ISDS)条項などを問われた岩城氏が答弁で右往左往した姿を好機とみて、わざわざ予定していた質問者を差し替えた。  
最初に質問に立った緒方林太郎氏は、進出先の協定違反で損害を受けた投資家(企業)がその政府に国際機関を通じて賠償を求められるISDS条項について岩城氏をただした。8日には国際機関と日本の最高裁の判断が異なる場合、どちらが優先されるか問われ、岩城氏は逐一、官僚の説明を受けてから答弁。「答えられない」「最高裁の判断に基づく執行手続きが最終的に優先される」などと揺れた。9日の予算委では緒方氏が同様の場合に国際機関の判断は無効かを問うと、岩城氏は「どちらも有効だ。当事者が選択することも可能だ」などと答弁し、緒方氏は「全く整理ができていない」と批判した。続いて質問に立った玉木雄一郎氏は著作権侵害があった場合に、TPP協定が被害者が実際の損害額を上回る額の賠償金を受け取るなど「将来の侵害抑止を目的とした」賠償制度創設を求めているのに対し、平成9年7月の「将来の侵害を目的とする賠償金支払いは、わが国の損害賠償制度の基本原則・理念に反し無効」とする最高裁判決を持ち出し、「日本で導入できない規定に署名したのでは」と迫った。岩城氏は現行法でも抑止目的が「副次的に含まれる」として問題視しない考えを示したが、玉木氏は「副次的というのはついでに生じたということだ」と納得せず、第1委員室は一時騒然となった。 
岩城法相は答弁不能で立ち往生  
岩城光英法相が、TPPについて全く理解していないことが明らかになった。  
9日の衆院予算委員会で、外国企業と訴訟になった場合、国際機関と日本の最高裁判決のどちらが優先されるのか野党議員に問われたが、答えられず、審議が度々ストップ。岩城大臣はシドロモドロになりながら、「どちらも有効。当事者が選択することも可能だ」と答えた。竹下亘予算委員長も「答弁できますか?」と呆れ顔だった。8日の予算委でも、「国際交渉だから法務省には答えられない」「国内では最高裁判決が優先する」と意味不明の答弁を連発していた。野党にとっては格好の標的だ。 
岩城大臣の答弁の不安定さ  
TPPに関係する法務省の課題についての問いでしたが、色々な問いに対して、岩城大臣の答えは、役所の答弁をただ読み上げるだけで、到底内容を理解した上で答弁しているとは思えないもの。その証拠に、「それでは」とさらに問いを続けられるとほとんど答弁不能の状況が続きました。法務大臣の仕事というのは、日本の法制度の根幹を担う極めて重要なもの。にもかかわらず理解の乏しい答弁は極めて問題です。 
 
馳浩

 

馳浩(旧姓/川辺、1961- ) 元プロレスラー。自由民主党所属の衆議院議員(6期)。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問会議・顧問。富山県小矢部市生まれ、石川県金沢市育ち。1984年のロサンゼルスオリンピック代表を経てプロレスラーとなり、新日本プロレス・全日本プロレスなどで活躍した。1995年に参議院議員に当選し政界入りし、文部科学大臣(第20代)を務めた。2006年にプロレスラーを引退。妻はタレントの高見恭子。
1977年3月 - 金沢市立鳴和中学校卒業
1980年3月 - 星稜高等学校卒業
1984年3月 - 専修大学文学部国文学科卒業
1984年4月 - 母校、星稜高等学校の国語科(古典)教諭に就任
1984年7月 - ロサンゼルスオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイルのライトヘビー級で出場、予選敗退した。
1985年8月 - 星稜高等学校を退職、ジャパンプロレスに入団
1987年 - 新日本プロレスに移籍。在籍中にIWGPジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得する等活躍。道場では若手レスラーのコーチを務めた。
1995年7月 - 自由民主党幹事長の森喜朗にスカウトされ、第17回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から自民党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合現職の粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自民党・自由国民会議」、2か月後に正式に自民党所属国会議員となった。
1996年1月4日 - 東京ドーム大会、新日本所属でのラストマッチ(その後、7月に金沢で1夜限りの復活)
1996年11月 - 全日本プロレスに移籍する。
2000年5月12日 - 衆議院総選挙出馬の為、参議院議員を辞職する。
2000年6月25日 - 第42回衆議院議員総選挙に石川1区から立候補、民主党現職の奥田建を破り当選(奥田は比例復活)。
2002年1月 - 議院運営委員会理事(議事進行係)に就任。
2003年9月25日 - 文部科学大臣政務官に就任( - 2004年9月27日)。
2003年11月9日 - 第43回衆議院議員総選挙に立候補、奥田に敗れるも比例復活で2選。
2005年9月11日 - 第44回衆議院議員総選挙に重複立候補を行わず小選挙区のみで立候補、奥田を破り3選。
2005年11月2日 - 文部科学副大臣に就任。
2006年8月27日 - 両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。
2006年9月 - 自民党国会対策副委員長に就任。
2007年7月15日 - スタン・ハンセンPWF会長の勇退に伴い、第3代PWF会長に就任。
2007年8月 - 自民党副幹事長に就任。翌月に総裁が安倍晋三から福田康夫に交代後も留任。
2008年8月 - 自民党文部科学部会長に就任。
2008年9月10日 - 2008年自由民主党総裁選挙で小池百合子の推薦人になったことを理由に清和研の退会届を提出。しかし、小池が退会せずに立候補したことを理由に受理されず幹部預かりにとなり、後に返却された。
2009年8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙で元職・奥田に敗れるも比例復活で4選。直後の2009年自由民主党総裁選挙で西村康稔推薦人(首班指名で若林正俊支持)
2012年9月の2012年自由民主党総裁選挙で町村信孝の推薦人(決選投票で安倍支持)12月16日第46回衆議院議員総選挙に自民党公認で石川1区から立候補、奥田を破り5選。
2013年3月17日 - PWF会長勇退を表明(後任はドリー・ファンク・ジュニア)。
2013年9月22日 - WRESTLE-1石川大会実行委員長。
2014年12月14日 - 第47回衆議院議員総選挙に自民党公認で石川1区から立候補、6選。
2015年10月 - 第20代文部科学大臣就任( - 2016年8月2日)。
2016年1月現在の役職(政治関連を除く) 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問会議 顧問 / 学校法人日本体育大学 理事 / 公益財団法人 日本レスリング協会 副会長 / 一般財団法人 日本ドッジボール協会 会長 / 一般社団法人 日本キンボールスポーツ連盟 名誉会長 
 
森山裕

 

森山裕(1945- ) 自由民主党所属の衆議院議員(5期)、自由民主党鹿児島県連会長。名前の正しい表記は「しめす偏に谷」。農林水産大臣(第59代)、財務副大臣(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、財務大臣政務官(第1次小泉第1次改造内閣)、自由民主党TPP対策委員長、衆議院農林水産委員長、参議院議員(1期)、鹿児島市議会議長、鹿児島市議会議員(7期)等を歴任した。
鹿児島県鹿屋市生まれ。1965年、鹿児島県立日新高等学校(現鹿児島県立開陽高等学校)卒業。1975年4月、鹿児島市議会議員補欠選挙で初当選し、以後1998年まで7期連続で当選。1982年より鹿児島市議会議長。
1998年、第18回参議院議員通常選挙に鹿児島県選挙区(定数2)から自由民主党公認で出馬し、当選。この選挙で自民党は井上吉夫、森山の2人を鹿児島県選挙区で擁立し、9年ぶりに2議席を独占した。2002年、第1次小泉第1次改造内閣で財務大臣政務官に任命された。
2004年4月、山中貞則の死去に伴い施行された鹿児島5区の補欠選挙に参議院議員を辞職して出馬し、当選した。2005年7月5日、郵政国会において郵政民営化法案の衆議院本会議採決では造反し、反対票を投じる。このため同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属で鹿児島5区から出馬し、自民党公認の新人候補らを破り再選。
2006年11月27日、自民党に復党届を提出し、12月4日の党紀委員会で森山を含む11人の無所属議員が自民党に復党した(郵政造反組復党問題)。2007年8月29日、第1次安倍改造内閣で財務副大臣に任命され、福田康夫内閣まで務める。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、鹿児島5区で民主党の網屋信介を破り、3選(網屋も比例復活)。
2010年11月4日、TPP参加の即時撤回を求める会を結成、会長に就任(同会は2013年3月、TPP交渉における国益を守り抜く会に改称)。2012年の第46回衆議院議員総選挙で4選。選挙後、衆議院農林水産委員長に就任。
2014年9月29日、農林水産大臣に任命された西川公也に代わり、自由民主党TPP対策委員長に起用される。同年12月の第47回衆議院議員総選挙で5選。
2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣で農林水産大臣に任命され、初入閣した。 
 
林幹雄

 

林幹雄(1947- ) 自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自民党幹事長代理。父は環境庁長官や衆議院議員を務めた林大幹。国土交通副大臣(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)、衆議院国土交通委員長、国家公安委員会委員長(第78・80代)兼沖縄及び北方対策担当大臣兼防災担当大臣(福田康夫改造内閣・麻生内閣)、衆議院議院運営委員長(第77代)、経済産業大臣(第21代)兼原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当内閣府特命担当大臣を歴任した。
千葉県香取郡東庄町生まれ。千葉県立佐原高等学校、日本大学藝術学部文芸学科卒業。大学卒業後は小松川鋼機の従業員を経て父・林大幹の秘書を務める。1983年、千葉県議会議員選挙に出馬し、初当選した。県議は1993年まで3期10年務める。1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧千葉2区(定数4)から自由民主党公認で出馬し、得票数3位で当選した。以後、8期連続当選。
2003年、第1次小泉第2次改造内閣で国土交通副大臣に任命され、第2次小泉内閣まで務める。2008年、福田康夫改造内閣で国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・防災)に任命され初入閣したが、福田康夫首相は内閣改造の約1ヶ月後に退陣を表明したため、わずか54日で閣僚を退任した。2009年、麻生内閣で前年同様、国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・防災)に任命されるが、自民党は同年の第45回衆議院議員総選挙で大敗し、麻生内閣は退陣。わずか2ヶ月程度で、再び閣僚を退任した。総選挙では現職の閣僚ながら千葉10区で民主党新人の谷田川元に敗れ、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活した。
2011年、同じ近未来政治研究会に所属していた甘利明が立ち上げたさいこう日本に参加。2012年の第46回衆議院議員総選挙では千葉10区で民主党の谷田川を破り、7選。選挙後、結成以来所属していた近未来政治研究会での石原伸晃の会長就任を受けて退会し、志帥会へ移籍。二階俊博会長の下で、志帥会副会長を務める。
2014年の第47回衆議院議員総選挙では千葉10区で再び民主党の谷田川を破り、8選。2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣で経済産業大臣・内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)に任命された。2016年8月3日、大臣を退任し、自民党幹事長代理に就任。 
 
石井啓一

 

