江戸の三面・瓦版

奉行所役人岡っ引裁きかたりたかりゆすりおどし喧嘩騒ぎ火事火付け不義姦淫
盗賊人殺し心中女郎遊女将軍家旗本御家人大名武士お大尽商人町人
ふしぎ怪異風景好色・・・
浮世絵列藩騒動録日本左衛門仮名手本忠臣蔵悲恋おかる勘平永代橋崩落江戸繁昌記大江戸お寺繁昌記北斎と幽霊正雪記かぶき大名
大名家の騒動 / 黒田騒動青山忠俊阿波騒動飯田藩騒動生駒騒動越丸騒動延宝郡上騒動宝暦郡上騒動宝暦郡上一揆加藤明成加藤忠広蒲生騒動元禄赤穂事件榊原政岑坂崎直盛新発田藩騒動沢海騒動龍野騒動田原藩騒動津軽騒動津和野騒動徳川忠長富田信高鳥居忠恒鍋島騒動姫路騒動福島正則船橋騒動堀田正俊堀田正信堀忠俊松平忠之万石騒動村上義明最上義俊柳川一件横田騒動伊達政宗の毒殺未遂
 

雑学の世界・補考   

奉行所・役人・岡っ引

催促
大岡越前守が町奉行だったときのこと。
下谷の寺院八カ寺が魚を買い入れながら代金を払わず、総額はおよそ百両に達しているとして、魚屋が連名で町奉行所に書付を提出し、訴えた。
書付には某寺に何両と、詳細に記してあった。
大岡は書付を受け取り、魚屋は帰宅させたあと、八カ寺に召喚状を送り、翌朝、奉行所に出頭するよう命じた。
八カ寺の僧侶はいったいなにごとかと奉行所に出頭したが、とくに白州に呼び出されることはなく、延々と夕方まで一室に待たされた。八人の僧侶は退屈し、長時間待たされたため、代わる代わる便所に行った。
すると、便所の壁に、「〇寺魚代金滞り×両」と書いた紙がずらりと貼ってあった。みな驚いた。
部屋に戻るや、おたがいに顔を見合わせている。
夕方、役人が、「お奉行さまは体調がすぐれないため、今日のところはお引取り願いたい」と、僧侶を帰宅させた。
八カ寺はすぐに、滞納していた魚屋へ支払いをした。その後、奉行所から寺へはなんの連絡もなかった。 
醜態
上総田中村(千葉県東金市)は、旗本の知行地だった。
文化七年(1810)五月、田中村の金右衛門という農民が年貢米の輸送に関する手違いから訴えられ、呉服橋門内にある北町奉行所に召喚された。
自分に非があるとされ、金右衛門は納得がいかない。
二十二日の未の刻(午後2時)、北町奉行所にいた金右衛門は、執務中の芥川弥左衛門という同心が脇差を帯からはずして机のそばに置き、便所に行ったのを見て、その脇差を手に取った。
金右衛門は脇差を抜くや、執務中の鈴木新七に斬りつけた。その後、たまたま居合わせた掃除番の万助に斬りつけたあと、そのまま奥に駆け込む。
これを見て、取次役の蔭山清二郎が、「乱心者じゃ」と、大声で告げた。
役人たちは逃げ惑い、それぞれ部屋にこもって戸を締め切った。
たちまち、役所から人影が消えた。
血刀を引っさげたまま、金右衛門は廊下をずんずん進む。途中で出会った富蔵という下男に斬りつけた。
町奉行所の敷地内には役所の建物のほかに、裏手には奉行や役人の役宅もある。
金右衛門は羽山甚助という用人の役宅に押し入り、まず羽山に斬りつけてその手首を切断した。羽山が逃げようとするところ、肩先から切りさげた。
物音を聞いて羽山の妻が駆けつけてきたのを、片腕に斬りつけた。
ふたりの子供がいたが、兄の頭、弟のひたいを斬った。
「わーっ」と、兄弟が泣き叫ぶ。
驚いて、隣家の大谷政平の妻が駆けつけてきた。
そこを、脇腹に斬りつけた。
金右衛門は台所にはいりこみ、そこにいた下男に斬りつけた。
その後、表門に向かう。
途中で、同心の早川鉄太郎が行く手をはばもうとしたが、金右衛門が斬りつけてくる刀を受けそこねて肩先を切りさげられた。
そうするうち、スキを見て下男の佐助が背後から果敢に飛び掛り、金右衛門に組み付いた。そこを、藤田孝太郎という同心が六尺棒で刀をたたき落した。
金右衛門が脇差を手から落としたのを見て、大勢がワッと押し寄せ、縄をかけた。
この騒ぎで、執務中に斬りつけられた鈴木新七、五十歳は即死。役宅で斬られた羽山甚助、四十三歳は即死。羽山の妻おそよ、三十六歳は重態、翌朝死亡。羽山のふたりの子供はそれぞれ負傷。駆けつけてきた大谷政平の妻およし、二十九歳は重態、翌朝死亡。掃除番の万助、負傷。下男の富蔵、負傷。刀を受けそこねた早川鉄太郎、負傷。そのほかにも、数名の負傷者が出た。
八月九日、判決が言い渡され、金右衛門は小塚原の刑場で獄門に処せられた。四十八歳だった。
脇差を置いたまま小便に行き、刃傷事件のきっかけを作った芥川弥左衛門、三十五歳は「別而不届に付」として、改易となった。つまり、幕臣の身分を失い、浪人となった。
そのほか、逃げ惑ったり、戸を閉めて隠れていた数名が、「取計方不行届段、不埒ニ付」として、押込などの処分を受けた。
また、連座制が適用されるため、田中村の関係者も処罰を受けた。
事件後、つぎのような落首が出た。
百姓に与力同心小田切られ主も家来もまごついた土佐
当時、北町奉行は小田切土佐守だったことを掛けている。
誘惑
江戸の町人の居住区には、町内ごとに自身番が置かれていた。自身番は町役人の詰所であるが、現在の交番や留置所の役割もあった。
嘉永四年(1851)六月、日済貸という金貸しをしている女が、不正があったというので召し取られ、本郷一丁目の自身番に身柄をあずけられた。
女は四十八歳だったが、もとは吉原の妓楼で遣手をしていたとかで、どことなく垢抜けしたところがあった。細面の美貌で、身なりもこぎれいだった。
夜になり、詰めていた月行事の町役人が用事で自宅に帰った。
あとは、女と番人の八十兵衛のふたりきりとなる。
八十兵衛は四十歳で、自身番の番人をしていたが内実は裕福で、金を八十両ほどもためていた。そのため、身なりもなかなか凝っていた。女房と、三人の子供がいた。
女は縄で縛られ、羽目板に打ってある鉄の環につながれていたが、八十兵衛がそれなりに金を持っていそうなことや、さきほどからちらちらと色目を使っているのを見て取り、「かゆくてたまらないよ。おまえさん、お願いだから、ちょいとかいておくれ」と、両脚を広げた。
八十兵衛も女の色っぽさに食指が動いていたところだったので、「どれ、どこがかゆい」と、着物の裾をめくった。
「もっと上だよ、もっと奥だよ」と、男の指を誘導していく。
こうなると、八十兵衛も我慢できない。ついに、縛られたままの女と情交した。終わったあと、八十兵衛は、「ツルにするがよい」と、金二分を渡した。ツルとは、入牢するときに持ち込む金である。
翌朝、町奉行所の定廻り同心が吟味のため自身番を訪れた。
女は同心に言った。
「あたしの吟味よりは、番人をご吟味ください。昨晩、縄目のあたしを無体に慰み、犯したのです」同心は目を怒らせ、「偽りを申すな」と、叱りつける。「偽りではございません。たしかの証拠がございます。あたしを慰んだあと、この金をくれました」女は、もらった金二分を取り出した。仰天したのは八十兵衛である。「金は出しますから、どうか内済ですむよう、旦那に申し上げてください」と、同行していた岡っ引を通じて同心に頼んだ。しかし、同心も女が色仕掛けで番人を誘惑したことを見抜き、「このような空恐ろしい女を放置するわけにはいかん。内済など、とんでもない」と、ついに牢に入れた。
八十兵衛はそのまま出奔した。自身番をあけて帰宅していた町役人は手鎖となった。  
岡っ引
江戸の岡っ引は、岡本綺堂の「半七捕物帳」や野村胡堂の「銭形平次」ですっかり正義の味方、弱い者の味方の役回りが定着した。しかし、実際には、あこぎで悪質な者がほとんどだった。
嘉永四年(1851)のことである。浅草田原町に箱屋伊左衛門という指物師が住んでいた。蝦夷松前藩の御用達も務め、かなりの大店だった。十五歳になる銀次郎という丁稚小僧が、蔵に唐銅製の五升炊きの大釜があるのを見つけた。使われていないため、ホコリをかぶっている。そっと持ち出し、桃林寺門前の金物屋に、「不要になったから、旦那さまから売ってくるように言われた」と、持ち込んだ。金物屋の主人の吉五郎は怪しいなと感じないわけではなかったが、新品で買えば二両三分はしそうな立派な品である。潰して地金にしても一両二分の値打ちはありそうだった。そこで、吉五郎は二分と百文で大釜を買い取った。
五月の節句になり、箱屋では女中が蔵に大釜を取りに行ったが、見あたらない。びっくりして、主人の伊左衛門に告げた。伊左衛門は奉公人の仕業と気づいたが、「ああ、あの釜は人に貸したのを忘れていた。今回は、ほかの釜で間に合わせてくれ」と言って、騒ぎにはしなかった。その後、伊左衛門は外出するときはそれとなく、道具屋や金物屋をのぞいた。ある日、桃林寺門前の金物屋に大釜があるのを見つけた。伊左衛門は店主に面会すると、「その釜のことで、お話があります」と、自分の店から盗まれた釜であることを告げた。薄々、盗品と察しながら買い取っただけに、吉五郎も弱みがある。
「そんなこととは露知らなかったものですから。先日、小僧どんが不要になったからと言って売りにきたので、人助けのつもりで買い取ったのですがね」と、しどろもどろになった。「ここは事を荒立てず、穏便に収めましょう。いくらで買い取ったのですか」「二分と百文です」「おまえさんに損をさせるわけにもいきません。二朱の利息をつけ、二分二朱と百文で買い戻しましょう。いかがですか」「けっこうです」「おたがい、このことは黙っていましょう」「承知しました」 こうして、相談がまとまった。
大釜を買い戻した伊左衛門は奉公人には何も言わず、そっと蔵の元の場所に返しておいた。また、別な口実をつけて、小僧の銀次郎を実家に帰した。
伊左衛門も吉五郎も大釜の一件は口を閉ざしていたのだが、どこやらから噂が漏れ、一帯を縄張りとする岡っ引が小耳にはさんだ。
「波風を立てずに収めてしまったのじゃあ、俺たち岡っ引は一文にもならねえじゃねえか。これじゃあ、鰻飯も食えねえぜ」
岡っ引はまず銀次郎を召し捕り、脅しつけた。まだ子供のことであり、言い逃れをする知恵もない。自分が大釜を盗み、金物屋の吉兵衛に売ったことをあっさり白状した。続いて、岡っ引は盗品を買い取ったとして、吉兵衛を召し捕った。
六月二十九日、判決が言い渡され、吉五郎は所構、つまり追放の刑、銀次郎は重敲、つまり敲きの刑、となった。  
本所の平蔵
火付盗賊改の長谷川平蔵が江戸で勇名をはせていたころのことである。長谷川の屋敷は本所花町にあった。
本所三ツ目に住む大工の平蔵が稼ぎのため京都にのぼった。二、三年も過ごすうちに、多くの知り合いもできる。
仕事を終えて江戸に戻るに際し、平蔵は江戸っ子の気っ風のよさを示したくなった。
大工仲間にそれまで世話になった礼を述べながら、「もし江戸に下ることがあれば、おいらを訪ねてきなよ。本所で平蔵と尋ねるといい。本所の平蔵と言えば、すぐにわかるぜ」と、大見得を切った。
本当に自分を頼って江戸に出てくる者がいるなど、想像だにしていない。なかば見栄であり、なかば冗談だった。
京都の大工のひとりが仕事に行き詰まり、心機一転、江戸で一旗あげることを考えた。
「そうだ、あの平蔵を訪ねていけば、面倒をみてくれるであろう」 そこで、京都を立って江戸に出た。
人に尋ね尋ね、本所にたどりつくと、「平蔵さまの住まいはどこでしょうか」と、道行く人に聞いた。
「平蔵さま…」「本所の平蔵さまですがね」「本所は広いぜ。町名はどこかね」「本所の平蔵と言えばすぐにわかると聞いておったので、町名までは存じません」「本所で知らない者はない平蔵さまなら、長谷川平蔵さましかない。それなら、花町に行って、あらためて尋ねてみなさい」 花町への道順を教えた。
大工は花町に着き、平蔵の住まいを尋ねた。教えられたのは、立派な武家屋敷である。さすがに、どうも妙だなと感じないでもなかったが、「きっと、このお屋敷のなかの長屋にでも住んでいるのであろう」と思い直し、門をくぐろうとした。門番がさえぎる。
「そのほうはいずこのもので、どこにまいるか」「わたくしは京都の者で、平蔵さまに用事があってまいりました。お目にかかればすぐにわかることでございます。平蔵さまが御在宿なら、お会いしたいのですが」「おのれ、怪しいやつ。縛ってしまえ」門番が声をかけ、ほかの奉公人たちも集まってきた。
この騒ぎが、長谷川平蔵の耳にはいった。長谷川は家臣に命じた。「なにか、事情があるようだな。縄をかけるには及ばぬ。庭につれてまいれ」 庭に引き据えられ、平伏している大工に向かい、長谷川が声をかけた。「上方より平蔵に会わんとして尋ね来たりしは、そのほうか。平蔵はすなわちわしじゃ」 大工は恐る恐る顔をあげて見ると、まず年齢が異なっている。しかも、裃姿の、威風堂々たる武士だった。恐怖に襲われ、大工はひとことも発することができず、ただふるえているだけだった。その様子を見て、長谷川が口調をやわらげて言った。「遠路はるばる尋ね来たったのには、なにか仔細があろう。つぶさに申してみよ」 そこで、大工は途切れ途切れに、いきさつを語った。
聞き終えると、長谷川は、「よくわかった。明日、そのほうの尋ねる平蔵に会わせてやろう」と答え、その夜は屋敷内の奉公人の部屋に泊まるよう手配させた。その後、すぐさま家来を本所一帯の自身番に走らせ、「本所を限りに、平蔵と名乗るもの、明日六ツ時、罷り出るべし」という触れを配った。
翌日の明六ツ(午前6時)、長谷川の屋敷に、平蔵という名の男がおよそ五十人ほども集ってきた。まだ子供もいれば、老人もいる。長谷川は京都の大工を呼び出した。
「そのほうの尋ねる平蔵は必ずこのなかにいるはずじゃ。よく見るがよい」 大工がひとりひとりの顔を見ていくと、なかに、京都で知り合った男がいた。「この男が、あたくしが尋ねておりました平蔵でございます」「そうか。よし」 長谷川はほかの平蔵を帰宅させ、大工の平蔵のみとどめた。
「この者はそのほうを頼りにして、はるばる尋ね来たったのである。いま、そのほうに引き渡すから、厚く世話してやれ。もし、粗略にあつかうようなことがあれば、ただではすまんぞ。召し取って厳罰に処すから、さよう心得よ」
きびしい声で命じるや、京都の大工を平蔵に引き渡した。
もともと本気で言ったことではなかったのだが、火付盗賊改の長谷川平蔵に厳命を下されると、大工の平蔵もやむをえない。京都から来た男を自分の家に泊め、なにくれと世話をしたという。  
 
裁き

 

本家争い
幾世餅はもともと、浅草御門内の藤屋市郎兵衛が考案し、売り出したのが最初だった。短冊形の切り餅を金網の上で焼き、小豆の餡をまぶしたものだという。
両国橋の際の小松屋でも幾世餅と称して売っていたが、小松屋の亭主は昔は橋本町のあたりに住む餅の行商人だった。吉原の幾夜という遊女を女房に迎え、夫婦で餅を作り、両国橋のたもとで売るようになった。
もとは吉原の遊女というのが評判になり、餅はよく売れた。
商売が繁盛したことから、両国橋の際に空き店があったのを買い取り、橋本町から移ってきた。
その後は、女房の名前にあやかり、「両国橋幾世餅」という名称で餅を売った。
かつて吉原で幾世の馴染み客だった男たちも商売が順調なのを喜び、相談して金を出し合い、小松屋に暖簾を贈った。暖簾には「日本一流幾世餅」と、藤に丸の印が染め抜かれていた。
この暖簾が評判になっているのを知り、元祖の藤屋もたまりかね、町奉行所に訴え出た。「幾世餅は本来、藤屋一軒でございます。暖簾にも藤に丸の印を用いております。ところが、小松屋が幾世餅と称して商売を始め、暖簾にも藤の丸を染めているのは承服できかねます」
時の町奉行は大岡越前守である。大岡は小松屋の亭主を呼び出し、尋問した。亭主はこう答えた。
「あたくしの女房はもとは吉原の遊女でございまして、幾世という名でございました。そのため、人々が自然と幾世餅と言うようになったのでございます。藤に丸の紋所は、女房が吉原にいたころに使っていたものでございます。暖簾はかつての女房の客人からいただきました」 役人が調べると、小松屋の亭主の述べた通りである。
大岡は、藤屋と小松屋の亭主双方を奉行所に呼び出した。「わしに、そのほうらを公平に遇する妙案がある。この妙案に従うか」「謹んで従います」ふたりが承諾した。
「藤屋は幾世餅の元祖であることに間違いない。小松屋も女房の名の幾世にちなんだものである。双方の言い分はもっともながら、同じく江戸にいるからもめる。これからは双方とも「江戸一」と看板に記し、藤屋は内藤新宿、小松屋は葛西新宿に引っ越せ。ともに江戸一の看板を出しても、同じ新宿という地名である。双方に公平であろう」 藤屋も小松屋もそんな辺鄙な場所に引っ越すのは大打撃である。
そこで、両者で相談し、訴えを取り下げた。その後は、藤屋と小松屋で幾世餅を売り続けた。 
無銭飲食
文化十二年(1815)四月二十八日、木挽町五丁目の蕎麦屋に、信州高島(長野県諏訪市)藩諏訪家の中間三人がやってきた。
蕎麦を食べ終えてから、「いまは持ち合わせがない。ちょいと、貸しておいてくれ」と、申し入れた。
武家屋敷の権威をカサにきた無銭飲食である。
蕎麦屋の主人の仁右衛門は、「お代は払っていただきます。ツケはお断わりします」と、きっぱり拒否した。
中間たちは悪口雑言を並べたてた。仁右衛門も負けずに言い返す。激しい口論となった。
怒った仁右衛門は中間を殴りつけ、蕎麦切り包丁でひとりの肩口に斬りつけた。
なおも怒りがおさまらなかったのか、仁右衛門は竈の上で煮立っていた湯を持ち出し、傷口に浴びせかけた。
煮え湯をあびせられ、傷口がはぜかえった。
中間たちはほうほうの体で屋敷に逃げ帰り、ほかの中間連中に告げた。
「なに、このまま黙っておれるか」と、中間たちが大挙して、蕎麦屋に押しかけてきた。
蕎麦屋の奉公人たちも、それぞれ喧嘩支度で迎える。
大騒ぎとなった。
町内から人が出て、双方をなだめ、夜中になってようやく騒ぎは収まった。
その後、町内の主だった者が諏訪家と掛け合い、内済(示談)を願ったのだが、諏訪家では聞き入れず、町奉行所に訴えた。
ついに、事件は公になり、町奉行所の役人が検使に来た。
このとき、仁右衛門は役人に三十両ほどの袖の下を使い、「あたくしは体の調子が悪くて二階で寝ておりましたので、まったく存じませんでした。すべて、奉公人がやったことでございます」と、陳述した。
すでに口裏を合わせていたため、奉公人一同も、「主人はまったく知らないことでございます」と、申し立てた。
このため、仁右衛門は所預けとなり、奉公人は召し取られて牢に入れられた。また、諏訪家の中間も入牢したが、肩を切られた上に煮え湯を浴びせられた幸八という中間は牢で死亡した。
幸八が死んだことで、ついに殺人事件になってしまった。
五月十八日、判決が言い渡され、幸八を殺したとして、奉公人の八五郎は死罪。ほか、奉公人四人は手鎖。主人の仁右衛門は急度叱りとなった。  
無銭飲食
文化十三年(1816)二月上旬、麹町貝坂の居酒屋に足軽風の武士三人が来て、さんざん飲み食いをしたあげく、金を払わずにそのまま立ち去ろうとした。
居酒屋の主人がひとりをつかまえ、「呑み逃げはさせねえ」と、なじった。
武士はやにわに刀を抜くと、肩のあたりを突き刺した。主人はその場に倒れた。即死だった。
これを見て、奉公人らが武士を追いかけ、ついに全員を捕まえた。そして、報復として、三人の手の指をすべて折ってしまった。
その後、奉公人らは町奉行所に召し取られ、遠島になった。  
無銭飲食
弘化二年(1845)五月、小十人組の甲が、下谷の浜田屋という料理屋で飲食をしていた。
すぐそばで、某藩の乙という藩士も飲食をしていた。
さきに食べ終えた甲は、「金は連れがまとめて払うから」と言って、浜田屋を出た。
さも、乙と連れのようによそおったのである。
ややおくれて食べ終えた乙が、「いかほどか」と、勘定を尋ねた。
店の者は、「お連れさまの分と合わせて」と、高額を請求した。
乙は甲にたばかられたことを悟ったが、黙って請求額を支払った。
浜田屋を出るや、急いで甲のあとを追う。追いつくや、乙は一刀のもとに甲を討ち果たした。  
裁き
須田町二丁目代地に和床という髪結床があり、娘は岸沢三津之助と名乗って三味線師匠をしていた。嘉永五年(1852)四月十七日、岸沢三津之助が料理屋の二階で三味線のおさらい会を開いた。
このとき、弟子のひとりで、神田花房町代地の居酒屋の息子の辰五郎は、規定の会費のほかに祝儀も足して、金二朱を包んだ。ところが、会の世話人がうっかり間違えて、帳面に四百銅(四百文)と記してしまった。これでは、規定の会費にも不足である。その後、三津之助の母親は辰五郎の顔を見ても、内心では会費をけちった弟子と思っているから、多額の祝儀の礼を述べるどころか、ろくすっぽ口もきかない。腹を立てた辰五郎は家に帰るや、憤懣をぶちまけた。これを聞いた母親が怒り心頭に発した。辰五郎の母親は和床に押しかけるや、三津之助の母親に喰ってかかった。母親同士、激しい口論となる。そこに、辰五郎も駆けつけ、怒鳴り合いの大喧嘩となった。
隣りの葛籠屋の女房のおてつが見かねて、なだめようとしたが、火に油をそそぐ結果になった。
興奮した辰五郎が投げつけた下駄が、誤っておてつの足にあたって傷つけ、血が出た。これを知って、おてつの弟の幸次郎が激怒した。もう、大騒ぎである。和床と居酒屋の双方の大家など、おもだった人間が乗り出して仲裁しようとしたが、幸次郎が承知しない。
幸次郎のかたくなさに、ついに、居酒屋側の仲裁役のひとりだった道具屋の又兵衛が、「これほどまでに詫びているのに聞き入れないというのは、これしきの傷を金にするつもりかい」と、口走ってしまった。
とうとう幸次郎も完全に臍を曲げてしまい、仲裁は失敗した。
たまたま、幸次郎が懇意にしていた、神田松永町に住む橘屋千蔵がこの騒動を聞きつけた。
公事にくわしい橘屋千蔵は、ここぞとばかりに幸次郎を焚きつける。願書の書き方などに知恵をつけ、北町奉行所に訴え出た。
四月二十五日、幸次郎の訴えは取り上げられた。
五月一日、関係者十名が町奉行所に呼び出され、お白州に座らされて、事情聴取を受けた。
五月四日、二度目の呼び出しがあった。このとき、取調べにあたった吟味与力の高橋吉衛門は双方を叱りつけ、内済(示談)にするよう示唆した。
五月六日、三度目の呼出しがあった。このとき、幸次郎はそもそも今回の騒ぎは、三月に長屋の者一同で出かけた花見のとき、辰五郎が乱心したのが発端だと申し述べた。
五月七日、奉行所の示唆もあり、双方の代表が料理屋に集まり、内済の掛け合いをしたが、夜八ツ(午前2時)まで話し合ったものの、けっきょく物別れに終わった。
五月八日、四度目の呼び出しがあった。この日は、前回の幸次郎の証言を受け、三月の花見に参加した者全員が召集されたため、総勢九十三人もが奉行所に出頭する羽目となった。
ここにいたり、幸次郎もついに訴えを取り下げ、辰五郎が詫び証文を書くことで内済がきまった。  
僧侶
寛政八年(1796)、時の江戸町奉行坂部能登守の命により、町奉行所の役人が吉原や各地の岡場所などに張り込み、朝帰りする僧侶を一斉検挙した。検挙されたのは十七歳から六十歳までの六十七人で、宗派は日蓮宗、浄土宗、真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗など、ほぼすべての宗派に及んでいた。この六十七人は八月十六日から三日間、日本橋のたもとに晒された。これまでにも、僧侶が女犯の罪で召し取られ、日本橋に晒されるのは珍しいことではなかったが、せいぜい、一、二名だった。いちどきに六十七名もの僧侶が晒されたのは初めてだった。  
刃傷
延享二年(1745)のこと。長谷川町の裏長屋に、辻沢治という十六歳になる浪人の若者と、その母親のおかよが住んでいた。
たまたま、おかよが所用のためひとりで外出したところ、新大坂町に住む喜八という男が目をつけて、言い寄ってきた。喜八は四十六歳である。
もちろん、おかよは相手にしなかった。
喜八はよほど執着があったのか、おかよのあとをつけねらい、路上で言い寄ること数回におよんだ。
八月十三日、またもや喜八は道で待ち受け、さんざん口説いたが、おかよは無視して、つれない態度で歩き去る。
喜八はカッとなって、おかよをその場に押し倒し、殴る蹴るの暴行を加えた。
母親が道で乱暴されているという知らせを受け、辻沢治が駆けつけた。
辻は喜八を突き飛ばした。
母親をかかえおこし、「母上、おけがはございませんか」と、介抱する。
喜八が起きあがり、「へっ、素浪人が。腰に差しているのは竹光か」と、嘲弄した。
ここにいたり、辻も堪忍袋の緒が切れた。刀を抜くや、一太刀で喜八を斬り殺してしまった。
その後、辻は長屋の大家に届け出た。
町奉行所から検使の役人が来て、人を殺したことには違いないため、辻はいったん小伝馬町の牢屋の揚屋に収監された。
小伝馬町の牢屋は、身分によって差があった。庶民が収容されるのは一般牢、下級幕臣や諸藩の藩士、および士分に順ずるものは揚屋、旗本は揚座敷である。
辻は浪人なので、揚屋に収監されたのだ。
また、母親のおかよは、身柄を町内預けとなった。
その後、町奉行所が事情を調べたところ、町内の者はみな口をそろえて喜八の悪辣さを証言した。
これで、喜八のほうに非があるのは明白となり、辻は無罪放免され、おかよも預けを解かれて自由の身となった。
無罪を言い渡すに際して、町奉行の島長門守は辻の勇敢な行為をほめ、「よりより大名方へ其方どもうはさ申とらせ候べき」と、付け加えた。
どこかの藩に仕官がかなうよう、われらも話をしておいてやるぞ、というわけである。  
刃傷
俗に御厩河岸と呼ばれている浅草三好町の裏長屋に、辰五郎という職人が住んでいた。
文化三年(1806)十月二十二日の夜、辰五郎が仕事先から戻ってくると、道端の暗がりで、「助けてーっ」と、女が泣き叫んでいる。
見ると、女房のおかねが地面に押し倒され、上から侍がのしかかっていた。いましも、強姦しようとしている。
辰五郎は駆け寄り、侍を突き飛ばすと、「逃げろ」と、女房を救った。
侍は激昂し、刀を抜いて斬りかかってきた。
辰五郎はそのとき二十八歳である。出職の職人だけに度胸があるし、喧嘩にも慣れていた。逃げるどころか、さっと身をかわすや、相手のふところに飛び込んだ。腕をねじって刀をもぎ取り、逆に侍を斬り殺してしまった。
普通は、刃物を持った相手に素手ではとても太刀打ちできない。辰五郎が強かったというより、武士のほうがあまりに弱かったのであろう。後に、死亡した武士は西丸小十人組、都築金吾と判明した。れっきとした幕臣である。町奉行所に召し捕られた辰五郎は、「都築金吾を殺害に及び候始末、不届き至極に付き」として、死罪となった。  
名裁き
矢部定謙は大坂町奉行を務めているとき、名奉行とたたえられた。
天保十二年(1841)には江戸町奉行に起用されたが、わずか在任八ヵ月で罷免された。この背景には、天保の改革を推進する老中水野忠邦との対立や、町奉行の座を狙う鳥居耀蔵の陰険な画策があった。
矢部定謙が江戸町奉行だったときのことである。
本郷三丁目に久助という八百屋が住んでいた。
久助の女房が、近所に住む伝七という男と密通した。
女房の浮気を知った久助は、事を荒立てることなく、伝七に面会して、「あたくしはもう女房に未練はございません。もし女房がほしければ、差し上げましょう。それなりの挨拶をしていただければ、それでもう後腐れはございません。ただし、近所に住まわれてはあたくしも面目丸つぶれなので、引っ越してください」と、申し入れた。
伝七もこれを了承し、「肴代」として五両を久助に贈った。いわゆる慰謝料である。
これで一件落着したかに思われたのだが、その後、伝七はいっこうに引っ越す気配がない。
それどころか、まるで久助をあざ笑うかのように、女房と酒を呑んで毎晩、大騒ぎをしている。
久助はしばしば引っ越すよう申し入れたが、伝七はまったく取り合わない。
ついにたまりかねて、久助は町奉行所に訴え出た。
訴えを取り上げた矢部は、さっそく伝七を奉行所に召喚した。
ひととおり事情をたしかめた上で、糾問した。
「なぜ、当初の約束どおりに引っ越さぬのか」「あたくしも引っ越したいのは山々なのですが、引越しをする金がございません」「しからば、そのほうに引越料をくだし置くので、早々に引っ越せ」 そう命じるや、矢部は引越料として五貫文をあたえた。
伝七は他人の女房はもらうし、役所から引越料は支給されるはで大喜びである。
意気揚々と帰宅すると、なんと、わが家は封印されており、なかにはいることもできない。
驚いた伝七は、家主のもとに駆けつけた。
家主とは、地所や家屋の所有者である。
「いったい、どういうことですかい」「さきほど、お奉行所から命令があり、「公儀より引越料をちょうだいした以上、伝七はすぐさま引っ越さねばならぬ。この家にはもはや住むことはあいならぬ。伝七の家財道具一式は久助にさげ渡せ」との、ことでしてね。気の毒ながら、おまえさんはお上からちょうだいした五貫文を持って、女房とふたり、着の身着のままで、どこへでも行ってください」 それまで有頂天になっていた伝七も、一転して途方に暮れた。 
 
かたり

 

お稲荷さま
江戸に多いものは「伊勢屋稲荷に犬のクソ」といわれた。伊勢屋という屋号の商家、稲荷社、それに道の犬の糞である。稲荷社が多かったのは、江戸の人々の稲荷信仰がいかに盛んだったかを示している。
元禄十一年(1698)のこと。堺町の饅頭屋に武士が現われ、饅頭を求めた。ふたつを食べ、「さてさて、うまい饅頭じゃ。これまで、こんなうまい饅頭を食べたことはない。これからは、ここの饅頭にしよう」と、いたく感激した様子で、代金として銀五匁を置いた。
饅頭屋の亭主は驚いた。「こんなにいただくわけにはまいりません」「かまわぬ。取っておけ。わしは浪人じゃ。そのかわり、金がないときはただで食わせてもらうぞ」 そう言うや、帰っていった。
しばらくして、武士がふたたびやって来た。今度は饅頭を四つたべ、銀六匁を置いた。
饅頭屋の夫婦は武士のあまりの気前のよさに合点がいかない。
「もしかしたら、大身のお武家ではあるまいか」
そこで、奉公人に命じて、武士の屋敷をたしかめさせようとした。
奉公人がそっとあとをつけると、武士は裏長屋にはいっていく。
「ちと、雪隠を借りるぞ」
武士は長屋の共同便所で小用をする。そのとき、尻から狐の尻尾がちらりと見えた。
驚いた奉公人は店に駆け戻り、主人夫婦に報告した。
「ご浪人ではございません。正真正銘のお稲荷さまです」
「やはりそうだったか。このことは、誰にも言ってはならんぞ」
主人夫婦は狂喜した。
十日ほどして、武士が現われた。
夫婦は武士を二階座敷に招き、さまざまな料理でもてなした。
「お隠しになっても、あなたさまが稲荷さまであることは存じております。どうか、わが家がますます繁盛するようお願い申し上げます」「家を富貴にするには、加持をおこなわねばならぬ」「加持とはどのようなものでございますか」「たとえば、そのほうが百両所持しておれば、それを使い切ってもふたたび舞い戻るようにできる。ただし、加持をする金をまず水で清めたあと、杉原紙に包んで用意せよ。そうすれば、加持をしてやろう」「わかりました。つぎにいらっしゃるまでに準備しておきます」
数日後、武士が現われた。夫婦は三百両を杉原紙に包み、封印をして待っていた。武士は一室にこもり、加持をおこなった。四、五日後、どうしても金が必要になった夫婦は、神棚に置いていた包みを取り出し、封を切った。なんと、中身はすべて銅板だった。あとで、武士は有名な詐欺師とわかった。 
僧侶
須藤文左衛門という男がいた。番町あたりに屋敷のある幕臣の用人で、もっぱら金策を担当していた。
十二月の末、外出した須藤がたまたま池之端の茶屋で一服していると、かたわらに人品卑しからぬ老僧が座り、一服していた。
どちらからともなく会釈し、世間話が始まる。
須藤が歎いた。
「師走というのに、金策に駆け回っております」「さようですか。じつは、愚僧の知り合いが五、六百両の金をたしかなところに貸し付けたいと、貸付先をさがしております。できれば、身元のしっかりしたお武家がよろしいのです。愚僧も仲介を頼まれながら、とくにお武家の知人はなかったものですから、そのままになっておりました」「それは願ったりかなったりです。ぜひ、仲介していただけませんか」
須藤は自分の身元を告げた。
老僧も須藤が旗本の用人であると知り、安心した。
「では、あす、この茶屋で金主にお引き合わせいたしましょう。ただし、金主はいたって用心深い方ですから、愚僧とおんみが知り合ったばかりと言えば、きっと信用しないでしょう」「それはそうですな。では、どうしましょうか」「数年来、おたがい金の貸し借りをして、きちんと返済していたようにするのがよろしいでしょう。あす、三十両を持参してください。愚僧は証文を持参します。金主の前で三十両の受け渡しをおこなえば、きっと信用するでしょう」「なるほど」
こうして話がまとまり、須藤と僧侶は分かれた。
翌日、須藤が茶屋で待っていると、昨日の老僧が立派な禅門といっしょに現われた。
まずは酒や料理が出る。
ややあって、須藤が借金を申し入れた。
禅門は慎重である。
「千両までならご用立てはできますが、なんせ、初めてのお方ですからな」 そばから、老僧が口を添えた。「須藤どのには数年来ご用立てしておりますが、これまで一度も返済がとどこおったことはございません。きょうも、せんだってご用立てした三十両を持参いただいたほどです」 そのことばに応じて、須藤がふところから三十両を取り出した。
老僧は引き換えに、証文を取り出す。三十両と証文の交換を見て、禅門も須藤を信用したようだった。「では、千両でも五百両でもご用立ていたしましょう。あす、寺に来てください」と、深川の寺を教えた。
その後、酒盛りとなり、禅門はさきに引き取る。須藤は金策がうまくいき、上機嫌で大いに飲んだ。ふと気づくと、いつのまにか老僧もいなくなっていた。茶屋の主人に尋ねると、「お坊さんはさきほど、お帰りになりましたよ。こちらの払いは、お武家さまがなさるとのことでした」と、意外な答えである。
須藤はちょっと驚いたが、なにか急用ができたのであろうと察し、やむなく茶屋の払いをすませた。
つぎの日、須藤が教えられた深川の寺を訪ねると、そんな禅門はいないという答えだった。 
風呂敷
元禄十一年(1698)のこと。玄入という生薬屋が愛宕山の縁日で出店を開いているところに、ひとりの男がやってきた。
「ちと所用があるものですから、おまえさんの風呂敷をしばらく貸していただけませんか。もちろん、見ず知らずの人間に貸すのは不安でしょうから、銭一貫文をあずけます。日暮れまでに風呂敷を返さなかったら、この銭を取ってもかまいません」
どうせ風呂敷は店じまいするまで必要がないし、千文の担保があれば安心である。玄入は風呂敷を男に貸した。
男はすでに調べていたのか、すぐさま玄入の店に向かった。
女房に会い、言った。
「玄入さんに頼まれました。愛宕下のお大名家から呼ばれたそうで、上等の着物二着、帯、羽織を用意し、この風呂敷に入れてすぐに持ってきてくれとのことでございます」
風呂敷が亭主のものであることから、女房も信用し、言われた衣類を包んで渡した。
日暮れ前、男が愛宕山の玄入のもとにやってきた。礼を言って風呂敷を返し、あずけていた一貫文を受け取ると、去っていった。
出店を閉じて、玄入が帰宅すると、女房がさっそく言った。
「お大名家に呼ばれたとのこと。首尾はどうでしたか」「え、なんのことだ」 玄入はぽかんとしている。女房が風呂敷に衣類を包んで渡したことを告げた。ようやく玄入も詐欺にあったことに気づいた。 
即身成仏
享和年間(1801-04)のこと。「御先手組同心の娘が死去したが、日ごろの深い信心のゆえか、その遺体はいつまでたっても生きているかのようである。即身成仏であろう。金杉村にある浄土宗の安楽寺で、その姿を拝むことができる」 という噂が広まった。
安楽寺では、娘の遺骸を厨子におさめ、大勢の僧侶が読経を続けた。これを聞いて、浄土宗の信者はもちろんのこと、野次馬もふくめて多くの人がひと目でも見ようとつめかけ、寺は大混雑となった。参詣の人々が投じる賽銭も莫大な額にのぼった。ところが、厨子のなかの死体があるとき、ゴホゴホと咳をした。これで、嘘がばれてしまった。このことが本寺にも知れ、取り調べられることになったため、住職は出奔してしまった。じつは住職はかねてから寺に女を囲っていたのだが、金に困り、女に命じて即身成仏の真似をさせたのだという。もちろん、人を集めて賽銭を得るのが狙いだった。 
留守居役
留守居役は藩の対外折衝係で、江戸藩邸に住んでいた。幕府の役人や、他藩との交渉に従事するのが役目である。その役目柄、接待交際費を自由に使える立場だった。諸藩は例外なく財政難に苦しんでいたが、留守居役の出費には制限を加えなかった。
諸藩の留守居役同士で会合を持つことも多い。表向きは情報交換という名目だが、実際は使い放題の接待交際費で豪遊していた。
高級料亭では、金に糸目をつけない留守居役は上客だった。
遊び慣れているため、留守居役には三味線を弾いたり、浄瑠璃を語ったりと、粋人が多かった。
文化十三年(1816)四月初め、両国の料理屋に身なりの立派な武士三、四人が駕籠で乗りつけた。中間が挟箱をかついで供をしている。
初めての客だったが、みなどこかの藩の留守居役らしいことから、料理屋では下へも置かぬもてなしをする。
武士が言った。
「芸者を四、五人呼んでくれ。流行っている女を頼むぞ」
そこで、料理屋はそのころ売れっ子の芸者五人を呼び寄せた。
芸者が来て、宴席はにぎやかになる。
日が暮れかけたころ、武士のひとりがやや酔った様子で、「そなた、よろしく取り計らい、ここの払いをしてくれ」と、芸者のひとりに財布を渡した。
中には十両ほどはいっていたので、芸者はそれで料理屋の払いをすませると、財布を武士に戻した。
別な武士が言った。
「これから堺町に行き、最後の一幕を観せてやろうか」
芸者たちは大の芝居好きである。
みな、大喜びだった。
「ただ、そのほうらと一緒だと目立つからな。できるだけ、地味なかっこうをしたほうがよい」
武士たちは、中間がかついでいた挟箱から地味な衣服を取り出し、着替えた。それまで着ていた衣服は挟箱に収納する。
「そのほうらも、着物を着替えるがよい。芝居小屋の混雑で抜き取られるかも知れぬから、髪に挿した物もすべてはずせ。ついでに挟箱に収めて運んでやる」
そこで、芸者たちも料理屋で女中の仕着せの着物を借りて、着替えをした。それまで着ていた派手な着物や、簪や櫛などはすべて挟箱に収納した。
みなで連れ立って、堺町の芝居小屋に出かけた。あとから、挟箱をかついだ中間が従う。
ところが、堺町に着くと、目的の芝居は終わったところだった。
「これは、残念。せっかくここまで来たのだ。ちょいと、ここで一杯やろう」と、武士たちは、そばにある料理屋を示した。芝居がはねた直後だけに、客がどっとつめかけて料理屋は大混雑である。
芸者たちは二階座敷に通されたが、いつまでたっても武士があがってこない。不審に思って料理屋の奉公人に尋ねると、武士と中間は混雑にまぎれていなくなっていた。
留守居役をよそおった巧妙な詐欺だった。
五人はみな売れっ子の芸者だっただけに、座敷用の着物も、簪や櫛などの髪飾りも高価だった。それらを、そっくり巻き上げられてしまったのだ。 
退治
明和・安永(1764-81)のころ、江戸で小便組という一種の詐欺が流行した。
若くて美貌の女が、妾奉公を望んでいる。たまたま、妾を囲いたいと願っていた大店の主人などは、女をひと目見るや、その容色に迷い、高額の前金を出して、契約を結ぶ。
別宅を借り受け、同衾を始める。ところが、女には思いがけない悪癖があった。なんと、毎晩、寝小便をするのだ。旦那も、これには閉口する。「これは、あたくしの病でございます。しないようにしようとしているのですが、どうしても治りません」妾がさめざめと泣きながら謝ると、旦那としても叱ったり、責めたりもできなかった。
病気とあれば、仕方がない。けっきょく、旦那は暇を出す。
旦那の側からの契約破棄だし、同情もあるため、前金で渡した金を返せとはいいにくい。数年契約だったはずが、ほんの半月や、数日で終わってしまい、金は戻らない。旦那としては大損である。
暇を出された女は素知らぬ顔をして、別な奉公口をさがす。
もちろん、先方から暇を出させるよう、わざと寝小便をしていたのだ。
この詐欺は小便組と呼ばれて評判になり、あちこちで真似をする女が続出した。引っかかる男も、あとを絶たなかった。
ある旦那が妾を囲ったところ、寝小便の癖がある。「ははん、例の小便組だったか」と、自分がだまされたことを知った。
それにしても、このまま暇を出して、みすみす金を失うのは悔しい。
そこで、旦那はひそかに医者に相談し、一計を案じた。
旦那が妾に言った。「おまえの病気が不憫でならぬ。どうにかして治してやりたい。きょうは、名医をお呼びした」やおら、医者が登場する。
「寝小便を治すツボがありましてな。そこに灸をすえれば、いっぺんに治りますぞ」妾は思いがけない展開に内心狼狽したが、いまさら逃げも隠れもできない。
やむなく、灸の療治を受けることになった。
医者は妾の下腹部をあらわにし、そこに、モグサを鶏卵の大きさほど盛りあげ、火をつけた。
火がじわじわと下におりていく。まさに、炎熱地獄である。
妾もその苦悶に耐えられず、「熱い、熱い、これでは焼け死んでしまいます。勘弁してください」と、許しを乞い、その日から、寝小便はピタリとやんだ。
この対応策がぱっと広まり、あちこちで、旦那は妾が寝小便をすると下腹部に巨大な灸をすえるようになった。以来、さしもの猖獗を極めた小便組もピタリと終息した。  
小便組
明和・安永のころ、江戸で小便組という妾による詐欺がはやったことは「第32話小便組を退治」に記した。寝小便をする妾に大きな灸をすえるという対処法である。
同じころ、ある幕臣が口入屋を通じて妾を雇い入れた。
三日ほどはおしとやかだったが、その後は連夜のように布団に寝小便をする。
「ははん、例の小便組か」 幕臣は察したが、まるで寝小便など気にならないふりをしていた。
妾は寝小便では効き目がないと見て、ついには布団のなかで脱糞した。
それを見ても、幕臣はべつに怒った様子もない。すぐに下男に命じて、庭にムシロ掛けの小屋を作らせた。
「こやつは人間ではない。犬畜生じゃ」 犬をつなぐような太縄を妾の首に巻き、小屋のそばに打った杭にくくり付けさせた。
小屋の中で生活させ、毎日、屋敷内の残飯を皿にのせてあたえた。大小便もその場でさせる。
客が来ると、幕臣は庭の小屋と妾を見せた。
「ごらんあれ。布団にクソまでまき散らした畜生を飼っております」
事態を聞きつけ、口入屋の主人や、女の親などが謝罪に訪れ、身柄を解放するように頼んだ。
幕臣は取り合わず、「畜生を人と見誤ったのは拙者の粗相である。しかし、高い金を払った以上、約束の日数は飼うつもりじゃ」と、追い返した。
けっきょく、百日余りも犬同然のかっこうをさせられたあげく、妾は許されたという。 
醜女
神田旅籠町一丁目に髪結床があった。亭主は松五郎といい、先妻とのあいだにひとり、後妻のお千代とのあいだに三人の、合わせて四人の娘がいた。
嘉永元年(1848)の夏、松五郎が死去したことから、一家の生活は困窮した。
お千代はやむなく、先妻の子で長女のお兼を柳原岩井町の飴屋に奉公に出し、自分の子の次女を吉原の妓楼に内芸者に出した。
さて、飴屋に奉公に出た長女のお兼は不器量だった。そのため、二十歳を過ぎても嫁に行かず、実家にとどまっていたのだ。
飴屋の主人の源左衛門は常々、「商売柄、甘いものは食い飽きた。たまには、塩辛いものを食いたいくらいだ」と、うそぶいていた。
この源左衛門が、お兼に目をつけた。「これこそ、たまに食べるとうまい塩辛物じゃ」とばかり、ある晩、お兼を手ごめにした。
醜女のためそれまで男も相手にしなかったのか、お兼は生娘だった。しかも、なかなか女陰の具合もよい。
源左衛門は夢中になり、お兼と秘密の関係を続けた。
そのうち、お兼の腹部が目立ってふくらんできた。
あわてたのは源左衛門である。醜女の奉公人を妊娠させたとあっては、女房子供の手前、面目丸つぶれである。
そこで、人を頼んで、母親のお千代に掛け合わせ、「お兼は腹が大きくなった。三両をつけるので、引き取ってくれ」と、申し入れた。
お千代は驚き、「亭主に死なれて貧乏しております。わずか三両ばかりで、腹の大きくなった娘を引き取るわけにはいきません」と、突っぱねた。
困った源左衛門は悪知恵をめぐらし、かねて懇意の岡っ引の勘蔵に相談することにした。
嘉永三年の三月、源左衛門は両国の茶屋で勘蔵と、その子分ふたりと会い、悪だくみを持ちかけた。
たまたま、この密議を立ち聞きしていた人がいた。これが、後に冤罪を晴らすことにつながった。
三月二十日、源左衛門は自分の娘の着物と金三分を持たせ、お兼を使いに出した。途中で、かねて打ち合わせた通り、勘蔵の子分たちがお兼を捕らえ、主人の金と着物を盗み出したとして召し取り、とうとう牢に入れてしまった。
お兼が入牢したのを知り、茶屋で立ち聞きした人が、これは悪だくみだと、お千代に教えた。お千代はすぐさま北町奉行所に駆け込み訴えをしたが、取りあげてもらえなかった。なおもあきらめず、お千代は四月五日、火付盗賊改の水野甲子二郎が江戸城に登城するのを待ち受け、駕籠訴をした。水野がこの訴えを取りあげ、さっそく調査がおこなわれた。召し取られた源左衛門はきびしい拷問を受けて、すべてを白状した。  
祈祷師
豊島町に住む左官職人の家に、亀次郎という弟が同居していた。年齢はまだ三十の手前だった。
亀次郎は日ごろから熱心に金比羅を信仰し、家に勧請したほどだったが、ついには感応を得たと言って、文化七年(1810)の春ころから、数珠をふるって各種の病気を治す加持祈祷を始めた。
その加持祈祷は霊験あらたかという評判が広まり、人々が詰め掛けるようになった。夏には、人出をあてこんで路地の入口に飴や菓子を売る屋台が並ぶほどだった。
家には、「勧進ハ不出」の札をかけているため、祈願のある者が出向かなければならない。
あまりに人がふえたため、八月になると近所に百坪ほどの土地を借りて移った。周囲を高い板塀で囲い、なかには生垣をめぐらした百度参りの場所ももうけた。
表には、「吉田殿配下坂本安房」という表札を掲げた。
亀次郎は坂本安房と改名したわけである。吉田殿配下と記すことで、いかにも由緒ある身分に思える。
ますます参詣人は増え、百度参りや、男女の裸参りまで現われるようになった。
近所の空家はすべてふさがり、お神酒を売る酒屋、供えの餅を売る餅屋、休息する水茶屋、料理屋が建ち並んだ。まさに、門前町ができるほどのにぎわいとなった。
あまりに評判になったため、ついに寺社奉行が乗り出し、亀次郎や兄、そのほか関係者はすべて召し捕られた。
後に判明したところによると、百度参りや裸参りもそのほとんどはサクラだった。百度参りの者には百文、裸参りの者には二百文、女の裸参りには銀二匁、を支払っていたという。
とくに女の裸参りは、腰巻もつけない真っ裸だった。この女は、願人坊主の女房だったという。  
盲人
安永九年(1780)のこと。若い武士が二、三人の供を連れて浅草のあたりを通りかかった。たまたま、向こうからやってきたひとりの盲人が、武士が通りかかったのを知って、声をかけてきた。
「もし、お武家さま」「なんじゃ」 盲人は武士のそばに寄ると、ふところから封をした手紙を取り出し、「国元から書状が到来したのですが、盲のこととて、読むことができません。少々気がかりの儀もあって、みだりに人に読み聞かせてもらうわけにもまいりません。恐れ入りますが、読み聞かせていただけませんでしょうか」と、丁重に頼んだ。
供の者は目配せしたり、袖を引いたりして、主人を制止しようとした。
武士は盲人に同情して、「そうか。では、読んでつかわそう。封を切るぞ」と、手紙の封を切り、読み上げた。
そこには、「金を送れとのことであるが、こちらも不作で窮乏している。とりあえず、二百疋(金二分)を送金する」という意味のことが書かれていた。
盲人は聞き終えると、「さてさて、ありがとう存じました。在所でも金を工面するのは難しいようでございますな。二百疋でもやむを得ますまい。では、その二百疋をお渡しください」と、手を差し出す。
武士は驚いた。「文面には金を送ると書いてあったが、金はなかったぞ。別便で送るのではないのか」「わしを盲とあなどり、金を盗むつもりか」 盲人は怒り出し、大声を上げた。武士や供の者があわててなだめるが、盲人は納得しない。周囲に聞こえるように、ことさらに声を張り上げてののしり続ける。
通りがかりの人々はみな盲人に同情し、遠巻きにして成り行きを見つめている。これには武士もほとほと閉口した。相手が盲人だけに、手荒な真似もできない。このままでは、自分が悪者になってしまうし、世間の噂にもなりかねない。金の持ち合わせがなかったことから、武士はやむをえず盲人を屋敷に同道し、そこで二百疋を払ってようやく納得させた。  
京女
江戸の男が京都に滞在中、冗談半分、宿屋の亭主に持ちかけた。
「京都の遊女は東女とは違い、やさしいということですが、できることなら、遊女ではなく、素人の女としてみたいものですな。京女と寝たといえば、江戸に帰ってからの土産話になります」すると、亭主が言った。
「物入りさえ覚悟していただければ、御所に勤めているお公家の女をご紹介できますよ」「え、本当ですか。是非、お願いします。金に糸目はつけませんから」 男は亭主に頼み込んだ。
数日後、亭主は、「では、祗園でお望みをかなえましょう」と言い、まず手付金を要求した。昼過ぎ、共に祗園の茶屋に出向き、酒を飲みながら待ち受ける。やがて、豪華な駕籠で二十歳くらいの雅な女がやってきた。局のような老女が付き添い、六十歳くらいの武士が供をしていた。
いかにも公家の娘らしき気品に圧倒され、男はまともに顔をあげることもできない。そばから、老女が娘に言った。「きょうは寺社の代参で、お忍びの外出でございます。堅苦しい礼儀は抜きで、御酒でも呑みながら、うちくつろいで鄙の話などうけたまわってはいかかですか」
また男に、「われらはちと、見物したいところもございますので」と言い残すや、老武士と老女は座敷から出て行った。案内してきた宿屋の亭主も気をきかせて座敷から姿を消す。
あとは、公家の娘と男のふたりきりである。しっぽり濡れ、男は望みをかなえた。その後、戻ってきた老女・老武士への謝礼、茶屋への払い、駕籠かき人足への祝儀、宿屋の亭主への謝礼など、合わせて五、六十両かかった。
その後、女は公家の娘などではなく、京都で白人、江戸では地獄と呼ばれる私娼とわかった。供の武士や老女もみな偽者だった。男は笑って言った。「たかが白人との一度の契りに大金を使い捨てしおかしさよ」 
稲荷大明神
吉原に、あみ屋という揚屋があった。主人は甚左衛門といい、六十を過ぎていた。高齢のため、寒い夜は小用が近くなる。夜中に二、三度起き出して便所に行くのが常だった。ある晩の七ツ(午前4時)過ぎ、庭にある外便所で小用をすませて寝床に戻ろうとすると、背後からしわがれた声がした。
「甚左衛門、甚左衛門」 声のするほうを、わずかな月明りにすかして見た。
庭の片隅に、幹まわりがひとかかえもある大きな柏の木があった。その分かれた枝のところに、白衣を着て恐ろしげな容貌をした男がかがんでいる。
普通の男であれば肝を潰して逃げ去るか、気絶してしまうところであろうが、甚左衛門は度胸があった。
「何者なるぞ」「我は、汝が長年信心する稲荷大明神なり。汝、常々福分を祈れども、汝に授くる宝なし。さりながら、汝が一子こそ大果報の備わりたる者なれば、早々身代を譲りなば、家の繁盛とならん。必ず神慮を疑うな」
これを聞くや、甚左衛門はその場に土下座し、「これは、ありがたきご神託でございます。このことを女房にも知らせ、ご神体を拝ませたいと存じますので、しばらくそのままお待ちください」と言い、いったん家のなかにはいった。
甚左衛門は三尺ほどの木刀を隠し持ち、ふたたび柏の木のそばに戻った。
「とてものことに、わが家にお成りくださりませ。お神酒を差し上げたいと存じます」「近づくと神罰が当たるぞ。さがれ、さがれ」 そこを、甚左衛門が木刀で撃ちかかる。
柏の枝の上にいた男はあわてて飛び降りたが、足をもつれさせ、うつぶせに転んでしまった。
その上に甚左衛門が馬乗りになり、すばやく三尺帯で縛ってしまう。
家のなかに引っ張り込んで行灯の明りで見ると、顔には狐の面をかぶっている。
面をはずすと、なんと息子の与平次だった。
甚左衛門はさんざんに殴りつけたあと、与平次を家から追い出してしまった。  
落胤
品川宿で煙草屋を営む藤兵衛は時々、流しの按摩を呼んで揉み療治をさせていた。
按摩は盲目だが、物知りで、話好きの男だった。
文政元年(1818)、五、六回目くらいのとき、按摩が身体を揉みながら声をひそめた。
「おまえさんはご存知ないでしょうが、じつは土佐(高知県)藩山内家のご落胤ですぞ。おまえさんの母さまがかつて山内さまのお屋敷で奉公しているとき、お殿さまのお手がついて懐妊したのですが、世間体をはばかって暇が出たのです。母さんは町人に嫁ぎ、おまえさんを生んだわけですな。
このほど山内家では男子が絶え、懸命に血筋の者をさがしていたところ、おまえさんのことがわかったというわけです。いま、おまえさんに山内家を継がせるべきかどうか、話し合いの最中です。近いうち、使者のお武家が訪ねてくると思いますぞ」
藤兵衛は驚いた。
「まさか。なぜ、按摩のおまえさんがそんなことを知っているのかね」「あたしは商売柄、お武家屋敷にもお出入りしますからな」 按摩は意味深長な笑みを浮かべている。
半信半疑ながらも、藤兵衛は驚喜した。
四、五日後、草履取を供に連れた武士が藤兵衛の家を訪ねてきた。「亭主はおるか」 たまたま按摩もやってきて、武士が山内家の家来であることを受け合った。藤兵衛は酒と料理を取り寄せ、武士と按摩をもてなした。「屋敷に案内したいが、まだ正式に決まってはおらぬので、昼間というわけにはいかぬ。夜分、目立たぬように屋敷に案内しよう」
そう言うや、数日後を約して、武士は帰っていった。大名屋敷を訪ねるのに、町人のかっこうというわけにはいかない。藤兵衛は家財道具を売り払い、その金で大小の刀と羽織袴を買い求めた。当日の夜、按摩と一緒に山内家の屋敷に出向いた藤兵衛は、酒と料理を馳走になった。
翌日、按摩がやって来て言った。
「あと十日のうちに、おまえさんは正式にお屋敷に招かれるはずです。もはや家財道具など必要ありません。駕籠一丁、絹夜具一式、大小の刀、裃さえあればじゅうぶんです。早く準備をしてください」 といっても、もう売り払うようなめぼしい家財道具もないため、藤兵衛は十六歳になる娘に、「大名になったら、駕籠で迎えにやるから、それまで少しのあいだ辛抱してくれ」と因果を含め、品川の女郎屋に売った。
藤兵衛は娘を売った金で用意をととのえ、近所へ挨拶まわりをした。
思いがけない出世を知るや、みな争うように酒や料理を贈り、「血は争われぬといいますが、おまえさんはどこか、ただの町人とは違うところがありましたな」などと追従を述べた。
なかには、「どうか、お屋敷にお出入りできるようにしてください」と、土佐藩御用達になれるよう頼む商人もいた。
さて、当日の八ツ(午後2時)過ぎ、駕籠かきの中間四人を引き連れ、くだんの武士が迎えにやってきた。
「目立たないよう、六ツ半(午後7時)に屋敷にはいるつもりじゃ」
同道している按摩が、「まだ、時間があります。まずは、お迎えの方々に一献差し上げてください」と言う。
藤兵衛は料理屋から酒と料理を取り寄せ、家財道具もないがらんとした家のなかで、侍と中間四人、それに按摩をもてなした。
日が傾き、そろそろ出立というとき、中間のうちのふたりの姿がない。
「いったい、どこに行きやがった」と、あとのふたりが呼びに出かけたが、そのまま戻ってこない。
武士が怒り出し、「憎っくき中間どもめ。酒が足りないというので、近所の居酒屋で飲んでいるに違いあるまい。叱りつけてやる」と、荒々しい足取りで出て行った。
そのまま、武士も戻ってこない。
ついには、按摩が言った。
「時刻も移るのに、困りましたな。じつは、あたしに心あたりがあります。ちょいと、呼んできましょう」と、按摩も出て行った。けっきょく、翌朝になっても、誰も戻ってこなかった。
近所の人々は藤兵衛の出立を見送るのを楽しみにしていたのだが、その様子がなかったため、夜が明けてから、藤兵衛の家にやって来た。
戸をあけると、裃姿の藤兵衛が腰に大小の刀を差して駕籠のそばにいた。かたわらには、絹夜具がたたまれている。
藤兵衛は近所の人々の顔を見て、「按摩はまだ戻らぬか」と、威張ってたずねた。
近所の人々が集まっていろいろ話し合ったが、按摩の住まいは誰も知らなかった。また、藤兵衛が案内された武家屋敷といっても、夜分のことであり、場所もはっきりしない。おそらく、料理屋の一室であろうと推理できる。そんなことから、だまされたに違いないという結論に達した。家財道具を失ったうえに、娘まで宿場女郎に売ってしまい、藤兵衛は居たたまれなくなったのか、そのまま出奔した。  
仇討ち
宝暦(1751-64)のころ。春爛漫の三月、浅草の浅草寺は多くの参詣や行楽の人々でにぎわっていた。
雑踏のなか、深編笠をかぶり、腰に朱鞘の刀を差した、恰幅のよい武士が歩いていた。横合いから、十六、七歳の武士が大きな声で呼びかけた。「待たれよ。貴殿はまさしく、篠田群右衛門どのと見受けたり。それがしは清水惣左衛門がせがれ、惣次郎なり。父惣左衛門をよくこそだまし討ちにして殺し、立ち退きしよな。これによって、それがしはお暇をちょうだいし、そこもとの行方をあなたこなたと尋ねしに、今日めぐり合うこと、ひとえに大慈大悲のお引き合わせ、待ちわびたる優曇華の対面、いざ尋常に勝負あれ。父の敵、やらぬ、やらぬ」
恰幅のよい武士は、深編笠をはずし、「なるほど、たしかに覚えあり。聊爾あるな。逃げ走るものではない。いかにも勝負いたすべし。持つべきものは、子であるのう」と、感服の様子である。
ややあって、ことばを続けた。「ただいま、ここで討たれるべきであろうが、それがしは仕官をいたし、いまは主人の所用の途中である。敵討ちは暫時、待っていただきたい。まずは主人の用を済ませてから、きょう中に暇を取り、明日、高田馬場で出会い、尋常の勝負をしようではないか。けっして嘘偽りは言わぬ」 その真摯な口調と態度に、若い侍も納得した。
「さようであれば、無理にもここでとは申すまい。では、明日、必ず高田馬場で出会わん」 こうして約束をするや、ふたりは分かれた。
それまで、ふたりを遠巻きにして、成り行きを固唾を呑んで見守っていた人々は大騒ぎである。
「明日、高田馬場で敵討ちがあるぞ」と、触れ回った。たちまち、噂が江戸中に広まる。
翌日、高田馬場には早朝から大勢の老若男女が詰め掛けてきた。「いまか、いまか」と、ふたりの武士の登場を待ち受ける。ところが、昼を過ぎ、夕方になっても、けっきょく武士は現われなかった。「なんだ、だまされたか」と、見物人はガッカリして引きあげ始めたが、気が付くとみな、財布、印籠、鼻紙入、脇差の小柄、下げ緒など、なにかがなくなっていたという。
スリが一芝居を打って、人集めをしたものと思われた。四月にも、本郷の馬場で同じような敵討ちの騒ぎがあり、大勢の見物人が押し寄せたが、やはり持ち物をすられただけに終わった。  
 
たかり・ゆすり・おどし

 

生首
天保の初年ころ、青梅村一帯の質屋に浪人者が風呂敷包みを持参し、「これで金を貸してくれ」と申し入れることが相次いだ。
外見から、風呂敷包みの中身は生首に相違ない。
質屋はおびえて、いくばくかの金を包んでお引取り願うのが常だった。
生首を持参する浪人は評判になり、ついに八州廻りの役人に召し捕られた。
観念したのか、浪人はすべてを自供した。
それによると、過去六、七年のあいだ駿河、甲州はもとより、広く東海道一帯でこの商売をしていたという。
まず、ひとりでいる乞食を見つけると、こうさそった。
「拙者と組んで金もうけをせぬか。きさまを縄で縛って近くの村に行き、拙者が「手打ちにいたす。覚悟しろ」と怒ってみせる。きさまは、「助けてくれ」と、大声で叫べ。すると、村人が集まってきて、どうしたことかとたずねるであろう。そこで、拙者が「この者はかつて拙者が召使にしていた下男でござるが、一両の金を盗んで逃げた。たまたまきょう、道で出会ったので召し捕り、手打ちにするところでござる」と説明する。村人は村の中で手打ちにされては困るため、みなでいくらかずつ出し合って一両を作り、「これで勘弁してやってください」と言うであろう。あとで、金は山分けじゃ。どうか」
乞食は、「おもしろい。やりましょう」と同意する。
そこで、浪人は乞食を人のいない川原などに連れて行き、荒縄で縛って抵抗できなくした。そのあと、口に手ぬぐいや泥を詰めて声をあげられないようしておいてから、サスガという刃物で首を切った。
役人がなぜサスガを用いたのかと問うたのに対して、浪人は、「人の首を切るにはサスガが一番です。サスガで少しずつまわりの肉を切り、骨ばかりが残ったところであお向けにグイとねじれば、ポキンと簡単に折れます」と、答えた。
こうして生首で質屋をおどして金をゆすり取り、用済みになった首は草むらなどに捨てていたという。  
生首
安政二年(1855)四月二十三日の夜五ツ(午後8時)過ぎ、浅草花川戸町の榊屋という質屋に、脇差だけを差した武士が手に風呂敷包みを持って訪れた。
武士は応対に出た番頭に向かい、「金が入用なので、百両貸してほしい。ここに、質物を持参した」と、風呂敷包みを出した。
包みを解くと、中身は女の生首だった。
切り口からはドクドクと血が流れ出ている。
番頭は仰天したが、かろうじて平静をよそおい、「はい、ご用立ていたしましょう。奥より持ってまいりますので、しばらくお待ちください」と、いったん店の奥に引っ込んだ。
着物の裾を尻っ端折りして、襷をかけた。
六尺棒を手にして出て行くや、「金がほしければ、力ずくで奪ってみよ」と、打ちかかった。
武士も六尺棒で不意に殴りかかられ、あわてふためいて外に逃げ出す。
番頭はなおも、「火事だ、火事だ」と、大声で叫んだ。近所から人が飛び出してくる。とうとう、武士はそのまま逃げ去った。
あとで調べてみると、生首は達磨のような、中ががらんどうの細工物だった。底に染料の蘇芳の実を煎じたものが入れてあり、揺らすと真っ赤な液体がにじみ出る仕掛けになっていた。なお、榊屋の番頭は俳諧が趣味で、文路という俳名を持っていた。日ごろから道場にもかよって、剣術の腕前もなかなかのものだったという。  
ぼったくり
文化四年(1807)六月、奥州から江戸に出てきた長蔵ら農民四人が吉原見物にやってきた。
長蔵らが京町二丁目にさきかかったとき、松岡屋の楼主の百五郎が若い者に言った。
「あの四人は田舎者だ。いいカモだぞ。うまいこと言って、連れ込め」 若い者が長蔵らをさそった。
「どうか、おあがりください」「わしらは見物だけじゃ。とても女郎買いをする金はない」「女郎買いはせず、二階座敷でちょっと酒と料理を楽しむだけなら、お安くしておきます」「じゃあ、国の土産話に、あがってみようか」 四人はその気になり、松岡屋にあがった。
長蔵たちが二階にあがると、百五郎が客のついていなかった遊女を芸者に仕立てて座敷に出し、酒の酌をさせた。いざ勘定という段になって、松岡屋は四両二分二朱を請求した。四人は驚き、抗議した。
「とんでもない額ではないか。安くしておくと言ったではないか」「酒と料理は安いのですが、芸者の花代が高いのです」「とてもそんな金は払えない」「もし払わないなら、吉原の掟に従い、みな髪を半分剃ります」 松岡屋の若い者が取り囲んでおどした。長蔵らはやむなく、請求された金を払った。
四人は宿泊していた馬喰町の旅籠屋に戻ると、吉原でひどい目にあったことを告げた。宿屋の主人の庄兵衛が怒った。「在所の衆をだますとは。あたしが掛け合いましょう」 庄兵衛は奉公人ひとりを供に連れて、松岡屋に乗り込んだ。楼主の百五郎は遊女に命じて、庄兵衛らを殴らせた。たまらず庄兵衛と供は遊女を突きのける。「女に乱暴をするとはなにごとじゃ」 百五郎は若い者に命じて庄兵衛と供を縛りあげた。遊女が突き飛ばされて怪我をしたと言いがかりをつけ、詫び証文を書かせた上、膏薬代として金二分を払わせたあと、やっと庄兵衛と供を解放した。
庄兵衛は泣き寝入りせず、町奉行所に訴え出た。松岡屋の楼主百五郎はじめ、若い者や遊女すべてが召し捕られた。調べると、松岡屋では以前にも、吉原見物に来た男を強引に引っ張りこみ、高額の請求をしていたことがわかった。
楼主の百五郎は引廻の上、獄門に処せられ、首は小塚原の刑場に晒された。加担していた若い者は敲きの上、中追放に処された。遊女たちは六ヶ月の入牢後、親元に引き渡された。  
騒動
江戸時代も後期になると、生活水準の向上にともない、伊勢参りなどの旅行が盛んになった。
とはいえ、当時の旅行はかなりの日数を要したし、多額の経費もかかった。また、道中の事故や病気で不慮の死を遂げることも少なくなかった。そのため、旅立ちとなると、江戸四宿と呼ばれる品川、内藤新宿、千住、板橋まで家族はもちろん、友人知人や近所の人までが見送りに行くのが普通である。また、たとえば飛脚などで何月何日に品川に到着予定と伝えてくると、その日は大勢が品川まで出迎えに行った。
小石川御箪笥町に伊勢屋という質・両替屋があり、分限者として知られていた。主人の長兵衛が伊勢参りに出かけ、帰りは中山道経由で板橋宿に到着した。文政五年(1822)五月二十二日のことである。当日、家族や友人知人、伊勢屋の奉公人や出入りの職人など六十人を超す人数が板橋宿に出迎えに来た。長兵衛はこれら出迎えの人をねぎらうため、板橋宿でも一番の川越伊勢屋という料理屋で酒と料理をふるまった。
川越伊勢屋で酒宴をすませ、小石川御箪笥町に向かって歩いていると、途中で十四人もの鳶の者や大工が出迎えにくるのに出会った。「旦那、お帰りなさいませ。わっしらも板橋宿までお迎えにあがるところでした」 彼らは伊勢屋に出入りの職人ではない。長兵衛の出迎えにかこつけ、酒食をたかろうという意図は見え見えだった。長兵衛は業腹だったが、相手が気の荒い鳶や大工だけに、冷淡な応対をするとあとが怖い。そこで、出迎えにきていた番頭の吉兵衛にそっと耳打ちした。「やむを得ない。連中を川越伊勢屋にあげ、呑ませてやりなさい。ただし、予算は金一両。それ以上は無用じゃ」
番頭の吉兵衛が十四人を連れて川越伊勢屋に戻った。なかには、吉兵衛が顔を知らない者までまじっていた。酒宴が始まる。十四人はそれぞれ勝手に次々と料理を注文するが、あらかじめ吉兵衛が店の者に予算を告げていたため、いっこうに料理は出てこない。酒に酔った勢いで、十四人が悪口雑言を吐き散らす。これを聞いて、板橋宿の駕籠かき人足の親方である六助が乗り出し、「ほかのお客もいなさることだ。ちょいと静かにしなせえ」と、連中を諌めた。しかし、火に油をそそいだようなものだった。十四人はいきり立ち、「なにおぉ、てめえはなんだ。俺たちは江戸っ子だ。板橋の田舎者が」と、六助を袋叩きにしてしまった。あとはもう、皿をたたき割るは、調度品をぶち壊すはの大暴れである。
ついに、貫目改所に出役していた代官所の役人の前田徳蔵が呼ばれた。前田の登場を見て、川越伊勢屋の外で騒ぎをながめ、歯ぎしりしていた板橋宿の若者たちもにわかに勢いづいた。三、四十名もの若者たちが「上意、上意」「召し捕れ、召し捕れ」と叫びながら川越伊勢屋になだれ込み、番頭の吉兵衛と十四人の職人をすべて縛り上げてしまった。その後、代官所の役人が検使に来て、騒動をおこしたとして吉兵衛と十四人全員に手鎖をかけた。
連絡を受け、伊勢屋長兵衛は真っ青になった。番頭の吉兵衛はじめ、町内の職人を牢に入れては世間に申し訳がない。そこで、大金を使って内済(示談)にしようとした。十四人の職人のなかには、小石川御箪笥町とは別な町の者もかなりいた。その町の町役人や親類縁者もやってくる。人数は百人を越え、板橋宿の三ヵ所の旅籠屋に分宿して、内済にするための交渉に臨んだ。弁当の炊き出しや、酒や料理など、その経費は莫大である。ようやく二十五日になって内済が成立し、吉兵衛と職人十四人はそれぞれ帰宅が許された。  
 
喧嘩・騒ぎ

 

間男
牛込横寺町に住む瓦師は、娘ふたりで男子がなかったことから、姉娘に婿の七五郎をもらい、家業を継がせたあと、死んだ。妹のおもちも年頃である。そのうち、姉の婿である七五郎と秘密の関係を持った。
嘉永五年(1852)四月、隣に与市という男が煙草屋を開店した。
この与市は牛込肴町にある煙草屋に長年奉公していたが、実直であることから、暖簾分けをしてもらい、横寺町に店を開いたのである。
店の主人になりながら女房がいないのはよくないというので、地主が、「お隣の、おもちさんはどうかね。もしよければ、あたしが口をきくよ」と、世話を焼いた。
与市は地主の口ききであることから、「よろしくお願いいたします」と、一も二もなく承諾した。
いっぽう、七五郎夫婦も、地主から縁談を持ち込まれると断われなかった。まして、七五郎は脛に傷持つ身だけに、反対はできない。
とんとん拍子に話がまとまり、四月二十五日、与市はおもちを嫁に迎えた。時に、与市二十九歳、おもち十八歳だった。また、七五郎は三十二歳だった。
いったんは縁付いたものの、おもちは姉婿の七五郎が忘れられない。家が隣り同士なだけに、密会しようと思えばいくらでも機会はあった。その後も、人目を忍んで七五郎との関係は続いた。
与市もさすがに女房の様子がおかしいのに気づき、追及したところ、おもちはプイとそのまま実家に帰ってしまい、戻ってこない。
これには与市も困り果て、仲人の地主に相談した。
地主が乗り出して、掛け合ったが、おもちは七五郎と密通していることは表向きにできないため、「亭主とはそりが合いません」の一点張りで、与市のもとに戻ることを拒む。
けっきょく、離縁するしかなかった。
与市も、おもちと七五郎のあいだが怪しいことに薄々気づいていた。すべては七五郎の仕業であると、深く恨んだ。
十月二十三日の夜、町内の自身番に与市、七五郎、それに米屋の主人の三人が当番で詰めることになった。
与市は好機到来と、商売道具の煙草の葉を切る包丁を研ぎ、隠し持った。
夜もふけ、九ツ半(午前1時)を過ぎたころ、米屋の主人が便所に行った。
与市は火鉢の上で煮立っていた土瓶を取るや、やにわに七五郎の顔めがけて熱湯を浴びせかけた。
「うわっ」七五郎は絶叫し、両手で顔をおさえて悶え苦しむ。
そこを、与市が包丁で滅多切りにした。
顔面から体にかけて十一ヶ所に切りつけたあと、与市はそのまま北町奉行所に駆けつけ、自首して出た。入牢した与市は十二月七日、牢死したため、一件落着となった。 
放屁
文政元年(1818)九月のこと。神田あたりの裏長屋に、夫婦者と七歳になる女の子が住んでいた。
女房は台所で洗い物をしていて、どうした拍子か、ブーッと大きなおならをした。
たまたま娘がそばにいたが、その音のものすごさに笑い転げた。
女房は体裁が悪いため、「シッ、笑うんじゃないよ」と制したが、娘はなかなか笑いやまない。しかたなく、仏前に供えるため買い入れていた梨二個のうちの一個をあたえ、「これをあげるから、人に言うんじゃないよ」と、口止めをした。洗い物に取り掛かろうとしたところ、またもや、ブーッと猛烈な音を発した。
隣には独身の男が住んでいた。裏長屋の壁は薄いため、物音は筒抜けである。
男はちょうど鰹節を小刀で削っていたところだったが、二度までの大きな放屁に吹き出し、大笑いをした。
女房は隣人に笑われてカッとなった。隣に駆け込むや、「出たものはしかたがないじゃないか。そんなに笑うことはなかろう」と、男の頭を二、三発、殴りつけた。さらに、鰹節を削っていた小刀を奪い取ると、突き刺そうとする。もみ合いになり、小刀で男の腕を二、三ヶ所、傷つけてしまった。そこに、長屋の住人が駆けつけ、なだめて双方を引き分けた。「ともかく、仲直りをしなさい」と、酒を酌み交わして手打ちをした。
双方が落ち着いたのを見て、住人たちは引き取った。ふたりとも酒が好きだったため、あらたに酒を買ってきて、機嫌よく呑んでいた。
亭主が商売から帰って来た。行灯もつけていないため家の中は暗く、片隅で娘がひとりいじけたようにうずくまっている。「嬶(かか)はどうした」「隣でお酒を呑んでるよ」「嬶、嬶、なにしているんだ」壁越しに亭主の怒鳴る声を聞いて、女房もやむなく戻ってきた。顔は酔っ払って真っ赤になっており、足取りもおぼつかない。「いったい、なにしてやがった」「隣で祝い事があって、振る舞い酒をよばれていたのさ」 夕食がまだだったため、女の子は空腹だった。残りの梨を指差し、「おっ母ぁ、おくれ」と、せがんだ。
「さっき、ひとつ食ったろう。残りのひとつは仏壇に供えたあと、あした食わせてやる」「くれないなら、隣のおじさんとのことを言うからね」 女の子は母親の放屁をばらすと言ったつもりだった。
しかし、そばで聞いていた亭主は、ただでさえ女房に不審をいだいていたため、娘のことばから間男していたに違いないと思い込んだ。「てめえ、間男してやがったな」と言うなり、台所にあった薪で女房を殴りつけた。女房が悲鳴をあげる。隣の男があわてて弁解に来たが、亭主はものも言わずに薪で殴りつけた。男は頭から血を流し、その場に昏倒した。長屋は大騒動になり、ついに南町奉行所で裁かれることになった。 
花見
嘉永三年(1850)三月九日、おりしも江戸の桜は満開である。
神田花房町代地の寺子屋の師匠が門人の子供たちや近所の人を大勢引き連れ、上野の山や日暮里で花見をすることになった。
まず、「ひぐらしのさと」として知られる日暮里に行き、修性院の境内で酒宴を開いた。
子供の林之助が三味線を弾いて騒いでいると、瓦屋の又五郎が言った。
「ちょいと俺に貸してくれ」
林之助は、「これは人から借りたものですから、勝手に貸すわけにはいきません」と、断わる。
又五郎も酒が入っているため、しつこい。
「そう言わずと、ちょっとだけ、貸せ」「駄目です」と、林之助はあくまで断わる。
険悪な雰囲気になったのを見て取り、花見の世話役で、居合抜きの見世物をしている高橋鉄之進が、「こんなものをベンベンと弾いていたのでは、子供は退屈する」と、三味線を取りあげ、修性院を切り上げて次の上野に出発しようとした。
酔っている又五郎は意地になり、「人に貸せぬような三味線をなぜ持ってきた。ここは、ぜひとも借りる」と、譲らない。
口論ではおさまらず、ついに又五郎が高橋につかみかかった。
まわりの人があいだに入って取り押さえ、なだめすかしたが、もみ合いで高橋は髷がくずれ、ざんばら髪になってしまった。
こうなると、せっかくの花見も台無しである。けっきょく悪酔いしている又五郎を残して、みなは上野にも寄らず、そのまま帰宅した。
いったん家に帰ったが、高橋は気持ちがおさまらない。近所のどじょう屋で出刃包丁を借りた。単衣物の上に羽織といういでたちになるや、出刃包丁を持って駆け出し、上野広小路で又五郎を待ち受けた。やがて、又五郎が千鳥足でやってくる。高橋は、「さきほどのこと、覚えたか」と叫ぶや、出刃包丁で切りつけた。又五郎はひたい、腕、背中、襟の四ヵ所を切られた。
これを見て、通りかかった鳶の者が制止しようとしたが、ひとりはひたいと腕を切られ、もうひとりは腕を切られた。さらに、制止しようとした別な若者も切られて、あわせて四人が切られた。
騒ぎを知って、大勢の人間が駆けつけ、長い棒などで高橋をたたき伏せて、出刃包丁をもぎ取った。
いちおう騒ぎはおさまったが、又五郎は瓦屋の職人のあいだでは兄貴分だった。
兄貴が切られたことを聞きつけて弟分が大勢集まり、「このまま黙っていられるか」と、今度は高橋の家をたたき壊しかねない勢いとなった。騒然となる。
町内の主だった人間が仲裁にはいり、どうにか内済(示談)にするよう説得した。しかし、血まみれの又五郎を見て、女房は内済には納得がいかない。すぐさま、町奉行所に駆け込み訴えに走ろうとする。あわてて、仲裁役が女房を引きとめ、「ともかく、医者に傷を縫ってもらいましょう。縫った糸が抜けるまでは、あたしにあずけてください」と、懸命に説き伏せた。こうして、役人に訴えることは日延べになった。
三月十八日、又五郎の傷を縫った抜糸したところ、べつに化膿もせず、傷口はふさがっていた。けっきょく、死者は出なかったということで、双方切られ損、ぶたれ損で、おたがいに治療費も払わないということで内済がまとまった。三月二十四日、上野広小路にある料理屋の蓬莱屋で仲直りの手打ち式がおこなわれたが、三百人ほどが参加し、集まった祝儀の総額は四十七両三分だった。蓬莱屋への支払いは二十一両におよんだ。手打ち式には酒三樽を運び込み、お土産は茶碗の五つ組だったという。  
不倫
本郷菊坂町にある蕎麦屋の亭主は、自分の妾を養女に仕立てた上で、町内にある銭湯の主人に嫁入らせた。そして、その後も、ひそかに密通を続けていた。
近所の人がこれを見かねて、銭湯の主人にそれとなく離縁を勧めたが、もとより女房が密通しているなど知る由もないため、聞き入れなかった。
その後、銭湯の主人は商売に失敗して、女房とも離縁し、田舎に引き込んだ。離縁された女は、蕎麦屋の亭主が世話をして、ほかに縁付けた。
二、三年後、もとの銭湯の主人が江戸に出てきて、本郷菊坂町を訪ね、かつての知人たちと酒を呑んだ。
時に、寛政十年(1798)五月十六日の夕暮れどきだった。
その席で、知人たちが蕎麦屋の亭主と女の関係をすべて暴露し、「おまえさんも、あまりに人がよいぜ」「蕎麦屋は自分の妾をおまえさんの女房にして、その後もこっそり乳繰り合っていたんだぜ」などと、口々にけしかけた。
酒の酔いも手伝い、銭湯の主人は激情に駆られた。
「このままでは、男の一分が立たない」 その日は朝から雨が降っていたが、ちょうどやんだところだった。
主人はたたんだ傘のなかに抜き身の脇差を隠し、蕎麦屋にやってきた。
見ると、亭主が自分で大釜の下に火を炊きつけているところである。
主人は背後からそっと迫り、手ぬぐいで口をふさいで押し倒し、上にのしかかって背中から脇差を突き通して殺した。
このとき、蕎麦屋の十六、七歳くらいになる息子は部屋で、母親に灸をすえてもらっているところだった。台所で物音がするため、障子の破れからのぞくと、暴漢が父親を刀で刺している。
息子は飛び出すや、手近にあった蕎麦切り包丁で眉間に切りつけた。その拍子に、包丁の刃が柄から抜けてしまった。
銭湯の主人は人が来たのを見て動転し、抜き身を持ったまま逃げ出した。
蕎麦屋の女房が、「人殺し、人殺し」と叫ぶ。
近所の人が集まってきた。
息子はなおも、逃げた男を追いかけようとする。
それを、近所の人々が、「相手は刃物を持っています。このまま追いかけるのは無謀です。眉間に傷をつけたのだから、お役人にお届けすれば、すぐに召し取られます」と、懸命にとどめた。
いっぽう、逃げ出した銭湯の主人は負傷していたため、菊坂をくだったあたりでついに力尽きて倒れてしまった。たまたま、辻番所の前だった。
番人がわけを尋ねると、「遺恨があり、蕎麦屋を殺しました」と、素直に白状した。
主人は町奉行所の役人に召し取られ、小伝馬町の牢屋に収監されたが、間もなく、眉間の包丁傷がもとで死んだ。 
足軽
岡兵内と忠治はかつて同じ武家屋敷に奉公する朋輩だった。
その後、岡兵内は姫路藩酒井家の屋敷に足軽として召抱えられた。足軽は最下級とはいえ、身分は武士である。
文化十一年(1814)四月一日の昼過ぎ、用事があって外出した岡は両国のあたりでばったり忠治と出会った。
忠治は職人風の身なりをしていたが、いかにも落ちぶれていた。
「じつは金に困っている。なにか質草になる品を貸してくれないか」「あいにく、質草になるような品は持ち合わせておらぬ」「じゃあ、腰に差している刀を貸してくれないか」「とんでもない」 岡は憤然として断わった。
忠治はしつこい。「じゃあ、せめて、一杯呑ませてくれよ」 昔の朋輩であることから、岡もせめて酒をおごってやることにした。
ふたりは下柳原同朋町の居酒屋にはいった。
酔いがまわってきた忠治が言った。
「おめえさんは大名屋敷に召抱えられて出世したが、俺はこの有様だ。金を用立ててくれないか」「そんな余裕はない」「昔、同じお屋敷のなかに住んでいたとき、おめえは俺の女房と密通したではないか。このままでは暮らしが成り立たないから、女房を引き取ってくれ」「密通などした覚えはない。それに、離縁もしていない人の女房を引き取るわけにはいかぬ」 その後も忠治がいろいろと難癖をつけてきたが、岡はまともに取りあわない。ようようなだめすかして、居酒屋を出た。
しばらく歩き、ちょうどこんにゃく屋の前まできたところで、またもや忠治が荒れ始めた。岡の胸倉をつかみ、悪口雑言を吐きながら、小突きまわす。
ここにいたり、ついに堪忍袋の緒が切れた岡は腰の刀を抜くや、忠治に斬りつけた。
スパッと切れた忠治の首は二間ほども飛び、ドスンと地面に落ちた。
この光景を見て、騒ぎに巻き込まれるのを怖れて道の両側の商家はあわてて表戸を閉じた。通りからもたちまち人の影が消えた。
その後、岡は血刀をさげたまま浅草橋を渡って神田川を越え、浅草福井町の知人の家に行こうとしたが、あとから、「人殺し、人殺し」と叫びながら、大勢の鳶の者が追いかけてきた。みな、六尺棒などを手にしている。大勢に取り囲まれて、岡は手も足も出ない。たちまち打ちのめされてしまい、下柳原同朋町の自身番に連行された。
町奉行所で、岡兵内はひたいに傷を受けるほど忠治に恥辱を受け、やむなく斬り殺したと供述した。岡は死罪を免れ、押込となった。じつは岡のひたいの傷は忠治に殴られたのではなく、鳶の者に捕まったときの怪我だったという。 
同心
文化九年(1812)十一月、火事で吉原は全焼し、浅草や深川の一帯に仮宅ができた。
文化十年六月二十日の夜、浅草聖天町で仮宅営業をしていた辰巳屋に、二十一、二歳くらいの男が四ッ手駕籠で乗りつけた。単衣の着物を着て、足元は草鞋ばきだった。
男は二階座敷にあがり、まずは酒を呑む。相手をしていた女郎はふと、男の着物に血が付いているのに気づいた。
女郎はさも用事を言いつけるようなふりをして、若い者を呼びつけ、耳元にささやいた。「客人の着物に血がついているような気がする」若い者はさりげなく、男の着物を観察した。たしかに、血痕だった。
階下におりると、若い者は楼主に告げた。楼主はすぐに、若い者を岡っ引のもとに走らせ、「怪しい客がおります」と、知らせた。
それを聞き、岡っ引は自身番にたむろしている町奉行所の同心に報告した。吉原では、大門をはいってすぐ左の場所に面番所がもうけられ、同心と岡っ引が常駐している。いまは仮宅のため、聖天町の自身番に同心三人が常駐していたのだ。
「なに、怪しいやつだと。よし、われらが行けば、すぐに恐れ入るさ」同心は三人という人数も手伝い、自信満々だった。岡っ引と若い者に案内させて、悠々と辰巳屋に出向いた。同心三人はずかずかと階段をのぼり、「おい、ちと吟味の筋がある」と、男を取り調べようとした。
ところが、男は恐れ入って平伏するどころか、そばにあった煙草盆を手に取るなり、同心のひとりの眉間にたたきつけた。「アッ」と叫び、同心は腰を抜かした。あとのふたりのも、思わぬ事態に呆然として、とっさになにもできない。男はすっと近寄るなり、ひとりの腰から脇差を抜き取った。狼狽して、同心たちは逃げ出す。そこを、男がひとりの背中から腰にかけて、八寸ほども斬りつけた。岡っ引が果敢に後ろから組み付いたが、男はふりほどき、刀で斬りつける。三重に巻いた帯がパサリと切れて落ちたが、岡っ引は奇跡的に体には傷を受けなかった。
辰巳屋は大騒動となり、若い者らが駆けつけた。男は若い者のひとりに肩先から斬りつけたあと、二階の連子窓の格子を蹴破って外に飛び出し、逃げてしまった。同心ふたりと若い者ひとりが負傷したことになる。けっきょく、逃げた男の行方はわからないままだった。  
自殺
弘化四年(1847)五月五日の昼九ツ(正午)過ぎ、新和泉町のおよね十八歳、神田鍛冶町一丁目のおひさ十九歳、同二丁目のおちか十九歳の、三人の娘が両国から浅草のあたりに遊びに行くと言って、連れ立って家を出た。
そのまま夜になっても、翌日になっても、三人は帰宅しない。それぞれの親は心配して、方々に問い合わせたり、心当たりの場所にさがしに行ったりしたが、杳として消息が知れない。
九日になって、永代橋の下に若い女三人の水死体が浮いているという噂が広まった。これを聞いて、三人の親はその場に駆けつけた。
たしかめると、およね、おひさ、おちかに違いなかった。
三人は腰紐で体をしっかり結び合っていた。申し合わせて、三人で隅田川に入水自殺したと思われた。
親たちは娘の遺体を引き取って、舟で神田川をさかのぼり、柳原岩井町の河岸場、俗に稲荷河岸とよばれるところで陸揚げした。
そこで、あらためて町奉行所の役人に届け出て、検使を受けた。
若い娘三人の集団自殺は大きな話題になり、風説も乱れ飛んだ。一説に拠ると、ひとりの娘は、大名屋敷に奉公しているとき、若侍と情を交わした。その後、男がつれなくなったことを恨み、屋敷を出奔したが、親元にも帰れない。死ぬ覚悟を固めたが、それを聞いて友達のふたりが同情し、一緒に死んだのだという。また一説に拠ると、三人は悪者にかどわかされ、犯されたのだという。十二人もの船頭が示し合わせて、三人を舟に連れ込み、輪姦しようとした。そのとき、ひとりが大声をあげたため、手ぬぐいで口をふさいだが、窒息死してしまった。やむを得ず、ほかのふたりも殺して、隅田川に投げ入れたのだとか。  
口論
中山道の宿場である板場宿では、喧嘩騒ぎは日常茶飯事だった。
文政四年(1821)一月二十九日の夜、町医者の加藤曳尾庵のもとに、駕籠かき人足ふたりがやってきた。ひとりは頭が四寸ほども切れていたため、傷を縫った。もうひとりは、眉毛の上と肘を怪我していたが、足駄で殴られた打撲傷のため、膏薬を貼った。
ふたりに怪我をさせたのは酒屋の小島屋綱五郎で、日ごろから酒癖が悪く、酒に酔うと手がつけられなくなった。
二月一日の夜、女郎屋の岡田屋に登楼していた、巣鴨の提灯屋の息子が酒に酔って暴れた。岡田屋の台所に居合わせた魚屋の源二が、これも酒がはいっていたため、息子を蹴りつけたが、目に怪我をさせてしまった。
曳尾庵は巣鴨に往診し、十日ばかりで平癒した。
その後、雑司が谷の茶屋で仲直りの会が開かれ、多数が出席した。
二月四日の夜、馬方の親方が刃物で、平五郎という奉公人に切りつけ、頭が六寸ほども切れた。曳尾庵が三ヵ所を縫い、十四日目に平癒した。
同じく四日の夜、女郎屋の吉田屋に登楼した客が、階段を登って二階にあがった途端、そのまま廊下に倒れ、人事不省におちいった。
呼ばれた曳尾庵が診たところ、大酒を呑んだと見えて酒臭い吐瀉物を吐いていた。そのまま、脈も呼吸も戻らなかった。後に、二十九歳の畳職人とわかった。
二月二十七日夜、女郎屋の鈴木屋に登楼した椎名町の男たちが口論になった。居合わせた、きなこ問屋の伊之助が仲裁にはいろうとしたが、逆に袋叩きとなり、目に怪我をした。伊之助の仲間が押しかけ、険悪な雰囲気となったが、その後、内済(示談)となった。二十日ほどして、板橋宿の料理屋川越伊勢屋で仲直りの会が開かれ、五十人以上が出席した。
四月十六日夜、女郎屋の千代本に登楼していた王子村の男五人が、小石川諏訪町の男十一人と喧嘩になった。
両者入り乱れての殴り合いとなり、王子の者ひとりが燭台で打たれ、眉間の上、髪の生え際を三寸ほど割られた。傷の深さは五分くらいもあった。また、諏訪町の者ひとりが、左の薬指に引っかき傷を負った。
曳尾庵が呼ばれ、王子の者は二針縫い、諏訪町の者は膏薬を貼った。
仲裁をする人がいて、翌日、内済となった。
同日の夜、曳尾庵が千代本の怪我人の手当てを終えたのは夜明け近かったが、池袋村から大勢が往診を求めてきた。
やむを得ず、池袋村に出向いた。
名主の息子が千次郎という男を押し倒して馬乗りになり、カンナの刃で切り付けたのだ。
千次郎は頭に縦六寸余、深さ五分の傷があり、そのほか右腕に二ヵ所、左腕に四ヵ所、いずれも二寸から一寸の傷を負っていた。
全部で、七ヶ所を縫った。
内済にしようとしたがうまくいかず、代官所から役人が検使に来て、けっきょく裁判沙汰となった。
五月二十二日には、川越伊勢屋で騒動がおきた。
小石川御箪笥町の質両替商伊勢屋長兵衛は人に知られた分限者だったが、あまり評判はよくなかった。
この長兵衛が伊勢参りに出かけ、中山道を経由して江戸に帰ってきたが、六、七十人もの人間が板橋宿まで出迎えた。長兵衛はこれらの者と川越伊勢屋で酒宴をしたあと、江戸に向かう。途中で、さらに十四名もの迎えのものが来るのに出会った。
長兵衛も放っては置けないため、「川越伊勢屋で一両分だけ、飲み食いをさせてやれ。それ以上は、無用だ」と、番頭の吉兵衛に命じた。
吉兵衛は十四名を連れて川越伊勢屋に引き返し、飲み食いをさせた。
十四名は鳶や大工で、さほど長兵衛と親しいというわけではない。この際、たかってやろうという思惑の連中だった。酒宴になると、勝手に注文をしようとしたが、吉兵衛は主人に言い含められているため、それをとどめる。ついには、口論となった。
居合わせた駕籠かき人足の頭の六助が割ってはいろうとしたが、十四人の者は袋叩きにしてしまった。さらには、座敷の皿や火鉢、家具までも打ち壊すという乱暴狼藉を始めた。
とうとう、板橋宿に詰める代官所の役人が出てきた。役人の姿を見て、宿場の男たち三、四十人も勇気百倍となり、「上意、上意」と声をかけながら、川越伊勢屋になだれ込んだ。ついには、十四人はみな召し捕られ、縛り上げられた。その後、召し捕られた者の住む町の町役人などが次々と板橋宿を訪れ、大変な騒ぎとなった。人数は百人を越え、三ヵ所に分宿するほどだった。
二十五日、それぞれは手鎖の上、各町に引き取られた。六月三日、内済となった。
五月二十五日、大工の棟梁の惣五郎、三十七歳が喉を突いて死亡した。このところはやっていた疱瘡(はしか)で、四歳になる娘が死んだ。それ以来、惣五郎は精神に異常をきたしていたという。まわりの人間も注意していたのだが、惣五郎はちょっとしたスキに、硯箱の引き出しにはいっていた小刀で喉を突いた。  
逆臣
天保十一年(1840)十一月三日、南伝馬町三丁目の自身番に、つぎのような文面の捨文が投込まれているのが見つかった。
東の逆臣徳川之一類、不届至極ニ付、霜月十五日夜、国司外様申し合せ、江戸中焼き払い候故、町人者共家財売り、京都え登べし。いそげいそげいそげ。
委細ハ町内大和屋利兵衛ニ聞べし。
半紙に朱書きで、漢字には丁寧に読み仮名が付けられていた。
昼の八ツ半(午後3時)、自身番に詰めていた常吉が見つけ、びっくり仰天して、月行事(当番の町名主)の甚兵衛に届け出た。
甚兵衛も驚き、すぐさま南町奉行所に届け出た。当時、南町奉行は筒井政憲である。
その後、同様な捨文が南伝馬町三丁目のほか、六ヶ所の自身番に投込まれていたことがわかった。
町奉行所の役人が聞き込みをすると、すぐに挙動不審の男がわかり、芝金杉四丁目の付近で召し捕られた。
捨文をした男はもとは薬種屋だったが、乱心して商売もやめ、召し捕られた当時は芝金杉の裏長屋に住んでいたという。  
喧嘩
安政元年(1854)十二月十六日の夜五ツ(午後8時)前、下谷御切手町の銭湯に、唐辛子屋の娘ふたりがやってきた。姉はお鉄といい、二十五歳。妹はお久といい、十五歳だった。
洗い場で、鳶の母親で六十一歳になるお糸が体を洗っていた。お久が、お糸の洗い桶をひょいとまたいだ。それを見て、お糸が怒鳴った。「てめえ、人の体をまたぐとはなにごとだ」「べつに体をまたいだわけじゃない。桶じゃないか」「年寄りを馬鹿にする気か」 お糸は怒鳴り続ける。姉のお鉄が、「こんなに込み合ってるんだ。お互い様だろうよ」と、お久の加勢をする。
ふたりを相手にまわし、お糸は悪口雑言を並べた。お鉄とお久はカッとなり、ふたりがかりで小桶でお糸を叩きのめした。ようよう家に帰ったお糸は、その場で気を失ってしまった。
いきさつを聞いて、お糸の息子の吉五郎が町奉行所に訴えると息巻いた。近所の人があいだにはいり、いくばくかの金で内済(示談)にしようとしたが、吉五郎は納得しない。ついに、町奉行所に訴え出た。
町奉行所としては訴えがあれば動かざるを得ない。二十一日、お鉄とお久の姉妹は町奉行所に召喚され、老人に暴力をふるったのは間違いないため、手鎖に処された。
その後、町内の人々がふたりの手鎖を解くため、吉五郎と交渉し、三両で内済が成立した。三両のうち、二両は姉妹の父親が出し、あとの二分を町名主、二分を家主が出すというものだった。
翌年の一月二十三日になって、ようやく姉妹は手鎖を解くことを許された。  
 