石井啓一(1958- ) 元建設官僚(1981年-1992年)。公明党所属の衆議院議員(8期)、国土交通大臣(第20代)。財務副大臣(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)、公明党政務調査会長などを歴任した。
東京都豊島区生まれ。早稲田中学校、早稲田高等学校、東京大学工学部卒業。
1981年、建設省に入省。道路局国道第二課橋梁係長、道路局路政課課長補佐を経て、1992年に退官。
1993年7月、第40回衆議院議員総選挙に旧東京5区(定数3)から公明党公認で出馬し、得票数3位で初当選した。1994年、公明党の解党に伴い公明新党を経て新進党結党に参加した。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、比例東京ブロック単独で新進党から出馬し、再選。
1997年12月の新進党解党に伴い、旧公明党出身の衆議院議員を中心に結党した新党平和に参加。同年11月、公明党の再結成に参加し、党副幹事長に起用される。
1999年6月には公明党茨城県本部代表に就任した。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では、比例東京ブロックから比例北関東ブロックに鞍替えし、3選。以後は比例北関東ブロック単独で連続当選している。
2003年、第1次小泉第2次改造内閣で財務副大臣に任命され、第2次小泉内閣まで務める。党市民活動委員長、政務調査会長代理などを経て、2010年、山口那津男代表の下で公明党政務調査会長に起用された。民主党政権下の2012年、自民党を交えた消費税増税をめぐる3党協議では、支持母体の創価学会が難色を示す中、民・自・公3党の合意形成に尽力した。
同年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣発足に伴い、太田昭宏に代わって国土交通大臣に任命され、初入閣した。国交相就任に伴い公明党政務調査会長を退任した。
2016年8月3日、第3次安倍第2次改造内閣で国土交通大臣に再任された。 
 
丸川珠代

 

丸川珠代(1971- ) 自由民主党所属の参議院議員(2期)、東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当国務大臣(第2代)。元テレビ朝日アナウンサー。厚生労働大臣政務官、参議院厚生労働委員長、環境大臣(第22代)兼原子力防災担当大臣を歴任。
兵庫県神戸市出身。神戸大学教育学部附属住吉中学校、大阪教育大学教育学部附属高等学校池田校舎、東京大学経済学部経営学科を卒業し、1993年4月にテレビ朝日に入社し同局のアナウンサーとなる。2003年(平成15年)6月から2004年(平成16年)5月までニューヨーク支局に赴任。2007年(平成19年)5月15日、テレビ朝日を退職。
2007年7月29日に行われた第21回参議院議員通常選挙の東京都選挙区(定数5名)に自由民主党から出馬し、4位で初当選。2008年(平成20年)6月16日、明治神宮にて大塚拓衆議院議員と挙式。「大塚」姓となる。また、6月20日には大塚と共に清和政策研究会に入会。2007年(平成19年)7月、自民党の党女性局長に就任。
2012年(平成24年)6月26日、第1子となる長男を出産。同年12月に厚生労働大臣政務官に就任。2013年(平成25年)7月に行われた第23回参議院議員通常選挙の東京都選挙区において、1,064,660票(有効投票数の18.9%)でトップ当選。2014年(平成26年)9月29日より、参議院厚生労働委員長を務める。
2015年(平成27年)10月7日に発足した第3次安倍第1次改造内閣で環境大臣及び原子力防災担当大臣として初入閣。2016年8月、第3次安倍第2次改造内閣で、横滑りにより国務大臣(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当)に就任。 
除染基準「根拠ない」…環境相が講演の発言陳謝  
9日の衆院予算委員会で、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う除染の実施基準に関し、丸川環境相が自身の発言を陳謝する場面があった。  
丸川氏は7日、長野県松本市で講演し、国が除染の実施基準を年間被曝量「1ミリ・シーベルト以下」としていることについて、「どれだけ下げても心配だと言う人たちが騒いだので、その時の細野環境相が何の科学的根拠もなく急に言っ(て決め)た」と述べた。  
予算委では、民主党の緒方林太郎氏が「揶揄 ( やゆ )するような言い方が被災地の気持ちを害している」と批判。丸川氏は「なぜ1ミリに決めたのか十分に説明し切れていないと(いう趣旨で)言った。誤解を与えたなら、言葉足らずだったことにはおわびしたい」と陳謝した。   
ただ、除染の枠組みを作った民主党政権は元々、国際放射線防護委員会(ICRP)の基準に沿って、年間積算線量が20ミリ・シーベルト未満なら居住可能との見解だった。徹底除染を求める地元の要望を受け、1ミリ・シーベルトとした経緯があり、政府内には「達成困難な目標が今も住民の帰還を阻み、復興を遅らせている」との声もある。  
丸川珠代環境相も“問題発言”を国会で追及され、謝罪した。問題になっているのは、丸川大臣が7日に長野県松本市で行った講演での発言。原発事故に伴う除染で国が長期目標として示している年間追加被曝線量1ミリシーベルトについて、「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」などと発言した。しかし「1ミリシーベルト」は、民主党政権が、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づき定めたもの。科学的根拠は示されている。9日の衆院予算委で追及された丸川大臣は、「もし誤解を与えるようであれば、言葉足らずであったということについてはおわびを申し上げたい」と陳謝した。 
  
高木毅

 

木毅(1956- ) 実業家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)。本名の「」はいわゆる「はしごだか」だが、JIS X 0208に収録されていない文字のため、高木 毅(たかぎ つよし)と表記されることも多い。選挙などでは高木 つよし(たかぎ つよし)との表記で活動することも多い。高木商事株式会社代表取締役、社団法人日本青年会議所北陸信越地区協議会会長、防衛庁長官政務官、衆議院議院運営委員長(第75代)、国土交通副大臣、復興大臣(第5代)などを歴任した。
福井県敦賀市生まれ。福井県立敦賀高等学校、青山学院大学法学部卒業。高木商事代表取締役、日本青年会議所北陸信越地区会長などを歴任した。1996年の第41回衆議院議員総選挙には、自由民主党公認で福井3区から出馬したが、民主党公認の辻一彦に敗れ、落選した。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では、再び福井3区から自民党公認で出馬し、前回敗れた辻を下して初当選した。2005年、第3次小泉改造内閣で防衛庁長官政務官に任命。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、福井3区で民主党公認の松宮勲を6,666票差で破り、4選(ただし、対立候補に初めて比例復活を許した)。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では、松宮らを大差で破り、5選。2013年7月、佐田玄一郎が『週刊新潮』に女性問題を報じられ議院運営委員長を辞任したのに伴い、後任が選出されるまでの間、委員長代理を務めた。2013年8月2日、佐田の辞任後空席になっていた衆議院議院運営委員長に正式に就任した。2014年9月、第2次安倍内閣で国土交通副大臣に任命される。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、衆議院の定数削減に伴う選挙区調整により、新設された福井2区から出馬し、6選。2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣で復興大臣に任命され、初入閣した。 
 
河野太郎

 

河野太郎(1963- ) 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、自由民主党行政改革推進本部長。国家公安委員会委員長(第91代)、内閣府特命担当大臣(規制改革、防災、消費者及び食品安全)、自由民主党幹事長代理、法務副大臣、衆議院決算行政監視委員長・外務委員長等を歴任した。父は、元衆議院議長の河野洋平。副総理格国務大臣を務めた河野一郎は祖父、参議院議長を務めた河野謙三は大叔父に当たる。
河野洋平の長男として生まれる。YWCA幼稚園、平塚市立花水小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校時代は、祖父、大叔父、父と同様、競走部(陸上競技部)に入り、箱根駅伝を目標にしていた。高校の同級生に公明党所属の参議院議員西田実仁がいる。
1981年(昭和56年)慶應義塾大学経済学部に入学。大学3年時で渡米し、ボストンの高校のサマースクールを経て全寮制のコネチカット州サフィールドアカデミー(Suffield Academy)で1年間過ごす。続いて1985年(昭和60年)にワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学し、比較政治学を専攻。ニューヨーク・ニックスにいたパトリック・ユーイングと同級であった。後に国務長官となるマデリーン・オルブライトのゼミに参加。次いで、ジョージタウン大学を休学し慶應義塾大学経済学部の交換留学協定校であるポーランド中央計画統計大学(現在のワルシャワ経済大学)に交換留学(レフ・ヴァウェンサ「連帯」議長宅を訪問し逮捕され、一晩留置所で過ごしたエピソードがある)。ワシントンでは政治活動にもかかわり、1983年(昭和58年)にはアメリカの大統領選挙に立候補したアラン・クランストン上院議員(カリフォルニア州選出、民主党)の選対本部の財務部門でボランティアをしたり、リチャード・シェルビー下院議員(アラバマ州選出、民主党。のち共和党)の下でインターンを務めるなどした。
1985年(昭和60年)1月にジョージタウン大学に復学し、12月にジョージタウン大学比較政治学専攻卒業。
帰国後、1986年(昭和61年)に富士ゼロックスに入社。国際事業部に配属され、サテライトオフィスの実験を担当。1991年(平成3年)富士ゼロックスアジアパシフィック設立と同時に2年間のシンガポール勤務などを経て退社。1993年(平成5年)、日本端子に転じた。自動車や電気機器の部品メーカーで開発生産や海外輸出を担当。
小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、父・洋平の選挙区が分割されたため、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に神奈川15区から自民党公認で立候補し、当選する(当選同期に菅義偉・平沢勝栄・渡辺喜美・大村秀章・河本三郎・桜田義孝・下地幹郎・下村博文・新藤義孝・棚橋泰文・田村憲久・谷畑孝・戸井田徹など)。
自民党ではしばらく無派閥、その後に麻生太郎の勧めで宮澤喜一が会長を務めていた宮澤派(宏池会)に所属していたが、1999年(平成11年)、父や麻生に従い同派を離脱し、河野グループ(大勇会)に移った。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙で再選、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で三選。2002年(平成14年)12月には、川口順子外務大臣に対し「国民に対して説明責任を果たしていない」と非難して衆議院外務委員会理事を辞任。総務大臣政務官、法務副大臣(第3次小泉改造内閣)を歴任。自民党神奈川県連会長も務めていたが、2007年(平成19年)の神奈川県知事選挙(第16回統一地方選挙)で、河野の主導で県連が擁立した杉野正が惨敗した為、同年4月22日に引責辞任した。 また、法政大学大学院にて客員教授を務めている。
韓国の元ハンナラ党議員で駐神戸総領事の李成権をかつて秘書としていた。
2008年(平成20年)9月、衆議院外務委員長に就任。2009年(平成21年)9月、自由民主党総裁選挙へ出馬したが、谷垣禎一に敗れた。11月11日、新世代保守を確立する会を設立。2010年(平成22年)4月5日、自民党は離党した前幹事長代理園田博之の後任に河野を充てることを臨時役員会で決定し、翌4月6日に正式就任した。
2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣において、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(規制改革、防災、消費者及び食品安全)として初入閣。2016年8月3日、内閣改造に伴い退任した。
2016年、第29回日本メガネベストドレッサー賞・政治部門を受賞。 
 
島尻安伊子

 

島尻安伊子(1965- ) 内閣府大臣補佐官。自由民主党所属の前参議院議員(2期)。内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官(第2次安倍内閣)や、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、科学技術政策、宇宙政策)(第3次安倍第1次改造内閣)を歴任した。
宮城県仙台市生まれ。聖ウルスラ学院高等学校、上智大学文学部新聞学科卒業。高校在学中、アメリカ合衆国カリフォルニア州ハンティングトンビーチハイスクールに留学。上智大卒業後、シアーソン・リーマン証券日本法人(現リーマン・ブラザーズ)に入社。
2004年、那覇市議会議員補欠選挙に出馬し、初当選。那覇市議会では民主党系会派の「アイ・ラブ沖縄!かがやく県民の会」に所属し、2期務める。2007年、那覇市議を2期目の任期途中で辞職。沖縄県選挙区選出の参議院議員・糸数慶子の沖縄県知事選挙出馬に伴う補欠選挙に、民主党を離党して「アイ・ラブ沖縄!かがやく県民の会」公認(自由民主党・公明党推薦)で出馬し当選。当選後に自民党に入党し、平成研究会に所属。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、野党は在日米軍海兵隊の普天間基地(宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対しており、自民党は辺野古への移設を推進する立場を取っていたが、民主・社民・国民新・共産などの野党は県外、国外移設を主張。結果、沖縄県の全小選挙区で県外、国外移設を主張する野党系候補が当選し、県内移設に賛成する与党系候補は全員落選した。島尻はこの時点では県内移設を容認しており、総選挙後しばらくは沖縄県選出の国会議員で唯一の県内移設容認派であった。(第22回参議院議員通常選挙では県外移設を主張し、2013年に撤回した。)
2010年6月の第22回参議院議員通常選挙では、選挙対策本部長に沖縄県知事の仲井眞弘多を据え、沖縄県選挙区から自民党公認で出馬し、再選。選挙戦では、普天間基地の県内移設反対へ転換した自民党沖縄県連の方針に沿って県外移設を主張した。また、消費税増税について、所属政党の公約であるにもかかわらず、反対した。なおこの参院選に際し、同年4月に結党したたちあがれ日本から推薦の打診を受けたものの断っている。
2012年12月、第2次安倍内閣で内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官に任命された。2013年2月、島根県主催の「竹島の日」記念式典に出席した(この式典に政府関係者が出席するのは初めて) 。
2015年10月、沖縄北方担当大臣に任命された。
2016年7月10日の第24回参議院議員通常選挙で落選したが、沖縄北方担当大臣は続投となる。
2016年8月、鶴保庸介大臣の下、大臣補佐官に就任した。主に子供の貧困対策や沖縄振興などを担当する。 
歯舞「えー、何だっけ」会見で読めずに…  
島尻安伊子沖縄・北方担当相は9日、閣議後の記者会見で、北方四島の一つである歯舞(はぼまい)群島について発言する際に「歯舞」を読めず、言葉に詰まる場面があった。島尻氏は昨年11月、北海道根室市を訪れて対岸の歯舞群島などを視察している。  
島尻氏は会見の冒頭、北方領土の元島民らでつくる「千島歯舞諸島居住者連盟」が取り組む「北方領土ネット検定」の活動を資料を見ながら紹介。団体名に言及する際に「はぼ、えー、何だっけ」と一瞬考え込み、秘書官に「はぼまい」と助け舟を出され発言を続けた。記者から「検定の初級編を受けた点数は」と聞かれると、島尻氏は「恥ずかしくて言えない」と言葉を濁した。  
政府関係者は「資料は『歯』と『舞』の間で行が変わっていて、読みにくかった」とフォローした。
沖縄県選出参院議員の島尻氏は昨年10月の閣僚就任以降、沖縄県への公務は計9回もある一方で、北方領土関連の出張は1回しかない。
「私も全く同感」官房長官「オール沖縄」批判に  
島尻安伊子沖縄・北方担当相は26日の記者会見で、米軍普天間飛行場がある沖縄県宜野湾市の市長選に関連し、菅義偉官房長官が翁長雄志(おなが・たけし)知事の掲げる「オール沖縄」を批判したことについて「政治的なことを進めるにあたって、私もまったく同感だ」と述べた。島尻氏は自民、公明両党が推薦した現職の佐喜真淳氏の勝因を「一日も早い基地の撤去に対する信任だった」と指摘。佐喜真氏陣営が選挙戦で普天間飛行場の名護市辺野古への移設に言及しなかったことに関しては「移設先は相手のある話だ。佐喜真氏は宜野湾市長としての主張をした」と述べた。 
 
加藤勝信

 

加藤勝信(1955- ) 大蔵官僚。旧姓・室崎(むろさき)。自由民主党所属の衆議院議員(5期)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当、男女共同参画担当)及び一億総活躍担当、働き方改革担当、女性活躍担当、再チャレンジ担当、拉致問題担当。自由民主党岡山県連会長。内閣府大臣政務官(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、自由民主党総裁特別補佐、川崎医療福祉大学客員教授、内閣官房副長官(第2次安倍内閣)、内閣人事局長を歴任。
岡山県倉敷市に生まれ、東京都杉並区で育つ。父・室崎勝聰は日野自動車工業社員(のち取締役副社長)。東京都立大泉高等学校、東京大学経済学部を卒業、1979年に大蔵省入省。倉吉税務署署長、主計局主査(労働予算担当)、主計局主査(防衛予算担当)等、本省勤務の他郵政省、内閣官房、農林水産省への出向も経験。農水大臣だった加藤六月の娘に婿入りし加藤に改姓。1995年、大蔵省大臣官房企画官を最後に退官。退官後は六月の秘書を務める。
1998年、第18回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区(定数2)から無所属で出馬したが、得票数4位で落選(岡山県選挙区からは江田五月、妻の従兄弟にあたる加藤紀文が選出)。2000年の第42回衆議院議員総選挙に自由民主党から比例中国ブロック単独7位で出馬したが、再び落選。なおこの時、当初は義父・加藤六月の地盤であった岡山5区から民主党の公認を受けての出馬を模索していたが、直前で岡山県選出の橋本龍太郎元首相の誘いを受け、自民党に鞍替えした(岡山4区で橋本のライバルだった義父・加藤六月は出馬せず、引退)。その後、川崎医療福祉大学客員教授に就任。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例中国ブロック単独3位で自民党から出馬し、初当選。当選後は橋本龍太郎が会長を務める平成研究会に入会する。2005年の第44回衆議院議員総選挙では再度岡山5区からの出馬を党本部に強く希望したものの、党本部は村田吉隆を公認。加藤に対しては郵政民営化法案に反対した平沼赳夫の選出選挙区である岡山3区からの出馬を要請したが、加藤ははこれを拒否し、無所属での出馬を表明した。しかし、共倒れを危惧した党本部が仲裁に入り、コスタリカ方式による出馬で決着させて保守分裂選挙を回避し、村田、加藤のいずれも当選した。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府大臣政務官に任命され、福田康夫内閣でも再任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、前職の村田吉隆が引退を表明したため、岡山5区から出馬し、民主党新人の花咲宏基を下し3選(花咲も比例復活)。2012年9月の自由民主党総裁選挙では安倍晋三の推薦人に名を連ね、総裁に選出された安倍の下で総裁特別補佐及び自民党報道局長に就任。同年12月に発足した第2次安倍内閣で額賀派所属ながら内閣官房副長官に起用された。2014年5月、内閣人事局発足に伴い初代内閣人事局長に任命された。
2015年(平成27年)10月7日に発足した第3次安倍第1次改造内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策担当、男女共同参画担当)及び一億総活躍担当、女性活躍担当、再チャレンジ担当、拉致問題担当、国土強靱化担当として初入閣。
2016年(平成28年)第3次安倍第2次改造内閣で働き方改革担当に就任。  
 
諸話

 