火事・火付け

 

火あぶり
江戸時代、放火は重罪であり、たとえボヤに終わっても、付け火をした者は火あぶりの刑(火罪)に処された。
正月の門松、竹、注連縄などを集めて焼くのを「どんど焼き」という。
ある子供がどんど焼きの真似をして火をつけ、家を全焼させてしまった。
これを聞き、町奉行の石河土佐守(在任元文3-延享元)は、
「たとえ小児といえども、失火に罪を見過ごすわけにはいかぬ」
と、すぐに役人を派遣し、子供を召し捕らせた。
両親の嘆きはひとかたならぬものがあった。
「まだ子供だから、お奉行さまもお情けをかけてくださる。やがて、放免されますよ」
近所の人が慰めてくれるのを信じ、ひたすら子供の赦免を待ち望んでいた。
ある日、奉行所から呼出しがきた。
これを聞き、「いよいよ、赦免になるぞ」と、両親は内心喜び、奉行所の白洲にまかり出た。ところが、奉行の石河が言い渡した。「たとえ過ちにもせよ、家を焼きたる以上は火あぶりの刑は免れがたし。屍を受け取り、帰るがよい」
両親は泣きながら奉行所の裏門に行き、子供の遺体を受け取ろうとした。すると、役人から引き渡されたのは元気なわが子だった。ただ、首筋に大きな灸をすえられた跡があった。両親は大喜びで、息子を連れて帰った。 
快感
嘉永四年(1852)、牛込から四谷にかけて、寺で不審火が相次いだ。
四月二十一日夜五ツ半(午後9時)、牛込横寺町の寺院で火事がおきた。
四月二十六日昼九ツ(正午)、四谷南寺町の寺院で火事がおきた。
四月二十九日夕七ツ(午後4時)、牛込七軒寺町の寺院で火事がおきた。
五月一日昼九ツ(正午)、目白の寺院で火事がおきた。
八月三日夕七ツ(午後4時)、四谷南寺町の宗福寺から火が出たが、火事の直前、御家人らしき武士が枯れた樒を持って本堂の床下にはいっていくのを寺の小僧が目撃した。
小僧の知らせを受け、寺ではすぐに早鐘を打ち鳴らした。
たまたま隣接する竜泉寺で葬式がおこなわれていたため、参列していた大勢の人間がすぐに駆けつけ、怪しい武士を取り押さえた。
男は大番頭久貝因幡守の配下の同心で、小櫛金之助、三十五歳だった。
小櫛は北町奉行所に召し捕られ、取調べを受けた。
観念したのか、小櫛は前記四件の放火もすべて自分がやったことを認めた。
取調べの結果、以下のようなことがわかった。
もともと小櫛金之助は火事が大好きで、ちょっとした火事でも、「それ、ボヤだ、ボヤだ」と駆け出すため、「ぼや金」というあだ名がついていたほどだった。
嘉永四年四月三日、四谷で大火がおきた。このとき、延焼の恐れがあった親類の屋敷に駆けつけ、小櫛は大いに立ち働いた。
後日、親類は謝礼として小櫛に金三分と品物を贈った。
これに味をしめた小櫛は、火事が待ち遠しくてならない。
そこで、四谷や牛込あたりで放火を繰り返しては、そのたびに親類の屋敷に駆けつけ、立ち働いていたのだという。
ほとんどは昼間の放火だったが、その理由は、夜はひとりで出歩くのが恐いからだったと白状した。寺ばかり狙ったのも、昼間でもあまり人に見られる恐れがないからだった。
翌嘉永五年二月、小櫛金之助は獄門に処せられるところ、牢屋で病死した。  
安売り
和泉橋の南際で、惣吉という男が竹屋をやっていた。
和泉橋と新シ橋とのあいだで、平七という男があたらしく竹屋を開業し、大安売りを始めた。これを知り、惣吉は平七の店を訪れ、申し入れた。「そんな安売りをしてもらっては、こっちの商売に差し支える」「こちらはあたらしく店を出したばかりだから、安売りをしてお客を呼び込むしかない」 平七は突っぱねた。
嘉永元年(1848)、惣吉は夜陰にまぎれ、平七の店の物置に、竹屑に火をつけて放火した。しかし、このときは火が燃え移らずに消えてしまったため、誰も気づかなかった。
七月九日の七ツ(午前4時)前、惣吉はふたたび放火した。平七の店の竹小屋と隣家の物置が焼けたが、発見がはやかったため近所の人が集まって消火し、どうにかそれ以上燃え広がるのは食い止めた。放火の疑いがあると平七が申し立てたことから、町内ではひそかに番人を配置した。
十月十二日の夜、惣吉は番人が便所に行ったところをみはからい、火をつけた。このときも番人や近所の人がすぐに駆けつけ、どうにか消火して、延焼を防いだ。番人は面目丸潰れである。「きっと、様子を見にくるに違いありません。ここは、わしに任せてください」 人々が帰宅したあと、番人は暗闇に身をひそめてじっと待ちうけた。
思った通り、惣吉がそっと様子をうかがいに来た。番人は惣吉のあとをつけ、住まいをたしかめた。翌十三日、惣吉は召し捕られた。観念したのか、惣吉は三度の放火をすべて自供した。
十一月十六日、惣吉は引廻しの上、小塚原の刑場で火罪(火焙りの刑)となった。三十二歳だった。 
博奕
麻布十番のあたりに、後家が住んでいた。
娘とふたりきりの暮らしだったが、生活苦から、後家は娘を品川宿の女郎屋に売った。
その後、後家は娘を売った金を博奕につぎ込んで負け、あげくは借金まで作ってしまった。
箪笥や鍋釜まで家財道具を売り払い、どうにか借金は返したが、家のなかはからっぽである。
後家は品川に出かけて行き、娘に因果を含めて女郎の年季を五年延長させ、女郎屋から五両ほどの金を受け取った。
その金を手に、後家は、「今度こそ、これまでの負けを取り返してやる」とばかり、ふたたび博奕に臨んだ。
結果は負けて、すっからかんになってしまった。もう、娘に顔向けできないし、あちこちにできた借金の払いもできない。文政元年(1818)十月、後家は自暴自棄になり、自分の家に火をつけた。近所の人が気づいてすぐに消し止めため、大火にはいたらなかったが、放火が判明して捕らえられ、後家は火あぶりの刑に処せられた。  
俳句
総州(千葉県)のあたりで、俳人がひとり暮らしをしていた。
ある晩、数人の盗賊が押し入り、俳人を脅して柱に縄で縛り付けた。俳人は盗賊が家の中の物色し、金目の物をことごとく持ち去ろうとしているのを見て、声をかけた。
「わずかばかりの望みがあるのだが、聞き入れてもらえるだろうか」「なんじゃ」「なんでも、好きな物を持っていってかまわぬが、笈の中にはいっている宗祇自筆の「伊勢物語」と、床の間に置いている末の松山の文台だけは、残しておいてもらえぬだろうか」
盗賊の統領はそれを聞き、「ふん、こんな物が惜しいのか」と、ふたつの品を放り出した。盗賊は俳人の縄目をゆるめ、家から出て行った。
いったん外に出たあと、盗賊はふたつの品が値打ち物ではないかと気づいた。そこで、そっと引き返すと、中の様子をうかがう。
俳人はゆるんだ縄を自分でほどいたあと、行灯の火をかきたて、筆と紙を手にして、ぬす人も跡とざし行寒夜哉と、ひとりで吟じている。
これを漏れ聞き、盗賊の統領も感ずるところがあった。
戸をあけてはいってくるや、奪った品々をすべて返却した上で、「このような無欲な、おもしろき人とは知らず、狼藉をしてしまいました。これは、お詫びしるしです」と、多額の金を渡そうとする。「とんでもない。受け取るわけにはまいりません」 俳人は固辞して、金は受け取らなかった。
盗賊はそのまま帰っていったが、四、五日してから、俳人の家の竈のそばに酒樽と魚にのし包みを添えたものが置かれていた。
過日の盗賊がそっと持参したもののようだった。  
人助け
江戸では火事が頻発し、しばしば大火になった。火事が発生すると、裏長屋などに住む庶民は手に持てるだけのものを持ち、着の身着のままでとにかくいち早く逃げ出す。ところが、大きな商家となると、そうはいかなかった。大量の商品や財産を守らなければならない。商品や財産を火災から守るのが、分厚い土壁でできた蔵である。一帯が焼け野が原になっても、蔵だけは焼け残り、内部に収納していた品々もたいていは無事だった。風向きを見て、火の手が及びそうだと判断するや、大きな商家では奉公人を動員して大事なものを手早く蔵に収めたあと、避難した。
文化八年(1811)二月十一日の深夜、四谷の念仏坂のあたりから火が出て、芝の方面にまで延焼した。その火事のとき、四谷あたりの商家はすばやく大事な物を蔵に収納し、戸前という頑丈な扉を閉じた。そこに、近所の裏長屋に住む女がやって来た。背中には赤ん坊を背負い、手には古びた葛篭をさげている。女は必死の形相で頼んだ。
「あいにく亭主は旅に出ておりまして、あたしひとりでは、とてもこの葛篭は運べません。お慈悲でございます。どうか、葛篭を蔵のなかに入れてください」 商家の主人は首を振った。「お気の毒だが、この通り、もう戸前を閉じてしまいました。火の手も迫っております。いまさら、戸前をあけることはできません」「では、もう、ここに打ち捨てていくしかありません」 その場に葛篭を置くと、女は背中の赤ん坊をあやしながら、悄然として去っていく。
そばで見ていた三人の手代が、女に同情して言った。「あまりに不憫です。あたくしどもで手早くやれば、まだ間に合います。葛篭を蔵に入れてやってはいかがでしょうか」「おまえたちがそう言うのなら、入れてやるがよい」 主人も許可した。
三人が戸前をあけると、なかに煙が充満している。「えっ、これはどうしたのだ」 驚いて調べると、あわてていろんな物を運んだとき、まだ灰に火種の残っていた火鉢をそのまま押し込んでしまった。その火種の上に物が落ち、くすぶっていたのだ。急いで火鉢を取り出し、くすぶっていた火も消した。そして、あらためて葛篭を収めて、戸前を閉じた。その後、火の手が及び、店は完全に焼け落ちたが、蔵は無事だった。これで、およそ三千両の商品や道具が助かった。
主人は三千両が助かったのは女のおかげだと思い、その行方を尋ねたが、なかなかわからない。ようやく仮住まいをさがしあて、手代に命じて葛篭に十両を添えて届けさせた。「おまえさんの葛篭を入れようとして戸前をあけたため、蔵がひとつ助かりました。これも、おまえさんのおかげです」「葛篭を助けてもらっただけで、じゅうぶんでございます。お金を受け取るわけにはまいりません」「このまま持ち帰っては、主人に叱られます。どうか、お受け取りください」手代に懇願されるにおよび、女は三両だけ受け取り、残りは返した。  
丙寅の大火
文化三年(1806)三月四日、芝の泉岳寺門前から出た火は折からの強風にあおられて燃え広がり、江戸の町を幅十町、長さ三里以上にわたって焦土と化した。この火事で、大名屋敷およそ三百八十、旗本屋敷七百八十一が焼け落ちた。町屋の被害ははかりしれない。この火事は、「丙寅(へいいん)の大火」と呼ばれている。
芝赤羽根町に大道寺という旗本の屋敷があった。火の手に追われ、近くの町屋に住む町人たちが大勢、大道寺の屋敷内に逃げ込もうとした。ところが、大道寺家の家臣は避難民を受け入れるどころか、「はいるな、はいるな」と叫びながら、槍をふるって追い払う。槍に突かれて、五、六名が負傷した。広大な武家屋敷に避難しようとした町人たちも恐れをなし、ふたたび火の子が降りそそぐなかを逃げ惑わなければならなかった。鎮火したあと、大道寺家の行為はさすがに幕府の知るところとなり、当主は伝馬町の牢屋の揚屋に収監され、家臣も入牢した。
三田の聖坂に四方という酒屋があった。近所の大きな商家に火がまわり、避難していた多数の人が焼け死にそうになった。この状況を見て、四方の主人は奉公人に命じた。
「あの人たちを助けなさい。かまわないから、土蔵から樽をどんどん持ち出しなさい」 奉公人たちは売り物の酒樽の鏡を打ち割り、酒をぶちまけて消火にあたった。さらに、売り物の酢や醤油の樽の鏡も打ち割り、これを全身から浴びて体を濡らしながら、火の中に飛び込んで救出にあたった。このおかげで、五十人以上の命が救われたという。
若狭小浜(福井県小浜市)藩酒井家の中屋敷は浜町にあった。
江戸の町が紅蓮の炎に包まれる中、たまたま火の手からまぬがれた中屋敷の辻番所に、三十歳くらいの男が女房と三歳くらいの男の子の手を引いて、やってきた。
「女房が腹が痛いといって苦しんでおります。しばし、場所をお貸しください」 辻番は同情して、小屋の中に入れてやった。倒れこんだ女は、その場で出産した。夜が明け、辻番は小浜藩の家臣に報告した。このことが、藩主の耳にはいった。「それは気の毒なことじゃ。よくよく、介抱してやれ」 藩主の意向を受け、家臣たちは夫婦と子供を屋敷内の長屋の空き部屋に入れてやり、湯や薬もあたえた。
やはり耳にした奥方は、女中を長屋に見舞いに遣った。さらに、赤ん坊を見たいといって女中に命じて自室に召し、衣服などをあたえた。  
 
不義・姦淫・ふしだら

 

強淫
深川永代寺門前仲町の商家に、北八という男が住み込みで奉公していた。
主人夫婦には男子がなかった。北八は働きぶりも実直なことから、主人は折りあるごとに、「いずれ、娘のおときとおまえを夫婦にして、店を継がせよう。そのつもりで奉公してくれ」と、将来は婿養子にする考えを述べた。
どうせ夫婦になるのだからと、北八は主人夫婦の目を盗んで、おときの気を引こうとした。
ところが、おときはまだ初潮もない年頃で、色気はないため、北八のさそいにはまったく応じなかった。
年が明けて天保四年(1833)、おときは十三歳になった。北八は二十三歳である。
三月二十八日の夜、たまたま主人夫婦が外出し、ほかの奉公人もいないのをみすまし、北八はおときに言い寄った。
「なあ、どうせ夫婦になる仲じゃないかね」「いやだよ」「いいじゃないか」「変なことすると、お父っさんとおっ母さんに言いつけるからね」「ちょっとだけだよ」
北八は女の手を取り、抱きすくめようとする。
おときは北八を突き放してその場から逃げ去った。
その後、北八が強淫しようとしたと両親に告げた。
激怒した主人は北八に暇を出した。
店を解雇された北八はもはや行くあてもない。将来への絶望と、おときへの恨みから、女を殺して自分も死のうと決意した。
ひそかに店を見張る。
おときが近所の知人の家に行くところを、そっとあとをつけ、掘割のあたりでかねて所持していたカミソリを取り出し、顔と手に切りつけた。
「キャー」と叫び、おときはその場に倒れ伏した。
それを見て、おときが死んだと思った北八は自分の腹部や喉をカミソリで切ったあと、掘割に身投げをした。
すぐに人が駆けつけ、おときの介抱をするとともに、北八も水から引き上げた。
切り傷は浅かったため、おときはまもなく全快し、大きな傷跡も残らなかった。
死に切れなかった北八は牢に入れられ、主人の娘に刃物で切りつけたとして、同年九月、引廻しの上、磔の刑を言い渡された。  
幼い娘
神田久右衛門町に住む源七のもとに、馬喰町の商家で手代を勤める治兵衛という男がしばしば遊びに来ていた。
親しく出入りするうち、治兵衛は源七の女房とただならぬ関係となった。
源七は女房が浮気をしていることに気づいたが、入婿の身である。そこで、離縁状を取り交わして、自分が家から出た。
源七と女房のあいだには、ふたりの娘がいた。姉は盲目だったが、幼いころから琴を習い、師匠ができるほどの腕前になっていた。
離縁して源七が去ったのをよいことに、治兵衛は家に入りびたり、まるで亭主気取りだった。そのうち、盲目の姉とも関係ができてしまった。
そうするうち、源七の女房だった女は病気になり、あっけなく死んでしまった。ふたりの娘が残されたわけだが、盲目の姉が琴の教授をしているため、暮らしには困らなかった。
相変わらず治兵衛は家に訪ねてきて、姉と関係を続けていたが、そのうち妹にも目をつけた。まだ十三歳である。
姉が目が見えないのをよいことに、治兵衛は妹を二階に連れて行き、いやがって逃げようとするのを押さえつけ、強引に犯した。
このときの傷がもとで、妹は陰門が腫れあがり、精神的な衝撃から髪まで抜ける状態となった。
自分の娘が治兵衛にさいなまれていると知って、源七は我慢できない。
天保十一年(1840)六月下旬、「怖れながら」と、町奉行の遠山金四郎の役宅に駆け込み訴えをした。
遠山はこの訴えを取り上げ、治兵衛をはじめ、被害者である十三歳の娘も奉行所に呼び出して取り調べた。
当初、治兵衛は白を切っていたが、きびしい追及を受けて言い逃れできなくなり、ついに自分の非を認めた。
裁きは、治兵衛が二十両の慰謝料を支払うことで決着した。  
夜這い
北町奉行所の与力尾崎三蔵の屋敷では下男ふたり、下女ふたりを雇っていた。
安政三年(1856)の七月、下男のひとりが辞めたことから、あらたに清蔵という男を下男に雇った。
尾崎の屋敷で働き出した清蔵は、古参の下男が年増の下女と密通し、夜毎に下女部屋にかよっているのに気づいた。清蔵はうらやましくてしかたがない。そこで、若い方の下女を口説き、夜になると忍んでいったが相手にされない。それでもあきらめずに夜這いを続け、熟睡しているところを、ついに思いを遂げた。あとは、毎晩のように女のもとに行く。
若い下女は主人にばれると大変なことになると思い、古参の下男に相談した。「清蔵さんが毎晩のように夜這いしてくるんだよ。どうにかならないかね」「とんでもない野郎だ。俺が意見してやる」
古参の下男が夜這いをやめるよう申し渡したが、清蔵は「自分のことは棚にあげて」と、怒り心頭に発した。その夜、刀を持ち出した清蔵は古参の下男と下女ふたりに斬りつけ、そのまま逃亡した。下男は即死、下女ふたりは重症だった。
いったん逃亡したが、清蔵はあえなく捕らえられた。年増の下女は傷が癒えて命は取りとめたが、清蔵と関係があった若い下女は八月下旬、傷がもとで死んだ。九月、清蔵は死罪に処された。 
団子
文政二年(1819)八月ころのこと。下谷あたりに住む男が、団子を食べて食あたりをし、死ぬ夢を見た。「妙な夢を見たわい」と思ったが、人には言わなかった。
翌日、用事があって浅草あたりを歩いていると、若い男が血相を変え、走り回りながら人さがしをしているのを見かけた。
若い男の様子が尋常ではないため、行き交う人々が声をかけた。
「なんだ、どうしたね」「さきほど、わたくしどもの店に木綿の大形の広袖を着た男が、「鴆毒を売ってくれ」と、やってきました。鴆毒は毒薬ですから、先方の名前や住まいをたしかめてからでなければ、売ることはできません。ところが、うっかりしていたと申しましょうか、ぼんやりしていたと申しましょうか、あたくしは名や所をたしかめないまま、鴆毒を売ってしまったのでございます。しばらくして気づいたので、こうやって売った人をさがしているところですが、見当たりません。大変なことをしでかしてしまいました」
そう言うや、薬屋の奉公人は青い顔をして店に戻っていく。
そばで聞き、男はどんな商売でもうっかり失敗することはあるのだなと思いながら、下谷に帰った。
家に戻ると、女房が愛想よく迎えた。
「おまえさん、お腹がすいたろう。団子をこしらえたんだよ」 男は胸騒ぎがした。昨夜の団子の夢といい、さきほどの鴆毒の件といい、妙に符合している。
「ちょいと用事があるから、あとにしよう」「そんなこと言わずに、せっかく作ったんだから、食べなよ」 女房は熱心に勧める。
男は不審を強め、用事にかこつけてその場を離れた。
しばらくして、女房がいないのをみすまし、下女にそっと尋ねた。
「最近、大形の木綿の広袖を着た男がうちに来なかったか」 すると、下男がこのところそんな着物を着ているという答えである。
男はピンときた。
そこで手紙を書くと、女房に渡し、「急用なので、すぐに行ってくれ」と、実家の義理の父親に届けるよう頼んだ。
わずか一町ほどしか離れていないため、女房が実家に行き、父親に見せる。
父親が手紙の封を切ると、なかには、「委細があって、しばらく女房をあずけたい」と、書かれていた。
「いったい、どういうことじゃ。夫婦喧嘩でもしたのか」「いえ、なにもありませんよ。あたしも、寝耳に水で、なにがなんだかわかりません」 そこで、父親は結婚のときの仲人に相談した。
さっそく、仲人が男のところに行った。「いったい、どういうわけですか」「わけというほどのことはありませんが、これを女房に見せれば、すべてがわかるはずです」と、団子を差し出す。仲人はやむなく、団子を持って女房の実家に戻った。そして、団子を見せる。女房はワッと泣き伏した。父親と仲人にわけを尋ねられ、ついに女房も下男と密通し、夫の毒殺をはかったことを白状した。驚いたのは父親と仲人である。
仲人がまたもや男のもとに行き、「先方では、いかようの仕置を受けても異存はありませんと申しております」と、挨拶をした。
男は声を荒らげるでもなく、「波風をたてるつもりはありません。女房を里に引き取ってもらえれば、それでけっこうです」と述べるだけだった。
女房は夫殺しの嫌疑で召し捕られてもおかしくない事態だっただけに、父親も仲人も男の穏便な処置に安堵した。団子の件がばれたのを知り、下男は出奔した。 
幼い娘
野中善兵衛という武士の屋敷に、おあさという娘が子守奉公をしていた。おあさは八歳だった。
慶応二年(1866)二月十三日の朝五ツ(午前8時)、おあさは野中家の赤ん坊を背負って、近所に買物に出かけた。
ところが、なかなかおあさが戻ってこない。
野中家でも心配していると、昼ごろになってようやく戻ってきた。
おあさは顔が真っ青で、着物は乱れ、あちこちに泥がついている。その様子はただ事ではない。それでも、赤ん坊はしっかり背負っていた。
野中家でいろいろ問いただすと、「中間風の男に物陰に引っ張り込まれ、痛いことをされた」という。
八歳の娘の言うことだけに内容ははっきりしないが、どうも強姦されたらしい。
あわてて、近所の湯島四丁目に住む中島玄覚という外科医を呼び、診断させた。
玄覚が診断したところ、陰門が裂け、出血していた。やはり、強姦されていたのだ。
中島家ではおあさに男の人相や、連れ込まれた場所などを尋ねたが、なんといってもまだ八歳である。しかも、強姦された精神的動揺もあり、ほとんどなにも覚えていなかった。けっきょく、犯人は不明のままだった。この噂はパッと広がり、江戸の町に八歳の女が犯されたことをおもしろがり、はやしたて、茶化すような落首、流行り唄などが出まわった。
後門
嘉永三年(1850)のこと。四谷伝馬町三丁目に、松島屋という商家があった。三月二十五日、松島屋の丁稚小僧の徳次、十六歳は千駄ヶ谷村のあたりに使いに出された。
昼を過ぎて、徳次が店に帰る途中、たまたま四谷あたりに巣くう博奕打ちの磯吉という男とすれ違った。磯吉はいきなり徳次をその場に蹴り倒すと、後ろからいどみかかり、無理矢理に肛門を犯した。その上で、徳次が持っていた有り金四百六十四文を奪うと、逃げ去った。
徳次はすごすごと帰途についたが、気になるのは奪われた金である。釜を掘られただけなら掘られ損で、人には黙っていようと思うのだが、店の金だけに、このまま黙っているわけにはいかない。かといって、自分に弁償できるわけでもない。やむなく、店に戻った徳次は、主人の喜右衛門にすべてを打ち明けた。丁稚が受けた仕打ちを知り、喜右衛門は怒り心頭に発した。「なんということだ。そんな悪党をのさばらせておくわけにはいかない。きっと、近所をうろついているであろう」 翌日、喜右衛門は岡っ引にいちおう耳打ちしておいて、徳次を同行させ、昨日の現場に行った。すると、やはり磯吉がうろついている。
徳次が、「あの男です」と、喜右衛門に知らせた。喜右衛門が磯吉を取り押さえたところに、岡っ引も駆けつけた。けっきょく、磯吉は火付盗賊改に召し取られた。その際、火付盗賊改の役人も徳次に同情したのか、無理矢理の男色の件ははぶき、磯吉を博奕のとがで入牢させた。だが、こういう風評はすぐ世間に広まる。その後、「いにしへハ月夜ニ釜を抜たれど今は昼中割て銭とり」という狂歌が出まわった。  

新石町一丁目に搗米屋があり、主人は庄助といった。
庄助夫婦は子供がなかったことから養女をもらい、ゆくゆくは婿養子を取るつもりだった。養女はお初といい、十七歳だった。店に住み込みの庄八という米搗き男がいて、二十九歳だった。この庄八とお初ができてしまい、ひそかに結婚の約束を交わした。
ところが、お初も一時の情熱で夫婦約束までしたものの、落ち着いて考えると、もし養父母にしれたらどんなに叱られるかわからない。そこで、庄八に別れ話を切り出した。「夫婦になることはできないよ。もうおたがい、忘れよう」 庄八はほかに男ができたに違いないと思い込み、お初に恨みをつのらせた。
安政四年(1857)六月十五日、庄八はお初が湯屋から戻るところを待ち伏せした。お初を見るや、「家に帰れないようにしてやる」と言いながら、剃刀で髷を切りおとしてしまった。勢い余り、背中にもかすり傷をあたえた。お初が走って逃げ去ったあと、庄八はなにくわぬ顔で店に戻った。
髪を切られてしまい、お初は家には帰れない。いったん下谷茅町の実家に身を寄せようと思った。筋違橋まで来たところで日はとっぷり暮れ、五ツ(午後8時)に近かった。考えてみると、いまさら実家に帰るのも外聞が悪い。思いつめたお初はいっそ死んでしまおうと、橋から神田川に身を投げた。たまたま川に多くの涼み舟が出ていた。水音に気づいて、船頭たちが舟を寄せてお初を引きあげ、新石町の搗米屋に送り届けた。
これで事件は表沙汰になり、庄八は町奉行所に召し捕られた。身元を調べると、庄八は無宿人だった。八月十六日、判決が言い渡された。庄八は「主人養娘はつと蜜通」にくわえ、「剃刀を以て疵を負わせ」たのは「不届至極」として、引廻の上、磔に処された。お初は、そもそも身のふしだらに原因があるとして、「不埒」として手鎖になった。養父の庄助は、人別帳にない庄八を雇っていたのは「不埒」として、過料五貫(五千)文を科された。  
密通
品川宿に住む大工の亀吉は中風を患って仕事ができなくなった。生活に窮し、十七歳の長女を女郎屋に売ったが、その金もつまらないことに使い果たしてしまった。家にはまだ九歳と五歳の男の子がいる。女房のお鉄はやむなく高利貸しの座頭に体を許し、月々の手当をもらうことで生計を立てた。ところが、亀吉は女房が座頭にだかれているのがおもしろくない。ことあるごとに難癖をつけ、不自由な体でお鉄に暴力をふるった。
亀吉が荒れている噂を聞いて、座頭は外聞が悪いため、お鉄との関係を絶とうとした。そうなると生計が成り立たない。
お鉄は亀吉に諄々と説いた。「ふたりの男の子がかわいいなら、しばらくのあいだ別居しようではありませんか。生活費は渡しますから」 女房の言い分に亀吉も納得し、中風の平癒を祈願するため、ふたりで堀之内村(東京都杉並区)の妙法寺に参詣することになった。
参詣の途中、亀吉が話を蒸し返し、女房にむしゃぶりついて放さない。「俺を放り出して、あの座頭と寝るつもりか」 お鉄もたまりかね、振り放そうとするはずみで、肘が亀吉の横腹を直撃した。その痛みに亀吉は転倒し、「人殺し、人殺し」と大声をあげる。お鉄は騒ぎ立てる亭主を置き去りにし、逃げ帰った。たまたま道で一部始終を目撃していた人がいた。
三日後、お鉄は夫を殺そうとしたとして町奉行所に召し捕られた。近所の人々は驚き、お鉄を救うため亀吉を説得した。「お鉄さんは貞女じゃないか。このままでは大変なことになる。お奉行さまには誤解だと申し上げ、お慈悲を願うのだよ」 女郎に売られた娘も心を痛め、母親を救うべく父親を説得した。ところが、依怙地になった亀吉は町奉行所に召喚されると、女房が間男をしていたことや、道に置き去りにしたことだけを申し述べた。
町奉行所が調べると、お鉄が座頭と密通していたのは間違いない。夫がありながら他の男と密通し、しかも体が不自由な夫を見捨てたとして安政四年(1857)三月二十五日、お鉄は市中引廻の上、死罪に処された。四十一歳だった。  
 
盗賊

 

因果応報
文政十年(1857)ころのことである。裏長屋に住む独り者の男が富籤を買い、一の富の百両にあたった。
そのうち、二十両は富籤を興行している寺社に礼金として奉納した。
八十両を持ち帰ったが、大金を手元に置いておくのは不安なため、六十両は大家にわけを話して預かってもらった。残りの二十両で方々の借金を返したあと、いろいろと買物をしたが、なかなか使いきれるものではない。三両ばかりが手元に残った。
数日後の夜、富籤に当たったという噂を聞きつけたのか、二、三人の盗賊が押し入ってくるや、「おめえ、富に当たったそうだな。その金を寄越せ。さもないと、こうだぞ」と、抜身を押し当てた。男はふるえながら、正直にいきさつを話し、「そんなわけで、手元にはこれしかありません。どうぞ、持っていってください」と、三両を手渡した。
盗賊も相手が嘘を言っているようには見えないため、金を受け取って帰ろうとしたが、そのときひとりが、台所の隅に酒樽が置いてあるのに気づいた。
「ちょうどいいや。一杯、引っ掛けていくか」 盗賊はめいめい茶碗で酒を呑み、一杯機嫌で引きあげていく。
歩いているうち、急に苦しみ出した。次々と道に倒れ伏し、そのまま死んでしまった。
届けを受けて、町奉行所の役人が検使に来た。死体をあらためると、毒殺に違いない。事情を調べると、酒樽は大家が祝いとして贈ったことがわかった。男から預かった六十両をネコババしようと思い、毒を盛った酒を贈ったのである。大家は召し捕られ、牢に入れられた。  
謝礼
寛政のころ、江戸の真言宗の寺の僧侶が、京都の本山に二百両の金を届けることになり、ひとりで旅立った。
品川宿を過ぎたあたりで、ひとりの男が、「京都までですか。では、ごいっしょしましょう」と、話しかけてきた。
連れ立って歩き、いろいろと親切に世話も焼いてくれる。
僧侶は、ふところの金をねらう盗人に違いないと察し、道連れを断わりたいのだが、男はいっこうに離れようとしない。けっきょく、夜は同じ宿に泊まることになった。
ある宿場に泊まったとき、僧侶は夜中にそっと宿屋を抜け出した。
「ああ、これでホッとした」と、夜道を足早に歩く。
夜が白々と明けると、街道の茶屋の床机に男が腰を掛けていた。
「あたしを出し抜こうとしても駄目ですよ。京都まではぜひお供をさせていただきますからな」
男は笑うと、いっしょに歩き始めた。
ここにいたり、僧侶もこうなれば御仏に任せるしかないと、男から逃れることをあきらめた。
ある夜、宿屋に別な男が訪ねてきて、ふたりでヒソヒソと話をしている。
僧侶は、「さては、いよいよ、今夜殺されるのであろうか」と、布団のなかでひたすら念仏を唱えていた。
訪ねてきた男はそっと帰って行く。
深夜になり、連れの男が僧侶を起こした。
「急用ができたので、あたしの言う通りになさい。荷物をまとめて、ここを抜け出します」
そっと、宿屋の裏口から逃げ出した。
竹薮を抜けてしばらく歩いたところで、男が言った。
「あれをご覧なさい」
僧侶が振り返ると、さきほど泊まっていた宿屋から火が出て、夜空に炎が吹きあがっていた。
その後も連れ立って旅を続けていたが、ある日、日が暮れても宿に泊まる気配がない。男は、「もうしばらく、もうしばらく」と、僧侶を歩かせた。
暗い松並木になったところで、遠くから馬の鈴の音が近づいてくるのが聞こえた。
「今夜は大仕事があります。ここで待っていてください。けっして動いてはいけませんよ」
男は僧侶をやや離れた田んぼの暗がりにひそませたあと、街道に戻っていった。
しばらくして、馬がさしかかったかと思うや、馬子がかかげていた提灯の火がふっと消えた。
そのあと、物音や悲鳴がする。
僧侶はただふるえているだけだった。
しばらくして、男が戻ってきた。
「さあ、行きましょう」
ふたたび、連れ立って道を歩いた。
翌日、宿場で人々が話をしているのを聞くと、「昨夜、松林のなかで飛脚と馬子が殺され、飛脚が運んでいた大金が盗まれた」という。僧侶はさてはと思ったが、男から逃げることはできない。そのまま旅を続けた。
京都に着くと、男が言った。
「お察しの通り、あたしは盗賊です。和尚さんの連れだったおかげで、怪しまれることもなく旅をすることができました。また、途中で二度も仕事をして、かなりの大金を得ることもできました。お礼に、これを差し上げます」
金二百両を謝礼として差し出した。
僧侶は驚き、「とんでもないことです。受け取るわけにはまりません」と、受け取ることを固辞した。  
 
人殺し

 

折檻
弓町の裏長屋に、牛五兵衛という男伊達が住んでいた。ひごろはいたって柔和なのだが、いったん事がおき、「さあ、きかぬ」と言い出すと、命も惜しまないという気質だった。
同じ長屋に、喰徳乃作右衛門というならず者が住んでいた。酒癖が悪く、大酒を呑んではあちこちで暴れまわるという、手のつけられない乱暴者だった。
たまたま、長屋で婚礼があった。当時の庶民の婚礼は、花嫁が花婿の自宅に来て、そこで三々九度の盃事をしたあと、初夜となる。
酒に酔った作右衛門が婚礼の場に押しかけ、「今晩、嫁を借りたい」と、嫁入りしてきた女の手を取り、強引に引っ立てようとした。
花婿が驚き、「なんという狼藉」と、押しとどめようとした。
それを、作右衛門が殴り倒す。作右衛門の母親や、五兵衛の母親、それに長屋の者たちが大勢集まり、無法な行為をなだめ、思いとどまらせようとするが、とても抑えきれない。
「この作右衛門がいったん言い出したからは、反故にしたことはねえんだ。女房を借りるくらい、なんだ」と怒鳴り散らし、誰彼かまわず殴りつけ、蹴り倒す。長屋は大騒動となった。
そこに、たまたま外出していた牛五兵衛が帰ってきた。騒ぎを見て、五兵衛が取り押さえようとした。作右衛門はますますいきり立ち、「てめえが相手なら、骨があっておもしろい」と、包丁を持ち出してくるや、五兵衛のみけんに切りつけた。五兵衛は傷を受けながらも、ひるまずに相手に飛び掛る。包丁を奪い取るや、作右衛門を投げ飛ばした。起き上がろうとするところを、天秤棒で殴りつける。たまたま打ち所が悪かったのか、作右衛門は、「うーん」と、ひと声うめいたかと思うや、そのまま倒れ伏した。みなはびっくりして、作右衛門を介抱したが、すでに絶命していた。
作右衛門が死んだのを知り、五兵衛は集まっていた長屋の住人に向かい、「わっしが作右衛門を打ち殺したからには、逃げも隠れもいたしません。お奉行所に参りますので、同行してください」と、いさぎよかった。
すると、作右衛門の母親が涙ながらに言った。「かねがね、乱暴ものの倅めのため、あたしもろくな死に方はできまいと存じておりました。勘当しようと思いながらも、たったひとりの倅ゆえ、不憫さのあまりずるずるときてしまい、とうとうこんなことになってしまいました。みなさまにもご迷惑をかけ、申し訳ございません。どうか、ここはあたしにお任せください」そして、奉行所に届け出た。
検使に来た役人に向かい、母親は、「あたしの倅めは無法なおこないが多く、折檻をしようとしたところ、手向かってきましたので、天秤棒で打ち据え、このような仕儀となりました」と、申し述べた。
役人もいぶかしい点があるとは思ったが、親の陳述であることから、とくに詮索はせず、その説明に納得して帰った。
親が子供を折檻したあげくの死亡であることから、なんの咎めもなかった。
その後、母親は五兵衛はじめ長屋の住人に、「このような子供を持ったのも、前世の因果と思えば、なんの心残りもございません」と挨拶し、髪を切って尼の姿になり、田舎の知人のもとに隠棲した。
以来、五兵衛は作右衛門の母親を自分の母親同様に敬い、折に触れて金を送ったという。時に、寛文六年(1666)、牛五兵衛は十八歳だった。 
子供殺し
下谷通新町に住む半七は、方々から幼い子供を養子にもらった。
当時、貧しい上に子沢山で、子供をすべて育てる余裕はないため、もしもらってくれる人がいれば、礼金を付けても養子に出したいという家は多かった。
半七はこれに目をつけ、あちこちから養子をもらったのだ。その際、きちんと養子証文も取り交わしたが、すべて偽名を用いていた。
五ヵ所から、五人の子供を養子にもらい、礼金合わせて五両三分を受け取った。
半七はもらった子供はすべて絞め殺し、死体は地面に埋めたり、菰に包んで川に投げ捨てたり、畑に捨てたりして処分した。
宝暦三年(1753)、半七の犯行は明るみに出て、町奉行所に召し取られた。
半七は引廻しの上、日本橋のたもとで三日間晒されたあと、小塚原の刑場で磔となった。
また、同じ町内に住んでいた平吉は、半七の所業を薄々知りながら、証文の保証人になるなどして力を貸し、謝礼をもらっていた。平吉も召し取られ、引廻しの上、死罪となった。  
夫殺し
文化十三年(1816)六月、二十歳のおひめは田舎から江戸に出てきた。
六月二十八日、知人の媒介で、東湊町一丁目に住む武兵衛のもとに嫁いだ。
亭主の武兵衛は大金を胴巻きに入れ、つねに肌身離さないという男だった。寝るときも胴巻きを巻いたままである。
おひめは嫁入りから三日目の七ツ(午前4時)、そっと寝床から抜け出した。夫が熟睡しているのをみすまし、武兵衛が所持していた刀を持ち出す。
刀を抜くや、夫の喉もとを突いた。
武兵衛がなにやら叫びながら、両手で刃をつかんで、起きあがろうとする。
おひめは、刀を持った手に力をこめた。剣先が右の耳の後ろに突き出て、武兵衛は絶命した。
夫が死んだのを見届けたあと、おひめは胴巻きにあった二十両二分を奪い取った。血のついた抜き身は二階の隅に隠し、鞘は家の入口付近に放り投げた。強盗がはいったように見せかけたのである。
そうしておいて、おひめは、「きゃー、泥棒、泥棒」と、絶叫した。
すぐに、近所の人々が集まってきた。
検使に来た町奉行所の役人は、すぐにおひめが怪しいとい思い、召し取った。取調べを受け、おひめは、「長八の仕業でございます」と、陳述した。
調べてみると、上総蔵波村(千葉県袖ヶ浦町)の長八は、かつておひめが情を通じていた相手だった。捨てられた恨みから、おひめは長八に罪をなすりつけようとしたのだ。
おひめは「引廻しの上、磔」を言い渡された。
この「亭主殺し」は江戸中の評判となり、小伝馬町の牢屋敷の裏門付近には、「きょうは御仕置が出る」「あすは出る」と、期待に目を輝かせた野次馬が多数つめかけた。
いよいよ七月二十五日、処刑がおこなわれた。牢屋敷の裏門から鈴ヶ森刑場までの引廻しの道筋には、見物人が鈴生りとなった。 
子供殺し
下谷に、森本吉左衛門という幕臣が住んでいた。三両の持参金つきで養子をもらった。
吉左衛門は妻のおきんと共謀し、子供を殺して、あらたに持参金つきの養子をもらおうと図った。そこで、子供にいろんな毒になる食べ物をあたえたが、生まれつき頑健な体質だったのか、すこぶる元気である。
おきんは子供を憎み、「早く死ね」とばかりに邪険にあつかう。この様子を見て、近所の人々は涙を流した。
吉左衛門夫婦は業を煮やし、寛政九年(1797)七月十日、子供を布団に包んで縛り、囲炉裏のそばに放置したまま、夫婦そろって観音様の参詣に出かけた。
やがて、囲炉裏の火が布団に燃え移る。
煙に気づき、近所の人が駆けつけて火を消し止めたが、子供はすでに窒息死していた。
ついに夫婦は召し取られ、吉左衛門は死罪、おきんは遠島となった。  
願人坊主
享和元年(1801)二月、内藤新宿の天竜寺の門前を、上田縞の小袖に青梅縞の綿入を着た、二十歳くらいの美人が歩いていた。
そこに、古びて垢染み、ところどころ破けた布子を着て、手ぬぐいで頬かぶりをし、鼓を持った願人坊主が通りかかった。
願人坊主は女のそばに寄り、ひとこと、ふたこと、なにやら話していたかと思うや、突然、とびかかって押し倒した。馬乗りになると、小刀で女の喉をグサリとえぐった。
女は朱に染まり、即死だった。
この様子を見て、人々がまわりを取り囲む。
もう逃げられないと観念したのか、願人坊主も小刀を捨て、おとなしく縛についた。
捕らえた人々が、女を殺した理由を尋問した。
願人坊主が言うには、「この女は、わしのお頭の娘でござります。深い仲になっておりましたが、やむを得ない事情があり、わしはしばらく他国に出かけておりました。そのあいだに、仲間の男と密通し、しかも親もそれを承知して、近々、祝言をあげるとということを聞きました。あまりに悔しいため、手にかけたのでございます」とのことだった。 
子供殺し
四谷に住む駕籠かき人足は、女房と示し合わせ、礼金つきで赤ん坊を養子にもらい、その尻に針を突き刺して殺した。あとは、病死として処理した。
それに味をしめ、夫婦はふたり目の赤ん坊をもらい、同様に針を刺したが、激しく泣くばかりで、死なない。
そこに、養子を世話した人物が様子をうかがいに来た。
赤ん坊の泣きかたが尋常でないのを見て、
「虫気ですかな、それとも乳が足りないのでしょうかな。ともかく、先方に連れ帰って、乳を飲ませてみましょう」
と、とりあえず赤ん坊をあずかって帰った。
世話人が赤ん坊に乳を飲ませたが、泣きやまない。そこで、医者に診せた。
医者は首をひねり、
「虫気のようですが、虫気ともちょっと違うような気もします。どうも妙ですな」
と、赤ん坊の体をいろいろさわってみた。
すると、尻に針が埋まっているのがわかった。
すぐに町奉行所に訴え出て、駕籠かき人足は召し取られた。
文政元年(1818)、夫婦は磔となった。  
子供殺し
本郷に住む松五郎と女房のおみとは、ふたりで共謀して、礼金・衣服つきで赤ん坊を養子にもらった。
もちろん、礼金と衣服が目あてである。
もらった赤ん坊にはろくろく乳も飲ませないため、ひとりは餓死同然で死亡した。
ふたり目と三人目の赤ん坊は飢えて夜中に泣くため、おみとが乳首を口にくわえさせ、そのまま乳房を押し付けて窒息死させた。
次々と赤ん坊が死ぬため周囲の不審を招いた。
夫の松五郎はいち早く逃亡した。
女房のおみとは召し取られ、安政七年(1860)三月二日、小塚原の刑場で磔となった。そのとき、二十八歳だった。  
夫殺し
牛込改代町の裏長屋に、鉄三郎という屋根葺き職人が住んでいた。四十二歳だった。女房のおいとは、三十三歳だった。
鉄三郎のもとで、喜太郎という三十一歳の男が下働きをしていたが、この喜太郎がおいとと密通した。
文化四年(1807)六月十七日の明け方、かねてしめし合わせていた喜太郎とおいとは、熟睡している鉄三郎の体をふたりがかりで押さえ付けた。
まずは、口にワラを押し込めて声を立てられないようにしておいてから、絞め殺した。
死体は床下に埋めて隠した。
おいとは、親類縁者や長屋の住人たちには、「亭主は大山参りに出かけました」と、説明した。
大山は相模(神奈川県)にあり、信仰の山として庶民の参詣が盛んだった。
だが、いつまでたっても鉄三郎は帰ってこない。
さも心配そうに、おいとは、「いったい、どうしたんだろうね。神隠しにでもあったのだろうか」と言いながら、夫の帰宅を神仏に祈願したりしていた。
ある日の朝、長屋の者が共同井戸で水を汲みあげると、釣瓶に人間の髪の毛がごっそりと付着してきた。
驚いて、「変だよ」と、近所に知らせた。
すると、「そういえば、このところ、水に妙な臭いがする」と、言い出す者もいる。
長屋総出で、井戸替えをすることになった。
井戸の水を全部汲み出してみると、底に死骸がある。大勢で縄をかけて引きあげると、石臼を縛り付けられた鉄三郎の死体だった。
もう、大騒動である。
役人に届け出て、すぐさま、おいとと喜太郎は召し取られた。ふたりは観念したのか、共謀して鉄三郎を殺し、井戸に捨てたことをすべて白状した。
八月二日、小塚原の刑場で、喜太郎は獄門、おいとは引廻しの上、磔に処せられた。
この処刑は評判になり、刑場には多くの見物人がつめかけた。おかげで、浅草花川戸町から小塚原までの一帯では、飴、菓子、果物などはすべて売り切れになったという。
なお、召し取られたふたりの自供から、つぎのことがわかった。最初、鉄三郎の死体は床下に隠したのだが、夜な夜な、その姿が枕元に出てくるような気がする。そこで、ふたりは鉄三郎の死体を掘り起こし、石臼を結びつけて、長屋の井戸に放り込んだ。その後は、そ知らぬふりをしていたが、さすがに井戸の水を飲むのは気味が悪かったのか、自分たちは行商の水売りから飲料水を買っていたという。
人々は、「自分たちの寝ている下に死体が埋まっているのは気味が悪かったのだろうが、そのままにしておれば、ばれることはなかったろうに。掘り出して井戸に棄てたのは、なんとも浅墓だな」と評して、ふたりの浅知恵を笑った。 
通り魔
文化三年(1806)の一月末ごろ、暗くなってからひとりで歩いている盲人の按摩や、乞食のいざりが槍で突き殺されるという事件がおきた。
二月になると、あちこちで頻発した。
町々で警戒を強めたためか、三月になっていったん終息したかに見えたが、四日、芝の泉岳寺前から出火した火事が燃え広がり、浅草まで焦土となる大火になった。いわゆる、丙寅の大火である。
この大火のあと、ふたたび盲人などが突き殺される事件があちこちで発生した。金目の物を奪った形跡もなく、殺すこと自体が目的のようだった。
杳として犯人は知れなかったが、鮫河橋の岡っ引がついに突き止め、四月十八日、召し取った。
犯人は広右衛門といい、五十数歳だった。かつて武家屋敷に奉公したことがあり、そのときに槍の使い方を習い覚えたのだという。
広右衛門の供述によると、「生きた人間を槍で突いてみたかった(生たる人を突見度)」というのが動機だった。
槍で突かれた人間は十四人におよび、そのうち七人が即死だった。ほかは、重傷である。
二十四日、広右衛門は江戸市中引き回しの上、鈴が森で獄門に処せられた。
江戸の人々は、「これで、夜も安心して出歩ける」と、ほっとした。
ところが、広右衛門の処刑当日の夜、浅草で人が刺し殺された。
さらに、五月二日の夜には、牛込で盲人が出刃包丁で刺し殺され、神楽坂でも人が刺された。
その後も事件が続発し、町奉行所は躍起になって捜索したが、なかなか犯人は知れない。
翌年の九月になって、ようやく元剣術師範という男が召し取られた。
男の自供によると、二十二カ所で犯行をおこなったという。男は処刑される前に牢死した。  

神田小柳町にお伊和という女が住んでいた。夫とのあいだに三人の娘がいたが、夫が病死してしまった。
お伊和は、五歳年下の安兵衛という男とねんごろになった。そうなると、邪魔なのが娘である。そこで、長女と次女を吉原の妓楼、三女を板橋宿の女郎屋に売り飛ばし、自分は安兵衛と一緒に本所三笠町に移り住んだ。
ところが、四年ほどして、安兵衛はころり(コレラ)に罹り、頓死してしまった。
その後、お伊和は裏長屋に住み、夜鷹同然の売春婦をしていたが、女ひとりでは老後のことが心配でならない。そこで、板橋の女郎屋に売った三女のお鶴を呼び戻すことにした。
お鶴のもとには、大名屋敷の中間で友吉という男が通いつめ、年季が明けたあとは夫婦になる約束をしていたのだが、放蕩が過ぎるとして、屋敷から追い出されてしまった。友吉は日雇い稼業で糊口を凌ぎ、そうそうは板橋には行けない。
友吉の足が遠のいたあと、別な大名屋敷の中間で栄吉という男がお鶴の馴染みとなっていた。
以上の事情を知ったお伊和は、栄吉に説いて金を出させ、まだ年季が残っているお鶴を身請けして、本所の長屋に引き取った。
このいきさつを知り、友吉はお伊和のもとを訪ね、「わしはこれまでさんざんお鶴さんに入れ揚げ、あげくは屋敷を追い出されたのです。こうなれば、ぜひお鶴さんを女房に貰い受けたい」と、申し入れた。
お伊和は立腹し、「お鶴はあたしの子だよ。まだ年季中にもかかわらず大金を出して引き取ったのは、ゆくゆくよい婿を取り、あたしが安楽に暮らすため。それを、ただで連れていこうなど、冗談じゃないよ」と怒鳴りつけ、追い返した。
しばらくして、友吉は三両の金を持って、ふたたびお伊和のもとを訪れた。ようよう、金を工面したのである。
「お鶴は夫婦約束をした女です。ぜひ、女房に貰い受けたい」と、友吉が申し出た。
お伊和はますます怒り、「三両ぽっちの目腐れ金で、大金を出して引き取った娘を連れ去ろうなど、とんでもないよ。どうせ、おまえさんもお鶴をどこかに売り飛ばすつもりであろう。そうはさせないよ」と、さんざんにののしり、またもや友吉を追い返した。
その後、お伊和は友吉がどういう行動に出てくるか不安になり、栄吉にお鶴を隠すよう頼んだ。
これを受け、栄吉がお鶴を引き取り、隠した。
友吉はお鶴をさがしまわったが、その行方は知れない。
万延二年(1861)一月十八日の昼八ツ(午後2時)過ぎ、友吉は不忍池に通じる無縁坂で、外出中のお鶴にばったり出会った。
友吉は女房になるよう迫り、「いっしょに来てくれ」と、女の手を引っ張る。お鶴はのらりくらりと言い逃れを言う。ついには、口論になった。それまで母のお伊和にさんざん罵倒された恨みもあり、カッとなった友吉は腰に差していた脇差を抜き、お鶴の左目から口にかけて四寸ほども斬りつけた。さらに、喉を突いた。お鶴はその場で死んだ。
友吉はそのまま逃亡し、行方知れずとなった。いきがかりじょう、栄吉がお鶴の死体を引き取って町奉行所の役人の検使を受け、その後、お伊和に引き渡した。  
女犯
享保六年(1721)のこと。雑司が谷にある本納寺から、下男奉公をしている十二歳の庄助が六月にはいって寺から逃げ出し行方知れずになったと、父親の八助に連絡があった。八助は御先手組与力の屋敷に奉公していたが、本納寺が旦那寺であることから、息子の庄助を下男奉公させていたのだ。
息子が行方をくらませたと聞き、八助は方々を尋ね歩いていたが、たたまた六月十二日になり、大塚村近くの畑から死体が見つかったという噂を小耳にはさみ、その場に駆けつけた。
死体は畑のなかに埋められ、上から木の枝などをかぶせられていたが、犬が掘り出し、カラスなども集まってきたため、わかったのだという。すでに、かなりの腐臭を発していた。
たしかめると、死体は息子の庄助に違いなかった。首には縄が巻きつけられ、あばら骨を強打した跡もあった。
八助は本納寺に走り、息子が殺されていたことを告げた。
それを聞くや、住職の日彦和尚は、「さても不憫なことじゃ。愁傷でござる」と、ハラハラと落涙した。
ややあって、日彦は、「もはや死んだ者は生き返りませぬ。もしこのことが公になれば、寺にもいろいろと難儀がおよびます。ここは、お上には届け出ず、内々で処理してはどうであろうか」と、八助に持ちかけた。
八助も、息子のことで旦那寺が難儀に巻き込まれるのは本意ではなかった。そこで、もはやお上には訴え出たりはしないことを了承した。
すると、日彦は五、六両もの金を取り出し、「これは諸事の入用にあてられるがよかろう」と、八助に渡す。
「とんでもないこと。せがれの菩提は、お寺で弔ってくださりませ」と、八助は金を受け取ることを辞退し、屋敷に戻った。
その後、本納寺の僧侶が下男を殺したが、父親は寺から大金をもらって口をつぐんだという風評が広がり、このことが八助の耳にもはいった。
八助としては、自分が金に目がくらんで息子の死をうやむやにしたと思われるのは心外である。
そこで、八助は御先手組与力の主人に相談した。
主人はピンときた。火付盗賊改の職についていたのだ。さっそく、上司に報告する。
内偵がおこなわれ、本納寺に女犯の疑いがあることがわかったことから、ついに寺社奉行が動き出した。
六月十九日、寺社奉行の役人が本納寺に踏み込み、僧侶をいっせいに召し捕った。
火付盗賊改・町奉行所・寺社奉行の三者合同の取調べの結果、以下のことがわかった。
日彦は女を小姓姿にして寺内に囲っていたが、いつまでも隠しおおせるものではない。門前町ではひそかに、住職は女を囲っているらしいという風評がささやかれていた。これを小耳にはさんだ下男の庄助が、「お寺の小姓は女ではないか、乳が大きいなどという噂がございます。お上人さま、本当でございますか」と、面と向かって日彦に質問した。日彦はもちろん、言下に否定したが、庄助は納得しない。その後も、たびたび日彦に食いさがる。うるさくなった日彦は弟子の本好と共謀して庄助を絞め殺し、大塚村の外れまで運び、畑に埋めたのだった。判決が言い渡され、日彦と本好はともに遠島となった。  
遊女
炭問屋を営む次郎左衛門は、地元の下野佐野(栃木県佐野市)では分限者と称されるほどの身代だった。
この次郎左衛門が江戸に出てきて、吉原で遊んだ。角町の中万字屋に登楼し、八橋という遊女に夢中になった。商売のことは放り出して、八橋のもとにかよいつめる。
主人が江戸に出たまま帰らないため、炭問屋は経営がたちまち行き詰まった。吉原で湯水のように金を使ったため、借金は雪だるまのようにふくらむ。
ついには、在所の炭問屋はつぶれ、借金のかたに家や田畑まですべて人手に渡るという羽目になってしまった。
それでも、零落した次郎左衛門は八橋のことがあきらめきれない。かといって、吉原にきても金がないため、中万字屋に登楼することはできない。仲の町の通りに未練がましくたたずみ、八橋が花魁道中でさしかかるのを待ち受けて、話しかけようとした。
八橋も、落ちぶれた男を不憫と感じないわけではなかったが、女郎の身ではどうしようもない。それに、みじめったらしい男にいつまでも付きまとわれるのは迷惑だった。目も合わせようとはしない。
そんな八橋を見て、次郎左衛門は、「わしは真心を尽くし、身上まで使い果たして、このように落ちぶれたというのに、手のひらを返したようなあの冷淡さ。誓紙に書いて誓ったことはすべて嘘だったのか。傾城に誠なしとは聞いていたが、八橋だけは別と信じ、うかうかと迷った自分の愚かさが悔しい」と、無念がった。
元禄九年(1696)十二月十四日。
次郎左衛門は、仲の町を花魁道中してくる八橋のそばに歩み寄り、「せめて、やさしいことばのひとつも、かけてくれてよいではないか。そなたのために、わしはこのような身の上になったのじゃぞ」と、涙ぐんだ。八橋は気づかぬふりで、返事もせずに歩き続ける。「男にここまで言わせておいて、返事もなく行き過ぎること、言語道断の義理知らずめ」次郎左衛門はなじりながら、八橋のあと追う。付き添っている遣手や禿が八橋を守るように取り巻き、「あんな男に、かまいなんすな」と言いながら、さっさと仲の町の引手茶屋蔦屋にあがった。激昂した次郎左衛門は続いて蔦屋に飛び込み、「おのれ、かくまで男に恥辱をあたえること、遺恨なれ。いまは、もはや許し難し。恨みの刃、受けてみよ」と、腰の脇差を抜き放った。
ちょうど、八橋は二階座敷に通じる階段のなかほどにさしかかったところだった。そこを、次郎左衛門がはっしと斬りつけた。八橋の体は腰のあたりで一刀両断にされ、腰より上は両手で階段にしがみついたまま、腰より下は茶屋の庭にズルズルとすべり落ちた。次郎左衛門が差していた脇差は備前国光の業物で、籠釣瓶と名付けられた名刀だったという。八橋を斬り殺したあと、次郎左衛門は屋根伝いに逃げるつもりだったのか、蔦屋の二階にあがり、物干し台に出る。
大騒ぎとなった。大勢の男たちがてんでに六尺棒や刺股を持って詰めかけたが、相手は高いところにいて、しかも抜き身を振りまわすため、容易に近づけない。そこで、手桶に汲んだ水を屋根や物干し台に向けて、下からつぎつぎとあびせかけた。屋根伝いに逃げようとした次郎左衛門だったが、濡れた庇に足を滑らせ、地面に転げ落ちた。そこを、人々が折り重なるようにして取り押さえ、ついに縄をかけた。町奉行所の役人に引き渡され、次郎左衛門は死罪となった。  
拷問
本材木町に吉田屋九兵衛という材木商がいた。
吉田屋の所有する地所に住む本道(内科)医の中村玄益は名医の評判を得て、はやっていた。
玄益は羽振りがよく、多くの弟子や奉公人をかかえ、妾もかこっていた。
弟子のひとりが妾と密通し、玄益の知るところとなった。
激怒した玄益は、弟子に命じてふたりを捕らえて引きすえ、着物をめくって下半身をあらわにさせた。
「文字通り、お灸をすえてやるわ」
玄益は弟子のひとりに命じた。
「女の陰核と、男の魔羅の先に灸をすえてやれ」
妾の陰唇をめくって陰核をあらわにし、そこにモグサを盛って火を点じた。
密通した弟子には、陰茎の尿道口にモグサを押し込み、火を点じた。
モグサの熱が下に伝わっていく。
すさまじい激痛に、ふたりは泣き叫んだ。
「ぎゃー」絶叫し、暴れる。玄益は、ほかの弟子たちに、「しっかり押さえつけていろ」と命じた。
まわりから体を押さえつけられ、ふたりは身動きできない。
ふたりともあまりの痛みに、とうとう悶絶してしまった。
ここにいたり、玄益も狼狽した。
あわてて薬を煎じて飲ませたりしたが、けっきょくふたりとも息を吹き返すことはなかった。ショック死してしまったのである。
死亡した妾と弟子の死体は、病死したとして親元に送り届けた。ところが、妾の親は死体の無惨な状態を検分し、とても病死とは信じられなかった。下半身に拷問を受けたことは明らかである。そこで、町奉行所に訴え出た。検使の役人が来て、ふたりの死体を検死し、関係者に事情聴取もおこなった。その結果、拷問してふたりを死亡させたことは明白となり、玄益と体を押さえていた弟子はみな牢に入れられた。さらに、大家である吉田屋九兵衛も、近所でありながら悲鳴を聞き逃し、放置しておいた責任を問われて、牢に入れられた。
吉田屋は金満家だった。あちこちに賄賂を贈って運動し、ようやく九兵衛を出牢させた。運動費に合わせて三千両がかかったという。いっぽう、玄益は「医道に似合わざる仕方、重々不届き」として、市中引き回しの上、獄門となった。ふたりに灸をすえた弟子は打ち首、体を押さえていた弟子たちはみな江戸追放となった。 
強請り(ねだり)
湯島の切通坂に根生院という真義真言宗の寺があった。僧侶の覚真は住職の信任を受け、役僧となって、事務全般を任された。金銭の出納も意のままになることから、女遊びを始めた。
当時、女義太夫が大人気だったが、たまたま覚真は金徳という浄瑠璃語りを見初めた。上野池之端の寄席で見た裃姿が若衆のようで、魅力的だったのだ。
覚真はどうにか金徳を手に入れたいものと心を砕き、根生院に出入りする商人が金徳と面識があったことから、この商人に頼んで、金徳を囲者にすることに成功した。
金徳は本名をこんといい、十五歳だった。覚真は上野広小路の料理屋の経営権を買い取り、これをおこんの名義にして、営業させておいた。
覚真の兄弟子に、法寛という放蕩者がいた。寺を追放され、自堕落な生活をしていたが、この法寛が覚真が女を囲っていることを嗅ぎ付け、しばしば強請りにくる。
天保元年(1830)十一月、法寛が寺に強請りにきたとき、覚真や下男らがよってたかって殴りつけたところ、法寛は気絶してしまった。
覚真は法寛が死んだと思い、このまま隅田川に捨ててしまおうとした。
日が暮れるのを待ち、法寛の体を麻の大風呂敷で包み、境内にある竹薮から切り出した竹を包みの結び目に通し、かついで運び出す。
ところが、池之端仲町にさしかかったあたりで、法寛が息を吹き返し、「人殺しだ、人殺しだ」と、大声をあげた。
あわてた覚真は、隠し持っていた短刀で、風呂敷のなかの法寛を刺し殺した。
風呂敷に血がにじんでいるため、隅田川まで運ぶのは人目について危険である。手近な不忍池に放り込もうとしたが、たまたま下谷山崎町で火事がおき、あたりに大勢の火消しが出ていた。
やむなく、備中庭瀬(岡山県岡山市庭瀬)藩板倉家の上屋敷の塀際に死体を放置し、かつぐのに用いた竹も放り投げて、寺に逃げ帰った。
町奉行所の役人は、死体のそばに捨ててあった竹の切り口が新しいことに目をつけた。一帯の竹薮を捜索し、根生院の藪の竹の切り口にあてがってみると、ぴったり一致した。
これに先立ち、覚真は早々と逃亡した。逃げるに際して、おこんに三百両の金をあずけた。
覚真は縁故のある土地に逃げ、還俗して隠れ住んでいた。このままひそんでいたら発覚しなかったのであろうが、覚真はおこんと、残してきた金に未練があった。翌年の春になり、もうほとぼりが冷めたと思ったのか、覚真はおこんのもとに迎えの人間を派遣した。ところが、町奉行所は根気よく見張っていた。おこんを駕籠にのせ、手先の者がこれを尾行する。おこんを囮に使ったのだ。こうして、覚真はついに召し取られた。覚真は引き回しの上、獄門となった。根生寺の住職も入牢した。  
密通
坊主とは、僧侶のように頭を丸めた姿で江戸城に詰め、諸大名に茶の世話や給仕などの雑役を勤める者である。坊主の伊東宗勝は、南本所石原町に屋敷があった。
宗勝には、おそでという二十二歳の娘がいたが、下男の新助とひそかに通じ合っていた。新助は二十九歳である。
ふたりの仲に気づいた宗勝は、どうにかして新助を屋敷から追い出したい。しかし、突然暇を出すと、娘のおそでがどういう行動に出るかが心配である。
そこで、宗勝は、新助が自分から「お暇をいただきたい」と申し出るように仕向けようとした。新助に無理難題を言いつけ、ことごとくつらくあたった。口で叱りつけるのみならず、殴ることもあった。ついには、雪駄で頭を殴りつけることまでした。
この仕打ちを恨みに思った新助は、文政九年(1826)八月二日の夜、宗勝の寝間に忍び込むと、刀で刺し殺した。
その殺し方は、まず口に刃を突っ込んで引き回し、声を立てらないようにしたあと、体中をめった刺しにするというものだった。
宗勝を殺したあと、新助は何食わぬ顔で自分の寝床に戻った。
明け方、宗勝の様子がなんとなくおかしいことから、家族の者が声をかけたが返事がない。寝間をのぞいてみて、異変がわかった。
屋敷内は大騒動となった。
おそでに、おみちという十九歳の妹がいた。
おみちはすぐに、新助が怪しいと思った。
新助はそわそわして、「ご近所に知らせてまいります」などと口実をつけて、屋敷から抜け出ようとする。
おみちは機転を利かせて、「心細いから、おまえはいておくれ」と、新助をとどめておいた。
いっぽうで、もうひとりの下男に耳打ちし、隣家に知らせに走らせた。
すぐに、近所の人々が集まってきた。
屋敷内を調べると、新助が寝床のまわりに吊っていた紙帳(紙製の蚊帳)に血痕がついている。私物を入れた葛籠をあけてみると、血刀があった。そこで、みんなで新助を縛りあげておいて、奉行所に届け出た。
四日、役人によって検使がおこなわれ、新助は小伝馬町の牢屋に送られた。
入牢した新助は、主人の娘おそでと密通していたことや、宗勝を殺したことまでことごとく白状した。おそでのほうは事件後、屋敷を抜け出して、駆込寺として知られる鎌倉の東慶寺に逃げ込んだが、まだ剃髪していなかったため、寺社奉行の役人によって召し取られた。
十月、判決が言い渡され、新助は日本橋で晒されたあと、磔になった。おそでは遠島となった。  
スリ
安永五年(1776)十月の初め、あらめ橋のたもとで、浅草鳥越の秋田新田藩の屋敷で勝手向を勤める細田藤兵衛が斬り殺されたが、犯人は知れなかった。二十四日になって、訴人する者があって浪人の島田久助の仕業とわかり、召し捕られた。
もともと、藤兵衛と久助は秋田新田藩で同役だったが、不正があったとしてふたりとも調べを受けた。
藤兵衛は悪知恵が働き、口もうまい。すべてを久助に押し付けた。
このため、久助は藩を追放されて浪人となった。いっぽうの藤兵衛は軽微な叱責を受けただけだった。
十月の初め、久助は堺町の芝居見物に出かけたが、金がないため、席は一番安い切落だった。ふと、桟敷に藤兵衛がいるのに気づいた。身なりもよく、かなり裕福な様子である。「つい先日まで肩を並べる同役だった。いま、俺が浪人なのに対し、やつは羽振りがよさそうだ。俺がこうなったのも、やつの讒言のせい。くそう」 もはや久助は芝居を観る気分ではない。木戸を出ると、外で藤兵衛を待ち受けた。
やがて芝居が引け、どっと人が出てくる。スリが細田藤兵衛に目をつけた。着物は立派で、ふところは高価な懐中物でふくらんでいる。スリが近寄ろうとしたところ、横合いから声がかかった。「おや、細田藤兵衛どのではないか」「これは、これは、島田久助どの」 ふたりは話をしながら歩き出す。
武士のふたり連れとあってはスリも手を出せない。あきらめざるを得なかったが、それとなく見ていると、ふたりはすぐに別れた。そのあと、身なりのよい武士のあとを、粗末な着物の武士がそっとつけている。「妙だな。懐中物でも狙っているのだろうか」 スリは、あとをつける武士のあとを、そっとつけた。
人気のないあらめ橋のたもとまできたところで、つけていた武士が前を行く武士に迫り、背後から刀でふた突きした。そのまま、足早に立ち去る。スリは逃げる武士のあとをつけた。紺屋町の裏長屋にはいりこむのを見届け、スリは武士が島田久助という浪人であるのをたしかめ、住所と名前を紙に書き取った。
しばらくして、スリは町奉行所の役人に召し捕られた。縄につくのは三回目である。スリは役人に、「先日、あやめ橋のたもとでお武家を殺害したのは、この者でございます」と、住所氏名を書いた紙を提出した。これにより、細田藤兵衛殺害の犯人として、島田久助が召し捕られた。
スリは三回捕縛されると死罪になる。しかし、ほかの罪人を密告すると減刑された。そのため、いざというときの取引材料とするため、スリは久助の住所と姓名をひかえておいたのだった。 
密通
旗本の戸田平左衛門は、家禄は四百石で、屋敷は小日向の金剛寺坂にあった。六十五歳だが、お華という二十二歳の妾を囲っていた。
近所に住む三井長右衛門は二十四歳で、平左衛門と気が合い、しばしば戸田家の屋敷に出入りしていた。
天保五年(1834)九月八日、ふたりは海釣りに出かけることになり、前日の夜から、長右衛門が平左衛門を訪ねてきた。
「少しでも寝ておこうではないか」と、それぞれ別な部屋で仮眠をとる。
八日の明け方、戸田家の中間で、源蔵という二十四歳の男がひそかに平左衛門の寝間に忍び込み、刀で喉を刺した。その勢いは、剣先が畳に突き通るほどだった。
平左衛門は「ギャッ」とひと声叫んだきり、絶命した。
その物音に驚き、長右衛門や、戸田家の奉公人が駆けつけた。
源蔵は刀で長右衛門にも斬りつけ、重傷を負わせた。その後、血刀を持ったまま、戸田家の本家である戸田下総守七内の屋敷に駆け込み、「主に恨みあって切害せり」
と、訴え出た。
下総守の家来が源蔵を捕らえ、役人に引き渡した。源蔵とお華はいったん小伝馬町の牢屋に収監されたあと、判決が言い渡され、それぞれ磔の刑に処せられた。風評によると、平左衛門の妾のお華はもともと源蔵と密通していたが、そのうち、長右衛門とも不義をするようになった。このややこしい関係で、源蔵が狂乱したのだという。  
養子
下谷三之輪町に、斎藤慶安という町医者が住んでいた。
元は関東郡代の家来だったが、主家が断絶したことから浪人となった。
郡代の家来のときにかなりの金をためこんでいたため、浪人の身になっても食うに困ることはなかったが、ぶらぶらしているのは退屈だからと、医者になったのである。
慶安は子供がなかったことから、幕臣の子息を養子にもらって良安と称させた。ゆくゆくは、跡を継がせるつもりだった。
さて、慶安は妻に先立たれ、その後は妾を囲ったりしたが、長続きしなかった。吉原で遊ぶうち、山本屋抱えの白糸という遊女に馴染んだ。
金には不自由しないことから、白糸を身請けして後妻に迎えた。お民と名乗った。
お民は元女郎だけに、男あしらいが巧みであり、口もうまい。慶安はすっかりお民に鼻毛を抜かれてしまい、なんでも言いなりだった。
そのうち、お民と養子の良安が密通した。
慶安もふたりの仲が怪しいのに気づき、良安を実家に戻そうかとも思ったが、実家は武家だけに、態度を硬化させると厄介だった。
そこで、近所に別に家を借り、そこに良安を住まわせた。
ところが、別居してからも、お民と良安の関係は続いているようである。
慶安もここにいたり、いよいよ良安を離縁する決意を固めた。
これを知って、お民は良安に告げた。
「このままでは、もう会われなくなるよ」「では、いっそ思い切って」「かなり金をため込んでいるからね。亭主さえいなければ、あの金で、ふたり気ままに暮らせるというもの」
どちらからともなく、相談はまとまった。
享和元年(1801)三月九日、おりしも江戸の桜は満開である。
お民は夫を花見に誘い、「供がいると、しんみりとできません。ふたりきりでまいりましょう」と、飛鳥山や日暮里あたりに連れ出した。
ふたりは酒と弁当を持って出かけたが、途中で、慶安の気分が悪くなった。お民は酒を勧めて酔いつぶれさせるつもりだったのだが、慶安は一滴も口にしない。けっきょく、まだ日が高いうちに、早々と帰宅してしまった。
家に帰ったあと、お民は、「野原で摘み草をしているとき、酒を入れた水筒を置き忘れてしまいました。大事な水筒です。これから、取りに行きます」と、泣きそうな顔になった。
じつは、わざと置き忘れたのである。
その日、金杉村の宮川春庵という町医者が留守番を頼まれていた。
春庵が気を利かせて、「では、わたしが取ってきましょう」と、申し出た。
お民は頑固に、「いえ、あたしでないと場所はわかりません」と言い張る。
慶安としては、女ひとりを寂しい場所にやるわけには行かない。かといって、春庵とお民のふたりを行かせるのも心配だった。良安との密通があるだけに、疑心暗鬼に駆られたのだ。
そこで、体調が思わしくなかったが、「では、わしが一緒に行こう」と、やむなく同行することになった。
野原で置き忘れた水筒を見つけ、ふたりが帰途についたときにはすでに日が暮れかかっていた。
いっぽう、途中で待ち受ける手はずの良安はひとりでは自信がないため、隣家に住む山本玄仙という医者の弟子を、莫大な報酬を約束して仲間に引き入れた。
待ち伏せの場所に慶安とお民がさしかかったときには、日はとっぷりと暮れていた。ふたりはおぼろな月明かりだけを頼りに、田んぼのなかの細い道をたどってくる。
そこを、良安と玄仙が襲いかかり、刃物で刺し殺した。
夫が死んだのを見届けるや、お民は家に駆け戻った。半狂乱になって、留守番をしていた春庵に、慶安が物盗り強盗に襲われて殺され、かろうじて自分は逃げ出してきたことを告げた。
春庵が町奉行所に届け出て、検使もおこなわれた。
初めのうち、下手人の目途はまったくつかなかった。
ところが、慶安の葬式がすんだあと、お民と良安の様子がおかしい。もう誰の目をはばかる必要もないと思ったのか、おおっぴらに同棲している。
ふたりが怪しいという風評が広まり、ついに三月十八日、お民と良安は役人に召し取られた。きびしい拷問を受け、良安がすべてを白状した。時に、お民二十八歳、良安二十五歳だった。  
間男
文政(1818-30)の末、浅草広小路のあたりに、古着などをあつかう金子屋吉右衛門という商人が住んでいた。この吉右衛門はもともと、麹町の質屋に奉公していた。その質屋には多数の奉公人がいたが、吉右衛門は朋輩のひとりと一緒にしばしば内藤新宿の女郎屋で遊んでいた。ふたりとも、女郎屋にかなりの借金ができてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。そこで、ふたりは相談した。「ここは、いっそ逃げてしまおうぜ。将来、どちらかが困窮していたら、金のあるほうが援助することにしよう」 女郎屋の借金を踏み倒し、ふたりは奉公先の質屋からも出奔した。
その後、吉右衛門はふとしたことから、かつて内藤新宿で馴染みだった女郎が裕福な商人に身請けされて妾となり、長谷川町に住んでいるのを知った。
妾宅には下女ひとりが同居しているだけで、旦那は滅多にやってこない。
それをいいことにして、吉右衛門は女に会いに行った。
そのうち、焼棒杭に火がつき、ふたりは関係ができた。
吉右衛門は夜昼となく訪れ、泊まっていくこともある。とうとう間男をしているのがばれ、旦那は妾宅に来なくなってしまった。
そのまま吉右衛門は妾宅に居座り、夫婦になった。
女房が貯めていた金を元手にして、かつて質屋時代に身につけた古着の目ききを生かし、古着屋商売を始めた。
しばらくして、いっしょに質屋を逃げ出した男が訪ねてきた。住む家もなく、その日の食べ物にも困っている様子だった。「ひと晩、泊めてくれよ」と、願う。吉右衛門は女房に知られたくないため、「きょうのところは、これで帰ってくれ」と、いくばくかの金を渡して引き取らせた。ところが、男はしばしば金をせびりに来る。
古着屋商売の元手を出しただけに、金の出入りは女房ががっちり握っていた。吉右衛門が自由にできる金はほとんどない。
男にたびたびせびられ、吉右衛門は小遣いにも窮してきた。
そこで、大事にしていた脇差を持ち出し、刃を除いて柄や鞘まで古道具屋に売り払った。刃だけを風呂敷に包んで家に帰ろうとすると、道でばったり男に会った。
吉右衛門は早々に別れようとするが、男は離さず、付きまとう。しかたなく、居酒屋で酒を呑ませた。夜もふけたので、別れようとしたが、男はなおも付きまとう。夜道でもみ合いとなり、はずみで男が下水に落ちた。
男は下水に倒れたまま、「人殺し、人殺し」と叫ぶ。吉右衛門は動転し、思わず風呂敷に包んだままの刃で胸を突いた。男の声がやんだ。
真っ青になって帰宅した吉右衛門を見て、女房はなにごとかあったと気づいたが、もと女郎だけに度胸がすわっている。わけをたずねようともせず、「疲れたろう、早く寝な」と、亭主をさきに寝させておいて、そっと風呂敷包みを調べた。すると、風呂敷に血がしみている。女房は事情を察して、風呂敷ごと刃を便所に捨てた。翌日、吉右衛門は岡っ引に召し捕られ、伝馬町の牢屋に送られた。  
継子殺し
柳原岩井町に大島屋という袋物問屋があり、伊三郎はかよいの番頭だった。
伊三郎は先妻とのあいだにできた、十二歳になるおだひという娘と、後妻のおみき、おみきが生んだ五歳と二歳の男の子の、五人暮らしだった。
後妻のおみきは先妻の子であるおだひを憎み、なにかにつけてのけ者にしていた。伊三郎もおだひがいじめられているのを知って心を痛め、しばらく実家にあずけようと思っている矢先、商用で旅に出ることになった。
安政三年(1856)三月二十日、たまたま母親のおみきがが外出していた。隣家の女房が焼きたての牡丹餅を持ってきて、おだひに勧めた。「せっかくだから、あたたかいうちにお食べ」 母親の留守中なのはわかっていたが、やはり十二歳の子供である。おだいは牡丹餅を食べてしまった。
おみきは帰ってきて、おだひが牡丹餅を食べてしまったのを知るや激怒した。「あたしが留守のあいだに、なぜ勝手に食べたのだい」 おだひを二階に連れて行くと、さんざんに殴りつけた。手で殴るだけは飽き足らず、ついには薪割りの柄で殴りつけ、階段から下に蹴り落とした。おだひは死んでしまった。あわてたおみきは、おだひの首に紐を巻きつけて引き窓からつるし、さも首吊り自殺をしたかのようによそおった。「大変だ。娘のおだひが首をつった」 人が集まってくる。見ると、とても自殺したようには思えない。町奉行所に届け出た。
町奉行所の役人が検使にきて、おだひの体を調べると、あちこちに打撲傷がある。おみきの供述にはあやふやで、矛盾が多い。二十三日、おみきは召し捕られ、小伝馬町の牢屋敷に収監された。
旅から戻ってきた伊三郎に対し、大島屋の主人が言った。「たとえおみきさんがお裁きを受けても、死んでしまった娘はもう戻らないよ。ここは、おまえがお奉行所にお慈悲願いを出して、おみきさんを放免してもらってはどうかね。金はあたしが用立てよう」 主人の勧めに従い、伊三郎は町奉行所におみきの赦免を嘆願した。裏で金を使ったこともあり、けっきょく娘のおだひは縊死したことになり、女房のおみきは釈放された。
おみきが放免されたあと、大島屋の主人が伊三郎に言った。「死んだおだひちゃんの菩提を弔うため、男の子ふたりのうち、五歳の兄は寺へあずけて出家させ、二歳の弟は里子に出しなさい。また、おみきさんは離縁しなさい」 ところが、伊三郎はおみきに未練があるのか、なかなか心を決めることができない。ついに主人も怒って、三十両の金を渡して伊三郎を店から追い出してしまった。  
火消し
上総(千葉県)生れの無宿人喜平次(22歳)はかつて盗みを働いて入墨の刑に処せられた。
その後、喜平次は下総(千葉県)で、農家の軒下に積まれていた藁に火をつけ、火事騒ぎにまぎれて衣類などを盗んだ。盗んだ衣類は売り払い、その金はすべて酒食に使い果たした。
召し捕られた喜平次は弘化四年(1847)九月二十一日、引廻の上、小塚原で火刑に処されることになった。
当日、引廻の行列が昌平橋のところで手間取り、御成街道を通過したときには八ツ(午後二時頃)過ぎになっていた。
行列がようやく小塚原の刑場に到着し、喜平次を刑木に縛りつけ、まわりに茅を積みあげた。
ところが、このところの天気で茅が乾ききっていた。
火をつけた途端、茅がいちどきに燃えあがった。炎の勢いは天を焦がさんばかりである。
この吹き上がる炎を見て、上野の火消しが火事と勘違いし、半鐘を打ち鳴らした。
「下谷坂本通り、出火なり」 大勢の火消しが繰り出す騒ぎとなった。
なお、この日は小塚原で火刑ひとり、獄門ふたり、鈴ケ森で火刑ひとりが行われた。  
七十四歳
浅草馬道に佐野倉という商家があり、亭主は四十歳くらいだった。隣に酒屋があり、亭主は七十四歳だった。
酒屋は経営が思わしくなく、しかも高齢なこともあって、商売をやめ、地面を売ることにした。そこで、隣の佐野倉に行き、申し入れた。「おまえさんのところは、わしの地面に三尺ほど食い込んでいる。これまでは隣人と争いごとをしたくないので黙っていたが、今度地面を売ることにしたので、返してほしい」「とんでもない言いがかりです。地面の帳面もきちんとあります」 佐野倉はまったく取り合わない。
酒屋の亭主は町役人に訴えたが、すでに佐野倉の亭主が内々で金を贈って根回ししていたため、誰も老人の言い分に耳を貸そうとしなかった。
逆上した酒屋の亭主は弘化三年(1846)六月、隣に乗り込んで、佐野倉の亭主を出刃包丁で突き殺した。その後、町奉行所に出頭した。判決が下る前に、小伝馬町の牢屋敷内で牢死した。 
鬼子殺し
赤坂新町五丁目の髪結友吉の女房お民(18歳)は、同じ町内の屋根職人政五郎(27歳)と密通していた。亭主の友吉は女房が密通しているのを知り、弘化三年(1846)四月、お民を離縁した。そのときお民は妊娠していたが、離縁されたのをさいわい、政五郎と結婚し、赤坂田町に住んだ。
月が満ちてお民は出産したが、生まれてきた男の子は異形だった。いろんな噂が飛び交ったが、頭に角が二本はえていて、口には牙が生えていたという。そのほか、頭に毛は一本もなく、襟元より上に毛がはえていた。頭のてっぺんがくぼみ、穴のように見えた。口が異様に大きく、歯が生えていた。胞衣には一面に鱗があった。などとささやかれた。
政五郎とお民夫婦は生まれてきた子を見て、産婆のお万(48歳)に頼んだ。「どうにかしてください。こんな子はとても育てられません」 お万もこんな異形の赤ん坊は初めてなので、ひとりでは自信がなかった。そこで、医者の女房のお升(36歳)に声をかけ、ふたりで間引きすることにした。
お万とお升で相談し、濡らした懐紙で赤ん坊の顔をおおって窒息死させようとした。ところが、なかなか死にそうにない。ついに、ふたりで赤ん坊の喉に指をあて、絞め殺した。  
 
心中

 