融解寸前、民主を揺らす小沢一郎 2015/12
 園遊会の立ち話で解党論議。「らしさ」の抜けない野党第一党の迷走は続く
全国の注目を集めた大阪ダブル選挙は、2015年11月22日に投開票を迎え、府知事選は現職の松井一郎、大阪市長選は新人の吉村洋文が当選した。どちらも地域政党「大阪維新の会」が推す候補。NHKはじめ報道機関が、投票が締め切られた午後8時、一斉に2人の当選確実を伝える圧勝で、前任の市長となる橋下徹の政治的影響力が健在であることをまざまざと見せつけた。
自民党は、市長選で勝ち「一勝一敗」の五分に持ち込みたかったが2敗に終わった。同時に行われた大阪市議補選(西成区)も負けているので、厳密にいえば3連敗となる。
だが、党全体がダメージを受けているようには見えない。橋下率いる国政政党「おおさか維新の会」は早晩、安倍政権と共同歩調をとると噂されている。松井が官房長官・菅義偉と昵懇の仲であることも周知の事実だ。安倍政権にしてみれば、この選挙は勝っても負けても痛くない選挙。言い換えれば自民一強の時代を象徴する1日だったともいえる。
主要20カ国・地域(G20)首脳会議出席のためトルコ・イスタンブールを訪れていた首相・安倍晋三に悲劇の一報が届いたのは現地時間13日の夜だった。
「フランス・パリで同時多発テロ発生。死傷者多数」
どういうわけか安倍は、外遊中に大きな出来事が起きる。1月の「イスラム国」がジャーナリスト・後藤健二らの拘束を公表した時、安倍は中東訪問中。2013年1月、アルジェリアの人質拘束事件の時は東南アジア歴訪中だった。古くは安倍の首相としての初外遊となった06年10月には、北朝鮮の核実験の知らせを北京からソウルに飛ぶ専用機の中で聞いた。
「慣れている」からというわけではないのだろうが、安倍は留守を預かる菅に電話で「テロ対策に緊張感を持って当たるように」と指示。翌朝に自ら「断固テロを非難する」とメッセージを発した以降は、粛々と外交日程をこなした。17日昼にいったん帰国すると、その20時間後、翌朝にはアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が行われるマニラに。そして20日からはマレーシアに飛び、22日の東アジアサミット(EAS)などの国際会議に臨んだ。
一連の会議の中で安倍はEASを最重視していた。米大統領・オバマやアジア諸国首脳と連携し、中国が南シナ海で人工島を造成する動きに強い警告を発し、包囲網を敷こうという考えでいたのだ。
EASが開会する直前のわずかな時間に、日中両国は神経戦を繰り広げている。安倍が、フィリピン大統領・アキノと談笑していると中国首相・李克強が近寄り、随行の日本語通訳を介して「ソウルで行われた日中韓首脳会談は良かったですね」などと話し掛けてきた。安倍は、李克強の話に同調しながらも「南シナ海の問題をEASで取り上げないように牽制してきたな」と感じた。安倍の方は逆に李克強が、日本の歴史認識問題を取り上げるかどうか、気にしていた。
EAS会合は、発言を希望する首脳がボタンを押し、それに沿って議長に指名されるというルールだった。アジア各国の首脳が相次いで中国を批判する発言をしたが、安倍はなかなかボタンを押さなかった。李克強は安倍の発言を見極めてから発言をしようと考えていたのかもしれないが、しびれを切らしたようにボタンを押し、先に発言。歴史認識などで日本を非難することはなかった。それを見届けて、最後に安倍が「大規模かつ急速な埋め立てや拠点構築、軍事目的での利用の動きが今なお継続している。深刻に懸念する」と訴えた。
中国からの日本批判を封印させ、中国包囲網を敷くことに成功したことになる。「待ち」の戦術が当たり、安倍は会議後の随行団との懇談会でもいつになく上機嫌だった。
2つの「TPP」
安倍が1カ月の半分、日本を空ける外交重視シフトを敷いた11月。国内では憲政史上珍しい事態が起きていた。臨時国会が開かれなかったのだ。
憲法53条には「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とある。それに従い野党は召集を求めたが要求は封殺された。
安倍の外交日程が立て込んでいたことや、通常国会が95日間も会期延長されたことで秋以降の政治日程が窮屈になったという事情もあった。ただ最大の理由は「できれば開きたくない」と政府・与党が考えていたからだった。
10月から11月にかけて永田町では「2つのTPP」の嵐が吹いていた。一つは言うまでもなく大筋合意した環太平洋経済連携協定。安倍政権は「画期的な合意」と胸を張るが、農家、酪農家などの反発は強い。12年の衆院選で自民党がTPP反対を訴えていたこととの整合性も問われている。
もう一つのTPPは、与党国対などの間で、暗号のように使われている言葉、「タカギ・パンツ・プロブレム」だ。復興相・高木毅が約30年前、地元・敦賀市で女性宅に侵入し下着を盗んだとされる問題は、週刊誌報道で火がつき騒動となった。「大臣が下着泥棒」という前代未聞の疑惑は、かねて「脇が甘く、閣僚は任せられない」とささやかれていた高木を起用した安倍の任命責任が問われかねない。
「2つのTPP」以外にも、政権側は多くの難問を抱える。
9月に成立した安保関連法は、今も国民の過半数が反対する。消費税が10%に上がる時に導入する軽減税率を巡っては与党内の自民、公明両党の間でせめぎ合いが続く。国会が開かれれば野党側は、与党内の足並みの乱れを追及してくるだろう。一連の難問を追及されるのを回避したい。これが政府・与党の本音だ。
憲法に従い、召集すべきだという動きは政権内にもあることはあった。衆院議長・大島理森は、12月初旬に10日程度だけ臨時国会を開くという案を首相官邸側に打診している。だが回答は「ノー」だった。
臨時国会を開かないことが決まったのは11月12日。安倍と自民党幹事長・谷垣禎一の会談だった。だが、会談後記者対応した谷垣は、その事実を明かさなかった。「召集せず」は16日に安倍がトルコで行う同行記者団との懇談で明かすことになっていたのだ。こんな回りくどい手法をとることからも、政権内で安倍の存在が突出していることがうかがえる。
臨時国会が開かれなかったのは野党側にも問題がある。
10、11の両日には衆参で1日ずつ予算委員会が、閉会中審査という形で開かれたが、ここで野党が政権を追い詰めれば「本格論戦が必要だ」と世論も高まっていただろう。しかし野党側はそれができなかった。特に代表・岡田克也、元外相・前原誠司らエース級をそろえて臨んだ民主党の低調さは顕著だった。この時、民主党は分裂含みの内紛で揺れ、安倍政権を追及する態勢はとれていなかったのだ。
「左に振れすぎた」
11日。つまり岡田と前原が国会で質問した翌日の夜。東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京には前原、政調会長の細野豪志、そして結いの党の前代表で今は維新の党の江田憲司の姿があった。3人は、民主党を解党し、ゼロベースで維新の党などと野党結集を図るべきだという考えで一致した。
「一度裸になって、一つの理念に沿って再結集すべきだ」
議論をリードしたのは江田だった。この夜の会合で前原と細野は記者を避けるように地下から会場に入り、帰りも地下から出ようとした。ところが江田が「カメラの前を通って帰りましょう」と促したため、結局、民主党の2人はマスコミの前を通って細野の車でホテルを後にし、それが報じられて話が大きくなった。
翌12日午後、前原は東京・元赤坂の赤坂御苑で行われた園遊会の席で顔を合わせた岡田に、前夜の会合の経緯を伝え、決断を迫った。が、岡田は「単なる看板の掛け替えではダメだ」と難色を示した。これほどの重大な案件を皇室行事の合間の立ち話でするというのも、いかにも民主党らしいが、結果として話し合いは平行線に終わり、党分裂か、との緊張感が走った。
それにしても、安保法案の審議の過程では、反対の世論を背に攻勢に立っていたように見えた民主党が、なぜ内紛に直面しているのか。これについては、自民党の会合で谷垣が口にした「先の国会でわれわれも傷ついた。そして、左に振れすぎた民主党も傷ついた」という解説が正鵠を得ている。
民主党の中には、安倍の外交・安保政策に一定の理解を示す議員が少なからずいる。その代表格が前原であり、細野である。彼らは先の国会で岡田執行部がとった「安保法案絶対反対」の抵抗野党ぶりに失望した。
亀裂をさらに深めたのが共産党との連携問題。「国民連合政府」構想を掲げる共産党委員長・志位和夫のラブコールに岡田が前向きと見えたことに、前原らは強い危機感を持った。その彼らが民主党解党を訴えた。民主党内では野党結集を図るべきだという点では一致しているが、岡田ら執行部は共産党も排除せず左側から進めようとし、前原らは「センターライト」に戻した結集を目指す。この路線対立が今回の解党騒動の本質だ。
今度こそ最後?
野党再編問題を複雑にしているもう一つの要因が「生活の党と山本太郎となかまたち」の共同代表・小沢一郎の存在だ。民主党の歴史の中で「親小沢」か「反小沢」かは永遠のテーマである。岡田、前原、前首相の野田佳彦、幹事長の枝野幸男ら、かつて「七奉行」と言われた幹部は反小沢を結集軸にしていた。岡田、枝野ら執行部は今も小沢との連携には慎重だ。
一方、前原は親小沢側に転向している。05年9月の衆院選で民主党が惨敗を喫した時、小沢は前原の後見人である稲盛和夫を介して「君を代表に推すから、党務は任せてほしい」と「前原代表・小沢幹事長」を打診してきたことがある。前原はこれを断り、以来2人は疎遠になっていた。だが前原と小沢は12年に政権転落して以降、2人だけで3回食事を共にしている。過去の恩讐は薄れ「今なら一緒にできる」と言ってはばからない。今は細野も、小沢と組むことに違和感がない。
その小沢は、2016年の参院選を「最後の戦い」と位置付け、野党結集の旗振り役を演じようとしている。ここ10年あまり小沢は選挙や政局の度に「最後」を乱発しているが、73歳という年齢からしても、今度こそ本当に「最後」となるだろう。
最近小沢は、かつて民主党で同じ釜の飯を食いながら今は別々の道を歩んでいる議員のパーティーを精力的に回る。かつての「壊し屋」がつなぎ役を果たそうとしている。批判も根強いが、過去自民党が下野した2回の政局で、小沢はいずれも主役だった。
民主党の岡田執行部と前原らの確執は、双方トーンダウンして、年内の分裂は回避したようだ。当面は民主党と維新の党の統一会派を目指す。ただ共産党と小沢を縦軸、横軸に置いた再編のグラフを作れば、党内の意見はあまりにもバラバラで、一本化が難しいのは明らかだ。
近い将来、再び激しい対立が表面化する可能性は十分にある。そして、その展開は、安倍にとってありがたいシナリオなのだ。 
安倍の解散戦略を狂わすWパンチ 2016/2
 株安に甘利スキャンダル。波乱の始動となった1年をどう乗り切るのか
「閣僚のポストは重い。しかし、政治家として自分を律することはもっと重い。何ら国民に恥じることをしていなくても、私の監督下にある事務所が招いた国民の政治不信を、秘書のせいと責任転嫁するようなことはできない。それは私の政治家としての美学、生きざまに反する」
1月28日夕刻、首相官邸近くにある内閣府一階の会見室。1週間前に発売された週刊文春が報じた金銭授受疑惑について記者会見する経済再生担当相・甘利明は時折、声を詰まらせながら閣僚を辞任する理由を語った。
安倍晋三首相にとって、甘利のスキャンダルは、年初からの急激な株価下落に続く予期せぬ事態となった。
「甘利さんはどう言っているんですか?」
甘利の記事が掲載されるとの一報を聞いた安倍は、困惑した表情で甘利に確認するよう指示したという。
閣僚の「政治とカネ」の問題は内閣支持率に影響しやすい。第一次安倍内閣も、閣僚の「政治とカネ」が失速の始まりだった。安倍の脳裏には、その記憶がよぎったのだろう。