身請け
奥医師の橘宗仙院の息子が、吉原の京町にある大海老屋の遊女象潟に夢中になった。骨抜きになってしまい、家業も手につかず、毎日のように象潟のもとにかよいつめる。
父の宗仙院や、親類縁者がいろいろと諌め諭したが、本人はもう象潟のことしか眼中にないため、いっさい聞き入れない。
そこで、懲らしめのため、屋敷内に座敷牢を作り、そこに押し込めてしまった。しばらく閉じ込め、頭を冷やさせようとしたのである。
ところが、息子はますます象潟への思いをつのらせた。
寛政十年(1798)二月、息子は座敷牢を抜け出すと、吉原に走った。象潟に会い、掻き口説いた。「もはや押し込めという身になってしまっては、そなたと会うこともままならない。いっそ心中して、来世で長く契ろうではないか」 ところが、象潟には別に惚れた情男がいた。息子には、あくまで客のひとりとして手練手管を弄し、甘いことばをささやいていたに過ぎない。心中する気などさらさらないため、適当にあしらうだけである。
息子は女の心変わりを怒った。
象潟が寝入ったところをみすまし、手ぬぐいを口に押し込んで声を立てられないようにしておいて、ひそかに持ち込んだ刀で刺し殺した。そのあと、自分も自害して果てた。
ふたりの死体を見て、大海老屋は大騒ぎになった。
大海老屋では宗仙院の屋敷に人を走らせ、息子が心中したことを伝え、「このことは、お役所にお届けするつもりです」と、通告した。
あわてたのは宗仙院である。奥医師は江戸城に出向き、将軍や大奥の女中らを診察する医師である。息子が吉原で女郎と心中したなど、表沙汰にするわけにはいかない。
ひそかに人を派遣し、大海老屋に交渉した。その結果、内済(示談)でまとまった。
宗仙院は莫大な金を出して、象潟をまだ生きていることにして身請けした。息子の死体も引き取る。両者の了解のもと、芝居をしたのである。
いったんふたりの死体を屋敷に引き取ったあと、宗仙院は息子も象潟も病死したという手続きをとって、埋葬した。 
茶番
安政二年(1855)十月二日の大地震で江戸は大きな被害を受け、多数の建物が倒壊した。
倒壊しなかった建物も、地震後に発生した火事でそのほとんどが焼け落ちた。倒壊や火災を免れた建物でも、あちこちにゆがみや傾きが生じた。
神田平長町に万屋という砂糖屋があった。地震による倒壊や火事による焼失はまぬかれたものの、柱が傾いて戸が閉まらなくなってしまった。戸を開け放したままでは無用心なため、夜のあいだは交代で寝ずの番をすることになった。ある晩、近所の寅吉という十六歳の若者を頼み、やはり十六歳になる娘のお常とふたりで番をすることになった。長い夜を、ふたりきりで過ごす。退屈のあまり、寅吉がちょっかいを出した。
「なあ、してみようか」「そうだね」 お常もその気になり、ふたりは肌を合わせた。その後はふたりとも若いだけに夢中になり、昼間から乳繰り合った。すぐに近所の評判になり、お常の母親の耳にもはいった。母親は激怒し、お常に折檻をくわえ、以後は常吉に会うことを禁止した。
お常は男が忘れられない。十月二十九日、嫁いでいる姉のもとに行くという口実で家を出ると、外で寅吉と待ち合わせた。ふたりで寄席を見物したり、屋台店で飲み食いをしたりした。ふと気が付くと、すでに日が暮れている。「どうしよう。夜がふけて家に帰ったら、またおっ母さんに折檻されるよ」「いっそ、駆落ちしようか」「お金はもう使い果たしてしまったよ。こうなったら、心中するしかないわ」 狂乱状態になったお常は、新大橋のやや下流にある陸奥平(福島県いわき市)
藩の藩邸前で、隅田川に身投げをした。
あわてて常吉もあとに続いたが、その場所は水深が浅く、泥地だった。ふたりとも泥水にまみれ、全身どろどろになった。泥に足をとられて、動くこともままならない。たまらず、常吉が叫んだ。「助けてくれ。誰か助けてくれ」 まだ四ツ(午後10時)過ぎだったため、その声を聞きつけて平藩の中間が大勢出てくるや、ふたりを川から救い出した。
その後、中間たちが付き添い、全身泥だらけのふたりを神田平長町まで送っていった。事情を知って、万屋は深夜にもかかわらず飯を炊き、料理を作り、中間たちをもてなした。ただし、それだけでは終わらず、その後も中間たちはしばしば万屋を訪れ、飲食をたかったという。 
茶屋娘
文化元年五月四日ころ、両国川(隅田川)で身投げ心中をした若い男女の死体が浮いているのが見つかり、大きな話題となった。
掘割が縦横に張りめぐらされ、水路が発達した江戸では、川や掘割に人間の死体が浮かんでいるのは珍しいことではない。
江戸では水死体はいわばありふれた光景だったが、この心中死体が大評判になったのは、ふたりが抱き合ったままで浮かんでいたからであろう。
男は二十一、二歳、女は十六、七歳くらいで、対の浴衣を着て、緋縮緬の扱帯でおたがいの体を固く結び合っていた。女の髪には銀の簪や鼈甲の笄が挿されていて、かなりの家の娘と思われた。
たちまち噂が広がり、物見高い連中がさっそく船宿で舟を雇って、隅田川に乗り出した。
潮の満ち引きにのって、死体は源森川(源兵衛堀)が隅田川に注ぎ込むあたりから、下流の新大橋が架かったあたりまで、およそ三十町の距離をいったりきたりして、ただよっていた。その死体を、舟から見物するのである。
舟で死体見物をしてきた連中は、得意げに吹聴する。
評判が評判を呼び、次々に野次馬が詰めかける。
もう、大騒ぎになった。
隅田川には猪牙舟や屋根舟だけでなく、荷舟まで出て、ただよう死体を追いかける。
あまりに見物人がつめかけるため、当初はひとり八文だった船賃は、やがて十六文、二十四文、三十二文と徐々に値上がりし、しまいには五十文にまでなった。
この騒ぎは数日、続いた。
誰のしわざなのか、夜のあいだに、女の髪飾りは抜き取られていたし、ふたりを結んだ扱帯は解かれ、浴衣も剥ぎ取られてしまい、丸裸になっていた。
だが、いっぽうでは誰かが、ふたりの体を荒縄で縛り付けて、離れ離れにならないようにした。
こうなると、全裸の男女の死体である。さらに一見の価値が高まった。
こうして、見物の舟が連日、多数繰り出すまでの騒動になったのだが、死体を引き取ろうという人間はいっこうに現われなかった。本当にふたりの身元は不明だったのか、あるいは、心中は天下のご法度のため、親類縁者は後難を恐れて口をつぐんでいたのか。
いずれにしろ、ふたりの死体が数日間も隅田川にただよい、それを見物人を乗せた舟が追いまわしている状況を見るに見かねて、ついに十一日、廻船問屋の筑前屋が死体を収容し、深川の浄心寺に葬った。その費用は、合わせて二十両あまりに達したという。
なお、ふたりはそろいの桔梗色の浴衣を着て、紫鹿の子の扱帯で体を結び付けていた。浴衣の裾が乱れないよう縫い合わせていた。男はさらしの手ぬぐいを鉢巻にして、緋縮緬のふんどしをしていた。女はさらしの手ぬぐいを鉢巻にして、白縮緬の腰巻をしていた、などという説もあった。
また、葬られたのは深川の霊巌寺ともいう。
文宝堂や二代目蜀山人の筆名で知られる、飯田町の商人亀屋久右衛門は、若いふたりを憐れみ、一首を作った。
共迷生死両国川共に生死に迷う両国川
相対斃身元壮年相対して身斃る元は壮年
紅帯纏繋流不離紅帯纏い繋ぎ流るるも離れず
所謂水中是腐縁所謂水中是れ腐れ縁
漢詩というよりは、狂詩である。また、死を悼むというよりは、事件を茶化し、おもしろがっているのはあきらかであろう。
ふたりの身元については諸説が飛び交った。女は小梅村の名主の娘、いや品川の茶屋の娘。男は農民、いや八丁堀あたりの者ともささやかれた。
後に、高輪の「しがらき」という茶屋でふたりの書置きが見つかったことから、女は高輪の鈴木という茶屋の娘で、名はたつ、十八歳。男は、近所に住む栄次郎、二十五歳と判明した。栄次郎には妻子があり、しかも妻は臨月だったという。  
旗本と遊女
藤枝外記は四千石の旗本で、屋敷は湯島妻恋坂にあった。
外記は、吉原・京町二丁目の大菱屋の抱え遊女綾絹と深い馴染みになったが、なんせ吉原は遊興費がかさむため、なかなか思うようにはかよえない。
そんなおり、富裕な町人が金にあかせて、綾絹を身請けするという話を耳にした。
切羽詰り、自暴自棄になった外記はあとさきも考えずに綾絹をひそかに吉原から連れ出し、ほど近い千束村の百姓家に隠した。だが、すぐに露見し、追っ手が迫る。
絶望に駆られた外記は刀で綾絹を刺し殺したあと、自害した。
時に、天明五年(1785)八月十三日。外記、二十八歳、綾絹、十九歳だった。
外記には十九歳の妻がいた。
当初、藤枝家では外記の心中を隠し、家来のひとりが死んだことにして役人の検使を受けた。
その後、この隠蔽工作はばれ、関係者は処罰されるとともに、藤枝家は改易となった。外記は女郎との愛欲に溺れ、四千石を棒に振ったことになろう。
この無理心中事件は大きな話題となった。
江戸の人々は、ふたりの破滅を悲恋と解して喝采をおくり、「君と寝ようか五千石取ろか、何の五千石、君と寝よ」という端唄までできた。
後年、大田南畝はこの端唄を、つぎのような狂詩に訳した。
寧与君同寝寧ろ君と寝を同じくせんや
将守五千石将た五千石を守らんや
徒見五千石徒だ見る五千石
不如一歓夕一歓の夕に如かず  
道心坊主と比丘尼
本郷元町の裏長屋に住む産婆のお早の息子は知能が低く、亀坊主徳浄と名乗る道心坊主だった。道心坊主とは、僧侶のかっこうをした乞食である。
亀坊主は知能こそ低かったが、いたって正直な性格だったため人々から可愛がられ、毎日、金持ちの笹屋という商家に出向いては、昼飯をご馳走になっていた。
同じく本郷に、お銀という比丘尼が住んでいた。知能が低く、尼のかっこうで物乞いをして生計を立てていたが、いつもにこにこして明るい性格だったため人々から可愛がられ、毎日、二、三百文の稼ぎがあった。
亀坊主とお銀がいつしか、いい仲になった。ふたりを見て、人々はおもしろがり、「薄馬鹿同士が乳繰り合っている」と、はやし立てた。お節介な人間がいて、母親のお早に告げた。「もう、ふたりは夫婦気取りだよ」 お早は激怒し、息子をしかりつけた。「馬鹿めが。ひとり口も養えぬくせに、女房どころか」
亀坊主はお銀に、母親に叱られたことを話した。ふたりは相談し、「この世で添われぬなら、あの世で夫婦になろう」と、心中することにした。神田川に架かる水道橋のたもとまで来ると、ふたりは帯を手ぬぐいで結び合わせ、着物のたもとに石を入れた。手に手を取って、ふたりは川の中に飛び込む。ところが、飛び込んだ所は水深が一尺ほどしかなかった。ふたりがおたおたしているところに、近くにいた舟の船頭がやっきて、引きあげた。「馬鹿野郎、いったい、なにしてやがるんだ」 亀坊主は頭を張り飛ばされた。
ふたりはほうほうのていで逃げ出したが、歩いているうちに空腹を覚えた。「腹が減ったな。銭はあるか」 ふところをさぐると、それぞれおよそ二百文ずつ持っていた。蕎麦屋にはいると、ふたりで蕎麦を三杯ずつ食べた。「さあ、これで腹はふくれた。あとは死ぬだけだ」 ふたりは、やはり神田川に架かる昌平橋のそばまできて、またもや川の中に飛び込んだ。今度は水深が首のあたりまであった。昌平橋の上には多くの人が行き交っている。すぐに気づいて大勢が集まり、あっぷあっぷしているふたりを引きあげた。
息子がしでかした騒ぎを聞き、お早もとうとうお銀と夫婦になることを認めた。このとき、亀坊主、二十五歳、お銀、十八歳だった。 
内済
文久元年(1861)九月十六日の夜、肥後熊本(熊本県熊本市)藩の藩士三人が連れ立ち、呉服橋門外の山庄という鰻屋にあがった。女中が酒を持参し、相手をする。藩士の日嶽直次郎はかねてから、この女に気があった。三人が店を出るとき、女中が玄関さきまで送りに来た。この機会をとらえ、直次郎は女を強引に外に連れ出そうとした。女中はいやがり、店のなかに逃げ込んだ。
「もう、おそいぞ。帰ろうではないか」 ふたりが直次郎を諌めた。「いや、俺は飲み直す。貴公らはさきに帰ってくれ」 直次郎はひとりで山庄に居残り、酒を飲んだ。夜明け近くになって、ようやく腰をあげる。ホッとした女中が見送りに出てきたところ、直次郎は突然刀を抜いて、刺し殺してしまった。続いて自分も喉を突いて死のうとしたが、刃がそれた。その場に倒れ、血まみれになってうめいている。
早朝、心配して迎えに来た同僚ふたりは現場を見て驚愕した。表沙汰になると大変である。事件を揉み消そうとした。「たかが鰻屋の女中ではないか。それなりの金を使わすから、内済にしよう」 山庄の主人は態度を硬化させた。「内済などとんでもない。お奉行所に訴えます」 ついに南町奉行所に訴え出た。
検使の役人が来て、負傷している直次郎を釣台にのせて奉行所に連行した。ところが、直次郎は傷が悪化してまもなく死亡した。けっきょく、ふたりは相対死(心中)と決まった。 
師匠の妾
享和元年(1801)、十一月六日、関口村にある水神社で、若い男女が心中した。
ともに八丈の縞の小袖を重ね着し、その上から白木綿の浴衣を羽織っていた。浴衣には、南無阿弥陀仏と書かれていた。
まず女を刀で突き殺したあと、男は自分を刺したのだが、けっして失敗しないようにという思いからだったのか、刺したあとに水神社の前を流れる神田上水に身を投げるという念の入れようだった。
男は横瀬兵十郎といい、幕臣の次男で、十五歳だった。
女は、高名な茶人川上不白の妾で、十六歳だった。
当時、川上不白は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
不白が作った花入や茶杓、あるいは墨跡のたぐいを得ようとすれば、謝礼は安くても銀一枚は覚悟しなければならない。それも、数年間も熱心に懇望し続けて、ようやく順番がまわってくるという具合である。
花入も茶杓も専門の細工人を雇い入れて作らせており、不白はただ墨を引くだけだという。それでも、高位高官の門人が多いことから、あちこちからの進物や謝礼が屋敷にはあふれかえっていた。
その暮らしぶりも豪奢を極めており、夏は八畳の居間いっぱいに生絹の蚊帳を吊る。冬は、八畳敷きの大きな布団を三枚重ねにして、両側に女をふたりはべらせ横になり、体を温める。この役目のために、五人の妾を囲っていたという。
不白は、門人の横瀬兵十郎が美少年で怜悧なことからつねにそばに置いて寵愛し、男色関係を結んだ。
ところが、妾のひとりと兵十郎がいつしか恋慕の情をいだきあうようになった。
不白はこれに気づいた。
本来なら、兵十郎を破門にするところだが、心に思うに、「妾は金さえ出せばいくらでも取り換えがきくが、兵十郎のような若衆はたとえ金銀の山を積んでも得られるものではない」と、あきらめきれない。
むしろ、兵十郎の機嫌をとるため、不白はその妾を自分の寝室から遠ざけるようにした。
そのうち、妾は妊娠して、これを兵十郎に告げた。妾は主人を、兵十郎は師を裏切ったことになる。
追い詰められた兵十郎と妾は手に手を取って屋敷を抜け出し、水神社で心中した。
ふたりの死を知り、不白は、「いずれ、一緒にさせてやろうと思っていたのに。早まったことをしてくれた」と、嘆いた。  
 
女郎・遊女

 

女郎屋
越前屋六左衛門は越前(福井県)に生まれ、若いころに江戸に出てきた。
江戸の町々には木戸番屋がもうけられており、ここに詰める男を番太郎(番太)と呼んだ。夜は火の用心の拍子木を打ちながら、町内を歩く。
六左衛門はあちこちの番太郎をしながらコツコツと金をためた。ある程度の元手はできたが、堅気の商売を始めてもタカが知れている。手っ取り早く金を稼ぐには女郎屋がいいと思ったが、女郎の管理などは不慣れである。そこで、女郎上がりの女を女房にした。
「女郎を仕切るのは、おめえに任せるぜ。当分は、おめえも稼いでくれ」 そして、本所で二軒の局見世を開業した。局見世は、長屋形式の安価な女郎屋である。女房は自分も客を取りながら、抱えの女郎を働かせる。商売は順調だった。続いて、谷中に四六見世を開業した。四六見世は、昼が六百文、夜が四百文の安価な女郎屋であるが、局見世よりは高級である。さらに、根津に六軒の局見世を開業し、勢いに乗って、吉原の経営難におちいっていた妓楼二軒を買い取った。ついに、吉原に進出を果たしたのである。
それまで商売一筋で、ほかのことには目も向けなかった六左衛門だが、吉原に妓楼を構えてからは気がゆるむようになった。自分が経営する谷中の女郎屋のお時という女郎に手をつけ、妾にして別宅に住まわせた。これに気づいた女房は嫉妬をむき出しにし、夫婦仲も冷たくなる。ついには、女房が寝付いてしまった。天保八年(1837)、女房は死んだ。死の直前、六左衛門を枕元に呼び、「これだけの身代ができたのは、夫婦ふたりで懸命に働いたからじゃないか。あたしなんぞは、客を取ることまでやったんだよ。そんなあたしを踏みつけにしたお時と一緒になることは、絶対に許さないよ。ほかの女と一緒になるのはかまわない」と言い残し、生き絶えた。
葬式がすむと、六左衛門はもう誰はばかる者もいないため、さっそく妾のお時を女房に迎えた。ところが、その夜から、谷中の越前屋に幽霊が出るという噂が広まった。前妻の怨念が幽霊になって現われたというのである。そこで、六左衛門はいったんお時を吉原の妓楼に住まわせ、自分は谷中の越前屋に住んだ。
天保十三年二月十四日、谷中に火事がおき、女郎屋はすべて焼失した。火事のあと、六左衛門はさっそく三軒の女郎屋の普請に取りかかったが、三月になると天保の改革にともなう岡場所の取り払いが始まった。幕府の姿勢は強硬であり、江戸中の岡場所はことごとく取り潰された。こうして、六左衛門が谷中と根津に所有していた女郎屋はすべて消滅した。ただし、六左衛門は吉原に妓楼を持っていたため、かろうじて女郎屋商売を続けることができた。その後、吉原の越前屋はそれなりに繁盛したという。 
逃げる
吉原は公許の遊廓である。火事で全焼するなどして営業できなくなった場合、妓楼が再建されるまでのあいだ、二百五十日とか三百日とか期限を区切って、浅草や深川などの料理屋、茶屋、商家、民家などを借りて臨時営業をすることが認められていた。これが仮宅である。
文化九年(1812)十一月二十一日、吉原は火事で全焼し、浅草と深川の各地に仮宅ができた。
翌文化十年の五月なかば、浅草の隅田川のほとりで仮宅営業していたある妓楼に、恰幅のよい男が登楼した。
男は女郎と一緒の座敷に、芸者や幇間も多数呼び寄せ、ドンチャン騒ぎをした。
途中、男はお針に、懐中からずしりと重い包みを取り出し、「こんなものをふところに入れたまま酒を呑むのは無粋だ。あずかっておいてくれ」と、手渡した。
お針は、妓楼の裁縫や繕い物を引き受ける、いわゆる裁縫女である。
大金を渡されたお針は驚き、とても自分が保管することはできないため、事情を話して、楼主にあずけた。
その後、身軽になった男は大いに呑み、陽気に騒いだ。
しばらくして、川風にあたりたいと、庭伝いに隅田川のほとり向かった。あとから、女郎、芸者、幇間はもちろんのこと、遣手や若い者などもぞろぞろ従う。
「ちょいと、泳ぐかな」男はその場に着物を脱ぎ捨て、ふんどしひとつの素っ裸になった。
みなは口々に、「おやめなさいませ」と、止めようとした。
「心配するな。俺は水練は達者でな。向こう岸に着いたら、すぐに戻ってくる」と言い捨て、じゃぶじゃぶ水のなかにはいっていく。
抜き手を切って泳ぎ、やがて、その姿は闇に消えた。
その後、いつまで待っても男は戻ってこない。
みなは心配になり、若い者が吾妻橋をとおって対岸に渡り、あたりをさがしまわったが、男の姿はどこにも見えなかった。
楼主も心配になってきた。そこで、あずかっていた紙包みを開いてみたところ、中身は金ではなく、重さと形をそれらしく見せかけただけの代物だった。
けっきょく、妓楼の大損となった。 
売春
天保八年(1837)ころから、両国あたりの道端に「引張り」と呼ばれる女が出没するようになった。
もとはみな、本所長岡町にある切見世の女郎だった。切見世は局見世ともいい、簡便な「ちょんの間」の情交を提供する格安の女郎屋である。客がなかなか寄りつかず不景気なことから、がらりと方針を変え、素人女をよそおうことにしたのだ。
みな前垂れをつけ、下駄ばきで夜道に立ち、男が通りかかると袖を取って引っ張り、「もし、どこへでもまいりましょう」と、声をかけた。そして、知り合いの家の二階や、居酒屋の二階を借りて情交をおこない、金二朱とか三朱をねだった。さも、素人の女が生活苦から、やむにやまれず体を売るという演出をしたのである。素人を売り物にしたわけだが、これが新鮮だったのか、大いに受けた。
当初は数人だったのが、いつのまにか百人ほどもの女が毎晩、たむろして男の袖を引っ張るようになった。
その横行ぶりは目にあまるというので、ついに天保十一年四月十二日、町奉行所が一斉摘発をおこない、三十二人の女を召し取って牢屋に入れた。  
仲裁
寛文年間(1661-73)のこと。吉原の江戸町二丁目に玉屋という妓楼があった。玉屋の抱え遊女錦木は風雅の心得があり、教養もなかなかのものだったが、気性はきわめて激しかった。
山谷堀の船宿の船頭で弥左衛門という男と、男伊達を気取っている権兵衛という男がたまたま玉屋の格子先で口論になった。「勘弁ならねえ。殺してやる」「てめえこそ、殺してくれるわ」 ふたりとも腰に差していた脇差を抜き、斬り結ぶ。「わー、大変だ」 人々は逃げ惑い、大騒ぎになった。
そのとき、錦木が仲の町の引手茶屋から玉屋に戻ってきた。騒ぎを見るや、錦木は着ていた打掛を脱いで、権兵衛が構えた白刃の上にヒラリと投げかけた。いっぽうで、弥左衛門が構えた白刃の下に身を投げ出した。「おふたりとも、刀をお収めください」 この錦木の大胆な振る舞いに、権兵衛と弥左衛門も毒気を抜かれ、ともに刀を収めた。その後、錦木があいだにはいり、ふたりの喧嘩を水に流した。
事件のあと、朋輩女郎が錦木に言った。「まったく、命知らずだね」「命よりも名が大事だよ。あたしは廓に名前を残したいのさ」 錦木はそう答えて笑った。生まれは両国の村松町で、母親は琴の師匠をしており、名人と言う評判があった。錦木が遊女になったいきさつは明らかではない。 
腕力
吉原に桐屋という妓楼があった。桐屋の黄蝶という遊女のもとに、石町の庄右衛門という呉服商がかよってきていた。ふたりは本気で惚れ合い、黄蝶の年季が明けたあと、世帯を持とう言い交わしていた。商用ができて、庄右衛門は伊勢に旅することになった。
旅立ってから十四、五日して、庄右衛門の友人から黄蝶のもとに手紙が届いた。そこには、「庄右衛門は旅の途中で病気になり、死んだ」ということが書かれていた。
黄蝶は悲嘆から寝込んでしまったが、楼主がなだめすかし、僧侶を招いて庄右衛門の追善供養をした。それでようやく気持ちの整理がついたのか、黄蝶はふたたび客を取るようになった。そのころ、吉原は火事があったあとで、まだ妓楼はきちんと再建されず、桐屋も平屋の長屋で営業していた。八月の下旬、小雨が降り続き、暗い夜だった。丑三つ(午前2時)をまわったころ、黄蝶の部屋の表戸がそっとたたかれた。「誰だえ」 低い、苦しげな声が答える。「別れた庄右衛門じゃ。あまりのなつかしさに、訪ねてきた」 黄蝶は怖さも忘れて戸をあけ、男の袖に取り付いて泣き伏した。「おまえさん、成仏できないのかい」「行灯の灯を消してくれ。この世のものでない、あさましい姿を見られるのは恥ずかしい。灯がなくなれば、部屋の中にあがり、もう一度おまえと枕を交わし、それでこの世の未練を断ち切ろう」
部屋と部屋の仕切りは襖である。隣の部屋に寝ていた金太夫という遊女が黄蝶の泣き声で目を覚ました。耳を澄まして男のことばを聞いていると、どうも怪しい。金太夫は襖をあけて飛び出して行き、男の左腕をグイとつかんだ。「痛い、痛い」 男が悲鳴をあげた。ものすごい腕力だった。金太夫は男を部屋の中に引っ張り込み、行灯の前に引き据えた。「おまえは八蔵じゃないか。なんだい、そのかっこうは」 男は、すぐ近くにある扇屋という妓楼の下男の八蔵だった。ひたいに三角の紙切れをつけ、古浴衣を着て、細い竹の杖を手にしていた。
「真っ平ご免あれ。常々、黄蝶さんに思いをかけておりました。今夜、こういうくふうをして、思いを遂げようと思ったのです」 八蔵は平謝りに謝る。黄蝶も同情した。「許してあげようよ」「じゃあ、しようがないね」 そう言うや、金太夫は八蔵の頭を三つ、四つ殴りつけたあと、部屋から外に放り出した。
八蔵は大柄な男だったが、金太夫につかまれた左腕は四、五日のあいだ、しびれたようになっていたという。金太夫は容色は十人並みで、日ごろは物腰もおだやかで、そんな怪力の持主とは、それまで誰も知らなかった。 
宿場女郎
文化二年(1805)、武州秩父郡小鹿野村(埼玉県小鹿野町)の荒松玄怡という医師のもとに、内侍局という京都の公家のお姫さまと、安藤若狭という家来が逗留するようになった。
内侍局は、父は日野大納言、母は常代御前で、七歳のころから御所に勤めていた。歌道に精進したいため、四、五年前に御所勤めを辞め、以来、全国を旅しながら和歌を詠み、修業を続けているという触れ込みだった。
荒松は、たまたま近くを旅していた内侍局の評判を聞き、「ぜひとも、拙宅にご逗留ください」と、自宅に招いたのである。以来、荒松宅に落ち着いた内侍局は、訪ねてくる近郷の者の望みに応じて、和歌を書いてあたえたり、疱瘡(天然痘)やはしかのお守りをあたえたりしていた。京都のお姫さまからいただいたということで誰もがありがたがり、多額の謝礼を置いていった。
この噂を耳にした八州廻り(関東取締出役)の役人が不審をいだいた。内偵を進め、翌年の一月、内侍局と安藤若狭を召し取った。召し取られたとき、内侍局は下げ髪で、ひたいに眉を描き、紫縮緬で鉢巻をしていた。御納戸茶の襦子の打掛、小紋の絹の小袖、下着は鬱金紬の小袖を着て、黒びろうどの細帯を締め、紫色の絹の座布団に座っていたという。
取り調べたところ、ふたりとも真っ赤な偽せ者ということが判明した。
内侍局は、もと品川宿の宿場女郎で、名は琴、二十五歳だった。安藤若狭は、もとは浅草に住んでいた善兵衛という町人で、五十三歳だった。
文化二年の夏、ふたりは旅先で知り合い、公家の娘とその家来をよそおって世間をあざむくことを計画したのだという。
お琴は重追放、善兵衛は手鎖に処せられた。
その後、いろんな風説が流布した。
お琴は本当に公家の娘だったという。素行が悪く、屋敷を出奔して関東に流れてきたのだとか、男にかどわかされ、連れまわされていたのだとかいう説もあった。
また、幕府老中が京都の日野家に問い合わせたところ、「当家の娘ではないが、なにぶん女の身で不憫であるから、よろしくお取り計らいください」という内容の、なんとも意味深長な答えが返ってきた。老中はその返答に、「日野家の娘であるが、表向きはそうでないことにして、送り返してほしい」という含みを読み取り、お琴を駕籠に乗せ、ひそかに京都に送り返したという。  
大女
文化四年(1807)の二月ころ、品川宿の鶴屋という女郎屋に稀代の女郎が出て大変な評判となった。
下総(千葉県)の農民の娘で、名はつた、二十三歳だった。おつたは、容貌は面長で十人並みだったが、身長がなんと六尺二寸もあったのだ。江戸時代の庶民の平均身長は男が157cm、女が146cmだったといわれるから、当時としてはずば抜けた長身である。
この大女をひと目でも見ようというので、鶴屋には客が連日連夜つめかけ、押しあいへしあいの繁盛となった。
おつたは自分の大きな手や足を恥じていて、初めての客には袖のなかに入れたままで手を見せようとしなかった。また、足もなかなか見せようとしなかったという。
これがまた評判となって、客が押し寄せた。われこそは、この目で見てやろうというわけだ。
もともと、鶴屋の亭主は、「こんな大女では飯ばかりくって、客なんぞつかない」と、安値でおつたを抱え入れたのである。ところが、思わぬ人気を得て大もうけをし、亭主はほくほく顔だった。
その後、おつたは「大女淀滝」と名乗り、方々の見世物に出た。
分厚い碁盤を片手に持ち、それでブンとあおいで大きなロウソクの火を消したり、釣鐘を左肩に抱えながら右手で字を書いたり、四斗入りの米俵を持ち上げてみせたりした。
「街談文々集要」の編者の石塚豊介子は、子供のころ浅草で父親に肩車されて淀滝を見物した思い出を同書に記しているが、扇に書いた字は、なかなかの達筆だったという。  
出家
享保(1716-36)のころ。田所町の大店の主人が吉原の遊女を身請けして、妻に迎えた。
夫婦仲は睦まじく、まわりもうらやむほどだった。
夫は美人の妻が自慢だったが、ひとつだけ、疑念があった。妻は自分用の箪笥のひとつに固く錠をおろし、奉公人はもとより、誰にも絶対に手を触れさせないのだ。
あるとき、夫は冗談まじりに、
「中身はなんだね。俺には、見せてくれてもよかろう」
と、箪笥に手をかけた。
妻は顔色を変え、
「たとえおまえさんでも、これだけはお見せできません」
と、かたくなだった。
見てはいけないと言われると、よけいに見たくなるのが人間の心理である。それに、妻はもとは女郎だっただけに、多くの男と関係があった。その点はわかったうえで妻に迎えたのだし、いったん妻にした以上、女郎時代に触れてはならないのは重々わかっているのだが、それにしても、不審がつのる。
夫はその後、手を変え品を変え、箪笥の中身を尋ねたが、妻は頑として言わない。疑惑は深まるいっぽうだった。
ついに、夫もことばを荒らげた。怒りにまかせ、間男がいるのではないのかとまで問い詰めた。
妻はうつむいてしばらく黙っていたが、ややあって、口を開いた。
「大金を出してあたしを身請けしてくださったのは、おまえさんの心を安んじるためでござりましょう。箪笥のなかをお見せしては、お心を乱してしまうことになると思い、深く秘めておりました。しかし、あたしが密通をしているとまで疑われては、いたしかたございません。お見せいたしましょう」
錠をあけ、箪笥の引出を引き出した。
なんと、なかにはいっていたのは、袈裟や鉢などの仏具だった。
夫は驚き、あきれた。
「いったい、これはどういうことなのかね」
「はい、いまは包み隠さず、お話いたします。
じつは、苦界に勤めに出た当初から、あたしには深く馴染んだ男がございました。浮河竹のはかない身とは申しながら、将来は夫婦と固く誓い合い、あたしは年季が明けるその日だけを楽しみに、つらい勤めに耐えておりましたが、その男はふとしたことから、若くして死んでしまいました。
その日以来、あたしは出家をこころざしたのでございますが、妓楼に抱えられている身ではそれもままなりません。女郎のつねとして、お客の前では笑みと媚をふりまき、閨房の戯れをしておりましたが、心のなかでは出家を忘れたことは一日とてございませんでした。
たまたま、おまえさんがあたしを見初め、大金を出して身請けし、妻としてくださいました。あたしのために大金を出してくださったことを思うと、とても出家のことなど申せません。それで、こうして隠しておりました」
語り終えるや、はらはらと涙をこぼした。
話を聞き、夫も心を動かされ、「そうだったのか。さてさて、奇特な女じゃのう。そこまで心に思った男がいたとは知らなかった」と、思わず落涙した。
妻はさめざめと泣いている。
夫は膝を打った。「大金を投じて身請けしたとはいえ、ほとほとおまえの心底に感じ入った。また、いまの話を聞いた以上、自分の女房にすることはできない。俺もちょいとは名の知られた男だ。いさぎよく暇をやるから、得度して尼となるがよい」妻は、「ありがとうございます」と喜びながらも、「申し訳ございません」と涙にむせぶ。「よし、これから菩提寺の僧侶を招くので、早々に剃髪するがよい」「いえ、菩提寺の和尚さんに来ていただくなど、もったいのうございます。出家するからは、三界に家なし。きょうより、托鉢をして露命をつなぎたいと存じております」そう言うや、妻は墨染めの衣をまとい、いずこともなく旅立った。
この出家は話題となり、かつて将来を誓った男に誠をつくした女はもちろんのこと、その心情を感じて離縁してやった男のことも、ほめそやさぬ人はなかった。
ところが、しばらくして、田所町からさほど遠くない場所で、女が髪結の男と所帯を持っていることがわかった。
吉原のころの情男だった男と示し合わせ、一芝居打ったのだった。
大金を投じて身請けした夫にしてみれば、まんまと一杯喰わされたことになろう。  
腹上死
吉原の京町二丁目に、「勢喜長屋」と呼ばれる切見世があった。
切見世は長屋造りで、「ちょんの間」の売春をする格安の女郎屋である。妓楼で年季が明けたあと、ほかに行くあてのない女たちが流れてくることが多かった。そのため、一般に年齢は高いし、病気持ちというのも普通である。
いっぽう、庶民には吉原の妓楼の花魁は高嶺の花である。吉原はぶらつき、見物して楽しむだけで、いざ女郎買いをするとなれば切見世に行くというのは珍しくなかった。
嘉永五年(1852)閏二月、武家屋敷の中間風の男が勢喜長屋で女郎を買った。
ところが、ことが終わったとたん、男は急に苦しみ出した。そして、そのまま頓死した。いわゆる、腹上死だった。
困ったのが、勢喜長屋である。
中間らしいというだけで、どこの屋敷なのか皆目わからない。男のふところを調べても、身元につながるような物はいっさいなかった。ただ、太股の内側に阿亀の彫り物があった。
男の遺体は、大門の外の衣紋坂にある高札場のそばに三日間、晒された。遺体のそばには、特徴として阿亀の彫り物があることなどを記した立て札が立てられた。
けっきょく、なんの手がかりも得られなかったことから、遺体は投込寺として知られる三ノ輪の浄閑寺に運ばれ、葬られた。
その後、次のような落首が出た。
アゝイゝと死か行かはしらね共かゑらぬ道をせき長屋なり
すでに埋葬されたあとになって、さがしていた親類の者が阿亀の彫り物を根拠に、男の身元を確認した。
それによると、腹上死したのは清助で、神田明神下にある御小納戸頭取朝比奈甲斐守の屋敷で馬屋の番をしていたという。四十三歳だった。
清助は前年、女房に死なれ、それをきっかけに女郎買いを始めたのだという。
親類は、浄閑寺に石塔を建立した。  
客引き
武州豊島郡赤塚村(東京都板橋区)にある泉福寺の住職が、所用があって江戸に出てきた。年齢は二十四、五歳だった。
駒形町の知人宅に逗留していたが、ある日、ほど近い吉原を見物しようと思い立った。弘化二年(1845)九月十九日のことである。
住職は羽織を着て、腰には脇差を差して医者をよそおい、ひとりで吉原を見物してまわった。京町二丁目の万歳屋の前にさしかかったところ、客引きの若い者に袖を引かれた。
もとより見物だけのつもりだったから、持ち合わせは銭が三百文くらいしかない。
住職は袖を振り払って去ろうとしたが、若い者はしつこく、強引だった。無理矢理に引っ張り込もうとする。
住職はあせり、とにかく逃げようとする。
もみ合いになり、はずみで若い者の小指に噛み付いてしまった。指から血が流れる。
「痛い、やられた」と、若い者が叫ぶ。
ほかの若い者も集まってきて、大勢で住職を取り囲み、とうとう妓楼の二階座敷に引っ張りあげてしまった。
真っ青になった住職は、金がないため登楼はできないと繰り返した。
だが、若い者は承知しない。「どうしてもお帰りになるのであれば、あたしの指の怪我はどうしてくれるのです」 住職が見ると、たしかに若い者の小指に歯型があり、自分の羽織にも血がついている。「膏薬代を払っていただきましょう。ただし、もし女郎買いをなさるのであれば、あたしどものお客でございます。指の怪我のことは勘弁いたしましょう」 ここにいたり、やむなく住職は女郎買いをすることになった。
翌朝、住職は使いを頼み、駒形町の知人宅に手紙を届けさせたが、留守ということでむなしく戻ってきた。ほかに、金策のあてはない。
金の調達ができるまで帰すことはできないと、住職は一階の隅にある行灯部屋に放り込まれ、一日に飯一椀をあたえられただけだった。
二十一日の朝になり、住職は空腹に耐えかねて遣手の部屋に忍び込み、長火鉢にかかっていた薬缶の湯を飲んだ。ほかになにか食べるものが落ちていないかと、火鉢の灰をかきまわしていると、なかから火のついた粉炭が出てきた。
「こんなところで餓死するよりは、いっそ火をつけて焼き払ってしまおう」 自暴自棄になった住職は、真赤な粉炭をすくい取ると、あたりにまき散らした。四ツ(午前10時)過ぎのことである。
すぐに万歳屋の奉公人が気づいて消しとめ、ボヤで終わったが、放火となるとただではすまない。
町奉行所の役人が検使に来た。
その結果、万歳屋には居残り客がふたりいたことがわかった。ひとりは泉福寺の住職であり、もうひとりは八丁堀の大工だった。
役人がふたりを面番所に連行し、取り調べたところ、大工は金三分の支払いのところ二分しか持っておらず、一分の不足で留め置かれていたことがわかった。大工はそのまま、放免された。けっきょく、一分の得をしたことになる。
住職は放火を自供したことから、北町奉行所に送られた。
お白州に引き出された住職は、正直にいきさつのすべてを述べた。
供述を聞き終え、奉行の鍋島内匠頭が言った。
「いやしくも寺の住職たる者が女郎買いに行くはずがなかろう。羽織を着て、脇差を差していたとなれば、そのほうは医師であろう。また、火をつけたなど、偽りを申すではない。煙草の火が落ちた、あやまち火であろう。あとさきも考えぬ世迷いごとを申す、愚か者であるぞ」 そして、住職を放免した。
いっぽう、往来の者を無理無体に引き込んだとして、万歳屋の関係者は牢に入れられた。
なお、万歳屋の楼主は菊次郎といい、十八歳だった。しかし、菊次郎が楼主というのは表向きで、実際は父親がすべてを取り仕切っていた。菊次郎の父親はもとは深川で搗米屋をしていたが、ためこんだ金を元手にして、女郎屋商売に乗り出した。出費を惜しむ守銭奴で、抱えの女郎や奉公人の待遇も劣悪だった。
とくに、若い者の給金は月に金二分で、客を引っ張り込めば、その客の上下に応じて、別途に二十四文、五十文、七十二文の歩合給を払うという仕組みだった。しかも、客を引っ張り込まないと、それに応じて二分から罰金を差し引くというきびしさである。このため、若い者も強引な客引きに走ったのだという。
夜鷹
浅草橋場町に搗米屋があり、住み込みで働く米搗き男はかねてから御厩河岸に出ている夜鷹と馴染んでいた。
嘉永四年(1851)五月なかばのこと。たまたま、主人をはじめ、店の二階で同室をしている朋輩の奉公人までもがみな外出することになり、米搗き男はひとりで留守番を頼まれた。
夜がふけると、男は御厩河岸に出かけて行き、夜鷹をさそった。
「今夜は店に俺ひとりだ。いつも道端のゴザの上では味気ない。どうだ、たまには畳の上でしっぽり濡れようではないか。泊まっていくがよい」
馴染みの客であることから、夜鷹もすぐに承知して、牛(妓夫)に掛け合った。牛とは、いわば夜鷹の用心棒である。ヒモでもあった。「うむ、たまには、よかろうぜ」と、牛も認めた。
そこで、米搗き男は夜鷹を店の二階に連れ込み、大いに楽しんだ。疲れから、熟睡する。
ハッと気づくと、すでに夜が明け、主人も店に戻った様子である。男はあわてた。
「いま、下におりては、旦那さまにばれてしまう。ここに隠れていてくれ」と、夜鷹を押入れのなかにひそませた。
朝食のとき、自分の飯の一部を握り飯にして、そっと二階にあがり、「これを食うがいい。俺が昼間、たびたび二階にあがっていると妙に思われる。昼飯と夕飯は持ってきてやるから、階段をのぼってくる音を聞けば、廊下から手だけ出してくれ。握り飯を渡す」と言い置き、米搗きの仕事に戻った。
昼飯のときも、そっと階段の途中から握り飯を受け渡した。
こうして昼過ぎまで二階の押入れに隠れていたが、夜鷹はしだいに尿意が耐えがたくなってきた。かといって、階下の便所にはいけない。
なにかよい方法はないものかと部屋をさがしていると、銭を入れる竹製の銭筒があった。
「これは、ちょうどいい」
夜鷹はその竹筒をあて、なかに小便を注ぎ込んだ。
ところが、ずっと我慢していたため、たまりきっている。とても竹筒におさまりきれない。
竹筒からあふれた小水が畳を濡らし、さらに階下にまでポタポタと落ちた。
ちょうど階下の台所にいた女房が、天井からたれる水滴に気づいた。
「おや、なんだい。この臭い水は。まさか、ネズミの小便じゃあるまいね」
女房が二階の様子をうかがいに来た。
足音が階段をのぼってくるのを聞いて、夜鷹はてっきり夕食の握り飯だと思った。ぬっと、手だけ出す。それを見て、女房は驚き、「わっ」と叫ぶや、階段の途中から足を踏みはずして転落し、気絶してしまった。  
俺が客
十月の中旬のこと。さしもの不夜城の吉原も大引け(午前2時)を過ぎ、どの妓楼も表戸を閉じて寝静まっていた。西田屋の楼主はその夜、なかなか寝付かれず、ひとりで本を読んでいた。
ドンドンと、表戸をたたく音がする。
奉公人はみな熟睡しているのか、誰も起きて出て行く気配がない。やむなく、楼主が立ち上がり、「誰じゃ」と言いながら、出格子のすきまから外をながめた。
月明かりで見ると、茶縮緬の羽織と黒羽二重の小袖を着た、いかにも歴々の武士らしき男がしきりに戸をたたいている。
「なんの御用でございますか」「きさまは、この家の若い者か」楼主はとりあえず、「はい、さようでございます」と、答えた。
「今夜、初会の客がいたか」「さあ、しかと覚えませぬ」武士は目を怒らせ、「おのれは妓楼の若い者でありながら、初会の客がいたかどうかも知らぬのか」と、叱りつける。
たしかに、妓楼の若い者が知らないはずはない。楼主も自分が若い者であると言ったてまえ、困ってしまった。
「しばらく、お待ちなされませ」 楼主は若い者を起こした。
若い者が代わって応対に出た。「へい、たしかに初会の客人はございますが」「その初会の客は、俺ではないか。見てくれろ」 武士は、自分の顔を格子に押し付けてきた。
若い者はその顔をまじまじと見て、言った。「いえ、あたくしどもの初会の客人はいま、二階の花魁の座敷でお休みでございます」「そんなら、ここでもない」 武士はつぶやくや、隣の車屋に向かった。
車屋でも、同じことをした。戸をドンドンとたたき、若い者を呼び出す。やはり人違いで、「そんなら、ここでもない」とつぶやき、上総屋に向かう。
上総屋では、応対に出たのは遣手だった。
「今夜、初会の客はなかったか」「はい、初会の客人がございました」「その客は俺ではないか。見てくれろ」と、格子に顔を押し付ける。
遣手は手燭の明りで照らし、「はい、たしかに、おまえさまでございます」と言うや、戸をあけて、なかに招き入れた。
翌日、西田屋の楼主が上総屋に問い合わせ、事情がわかった。武士は連れと一緒に吉原に来たが、自分は上総屋に登楼し、友人は別な妓楼に登楼した。夜がふけてから、武士は友人が登楼した妓楼に遊びに行き、その帰途、道がわからなくなってしまったのだ。自分が登楼した妓楼の名前も思い出せない。そこで、妓楼を一軒ずつたたき起こし、「客は俺ではないか」と、たずねてまわっていたのだ。  
化け物
本所の竪川のあたりに町医者が住んでいた。医者は独身だった。住み込みの下男に、耳の遠い老人と、若い男のふたりを雇っていた。老人がもっぱら飯炊きをやり、医者が往診に行くときは若い方が供をしていた。
文化十二年(1815)七月の末のこと、医者は呼ばれて往診に出向いたが、病人の容態が気になるため、泊り込みで様子を見ることにした。
そこで、「わしは今夜は、ここにとどまる。帰りはあすの朝になろう。おまえは先に帰るがよい。ふたりでよく戸締りをし、火の元にはくれぐれも気をつけるようにな」と、供の下男を帰宅させた。
下男は帰り道、ふと思いついた。馴染みの夜鷹がいるが、いつも道端に敷いた筵の上である。たまには、畳の上でしっぽりと濡れてみたい。まさに、今夜は絶好の機会ではあるまいか。家にはもうひとり下男がいるが、どうせ耳の遠い老人である。そこで、両国の広小路に足をのばし、馴染みの夜鷹に声をかけ、さそった。「どうだ、今夜は俺のところへ来ないか」 訳を聞いて、夜鷹もその気になる。妓夫(ぎゅう)と呼ばれるヒモにも事情を話し、夜鷹を一晩借り切ることがきまった。
その夜、四ツ(午後10時)過ぎ、夜鷹が忍んできた。下男は女を二階の日ごろ使っていない部屋に連れ込み、誰はばかることなくたっぷりと楽しんだ。しばらくして、表戸をドンドンと叩く音がする。老人の下男は耳が遠くて聞こえないため、やむなく下男が二階からおり、玄関に出た。「先生は今夜はお泊りですから、往診はできません」「わしじゃ、わしじゃ。病人の容態が好転し、もう大丈夫と見たので、帰ってきた。あけてくれ」 下男は驚いた。家の中にはいると、医師が言う。「ああ、疲れた。横になるから、蚊帳を吊ってくれ」 やむなく、下男は一階の寝室に蚊帳を吊って医師を寝かせたが、二階にあげた夜鷹の処置に困った。切羽詰った下男は裏口から外に出て、そのまま逃げてしまった。
蚊帳のなかで団扇を使っていた医師はふと、人がいないはずの二階でごそごそと物音がするのに気づいた。「さては、泥棒だろうか」 じっと聞耳をすましていると、誰かが足音を忍ばせて階段をおりてくる気配である。医師が蚊帳の中からうかがうと、顔面が真っ白な女だった。恐怖に襲われた医師は、枕元に置いていた護身用の短刀を手に取り、刃を抜いて身構えた。階段をおりた夜鷹は、そっと蚊帳のそばに歩み寄り、中の様子をうかがう。恐怖に耐え切れず、医師は蚊帳越しに短刀を突き出した。
「あっ」 夜鷹が悲鳴をあげる。
そのすさまじい悲鳴に医師は恐慌状態となり、短刀で滅多突きにした。夜鷹がその場に倒れる。即死だった。「化け物を仕留めたぞ。出会え、出会え」 医師が大声で叫ぶのを聞きつけ、深夜にもかかわらず、近所の人が集まってきた。明りをつけてよく見ると、年齢は四十歳くらいの、顔に白粉を分厚く塗った女である。その様子は夜鷹に違いない。「いったい、これはどういうことであろうか」 医師は呆然となった。
夜が明けても夜鷹が戻らないため、妓夫が心配して医師の家にやって来た。すると、表に大勢の人だかりがしていて、しきりに、「ゆうべ、化け物を突き殺したそうだ」「いや、夜鷹らしいぜ」などと、話している。妓夫は驚き、大家に訴え出た。それから騒ぎが大きくなり、ついには町奉行所の役人が乗り出す事態となった。  
身請け
ある藩に、田中某という藩医がいた。医業の合い間には趣味の俳句を楽しんでいた。
梅雨のころ、吉原の妓楼に往診を頼まれた。診療が長引き、帰るころには日が暮れ、雨脚も激しくなった。雨のなか、夜道を麻布の屋敷まで帰るのは大変である。それに、翌日は浅草に往診の予定があった。
たまたま、吉原に遊びに来ていた俳友と出会った。
田中が困っているのを聞き、俳友が勧めた。
「では、いっそのこと妓楼に泊まればどうですか。明日の朝、吉原から浅草に行けば楽ですぞ。べつに女郎買いをしなくてもよろしい。あたしがうまく按配しますから」
そこで、俳友と一緒に扇屋という妓楼にあがった。
田中の相方の遊女は篁といった。
酒宴の席で、篁が田中の扇子に、
朝涼しかけ物かけてかしこまり如蘭
という俳句が書いてあるのに目を止めた。
「この扇の俳句は、誰の作でございますか。おまえさまの親しいお人ですか」
「わしの俳友で、ごく心安い人じゃ」
「江戸のお人ですか、上方のお人ですか」
「大坂の人じゃ。なぜそのように気になるのか」
「いえ、ちと」
篁は口を濁して席を立つと、酒宴の座敷から出て行った。
しばらくして、禿が田中を呼びに来た。
「ちょいと、こちらに」
田中は別室に案内された。
そこには篁が待っていた。
「さきほどの俳句の作者はお心安い人とのことでした。お名前をお教えくださいませ」「大坂の木屋栄治という人じゃ」 それを聞くなり、篁の目に涙があふれる。嗚咽をこらえ、願った。
「今夜はほかにも客人があり、くわしい話をすることができません。近日中に、あたしを買っていただけませんか。けっしてご負担はかけません。どうか、近いうちにお越しください」
なにか訳がありそうなのを知って、田中は日にちを決めて、登楼することを約束した。
約束の日、田中は扇屋にあがり、篁を買った。
ふたりきりになったところで、篁が切り出した。
「お恥ずかしいことですが、あたしは木屋栄治の娘、袖の成れの果てでございます。八年以前、江戸店の手代が大坂に上ってきて、半年ほど父のもとで働いておりました。若気の至りから、あたしはこの手代と密通してしまいました。手代が江戸に下ることになり、あたしはどうしても別れがたく、家の金を百両盗み出し、手代と駆け落ちしてしまったのでございます。その後は、ふたりであちこち浮かれ遊んでいたのですが、一年ほどもたつうちに金も使い果たし、けっきょく男にだまされ、吉原に売られてしまいました。このような境遇におちいったのも親の罰と、深く後悔しております。両親に幼いころから俳諧、生花、碁、将棋、琴などを習わせていただきましたが、それらのたしなみのおかげで、こうした身になっても、よい客人に恵まれております。思い返せば、これも親の恩。とても対面は無理としても、便りだけは出したいと、日ごろから神仏に祈願しておりました。先日、はからずも扇子の俳句から父が息災であることを知り、おまえさまが神にも仏にも見えました。どうかお情に、母に手紙を届けてはいただけませんでしょうか。もしお引き受けいただければ、このご恩は一生わすれません」
篁が涙ながらに懇願する。
そもそも、木屋栄治は大阪でも屈指の豪商で、伊丹に酒蔵を所持し、江戸にも支店を五、六ヵ所も置いていた。六年前に隠居してからは毎年、二百両の小遣いを持って江戸に下り、風流三昧を楽しんでいた。ふとしたことから田中と知りあい、交際が始まった。
田中はたまたま栄治が江戸に出てきていることを知っていたが、それは伏せておいて、「わかりました。どうにかいたしましょう」と、篁の依頼を引き受けた。
翌朝、吉原を出た田中はそのまま木屋栄治が泊まっている旅籠屋を訪ねた。
人払いをしてふたりきりになると、田中が言った。
「あなたは子供がいないため養子をもらい、いまは隠居しているとのことでしたが、本当は女の子がいるではありませんか」「いえ、子供はひとりもいません」「八年前、お袖というひとり娘が家出したのではありませんか」「えっ、どうして、それをご存知なのですか」「もし、お袖さんの所在が明らかになれば、どうするおつもりですか」 田中が静かに問うた。
栄治は涙を浮かべて言う。
「たしかに、お袖というひとり娘がおりました。いずれ婿をもらい、家を継がせるつもりでした。ところが、江戸店の手代が大坂に逗留中、お袖とできてしまったようなのです。手代が江戸に下ったあと、娘が百両を持って家出をしてしまいました。その後、問い合わせたところ、手代は江戸店には戻っておりません。お袖と手代は駆け落ちしたに違いありますまい。以後、まったく行方は知れません。家出の日を命日として娘は死んだと思い、養子をもらいました。養子に嫁を迎えたあと、家督を譲り、あたしは隠居したしだいです。あたしはこうして江戸に下って風流を楽しんでおりますが、女房はお袖のことのみ言い暮らし、神仏に参詣するほかはなんの楽しみもありません。もし、お袖の消息が知れれば、女房はどんなにか喜ぶことでありましょう。ご存じであれば、ぜひ、お教えください」
「けっして怒ってはなりませんよ」と諭したあと、田中がお袖の消息を告げた。
「ああ、あさましい身になったものだ」 栄治は嘆息したあと、頼んだ。
「お世話ながら、あなたのお力で娘を身請けしてはいただけませんか。身請けしたあと、外聞もあることなので大坂には連れ帰らず、江戸に住まわせます。落ち着いてから、江戸店の手代と所帯を持たせるつもりです。女房は江戸に呼び寄せ、母子の対面をさせましょう」「では、微力をつくしましょう」 田中は依頼を引き受けた。
扇屋に出向き、田中が楼主と交渉したところ、篁の年季は来年にも明けるとのことだった。そのため、百両で身請けすることで交渉が成立した。田中は篁を身請けしたあと、栄治に引き渡した。なお、まだ身請けが成立しないころ、篁が田中に寄越した手紙には、つぎのような俳句が記されていた。
なきやみし虫をあんじて待つ夜かな  
いやな客
吉原の金屋という妓楼に直衛という遊女がいた。この直衛に高井孫兵衛という武士がぞっこんとなり、しばしばかよってきた。しかし、虫が好かないというのか、直衛は高井がいやで、いやで仕方がない。高井が登楼しても、直衛はなにかと口実をつけ、なかなか座敷に出ようとはしなかった。
ある日のこと。高井が登楼したが、直衛はいろいろと口実をつけて座敷には出ようとせず、待たせておいた。しばらくして、やはり気になった。
「ちょっと顔だけでも出しておこうか」 高井がいるはずの座敷にはいったが、誰もいない。禿や若い者に尋ねたが、みな知らないと言う。「きっと、腹を立てて帰ったのではありませんか」「ほんにかえ。気がせいせいした。では、祝いをしましょう」 直衛は出前で料理を取り寄せ、朋輩や禿に振舞いながら、高井の悪口をさんざんに言った。
ほぼ悪口を言い尽くしたころ、座敷の戸棚の戸がガラリとあいて、なかから高井が出てきた。集まっていた朋輩や禿たちは息を呑み、あわてて逃げ出す。直衛は真っ青になり、無言でうつむいていた。高井はとくに声を荒げるでもなく、「金で買われる身のこと、好いた好かぬの気持ちがあるのはもっともじゃ」と静かに言うや、帰っていった。
その後、直衛は自分の言動を思い返すと、恥じ入るばかりである。どうにかしてあやまりたいと思うが、もうどうしようもない。
しばらくして、高井の使いと称する男がやってきて直衛に言った。
「先刻、そなたの心中はすべて聞き届けた。それほど嫌われる我が身であれば、切れてそなたの望みをかなえるのは簡単だが、それでは悪口を言って客が去ったという評判が立つし、楼主にも面目があるまい。とにかく、長く馴染んだ仲ではないか。これより親身になるというのであれば、すべてを水に流そう」
直衛もそのことばを聞きいれ、あらためて高井を客として迎えた。その後、ふたりの仲はむつまじく、ついに直衛は高井に身請けされ、数寄屋河岸のあたりに家を借りて住んだという。  
 
将軍家・旗本・御家人

 

眼力
観世大夫が三代将軍家光の前で能を演じたときのこと。家光は、剣術師範の柳生但馬守に言った。
「観世の所作をよく見よ。彼の心に隙間があり、いまなら斬れると思うところがあれば、申すべし」「かしこまりました」
柳生は観世の舞いをじっと見つめた。
能が終わったあと、家光が言った。
「どうだったか」「初めから心をつけて見ておりましたが、いささかも斬り込めるようなスキはございませんでした。ただ、大臣柱の方に寄ったとき、やや心に隙間があったようでございます。あのときであれば、斬り込めたかもしれません」 柳生が答えた。
いっぽう、楽屋に戻った観世は、「見物のなかにひとり、鋭い視線でわしの所作を注視していた男がいた。あれは、何者か」と、男の風貌を述べた。弟子が言った。
「あの方が、名高き柳生どのです。剣術の達人でございます」「さてこそ。舞いの中で、わしは大臣柱のそばに寄ったときふと気を抜いた。そのとき、あのお方がニヤリと笑った。妙だなと思っておったが、はたして、剣術の達人だったか」
あとでこの話を聞き、家光は大いに満悦したという。 
便所
松下伝七郎は家禄九百石の旗本で、小納戸役の任にあった。屋敷は小川町御台所町である。将軍の側仕えとしては、側衆、小姓、小納戸などの役職があり、彼らは交代で江戸城に詰め、泊まり勤務もあった。嘉永元年(1848)十一月二十七日、小納戸の松下伝七郎は江戸城で泊まり勤務だった。その日、冬至であったことから、時の十二代将軍家慶は夕食後、泊まり勤務の小姓、小納戸の者を集め、酒をたまわった。家慶は自分が酒好きということもあって、みなに酒を勧め、大いに呑ませた。
翌朝、松下伝七郎の家来が江戸城に迎えにきたが、いつまでたっても現われない。「主人の姿が見えませぬ。いったい、どうしたことでございましょうか」 騒ぎとなり、大勢が手分けして城のなかをあちこちさがした。すると、大便所の様子がいつもと違っている。「便壺をのぞいてみよう」 便所の踏み板をはがして、下を調べた。すると、裃姿の松下が便壺に落ち、溺死していた。酔って足を踏みはずし、はずみで頭から落下したとみられた。
便壺で溺死したことは伏せ、死体を布団でくるみ、あくまで急病の形にして、駕籠に乗せて小川町の屋敷に送った。松下は死亡したとき三十四歳で、子供はなく、弟がひとりいたという。
将軍家慶は松下が便所で事故死したことなど夢にも知らず、急病になって城を下がったとだけ知らされていた。後日、平の小姓の平岡石見守が家慶とふたりきりの場をみはからい、松下の事故死を申し述べ、「本来であれば小姓組頭から申し上げることですが、それでは表立ってしまうため、あくまで内々で、私から申し上げます。先日の松下伝七郎の一件は、上様がお酒を強要されたことからおこったことでございます。今後は、近侍の者にお酒を強要することはおつつしみくださいますように」と、強く諌めた。「さようであったか。不憫なことをした」 家慶は自分に非があったことを悟り、松下家は弟に相続させるように命じた。 
乱行
正徳四年(1714)、七代将軍家継の時代である。
月光院は故・六代将軍家宣の側室だったが、時の将軍家継の生母だけに、大奥では権勢並びなきものがあった。
その月光院付きの女中絵島は、美貌と教養を兼ね備えた才女だった。このとき三十四歳で、大年寄の役職にあった。奥女中の高位である。
一月十二日、前将軍家宣の法会が芝増上寺と上野寛永寺で執りおこなわれ、奥女中の絵島、宮路、梅山、吉川らが代参した。
江戸城を出た絵島の一行は芝、宮路の一行は上野にそれぞれ参詣を終えると合流して、木挽町にある山村座に向かった。芝居見物をしたのである。
借り切った二階座敷には、座長はもとより、生島新五郎ら役者も次々と挨拶に訪れた。生島は四十四歳で、濡れ事を得意とする、当時人気絶頂の役者である。
酒も酌み交わされ、華やかな雰囲気に包まれた。
大奥の通用門である平河門は暮六ツ(午後6時)に閉門する。絵島の一行は芝居が終わるのを待たず急ぎ帰途についたが、平河門にたどりついたときにはすでに門は閉じられていた。
門限に間に合わなかったことで、絵島らの芝居見物が表沙汰になった。
二月二日、処罰が言い渡された。
絵島の兄の白井平右衛門は御家人だったが、妹の放恣を諌めなかったとして死罪に処せられた。
絵島は、信州高遠(長野県高遠町)藩内藤家にあずけられた。高遠に流されたのである。
役者の生島新五郎は三宅島に流罪。
山村座は取り潰しとなり、座長は大島に流罪。
宮路ら奥女中もすべて処罰を受けた。
そのほか、多数の幕臣や大奥出入りの商人などが改易や追放などの処分を受けた。
徳川幕府の正史である「徳川実紀」には、「二月二日後閤の女房絵島、宮路、ともに親戚の家にめしあづけらる。これは正月十二日東叡、三縁両山にまうづるとて、みちよりかたらひ合せ、おなじ女房ともなひ、木挽町の劇場にまかり、薄暮に及びてかへりぬ。二人ともに年寄をもつとめながら、かうやうのふるまひせしをもて、きびしくとがめらるべけれど、寛宥さらるゝにより、かたくつゝしみあるべしとなり。おなじことにより、梅山、吉川等の女房七人禁錮せらる」と記されているのみである。
その後、巷間では、山村座で芝居見物をしたとき、絵島と生島がしばらくのあいだ姿を隠したとか、生島が長持のなかに隠れて大奥に出入りしていたなどという淫靡な風評が流れた。  
僧侶
江戸城の大奥は将軍とその家族、大名屋敷の奥御殿は藩主とその家族が居住する空間で、男子禁制だった。大奥や奥御殿は、いわば女だけの世界である。そこで生活する数多くの奥女中たちは、勝手に外出するなどもってのほかだった。礼儀作法や言葉遣いは厳格であり、一挙手一投足のすべてが堅苦しい。そのため、たまに寺社の参詣を名目に外出するのが唯一の息抜きであり、その機会を利用して料理屋で飲食をしたり、芝居見物をしたりと、思い切り羽根を伸ばした。料理屋や芝居ならともかく、なかには男と密会をはかる場合もあった。
谷中に、延命院という日蓮宗の寺があった。延命院では参詣に来た女と僧侶が淫欲にふけっているという風聞が広がり、享和三年(1803)、寺社奉行脇坂淡路守の命により、役人が一斉摘発をおこなった。はたして、延命院の内部は、寺社奉行に届け出た図面とはまったく異なり、美麗に改造され、あちこちに隠し部屋も作られていた。外見は壁と見えるところに襖があった。二階にあがると階段が持ちあがる仕掛もあった。すべて、密会用に作られたものだった。
七月二十九日、判決が言い渡された。延命院住職の日動、四十歳は死罪。日動は大奥の女中おころ、二十五歳と通じ、あげくは女が妊娠したことから、堕胎薬を渡していた。おころのほか、数名の女と関係を持ち、寺に泊めたこともあった。寺社奉行脇坂の判決文には、「惣て破戒無慙之所行にて」とある。延命院の所化の柳全、六十六歳は晒しの上、寺法にのっとり処罰された。柳全は、吉原の近くに住むおりせ、四十三歳と通じていた。そのほか、多数の男女が押込などの処罰を受けた。 
乱行
尾張藩徳川家は、御三家のひとつである。尾張藩の四代藩主徳川吉通は、三代藩主綱誠と側室お福の方とのあいだに、江戸で生まれた。お福の方は、尾張藩士の娘だった。
大名の正室や側室は、夫が死ぬと剃髪して尼となるのが慣例である。
綱誠が元禄十二年(1699)に死ぬと、お福の方も尼となったが、現藩主吉通の生母だけに厚遇される。本寿院と呼ばれ、市谷にある尾張藩の上屋敷に迎えられた。そのとき、三十五歳だった。
本寿院は淫乱だった。
参勤交代で初めて名古屋から江戸にやって来た若い藩士たちを湯殿に召し、女中に命じて裸にさせた。そして、その陰茎をしげしげと観察し、気に入った者がいれば、交接の相手をさせた。
時には、「試してみぬと、その良し悪しはわからぬからのう」と、湯殿でそのまま交接することもあったという。
寺社の参詣を口実にしばしば外出し、外出先で役者買いや相撲買いをした。歌舞伎役者や相撲取りに交接の相手をさせたのである。
また、寺院では僧侶と淫欲にふけった。
そのほか、藩邸に出入りの商人や、奉公している中間などで気に入った者がいると、自分の部屋に呼び寄せ、はばかるところがなかった。
もう、手あたりしだいである。
交接したあと、身分の軽いものには金をあたえたという。
宝永元年(1704)九月、本寿院は相撲取りをひとり召抱えた。性の奉仕役であろう。
この年、藩医の山本道伝は、本来であれば参勤交代に従って江戸に下るべきところ、理由を付けて名古屋から出ようとしなかった。
以前、江戸の藩邸にいたとき、山本はしばしば本寿院から艶書を贈られていた。また、本寿院が妊娠したときの堕胎も命じられていた。そのため、いったん名古屋に戻った山本は恐れをなし、本寿院の居る江戸には行こうとしなかったのだ。
この本寿院の乱行はついに幕府の知るところとなり、尾張藩に対して善処するようにとの内意が示された。宝永二年六月十五日、本寿院は四谷の中屋敷内に幽閉された。以後、厳重な監視下に置かれ、いっさいの面会は許されず、息子である藩主吉通との対面もできなかった。のち、本寿院の身柄は名古屋に護送され、幽閉された。五十歳前後のころ、本寿院が長い髪を振り乱して庭の大きなモミの木によじ登り、身悶えしている狂おしい姿が目撃されたという。七十五歳で死去した。  
喧嘩
嘉永五年(1852)三月十日、吉田勝之助、原田猪十郎、山岡猪之助、大橋小太郎、長谷部金次郎という五人の幕臣が連れ立ち、柴又村の帝釈天を参詣することになった。
途中、新宿(にいじゅく)の藤屋という料理茶屋で食事をし、酒を呑んだ。
藤屋を出て柴又村に向かう途中の野道で、山岡が一行からおくれて摘み草を始めた。
みなが、「そんなことをしていないで、早く行こうではないか」と、せかした。
山岡は知らん顔で、摘み草を続けている。
ムッとした大橋が、酒に酔っていたこともあって、すぐそばで立小便をして摘み草の邪魔をした。
小便のしずくが山岡にかかった。
山岡は激怒した。
「天下の旗本に向かって小便をかけるとは失礼至極ではないか」「酒の上の過ちじゃ。わざと小便をかけたわけではない」
言い争いのあげく、山岡が杖で大橋の頭を打った。
「なにをするか」と、大橋が刀を抜いた。
山岡も刀を抜く。
切り結ぶうちに、ふたりとも傷を受け、あっけなくその場に倒れてしまった。
ほかの三人はおろおろするだけである。
そうするうち、かかわり合いになりたくない吉田はさっさとその場から逃げ出し、ひとりで帰ってしまった。
その後、残った長谷部と原田が、負傷した山岡と大橋を駕籠にのせ、帰宅した。
さいわい山岡も大橋も命に別状はなかったが、この事件の噂が広まったため、ふたりは小普請入りの処分を受けた。  
生け花
天保年間のこと。湯島天神の近くに、家禄七百石の小浜という旗本の屋敷があった。
屋敷の門番をしている中間の伝蔵は風流心があり、門番所の柱に口の欠けた徳利を掛け、常に季節の花を投げ入れていた。
ある日、小石川水道町に住む一泉という生け花の師匠が通りかかった。
ふと、門番所に活けられた花に目を留め、「うーん。なかなかのものである。並みの挿し方ではない」と、感心した。
一泉は伝蔵に尋ねた。
「この花は誰が挿したのか」「へい、わしでございます」その答えを聞き、一泉はさっそく主人の小浜に面会を求めた。
「門番をしておる伝蔵は、中間風情には珍しい志の持主ですぞ。わたくしの弟子にも、あれだけの花を挿す者はおりませぬ」
小浜はびっくりした。
すぐさま、伝蔵を呼び寄せた。
突然主人に呼び出され、伝蔵はなにか叱られるのであろうかと、おずおずと前に出る。
「そのほう、挿し花を好むそうじゃな。ここで、挿してみよ」「滅相もございません。ただ、自分勝手にやっているだけでございます」伝蔵は固辞したが、小浜は納得しない。
「遠慮するな。ここで、やってみよ。これは主人の命令であるぞ」そこまで言われると、伝蔵も断わりきれない。
やむなく、主人や一泉、そのほかが見守るなかで、ありあわせの花を器に挿した。その見事さに、みな感嘆した。一泉の推挙もあって、小浜は伝蔵を家来に取り立てた。
その後、小浜はあらためて伝蔵に師事し、生け花を学んだ。  
借金のカタ
八百石の旗本柳沢家の娘であるお甲(名前は伝わっていないので仮の名)は、七百石の旗本大久保忠篤と結婚した。
大久保忠篤はかつて、やはり幕臣の娘と結婚したのだが、離婚した。そのため、お甲は後妻だった。
大久保は、保々吉次郎という八百石の旗本と親しく交際していた。
保々も結婚したことがあるのだが、離婚し、そのころは独り身だった。
ある事情から至急金が必要になった大久保は金策に困り、友人の保々に泣き付いた。
「しばらくのあいだ、百両、貸してもらえぬか」「百両は大金だ。たしかなカタがないかぎり、おいそれとは貸せぬ」「では、家内のお甲をカタに出そう」「よかろう」 独身だった保々は、友人の妻をカタに百両を貸すことに同意した。
大久保は妻のお甲に 「しばらくのあいだだから辛抱してくれ。戻ったあとは、元通りの夫婦じゃ」と、因果を含め、保々の元にやった。こうして、お甲は保々と夫婦同然の生活をするようになったが、しばらくして喧嘩をした。保々との生活がイヤになったお甲は逃げ出し、実家の柳沢家に戻ってしまった。
その後、保々が柳沢家に対し、正式にお甲と結婚したいと申し入れてきた。つまりは、身柄を引き渡せという要求である。
ところが、お甲はまだ大久保と正式に離縁していない。
柳沢家では当主や親戚一同が集まり相談した。大多数の者は、保々とお甲の結婚に反対する。ところが、当主の柳沢左右吉はお甲を厄介払いしたいため、保々との結婚を了承したい意向を示した。いっぽう、肝心の大久保は保々から借りた百両を返さない。すったもんだのあげく、寛政二年(1790)、ついにお甲は正式に大久保と離縁し、百両の金主である保々の後妻となった。  
兄弟喧嘩
四百俵の旗本矢部家の屋敷は小石川にあった。矢部家には三人の男子がいて、長男は是休、次男は健次郎、三男は富治郎といった。長男の是休は妻帯していたが、弟の健次郎と富治郎はいわゆる部屋住で、結婚もできないでいた。
安政元年(1854)一月八日、是休の妻お多賀の実兄である加藤愛之助が年始の挨拶をするため、矢部家を訪れた。
是休は妻の兄が挨拶に来たことから、奥の間に通して、酒や料理を出してもてなした。
弟の健次郎と富治郎は母屋からやや離れた別棟に住んでいたが、加藤愛之助が年始に来たことはわかる。自分たちもその席に呼ばれ、ご馳走の相伴にあずかれるものと期待していたのだが、いっこうに声がかからない。
ふたりはふて腐れ、酒と質素な肴で酒盛りを始めた。
いわばやけ酒である。
たまたま富治郎の煙草の灰が、前に出ていた酢だこの小皿の中に落ちた。
「汚いではないか。こんなもの、食えるものか」 そう言うなり、健次郎は酢だこのはいった小皿を窓の外に投げ捨てた。
富次郎が怒る。「捨てることはあるまい」 これをきっかけに、ふたりは言い争いを始めた。
悪酔いしているため、おたがいに怒鳴り合う。
怒鳴り声を聞きつけ、是休が別棟にやって来るや、「見苦しいぞ。いい加減にせぬか。お客が来ておるのだぞ」と、きびしく弟ふたりを叱りつけた。
健次郎と富治郎はおとなしくなるどころか、ますます荒れ、「われらを部屋住と見て、馬鹿にするのか」「こうなれば斬り殺してやる」と、ののしった。
恐怖に駆られた是休は母屋に逃げ帰り、玄関の戸や勝手口の戸を閉じて、内側から心張棒をかけた。
追ってきた健次郎と富治郎は母屋にはいれないため、勝手口の戸を激しくたたいて、大声で悪口雑言を吐いた。
ついに是休も我慢できなくなり、刀を抜き放った。抜身を持って庭から外に飛び出し、勝手口にまわると、富治郎に斬りつけた。
富治郎は肩先を六寸五分ほども斬られ、そのほか二、三ヵ所に傷を負ったが、手負いのまま是休に組み付き、もみ合いとなった。
横から、健次郎が刀を奪い取り、富治郎に渡した。
刀を得た富治郎が、今度は是休に斬りつける。
是休は二、三ヵ所の傷を負い、手の指が三本落ちた。危うく斬り殺されそうになったが、そのとき是休の妻のお多賀が駆けつけ、富治郎を背後から抱きとめて制止した。
三人の兄弟の母親も駆けつけ、あいだに割ってはいったため、ようやく収まった。
このもみ合いで、お多賀も指の二、三本を切断してしまった。
この騒動は上役の耳に達し、長男の是休は禁足を命じられた。次男の健次郎は別な旗本の家にあずけられ、三男の富治郎は座敷牢に押し込められた。
なお、騒ぎがおきるや、客人として訪れていた加藤愛之助はさっさと矢部家から逃げ出したという。  
ふしだら
本所あたりに屋敷のある二百石ほどの旗本の娘は、身持ちがよくなかったことから、勘当同然に屋敷を追い出されてしまった。女は知り合いの家に厄介になっていたが、たまたま近所の呉服屋の番頭が見初めた。掛け合って女を引き取り、囲者にした。
だが、妾を囲うとなると、金がかかる。番頭はつい店の金に手をつけてしまった。これが発覚して、店を追い出された。
女は番頭が店を放逐されたのを知ると、金の切れ目が縁の切れ目とばかり、逃げ出して、牛込早稲田町の渡辺という武士の屋敷に駆け込んだ。ちょっとした縁故があったのだ。
渡辺はいちおう、女の親元に事情を問い合わせた。
すると、その返事は、「すでに勘当いたしておりますので、当方はその女とはいっさい無関係でございます。どうぞ、勝手になさってください」と、そっけないものだった。
かといって、渡辺もむげに追い出すわけにもいかず、女を屋敷に留め置いていたが、その色香に迷い、つい手を出してしまった。いったん関係ができると、もう、追い出すことはできない。ずるずると、関係を続けていた。
いっぽう、番頭は女のせいで店から追われ、しかもその女には逃げられてしまい、まさに泣きっ面に蜂である。知り合いが牛込早稲田町で湯屋をやっていたため、そこに転がり込み、居候となった。
ある日、女が湯屋にやってきた。
これを見た番頭は、そっとあとをつけた。
女が渡辺の屋敷にはいるのを見届けたあと、番頭は戻って、湯屋の亭主に、「長々とお世話になり、まことにありがとう存じました。あたくしは在所に帰ります」と挨拶をして、立ち退いた。
その後、渡辺の屋敷をうかがう。嘉永三年(1850)七月十八日、当主の渡辺が勤務に出かけたあと、番頭は出刃包丁を持って屋敷に忍び込んだ。女は出刃包丁を見て、悲鳴をあげて二階に逃げる。番頭は追いかけ、女の腕を切り、横腹を刺した。
その後、番頭はその場で腹を切ったが、死に切れない。苦悶にうめきながら、階段をおりて台所に行った。水瓶の水を飲んだあと、そのまま顔を水瓶に突っ込み、絶命した。女は重症だったが、命は取りとめたという。  
破談
天保十五年(1844)の四月中旬、本所に住む甲(姓名は不詳なので、甲としておく)という幕臣の息子と、下谷に住む三橋という幕臣の娘の婚約がととのった。
当日、六ツ半(午後7時)に花嫁が輿入れしてくることになり、本所の甲の屋敷では婚礼の準備をし、親類や朋友も招いて待ち受けていた。
ところが、花嫁がなかなかやってこない。
五ツ(午後8時)を少し過ぎたころ、ようやく花嫁を乗せた駕籠が到着した。
付添の使者がおくれたことをわび、花嫁の手を引いて屋敷にはいろうとする。
甲が怒り出した。
「かねて六ツ半の約束だった。ところが、はや五ツ半(午後9時)ではないか。遅刻といっても、このおくれはひどすぎる。我慢ならぬ。花嫁を連れて帰ってくれ」
使者は困り、「女は身支度になにかと手間取るものでございます。また、いろいろと暇乞いもしなければなりませんでしたので、ついおそくなってしまいました。すでに夜もふけておりますので、どうかご料簡ください」と、ことばをつくしてあやまり、なだめた。
ところが、甲はまったく聞き入れず、「早々に花嫁を連れ帰れ」と言い放つなり、プイと屋敷から出ていってしまった。
これを見て、花婿である息子があわてて父のあとを追いかける。
そのまま、いつまでたっても親子は戻ってこない。
このままにはしておけないため、招かれていた客が手分けして親子をさがしに出かけたが、ふたりの行方は知れなかった。
花嫁を運んできた駕籠かき人足が下谷に走り、三橋家に事態を告げた。
事情をたしかめるべく、三橋本人が本所に駆けつけた。
まだ、甲親子は戻っていない。
深夜の丑の刻(午前2時)になって、ようやく甲親子が屋敷に戻ってきた。そこで、三橋が談判におよんだが、甲の怒りはいっこうにおさまらない。とうとう三橋もあきらめ、娘を駕籠に乗せて下谷の屋敷に帰っていった。そのあと、甲は人足を雇い、三橋家から届けられた箪笥などの嫁入り道具をすべて下谷に送り返した。  
真っ裸
文政十二年(1829)十月のこと。長田喜兵衛は御小姓組で、家禄は五百石だった。
長田家の長男の兵吉が母と妻、下女を連れ、四人で雑司が谷の鬼子母神の縁日に出かけた。
たまたま護国寺近くの田んぼ道で、近所に住む六百石の旗本で小普請組の、真野鉄太郎と出会った。
真野は素行が悪く、評判のよくない人物だった。しかも、仲間と連れ立ち、合わせて十一人という大勢である。
兵吉の一行は触らぬ神に祟りなしと、軽く会釈をして、そそくさとすれ違う。
それを見て、真野が、「なぜ、ちゃんと挨拶をしないのか」と、言いがかりをつけてきた。
兵吉がいろいろと詫びを述べたが、真野は納得しない。
そうするうち、真野の連れが、「やっちまえ、やっちまえ」と、よってたかって、兵吉の母と妻の衣服を剥ぎ取り、ふたりとも真っ裸にしてしまった。
兵吉は真っ青になって、刀の柄に手をかけたが、これもあっけなくもぎ取られてしまった。その後、兵吉は近所にある親類の家に逃げ込んだ。
さすがに真野も少々やりすぎたと思ったのか、兵吉の妻と母親を近くの茶屋に連れ込み、きょうの件はおたがいさまだから、内済(示談)にしようと申しかけた。ほとんど、恫喝である。
本来、真野のほうに非があるのだが、女ふたりでは抗弁もできない。けっきょく、真野の言いなりになり、今回の件は表沙汰にしない旨の証文まで書いた。
真野は証文を受け取りと、「では、これで勘弁してやる。帰ってよいぞ」と、放免した。
すべてが終わってから、兵吉は姿を現わした。
その後、この不祥事が発覚した。真野鉄太郎は召し捕られて詮議となり、長田兵吉も呼び出されて尋問された。その結果、真野は追放に処せられ、真野家は断絶した。兵吉はあまりにふがいないとして、押込を言い渡された。一説によると、兵吉の妻はもともと真野に嫁入りするはずのところ、素行がよくないことから破談にした。真野は、そのことを根に持っていたのだという。  
妻と養子
旗本で御膳番の大井新右衛門は男子がなかったことから、同じく旗本で使番の神尾市左衛門の弟の吉五郎を養子とした。
この吉五郎はなかなかの美男だった。
享和元年(1801)九月十七日、江戸城を退出して屋敷に戻ってきた新右衛門は裃姿のまま、妻と養子の吉五郎を呼び出し、「不義者を成敗いたす」と、刀で斬り殺した。
その後、上役にその旨を届け出た。
不義密通を成敗したという届けは認められ、吉五郎の死体は実家の神尾家が引き取り、妻の死体は取り捨てよという命令が下された。
これにともない、吉五郎の遺体は神尾家が引き取った。妻の死骸は牛馬の死骸同様の処分をせよとの幕命なので、新右衛門が運び賃五両を添えて非人に引き渡した。ところが、門前で妻の実家の家来が待ち受けていて、非人に十両を渡し、遺体を引き取った。非人たちは思わぬ二重取りに喜び、「大井新右衛門さまのおかげで、とんだもうかったぞ」と、おもしろおかしく吹聴してまわった。
翌年の一月十七日、新右衛門は乱心して、自殺した。  
密通
巣鴨のあたりに、微禄の御家人が住んでいた。その妻が盲人と密通した。これを知った御家人は外聞をはばかり、密通のことは世間には伏せて、妻を離縁した。
妻を離縁したものの、その年に生まれたばかりの乳飲み子がいる。御家人は赤ん坊を養いかね、苦境におちいった。そんなおりもおり、離縁した妻がくだんの盲人と夫婦になり、谷中の長明寺門前で安楽に暮らしているという噂が聞こえてきた。憤激した御家人は天保五年(1834)七月十三日の夜、谷中におもむき、口実をつけて元の妻を家の外に呼び出した。玄関から出てきたところを刀で斬りつけ、手足を切断した。物音を聞きつけ、「どうしたのじゃ」と、盲人の夫が玄関から外に出てくる。これも、斬り殺してしまった。  
妻の首
天保十年(1839)八月三日の朝、小日向あたりの神田上水に首のない女の死体が浮かんでいるのが見つかり、大騒ぎになった。神田上水は井之頭池を水源とする水源で、江戸市中にはいってからは地中に埋めた暗渠で各地に給水されていた。江戸市民の飲み水に死体が浮かんでいたことになる。首がないため、死体の身元はわからなかった。
大御番組に属する御家人の今井駒次郎は牛天神下の、神田上水のほとりに建ち並ぶ組屋敷のひとつに住んでいた。たまたま近所の者が、駒次郎が血のついた畳を洗って干しているのを見て、不審をいだいた。五日の夕方、駒次郎は牛天神下の酒屋の前で召し取られ、六日、小伝馬町の牢屋の揚屋に収監された。九日、駒次郎は牢死したが、そのとき、四十九歳だった。死体は、駒次郎の妻のおとわ、四十三歳と判明した。牢死する前に駒次郎が自供したため、殺人の動機や犯行の詳細がわかった。
おとははもともと、同じく幕臣の伊東藤次郎の妻で、十八と十五になる娘までいたが、今井駒次郎と密通していた。妻の不倫を知った藤次郎は、外聞をはばかって表沙汰にはせず、別な理由をつけておとはを離縁した。穏便な処置をしたのである。それをよいことに、駒次郎は離縁されたおとはを堂々と妻に迎えた。おとはは嫉妬深かった。しかも癇癪もちで、いったんカッとなるとあとさきを考えずに暴言を吐き、荒れ狂う。そういう激しい性格は不倫の関係のときこそ一種の刺激になったが、いったん夫婦になると、駒次郎にはしだいにうとましく感じられるようになった。
八月二日の夜、外出していた駒次郎は、土産に鰻の蒲焼を買って帰った。このところ夫婦仲がしっくりしていなかったため、せめておとはの機嫌をとろうとしたのである。
さっそく、夫婦で鰻を夜食にしたが、食べている途中で、おとはは急に腹痛を覚えた。
おとはの顔色が変わった。「さては、おまえさん、鰻のなかに毒を仕込んだね」「馬鹿なことを言うな」 おとはの目は釣りあがり、異様な光を放っていた。「ほかに女ができたのだろう。あたしが邪魔になったので殺し、あとにその女を引き入れるつもりに違いない」などと、甲高い声で言いつのる。駒次郎はことばをつくしてなだめたが、興奮しているおとはいっさい聞き入れない。ひたすら、夫を詰り続ける。ついに、駒次郎も離縁を決意した。
「三百両のたくわえがある。半分の百五十両を渡すから、別れようではないか」「三百両全部渡しな。そうすれば、別れてもよいよ。あたいしはね、おまえさんのお陰で人生を棒に振ったんだよ」 おとはは半額では納得せずに全額を要求し、罵詈罵倒を続けた。駒次郎はカッとなって、腰に差していた脇差を抜くや、妻の喉を刺した。
おとはは、「きゃっ」と、ひと声叫んだだけで、そのまま絶命した。あとは、ゆっくり刃を頸に押しあて、首を切断した。死体は遠くには運べないため、菰で簀巻きにしてかつぎ出し、屋敷近くの神田上水に投げ込んだ。また、首は、中橋の上から江戸川(神田川の大洗堰から船河原橋までの区間の俗称)に放り込んだというものだった。  
鰹節
諸大名は国許の名産品、特産品などを将軍家に献上するのがならわしになっていた。念には念を入れて品質管理をおこない、極上品を献上する。
土佐藩山内家は毎年、鰹節(土佐節)を将軍家に献上していた。宝暦七年(1757)、土佐藩は例年通り鰹節を献上した。しばらくして、御賄方の役人が料理に鰹節を使うため箱をあけてみると、あちこちに虫がわき、食われて粉になっていた。
御賄方の役人は老中や若年寄にこのことを報告した。これを聞き、老中の堀田相模守正亮が怒り、「山内の献上、もってのほかの粗末千万。山内の留守居役を即刻呼び出せ」と、命じた。
土佐藩の留守居役仙石八右衛門が江戸城に出頭した。
堀田は箱ごと鰹節を示し、「これを見よ。献上の鰹節は言語道断の粗末である。みな虫食いで、粉になっておるではないか。これはいかなることか」と、苦々しげに言った。
仙石は顔色ひとつ変えず、「ごもっとものお叱りのようではございますが、この虫食いで粉になった鰹節はことしの献上品ではございません。ことしの献上鰹節がこのようになるなど、ありえません。数年前の献上品と思われます」と、堂々と反論した。
「山内の使者ははなはだ無礼である。御賄方が先年献上された品を今ごろ取り出し、難題を吹っかけておるとでも申すつもりか」 堀田は立腹し、畳をたたいてなじった。
仙石は少しも騒がず、「わたくしどもが毎年献上する鰹節の箱は二重底にいたし、下の箱に年号月日と改印を押してございます。では、ことし献上の品か、先年献上の品か、おたしかめください」と言うや、みずから箱の底をはずした。
すると、下の箱に宝暦五年という年号が書かれ、改印も押されていた。それを見て、老中も若年寄もグウの音も出ない。仙石は面目をほどこし、悠々と退出した。  
枝ぶり
十一代将軍家斉がまだ若いころ、石の上に牡丹を根付かせた盆栽を献上された。
多くの枝から数十もの花が開き、見事な出来栄えだった。
家斉はことのほか気に入り、毎日、身近な場所に置いて、牡丹の花を賞玩していた。
ある日の朝、座敷の掃除していた者がうっかりして、牡丹の枝を一本、折ってしまった。
「あっ、大変なことをしてしまった」 男は真っ青になった。
同輩も集まってきて、みな呆然としている。
そのとき、家斉が奥から現われた。
もう、折れた枝を隠すこともできない。
みなは折れた枝のそばで、「ははっ」と、平伏した。
家斉は枝が折れて落ちているのに気づいた。
「ああ、この枝が折れて、だいぶ枝ぶりがよくなったな」
その後、掃除役の者たちは、「生まれて以来、あれほど身に徹してありがたきことは覚えず」と、語り合ったという。  
落し物
文化四年(1807)の夏のこと。幕臣鍋島十之助の家来に、川島という小柄な男がいた。
川島は数人と連れ立ち、浅草に遊びに行った。浅草寺を参詣したあと、並木町の茶屋にあがり、酒を呑んだ。
便所に行ったところ、穴の上に踏み板をふたつ渡しただけの簡易なものだった。うっかりして、ふところに入れていた財布を便壺のなかに落としてしまった。
財布には南鐐二朱銀七片と印形も入っている。竹竿などを使って取り出そうとしたが、うまくいかない。
ついに川島は着物を脱ぎ捨てて真っ裸になり、便壺のなかにはいって、足の先で底をさぐった。
たまたま、女が数人連れで茶屋にあがった。
ひとりが小用のため、便所に行った。まさか便壺のなかに人がいるとは知らず、着物をまくる。
すると、下に人の手があった。
「きゃー」女は叫んで気絶し、もろに便壺に落ちてしまった。
茶屋は大騒ぎになった。大勢が駆けつけて川島と女を便壺から引き上げ、水をかけて全身を洗い清めた。  
試斬り
水戸黄門として知られる水戸藩の二代藩主徳川光圀は江戸で生まれ育った。
光圀が若かりし日のことである。あるとき、知り合いの武士と連れ立って外出し、帰りはとっぷり日が暮れてしまった。歩き疲れ、浅草あたりの堂でひと休みしているとき、連れの武士が言った。
「この堂の床下に非人どもが寝ているようです。引っ張り出して、刀の試し斬りをしてはいかがですか」「つまらないことを言うものではない。罪もない者を斬ることなどできぬ。それに、非人のなかにも手ごわい者がいるかもしれぬ。どんな反撃を受けるかもしれぬではないか。第一、どうやって床下から引っ張り出すのか。無用なことじゃ」「臆したのでございますかな」 連れの武士が笑った。
そこまで言われては、若い光圀はあとには引けない。
「では、やむを得ませぬな」 光圀は床下にもぐりこむと、四つんばいになって暗闇の中を進み、手さぐりで非人をつかまえようとした。床下には四、五人の非人が寝ていが、すでにふたりの話は聞こえていた。みな奥へ奥へと逃げる。
「あたしらも命は惜しいのです。お武家さま、無慈悲なことはやめてください」「みどもも無慈悲な振る舞いとは思うが、仕方がないのじゃ。前世の因縁と思ってあきらめてくれ」 そう言いながら、光圀はひとりの非人をつかまえ、外に引っ張り出した。腰の刀を抜いて非人を斬り殺したあと、光圀はしみじみと連れの武士に言った。
「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんなお人とは知らずにこれまで付き合ってきたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかりますまい」 それまで親しく付き合ってきた武士と、その日を境に光圀は絶交した。  
若い者
小川町のあたりに大身の旗本が住んでいたが、当主が早世し、後継の男子もなかった。このままではお家断絶になってしまう。
親族が集まって養子を協議したが、親戚のなかに適当な男子はいない。ようやく、
「本所の某はどうだろうか」
という案が出た。
小身の旗本だが、かろうじて遠縁にあたる。
ほかに名案はないため、某に要請することになった。
使者が本所に出向いたが、某は放蕩者で屋敷も他人に譲り渡し、すでに行方知れずになっていた。
その後、八方手をつくしてさがしたところ、上野の山下あたりの町家に住んでいることがわかった。
旗本の家来が訪ねていくと、そこは女郎屋だった。
そこで一計を案じ、女郎買いをよそおって何度か、その女郎屋にあがった。
それとなく奉公人を観察すると、法被を着て竈で火をおこしている若い者の面差しが子供のころの某とよく似ている。
「ははん、あの男だな」
家来は察したが、そ知らぬふりをして、なおも女郎買いを続けた。
気前よく祝儀をはずむため、家来は上客として歓待されるようになった。某にもしばしば料理の出前を頼むなどして、そのたびに祝儀をあたえた。
ころあいはよしと見て、ある日、家来は女郎屋の入口で、
「ちと、用がある。某を呼んでくれぬか」
と、呼び出した。
日ごろの上客であることから、某はなんの疑いも持たずに付いてくる。
女郎屋からおびき出しておいて、ひそんでいた数人で某を駕籠のなかに押し込めた。駕籠の上から縄で十重二十重にしばり、出れないようにしておいてから、小川町の屋敷に連れて行った。
その後、幕府に養子願いを出し、家督相続が認められた。
女郎屋では某が急に姿を消し、それまで足繁くかよってきていた武士もぱたりと顔を見せなくなり、不審だったが、どうしようもない。そのまま、年月が過ぎた。
四、五年後、女郎屋の楼主は小川町の旗本屋敷から呼び出しを受けた。
いったいなにごとかと、楼主は恐る恐る出頭した。
用人が現われ、言った。
「このほど、屋敷内に家来用の長屋を新築することになった。主人がおおせられるに、普請はそのほうに任せよとのことである。よって、そのほうに申しつける」
「あたくしは普請のことなどなにも存じません」
「出入りの大工がおる。実際の仕事はその者に任せればよい」
こうして、わけがわからないまま、楼主は普請の元請を命じられた。
実務は大工の棟梁に任せ、自分は元請の割り前だけもらうという、おいしい仕事である。楼主は思わぬ大金を手にすることができた。
長屋が無事に完成したことから、その功労によって、楼主は屋敷に出入りすることを許された。
屋敷に出入りするようになって二、三年後、楼主は旗本家の当主と対面を許された。
顔を見ると、なんと、当主はかつて若い者として働いていた某だった。
某はかつての恩に報いるため、また対面できるようにするため、長屋の普請を楼主に任せたのだった。 
賭場荒し
天保四年(1833)のこと。旗本小林家の次男金弥は、知り合いの町人の子供の粂次郎を供に連れてしばしば出歩いていた。
芝の切通しや愛宕下の物陰で、無宿人たちが地面に茣蓙を敷き、博奕をしていた。これを見て、金弥は一計を案じた。
役人をよそおい、「きさまら、なにをしておるか。神妙にせよ」と、怒鳴りつけながら踏み込んでいった。
博奕をしていた連中は泡を食って、一散に逃げ出す。茣蓙の上には金が散らばっていた。
「金を拾い集めよ」 金弥は粂次郎に散らばった金を拾わせ、飲み食いに使った。
すっかり味をしめて、金弥は役人に成りすまして博奕の現場に踏み込み、みなが逃げ去ったあと、金を粂次郎に拾い集めさせることを繰り返した。
あるとき、金弥が踏み込んできた。みなはいったんは逃げたが、松五郎と仁三郎という無宿人が言った。「どうも怪しいぜ」「よし、つけよう」 ふたりは金弥と粂次郎のあとをつけ始めた。これには金弥も困った。こうなると、役人を演じ続けなければならない。
「きさまら、不逞なやつじゃ」 金弥は松五郎と仁三郎を近くの自身番に連れ込んだ。
自身番に詰めていた町役人に向かい、「拙者は御書院番大屋新五左衛門の家来じゃ。主命で使者の途中である。この者らは博奕をしていた不届き者じゃ」と、ふたりを自身番にあずけようとした。ところが、町役人は断わった。
「縄のかかっていない罪人をあずかるわけにはまいりません」 スキを見て、仁三郎は走って逃げてしまった。やむなく、松五郎を縄で縛り、自身番にあずけた。
町奉行所の同心が自身番に見回りにきて、金弥がにせ役人だったことが発覚した。小林金弥は召し捕られ、旗本の次男にあるまじき不行跡として、重追放になった。  
輪姦
旗本で西丸書院番の八木鍬太郎の屋敷は駒込にあった。旗本の身分にもかかわらず、八木の娘の文は三味線の師匠として弟子を取っていた。お文を目あてに屋敷には若い男がつめかけ、弟子との浮名も絶えなかった。そんな男のひとりに、新御番の旗本堀江家の息子の幡三郎がいた。
嘉永元年(1848)、やはり旗本の息子とお文の婚儀がととのい、十一月十日に婚礼と決まった。
お文の婚礼を聞いて、おさまらないのが幡三郎である。
「俺になんの相談もなく、ほかの男に嫁入りするとは。許せぬ。婚姻をぶちこわしてにしてくれるわ」
友人四人に相談を持ちかけ、その日を待ち受けた。
このとき、お文は十九歳、幡三郎は二十九歳である。
婚礼の日、お文を乗せた駕籠が駒込の八木家の屋敷を出て、先方の屋敷に向かう。
途中で、待ち伏せしていた幡三郎ら五人が飛び出した。
「待て、待て、その駕籠、やらぬぞ。抵抗する者は斬る」 駕籠の人足や供の者はみな逃げ出してしまった。道に駕籠が取り残される。幡三郎が駕籠の戸を蹴破った。お文が逃げようとするところを捕らえ、着ていた婚礼の衣装を引き裂いてしまった。みなで物陰に連れて行き、輪姦した。
知らせを受けて、八木家から人々が駆けつけてきた。
お文は八木家の屋敷に連れ戻され、首謀者の堀江幡三郎は別な旗本家に身柄をあずけられた。
その後、八木家と堀江家のあいだで話し合いが持たれた。翌嘉永二年三月十五日、処分が下され、お文の父の八木鍬太郎と、幡三郎の父の堀江新三郎は「御番不相応ニ付、小普請入、差扣」を申し渡された。  
 
大名・武士

 

基準
仙台藩の三代藩主伊達綱宗が少人数の供を連れただけで、領内の見回りをしていたときのこと。
武家屋敷の前にさしかかると、ふたりの武士が屋敷内の柿の木に登って、柿をもいでいるところだった。
ふたりは綱宗が屋敷の外を通行するのを見て、驚いた。高いところから主君を見おろすなど非礼である。
ひとりはあわてて木の枝から飛び降りたが、転倒して頭を打ち、気絶してしまった。
もうひとりは木の上でうずくまり、頭をたれた。
綱宗は家臣に命じて、ふたりの姓名を調べさせた。
「樹上に拝礼したる者は覚悟よし。飛び降りて気絶せし者は不覚者なり」
木の上で頭をさげた藩士は近習役に取り立てられ、飛び降りた者は禄を召し上げられ、追放された。  
綱紀粛正
松平定信は八代将軍吉宗の孫にあたる。陸奥白河(福島県白河市)藩松平家に養子に行き、白河藩の三代藩主となった。
定信は藩主につくや、家中に号令を発した。
「きたる〇日、藩士の家族をひとり残らず登城させよ。謁見する」 これを聞き、藩士たちはひそかに噂した。
「家中の者の家族を謁見すると称して、実際は娘をご覧になりたいのであろう。側室をお求めになっているに違いない」
そこで、藩士の多くは伝来の甲冑などを売り払い、娘の着物を新調し、櫛や簪などを買い求めた。
当日、白河藩士の娘たちはいずれも美々しく着飾り、定信の前にまかり出た。
その日のお目見えは無事にすんだ。
翌日、またもや定信が号令を発した。
「家中の者は全員、甲冑を着用して登城せよ」 さあ、あわてふためいたのが藩士たちである。
なかでも、家老のひとりは自分の軽率を恥じ、その夜、切腹して果てた。
以後、それまで華美に流れていた白河藩の士風はあらたまったという。 
手籠
井上河内守正甫は、遠江浜松(静岡県浜松市)藩の藩主である。
文化十三(1816)年九月、正甫は、内藤新宿にある信濃高遠(長野県高遠町)藩内藤家の中屋敷に招待された。
内藤家の中屋敷は、敷地がおよそ七万坪という広大さである。敷地内には農民も居住していて、田畑を作っていた。
屋敷内の茶屋で酒を呑み、いい気分になった正甫は供に近習の侍も連れず、ひとりで庭のなかをぶらぶらしていた。
歩いていると、農家があった。
正甫は縁側に腰をかけ、「ちと、煙草の火を所望じゃ」と、声をかけた。
女房が出てきて、あいにく火はないと答えた。
見ると、亭主は外出していて、家には女房ひとりだけの様子である。
酔っていたこともあって、正甫は女の手を握り、引き寄せようとした。女があらがう。
そこに、天秤棒で肥桶をかついで、亭主が戻ってきた。
様子を見るなり、亭主は、「おらの女房になにするだ」と、怒鳴りつけた。
正甫は動転し、腰の脇差を抜いて、「無礼者め。手討ちにしてくれるわ」と、斬りつける。
亭主も負けてはいない。
肥桶をおろすや、「この野郎め」と、天秤棒で殴りかかってきた。
正甫は刀、農民は天秤棒で渡り合う。
亭主が腕を二、三ヵ所、薄く切られたところに、主人をさがしていた家臣たちが血相変えて駆けつけてきた。
みなで正甫をとどめるとともに、懸命に亭主をなだめた。
その後、内藤家の仲介で、井上家が農民に一年につき十両三人扶持を生涯にわたって支給することで内済となった。
いちおう示談になっておさまったものの、こういう噂はすぐに世間に広まる。ついには幕府の知るところとなり、翌文化十四年、井上家は懲罰として、浜松から陸奥棚倉(福島県棚倉町)藩に転封となった。
殿様
筑後久留米(福岡県久留米市)藩有馬家の八代藩主頼貴は趣味人だった。藩の財政赤字などかえりみることなく、自分の趣味のためとあれば湯水のように金を使った。
ある人が備前(岡山県)に旅したとき、備前焼を売る店に差し渡しがもある巨大な擂鉢があった。
驚いて尋ねた。
「これは、いったい何に用いるものですか」「有馬のお殿さまが、国許の別荘の手水鉢にするとかでご注文になったものです。あたくしどもでは百三十両で請け合い、職人にこしらえさせたのですが、あまりに大きいため土が反り返り、七個まで失敗してしまいました。おかげで、百三十両で請け合ったものの、大損でございます。これは念のため余分に作った一個でございます。これほど大きくては、ほかに使いようがなく、いまでは三十貫でも売り払いたい気持ちでございます」
焼物屋の主人は歎いた。
頼貴が気まぐれで注文したものだった。
たかが手を洗う手水鉢に百三十両も浪費したことになる。
久留米藩の下屋敷は高輪にあった。
江戸湾の海に面して朱の欄干などをもうけ、凝った造作だった。
ある暑い日、出入りの能役者の親子がご機嫌伺いに出向いた。
親子が来たのを知ると、頼貴は、「苦しゅうない。通すがよい」と、気さくに目通りを許した。
案内された座敷には、布団がうず高く積み上げられていた。
頼貴は真っ赤なふんどしひとつを身につけただけの真っ裸で、積みあげた布団の頂上に悠然と座っている。
布団の両横には、黒蒔絵をほどこした梯子がふたつかけてあった。薄い絽の帷子一枚を身につけただけの女中ふたりが、その梯子をのぼって頼貴に茶を届けたりしていた。
能役者親子はあっけにとられたが、ともかく布団の下で平伏し、「暑中お見舞いにまかり越しました」と、挨拶を述べた。
積みあげた布団の上から親子を見おろし、頼貴は上機嫌である。
「おお、大儀である。きょうは、ことのほか暑いのう。ゆるりと休息していくがよいぞ。ところで、女どもの内股は下から見えたか」
ふたりは返答のしようがなかった。 
焼餅
仙台藩の五代藩主の伊達吉村は鋭い味覚の持主だった。
側近が茶を出すと、ひと口飲んだだけで、「この水は、どこそこの井戸で汲んだな」と、江戸藩邸内にいくつかある井戸のなかから、水を汲んだ井戸をずばりとあてた。
聖坂に焼餅を商う老人がいた。
外出時、吉村はこの老人に目をとめた。藩邸に戻ってから、家臣に命じた。
「聖坂の焼餅屋の爺ぃに餅を焼かせよ」
そこで、さっそく藩邸の台所で餅をついた。
家臣が餅を焼餅屋に持ち込み、「焼いてくれ」と、老人に命じた。
焼きあがった餅を藩邸に持ち帰ると、吉村は賞味し、「うむ、よく焼けておる」と、満悦気だった。
老人には多額の褒美が渡された。
吉村は老人の焼き加減がことのほか気に入り、その後もしばしば、餅を焼かせた。
あるとき、吉村は焼いた餅を一目見て、「これは、爺ぃが焼いたものではあるまい」と、手もつけようとしない。
家臣があわてて焼餅屋に確かめに走った。
戻ってきて、報告した。
「あの爺ぃが焼いたことに相違ござりません。本人にたしかめてまいりました」「では、鍋が違っていたのであろう。元の鍋で焼かせよ」 ふたたび家臣が焼餅屋に走った。
「鍋を変えたか」「へい。元の鍋は小さくてはかがいかないため、かねがね大きな鍋がほしいと思っておったのですが、手が出ませんでした。お殿さまからご褒美をいただいたので、それでようやく大きな鍋を買うことができました」「元の小さな鍋はどうした」「通りかかった古金屋に売り払ったので、もうどこにあるかわかりません」 家臣が藩邸にもどって報告した。
吉村は、「鍋の具合が絶妙な焼き加減を作っておったのじゃ」と言い、その後は老人に餅を焼かせることはなかった。 
太夫
遊廓の吉原はもともと、元和四年(1618)に葺屋町にできた。現在の東京都中央区日本橋人形町のあたりである。およそ四十年を経た明暦三年(1657)、浅草の浅草寺の裏手にあたる千束村に移転し、昭和三十三年(1958)まで続いた。現在の東京都台東区千束である。葺屋町にあった吉原は元吉原、千束村に移った吉原は新吉原であるが、一般に吉原と言うときは新吉原のことを指している。
元吉原時代。寛永(1624-44)の初めのころである。西村屋という妓楼に、香久山という当時全盛の太夫がいた。ある日、藍の股引に藍の布子を着て草鞋ばき、手ぬぐいで頬被りをした三十四、五歳の男が西田屋にやってきた。天秤棒で荷をかついでいる。「こちらに香久山どのと申す高名なお女郎がいるというのは、おらが在所でも評判でしてな。たまたま近くまで来たものですから、立ち寄ってみました。どうか、ひと目だけでもお女郎を見物させていただけませんでしょうかな」 朝五ツ(午前8時)過ぎのことである。
元吉原では、揚屋という制度があった。
客はいったん揚屋にあがり、妓楼から遊女を呼び出し、遊ぶ。つまり、妓楼はあくまで遊女の生活の場であり、遊興の場は揚屋だった。男が西田屋に頼み込んでいるところに、ちょうど香久山が揚屋から戻ってきた。昨夜から、客に呼ばれて揚屋に泊まっていたのだ。
香久山は男の頼みが聞こえた。「ようこそお出でなされました。香久山とはわたくしのことでございます。遠方よりおいでになったのなら、さぞ喉も渇いていることでございましょう。なにか、お召し上がりになりませぬか」「いえ、なにも食べたくはありませんが、酒を一杯、飲ませていただけませぬか」 男は図々しかった。
香久山はいやな顔もせず、下女に命じて酒の用意をさせる。「せっかくなら、しっかり燗をした酒を呑みたいものです」と言うや、男は自分の荷物から数本の薪を抜き取った。草鞋を脱いであがりこむと、囲炉裏に持参した薪をくべ、酒の燗をした。香久山が燗のできた酒を茶碗にそそぎ、男に渡す。男は飲み干すや、「慮外申します」と、返杯した。
これを、香久山が受け取って飲み干して、ふたたび男に返した。男は二杯の酒を飲み干すや、「大事のお女郎を見物して、酒までいただき、かたじけのうござった」と礼を述べ、草鞋をはくや、荷物をかついで帰っていった。
男が去ったあと、囲炉裏のあたりからえもいわれぬよい香りがただよい出した。西田屋から流れ出す香りは、元吉原のすべてに届いたほどだった。男が囲炉裏にくべた薪のなかに、香木の伽羅が二本、含まれていたのだ。これに気づいた西田屋の女房があわてて伽羅を取り出し、火を消して秘蔵した。
半年ほどして、香久山は富裕な町人に身請けされた。表向きは町人だが、実際に身請けしたのはある大名だったという。大名は百姓姿に身をやつして、香久山の人柄をたしかめにきたのだ。 
宴席
天明七年(1787)一月、三千石の旗本、水上美濃守正信は登城したおり、先輩格の小堀河内守政弘(三千石)から、「芸者寄合」をするよう命じられた。
芸者寄合とは、芸者付きの宴会である。
水上は西丸書院番頭に昇進したばかりだった。
小堀は、昇進したばかりの水上に、自分ら先輩七名を芸者寄合で接待するよう強要したのである。また、料理は神田佐柄木町の山藤という料理屋であつらえることも命じた。
慣例ということなので、水上もやむを得なかった。
さて、当日の一月十七日の八ツ(午後2時)、三番町にある水上の屋敷に山藤の料理人や下働きの者など合わせて七、八人が食材を持って訪れ、台所を借りて準備を始めた。
ところが、青山あたりで火事が発生し、風向きしだいでは三番町あたりにも延焼しそうな成り行きである。水上の屋敷でも避難の準備をするほどだったが、ほどなく鎮火したため、いったんは中止しようかと思った宴会の準備を再開した。
七ツ(午後4時)、芸者五人が駕籠にのり、付添の者四人を従え、屋敷にやって来た。駕籠かき人足十人と合わせて、総勢十九人である。人足には食事を出して駕籠一丁に付き七百文、また芸者も四ツ(午後10時)を過ぎたらひとりに付き座敷料を一分二朱ずつ申し受けるというものだった。
この芸者の手配は、先輩の能勢筑前守頼直(四千八百石)の指図である。水上にとっては大変な物入りであるが、やむを得なかった。
さて、芸者の到着からしばらくして、三枝土佐守守義(七千五百石)が羽織袴姿でやって来た。続いて、内藤安芸守政範(五千七百石)が同様ないでたちで現われた。
接待役の水上は律儀な継裃姿で、「先刻より芸者も来ておりますれば、どうぞこちらへ」と、宴会の座敷に案内した。
しばらくして、小笠原播磨守宗準(四千五百石)と能勢が継裃姿で現われた。
ところが、残りの小堀、酒井紀伊守忠聴(七千石)、大久保大和守忠元(六千石)がなかなか来ない。
水上がじりじりしていると、小堀から使いが来て、「貴殿の屋敷は、火元の風下にあたっているようだ。宴会は延引になったのか。他の者はどうしておるか」という問い合わせである。
水上はあわてて、予定通りであると答えた。
だが、六ツ半(午後7時)になっても小堀らは現われない。すでに席に着いている三枝、内藤、小笠原、内藤はぶつぶつ文句を言い出す。あせった水上は、小堀の屋敷に迎えの者を走らせた。
しばらくして、ようやく小堀が火事羽織の姿で到着し、続いて酒井と大久保もやってきた。
これで七名がそろい、水上もほっとした。
まずは水上が挨拶をして、宴会が始まる。芸者も五人いることから、にぎやかな酒宴となるはずだった。
突然、大久保が小さな重箱に入れて持参した餅菓子を取り出し、箸ではさんんで、「これを差し上げよう」と、水上に突きつけた。
「いまは、酒を呑んでおりますほどに、後ほどいただきましょう」水上は、受け取った餅菓子をわきに置いた。
途端に、大久保が声を荒らげた。
「粟饅頭を持参したわけではござらぬぞ」そのころ、浅草あたりで粟饅頭に毒をもって人に贈った事件があり、話題になっていたのだ。
大久保は手でその餅菓子をつかむや、そばにいた芸者に投げつけた。
これをきっかけに、他の者たちもいっせいに悪口雑言を吐き始めた。
大久保は、「この酒には醤油が入っておるのか」小堀は、「こんな水っぽい酒が呑めるか。拙者の屋敷から取り寄せる」と、言いたい放題である。
そのうち七名は総立ちになるや、宴席に出されている膳、皿や椀、鉢などを次々と投げつけ、打ち壊し、踏みつけた。
接待役の水上はひたすら低姿勢でなだめようとしたが、その低姿勢がかえって火に油をそそぐ結果となった。乱暴が乱暴を呼び、歯止めがきかなくなる。
飾りつけに出されていた絵皿も叩き割り、鳥籠の鳥も逃がしてしまい、家財道具を次々と庭に放り投げた。
大久保は、水上の脇差の柄に味噌汁をぶっかけた。
大久保、能勢、三枝、内藤は障子を残らず破ってしまい、火鉢の火を撒き散らして畳を焦がした。
ついには、三枝は茶碗に放尿し、その後は茶室に入り込んで小便をたれまわった。
大久保にいたっては座敷の真ん中で着物をまくって、「うーん」と力むや、なんと飯椀へ脱糞した。
その大久保の大便を、三枝と小笠原が箸ではさみ、座敷のなかのあちこちにまき散らした。
こうしてさんざん荒れ狂ったあげく、大久保は九ツ半(午前1時)、ようやく帰っていった。
小堀、能勢、三枝は、「これから吉原へまいる。駕籠を呼べ。ご貴殿も付き合え」と言い出したが、水上は、「あすは、所用がござるので」と、ひたすら断わった。
そのため、さんざん罵倒しながらも、吉原に行くことは沙汰やみになり、残りの六人も帰っていった。
七人が引き上げたあと、水上の屋敷は惨憺たるありさまである。呼ばれていた芸者や山藤の料理人たちも、ただ呆然としているだけだった。
さすがに、この事件は公になり、小堀と大久保は御役御免の上、差控(免職と自宅謹慎)、酒井、内藤、能勢、三枝、小笠原、それに接待役の水上にも差控、が言い渡された。
七名がこれほどまでに乱暴狼藉を働いた背景には、水上への反発があったようだ。昇進した水上が「拙者の組では賄賂などはけっして認めない」などと発言しているのを聞き、古参の連中が示し合わせ、「生意気なやつめ。ひとつ、懲らしめてやろう」と計画したのだという。 
乱心
文化十四年(1817)九月九日、志摩鳥羽(三重県鳥羽市)藩の藩主稲垣長続の嫡子が江戸城から下がり、麹町にある上屋敷に戻ってくるや、突然刀を抜いて正室に斬りつけた。
止めようとする女中ふたりにも斬りつけて傷を負わせたあと、庭に飛び出し、門を抜けてそのまま走り去った。
鳥羽藩邸では上を下への大騒ぎとなった。ともかく、嫡子の身柄を早急に確保しなければならない。多くの藩士が追っ手に駆り出され、必死になってその行方を追った。三日後、嫡子は両国橋の下でサツマイモを食べているところを発見された。数名がかりで取り押さえ、屋敷に連れ戻した。まったくの乱心であろうという評判だった。
なお、嫡子の正室は、肥前平戸(長崎県平戸市)藩松浦家の藩主の娘だった。事件後、数日間というもの、平戸藩邸からは娘の安否や、怪我の具合を問い合わせる使いが昼夜を問わず、ひっきりなしに鳥羽藩邸に訪れたという。 
御殿山
嘉永二年(1849)の三月十七日のことである。朝のうちは曇っていたが、やがて雲は消えて快晴となった。晴天にさそわれるかのように桜の名所には花見客がどっと繰り出し、品川の御殿山も群集でごった返していた。
三田に伊予松山(愛媛県松山市)藩松平家の中屋敷があった。中屋敷に住む足軽十八人が連れ立って御殿山に花見に出かけることになったが、普通の花見ではつまらない。そのころ、疱瘡(天然痘)が流行して、江戸では子供の葬礼が多かった。「子供の葬送という趣向にしようじゃないか」「それはおもしろい」と、衆議一決する。子供用の早桶(棺桶)を買い求めてきた。早桶に弁当を詰め、棒でかつぐ。鮪の刺身を詰めた焙烙を棒の先にぶらさげた。おからを煎じたものを焙烙にふりかけ、抹香のように見せかけた。さらに、赤土を竹の川に包み、こわ飯に見せかけた。
足軽たちが早桶をかついで御殿山に繰り込むと、女子供は怖がり、息をひそめている。みな、おもしろくてたまらない。たまたま、「み」組の鳶の者五、六人が桜の下で酒盛りをしていた。調子に乗った足軽たちはそこに乗り込み、竹の皮に包んだ赤土を差し出した。酒がはいっていたこともあり、鳶の者は激怒し、「てめえ、酒の邪魔をしやがる気か」と、赤土を包んだ竹の皮を足軽の顔面にたたきつけた。足軽は最下級の武士であるが、武士であることに違いはない。町人に顔を殴られ、こちらも激怒する。足軽が腰に差した脇差を抜こうとするところ、鳶の者が飛びかかり、鞘ごと奪ってしまった。そして、鞘のまま殴りつける。鞘が割れて、足軽は怪我をした。もう、あとは入り乱れての大喧嘩である。
鳶のひとりが品川宿に走った。たまたま品川宿は火事のあとで、再建の最中であり、多くの鳶の者が集結していた。知らせを聞くや、「なにぃ、侍と喧嘩だとぉ」と、み組とめ組の鳶の者はいきり立った。加勢をするため仕事は放り出し、大勢が御殿山に駆けつける。人数が増えたため、鳶の者のほうが優勢になった。十八人の足軽をみなぶちのめしてしまった。
騒動の知らせを受け、あわてたのが松山藩の重臣である。留守居役三人が相談し、とにかく事件をもみ消すことに決めた。三人が奔走して各所に金を出し、すべて内分におさめた。喧嘩相手の鳶の者にも怪我の治療費として金を渡し、内済にした。
怪我をした足軽は怪我のし損である。十八人のうち、十三人は松山藩から追放された。三人は国許に帰国を命じられ、ふたりは叱責されて終わった。 
小姓
儒学者の亀田鵬斎は、五千石の旗本の屋敷に招かれ、しばしば講義をしていた。
あるとき、講義を終えたあと、酒が出された。酒好きの鵬斎はつい呑みすぎ、酔っ払ってしまった。その様子を見て、旗本は家来に命じた。「先生にお泊りいただくように」 寝所に案内され、寝床にはいりながら、鵬斎は世話を焼く小姓に、「若い衆、若い衆、取っておけ」と呼びかけ、金二分を渡した。酩酊した鵬斎は、吉原のつもりになっていた。しばしば吉原で遊んでいたのだ。
翌朝、目が覚めた鵬斎は、旗本の屋敷であることに気づいた。「えっ、なにか失礼をしなかっただろうか」 さすがに不安になった。
用人が現われた。「昨夜、先生は小姓の者に花をたまわったようでございますが、なにかのお間違いかと存じますので、お返しいたします」二分金を差し出した。鵬斎は赤面し、冷や汗をかいた。
その後、鵬斎は人に語った。「わしは平生、物事にはあまり頓着しないほうですが、このときくらい恥ずかしかったことはありませんぞ」 
謙虚
武蔵金沢(神奈川県横浜市金沢区)藩米倉家の上屋敷は牛込御門内にあった。
金沢藩の剣術師範はすでに六十に近い年齢だったが、師範としての期間が長いだけに、藩主もかつて教えを受けたし、藩士の大半も門弟だった。人柄も温厚で、藩主の信頼も篤かった。
あるとき、藩邸内で若い藩士の寄合があり、やがて宴会となった。その席に、剣術師範も顔を出した。藩士のほとんどにとっては先生であるため、みな敬意を払って師範を上座に据えた。その席に、弥平太という男がいた。三十歳前後で、筋骨たくましい体つきをしている。剣術は強いという評判だったが、藩の師範の門弟ではなかった。酒を呑むと大言壮語し、罵詈雑言を吐く癖があった。
みなは弥平太の酒癖のよくないことを知っているため、適当にあしらって相手にしない。たまたま、みなが師範に敬意を払っているのを見て、弥平太が絡み始めた。
「剣術で拙者にかなう者はこの中におるまい。師範といえども、拙者にはかなうまい」と、言いたい放題である。師範は顔色ひとつ変えずに、軽く聞き流している。
弥平太のあまりの暴言に、藩士たちのほうが怒り、「自分の技量を誇る人間ほど実際はたいしたことはなく、謙虚な人ほど本当は実力があるというのが世の常じゃ」「そんなに高慢を言うのなら、先生と試合をしてみてはどうか」「先生、試合をして、弥平太めを懲らしめてやってください」と、口々に試合をけしかけた。
師範は固辞する。「わしも若いときこそ、人並みの腕があったが、いまでは老いぼれてしまい、とても試合などできぬ。ご勘弁願いたい」 たしかに、師範は体格こそよかったが、すでに高齢のため筋肉も落ちて手足は細く、背中もやや曲がっていた。
弥平太は図に乗り、「そうであろうよ。ご貴殿もせめて二十歳若ければ、拙者と互角に立ち合えたかもしれぬがな」と、毒づいた。
師範はおだやかに苦笑している。
だが、その謙虚な態度こそ真の実力を物語っているかのようで、頼もしく感じられる。
藩士のひとりがたまりかね、飛び出して行くや、やがて二本の竹刀を持って戻ってきた。
「弥平太の悪口雑言はもはや聞き捨てなりませぬ。先生、試合をして、打ちのめしてやってください」ほかの藩士も、口々に試合をするよう迫った。
弥平太は、「望むところじゃ」と、うそぶいている。
ここにいたり、「では、やむを得ませぬな。年寄りが好んで勝負をするわけではありませんぞ。やむを得ず、勝負をするのです」と、師範も竹刀を手に取った。
その言辞も態度も、あくまで謙虚である。
みなは師範の勝利を確信した。
弥平太は成り行きに後悔するどころか、「では、どちらが強いか見せてやろう」と、せせら笑っている。
ふたりは竹刀を持って、庭に出た。
みなが固唾を呑んで見守る中、防具をつけない、竹刀による試合が始まった。
最初のうちこそ、「やあ」、「おう」と気合を発して、互角に撃ち合っていたが、そのうち師範の息が荒くなり、足が乱れ始めた。いまや師範は、体重と腕力でまさる弥平太の激しい撃ち込みを受けるのが精一杯だった。
師範の劣勢を見極め、「とぉーッ」と、弥平太が思い切り撃ち込む。もはや、師範はかわすことができなかった。強烈な打撃が脳天に決まった。師範は「うーん」とうめいて転倒するや、そのまま失神してしまった。鼻血がたれていた。
この試合のことは藩主の耳にも届いた。藩主は藩邸内でみだりに私闘をしたとして、弥平太に謹慎を命じた。 
狂女
寛政七年(1795)の冬、豊前小倉(福岡県北九州市)藩小笠原家の藩邸で、ひとりの奥女中が忽然と姿を消した。その女は藩邸でも一、二を争う美人だった。屋敷の表門や裏門から外に出た形跡はない。屋敷内をいろいろさがしたが、その姿は見当たらなかった。
女の実家に問い合わせたが、戻った様子はなかった。「きっと、男に誘い出され、ひそかに駆落ちしたのであろう」 みなはそう噂した。
女が姿を消して二十日ほどたったころ。朋輩の奥女中が手水を使おうとしたところ、その手水鉢に下から白い手がのびてきて、貝殻で水をすくおうとしている。それを見た途端、「きゃー」と叫ぶや、奥女中はその場に気絶してしまった。
悲鳴を聞き、ほかの奥女中たちが駆けつけた。見ると、怪しい人影が縁の下にもぐりこもうとしている。大勢で寄ってたかって取り押さえた。なんと、行方不明になっている奥女中だった。「いったい、いままでどこにいたのですか」 みなで口々に尋ねたが、女は返事もしない。その後、飲み物などをあたえて落ち着かせ、質問すると、ポツリポツリと答え始めた。
「わたしはよきよすががあり、縁付きました。いまは夫のある身です」「どこに住んでいるのですか」 そう問うと、答は要領を得ない。手を変え品を変え尋ねると、女はようやく言った。「では、わたしの家にご案内しましょう」 縁の下にもぐりこんでいく。あとから、数人の奥女中が続いた。
かなり奥にはいり込んだところに茣蓙が敷いてあり、古びた茶碗などが置かれていた。これまで、屋敷の台所から食べ物を盗んでいたことをうかがわせた。「ここが、わたくしの住まいでございます」「では、夫は誰ですか」「かねて話した通りの男です」 そう答えるだけで、名前も言わない。
けっきょく、女は乱心しているに違いないとして、実家に連絡して親に引き取らせた。親は娘を医者に診せ、薬を飲ませるなどしたが、しばらくして死んでしまった。 
腰元殺し
深川の扇橋は、掘割の横川に架かる橋である。扇橋のそばに、常陸土浦(茨城県土浦市)藩土屋家の下屋敷があった。
弘化二年(1845)の八月上旬、下屋敷に奉公する女中のひとりが行方不明になったとして、その旨、神田花房町の女中の実家に連絡があった。その直後、扇橋に近い横川の川岸に女の死体が引っかかっているのが発見された。その衣類や髪型からして、武家屋敷に奉公する御殿女中である。江戸の人々は水死体は見て見ぬふりをするのが普通だが、武家屋敷の女中となると放ってはおけない。なまじ知らんぷりをしていると、あとでどんなお咎めを受けるかもしれない。
そこで、役所に報告が為され、武家地の事件ということから、目付が検使をおこなった。
当時、深川の下屋敷には、土浦藩の九代藩主で隠居の土屋彦直が住んでいた。そもそも彦直は、水戸藩徳川家に生まれた。土浦藩の八代藩主土屋寛直は実子がなかったことから、妹を養子にし、水戸徳川家から彦直を婿養子に迎えたのである。
こうして、婿養子の彦直が九代藩主となった。ところが、彦直は眼病を患って失明し、天保九年(1838)、四十一歳のときに藩主の座を実子に譲り、隠居した。以来、深川の下屋敷に住んでいたのだ。盲目となった彦直は、かいがいしく世話をしてくれる女中がいとしくなり、つい手をつけてしまった。ところが、彦直の正室は嫉妬深かった。自分は本来七代藩主の娘で、八代藩主の妹という自負と驕慢もある。正室が嫉妬に狂い、女中を殺して、横川に流させたのだという。 
無礼
押送舟は江戸湾で用いられた、小型快速の舟である。主として鮮魚を江戸の魚市場に運んだ。数名の船頭が櫓を漕ぎ、速さを競った。このため、船頭も気の荒い連中が多かった。
三千石の旗本・戸川隠岐守の屋敷は築地にあった。
文化十一年(1814)九月二十五日、天気は快晴だったことから、戸川隠岐守は家族や家来十数名とともに屋根舟二艘に分乗して、深川の地に行楽に出かけた。
夕暮れが迫り、屋根舟で隅田川を築地の屋敷に戻る。
サンマを積んだ押送舟がやって来た。五人の船頭が漕ぐ、五丁櫓という快速の押送舟である。
すれ違う拍子に、押送舟が立てた波がザンブと屋根舟にかかった。
戸川隠岐守の家臣が激怒した。
「無礼な。その舟、待て」 押送舟を呼び止めた。そして、無礼を働いた船頭を糾明するため、若い家臣ふたりが屋根舟からさっそうと押送舟に跳び移った。その拍子に、屋根舟が大きく傾く。なかにいた者たちがあわてて逃げ惑うため、ますます屋根舟は傾き、ついには転覆してしまった。
この事故で、戸川隠岐守の奥方、五歳の長男、三歳の次男、腰元などが死んだ。戸川隠岐守は救助されたが、四、五日後に死亡した。合わせて死者は八人に及んだ。 
乱心
江戸城の西丸大手門の警護を、出羽山形(山形県山形市)藩秋元家が受け持っていた。
文政十三年(1830)八月十三日、大手門警護の任についていた山形藩士の間瀬市右衛門は深夜、ひそかに寝床から抜け出すと、身支度をした。
黒い小袖を着て、襷をかけた。袴の股立ちを取り、手には馬上提灯を持つ。身支度をすませると、間瀬はあちこちにともされている明りを吹き消してまわった。その後、馬上提灯で照らしながら、藩士たちが眠っているところに忍び寄る。まず、蚊帳の釣緒を切った。蚊帳がバサリと、寝ている藩士の上にかぶさる。
それまで就寝していた藩士たちは、あたりは真っ暗だし、蚊帳が体にからんで身動きできない。周章狼狽しているところを、斎田源七郎や宇田川万蔵らが次々に斬られた。
戸部彦左衛門はからくも蚊帳から逃げ出し、上司で番頭の大沼角右衛門のところに注進に走った。動転しているため、帯も締めずに着物ははだけ、刀も持っていない。
大沼が叱った。「そのざまは、なんじゃ」上司に叱正され、戸部は自分の脇差を取りに戻った。そこを、間瀬に斬られてしまった。
足軽のひとりが駆けつけ、「何事でございますか」と、提灯の明りで照らそうとした。そこを斬りつけられ、手の指が落ちた。もう、大混乱である。
誰ひとり、間瀬を取り押さえようという者はいない。ただ、遠巻きにして、恐々と見守っているだけだった。
番頭の大沼は、呉服橋内にある山形藩の上屋敷に人を走らせ、小林猪野五郎に助けを求めた。小林は武術の達人だった。
夜が白々と明け始めたころ、小林が到着した。間瀬は水桶を盾にして、刀を構えている。小林は捕物道具の袖搦で相手の胸を突こうとしたが、刀で切り払われ、右手を負傷した。それでも、なおも踏み込み、間瀬を押さえこんだ。そこを、足軽のひとりが六尺棒で足を払った。
間瀬が倒れたのを見て、大勢がいっせいに駆け寄り、縄をかけた。このとき、小林も六尺棒で払われて一緒に倒れ、足を痛めた。
この騒動で、斎田源七郎、三十一歳、即死。宇田川万蔵、五十八歳、即死。戸部彦左衛門、四十一歳、即死。そのほか、負傷者多数が出た。
刃傷をおこした間瀬市右衛門の動機は不明だが、乱心で決着した。  
死体
相模小田原(神奈川県小田原市)藩大久保家の留守居役高月六左衛門はかなり高齢だった。安政四年(1857)九月十六日、諸藩の留守居の会合があり、高月も出席してかなり酒を呑んだ。帰る段になって、高月が酩酊しており足元もおぼつかないのを見て、ほかの者が口々に言った。「駕籠を呼びますから、しばらくお待ちなさい」「これしきの酒で酔うようなわしではありませんぞ。ぶらぶら歩いていれば、そのうち酔いはさめます」 高月はひとりで歩きだした。
たまたま左官が土をこねているそばを通りかかった。酔った高月が体をぐらつかせたはずみに、腰に差していた脇差が鞘走り、刀が地面に落ちてしまった。あわてて拾おうとして体をかがめた途端、こねていた粘土に足をすべらせ、その場に転倒した。脇差の上におおいかぶさるようにして倒れたため、刃が高月の腹部に突き刺さり、刃先は背中から飛び出していた。大騒ぎになり、人々が大月を屋敷まで運んだが、そのまま死亡した。
大月家の菩提寺は麻布古川町にあった。
葬式の日は、ちょうど麻布の総鎮守である氷川明神社の祭礼だった。大月六左衛門の遺体を寺まで運ぶ葬礼の列が魚籃坂の下を通りかかったところ、向うから祭礼の山車や踊りがやってきた。沿道は黒山の人だかりで、蟻のはい出る隙間もないほどである。葬礼の列は避けることも、引き返すこともできない。葬礼の列は群集にもみくちゃにされてしまった。棺桶が引っくり返り、なかから大月六左衛門の死体が地面に転がり出た。
死体は腹部が赤く染まっている。これを見て、「わっ、切腹だ」と、大騒ぎになった。事情を話し、ようやく死体を棺に収めて寺まで運び込んだが、町内に迷惑料を払うなど、大月家は大変な物入りとなった。 

文政元年(1818)七月、日光街道の宿場でおきた事件である。
相馬(福島県相馬市)藩の家臣が供を従え、とある旅籠屋に草鞋を脱いだ。おくれて、会津(福島県会津若松市)藩の家臣も同じく供を従え、旅籠屋に着いた。旅籠屋の亭主はすでに部屋がふさがっているため、あとから着いた会津藩士にほかの旅籠屋を利用するよう頼んだ。
会津藩士は怒り出した。
「ここは会津藩の定宿ではないか。部屋がないのなら、相馬藩士を追い出せ」 相馬藩が外様で六万石であるのに対し、会津藩松平家は徳川一門で六十万石である。格上をカサに着てのごり押しだった。
亭主は困りきり、相馬藩士にほかの旅籠屋に移るよう頼んだ。相馬藩士は亭主の窮状を察し、無用の摩擦を避けるためもあって、黙ってほかの旅籠屋に移った。そのとき、あわてて移動したため、槍持の中間が部屋に槍を忘れてきてしまった。
槍持はもとの旅籠屋に槍を取り戻しに行った。事情を知るや、会津藩士は居丈高に槍持を追い返した。「武士たる者が大事の槍を忘れるということがあるか。それに、ここはすでに我らの城じゃ。槍を返すことはあいならぬ」 むなしく帰ってきた槍持からいきさつを聞くと、相馬藩士は丁重な書状を書き、それを持たせてふたたび会津藩士のもとに行かせた。
書状を読んでも会津藩士は納得しない。しまいには、こう言い放った。「帰って主人に言え。槍持の首を持ってくれば、引き換えに槍を返してやるとな」 またもやむなしく戻ってきた槍持から事情を聞き、相馬藩士は心を決めた。「きさまも武家奉公の身。覚悟してくれ」「へい。もとはといえば、あたくしの粗忽からおこったこと。どうかあたくしの首と引き換えに槍を取り戻してください」 槍持は涙ながらに訴えた。
相馬藩士は槍持の首を刎ねると、生首を白木綿に包み、もとの旅籠屋に乗り込んだ。生首を見て、会津藩士は真っ青になった。即座に槍を返却したが、生首を受け取るのはこばんだ。 
斬り合い
寛政十年(1798)五月十六日の夕七ツ(午後4時)過ぎ、神田橋御門内にある豊前小倉(福岡県北九州市小倉区)藩小笠原家の上屋敷の前で、若い侍ふたりが斬り合いになった。
ひとりは十六、七歳くらい、もうひとりは二十歳くらいである。
初めのうちは、ふたりともかなり間合いを取り、おたがいの刀の切っ先が一尺ばかりも離れていた。じりじりと進み、切っ先が触れ合うかと思うや、すぐに後ずさりして距離を取るという具合で、なかなか踏み込めない。
そうするうち、若い方の侍はいかにもひ弱そうだったが、案の定、肩のあたりを斬りつけられた。
すると、斬られたことで若い侍は逆に奮起したのか、自暴自棄になったのか、猛然と突進していく。年上のほうはタジタジとなり、ついに胸のあたりを突かれてしまった。しかし、若い方も脇の下を斬られた。
その後、おたがいに切り結んだが、決着はつかない。ふたりとも疲労と出血でフラフラになった。刀をふるっても力がはいらない。おたがいに、かすり傷をあたえ合うのみだった。
若い方が思い切って踏み込もうとしたが、足がもつれてその場に倒れてしまった。
好機と見て、年長のほうが上から刀を叩きつけようとしたが、その拍子に、やはり足がもつれて転倒してしまった。疲労困憊しているため、いったん倒れるともう立ちあがることができない。
肩で息をしながら、ようやく若い方が起きあがり、そばに歩み寄ると、剣先で相手の喉をつらぬいた。しかし、精も根も尽き果てたのか、そのままドサリと倒れ伏し、もう動けなかった。
徒目付が検使に来たときには、ふたりとも絶命していた。
ふたりはともに小倉藩士で、衆道(男色)関係のもつれから斬り合いになったのだという。 
子供
寛政二年(1790)八月上旬のこと。当時、すでに武士の窮乏化が進み、幕臣といっても下級の旗本や御家人のなかには貧窮にあえぐ者が少なくなかった。
十三歳になる御家人の息子が道を歩いていた。腰には刀を差していたが、着ている衣服たるや継ぎ接ぎだらけだった。その粗末な衣服を見て、十六歳になる町人の息子があざ笑った。「へん、威張って歩いてやがるが、着ているのは雑巾同然じゃねえか」 それが耳にはいるや、御家人の息子はキッとにらんだ。
「町人の分際で、武士に向かって無礼である」 腰の刀を抜くや、一刀のもとに斬りつけた。
逃げるひまもない。左の肩先から胸まで斬りさげられ、町人の息子は即死だった。奉行所の役人が取り調べ、町人の息子の暴言は、「あまり慮外にまぎれない」として、御家人の息子は無罪放免となった。それどころか、奉行所は息子に褒美をつかわした。 
いびり
松平外記は三百俵の旗本で二十七歳、西丸書院番だった。外記は番入りしてからというもの、古参の連中から陰湿で執拗な嫌がらせを受けていた。裃の紋を墨で黒く塗りつぶされたこともあったという。
ついに、外記は決意した。文政六年(1823)四月二十二日の申の時(午後4時)、江戸城の西丸書院部屋の二階で、外記は突然脇差を抜くや、そばにいた本多伊織、沼間左京、戸田彦之丞に次々と斬りつけた。
一階にいた間部源十郎は、二階の物音を聞きつけ、「どうしたのじゃ」と、階段をのぼってきたところを、腕を斬られた。逆に、二階にいた神尾五郎三郎は、「わわー」と狼狽し、階段を駆けおりて逃げようとしたが、背後から尻を斬られた。なおも逃げるのを、外記が追いすがる。
神尾は屏風を盾にしながら、「乱心者じゃ。出会え、出会え」と叫んだ。しかし、みないち早く逃げ出してしまい、誰も助けには来ない。ついに屏風を捨て、神尾はひたすら逃げる。外記も追跡をあきらめた。番所のなかはがらんとして、誰もいない。みな、逃げてしまったのだ。
外記は自害して果てた。
静かになったのを見て、ようやく人が集まってきた。外記の死体をあらためると、ふところに書置きがあった。
そこには、書院番に番入りして以来、先輩からさまざまな嫌がらせや意地悪を受け、もはや堪忍なりがたく、今日、討ち果たした。
という意味のことが書かれていた。
この刃傷騒ぎで、本多伊織、五十八歳は即死。沼間左京、二十一歳は即死。戸田彦之丞、三十二歳は即死。間部源十郎、五十八歳と、神尾五郎三郎、三十歳は負傷。
事件後、取調べがおこなわれ、多くの者が処分された。尻を斬られ、ひたすら逃げた神尾五郎三郎は改易となった。襖を締め切り、騒ぎが収まるまで部屋の中で息をひそめていた者が多数いたが、すべて役を解かれて小普請入逼塞や、隠居を命じられた。なかでも、河村清次郎は屏風をすぼめて、そのなかに隠れていた。長野勝次郎は便所に駆け込み、隠れていた。井上政之助は縁の下に隠れていた。みな小普請入逼塞となった。この事件のあと、番所の風儀もあらたまって新人いびりは影をひそめた。
新規番入りした者は勤めやすくなり、「松平外記どのの恩沢」などと、言い合ったという。  
謝罪
安永元年(1772)、十代将軍家治の側用人だった田沼意次が老中となり、いわゆる田沼時代が始まった。経済や文化は大きな発展を遂げたが、いっぽうで賄賂と金権主義が横行した。そのころのことである。
役付きとなった幕臣は、同役二十三人を招いて料理を供応するという慣例があった。その費用は、全部で四十五両かかった。
職場ごとに、必ず口うるさい者がいて、「魚はどこどこで買わねばならない」「料理はどこの仕出料理屋であつらえねばならない」「菓子屋は鈴木越後でなくてはならない」などと、うんちくを述べ、いちいち指定した。
永井求馬という幕臣が小普請組頭に任じられたとき、先輩格の船田兵左衛門が指導役となり、慣例に従って同役を招き、料理や菓子で供応した。
つつがなく、初会合は終了した。
ところが、次の会合のとき、同役のひとりが言い出した。
「先日、永井が出した菓子は、鈴木越後ではあるまい」
もうひとりも、「みどもも、あれは鈴木越後ではないと存ずる」さらに、もうひとりも、「あれは、ほかの菓子屋に注文した品であろう」と、言いつのる。
一座は騒然となった。
二十三人で、船田と永井を取り囲み、「このままでは捨て置けぬ。どういうことか、所存を聞きたい」と、糾弾する。
ついに船田が、「じつは、数年来出入りの、金沢丹後という菓子屋であつらえた」と、白状した。
鈴木越後は高価なため、こっそり安い金沢丹後に注文し、永井に出させた費用のうちから差額をかすめていたのである。
同役たちは、「やはり鈴木越後ではなかったな」「道理で羊羹のきめが粗いと思った」「鈴木越後の羊羹は、もっときめがこまかい。あんな味ではないぞ」と、口々に言った。
けっきょく、船田と永井が畳に手をついて謝罪することで、けりがついた。  
遺恨
安政元年(1854)九月二日、幕臣の息子で二十二歳の白戸兼吉郎が市谷にある長坂新五郎の道場に夜稽古に出かけた。稽古を終え、白戸が五ツ(午後8時)過ぎ、ひとりで尾張藩邸の近くを歩いて帰っていると、暗闇のなかから何者かが突然、刀で斬りつけてきた。
白戸はたまたま持っていた傘で二の太刀までは受け流したが、三太刀目で傘を断ち切られ、その勢いで右手の中指と薬指を切断された。ここにいたり、白戸も傘を投げ捨て、刀を抜いて切り結ぶ。二太刀を浴びせたところ、相手が転倒した。そこを、白戸がとどめをさした。
そのあと、白戸はすぐに尾張藩邸の辻番所に出頭し、「慮外者を斬り捨てました」と届け出た。辻番所の番人が死体の顔を明りで照らし、「お心当たりは」と問う。白戸はその顔に見覚えがあり、すぐに身元が判明した。出雲広瀬(島根県出雲町)藩松平家の家臣で柳田簱次郎、二十歳だった。
その後、柳田が白戸を闇討ちしてきた理由もわかった。
去年(嘉永六年)の十一月二十八日、柳田をはじめ広瀬藩の藩士六人が長坂道場に他流試合にやってきた。このとき、たまたま居合わせた白戸が立ち合い、六人をすべて叩きのめした。このことを遺恨として、柳田は白戸をつけねらっていたのだという。 
剣術稽古
弘化二年(1845)十二月五日、吉原は全焼し、浅草、本所、深川の一帯に仮宅ができた。翌弘化三年九月、吉原は再建され、仮宅営業をしていた妓楼はすべて吉原に戻った。
吉原の妓楼が各地で仮宅営業をしていたときのことである。
北辰一刀流の道場、玄武館の若い門弟のひとりが、たまたま用事があって仮宅の前を通りかかった。
吉原では区画のなかに閉じ込められているが、仮宅のときは、妓楼は街のなかで堂々と営業している。その門弟はこれまで女郎買いとは無縁で、吉原にも行ったことはなかったが、仮宅営業中のため、妓楼の前を通らざるを得なかったのだ。
通りで客引きをしていた妓楼の若い者が、門弟の着物の袖をとらえ、「お侍さん、遊んでいきませんか」と、誘った。
門弟は苦しまぎれに、「いまは金の持ち合わせがない。あす、来る」と言い訳をして、袖を振り切って逃げた。
その後ろ姿に、若い者があざけり笑った。若い貧乏武士と見て、からかったのである。
門弟は帰宅したあと、妓楼の奉公人に笑われたことを思い出し、悔しくてたまらない。
「両刀を差す身が嘲笑されるとは無念である。しかし、妓楼の若い者など、まともに相手にすべき人間ではなかろう。かといって、恥をかかされて、このまますますわけにはいかぬ」
翌日、玄武館の友人四、五名とはかり、仕返しをすることになった。
剣術の防具の面、胴、籠手を身につけ、竹刀を手に持ち、仮宅に押しかけて、「遊ぼう」と、申し入れた。
若い者は、相手のいでたちを見て肝を潰し、登楼を断わる。
門弟はここぞとばかり、「きのう、拙者の袖を引いて、遊べと申したではないか。そのおり、拙者は「あす、来る」と答えた。約束通り、遊びに来たのじゃ」と、言いつのり、仲間と一緒にどやどやと二階座敷にあがりこんだ。
剣呑な様子を見て、女郎も客も二階から逃げ出してしまった。
門弟たちは、「われらは遊びに来たのじゃ。なんなりと出して、もてなさぬか」と、高飛車に要求する。
妓楼も困りきった。とりあえず茶や菓子を出し、とにかく早く退散させようと腐心した。
そのうち、同様ないでたちをした仲間が十数人も続いて押しかけて来た。
合わせて二十名近い若い侍たちが、二階座敷で、「メーン」「ドー」「コテー」と、剣術の稽古を始めた。
その気合や、竹刀と竹刀を撃ち合う音は耳を聾するばかりである。床は鳴り響き、建物は揺れ、きしむ。
もう、妓楼は営業どころではない。
たっぷり汗を流したあと、門弟たちは、「これが、われらの遊びじゃ」と、うそぶき、ひとりあたり南鐐二朱銀一枚の茶代を放り出した。
妓楼の側は茶代を受け取ることを辞退したが、門弟たちは金を押し付けるようにして払うと、さっさと帰っていった。
あとで、玄武館の門弟ということがわかったため、妓楼は営業を妨害されたとして町奉行所に訴えた。
奉行所は道場主の千葉周作を召喚し、事情を聴取した。このとき、周作はかかわっていた門弟の姓名をすべて明らかにしたうえで、「この者らが二階座敷で遊び、茶代を置いてきたことに相違ござらぬ」と、堂々と言ってのけた。門弟たちは人に危害を加えたわけでもないし、器物を破損したわけでもない。茶代もちゃんと支払っている。奉行所も、妓楼の訴えを却下せざるを得ない。妓楼は泣き寝入りとなった。
剣客
旗本家の用人の熊谷紋太夫は心形刀流の師範格で、文武両道の人物だった。朝のうちは昌平坂学問所(昌平黌)に通って学問を修め、帰宅後は自宅の道場で子供たちに剣術の手ほどきをしていた。
弘化三年(1846)二月二十五日のこと、いつものように熊谷が子供に剣術の稽古をつけていると、乱心した内弟子が突然、背後から刀で斬りつけてきた。
熊谷は子供をかばおうとして、片手を斬り落とされてしまった。
片手を切断されながらも熊谷はひるむことなく、内弟子を取り押さえた。
この乱心した内弟子は、十二歳のときから熊谷のもとに住み込み、修行をしていたという。 
養子殺し
小川町に屋敷がある森家は、二千石の旗本だった。森家の当主の直之進は養子で、養父の森彦太郎、二十四歳は座敷牢に入れられていた。
彦太郎が精神に異常があることから、森家の家督を継ぐため、直之進が養子に迎えられたのである。
森家にはそのほか、直之進の妻、二十二歳や、彦太郎の実父の喜右衛門、五十八歳や、喜右衛門の実母の等勝院、七十四歳、そのほか家来や下男、下女がいた。
文化十二年(1815)六月四日、このところ落ち着いているということで座敷牢から出されていた彦太郎がやにわに木刀で養子の直之進を殴りつけ、さらに祖母等勝院の短剣を持ち出して刺し殺した。
この事件はいったんは揉み消されそうになったが、殺された直之進の実家が訴え出たため、森家の全員が評定所に呼び出され、町奉行、大目付、目付三者立会いの吟味となった。
最初に役人が森家の屋敷に踏み込んだとき、老婆の等勝院は素っ裸で踊り狂っていた。屋敷内は異様な雰囲気だったという。
評定所の判決は、直之進を殺害した森彦太郎は遠島。彦太郎の父の森喜右衛門は親戚預け、謹慎。彦太郎の祖母の等勝院は親戚預け、押込というものだった。そのほか、家来がそれぞれ処罰を受けた。  

ある藩の家中に、蛇を極端に嫌い、怖れている男がいた。夏の終わりの夕方、親しい藩士数人が集まって雑談をしているとき、ひとりがいたずらをして、しなびた芋の茎をポイと放り投げ、「ほれ、蛇だ」と、おどかした。
男は膝の前に落ちた芋の茎を見るや、「わっ」と悲鳴をあげ、そのまま卒倒してしまった。
「大変だ、しっかりしろ」 友人たちが水や気付け薬を持ち寄って介抱し、男はようやく意識を取り戻した。
意識が回復した男は激怒し、「いかに親しい仲とはいえ、満座の中で恥をかかされては武士の一分が立たない。こうなれば、討ち果たす」と、芋の茎を投げた友人に詰め寄った。
その場にいた友人たちが、「ほんのいたずらだったのだから」「そう、事を荒立てなくともよかろう」と、ことばをつくしてなだめた。
男は頑として聞き入れない。
とうとう、日が暮れてから、人気のない場所で果たし合いをすることになった。
刻限になった。
男は約束の場所にやってくるや、「きさまを討ち果たしたあと、拙者は腹を切って死ぬ」と、刀を抜き放った。
決闘を申し込まれた者は、かねて用意していた竹竿をかまえた。
竿の先には、五尺ほどもある大きな青大将が結び付けられていた。
その蛇が、うねうねと身もだえしてうごめく。
「さあ、どうじゃ」竹竿を槍のようにかまえて、顔の先に突き出した。男は真っ青になった。「臆病者め」となじったが、蛇を目の前に出されてはもう一歩も進むことはできない。抜身を手に持ったまま、男はひたすら逃げ出した。その後、友人たちがあいだにはいってなだめ、ふたりは仲直りをした。 
剣客
小川伝兵衛は近江膳所(滋賀県大津市)藩本多家の家臣で、物頭の役職についていた。
嘉永六年(1853)一月、藩邸内の道場で稽古始がおこなわれ、小川ら主だった家臣をはじめ、軽輩の足軽なども出席した。
稽古が終わったあと、酒宴となる。
最初に剣術師範が、「きょうは稽古始であるので、身分や役職にかかわりなく、みな相弟子という気持ちで過ごしていただきたい」と、挨拶をした。
宴会が始まってしばらくすると、小川がひとりの足軽の言動に怒りを発し、「無礼であろう」と、とがめた。
足軽は、「きょうは師匠の稽古始でございます。みな相弟子ですから、上下のへだてはございません。きょうばかりは、同役でございます」と、言い返す。
カッとなった小川が刀を抜き、足軽に斬りかかろうとする。
「おい、やめぬか」と、師範が止めにはいろうとした。
はずみで、刀が師範の喉を突いた。師範は即死だった。思わぬ事態に、小川は呆然としている。みなで寄ってたかって、小川を取り押さえた。 
相撲取り
文化九年(1812)二月十日、浅草の浅草寺の境内で奉納相撲がおこなわれた。相撲が終わったあと、筑波山という若い力士がかなり酒に酔って、御厩河岸から渡し舟に乗り込んだ。
たまたま渡し舟に、ふたり連れの武士が乗っていた。
筑波山はふたりの武士にからみ、暴言を浴びせた。武士はふたりとも横を向き、聞こえないふりをして、相手にならない。いかにも、狭い舟のなかという場所柄をわきまえ、我慢をしているという風だった。渡し舟が桟橋に着くや、ふたりの武士はいち早く上陸すると、そのままさっと姿を消した。筑波山は腰に差していた刀を抜くや、やにわに野菜の行商人の天秤棒に切りつけた。「わーっ」 行商人は悲鳴をあげ、逃げ出した。
舟からあがった筑波山は刀を振り回しながら、道にいる人々を追い散らす。たまたま旗本伊東主膳の家臣が通りかかった。主人の用事で使者に出て、その帰りだった。裃姿で、中間をひとり従えている。ものも言わず、筑波山が真っ向から斬りかかる。家臣はさっと体をかわすや、抜き打ちに筑波山の肩口に斬りつけた。とてもかなわぬとみて、筑波山は走って逃げ出した。
「逃がさぬぞ」 家臣は手ぬぐいで鉢巻をすると、袴の股立ちを取り、あとを追って走る。ついに追いつき、斬り合いとなった。家臣は刀をふるい、相手の右手を切り落とす。筑波山がよろめくところを、足払いをかけて地面に投げ飛ばした。
その後、近所の自身番に出頭して、「無礼を働いたので斬り捨てました」と、事情を述べ、自分の住所・姓名も告げた。筑波山は地面に倒れたまま、なおも大声で暴言を吐き続けている。家臣は自身番から出ると、「黙らせるしかあるまい」と、刀をふるってとどめを刺した。 
乱心
小普請組に属する幕臣、遠山家の屋敷は堀端一番町にあった。遠山三郎右衛門はすでに家督を息子の荘之助に譲って、隠居だった。
三郎右衛門には与兵衛という弟がいて、屋敷内に同居していたが、かねてより乱心気味のため、座敷牢に押し込められていた。
天保九年(1838)四月二十七日、三郎右衛門と荘之助の父子は連れ立って外出した。
ふたりが外出しているあいだ、屋敷にいたのは、座敷牢内の与兵衛をのぞけば、三郎右衛門の妻、ふたりの娘、それに下女の、合わせて四人の女だけである。
四人の女は表に獅子舞が通りかかったため、屋敷から出て見物していた。そのスキに、与兵衛が座敷牢の格子を破り、抜け出した。
女たちが屋敷内に戻ったところ、与兵衛がそっと戸締りをして逃げられないようにしておいてから、襲いかかった。
逃げ惑う女たちを、与兵衛がつぎつぎと刀で斬りつける。三郎右衛門の妻と娘ふたりは即死、下女は重症を負い、その夜のうちに死んだ。四人に斬りつけておいてから、与兵衛は自害した。
風評では、女たちは三郎右衛門と荘之助が屋敷にいるときはそれなりに与兵衛にも心配りをしていたが、ふたりが留守をしているあいだは、与兵衛にろくに食事もあたえないなど、虐待していた。それを恨みに思い、与兵衛は火で格子を焼いて壊し、抜け出したのだという。 
黒幕
中野清茂は家禄三百俵の旗本だった。その屋敷に、僧侶の娘のお美代が女中奉公していた。お美代の美貌に目をとめた中野は、自分の養女にした上で、江戸城の大奥に送り出した。十一代将軍家斉の好色に期待したのである。
はたして、家斉はお美代に手をつけ、子供も生まれた。かくして、お美代は将軍の側室、お美代の方となった。
お美代の方の父親である中野は加増されて、二千石にまで昇進した。色仕掛けで家斉を篭絡したのである。
天保の初年、中野清茂は隠居して石翁と名乗り、隅田川のほとりの向島の別荘に引き込んだが、家斉の信任は厚かった。石翁は家斉の側近として、隠然たる影響力を行使した。
石翁の口ききがあれば、この世で実現しないことはないとまで言われた。また、ひとたび石翁ににらまれると、身の破滅とまでささやかれた。
諸大名や旗本はこぞって向島の別荘に使者をつかわし、石翁に賄賂を贈った。隠居の身でありながら、そのぜいたくな暮らしぶりは大名にもまさると噂された。
藩主の参勤交代に従って江戸に出てきた勤番武士は、ほぼ一年間を藩邸内の長屋で暮らすが、ほとんど仕事はなかった。暇はたっぷりあるが、金はない。勤番武士の娯楽は、いわゆる街歩きだった。江戸の名所旧跡をひたすら歩きまわり、見てまわるというものである。その節約ぶりはいじましいほどで、金のかかるところにはいっさい立ち入らない。
さて、某藩の勤番武士のふたりは連れ立って、きょうは深川、あすは浅草と暇さえあればあちこちを見物してまわっていたが、ある夏の日、朝早くから藩邸を出発して隅田川を越え、向島あたりの別荘の庭を見てまわっていた。
風流な門構えの別荘があった。ふたりは庭を見せてもらおうと、ずかずかとなかにはいって行く。
庭の手入れをしていた男数人が飛び出してきた。「いずこよりいらっしゃいましたか」「いや、苦しゅうない。我らは某家の家臣であるが、名所古跡を見物して歩いておったところ、なかなか奥ゆかしい構えと見受け、ここまで入ってきた。奥の庭も見せてくれぬか」勤番武士ふたりは威張って言った。
男たちは顔を見合わせ、「不思議の者どもが来たぞ」と、対応に迷っている。
そこに、道服を着た老人が現われ、「いまのことばに相違はあるまい。苦しからず」と言い残して、姿を消した。
ふたりは、心おきなく広大な庭のなかを見てまわった。
あちこちに巨岩を配し、珍しい木々が植えられていた。所々に建つ庵もふんだんに銘木を用いていた。惜しげもなく金と手間を注ぎ込んで作った庭ということがわかる。
ふたりはほとほと感心した。池のほとりまでくると、庵の縁側にさきほどの老人がちょこんと座っている。
ふたりは声をかけ、「さてもさても、見事な手入れかな」と、庭をほめた。
老人が言った。「これにて、茶を進ぜましょう」「かたじけない」ふたりは平気で縁側に腰をかけた。
召使いらしき幼い女の子が茶を出し、もうひとりが菓子を出した。
これまで見たこともない菓子である。ふたりはその美味に、思わず嘆声を発した。
老人は気をよくしたらしい。
「酒をまいらせましょうか」「もとより、我らの好むところじゃ」女の子が酒を出した。
続いて、数々の酒肴が出てくる。
ふたりは、生まれて初めて味わうごちそうに舌鼓を打った。遠慮なく酒を呑み、料理を平らげた。「このような珍味がたちどころに出てくるとは、さぞ日ごろ客が多いのであろうな。こんなうまいものは、初めて食したぞ」老人はことば少なに、うなずいている。ふたりは酒の酔いも手伝い、「われらが主人の庭もかなりの広さだが、手入れが行き届いておらぬ。とてもここには及ばぬぞ」などと、口も軽くなった。
いざ帰る段になって、種々のもてなしを受けただけに、ふたりは謝礼を相談した。そして、いくばくかの銭を紙に包んで、「これは少しばかりなれども、さきほどよりの謝儀としてあたえるぞ」と差し出した。
老人は「お気遣いなされますな」と言いながらも、金を受け取る。
ふたりは、大いに奮発したつもりである。老人が金を受け取ったことに満足した。「後日、朋友を連れて再訪したいと思うが、家の名がわからぬでは訪ねようもない。教えてくれぬか」「では、これをお持ちなさい」老人が紙に書いたものを渡した。ふたりはろくに読みもせずに紙入れに挟み込み、辞去した。
翌日、ふたりは藩邸で、向島あたりの富貴な植木屋の庭を見学し、馳走にまでなったことを自慢した。それを耳にして、ふと気になった上役が、なんという家かと尋ねた。もらった紙を見せた。なんと、石翁である。上役は真っ青になった。「石翁どのは、その名を聞けば大名すら震え上がる人であるぞ。植木屋の親爺と思い込んでいたとは、なんたることじゃ。とんだ無礼を働いたやもしれぬ。そのほうらは知らなかったとはいえ、言い訳のできない粗忽である」すぐさま、ふたりを監禁してしまった。
そして、藩主の耳には入れずに、家老と相談の上、ひそかに使者を向島に派遣した。
使者は緊張しきって面会するや、「このたびは、われらが家来が存ぜぬこととはいいながら、御館に参上してご無礼に及びし段、まことに申し訳ございませぬ。ふたりは押し込めておりますが、どのような刑に処すればよろしいでしょうか。それをおうかがいに参上いたしました」と、平伏した。
石翁は、「きのう来たふたりは、田舎の人でな。庭の草木を見たいと言うので、見せてやったまでのこと。なにも無礼はなかったぞ。押し込めなどは気の毒じゃ。許してやりなさい。藩主のお耳にも入れぬほうがよかろう」と、寛容だった。その後、某藩のふたりがどういう処分を受けたかは明らかではない。 
婚礼
肥前佐賀(佐賀県佐賀市)藩鍋島家に坂田常右衛門という藩士がいた。常右衛門には親同士が決めた許婚がいた。
二十歳を過ぎて、結納の儀もすみ、いよいよ婚礼というとき、藩から江戸詰めを命じられた。しかも、すぐさま江戸に出立せよとのことである。
「おそらく、一、二年で国許に戻れるであろう」 そう思い、挙式もしないまま常右衛門は江戸に向かった。
江戸藩邸に勤めるようになった常右衛門は人柄もよく、職務にも熱心で有能なことからしだいに仕事を任されるようになった。加増され、昇進もした。そのうち、常右衛門がいなければ江戸の藩邸は立ち行かないとまで言われるようになった。しばしば帰郷の願いを出したが、藩の重役は許さなかった。
数年を経るうち、許婚の娘も婚期を過ぎる。常右衛門の両親も年老いたため、相手方に申し入れた。「倅が戻るのはいつになるかしれませぬが、このままではわれらも心細いので、家に来てもらえませぬか」 相手方も娘も承諾した。娘は常右衛門の家にはいると、両親によく仕えた。近所の人はこれを見て、「なんと親孝行な女であろうか」と、感心した。
三十年を経たが、常右衛門の帰郷はまだ許されない。とうとう、常右衛門の両親はともに死んでしまった。人々は娘の人生を思い、涙した。
けっきょく、常右衛門は江戸藩邸で四十年以上を過ごした。明和五年(1768)、ようやく帰郷を許されたとき、常右衛門は七十歳になっていた。帰国した常右衛門は、ともに白髪頭の許婚とあらためて婚礼の儀をあげた。人々は四十年以上にわたって独り身をつらぬき、常右衛門を待ち続けた女を、「あっぱれ貞女」と、ほめたたえた。 
情け
番町のあたりに、筧伝五郎という旗本の屋敷があった。筧の屋敷内の、家来が住む長屋の窓の下に、毎日のように物乞いにくる尼がいた。
大名屋敷や大身の旗本の屋敷は、塀の内側に家臣の長屋を作る構造になっていた。そのため、塀がそのまま長屋の外壁であり、窓がもうけられている。この窓の下に、尼がたたずんで物乞いをしていたのだ。
文化十三年(1816)十一月のこと、家来のひとりがこの尼をものにしようと思ったが、どうやって門内に入れるかが難問である。
いろいろ考えたあげく、法事を口実にして尼を屋敷内に呼び入れ、茶飯などを馳走して口説くことにきめた。
翌日、家来は茶飯のほかに豆腐の煮付けなども作って、いまやおそしと待ち受ける。
昼ごろ、尼が長屋の窓の下にやってきた。
家来が声をかけた。「きょうは、先祖の命日でござる。回向をしてはくれまいか。茶飯を作ったので、馳走いたす」仏事を頼まれたとあって、尼も引き受ける。法事を口実にしたため、門番も尼を通した。家来は長屋の自分の部屋に尼を招き入れ、茶飯などをふるまったあと、「じつは、そなたに無心がある。どうか、かなえてはくれまいか」と、持ちかけた。
「どういうことでございましょうか。わたくしにできることでございましたら、うけたまわりましょうぞ」「拙者、そなたにはなはだ執心しておる。どうか一度でよいから、この思いを晴らさせてはくれまいか」「わたくしは、ご存知の通り出家の身でございます。さようなことは、とてもできかねます」尼はきっぱり断わった。
家来は脇差を取り出し、抜き放つや、「武士たる者がこのようなことを口に出した以上、望みがかなわなければ、腹を切らなくては一分が立たない」と、いまにも刃を腹部に突き立てようとする。
その切実さに、尼も心を打たれた。
「それほどまでに思し召すのであれば、ただ一度だけであれば、ご用を承りましょう」「もちろん、二度とは求めぬ」「では、せめてご馳走になったお礼をいたしましょう」と、尼も了承した。家来は思いを遂げた。
これで、終わるはずだった。ところが、その後、尼がたびたび長屋にやってくるようになった。勝手に部屋のなかにあがりこみ、いつまでも立ち去らない。さも、情交を期待しているかのようでもあった。
頭も剃らず、そのまま髪をのばし始めた。女房になって居ついてしまう気のようである。これには家来も困り果てた。屋敷内でも噂になっている。ついに、家来は出奔してしまった。  
射殺
青山の武家地に借地する植木屋があった。その植木屋に、おときという娘がいた。三味線がじょうずで、なかば芸者のような奔放な暮らしをしていた。
近くに、伊予西条(愛媛県西条市)藩松平家の上屋敷があった。家臣の栗栖市之丞はかねてから素行が悪いことから、国許に帰るよう命じられた。
この突然の帰国命令に、栗栖もあわてた。じつは、おときと恋仲で、将来は夫婦になる約束をしていたのだ。
栗栖はおときに、「一緒に国許に参ろう」と、掻き口説いた。
ところが、おときは、「そんな田舎に行くのは真っ平でございます」と、つれない。
まるで手のひらを返したような冷淡さだった。
栗栖は鉄砲の名手で、藩内では師範の役についていた。文政元年(1818)七月十四日、鉄砲を持ち出した栗栖は植木屋に押しかけると、行水をつかっているおときを垣根越しに撃った。弾は腹部に命中し、おときは長時間苦しんだあげく死亡した。
召し取った町奉行所の役人が、「なぜ、鉄砲を用いたのか」と問うた。栗栖は答えて言った。「あの女は畜生同然でございます。刀で斬れば、刀の穢れになります。禽獣を撃つつもりで、鉄砲を用いたのでございます」
十月十四日、「御府内(江戸市中)でご禁制の鉄砲を用いた」として、栗栖市之丞は鈴ヶ森で獄門の刑に処された。 
隠居
吉沢某という幕臣は放蕩者だったが、隠居したのをさいわい、本所あたりの町屋に家を借りて住み始めた。
町内に盲目の座頭が住んでいたが、吉沢と知り合って意気投合し、親しく出入りしていた。
同じく町内に、富本某という三味線師匠が住んでいた。
座頭の女房も三味線を弾く。これがきっかけで座頭の女房と富本は知り合い、そのうち関係ができたが、人の知るところとなり、揉め事になってしまった。
あいだに人がはいって、どうにか金で内済(示談)とした。
ところが、大家が怒り出した。「そんなふしだらな人間が町内にいたら、またどんな悶着をしでかすかしれない。家を貸すわけにはいかない」と、座頭に対し、いついつまでに出て行けと、店立てをくらわせた。
困った座頭は、吉沢に頼んだ。隠居とはいえ武士だけに、吉沢から話をつければ、大家も折れると踏んだのである。
「よろしい。わしが掛け合ってやろう」依頼を引き受けた吉沢は、大家のもとに出向き、店立てを取り下げるよう申し入れた。
しかし、大家は頑として聞き入れない。しまいには、吉沢を口汚くののしるしまつである。
吉沢もカッとなり、脇差を抜いて斬りつけた。
大騒ぎとなったが、さいわい大家の傷は浅く、命に別状がなかったこともあって、役所には訴えず内済となった。文化十四年(1817)六月のことである。
その後、各人の背景や思惑が明らかになった。じつは、吉沢も大家も、座頭の女房と密通していたのだという。大家が吉沢の申し入れをはねつけ、罵倒までしたのは、恋敵への対抗心からだった。 
密通
寛延四年(1751)八月二十二日、朝比奈百助が病死した。御小姓組森下下総守の配下で、家禄は千石だった。
病死の届けも済ませ、二十五日に葬儀をおこなうことも決まった。
前日の二十四日、百助の遺体を湯灌している場で、百助の妾だったおきのと、用人の松田彦右衛門が体をくっつけ合い、手が触れると忍び笑いをするなど、不謹慎な振る舞いをしていた。
嫡子の朝比奈万之助、二十四歳がこれを見咎め、
「そのほうらが、父の目を盗んでよからぬ所業におよんでいることは薄々知っておったが、こういう場で、その振る舞いはなんじゃ。恥を知れ」
と、叱りつけた。
松田は憤然として、
「これは、とんでもないことを仰せられます。密通など、身に覚えのないこと」
と、反論した。
カッとなった万之助が刀を抜いた。
松田は百助の遺体を盾にして、逃れようとする。
万之助は追いすがり、松田、続いておきのも斬り殺した。さらに、逃げ惑う下女ふたりにも斬りつけ、怪我を負わせた。
屋敷は上を下への大騒動である。万之助は目が異様に光り、完全に正気を失っているかのようだった。
たまたま、万之助の妻の兄の、植村千吉、二十二歳が屋敷を訪れた。
騒ぎを見て、千吉が背後から万之助に組み付き、取り押さえようとした。
万之助はそれを振りほどくや、千吉に斬りつけた。千吉は即死だった。
妻の兄まで斬殺してしまったのを見て、万之助はその場で自害して果てた。
植村家からは家来が駆けつける。
朝比奈家は事件を上司である森下下総守に届け出ると同時に、植村家の家来にも、上司にすぐに報告するよう勧めた。
植村家の家来は、「とりあえず、戻ってからよく相談いたします」と、千吉の遺体を屋敷に引き取った。
植村家は、本家である植村土佐守恒朝の屋敷に知らせた。植村土佐守恒朝は上総勝浦(千葉県勝浦市)藩、一万一千石の藩主である。
植村家の本家と分家の家来が相談し、「乱心者に斬られて死んだというのでは外聞が悪い」ということになった。
そこで、植村家では、「千吉は急病で死去したので、養子をもらい、家督を継がせたい」という願い書を提出した。
その後、千吉死亡のいきさつが、朝比奈家からの報告と異なることが問題となった。
多くの関係者が取り調べられ、植村家の隠蔽工作が明らかになった。
多数が処罰を受けたが、とくに、植村土佐守は所領一万一千石を没収の上、その身は幽閉となった。家来が虚偽の報告をしたばかりに、勝浦藩植村家は消滅したのである。 
俵詰め
弘化四年(1847)九月初めのこと。本所あたりにある武家屋敷の下男が、下女とねんごろになった。やがて、女は妊娠した。下女は、連れて逃げてくれと迫る。
進退窮まった下男は、一計を案じた。
「お屋敷の門は出入りがきびしいから、おめえと一緒に出ては怪しまれる。ちょっとのあいだだ、俵のなかにはいってくれ。俺が肩にかついで、届け物をするようなふりをして、門を抜け出るから」ことば巧みにもちかけ、日が暮れてから、下女を俵のなかにもぐりこませた。下男は俵をかついで外に出るや、歩いて下谷あたりまで来た。すでにあたりは真っ暗である。和泉橋まで来るや、下男は橋の上から俵を神田川に投げ落とした。そのまま、走り去る。
たまたま、和泉橋の下に舟を出し、夜釣りをしていた人がいた。ザブーンと水音がしたかと思うや、俵が浮いたり沈んだりしている。俵のなかから手足が出て、「助けてーッ」と叫んでいた。釣りをしていた人は驚き、船頭に命じて舟を近づけさせた。俵を引きあげ、下女を救った。
これで、下男の悪だくみはすべて明らかになり、町奉行所に召し取られた。  
夫殺し
文政元年(1818)六月十一日の夜、青山原宿町に住む御留守居同心の妻は、夫が寝入ったのを見はからい、かねて用意の白帷子に着替え、足には脚絆をまいた。刀を抜き、蚊帳のなかにそっとはいり込むや、夫の胸元を突いたが、急所をはずれた。
寝ていた夫も驚いて目を覚ました。見ると、枕元に血刀を持った女がいる。
夫はあわてて蚊帳を抜け出し、戸口を蹴倒して外に逃れようとする。そこを、追いすがった妻が背中に斬りつけた。
傷は浅かったため、夫は走って隣家に逃げ込もうとした。
戸に手をかけたところへ、妻が背後から片手で髪の毛をつかみ、片手で刀を突き刺した。剣先が背中から腹部に突き出て、腸がはみ出したが、夫はなおも悲鳴をあげながら、近所の大家の家に向かった。
この騒ぎに、いったいなにごとかと大家も戸をあけた。
血まみれの男が逃げ、それを、血刀を引っさげた女が追っている。
大家の子供がそれを見て、恐怖のあまり、ワッと泣き出した。
大家の女房は四十歳を越えたくらいだったが、子供の泣き声を聞くなり、外に飛び出した。
「おとなしくなさい」と一喝しておいて、女の利き腕をつかみ、刀をもぎ取った。
そこに、近所から人々が駆けつけ、女を取り押さえた。
そもそも、騒動をおこした女はかつて夫がありながら、御留守居同心と密通していた。
御留守居同心と一緒になるため夫を毒殺したが、その際、「一生大事にする」と約束を交わし、結婚した。
ところが、女は四十歳に近く、御留守居同心は二十歳そこそこだった。
当初こそ仲睦まじかったが、しだいに夫は年上の妻がいやになり、ほかで女遊びをするようになった。それで、逆上したのだという。また、御留守居同心には弟がいて、女はこの弟を誘惑したが応じなかった。そのため、女は捕らわれたとき、「もうひとり殺す男がいたのに、逃した」と、口走っていたという。
数ヵ所に傷を受けた夫は、治療の甲斐なく死亡した。妻は牢に入れられた。御留守居同心は幕臣のため、検使は徒目付がおこなった。このとき、刀を持った女を取り押さえた大家の女房は褒美をあたえられた。  
下男
天保十年(1839)三月六日、女が下男ひとりを供に連れて、飛鳥山に花見に出かけた。
途中で、どこかの藩の藩士らしき三人連れと出会った。藩士三人はかなり酒に酔っていて、しきりにからかってくる。
もちろん、女は相手にせずにさっさと行き過ぎようとしたが、侍たちはしつこくつきまとい、卑猥なことばを投げかけ始めた。しまいには、寄ってたかって女を取り囲み、体にさわったりする。
供の下男が無体なことはやめるように申し入れたが、侍たちはいっこうに聞き入れず、かえって興奮したのか、女を無理矢理に草むらに引きずっていこうとした。
ここにいたり、ついに下男が、「やめないと、黙ってはおりませんぞ」と、護身用に腰に差していた木刀を抜いた。
侍たちはせせら笑い、「なにぃ、この下郎が」と、てんでに刀を抜く。下男は必死である。ともかく、めったやたらに木刀を振りまわし、相手に殴りかかった。
侍たちは刀を抜いたまではよかったが、どうすることもできない。木刀で全身を撃たれて、三人ともその場に倒れこんでしまった。そのすきに、下男は女を連れてその場から脱出した。  
借財
天保十一年(1840)六月二十四日、上野に住む小普請組の牧田三平が浅草御蔵前のあたりに出かけた。たまたま道で、四谷坂町に住む小普請組の野辺安之助と出会った。牧田が言った。「一昨年、貴殿に十六両をお貸ししたはずだが、そのままになっておる。ここでお目にかかったのはさいわいじゃ。道で立ち話と言うわけにもいかぬから、その辺の茶屋で相談したいのだが、いかがか」
野辺が突然、逆上した。返事をするどころか、無言のまま腰の刀を抜いた。
「わっ、なにをする」と、牧田が逃げ出す。
その背中に、野辺が斬りつけた。
着ていた羽織、帷子、襦袢が切れたが、かろうじて怪我はなかった。
しばらく走って逃げたあと、牧田も向き直って刀を抜いた。
ふたりは刀を振りまわす。チャリン、チャリンと刃を撃ち合うだけで、まったく相手に斬りつけることはできない。そのうち、牧田が刀をその場に投げ捨てて逃げ出した。そのまま、近所の知り合いの屋敷に逃げ込んだ。
たまたま目撃していた友人が刀を拾い、牧田に届けてきた。
友人が現われたことで急に勢いづいた牧田は、あらためて抜身を持って野辺を追った。
すると、今度は野辺のほうが走って逃げ出した。そして、浅草鳥越町の書院番・阿部数馬の屋敷に逃げ込んだ。
阿部家では、見も知らぬ野辺が抜身を引っさげて飛び込んできたので驚いた。
用人が応対に出たが、野辺の言うことは要領を得ない。わけのわからないことを口走ったあと、ふたたびプイと屋敷から出て行った。
けっきょく、牧田は野辺の行方を見失った。
その後、牧田は訴状を書いて、野辺の上司に提出した。ところが、上司はその訴状を受け取らず、内済(示談)にするよう命じた。いっぽうで、上司は阿部数馬の屋敷に使者を派遣して挨拶をし、事件を公にしないよう申し入れた。  
仇討ち
天保の改革は老中水野忠邦が失脚することで終息したが、水野の腹心として辣腕をふるった町奉行の鳥居耀蔵も罷免され、終身禁錮を言い渡された。
この鳥居の家来に、本庄茂平治という男がいた。茂平治は悪党だったが、鳥居はそれを承知の上で、政敵を追い落とす工作などに利用していたのだ。
本庄茂平治には暗い過去があった。茂平治は入門した剣術道場の師範である井上伝兵衛に、いかがわしい借金の取り立てを依頼した。ところが、伝兵衛はきっぱり断わると同時に、茂平治の行為をきびしく叱った。これを根に持った茂平治はひそかに伝兵衛を付け狙い、天保九年(1828)十二月二十三日の夜、下谷の御成小路で突然斬りつけ、闇討ちにして殺害した。この日、伝兵衛は門人の家で酒を呑み、かなり酔ってひとりで夜道を歩いて帰るところだった。
伝兵衛の横死を知り、実弟で伊予松山藩士の熊倉伝之丞と、その子の伝十郎は敵討ちを決意し、江戸に出た。
このことを知った茂平治は先手を打ち、人を使って熊倉伝之丞を謀殺した。
熊倉伝十郎にとっては、伯父と父を殺されたことになる。
いっぽう、伝兵衛の弟子のひとりに、小松典膳という浪人がいた。諸国武者修行の旅先で師匠の非業の死を知り、やはり敵討ちを決意して江戸に戻った。
熊倉伝十郎と小松典膳は協力して調べを進め、本庄茂平治が怪しいと見当をつけたが、その行方が知れない。
天保の改革が終わったあと、鳥居耀蔵の悪事を暴く証人として、本庄茂平治も召し捕られた。
取調べの過程で、茂平治は井上伝兵衛の闇討ちと熊倉伝之丞の謀殺も自供した。
茂平治は遠島を言い渡された。
これで犯人は茂平治であることが明らかになったのだが、熊倉伝十郎と小松典膳は牢内にいる人間には手を出せない。ふたりは地団太踏んで悔しがった。
たまたま小伝馬町の牢の近くで火事があり、囚人を解放する解き放ちがおこなわれた。解き放ちでは、いったん逃げても、期日までに牢に戻ってこなければならない。
本庄茂平治は神妙に期日までに牢に戻ったことから、遠島から中追放に刑を軽減された。
熊倉伝十郎と小松典膳にとって、ようやく仇討ちの機会がめぐってきたのである。
敵討ちの願書はすでに役所に提出していたため、町奉行所の役人が内々で、茂平治が牢から出る日を熊倉と小松に知らせた。弘化三年(1846)八月六日、本庄茂平治は牢を出た。
駕籠をやとい、江戸を離れる。茂平治は長期の牢屋暮らしで体が衰弱して、ほとんど歩けない状態だったのだ。駕籠が護持院ケ原まできたところで、熊倉伝十郎と小松典膳が声をかけ、茂平治を駕籠から引きずりおろした。茂平治は地面にへたり込み、動くこともままならない。そこを、ふたりがかりで殺害した。
このとき、本庄茂平治四十五歳、熊倉伝十郎三十三歳、小松典膳四十七歳だった。町奉行所の役人の検使によると、本庄茂平治の体には、右脇腹に切り傷、右の喉に突き傷、左の耳の下に突き傷、胸の横に切り傷、左のあごにかすり傷、左の二の腕に突き傷、右の二の腕に切り傷、左の肩先に切り傷、左の腕に切り傷があったという。  
離縁
天保九年(1838)七月二十三日、小石川の牛天神近くにある銭湯の前で、おもんという十七歳の女が刀で斬りつけられた。そもそも、おもんは本郷元町に住む三井庄三郎という下級幕臣の妻だった。庄三郎は母親と妻の三人暮らしだったが、財政難で扶持もとどこおりがちである。生活に窮し、ついにはおもんを離縁する決意をした。
もとより、本意ではない。そのため、「やむをえず、そなたを離縁するのじゃ。そのうち金策ができて母上を養うことができるようになれば、必ずそなたを呼び戻すからな」と、念を押した。六月二十三日、庄三郎はおもんを離縁し、母を連れて本郷元町を立ち退いた。
その後、おもんは牛天神近くに住む水菓子(果物)屋の岩吉に嫁いだ。これを知って、庄三郎はおもんを恨み、銭湯から出てくるところを待ち受けて斬りつけたのだ。悲鳴をあげて逃げる女を、めったやたらに斬りつける。ついに、おもんは血まみれになって倒れ伏した。庄三郎は女を仕留めたと思ったのであろう、そのまま立ち去った。町内の者たちが集まり、外科医を呼んで応急手当てをさせた。全身の切り傷は八ヵ所におよび、手の指は二、三本がちぎれかかっていた。
医者は治療を終え、「なまくら刀だったようじゃな。傷はさほど深くはない。切れ味のよい刀だったら、こうはいかなかったろうがな。このぶんでは、命に別状はあるまい」と、診立てた。事件から二日後の二十五日、庄三郎は中山道の浦和宿の松葉屋という旅籠屋に泊まり、その夜、自殺した。 
決闘
ともに武芸の稽古にはげむ、ふたりの若い武士がいた。あるとき、ちょっとしたことから口論になり、たがいに譲らない。売りことばに買いことばで、ふたりとも怒りをつのらせる。
ついには、「よし、では、刀で雌雄を決そうではないか」と、決闘することになった。
時と場所、立会人を決めて、その日は別れる。
約束の時刻は早朝である。おりしも寒い季節で、地面には一面に霜がおりていた。最初に、一歳年少のほうが朝霜を踏みしめて現われた。ややあって、年長のほうが現われた。なんと、この寒さのなか、すでに草履を脱ぎ捨ててはだしだった。年少のほうはハッと気づいた。「なんと、はだしではないか。相手は必死の覚悟をしているぞ。草履などを履いていては不覚を取る」と、あわてて自分も草履を脱ぎ捨ててはだしになった。
「いざ、まいらん」おたがいに腰の刀を抜いた。
いっぽうが前進すれば、いっぽうがしりぞく。逆に、片方が迫れば、片方は後退する。真剣だけに、竹刀と防具で稽古をしているときのようには大胆に踏み込んではいけない。そうしているうち、年少のほうがさきほど脱ぎ捨てた草履を、年長のほうがさっと足でかき寄せ、すばやくはいてしまった。これを見るや、年少のほうは後ろを向くや、そのまま一目散に逃げ去ってしまった。
あとで、以下のことが判明した。年長のほうは決闘の場所にはだしで現われたが、べつに必死の覚悟をして草履を脱ぎ捨てたわけではなかった。歩いていて、片方の草履の紐が切れてしまい、やむなくはだしになったのだった。霜がおりた地面だけに、はだしでは冷たい。そこで、スキを見て、相手がその場で脱ぎ捨てた草履をはいたのだ。いっぽう、年少のほうはうかつにも相手のはだしを必死の覚悟ととらえ、あわてて自分も草履を脱ぎ捨てるという不覚を演じてしまった。さらに、その草履を奪われるという不覚を重ねた。
「ああ、かえすがえすの不覚、これでは勝負にならない」と、あっさりあきらめ、逃げ出したのだった。 
白魚
松浦静山が肥前平戸(長崎県平戸市)藩の藩主だったころ。早朝、静山は麻布のある大名屋敷を訪問した。ふたりで話し込み、昼食の時刻になった。大名は昼食を出すと言う。静山はほかで食べると言って断わったが、大名は承知しない。やむなく、静山も馳走になることにした。
昼食のおかずには、平椀に盛った白魚が出た。静山も白魚の味わいに感心した。「ほほう、美味ですな」「これは近海の品でしてね。お代わりをなさい」 平椀の代わりが出た。
これも静山はきれいに平らげた。大名はさらにお代わりを勧める。静山は内心、こんな珍味がそれほどたくさんあるはずはないと思い、「いえ、もう、結構でござる」と、固辞した。
だが、大名は強引に椀を取り、「代わりを持て」と、家臣に命じた。
その後、なかなか代わりが出てこない。静山は事情を察した。「わたくしはもう満腹でござる」「いや、せっかくですから。なにをしておるか。早く代わりを持て」 大名は家臣を叱りつけた。
ややあって、ふたりの前に椀が出された。静山が蓋を取ってみると、中身はかまぼこを細く切ったものだった。すでに白魚がなくなり、かまぼこで代用したのである。
大名は得意満面で言った。「では、わたくしも賞味しましょうかな」 蓋を取って中身を見て、さすがに赤面した。 
酒癖
諸藩の藩士にとって、藩主の参勤交代に従って江戸に出ることはなによりの楽しみだった。およそ一年間、勤番武士として藩邸で生活しながら、江戸のあちこちを見物してまわった。
藩の上層部は藩士が慣れない江戸で不祥事をおこすことを恐れ、なにかと外出に制限をつけた。門限もきびしく、表門は暮六ツ(午後6時)に閉じ、門限におくれた者は譴責された。
そのため、勤番武士が吉原や岡場所で女郎買いをするのはもっぱら昼遊びで、門限に間に合うように帰った。外で酒を呑むのも昼間だった。
仙台藩の藩士砂金三十郎は腕力があり、悪食で酒癖が悪かった。
しかも、妙な特技があり、食べた物を随意に吐き出すことができた。昨日食べたコンニャクの刺身を、コンニャクと味噌に分けて吐き出して見せたこともあったという。
ある日の昼間、砂金は新橋(芝口橋)のたもとにある居酒屋で、ひとりで酒を呑んだ。
帰ろうとすると履物がない。亭主を呼びつけ、叱りつけた。
「俺の履物がないではないか。この始末をどうしてくれる」
「お履物のことは、あたくしどもは存じません」
「履物のことは知らぬと言うのか。では、俺も金は払わぬ」
「呑み食いの代金を払わぬというのは、ご無体でございます」
「では、呑み食いした物を返せば、文句はあるまい。さあ、吐いて返すぞ」
そう言うなり、砂金は呑んだ酒を銅製のちろりに、刺身は皿へと、きちんと分類して吐き戻した。
居酒屋の亭主もこれには激怒し、若い奉公人に命じて取り押さえようとした。ところが砂金は力が強い。酒の酔いも手伝って、暴れまわる。五、六人がかりでも、どうにもならなかった。
砂金ははだしのまま走って追跡を振り切り、芝口三丁目の仙台藩の上屋敷内に逃げ込んだ。いったん大名屋敷のなかにはいってしまうと、もう町人は手を出せなかった。さすがに砂金がおこした騒ぎは上司の耳に届いた。即刻、砂金は国許に帰国するよう命じられた。  
力と技
仙台藩の藩医の道斎は武術の稽古はしたことがなかったが、体が大きく、腕力も抜きん出ていた。
道斎の甥に、体の小さな男がいた。
ある日、麻裃姿の甥を見かけて、道斎が言った。
「なんのための礼服ぞ」「きょう、剣術の伝授を受け、その帰りでございます」「そのほうのように非力小兵では、とても剣術などおぼつくまい。わしは剣術などなにひとつ知らぬが、もし木刀で立ち会えば、そのほうなどぶちのめしてくれるわ」
道斎があざわらった。
ここまで言われて、甥もムッとなった。
「それほどまでにおおせられるなら、立ち会いましょう。私の体に一本でも打ち込んでごらんあれ。ただし、私のほうからはけっして打ち込みません」「それはおもしろい」
ふたりは庭に出て、木刀を持って向き合った。「そりゃー」 道斎はしゃにむに木刀で打ちかかる。甥は伝授を受けただけに、身のさばきは素早い。打ち込んでくる木刀をことごとく自分の木刀で受け流した。
それまで道斎もやや力を加減していたのだが、「では、本気でまいるぞ」と吼えるや、真っ向から力一杯撃ち込んだ。
それを、甥は木刀で受け止めた。道斎はそのまま満身の力をこめ、木刀でグイグイ押し付ける。ついに甥は腰砕けになり、その場に尻餅をついてしまった。  
巨根
加賀藩のある下級武士は巨根だった。
そのあまりの大きさに、結婚もままならなかった。遊里に行っても、その大きな陰茎を一目見るや、さすがの遊女も尻込みし、誰も相手をしてくれない。そのため、武士は壮年になっても童貞だった。「ああ、女を知らずに一生を終わるのであろうか」 ひとり、嘆いていた。
ある日、ひとりで藩邸を出た。浅草の浅草寺に参詣にし、「どうか、女と交わりができますように」と、祈願した。帰り道、山下を通りかかると女郎屋が軒を並べている。山下には岡場所があり、ここの遊女は「けころ」と呼ばれていた。
「お屋敷さん」「お寄りなさい」 女たちがしきりにさそう。武士は一軒の女郎屋にあがると、自分の身の上を正直に打ち明けた。
話を聞いて、女たちが武士のまわりに集まってきた。「ご冗談ばかり」みな半信半疑である。「けっして嘘ではない。だれか、みどもの相手をしてくれぬか」「では、見せてくださいませ」 武士は自分の陰茎を引き出し、女たちに見せた。
驚くやら、笑い出すやら、みな大騒ぎになった。「これでは無理です」と言うだけで、誰ひとり進んで相手をしようという女はいなかった。
そんななか、とくに笑うでもなく、黙って考えている女がいた。武士は女に頼んだ。「どうか、そなた、みどもの相手をしてくれぬか」「ためしてみてもようございます。しかし、きょうは無理です。支度をしなければならないので、あす、お越しなさい」「そうか。では、あす、必ずまいるぞ」
翌日、武士は女郎屋に行き、女と同衾した。とくに支障もなく情交することができた。感激した武士は楼主に掛け合い、相応の金を出して女を身請けし、妻とした。  
住吉踊
讃岐高松(香川県高松市)藩の藩士秋山圭斉は国元から江戸に出てきたが、すでに江戸暮らしが長い角木弥一右衛門からことあるごとに、「そんなことも知らぬのか。田舎者じゃのう」と、嘲弄された。秋山は腹に据えかね、機会があれば角木に一太刀浴びせようと狙っていた。
天保十四年(1843)一月二十一日、白金にある高松藩の下屋敷で、窪田啓助という藩士の昇進祝いがおこなわれ、懇意の者八、九人が招かれた。そのなかに秋山と角木もはいっていた。秋山は、角木が酔って帰るところを襲うつもりだった。「拙者はちと所用があるので」と言い、早めに宴席をきりあげて、暗闇で角木を待ち伏せた。ところが、いつまで待っても角木が出てくる様子はない。
しびれを切らした秋山は羽織を頭からかぶると、住吉踊りの真似をしながら宴席に乗り込んだ。「ありゃさ、ありゃさ」 みなは余興が始まったと思い、手を叩いて笑い転げている。秋山は踊りながら角木の背後にまわりこむや、やにわに腰の刀を抜いて、背中を突き刺した。角木はアッと叫び、その場に突っ伏す。さらにとどめを刺そうとするところ、窪田が背後からとびかかり、秋山をはがいじめにした。宴席の者もどっと集まり、みなで秋山を取り押さえた。
秋山はいったん長屋に拘留された。背中を刺された角木はすでに死亡していた。
翌二十二日、角木のふたりの息子と助太刀の者、合わせて三人が拘留されている秋山のもとに乗り込んだ。三人は「かたき討ち」と称して、丸腰の秋山を斬殺した。
この事件のとき、秋山圭斉は三十三歳、角木弥一右衛門は五十八歳だった。  
嘘も方便
寛永二十一年(1644)三月五日というから、吉原が現在の東京都中央区日本橋人形町のあたりにあったころ、つまり元吉原の時代である。元吉原の遊び方は、客はいったん揚屋にあがり、妓楼から遊女を呼び出し、揚屋で遊興するというものだった。妓楼は遊女の生活の場であり、揚屋はラブホテルに相当する。
西国の大名家の家臣が五人連れで揚屋にあがり、高島屋という妓楼の桂という遊女を呼び出して酒宴を開いた。酔っ払った武士の言動があまりに粗野なのにいや気がさし、桂は挨拶もしないまま高島屋に逃げ帰った。これを知って五人は揚屋の主人に対し、「桂を連れて来い」と、荒れ狂う。
揚屋の主人の要請を受けて、桂は揚屋の前まで出向き、地面に土下座して詫びた。「気分が悪いため、ご挨拶もせずに帰りました。どうかお許しください」「ともかく座敷まで来て、まず盃を受けよ」 だが、うっかりなかにはいると、どうなるかわからない。高島屋の楼主がさっさと桂を連れ帰った。さあ、おさまらないのが五人の武士である。成り行きに恐れをなして、揚屋の主人以下奉公人はみな逃げ出してしまい、五人はがらんとした揚屋に立てこもる形になった。
十左衛門という男が揚屋の戸口まで行き、「ご歴々のお方と存じます。場所も場所でございますから、このままお帰りになってはいかがですか」と、説得しようとした。ところが、五人は十左衛門をなかに引っ張り込み、人質に取ってしまった。
これを知り、十左衛門の息子で、十七歳の十助が揚屋に出向いた。「その年寄りはわたくしの父でございます。どうか、わたくしを代わりの人質にしてください」「せがれが身代わりになろうとは神妙である」 五人は十助を人質に取り、十左衛門を解放した。
そうするうち、元吉原の名主が南町奉行所に訴え出たことから、奉行神尾備前守の命を受け、与力八人、同心四十人が元吉原にやってきた。捕方が来たのを見て、人質の十助が懇願した。「どうか小便をさせてください。漏れそうです」 五人は十助が逃亡するのを警戒し、二階の物干し台に連れて行った。「ここでしろ」 十助は物干し台で小便するように見せかけておいて、一気に下まで飛び降り、そのまま走って逃げた。こうして、揚屋に立てこもっているのは武士五人のみとなり、人質の憂いはなくなった。
ところが、出動した町奉行所の役人は慎重だった。「五人が立てこもっているところに強引に踏み込めば、我らにも怪我人が出よう。ここは方便を用いて外に誘い出し、個別に捕らえるにかぎる」 そこで、弁の立つ与力が揚屋の戸口の前まで行き、声をかけた。「みどもは神尾備前守配下の者である。町人どもが埒もないことで訴え出たため、やむなく出動した。備前守さまは、「喧嘩口論で人をあやめたわけではない。酔狂のあまりの騒ぎである。穏便におさめよ」と申されておる。黙って帰られるのであれば、われわれも手出しはせぬ。早々に帰られよ」「そうはいかぬ。外に出たところを、からめ捕るつもりであろう」「けっして嘘はつかない」「では、ご誓言をうけたまわれば、おとなしく出て行こう」「けっして捕らえないと誓う。武士に二言はござらぬ」「では、出て行くが、つめかけている町人どもをさがらせ、提灯の明りも消してほしい」「よろしい。できるだけ目立たぬよう、ひとりずつ、あいだをおいて出てくるように」 そして、目立たない道を教えると言って、揚屋から大門までの道順を指示した。
与力のことばを信じ、五人の武士がひとりずつ揚屋から出て、大門に向かう。途中で待ち伏せしていた同心たちが左右から飛びかかり、ひとりずつ召し捕った。けっきょく五人の武士は牢屋に入れられた。報告を聞いて、奉行の神尾が言った。「人間が十人いれば、ひとりは馬鹿者がいるものだ。五人が五人とも無分別とは珍しいことじゃ」  
 