甘利は、安倍が初めて自民党総裁の座を射止めた2006年総裁選でいち早く安倍支持を打ち出し、第一次安倍内閣では経済産業相に就任。安倍が再起をかけた2012年の総裁選では選対本部長を務め、政権復帰するまでは政調会長として野党党首の安倍を支えた盟友である。第二次内閣では担当相としてTPP締結交渉に尽力するなどアベノミクスの立役者でもある。
雑誌が発売になる直前、甘利は安倍にこう伝えていた。
「迷惑をお掛けするので、お任せします」。事実上の進退伺いとも言える内容だった。しかし安倍は「事実関係をしっかりと調べて、説明できれば大丈夫です」と慰留した。
雑誌が発売になった21日、安倍は、東京・大手町の読売新聞東京本社ビルで、同グループ本社会長の渡辺恒雄、産経新聞相談役の清原武彦らと会食。その席上、出席者から「政権維持のために甘利を辞めさせた方がいい」と助言されても、安倍は頷いただけで答えなかったという。そして「ただ答弁できる人はいても、TPP交渉の場にいた人が答弁するのとは迫力が違う」と、甘利を改めて評価した。
しかし、程なくして甘利から安倍サイドに、金銭の授受に関しては事実であること、甘利自身が直接受け取った分については政治資金収支報告書に記載していることが伝えられた。一方、その後の週末を費やした調査で、秘書が受け取った500万円のうち300万円を使ってしまっていた上、フィリピンパブなどで度重なる接待を受けていたことも確認された。
週が明けた25日、甘利は官房長官の菅義偉に自身の金銭授受は問題ないが、秘書の問題で閣僚辞任は避けられないとの意向を電話で伝えた。甘利が続投を断念した瞬間だった。甘利を擁護し続けてきた安倍も方針を転換せざるを得ない状況となった。
辞任会見の直前、甘利は安倍に電話を入れて改めて辞意を伝えた。
「国会の状況もあり、監督責任もある。最後は自分で決めさせて下さい」
「残念ですが、あなたの意思を尊重します」
ただ、閣僚は辞任するにしても政治資金規正法違反などで立件され、議員も辞職せざるをえなくなる事態は避けなければならなかった。それは甘利にとっても、安倍にとっても最悪のケースである。
「あの建設会社の総務担当者はその筋の人らしいね」。菅は番記者たちにこうささやいた。一連の疑惑が「罠」であるというわけだ。メディアやネット上にも、総務担当者や建設会社を問題視する情報が流れ始めた。
甘利も辞任会見で、建設会社社長からさらに口利きをしてもらえるならば総務担当者を説き伏せて疑惑を否定するという口裏合わせを持ちかけられたことを明らかにした。安倍サイドによる「ささやかな反撃」だった。しかし、「政治とカネ」の問題による盟友の閣僚辞任という事実には変わりはなかった。
死活問題だった宜野湾市長選
そんな状況の中、1月24日の沖縄・宜野湾市長選を制したことは、安倍にとって数少ない朗報だった。
「この勝利は大きい」。市長選の直後、安倍は自民党幹部にそう率直に語ったほどだ。衆院選とのダブル選も取りざたされる7月の参院選、4月の衆院北海道5区補選の前哨戦である以上に、この選挙は辺野古移設の進捗にとって、死活的な意味を持っていた。
現状行われている辺野古沿岸部を埋め立てる工事は準備段階に過ぎない。重要な節目は、後戻りできない大規模な工事となるコンクリートブロックを投下して土砂を流し込む「海中埋め立て」だ。政府は、宜野湾市長選に勝利したことで、その結果を追い風に、海中埋め立て作業の着手を目論む。いったん埋め立てに入ってしまえば、辺野古移設は既成事実化し、反対論もやがて収束していくとの皮算用だ。
安倍と菅は昨年秋から防衛省に「できるだけ早く埋め立てに着手してほしい」と指示していた。
幻の秘策も練られていた。昨年12月4日、日米両政府は宜野湾市の米軍普天間飛行場(約481ヘクタール)の約4ヘクタールを含む計7ヘクタールの米軍用地を2017年度中に先行返還する合意文書を発表した。実は、この発表と同時期に「コンクリートブロック投下」を始める案も防衛省で検討されていた。いわば「アメとムチ」作戦だ。
安倍も菅も一時はその案に傾いたとされるが、ブロックを投下する作業に着手する前段階までに知事との調整が必要な複雑な法的手続きがあることが次第に分かってきた。法務省など政府内の一部から「沖縄県につけいる隙を与えてはいけない」と異論が高まり、秘策は封印された。
沖縄は6月に県議選を迎える。さらに7月の参院選もある。早期埋め立てに踏み切るタイミングは難しい。かといって、様子見をすれば米国からの圧力もさらに強まる。
1996年の普天間返還の移設合意から20年。米政府高官から昨年暮れ「いつ埋め立て作業に入るのか?」と問い詰められた日本側は、「宜野湾市長選まで待ってほしい」と釈明せざるを得なかった。
米高官が急かすのには理由がある。米国も一枚岩ではないのだ。米海兵隊の内部では辺野古移設への反対論が根強い。移設となれば新たな飛行場は規模が縮小され、連動する米軍再編でグアムの施設整備など米側にも巨額の負担が生れる。米高官は「11月の大統領選まで移設工事が加速しなければ、米国内で再び辺野古移設への反対論が噴出しかねない」と漏らす。日本側が埋め立てに手をこまねいていれば、新大統領の姿勢と連動して米国が辺野古移設に及び腰になりかねないのだ。
宜野湾市長選の勝利は事態の「前進」を担保したというより、「後退」を防いだにすぎない。沖縄をめぐって安倍の苦悩は続く。
“中抜き”にされる自公両党
衆参ダブル選が本当にあるのか。
この動向を見定めるには、軽減税率論議と同様に、官邸と公明党、より直截に言えば支持母体の創価学会との関係を見定める必要がある。
昨年12月28日夜、菅が財務省事務次官・田中一穂ら財務省首脳を招いて慰労会を開いた。
「長官、今年はいろいろお手数おかけしました」。田中らは、菅が推し進めた食品などの軽減税率導入に抵抗したことを釈明した。財務省としては、2015年10月に予定されていた消費税引き上げの先送りに続く、官邸に対する“敗北”だった。
「香川さんが生きていたらここまで混乱しなかった」。財務省幹部は、学会との意思疎通ができなかった軽減税率騒動について、こう振り返る。「香川さん」とは、昨年8月に亡くなった前事務次官・香川俊介。香川は、東大同窓で年齢も近い創価学会の主任副会長(事務総長)・谷川佳樹と関係が深く、谷川を通じて会長の原田稔ら首脳部とのパイプを持っていたからだ。谷川は昨年11月の学会内の「政変」で、「ポスト池田」時代の学会を率いていく次期会長の座を確実にしている。財務省は香川のパイプが太かったため、代わりうる人脈を築いていなかった。軽減税率騒動の前後、財務省は学会の真意を知ることなく、やはり情報過疎の自民党幹事長の谷垣禎一らを頼みに戦略を組み立てた挙げ句、一敗地に塗れた。
一方の菅は、軽減税率論議を通じ、学会とのパイプを一層強くしていた。
菅は、副会長(広宣局長)・佐藤浩を通じて、政権与党で唯一、谷川の正確な意向を受け取っていた。自民党税調の幹部は「党税調が長かった伊吹文明さんら重鎮も、それぞれのルートで学会の八尋頼雄副会長らに連絡をとったが役に立たなかった」と明かす。いまは究極の形ともいえる「菅-佐藤・谷川」ラインが生まれているのだ。
菅は、次期会長とされる谷川と元々パイプを持っていた。菅が長年自民党神奈川県連の会長を務める一方、谷川は公明側の神奈川県の選挙責任者を務めていたからだ。自公の選挙協力に向けた協議を重ねて親密になった。
自公連立である安倍政権の内実は、いまや自民党も公明党も“中抜き”にした「官邸-創価学会」という剥き出しの関係になっている。ダブル選の判断も、当然このラインの判断となる。
自民党幹部の間には、菅が党内の反対を押し切って軽減税率を1兆円規模にしたことから「学会から『同日選に反対しない』との約束を取り付けた」との観測が広がっている。
これに対して、創価学会の中枢幹部は「最終的には拒めないにせよ、解散には最後まで反対する」と語る。
学会は、選挙の半年近く前から地方議員を動かし、候補者の名前を組織内に徐々に浸透させる。ダブル選となれば、長期スケジュールが崩れる。またダブル選では、一度に最多で3人の名前と、別に政党名を書く必要がある。高齢の支持者に名前を覚え込ませるのも、学会員以外に公明候補への投票を呼び掛けるのも、難易度が高い。
衆院で小選挙区比例代表並立制が施行されてから、ダブル選は実施されていない。「ダブル選は投票率が上がって自民党に有利」と言われたのは、30年も前の中曽根内閣までの話だ。そもそも、本来は電撃的に行ってこそ意味のあるダブル選が、永田町ではもはや当然のことのように語られ、サプライズではなくなっている。
そんな状況下で与野党の一部でささやかれているのが「4月解散-5月投開票」という奇策。伊勢志摩サミット直前に解散はないと思われている虚を突くという見立てだ。
衆院選の時期は、消費税率の10%への引き上げに踏み切れるか否かにも影響する。
安倍は「経済情勢がよほど好転しない限り、引き上げは容易ではない」と周辺に本音を漏らしたとされる。財務省では安倍が再び先送りを決断する展開を強く警戒する。軽減税率問題では財務省と一体だった自民党税調幹部ですら「1年の先送りなら仕方がない」との意見を出し始めている。食品業界だけでなく、半年前から消費税率引き上げへの対応時期が訪れる住宅業界などで、準備が遅れているのがその理由だ。再度先送りするには、その前に再び衆院を解散して先送りを国民に訴えるしかない。となれば事実上、前倒し解散か、ダブル選しか選択肢はない。
全ては、新年早々に株価とスキャンダルに翻弄される安倍の判断にかかっている。 
解散の地ならしをする「安倍主導」政局 2016/3
 衆院定数削減に補選対策。決断に向けて、総理自ら党の先を走りはじめた
経済状況が激変し、スキャンダルが次々に勃発する中、政局の底流では衆参ダブル選挙も視野に、年内衆院解散・総選挙に向けた動きが進んでいた。首相・安倍晋三の戦略、そして野党の対抗策が、2月になっていよいよ姿を現し始めた。
「今度(2015年)の簡易国勢調査で区割りを改定する際、衆院定数の10削減をしっかり盛り込んでいきたい」
2月19日、国会3階にある衆院第一委員室で開かれた予算委員会。安倍は、民主党の前首相・野田佳彦から「約束を覚えていますか」と問いかけられたのに対し、堂々と言い切った。
2012年11月、まだ政権を担当していた野田は、安倍との党首討論で、衆院解散の条件として定数削減を「約束」することを挙げていた。それから3年以上が経っても約束は実現していない。その追及を狙った、異例となる首相経験者の登板だった。
しかし安倍は一枚、上手を行っていた。野田が質問に立つと知った首相官邸サイドは論戦前日の18日、翌日に質問する自民党の前厚生労働相・田村憲久に「定数削減について質問してほしい」と要請。19日午前、安倍は田村に答える形で、定数削減を前倒しして実施する姿勢を示した。冒頭のやりとりは、田村への答弁を補足したに過ぎなくなり、野田の見せ場は消えた。
そもそも定数削減問題は、安倍が党の先を走ってきた。
「1票の格差」をめぐる訴訟で「違憲状態」とする判断が続いていたが、自民党執行部は「2020年以降に先送り」案を考えていた。
「国会答弁で立っていられなくなる。今まで言ってきたことと齟齬(そご)を来してしまう」。2月8日、国会内の大臣室で安倍は、幹事長・谷垣禎一や選挙制度改革の取りまとめ役である幹事長代行・細田博之らを前に、定数削減に関する党の方針は手ぬるい、と叱責している。国会答弁は強気一辺倒で野党を蹴散らす安倍の「立っていられない」発言。出席者の中の1人は「なぜこの問題では、そこまでこだわるのか」と違和感を感じたほどだった。さらに、安倍は2月9日、谷垣に「先送りはダメだ」と強く指示、「2020年の大規模国勢調査に合わせて実施」が自民党原案となった。