お大尽

 

豪遊
材木商として巨万の富を築いた紀文こと紀伊国屋文左衛門は、吉原で豪遊したことで知られる。紀文が吉原の江戸町二丁目にある大松屋で、女郎の松がえと月見の宴を張ったときのことである。突然、大松屋の一階入口あたりで騒ぎがおきた。
見世の者がいったいなにごとかと出てみると、大勢の男たちが大きな折箱を運んできたところだった。箱は台付きで、真田紐で結ばれている。そのままでは階段をのぼれないため、男たちは階段の手すりを派手にぶち壊し、折箱を二階座敷の紀文のもとに届けた。あとから、大工たちがすぐに階段を修復していく。大松屋の主人も、女郎も奉公人も、みな唖然としている。折箱をあけると、なかには巨大な饅頭が一個、でんと収められていた。紀文の友人からの、月見の宴の贈り物だった。大勢がよってたかって饅頭を割ると、なかには普通の大きさの饅頭がびっしりと詰まっていた。この巨大饅頭を作るため、わざわざ大釜をあつらえ、蒸籠などもすべて特注した。そのほか、雇った大工の手間賃など、かかった費用は合計で七十両になったという。
後日、紀文が友人に返礼をした。友人の馴染みは、吉原の京町にある藤屋のあづまという女郎だった。紀文は、藤屋で友人があづまと酒宴を開いているところを訪ね、「先日は、ありがとう存じました。なにかお返しをしたいと思いながら、あたくしごときには、なんの案もございません。せめて、これをお慰みにしてください」と、ふところから小さな箱を取り出し、座敷の真ん中に置いた。
座敷にいた人々が興味津々で小箱のまわりに集まり、蓋を開いた。すると、小さな蟹がいっせいに箱からはい出してきた。たちまち、座敷は蟹だらけとなった。
四方に走る蟹を見て、女郎や禿は、「きゃー」と、逃げ惑う。芸者や幇間たちが蟹を追いかけ、取り集めてよくよく見ると、その小さな蟹の甲羅にはことごとく、友人とあづまの紋が金でしるされていた。
また、紀文が大巴屋で遊んだときのこと。紀文が、若い者の重兵衛に言った。「ことしは、ぜひ吉原で初鰹を賞味したいものじゃ。そのほうの働きで、まだ江戸に一本も鰹が出回らないうちに、わしが食いたい。できるか」「かしこまりました」受け合った重兵衛は、前もって江戸中の魚屋に頼み、前金を渡した。
鰹を積んだ舟が魚河岸に着いた初日、重兵衛はことごとく鰹を買占めておいて、紀文に迎えを走らせた。
紀文が大巴屋にやってくるや、重兵衛は鰹をただ一本だけ料理して出した。まさしく初鰹を紀文が賞味し終えたあと、重兵衛は残った多くの鰹をすべて近所に振舞った。紀文はこの重兵衛の気ッ風のよいとりはからいを喜び、その場で五十両の祝儀をあたえた。
このように豪奢な遊びをした紀文だが、晩年は零落した。零落したあとのこと。
紀文が破れ着物を身にまとい、擦り切れた草履をはいて浅草寺に参詣に出かけたところ、それを吉原の妓楼の奉公人が見かけて、さすがに哀れに思った。奉公人は新しい草履を買い求め、紀文に差し出した。「以前、お世話になった者でございます。どうぞ、これをおはきください」紀文は草履をおしいただいて受け取ると、ふところからなけなしの金一分を取り出し、「取っておきなさい」と、祝儀をあたえた。
享保十九年(1734)、紀文は深川の地で貧窮のうちに死んだ。六十六歳だったと伝えられている。
紀文と並び称されたのが、同じく材木商の奈良茂こと奈良屋茂左衛門である。あるとき、友人が吉原の馴染みの女郎のところに行くというので、奈良茂も付き合うことになった。吉原に行くというのに、奈良茂は手土産としては、供の者に蕎麦二箱を持たせただけである。友人もさすがに蕎麦ふたつではみっともないと思い、途中で蕎麦屋に寄り、豪勢にあつらえようとした。ところが、どこの蕎麦屋も売り切れだという。じつは、奈良茂はあらかじめ吉原はもちろんのこと、山谷や浅草田町など近辺の蕎麦屋をその日一日、すべて買い上げにして、蕎麦ふたつだけを持参すると言う趣向を凝らしていたのである。  
猫さがし
浅草平右衛門町に、伊勢屋治助という両替商がいた。治助は大の猫好きで、三匹の猫を飼っていたが、そのうちの一匹をとくに溺愛していた。弘化二年(1845)五月、そのもっとも可愛がっていた猫が行方知れずとなった。
心配のあまり半狂乱になった治助は、猫が無事に戻ってくるよう修験者に加持祈祷を頼んだり、易者に居場所を占わせたりしたが、いっこうに猫の行方は知れない。
そうするうち、易者のひとりが言った。「命に別状はございません。北東の方角をさがすとよろしいでしょう」 この託宣を聞いて治助は、伊勢屋に出入りしている雲長という日雇い人足を呼んだ。
「おまえは、日にいくら稼げば生活が成り立つのかね」「一日に四百文は稼がないと、暮らしていけません」「では、毎日、四百文を出そう。仕事をしながらでよいから、とにかく北東の方角をくまなく、裏長屋の隅々まで歩きまわり、猫をさがしておくれ」「へい、かしこまりやした」雲長は喜んで引き受けた。
実際は猫さがしなどせずに、雲長は四百文の日当をもらって遊び暮らしていた。
その後も猫の行方が知れないため、治助は方々に加持祈祷を頼み、護摩まで焚かせたが、効果はなかった。
義兵衛という八百屋が、町内の鳶の頭を訪ねてきた。
「伊勢屋の旦那が猫をさがしていると聞きました。じつは、あたしは妙法を知っております。ある呪文を唱えれば、猫は七日のうちに必ず戻ってまいります。親方は伊勢屋に出入りしているはず。旦那に取り次いではいただけませんか」
鳶の頭はあまりに馬鹿馬鹿しいため、「そんな取次ぎができるもんか。おめえさんが、じかに伊勢屋の旦那に会って、教えてやりな」と、取次ぎを断わった。
そこで、義兵衛はみずから伊勢屋を訪ね、治助に呪文を教えた。六月初めのことである。
その日以来、治助は大真面目で呪文を唱えていた。
浅草旅籠町に、治助が所有する裏長屋があった。長屋の大家が六月七日、猫をだいて伊勢屋にやってきた。
「近くの長屋の屋根にいるところを見つけました。鳶の者三人に頼んで屋根にのぼらせ、ようようつかまえました」
驚喜した治助は、褒美として大家に十五両、鳶の者三人にそれぞれ五両をあたえた。また、呪文を教えてくれた八百屋の義兵衛に大きな鰹節十五本を贈った。そのほか、いろんな人に祝儀をあたえた。
思わぬ謝礼をもらった鳶の者三人は、さっそく蔵前の料理茶屋にあがって大いに飲み食いをした。勘定は二分と少々である。支払いに、小判一枚を出した。
驚いたのが料理茶屋の主人である。このところ、偽小判が出回っているので注意するようにというお触れが出ていたのだ。
そこで、奉公人一同で三人を取り押さえて町内の自身番に連行し、町役人を呼んで取り調べると、三人とも五両を所持していた。
「そんな大金を、どうしたのか」「猫を見つけた謝礼にもらったのですよ」「嘘をつくな。たかが猫を見つけたくらいで、ひとりに五両も払う人間がどこの世界にいるものか」
だが、三人は伊勢屋治助にもらったと言い張る。
念のため、平右衛門町の伊勢屋に人を走らせて確かめると、はたしてその通りだった。あれこれと手続きに手間取り、鳶の者三人が自身番から釈放されたのは翌日の夕方だった。なお、この猫さがしで治助が費やした金は総額で百二、三十両におよんだという。  
烏金
烏金(からすがね)とは、日歩で借りる高利の金銭のこと。きょう借りて、翌朝、烏が鳴くころには返済しなければならないので、この名称がある。
岡場所は非合法の私娼地帯である。
非合法とはいえ、なかば公然と営業していたが、殺人や放火などの大きな事件が起きると、町奉行所の役人が乗り出してきた。
これを、警動と呼んだ。
町奉行所は警動をおこない、犯人を召し捕るのはもちろんのこと、事件が起きた女郎屋を取り潰した。
「そもそも、許可も得ずに女郎屋稼業をいとなんでいるのがけしからぬ」と言う理屈である。
場合によっては、岡場所そのものが取り払いとなった。
そのため、岡場所はなにか犯罪がおきても揉み消してしまい、町奉行所には届けなかった。
現在、違法営業している性風俗店が強盗などの被害にあっても警察に届けないのと似ている。
なまじ警察に届け、捜査がおこなわれると、風営法の許可を得ていないことや、不法滞在の外国人を雇用していることがばれ、営業停止になる。薮蛇になるからだ。
岡場所は吉原以上に繁盛していたが、いつ警動にあい、取り潰しになるかわからないという危うさがあった。そのため、岡場所の女郎屋は金策に苦労していた。さしもの高利貸しも岡場所の女郎屋には金を貸さなかったのだ。村田五兵衛という、烏金を貸す高利貸しがいた。その烏金は、金一両につき日歩二百文の利息だった。村田は太っ腹で、岡場所の女郎屋であっても金を貸した。「警動になったら、なったときのことよ。そのときは、貸した金はきれいさっぱりあきらめよう」 このため、各地の岡場所の女郎屋はこぞって村田から金を借りた。
女郎屋は現金商売であり、毎晩、大金が落ちる。いつ警動になって取り潰されるかもしれない危険はあるが、もうかるときはもうかる。ほとんどの女郎屋が、翌朝にはきちんと元金に利息をつけて返済した。村田は大もうけをし、たちまち江戸でも分限者とよばれる身代となった。  
口吸い
十八大通とは、明和-天明期と文化・文政期に、金にあかせた奇矯な行動などで注目を集めた町人のことである。蔵前の札差が多かった。たとえ豪商でも、堅実な経営や生活をしていた商人は十八大通とは呼ばない。
蔵前の札差の伊勢屋宗四郎は号を全吏といい、湯水のように金を使うことで有名だった。
毎月十五日、全吏は柳島妙見に参詣していた。
ある年の春、全吏は妾のおみなと、幇間(太鼓持ち)五、六人を引き連れて柳島の船宿から舟に乗り、竪川を行き、妙見の岸でおりた。
妙見の参詣をすませ、みなで談笑しながら土手道を吾妻の森に歩いているとき、全吏が思いついた。
「俺はおみなとふたりでさきに行く。あとからついてこい。途中で、そっとおみなの口を吸う。俺が口を吸うのを見つけた者には、一両ずつやろう」
口を吸うとは、唇と合わせること。つまり、キスである。
幇間たちは喜んだ。
「これはよいご趣向でございますな。あなたがおみなさまの口を吸うのを見つけたら、一両くださりますか。ありがたい」 全吏とおみながさきに立って歩き出した。
あとから、幇間たちが様子をうかがいながらついてくる。しばらくして、全吏はおみなの襟元を引き寄せ、そっと口を吸った。めざとく見つけた幇間が叫んだ。
「それ、旦那、見つけました」「南無三、それ、一両」全吏は財布から小判を取り出し、道に放り出す。
しばらく歩いてから、またもや全吏がおみなの口を吸う。「それ、旦那」「それ、一両」 こうして、吾妻の森につくまでの三-四町の道のりのあいだに、十二両を費やしたという。  
暴れ者
蔵前の札差板倉治兵衛は隠居したあとは杏雨と号し、十八大通のひとりだった。
ある店で、主人と客が激しい口論になった。
客は体の大きな、勇み肌の鳶の者である。いまにも暴れ出しそうだった。
たまたま、店の前を杏雨が通りかかった。すでに八十に近い高齢である。
杏雨はつかつかと店にはいっていくや、鳶の手首をつかんでねじりあげた。
「おのれは憎きやつかな。早々にたちさるがよい」「あ、痛い、痛い」 手首を取られた鳶は苦痛にうめき、その場にへたり込んでしまった。杏雨はふところから煙管を包んでいた布を取り出し、それで鳶の両手をしばって、町役人のもとに引き立てていった。「この野郎を町の外まで連れて行き、いましめを解いてやるがよい」
見物していた人々はみな、杏雨の剛勇に感嘆した。
「さすが、杏雨翁だ。八十近い老人が、あの暴れ者を押さえ込んでしまったのだから」
あとで、真相がわかった。
杏雨は騒動を見て、見物人のひとりにそっと口論の原因を尋ねた。すると、わずか一朱を貸せ、貸さないが喧嘩のもとだとわかった。
そこで、杏雨は一朱金五片を手のなかに隠し持ちながら、鳶の手首をつかんだ。鳶も感触から一朱金だとわかり、杏雨の意のままになったのだという。 
西行の杖
蔵前の札差の伊勢屋喜太郎は隠居して百亀と名乗った。
百亀は毎年、箱根の温泉に湯治に出かけていたが、ある年、箱根からの帰り、六、七人の供を引き連れ、駕籠に乗って大磯の西行庵に立ち寄った。
西行庵の庵主とは顔なじみのため、久しぶりで四方山話をした。
「また、寄らせてもらいます」 百亀は挨拶をし、駕籠に乗り込んで去る。このとき、うっかり杖を忘れたが、駕籠に乗ったため、百亀も供の者も気づかなかった。
しばらくして、庵主は百亀が杖を忘れていったことに気づいた。見ると、竹製ながら、なかなか風流な逸品である。
ふと、思いついた。「この杖を、西行が用いた杖にすればよい。この杖であれば、よもや人も、まがいものとは思うまい。どうせ、いまの品は贋物なのだから」 西行庵には「西行の杖」と称する杖が飾られていたが、真っ赤な贋物だった。そこで、庵主は従来の贋物と百亀が忘れていった杖とを入れ替え、紫絹の袱紗に包んで、大事に保管した。
四、五年後、百亀がふたたび西行庵に立ち寄った。すると、知り合いだった庵主はすでに死に、若い僧侶が庵主となっていた。あたらしい庵主が自慢した。
「西行法師が東下りをしたとき、この地に立ち寄り、例の有名な鴫立沢の一首を詠まれました。そのとき、西行法師がお忘れになった杖が、わたくしどもにございます。拝観料ひとり十二文で、お見せしております」「それは珍しい。ぜひ、見せてください」
庵主が取り出した杖を見ると、なんと、先年、自分が置き忘れた杖だった。しかし、百亀はいまさらこれは自分の杖とも言えない。そこで、百亀は自分と供の者の拝観料十二文ずつを支払い、いかにも感心してみせたという。あとで、百亀は、「わしの杖が、西行法師の杖になってしまったぞ」と、大笑いした。  
狐退治
下総佐倉(千葉県佐倉市)藩堀田家の下屋敷は渋谷笄橋にあり、敷地は二万坪を越す広大さだった。
下屋敷には前藩主の正室が隠居して住んでいたが、隠居つきの、三輪玄春という三十二歳になる医師が天保九年(1838)五月十四日の夜、浮かれたように屋敷から出て行き、そのまま行方知れずになった。
四、五日後、敷地内の、人も滅多に通らない場所で玄春の死体が発見された。草むらのなかに横たわっていた体にはとくに外傷はなかったが、やせこけて、骨と皮ばかりになっていた。玄春の死を知らされ、隠居が怒った。「きっと狐か狸にたぶらかされ、精気を吸い取られたに違いない」 息子である藩主に、下屋敷内で狐狩りをするよう要請した。
藩主の堀田正篤は、狐狩りの名人の藤兵衛という男が国許の佐倉にいるのを聞いて、すぐに江戸に呼び出した。「悪事をなす狐をすべて退治せよ」
藤兵衛はすぐさま準備に取り掛かった。玄春の死体が発見されたあたりに魚の臓物などを撒き散らし、ワナを仕掛けた。また、自分は酒を呑み、泥酔しているふりをして、千鳥足でふらつき歩いた。狐が臓物のにおいにさそわれて集まってきたのを見はからい、藤兵衛は草むらに倒れこみ、寝たふりした。藤兵衛が酔って寝てしまったと思い、狐が用心しながら寄って来て、手や足のにおいをかいだり、なめたりする。やおら藤兵衛はおきあがるや、意味不明のことを口走りながら、踊り出す。これを見て、狐は藤兵衛が化かされたと思ったのか、自分たちもいっしょになって踊り出す。藤兵衛はかねて用意していた魚の干物を地面にこぼしながら、ワナのほうに狐を誘導していった。
こうして、六月十二日の夜から始め、狐十一匹、狸一匹、猫一匹を捕獲したという。  
 
商人・町人

 

行商人の祝儀
牛込肴町に新場九郎兵衛という大きな魚屋の主人がいた。
九郎兵衛は通り者で、地元では親分と立てられていた。女房は吉原の大黒屋の右近という元遊女だった。身請けして女房にしたのである。
九郎兵衛が吉原で盛んに遊んでいたことのことである。
ある日、仲の町の近江屋という引手茶屋で十人ばかりの遊女を相手に酒を呑んでいた。
いましも、天秤棒で荷をかついだ男が、
「生イワシ、生イワシ」
と声を張りあげながら通りかかった。
見ると、同じ町内の、八と呼ばれる行商の魚屋だった。刺し子の古びた半纏を着て、みすぼらしいかっこうをしている。
近江屋の座敷から九郎兵衛が呼んだ。
「八よ、八よ」
「これは九郎兵衛さまか」
八が立ち止まる。
「ひとつ呑め」
九郎兵衛が盃を出した。
八はその場に荷をおろし、盃をもらおうとした。
茶屋の亭主や遊女は八の薄汚い格好を見て、座敷にあげようとはせず、
「そこにお座りなさい」
と、縁側を示した。
九郎兵衛は意地になり、
「八よ、そんな縁側の隅っこではなく、ここにこい、ここにこい」
と、座敷に招いた。
八は遠慮して縁側に腰掛け、盃の酒を呑んだ。
九郎兵衛が茶屋の亭主に言った。
「吸物を出してくれ」
亭主が立ったすきに、九郎兵衛は八の耳元に、
「これを亭主に祝儀に渡せ」
とささやき、そっと小判を渡した。
亭主が戻ってきた。
八が盃を亭主に返す。
亭主が盃を受け取ろうとするところ、八がその手をつかんだ。
「えっ」
と、亭主が気色ばむ。
やおら、八が一両の祝儀を渡した。
居合わせた遊女らはポカンとしている。
亭主は丁重に押しいただき、一両の祝儀を受け取った。
八は荷をかつぎ上げると、
「生イワシ、生イワシ」
と声を張りあげ、足早に去っていく。
その後ろ姿を指差し、九郎兵衛が自慢した。
「おらが町内の者は、みんなあの通りさ」 
再婚
深川の材木商が大和地方を旅することになり、奉公人ひとりを供に従え、午の年の春なかば過ぎ、江戸を出立した。
金沢八景、鎌倉、江の島に立ち寄ったあと、箱根にさしかかると、山道のかたわらの大きな石に、真っ裸の男が放心状態で座っている。
材木商は不審に思い、「いったい、どうなさったのですか」と尋ねた。
男は答えて言った。「芝あたりの者でございますが、刻限を取り違えて、うっかり夜がふけてからこのあたりにさしかかったところ、四、五人の男に取り囲まれて、荷物から衣装からすべて奪われてしまいました。湯治にまいるところだったのですが、思わぬ災難にあってしまい、どういたらよいものか途方に暮れております」
材木商はいたく同情して、「旅は相身互でございます。あたくしは大和廻りを志す者ですが、それも来世を願わんがため。人の災難を救うのも善根を積むことになります。予定の通り、このまま湯治に行くがよろしいでしょう」と、自分の着替えの衣類一式と、かなりの金額を渡した。
男は感激して、ぜひ住所と名前を教えてくれと願う。
材木商もはじめは明らかにしようとしなかったが、男があまりに懇願するため、金を包んだ紙に住所と名前を書いてやった。
「後日、江戸に戻ってから、必ずお礼にうかがいます」何度も頭をさげたあと、男は材木商と別れて、温泉場に向かった。
ところが、宿に着いたその日の晩、男は頓死してしまった。
宿の者が遺体をあらためると、深川の住所と屋号を書いた紙が出てきた。
そこで、宿では使いの者を江戸に派遣し、深川の材木商を訪ねさせた。
主人が急死したという思いがけぬ知らせに、みな驚愕した。誰もが半信半疑だったが、ともかく、手代のひとりを箱根の温泉場に向かわせた。
手代が遺体をあらためたが、すでに仮埋葬されていたため顔などは腐敗が進んでいて見分けられない。ただ、身につけていた着物は主人の物に間違いなかった。
「供の者がいたはずですが」「いえ、おひとりでしたよ」手代は、その宿の者の答えに納得がいかなかったが、供の奉公人は逃げたのであろうと判断した。そこで、「あたくしどもの主人に間違いございません」と、身元を確認した。その地に遺体をあらためて本葬したあと、手代は形見の衣類などを持って、深川に戻った。
手代からいきさつを聞き、誰もが嘆き悲しんだが、とくに女房の悲しみはひとかたならず、出家して尼になると言い出した。
そこで、親類縁者が集まって相談し、「子供は七歳の娘を頭に、男子はまだ幼い。このままでは、店の存続はおぼつかない。さいわい、筆頭の手代は実直者だ。手代を婿に迎え、子供の後見人とするのが家内繁盛のもといである」と、女房を説得した。ついに女房も、筆頭の手代を婿に迎えることを承知した。この婚姻は町内にも披露目がなされた。
いっぽう、大和を旅していた材木商はついでに四国、中国地方にも足をのばし、およそ百日を経て江戸に戻ってきた。すると、女房は自分が死んだものと思って、手代のひとりと再婚しているではないか。材木商は愕然とした。だが、いきさつを知るや、「これも前世の因縁であろうよ」と、いさぎよく隠居して身を引き、別宅で余生を送った。 
金もうけ
享和三年(1803)の春から秋にかけて、江戸で麻疹(はしか)が大流行し、多数の死者が出た。
浅草に、筑後柳川(福岡県柳川市)藩立花家の下屋敷があった。この屋敷内に鎮座する太郎稲荷は以前からご利益があるという評判が高く、柳川藩でも参詣人には門内にはいることを許してきた。
麻疹の流行を契機に、「太郎稲荷に願をかけると、麻疹にかからない。たとえかかっても、軽くすむ」という噂が広がった。
評判が評判を呼ぶ。
柳川藩の下屋敷にどっと参詣人が押し寄せ、あまりの混雑で、押し倒されてけが人が続出し、死人まで出る騒ぎとなった。
このため、柳川藩では門を閉じ、あらかじめ切手(鑑札)を入手した者にだけ出入りを許可した。それでも、参詣人はつめかける。屋敷内にはいれないため、人々は門前で遥拝するしかない。
太郎稲荷に参詣させてほしいという声があまりに大きいため、柳川藩でも五節句の三日間と、毎月の午の日は切手がなくても門を自由に出入りすることを認めた。
当日になると、まだ夜明け前から門の前に参詣人がつめかけ、ひたすら開門を待つ。屋敷の周辺は、おびただしい人の数で埋め尽くされた。
この太郎稲荷の集客力にあやかり、浅草や下谷では水茶屋の開業が相次いだ。茶代だけで一日に三貫文から五貫文になったという。そのほかの商店でも、当日の売り上げはいつもの十倍になった。
各種のご利益があるということで、この太郎稲荷人気は麻疹の流行が終息したあともしばらく続いたため、柳川藩の下屋敷周辺は門前町のにぎわいを見せた。 
塩行商
江戸の町には多くの行商人が行き交っていたが、そのなかでも、塩の行商はもっとも元手がかからない商売といわれていた。経験は必要ないが、利も薄い。誰でもやれたため、老人が多かった。
深川平野町の裏長屋に、塩売りの老人が住んでいた。
毎日、深川一帯を、「塩屋、いい塩」と売り声をあげ、行商してまわる。
時々、異様な目をして、「金返せ、金返せ」と口走ることから、子供たちからもからかわれ、馬鹿にされていた。
ある商人が老人を呼んで塩を買ったとき、いたずら半分でたずねた。
「おまえは根っからの塩売りではないと見たが、どうかね。昔は、それなりの身ではなかったのかい」
老人はふところから古びた紙の束を取り出し、「わしはいま、金貸しをしておりましてな。陸奥守さまに一万両ほど貸しており、毎日催促に行くのですが、なかなか埒が明きません。そのほか、大名方の多くに金を貸しております。これは、その証文です」と、延々と語った。まったく正気ではなかった。
正徳(1711-16)のころ、神田三河町に伊勢屋という古着屋があり、倹約して金をため、かなりの身代となった。夫婦には男の子がひとりあった。父親が死んだあと、息子が店を継いで切り盛りしていたが、父親に勝るとも劣らぬ始末屋で、結婚もせず、ひたすら金を貯めた。壺に入れた金を毎日、二、三度、そっとフタを取ってながめるのを唯一の楽しみにしていた。ある日、外出先から帰宅すると、金を入れた壺が消えていた。何者かに盗まれたのだ。男は泣き叫び、あちこち駈けずりまわった。ついには、地面に打ち伏し、のたうちまわる。とうとう、気が狂ってしまった。その後、ふっといなくなり、いつしか深川に住みつき、塩の行商を始めたのだという。 
床の間
麹町のあたりに、かなり裕福な商人が住んでいた。もとは房州(千葉県)あたりの生まれで、江戸に出てきて行商を始めた。商売は順調で、ついに店を構えるまでになったのである。
女房子供のほか、手代ひとりに丁稚、乳母、下女などの奉公人もいた。
男は二階の一室を来客用に造り変えた。かなりの金をかけ、座敷は満足のいく仕上がりとなったが、床の間に掛けるものがない。
その後、外出するたび、それとなく古道具屋に目をくばっていた。
あるとき、一面の額が目にとまった。
立ち寄ってながめると、なにか難しい字が三字書いてあり、朱の印が押してある。男は平仮名とやさしい漢字くらいは読めるが、そのくずした漢字はとても読めなかった。
内容はわからないものの、額は錦のへりと朱ぶちを用い、なかなか立派である。
内心で、「これほど立派な表装をするくらいだから、きっとそれなりの人が書いたものに違いない」と、思った。
男はさっそく店の主人に掛け合い、その額を買い求めた。
家に帰り、二階の座敷の床の間に額をかけると、一段と引き立つような気がした。
しばらくして、二階座敷の披露目もかねて大勢の客を招き、酒や料理を出してもてなした。
みな、口々に座敷の造作がよいことをほめた。そのうち、ひとりが遠慮がちに言った。
「まことにきれいにおしつらいなされました。つきましては、あのご正面の額はいかなるお心にて、お掛けなさったのでしょうか」
古道具屋で見つけて買ったと言うのは恥ずかしいため、男はもっともらしく答えた。
「この額は、懇意の人からいただいたものでございます」「時に、この文字をご承知でお掛けになっているのですか」「いえいえ、わたくしは一向、無筆文盲でございまして、読めないままに掛けたしだいでして。一番上の「天」という字だけはかろうじて読めますが、あとの二字はまったく読めません」「なるほど、ごもっともでございます。これは「天麩羅」という三文字でございますので、この結構なお座敷には少々、似合わぬように存じます。お取り換えになってはいかがでしょうか」
なんと、男が道具屋で買ったのは、天ぷら屋の看板だったのだ。 
金もうけ
筑後久留米(福岡県久留米市)藩有馬家は、国許の水天宮を勧請し、三田にある上屋敷内に祭った。
文政期になり、久留米藩では毎月五日、参詣の人々に屋敷の門を開放した。
これにともない、毎月五日になると、屋敷の周辺は参詣の人々で埋め尽くされた。この群集をあてこみ、多くの露天商が出た。
門内にはいると、水天宮は白木造りで、そばに幕を張りめぐらした役所があり、藩士七、八名が詰めて、守札を販売していた。値段は十二文だが、飛ぶように売れた。
火防、安産、水難などにご利益があり、とくに喉に魚の骨が刺さったときなど、守札の梵字を一字くりぬいて飲むと、たちどころに抜けるという評判だった。
文政二年(1819)二月五日に水天宮を見物に訪れた村尾嘉陵はその著「遊歴雑記」に、にぎわいぶりを、「参詣の男女山をなして往来する…」と、書いている。
金もうけ
天保四年(1833)、上総久留里(千葉県君津市)藩黒田家の下谷広小路にある上屋敷で、「出現不動尊略記」と題する引札が発行された。引札には、上州(群馬県)で発見された黄金の不動尊を屋敷内の不動堂に安置したことや、毎月二十八日に開帳することなどが、もっともらしく記されていた。最初の開帳である五月二十八日には、下谷広小路の屋敷には多数の参詣人が詰めかけ、賽銭も多額にのぼった。ところが、黄金の不動尊など真っ赤な嘘であることが露見した。九月、久留里藩は幕府の譴責を受け、家老兼留守居役が軽追放、その他関係者が押込などの処分となった。不動堂は取り壊しを命じられた。 
高利貸し
家禄百五十俵の旗本で鉄砲箪笥奉行の内方鉄五郎とその妻が、文化十三年(1816)三月二十九日の夜、何者かにより屋敷で殺害された。内方七十二歳、妻は七十三歳だった。
屋敷に忍び込んで夫妻を刀で殺害した者は、金を奪って逃走した。その夜、養子の与八郎はたまたま泊まりがけで実家に行っていて、不在だった。疑いは与八郎にかかった。捕らえられたとき、かなりの大金を所持していたことも疑惑を深めた。
与八郎は牢に入れられ、種々の拷問を受けたが、頑として罪を認めなかった。翌年の四月、与八郎は牢内で病死した。けっきょく、犯人は不明のまま、内方家は絶えた。
殺された内方鉄五郎は、はなはだ評判の悪い人物だった。鉄砲箪笥奉行に任ぜられるまで、内方は代官を務めていた。そのとき、賄賂をしこたまため込んだのか、裕福だった。この金を元手にして、ひそかに武士を相手に高利貸しをおこなっていたのだ。借金の取り立ては過酷だった。期限までに返さないと、容赦なく借金のカタとして刀、脇差などをまきあげた。
殺害に使用された刀も、内方が借金のカタに取りあげたもので、某家に先祖代々伝えられた名刀だったという。ほかに、あちこちに貸家も所有していた。
金はうなるほどあるのだが、内方夫婦は吝嗇だった。養子の与八郎にも、三度の食事を一度しかあたえなかった。そんなこともあって、犯行の夜、与八郎は実家に行っていたのだという。  
犯す
天保十五年(1844)一月のこと。小伝馬町一丁目に、島屋という呉服屋があった。
番頭の徳兵衛は三十一歳で、男色が好きだった。十四歳になる丁稚小僧の竹次郎に迫り、後ろから犯した。
肛門が切れて、竹次郎がその痛みに泣き出したため、ちょっとした騒ぎとなった。
息子が犯されてけがをしたと聞き、父親が乗り出してきたが、交渉の末、徳兵衛が詫び金を払って、内済(示談)となった。
島屋では外聞をはばかり、内密にしていたのだが、こういう噂はすぐに世間に広がる。
また、なまじ島屋が口をつぐんでいるだけに、勝手な憶測がひとり歩きし、風評も尾鰭がついて流布する。
「竹次郎は肛門が四方に裂けて死んだ」「竹次郎はその痛みに悶絶し、駕籠で実家に送り返された」「父親が島屋に怒鳴り込んで、二十両の慰謝料を取った」とかいう話も喧伝された。
また、「番頭の徳兵衛は上州(群馬県)者で、島屋を首になったあと、吉原の妓楼に住み込みで働いていたが、火事でその見世が丸焼けになった」という説もあった。
実際は、竹次郎の肛門の傷はたいしたことはなかったようで、その後も島屋で奉公を続けていた。また、番頭の徳兵衛は京都生まれで、もともと陰間遊びが好きだったようだ。事件のあと、近所に住む職人などがおもしろがって、ことさらに声高に吹聴するため、徳兵衛もさすがに島屋には居づらくなった。みずから暇を取り、いったん国もとに帰った。その後、ふたたび江戸に出てきて、高砂町あたりの町医者のもとに転がり込んだという。
事件の内容が内容だけに、みなは被害者の竹次郎に同情するどころか、むやみとおもしろがり、はやし立てた。
次のような童唄までできた。
「島屋の番頭、けつ掘り番頭、小僧は難儀、早桶だんのう、丸焼けだんよう」
この唄を、子供たちが大きな声で歌って、はやし立てていたという。早桶は、棺桶のこと。竹次郎が死んだという噂を踏まえたものであろう。また、丸焼けとは、徳兵衛が出奔して住み込んでいた女郎屋が全焼したという風聞を踏まえたものであろう。当時流行していた、餅売り商人の、「ひりひりだんよ、丸々だんよ、そのことだんよ」という唄をもじったようだ。 
怪我
神田仲町に玉屋という質両替屋があった。玉屋のひとり娘のおやすは二十二歳になるが、これまでに二度婿をもらい、二度とも離縁していた。
善兵衛という男が仲人になり、南鍛冶町にある質屋の次男の吉兵衛、二十八歳を三度目の婿に迎えることになった。
たまたま婚礼の当日、御成道(下谷御成街道)にある石川という質屋の番頭が玉屋を訪ねてきた。
番頭は家のなかがにぎやかなのを見て、おやすの母親に尋ねた。
「だいぶお取り込みのようですが、どうかいたしましたか」「今晩、娘に婿がまいります」「それはおめでとうございます。じつは、あたくしどもにもひとり、婿にやりたい若者がおりましてね。もう少し早く存じておれば、あたくしがお世話させていただきましたものを」と、いかにも番頭は残念そうである。
これを聞いて、おやすも、母親も急に今度の婿の吉兵衛がいやになった。
というのは、石川のほうがはるかに金持ちだったのだ。石川から婿をもらったほうが、玉屋の商売上も好都合である。
婚礼の夜、おやすは気分が悪いと称して三々九度の盃を断わり、寝床に同衾することも拒否した。
その後、母子で吉兵衛を追い出しにかかる。
とうとう吉兵衛も居たたまれず、実家に逃げ戻ってしまった。
おやすの母が、仲人の善兵衛に申し入れた。
「吉兵衛さんは家風に合わないので、離縁したいのです」善兵衛は合点がいかないため、「吉兵衛さんは律儀な人柄ですぞ。どこが悪くて、家風に合わないのですか。きちんとした説明をしていただかないと、仲人のあたくしも、先方さまに合わせる顔がございません」と、追及した。
母親は苦しまぎれに言った。「じつは、吉兵衛さんの物は大きすぎて、最初の夜、娘の前が傷ついてしまい、腫れて痛み、その後はとてもできないそうでございます。そんなわけで、和合できない婿どのでございますから、どうか離縁をお願いします」これを聞き、善兵衛はさっそく南鍛冶町を訪ね、吉兵衛の父親にいきさつを話した。
父親は首をひねり、「子供のころは普通でしたがね。おとなになってからの物は見ておりませぬので、なんとも申せません。ともかく、あたくしが倅にたしかめてみます」と、いったん善兵衛を帰した。
その後、父親が吉兵衛を二階に呼び寄せ、仔細を尋ねたところ、真っ赤な嘘ということがわかった。
父親は怒り、離縁は受け入れられないと言い出した。
これを知り、玉屋では親類に金三両を持たせて使者に立て、内済(示談)にしようとした。
だが、吉兵衛の父親はますます怒りをつのらせ、使者を追い返すや、南町奉行所に玉屋の不当を訴え出た。時に、安政三年(1856)七月二十日のことである。
双方の関係者が奉行所に出頭を命じられた。
まずは、吉兵衛の父親が申し立てた。「倅はべつに大陰茎でもないにもかかわらず、このような難題を申しかけられ、心外に存じております。どうか、ご吟味をお願いいたします」次に、玉屋の関係者が呼ばれたが、おやすと父親は病気と称して出頭しなかったため、母親が弁じた。「婚礼の夜、吉兵衛さんは娘に怪我をさせてしまいました。それ以来、娘は恐がり、吉兵衛さんのそばに近づくこともできません。和合もできない状態ですので、離縁を願うしだいでございます」次に、吉兵衛が呼び出され、いきさつを申し立てた。「婚礼の夜は盃事はせず、まして床入もございませんでした。その後も、一度も添い寝しておりません。怪我をさせるようなことは、いっさいしておりません」双方の言い分はまったく正反対である。
ここにいたり、南町奉行の池田播磨守はいったん関係者を引きさがらせたあと、吉兵衛側に同行した町名主に、「吉兵衛の男根の寸法を取ってまいれ」と命じた。
やがて、名主が寸法を測って記入したものを持参する。そこには、長サ四寸五分、廻り同断、頭差渡し壱寸と書かれていた。
播磨守はしげしげとながめて、尋ねた。「格別に大きいとも思わぬが、これは平常の寸法か、それとも興りしときの寸法か」名主も返答に窮した。その日はけっきょく水掛け論に終わったが、七月二十九日になって、おやすは全快したとして奉行所に出頭した。おやすは堂々と、「婚礼の夜、前に怪我をして腫れあがり、三日ほどは痛くてたまりませんでした。それ以来、恐くて、亭主を寄せ付けなくなったのでございます」と、弁じた。いっぽう、吉兵衛も、「まだ一度も添い寝はしておりません。怪我をさせるなど、けっしてございません」と、繰り返す。
こういう水掛論が繰り返されたあげく、ようやく八月十七日になり、玉屋が吉兵衛方に詫び証文を入れ、金千疋(二両二分)を出すことで内済が成立した。  
自殺偽装
赤坂表伝馬町に乗物屋があり、十九歳になる息子は放蕩者だった。
嘉永三年(1850)五月、息子は日光に参詣するという名目で親から三両の金を引き出すと、悪友ふたりと連れ立ってそのまま品川宿に向かった。
三人は品川の大和屋という女郎屋に登楼すると、そのまま数日間も居続けをした。ついに、持参した三両の金も使い果たしてしまった。
息子は自分が人質になり、「俺が居残るから、金を工面してきてくれ」と、友達ふたりを帰宅させた。
ところが、ふたりはいっこうに戻ってこない。
当初はそれなりに丁重だった大和屋でも、金の工面ができそうもない様子を見て、息子に対する態度を変えた。
怒った息子は、「金を払わないとは言ってねえ。ちょいと、届くのがおくれているだけじゃねえか。馬鹿にするな」と、二階座敷の障子を蹴り破った。
女郎屋の若い者のなかには、短気な者や、気の荒い者もいる。
「なにしやがるんだ」と、数人がかりで息子を叩きのめした。
たまたま打ち所が悪かったのか、息子は死亡してしまった。
あわてたのは大和屋である。
鴨居に紐をかけ、息子をつるした。首をつって自殺したようにみせかけたのだ。その上で、役人に届け出た。
検使にきた役人は、「縊死の死相ではない」と喝破し、死体をおろさせた。体をあらためてみると、背中に打撲傷があった。これで、自殺ではないことが明らかになった。
大和屋は、息子の親に内済(示談)を申し入れた。親のほうでも、「倅は放蕩者で、親としても持て余しておりました。表沙汰にしても、生き返るものではなし」と、十両で内済することに同意した。表向きは十両の内済だったが、実際は、大和屋は別に七十両もしくは四十両を渡したという風評もあった。 
老人
小石川原町に、天公法現という医者が住んでいた。宝暦元年(1751)の生まれで、九十二歳だった。
いっぽう、神田八軒町に、妙仙という鍼や揉み療治をおこなう女が住んでいた。五十歳だった。
ともに独身であるのを見て、世話人が、「おたがいに類業だし、ふたりで稼いだほうが暮らし向きもよいのでは」と、あいだを取り持った。
法現も妙仙もその気になった。
天保十二年(1841)閏一月三日、妙仙はそれまで住んでいた家を引き払い、法現のもとに嫁いできた。
その夜から翌四日の夜までのあいだに、法現は合計十八回の交合をした。
その後も、勢いはとまらない。十日ほどのあいだ、法現は昼夜を問わず、妙仙の体を求め、交合を繰り返した。
妙仙は疲労困憊し、陰門には痛みを覚えるほどで、「しばらく、やめてほしい」と訴えたが、法現は聞く耳を持たず、強引に交合を迫る。
ついにたまりかね、十八日、妙仙は夫のもとを逃げ出すと、世話人に事情を打ち明けた。
事情を聞いて、妙仙の親類が法現に掛け合った。
すると、「わしは医者ですから、痛むところを療治し、しばらく養生させましょう。全快した上で、離縁します」との答えである。
そこで、いったん妙仙は戻ったのだが、またもやその夜、法現が無理矢理に交合した。
ここに至り、とうとう世話人が妙仙を引き取り、親類の家にあずけた。
妙仙の縁者は法現の非道な仕打ちを怒り、町奉行所に訴え出ると息巻き、ちょっとした騒ぎとなった。
けっきょく、法現が詫び状を書き、療治代として金二百疋(二分)を支払うことで内済(示談)となった。
法現の絶倫ぶりを伝え聞き、人々はあきれて、「人間ではなく、古猫が化けているのではなかろうか」と、噂し合ったほどだった。
もともと、法現は精力絶倫だったという。
それまで妻を迎えたことはなく、口入屋に頼んで月ぎめで妾を雇っていたが、ひと晩のうちに最低でも三回は交合しないと硬直した陰茎が常態に戻らないのだという。そのため、ひと晩に数回の交合をするのが普通だった。しかも、連日連夜である。妾も恐れをなしてすぐに暇を取るため、一ヵ月に二、三度も女が代わっていたという。  
婿養子
根津の団子坂下に、三河屋という料理茶屋があった。
主人の吉兵衛は男子がなかったことから、娘のおつねに善蔵という婿養子をもらって、三河屋を継がせることにした。善蔵は、巣鴨鶏声ヶ窪にある料理茶屋の次男だった。実家も料理茶屋だけに、婿養子としては最適と誰もが喜んだ。善蔵とおつねのあいだには、子供もできた。
そうするうち、善蔵が遊里に出入りするようになった。義父の吉兵衛がまだ店の実権を握っているため、善蔵は自由になる金はほとんどない。あちこちで借金を作り、借金取りが三河屋に押しかけてくるようになった。
怒った吉兵衛は善蔵を離縁して、実家に帰してしまった。
しばらくして、善蔵の実家が十両余りの金を調達し、「本人も深く反省しております。これからは心を入れ替えて家業にはげむと申しておりますので、どうか今回ばかりは、許してやってください」と、詫びを入れてきた。
善蔵も殊勝な態度で謝罪する。
そこで吉兵衛は、「とりあえず、様子を見ましょう」と、迎え入れた。初めのうちは、善蔵も身持ちをあらためかに見えたが、実家から持参した十余両のうち五両を借金の返済にあてただけで、残りの金を持ち出してふたたび遊里かよいを始めた。ここにいたり、吉兵衛もおつねも立腹し、「もう、離縁するしかない」と、善蔵を家から追い出してしまった。そして、あらためて善蔵の実家に掛け合うことになった。
天保五年(1834)七月二十七日の深夜、善蔵は三河屋に忍び込んだ。それまで住んでいただけに、家のなかの勝手はよく知っている。調理場にあった出刃包丁を持ち出すと、おつねが寝ているところに忍び寄り、思い切り突き刺した。おつねは「あっ」と叫んだきりで、即死だった。女房が死んだのを見届けたあと、善蔵もその場で包丁で自害した。養父の吉兵衛に危害はなかった。事件当時、吉兵衛五十歳、善蔵二十八歳、おつね二十六歳だった。 
情け
本所茅場町三丁目の裏長屋に、老夫婦が住んでいた。夫は伊右衛門といい、もとは奥州の小藩の下級藩士だったが、浪人となって江戸に出てきて、付木や炭団を売って生計を立てていた。
妻は弘前藩津軽家の下級藩士に縁付いていたのだが、事情があって離縁し、ひとりの連れ子とともに伊右衛門と再婚した。
その後、妻は目を患い、失明してしまった。また、妻の連れ子は成長するにともない非行に走り、手がつけられないことから、ついに勘当してしまった。
伊右衛門は高齢で足腰が痛み、行商にも出歩けない。妻は盲目である。生活は困窮した。
ふたりの窮状を見かねて、長屋の大家もあれこれと世話を焼いていた。
そんなある日、勘当した息子がひょっこり現われた。墨染めの衣を着て、出家のかっこうをしている。
息子は伊右衛門に向かい、「数年来の自分の不孝を思い知り、いまはこのような姿になりました。房州府中村(千葉県三芳村)の延命寺で、即道と名乗っております。さいわいご住職が目をかけてくださり、相応の寺を任されることになっております。そうなれば、母を引き取るつもりでおります」と挨拶し、帰っていった。
これを聞いて喜んだのは妻である。
それからというもの、たまたま房州の方向に旅する人があれば手紙を託したが、まったく返事がない。
心配になった妻は、わざわざ定八という者に頼み、府中村の延命寺に手紙を届けてもらった。
定八が延命寺を訪ねたところ、「即道などという者はこの寺にはおりません」との答えだった。
戻ってきた定八から事情を知らされるや、伊右衛門と妻は、「さては、まだ悪心が直らぬと見える。先日の出家の格好も、きっと悪事をたくらんでいたのであろう」と、涙に暮れた。
文化四年(1807)三月四日。
昼ごろになっても、夫婦の住居の腰高障子は閉じられたままである。声をかけても返事はない。内側から心張棒がかけられているのか、表の腰高障子はびくともしない。
近所の人が不審に思い、大家に告げた。
大家がやってきて、腰高障子をこじ開け、なかにはいった。
伊右衛門と妻は、鴨居にかけた縄で首をくくってすでに死亡していた。伊右衛門七十八歳、妻六十三歳だった。
大家や近所の人間があらためると、米櫃の中には米が五升ほど残っていたし、銭も八百文ほどあった。
大家が届けを出し、町奉行所の役人の検使を受けたあと、夫婦は深川の雲光寺に葬られた。  
ふしだら
新材木町に白子屋という大店があった。亭主は正三郎といい、妻お常のあいだにお熊というひとり娘がいた。
正三郎は商売にとりまぎれ、家のことは女房に任せきりにしていた。
それをよいことに、お常は男と浮気をし、きのうは上野の花見、きょうは隅田川の舟遊び、あすは芝居見物と遊び歩き、好き勝手をしていた。
娘のお熊はなかなかの美貌だったが、母親を見て育ったため、やはりふしだらだった。いつしか、忠七という手代と深い仲になった。
そんなおり、仲人役をする人があり、「お熊さんもそろそろ年ごろだから、婿養子をもらって白子屋の礎を固めてはどうか」と、正三郎夫婦に勧めた。
白子屋はそのころ経営が思わしくなかった。加えて、お常が贅沢三昧をする。そのため、あちこちに借金もできるなど、内情は苦しくなっていた。このままでは、白子屋の屋敷が人手に渡る日もそう遠くないであろう。
そこで、夫婦は、「持参金つきなら、婿養子を迎えてもよい」と返答した。
仲人が口をきき、大伝馬町一丁目の資産家から、五百両の持参金つきで又四郎を迎えることになった。
これを知り、お熊と忠七は駈落ちなども考えたが、白子屋の難儀を救うためにはやむを得なかった。
又四郎とお熊は祝言をすませ、夫婦となったが、相変わらずお熊と忠七の密通は続いていた。また、お常の贅沢もやまない。主人の正三郎はまったく気づいていなかった。
又四郎とお熊のあいだに子供もできたが、事情を知る人は陰で、「忠七の胤であろう」と、ささやく始末だった。
お熊は夫の又四郎がいやでたまらない。母親のお常に、又四郎を離縁してくれるよう頼んだ。
しかし、離縁するとなると持参金を返還しなければならない。
そこで、忠七が知恵を出した。「又四郎をひそかに殺害し、世間には病死とすれば、持参金を返すこともない。あとは、誰はばかることなく夫婦になれる」 忠七、お熊、お常、それに下女のお久の四人で謀議をこらした。お久はもともと、忠七とお熊のあいだを取り持ってきた下女だった。
お菊という若い下女を呼び寄せ、言い含めた。「夜、又四郎さんの寝間に忍び入り、この剃刀でちょっとだけ傷をつけておくれ」 お菊は真っ青になり、「滅相もないことでございます」と、断わる。
そこを、お久、お熊、お常、忠七の四人がかりで、「ちょっと傷つけるだけだ。髭剃りで手先が狂い、少しばかり血が出るようなものだ。ちょっとした、いたずらだよ。うまくやってくれたら、あとで金と着物をあげるから」と、説得した。
四人におどしたり、すかしたりされ、ついにお菊も、「ちょっと傷をつけるだけなら」と、承知した。
じつは、お菊が剃刀で又四郎に傷つけたところに四人で押しかけ、そのまま又四郎とお菊を剃刀で殺してしまい、心中にみせかけようという計画だったのだ。
夜、お菊が又四郎の寝床に忍び寄り、剃刀で喉のあたりを少し切った。
又四郎はすぐに飛び起き、お菊を押さえつけると、「誰か、人を呼んでくれ」と、大声で叫んだ。
下男のひとりがすぐさま知らせに走り、やがて、町内人々の知るところとなった。
事情を知って、町内ではどうにか内済(示談)でおさめようとしたが、又四郎の実家は納得しない。町奉行所に訴え出て、事件は公になってしまった。関係者はすべて召し取られた。
享保十二年(1727)十二月七日、下女お菊、十八歳、死罪。下女お久、町中引廻の上、死罪。お熊、二十三歳、町中引廻の上、死罪。忠七、町中引廻の上、獄門。お常、四十九歳、遠島。正三郎、江戸追放。となった。処刑当日、引廻されるお熊の衣装が人々の目を奪った。縛られて馬に乗せられたお熊は、白無垢の中着の上に黄八丈の小袖を着るというあざやかな姿である。襟に水晶の数珠をかけ、口には「南無妙法蓮華経」を唱えていたという。  
取立て
安永・天明期の名優として知られる歌舞伎役者の初代中村仲蔵が若いころのこと。ひいきの旦那に、本町に住む吉川という金持ちがいた。
吉川はあちこちに金を貸し付けていたが、あるとき、「お武家に百両貸し付けている。きょうが返済の日じゃ。受け取りに行ってくれないか。念のため、下男の金次介をつけよう」と、仲蔵に取り立て役を頼んだ。
引き受けた仲蔵は、金次介という下男を供に連れ、先方の屋敷に出向いた。
朝四ツ(午前10時)に屋敷に着いたが、まだ金の用意はできていなかった。
「いま、金策中じゃ。ここで待ってくれ」と、一室で待たされる。
延々と待たされ、けっきょく用意できたのは半額の五十両だった。しかも、夜四ツ(午後10時)になっていた。
仲蔵は受け取った五十両を財布に入れ、首からさげた。
先方はおくれたことを詫び、心配した。
「深夜になってしまい、申し訳ない。大金を持って夜道を歩くのは危ない。誰か、供をつけよう」「いえ、あたくしひとりではございません。供を待たせておりますので」 仲蔵は先方の申し出を断わり、屋敷を辞去した。
金次介が提灯をさげ、さきに立って歩く。来たときと道が違うような気がしたため、仲蔵がたずねた。「おい、道が違うのではないか」「いや、こっちが近道です」 あとについて歩いていると、しだいに人家もなくなり、川の土手に出た。
フッと金次介が提灯の火を吹き消した。「なぜ、火を消したのか」「うまくいったの」「え、なにが」「百両を受け取り、めでたいということさ」 暗がりのなかで金次介がニヤリと笑った。
ここにいたり、仲蔵も相手の意図に気づいた。思わず腰に差した脇差に手をやったが、中身は竹光だった。いっぽう、金次介が腰に差した脇差は安物とはいえ本身である。とてもかなわない。そこで、とぼけた。
「けっきょく金ができなかったので、あす、また来てくれと言われた。むなしく帰るところさ」「隠すまい。四、五十両は受け取ったはず」「どうして、そんなことがわかる」「おまえの首が重さでひきつっておる」「ああ、これか」 仲蔵は首にかけた財布に手をのばし、そっと口を開いてなかの金を落とした。手で帯をゆるめながら、すべり落ちた金をふんどしで受け止める。
「なにをしておる」「あまり待たされたため、癪がおこり、腹が痛むのじゃ」金次介が襟の内側に手を入れ、さぐった。「首からさげているこの袋はなんだ」「お守りじゃ」「見せてみろ」 財布を引き出し、金次介は金がはいっていないのを見てようやく納得した。
その後、暗闇のなかをたどり、まだ起きていた商家に火を借りて提灯に明りをともし、ようよう本町の吉川の屋敷にたどりついた。吉川でも、仲蔵と金次介の帰りがあまりにおそいので心配していたところだった。潜り戸をあけてなかにはいると、吉川の奉公人らが集まってきた。大勢の顔を見て、仲蔵は緊張の糸が切れた。
「金……」と、ひとこと言うなり、気絶して、その場に倒れてしまった。みなが驚き、いろいろ介抱する。ようやく仲蔵は息を吹き返した。「いったい、どうしたのじゃ」 旦那の吉川に問われ、仲蔵が顛末を話す。「で、金はどこに」「金は、あたくしの股ぐらにあります」 金次介はそのまま出奔した。  
 
ふしぎ(怪異)

 

幽霊
京橋の近くで豆腐屋を営んでいた市五郎が死に、数年後の文政九年(1826)六月には妻も死んでしまった。ひとり残された娘のおたかは、九歳だった。
両親をなくして孤児になったおたかを、どうやって養うか。誰も引き取ろうという者はなかった。
けっきょく、親類縁者などが相談して、おたかを深川の女郎屋に売った。九歳から二十七歳までの年季で、代金は四両二分だった。
文政十三年、十三歳になったおたかは客を取らされるようになった。
そのころから、毎晩、布団のそばに死んだ母親が現われ、「不憫じゃのう、不憫じゃのう」と、涙を流しながら、おたかの体をなでさすった。
たまたま、女郎屋の主人がこの光景を目にした。
主人もさすがに気味が悪くなった。それに、幽霊が出るなどという噂が立っては、客足が遠のき、商売はあがったりである。
おたかの実家は飯倉町にある瑠璃光寺が旦那寺で、両親の墓もそこにあった。
主人は瑠璃光寺に出向いて、住職に相談した。
話を聞き終えた住職は、「娘のことが案じられて、成仏できないのでございましょうな。格別の回向をして、菩提を弔わなければなりますまい」と言い、合掌した。
主人も決心した。「証文は破棄し、おたかには暇を取らせるつもりでございます」四月四日、瑠璃光寺で、おたかの母の冥福を祈る法要が挙行され、主人はおたかを買い取ったときの契約証文を墓におさめた。
その後、幽霊は出なくなった。なお、おたかのその後については、不明である。 

王子村は江戸近郊の代表的な行楽地だった。
王子稲荷社は関八州の稲荷社の総元締として知られ、年中、参詣者が絶えることがなかった。大晦日の夜には、神社北方の田んぼのなかにある榎の大木に関東各地から狐が集まると伝えられていた。
また、近くにある飛鳥山は桜の名所として有名である。花見の季節ともなると、飛鳥山で花見をした人々が田園地帯を散策し、ツクシやタンポポを摘んだりして野遊びを楽しんだ。
ただ、狐と縁の深い場所だけに、酒に酔った人が狐に化かされて食べ物を奪われたなどという噂が絶えなかった。
ある春の日のことである。
ひとりの武士が黒縮緬の羽織を巻き上げて帯にはさみ、大小の刀は落とし差しにし、着物の裾をたくし上げるという格好で、田んぼの泥の中をうろついていた。
これを見た人は、「狐に化かされたのではないか」とささやき、笑い合った。
人に見られていることなどおかまいなく、武士はひたすら田んぼの中を行ったり来たりしている。
このあたりの田んぼは泥田で、しかも春の雪溶け水を引き入れているため、膝くらいまで深く泥にもぐってしまうのだが、武士はいっこうに頓着した様子はない。
田んぼの持主がやって来たが、相手が武士であるため、怒鳴りつけるわけにもいかない。しばらく様子をながめていたが、とても正気のようには見えない。そこで、遠くから呼びかけた。
「もし、お侍さま、いったい何をしているのでございますか。きっと狐にとりつかれたのでございましょう。早く正気に返ってください。魚なんぞを持っていたら、すぐに捨てることです」
ところが、かなり離れていたのと、風上にあたっていたためか、声だけは聞こえても、ことばは通じなかったようである。
武士はこちらを見て、「もうしばらく、このままにさせてくれ」と、大声で返事をしただけで、相変わらず泥の中を歩きまわっている。
そのうち、多くの見物人があぜ道に集まってきて、狐に化かされた武士をじっと見守っている。
まもなく日も暮れようというころ、ようやく武士が田んぼからあがった。近くの小川で足の汚れを洗い落とすと、真新しい手ぬぐいでぬぐった。着物の袂から草履を取り出してはき、スタスタと歩いてくる。
見物人はどよめき、「ようやく正気に戻った」と、武士を取り囲んだ。
武士のほうが驚いた。
「そのほうら、いったい何を見ておったのか。拙者も、そのほうらが集まって熱心に何かを見つめているのには気づいておったのだが、とくに珍しいものはないぞ。いったい何を見ておったのか」
見物人はどっと笑った。
口々に、「やはり、狐に化かされたに違いない」「お侍さまが田んぼの中を歩いているので、これは狐に化かされたのだと思い、わしらはながめておったのです」「田んぼから出たので、正気に戻ったかと思ったのですが、まだ化かされているようですな。早く正気に戻ってください」と、言いつのる。
侍は笑い出した。
「拙者は両足に雁瘡という悪性の腫れ物ができて、さまざまな療法をためしたがよくならぬ。ある医師が、春のころ、田んぼにはいって蛭に血を吸わせると治ると申したため、蛭に足の血を吸わせておったのだ。おかげで気分もよいし、かゆみもなくなった。きょうはいったん帰り、近いうちにまた来る所存じゃ。それを、狐に化かされたと思い込んで、多くの人間が集まってじっと見物しているなど、それこそ狐に化かされたようなものではないか。さっさと帰るがよい。このあたりは、日が暮れると狐が出るというぞ」 そう言い捨てると、武士はさっさと帰っていった。 
女の子
文化十三年(1816)十一月二十五日の朝五ツ(午前8時)過ぎ、新肴町に住む大工の伝吉は、七歳になる娘のお亀を連れ、弓町にある忍冬湯という薬湯に行った。女湯で、お亀は十一、二歳くらいの女の子と友達になった。
伝吉が帰ろうとすると、女の子はお亀を引き止める。「ちょっと、あげるものがあるから。おじさん、あたしがお亀ちゃんを家まで送って行くから」「おそくならないようにするんだぞ」 相手が女の子であることから伝吉もさほど不安には思わず、ひとりで帰宅した。
しばらくして、お亀は女の子と一緒に家に帰ってきた。ふたりはもう、長年の友人のように親しくなっていた。お亀は髪を結い直してもらい、菓子などももらった様子である。伝吉がたずねた。「てめえ、住まいはどこだい」「忍冬湯の向かいにある米屋の娘だよ」
その後、女の子はお亀を連れて木挽町に芝居を観に行った。そのあと、伯父とかいう男の家に寄って、古い丹後縞の帯、木綿の子供用の前垂れ、黒縮緬の御高祖頭巾の三品をもらい受け、それをお亀に渡し、家まで送り届けた。
翌朝、ふたたび女の子がやってきた。「おっ母さんが持って行けと言ったので」と、酒のはいった徳利と目刺イワシ一串を持参し、自分で燗をして酒を呑んだ。伝吉の女房のお幾が浅漬の香の物を出してやった。女の子がたずねる。「この香の物は、どこで買ったのですか。値段はいかほどですか」 お幾が答えると、女の子はプイと出て行き、しばらくして同じ香の物を買って戻ってきた。台所で自分で大きめに切り、パリパリ食べ始めた。
女の子が帰ったあと、お幾は不思議でしょうがない。そこで、お亀にもらった衣服の礼を言うのを兼ねて、忍冬湯の向かいにある米屋を訪ねてみた。ところが、米屋にはそんな年齢の娘はいないという。お幾は近所でもいろいろたずねてみたが、誰もそんな女の子は知らなかった。
翌日の朝、またもや女の子がやってきた。お幾が追及した。「本当はどこに住んでいるんだい」 女の子ははぐらかして答えない。そこで、お幾はあとをつけることにした。
女の子が帰るとき、お幾は十六歳になる息子と一緒にそっと尾行した。ところが、女の子は南横町から西紺屋町河岸に足早に歩いていくうち、フッとその姿が見えなくなった。お幾があたりで問い合わせると、近所にそんな少女が時々、現れることがわかった。女の子に髪を結ってやるのだという。住所をたずねると、そのたびに違った答が返ってくる。「きっと狐か狸が化けているに違いありますまい」
というのが、もっぱらの噂だった。 
石塔磨き
奇妙な事件だった。文政十年(1827)九月、麻布谷町にある永昌寺から役人に届出があった。
十八日の夜、墓地に何者かが忍び込み、一基の石塔の正面をピカピカに磨いた。そのほか、八、九基の石塔にも磨いたような形跡があったという。
とくに被害というわけではないのだが、夜中に不審者が忍び込んだのには違いない。
その後、この石塔磨きはまたたくまに江戸中に広がった。
九月二十八日と二十九日の夜には、浅草・下谷一帯の寺で、合計二百八十基の石塔や墓石が磨かれた。
ガリガリという石を磨く音を聞いた人はいたが、いったい何者の仕業なのか、まったくわからなかった。
磨きたてるだけでなく、古くなり消えかかっている刻印の文字にあらたに朱や墨が加えられていることもあった。
噂が噂を呼び、あまりに評判になったため、寺社奉行は厳戒態勢をとり、犯人の召し捕りと真相の究明をはかろうとした。また、寺の側でも警戒して夜中、墓場に番人を配置していた。
それにもかかわらず、あちこちの寺の墓地で、翌朝になると石塔や墓石が磨かれているのが発見された。
杳として犯人は知れなかった。
人間ではなく、物の怪の仕業ではないのかという見方もあった。怪談話が好きな人にかかっては、たちまち怪奇現象として流布していった。
そもそも、目的は何なのか。
何かの心願成就のためという説が有力だった。
もっとも、いったん評判になると、ただ世間を騒がせるための模倣犯、愉快犯が多かったであろうことはじゅうぶんに想像できる。まもなく、燎原の火のように蔓延した石塔磨きも終息した。
女?
牛込若宮町で酒屋を営む又蔵の娘おさとは、市谷田町に住む寺子屋師匠の家に住み込みで下女奉公をしていた。
安政二年(1855)、おさとは十五歳になった。
四月ころ、おさとは股間に異常を覚えた。なんと、陰茎が生えてきたのだ。しばらくして、まったく男の体となった。
このことを知って、寺子屋師匠は、「男に下女奉公をさせるわけにはいかぬ」と、暇を出して親元に帰した。
戻ってきたおさとから事情を聞き、父親の又蔵も驚いた。
「前をまくって、見せてみろ」 まじまじとながめたが、まぎれもない陰茎である。
又蔵は、「娘が男になりました」と、牛込若宮町の名主の仁平に届け出た。
仁平も半信半疑で、おさとを呼び寄せ、じっくり検分した。やはり、まぎれもない陰茎である。
このままにはしておけないため、仁平は委細を文書にしたため、五月一日、町奉行の池田播磨守に届け出た。
池田の裁定は、「前髪を落とし、男の名に改名せよ」というものだった。おさとは文吉と名をあらためた。 
おとこおんな
内藤新宿の太宗寺門前に、山口という蕎麦屋があった。
天保三年(1832)八月十日、竹次郎という二十歳になる男がこの山口で住み込み奉公をするようになった。
八月二十九日の九ツ(正午)、竹次郎が急に、「腹が痛い」と、苦しみ出した。
主人の忠蔵は驚き、竹次郎を二階座敷にあげ、介抱した。
しばらくして、男の子を出産した。
なんと、竹次郎は女だったのだ。
この竹次郎は、山王町に住んでいた火消し人足の娘だったが、幼いころに両親が死んでしまい、その後は親類の手で育てられた。十二、三歳になったとき、武州八王子(東京都八王子市)の鯛屋という女郎屋に売られたが、宿場女郎の暮らしがいやで、逃げ出して、江戸に戻ってきた。
月代を剃り、男のかっこうになって、知人の家に転がり込み、その後は、仕出し料理屋に食材などを運ぶ仕事をしていた。八月になって、山口屋に雇われたのである。
男と思われていた蕎麦屋の奉公人がじつは女で、しかも子供まで出産したというので、名主を通じて町奉行所に届けが出された。
町奉行所がどう対処したかや、竹次郎が生んだ子供の父親が誰だったのかは、わかっていない。  
おんなおとこ
麻布今井寺町に、重吉という縫箔職人が住んでいた。女房の小若は二十歳で、新内節の師匠をしていた。ふたりのあいだに子供はなかった。
小若は自宅の稽古場で弟子に稽古をつけるいっぽう、夜には流しに出て門付けをしたり、ひいき客に小料理屋に招かれ、酒の相手をしたりすることもあった。
容貌はなかなかの美人だった。結婚していたが、お歯黒はせず、歯は白いままだった。髪は割銀杏に結い、小袖や半纏の裏には赤い布をつけるなど、なかなかおしゃれである。外出するときは、女頭巾をかぶり、駒下駄をはいていた。
ただ、小若は日ごろから銭湯にはいっさい行かず、一年中、行水ですませていた。
そうするうち、小若は男ではないかという噂がひそかにささやかれるようになった。
この風評を聞きつけ、嘉永五年(1852)十月、町奉行所の役人が小若を召し捕り、調べたところ、果たして男だった。
それまで、女とばかり信じていた近所の人や、かよってきていた弟子などは呆然として、開いた口がふさがらなかったという。
役人の取調べにより、以下のことが判明した。
小若の本名は政吉で、檜物町に住む左官の子供だった。幼いころから新内の稽古をしていたが、いつしか女の姿になり、重吉に縁付いたのだという。
二十歳と称していたが、実際は二十七歳だった。
小若は手鎖を言い渡された。  
天から人
文化七年(1810)七月二十日の夜、浅草馬道の道端に天から人が降ってきた。
二十五、六歳の男で、ふんどしもせずに素っ裸で、わずかに足袋だけをはいていた。
近所の男が銭湯から戻る途中、これを見て驚き、すぐに町役人に知らせた。
人々が駆けつけてみると、男は死んだように地面に倒れている。番所に運び込み、医者を呼んだ。
診察した医者は、「とくに脈に変わったところはございません。かなり疲れているように見えるので、しばらく休ませてやりなされ」と言った。
そのまま番所に寝かせていると、しばらくして目を覚ました。
集まった町内の人々が口々に質問した。
「おまえさんは、いったいどこの、誰かね」「あたくしは京都油小路二条上ル町の、安井御門跡の家来伊藤内膳の倅で、安二郎と申します。ここはどこでございますか」「ここは江戸の、浅草というところじゃ」「えっ、江戸でございますか」 男は驚き、あとは泣き出してしまった。
人々がいろいろと尋ねたところ、男はこう答えた。
「今月十八日の朝四ツ(午前10時)過ぎ、嘉右衛門という男と連れ立ち、下男の庄兵衛に供をさせ、愛宕山に参詣に出かけました。暑さがきびしかったので、着物を脱いで涼んでおりました。その日の衣装は花色染めの四花菱の紋を付けた帷子に黒絽の羽織で、大小の刀をおびておりました。そのとき、ひとりの老僧がわたくしのそばに来て、「おもしろきものをお見せしましょう。すぐにおいでください」と、さそいました。
わたくしはふらふらと老僧のあとについて行きました。その後のことは、まったく覚えておりません」
なんとも奇怪な話である。
そこで、男がはいていた白木綿の足袋を脱がせ、町内の足袋職人に検分させた。
足袋を見て、職人は、「江戸の作りとは異なります。京都の作りに間違いございません」と判定した。
足袋がきれいで、裏に泥がまったく付いていないのも不思議だった。
「おまえさん、江戸に誰か知り合いはいるのかい」「まったくおりません。ともかく、町内のお定めの通りにしていただきたく存じます」 男はひたすら助けを求める。
やむなく、町役人らが相談して衣類をととのえ、町奉行所に届け出た。その後、男がどういう処分を受けたかは明らかでない。 
人形
吉原の大黒屋という妓楼の抱え遊女三代春は嘉永二年(1849)、馴染みの客から一尺ほどもある芥子坊主頭の人形をもらった。
芥子坊主は、幼い子供の髪型である。
三代春は人形に縮緬の長襦袢、縮緬の小袖を三枚重ね、羽織を着せ、可愛がっていた。
たまたま金に困ることがあり、三代春はやむなく人形を布に包んで木箱に入れ、吉原のなかにある質屋に持ち込んで、金一分二朱を借りた。
嘉永三年十二月、三代春は年季が明け、八丁堀にある実家に引き取られた。人形のことはすっかり忘れてしまい、質屋から請け出さないままだった。
実家に帰った三代春は、本名の捨に戻った。
嘉永四年四月二十日の夜、寝ているお捨の夢に人形が出てきて、「そこもとは吉原を無事に抜け出ることができたが、こちらは厚着をしている上に布に包まれ、暑くてたまらない。袖を食い破って、ようよう息をしている始末じゃ。苦しくてたまらないので、早く請け出してくれ」と、訴えた。
お捨がうなされているのを聞いて、そばに寝ていた母親が目を覚まし、揺り起こした。
「うなされていたが、悪い夢でも見たか」「おっ母さん、じつは」と、お捨が夢の内容を話した。
これを聞き、同居していた兄の市蔵も不思議に思った。
そこで、五月八日、市蔵は吉原に出向き、質屋を訪ねて、お捨が見た夢の話をした。
「ほほう、奇妙なことがあるものでございますな」 質屋の主人がさっそく蔵から木箱を取り出させ、中身をあらためてみた。すると、人形は袖で口をおおっている。しかも、袖には喰いちぎったような破れがあった。質屋の主人も気味が悪くなったのか、「これは、三代春さん、いまのお捨さんに差し上げましょう」と、人形を市蔵に渡した。 
寝小便
寝小便の癖がある人は、新たに埋葬された墓をわが仏と信じ、日数を決めて毎日拝む。死者は男でも女でもよい。そうすれば、奇妙にも寝小便が治る、という伝承があった。
ある若い武士は成人後も寝小便の癖が治らないことに悩んでいたが、文化四年(1807)の春、この療法を人から教えられ、さっそくためしてみることにした。
たまたま町で見かけた葬礼のあとをつけ、埋葬された寺をたしかめた。
翌日の朝、武士はくだんの寺の墓地をおとずれ、真新しい墓に樒などをそなえ、ねんごろに弔った。
以後、毎朝、墓参りをおこない、樒をそなえて、寝小便が治るよう祈った。
ある日、墓参りに来た父親が墓の樒を見て、寺があらたに法要をしてくれたものと思った。庫裏に出向き、丁重な礼を述べた。
応対に出た僧侶は、「愚僧はいっこうに存じませぬ。そういえば、このところ、毎日のように若いお武家が樒を墓に手向け、ねんごろに弔っているのを見ましたぞ」と、語った。
男は驚いた。「それは、どのようなお方ですか。死んだ娘は十六歳で、年頃でございました。わたくしどもはまったく存じませんでしたが、深く言い交わした相手がいたのかもしれません。それと知っておれば、親として、もっとやりようもあったのにと悔やまれます」
そして、「なにとぞ、今度そのお方が来たら、住所と名前を聞き出し、知らせてください」と、頼み込んだ。
翌朝、武士が寺にやって来た。
僧侶が呼び止め、「ちょっとお話がございますので、どうぞこちらへ」と、庫裏に招いた。
武士は、「勤めがある。おくれるわけにはいかぬ」と、断わる。
それを、ようようなだめて押しとどめた。
僧侶はあらためて、いきさつを述べ、相手の住所と名前を尋ねた。
武士は困りきり、「名乗ることにやぶさかではないが、きょうのところは急いでおるので」と、振り切るや、逃げるように帰っていった。その後、二度と墓参りはなかった。  
遊女の幽霊
文化七年(1810)十月末、浅草の慶印寺で、死亡した吉原の中万字屋抱え遊女の法要がおこなわれた。
普通、吉原の女郎が死亡した場合、死体を菰に包み、投込寺として知られる三ノ輪の浄閑寺に運ぶ。浄閑寺の墓地の穴に、文字通り投げ込まれて終わりだった。
中万字屋の女郎は異例だったが、これにはわけがあった。
くだんの女郎は病気で体の調子が悪いと言って、引きこもっていた。
楼主の女房が怒り、「仮病を使って怠けるんじゃないよ」と、きびしい折檻を加えた。
その後、薄暗い行灯部屋に放り込んで、ろくに食事もあたえなかった。
空腹に耐えかねた女郎は、こっそり客の食べ残しを集め、小鍋で煮て食べようとした。
これを見た女房は激怒し、女郎を柱に縛りつけ、小鍋を首からつるした。
ほかの女郎や奉公人への見せしめとしたのである。
衰弱と飢えで、女郎は柱に縛られたまま死んだ。
その後、中万字屋に、首に小鍋をかけた女郎の幽霊が出るという噂が広まった。そこで、中万字屋はあわてて、死んだ女郎の法要をおこなったのだ。  
縁切榎(えのき)
中山道の最初の宿場である板橋宿のはずれに、「縁切榎」と呼ばれる榎の木があった。この榎の皮をはいで煎じ、別れたい相手に飲ませると、男女の縁が切れるという俗信があった。
寛政のころ、本郷に流行っている医師がいた。医師は女房がありながら、下女と情を通じていた。女房はふたりの仲には気づかぬふりをしていたが、しだいに下女が増長する。しかも、下女に執着するあまり、医師は仕事もおろそかにするようになった。心配した女房は、医師の弟子のひとりに相談した。
「このままでは、家は潰れてしまう。どうにかならないか」
弟子も心を痛めたが、自分が医師を諌めるわけにもいかない。困ったものだと思いながらも、どうすることもできなかった。たまたま、弟子は縁切榎のことを小耳にはんだ。さっそく、医師の女房に告げる。「榎の皮を煎じて飲ませると、縁が切れるそうでございます」「では、こっそり皮をはいで、持ってきておくれ」
弟子はひそかに板橋宿に出向き、縁切榎の皮をはいで戻った。皮をこすり潰して粉にした。翌日の朝食には、医師の好物のあつものが用意された。女房はこのあつものに、粉をふりそそいだ。たまたま、奉公人のひとりがこれを目撃した。毒殺を疑い、そっと医師に告げた。朝食の膳についても、医師はあつものには手をつけない。
女房が勧めた。「あつものは好物ではございませんか。なぜ、召し上がらないのですか」 ますます医師は疑いを強め、「食いたくない」と、まったく手をつけようとしない。
「まさか、毒でもはいっているというのでしょうか」「食いたくないものは、食いたくないのじゃ」 医師がことばを荒げる。ここにいたり、女房は疑いを晴らすため、「では、あたしがいただきましょう」と、医師の目の前であつものを食べて見せた。
その後、いろんな事情が重なり、医師と女房は離縁することになった。まさに縁切榎の功徳であろうと、人々は噂した。 

文化七年(1810)六月八日、田所町にある紺屋の裏手で、犬が二、三匹の子を産んだ。
生まれた子犬のなかに、顔が人間に似ているのがいるというので大評判になった。
さっそく、噂を聞きつけた興行師が母犬もろとも子犬を引き取り、両国橋の東詰めにある見世物小屋に出した。
たちまち、「人面犬だ」「人間の顔をした犬だそうだ」と、連日、見物人がつめかけ、押すな押すなの大騒ぎとなった。
木戸銭は、ひとり十二文だった。
石塚豊介子も評判を聞いて見物に行ったが、ちょうど母犬が乳を飲ませているところだった。
たしかに子犬の顔は、目から鼻筋にかけてどことなく人間のように見えたという。
この子犬はほどなくして死んだが、死後も三、四日のあいだ、線香をともして死骸を見せた。
興行師は大もうけをしたという。
この子犬について、悪性の瘡毒(梅毒)に悩む者が母犬と交合し、その結果産まれたのではないかという淫靡な風聞も流れた。いわば、人間の血を引く犬というわけだ。
また、六月十日には、この人面犬のことを記した瓦版が出た。  

文政二年(1819)閏四月二十九日の夜、日本橋あたりの路地で白ブチの犬が子を産んだが、そのうちの一匹が人面だというので江戸中の評判となった。
どっと見物人がつめかけたため、近所では迷惑した。路地の木戸を締め切ってしまい、町内の人間しか通さないようにした。
この人面犬の噂は板橋宿にも伝わった。
女郎屋の若い者の専助は見たくてたまらない。わざわざ日本橋まで出かけて行き、手づるを求めて犬を目撃した。
板橋宿に戻ってくると、さっそく加藤曳尾庵に自慢して言った。
「見てきましたぜ。やっぱり、人面ではありませんでしたね。ただ、目や鼻のまわりに毛がはえていないため、どことなく猿のようでしたぜ。鼻が高くて、眉毛の形がはっきり見えているところなんぞ、ちょっと人間に似ているかもしれません。母犬も気味が悪いのか、乳をあたえようとしないので、おおかた四、五日のうちに死ぬでしょうよ」
瓦版も売り出された。
そこには、前足は人間の足をしていると書かれていた。  

ある女が家のなかでふと立ち上がったところに、ネコに追われたネズミが走りこんできた。とにかく身を隠そうとして、ネズミは女の着物の裾のなかに逃げ込んだ。そのまま女の足をつたって上にのぼっていく。
「きゃー」女は絶叫し、あお向けに転倒してしまった。
ネズミは女のふところをくぐり抜け、袖から飛び出して逃げ去ったが、追いかけるネコは続いて女の裾のあいだからもぐりこむ。
そのまま裾の奥に進み、陰部に噛み付いた。
「ギャッ、助けてー」女は苦痛にうめき、振り放そうとするが、ネコはますます深く牙を立てた。
人が駆けつけてネコを振りほどいたが、局部を深く噛まれており、重傷だった。
これを聞き、人は、「ネコはきっと、陰毛の茂っているのをネズミと間違えたのであろう」と、噂した。 

奥医者の吉田盛方院が正月元日、風呂からあがって浴衣姿でくつろいでいるところに、日ごろ可愛がっているネコがネズミをくわえてやってきた。
ネコが歯をゆるめた拍子に、まだ死んでいなかったネズミがツツと走り、盛方院の浴衣の裾からなかにもぐり込んだ。
ネコもネズミを追って浴衣の裾のなかに走りこむ。勢い余って、盛方院の陰茎にガブリと噛み付いた。
この傷がもとで盛方院は死んだが、家族は世間体をはばかり、病死ということにして葬儀をおこなった。 
念仏犬
文化十二、三年(1815-6)ころ、本町河岸に妙な犬がいた。
托鉢僧などが人家の門口に立ち、手にした木魚をたたきながら念仏を唱え始めると、すぐにそばに走っていった。そして、まるで読経に唱和するかのように、ワンワンと吠えた。
その後、どこまでもあとをついてまわり、読経が始まると、ワンワンと吠える。
ほかの町の犬が威嚇してくるにおよび、ようやく逃げ帰った。
当初は、人々もこの光景を見てしきりに感嘆したが、そのうちに慣れてしまい、「ああ、あの念仏犬」と言うだけで、さほど興味も示さなくなった。
たまたま、この噂話をある大名が耳にした。
「うーむ、なんと感心な犬ではないか。ぜひ、手に入れたい。もし飼い主がいるなら、それなりの金を取らせ、犬を屋敷に引き取るようにせよ」
大名に命じられた者が調べてみると、長崎屋という薬屋の犬だという。
さっそく掛け合うと、「子犬のころから奉公人が可愛がり、エサなどをあたえていたのでなつき、世間では長崎屋の犬と思っているようですが、べつにあたくしどもで飼っているわけではございません。野良犬でございます」との答えである。
「では、われらの屋敷に引き取りたいのだが、いかがか」「犬にとって、こんなさいわいなことはございますまい」と、長崎屋の主人も快諾する。
翌日、長崎屋の主人は奉公人と一緒に、犬を屋敷に連れて行った。
大名は喜び、手厚い褒美をあたえた。
犬は広大な大名屋敷の庭で飼われることになった。
野良犬のときにくらべると、うまいものをたらふく食う毎日だったが、読経の声や木魚の音がするわけではない。犬はただ、食って寝るだけの日々を過ごした。
なんら、ほかの犬と異なるところはない。四、五年飼われたあと、犬は死んだ。 
恩返し
文化十三年(1816)の晩春のことである。神田川のほとりに、福島屋清右衛門という魚屋が住んでいた。女房は、おいくといった。
商売は繁盛していたが、商売道具や家財道具を鼠にかじられる被害に悩んでいた。そこで、猫を飼うことにした。
きじと名づけ、夫婦ともどもわが子のように可愛がり、毎日、ウナギやカツオブシを食べさせるほどだった。
女房のおいくは猫の背中をなでさすり、「これ、きじや、おまえは畜類といえども、人のことばはわかるであろう。あたしらは鼠に困っている。一匹残らず、鼠を退治しておくれよ」と、言い聞かせた。
きじは夫婦の願いがわかったのか、一匹、二匹と鼠を捕らえるようになった。
そうするうち、清右衛門は持病が急に悪化して、寝付いてしまった。魚屋商売もできない。
おいくは、きじに言い聞かせた。
「亭主が病気で商いもできず、もう、おまえにウナギもカツオブシも食べさせてあげることはできないよ。不憫だけど、どこへでも行くがいい」
きじは意味がわかったのか、小さくニャアと鳴いた。
まるで、名残を惜しむかのようだった。
その晩から、きじの姿が消えた。
おいくは、病床の亭主にいきさつを述べ、「きじの行方が知れません」と、告げた。
清右衛門もしみじみと言った。
「猫もちゃんとわかるものだな」
そのまま、数日が過ぎた。
ひょっこり、きじが戻ってきた。
よく見ると、口に小判を一枚くわえているではないか。
きじは夫婦の前に小判を置くと、まるで挨拶をするかのようにニャアと鳴き、しきりに尻尾を振った。
夫婦は驚いた。これは他人の金だとは思ったものの、貧窮していたことから、つい小判を両替して、そのうちの二朱を生活費に使ってしまった。
その夜、ふたたびきじの姿が消えた。
翌日、隣町の伊勢屋という商家にきじがはいりこみ、帳場に置いてあった小判一枚をくわえて逃げようとした。
それを見た奉公人が、「この畜生め。きのうの小判も、この猫が盗んだに違いない」と、叫んで追いかける。
ほかの奉公人も集まってきじをつかまえ、よってたかって殴り殺してしまった。
やがて、福島屋の猫が伊勢屋でぶち殺されたという噂が清右衛門の耳に届いた。
これで、きじが伊勢屋から小判を盗んできたことを知った清右衛門は、病を押して隣町を訪ねた。
番頭に面会するや、「小判を盗もうとしたのは、あたくしどもの猫に違いございません。じつは、さきに猫が持ち出した小判のうち、二朱は使ってしまいました。病気が治って働けるようになりましたら、必ず二朱はお返しします」と、使い残しの三分二朱を返却した。
あとで、番頭からいきさつを聞いた伊勢屋の主人は驚き、また感銘を受けた。
「さてさて、そのきじという猫は畜生といえども、可愛がってくれた夫婦の恩を感じ、夫婦が困っているのを見て恩返しをしたのであろう。非業の死を遂げたのは不憫である」
そして、あらためて番頭に命じて、きじが盗もうとした小判と、清右衛門が返却してきた三分二朱を持って福島屋に行き、伝えさせた。
「知らなかったとはいえ、そこもとの猫を殺してしまいました。なにぶんご了見ください。きょうはお詫びにまいりました。この一両はそこもとの見舞いでございます。ご持参いただいた三分二朱もお返ししますので、これで猫を弔ってやってください」
その後、両国の回向院に猫の墓が建立された。  

文政十二年(1829)のこと。下谷坂本町二丁目の豆腐屋の女房が赤ん坊を抱いていると、着物はそのままで、赤ん坊だけいなくなってしまった。
夫婦は驚いてあたりを探しまわったが、赤ん坊の行方は知れなかった。
肥汲みがきて便所の汲み取りをしているとき、赤ん坊の死体を発見した。
「大変だ」
その声を聞きつけて近所の人が現われた。
死体を見て、近所の人は豆腐屋に告げた。
「いなくなった赤ちゃんじゃないのかい」
「さては、おまえさんの仕業だね」
豆腐屋は逆に近所の人を疑う始末である。
町奉行所に訴える騒ぎになった。
検使にきた役人が事情を聴取したが、よくわからない。豆腐屋の女房をきびしく詮議した。
「いきさつを正直に申せ」「このところ、子狐がしばしば現われ、商売物の油揚を取って行きました。うちの亭主が怒り、棒で殴り殺しました。それから数日して、赤ん坊がいなくなったのです」「ほほう、そうだったか。では、おそらく親狐が子供を殺された恨みを晴らすため、赤ん坊を殺したのであろう」
役人は納得して引きあげた。 
魚の腹
明治・大正にかけて活躍した俳人の内藤鳴雪は弘化四年(1847)、伊予松山(愛媛県松山市)藩の藩士の子として、三田にある松山藩の中屋敷に生まれた。
鳴雪が十一歳のとき、父が役目上のことで咎めを受け、内藤一家は国許の松山に帰ることになった。
大坂までは陸路で、大坂からは舟で瀬戸内海を松山まで行く。
舟は、松山藩所有の荷舟である。米などを運送するもので、藩士の公用にも用いられていた。
食事は自前でおこなうため、乗船に際して米や野菜、干物などを買い、積み込む。舟にもうけられた竈で米、魚や野菜の煮炊きをした。
舟の艫に板で囲った場所があり、そこが便所だった。穴があいていて、下は海である。
鳴雪は他の舟とすれ違うとき、舟の艫から糞がボトン、ボトンと落下しているのを目にした。自分が乗っている舟はわからないが、ほかの舟が便所を使用しているのは丸見えだった。
ノジと呼ばれる漁船があった。
漁業をしながら船上生活をしている人々で、一生を船の上で過ごす。
鳴雪が乗り込んだ荷舟が港で停泊していると、しばしばこのノジが魚を売りに漕ぎ寄せてきた。
とりたての魚だからいきがいいし、安い。内藤家もノジから魚を買った。たまたま、とりたての大きな黒鯛を買った。まな板にのせ、黒鯛をさばくと、腹から原型をとどめたままの人糞が出てきた。行き交う舟の艫から落ちた人糞を、黒鯛はぱくりと丸呑みにしていたのだ。  