それから、たった10日で「5年前倒し」となり、「今国会実現」にまで進むことになる。2月20日土曜日、安倍は、ニッポン放送のラジオ番組に出演。長年の知り合いで、第一次内閣で退陣、失意のころも大阪で付き合った辛坊治郎が司会とあってか、安倍は「責任を果たすため、『今国会で』定数10減などをやりたい」と、6月1日が会期末となる通常国会での法改正にまで踏み込んだ。
ここで「今国会で」とまで、法改正の時期をはっきりさせた意図は明白だ。夏の参院選に合わせたダブル選挙も含め、早期に衆院解散の環境を整えることだ。実際の選挙で定数を削減するのは来年以降になるとしても、メドさえつけておけば、選挙時に「違憲状態」を放置しているという世論の批判はおさまるという見立てだ。
定数削減を巡る一連の事態では谷垣ら党側だけでなく、官房長官・菅義偉のカゲも薄い。第二次安倍政権が発足以来、政局を動かす問題では必ずといっていいほど菅の姿がみえた。それが今回、見えないのはなぜか。
「俺がいなくなると菅ちゃんの力が強く大きくなり過ぎる。それが心配だ」
政治とカネの問題で1月末に辞任した前経済再生担当相・甘利明が漏らした言葉だ。
菅は軽減税率の導入劇では副総理兼財務相・麻生太郎と対立し、麻生が「菅は規(のり)をこえた」と不快感を隠さなかったのは記憶に新しい。第二次内閣が発足してからずっと安倍、麻生、菅、自民党と霞が関の調整役、緩衝材を務めてきた甘利の言葉は本音であり、重い。
解散権の制約を解く定数削減問題は、これまでの安倍、菅が一体となった首相官邸主導というより「安倍主導」の色彩が濃い。政権中枢のパワーバランスに異変が生じていないか、永田町と霞が関は息を凝らして見つめる。
安倍・黒田・財務省の一体感
市場環境の悪化で消費税を予定通り10%に引き上げるのかどうかも、議論になってきた。それでも、財務省幹部は、10%増税が延期になった一昨年当時よりも、「今の方が、はるかに予定通りに実施できる手ごたえがある」と楽観的な見通しを示す。
安倍の周辺は「総理は人から引き継いだ政策と、自分が決めた課題は分けて考える」と明かす。
消費税を5%から2段階で引き上げる法律は民主党政権で成立し、自民党総裁は谷垣だった。だからこそ8%から10%への引き上げを延期することに躊躇(ためら)いはなかった。
だが2017年4月からの10%への増税は、一昨年に衆院を解散してまで自らが決めたものだったから、こだわらざるをえないのだ。
そのサインも散見される。先のラジオ出演の機会に、安倍は「基本的に日本の実体経済は堅調だ。リーマン・ショックの時は実体経済そのものに大きな影響があった。現段階ではリーマン・ショック級とはまったく考えていない」と述べた。
2016年は年明けからみるみるうちに円高・株安が進行して原油安も止まらず、世界規模で市場は変調を来している。それでも、消費増税を見送る条件として定めた2008年の「リーマン・ショック級」ではない、というのだ。
この経済状況認識は財政・金融当局と事前に詰めてあった。
ラジオ発言の8日前、2月12日。朝は首相官邸に財務省事務次官・田中一穂と財務官・浅川雅嗣を呼び、昼には日銀総裁・黒田東彦と食事をともにしながら1時間、会談している。黒田は日銀が導入を決めたマイナス金利政策を改めて説明するとともに「緩やかに回復する日本経済、物価についてのメーン・シナリオは何も変わっていません」と伝えた。安倍も頷き、「総裁を信頼しています」と応じた。
異次元の金融緩和からマイナス金利にまで踏み切った黒田と、消費増税を延期してまで解散に踏み切った安倍は、実体経済の悪化を認めれば「アベノミクスは失敗した」と公言したに等しくなってしまう。
一昨年の衆院解散当時、安倍は「黒田総裁と財務省は結託し、消費税を上げさせようとしている」と不信感を抱いていた。それが今、安倍は「解散のフリーハンドを握らなければならない」、黒田は「異次元緩和の失敗は認められない」、財務省は「何としても予定通り消費税を10%に引き上げる」と三者の思惑は違えど、「実体経済の悪化」を認められないという、同じ船に乗っている。
宮崎の辞職を促した安倍
いつの時代も、参院選は政権交代の可能性がないだけに、政権与党に「お灸」を据える選挙になりがちだ。
折しも自民党は甘利スキャンダルに続いて、環境相・丸川珠代が被ばく線量に関する問題発言をして物議をかもした。さらに参院議員・丸山和也が2月17日の参院憲法審査会で「アメリカは黒人が大統領になっている。これは奴隷ですよ、はっきり言って」などと発言し、謝罪に追い込まれるなど失態が相次ぐ。「お灸」を据えたい世論の感情は高まる。
「参院選から調子が狂う例が続いている。第一次安倍政権もそうだった」
公明党前代表・太田昭宏は2月19日の講演で警告した。
遡れば1989年、結党以来初の過半数割れを参院選で喫してから、自民党単独では参院で過半数を回復できていない。89年の参院選は消費税導入、農政不信、当時の首相・宇野宗佑の女性問題の3点セットで自民党は負けた。今回も、消費税増税、環太平洋経済連携協定(TPP)の農政問題……と不気味な符合がある上に、「女性問題」も出た。育児休暇取得をぶちあげながら、女性タレントとの不倫問題が発覚した前衆院議員・宮崎謙介のスキャンダルだ。実際、宮崎スキャンダルを受けた世論調査では、甘利辞任では動かなかった内閣支持率が低下した。
「週刊文春」の報道で発覚した直後、宮崎が属する派閥領袖、総務会長・二階俊博は2月10日の会合で「問題に遭遇した時こそ、団結して対応すべきだ」と擁護していた。補欠選挙にはならない「自民党離党」が落としどころのはずだった。
だが、「離党ではダメだ」と議員辞職まで必要だと促したのは、安倍本人だったとされる。
2月16日、衆院本会議で宮崎の辞職は許可され、衆院京都3区は4月24日に補選となった。ここでも安倍は「今回は謹慎すべきだ」と不戦敗を指示した、と党執行部の1人は明かす。
2月19日、安倍の意向を受けて、幹事長の谷垣は京都府連会長・西田昌司に「全体の流れをみれば、候補は出せないのではないか」と促した。
ここでも垣間見えた「安倍主導」。第一次政権時、参院選敗北をきっかけに退陣した安倍の選挙をにらんだ政治判断は細心で、現実的になっている。
遅れた「民・維」合流
野党を引っ張るのは、共産党だ。
安倍が定数削減を明言した2月19日、共産党委員長・志位和夫は民主、維新、社民などとの五党党首会談で「国民連合政府構想は横に置きます。選挙協力の協議に入ります」と宣言。翌20日には戦後、長きにわたって対立してきた日本社会党の後身、社民党の定期党大会に志位は共産党幹部として初めて出席し「今日を新たな契機とし、野党が力を合わせて頑張り抜こう」と高らかに宣言した。
集団的自衛権行使を容認した安全保障関連法の廃止法案を野党五党で国会に共同提出したことで最低限の政策の一致はあり、野党候補が一本化されれば32ある参院一人区で、かなりの確度で善戦が見込める。共産党にとっては選挙区を捨てても、比例代表で躍進する結果もあり得る。
2月22日、共産党は全国都道府県委員長と志位が協議し、ほとんどの参院一人区の独自候補撤回を正式に決めた。志位は衆院選の選挙協力についても、「直近の国政選挙の比例得票を基準としたギブ・アンド・テークを原則に推進したい」と踏み込んだ。
乾坤一擲の大勝負に出た共産党に煽られる形で、遂に野党再編も動いた。
同日夜、民主党代表・岡田克也と維新の党代表・松野頼久はひそかに落ち合った。松野は「民主解党にはこだわらない」、岡田も「党名を変更し、新しい党をつくる」と応じ、懸案だった両党の合流は一気に進んだ。そして26日、両党は3月に合流することで正式に合意した。衆参ダブル選をにらめば、ここがギリギリのタイミングだ。
遅ればせながら迎撃態勢を整えた野党に、安倍は次の手を打つ。
今春、安倍はロシアを訪問して大統領のプーチンと会談し、自らが議長を務める5月末の伊勢志摩サミットになだれこむ。国際会議の成果を掲げた選挙には1986年、当時の首相・中曽根康弘が断行した衆院解散がある。東京サミットの後、「死んだふり解散」といわれた衆参ダブル選挙で、自民党は圧勝した。
衆院解散を巡る「安倍主導」政局。世論の風向き、経済動向、外交、野党の勢い、あらゆる要素を見定めた安倍の「答え」は、5月の大型連休明けまでには示される。 
丸山議員 奴隷発言
自民党の丸山和也参院議員は18日、オバマ米大統領を念頭に「黒人の血を引く。奴隷ですよ」などと発言した責任を取り、参院憲法審査会の委員を辞任した。谷垣禎一幹事長らが引き締めに躍起になっているのに、同党議員の失言は止まらない。安倍晋三首相が描く選挙戦略への影響を懸念する声も出始めた。
谷垣氏は18日、丸山氏に「足をすくわれることがないよう発言には注意するように」とくぎを刺した。丸山氏はこの日、部会長を務める党法務部会を「さまざまな予定」(部会関係者)で欠席した。
一方で記者団の取材には応じ、「真逆の批判をされているとしたら非常に不本意だ。人種差別の意図はまったくない」と正当性を強調。民主、社民、生活3党が議員辞職勧告決議案を参院に共同提出したことに対しても「良心において恥じることはない。受けて立つ」と言い切った。
自民党では、丸川珠代環境相が東京電力福島第1原発事故による除染の長期目標を「何の科学的根拠もない」と発言し、12日に撤回した。島尻安伊子沖縄・北方担当相は記者会見で北方四島の「歯舞」を読めないという失態を演じた。
さらに18日の衆院予算委員会では、民主党議員が丸山氏の発言を追及した際、自民党の長坂康正衆院議員が「言論統制するのか」とやじを飛ばす場面も。見かねた小此木八郎国対委員長代理は長坂氏を口頭で注意した。
自民党は17日に各派閥の事務総長を集め、引き締めを図ったばかりだった。ある派閥会長は18日、「大勢の議員が当選して『自民1強』になり、目立ちたい人が出てきたのではないか」と指摘。岸田文雄外相も岸田派会合で「マスコミの目はますます厳しくなる」と改めて注意喚起した。
公明党の漆原良夫中央幹事会長は18日の記者会見で「(発言を)撤回すれば済む問題ではない。こういうことが重なりボディーブローのように政権に響く」と不満を表明した。
同党幹部は「支持者から『なぜ自民党を止められないのか』とわが党まで批判を受けかねない」。夏の参院選と衆院選の同日選が取りざたされる中、「こんな状況で解散などできない」と首相をけん制する声も出ている。
17日の発言要旨
例えば日本が米国の51番目の州になることについて憲法上、どのような問題があるのか。そうすると集団的自衛権、日米安保条約も問題にならない。拉致問題すら起こっていないだろう。米下院は人口比例で配分され、「日本州」は最大の選出数になる。日本人が米国の大統領になる可能性がある。例えば米国は黒人が大統領だ。黒人の血を引く。これは奴隷ですよ、はっきり言って。当初の時代に黒人、奴隷が大統領になるとは考えもしない。これだけダイナミックな変革をしていく国だ。
18日の釈明
<米国の51番目の州> 参院憲法審査会で参考人から「大統領制を導入すべきだ」と言われた。日本的にいえば首相公選制だ。2院制で大統領制を持つ国の代表として米国を引き合いに出した。
<米大統領関連> 自己変革があり今の米国が生まれたことをたたえるつもりで話した。人種差別だという真逆の批判は非常に不本意だ。私はマーチン・ルーサー・キングを尊敬している。
<野党の議員辞職要求> 良心において恥じることは何もない。良心対良心の問題なので受けて立つつもりだ。 
山田俊男 暴行
山田俊男参議院議員は先週、部会に出席した農協関係者と口論になり、みぞおちのあたりを殴りました。伊達参議院幹事長が事情を聴いたところ、山田議員も事実を認めたということです。
大西英男 「巫女さんのくせに何だ」