寛政四年(1792)の冬のこと。本所六ツ目の葛西の渡しで、猿を連れた猿回しの男と武士が渡し舟に乗り込んだ。
舟が揺れた拍子に、猿が隣に座っている武士の腕を爪で引っかいた。
武士は激怒した。
「拙者にその猿を寄越せ。ぶち殺してくれるわ」
「ご無礼の段、あたくしからお詫びいたします。どうか、ご勘弁を」
猿回しの男は平身低頭してあやまった。
ほかの乗客も猿回しに同情し、「お武家さま、畜生のことでございます。どうか、ご勘弁なすってくださいまし」と、口々に詫びてやった。
しかし、武士はますます怒りをつのらせる。
渡し舟が渡船場に着いた。
乗客は次々と上陸する。
岸にあがった武士は猿回しの前にたちふさがり、「猿を渡せ。さもないと、きさまもただではおかんぞ」と、執拗に要求する。
繰り返し詫びたが、武士はいっこうに聞き入れない。ここにいたり、ついに猿回しもあきらめた。
「では、しかたがございません。猿をお引き渡しいたしましょう」 猿回しは肩にのせていた猿を地面におろし、諄々と言い聞かせた。
「おまえのおかげでこれまで渡世をしてきたが、思いもよらない過ちをしでかして、こういうことになった。かわいそうだが、仕方がない。あきらめて、いさぎよく死んでくれよ」 涙ながらに、猿をつないでいた縄を武士に渡した。
「では、猿をお引取りください」「よし、成敗してくれるわ」 武士が綱を受け取り、猿を引っ張る。
その途端、猿が飛びかかり、武士の咽喉笛に噛み付いた。
「わ、助けてくれ」 武士はあわてて猿を振り放そうとするが、牙は深く食い込んでいる。ついに武士は咽喉を噛み切られて倒れ臥し、息絶えてしまった。猿はそのまま川に身を投げ、入水自殺した。  
地響き
武蔵(東京都・埼玉県)と上州(群馬県)の国境の街道に、人が歩くと地中から音が響いてくる場所があった。
一帯の人々は以前から不思議なことと感じていたのだが、寛政六年(1794)、みなで話し合った末、「このままでは気味が悪い。一度、地面を掘ってみようや」と、決まった。
地元の人々が集まり掘りさげていくと、やがて、金属のように反響する硬いものに突き当たった。
「これだ、これだ」 みながどっと押し寄せ、掘り出そうとする。
ところが、穴があいていて、そこにひとりが落ちてしまった。
「わっ、危ないぞ」 人々はあわててあとずさる。
はるか下のほうから、落ちた男が叫んだ。
「おーい、助けてくれ」「まだ生きてるぞ」 そこで、綱をおろして、男を引っ張りあげた。
「なかは、どうなっているのか」「底には土はない。ただ金石のように硬く、四方は広くて真っ暗じゃ。恐ろしかったぞ」 助かった男が内部の様子を伝えた。そこで、今度は四方から広く掘り進めた。やがて、大きな仏像が横たわって埋まっているのが見つかった。仏像の腹部に裂け目があり、さきほどの男はこの穴から落ちたのだった。
さて、発見された仏像をどうするか。名主など村役人が集まって相談した。「なまじお代官さまにお届けすると、村は騒動に巻き込まれますぞ」「埋め戻し、知らぬ顔をしているにかぎります」 そこで、仏像の穴の部分に板をあててふさいだあと、土をかぶせて埋め戻した。  
白無垢
文化年間のこと。久松町の古着屋松坂屋伊兵衛は、本所相生町の質屋から質流れの白無垢の着物を仕入れた。ほかの着物といっしょにまとめて棚にしまっておいたが、翌朝、白無垢だけが棚から下に落ちていた。「夜中に誰かがいじったのだろうか」 子供がいたずらでもしたのかもしれないと思い、伊兵衛は白無垢をもとに戻しておいた。ところが、つぎの日の朝も、白無垢が下に落ちている。こんなことが三日にわたって続いた。伊兵衛も気味が悪くなったが、ちょうど四日目に、その白無垢の着物は芝あたりに住む人間に売れた。
数日後、買った人が松坂屋に白無垢を持参し、引き取ってくれと言う。その人はくわしいことは話さなかったが、その顔つきからして、同じような奇怪なことがあったのが察せられた。やむなく、伊兵衛はいったん売った白無垢を引き取った。
その後、白無垢は浅草仲町の人が買ったが、やはり数日後、引き取ってくれと言って、戻してきた。こうなると、もう白無垢を売り物にすることはできない。伊兵衛は仕入先の質屋に出向き、事情を話して白無垢の着物を返却した。質屋の主人はこれまでのいきさつを聞くと、固く口止めをした上で、裏の事情を語った。
「じつはこの白無垢は、あるお旗本のご隠居の着物でした。ご隠居が亡くなったとき、その旗本家が菩提寺に納めたのです。ところが、寺の納所坊主が質に入れ、流してしまったのです。そんな因縁のある品なので、何かがとりついているのかもしれません」
白無垢を引き取った質屋も自分のところに置いておくのは気味が悪いため、あらためて寺に奉納した。寺では読経して白無垢を焼き捨て捨てたが、焼け跡から金三分が出てきた。白無垢の裾に縫いこまれていたのだ。この三分で、寺ではあらためて隠居の法事をおこなった。 
予言
三浦浄心は江戸時代初期、伊勢町に住んでいた商人である。深い学識を有し、京・大坂、大和路や奥州松島に旅するなど、旅行家でもあった。
慶長十九年(1614)八月、鈴木久兵衛という者の子供の才三郎が数日来、放心状態となり、わけのわからないことを口走っていた。
「気でも違ったのだろうか」 久兵衛も妻も心配していた。
二十八日の午の刻(正午)、空はおだやかに晴れ、風もないというのに、才三郎が突然、叫び出した。「すわ、大風きたりて、家ころぶぞ。つっかい棒をしろ。やれ、ころぶぞ。柱につぶされて死ぬぞ。助けてくれ」 わめきながら家のなかを走りまわる。
親や兄弟、奉公人など十人ばかりが集まって取り押さえようとしたが、才三郎の力はものすごく、はね飛ばされてしまう。家のなかは大騒動になった。
近所に住む三浦浄心は騒ぎを聞いて駆けつけ、「何事ですか」と、手伝おうとしたが、なおも才三郎の興奮は収まらなかった。
未の刻(午後2時)になり、急に強い風が吹き始めた。
この突風で、町家は将棋倒しのように倒壊した。広壮な大名屋敷や寺院、神社の倒壊も数知れないほどである。芝の増上寺の山門や、浅草の誓願寺の山門も倒壊した。そのすさまじさは、古老でさえ、「かくのごとき風は初めてじゃ」と驚いたほどだった。
鎌倉の実朝公の時代、建保四年(1216)八月二十八日、京都で強風が吹き荒れ、多くの神社仏閣が倒壊したという記録がある。
また、三浦浄心が九歳のとき、天正元年(1573)八月二十八日の未の刻、大風が吹いた。
八月二十八日に、三度まで突風が吹き荒れたことになる。  

湯島の円満寺の門前に煎餅屋があった。大きな猫が夜な夜な煎餅屋の台所に忍び込み、食べ物を食い荒らした。亭主はいろいろとくふうしてワナをこしらえ、ついに猫を捕らえた。文化十年(1813)六月十九日の夜のことである。
亭主は猫を殴り殺すと、首に縄を巻きつけた。「おい、ゴミ捨て場にでも捨てて来い」「あいよ」 女房も気の強い女だった。怖がるどころか、縄に手をかけて猫の死体をぶらさげ、夜の五ツ(午後8時)過ぎ、ゴミ捨て場に捨てに出かけた。
しばらくして女房が戻ってきたが、戸口をあけるや、「あっ」と叫ぶなり、亭主の顔を引っかいた。その後は、まるで猫のような動作をする。亭主がいろいろとなだめすかしたが、どうにも手がつけられない。
とうとう亭主は家の外に逃げ出し、近所の人を呼び集めて、女房を取り押さえようとした。ところが女房は荒れ狂う。ついには足をつかんでその場に引き倒し、みなで押さえておいて、縄で縛り上げた。女房はものも言わず、ただ、「ニャア、ニャア」と泣き叫ぶだけだった。食事をするときも皿に口を押し付けて食べ、魚以外には見向きもしなかったという。 
七尾の狢
小石川水道町の蕎麦屋は日ごろ、ダシを取ったあとのダシガラを天日干しにし、菰に包んで縁の下にたくわえていた。ところが、しばしば夜のあいだに紛失した。店が古いため、壁などにあちこち穴ができていた。「犬がはいりこむのだろうか。それとも、狐か狸のしわざだろうか」 あまりに古くなったため、店を改築した。その後、ダシガラが紛失することもなくなった。
ある夜、商売を終えてから、知人が訪ねてきた。戸口をあけると、知人がはいるのに続いて、犬らしきものがはいってくる。「おや」と思うまもなく、すっと縁の下に隠れてしまった。知人が蕎麦屋の主人に言った。「いま、犬のようなものが縁の下にもぐりこみましたぞ」「さては、以前からダシガラを盗んでいた狐か狸にちがいありますまい」
そこで、近所に声をかけて大勢で店を取り囲み、畳と根太板をはがして床下をさがし、ついにつかまえた。つかまったのは、かなり年を経た狢(むじな)で、尾は七つに割れていた。蕎麦屋は狢を細い紐でしばって箱に入れ、ダシガラをあたえて飼うことにした。
弘化三年(1846)三月九日、伝通院大黒天の祭礼に合わせ、「七尾の狢」と題して境内の見世物に出したところ見物人がつめかけ、八貫文(八千文)を得たという。なお、つかまえたとき尾が七つに割れて見えたのは、狢が暴れて尾を振り立てたからだった。普通のときは、尾は一本だった。しかし、これでは見世物にはならないため、人の手で七本に見えるよう尾を分けて出した。
見物人はこう評した。「九尾の狐という、人を化かす妖狐がいるという。狢は狐より格が落ちるので、七尾なのであろう」  
 
風景

 

大食い番付
文化十四年(1817)三月二十三日、柳橋の万八楼(万屋八郎兵衛)で、大酒・大食の会が開催された。万八楼は当時、江戸の文人が愛用していた料理屋である。書画会などに用いられた。大酒・大食の記録は、以下の通りである。
(酒の部)
三升入の盃で三盃六十八歳の町人。
三升入の盃で六盃半三十歳の町人。呑み干したあとその場に倒れたが、目を覚ましたあと、茶碗で水を十七杯飲んだ。
五升入の丼鉢で一杯半七十三歳の町人。帰宅途中、土手で倒れ、翌朝まで意識不明だった。
五合入の盃で十一盃五十一歳の町人。呑み干したあと、五大力を唄い、茶を十四杯飲んだ。
三合入の盃で二十七盃四十七歳の町人。その後、飯を三杯食べ、茶を九杯飲み、甚句を踊った。
一升入の盃で四盃六十三歳の諸藩の武士。謡を口ずさみながら、一礼して帰った。
三升入の盃で三盃半武家屋敷の奉公人。しばらくのあいだ倒れていたが、気づいたあと、茶碗で砂糖湯を七杯飲んだ。
(菓子の部)
饅頭五十個、羊羹七棹、薄皮餅三十個、茶十九杯五十六歳の町人。
饅頭三十個、鶯餅八十個、松風煎餅三十枚、沢庵五本六十五歳の町人。
米饅頭五十個、鹿の子餅百個、茶五杯二十八歳の町人。
饅頭三十個、小落雁二升ほど、羊羹三棹、茶十七杯三十七歳の農民。
今坂餅三十個、煎餅二百枚、梅干一壷、茶十七杯四十五歳の町人。
(飯の部)普通の茶碗で茶漬け、おかずは香の物だけ。
飯五十四杯唐辛子五把七十三歳の町人。
飯四十七杯四十九歳の町人。
飯六十八杯、醤油二合四十一歳の町人。
(蕎麦の部)普通の盛り。
五十七盃四十二歳の町人。
四十九盃四十五歳の町人。
六十三盃三十八歳の町人。
三十六盃二十八歳の町人。
四十三盃五十三歳の諸藩の武士。
八寸重箱で九盃、豆腐汁三杯七十七歳の町人。
これは主だったものだけで、記載されなかった記録はもっと多い。ともあれ、すさまじい大酒、大食といえよう。  

文化七年(1810)の十二月初めくらいから鮪がおびただしく獲れ、前代未聞の大漁となった。
漁師の話によると、「伊豆の沖合いから銚子の沖合いにかけて、海面は鮪で埋め尽くしたかのようだ」という。
江戸の魚河岸には毎日、千尾、二千尾と鮪が水揚げされる。
そのため、値段も安くなり、大きなもので一尾が約一貫五百文、中ぐらいが約一貫二百文、小さなものは八、九百文で取り引きされた。それでもさばききれず、肥料にするため上州や信州のほうに送られていった。
魚屋が道端に屋台を出して鮪の切身を売ったが、より取り三十八文という札が立っていた。
人々は安くなった鮪を買い入れて、みな自家で塩漬けにした。そのため、塩シャケや塩タラが売れず、値段も下がったほどだった。
居酒屋でも、一皿四文の豆腐より鮪のほうが安かった。おかげで、豆腐を頼む客がなくなったほどだった。 
埋蔵金
谷中の瑞輪寺の墓地に、海保孫右衛門という者の墓があった。
自分は海保孫右衛門の子孫と称する、子安村(東京都八王子市)の孫右衛門という男が、「先祖から伝わる文書に、墓の下に一万両が埋められていると書いてあった。墓を掘り返す許可をいただきたい」と、寺社奉行に願い書を提出した。
享和四年(1802)のことである。寺社奉行はその願いを却下した。文化元年(1804)、孫右衛門はふたたび願い書を提出したが、またもや寺社奉行は却下した。文政十年(1827)、孫右衛門はみたび、願い書を提出し、とうとう寺社奉行も墓を掘り返すことを許可した。
勇み立った孫右衛門はさっそく人足を集めた。
同年の八月二十三日から、寺社奉行と町奉行所の役人の検使のもと、墓の掘り返しが始まった。
幅二間、深さ三丈ほど地面を掘り下げたが、出てきたのは錆びた脇差一腰と鏡一面だけで、金はなかった。
九月一日、穴を埋め戻し、墓を元のようにした。
人足の手間賃など、経費は合わせて六十両もかかったという。
その後、いろんな憶測や噂が飛び交った。
「本当は三千両、出てきた。しかし、なまじ金が出たと言えば、「天下の通用金を墓に埋めるなど、不届きである」として、子孫の孫右衛門も遠島になりかねない。そこで、孫右衛門は検使のお役人には、金はなかったと申し立てたのだなどという、うがった見方もあった。 

天保三年(1832)の二月上旬から三月にかけて、鮪が大漁で値が下がった。
魚河岸では二尺五寸から三尺くらいの中ぐらいの大きさの鮪が、一尾二百文くらいで取り引きされた。
そのうち、切身は片身が百文で売られるようになった。片身でも小ぶりなものは八十文だった。
魚屋があちこちの道端で切身を売ったため、わずか二十四文を出して鮪を買えば、一家三人のおかずにしても食べきれないほどだった。
鮪の安値のあおりを食って、タイ、ヒラメ、ホウボウ、タナガシラなどの春の魚はさっぱり売れなかった。 
生類憐みの令
秋田淡路守は五千石の旗本で、八丁堀に屋敷があった。淡路守には十二、三歳になる息子がいた。あるとき、庭で飛び回っていた一羽の雀が塀の上にとまった。それを見て、息子はいたずら半分で雀をめがけ、手作りの吹矢でフッと吹いた。もちろん、命中するとは夢にも思っていなかった。
はずみで矢が雀にあたり、隣の屋敷の庭に落ちた。
雀の死骸を見て、隣の屋敷が騒ぎ出した。おりしも、生類憐みの令が施行されている。放置できないため、役所に届け出た。
役人が調べると、矢は反故紙を固く巻き重ねて作られていた。ほどいてみると、秋田という姓があった。これが逃れぬ証拠となり、秋田淡路守は五千石を没収され、親子ともども八丈島に流された。 
生類憐みの令
本郷三丁目に、与右衛門という裕福な町人が住んでいた。あるとき、吉原で遊んだ与右衛門は夜がふけてから帰途についた。加賀金沢(石川県金沢市)藩前田家の上屋敷の前を通りかかったとき、数匹の犬に取り囲まれてしまった。
酒に酔っていたこともあって、与右衛門は腰に差していた脇差を抜き、「あっちへ行け、あっちへ行け」と、犬を追い払った。
たまたま剣先が一匹の頭にあたった。犬はみな逃げ去った。
そのとき、与兵衛はふところに入れていた鼻紙入を落としたのだが、暗かったので気づかなかった。
翌朝、町内の者が、一匹の犬の頭に傷があるのを見つけた。このまま放置するわけにはいかないというので、町奉行所に届け出た。
さっそく、町奉行所の役人が検使にやってきた。いろいろ調べたが、誰の仕業かわからない。
辻番の番人が責任を問われ、小伝馬町の牢屋に収監された。
同僚を救うべく、ほかの番人が申し出た。
「夜明け前、道で鼻紙入を拾いました。これをお調べください」
役人が鼻紙入をあらためると、二、三通の手紙がはいっていた。宛名はすべて与右衛門となっている。さっそく与右衛門を召し取って取り調べると、自分が脇差で犬を斬ったことを自白した。与右衛門は小塚原の刑場で磔の刑に処された。三十三歳だった。 
揮毫
大田南畝は江戸文芸界の巨頭だった。その多芸多才は南畝、蜀山人、寝惚先生、四方赤良、山手馬鹿人など多数の筆名を使い分け、分野は漢詩文、狂詩、狂歌、戯作、随筆、紀行文など多岐におよんでいる。
人気があり、有名だっただけに、大田南畝は揮毫を求められることが多かった。
初めのうちは人に、「なにか、書いてください」と頼まれると、それなりに書いてやっていたが、求める人は増える一方である。
書いてくれという品も、扇子、団扇、額、屏風、唐紙、障子、羽織の胴裏にいたるまで、ほとんど際限がない。
しだいに、南畝もうんざりしてきた。そこで、一計を案じ、求めを上、中、下の三段階に分けることにした。上は、すみやかに書いて渡す。中は、あずかっておいて、ひまを見て書く。下は、断わる。断わっても強引に品を置いていく者がいたが、放っておいて、いっさい顧慮しない。その上中下の基準を紙に書き、来客の目につく場所に貼り出した。
上の部
一詩歌の心をわきまえた人
一詩歌の心はないが、尊重する気持ちがあり、書を大切にする人
一名人の絵の賛
一きちんと表装をして、掛軸に仕立てる人
一美人が頼んできたとき
中の部
一詩歌にとくに好みはなく、なんでもいいという人
一他人に贈るのではなく、自分で所蔵する人
一扇子は一、二本、短冊は二、三枚、唐紙は一、二枚を求める人
下の部
一絵や紙、唐紙、障子の良し悪しの見分けがつかない人
一近々、遠くに旅立つ人に贈るという人
一酒宴で礼をするのは高くつくので、揮毫した扇を答礼に贈ろうという魂胆の人
一将来値上がりするであろうと考え、とにかくなにか書かせようとする人
一筋違橋外の古道具屋に売ろうと思っている人
南畝は幕臣だった。ある日、役所で、扇子を差し出し、「狂歌を書いてくれ」と、頼む者がいた。「すでに、狂歌はやめましたので」と、南畝が断わる。「では、なんでもいいから、書いてくれ」と、相手はしつこい。やむなく扇子を広げると、鶴の絵が描かれていた。そこで、南畝は扇子の裏に筆を走らせ、表書之通鶴は千年の寿無相違候と、サラサラと書いた。 
野犬
文政二年(1819)三月の末、もともと小塚原にいた野犬数匹が王子村や滝野川村のあたりを横行し、老人や子供を襲って噛みついた。一帯では野犬を怖れて、日が暮れると人の往来も途絶えるようになった。
おりしも、桜の季節である。
例年であれば飛鳥山や道灌山は花見客でにぎわうはずが、野犬横行の噂が広がり、行楽の人出もパタリと絶えた。このままでは、花見客をあてこんだ商売は立ち行かない。茶屋や料理屋はもとより、一帯の農家も花見客でうるおっていたのだ。
そこで、近郷の村々およそ十八カ村に呼びかけ、村民三百人以上を動員して野犬退治をすることになった。
村民が三匹までは追い詰め、棒などで殴り殺したが、残る白毛の一匹はすばしっこくて逃げられてしまう。
数日追いかけた末、とうとう麦畑に追い込んだ。周囲は田んぼである。
犬がひそんだ麦畑をおよそ三百人が取り囲み、少しずつ包囲を狭めていく。
見ると、犬は目を閉じ、ぐったりと地面に横たわっている。数日のあいだ追いまわされ、ろくに物も食べていないため、疲れきっているようだった。
「さあ、もう逃がさないぞ。ぶち殺せ」と、人々は棒を振り上げて押し寄せようとした。
そのとき、犬がカッと目を見開いた。
「ウウウゥー」と、牙を剥き出し、いまにも飛び掛らんばかりである。
その獰猛さに気圧され、勢い込んでいた人々も足がすくんだ。それ以上近寄ることができない。
そのすきに、犬はさっと人々のあいだを走り抜け、包囲を破って脱出した。あとは、ひたすら北のほうに向かって逃げる。
三百人以上の人々はようやく我に返り、「逃がすな、追え」と、いっせいに犬のあとを追って走り出した。
犬は足が速いため、なかなか追いつけなかったが、ついに隅田川の岸辺に追い詰めた。
「さあ、もう逃げられないぞ。ぶち殺してやる」と、人々は意気込んだ。
逃げ場を失った犬はザンブと川に飛び込むや、泳ぎ始めた。人々はあれよあれよと言うだけで、為すすべがない。またたくまに対岸に泳ぎ着くと、犬は土手を駆け上がり、そのまま姿を消した。三百人以上の追っ手は川岸に突っ立ち、犬の姿が消えるのを呆然とながめているだけだった。時に、三月二十九日夕七ツ(午後4時)過ぎのことだったという。  
伝染病
文政四年(1821)二月の初めから、江戸でダンボ風邪(ダンボサン風邪)と呼ばれる風邪が大流行し始めた。かからぬ人はないと言っても過言でないくらいに猖獗をきわめた。このダンボ風邪の影響で、芝居小屋も二、三日休業したほどだった。
二月十八、十九日になって、中山道の宿場である板橋宿にもダンボ風邪が広まり、二十四、五日がもっともひどかった。
板橋宿で町医者をしていた加藤曳尾庵は寝る間もなく往診に駈けずりまわっていたが、そのうち家族全員が感染して寝込んでしまった。曳尾庵自身も感染して、二十四と二十五の両日は枕から頭があがらない状態となった。三月になって、ようやく快方に向かった。
なお、曳尾庵が治療した患者の多くは咳をして、下痢の症状があり、頭痛がひどく、高熱を発したり、寒気を覚えたりした。その症状の軽重に応じて、漢方薬を処方した。
三月の節句を過ぎてから、患者のほとんどは快方に向かった。
子供はかかっても軽く、二十四、五歳から五十歳くらいの人の症状が重かった。なかには、死亡する者もいた。
いったんかかると、二十日から二十四、五日のあいだ回復しなかった。
文政五年
九月から十一月にかけて疱瘡(天然痘)が大流行し、曳尾庵は昼夜にかかわらず往診に追われた。板橋宿の一帯でも感染しない子供はいないというくらいの流行で、しかも罹患した子供の半分以上が死亡した。
文政七年
麻疹(はしか)が大流行し、二十一、二歳以下の男女で罹患しない者はないほどの状況となった。三月の末になって麻疹はようやく影をひそめたが、今度は中旬ころから風邪が大流行し、大人も子供もほとんどの人間がかかった。ひき始めは高熱を発し、全身の節々や喉が痛み、激しい咳が出る。十四、五日から三十日ばかりも寝込む人もいた。
曳尾庵も東西奔走し、漢方薬を処方した。この風邪は四月になっても猛威をふるった。
文政八年
九月末から痘瘡(天然痘)が大流行し、十月にはいってからは、感染した子供は十人のうち八、九人が死亡した。  
腰巻
慶応元年(1865)十月二十八日のこと。
夜の六ツ半(午後7時)過ぎ、湯島天神の門前にある料理屋に町人の男六人があがり、座敷に芸者三人を呼んで酒宴を開いた。四ツ(午後10時)過ぎ、酒宴も終わり、客の男たちは帰って行った。芸者置屋の若い者ふたりが提灯を持ち、芸者三人は連れ立って帰途につく。
天神下の、備中庭瀬藩板倉家の屋敷のあたりを歩いていると、暗闇の中から武士が白刃をひらめかせて飛び出してきた。武士は刀で提灯を叩き落した。「わっ、助けてくれ」 若い者ふたりと、芸者のふたりは提灯が消えた闇を利用して逃げ去る。
お島という芸者ひとりが逃げおくれ、つかまってしまった。
「衣類から腰巻まで、すべて脱いで、こちらに渡せ。声を立てると、斬り殺すぞ」 武士は刀でおどす。
お島はさからわない。「承知いたしました。身につけているものはすべて脱いでお渡ししますから、まず刀をお収めくださいな」「うむ、よかろう」 武士は刀を鞘に収めた。
お島は着ているものを順番に脱いでいく。ついに、腰巻ひとつになった。
はらりと腰巻を解くや、それを武士の頭からひょいとかぶせた。
「な、なにをするか」 予期しない事態に動転してしまい、武士は頭上からすっぽりかぶせられた腰巻をなかなかはずせない。
そのスキに、お島は真っ裸のまま逃げ出した。
事件後、つぎのような落首が出まわった。
ふんどしのうまひ匂ひにかぎほれて まごつく内に皆んな逃げられ
この「ふんどし」は、女の腰巻のことである。 
奥女中
浅草の掘田原に、質両替と酒屋を営む池田屋という大店があった。今戸町に十一屋という材木屋があり、主人同士は友人だった。
十一屋の主人には妾がいて、猿若町で茶屋をやらせていた。
嘉永三年(1850)三月、おりしも花見の季節である。
池田屋と十一屋の主人は花見に出かけるにあたって、「なにか、よい趣向はあるまいか」「あたしの妾のお梅を、御殿女中に仕立ててみてはいかがですかな」「それはおもしろいですな」と、話がまとまった。
当日、お梅の髪型は片はずし、着物は惣鹿の子の模様で、白足袋に筥迫を持ち、扇を半開きにして静々と歩く。そばにつきそう女中が日傘をかかげた。芸者を三人雇い、髪は針打の高島田に結わせ、惣模様の着物を着せ、筥迫を持ってお付の女中に仕立てた。幇間の桜川孝作は花色絹の羽織を着て、袴の股立ちを取り、腰には大小の刀を差して、若侍のいでたちをした。池田屋の主人は黒羽二重の袷羽織に茶苧の袴、十一屋の主人は古渡り唐桟の着物を着て、ともに武士をよそおい、柳の笠をかぶって顔を隠した。たまたま道を歩いているところに、池田屋から使いが来て、急用ができたという。やむを得ず、池田屋の主人は途中で店に戻った。
あとは、十一屋の主人と妾のお梅の一行で向島に繰り出し、花見客でにぎわうなかを行進した。
三囲稲荷に参詣したあと、料亭の平岩にあがり、大騒ぎをした。このときも、供の幇間や芸者は十一屋を、「御前、御前」と呼び、大身の武士に見せかけた。その後、木母寺に参詣し、またもや料亭の植半にあがった。ここで、みなはよそおいをかなぐり捨ててもとの姿に戻り、大笑いをした。
数日後、この悪ふざけが町奉行所の役人の耳にはいり、とうとう、全員が北町奉行所に召喚される羽目になった。八方手を尽くして穏便な処置を願ったため、ほとんどの者がお叱りですんだ。ただし、幇間の桜川孝作は武士のかっこうをしたとして、三貫文の過料を言い渡された。池田屋の主人は親類一同から押し込めにされた。十一屋の主人は養子だったため、離縁された。家を放り出されたあと、やむなくお梅のもとに転がり込んだ。 
花見
天保十一年(1840)の三月、桜の名所である飛鳥山は例年にもまして多くの人出でにぎわった。
近くにある王子稲荷社は、関八州の稲荷の統領といわれている。この王子稲荷社で二月二十八日から六十日のあいだ開帳がおこなわれ、ちょうど花見の時期と重なったからである。
空もうららかに晴れ、絶好の花見日和のある日、飛鳥山の人ごみのなかにひときわ人目をひく美人がいた。
年のころは二十三、四歳の中年増で、町家の若嫁のようだった。髪型から衣装つきまでいかにも粋で婀娜っぽいのだが、臨月が近いらしい。腹部が大きくせり出しており、いかにも苦しそうに歩いていた。
花見の男たちはチラチラと女をながめ、「いい女じゃねえか。お腹が大きいのが玉に瑕だが」と、ささやき合った。
妊婦の連れの女もほぼ同年齢で、なかなかの美人だった。そばに、それぞれの夫らしい三十くらいの男がふたりいる。
四人はほどよい場所にゴザを敷いて座り、持参した水筒の酒や弁当を広げた。
そのうち、急に妊婦が苦しみ出した。
連れの女があわてて介抱するが、女の苦しみようは尋常ではない。
花見客も気づいてまわりに集まり、「産気づいたようだ」と、大騒ぎになった。
そのとき、ちょうど薬箱を持った医師が通りかかった。
夫が医師を呼び止め、「生まれそうです。お願いします」と、頼んだ。
先を急ぐらしい医師は迷惑そうだったが、それでも女の脈を取って容態を診る。
そのあと、やおら、さげていた薬箱を開いて見せた。
「じつは、わしは花見に行く途中でしてな」
薬箱の中には、刺身や玉子焼きなどの肴がびっしりと詰まっている。
それを見て、呼び止めた夫が、「ほう。では、せめてお酒を差し上げたいところですが、ご覧の通り呑み干してしまいましてな」と、空の水筒を振ってみせた。
そのとき、妊婦がウーンといきむなり、股のあいだから取り出したのは三升ははいるかと思われる酒樽だった。大きな腹部は、酒樽をくくり付けていたのだ。
「では、これをどうぞ」「安産、おめでとうございます」
すかさず、見物人の中から三味線を持った者が飛び出してくるや、にぎやかに弾き始めた。
三味線に合わせて、医者が唄い出し、酒樽を産み落とした女は立ち上がるや、踊り始めた。
それまで固唾を呑んで見守っていた見物人はあっけに取られた。
要するに、花見の余興だったのだ。
この趣向は、多くの人々をまんまとかついだことから、その年の花見の余興ではもっとも秀逸という評判を取った。  
花見騒ぎ
王子稲荷社は、関八州の稲荷の統領といわれていた。近くには、桜の名所の飛鳥山もある。王子稲荷社から飛鳥山にかけての一帯は、江戸近郊の代表的な行楽地のひとつだった。天保十一年(1840)三月、一帯は例年にもましてにぎわった。二月二十八日から六十日間、王子稲荷社で開帳がおこなわれることになり、ちょうど花見の季節と重なったからだ。三月中旬のことである。
王子稲荷社の参詣にきた某藩の藩士四、五人連れが酔っ払い、飛鳥山のふもとにある有名な料理屋の海老屋にやってきた。海老屋では売り切れとなり、すでに店の表戸を閉めていた。侍たちは表戸をたたき、「御用の儀につき、申し渡すことがある」と、強引に戸をあけさせた。店の者が戸をあけるや、「なにか、食わせろ」と、命じた。「もう、売り切れでございまして、なにもお出しできません」と言っても、侍たちは聞き入れない。ついには、刀を抜き、騒ぎ立てる。海老屋の奉公人が寄ってたかって侍たちを押さえつけ、紐で縛っておいてから、屋敷に掛け合った。けっきょく内済(示談)となり、侍たちは屋敷に引き取られた。
青物町の丸上という袋物屋が一家連れ立って、王子稲荷の参詣に来た。丸上の若嫁は人目をひくほどの美人だった。某藩の藩士二、三人が酔って、しつこく悪ふざけを仕掛けてくる。丸上の一行は怱々に参詣を切りあげ、帰宅の途についたが、藩士らはなおもあとをつけ、途中の道で刀を抜いておどしにかかり、そのはずみで嫁の手に怪我をさせた。侍たちはそのまま逃げ去った。同行していた番頭の利兵衛があとで責任を問われ、苦しい立場に追い込まれたという。
根津宮永町の上総屋と三河屋という商家が、女たちばかりで、王子稲荷の参詣に出かけた。上総屋の女房は人が振り返るほどの美人で、衣装も派手だった。某藩の藩士二、三人連れが酔っ払い、女房に悪態をつき、あげくは刀を抜いておどかそうとした。はずみで、顔に傷をつけてしまった。侍たちは泡を食って逃げ出した。
赤坂あたりに屋敷のある旗本家の姉妹が、ふたりの下女と、若侍と中間を供に連れ、王子稲荷の参詣に出かけた。参詣を終え、飛鳥山を見物しているところへ、酔っ払った武家屋敷の中間十人ほどがやってきた。中間たちはよってたかって、姉娘をかつぎあげ、そのまま走り去った。供の若侍も中間も、相手が大勢だったため、怖気づいて手も足も出なかった。あとを追おうとしたが、おりしも飛鳥山は花見の人々でにぎわっているため、行方を見失ってしまった。しばらくして、娘は放心状態で倒れているところを発見された。中間たちはさんざん慰みものにしたあげく、娘を放り出して逃げたのだ。  
正直
室町に、加賀藩前田家の御用達をつとめる越後屋という店があった。享保八年(1723)十二月十七日、越後屋の手代の市十郎はあちこちで集金して店に帰る途中、ふところに入れていた布袋のひとつがなくなっているのに気づいた。中には三十両はいっているはずだった。途中で落としたに違いない。もはやないであろうと思ったが、念のため、これまで歩いてきた道を逆にたどっていった。
道端にひとりの乞食が座っていた。いかにも何かをさがしているらしい市十郎の様子を見て、乞食が声をかけてきた。
「何か、お尋ねですかな。もしかしたら、金を落としたのではありませんか」「はい、さようでございます」 市十郎は自分が金を落としたらしいことを告げた。
「じつは、わしが拾いました。きっと落とした人がさがしに戻ってくるであろうと思い、さきほどからここで待っておったのです。念のため、中身のことをたしかめ、間違いないとわかれば、おまえさんに渡しましょう」 そこで、市十郎が袋の中の金額や、証文のことを述べた。
乞食はうなずき、「間違いございませんな」と、布袋を取り出し、そのまま渡した。
布袋を受け取ったあと、市十郎は五両を抜き出した。「これは、せめてものお礼でございます」 ところが、乞食は受け取ろうとしない。市十郎は収めてくれるよう、ことばを尽くした。
「この三十両は戻らないものと、なかばあきらめておりました。おまえさんのおかげで無事に、こうして戻ってまいりました。このままわたくしが全額を受け取るわけにはまいりません。どうか、謝礼としてお受け取りください」「よく考えてごらんなさい。その五両がほしいくらいなら、そもそも三十両を返すはずはありますまい。わしは自分の欲で拾ったのではありません。もし、店の金であれば、落とした人が難儀におちいるのは目に見えております。ほかの人間が拾えば、落とし主の手には戻りますまい。そこで、わしが拾って、隠し持っていたのです。おまえさんに渡せば、それで満足です。では、お別れしましょう」
そう言うや、乞食はさっさと歩き出す。市十郎はそのまま別れるのは忍びないため、呼び止め、「きょうは寒気も強いことですから、せめてこれで酒でも呑んでください」と、自分の財布から取り出した金一分を渡した。今度は、乞食も素直に受け取った。「では、お志を受け、酒でも呑みましょう」 別れるに際して、市十郎は相手が八兵衛ということや、非人頭の車善七の手下であることを聞き出した。
店に戻ると、市十郎は主人の吉兵衛にすべてを打ち明けた。話を聞き終えると、吉兵衛は目に涙を浮かべて言った。「どうにかして五両を八兵衛に渡したいものじゃ。あすの朝、非人頭の車善七の家に行き、わけを話すがよい。頭の口ぞえがあれば、八兵衛も五両を受け取るであろう」
翌日、市十郎は車善七のもとを訪ねた。すると善七が言った。「八兵衛の野郎は昨夜、どこやらで一分をもらったとかで、わしにも見せたあと、仲間の乞食を呼び集めて大盤振る舞いをしましてな。その金で酒と肴を買い、みなで大いに呑み食いしたのですが、日ごろ食べつけないものをいちどきにたくさん食べたせいか、食あたりしたのか、きょうの明け方になって急に苦しみ出し、そのまま死んでしまいました」 驚いた市十郎が死骸を見せてもらうと、間違いなく昨日の八兵衛である。「この遺体はわたくしどもでもらい受けたいので、くれぐれもほかに移したりしないでください」と言い置き、店に取って返した。
市十郎からいきさつを聞き、主人の吉兵衛はすぐさま人足を雇って車善七のもとに派遣し、八兵衛の遺骸をもらい受けた。そして、五両の金を出して、八兵衛の遺体を寺に手厚く葬った。 

天明年間(1781-89)の春のこと。いかにも尾羽打ち枯らした浪人者が六、七歳くらいの男の子の手を引いて、隅田川に架かる両国橋のたもとにさしかかった。
腰には刀を差していたが、着ている衣服はボロボロだった。
男の子もあちこちに破れが目立つ単衣の着物を着ていた。春といってもまだ肌寒い時季である。しかも、ほとんど食べ物を口にしていないようだった。
やせ細った体を寒さにふるわせながら、「ととさま、ままが食べたい」と、しきりにせがむ。
父親は涙をこらえ、「いまに、なんなりと食べさせてやるからな」と、なだめすかして歩いている。
橋のそばに、蒸かし芋を売っている店があった。
男の子は蒸かし芋を見るや、泣き出した。
「あの芋、食べたい、食べたい」 父親がいろいろとなだめるが、子供は店先から動こうとしない。
橋のたもとに茣蓙を敷き、非人が草履直しをしていた。男の子がひもじそうなのを見て、同情を禁じ得えなかった。
非人は立ち上がって浪人のそばに行くや、「お武家さまに対してあまりに失礼かもしれませぬが、わたくしにも子供がおります。そのお子さまの気持ちは痛いほどにわかります。なにとぞ、お芋を差し上げたく存じます。よろしければ、これでお芋を差し上げてくださいませ」と、いくばくかの銭を差し出した。
浪人は涙ながらに、「さてさて、情け深きおこころざし、かたじけない。お礼の申し上げようもないが、そのおこころざし、ちょうだいいたす」と、銭を受け取った。
さっそくその銭で蒸かし芋を買うや、子供にあたえた。
男の子は芋をむさぼり食っている。
浪人はその様子を目に涙を浮かべ、ほほえみながらながめていた。
やがて、子供が芋を食べ終えると、浪人は非人のもとにやってきた。
「見らるる通り、子供にじゅうぶんに食べさせることができた。この恩は、死んでも忘れませぬぞ」 丁重に礼を述べたあと、浪人は子供の手を引いて両国橋を渡り始めた。
橋の中ほどまで来るや、浪人はやにわにわが子を抱きかかえると、欄干越しに川に投げ入れた。あっという間のできごとで、まわりの人々も止めることはできなかった。ただ呆然としているだけである。続いて、浪人は自分も欄干から身をおどらせ、川のなかに飛び込んでしまった。ふたりの体は一度も浮き上がることはなかった。  
看板娘
文政六年(1823)の春、宇田川町に若鶴、白滝という二軒の水茶屋が開業した。
若鶴の看板娘は十八、九歳、白滝は三十歳くらいだったが、ともに絶世の美女だった。それぞれ、看板娘のほかに二、三人の女中を置き、客に茶を運ばせた。
当初はそれほどでもなかったが、いつのまにか評判が広がって客がつめかけるようになった。座敷では酒や料理も出し、芸者を呼んで宴会も開くようになった。
こうなると、客筋は金のある豪商の隠居や、諸藩の留守居役などにかぎられ、一般の客はとても立ち寄れなくなった。
しだいに店構えも派手になり、表の間口はわずか三間ほどだが、奥行を二十間ほどに広げ、たくさんの座敷に仕切った。その座敷で茶屋女が客を取るようになり、「ちょんの間」が金三分、月ぎめの契約が五両だった。
若鶴と白滝はますます繁盛し、二朱や一分を出したくらいでは看板娘は顔も出さず、ほかの茶屋女が相手をした。
諸藩の家老などが若侍ひとり、草履取りひとりを供にしてお忍びで訪れた場合など、家老には看板娘が出て、侍には金二朱か銀十匁の女が相手をし、草履取りには上州や房州あたりから出てきたばかりの三十四文くらいの田舎娘が相手をした。こうして、主従ともども大満足というわけである。
そのうち、若鶴と白滝の裏手に料理屋が二軒でき、仕出し料理も取れるようになった。一帯には幇間や芸者が行き交い、またたくまに遊里に変貌した。
そのころ、あちこちで盗みを働いていた盗賊が町奉行所に召し捕られた。盗んだ金の使い道を問われ、盗賊は、「宇田川町の若鶴と白滝でほとんど使い果たしました」と、答えた。これがきっかけで、町奉行所が乗り出し、究明することになった。
まず、看板娘ふたりを召し捕り、その後、役人が若鶴と白滝に乗り込んで調べると、夜着はびろうど製、風呂桶は溜塗など、贅を尽くした家具、調度品を用いていたという。
いったん小伝馬町の牢屋に収監された看板娘は、取調べのためもっこに乗せられて町奉行所に通ったが、そのたびごとにふたりは新しい浴衣に着替えた。道筋には、見物の男女が鈴生りになった。この人出を当て込み、簡便な茶屋までできたという。
ふたりのどちらかに恨みがあったのか、ひとりの男が石を投げつけようとしたが、その場で付添の同心に召し捕られ、入牢した。
その後、ふたりの看板娘はあっさり釈放された。
もっぱら、「客だった大身の武士が、裏で手をまわしたに違いない」という噂が流れた。
こうして女ふたりは釈放されたが、石を投げた男はまだ牢の中にいたという。若鶴と白滝の繁盛はわずか四、五ヵ月のあいだだった。  
溺死体
天保十一年(1840)五月十四日のこと。牛込の、俗にどんど橋と呼ばれている船河原橋の下あたりの神田上水で子供たちが水遊びをしていたが、十二、三歳になる男の子が深みにはまって溺れ死んだ。これを見て、一緒に遊んでいた子供たちはみな逃げ去ってしまった。気づいた住人が溺死体を引き上げ、菰をかけて道端に置いた。
翌日、牛込御門内にすむ遠山恵之助という旗本がたまたま通りかかって、死体に目を止めた。「なぜ、こんなところに死体を晒しておくのか」「身元がわからないものですから、いずれ親や親類がさがしに来るのではないかと、こうしております」 住人の説明を聞いた遠山は、子供の死体が晒し者になっているのはあまりに不憫だと思った。
いったん屋敷に戻ったあと、家来を派遣して死体を引き取らせ、四谷鮫河橋にある遠山家の菩提寺に葬ってやった。
根岸に本田安亭という医者がいた。十三歳になる孫の文五郎が二、三日前から行方不明になり、人を方々に派遣してさがしていたところ、船河原橋で子供の溺死体があがったという噂が伝わってきた。本田が船河原橋まで行って事情をたずねると、すでに旗本の遠山家に引き取られたという。
そこで、遠山の屋敷を訪ねた。遠山は同情し、家来に命じて菩提寺に案内させた。墓をあばくと、季節は夏だったこともあって顔は腐乱しており、まったくわからない。しかも、水遊びをしていたため丸裸で、着物も着ていなかった。それでも、前後のいきさつから孫に間違いないとして、本田は死体を引き取り、あらためて本田家の菩提寺に葬った。経費は総額で十七、八両かかったという。
数日後、文五郎がひょっこり家に帰ってきた。「いったい、どこに行っていたのか」と問い詰めると、「八王子の親類の家に行っていた」という答えである。
さっそく、本田は問い合わせの手紙を書いて飛脚に託し、八王子村に走らせた。ところが、親類の返事は、「文五郎がこちらに来た事実はない」だった。けっきょく、文五郎がどこに行っていたのか、溺死体が誰なのか、わからないままだった。 
鏡学経
霊岸島長崎町に住む山下飯之助という浪人が、遊びほうけている道楽息子や、親の手に負えない不良少年を引き取って教導し、矯正してくれるというので評判になった。
山下は期間を決めて若者を引き取り、自分の門弟として自宅に寄宿させる。そして、書物を読ませ、あるいは礼法を教えることで、それまで手のつけられなかった若者を見事に立ち直らせるというのである。
世間には、息子の道楽や非行に悩んでいる親は少なくない。
評判は高まり、「山下先生にあずけると、日限のあいだに自然と悪心を払い、真人間にしてくれる。教え方がよほどうまいのであろう」というので、親や親類一同が相談して、次々と息子を連れてくるようになった。
もちろん、引き受けてもらうに際しては寄宿料などの金を払わなければならない。しかも、かなり高額だったが、藁にもすがる気持ちで訪ねてくる親はあとを絶たなかった。
山下の家の玄関には、「実事論会学堂」という看板が掲げられていた。
玄関をはいると槍、弓矢、鉄砲、具足を入れた櫃などの武具がものものしく飾られていて、つねに袴を着た内弟子がひかえている。
いったん入門すると、山下の著述である「鏡学経」という本を渡された。いわゆる自費出版で刊行したものである。
門人は午前中、この「鏡学経」を学習し、午後からは竹刀を用いて剣術の稽古をしたという。
なかには、二、三日で逃げ出す者もいたが、そのときは数人で親元に押しかけて行って連れ戻し、足枷などをはめて二度と逃げられないようにした。
門人が増えたことから、山下は本湊町に町家を買い求め、ここを改築してあらたな拠点としようとした。それには多額の金がかかるため、あずかっている門弟の親に寄付を求めた。
文化二年(1805)九月、山下は町奉行所に召し捕られた。
その理由は、町屋に居住する浪人の身分でありながら、玄関に槍などの武具を飾り、実事論会学堂などという看板を出して新規異流の説を唱え、鏡学経という版本を勝手にこしらえ、金を集めてあらたに学堂を建てようとしたのは不届き至極である、というものだった。
山下は遠島の刑に処せられた。そのほか、内弟子など関係者多数が江戸払いや罰金などの処罰を受けた。  
神罰
文化十一年(1814)の春のこと。当時、卵を産まなくなった鶏は神社の境内などに放す習慣があり、芝神明宮の境内にも鶏がたくさん棲んでいた。
近所の米屋に奉公する米搗きの男は境内の鶏を見ているうち、食べたくなった。そこで、まわりに人目がないのをみすまし、一羽の鶏を捕らえて絞め殺すと、前垂れに包んで、近くの木の枝に引っ掛けておいた。
この光景を、たまたま近くの長屋の屋根で作業をしていた屋根葺き職人が目撃した。
職人は不埒な男を懲らしめてやろうと思い、日が暮れかかったころ、そっと境内に行き、前垂れ包みのなかの鶏を取り出すと、代わりに神社のお札を入れて置いた。
さて、日が暮れたのを見はからい、男が鶏を回収しにやってきた。
すると、前垂れのなかの鶏が神社のお札に変わっているではないか。
男は顔面蒼白になった。
神罰を恐れた男はすぐさま井戸端に走り、水を浴びて身を清めた。その後、髷を切って頭を丸め、あらためて芝神明宮の拝殿に拝礼した。
その様子を陰で見ていて、職人もやや後悔したが、もう後の祭りである。
拝礼をすませたあと、男は神主に面会を求めた。
鶏を殺したいきさつを正直に告白し、「このような奇異を目の当たりにして、神明さまの罰が恐ろしくなりました。出家して、諸国修行に出るつもりでございます」と、決意を述べた。
神主もいたく同情し、その決意を励ました。職人は外で漏れ聞いて、自分のいたずらが引きおこした顛末に耐えられなくなった。そこで、その場に出て行くと、「じつは、あっしがすり替えたのです」と、いきさつを白状した。
怒ったのが、頭を丸めて出家まで決意した男である。「よくも人をだまして、恥をかかせやがったな」と、職人につかみかかる。こうなると、職人も負けてはいない。「なにおぉ、もともと、てめえが殺生をしたのが悪いんじゃないか」取っ組み合いの大喧嘩となった。神職があいだにはいり、「鶏とお札を引き換えたのは、すなわち神明さまが屋根葺きどのの手を借りて、御教戒をたれたのですぞ。また、米搗きどのも懺悔をなし、おのが過ちを悔やんでおられる。ゆめゆめ、争ってはなりませぬ」と説諭して、ようようふたりを引き分けた。  
賄賂
大名屋敷でも大身の旗本の屋敷でも、出入りの商人から品物を購入するたびに、担当の武士は相応の賄賂を受け取るのが普通だった。
また、帳面を操作して、品物や代金の一部をふところに入れるのは当然の役得のように考えられていた。
そのため、主人の家に不幸による代替わり、婚姻、婿取りなどがあると、あるいは幕府から工事の手伝いを命じられたり、さらには火事で屋敷が類焼したりすると、家来たちは、「さあ、もうけるぞ」と、内心でほくそ笑む始末だった。
大金が動き、商人が出入りするからである。
大名や大身の旗本の屋敷ともなると、いくら倹約令が出ているといっても、居住している人間が多いだけに、日々に消費する品物は多い。それらを納入する商人も多数出入りする。
そういう商人と結託して、家来の侍たちは筆、墨、紙、油、蝋燭、菓子、酒肴、薪炭、野菜などにいたるまで、まるで分捕り合戦さながらに分け合い、ふところに入れた。
こういう役得があったればこそ、わずか二人扶持とか三人扶持の下級武士が下男や下女を雇う生活ができたのである。
こんな風潮を背景に、武家屋敷に出入りする商人や職人はみな、門番や足軽、中間にまでそれなりの音物を贈った。
発注担当の武士ともなると、商人や職人の親方は高額の賄賂を贈り、時には遊里で女郎買いの接待をしたり、高級な料理茶屋で飲食させたりして人間関係を作った。
この人間関係は、作事普請など、巨額の経費がかかる仕事の時に生きた。
屋敷の新築・改築や、各種の土木工事などは入札で業者を決める仕組みになっていて、きびしく値段を吟味し、もっとも安い値段をつけた業者に発注するのが原則である。
ところが、表向きこそ厳格だが、内実は事前に商人・職人仲間が話し合いをして、「では、今回は〇〇屋に」と、誰が落札するかを決めていた。
相場よりかなり高い価格で落札したあと、落札業者は商人・職人仲間に相応の謝礼をし、担当の武士にも賄賂を渡す。こうして、関係者全員がうるおうというわけである。
こういう仕組みが蔓延しているため、たとえば品物を購入するに際しても、高品質で安価な商品があり、主人も気に入り、「これにしてはどうか」と意見を述べても、購買担当の家来はなにかと難癖をつけて、けっきょく断念させてしまう。
そして、これまで馴れ合っている商人に発注し、賄賂をもらうのである。  
占い
平沢左内という易者がいた。もともとは大道易者で、道端で通りがかりの人を呼び止めて手相を観たり、八卦占いをしたりして細々と暮らしていたのだが、享保・元文(1716-41)のころは大いにはやり、平沢流といわれるほどになった。
江戸の各地に会所を四、五ヵ所ももうけ、一と六の日は木挽町五丁目、二と七の日は鞘町、三と八の日は浅草などと日を決めて、そこで運勢鑑定をおこなった。
多数の門弟を集めて子分のように従え、相談に来る人からは法外な大金をむしり取った。
会所の入口には、「不意に御出被成候得ば対面不致候」と書いて、張り出した。
予約なしに突然来た者には会わないというのである。
要するに、突然相談に来られては、託宣のしようがないからだった。
事前に弟子を通じて予約を取っていれば、その段階で相談者の背景がある程度わかる。
前もって情報を得ておいてから、初対面の相談者に、「お子はいませんな、手相でわかります」「男のことでお悩みですな、人相に出ております」などと見抜いてみせ、驚かせるというわけだ。
平沢左内の噂を聞いて、ある大身の武士が屋敷に招いた。招きに応じて、平沢が出向いた。内心では、出世の機会になるかも知れぬと期待していた。座敷の中央には木の箱が置かれている。武士が言った。「この箱のなかに、あるものがはいっている。それは何か、占って当ててみよ」 平沢はおもむろに筮竹と算木を取り出し、占いをおこなった。「箱のなかにあるものは、まさしく生き物でございますな。しかし、何の役にも立たないものです。まさに穀潰し。取るに足らぬものと申せましょう」「なるほど。さすが、そのほうの占いはよくあたる」
武士は笑うと、箱を開いて紙切れを取り出す。その紙には、「平沢左内」と書かれていた。  
異人
安政五年(1858)、幕府はアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと通商条約を結んだ。
これにともない、江戸の高輪や麻布に各国の公使館ができた。
千駄木に大きな醤油醸造元があった。隠居は六十代の初めくらいだったが、芝居街や色町ではちょっとした有名人だった。隠居の趣味は、人がいやがるのを見て喜ぶことだった。出かけるときは、いつも引戸の古駕籠に乗る。白麻の細布を駕籠につけ、樒を一本挿して、さも寺の迎い駕籠と見せかけて、茶屋や料理屋に乗りつけた。茶屋や料理屋の女たちが顔をしかめ、いやがるのを見て、ひとり悦に入っていた。
そのころ、各国公使館の外交官たちが王子村や浅草観音あたりに馬で遠乗りに出かけ、評判になっているのを知って、隠居は一計を案じた。
トウモロコシの毛で作りひげをこしらえ、顔をおおった。更紗のこはぜ掛けの筒袖の胴服を着込み、白い麻の股引をはいて、洋服のようにした。頭には鼠色の頭巾をかぶり、帽子をよそおった。
夜がふけてから、隠居は吉原を冷やかして歩いた。
昼間ならともかく、薄暗いなかでは本物の異人に見える。
張見世の格子の前に立つと、遊女たちが、「異人だ。異人だ」と、大騒ぎをする。
吉原をそぞろ歩きしていた男たちも、「異人だ、異人だ」と、ささやきながら、ぞろぞろとあとをついてくる。
隠居はおかしくて仕方がない。
あまりに騒ぎが大きくなったため、吉原会所の番人などが駆けつけてきた。
みなで引き立て、調べると、異人どころか、醤油屋の隠居であることがわかった。
吉原は町奉行所の支配下にあり、面番所という出張所があって、同心が常駐していた。吉原会所も初めての事態であり、隠居の処分に困った。そこで、面番所にうかがいを立てた。「あまりに、たわけたことである。我らは聞かなかったことにする。そのほうらで、適当に処置せよ」というのが、面番所の同心の答えだった。けっきょく隠居は放免されたが、各方面にかなりの礼金を払う羽目になった。  
獄門首
本所入江町の鐘撞堂のそばに、道源小僧吉五郎という男が住んでいた。本所では知らない者がないほどの顔役だった。入江町には岡場所があり、大いに繁盛していた。両側に女郎屋が並んだ路地は四十一におよび、女郎の人数は千三百人を越えた。岡場所で喧嘩などのもめごとがあっても、吉五郎が乗り出すとすぐにおさまった。
なにかもめごとがおきるたび、女郎屋も、「吉五郎さん、お願いしますよ」と、頼りにするようになる。
いつしか、吉五郎が岡場所を仕切るようになり、女郎ひとりにつき四文ずつ徴収した。
千三百余人から毎日四文ずつ取り立てるのだから、ふところにはいる金は莫大である。
たちまち、吉五郎は大金持ちになった。
ところが、そののさばりぶりは目に余るとして、吉五郎は町奉行所に召し捕られ、鈴が森の刑場で獄門の刑に処せられた。
首を切られ、その首は獄門台に晒された。
吉五郎の女房のおよしは、夫に勝るとも劣らない女傑だった。夜中、ひとりで鈴が森の刑場まで歩いていった。刑場で首の番をしている男に会い、「これで、目をつぶっていておくれ」と、かなりの金を渡した。番人は金を受け取り、見て見ぬふりをする。およしは獄門台にのっている夫の首を取りあげ、風呂敷に包むや、たったひとりで本所まで戻ってきた。
その後、本所の本仏寺に首を葬り、大金を出して多数の僧侶を集め、盛大な法要をおこなった。人々はおよしの豪胆に驚嘆した。
以来、およしが吉五郎の跡目を継ぎ、道源およしと名乗った。本所では知らないものがないほどの女親分だという。跡目を継いだとき年齢は三十四、五歳で、容貌は十人並みだった。  
吉原
人のことじゃあねぇ、俺が若い時分、まだ二十一、二歳のころよ。道楽が過ぎて親父の勘気をこうむり、家を追い出されて、しばらく伯父のところにあずけられていた。伯父の家で、いわゆる謹慎の身というやつさ。初めのうちこそ神妙にしていたが、しばらくすると、さあ、外に出たくて、出たくてたまらない。もちろん、行く先は吉原よ。
そこで苦心惨憺して、どうにか金一分を工面した。
吉原で盛んに遊んでいたころには、粋な財布や煙草入をあつらえ、得意になっていたものだが、そんな品はすべて取り上げられてしまったから、一分を入れる物がない。
まさか、ふんどしの端に結びつけるわけにもいかねえやな。そこで、脇差を抜いて、一分金を鞘の中に放り込んだ。その上から抜身を入れると、ちゃんと収まった。
さあ、これでよしと。
日が暮れてから、伯父の家をこっそり抜け出した。
吉原に来ても、引手茶屋には不義理があるから、茶屋を通すわけにはいかない。
そこで、それまでまったく縁のなかった小さな妓楼に、初会の客としてあがった。
若い者が、「お腰のものを」と言う。
刀を差したまま二階座敷にはあがれないからな。
俺は脇差を若い者に渡し、階段をトントンとのぼった。
座敷に落ち着くと、まずは酒が出る。
本当なら芸者を呼んでパッと騒ぎたいところだが、なんせ余裕がない。すべて断わって、すぐに床入にしてもらった。
布団の上に寝そべり、煙草を吸いながら女郎が来るのを待っていると、女郎の代わりに若い者がやってきた。
「へい、まずはおつとめを」
俺は初会だし、引手茶屋の案内もない直付けだ。
信用がないからな。
若い者は、まず揚代を先に払えというわけだ。
そのときになって、俺はハッと気がついた。金は脇差の鞘のなかではないか。
「なんと、若い衆、さっきあずけた脇差を、ちょっとここへ持ってきてもらいてぇ。すぐに返すから」
「いえ、どうも、脇差を二階にあげることはなりません」
「ちょいと、見たいことがあるからさ。ちょっと、持ってきてくんな」
俺が熱心に頼めば頼むほど、若い者は不審を強める。
「いえ、もう、いかようにおっしゃっても、二階へお腰のものを持ち込むことはなりません」
「なにさ、ちょいと見ただけで、すぐに渡すから」
そうやって押し問答をしているところに、遣手が現われた。
遣手はうさんくさそうに俺をみつめた。
「おまえさん、なぜ、また、ここで見たがらっしゃるのでございます。もし、ご覧になりたくば、一階へおりて、下でご覧くださいまし」
そこで、俺も腹をくくり、わけを言った。
いきさつを聞いて、遣手も若い者も笑い出す。
「おや、そうでございましたか」
いったん若い者が下へおり、脇差を持って戻ってきた。
俺はふたりの前で、刀を抜き放ち、「ごろうじろ」と、鞘をさかさにして振った。
畳の上に、一分金がポトリと落ちる。
またもや、遣手と若い者は大笑いよ。
いまでこそ、こうして笑い話だが、そのときの恥ずかしさといったらなかったぜ。顔が真っ赤になったものよ。しかし、それがきっかけで、その妓楼の連中と心安くなってなぁ。その後、親父の怒りもおさまり、親元に戻ることもできた。
それからは、例の妓楼にかよい、馴染みの女郎もできた。そのうち、馴染みが重なり、しょい込んだのが今の女房さ。なんと、世の中は味なものじゃねえか。縁の綱がどこに引っ張ってあろうやら、知れねえのう。  
神祇組
延宝(1673-81)年間のこと。三月上旬、与平次という男が友人四、五人と連れ立ち、上野の山に花見に出かけた。そのころ、神祇組と称する男伊達が横行していた。男伊達といっているが、要するに無法者の集団である。上野の山を徘徊し、花見を楽しんでいるところに押しかけてきては、酒をせびるなどして、人々の迷惑となっていた。
たまたま与平次らが毛氈を敷いて酒や料理を楽しんでいるところに、神祇組の連中が近づいてきた。
みなは怖がり、体を硬くしている。
与平次は平然としていた。
「やつらがやってきたら、俺に任せておけ。みなは、いっさいかまうなよ」
ふところから頭巾を取り出して頭にかぶり、毛氈の真ん中に大あぐらをかいてどっかと座り、盃で酒を呑む。
神祇組が毛氈の上に乗り込んできた。
「おい、そこの若い者、その盃をさせ」「いや、ご無用でござります」「なぜ盃をささぬ。酒がないのか」 神祇組がいきり立つ。
与平次はそばににじり寄り、さもあたりをはばかるように小声で言った。
「わしらは穢多でございますが、それでも酒をあがりますか」 さしもの神祇組もひるみ、「いや、そんなら、呑むまい」と、苦々しげに答え、すごすごと立ち去った。  
肥桶
文化六年(1809)四月二十日、小石川にある水戸藩徳川家の上屋敷の前を、小倉の袴に朱鞘の大刀を差した、身の丈六尺近い長身の武士が通りかかった。たまたま、天秤棒で肥桶をかついだ百姓が歩いていた。すれちがったとき、大刀の鞘のこじりが肥桶に触れた。
武士が怒鳴った。
「慮外者め。不浄の物を武士の魂に突きあてるとは、なにごとか」「これは、とんだ粗相をいたしました。どうか、ご勘弁を」百姓は肥桶をおろし、その場に土下座した。
ちょうど屋敷の表門の近くである。人通りも多いことから、水戸藩の辻番ふたりが道に出て、野次馬を追い払った。
天秤棒を膝の前に横たえ、百姓は平身低頭してあやまった。
ところが、水戸藩の辻番が見守り、見物人が遠巻きにしていることもあって、武士はますます激昂した。
あとに引けなくなったこともあろう。
「無礼討ちにしてくれるわ」と、腰の大刀を抜いた。
恐怖に駆られた百姓は膝の前に横たえていた天秤棒をつかみ、夢中で横ざまに払った。
天秤棒で撃たれたはずみで、刀は武士の手からはじけとんで、三間ばかりも離れたドブのなかに落ちてしまった。
武士は呆然としている。そのすきに、百姓は天秤棒を持ったまま、走ってその場から逃げてしまった。
振りあげた拳の置き場を失ったどころか、武士は大事な大刀までドブのなかに落としてしまった。
やむなく、袴の裾をたくし上げると、武士ははだしになってドブのなかにはいり、刀を拾いあげた。
刀と足の汚れを手ぬぐいでぬぐったあと、照れ隠しに、「不慮なることにて、面目もなきしだい」と、辻番に一礼して、そそくさと立ち去ろうとする。そこを、辻番が呼び止めた。「お待ちください。屋敷前で人をあやめたときは、武家屋敷としての手続きがござる。ただいまの一件は、人をあやめたわけではござらぬが、貴殿の相手が逃げのびたあとに肥桶がふたつ、残されておる。そんなものを屋敷前に放置しておくのは不浄である。どうか、貴殿が始末していただきたい」「それは、なんとも迷惑でござる。しばらくそのままにしておけば、さきほどの肥汲みが取りにまいるでござろう」「いや、それはなりませぬ。そもそも喧嘩は貴殿と、かの者とのあいだでおこったことではござらぬか。貴殿が相手を見事に打ち果たしておればともかく、おめおめと取り逃がしたのは貴殿の不調法。どうしてもこの肥桶を取り片付けぬとなれば、ご直参か陪臣か、またご尊名もうけたまわったうえで、相応の処置をとらせていただく」 武士は赤面した。
幕臣か藩士か、さらには姓名まで知られてしまうのは困る。ここは身元を知られずに切り抜けたい。そこで、渋々ながら言った。「しからば、片付けよう。桶はふたつあるので、天秤棒をお貸しいただきたい」「天秤棒はござらんが、六尺の樫の棒をお貸し申そう」 辻番が、古くなってちょっと反りのある六尺棒を取り出してきた。
武士は渡された六尺棒で肥桶ふたつをかつぎ、牛込馬場のほうに向かって歩き出した。遠巻きにしている見物人はさすがに野次を飛ばしたりはしなかったが、羽織袴で大小の刀を差した武士が肥桶をかついで歩く姿がおもしろいのか、ぞろぞろとどこまでもついてきた。  
団子
四谷伝馬町三丁目の裏長屋に、独り暮らしの老人が住んでいた。日雇いの仕事をしてどうにか暮らしを成り立たせていたが、ある年の冬、病気になって寝込んでしまった。身寄りの者もないとのことなので、長屋の連中がなにくれと世話を焼き、医師を呼んだり、薬を煎じて飲ませたりしたが、衰弱していくいっぽうだった。
日が暮れてから、老人が隣室との境の壁をたたいた。その音を聞いて、隣人が老人のもとに行った。「どうしたね。苦しいのかね」「もう、わしの命は今夜かぎりであろう。せめてものこの世の思い出に、団子を食いたい。どうか、団子を買ってきてくれ」「ここ四、五日というもの、ろくに食べてもいないのに、急に団子などを食べてはよくなかろう」「せめて団子を食って死にたいのじゃ。頼みます」寝たまま、老人が両手を合わせて拝む。
やむなく、隣人はまだ店を開いている団子屋をさがしあて、買って戻った。団子を見るや、老人は礼を述べるでもなく、「そこに置いて、おまえさんは帰ってくれ」と、そっけない。
隣人はムッとしたが、仕方なくわが家に戻った。
しばらくして、老人のことが気になり、「具合はどうだね」と、様子をのぞいてみると、老人はすでに息絶えていた。「大変だ、誰か来てくれ」 その声を聞きつけ、長屋の連中が集ってきた。「団子を喉に詰まらせたに違いないぜ」 そこで、ひとりが水を汲んできて飲ませようとしたが、喉を通らない。もうひとりが、老人の背中を強く叩いた。すると、口から団子が飛び出した。飛び出した団子を見ると、なかに一分金がはいっている。みなは驚き、食べ残した団子を調べてみると、すべてなかに一分金が押し込まれていた。老人はもともと、北国の出身だったという。貧しい生活のなかでコツコツと金をためていた。自分の死期をさとり、ためた金をこの世に残していくことが無念だったのであろう。  
改元
文化十四年(1817)の四月二十七、八日ころ、年号が改元されるという風説が江戸の町に流れた。いち早く、あたらしい年号を小さな紙に書いて折りたたみ、売り歩く者も出る騒ぎとなった。紙には「永長」と書かれていた。町奉行所の役人が出動し、新年号を売り歩く者をことごとく召し捕り、牢屋に入れた。
四月の末、旅の途中の武士が大磯の茶屋で休んでいると、三十歳くらいの商人が風呂敷包みをそばに置き、なにやら紙をながめ、しきりにため息をついている。
その悲嘆の様子が気になり、武士が声をかけた。「そのほう、いかがいたしたか」「あたくしは不慮の事に遇い、箱根の関所を通ることが出来ず、すごすごと江戸へ帰るところでございます」「それは、どういうわけじゃ」「あたくしは麹町の菓子屋の手代でございますが、商用で遠州まで出向くところ、番頭どのが書いてくれた関所切手の年号が違っていたため、関所を通ることが出来ませんでした。情けないしだいでございます」「どのように違っておったのか」「ごらんください」 手代が関所切手を示した。
見ると、「永長元年四月」と書いてある。
「これは、どういうことか」「二十八日に永長に改元されるという風聞がございました。あたくしは二十八日の早朝に江戸を立つ予定でした。そこで、番頭どのが気をきかせて、永長と書いたのでございます。ところが、いまもって改元のご沙汰はございません。この切手をお関所で示したところ、お役人から、「少々の文字の誤りなら目をつぶり、通すこともあるが、まだ改元のお触れもない年号を書き入れるなど、不届き千万である。通すことはあいならん」と、お叱りを受けてしまいました。
ひたすらお願いしたのですが、許してもらえず、けっきょく江戸に戻るところでございます」
言い終えると、手代はまたもや大きなため息をついた。 
妙見信仰
東京都墨田区業平五丁目にある日蓮宗の寺、妙見山法性寺は俗に「柳島の妙見」と呼ばれ、江戸時代は役者、町絵師、興行師、芸者、幇間などから篤い信仰を受けた。
本所のあたりに甲兵衛という富裕な商人が住んでいた。日ごろ、柳島の妙見を信仰し、常々、「家が栄えるのは、柳島の妙見さまのおかげじゃ」と、語っていた。甲兵衛は妻には内緒で妾を囲っていたが、この妾が病気になり、医者に診てもらっても一向によくならない。巫女を呼んだところ、「妾宅の方角がよくない。家移りをすると病気はよくなる」と告げ、引越すべき方角を教えた。
そこで、甲兵衛は巫女が述べた方角で家さがしを始めた。
たまたま、ぴったりの場所に乙次郎という男が住んでいるのを思い出した。甲兵衛は乙次郎に金を貸していたが、その返済は延び延びになっていた。「よし、あの家を取り上げて、女を住まわせればよい」 さっそく乙次郎を訪ねると、「金を返してほしい」と、申し入れた。
「もう少し待ってください」「いや、もう待てない。金を返せないのなら、この家をもらおう。出ていってくれ」「この家を追い出されたら、年老いた両親を養うことはできません。どうか、それだけは勘弁してください」 乙次郎は女房に死なれ、男手ひとつで呆けた父親と、盲になった母親を養っていた。だが、甲兵衛は聞き入れず、いついつまでに家を明け渡すよう命じた。
その夜、乙次郎の母はひとりで家を抜け出すと、杖にすがって柳島の妙見に向かった。息子の難儀を救ってくれるよう、祈ろうと思ったのだ。ところが、途中で転んでしまった。
たまたま、供を連れた武士が通りかかった。武士は盲目の老婆が道に倒れているのを見て同情し、供に命じて助け起こし、自分の屋敷に連れて行った。
丑の刻(午前2時)、甲兵衛の屋敷の門をしきりに叩く音がする。奉公人が起き出してみると、ひとりの法師が立っていた。「この家の主にお目にかかりたい」その法衣や物腰から、いかにも高貴な法師である。奉公人は驚き、寝ていた甲兵衛を起こした。「いったい、なにごとですかな」甲兵衛が寝床から起き出し、法師に面会する。「そこもとが乙次郎に貸した金をつかわすぞ。借用証文を返されよ」「なんだ、そんなことですか。そんなことは、明日にしてくだされ」 法師は声を張り上げ、「わしは今夜、ここを去れば、三十六度の遠きに行く。来年の今夜まで待つというのか」と、乙次郎が借りた金額を差し出した。
やむなく、甲兵衛はいったん奥に戻り、乙次郎の借用証文を取り出してきた。借用証文を受け取った法師は、そのまま立ち去ろうとする。その袖を取り、甲兵衛がたずねた。
「貴僧はどちらの、どなたさまでござりますか」「柳島のほとりに住み、人を助くるをなりわりとする者なり」「ご尊名はなんと申されます」「ほくしんと申すなり」 そう言うや、法師は去る。甲兵衛はあとを見送りながら、法師が乙次郎の家に向かうと思った。ところが、法師はまったく逆の、北の方角に向けて歩き去った。
いっぽう、乙次郎は母の姿が見えないので、夜を徹してあちこちをさがし歩いた。疲れきり、寅の刻(午前4時)に帰宅すると、母親は寝床に横になっていた。
「おっ母さん、いったい、どこへ行っていたのですか」「じつは、おまえの難儀を柳島の妙見さまに救っていただこうと思い、ひとりで出かけたところ、途中で倒れてしまった。通りかかったお侍さまに助けてもらい、広いお屋敷に連れて行かれた。お侍さまに事情を問われ、あたしはありのままを打ち明けた。その後、しばらくお屋敷ですごしたあと、駕籠に乗せられ、さきほど帰ってきたところさ。帰るとき、そのお侍さまから、こんなものをいただいたよ」 母親が紙を取り出した。乙次郎が見ると、それは甲兵衛に渡した借金の証文だった。
不思議でしかたがないため、夜が明けると、乙次郎は甲兵衛を訪ね、いきさつを語った。これを聞き伝え、人々は「きっと、妙見さまが助けてくれたのであろう」と、語り合った。
甲兵衛も感ずるところがあった。「わしも日ごろから柳島の妙見さまを信心してきたが、妙見さまは乙次郎をお助けになった。考えてみると、乙次郎は老いた両親があり、貧しい。いっぽうのわしは親はすでになく、裕福である。この金を受け取れば、どんな天罰を受けないともかぎらない」 そこで、すぐに乙次郎の家に行き、法師から受け取った金を渡した。初めは乙次郎も固辞したが、無理矢理に金を押し付けて、甲兵衛は帰った。その後、甲兵衛の妾は病から回復し、商売はますます繁盛したという。
法師をよそおったのは、本所石原町に屋敷のある成瀬松年という武士だった。道に倒れている老婆を助け、乙次郎がおちいっている苦境を知り、一計を案じたのだという。  
信仰
ある若い男はどうにかして出世をしたいものだと思っていたが、生活は貧窮しており、有力なコネもない。いろいろ考えているうち、そのころ権勢のあった甲(姓名は不詳)の菩提寺が駒込にあることに気づいた。駒込のその寺まで、自分が住む裏長屋からはほど近い。
男は一大決心をして、毎朝、その寺に参詣することにした。
以来、たとえ風雨が激しいときでも欠かすことなく、毎日同じ刻限に参詣する。やがて、寺の小僧や寺男とも顔見知りとなった。
彼らも男の熱心さに感心し、「いつも、お早い参詣でございますな」「あいにくのお天気のなか、ご苦労に存じます」などと、挨拶するようになった。
住職はある日、毎朝参詣に来る奇特な男がいることを小耳にはさみ、興味を持った。
「ほう。そのお方が来たら、こちらへご案内しなさい」
つぎの日、参詣に来た男に寺男が声をかけ、「和尚さまが呼んでござります」と、方丈に案内した。
住職は一室に男を招き入れ、茶と菓子をふるまった。
「さてさて、おんみは毎日、当寺に参詣にまいられるとか。なにか、わけがお有りですか」「わたしはかねてより、甲さまのようなお方にご奉公をしたいと願っているのですが、貧乏をしており、おそばに近づくことすらかないません。そんなおり、夢にこの寺のご本尊が出てまいりました。霊夢のありがたさに、毎日、お礼の参詣を続けております」 男はまことしやかに述べた。
住職は笑って言った。
「霊夢はともかく、拙僧としてはこの寺の本尊にご利益がないとは申せませぬな。では、ご利益があるようにしてさしあげよう」
その後、住職が男を使いに立て、しばしば甲の屋敷に出入りさせた。ついには甲の目にとまり、男は召抱えられたという。住職にしても、男に恩を売ることで、甲との結びつきを強固にする思惑があったに違いない。  
霊宝
開帳とは、寺院や神社が日ごろは秘蔵している神仏や霊宝を一定期間にかぎって参詣者に公開し、拝観させること。居開帳と、出開帳がある。居開帳は、その寺社で公開すること。出開帳は、他の寺社に運び、公開すること。場所としては江戸の寺社がえらばれた。なんといっても百万都市であり、多くの参拝者が見込めたからである。
江戸の出開帳でもっとも多数の参拝者を集めたのが、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、信州善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王である。いわば、四天王といえよう。出開帳の場所としては、両国の回向院がもっとも多い。そのほか、深川の寺などである。回向院が好まれたのは、当時の江戸最大の盛り場、両国広小路に近かったからであろう。隅田川をへだて、両国橋の西岸が両国広小路で、東岸が回向院である。
出開帳は本来は宗教行事だが、江戸では多くの集客を見込めるイベントになっていた。商売そのものである。当時は娯楽が少なかった。出開帳と聞くと、人々がどっと押し寄せた。とくに、なかなか行楽などに行けない老人や女にとっては、信仰を名目に遊びに行く絶好の機会でもあった。こうして、多くの人が参詣に訪れることで、寺社には多額の賽銭が落ちた。さらに、地域経済に及ぼす効果も大きい。周辺の茶屋や料理屋は大にぎわいとなった。出開帳にかこつけ、近在の女郎屋に繰り込む男も多かった。出開帳のおこなわれる寺社の境内には屋台店や見世物小屋などが並び、客が金を落とした。
安永七年(1778)の夏、回向院で信州善光寺の阿弥陀如来の出開帳がおこなわれ、おびただしい人々が詰めかけた。この人出をあてこみ、両国広小路に「とんだ霊宝」という見世物が出現し、評判となった。三体の仏像を安置しているのだが、吸い物椀を三つ並べ、その上に立てた尊体は飛魚だった。頭は串貝、天衣はスルメ、後光は干タラである。後光仏はトコブシでできていた。忌むべき生臭もので仏像を作っているのだから、本来であればとんでもない不敬のはずだが、回向院の出開帳に出かけた人々が行き帰り、「とんだ霊宝」を見物して、「おっ、洒落てるじゃねえか」「なんとも、粋だね」などと、大喜びした。
出開帳が宗教心とはまったく無縁だったことがわかる。  
茶と寿司
本所石原町に住む熊田志麿は寿司が大好物だった。いっぽう、熊田の師匠にあたる久保は茶が大好きだった。
ある年の正月、師匠が茶が好きなのを知っている熊田は、奉公人に命じて久保のもとに「初音」という茶を届けさせた。
その際、
あけてけさめでたき春にうぐひすのはつねの茶をもまゐらせぞする
と書き添えた。
茶を受け取った久保は、熊田が寿司が好きなのを知っているため、やはり「初音」という寿司をあつらえた。
また、書き添えてあった狂歌に手を入れ、
あけてけさめでたき春にうぐひすのはつねのすしをまゐらせぞする
と書き直し、寿司を使いの者に託して返礼に届けさせた。
返礼に寿司を受け取った熊田はおもしろくなってきた。
そこで、今度は使いの者に挽き茶を一箱持たせ、
あけてけさめでたき春にうぐひすのいろのひき茶をまゐらせぞする
と書き添えて送り届けた。
またもや茶をもらった久保もおもしろくなってきた。
そこで、ふたたび寿司をあつらえた。贈答用の寿司は器の底に笹の葉を敷くのが普通だが、わざと笹の葉を敷かず、
あけてけさめでたき春にうぐひすのさゝなきすしをまゐらせぞする
と書き添えた。
受け取った熊田は愉快でたまらない。
今度は、茶入れを届けることにした。
この茶器はほかにはない珍しいものであると前書きしたあと、
あけてけさめでたき春にうぐひすのたけになき茶のうるはまゐらす
と書き添えた。
久保は今度は「松が寿司」という寿司を送り届けることにして、
あけてけさめでたき春にうぐひすのはつねをまつがすしをまゐらす
と書き添えた。
松が寿司を受け取ったとき、すでに日は暮れていた。
熊田も茶を贈ることはやめ、使いの者に、
かずかずのめでたき春にうぐひすもしばしねぐらになきやみぞする
と書いた短冊だけを届けさせた。
短冊を受け取った久保は、「これで終わりじゃな。なかなかおもしろかったわい」と笑った。  

寛政のころ、本町三丁目に奈良屋という薬種問屋があった。
奈良屋では砒素をふくんだ砒霜石という鉱物をたくわえていたが、有毒であるため、甕に入れて固く封をし、二階の隅に保管していた。
手代のひとりが女郎買いに夢中になり、とうとうひどい瘡毒(梅毒)にかかった。しかも、遊興費を捻出するため、店の金にも手をつけてしまった。もう、にっちもさっちもいかなくなった。
「こうなったら、いっそ死んだほうがましだ」 ヤケになった手代はそっと二階にあがると、甕のふたをはずして、砒霜石を思う存分になめた。ところが、いっこうに死なない。それどころか、左の脇腹に大きな吹出物ができて、そこから膿がおびただしく流れ出た。十日ほどして吹出物はおさまったが、それとともに瘡毒も治ってしまった。砒霜石が瘡毒の毒素を押し出してしまったのであろう。  

武州二合半領(埼玉県三郷市)の貧しい農民が水腫という病気にかかり、全身がむくんで腫れあがってしまった。
いろんな民間療法をためしてみたが、まったく効果はない。本人はもとより、まわりの者も、もう助かる見込みはないと思った。
友人が見舞いにやってきた。
「具合はどうかね」「あと数日の命だろうよ。ただひとつの願いは、思う存分どぶろくを呑みたいということ。貧乏暮らしをしていたから、どぶろくも滅多に口にしたことはない。死ぬ前に、せめてどぶろくをたらふく呑みたい」「そうか、そんなことなら、お安い御用だ」 死ぬ前に望みをかなえてやろうと、友人はどぶろくを三升ほど贈った。
「ありがたい。これで、思い残すことはない」 喜んだ農民は、昼間のうちに半分ほどを呑んでしまった。
その夜、残りをすべて呑み干した。その直後から、猛烈な腹痛に襲われた。しばらくすると、陰茎から小便がほとばしり出た。そのまま、小便が際限なく流れ出る。夜が明けたときには、水腫はすっかり治っていた。どぶろくが小便を誘発し、その小便で水腫の毒素が流れ出たのだろうか。  
盲人
歌舞伎役者の初代中村仲蔵が十三歳のときのこと。月明りの夜、友達と外で遊んでいると、たまたま数人の盲人の按摩が連れ立って仕事に出かけていくのを見かけた。
「盲の按摩をからかってやろうではないか」 友達と相談し、炭の灰を集めてきて、袋に入れた。袋を竹棒の先に取り付ける。あらかじめ、袋には小さな穴を多数あけておいた。
按摩の後ろからそっと忍び寄り、竹棒の先につるした袋を頭上にかかげた。別な竹棒で袋をパシンとたたくと、灰が按摩の頭上に降りかかる。「おや、なにかな」 按摩は不思議に思い、顔を手でなでまわす。たちまち顔は真っ黒になったが、目が見えないため、按摩は気づかなかった。客に呼ばれると、按摩はそのまま家に向かう。
按摩を呼んだ客は、真っ黒な顔がぬっと入ってくるのを見て、「わっ」と、驚いた。仲蔵と友達はこのいたずらがおもしろくて仕方がない。毎晩のように繰り返していた。按摩のほうでもいたずらに気づき、つかまえてやろうと機会をうかがっていた。
ある晩、仲蔵と友達が背後から忍び寄るところを、数人の按摩が取り囲んだ。友達はすばやく逃げたが、仲蔵はひとり捕まり、袋叩きになった。通りがかりの人が仲裁にはいった。
「まあ、まあ、相手は子供ではありませんか。そのへんで勘弁してやりなさい」「盲を毎晩毎晩、真っ黒にし、商売の邪魔をしたやつです。お上に引渡し、罰してもらいます」 按摩たちは強硬だった。
仲蔵を町役人のところに引き立てていこうとする。そのとき、火事を知らせる半鐘が鳴り響いた。みな、火事の方角を知ろうと、きょろきょろする。そのすきに、仲蔵はかろうじて逃げ出すことができた。 
小水音占い
明和(1764-72)のころ、武家は猟官運動に血道をあげた。願望を成就するため、神社仏閣に祈願したり、祈祷を頼む者も少なくなかった。
ある女がいて、その小水の音を聞けば願望が成就するかどうかがわかるという噂が広がった。
ひそかに大身の旗本や、大名家の留守居役までがその家に出入りするまでになった。留守居役は藩の対外折衝役である。
ただし、女の身だけにさすがに人前ではしない。物陰にいて、音だけを聞かせた。
ある大名家の留守居役がつてを頼って訪れ、申し入れた。
「わが主人の昇進について、うかがいたい」
物陰に通され、そこでじっと待つ。ややあって、女が便所に現われた気配である。留守居役は耳をすませた。
じ、じゆう、じ、じゆう、じ、じゆう
留守居は声をかけた。
「侍従では不足でござる。もう少し上を」
小便の音が変わった。
せう、しやう、せう、しやう
「少将より、もう少し上をお願いしたい」
またもや音が変わった。
しよ、だい、ぶう
締めくくりは放屁だった。「え、諸大夫ですと…」 留守居役はがっくりと肩を落とした。 
天明の飢饉
天明年間(1781-89)に東北地方を中心におきた冷害による飢饉を、天明の飢饉と呼んでいる。
とくに、天明二年の浅間山の噴火による冷害で奥羽地方は深刻な凶作となり、約十三万人の餓死者が出た。一説では、死者は二十万人を越えたともいう。
凶作によって農村では百姓一揆、都市部では米価高騰にともなう打ちこわしが続出した。
天明七年になり、江戸の米価はますます高騰し、百俵五十両となった。すぐに五十二両に値上がりした。
五月になるとさらに高騰し、百三、四十両にもなった。
この高騰は米不足はもちろんだが、一部の商人がまだまだ値があがると見て、米を売り惜しんだことが原因のひとつだった。
ついに、徒党を組んだ人々が米屋に押しかけ、建物を打ちこわした。
たちまち騒動が広がる。
あちこちで百人、二百人が徒党を組み、鬨の声をあげて米屋に押しかけ、滅茶苦茶に打ちこわした。
その後は、米屋にかぎらず、めぼしい商家に押しかけては、略奪をおこなった。
当時、北町奉行は曲淵甲斐守、南町奉行は山村信濃守だった。
江戸のあちこちで打ちこわしがおきているのを知り、曲淵と山村はそれぞれ大勢の部下を引き連れて市内の視察に向かった。
西河岸町のあたりまで来たところ、五百人近い人数が瓦などを積みあげて道を封鎖していた。
ふたりの奉行に向かい、
「いつものときこそお奉行さまは恐ろしいが、いまとなっては、もう、なにも怖くねえや。これ以上近づくと、ぶち殺すぞ」
と、人々が口々にののしる。
その勢いに恐れをなし、曲淵と山村はすごすごとその場から引き返した。
江戸の治安を回復するため、幕府は御先手組に命じて見回りをおこなわせたが、なんの効果もなかった。無法者が召し捕られることもなかった。
じつは、御先手組の武士たちは暴徒を怖がり、打ちこわしの現場を避け、人の少ないわき道をえらんで歩いていたのだ。
江戸で打ちこわしが頻発したのは五月下旬から六月上旬までで、その後は徐々に沈静化したが、べつに町奉行所の役人が取り静めたわけではなかった。
米屋をほとんど打ちこわしてしまったのと、幕府がお救い米を供出するという噂が広がったからだった。  
転落客
ある男が吉原で遊び、帰りは山谷堀から猪牙舟(ちょきふね)に乗った。
闇夜の晩である。舟が蔵前のあたりにさしかかったとき、ドーンと杭かなにかにぶつかった。その衝撃で舟が揺れ、客の男は隅田川のなかに放り出されてしまった。
「わっ、助けてくれ」 男はあわてたが、さいわい浅瀬だった。足が川底につく。男は手さぐりで岸の石垣をさぐりあて、どうにか地面にはいあがった。猪牙舟と船頭は闇にまぎれ、すでに影も形も見えない。
男はずぶ濡れになっただけで、命は助かった。翌日、男は船頭のことが気になり、山谷堀の船宿を訪ねた。
すると、船頭は船宿の門口に腰をおろして、のんびり煙管で煙草をくゆらせている。
「おい、無事だったか」「えっ、だ、旦那」 船頭は驚いている。
「どうした」「ま、ま、ともかく、あがってください」 男の手を取って船宿の二階にあげると、船頭が頭をさげた。
「真っ平、ご免なさいませ」「ご免どころか、俺は舟が転覆したのではないかと案じていたのだが…」「声が高い。お静かに、お静かに」 船頭は必死の形相で男を制す。
男は困惑した。ややあって、船頭が声を低めて話した。
「こうなったら、もうなにもかも打ち明けてしまいます。実は闇夜の川にお素人が落ちると、船頭ひとりではとても助けられません。なまじ助けようとすると、ふたりとも溺れて死んでしまいます。そこで、暗い夜、客人が舟から落ちたときは、見捨てるのが船頭仲間の定めになっているのです。これは、けっして他言してくださいますな」
その後、船頭は酒や料理で男をもてなした。また、船宿仲間連名の謝罪証文を渡した。  
婿
俳人大島蓼太の門弟の俳諧師が宿願があって、はるばる備中(岡山県)の吉備津神社に参詣することになった。備中の国にはいり、日が暮れた。
見かけた農家に一泊を頼んだが、「ひとり旅の旅人を泊めるのは禁じられております」と、断わられてしまった。俳諧師がなおも懇願すると、農民が教えた。「では、この道を二町ほど行くと川があり、渡し舟もあります。川を渡ると、右側に大きな屋敷があります。そこに頼めば、泊めてくれるでしょう」
俳諧師は教えられた通り、渡し舟で川を超え、しばらく歩くと右側に大きな屋敷があった。門をたたいて願った。
「行き暮れた旅の者でございます。泊めていただけませんでしょうか」 門番の奉公人はいったん奥に引き込んだあと、戻ってきて招き入れた。「こちらへどうぞ」 門内にはいると、敷地は広大で、建物も大名屋敷と見まごうほどの豪華さだった。通されたのは書院造の離れだった。
ややあって、年齢は四十歳くらいの主人が挨拶に現われた。総髪で、風貌や挙動には気品があった。
「吉備津神社に参詣とのことですが、ここからは丸一日の行程です。あすは、ゆっくり休まれるがよいでしょう。江戸からまいられたとのことですが、何を業になされるお方ですか」「俳諧を業にしており、旅から旅の生活です」 主人と話をしていると、奉公人が湯の用意ができたと呼びにきた。
風呂場は広かった。俳諧師が湯から戻ると、座敷にはたくさんの料理が並んでいた。思いがけぬ厚遇に感謝し、俳諧師はその晩は泊まった。翌朝起きると、ちゃんと朝食が用意されていた。主人が言った。
「今夜もお泊りなさい。じつは、あたくしは俳諧が好きでして、ぜひお相手をしたいのです」 俳諧師は勧められるままその日は逗留し、主人と俳句談義や、句の付け合いなどをしてすごした。
夜になり、どこやらから琴の音色が響いてくる。俳諧師が耳を傾けていると、年老いた女中がやってきた。
「琴をひいているのは、この家のひとり娘でございます。十八歳になるのですが、これまでなかなか適当な相手がいませんでした。主人はいたくおまえさまが気に入った様子です。どうか、ここにとどまり、お嬢さんの婿になってはくれますまいか。けっして生活には不自由させません」
俳諧師はあまりに話がうますぎるのが不審だった。かといって、主人には世話になっており、むげに断わるわけにもいかない。
「江戸からここまでまいったのは、ひたすら参詣をしたいがため。まず、明日、参詣を終えてから、ふたたびこちらにまいります」と、苦しい言い訳をした。翌日、挨拶をして屋敷を出た。しばらく行くと、数軒の家がある。俳諧師は一軒の家に立ち寄り、居合わせた老婆に尋ねた。「川に近いところにある大きな家は、何者ですか」「さては、おまえさん、昨夜、あそこに泊まったね」 老婆が笑う。俳諧師はなおも尋ねたが、老婆はニヤニヤ笑いながら、「大変な金持ちだよ」と言うだけだった。
気になった俳諧師は、数人の若い男が仕事をしているのを見かけ、煙草の火を借りるのをきっかけに、同じ質問をした。
男たちは顔を見合わせ、ニヤニヤしている。「さては、あそこに泊まったね」「何者の家ですか」「べつに変わったことはないさ。大変な金持ちだよ」
俳諧師はもう気になってならない。吉備津神社に参詣をしたあと、戻り道でひとりの男にいきさつを述べたあと、頼み込んだ。
「どうか、包み隠さず教えてください」「おまえさん、婿になれとは言われなかったかね」「はい、その通りです」「じつはあの家の主人は穢多の頭で、一帯でも知られた大金持ちだよ」「そうだったのですか。たとえ巨万の富があるといっても、穢多と縁を結ぶつもりはありません」「もう手遅れだね。街道筋には配下が待ち構えていて、おまえさんを逃がすものか」「どうか助けてください」
俳諧師は涙ながらに懇願した。男も同情したのか、ようやく引き受けた。まずは、俳諧師を戸棚のなかに隠した。日が暮れるころ、配下の者たちが俳諧師をさがしている様子である。「江戸の俳諧師がこなかったかね」と、街道筋の一軒一軒を調べてまわっている。俳諧師は生きた心地がしなかった。
深夜になって、ようやく人の足音が途絶えたのをみはからい、男が俳諧師を戸棚から出した。「これに着替えなさい」 母親の古着を着せ、手ぬぐいを頭からかぶった。男の手引きで、裏の田んぼ道伝いに歩く。
途中、配下が待ち構えていた。「こんな夜中に、どけえ行く」「親戚に不幸があり、おっ母ぁを連れて行くところです」 男の機転でどうにか切り抜けた。
そのあと、はるかに川上の地点で川を越えた。男は間道を教えた。「もう、ここまでくれば心配ない。この道をまっすぐ行けば、街道に出る」「ありがとう存じました」 俳諧師はあつく礼を述べ、男と別れた。  

湯島あたりに住む鳶の頭の女房は、およしと言った。亭主が死んだあと、およしが鳶の者をたばね、その任侠は有名だった。
あるとき、湯島天神の境内の芝居小屋で男が刀を抜き、暴れ出した。刀を振りまわすため、誰も近づくことができない。
騒ぎを聞いて、およしが言った。
「あたしが取り押さえましょう」 その場で、およしは着物を脱ぎ捨て、素っ裸になった。
そのまま、芝居小屋にツカツカと入っていく。
刀を持った男は、丸裸の女が現われたのを見て、ぽかんとしている。
およしは男のそばに行くや、「いったい、何をしているのです」と言うや、手をのばして刀を取り上げた。
こうして、ひとりの怪我人も出すことなく騒ぎを鎮めた。
およしは陰部のそばに、蟹の彫物(入墨)をしていた。蟹がそろそろと陰門に入っていこうとする図柄だった。肌は白く、なかなかの美人だった。さしもの気の荒い鳶の連中も、およしの指図に逆らうことはなかったという。  

お加久という女は侠気で有名で、賭場でも男たちを平気で怒鳴りつけた。荒っぽい連中もお加久には口答えできなかった。
陰部に蟹の彫物をしていたが、図柄は蟹が両方のはさみで陰門を開こうとしている様子だった。
銭湯に行くときは、緋縮緬の腰巻ひとつというかっこうだった。途中、道端にかがんで平気で小便をし、まったく恥じる色はなかった。
あるとき、質屋に行き、着ていた着物をすべて脱いで真っ裸になった。
「全部、質に入れたい」 質屋の者が、あらわになった陰部を見てクスリと笑った。
お加久が怒り出した。
「ホト(陰部)がおかしいのかい。世の中の女はみんなホトがあるじゃないか。あたしのホトは、ほかの女にくらべてどこかおかしいところがあるのかい」 大声で怒鳴り続ける。これには店の者も困ってしまった。詫び金を払った上に、渡された衣類もすべて返した。  
ろくろ首
宝暦(1751-64)のころ。遠州毛賀(静岡県細江町)の豪農にひとり娘がいて、十六歳の年頃になり、婿を迎えようとしたが、すべて縁談は断わられる。娘は美人であり、実家は裕福にもかかわらず、婿になろうという男がいない。いつのまにか、「あの娘はろくろ首だ」という噂が広がっていたのだ。
ろくろ首の噂は両親の耳にもはいった。幼いころから、そんな様子は見たことがない。困惑して、娘に尋ねた。「おまえ、なにか思いあたることはないかい」「いえ。まったく思いあたることはありません。ただ、時々、遠くにある山や川が夢に出てくることがあります。そのとき、首がのびているのでしょうか」 娘は泣き伏した。
誰ひとり、娘の首がのびるところを実際に見た人はいないのだが、噂は近郷に広がり、婿になろうという男はいなかった。娘の伯父にあたる男が商用で江戸に出ることになった。伯父も、姪の縁談を気にしていた。「こういうことは、江戸でさがしてみるのがよかろう」 江戸に着いた伯父は、商売の取引先にいろいろと当たってみたが、やはりろくろ首の噂を聞くや、みな尻込みしてしまう。
あるとき、泊まっていた旅籠屋に貸本屋の若者がやって来た。神田佐柄木町の裏長屋に住む、零細な貸本屋だった。
話をしてみると、人柄もまじめで、年ごろもふさわしい。
「あたしの姪にまだ縁談がまとまらない娘がいる。おまえさんさえよければ、婿に迎えたいが、どうかね」「貧乏暮らしをしており、親戚もなく、とても支度ができません」「支度などこちらですべてするから、気にすることはない」 伯父は熱心に勧めた。
あまりにうまい話なので、若者も気になる。「なにか、訳があるのですか」「じつは、ろくろ首の評判がある」「一日だけ、考えさせてください」
貸本屋はいったん帰宅したあと、日ごろ懇意にしている近所の森伊勢屋という古着屋の番頭に相談した。
「迷うことはない。ろくろ首なんぞ、この世にあるものか。もし本当にろくろ首だったとしても、利の薄い貸本屋稼業をして生涯を終えるのとくらべれば、たいしたことではあるまいよ」 このことばに若者も心を決め、伯父が泊まっている旅籠屋に出向いて承諾した。伯父は大いに喜び、衣装一式から脇差まで買い整えてやり、共に遠州毛賀に戻った。
娘の両親も大喜びである。婚礼の式をあげ、若者と娘は夫婦となった。ろくろ首の様子もなく、夫婦仲はむつまじかった。ただ、両親は婿が逃げ出すのを怖れていたのか、ひとりで遠方に出かけることをけっして許さなかった。
結婚から十年を経て、子供もできたことから、両親は婿に江戸に行くことを許した。十年ぶりに江戸に出た男は森伊勢屋に番頭を訪ね、かつて決心させてくれたことに礼を述べたという。 
ふざけて泥棒
仙台藩の藩医工藤平助の屋敷は蠣殻町にあり、元随という弟子が玄関脇の部屋に寝ていた。
ある晩、寝ていると、闇のなかでなにかをさがしている音がする。そのころ、工藤家には多数の住み込みの下男がいた。元随は、下男のひとりが手さぐりで物をさがしているのであろうと思った。
ふと、いたずら心が芽生えた。元髄はそっと寝床からはい出し、机の下に隠れた。やがて、音が近づいてくる。
元随は飛び掛って押さえ込むや、「泥棒、泥棒」と叫んだ。
その声を聞きつけ、多くの下男が集まってきた。
明りをつけて照らすと、元随が押さえているのは工藤家の下男ではなく、正真正銘の泥棒だった。泥棒はうそぶいた。「たまたま脇差を研ぎに出し、今夜は丸腰だった。脇差があれば、おめおめと捕まることはなかったろうに」
あとで報告を聞き、工藤平助は弟子を叱った。
「あまりに、むこうみずではないか」「いえ、本当の泥棒とは知らず、ふざけてやったので、取り押さえることができたのです。泥棒と知っていたら、怖くてとてもできませんでした」元随は冷や汗を流した。  
立小便
文化のころ。おりしも三月芝居に出ていた歌舞伎役者の松本小三郎と岩井梅蔵は役を終え、八ツ(午後2時)時分から向島に花見に出かけた。小三郎、梅蔵夫婦、供の四人連れである。
咲きほこる桜をながめながら茶屋で休んでいると、酒に酔った武士四、五人がどやどやと茶店にはいってきた。梅蔵夫婦は武士の集団に恐れをなし、こそこそと座を茶店の隅に移した。ところが、小三郎はそのまま茶店の真ん中に居座り、平気な顔で煙管をふかせていた。小三郎は女形で、年齢は二十歳そこそこだった。芝居小屋からそのまま出かけてきたため、縞縮緬の半襟の付いた小袖を重ね着して、燃えるような緋縮緬の湯文字、水浅黄の手ぬぐいで髪を包むという粋な娘のいでたちである。
武士たちは小三郎をてっきり年ごろの娘と思い、ちょっかいを出してきた。小三郎は若い女の声色を使い、色気たっぷりに応じた。武士たちは図に乗り、しなだれかかる始末である。そばで見ていて、梅蔵夫婦は気が気でない。ふたりが気をもんでいるのを察して、小三郎が目配せし、さきに行くよううながした。梅蔵夫婦は茶代を払うと、そっと立ち去った。
増長した武士は頬ずりしたり、裾から手を入れようとする。やおら、小三郎が恥ずかしそうに言った。「わたくしは、ちと、はばかりに参りますから、少しのあいだ、ご免を願います」「そうか、では、早く用を足してまいれ」 武士たちはにやついていた。
茶屋の前は隅田川の土手である。小三郎は土手に横向きに立つと、裾をめくって陰茎を引っ張り出し、その場でシャーシャーと立小便を始めた。武士たちは驚き、「あれは、あれは」と、娘とばかり思っていた小三郎の陰茎を指差している。小便を終えると小三郎は、まわりの見物人に向かって、「どなたもお静かに、お静かに」と言いつつ、悠然と歩き去った。
呆然と見送った武士たちは、茶店の女将に尋ねた。「いまの者は、いったい何者じゃ」「あの人は歌舞伎芝居の女形で、松本小三郎という役者でござります」「うーん、にっくきやつめ」 武士たちはすでに酔いもさめてしまい、口々に憤懣を述べながら茶店を出た。 
女色魚
「女色魚に順ず」というランキングがある。女遊びを魚になぞらえ、評価したものである。
一太夫格子は鯛のごとし。平人の口に入がたし。
吉原の太夫や格子などの上級遊女はタイである。庶民はとても手が届かない。
一品川は鰹のごとし。上下ともに味ひ安し。
品川宿の女郎はカツオのようなもの。高級も安価もあり、手軽に味わえる。
一夜たか鯨のごとし。くさみにこまる。
街娼の夜鷹はクジラのようなもの。あそこが臭い。
一下女は鰯のごとし。好味なれども床いやし。
下女はイワシのようなものだ。味はいいが、品がない。
一妾は赤貝のごとし。子をうむと味ひなし。
妾は赤貝のようなもの。妊娠して子供を生むと、途端に味わいが落ちる。
一娘は金魚のごとし。いろのさい上。
未婚の素人の女は金魚で、まさに色事の相手としては最上。
一女房は鰹節のごとし。さして味ひなけれどあかず。
女房はかつおぶしのようなもので、たいして味はないが、飽きがこない。
一人の女房は鰒のごとし。好味なれども命あやうし。
他人の女房はフグのようなものだ。味はいいが、へたをすると命が危ない。  
ネズミ
芳町の万久という料理茶屋に、下総船橋宿(千葉県船橋市)出身の、おさきという女が女中奉公していた。
安政四年(1857)閏五月のこと。このとき、おさきは二十一歳だった。
夜、おさきが寝ていると、局部に鋭い痛みを覚えた。
目を覚ましたおさきは虫に刺されたのかと思い、股のあたりを見ると、一匹のネズミが走って逃げていった。
なんと、ネズミに局部をかじられたのである。たしかめると、傷ができていて、血も出ていた。
女の身ということもあって、とても人には言えない。誰にも告げず、秘密にしていた。
その日以来、おさきは銭湯にも行かない。
朋輩の女中たちが不審がり、次々に尋ねる。
「どうして湯屋に行かないんだい。体の具合でも悪いのかい」
おさきも隠し切れず、「夜中に、あそこがチクッとしてね。虫に刺されたか、ネズミにかじられたらしい。傷が治るまで、湯にははいらないつもりさ。恥ずかしいから、人には言わないでおくれよ」と、風呂にはいれない理由を打ち明け、くれぐれも口外しないよう念を押した。
こういう噂はすぐに広がる。しかも、尾鰭がついて流布する。
ついには、「芳町の万久の女中が陰門をネズミにかじられ、毒がまわって死んだ」という風評にまでなった。
実際は、おさきは傷が癒え、銭湯にもはいれるようになったという。  
親孝行
ある武士が病死したあと、妻のお蕗は、おいの、お安という娘ふたりを連子にして、駒込の世尊院門前に住む林蔵という町人と再婚した。林蔵には二男一女の子供がいた。ところが、林蔵も病気がちであり、子供が合わせて五人もいてはとうてい生活が成り立たない。
見かねたお安は自分が身売りをして家族の生活を助けることにした。吉原の江戸町一丁目の妓楼に十八両で身売りをし、「このお金を使ってください」と、両親に渡した。
嘉永六年(1853)、林蔵が病死した。
お蕗は子供たちを連れて根津の裏長屋に移り住み、自分が賃仕事をして生計を立てていたが、安政二年(1855)の大地震で長屋が潰れてしまった。そこで千駄木の裏長屋に移り住んだが、安政三年の八月、雨と強風で長屋が倒壊した。その後は、菰張りの小屋に親子で住むまでに追い込まれた。
身売りをしたお安は花岡という源氏名で遊女をしていたが、母と兄弟姉妹の生活を案じ、客からもらった祝儀は自分の飲み食いやぜいたくにはいっさい使わず、毎月、金二分とか三分を送金し続けた。総額は五十二両にも及んだ。
また、お安は先輩の遊女を立て、楼主夫婦の言いつけも守るなど、吉原でもはなはだ評判がよかった。この評判を聞きつけ、北町奉行所は安政四年五月二十六日、「遊女の身にて母へ孝養を尽し、兄弟共へ慈愛を加え候段、別して奇特の義に付き」として、花岡ことお安に銀三枚の褒美にあたえた。
この顕彰に、つぎのような落首が出まわった。
孝行でつらき流れに沈むとも今は朽ちずに開く花岡  
 
好色

 

失神
藤沢某という、年老いた武士がいた。ある日、藤沢はつくづく思うよう、「わしは、若いころからこの世のあらゆることを経験してきた。おそらく、この世のことで、ためしてみなかったことはあるまい。しかし、考えてみると、子供のころから念友と若衆の交わりをしたことはない。肛門に一物を挿入される味わいだけは、わしも知らないなぁ」と、男色の官能を知らずに人生を終えることをいかにも残念に感じた。念友とは、男色の相手のことである。
しかし、年齢が年齢だけに、いまさら念友を求めることはむずかしいし、陰間茶屋にも行きにくかった。
いろいろ思案したあげく、藤沢は、「そうじゃ、張形を自分の肛門に入れてみれば、おおよその味わいはわかろうというもの」と、張形を用いることを思いついた。
張形は陰茎の形を模した閨房の道具で、鼈甲や水牛の角でできている。いわば、擬似陰茎である。両国の四ツ目屋などで売っていた。
そこで、藤沢はひそかに張形を購入した。うららかな春の日、藤沢は陽があたっている暖かな縁側に出るや、やおら着物の裾をまくりあげ、中腰になった。そして、張形をそろそろと肛門に挿入しようとした。ところが、高齢だけに足腰が弱っている。腰をかがめて無理な体勢をしていたため、思わずよろけて、ドスンと縁側に尻餅をついた。はずみで、張形が勢いよくなかにはいってしまった。
藤沢はその強烈な刺激に、「ギャッ」と叫ぶなり、悶絶する。
叫び声を聞きつけ、いったいなにごとかと、息子や娘たちが駆けつけてきた。見ると、藤沢が下半身をあらわにしたかっこうで、気を失って倒れている。
「大変だ」「医者を呼べ」「気付け薬だ」と、大騒ぎになった。
ふと、ひとりが藤沢の尻から赤い紐が垂れているのに気づいた。
「おや、これはなんだ」その赤い紐は、張形の根元に結び付けられていたものだった。そこで、その赤い紐をそろそろと引っ張ると、張形がスポンと抜け出てきた。その後、気付け薬をあたえ、藤沢はようやく意識を取り戻した。事情が事情だけに、誰もが神妙な顔をして口を閉ざし、知らぬふりを通したという。  
魔羅くらべ
文化十二年(1815)三月六日、まさに春爛漫。上野の山、つまり東叡山寛永寺の境内の桜はいまを盛りと咲き誇っていた。
高田与清、大田南畝、大窪詩仏、岸本由豆流、鳥海松亭の五人が連れ立ち、酒を入れた朱漆の瓢と筵を抱え、上野の山に向かった。みな、当時の錚々たる文人学者である。
高田与清は神田花房町の通船屋敷に住む豪商で、国学者でもあった。大田南畝は幕臣だが多芸多才で、漢詩人、狂歌師、戯作者、狂詩作者として知られていた。いわば、江戸文壇の雄である。大窪詩仏は漢詩人で、江戸詩壇の重鎮だった。岸本由豆流は国学者である。鳥海松亭は漢学者だった。
五人が話に興じながら歩いていると、途中で、国学者の清水浜臣にばったり出会った。
「どうです、一緒に花見に出かけませんか」と、南畝が誘った。
浜臣は一瞬ためらっていた。横目で、与清をうかがっている。与清と浜臣はともに村田春海門下だが、師の春海の遺稿の出版をめぐって確執が生じたのをきっかけに、国学上の問題でも意見が鋭く対立し、いわば犬猿の仲だったのだ。だが、浜臣も仲間が多いことに安心したのか、「せっかくですから、わたくしもごいっしょしましょうか」と、同行することになった。
一行六人は上野の山の松林のなかに筵を敷き、酒を酌み交わしたが、途中で、詩仏はさきに帰った。
詩仏がいなくなると、急に与清と浜臣のあいだに冷ややかな空気が流れ、座がしらけた。
南畝が提案した。 「どうです、場所を変え、あらためて呑み直すというのは」 他の者たちはもちろん異存はない。 五人は上野の山をくだると、上野元黒門町にある料理屋の蓬莱屋にあがった。与清が気分を一新するため、芸者を呼んだ。 酒と料理が運ばれ、大いに飲み食いをしているうちに、お楽という名の芸者がやってきた。
「楽と申します」 三味線を前に置いて、お辞儀をした。
お楽の耳が大きく、いわゆる福耳であるのを見て、南畝がさっそく上の句を詠んだ。
「らくらくと世を渡るべき瑞相は」 らくらく(楽々)と名前の楽を掛けていることは言うまでもない。
与清も福耳に気づき、さっそく下の句を詠んだ。
「耳が大きくいろけたっぷり」 たちまちできた軽妙な狂歌に一座は爆笑し、大いに盛りあがった。
お楽の酌でひとわたりみんなが酒を呑んだころ、南畝がおもむろに、 「ところで、おふたかたの近ごろの論争ですがな」 と、与清と浜臣の和歌をめぐる論争に水を向けた。
座敷が一瞬、緊迫した。 与清も浜臣も表情を硬くしている。 せっかくなごやかな雰囲気になったところで、わざわざふたりの対立を蒸し返す南畝の無神経さに、誰しも唖然となった。
しかし、南畝はまるで気にする様子もなく、あたかもふたりの対立をあおるかのような質問を連発する。
初めはそれぞれ南畝の質問に答えていたのだが、そのうち与清と浜臣が直接応酬を始めた。そして、お互いに応酬し合っているうち、しだいに感情が激してきたらしい。
酒が入っていることも手伝い、つかみ合いの喧嘩寸前となった。
まわりはおろおろしながら、「まあまあ」となだめるのだが、かえってそれが火に油を注ぐ結果となり、ふたりとも目を血走らせている。
ころあいはよしと見たのか、南畝が口を開いた。
「おふたりの説を聞いておりましたが、どちらとも優劣つけがたい。かと言って、このまま優劣をつけないのも、おたがいに遺恨を残します。おふたりともに不足の心があるでしょう。男子第一の勝負は、男根の大小をくらべて造化に任せるにかぎります。ここは一番、男根勝負といきましょう」 その突拍子もない発言に、みなはあっけにとられた。
そのとき、南畝に目で合図を受け、お楽がにぎやかに三味線を弾きながら、「さあさあさあさあ、見せたり、見せたり」 と、せき立てる。みなは生き返った思いで、表情を明るくした。
このとき、南畝は六十七歳で、一座のなかではもっとも年長である。そんな南畝の提案とあれば、むげに一蹴するわけにもいかない。しかも、そのあまりの馬鹿馬鹿しさが大いに受けた。
誰しも手を打って笑い転げ、「それがいい、それがいい」「勝負だ、勝負だ」「さあ、前をまくって、まくって」酔いも手伝い、たちまち無礼講の大騒ぎとなった。
毒気を抜かれたかっこうで、ほとんど呆然としていた与清と浜臣だが、周囲の盛り上がりぶりに、ふたりともその気になってきたらしい。
「ようし、勝負だ」「受けて立ちましょう」ふたりは立ちあがると、部屋の中央で向かい合った。
与清は三十三歳、浜臣は四十歳であるが、こういうことになると男はほとんど子供同然となる。ふたりともムキになり、まさに眦を決していた。
「さあ、向かい合って」由豆流が行司のかっこうで、扇子を手にして両者のあいだに立った。
お楽の撥さばきがいちだんと早くなり、いやでも興奮は高まる。
「はっけよーい、のこった」行司のかけ声にあわせ、両者はパッと着物の裾をめくると、一物を取り出した。
「ほー」みなはため息を漏らした。
浜臣の陽物は、隆々と勃起していたのである。行司の軍配がかえるのに先立ち、手をふんどしのなかに突っ込み、じゅうぶんに指でしごいておいたのだ。
与清の陰茎もけっして短小というわけではなく、むしろ大きいほうなのだが、だらりと力なく垂れている。これでは固く反り返った浜臣の一物にはとても太刀打ちできない。
「勝負あった」由豆流がさっと軍配の扇子を、浜臣に向けた。
「はまおみーッ」勝ち名乗りを受ける浜臣の一物は、急速に萎えてきていた。
まじめな顔で、南畝が評した。「実力は伯仲ですが、最初のぶちかましに賭けた浜臣さんの作戦勝ちというとこでしょうか」一座は爆笑。
さすがに与清も浜臣も赤面し、照れ笑いをしている。
南畝が続けた。
「一首できました。
松の屋の松たけよりもさゞなみや志賀の浜松ふとくたくまし
では、いかがでしょう」
やんやの喝采が起こった。松の屋(松屋)は、与清の号である。「うーん、いさぎよく負けを認めましょう」与清は一礼すると、浜臣に酌をした。
浜臣が返杯しながら、「いえいえ、勝負が長引けば、わたくしが勝てたかどうか」ふたたび爆笑がまき起こり、ふたりはこれまでのわだかまりはまるで忘れてしまったかのように、すっかり打ち解けた。

文政九年(1826)六月二十八日のこと。昼八ツ(午後2時)すぎ、牛込水道町にある豆腐屋に、二十七、八歳くらいの孫四郎という農民が馬を引いてやってきた。馬の背には、肥桶がつまれていた。
居酒屋などで一杯ひっかけてきたのか、孫四郎はかなり酩酊している様子だった。
「オカラがあれば、売ってくだされ」
豆腐屋の主人の幸助は、「あいにく、売切れてしまいました」と答えた。
やむなく、孫四郎は馬を引いて帰ろうとするが、馬がなかなかいうことをきかない。酔った勢いもあり、腹立ちまぎれに、手綱で馬の鼻面をピシリと打った。
とたんに、馬が暴れ出した。
孫四郎はあわてて鎮めようとしたが、その際、はずみで手綱が足に絡みつき、馬の顔の下あたりにステンと転んでしまった。着物は尻っ端折りしている。ふんどしがゆるみ、陰茎がポロリと姿を見せた。
それを見て、馬は口を近づけるや、ガブリと噛み付き、頭をひとふりした。陰茎は根元に二、三本の毛が付着したまま、スッパリと切断されてしまった。
たちまち陰部から血があふれ出るが、孫四郎はさほど痛みも感じないのか、気絶するでもなく、ごく平然としていた。
あわてたのは、一部始終を見ていた幸助のほうである。孫四郎の傷口に薬を付け、綿を押し当てて血止めをするなどの応急処置をほどこしてやった。
孫四郎は礼を述べたあと、「もう、だいじょうぶでございます。ひとりで歩いて帰れます」と、馬を引いて、しっかりした足取りで歩き出す。
幸助は落ちていた陰茎を拾い、紙に包むと、渡してやった。
見ていると、孫四郎は紙包みを手にしてしばらく歩いていたが、なにを思ったのか、道端にポイと放り投げ、そのまま行ってしまった。
幸助があとを追いかけ、陰茎を回収したが、すでに孫四郎の行方は知れない。しかも、住所や名前も聞いていなかった。
処分に困った幸助は、陰茎を鮑の貝殻に入れて町内の自身番に持参し、月行事(月番の町役人)の源右衛門に届け出た。
源右衛門は陰茎をあらためた上、近所で若者のことを問い合わせると、けさ、牛込五軒町の小普請組稲尾左門の屋敷に肥汲みに来た農民で、下練馬村の孫右衛門の倅ということが判明した。
翌日、源右衛門は陰茎を竹の皮に包み、下練馬村に孫右衛門を訪ね、いきさつを話した。
応対に出た父親の孫右衛門は、「そのようなことは、倅からなにも聞いておりませんです。そういえば、倅はけさから、具合が悪いといって、臥せっておりますが」と、あきれ返っている。
そのとき、隣りの部屋に寝ていた孫四郎がようよう頭をあげ、苦しそうに挨拶をした。
「きのうは、とんだことで、お世話になりました。きょうになって傷が痛み、どうにも起きあがることができません。寝たままで、申し訳ありません。じつは、親父にはまだ話しておりませんでした。女房には昨夜、打ち明けたのですが、とりのぼせてしまい、嘆き悲しみ、わたしと同様、寝込んでしまいました」「それはお気の毒なことでございますな。ともあれ、このような物を町内に捨てられると、お奉行所にお届けしなければならず、そうなると町内の物入りはかさみ、はなはだもって迷惑でございます。ここに持参いたしましたので、どうか、お受け取りください」源右衛門が神妙な口上を述べ、陰茎を取り出した。
奥から、孫四郎の女房が出てきた。
二十一、二歳くらいで、髪を櫛巻きにしていた。
「昨日、亭主がご町内で思いがけぬ怪我をして、大変なお世話になり、しかもきょうは、わざわざ魔羅をお持ちいただき、まことにありがとう存じます。あらためた上で、受け取ります」
と、涙ながらに礼を述べた。
そのあと、女房は竹の皮包みをほどいて、中身をとっくりとながめた。
太さは一寸五分ほどで、長さは二寸三分あった。
「亭主のものに相違ございません。たしかに、お受け取りします」そう言うや、女房は陰茎を小ぶりな風呂敷に包み、うやうやしく床の間に置いた。
「では、たしかに、お渡しいたしましたよ」源右衛門は一家から丁重な礼を述べられ、帰途についた。  
火事
安政四年(1857)のこと。本所松倉町の名主の十兵衛が女連れで小料理屋にあがり、酒を呑み始めた。
座を盛りあげる相手がほしくなった十兵衛は、料理屋の者を使いに立て、近所に住む久次郎を呼びにやった。
ところが、いっこうに久次郎は来ない。
「わしが呼んでいるのに、来ないとはなにごとか」 十兵衛は憤然として、自分で久次郎の家に出向いた。
すると、久次郎は次郎八というやはり町内の男と一緒に酒を呑んでいるではないか。
面子を潰されたと感じ、十兵衛は怒り出した。
「わしの酒は呑めないということか」「いえ、そんなわけではありません。ちょいと、ふたりで話があったものですから」 相手が名主だけに、久次郎も弁解した。
十兵衛はますます怒る。
「そんな了見なら、おめえらふたりとも町内に住まわせるわけにはいかない。松倉町から出て行ってもらおう」「どうか、ご勘弁願います」「では、これから一緒に来い」「へい」
名主をなだめるため、久次郎と次郎八は料理屋に同行することになった。
いったん料理屋の座敷に落ち着いた。
ところが、十兵衛は酒の酔いも手伝い、ふたりにからみ始めた。
「おい、へのこを出して踊れ」 ふたりは困惑し、「ご冗談を」「勘弁してください」と、ひたすら断わる。
「わしの言うことが聞けないのか」 十兵衛は火鉢の火箸を取るや、次郎八の肩をたたいた。
さらに、久次郎に対して、「ふたりでへのこを出し、大きさ比べをしてみろ」と、迫った。
久次郎は閉口し、「もう、勘弁してくださいよ」と、断わる。
やにわに十兵衛は飛びかかるや、久次郎を押し倒し、「へのこを出せ」と、着物の裾とふんどしをまくって、陰茎を露出させた。
「毛をこがしたら、さぞおもしろいであろう」 燭台のロウソクを取るや、炎で陰毛を焼こうとした。
「わぁー」久次郎が絶叫した。
ロウソクの炎が流れて、陰毛をこがすどころか、陰茎とその周辺にやけどを負ってしまったのだ。
局部の激痛に、久次郎は気絶してしまった。
この事件は公になってしまい、十兵衛は、「名主役の身分にて、別て不届の儀に付」として、町奉行所から江戸払いを命じられた。 
釘抜き
板橋宿は、中山道の最初の宿場である。文政四年(1821)五月二十五日の夜九ツ(午前零時)過ぎ、当時、板橋宿で町医者をしていた加藤曳尾庵の家の戸がドンドンとたたかれた。魚屋の源治が、「けが人です、先生、すぐ来てください」と、呼んでいる。
急いで用意をして曳尾庵が行ってみると、若い男たちが大勢集まり、がやがや騒いでいた。
「いったい、なにごとですかな」地べたに、近在の前野村の金蔵という男が座っていた。年齢は二十四、五歳くらいである。金蔵は深夜、魚屋の表で喧嘩となり、大勢に取り囲まれて袋叩きになった。そのとき、ひとりが古板で金蔵を殴りつけたが、たまたま板に五寸釘が刺さっていた。殴りつけたはずみで、五寸釘が金蔵の左肩の骨に三寸ほども突き刺さり、板は割れてしまった。その後、どうやっても釘が抜けないのだという。
曳尾庵が傷を診ると、皮膚から釘の上部が五分ほどのぞいているだけである。いろいろとやってみたが、どうしても抜けない。金蔵は痛みは強烈に違いないのだが、なかなか剛毅で、顔色ひとつ変えず、「先生、抜いてくださいな」と、ひたすら釘を抜いてくれと頼む。曳尾庵も当惑し、「こうなったら、釘抜きで力任せに抜くしかあるまい」と述べた。
その後、若い男たちが釘抜きを持ち出してきて、「体に刺さったものが、抜けないはずがあるものか」と、代わる代わる抜こうとしたが、釘はびくともしない。「板橋で一番の大力は川越屋万蔵だ」と言う者があり、さっそく万蔵を呼び寄せた。万蔵はやってくるなり、言った。「これは、小さな釘抜きでは抜けない。このあたりで、大きな釘抜きを持っているのはどこだ」「奈良屋に大釘抜きがある」と、ひとりが奈良屋に走り、借りてきた。
みなでくふうをして、金蔵を腹ばいに寝かせ、ひとりが頭を押さえた。ひとりが背中にまたがった。両腕を広げさせ、肩の左右に板をあてた。力自慢の万蔵が板に足を乗せ、大釘抜きで釘をはさむと、「やっ」という掛け声とともに、満身の力で引っ張る。万蔵は後方に倒れ、尻餅をついてしまった。「やっと抜けたか」と、みながたしかめると、なんと釘の頭がねじ切れてしまっており、本体は突き刺さったままだった。「もう、どうしようもないな」みなは途方に暮れた。
そのとき、「釘のことは大工に任せるにかぎる」と、言い出した者がいた。そこで、治郎兵衛という大工が呼ばれた。
治郎兵衛は、「たとえ骨に打ち込んだとしても、打ち込んだ釘が抜けないはずはありません」と、中くらいの釘抜きを持ち出してきて、こじるようにして抜こうとした。しかし、頭が取れてしまっているため、釘がすべる。けっきょく、大工も抜くことができなかった。前野村に人が走り、金蔵の父親や親類が深夜にもかかわらずやってきた。
みなで相談した結果、「こうなったら、名倉に頼むしかあるまい」と、千住宿の接骨医名倉に行くことになった。夜明け前に出発し、金蔵は千住宿まで自分の足で歩いていった。名倉には各種の道具がある。それらの道具を使っていろいろ試してみたが、やはり抜けない。そこで、釘の飛び出た部分にヤスリで目を刻み、金蔵を柱に縛り付けておいて、弟子三人がかりで釘抜きではさんで抜こうとしたが、どうしても抜けない。とうとう、名倉でも閉口して、断わってしまった。
帰りには、肩が腫れあがり、痛みも耐えがたい。さしもの気丈な金蔵も途中で、馬の背に乗せられて帰宅した。
その後、このままにしておいては一命にかかわるかもしれないと、みなは心配した。
そこへ、中銀と呼ばれる博徒の親分が、「俺が抜いてやる。その後、喧嘩の仲直りをさせる」と、乗り出してきた。
釘を両方から板ではさんだ。これまでのように、まっすぐに引っ張るのではなく、大釘抜きを板に押し当て、梃子のように曲げて引き抜こうとした。ところが、中銀が力を入れた途端、釘は骨の中に五分ほども残したまま、途中でポキリと折れてしまった。もう、これで釘を抜くことは不可能になった。その後、金蔵はさほど痛みを感じることもなく、日常生活は普通だった。二十七日には、前野村から歩いて曳尾庵のもとに挨拶に来た。  
因果
信州に富裕な農家があった。用事ができて、主人が二里ほど離れた場所に出かけたとき、途中で急に雨が降り出した。あいにく雨具の用意もない。たまたま一軒の農家があったので、その軒先を借りて雨宿りをした。さほど大きな家ではないが、馬屋があって馬を飼っていた。三十くらいの男が声をかけてきた。「さぞお困りでしょう。雨がやむまで、なかにお入りなさい」「これはありがとうございます。では、おことばに甘えまして」 主人は土間にはいった。
ふたりは四方山話を始めたが、主人はふと気づいて、目が釘付けになった。男はあぐらをかいて煙草を吸っていたが、しどけなく乱れた裾から陰茎がのぞいている。その大きさはほとんど膝の近くまであった。主人は見てはいけないと思ったが、どうしてもちらちらと視線が股間に向かう。男も主人の視線に気づき、きまり悪そうにしている。主人は思い切って尋ねてみた。
「さてさて、珍しい一物をお持ちですな。房事はどうしておいでですか」「いまさら隠しても仕方ありますまい」 男は裾をめくり、自分の陰茎を引き出してみせた。
その大きさは、主人が裾からのぞいた亀頭で想像していた以上だった。「ほほう、まさに巨根ですな」「わたくしはこの一物のおかげで、哀れな身の上です。わたしは近在の大きな酒屋のせがれですが、人並みはずれた一物のために女と交わることはできません。女房になってくれる相手もなく、せめて煩悩を晴らそうと、親元を去ってこの地にひとりで住み、あそこにつないだめす馬を女房にしたのです。淫心がきざすたび、あの馬を犯しております。生きながら畜生道に落ちてしまいました」 しみじみと男が語った。雨もやんだため、主人はその家を辞去した。
帰宅してから、主人は女房に見てきた様子を話して聞かせた。「おまえは常々、わしの物が小さいと言うが、あまり大きいのも困りものだぞ」「大きいといっても、その大きさはどのくらいですか」 主人は床の間に置いた花瓶を示した。「およそあのくらいはあろう」「まさか、そんな大きなものがあるはずがございますまい」 女房は笑っていた。
数日後、急に女房の姿が消えた。いろいろと心あたりの人々に問い合わせたが、その行方が知れない。主人は奉公人に尋ねた。「姿を消す前、いつもと変わった様子はなかったか」「とくに変わった様子はございませんでした。ただ、その前の日の昼ごろ、床の間の花瓶を手に取り、膝の上でしきりになでているのを見かけました」 主人はピンときたが、黙っていた。
しばらくして、主人はひとりで家を出ると、先日の農家に向かった。声をかけると男が出てきたが、どことなく愁いに沈んでいる。「おや、先日の雨宿りのお方ですか。きょうは、なにか用事ですかな」「雨宿りの礼を述べようと思い、寄りました」 しばらく四方山話をしたあと、主人が切り出した。「顔色がすぐれないようですが、なにか心配事でもございましたか」「わかりますか。無惨にもあわれなことがありました。自然と顔色にも出てしまうのですな」「もしよろしければ、お聞かせください」「これもなにかの縁。お話しましょう」
男の話は次のようなものだった。「おまえさんが雨宿りをした数日後でしょうか。夜の四ツ(午後10時)とおぼしきころ、表の戸を叩く音がします。すきまからのぞくと、四十ばかりの女でした。「旅の者ですが、道に迷って困っております。どうか一晩、泊めてください」 わたしは独り者なので女を泊めるわけにはいかないと断わったのですが、女はしきりに願います。とうとう、家の中に入れてやりました。
出してやった湯を飲んだあと、女が声をひそめて言いました。「おまえさんの陽物は大きいそうですね。ちょっと見せてください」「らちもないことを言わないでください。いったい、そんなことをどこで聞いたのですか」「おまえさんの陽物が尋常でないのは、近郷近在で知らない者はありません。隠すことはありません」 やむなく、わたしは自分の一物を見せてやりました。
女は驚喜するや、しきりに手で魔羅をなでまわします。わたしもしだいに淫心がきざしてきます。「もし夫のない身であれば、おらとしてみないか」「はいるかどうかわかりませんが、してみましょう」 女にみちびかれながら入れたところ、ちゃんと交わることができました。
「どうかあたしを女房にしておくれ」 わたしに異存はありません。女をそのまま家に置くことにしました。翌朝、女はいそいそと家事をやり、馬屋の馬にもマグサをあたえようとします。「馬の世話はおらがやる」「いえ、あたしにもできますよ」 女がマグサをあたえようとしたところ、馬が突然暴れ出し、蹴り殺してしまったのです。馬も焼き餅を焼いていたのでしょうか。とても人には話せないため、女の死体は裏の空き地に埋めました。わたしも因果を感じ、出家するつもりです」 男は涙を流した。
主人はとてもその女は自分の女房と打ち明けることはできない。「哀れな話をうけたまわりました」と挨拶し、辞去した。  
 
浮世絵

 

江戸時代に成立した絵画のジャンルである。本来、「浮世」という言葉には「現代風」「当世」「好色」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを多く描いている。演劇、古典文学、和歌、風俗、地域の伝説と奇談、肖像、静物、風景、文明開化、皇室、宗教など多彩な題材がある。大別すると、版本の挿絵、一枚摺の木版画、肉筆浮世絵の3種類に分けられる。当然、木版画が量産されるようになる以前には肉筆画のみしか存在しなかったわけで、巻物などの肉筆浮世絵が含まれる。肉筆浮世絵は、形式上、屏風絵、絵巻、画帖、掛け物、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に大別される。また、浮世絵師は和装本の挿絵、表紙の仕事も並行して行った。広義には引き札、鏝絵、泥絵、ガラス絵、凧絵 ねぶた絵なども浮世絵の一種といえる。ただし、現代においては一般的には多色摺りの木版画錦絵のことを指すことが多い。
浮世絵には元来、木版画、絵画(肉筆画)のものがある。絵画つまり肉筆画は一点ものであり、名のある絵師によるものは高価であった。これに対して、木版画は版画であるために、同じ絵柄のものを多く摺り上げることができ安価で、江戸時代の一般大衆もたやすく求められた。また有力者や大名などのコレクションが、現代の有数のコレクションに引き継がれているという見方もある。
浮世絵版画は大衆文化の一部であり、手に取って眺め愛玩された。現代の美術展等のように額に入れて遠目に眺めるものではなかった。しかし、現在は手にとって眺めるほかに、額に入れて美術館や家庭などに飾られることが多くなった。草双紙や絵巻物、また瓦版(新聞)の挿絵の役割も果たした。絵暦と呼ばれるカレンダーの制作も行われ、絵の中に数字を隠すなど様々な工夫を凝らしたものが作られた。江戸から国元への土産にも、その美しさと嵩の低さが喜ばれた。玩具絵のように切り抜いて遊ぶものもある。
はっきりした図柄と大胆な構図、影の表現を持たないこと等が表現上の特徴である。遠近法も取り入れられた。遠景の人物を逆に大きく描く北斎の『釣の名人』のように、意図的に遠近をずらされたものもある。
また、絵師による誇張や意図などを考慮する必要はあるが、描かれている風景や現在では変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている。 
歴史
もともと浮世絵は、浮世を描いた絵、風俗画として登場している。浮世絵師には狩野派、土佐派出身の絵師が数多く見られる。そのため室町時代から桃山時代の風俗画の影響が見受けられる。
始期
天文末期から明暦の大火の頃。木版の発生前であり、厳密には浮世絵とはいえないかもしれないが、肉筆によって岩佐又兵衛らが当時の風俗画を描いており、京都では、北村忠兵衛や辻村茂兵衛といった絵師が清水寺に絵馬を奉納している。

天文末期から明暦の大火の頃までを指す。まだ木版の誕生前であり、肉筆画が主であった。
初期
明暦の大火から宝暦の頃。初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色刷り(墨摺絵)が主である。その後、墨摺絵に赤い顔料で着色した丹絵(たんえ)、紅絵(べにえ)、紅絵の黒い部分に膠を塗って光沢を出した漆絵(うるしえ)が登場、以上はすべて筆による彩色であった。さらに紅絵に緑色など二、三色を版摺りによって加えた紅摺絵(べにずりえ)が登場する。錦絵登場の直前、輪郭線すらも墨を用いず「露草」の青とした水絵(みずえ)と呼ばれる、極端に彩度の低い多色刷りも生まれている。

明暦の大火頃から宝暦の頃までを指す。初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色刷り(墨摺絵)が主である。
17世紀半ば以降、木版画の原図を描く者を版下絵師といい、その中で絵本や浮世草子に挿絵を描いた菱川師宣が登場する。また、代表作として有名な『見返り美人図』は肉筆画である。
井原西鶴の『好色一代男』(1682年刊)には、12本骨の扇子に浮世絵が描かれていたとあり、これが浮世絵という言葉の確認出来る最古の文献である。
鳥居清信の時代になると墨摺絵に筆で着色したものが現れる。これらは主に赤い顔料を使い着色され、丹を使ったものを丹絵(たんえ)、紅を使ったものを紅絵(べにえ)と呼んだ。紅絵までは筆彩であったが、さらに紅絵に色を二、三色、版彩によって加えたものを紅摺絵(べにずりえ)と呼ぶ。この当時から鳥居派は歌舞伎と強く結びつき、現代でも歌舞伎の看板を手がけている。
中期
明和2年(1765年)から文化3年(1806年)頃。鮮やかな多色刷りの東錦絵(吾妻錦絵、江戸絵)が編み出され、浮世絵文化が開花する。下絵師、彫師、摺師の分業体制が整っていく。

錦絵が誕生した明和2年(1765年)から文化3年(1806年)頃を指す。
明和2年(1765年)に江戸の俳人を中心に絵暦が流行し、絵暦交換会が開かれるようになった。その需要に伴い鈴木春信らが多色刷りによる東錦絵(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えた。多色刷りが可能になった背景には、重ね刷りの際の目印となるよう「見当」が工夫されたこと、複数回の刷りに耐えられる丈夫で高品質な紙が普及したことが挙げられる。越前奉書、伊予柾紙、西ノ内紙などの楮を原料とした紙が用いられた。また、経済の発展により下絵師、彫師、摺師と複雑な工程の分業体制を整えることができた点も重要である。
鈴木春信の死後、美人画は中性的・人形的な絵柄から写実的なものへと変化していった。
安永期、北尾重政は写実的な美人画で人気を博した。役者絵にも写実さが加わり勝川春章によってブロマイド的な似顔絵が描かれた。
さらに喜多川歌麿が登場し、繊細で上品で優雅なタッチで、美人画の大首絵を数多く手がけた。
寛政2年(1790年)、改印制度ができ、出版物に様々な規制がされた。 寛政7年(1795年)、禁令のため財産を没収された版元蔦屋重三郎が起死回生を狙い、東洲斎写楽が売り出される。独特の誇張された役者絵によって話題を呼ぶが、役者の特徴を誇張しすぎ、人気が振るわなかったことと、歌川豊国による『役者舞台姿絵』のより美しく、贔屓目に描かれた役者絵の絶大な人気に敗退した。
歌川豊国の一番弟子、歌川国政の役者絵の技量は抜群であり、師をしのぐ勢いがあるといわれたが、文化2年(1805年)か同3年(1806年)ころには作画を辞め、役者似顔の面を作って売ったといわれる。
その後、豊国の弟子たちからなる浮世絵絵師最大派閥である歌川派が形成されていった。
後期
文化4年(1807年)から安政5年(1858年)頃。美人画、役者絵、武者絵のほか、旅行ブームに伴い名所絵(風景画)が発達。

文化4年(1807年)から安政5年(1858年)頃まで。喜多川歌麿の死後、美人画の主流は渓斎英泉が描くような官能的な色っぽい美人や可愛げに移っていく。
勝川春章の門人、葛飾北斎は旅行ブームに伴い『富嶽三十六景』を手がけ、それが元で歌川広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。この2人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
役者絵では歌川国貞が師匠歌川豊国の流れを受け継いで、力強い役者絵を手がけた。
また、草双紙で伝奇ブームに伴い、歌川国芳などによって武者絵が描かれるようになる。歌川国芳の『水滸伝』シリーズは当時人気を博し、浮世絵水滸伝ブームが起こる。
嘉永6年刊行の『江戸寿那古細見記』に「豊国にがほ(似顔絵)、国芳むしや(武者絵)、広重めいしよ(名所絵)」と書かれた。
終期
安政6年(1859年)から明治45年(1912年)頃。幕末から明治にかけて、横浜絵、開化絵、錦絵新聞、皇室を描いた絵など、新しい時代の世情紹介に浮世絵が大きな役割を果たす。世相を反映した戦争絵も歓迎されたが、やがて浮世絵は、新聞、写真など他のメディアに押されて衰退していく。絵師は挿絵画家や日本画家に転じ、浮世絵の伝統は他のジャンルへと受け継がれていった。

安政6年(1859年)から明治45年(1912年)頃を指す。この時期の主な特徴は、浮世絵以外の様々なジャンルとの相互乗り入れが頻繁に行われたことである。また、当時「洋赤」と呼ばれた安価な輸入染料が使われ、前代から引き続き使われたプルシャンブルーと相まって、強い色彩とともに、新しい題材が加わる。
文明開化によって、西洋建築や鉄道を描いた開化絵や横浜絵が描かれ、明治維新後の急激な社会変動の有様を写し、人々に伝えるジャーナリズムの役割を担った。楊洲周延が幕末の戦争絵から大奥、明治時代の上流階級の群像を豪華で華麗な姿で描き、もてはやされた。
また、維新によって発展した社会の中で、歌川国芳の門人、月岡芳年や豊原国周によって様々な画題の新鮮味のある絵が描かれた。無残絵や新聞錦絵も生まれた。
月岡芳年は繊細で写生を重視した絵柄で、数多くの歴史画、風俗画を手がけ、「最後の浮世絵師」と呼ばれるようになる。また、水野年方ら弟子には積極的に浮世絵以外の絵を学ばせたため、鏑木清方のように多くの門流が挿絵画家や、日本画家として大成し、浮世絵の伝統は他のジャンルへと受け継がれていった。
また、歌川国芳にも学んでいる河鍋暁斎のような狩野派の画家から浮世絵を描くものも登場する。 小林清親は西洋画をチャールズ・ワーグマンに学び、光線画と呼ばれる輪郭線を使わない西洋風の風景画を手がけた。
歌川芳藤は子供のための玩具絵と呼ばれる、今で言う紙でできた付録のようなものを浮世絵で手がけ、その工夫が受けて玩具絵専用絵師として活躍した。「おもちゃ芳藤」とまで呼ばれた。
明治初年から30年間における、錦絵の作画量・出版数は、幕末の15年間より遥かに多い。しかし、このころ新聞や写真、石版画などの新技術が発展してゆき、挿絵画家などへの転向を余儀なくされることもあった。江戸時代からずっと続いた浮世絵の歴史は、日清戦争、日露戦争後一時下火になる。しかし、明治38年(1895年)に博文館から『文芸倶楽部』という雑誌が刊行されると、その表紙の次のページに描かれる口絵を浮世絵師たちが描くようになり、武内桂舟、水野年方、富岡永洗、梶田半古、鏑木清方らがこれを担当しており、清方はこの時代を「木版口絵の時代」と称している。
明治40年頃に始まり大正を経て昭和にかけて、川瀬巴水、伊東深水らは浮世絵の復興を目する新版画を出して、浮世絵の木版多色摺りの技法を活かした作品を多数残している。また、山本鼎、石井柏亭、恩地孝四郎らは自ら絵を描き、自分で彫り摺りも行う創作版画を作り始めた。 
浮世絵師
始期(天文から寛文)
岩佐又兵衛(岩佐勝以)、岩佐勝重
初期(延宝から宝暦)
花田内匠、菱川師宣、菱川師房、古山師重、古山師政、菱川和翁、田村水鷗、山崎龍女、石川流宣、鳥居清元、鳥居清信、鳥居清倍、鳥居清満、懐月堂安度、長陽堂安知、懐月堂度繁、懐月堂度辰、懐月堂度種、懐月堂度秀、松野親信、宮川長春、宮川一笑、宮川長亀、宮川春水、西川祐信、西川祐尹、奥村政信、奥村利信、西村重長、石川豊信、鳥居清広、月岡雪鼎、川又常行、川又常正、杉村治兵衛、二代鳥居清信、二代鳥居清倍、万月堂、鳥居清忠、鳥居清重、鳥居清経、広瀬重信、鳥居清里、小川破笠、鳥山石燕
中期(明和から文化)
鈴木春信、礒田湖龍斎、北尾重政、一筆斎文調、岸文笑、勝川春章、勝川春好、勝川春英、歌川豊春、鳥居清長、勝川春潮、窪俊満、北尾政演(山東京伝)、北尾政美(鍬形寫ヨ)、水野廬朝、恋川春町、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、栄松斎長喜、鳥高斎栄昌、一楽亭栄水、東洲斎写楽、歌川豊国、歌川国政、歌川豊春、歌川豊広、酒井抱一、歌川国丸、鈴木春重(司馬江漢)、亜欧堂田善、勝川春常、勝川春泉、勝川春山、喜多川藤麿、喜多川月麿、喜多川式麿、闇牛斎円志、歌舞伎堂艶鏡、玉川舟調、鳥橋斎栄里、鳥園斎栄深、五郷、一貫斎栄尚、琢斎栄玉、酔月斎栄雅、弄春斎栄江、栄烏、鳥喜斎栄綾、栄鱗、鳥卜斎栄意、葛堂栄隆、一掬斎栄文、鳥玉斎栄京、文和斎栄晁、鳥囀斎栄寿、酔夢亭蕉鹿、桃源斎栄舟、鳥龍斎栄源、十返舎一九、祇園井特
後期(文化から安政)
葛飾北斎、菱川宗理、昇亭北寿、柳々居辰斎、 魚屋北渓(葵岡北渓)、蹄斎北馬、柳川重信、高井鴻山、葛飾応為、大山北李(恒斎北李)、安田雷洲、牧墨僊、本間北曜、二代喜多川歌麿、喜多川雪麿、菊川英山、渓斎英泉、磯野文斎、二代鳥居清満(鳥居清峰)、歌川国安、歌川国虎、二代歌川豊国(歌川豊重)、三代歌川豊国(歌川国貞)、歌川国芳、歌川広重(安藤広重)、歌川豊広、歌川国政、勝川春扇、歌川国直、勝川春亭、歌川貞虎、歌川貞景、歌川貞房、歌川房種、歌川芳虎、歌川重丸、歌川貞広、玄珠斎栄暁、三畠上龍、吉原真龍、春好斎北洲、春梅斎北英、歌川国輝、歌川貞升
終期(幕末から明治)
歌川芳艶、歌川貞秀(橋本貞秀)、二代歌川広重(歌川重宣)、歌川芳藤、歌川豊国 (4代目)、歌川国政 (4代目)、落合芳幾、月岡芳年、河鍋暁斎、豊原国周、三代歌川広重、三代歌川国貞、長谷川貞信、二代目長谷川貞信、小林清親、井上安治(井上探景)、田口米作、小倉柳村、楊洲周延(橋本周延)、小林永濯、尾形月耕、水野年方、山本昇雲、歌川芳鶴、歌川芳満、楊斎延一
大正から昭和
土屋光逸、楢崎栄昭、川瀬巴水、北野恒富、小早川清、弦屋光渓、橋口五葉、山本鼎、石井柏亭、石井鶴三、織田一磨、吉田博、戸張孤雁、上村松園、竹久夢二、鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園、山村耕花、伊東深水、山川秀峰、鳥居言人、名取春仙、小村雪岱、志村立美、岩田専太郎 
主な版元
娯楽出版物を扱う地本問屋(じほんといや)が浮世絵の版元となっている。当時、町人は苗字帯刀が許されておらず、鶴屋などは屋号で、苗字ではない。
○伊賀屋勘右衛門- 懐月堂度繁などの作品を出版。
○丸屋九左衛門(正本屋)
○鶴屋喜右衛門(鶴屋) - 老舗の一つ。「東海道五十三次」を途中まで出版。
○奥村屋政信(鶴寿堂) - 自らの作品などを出版。
○西宮新六(翫月堂)
○和泉屋市兵衛(甘泉堂・泉市) - 天明-明治初期の代表的版元。歌麿、広重、国貞などの作品を手がける。
○西村屋与八 - 「冨嶽三十六景」など北斎作品を多く手掛ける。
○蔦屋重三郎- 歌麿、写楽らを輩出。
○丸屋甚八
○三河屋利兵衛
○山口屋藤兵衛
○伊場屋仙三郎 / 伊場屋久兵衛(伊場仙 / 伊場久) - 東海道張交図絵(歌川広重)。元は幕府御用の和紙・竹製品店。それにもかかわらず、風刺絵や役者絵禁止令が出された後にも「落書き」と称して役者絵を出版している。団扇絵を多く手掛け、現在は日本橋で団扇、扇子、カレンダー業を営み、新宿伊勢丹、日本橋三越、銀座伊東屋などに出店している。
○有田屋清右衛門 - 「東海道五十三次・有田屋版」(歌川広重)
○伊勢屋利兵衛 - 「東海道五十三次 絵本駅路鈴」(葛飾北斎)
○魚屋栄吉(魚栄)-広重、国貞らの作品を手がける。
○上村与兵衛(上ヨ / 上村) - 後発の新興版元。22歳の歌川国政を抜擢し、鮮烈なデビューを飾らせた。
○加賀屋吉兵衛
○亀屋岩吉
○川口屋正蔵 ‐ 広重、国芳の錦絵を出版。
○蔦屋吉蔵 - 「東海道五十三驛之図」、「東海道・蔦屋版」(歌川広重)
○西村屋祐蔵 - 「富嶽百景」(葛飾北斎)
○藤岡屋彦太郎 / 藤岡屋慶次郎 - 「東海道風景図会」(歌川広重・文:柳下亭種員) 
浮世絵版画制作法
浮世絵を描く人を浮世絵師、または絵師(画工)と呼んだ。浮世絵師が描いたデザインを木版に彫るのが彫師(彫工)、彩色して紙に摺るのが摺師(摺工)である。共同作業の作品だが、絵師の名だけが残される風習がある。ここに注文主を加えた四者が最低でも必要になり、独自の分業体制が構築されていた。
多色刷りの際に色がずれないように紙の位置を示す「見当」(現在のトンボ)がつけられる。これは1744年に出版物の問屋の主人・上村吉右衛門が考案したとする説と、1765年に金六という摺師によって行われたとする説がある。また、鈴木春信と交流した平賀源内が発明したとも言われる。現代でも使われる「見当を付ける」「見当違い」「見当外れ」という言葉はここから来ている。
1. 版元が企画を立案し、絵師に作画を依頼する。
2. 絵師は墨一色の線描きによる版下絵を描く。
3. 版元は版下絵を、絵草子掛りの名主に提出、出版許可の印を捺してもらい、彫師に渡す。
4. 彫師は版下絵を桜の版木に裏返しに貼り、主版(おもはん)を彫る。この時に、絵師が描いた版下絵は彫刻刀で彫られて消滅する。
5. 摺師は主版の墨摺り(校合摺り)を10数枚摺って絵師に渡す。
6. 絵師は校合摺りに各色版別に朱で色指しをする。また、着物の模様などの細かい個所を描き込む。
7. 指示に従い、彫師は色版を作る。
8. 摺師は絵師の指示通りに試し摺りを作る。
9. 摺師は絵師の同意が得られれば、初摺り200枚を摺る。売れ筋の商品の場合、初めから200枚以上の見込み生産をする。
10. 絵草子屋から作品を販売する。 
浮世絵の「色」
浮世絵版画に用いられたのは比較的安価な植物性、鉱物性の染料・顔料であった。
黒は墨。初期の墨一色で摺ったものは「墨摺絵」と呼ばれる。白(胡粉)は蛤の殻(炭酸カルシウム)を砕いて作る。
赤色系では
   紅:紅花 - 紅絵
   朱:水銀
   紅殼(弁柄):酸化第二鉄
   丹(鉛丹):酸化鉛
黄色系では
   黄:ウコン、海棠の木、雌黄の木
   石黄(雄黄、生黄):硫化黄(硫化砒素)
青色系では
   藍:藍、露草
などがあり、紫などの中間色はこれらの掛け合わせで表現した。その他、豪華さを出すために金銀や雲母粉が用いられた。無地背景に雲母粉を用いたものは「雲母摺(きらずり)」と呼ばれる。
非常に退色しやすく、印刷当時の色を残すものは稀である。ボストン美術館のスポルディングコレクション(約6500点)も、「展示の厳禁」を条件に寄贈したスポルディング兄弟の意思を汲み、原則的には非公開である(デジタル画像による閲覧は可能)。
幕末から明治にかけて、鮮やかな舶来顔料が使えるようになり、この時期の錦絵の特色ともなっている。
   藍:ベロリン藍(ベロ藍:プルシャンブルー) - 藍摺(あいずり)、冨嶽三十六景など
   紫:ムラコ
   桃色:ローダミン
   赤:アニリン赤(洋紅) -開化絵など 
浮世絵の題材・種類
江戸時代劇の大川 (隅田川)
かわら版と新聞錦絵・江戸読本
江戸の日本・江戸の街道
神事相撲
美人画
女性を描いたもの。当時人気のあった店の看板娘、八百屋お七、江戸百人美女、小野小町、秋色女、加賀千代女など多数の有名女性や、化粧姿、入浴姿、遊女、群像の美人画なども多く描かれた。美人画は浮世絵を代表する画題の一つである。喜多川歌麿を筆頭に、鈴木春信、鳥居清長、鳥文斎栄之、菊川英山、渓斎英泉などが画面の力が違う古典的美人画の名手とされる。以降、浮世絵にコクと更に自在な筆さばきが出始め、歌川国輝など多数の絵師が、色彩豊かな美人画を描く。更に月岡芳年、近代的な橋口五葉などにつながってゆく。
役者絵
歌舞伎の人気役者などを描いたもの。ブロマイド的なものや、広告チラシの役割を持つものもある。役者絵は、最も多く作られた浮世絵の題材の一つである。初期から特に鳥居清倍が市川団十郎を描いてから、一筆斎文調、東洲斎写楽、円熟期の歌川国芳、歌川芳艶などから、楊洲周延が役者絵から大奥、開花期の貴婦人などに切り替えるまで、役者絵は常に美人画とともに浮世絵の最も重要な画題であった。巨匠を含め有名絵師から、無名の絵師まで多くの作品が作られた。現在も続く市川左団次、河原崎権十郎など。
芝居絵
芝居そのものを描いたもの。歌舞伎絵。主に公家、僧侶、武士階級の出来事を扱ったものを時代物と言う。義経千本桜、楼門五三桐、葛の葉など。江戸時代の庶民の出来事を扱ったものを世話物と言う。三人吉三廓初買、心中天の網島など。仮名手本忠臣蔵のように両者にまたがっているものもある。歌舞伎舞踊の娘道成寺、怪談話の皿屋敷などもある。二枚、三枚続きの芝居絵は最も多く作られた題材の一つである。
花鳥画
花や鳥、魚貝類などを主題にして描いたもの。アサガオ、ナデシコ、雉、雁、鶏、鷹狩の鷹など。
戯画
面白おかしく描いた絵。鳥羽絵を含む。こっけいな場面や、擬人化したものが登場する。風刺画的な要素もあるが、あくまでも娯楽性が強い。
鳥羽絵
手足の長い人物を描く戯画。鳥羽僧正から名前が来ている。初期の漫画をこのように呼ぶこともある。
漫画
絵手本。万の物を描いた画。現代の漫画とは違う。代表例が北斎漫画。
肖像画
美人、役者、武将、皇族、火消しなどの他にも、話題の人、藩主、幕末の志士、維新後の政治家、落語家などの様々な肖像画。東洲斎写楽の肖像画は世界的に評価が高い。
集団肖像画
武田氏武将名鑑、相撲取りや、明治以降、徳川十六神将、家康からの歴代将軍、初期の内閣大臣、神格化された偉人、たたえられた女性、神武天皇からの歴代天皇などの集団肖像画。
春画
性行為の場面や、性的なものを描くもの。性玩具のカタログや、性器の擬人化などがある。田舎では錦絵といえばこれを指すほどの主流。嫁入り道具にもなる。芸術性が高いものが多く、沢山作られた。
名所絵
風景画。当時、自由に旅行できなかった民衆が、憧れの名所を知るためのもの。旅行のリーフレット的な役割も持つ。東海道五十三次、名所江戸百景、富嶽三十六景、中山道六十九次、六十余州名所図会、近江八景や全国の名所、伝説奇譚の場所、足踏水車や早乙女の田園風景など。雪景色や、犬猫のいる情景、傘をさす風景なども多く描かれた。歌川広重、葛飾北斎だけでなく、多数の絵師が、多くの作品を残した。
風物絵
隅田川花火大会、凧揚げ、獅子舞、独楽、ホタル狩り、猿まわし、海女のアワビ取り、金魚や錦鯉、鳥かご、鳩豆などを描いた絵。
名産絵
桑名の蛤、山梨の葡萄など全国各地の名産を紹介した絵。大日本物産図絵など。
摺物絵
狂歌師が浮世絵師に絵を描いてもらい、それに狂歌を添えたもの。絵暦も摺物の一種である。
絵暦
大小暦、伊勢暦、現代の暦など暦の絵や、暦を読んでる人の絵など。
判じ絵
言葉を人や物の絵に置き換え、その絵に対する音で色々なものを表現した絵。謎解き絵。たとえば歯と逆さの猫の絵は、はコネ(箱根)、台の上に狐がのっている絵は、だいコン(大根)など、濁点や洒落・文字抜き・動物の鳴き声や言葉の逆転等、一定のパターンがあり、そのルールで読ませるものが多かった。天保の改革によって風紀の取り締まりが厳しくなると、浮世絵に役者や遊女の名前が載せられなくなった。その為、歌麿などは絵の上隅に小窓のように判じ絵をのせた。それが江戸に判じ絵が流行した原因となっている。判じ絵の歴史は古く、平安時代に行われていた『言葉遊び』が始まりらしい、とされている。最初は上方で判じ絵物の着物や手ぬぐいが流行し、次第に流行が江戸にまで広がり、戯作の作家が採り入れられる様になってきた。
橋絵
橋を中心に描いた絵。眼鏡橋、萬代橋、吾妻橋、大阪の高麗橋など。
通り絵
浅草、霞が関、銀座などの目抜き通りと群衆を描いた絵。
店舗絵
反物屋、大福帳、千両箱、そろばんの商家、俵の米屋、宿屋、八百屋、茶店、浮世絵屋、下駄草履屋、なまずの蒲焼屋、また寿司、二八そば、おでん、田楽 (料理)やお面などの屋台の絵や、書物、飴、ういろう、団扇、鈴虫、松虫などの虫かご売りなどの絵。後に牛肉屋なども。
職人絵
石工、大工、左官、仏師、おみくじ書き、綿伸ばし、刀鍛冶、皮革のなめし、屋根ふき、築城の鳶職など職人の絵。
着物柄絵
絵師が様々な着物の柄を意匠し、見せるための立美人絵、花魁絵、着物姿の力士絵、役者絵などが沢山作られた。江戸の大胆な市松模様、紗綾形、鱗文、麻の葉などだけでなく、独創的で粋な柄、瓜、茄子などの野菜柄、寛永通宝、碁石、将棋の駒をちりばめた柄、雪の結晶など、斬新な着物のデザインが楽しませたと思われる。
食事絵
座敷や庭で刺身の盛り合わせ、天ぷら、鍋、鯛の尾頭付き、麺類、だんごなどを伊万里焼などの皿や器に盛って、箸や蓮華で食べている絵や、グラスや杯、とっくり、急須で酒類、お茶などを飲んでいる絵。囲炉裏で串刺しの鮎の塩焼き、大根おろし、せんべいを食べてる絵などもある。
武者絵
源頼光、新田義貞、楠木正成、上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉など多くの武将の名場面、肖像から戦記ものまで、伝記や伝説、歴史に登場する武者が描かれる。巴御前など女性武将も人気があった。伝奇ブームの後、特に流行った。幕府の規制によって、徳川家や天正年間以降の大名家に関する出来事は描けない。最後の将軍徳川慶喜、または徳川綱吉の御台所などは、明治時代に描かれた。
時局絵
その時々の社会の成り行き、世界の出来事などを描いた絵。
古典文学画
古事記、太平記、南総里見八犬伝、東海道中膝栗毛、通俗三国志など。
御伽草子(昔物語絵)
浦島太郎、狐の嫁入り、九尾の狐、舌切り雀、分福茶釜などの絵など。
楽器絵
三味線、琴、横笛、日本の胡弓演奏などの絵。
踊り絵
静御前の舞や花笠踊など踊りの絵。浄瑠璃の歌舞伎舞踊絵など。
雅楽絵
宮中の雅楽や雅楽の舞の絵。
能楽絵
能楽の様々な演目の絵。
故事ことわざ絵
日本、中国などの故事ことわざの絵。二十四孝など。
教訓絵
女性や子供に向けた日本、中国の教訓を題材にした絵。
広告絵
商品や事業などを広く世間一般に知らせて民衆に興味を抱かせるために描かれた絵。
和歌絵
奈良、平安時代の六歌仙などの和歌の絵。百人一首など。
俳歌絵
俳句、川柳、狂歌、どどいつなどが人物と組み合わせて描かれた絵。
歴史画
古代から明治維新まで。歴史の名場面を描く。元寇、本能寺の変など。維新後皇室の正当性を高めるために歴代の天皇を描いたものなどがある。
徳川画
参勤交代、士農工商の絵、大奥の情景、桜田門外の変などの絵。
偉人画
平清盛、足利尊氏、斎藤道三、菅原道真、太田道灌、安倍晴明など。
連作人物画
見ごたえのあるシリーズものの連作人物画。渓斎英泉の當世会席尽、三代歌川豊国の見立十二か月、清書七伊呂波、東海道五十三対、俳優見立夏商人、大和高名列女鏡、豊原国周の当世三十二相、当世開花花引品、歌川国芳の本朝水滸伝、賢女烈婦伝、艶姿十六女仙、山海愛度図絵、英雄大倭十二支、誠忠義士伝、月岡芳年の月百姿、新柳二十四時、風俗三十二相、英名組討揃、皇国二十四孝、小林清親などの教導立志基、楊洲周延の時代かがみなど沢山作られた。
講談関係絵
西行法師、一休宗純、水戸黄門、大久保彦左衛門など講談関係の人物の絵。講談師の絵。
開化絵
国会議事堂、国立銀行、当時の人力車、自転車、車などの絵。内国勧業博覧会、上野不忍池競馬、異国人サーカスなど。時計も和時計から柱時計に代わり始める。
乗り物絵
平安の牛車、駕籠、玩具の木馬、大八車、船、文明開化の人力車、自転車、馬車、汽車、蒸気船、気球など乗り物中心の絵。戦艦の絵などもある。
戦争絵
源平合戦、戦国時代の川中島の戦い、伊賀越え、城攻めの絵、西郷隆盛の西南戦争、榎本武揚の箱館戦争、戊辰戦争や、日清戦争、日露戦争の多くの上陸戦、海戦などの様子を描いた絵。日露戦争時の従軍看護婦などの絵もある。石橋山の戦い、宇治川の戦い、四条畷の戦い、長篠の戦いなど多くの合戦図が描かれた。清仏戦争、下関条約の場面などもある。
剣豪絵
有名な剣豪宮本武蔵、弓の源為朝、槍の賤ヶ岳の七本槍などだけでなく、竹刀、木刀、鎖鎌、なぎなた、鉄砲、大砲の名手の勇壮な場面の絵。墓石、碁盤切り、無数の弓矢を受ける武将、女性のなぎなた合戦図などもある。
鉄道絵
新橋駅、品川駅、上野駅、高輪駅などの駅舎や機関車の鉄道の絵。
郵便錦絵
明治時代の郵便局、郵便船、郵便駅など。
玩具絵
日本橋から清水寺上がりなど様々な双六、福笑い、切り抜いてメンコに貼り付ける絵、人気の浮世絵のミニチュア版、紙の美人や少女の着せ替え人形、紙の組み立て建築、切抜くトランプなどもある。サイコロなど遊び道具が入った絵。子供の遊び道具として様々な趣向が凝らされた。
尽くし絵
相撲取り尽くしなど沢山の妖怪、武者、お金、勲章、余興の芸などを一枚に集めた絵。
見立絵
古典作品を江戸に置き換えた絵。パロディなども。
相撲絵
野見宿禰、雷電為右衛門、谷風梶之助、小野川喜三郎、陣幕久五郎、明石志賀之助、不知火諾右衛門、雲龍久吉など多数の力士の肖像や取組などの相撲を描いた絵。相撲絵も沢山作られた題材の一つである。
張交絵
一枚の紙に色んな絵を入れたもの。
死絵
有名な歌舞伎役者などが他界した際に出される絵。有名絵師のものもある。日時、戒名、葬儀の寺などとともに、全体に淡い調子の色調で描かれた肖像画。
子供絵
子供が鞠などで遊ぶ様子を描いた絵。
上方絵
関西の絵。
長崎絵
長崎で見られる異国の文化を描いた絵。長崎版画ともいう。
富山絵
富山の売薬人が地方へ散布した土産用の絵。富山版画ともいう。
横浜絵
横浜を舞台にした異国情緒あふれる絵。
鎌倉絵
源頼朝、護良親王、畠山重忠、佐々木高綱、北條氏など鎌倉関係の絵。
鹿児島絵
西南戦争、上野戦争などの西郷隆盛や多くの軍功関係の絵。
アイヌ絵
アイヌの風俗、習慣、酋長などを描いた絵。
異国人絵
亜米利加人、阿蘭陀人、仏蘭西人、露西亜人、伊太利亜人、中国人などを描いた絵。主に横浜絵、長崎絵においてみられる。
鯰絵安政の大地震後に登場した絵。鯰が地震を起こすという俗信から来ている。地震以外の災害、諸国災害図会など。
医学絵
疱瘡絵は、天然痘を防ぐための護符。病気を治す医者の絵、新井白石、麻疹、らい病の絵、妊婦や腹の解剖図の絵などもある。
団扇絵
うちわに張られる絵。芸術性が高い絵が多く、有名絵師も多数描いた様式。
羽子板絵
絵の中の大きな羽子板に描いた絵。
かるた絵
かるた、花札、百人一首などに描かれた絵。貝合わせに興じる人の絵。
月下絵
月下の様々な絵。当時、太陰暦の生活は、日中は問題ないのだが、旧暦の月末、月初は月明かりがなくなるなど月明かりが重要であった。
源氏絵
『源氏物語』を題材とした絵。ただし柳亭種彦作の『偐紫田舎源氏』が人気を博してからは、これを題材とした絵のことも称するようになった。
宮廷絵画
明治、大正の皇室関係の絵。肖像画、馬車行列、皇居、行幸や国会に臨幸の様子、凱旋、天覧の諸芸など沢山作られた。
宗教画
江戸、明治時代から特に信仰を集めた伊勢神宮、上野東照宮、日光東照宮、鶴岡八幡宮、厳島神社、太宰府天満宮、靖国神社などや、各地の神社や釈迦、親鸞聖人、不動明王の石仏、浅草寺、成田山、各地の寺院、江戸三十三間堂の絵など仏教関係の絵。七福神の絵などもある。
巡礼絵
観音霊験記の四国八十八か所お遍路、西国三十三所、お伊勢参り、金毘羅参りなどの巡礼絵。
古地図絵
全国の城郭、寺院、温泉街などを中心に作られた古地図の絵。色彩ものと単色の絵がある。
囲碁浮世絵
囲碁、将棋の図柄をモチーフにした絵。
書画絵
筆、刷毛、硯、絵皿などで手紙や絵を描いている人の絵。机、衝立、屏風、火鉢、銅製の水盤、鼎などもよく置かれてある。
朝鮮錦絵
古代から戦前まで。神功皇后や加藤清正など。月岡芳年など東京経済大学に主なコレクションがある。
中国画
古代中国、台湾の絵。
影絵
人物の影や影で他のものを表した絵。障子に映るちょんまげの武士や、ポーズをとって何かを表現したものなど色々ある。
だまし絵
猫や人の群像で人の顔や、平仮名の文字などを表した。寄せ絵。歌川国芳が有名。
忠孝絵
忠臣蔵、曽我物語などが多く作られた。桜井の別れ、安寿と厨子王など。
尊王攘夷絵
建武の新政、天狗党の乱など尊王攘夷の絵。
情話絵
芝居絵には与話情浮名横櫛、積恋雪関扉、博多小女郎波枕などの恋愛、情話絵がある。判じ絵に想う人を暗示した美人画など情話ものの絵。
花見絵
桜、梅、菊、アヤメの花見絵。
盆栽絵
盆栽、鉢物の園芸、また水石など。
庭園絵
主に美人画の背景として描かれ、年代とともに移り変わる庭園の絵。若菜摘み、紅葉から園遊会など。
静物画
鶴亀、野鳥や、鯛、ふぐ、伊勢海老などの魚介類などの静物画。
風刺画
社会風刺の絵。百撰百笑、貧福大合戦など。ポンチ絵など。
火消し絵
火消しの肖像、はしごのりや火事の絵。
稽古絵
茶道、生花、香道やマナーなどの絵。寺子屋の書道など。楊洲周延など有名絵師の絵もある。
伝統行事絵
羽子板、雛祭り、蹴鞠、七夕、節句、七五三の千歳飴、こいのぼり、鏡餅、門松などの絵。
婚礼絵
皇室の婚礼だけでなく、庶民の白無垢、角隠し姿の婚礼準備の絵などもある。
明かり絵
照明器具中心の絵。油皿、灯篭、行燈、提灯、ろうそく、松明の明かりと人物の絵。豪華なランタン、ガス灯の絵もある。
祭絵
神田明神の山車、山王祭の神輿、酉の市の熊手、亀戸天神の藤まつりなど。
山海信仰絵
富士山、鳴門の渦潮、華厳滝、布引の滝や磐梯山噴火など。
海川絵
潮干狩り、天秤棒での潮汲み、浜辺の情景や、乗合船、屋形船での納涼、夕涼み、川遊び、隅田川の花火や花見、大井川の渡し、京都三条河原など海川の絵。また鵜飼、杵と臼での洗濯の絵など。
水屋絵
井戸、防火用水桶、手桶、たらい、茶箪笥など水物中心の絵。
島絵
江の島、源為朝上陸の伊豆大島、屋島の戦いの屋島など島を描いた絵。
釣り絵
岸、船の海釣り、川釣りの絵。
老舗絵
三越、松坂屋、三井、山本山など老舗の絵。
錦絵新聞
世相を映した新聞絵。東京日日新聞、大阪日日新聞など。珍しい話の夫婦親子の人情噺、警官に逮捕される泥棒や殺人事件の無残絵が多い。郵便報知新聞、やまと新聞、東京各社撰抜新聞など。
無残絵
血みどろ絵。
大津絵
大津地方の絵。
扇絵
扇そのものか、扇状の枠に描かれた絵。投扇興や那須与一の扇落としの絵もある。
手仕事絵
製茶、機織、着物の染織、和鋏や鋏と針刺しの裁縫、鶴や蛙の折り紙などの絵。
養蚕絵
桑の葉で蚕を飼育する様子や繭を製品化する過程など養蚕絵は多く描かれ、養蚕神などの絵もある。
酒絵
酒を飲んだり注いだりする人、三組盃、酒のしこみ場面、積み上げられた酒樽の絵など。
野菜果物絵
瓜、大根、茄子、きゅうり、カボチャなどの野菜や、江戸にこんなものがというとうもろこしや、まずくて下人が食べるとある当時のバナナなどやスイカ、葡萄、軒に吊るした干し柿など野菜果物の描いてある絵。
煙管絵
煙管、革製品のたばこ入れ、たばこ盆、また印籠などを中心とした絵。
刺客絵
幡随院長兵衛、龍王太郎など刺客の出てくる絵。
忍者絵
児雷也、伊賀小太郎朝行など忍者の出てくる絵。
刺青絵
役者、火消しなどの腕や背中に力強く巧みな様々な刺青が描かれた絵。
遊郭画
吉原の遊郭の遊女や館、絢爛豪華な花魁の絵。有名な遊女、高尾太夫、宮城野など、また地獄太夫なども描かれた。遊郭画も沢山作られた題材である。
遊覧絵
大通りや名所などを主に美人の集団が徒歩、船で遊覧する絵。五枚続きの何十人という遊覧絵もある。 飛鳥山遊覧図、隅田川遊覧図など。
楼閣絵
金閣寺から楼閣の屋敷、料亭などや、関東大震災で半壊した凌雲閣などの絵。
型押し絵
版木の凹凸で、着物の柄や木の葉や花、判じ絵の部分だけ紙を凹凸に紗綾形などに細かく浮き出させる技法のある絵。芳年などが好んで使った。また木目つぶし絵という絵の中の羽子板などに版木で木目調を出した技法のある絵。
ちりめん絵
厚手の和紙を絞って紙全体に布地のちりめんのような凹凸を出した紙に、元絵に沿って摺られた絵。
浮絵
遠景の川面などから手前の座敷、料亭が浮き出て見える絵。芸妓遊び、酒宴の絵。
遊び絵
伝統になっている遊びのほか、腕相撲、碁盤人形、首綱引き、文楽の真似事のような人形の腰のあたりから手を入れる人形遊び、棒の付いている相撲人形などなくなってしまったものや、今では不明の遊びの絵。
流行物絵
流行った様々な風俗、持ち物の入った絵。武士などと地球儀、羅針盤、眼鏡、美人と望遠鏡など流行物が描いてある絵。
柱絵
柱にかける約10x70センチの細長い絵。鳥居清長などが好んで使った。
縦揃絵
美人画全身像を縦二枚で大きく描いた掛物や、集団の武者絵などの絵。歌川国政など。縦三枚揃の五重塔などもある。
姫、御前絵
滝夜叉姫、中将姫、八重垣姫、若菜姫、常盤御前、袈裟御前など多くの庶民の美人画の他に位の高い女性の絵も多い。
行列絵
参勤交代行列、駕籠乗りの姫行列、稚児行列、火消し行列、狐の行列などの絵。
参道絵
浅草寺、神田明神などの境内からにぎわう参道の様子を描いた、祭りや群衆の絵。
士絵
沢山作られた忠臣蔵の義士、江戸の烈士、八犬伝の八犬士、維新の志士などの絵。
出陣図
有名武将の他、真田幸村出陣図、甲州軍団出陣図など出陣の絵。
舞台絵
中村座など江戸三座、上方、明治座などの歌舞伎座での劇場の様子、相撲の本場所の升席の大勢の観客の様子や、能舞台の絵。
お家芸絵
七代目市川団十郎の歌舞伎十八番、豊原国周が描き上げた五代目尾上菊五郎の梅幸百種、五、六代目菊五郎の新古演劇十種など歌舞伎のお家芸の絵。
お家騒動絵
鏡山物や伊達騒動物などのお家騒動物の芝居絵。
役人絵
松江出雲守など国司の守(かみ)、内膳司、式部の丞、大判事など役者絵で役人が登場する絵。
桟敷絵
武将、貴族、公家、天皇などが、城内、館などで、歌舞、芸道、遊興、会議、口上などを桟敷席からのぞんでいる群衆の絵。上覧絵、天覧絵。
図解絵
日本髪、櫛、かんざし、えびす講など民間信仰、風俗、魚介類、開化時の乗り物、のちに体操などの多くの種類、様子を図解した絵。
婦人子宝絵
婦人と子供の取り合わせの絵。抱いたり、遊んだり、散歩したり、カミソリで頭を剃ったりするほほえましい絵。
洋服絵
開化絵、横浜絵、異国人絵などで、洋装の人物を描いた絵。当時の様々な彩色の上流中心の洋装の資料は、世界で浮世絵しかなく貴重。
僧侶絵
俊寛など僧侶はよく登場するが、特に文覚上人、土佐坊昌俊(金王丸)、武蔵坊弁慶など武勇のある僧侶がよく描かれた。
魔人絵
達磨、閻魔大王、雷神などの魔人の出てくる絵。
偽名絵
織田信長を小田信長、羽柴秀吉を真柴秀吉など有力武将達を事情により偽名で描いた絵。
怪談絵
怪談を描いた絵。四谷怪談、北斎の百物語、本所七不思議などの絵。
擬人絵
馬、虎、象、オオカミ、ヤギ、獅子など動物だけでなく、ろうそく、俵、酒瓶などを擬人化した絵。魚、蛙などの合戦図もある。
町人絵
町人が何人かで路上、部屋で、何かをやっている絵。今では何をやっているかわからないものが多い。
御所絵
皇居、東宮御所、京都御所、六条御所で宴会などをやっている絵。
壽絵
目出度い図柄、祝の場面の絵。
競絵
花(美人)競い、色香(粋)競いの美人画、役者絵や、名産や名所に順位を付けたりして紹介している絵。
春色絵
なまめかしい、色香の香る様子の美人画や役者絵。
妖怪絵
酒呑童子、土蜘蛛、鞍馬天狗、浅茅ヶ原の鬼婆、百鬼夜行など妖怪の絵。
怪物怪獣絵
大きな化け猫、鯉、龍、虎、象、蛸、ガマ、ねずみ、くじら、どくろなどが中心の絵。
幽霊画
幽霊を描いた絵。
盗賊絵
石川五右衛門、鼠小僧、白波五人男などの絵。
奇術絵
天竺徳兵衛、鳴神上人、児雷也、仁木弾正などの奇術使いの絵。
退治絵
俵藤太の百足、戸隠れ紅葉伝説、渡辺綱の茨木童子、源頼政の鵺、スサノオの八岐大蛇などの退治する絵。
豪族絵
蘇我入鹿、中臣鎌足、平将門など豪族の絵。
豪傑絵
平知盛、熊谷直実、白井権八、左甚五郎、天草四郎、国姓爺や足柄山の金太郎など豪傑の絵。
聖人絵
天照大神、イザナギ、イザナミ、大国主、ヤマトタケル、後醍醐天皇などの神、聖人の絵。
藍摺絵
藍色のみの濃淡で摺った花魁、美人などの絵。
屏風絵
好みの又は同じ題目の浮世絵を多数貼り付けた屏風。
折帖絵
蛇腹状の紙や台紙に多数の浮世絵を張り付けた絵。
額絵
楕円鏡の額の中に肖像画を描いた歌川豊国などの押絵鏡、四角い額縁をかたどってある絵。
比喩絵
門、衝立、手ぬぐい、谷、戸、尺八、かんざし、傘、包丁、垣根、竹のものさしなど様々なものや思わせぶりな仕草で何かを比喩していると思われる絵。女性、男性の思いなどを表しているものもあると思われるが、解明されていない。特に最盛期の役者絵、美人画などは、多くに比喩の部分があるとされる。
裏打ち絵
昔は稀に絵に虫の食いたどった細長い穴が開くことがあり、また痛んだ紙を古い時代に当時の紙、のりで裏側から修繕、裏打ちした絵。紙には江戸時代からの手紙などがよく使われた。状態が悪くても、貴重なものも多い。
検閲画
地本問屋の検印のある絵、後に逓信省などの認可とある絵。
銘柄絵
多くの他の絵師が、有名絵師の質の高い画風、銘をブランドとして描いた絵。
下絵
版下絵は版木に貼られ、現存するものは稀にしかない。
新版画
大正時代に始まった伝統技法を継承しながら、新境地をめざした美人画、役者絵、風景画などの絵。
謎絵
中世の風俗、習慣、物語などで、現代では判らない浮世絵は膨大にある。更なる研究が必要。 
浮世絵の種類 2
浮世絵。マンガと並び世界に知られる日本の最重要アート領域の一つですが、意外と、日本人のほうが外国人より浮世絵のことを知らなかったりします。実際、ヨーロッパの本屋さんのほうが、日本の本屋さんより浮世絵関連の本がたくさん並んでるくらいで、浮世絵といえば、フランスでは店頭に並ぶ美術書の代表格みたいになっています。浮世絵と言ってみたり錦絵と言ってみたり紅絵と言ってみたり。わかってるようなわからないような、言葉も錯綜しているのも、理解を難しくしてる原因の一つじゃないかと思います。今回はそんな浮世絵を種類別に整理して解説してみたいと思います。
浮世絵の種類
まずは肉筆画と版画の2種類にわかれる
1. 絵画(肉筆画)
浮世絵といえば鮮やかな色で摺られた版画が一般的ですが、少数ながら、絹や紙に絵師が直接筆で描いたものも残っており、そういうものを浮世絵版画と区別して、肉筆浮世絵といいます。
版画とは違い手筆による彩色なので、色のにじみや陰影、グラデーションも出ていたり、一本いっぽんの髪の毛まで柔らかい筆致になっていたりします。もちろん一点ものなので当時から高価で、豪商や大名などの金持ちが注文し、絵師が描くということも多かったようです。
2. 版画(木版画)
浮世絵版画ともいい、本格的な美術印刷術の始まりともいえます。浮世絵といえば一般的にはこの版画のことになります。江戸の浮世絵文化が栄えたのは、版画印刷術による大量生産が可能になったことが大きな要因で、それまでは金持ちや特権階級の嗜好物でしかなかった美術が、ある程度、大衆化するきっかけにもなりました。版画により同じ絵柄のものを多く摺ることができ、安価に出回るようになったのです。
そんな版画の中で、浮世絵は技法の違いによってたくさんの名称にわけられています。それを以下に紹介したいと思います。
浮世絵版画の種類
2-1. 墨摺絵(すみずりえ)
木版による単色刷り版画のことで、墨一色で摺られます。浮世絵の始まりはこの墨摺絵で、1670年ごろから1710年ごろにかけてよく摺られました。
後に江戸では浮世絵はカラフル化して流行していきますが、京や大阪などでは上方絵といって、墨摺の絵が中心のまま残っていきます。ただ、京や大阪などでは絵本形式が主流で、いわゆる浮世絵としての墨摺絵は、一枚絵として独立させたものを指してそう呼びます。
つまりもともとは絵本のようなモノクロの版本だったものが、一枚絵の墨摺絵となり、浮世絵の歴史が始まるわけです。
その最初が1670(寛文10)年ごろ、菱川師宣などの絵師たちが、武者絵や風俗画を本から独立させ一枚絵としたことで、始まったとされています。
菱川師宣、初代の鳥居清信をはじめ、奥村政信や奥村信房などの作品が知られています。
2-2. 丹絵(たんえ)
墨摺絵の次に登場したのが、丹絵です。モノクロの墨摺絵に、丹と呼ばれる赤い顔料を使って、手筆で彩色したものをそう呼びます。
丹の赤色に加えて、草色や黄色、藍色、紅などの彩色も手筆によって描き加えることもあります。彩色は絵師ではなく、おもに別の人が手がけることが多かったようで、すでに分業が始まっていきます。
この丹というのは鉱物性の顔料で、鉛や硫黄、硝石などを原料としています。時を経て酸化したために黒くなっていくものもあり、そういうものは丹焼けと呼ぶそうです。おもに元禄期から正徳年間にかけて作られた絵です。
杉村治兵衛、初代の鳥居清倍、奥村政信、西村重長らの作品が知られています。
2-3. 紅絵(べにえ)
墨摺絵を丹で彩色するようになると、次は、丹の代わりに紅を使って彩色する浮世絵が登場します。彩色は手筆でしており、これを紅絵と呼びます。1720(享保5)年ごろのことです。泉屋権四郎という版元が始めたといわれています。
紅絵は寛保年間までよく作られました。奥村政信、西村重長、石川豊信らの作品が知られています。
2-4. 漆絵(うるしえ)
墨摺絵、丹絵、紅絵ときて、今度はその紅絵に、銅などの粉末を混ぜ、顔料に金属を溶け込ませた絵が登場するようになります。漆絵の登場です。
金属粉末を定着させるため顔料に膠を混ぜるため、漆のような光沢感が生まれた浮世絵です。これも丹絵、紅絵と同様、彩色は手筆でされています。
2-5. 紅摺絵(べにずりえ)
丹絵も紅絵も漆絵も、筆による手彩色でしたが、紅摺絵は違います。この紅摺絵の登場によって、筆ではなく版画で色を重ねる技法、つまりカラー版画としての浮世絵の歴史が始まります。
墨摺絵の版画をもとに、そこへ紅色の版画を重ねて作ります。
紅以外にも、緑、黄などの版画が重ね摺られるのが一般的です。
手による彩色の時代から、版木に見当(けんとう:版画印刷のさいに、正確な位置に紙を置くために版面に付ける印のこと)をつける技術が育ったことで、浮世絵はこの紅摺絵をもって多色摺版画の時代へと入っていきます。
その後、鈴木春信の登場をもって始まる錦絵と比べると、紅摺絵は紅、緑、黄と、だいたいこの3つの原色で構成されているため(のちには5色摺まで出るものの)、まだ複雑な色調を出すところまではいっていません。
1744(延享元)年、版元の江見屋上村吉右衛門という人が見当を工夫して製作したのがその初めといわれています。
2-5-1. 草絵(くさえ)
草絵は紅摺絵の一種で、紅色を用いない紅摺絵、つまり緑と黄色の2色だけで彩色した浮世絵版画のことです。鳥居派の絵師が作っていたことで知られています。
2-6. 水絵(みずえ)
輪郭線は墨で黒く描くのが普通ですが、それを青い顔料で描いたのが水絵です。
まだ藍やベロ藍(プルッシャンブルー)と呼ばれる化学染料が出てくる前のことで、浮世絵版画といえば紅、黄、緑が中心で、青という色が欠けていました。
そこで鈴木春信らによって、実験的に使われていたのが露草の青です。
ただ露草の青は水溶性である上に光に弱く退色しやすいため、劣化してしまいます。時を経て色が残ることがまれで、以下に挙げた水絵も、青の部分だけが抜けてしまっています。おそらく制作された当時は、空や雨、水面が鮮やかな青色になっていたのだろうと思われます。
ちなみに、加賀友禅など布地染色の世界では、今日まで露草の青は柄模様の輪郭として使われています。これは水に溶ける特性を利用し、仕上がったときに消えるようにと、露草を使っているわけですが。
浮世絵の歴史において、水絵は青を求めて作り手たちが試行錯誤のなかで生まれた実験的作品だったと言えます。
そののち1794(寛政6)年ごろになると藍が登場し、東洲斎写楽の役者絵に見られるような、きれいな淡青色を配した浮世絵が見られるようになります。さらに1826年ごろから、清を介して英国からベロ藍がどんどん輸入されるようになると、葛飾北斎の「冨獄三十六景」に代表されるような、強烈な青色が登場し、むしろこの青色をもって、浮世絵のイメージが強まっていくようになります。そうして見ると、水絵は青に挑んできた浮世絵師たちの最初の挑戦だったといえます。
2-7. 錦絵
「江戸時代に確立した浮世絵版画の最終形態」と言われているのが錦絵です。そして、浮世絵といえばたいていこの錦絵のことをさし、その登場をもって、江戸の浮世絵文化が花を開いていきます。
すなわち、鮮やかな多色刷りによる版画です。
また、錦絵の登場により、下絵を描く絵師にはじまり、彫師、摺師と、分業体制が整っていくようになります。
錦絵の始まりは、鈴木春信です。
江戸の趣味人たちのあいだでわき起こった絵暦ブームに端を発したカラー版浮世絵のコレクションは、趣味人たちの多額な資金をバックに、ブームの先導者・大久保甚四郎と、大久保から依頼を受けた鈴木春信らによって、より華やかで、コレクター心をくすぐる浮世絵を作ろうと、制作体制が整っていきます。
お金持ちの趣味人たちがコレクションするために自分の名前を入れて絵師たちに発注していた浮世絵でしたが、制作体制が洗練されるにつれ、華やかでカラフルな浮世絵が作れるようになると、自分の名前を絵に入れをやめ、「吾妻(東)錦絵」と称して売り出します。これが錦絵の始まりです。
同じカラー版画でも、それまでの紅摺絵などと比べて発色もよく、錦織物のような美しさだということが、ネーミングの由来のようです。
使用する紙も上質な奉書紙になり、顔料には胡粉を入れて中間色の表現も高まり、複雑な色調が表現できるようになりました。
錦絵は明治の終わりまで続き、浮世絵の全盛期を支えていきます。