自民党の大西英男衆議院議員は24日、衆議院の補欠選挙の応援で神社を訪れたことを紹介した際に、「『巫女さんのくせに何だ』と思った」などと発言しました。これについて自民党の谷垣幹事長などから批判が相次ぎました。
自民党の大西英男衆議院議員は24日、みずからが所属する派閥の会合で、衆議院北海道5区の補欠選挙の応援で神社を訪れたことを紹介し、「私の世話をやいた巫女さんは、『自民党はあまり好きじゃない』と言う。『巫女さんのくせに何だ』と思った」などと述べました。
これについて自民党の谷垣幹事長は記者会見で、「意味不明で、誠に不適切な発言だ。われわれは公人なので、私人として言いたいことを言えばすむという立場ではなく、自分の発言がどう世間に受け止められ、反応があるかという配慮がなければ、公人の発言としては不適切だ」と批判しました。そして、谷垣氏は、「党内のすべての人が緩んでいるというわけではないと思っているが、注意は喚起していかなければならない」と述べました。
民主 岡田代表「コメントするのも恥ずかしい」 / 民主党の岡田代表は記者会見で、「政治家として、コメントするのも恥ずかしい。このような形で、政治に対する信頼が失われるのは非常に残念だ。自民党の中で、しっかり対応してもらいたい」と述べました。
大西議員「軽率な発言をおわび」 / 自民党の大西英男衆議院議員は「私の発言でお騒がせし、申し訳ございません。軽率な発言であったことを謝罪するとともに、関係者の皆さまにおわび申し上げます。今後は、発言、行動により一層の注意を払い、議員として活動してまいります」というコメントを発表しました。 
育休議員の自民党・宮崎謙介がゲス不倫  
男性国会議員で初めて、育休を取得すると宣言して話題となった自民党・宮崎謙介衆議院議員(35)。イクメンの鑑とも言える行動でしたが、なんと妻が出産入院中に、女性タレントを自宅に連れ込んだことが文春にスクープされてしまいました。  
イケメンで高身長(188cm)、高学歴(早稲田大学院卒)の宮崎謙介氏は、2015年5月に同じ二階派所属の衆議院議員である金子恵美氏(37)と結婚。恵美議員はすでに妊娠しており、恵美議員を献身的に支えている宮崎議員の姿がたびたび報じられていました。  
宮崎議員といえば、2015年12月に男性国会議員では初となる育児休暇取得を宣言し話題となりました。賛否両論はあったものの、イクメンの鑑とも言える行動は、一部では称賛されていたことも事実。1月には育児休暇を推進する勉強会も立ち上げ、新しい流れを作るかに見えたのですが…。  
2016年1月15日、恵美議員は切迫早産の危険性があり緊急入院。2月5日に無事第1子の長男を出産しました。  
しかし、スクープされたのは、恵美議員が入院中の1月30日。週末は選挙区である京都に戻って政治活動をしている宮崎議員。この週末も京都に戻っており、京都市内の自宅マンションで34歳の女性タレント・宮沢磨由さんと密会。2時間ほど過ごすと時間をずらしてマンションから出た2人は、十字路で別れ笑顔で見つめ合ったところを激写されています。その後、自宅マンションで再び合流し一夜を過ごした翌日、京都を後にしたそうです。  
宮沢さんと知り合ったきっかけは、恐らく1月4日に行われた自民党仕事始めの会合での出会いだったのではないかと推察されています。宮沢さんは自身のブログでも「お着物の仕事」と書き込んでいます(現在は削除済み)。  
宮崎議員の着物の着付けをしたのが宮沢さんで、同じ日に国会見学に招待していたとか。以前から親密だったのでしょうか。それとも、1月4日の出会いで親密になったのでしょうか。どちらにしろ、和服美人にふらっとやられてしまったのは間違いなさそうです。  
2月5日に出産に立ち会った宮崎議員。「とくダネ!」のカメラには、出産の様子を興奮冷めやらぬ感じで語っていましたが…。  
出産に立ち会った6日前に、京都の自宅に女性を連れ込んで不倫していたわけでしょうか!?にわかに信じられない…いや、信じたくないですよね。  
なお、2月9日(火)の衆議院本会議に出席した宮崎議員。議場に登場し一礼したものの、同僚に声を掛けられても硬い表情のまま。同僚議員、心の声が聞こえてきそうなまなざしですね。  
会議終了後、議場の外に出た時、目がうつろ…というか完璧に死んでました。  
そして、待ち構える報道陣に気付くと、関係者に促されるままダッシュ。報道陣を振り切り、車に乗り込み去って行きました。  
なお、2月9日の朝、フジテレビの単独取材に対しては、宮沢さんとの「不適切な関係」を認める発言をしています。  
ちなみに、宮崎議員は2006年に元自民党の加藤紘一衆議院議員の三女で、現在自民党所属の加藤鮎子衆議院議員と結婚しました。しかし、わずか3年で離婚。離婚の原因は女性問題だった…とも言われており、女性にはだらしなかったのでしょうか!? 
育休国会議員の“ゲス不倫”お相手は女性タレント  
自民党の宮崎謙介衆院議員が地元・京都で女性タレントと不倫・密会していたことが、週刊文春の取材により明らかとなった。1月30日、宮崎議員は伏見区の自宅に東京から来た女性タレントを招き入れた。女性タレントは一泊した後に帰京した。この6日後の2月5日朝方、宮崎氏の妻で同じく自民党の金子恵美衆院議員が都内病院で無事男児を出産。宮崎氏も出産に立ち会っている。宮崎氏は昨年12月、自らの結婚式後の囲み取材で国会議員としては前代未聞の「育児休暇取得宣言」をぶち上げ、議論を巻き起こしていた。「公職にある国会議員がプライベートを優先し、育休中も歳費が全額支払われるのはおかしい」といった批判も上がったが、宮崎氏は「ここまで批判があるなら、絶対に折れるわけにはいかない。女性だけに産め、働け、育てろなんて不可能だ」と反論。女性を中心に「子育ての在り方を考え直すよい機会になる」と期待の声も大きかった。週刊文春は宮崎氏に電話で事実確認を求めたが、「いやいやいや。勘弁してくださいよ。どういう時期か分かってるでしょ!」と話し、一方的に電話を切った。宮崎氏は女性タレントの名前すら知らないとトボケたが、電話の直後、女性タレントのブログやツイッターから2人が会っていた1月30日と31日の記述が削除された。妻だけでなく、男性の育休取得を応援するすべての人の期待を裏切ったイクメン政治家の“ゲス不倫”。宮崎氏には、選良として責任ある対応が求められる。   
英EU離脱が「神風」になった自民党 2016/7
 キーワードは「経済の安定」。舛添問題もアベノミクス失政も吹き飛んだ
「きのう、イギリスが欧州連合(EU)からの離脱を決断した。やはり消費増税先送りの判断は正しかったのではないでしょうか」
参院選が公示された初の週末、英国の国民投票でEU離脱が決定して金融市場が大荒れした翌日の6月25日土曜日。官房長官・菅義偉は山形県米沢市での遊説で熱弁をふるった。
首相・安倍晋三も宮城県で「英国のEU離脱で経済にリスクを与えないか懸念している。日本はG7(主要7カ国)の議長国として国際協調して万全を期す」と訴えた。
消費税率10%への引き上げを2年半先送りし、衆参同日選挙を見送ってまで臨んだ参院選。6月23日夜に明らかになったマスコミ各社の序盤情勢では「改憲勢力3分の2をうかがう勢い」と与党に有利な結果が出た。
それでも野党四党が統一候補を擁立した32の1人区では弱さも感じられ、なにより「リーマン・ショック級の危機」を未然に防ぐために増税を延期した、との首相官邸の理屈に批判と疑問が高まり、安倍の演説もどこか言い訳めいた色彩もあった。
そこに飛び込んできた英国のEU離脱の一報。6月24日、一報を聞いて「えっ!」と驚きながらも、安倍は急きょ、首相官邸で関係閣僚会議を主催して「世界経済の成長、金融市場の安定に万全を期していく」と指示を出した。選挙演説も「今、日本に求められているのは政治の安定だ。それは世界から求められている」と力強いトーンにかわった。
菅は「国際関係の中では何が起きるか分からない。そういうリスクに対応するための政策を私たちは常日ごろからとっている」とも訴え、消費増税再延期の正当性を強調した。
5月末の伊勢志摩サミットで、リーマン・ショック級の危機を回避するためと各国首脳に提示した「参考データ」は経産省出身の首相政務秘書官・今井尚哉が作成したものだった。今井は数カ月前から、安倍と外務省、財務省幹部によるサミット打ち合わせでも、会議を根回しする役割のシェルパが説明する国際的な経済認識についても「君たちは分かっていない」と叱責し、消費増税延期の地ならしを進めてきた。
サミット本番ではイギリス首相、デービッド・キャメロンが「危機とまで言うのはどうか」と発言した。そのキャメロンの英国が、EU離脱で本当にリーマン・ショック級の危機をもたらしかねない皮肉。自民党幹部、政府高官からも「増税延期は正しかったと訴えられる」「リーマン・ショック級の危機回避、としたサミット文書は正しかった」との声があがった。
日経平均株価が下落し、為替が円高にふれても、もはや「アベノミクスの失敗」ではなく、国際情勢の激変が原因となる。災い転じて福となす。選挙戦の基調が守勢から攻勢に転じた瞬間だった。
ヒラリーを重ね合わせた蓮舫
それまで、安倍と自民党は「不気味な選挙だ」と、いまひとつ手ごたえをつかみかねていた。それを象徴したのが6月21日、テレビ朝日での党首討論番組の収録シーンだった。
「6時までと言ったじゃない。時間を守ってもらわないと困る。飛行機の時間があるんだから!」
番組収録が1分、長引くと、安倍は激しく詰め寄った。
収録が終わった後の模様も、モニターしている記者団には聞こえていた。安倍サイドは翌22日にSNSサイト、フェイスブックに「報道ステーションの対応にはあきれました」と書き込むなど、怒りはおさまらない様子だった。
官邸や自民党はこのころ、選挙戦の風向きに異変を感じていた。野党と1対1で激突する1人区で、当初予想よりも多い10程度の選挙区で苦戦が伝わった。大きな要因は前東京都知事・舛添要一の「政治とカネ」を巡る一連の騒動だった。
家族での旅行やネットオークションで絵画を購入するなどした舛添の政治資金流用疑惑。テレビは連日、ワイドショーで報じ、米紙ニューヨーク・タイムズは「せこい(sekoi)」と打電するなど、舛添問題は都政の枠を超え、国政に影響を与えていた。6月7日、東京で自民党は2人目の参院選候補を発表したが、支持が伸びない。
「何とかしなくちゃいけない」
この日、首相官邸へ2020年東京五輪について報告に訪れた元首相・森喜朗と安倍の見解は一致した。
東京自民党のドン、都連幹事長・内田茂らが模索した「リオデジャネイロ五輪の閉会式に舛添が出席して花道を飾り、9月の定例議会で辞職すれば、4年後の都知事選は東京五輪後になる」とのシナリオは水泡に帰した。「このまま放っておけば1日100票、1000票単位で票が減っていく」と官邸は危機感を募らせた。すべては参院選のためだ。
舛添は粘り腰をみせる。「議会で不信任決議案が出る前に辞職しろ」と迫る自民党都連に、舛添は都議会解散の可能性をちらつかせて反撃する。都連側の説得も行きづまり、タイムリミットである定例議会の会期末、6月15日までもつれ込んだ。
しかし、その15日午前零時半すぎ、都議会全会派が共同で不信任案を提出し、本会議に上程されることが決まった。舛添が辞めなければ、不信任案は可決される。舛添に辞職以外の道はなくなった。
朝、舛添辞職の意向が伝わった官邸は安堵に包まれた。参院選の阻害要因はなんとしても取り除くとの官邸の決意が「舛添降ろし」を結実させた。
一方、この絶好の機会に大攻勢に出られなかったのが民進党だ。
「私のガラスの天井は、国政にある」
6月18日昼、大本命候補だった民進党の代表代行・蓮舫は、こんな表現で都知事選への不出馬を表明した。
「ガラスの天井」というセリフは8年前、アメリカ大統領選の民主党候補選びでバラク・オバマ大統領に敗れた前国務長官、ヒラリー・クリントンが「ガラスの天井を打ち砕けなかったが、ひびは入れられた」と言い、候補指名を確実にした今年も「ガラスの天井を壊す」と宣言した言葉をもじったもの。米国史上、初の女性大統領を狙うクリントンにならい、都政ではなく女性初の首相を目指すと表明したのだった。
6年前の参院選で、約170万票と東京選挙区での最高記録をうちたてた蓮舫は、自民党からも「都知事選に出馬すれば当選確実だ」との声があがったほどの最強候補だった。
舛添の辞任を受けて、民進党幹事長・枝野幸男や国会対策委員長・安住淳は「蓮舫なら与野党対決型で勝てる。都知事選の効果が全国に波及し、参院選にも好影響を与える」とみて、蓮舫擁立に動いていた。
だが蓮舫サイドには警戒と疑念があった。とりわけ慎重論を唱えたのが前首相・野田佳彦。「都知事選は後出しジャンケンの方が有利」との理由だ。
都知事選は7月14日告示―31日投票の日程で、参院選の候補者でもある蓮舫は公示前日の6月22日までには態度を明らかにしなければならない理屈となる。「最悪なら蓮舫が勝つはずだった東京選挙区で1議席失い、都知事選でも負ける」というのが前首相の論法だった。
もうひとつの理由があった。蓮舫は参院選後、9月末に予定している民進党になって初の代表選を視野に入れている。枝野や安住らの都知事選擁立論は「代表選出馬の芽を事前に摘もうとの思惑」とみたのだ。
蓮舫は先手を打った。事務所開き当日の6月18日、枝野を訪ねて「仲間の声はありがたいですが、都知事選には出ません。国政を選びます」と伝える。諦めきれない枝野は「参院選の公示まで、まだ数日あるから」と促したが、蓮舫の決意は固い。枝野ら執行部は翻意させる手段もないまま、参院選公示日を迎える。「蓮舫都知事」は幻に終わった。
アベノミクス批判は響かず
参院選へなりふり構わぬ安倍自民党と、首相にもなれない野党代表の座を巡る思惑が交錯する民進党。その執念の差は、間違いなく結果に響いてくる。
自民党と安倍にとって、参院選は鬼門以外のなにものでもない。
1989年は結党以来、初めて過半数を割り込む惨敗を喫し、それから27年間の長きにわたって自民党は一度も過半数を回復できなかった。
この時、野党側は労組・連合主導で連携して無所属統一候補を擁立し、これが過半数割れの主因になった。今回も野党四党はすべての1人区に統一候補を立てている。
98年は今回と同じように序盤は優勢を伝えられながら、橋本龍太郎首相の「恒久減税」を巡る発言の二転三転ぶりから急激に失速し、「経済失政」と呼ばれて大敗した。2007年はいうまでもなく、安倍が敗北して退陣に追い込まれたトラウマの選挙である。
いまEU離脱問題は短期的に安倍自民党にとって「神風」(党関係者)になっている。
野党の主張は「アベノミクスの失敗が、英国問題でハッキリした」という組み立てだ。民進党代表・岡田克也は「円高、株価の乱高下に、EU離脱が拍車をかける。分配と成長を両立させる経済政策が必要だ」と語る。共産党委員長・志位和夫も「アベノミクスがつくりだしたのはもろい経済だった。英国のEU離脱で日本経済に大打撃が起きているのはアベノミクスの結果だ」と訴えるが、有権者に響かない。先の見えない混乱を前に、世論が求めているのは改革ではなく危機対応であり、経済の安定だからだ。岡田は「地元で公認候補が負ければ代表戦に出ない」と、この期に及んで言い出す始末だ。
英国のEU離脱による市場への影響は年単位で長期化するだろう。今年後半からの政局は「経済」が中心にならざるを得ない。目先の参院選では「神風」となっても、参院選後を考えれば、高い株価が支えてきた安倍政権にとって「逆風」ともなりかねない。まさに正念場を迎える。
さらに、自民党内には麻生太郎政権時代、リーマン後の対応に失敗して政権を失った悪夢がよぎる。
「あのときは後手を踏み、衆院解散の時期も逸した。あの二の舞は避けたい」が、自民党幹部の合言葉だ。
「党に緊急特別本部を設置しました」。6月24日夜、自民党政調会長・稲田朋美は党本部で政権党の即応性をアピールした。安倍政権は秋の臨時国会に大型の補正予算案を提出し、危機回避への動きを強める構えをとる。
補正予算も「10兆円超の大型が必要」と、選挙戦中から早くも掛け声がかかる。
6月25日、遊説を終えた安倍は午後7時過ぎに自民党本部へ入って幹事長・谷垣禎一、選対委員長・茂木敏充の報告を受けて情勢を分析し、てこ入れする重点区を吟味した。「世論調査の好結果に踊らされず、引き締めていく」「ひとつひとつ確実にとっていく」と意思統一した。
英国のEU離脱は世界中で内向きの姿勢を強める引き金となる。11月の米国大統領選も孤立主義のドナルド・トランプが共和党候補だ。ロシア大統領、ウラジーミル・プーチンにとって対露強硬派の英国がEUから離脱するのは望むところであり、安倍が悲願とする北方領土問題解決の行方にも影響は避けられない。
英国民投票と参院選、2つの選挙が日本を揺さぶっている。 
“茶坊主”と“お友達”だけ優遇 安倍改造内閣の恐怖人事 2016/8
3日に行われた内閣改造で留任閣僚がズラリ並んだ。麻生太郎財務相、岸田文雄外相、菅義偉官房長官という2012年末の第2次政権発足時からのメンメンに加え、高市早苗総務相、塩崎恭久厚労相、加藤勝信1億相、石原伸晃経済再生相まで続投である。「内閣の骨格を維持して、安定した政権運営」などと解説されているが、要は自分の言うことを聞く“お友達”や“茶坊主”を置いておきたいだけ。世界情勢が混迷を深め、経済の先行きも不透明になっているのに、安倍にとっては国民生活より、やりたい放題の暴政を続けることの方が大事なのである。
閣僚人事に先立って決まった自民党役員人事もその最たるものだ。特にケガで復帰できない谷垣の続投を断念した後の幹事長ポスト。総務会長からの昇格となった二階俊博を、大メディアは“重量級”“調整力に定評”だとか実力者扱いしているが、ちゃんちゃらおかしい。
昨年の総裁選で安倍支持をいち早く表明したことや、年寄り過ぎて寝首をかかないという“忠誠心”がホントの起用理由だ。二階は最近、18年9月の総裁任期の延長まで口にしていた。安倍へのスリ寄りがミエミエで呆れるほどだ。
政治学者の五十嵐仁氏はこう言う。
「調整型といいますが、機を見るに敏なだけ。敏過ぎて政党を渡り歩き、出世できなかったから重鎮になった。今、安倍首相にくっついているのもそう。総裁再選を真っ先に支持し、総裁の任期延長でタイミング良く自分を売り込んだ。中身は、公共事業にバンバン予算をつける古いタイプの政治家ですよ」
二階が国土強靱化の旗振り役だったのは有名な話。2日、閣議決定された28兆円超の経済対策に、リニア中央新幹線の全線開業前倒しやクルーズ船を受け入れる港湾施設の整備などの事業を盛り込ませたのも二階という。公共事業重視で利権のにおいがプンプンなのに、持ち上げるメディアはどうかしている。
細田博之が総務会長に決まったのは、出身派閥の長で安倍にとって気心知れた間柄だからだ。茂木敏充の政調会長起用は、選対委員長として参院選を仕切った論功行賞。
「茂木さんは額賀派の領袖を狙っている。総理との距離感の近さで実力をアピールしたいのだろう」(自民党ベテラン議員)というから、党三役が政府に異論を挟むなんて光景は今後もなく、安倍に唯々諾々が続くことになる。
超タカ派の防衛相でますますナショナリズム高揚
初入閣、再入閣の大臣もヒドい顔ぶれだ。稲田朋美は安倍の一番の子飼い。直前まで政調会長だった上、当選4回で2度目の入閣。それも防衛相である。女性初の首相にするため、自分のそばで帝王学を学ばせようということか。
官房副長官だった世耕弘成の経産相抜擢も、お友達人事だ。第2次政権発足後から長期にわたり副長官を務め、在任期間は歴代1位。当選3回の入閣は当たり前の参院で当選4回まで入閣を待たされた。安倍からすれば「今までお勤めご苦労さん」てなところだろう。
麻生の子分の松本純など、その他も派閥の要望を受け入れた形。政治家としての能力や資質なんて、全く考慮しない布陣なのである。
「安倍さんは何でも自分が一番じゃなきゃ気が済まないタイプ。自分に従順であるかどうかが重要で、逆らったり、盾を突くような人は徹底的に干し上げる。稲田さんの起用はお友達人事ではありますが、入閣させられるような女性が他にいなかったという理由もあるようです。稲田さんなら首相の言いなりですからね。ただ、防衛相というのはいかがなものか。自衛隊の最高司令官がウルトラタカ派では周辺諸国に刺激を与えてしまう。ま、安倍さんは、安全保障上の危機感をあおって、国民のナショナリズムが高揚するのを、むしろ好都合とでも思っているのでしょう」(政治評論家・野上忠興氏)
留任閣僚で驚愕なのは石原伸晃だ。都連会長として都知事選に敗れたこともあり、閣僚も交代と噂されていた。「安倍さんが個人的な関係もあり残した」(前出のベテラン議員)とされるが、無能無政策で従順なのも、安倍が伸晃を重宝する理由だろう。
失敗が明らかなアベノミクスを、これからも最大限ふかさなければならないし、TPPもある。留任する麻生財務相とともに経済オンチ大臣の方が、安倍にとってやりやすいわけだが、国民にとっては悲劇としか言いようがない。
自民党と国会の“ダブル1強”で強権
こんな最悪人事なのに自民党内は強権首相の前に皆ひれ伏し、沈黙。異様で異常としか言いようがない。
国会も衆参で憲法改正発議に必要な3分の2の勢力を確保し、いつの間にか改憲が既定路線になってしまった。安倍は「おおさか維新の会」を取り込むため先週末、橋下徹前代表と会食。「憲法審査会で改憲の議論をやっていきたい」と伝えたという。
自民党は参院選後に無所属議員を1人入党させ、あれよあれよという間に、衆参とも単独過半数を達成している。いざとなれば、改憲に慎重な公明党を福祉政策などをエサに揺さぶることもできるわけだ。
「今や安倍さんは、自民党内と国会内の『ダブル1強』です。参院選でもそこそこの成績を残したので、これまで以上に誰も物を言えない空気になっている。ただ、改憲については急ぐと失敗しかねません。改憲勢力とはいえ、維新の会は何を改憲するかの項目が違います。経済が順調とはいえない中で、世論を納得させるのも簡単ではありません」(五十嵐仁氏=前出)
恐怖政治が吹きすさぶ今度の改造で唯一、安倍に抵抗したと言えるのは石破茂ぐらいだ。農水相などでの閣内残留を打診されたものの拒否。次期総裁選で「ポスト安倍」を目指すため、「野に下るべき」という仲間の意見に耳を傾けざるを得ない事情もあった。
「みんなおとなしくしてはいますが、相変わらずのお友達人事には、入閣待望組を筆頭に不満がマグマのようにたまっている。そんな中で石破さんが安倍さんの要求をはねつけたことは、アリの一穴になるかもしれません。交代が確実視されていた伸晃さんを留任させたのも、野に放って、石破さんと連携されるのを恐れたからともいわれていますからね」(野上忠興氏=前出)
いずれにしても、どこぞの国の将軍さながらの、国民そっちのけの亡国政治が続くことだけは確実である。 
 

 

 
第3次安倍内閣(改造2)

 

安倍内閣   第1次 第1次   第2次 第3次 第3次 第3次 第3次
    改造       改造1 改造2 改造3
安倍晋三    
菅義偉      
麻生太郎      
塩崎恭久          
高市早苗          
山本有二              
岸田文雄        
石原伸晃            
稲田朋美              
石井啓一            
丸川珠代              
加藤勝信            
金田勝年                
松野博一                
世耕弘成              
山本公一                
今村雅弘                
松本純                
鶴保庸介