というわけで、何絵、何絵と、ややこしいくらいいろいろ種類のある浮世絵ですが、実はまとめてみると、印刷にまつわる技術革新の歴史を表していることが見えてくるわけです。 
美人画 鈴木春信
鈴木春信の美人画は、華奢で手脚が細く、少女らしいどこかクールな雰囲気があります。ほかの浮世絵師の描く美人画とは調子が違い、浮世絵を知らない人でもちょっと見れば、春信の浮世絵だけはそれとわかるのではないかと思います。僕はそんな春信の美人画が好きで、もう10年来この絵を部屋に飾っているのですが、どうですか? 少しそそられませんか?包丁を片手に盆栽をしている、ちょっと不思議な絵です。
実は僕、好きだと言いながら、いまだにこの絵の意味するところがわかっていません。調べてはみました。「鉢木(はちのき)という能をもとにした絵じゃないか?」という説はあるようです。観阿弥・世阿弥作ともいわる謡曲で、次の1シーンをもとにしたのだろうといわれています。
「大雪の夜、とある貧乏武士のあずまや家に旅の僧が現れて一夜の宿を求めます。でも武士はひどく貧しいため、僧を招き入れるものの、囲炉裏にくべる薪もない有様です。そこで、なけなしの家宝ともいえる盆栽の枝を切るや、それを薪とし、客人に暖を提供します。」
そんな家宝の盆栽を切る場面を、当時の江戸の風景に置き換えて描いたのが、この絵だというわけです。ただこれもあくまで推測で、もっと別の浄瑠璃作品がもとになっているという説もあるようです。
それはともかく、こんなふうに、春信は古典文学作品を当時の風俗に照らしてパロディーしているわけですが、このパロディーのことを「見立て」といいます。鈴木春信の浮世絵にはこうした見立て絵が多いです。それには当時、江戸の趣味人たちが、絵に描かれた見立てを当てっこをする遊びが流行ったという背景があります。そして、そういう遊びをする人たちは、江戸という都市社会の中でも、比較的裕福で教養のある人たちが多かったと想像されます。そうしたお金持ちの教養人グループがパトロンとなって、春信に見立て絵を発注しては、当てっこ遊びに興じていたわけです。つまり、当時の人でもその見立てが何かを言い当てるのはなかなか難しいことで、現代人ならなおさらでしょうし、おそらく「鉢木」であろうと言われている程度で、真相はよくわからないというのも、さもありなんというわけです。
先にあげた絵は、集英社の浮世絵名品選という画集シリーズの1つで、僕はこれを神田古書店街で、たしか700円で買ったと記憶しています。1965年に出版されたリーフレット式の画集で、紙質もいいし、発色もいいし、今の時代の印刷物にはない風情もあって気に入っています。
これは安いと思って僕は買ったのですが、今調べてみたらヤフオクで全6巻が3,900円で落札されていたので、妥当な価格だったのでしょうね。
その浮世絵名品選のシリーズ第6巻が鈴木春信で、8枚の浮世絵が入っています(ちなみに他の5巻は喜多川歌麿、葛飾北斎、鳥居清長、歌川広重、東洲斎写楽です)。有名作もありますが、全体的になかなか渋いセレクトで、素敵な内容になっているので、以下に紹介してみたいと思います。
「梅の枝折り」と通称される作品。このなかではいちばん有名な一枚。塀の上の梅を手で折ろうと、草履を脱いで侍女の背中に乗り上がる少女を描いています。人物を上下に重ねた構図の珍しさでも知られています。手と腰の華奢さが、春信の美人画の特徴です。
「藤原敏行朝臣」と題された作品。平安時代に選ばれた36人の歌聖の一人、藤原敏行の和歌「秋きぬと目にはさやかに見へねとも 風の音にそ驚かれぬる(秋の兆しはまだ目に見えないが、そよぐ風の音にその気配を、驚き感じる)」を原典にした見立て絵の1つ。初秋の風を女の人が入浴後の肌で感じるという、季節の風情を少しエロチックに描いています。
「髪洗い二美人」または「あやめ」と通称される作品。菖蒲にちなんだ初夏の風情を、こちらも少しエロチックに描いています。
「新後撰・俊成」と題された作品。夜の梅見という設定がすでに艶やかですが、手灯りを持った女の、もう一方の手を引き寄せるのは若い男(そう、これが男なんです)。室内へと消えていく男女の姿を、初春の夜に描いています。
こちらは調べがつかなかったのですが、手紙を読む遊女たちの姿を描いたのだろうと思われます。やはり艶めいた材をとっています。
梅原猛だったか、鈴木春信の浮世絵は「はんなり」という形容がいちばんよく合うと言ってましたが、言い得て妙です。「はんなり」というのは京都の言葉で、「華やかだけど落ち着いた上品さがある」といったニュアンスの意味です。春信は江戸で浮世絵師としてスターダムにのった人ですが、もとは京都で西川祐信に学んで墨摺絵(木版単色刷りによる浮世絵の前身的絵画)から出てきた人です。浮世絵といえば江戸文化ですが、浮世絵の本格的な始まりといえる多色刷りの錦絵(つまり浮世絵のフルカラー化)は、鈴木春信の登場をもって始まっています。つまり京都から江戸へ、プレ浮世絵のモノクロ墨摺絵から本格浮世絵のカラー錦絵へ、ちょうどその転換点に立った絵師が鈴木春信で、そういう面白さもあります。
浮世絵は、日本絵画史的には、絵画の大量生産化と大衆化への道を切り開いたスタイルですが、なんだかんだで、それでも今の時代と比べるとずいぶん贅沢な作りをしていると僕は思います。
江戸明和年間(1764-72)のはじめに、「絵暦(えごよみ)」と呼ばれるゲームが富裕層のあいだで流行しました。1年の季節を月ごとに描いた12枚の絵を、季節を判じて暦順に並べるゲームです。それこそ12枚の絵は、今のカードゲームみたいに交換会が行われたそうです。このブームを先導したのが旗本の大久保甚四郎という人物で、この大久保の依頼で、摺物を制作していたのが鈴木春信でした。大久保をはじめとする富裕層による絵暦遊びはどんどんヒートアップしていき、春信によって制作される摺物も多額の資金をバックに、どんどん贅沢に、複雑に作られるようになり、ついには彫師、摺師と分業化され、多色摺になり、錦絵と呼ばれるカラフルな浮世絵が誕生するに至ります。使われる版画の料紙も、上質でふっくらとした厚手の奉書紙と呼ばれる和紙を使用しています。春信の描く美人画は、色の摺られていない白の部分がいちばんいいとも言われますが、それは、絵ではなく、紙質によって表現されているということです。紙の美しさを絵として計算に入れ、わざと摺らない白の部分を残し、例えば雪を表現するとき、女の肌を表現するときなどは、その部分は着色しないように構成していたりします。今日のグラフィックもそうですが、紙の質感はビジュアル表現においてとても重要で、仕上がりの善し悪しの半分はともすると紙質が規定しているような感さえ僕は持っているのですが、江戸はやはりそういう意味では、今よりずっと感覚も資金も時間も裕福だった気もします。伊藤若冲も典型的な例ですが、色を塗らない部分をどう残しどう演出するかという技術と感覚が、総じて江戸の絵師は強いようです。それは、上質な紙ありきで、紙質そのものも作品に組み込んでいたということだと思います。
最後に、鈴木春信が美人画を描くにあたって影響を受けたといわれる中国の絵師がいるのですが、その人の絵も並べてここに紹介したいと思います。
明の時代の画家で、仇英という人です。仇英が描いた美人画がこちら。
春信より200年ほど前、16世紀の人です。美人風俗画で名を馳せ、彼が登場したあとの中国の美人画はみな仇英風に変わったとまで言われているそうです。たしかに、華奢で細っそりしたところも似ていますし、上品な色気がありますね。 
評価と影響
明治時代以降、浮世絵は日本以上に海外で評価され、多量の作品が日本国外に渡った。この為、絵画作品としての浮世絵研究にあっては、正当かつ体系的・学問的な研究は為されておらず、個々の収集家や研究者によって、知見の異なる主張が部分的・断続的に繰り返されるのみである。また、鈴木春信、喜多川歌麿等の作品を始め、多くの有名作品の偽造品が流通してしまった経緯が江戸時代当時から存在している。
欧米諸国では、浮世絵は印象派の巨匠たちに見出されてその作品に影響を与え、ゴッホなどによって油絵による模写もされている。欧米一流美術館20館以上に、20万点以上は収蔵されていると見られ、それ以外に個人コレクションもあり、外国美術品としてこれだけ収集されているのは浮世絵だけである。ボストン美術館には5万点、プーシキン美術館には3万点など、万点以上収蔵しているところも少なくない。
色鮮やかな紙の絵画、精緻な彫りがなされた版画群は世界で浮世絵だけであり、西洋美術にもこの分野はないことが高い評価につながっていると思われる。高品質の芸術品がこれほど庶民の間で広まっていたのも世界に例がなく、大衆のための美術としては世界で初めてのものといえる。また、中世・近世の庶民を中心に多様な生活を描き、記録している資料は世界に浮世絵しかないことも貴重である。明治時代の文献によると、無名の絵師を含めると、2000人近い絵師がその当時までにいたということである。当時は版画の場合、一作品に100から200枚は摺ることもあって、多くの浮世絵が市中に出回っていたが、現在では古い浮世絵で二枚同じ絵を見ることはほとんどない。
大量の流失品には、歌麿を始めとする比較的簡潔な構図が多く、複雑な構図に極彩色の浮世絵は意外に少ない。多くの収集、評価が始まったと考えられる幕末、明治ころの収集の方針や評価が現在まで影響していると思われる。日本国内には、日本国外への流出分の何倍か以上は残っており、旧家の蔵や箪笥の中から出て来るものもあり、総数が把握できないほど大量にあるとも推定されている。世界に稀に見る芸術作品群として、西洋の評価だけにとらわれない更なる研究が進むことが望まれている。
国外への影響
1865年、フランスの画家ブラックモンが、日本から輸入した陶器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を友人らに見せて回ったことで美術家の間にその存在を知られるようになった。日本では庶民の娯楽であり、読み古されたものやミスプリントが船便の梱包材に使われるほど安値で取引されていた浮世絵は、ヨーロッパで当時の日本人には考えられないほどの高値で取引された。その後、様々な作品が正式に日本から渡るようになり、印象派の作風に大きな影響を与えることとなった。
ゴッホが『タンギー爺さん』という作品の背景に浮世絵を描いたり、広重の絵を油絵で模写したり、マネの『笛を吹く少年』が浮世絵の影響を受けていることは有名である。その他、エドガー・ドガ、メアリー・カサット、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ロートレック、ゴーギャンらにも影響を与えたと言われる。
さらに、ジャポニスムの影響と日本美術を取り扱っていたビングによってアール・ヌーヴォーには浮世絵のように平面的な意匠がみられる。
ドビュッシーが北斎の『神奈川沖波裏』に触発されて『交響詩“海”』を作曲するなど(1905年に出版されたスコアの表紙になっていたり、書斎に飾ってあることが分かる写真がある)、影響はクラシック音楽にも及んだ。
国外からの影響
ジャポニスムに影響を与える一方で、後期の浮世絵には、西洋の遠近法や陰影の技法を取り入れたものも現れ、また、ドイツに起源を持つ人工顔料ベロ藍(「ベロ」はベルリンに由来)は、鮮やかな発色を持ち、葛飾北斎らによってさかんに使われた。 
 

 

 
列藩騒動録 / 海音寺潮五郎

 

島津騒動
島津家のお家騒動は、大本にさかのぼれば貧乏から始まった。次第に累積していった借金が、重豪の代になり豪奢な生活がたたり借金がさらに膨れあがった。重豪は隠居して斉宣が当主となり、改革を断行しようとしたが「近思録くずれ」と呼ばれる事件が起き頓挫する。これが後の「島津家お由羅騒動」のはじまりとされてきた。重豪は斉宣を隠居させ、孫の斉興を当主に立てたが、つもりつもった借金は五百万両。どうにもならなくなったところで、登用したのが調所笑左衛門だった。そして、調所が中心となり二百五十年賦という荒業で財政を立て直した。この頃に重豪が亡くなり、斉興の親政となったが、引き続き調所笑左衛門を重用した。斉興には三人の男児がいた。長男が斉彬、次男が斉敏、三男が久光である。斉彬は重豪にかわいがれて育ち、その資質も似たところがあった。斉彬は英邁であったが、新し好みが斉興らを不安にした。長いことかけて建て直した財政を再び重豪の時のようなものにしてしまうのではないかという不安である。こうした思いをする人々にとっての望みは斉彬同様に賢明な久光だった。斉彬は自分の手腕が思う存分発揮できないのは調所を筆頭とする重臣が金を与えないからと、これを憎み、調所らを追い落とすことに力を入れる。幕閣にも斉彬を支持する老中の阿部らもいた。さらに父・斉興を隠居させ斉彬を当主にする手筈が幕閣でも整い始めた。そして斉彬が当主となる。
伊達騒動
伊達政宗の十男・伊達兵部宗勝が伊達騒動の悪玉の中心人物とされる。伊達政宗が死に、子の忠宗が継ぎ、さらに綱宗が家督を相続する段になり、迷いが生じた。老臣らが綱宗を嫌っているのを忠宗が不安に思ったようである。だが、綱宗が継ぐことになり、後見として兵部宗勝が立つことになった。家老には茂庭周防定元、奥山大学常辰らがいる。綱宗は家督を継いでから頻繁に吉原に通ったようである。それが老中・酒井雅楽頭にも聞こえ、苦言をいわれる始末である。結局、綱宗は隠居に追い込まれる。後継には子の亀千代丸が立ち、伊達兵部宗勝は引き続き後見の一人となった。この頃には藩政の中心は奥山大学常辰の独壇場となっていた。鋭い才気の持ち主で、独裁的性格の人物のようだった。相手がたとえ後見役でも盲従しない骨の硬さも持っていた。が、やがて反発をくらい退職させられる。返り咲いたのは茂庭周防定元であった。奥山の独裁にこり、後見役らは後見役直属というべき目付をおいた。が、この後見らが事ある毎に兵部宗勝に注進する。次第に伊達家での兵部宗勝の威勢が上がるようになってきた。諫言した者に対する処罰は峻厳を究め、全藩震え上がるものだった。兵部宗勝全盛の時代が来たかに見えたが、一門の伊達安芸が境目問題をひっさげて立上がった。
黒田騒動
黒田騒動の中心人物は栗山大膳である。栗山家は、黒田家の柱石、家柄家老の筆頭であった。黒田忠之が父・長政の死により五十二万三千石の太守となったのは二十二歳の時であり、首席家老の大膳は三十三歳であった。この二人は主従とはいいながら兄妹のように育っている。が、忠之の家督後しだいに仲が悪くなった。大膳は大変賢かったが、てらいの強い、高飛車な態度の人であり、忠之は相当賢くもあり気力もある人だったが、苦労せずに成長した人であった。しだいに忠之の方が大膳に不快な気持ちを持つようになったのは自然なことである。忠之は自由になる重臣を欲しいと思い始めた。ここに倉八十太夫正俊という人物が登場する。これを忠之は重用し始める。そして政治に緩みがでてきたようで、長政の遺言にあった「国政はすべて家老で相談して行い云々」を無視して政治が行われるようになってきた。大膳を始めとする家老が忠之に諫書を差出したが、これを忠之が握りつぶしてしまう。大膳は面白くない。やがて、大膳は忠之に疑念を抱くようになる。そしてついに訴状を正式に幕府に提出することになる。
加賀騒動
加賀騒動は英主であった五代綱紀の子・吉徳の時から始まる。騒ぎの元凶となるのは大槻伝蔵である。若き日の伝蔵は人の気を見る鋭い働きがあり、弁口がさわやかであり、目から鼻に抜けるような怜悧さがある。伝蔵は生涯家老にはなれなかったが、家老になりうる家柄までには到達した。吉徳の治世になり、加賀の財政は逼迫してきた。そのため機転の利く人物を必要としたのだ。こうした名かで、伝蔵は吉徳の信任を得ていく。また、伝蔵は吉徳のスパイ組織の中心をつとめていたようでもある。このようにしてしだいに加賀藩の政務は伝蔵によって処理されるようになり、権力が増す一方となる。これを嫌った人物に青地藤太夫がいた。彼の目には伝蔵は佞臣にしか映らない。前田家の重臣の前田土佐守直躬は青地を尊敬していた。必然その影響を受ける。そして、世子の宗辰も感化されることとなる。やがて、吉徳が死に宗辰が継ぐと、大槻伝蔵を政務の中心から遠ざけるようになる。が、この宗辰がほどなく死んでしまう。次ぎに立った藩主の時に今度は牢小屋に移されてしまう。この頃、江戸の上屋敷で奇怪な事件が起きる。毒騒ぎが起きたのだ。
秋田騒動
秋田佐竹家は古い家柄で、江戸時代の諸大名中第一といってもよい。八幡太郎義家の弟新羅三郎義光以来連綿と大豪族として続いた家である。騒動の発端は、常陸から秋田へ移った時の当主義宣を第一世とすると第五世の義峰の時に始まった。義峰には男児がいなかったので養子を迎えた。これがいけなかった。分家壱岐守家の当主義道は子を立てようと思っていたのを別のにさらわれて無念であった。それもあって、義峰の寵臣那河忠左衛門に取り入った。そうしているあいだに世子が死に、別の世子・義真を立て、義峰が死んだ後当主となる。しかし、この義真も程なく死んでしまう。やがて義道の子・義明が当主となる。秋田騒動は、古来これまでのところから始まるのを常とする。だが、これまでは普通のお家騒動につきものの家督騒動であり、これからの藩の経済政策を巡る党派争いと、下層藩士らの門閥層への反抗運動とは別物であるはずである。だが、これが絡まって語り継がれてきたのが秋田騒動である。野尻忠三郎という者がいた。不遜な態度があったために冷飯を食わされた口である。佐竹家は古い家柄だけに階級制度がとても厳重であった。これにも野尻は不平があった。野尻は門閥を倒すことを考える。折しも藩では藩札を発行しようとしていた。だが、当時の藩の要人らは経済知識が貧しく、藩札を上手く軌道に乗せることが出来ないでいた。
越前騒動
越前福井の松平氏は家康の次男秀康に始まる。この秀康の時に召し抱えたのがこの騒動で最も重要な人物となる久世但馬であった。秀康が死に、忠直が継いだ。だが、まだ十三の少年である。佐渡のゴールドラッシュに絡んで、久世但馬の領する村の百姓の娘の家が元の夫に襲われた。ここからことは始まる。一番家老の本多伊豆守富正を蹴落したいと思っていた家老の今村掃部助と清水丹後守はこの事件を気に、本多伊豆守富正を滅亡に追い込もうと考えた。一種のクーデターを画策したのである。本多伊豆守富正は本多作左衛門重次(通称・鬼作左)の養子である。越前家創業の功臣である。今村掃部助と清水丹後守は本多伊豆守富正に久世但馬を召し捕らせることにした。ここに藩内で小規模な戦争が起きてしまう。事件としては大きすぎ、また、忠直の妻・勝姫は将軍秀忠の娘ということもあり、幕府に筒抜けにわかっていた。そこで、幕府は主立った者に召還命令を出す。家康は土井大炊頭利勝に聞き取りを命じ、本多佐渡守正信が尋問役となった。
越後騒動
越前宰相忠直の子・仙千代が越後高田へ移ることになった。が、現地に赴くことなく、江戸で長いこと住んでいる。その間に元服して光長と名乗る。そして初入部となる。恵まれた土地であったが、大地震が来て、松平高田藩のエポックとなる。繁栄の勢いが頓挫したこと、藩政の中心となっていた家老が入れ替わってしまったことである。地震により家老にも多くの死者が出たのだ。小栗美作は家柄家老であったが、政治手腕も優れたものがあった。評判がよさそうなものであるが、そうはいかなかった。あまり好意を持たれていないところに決定的な事件が起きた。知行制を廃止して、蔵米制度に変えたのだ。知行制度の方がなにかと利点があるため、反発を買うのは当たり前である。光長の嫡子が死んだ。この他に男児はいなかった。当時光長に血の近いのが三人いた。一人は永見大蔵長良、永見市正長頼の遺子万徳丸、三人目が小栗美作の二男大六である。大六は光長の甥に当たる。万徳丸が養子となり、名を綱国と改めた。一方、美作は家中の不人気を回復するために奔走するが、その中で、美作が次男の大六を世子にと狙っているのではないかという憶測が家中に流れる。
仙石騒動
十代仙石美濃守政美が危篤となった。重臣らは色を失った。後継がいなかったからだ。政美には弟が多数いたが残っているのは妾腹の道之助だけだった。数え年五つ。老臣らはこれを推したが、首席家老の仙石左京久寿が幕府がそれを許すか不安だと言い立てた。江戸の伺いを立てるために左京が出発したが、なぜか子の小太郎を連れて行った。老臣らはこれを怪しみ、先手を打った。ここまでは良かったが、この後はことごとく左京にしてやられる。左京は老臣を怨み、復讐した。老職ではなかったが、その割を食った一人に河野瀬兵衛もいた。この河野が後年お家騒動暴露の導火線となる。左京は国許でたいそうな贅沢をしていること、江戸の道之助は手習い用の紙にも不足する始末だった。だが、勢いのある左京はさらに権勢を凄まじいものとした。これを見て腹を立てたのは河野瀬兵衛だった。左京に追い落とされた老臣らをけしかけ、隠居の久道へ上書を書かせた。が、これは失敗した。だが、河野瀬兵衛は江戸の分家等へ文書を送りつける。こうした中、河野瀬兵衛は良き同士として神谷転を得る。河野は左京に睨まれ、天領へ逃げ込んだが、ここに左京が踏み込んで捕縛する。また、神谷転は虚無僧となっていたのを町奉行所が捉えてしまう。いずれも越権行為である。寺社奉行の一人、脇坂中務大輔安董が待っていましたとばかりにこの事件に乗り出す。後に老中となった人物である。そして脇坂が事件に直接当たらせたのが、幕末の最も有能な官僚の一人・川路聖謨となる川路弥吉だった。
生駒騒動
生駒正俊が死に、遺子の後見として藤堂高虎と高次がついた。さっそく高虎は西島八兵衛之友を諸事の目付として讃岐につかわした。一件が落着したと思っていると、高虎の所に生駒家の前野助左衛門と石崎若狭がやってきて家老首席の生駒将監の権勢が強くなり、家中で不興を買っているという。高虎は注意することにした。高虎は将監をやめさせるのが一番だと思っているが、将軍家にも御目見得している者であるから公儀の諒解を得ねばならず、面倒だと感じた。だから、将監に匹敵する家老を作って、権力を分かつ工夫をする必要がある。ということで、元服した生駒高俊の叔父に当たる生駒左門を家老にし、目付として前野助左衛門と石崎若狭をおくことにした。やがて、前野と石崎は高虎のお気に入りとなり、高虎死後に継いだ高次にも上手く取り入った。やがて、二人の権勢は日の出の勢いとなる。これを苦々しく思う者もおり、党派となって対立の形となる。やがて、事態が深刻となり、藤堂高次や幕府の土井利勝などはことを穏便に済ますために、各党の主要どころを切腹を申しつけて終わりにしようと考えていた。だが、お膳立てが出来たところで、生駒高俊がこれをひっくり返すようなことをしてしまう。
檜山騒動
盛岡の南部家は戦国時代末期に青森県の西半分を津軽家に横領された。この横領が二百三十年後の騒動の根本原因となる。この騒動は檜山騒動といわれるが、実際の騒動は檜山とは全然関係がない。事件の主人公は相馬大作、本名を下斗米秀之進将真という。十八のおり出奔して江戸に出た。夏目長右衛門信平という旗本に入門した。この夏目は実用流の武術家として最も有名だった平山行蔵の高弟だった。やがて夏目が蝦夷へ派遣されることになったので、秀之進は平山行蔵の門弟となった。南部利敬が死んだ。これが秀之進の運命を大きく変えていく。津軽家は従来柳の間詰だったが、金銀をばらまいて大広間詰に家格が昇進することになった。南部家は家格の上で大広間詰であるが、もし津軽家が大広間詰になると、次期藩主の利用は位階が低いため、津軽家の下にすわらなければならない。これが大きく南部藩を刺激し、また秀之進を大きく刺激した。そこで、秀之進は大胆な計画を練る。津軽家の行列を待ちかまえ、君臣の義を説いて、隠居してもらおうというのだ。
宇都宮騒動
本多佐渡守正信、上野介正純の家は本多平八郎忠勝と同祖から出て、ずっと以前にわかれたということになっている。本多佐渡守正信は若い頃から多難な人生を送ったため、ふくらみのある人柄であった。一方、正純はこうした経験を経ていないため、才気が鋭く出過ぎてふくらみのない人柄だったようだ。親子で老中となり、父正信は江戸で、子の正純は家康の大御所付の老中となった。家康と正信が立て続けに死んだ頃には、正純は江戸の秀忠らにいい感情を持たれていなかった。正純が江戸の老中となった頃、家康の遺言により、宇都宮の十五万五千石を領することになった。これを喜ばなかったのは、前の宇都宮城主の奥平家の人々だ。奥平家には将軍秀忠の姉・亀姫が嫁いでおり、現当主の祖母にあたる。亀姫ばあさまは腹を立てた。奥平家にお預けになっている者に堀伊賀守利重というのがいた。これも故在って本多正純を恨んでいた。この利重が亀姫に拝謁を申し出て、正純の悪事を探ってみるという。すると、鉄砲密造と、鉄砲を関東に運び込んだこと、本丸の無断修理など、次から次へとでてくる。秀忠が日光へ参拝にでた。その秀忠を歓迎しようと正純は張り切った。日光参拝が終わり、江戸へ向かう秀忠に亀姫から文が届けられた。
阿波騒動
「阿淡物語」「泡夢物語」という書物がある。小説であるが、嘘ばかりでもない。ある目的があって、具合の悪いことは除いている点がある。だが、それを除くと、この事件はお家騒動にならず、単なる藩政改革の失敗談になってしまう。阿波徳島の蜂須賀家は十代宗鎮からは初代小六正勝の血を伝えないで現在に至っている。佐竹分家から重喜を迎え、家督を継ぎ阿波へ入部した。二万石の小大名から家に来たという観念もあり、重喜も軽蔑されまいとして気張ったところがあり、これが騒動を生む最大の原因となる。重喜は独裁制をしこうと考えていた。その第一手として家柄家老の稲田九郎兵衛植久の洲本仕置を免職した。阿波で百姓一揆が起きた。藩の藍の専売制と藍玉製造業者の暴利をいきどおって起こされたものだ。こうした中でも重喜は改革を進めるために厳しい倹約令をだした。これくらいでは藩財政の立て直しの大効果は望めない。もっとも効果のあるのは行政整理であるが、これは封建制度の根本であるため、手が出せない部分であった。そこで、重喜は職班官禄の制を考え出した。しかし、これは反対にあい一端引っ込めることにした。厄介なことが生じた。平島公方といわれる足利将軍家ゆかりのものが阿波にいる。それが加増を望んだ。重喜ははねのけたが、国許の重臣が加増してしまう。重喜は政務が出来ないと引退を宣言してしまう。
吉宗と宗春 / 海音寺潮五郎
八代将軍徳川吉宗と尾張藩主徳川宗春との確執を描いた小説。馴染みの大岡越前守忠相が登場するが、主人公は徳川宗春である。徳川吉宗と徳川宗春を対比して海音寺潮五郎は次のように言っている。吉宗は魁偉だが、その英雄らしい相貌の下に、秘密的な器の狭さと、市井の小商人のような金銭に対する貪欲さを秘めている。一方、宗春は華奢だが、接するものを等しく明朗にせずにおかないような闊達さと、清濁併せ呑むと言われる宏量の所有者。こうまで対比的な両者が衝突するのは宿命であり、これに絡みに絡んだ重畳の宿怨宿憤があっては尚更のことである。本書は宗春側の視点で書かれた小説である。宗春が相手にするのは権力者・吉宗である。この権力者を小気味良いほど翻弄する。役者が違うのだ。幕府が緊縮経済を行っている中、宗春は真逆の施政を採る。そして、この宗春の施策の方を民は喜び、評価した。幕府としては面目を潰される形になる。また、宗春に直接的に翻弄される人物もいる。大岡越前守忠相や老中・松平左近将監乗邑である。この二人を登場させることにより、宗春と吉宗の役者の違いを見せつけている。もちろん、こうした宗春の行為には、権力の頂点に立てなかった者の、悔しさ無念もあるのだろうが、そうした怨みは本書の中から滲んでこない。それは宗春が快活な人柄として描かれているからだろう。胸のすくような人物として宗春は描かれているが、物事には限度がある。権力者を相手にやりすぎは禁物である。さて、この作品は原題が「風流大名」。単行本で「尾藩勤皇伝流」、その後文庫で「宗春行状記」と改題され、さらに本書の題名に改題されている。

踊子と遊ぶ大身旗本と見える若者。御三家尾州家の御控え徳川主計頭宗春である。ともに遊んでいるのは芸州広島の浅野安芸守吉長と姫路の榊原式部大輔政岑である。この遊び場で宗春は安財数馬と出会う。安財は主家を無断で脱走し惨めな生活をしていた。
ことの始まりは将軍家の継承問題に始まる。十三年前のこと、七代将軍家継がわずか八歳で夭折したので、御三家から入って本家を相続しなければならなくなった。これを争ったのが紀州吉宗と尾州継友であった。継友は宗春の兄であり、安財の主であった。
将軍争いは吉宗に軍配が上がり、競争に敗れた継友は憂憤のあまり健康すら優れなくなった。安財はこうした主君の姿を黙ってみていることができなかった。
安財は宗春の言葉に甘え、宗春に会いに来た。その席で、宗春はしれっと、日光御参詣の行程を話した。そして、地図をだした。安財は食い入るようにこれを見た。
そして、この道中で安財数馬は吉宗を鉄砲で狙撃した。
...二年たって、享保十五年。御城から帰ってきた継友が突然倒れた。吉宗に毒を盛られたかと思ったが、さにあらず。身体が極度に衰弱している中で酒を飲んで興奮したため倒れたようだ。そして、そのまま亡くなった。跡継ぎになったのは弟の宗春であった。
兄の死は、将軍争いに敗れ身体が弱ったためである。間接的に吉宗が殺したようなものだ。この恨みを必ず晴らす。
さっそく、宗春は改革三ヶ条のお触れを出した。その内容はことごとく吉宗の方策に対する反駁となっている。お庭番の藪野助八はこの内容を見て、覚えずうなり声を上げた。
そして、宗春は尾張に初入部する。宗春は天下をあげ緊縮政策に励んでいる中、ひとり開放路線をとっていた。そのため、尾州には他国から雪だるまのように人が流れ込んで、繁栄し始めた。名古屋が繁栄し始めたのはこの時からである。
この様子を吉宗は苦々しく見ているだけである。当てつけのような宗春の政策に腹立たしさを覚えながら、当面は見守るしかない。
こうした中、宗春が名古屋から消えた。お庭番の藪野助八はこれを知り慌てる。宗春は京へ上ったようである。尾州は勤皇の伝統がある藩である。この藩主がお忍びで京へ赴くとは容易ならない出来事である。
こうした出来事の他にも、宗春は次々に突飛なことをし、吉宗はますます宗春を疎ましく感じるようになる。

日本左衛門

 

享保4年-延享4年(1719-1747)
「知らざぁ言ってきかせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、…名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ」。これは、歌舞伎「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」浜松屋での弁天小僧の名せりふ。5人の盗賊衆が七五調で名乗りをあげる、次幕「稲瀬川勢揃」で、大親分日本駄衛門は「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に…」と大見栄を切る。
文久二(1862)年、江戸市村座初演で大当たりし、現在も上演されるこの芝居。弁天小僧は架空の人物といわれますが、統領の日本駄衛門は、実在の人「日本左衛門」をモデルに描かれました。
生い立ちと資質
日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい、生まれは享保4年(1719)。父は尾張藩の下級武士で、父が七里役として金谷宿に赴任した折に同行したらしい。通称を尾張十(重)、幼名は友五郎。幼い頃から聡明な子どもでしたが、17-18歳の頃から飲む打つ買うの放蕩者となり、20歳でとうとう勘当されてしまいました。本格的に盗賊活動に入った時期は寛保元年(1741)、日本左衛門が23歳のときといわれ、遠州の豊田郡貴平村に本拠を構えて東海八ヶ国を荒しまわったと伝えられます。
父親の職「七里役」とは、藩が街道の七里ごとにおいた公文書の取継ぎや情報収集を役目とするもので、「進行を妨げる者は3人までは斬り捨て御免だ」と豪語し、その服装は竜虎梅竹などを加賀染めした半はんに金糸銀糸の刺繍をほどこしたビロードの半襟、腰には脇差と赤房の十手とたいそう派手なもので、横暴な振る舞いも多かったそうです。そのような親の資質と環境からも、日本左衛門の登場はうなずけるものがあります。
伝記と人物像
「浜島竹枝記」という本では、日本左衛門の人物像について、「日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら、知恵深く、威勢強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手なずけ…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」と述べています。また「窓のすさみ」という書物によれば、率いる強盗の人数は「従う者五、六百」と記されており、大袈裟だとしてもその勢力の大きさを示しています。また「甲子夜話」(肥前平戸藩主松浦静山著)には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人その家をはかりて、盗み入りしとぞ」とあり、日本左衛門は、「箱を砕いて包みから、難儀な者に施し」「盗みはすれど非道はせず」などの盗みの哲学を手下に説いたとされています。 寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは健気である」と大親分らしく悠然と姿を消したというエピソードも残され、大掛かりで派手な義賊の姿は伝えられるごとに脚色され「恰好良い大泥棒」になっていきます。しかし、三右衛門の訴状(後述)によると、娘の婚家に日本左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像はかなり荒っぽい盗賊だったようです。
また、日本左衛門の姿について、指名手配の人相書きから伺うことができますが、たいそう豪快な男が浮かんできます。身の丈五尺八、九寸(身長175cm位)、年は29歳程、鼻筋が通って色白、面長、頭に5cmほどの傷あり。 また、自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち…といいますから、相当派手な強盗の親分です。芝居に登場するのも当然でしょう。
盗みの手口
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録にあります。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5-60人余りを使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が五、六人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案内させて強奪する」と「浜島竹枝記」に記されています。延享三(1746)年には掛川藩領の大池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪ったといい、芝居「白浪五人男」浜松屋の場も、駿府の呉服屋「唐金屋」で起こった日本左衛門一味の巧妙な詐欺を描いた話であるともいわれます。
また、東海道金谷の石畳上り口にある庚申塔は、夜盗に出る前に身支度をした所であるという伝承もあります。「見ざる、言わざる、聞かざる」の庚申さんと、夜盗に出る日本左衛門の組み合わせとは、いかにも洒落がきいたエピソードです。
日本左衛門捕まる
一味の狼藉は、天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙ったもので、地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門の直訴もあって、幕府が直接に捕らえることになりました。それに伴い地元である掛川城主の小笠原長恭は責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に移されました。
幕府直接の捕物として、江戸火付盗賊改めの徳山五兵衛に命が下り、同心22名を卒いて延享3年9月に江戸を発ち、地元捕り方の応援を得て、金谷、掛川、浜松に大捜査網が敷かれました。しかし、手下は捕まっても日本左衛門は一向に捕まらないため、全国に人相書きを配布(右)。一方、日本左衛門は支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へ逃れますが、自分の手配書きを見、受け入れてくれる脈も無くなったことから逃げ切れないと決心して、京都町奉行所へ自首しました。一部書物では、ここで「問われて名乗るもおこがましいが…」と大見栄を切ったとされています。
最期と後の義賊贔屓
日本左衛門が盗賊を働いていたのは八代将軍吉宗の時代で、幕府の窮状を救うため享保の改革が進められたころ。庶民は倹約と重税に息苦しい生活を余儀なくされていました。そこに日本左衛門のような盗賊が出現して、江戸から来た侍たちが大捕り物を繰り広げたら庶民の間で義賊像がふくらんでもおかしくありません。役人や権力者を翻弄して逃げ来る怪盗に江戸庶民は拍手を送りました。反権力のヒーローを求める心理が、盗賊を義賊にまつりあげていったのです。そして事件から120年後、白浪狂言の名人河竹黙阿称作「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」(演目では「白浪五人男」)が庶民にもてはやされました。
延享4年(1747)3月、日本左衛門は遠州見附で処刑され、首は見附の三本松の仕置き場にさらされました。その首を愛人三好ゆきが盗み出し、金谷宿川会所跡の南にある宅円庵に葬ったといわれ、今も日本左衛門の墓と「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑があります。
 
仮名手本忠臣蔵

 

(かなでほんちゅうしんぐら、旧字体/假名手本忠臣藏) 元禄赤穂事件を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の代表的な演目。『仮名手本忠臣蔵』は二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作によるもので、太平記巻二十一「塩冶判官讒死の事」を世界としている。
人形浄瑠璃としての初演は寛延元年八月十四日(1748年9月6日)から同年十一月中頃(1749年1月初頭)まで大坂竹本座においてで、同年十二月一日(1749年1月19日)には大坂中の芝居で歌舞伎版が初演された。江戸では翌寛延二年二月六日(1749年3月24日)森田座で初演されている。本作以前にこの赤穂事件を扱った歌舞伎や人形浄瑠璃の演目としては、事件後間もない元禄十四〜五年(1702–03年)の『東山榮華舞台』(江戸山村座)、『曙曽我夜討』(江戸中村座)や、宝永六年(1710年)の、『太平記さざれ石』、『鬼鹿毛無佐志鐙』、そして近松門左衛門作の『碁盤太平記』などがあり、その世界も「小栗判官物」、「曾我兄弟物」、「太平記物」などさまざまだったが、『碁盤太平記』あたりから世界が「太平記物」となり、それぞれの役の振分けも固定してくる。これを受けて忠臣蔵ものの集大成として作られたのが本作である。
その外題は、赤穂四十七士をいろは四十七字にかけて「仮名手本」、そして「忠臣大石内蔵助」から「忠臣蔵」としたというのが一般的。ただし「忠臣蔵」の方には異説もあり、蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣の意味を持たせたとする説、加古川本蔵こそが本当の忠臣だということを「本蔵」の間に「忠臣」を挟んで暗示したという説などがある(いろは歌の項の「暗号説」のくだりも参照されたい)。
『仮名手本忠臣蔵』は『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』とならぶ人形浄瑠璃の三大傑作といわれ、後代他分野の作品に大きな影響を及ぼしている。近代に至るまで支持されつづけている要因には、その構成が周到かつ堅牢なうえに、丸本歌舞伎にありがちな荒唐無稽さも少ない点があげられる。本作は上演すれば必ず大入り満員御礼となる演目として有名で、かつては不況だったり劇場が経営難に陥ったりしたときの特効薬として「芝居の独参湯」と呼ばれることもあったほど。それだけに上演回数も圧倒的に多く、梨園ではこの『忠臣蔵』に限っては、どの役柄でも先人に教えを乞うことは恥といわれるほどである。 
あらすじ
大きく分けて、次の4編の物語から成り立つ。
本編
義士の仇討ち幕府執事の高師直が伯州大名の塩冶判官をいじめ抜き、耐えかねた判官は師直を斬りつける。判官は事件の責任をとり切腹させられ、お家断絶。家老の大星由良助は京の遊里祇園で放蕩三昧の日々を送り、絶対に仇討ちは無いと師直側が油断したころに高の屋敷への討ち入りを決行。見事に師直の首級をあげる。史実の元禄赤穂事件を『太平記』の世界のなかで描いた物語。
従編
おかる・勘平の絡み/勘平は塩冶判官の武士。おかるは判官の妻・顔世御前の腰元。二人は夫婦。勘平は塩冶判官のお供で外出するが、一人抜け出しておかると逢い引きを楽しんでいた。勘平不在のその時に、判官が師直に刃傷に及ぶという大事件が発生。勘平は責任を感じて、切腹をしようとするも止められる。二人は、駆け落ちという道しかなかった。勘平は師直への仇討ちに加わるべく軍資金を確保しようとし、成功する。しかし入手した手段が侍の道にもとる非道なものだと誤解され、切腹する。その直後勘平の無実が判明する。討ち入り血判状に判を押し、討ち入り組の一人に名を連ねたところで絶命する。同志の義士は勘平の財布を形見にして仇討ちに臨む。創作物語である。
力弥・小浪の絡み/大星力弥・小浪は夫婦。力弥は判官側の人間で、小浪は判官の師直への刃傷を押しとどめた男の娘。小浪の父は、力弥に殺されることによって、自らの行為を許してもらおうとする。力弥・小浪は一夜限りの夫婦生活を持ち、力弥は討ち入りの準備に出発する。創作物語である。
師直・顔世御前の絡み/師直が、非道なことに他人の妻に横恋慕して、顔世御前にちょっかいをだすが振られる。これが師直が判官を挑発する直接の原因となる。「高師直」と「塩治判官」はともに実在した人物から名を借りるのみだが、この箇所に限っては『太平記』で高師直が塩冶判官の妻に横恋慕した逸話を使っている。
従編の物語はすべて恋と金が絡む世話物である。 
大序 [ 鶴ヶ岡社前の場/兜改めの場 ]
天王立で幕を開ける荘重な場面であり、歌舞伎では現在演目として行われている数少ない大序のひとつ。かならず幕前で、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、つまり配役を説明する口上があるが、これはとりもなおさず人形浄瑠璃の名残である。東西声で幕を引いた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。切りは敵役の師直、勇みたつ荒事の若狭介、二人を押しとどめる和事の判官と、『壽曾我對面』の幕切れと同じ形式になっている。
将軍足利尊氏の命により、討取った新田義貞の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮に納めるため将軍の弟足利直義が遣わされる。直義の饗応役に塩冶判官と桃井若狭介が任ぜられ、その指導を高家高師直が受持つ関係上、三人も直義に従って八幡に詣で、御前に控えている。そこへ、数多く集めた兜のうちより義貞のものを見分けるために、かつて宮中に奉仕し、天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしたことのある、顔世御前(判官の奥方)が召され、見事に兜を見分ける。直義および饗応役の二人が兜を神前にささげるためにその場を離れると、顔世の美貌に一目ぼれした師直が横恋慕のあまり言寄る。そこへ折りよく来合わせた若狭介が顔世を救い、その場を去らせると、怒り心頭に発した師直は若狭介に悪口を言いかけ、短気な若狭介は刃傷に及ぼうとするが、通りがかった判官の仲裁によって事なきを得る。 
二段目
台本が二種類あり、それぞれ別物である。
桃井館の場
桃井館上使の場
「空も弥生のたそかれ時、桃井若狭之助安近の、館の行儀、掃き掃除、お庭の松も幾千代を守る勘の執権職、加古川本蔵行国、年の五十路の分別ざかり、上下ためつけ書院先」の床の浄瑠璃で始まる。若狭之助の家老加古川本蔵は、主人が師直から辱めをうけたと使用人らが噂しているのをききとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘小浪が出てきて、殿の奥方までも知っていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り奥方様を御安心させようと奥に入る。そこへ、大星力弥が明日の登城時刻の口上の使者としてくる。力弥に恋心を抱く小浪は母の配慮もあって、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取る。
桃井館松切りの場
再び現れた本蔵は妻と娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだったことを明かす。本蔵は止めるどころか縁先の松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫んで、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。
鎌倉建長寺書院の場
幕末の七代目市川團十郎が始め、その台本が上方の中村宗十郎に伝わったという。掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助と本蔵とがやりとりをするという脚色。 
三段目 [ 進物の場・文使いの場(足利館城外の場) ]
進物の場
若狭助は師直を斬る覚悟をするが、若狭助の家老加古川本蔵が機転を利かせて師直に賄賂を贈る。ここでは師直は顔を見せない。賄賂を受け取る師直の家臣である伴内役者の腕の見せ所。
文使いの場
このあと、お軽は恋人勘平との逢瀬を目的に、顔世御前から師直あての文を、明日渡すはずを一日早く持って来る。そして、恋人同士の情事を仄めかす所で幕となる。このお軽の軽率さが次の場への悲劇への伏線となっていき、六段目の勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がっている。筋としては重要な場面だが、今日は時間の都合で演じられない。
喧嘩場(足利館殿中松の間刃傷の場)
「おのれ師直真っ二つと、刀の鯉口息をつめ」と、登城した若狭助は師直を斬ろうとするが、既に、心付けを貰っている師直は「これはこれは若狭之助殿、さてさてお早いご登城」と卑屈に謝る。気勢をそがれた若狭之助は「馬鹿な侍だ!」と罵倒して去る。そこに判官が登城、「遅い!遅い!」と師直は侮辱された憤懣を判官にぶつける。折悪しくもその師直へ顔世からの求愛を断る手紙が届く。師直は判官を「鮒だ鮒だ。鮒侍だ!」「鮒侍とはあまり雑言、師直殿には御酒召されたか」「何だ、酒は飲んでも飲まいでも、勤るところはきっと勤る武蔵守」とさんざんに罵りいたぶる。たまりかねた判官は刀を抜こうとするが、殿中での刃傷は家の断絶と必死に我慢する。それでもなおも毒づく執拗な師直の嫌がらせに耐えかねた判官は、ついに師直へ刃傷におよぶが、屏風の陰にいた本蔵に抱き止められる。ここの作劇は高く評価されている。
若狭助が退場した後、判官登場までの間に師直が姿見で茶坊主に烏帽子に大紋素襖に着替える場面の演出がある。「姿見の師直」と呼ばれ三代目菊五郎が創作した。師直が着替えながら通りかかる大名たちに挨拶を交わすだけのものだが、明治以降は六代目菊五郎と二代目松緑が演じるくらいで、今日では全く廃れている。
裏門合点(足利館裏門の場)
早野勘平は腰元のお軽と情事の最中、主君の変事を聞いて慌てて裏門に駆けつけるが入ることを許されない。困った二人は纏わりつく伴内を振り切って駆け落ちする。この場は、次の「道行旅路の花婿」が人気狂言として定着した今日、ほとんど上演されることがない。
落人 [ 正式名 道行旅路の花聟 ]
この段のみ、「仮名手本忠臣蔵」ではないが、現在は一体化されて上演されている。浄瑠璃では三段目の結び。戦後の歌舞伎では四段目の後に独立した演目として設けられる。昼夜二部制では、落人で午前を終り、五段目からを夜の部にしている。「裏門合点」の代わりに上演される、楽しく色彩豊かな所作事。さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。科白には地口も盛り込まれており、特に東京でよく出る。舞踊の定番の演目でもある。
おかる・勘平が駆け落ちを決行し、鎌倉から京都付近の山崎まで落ち延びる中途、戸塚(現在の横浜市)での出来事を描いている。戸塚は中途にはないはず、それでは逆戻りになるではないかなどというのは野暮というもの。もともとの設定は「夜」だったが、どう考えても「昼」としか言いようがない科白も出てくるが、これらはすべて時代物と世話物を必ず合わせて上演した江戸時代の興行形態の名残りである。通常の「見取り狂言」の枠内でその場その場のみを上演すればまったく問題のない設定でも、「通し狂言」で上演すると前後のつながりが明白なので無理矛盾が生じてしまう。『仮名手本忠臣蔵』は通し狂言で上演されることが比較的多い演目なので、これが目立ってしまうのだ。
なおこの場で語られる浄瑠璃の詞章は、実は近松作の『冥途の飛脚』の一節の焼き直しである。
演出には三つの形がある。引き幕が引かれると浅黄幕の前で花四天が現れるもの、花四天を省略して浅黄幕だけを見せるもの(浅黄幕が引かれると、おかると勘平が連れ立って歩いている)、そして花四天が嘆き去った後に、花道からまずおかるが、次いで勘平が息荒げに走って現れるもの。
遠見に富士山も見える。おかるよ、ここで休もう。俺は主君(判官)を窮地に陥れてしまい、とても生きてはいられない。死後の弔いを頼むと勘平。そんなこと言っていないで、私の実家(京・山崎)に来て欲しいとおかる。あなたのためなら、機も織ります、賃労働も苦ではありませんとまで言わせる。よしわかったと勘平。
すると、おかるの上司で、師直の部下である鷺坂伴内が花四天とともに登場。二人の旅路の邪魔をして、おかるをこちらによこせという(伴内はおかるを我が物にするつもり)。勘平は不敵に笑い「ムハハハハハ。ハテよい所に鷺坂伴内、おのれ一人食いたらねど、この勘平が細葱、料理一番食ろうて見ろエエ。」と下座に合せるリズミカルなノリ地で台詞を言い、派手に花四天を見事にやっつける。おかる:「(判内さんよ、)それでは色(恋人)にならぬぞえ」。
二人が花道へ去ろうとすると、やっつけられてしまったはずの伴内が現れて、伴内:「勘平待て」。勘平:「なんぞ用か」。伴内:「その用は…無い!」。勘平:「馬鹿め」。拍子木:「チョン!」伴内が尻餅をつく。
幕が反対方向(下手から上手へ)に引かれる。伴内が幕に隠されそうになるが、途中から自分で幕を引く係になってしまう。幕開きの際、通常と逆に上手から下手へ引かれるのもこのためである。無事幕を引き終えて終了。
鷺坂伴内はもともと半道敵だが、この段に関しては完全な道化となっており、拵えも異なっている。 
四段目 [ 扇ヶ谷塩冶館の場 (異名 通さん場) ]
その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への扉を閉じて、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。また、塩冶判官の役には厳しい口伝があり、出が終わった後には誰にも顔を合わせず口をきかず、すぐに家に帰らなければならない。江戸時代にはこれが堅く守られていた。
花献上・花籠の段
歌舞伎では花献上、浄瑠璃では花籠の段。蟄居して悶々と暮らしている判官に、腰元たちが一輪ずつ花を献上して慰める。通常は省略される。切腹の前にほっと心の安らぐ場面。
判官切腹
将軍家から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が来訪、情け深い石堂に比べ、薬師寺は意地が悪い。判官は粛々と応対し、切腹を申し付けられる。家老の大星由良助が来るまではと待つが、なかなか現れず、「力弥、力弥、由良助は」「未だ参上仕りませぬ」「存命に対面せで、無念なと伝えよ。方々いざ、ご検分くだされ」と遂に短刀を腹に突き立てたときに由良助が駆けつける。「由良助か」「ハハッ」「待ちかねたわやい、何かの様子はきいたであろうな」「今はただ申すべきこともなく、尋常なるご最期を願わしゅう存じまする」判官は薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り「この九寸五分は汝が形見。切って恨みを晴らせわやい」と由良助に短刀を形見に渡し、由良助は胸を叩いて平伏する。これで判官の余の仇を討ての命令が下されたのである。判官は会心の笑みを浮かべて息絶える。成句「遅かりし由良之助」の語源である。由良助はここで初めて登場する。
評定
判官の死体が片づけられ、石堂は由良助に慰めの言葉をかけ薬師寺とともに奥に下がる。顔世御前が悄然と場を離れたあと、城明け渡し対応の会議をする。由良助はもう一人の家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫は立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに初めて主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」もう今日で終わりかと名残惜しげに去る。
城明け渡し(扇ヶ谷表門の場)
表門では仇討に意気込む息子力弥ら家臣達が険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。由良助は郷右衛門らとみんなを説得させ退場させた後、一人残る。紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓うのである。釣鐘の音、烏の声に見送られ、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、門が引かれ無音で幕がしまる。(上方は柝を打ち続く)懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって去って行く。
上方では、1枚の板に門が描かれ、上半分をかえすと門が小さく描かれる「アオリ」を用い、どんどん門が遠くなっていく様を表している。
このときの烏の声は舞台裏で笛を吹く。初代中村吉右衛門の門人中村秀十郎は烏笛の名人だった。 
五段目 [ 山崎街道の場 (上方での別名 濡れ合羽) ]
ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。全段を通じて創作である。
勘平は猟師となり、おかると夫婦になる。勘平はこの時点で、師直への仇討ち謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。おかるの父与市兵衛は、勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋におかるを百両で売り飛ばす交渉に成功した。与市兵衛は遊郭から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途につく。
時は旧暦6月29日(現在の真夏、7月〜8月)の深夜。天気は雨、強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。
鉄砲渡し
勘平は、この山崎で狩人(猟師)をして収入を得ている。あまりに雨が強いので、松の木の下で雨宿り。うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく灯り(提灯)を持った男が通りがかるではないか。「その火を貸してください」しかし、男は銃を所持している勘平を山賊だと思い込み、「俺はその手(軽く話しかけておいて、油断させる手口)は食わない、あっちに行け」と追いやる。勘平は、「自分は猟師だがこういう場所では盗賊と間違われるのも無理はない」と言い、鉄砲を男に渡してしまう。「武器はあなたに渡しましたから、私は丸腰ですよ。私はその火縄銃に種火をつけて欲しいだけ。あなたが火をつけて私に渡してくださいな」と言ったところで二人が顔を見合わせると、なんと二人は顔見知り。かつての塩谷判官の家臣,早野勘平と千崎弥五郎だった。
勘平は、「仇討ちの謀議にぜひ加わらせてくれ、連判状に自分も加えてくれ」と頼む。千崎は「コレサ、コレサ、勘平、はてさて、お手前は身の言いわけに取り混ぜて、御くわだての、連判などとは、何のたわごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている。合点か。と謎を掛ける。勘平は、すべてを飲み込み、金を用立てすると約束し、現在の住処を教える。千崎も承知し両名は別れる。
二つ玉
この部分は、本行/初代中村仲蔵より前の演出(現在でも上方歌舞伎に残る)/初代中村仲蔵以後の演出(江戸歌舞伎)がそれぞれ異なった演出となる。すなわち、六段目に次いで、江戸・上方の型が大きく異なるところである。三人の登場人物が出てくるが、この三人を一人の役者が早替わりで勤めるというのも繰り返しとられる形である。
おかるの父与市兵衛は、勘平に渡すための金五十両を運んでいた。そのまま勘平に金が渡されればなんとも無い話である。ところが、道中山賊(盗賊)に殺され、金を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、盗賊を猪(しし)と間違えて偶然に誤射し、これも殺してしまう。勘平は盗賊が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領してしまう。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず盗賊を経由したがために、犯罪の金となってしまう。
後でそれが大変な悲劇、つまり六段目の勘平自殺につながる。すなわち、三人の登場人物はこの段、またはその次の段で全員死ぬことになる。鉄砲渡しの千崎も(物語には書かれないが)切腹自殺で終える。唯一死なないのは、猟師勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで、江戸時代に以下のような戯れ歌ができた。
五段目で運のいいのは猪(しし)ばかり
本行
「又も振りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道の闇路に迷わねど、子ゆえの闇に突く杖も。直ぐなる心、堅親父」の床の浄瑠璃となる。花道より与市兵衛が現れる。上記のとおり、金を持っている。そこへ「おーい親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子・定九郎。親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。「こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布にあるのを、とつくりと見、つけてきたのじゃ、貸してくだされ」と無理やり懐から財布を取りだす。抵抗する与市兵衛に「エエ聞き分けのない。むごい料理をするが嫌さに、手ぬるう言えばつき上がる。サア、この金をここに出せ。遅いとたつた一討ちと、二尺八寸拝み打ち」と無残に斬りつけ、むごたらしく殺す。定九郎は与市兵衛の懐に手を伸ばし、財布を頂戴する。中身を確かめて「五十両」とほくそ笑む。そこへ「はねはわが身にかかるとも、知らず立ったるうしろより、逸散に来る手負い猪。これはならぬと身をよぎる。駆け来る猪は一文字」の床の言葉どおり、猪が走ってくる。定九郎は草むらに隠れる。猪が現れて舞台の中を駆け抜ける。猪は上手に消える。定九郎は猪から逃げようと後ろ向きながら立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。ぬかるみに片足を取られてよろめく。
バーン!背中を打ち抜かれた定九郎、血を吐き倒れこむ。
鳥屋から出てきたのは、今発射したばかりの火縄銃を抱えた勘平。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら花道を通る。舞台で火縄銃の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。「コリャ人!」薬はないかと死者の懐を探り財布の金を探し当て、自身が求める金が入ったと喜び「天の助けと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける。」の床の浄瑠璃通り花道を引っ込む(非常に技巧的に難しい)。
上方歌舞伎の演出/定九郎が与市兵衛に声をかけることは無い。冒頭、与市兵衛が現れてしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、与市兵衛を殺すまで一言も発しない。また、定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常、この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。二代目實川延若は勘平、与市兵衛、定九郎三役早変わりの演出を行っていた。この型は三代目實川延若を経て今日では四代目坂田藤十郎に伝わっている。関西歌舞伎らしい見せ場に満ちたつとめ方である。
江戸歌舞伎の演出/初代中村仲蔵は、定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目の役にした。黒羽二重の衣装で、非常に男前である。そもそも定九郎は、勘当される前は高級武士の息子だった。以後、定九郎は若手人気役者の役となった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世した。九代目市川團十郎は演出変更を多くおこなった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり、全編を通して、定九郎の科白がたった一つだけになったのである。「二つ玉」の名の通り、江戸歌舞伎では勘平は銃を二発発射する。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し、一発しか撃たない。
現行の『忠臣蔵』の演出は、五代目尾上菊五郎が完成させたもので、江戸歌舞伎にこれ以外の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「團菊」とならび称される名優である。「鉄砲渡し」の最初は勘平が笠で顔を隠している。時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の顔が浮かび上がる優れた演出である。
挿話
猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。昔、ある大部屋役者が猪役に出ることになって、花道のかかりで待機していたら寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花見から舞台に走り出したら、丁度四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し劇がむちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」に聞こえてしまったのである。
ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕係がお前にも中村屋や成田屋みたいに声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろと思った。いよいよ本番、猪が花見から飛び出した。すると揚幕係が「ももんじ屋!」場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
昔はかなりいい加減な演出が行われていた。ある猪役の役者は本舞台にかかると、松の木に手をかけ見得をして「あすこに見えるは芋畑。どりゃひとつ食べてみるべえかい」と科白を廻したこともある。
背景説明
山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い山崎の戦いなど、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は、横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない。 
六段目 [ 早野勘平腹切の場 (異名 愁嘆場) ]
おかるは祇園女将お才と源六とともに売られていく。勘平も仇討のため身を売った女房の心遣いに感涙する。そこへ戸板に乗せられた与市兵衛の死骸が運ばれ大騒ぎとなる。勘平が持っていた財布から、射殺したのは舅ではないかと姑のおかやに疑われてしまう。勘平も夜の闇の中で何者か知らないで取った財布だけに、自身が義父を殺害したものと思い込んで動転してしまう。そして訪れた同志(二人侍千崎弥五郎、原郷右衛門)からも、駆け落ち者からの金は受け取れない、ましてやそのために悪事を働くとは何事か。「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ、舅を殺し取ったる金、亡君の御用金となるべきか。亡君の御恥辱。いかなる天魔が見入れし」とさんざんに責められる。
切羽詰った勘平は切腹。やがて勘平の疑いは晴れ、知らぬうちに養父の仇討をしたことが分かる。だが遅すぎた。同志の心遣いで瀕死の勘平の名は討ち入りの連判状に加えられる。涙にくれるおかやと同志に見守られながら勘平は息絶え「さらば、さらば、おさらばと見送る涙、見返る涙、涙の、波の立ち帰る人も、哀れはかなき」という悲痛な浄瑠璃で幕となる。
切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」という科白が有名。
上方と関東では演出がかなり違う。たとえば、勘平が刃を腹につきたてるのは、関東では「うちはたしたは舅どの」の科白で同志が「なな何と」と叫ぶのをきっかけに行い、傷を調べ勘平の無実が晴れるのはそのあとである。上方では同志が与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に行う。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また、上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬ意味である。関東は、お才らのやりとりの時に水色の絹の衣装に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、光沢のある絹の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な関東の芸風の相違点がうかがわれる。
勘平は十五代目市村羽左衛門、初代中村鴈治郎、二代目實川延若、十七代目中村勘三郎がそれぞれ名舞台だったが、抜群なのは六代目尾上菊五郎の型である。菊五郎は絶望の淵に墜ちていく心理描写を卓抜した表現でつとめ、現在の基本的な型をなっている。おかやは老巧な脇役がつとめることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は初代市川延女、戦後は二代目尾上多賀之丞、五代目上村吉彌が有名、今は二代目中村又五郎が得意とする。祇園一力の女将お才は花車役という遊里の女を得意とする役者がつとめる。十三代目片岡我童や九代目澤村宗十郎が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役四代目尾上松助の持ち役だったが、戦後は三代目尾上鯉三郎が苦み走ったよい感じを出していた。 
七段目 [ 祇園一力の場 (異名 茶屋場) ]
一方、由良助は仇討ちを忘れてしまったかのように祇園で放蕩に明け暮れる。同志たちが説得に来るが由良助は相手にしない。怒った同志は斬ろうとするも、足軽でおかるの兄、寺坂平右衛門に止められる。同志に加わりたい平右衛門であるが、由良助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。平右衛門は呆れて去ってしまう。敵方に寝返った九太夫が由良助の真意を探ろうとするが、由良助はこれをかわす。酔いつぶれて寝てしまう由良助。九太夫と師直の家臣、伴内はこっそり由良助の刀を見るが、真っ赤に錆びついている。「ヤヤ、錆たりな赤鰯」と驚く二人。
その後、頬かむりをした力弥が顔世からの密書を由良助に渡す。由良助は密書を読むが、おかると縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう。由良助は秘密を知ったおかるを不憫ながらも討とうと、わざと身請けするといって退場。夫のもとに帰れると喜ぶおかるだが、そこに兄の平右衛門が現れる。由良助の言葉を聞いて「残らず読んだそのあとで互いに見交わす顔と顔。じゃら、じゃら、じゃらと、じゃらつきだいて身請けの相談。オオ!読めた!」とすべてを察し、妹を殺して同志に入れてもらおうと、悲壮な覚悟でおかるに斬りつける。驚くおかるに平右衛門は己の事情を話し、父も勘平もこの世にいないことを男泣きに告げる。おかるは自害しようとするが、そこに由良助が現れ、敵と味方を欺くための放蕩だったと本心を語る。おかるの刀に手を添えて、「こやつの息子が殺したようなものだ。父と夫の仇を討て」と床下の九太夫を刺し、平右衛門に同志に加わることを許す。感激する平右衛門に「鴨川で水雑炊をくらわせやい」と九太夫の処置を頼む。
前半部の由良助の茶屋遊びの件では「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」酒の猪口(ちょこ)を鋸の上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつける他愛もない内容だが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者がつとめる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。
六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇を見せられた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。序曲というべき「花に遊ばば祇園あたりの色揃え」のにぎやかな唄に始まり、美しい茶屋の舞台が現れる。芸子と遊ぶ由良助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近代随一だった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたため、地のままにつとめることができたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、二代目尾上松緑が双璧。おかるは、六代目尾上梅幸が一番といわれている。幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は鶯色の衣装で、心根が変わっているさまを表す。幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇子を開いて見得を切る。 
八段目 [ 道行旅路の嫁入]
加古川戸無瀬・小波の母娘が、ある決意を胸に二人きりで山科へと東海道を上る様子を所作事で描く。義太夫には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させたり、奴をからませるなどの演出がある。
浄瑠璃の言葉も東海道の名所旧跡を織り込んで、許婚のもとに急ぐ親子の浮き浮きした気分を表す。また「紫色雁高我開令入給」という性行為を経文のように表しているのも御愛嬌である。幹部級の女形と若手女形が共演する全段中最も明るい場面で、これが九段目の悲劇と好対照をなす。「八段目の道行は、九段目に続ける気持で踊れ」とは六代目中村歌右衛門の言葉である。 
九段目 [ 山科閑居の場 ]
大星力弥と若狭助の家老加古川本蔵の娘小浪は許婚だった。小浪とその母戸無瀬が山科の閑居に来て、結婚を願うが、力弥の母お石に判官を止めた本蔵の娘は嫁にできぬと断られる。戸無瀬は申し訳なさに小浪ともども自害しようとする。お石は三宝に小刀を乗せ「本蔵の白髪首見た上で盃さしょう。サア、いやか、応か」と迫る。そこに「加古川本蔵の首進上申す」と、虚無僧に変装した本蔵が現れ、由良助父子の悪態をついてお石と争いになる。怒った力弥が現れ本蔵を槍で突く。そこに由良助が現れる。「一別以来珍しし、本蔵殿、御計略の念願とどき、婿力弥の手にかかって、さぞ本望でござろうの」娘の恋のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。由良助は奥庭にある雪で作った親子の墓を見せる。覚悟のほどを示す感謝した本蔵は、死に際、由良助に小浪を嫁にと頼み、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良助父子は師直討ち入りの作戦を本蔵に教える。本蔵は「ハハア、したり、したり、アハハハハ」と手負いの笑いを浮かべ死んで行く。力弥と小浪は夫婦になり、一夜の契りを交わして、力弥は討ち入りのため出立する。
本蔵と由良助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬がみものである。本蔵は十一代目片岡仁左衛門、由良助は八代目松本幸四郎、二代目實川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は三代目中村梅玉、お石が中村魁車。芸の上でしのぎを削りあった両優のやりとりは壮絶だった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、七代目尾上梅幸のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番だった。
この段では、実際の赤穂事件を示唆する文言がある。由良助の妻「お石」は実際の「大石内蔵助」を指し、本蔵の「浅き巧の塩谷殿」は実際の「浅野内匠頭」と、赤穂の名産「塩」を利かせている。
2007年1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では、十二代目市川團十郎の由良助に、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で、午前の部の『勧進帳』とともに、團十郎、藤十郎の史上はじめての共演が実現した。
本蔵や由良助をよくつとめた十三代目片岡仁左衛門は九段目がとても気に入っており「本当の美しさ、劇の美しさは九段目やね。…ここに出てくる人間が、まず戸無瀬が緋綸子、小浪が白無垢、お石が前半ねずみで後半が黒、由良助は茶色の着付に黒の上で青竹の袴、…本蔵は渋い茶系の虚無僧姿、力弥は東京のは黄八丈で、上方だと紫の双ツ巴の紋付…みんなの衣装の取り合わせが、色彩的に行ってもこれほど理に叶ったものはないですわな」と、色彩感覚の見事さを評している。現在は全く上演されないが、幕あきに由良助が仲居幇間をつれて大きな雪玉をころがして出てくる「雪こかし」という端場がある。雪中の朝帰りという風情のあるもので、のちこの雪玉が後半部由良助が本蔵に覚悟のほどを見せる雪製の墓になる。1986年(昭和61年)の通し上演ではこの場が上演されている。
戸無瀬親子が大星宅を訪れる時、下女りんが応対しとんちんかんなやりとりで観客を笑わせる。「寺子屋」の涎くり、「御殿」の豆腐買おむらのように、丸本物の悲劇には道外方が活躍する場面がある。緊張が続く場面で息抜きをするための心憎い演出である。それだけに腕達者な脇役がつとめる。古くは中村吉之丞、現在では加賀屋鶴助が持ち役にしていた。 
十段目 [ 天川屋見世の場 ]
討ち入りの武器を調達していた天川屋義平の店に捕手が来て、討ち入りの計画を白状しろと迫るが、義平はこれを拒み、長持ちに座って見得を切る。そこに由良助が現れる。捕手は判官の家臣たちで、義平の心を試したのだと謝る。討ち入りの合言葉は「天」に「川」と決められた。
「天川屋義平は男でござる」の名科白が有名で、戦前まで比較的よく上演されていたが、現在では内容が古すぎて観客の共感を呼べず、あまり上演することがない。戦後も二代目市川猿之助、八代目坂東三津五郎、1986年(昭和61年)12月国立劇場の通しで五代目中村富十郎が、2010年(平成22年)1月大阪松竹座の通しで五代目片岡我當がつとめたくらいである。 
十一段目 [ 師直屋敷討ち入りの場 ]
この段のみ、歌舞伎では、本行から完全に離れた台本となる。極端に言えば、上演ごとに異なった台本となる。そのためあらすじは一定せず、さまざまな変形がある。但し、いかなる場合でも物語の芯になるのは、由良助ら義士が師直を討ち取るという物語である。
高家討ち入りの場
由良助、力弥ら判官の家臣たちは表門と裏門に分かれて師直邸へ討ち入る。大立ち回りが演じられ、力弥が師直の子師泰と、勝田新左衛門が小林平八郎と斬り結ぶ。判官の家臣たちは炭小屋に隠れていた師直を引きずり出す。由良助は判官の形見の短刀を差し出し自害するよう勧めるが、師直はその短刀で突きかかって来る。由良助は短刀をもぎ取り、師直を突き刺す。由良助たちは遂に本懐を遂げ、師直の首をはねた。
柴部屋焼香の場 [ 財布の焼香 ]
裏門引き上げの場
一同は引き揚げる。花水橋(両国橋に相当)で桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは再び行進し、判官の墓所のある光明寺へ向かう。 
 
『悲恋おかる勘平』

 

歌舞伎や文楽の『仮名手本忠臣蔵』は、ご存知のように、史実の赤穂事件をモデルにしているが、時代設定もストーリーも登場人物も変更している。時代は足利期に変え、浅野内匠頭は塩冶判官(えんやはんがん)、吉良上野介は高師直(こうのもろのお)、大石内蔵助は大星由良之助に改名するといった具合である。だから、講談や小説や映画の『忠臣蔵』や『赤穂浪士』とは似て非なる話だと言ってよい。お軽と勘平が登場するのは、もちろん歌舞伎や文楽の方で、この二人はフィクションのヒーロー・ヒロインである。
私は、映画やテレビの『忠臣蔵』は昔から最近に至るまでいろいろな作品を観ているが、歌舞伎や文楽の『仮名手本忠臣蔵』の舞台は若い頃に二、三度観たきりで、記憶もあいまいである。とくに、勘平やお軽が登場するくだりはうろ覚えに近い。(私が観たお軽は坂東玉三郎だったような気がするが…。勘平は誰だったか?)そこで、今回は歌舞伎のガイドブックを調べ、そこから得た知識を参考にしながら書かせていただく。
歌舞伎の話でいうと、早野勘平は判官の近習であり、お軽は腰元だったが、刃傷事件が起こった際、城外で逢瀬を楽しんでいたため、不忠不義の罪に問われ、追放の身になってしまう。そこで二人は京都郊外山崎にあるお軽の実家へ落ち延びて、人目を忍ぶ暮らしをする。ここから先が、『仮名手本忠臣蔵』では有名な五段目「山崎街道」と六段目「勘平住家」である。
五段目は、勘平が同輩の千崎弥五郎に偶然出会い、仇討の仲間に入れてもらうため、資金調達を約束するところから始まる。お軽の父・与市兵衛が娘を祇園に身売りした金を持ち帰り夜道を歩いていると、山賊まがいの斧定九郎に襲われ、殺されて金を奪われる。すると、今度は、勘平がイノシシと間違えて撃った鉄砲玉が定九郎に命中し、彼を殺してしまう。暗くて誰だか分からないが、懐を探ると、大金の入った財布がある。勘平はそれを黙って奪い取り、逃げて行く。
六段目は、勘平が家に帰ってからの話で、お軽が祇園に連れて行かれた後、与市兵衛の死骸が運ばれて来る。血の付いている財布を勘平が持っていたため、お軽の母・おかやに疑われ口論している最中に、原郷右衛門と弥五郎が訪ねに来る。おかやから話を聞いて、彼らは勘平をなじる。勘平はてっきり自分が舅を殺したものと思い込み、悩んだ末に切腹する。やがて、遺体の傷から真相がわかり、改めて仇討の仲間に加わることを許されて、勘平は死んでいく。
映画の『悲恋おかる勘平』(昭和31年)は、この五段目と六段目をストーリーの中心に据え、それを赤穂義士の物語に組み込んで、裏に起こった悲話のように仕立てたものだった。だから、映画の中では、勘平、お軽、与市兵衛(お軽の父)、おかや(お軽の母)などは歌舞伎の役名を用い、一方浅野家の人々は、実名と同じにしている。浅野内匠頭、御台の阿久里(瑤泉院)、大石内蔵助、片岡源五右衛門、神崎弥五郎などはホンモノが登場するわけだ。この映画の原作は邦枝完二の小説だそうだが、私はこの原作のことを寡聞にして知らない。脚色したのは依田義賢(斉木祝という人と共同執筆)で、監督は佐々木康だった。
勘平を演じたのは若き日の錦之助である。お軽はこれまた若い千原しのぶで、他に与市兵衛が横山運平、おかやが毛利菊枝、御台の阿久里が喜多川千鶴、大石内蔵助が錦之助の実父三世中村時蔵といったところが主な配役である。
しかし、映画を観る限り、正直言って、この話は芝居には向いているかもしれないが、映画には向かなかったのではないかというのが私の感想である。いや、歌舞伎のストーリーを忠実になぞっただけで、映画の良さが発揮されずに終わってしまったと言ったほうが良いかもしれない。もっと歌舞伎から離れ、テーマを絞って映画にすべきだったのではないかと感じた。確かに、錦之助は熱演している。一所懸命に演じている姿は、いじらしいほどだった。芝居ではなく映画らしく演じようと錦之助が意識していたこともはっきり見てとれた。が、どう見ても話が不自然で、錦之助の熱演は報いられずに終わってしまったように思えてならなかった。歌舞伎では感動を呼ぶであろう「勘平切腹」の見せ場、いわゆる「手負いの述懐」の場面も、映画では前後の流れの中で浮いている印象を受けた。
勘平とお軽の物語をお涙頂戴のメロドラマに仕立てようとした製作者の意図は分かる。が、それならば、映画に適さない歌舞伎の場面などは捨てた方がよった。もっと違った場面を見せ場にした方が感動したと思う。
この映画、タイトルには「悲恋」とあるが、勘平とお軽の物語は、どう見ても悲恋ではない。惚れ合った男と女の激しい恋が成就しないで終わるのが悲恋だとすれば、この物語はそうではない。あえて言えば、夫婦愛の悲劇がテーマである。勘平とお軽は、追放の果てに、一時的に夫婦になる。しかし、勘平はいざという時には主君の恩に報いるため死ぬ覚悟をしている。だから、二人にとっては仮の夫婦生活で、いずれは別れなければならない運命にある。主君への報恩と夫婦愛との間のこうした葛藤をドラマにして描いたならば、この映画はもっと素晴らしいものになったと思う。
この映画の欠陥は、夫婦が仲を引き裂かれる話にしては、その愛の描き方が弱かったことにあったと思う。これは、錦之助が悪いのではなく、脚本と演出の責任なのだが、主役の勘平という男がイジイジしていて私にはどうも理解できなかった。また、共感も持てなかった。汚名返上と亡き主君への報恩のことばかり考えているようで、夫婦になってからは、お軽を大して愛していない感じさえ受けた。
それに、勘平が立派な侍かというとそうでもなかった。たとえば、主君の石碑建立のための寄付金の話を浅野家の同輩・神崎与五郎(片岡栄二郎)から持ちかけられると、自分の金もないくせに安請け合いしてしまう。家に帰って義父に金を工面してくれないかと懇願する。貧乏な百姓であることが分かっているのに、なんとも情けない男なのだ。結局自分で金を稼ごうと考えて、山へイノシシを狩りに行き、夜中に間違って人を撃ち殺してしまう。しかも殺した人の懐に大金の入った財布があるのを発見するとそれを黙って奪い取り、寄付金として原郷右衛門のところへ持って行く。その後、勘平は撃ち殺した人が義父だと思い違いして、切腹するのだが、観ている側はそれも自業自得のような気がしてしまう。あまり可哀想だとは思えないのである。
勘平に比べ、お軽の方が一途で、夫に尽くすひたむきな気持ちはずっと共感できると私は感じた。夫に何とか金を工面してやろうと、父母と相談し、泣く泣く祇園の遊女に身を売る決心をするのだから、偉い妻だった。千原しのぶのお軽はあわれで、なかなか良かった。
この映画は、観ていて、ウソっぽさが目に付いてならなかった。話の展開も登場人物も不可解で、首をかしげたくなる点が多すぎたと思う。以下、気になったところを挙げておく。
(一)勘平とお軽が御台(瑤泉院)の屋敷の庭先で同輩の手によって打ち首なりかかるところがある。まずここが疑問だった。内匠頭が殿中で刃傷に及んだ時、勘平が持ち場をはずし、木陰でお軽とひそひそ話をしていたことが不忠不義の理由だったが、それが打ち首にされるほどの大罪なのだろうか?しかも、内匠頭が切腹したすぐあとに、屋敷内で二人を打ち首にしようとするのもあり得ないことだと思った。
(二)勘平の父と母はまったく話に出てこないが、早野家というのはどういう家柄なのか?追放後、婿養子みたいにお軽の貧しい実家に入って、勘平が猟師になっているのも不思議だった。
(三)寺坂平左衛門(加賀邦男)という侍が出て来るが、これがお軽の兄ということなのだが、山崎にいるお軽の父母とはどういう関係なのか、その息子なのかまったく不明。
(四)大野定九郎という不良の赤穂浪人(元家老の息子という設定)が何度も出て来るのだが、この人物の性格付けが出来ていなかった。山道でお軽の父・与市兵衛を殺して金を奪い取るほどの極悪人なのだが、芝居の悪役ならともかく、映画の登場人物としては描ききれていなかった。
(五)勘平切腹の場面で、神崎与五郎が与市兵衛の遺体の布団をめくって、鉄砲傷ではなく刀傷だと言うところあるが、ここなど非常にわざとらしかった。
(六)また、原郷右衛門(原健策)がなぜ懐に連判状を持っているのか、またなぜこんな大切なものを持ち歩いているのかが分からなかった。いまわの際に勘平に血判を押させてやるのだが、早野勘平の名前がすでに書いてあるのも奇妙だった。
(七)お軽が祇園の大夫になって、結局大石内蔵助から身請けされるのだが、大石とお軽はいったいどういう関係なのか、この点も疑問だった。また、内蔵助役にわざわざ中村時蔵を引っ張り出す必要もなかったと思う。一力茶屋のシーンなど、時蔵の芝居っぽい演技とセリフは、まったく映画には不向きだった。
(八)一力茶屋での内蔵助の弁解がましい言葉も無意味だったし、なぜ内蔵助がお軽に勘平の切腹死を伝えたのかがどうしても理解できなかった。これでは、せっかくのラストシーンがぶちこわしではないか。
内蔵助に身請けされたお軽は御台(瑤泉院)の屋敷に戻る。そして、そこで仇討成功の知らせを聞く。そのとき、連判状に勘平の名と血判があるのを見て、お軽は泣いて喜ぶ。仇討に使われた遺品の槍を抱き、夫の最後の晴れ姿を空想する。このラストシーンは、大変素晴らしかったと思うのだが、討ち入り前に勘平が切腹したことをお軽が知らないという設定にしたほうが絶対に良かったし、感銘深かったはずである。
この映画はもう二度とリメイクすることはないだろうが、以上の点に留意して脚本を書き直せば、ずっと良い映画が出来るにちがいない、と私は勝手に思っている。 
 
永代橋崩落

 


永代橋崩落1
江戸四橋(千住大橋を入れれば五橋)の最下流にある、ブルーに塗られたライトアップも美しい永代橋。でも、いまの実質の最下流橋は、佃島の向こう側にある勝鬨橋だ。永代橋は明治以降、二度にわたって築造されている。一度めは、江戸期からつづいた木製の橋を、鋼材で架けなおした1897年(明治30)の架橋。ところが、橋床が木製だったために関東大震災で焼失し、1926年(大正15)に改めて鉄筋コンクリート製の橋として造りなおされた。ドイツのライン川に架かるマーゲン鉄橋をモデルにしたといわれ、東京大空襲でも燃えずにそのまま残った。
でも、この永代橋は、黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい=『縮屋新助』)や、三遊亭圓生の落語『永代橋』でも知られるように、日本最大の橋梁事故を起こしている。1807年(文化4)、天候不順で延びのびになっていた深川八幡(富岡八幡)の祭礼が行われている最中に、混雑をする橋上の群集を載せたまま、中央部から丸ごと崩落したのだ。8月15日当日は、降りつづいた雨もようやく上がり、祭礼の行列が永代橋を渡りはじめると同時に、見物をしようと待ちかまえていた群集が新堀町側からも深川側からも殺到した。祭りを先延ばしにされていた町民たちは、それこそジリジリとこの日がくるのを待っていたのだろう。祭り当日の午前中、大川(隅田川)を一橋公が通過するというので通行止めにされていたのも、江戸っ子たちがじれったさを増幅する要因だったのかもしれない。
西詰めと東詰めから押し寄せた群衆は、ちょうど永代橋の中央で衝突して身動きが取れなくなった。その重みに耐え切れなくなり、永代橋はお午(ひる)すぎついに崩落してしまう。でも、橋を渡ろうとする群衆の動きはやまず、両岸から押し寄せる人々の圧力で人の落下が止まらずにつづき、死者900人、行方不明者を合わせると1,500人以上という大惨事になってしまった。
永代橋は1698年(元禄11)、五代将軍・綱吉の50歳の誕生日を記念して架けられている。伊奈忠順を代官とし、上野寛永寺の根本中堂建立で余った材木をもとに造られているので、その工事には紀文も絡んでいたかもしれない。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)と、当時としては最大規模を誇る大橋だった。下を船が通過するので、橋脚をことさら高くしたのも、橋をいっそう巨大化することになった。でも、台風や大雨のたび、永代橋は大小の損傷を受けて、幕府の管理維持費は膨大なものとなっていく。享保年間には、橋を撤廃しようという動きまで見られるようになる。ただ地元の町民にしてみれば、深川へ行くにはとても便利だったこの橋がなくなることなど考えられず、幕府に対して大規模な存続運動を展開している。
1726年(享保11)、ついに町民管理という形式で永代橋は存続することになった。橋の通行には、2文の渡橋銭を払ってわたる自主運営方式を採用したのだが、のちに、渡橋銭のみでは維持しきれないほど、永代橋の管理にはカネのかかることがわかった。管理予算の不足という事態が“永代”にわたってつづくこととなり、永代橋のメンテナンスはおおざっぱなものとなっていった。崩落事故が起きた当時、永代橋の老朽化は進み、あちこちの補修の手当ても追いつかず、なおざりにされていたものと思われる。
いまでこそ、橋上から眺める風景は、石川島のリバーシティ21や聖路加タワーがそびえ、ドラマのロケーションにも頻繁につかわれる界隈となったが、もうすぐ永代橋の大事故から200年を迎えようとしているのに気づく人は少ない。事故のとき、この橋から落ちた辰巳芸者(深川芸者)の美代吉は縮屋新助に助けられるが、やがては嫉妬にくるった新助に殺される。九死に一生を得た美代吉のはかなさは、そのまま深川八幡祭とともに散った永代橋の犠牲者のはかなさへと重なり、大川の波立つ流れへと呑みこまれたままだ。 
永代橋崩落2
崩落したのは文化4年(1807)、700人とも1500人ともいわれる確かならざる多数の人たちが溺死する大惨事だった。
「『わあ、橋が落ちたッ』『危ないッ』『押すなッ、押さないでくれえ』怒号も悲鳴も、はるか後方に犇めく大群衆の耳には届かない。つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せてくる。押し出された心太さながら、とめどなくこのために人が落下した。橋杭の根元は泥深い。あとからあとから落下してくる人体に、先に堕ちたものは押しつぶされ、泥に埋まって窒息したし、かろうじて泳ぎだした者も八方からからみつかれ、動きがとれなくなって共倒れに沈んだ」。(『永代橋崩落』杉本苑子)
すべて出来事には因ってきたる原因がある。永代橋崩落の第一の原因は、老朽化であった。橋が架けられたのは、元禄11年(1698)。崩落の109年前のことである。それまでは舟による「渡し」であった。橋を架けないのは、江戸防御の戦略からだったが、天下泰平となって橋が架けられた。
だが、大水、洪水が相次ぎ、永代橋は破損、その修繕費に音をあげた幕府は享保4年(1719)、橋の取り払いを決める。架橋からわずか20年後のことであった。橋の便利さに慣れた地元町民は大反発。橋存続の嘆願が功を奏して、「永代橋を下付して市人の有とす」ることとなったが、当然、修繕費は町人たちの負担としてのしかかってくる。橋銭を徴収することとなった。
「番人二人をり、笊に長き竹の柄を付たるを持て、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡るものより、銭二文づつ取けり。人の渡らんとするを見れば、件の笊を差し出すに、その人、銭を笊に投入れて渡りけり」(『兎園小説余録』滝沢馬琴)
幕府がすべき橋の管理を民間がやるのだから、抜本的修繕をすることなく、洪水の度ごとにその場しのぎの修理をして90年が過ぎた。橋は疲弊しきっていたのである。
永代橋崩落の原因の二つ目は、降り続く雨。8月15日の富岡八幡宮の祭礼は、雨で順延し、19日開催となった。時は文化、文政の頃、江戸文化爛熟の時代である。
祭礼見物の人の波は深川へ深川へとひきもきらなかった。しかも、この年の祭礼は12年ぶりということで、人々の気持ちは高まるばかり。4日じらされた鬱憤は爆発寸前だった。だが、このはじける人々の気持ちを無理やり押さえつける出来事があった。
崩壊の原因、その三は一橋様のご通行。
「折から一ツ橋様(将軍家斉の父君)ご見物の為にや、御船にて御通行ありしかば、巳の時より人の往来を禁めて、橋を渡させず」(『兎園小説余録』滝川馬琴)「御船が橋の下を過ぎたところで、役人は非常線を撤した。今まで堰かれていたいらだちから老いも若きもみな半きちがいとなって橋の上を西から東へ突進した」(『永代橋墜落の椿事』矢田挿雲)
重さと激動に耐えかねて、橋は崩れ落ちた。
「水中花がいっせいに開いたように、このとき川面には、派手やかな、さまざまな色彩がぱっと浮き上がった。落ちた人々の衣装、日傘、風呂敷包み、挟箱、あるいは黒髪、化粧もなまなましい顔や手足などが流れに呑まれ、見え隠れしながら、あがき狂いつつ拡散しはじめたのである」(『永代橋崩落』杉本苑子)
「一、十九日四ツ半時、怪我人五十人と聞へし、駕籠が一丁、日傘は沢山ながれしとなり。八つ半時八十人、夕方百八十人といへり。一、廿日朝、三百人余、内女八十人余、同日佃島辺にて揚げ候人、七十余人となり、いずれ両日にて四百人程と申候」(『夢の浮橋』太田南畝)
『夢の浮橋』の著者、大田南畝は、狂歌師、戯作者として有名な蜀山人その人である。「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」。彼はまた幕府の勘定方役人でもあり、この惨事をたまたま船の上から見ていた。『夢の浮橋』には、惨事に関わる人間模様が列挙されている。週刊誌の遊軍ライターやテレビの芸能リポーター顔負けの人間臭い事件記事で、身分を生かして官の内部情報をすっぱ抜く特ダネもある。杉本苑子の『永代橋崩落』は8話の短編集だが、ネタ元は『夢の浮橋』ではないか。同じく『夢の浮橋』から発想を得たのではないかと思われるのが、落語「永代橋」。
主人公は露天古着屋の太兵衛さんと同居人の小間物屋・武兵衛さん。
今日は深川八幡のお祭り。武兵衛は太兵衛に留守番を頼み出かけてゆく。永代橋に来かかると大変な人ごみ。どんとぶつかって来たものがいる。
「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」懐を確かめると紙入れがない。すられたが後の祭。
とぼとぼと引き返す途中、ばったり出会ったのが贔屓の旦那。旦那にご馳走になっていると表が騒がしい。永代橋が落ちて大騒ぎだという。すりにやられてなければ、今頃は俺もと真っ青に。
一方、太兵衛は、行ったきり帰ってこない武兵衛を心配していると番所から武兵衛が橋から落ちて死んだので遺体を引き取りに来いとのお達し。家を飛び出したとたん、帰って来た武兵衛とばったり。
「言わねえこっちゃねえ、おめえは溺れ死んだんだから一緒に遺体を引き取りに行くぞ」。「おい、きた」と一緒に番所に乗り込んだ。死体を前に「これはあたいじゃねえ」と言う武兵衛の背中を太兵衛がポカリ。揉めていると役人が紙入れを突きだした。紙入れの書付からスリを武兵衛と勘違いしていたらしい。
「早合点して背中をぶちやがってがまんならねえ。お役人様、どっちが悪いかお裁きを」「いくら言ってもお前は勝てん」「なぜ」「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」
それにしても大惨事をネタに笑い飛ばすとは、懐の深い世の中だったものだ。 
 
江戸繁昌記・寺門静軒無聊伝

 

佐藤雅美 寺門静軒は江戸時代の儒学者。江戸後期に生まれる。江戸駿河台に克己塾を開き、著書の「江戸繁昌記」がベストセラーとなるものの、風俗を乱すものとして水野忠邦による天保の改革によって、江戸追放となり、各地を流転する。これを審議したのが鳥居耀蔵だった。本書はその「江戸繁昌記」の内容を解説しながら、静軒の人生を紹介している伝記小説である。「江戸繁昌記」は巻数でいうと一巻から五巻まであるようで、本書では主として、一巻と二巻を紹介している。とくに一巻目の比重が高い。恐らく、一番面白いのが一巻なのだろう。この「江戸繁昌記」は漢文調で書かれているので、漢文調のままだと読みづらい。そこで、本書では現代文訳も載せており。両方をあわせて読むことが出来、読みやすくもなっている。戦前から活躍していた歴史小説、時代小説作家はこうした漢文調や古文調のものを文中に織り込む場合、原文をそのまま載せ、注釈や現代文訳などを付けることはなかった。だが、平成に入ってから活躍している歴史小説、時代小説作家はこうした注釈や現代文訳をつけることが多い。原文そのままだと読みづらいということもあるだろうが、読めないという人もいるので配慮しているという側面もあると思う。時代の流れとともに、その時代の教育がどういうものだったかがが、こうしたところからも伺えるのが面白い。

寺門静軒は肘枕で洒落本をめくっていてひらめくものがあった。漢文はいかめしい、だが、この漢文で身辺の卑俗な出来事を表現するということが百年前の享保の頃試みられたことがある。意外に、そこに滑稽や諧謔というものが滲み出た。そこで、洒落本を漢文戯作に「翻訳(ヤキナオシ)」したらどうだろう。
題は、江戸という大都会のありさまを書いた「江戸繁昌記」。これだ。
――水戸から那珂川をさかのぼることおよそ五里のところに石塚という村がある。広大な田畑と屋敷を有する寺門という姓の郷士がいた。この家系に生まれたのが静軒だが、妾の子である。だから常陸石塚の縁者は知らない。
この縁者の中に異母兄の寺門弥八郎勝躬がいる。勝躬は軟弱で享楽にふけるところがあり、宮仕えに耐えられなくなり、水戸家を出奔している。
その勝躬が静軒をたずね、金の無心をしてきた。静軒は父が買ってくれた御家人株を売り、その半分を兄に貸し与えた。これで、静軒は浪人となる。
剣術の腕は今ひとつ。それに剣術で食うのは学問で食うより難しい。そこで静軒は学問で身を立てようと腹をくくっていた。だが、学問でも生計を成り立たせるのは難しかった。
――静軒は江戸の繁栄の裏に貧困ありで、矛盾に満ちており、矛盾を矛盾として認めなければ江戸の繁栄、繁華、繁昌の様子を描くことが出来ないことを知りながらもそれを認めたくなかった。その一方で、「江戸繁昌記」では儒者を論難罵倒しつくした。
本を書きながら、静軒は狙いがぴたりと当たっていることを確信していた。漢籍を読む力のあるものなら、この著者は何ものかと注視するにちがいない。
そう思っている中、兄の勝躬が水戸家で新政が行われるという話をしてきた。
徳川斉昭は英邁の君だという。静軒はこれこそ天の采配だと思った。さっそく兄に仕官するための口利きをしてくれと頼む。
だが、水戸家には水戸学という独特の学問があり、静軒のような儒者は必要としていなかった。そのことを知らずに静軒は必死の仕官運動をした。だが、結果的には静軒にとって屈辱的なもので終わった。
――仕官に失敗した直後に今度は兄が嫁の話をもってきた。押し切られるかたちで静軒は結婚することになった。
静軒は「江戸繁昌記」を自費出版することにした。版元も出版を渋る「江戸繁昌記」だったが、インテリのプライドを揺すぶり、一冊二冊と売れていった。
この売れ行きのよさに、別の板元から出版の話が来た。「江戸繁昌記」の第二篇を頼むというのだ。
さっそくに執筆を開始して出来上がったが、板元はおもしろくないという。第一篇のときのような毒がないというのだ。それは静軒も感じていた。そこで書き直し、第二篇を出版することにした。二篇も出足は好調だった。 
 
大江戸お寺繁昌記

 

安藤優一郎 江戸の町は70%が武家町で、15%が寺社町、15%が町人町だった。武家町は江戸城を囲むようにして展開し、町人町は東側に位置した。寺院と神社を比べると寺院の勢力が強く、大半は寺院の境内地だった。今でいう、台東区と港区に寺院が多かった。それぞれに巨大な寺院があったためによる。江戸時代の寺院の総数は分からないらしいが、江戸開幕以来、激増していく。江戸中期の人口は100万人を超えていたが、町人の人口が50万人を超えていた。江戸は巨大なマーケットであったため、寺院は経営基盤の強化に余念がなかった。それは江戸を地盤とする寺院だけでなく、地方の寺院もそうだった。地方の寺院は秘仏を江戸に運んで「出開帳」を行ってお布施を集めた。成田山などはその成功例である。成田山が出開帳を行った動機は借財の返済だった。本堂の建立費などである。これが成功したのは、江戸歌舞伎の初代市川団十郎のバックアップによった。有名人による宣伝が功を奏したのだ。有名人というとこの時代、将軍に勝る人物はいない。これで知名度を上げたのが川崎大師だった。十一代将軍徳川家斉の前厄の時、山主が急死する。これが身代わりに死去したとなり、江戸っ子の評判となる。将軍家の菩提寺は二つある。芝増上寺と上野寛永寺である。もともとは増上寺が菩提寺だったが、あとから寛永寺も菩提寺になる。必然、将軍の逝去に伴ってどちらが菩提寺になるかで争いが起きる。なぜなら、莫大な金が落ち続けるからである。徳川家のバックアップというと、無視できないのが大奥との関係である。大奥が造ったお寺として最も有名なのが、護国寺である。五代将軍綱吉を産んだ桂昌院の後押しがあったのだ。この大奥の力が最も発揮されたのが、「日蓮宗」感応寺の復活であった。十一代将軍家斉の時代だが、家斉が死去して後ろ盾を失うと、廃寺に追い込まれる。江戸の寺院には多くの「葵の紋所」が入った品が納められているが、これは将軍家を意味しているわけではない。大奥からの寄進物にも「葵の紋所」が入っていたのだ。将軍家や大奥とのつながりが強いと多額の助成を受けられたのだが、やがて幕府に財源がなくなっていくと、寺院への歳出カットが始まるようになる。そこで認められるようになったのが、幕府お墨付きの募金活動である「御免権化」である。幕府の懐は直接痛まない制度だった。富突興行という現在でいう宝くじも同じような効果をもたらした。富突興行は江戸中期までは宝泉寺と感応寺の二つに限られていたが、規制緩和がされる。これで江戸の三富といわれる感応寺、湯島天神、目黒不動が誕生する。だが、富突興行も天保十三(一八四二)に全面的禁止になる。天保の改革の一環だ。寺院は金融業にも手を出している。これは珍しいことではなかった。だが、寺院にしても貸金の回収はスムーズにいっていたわけではない。訴訟沙汰も結構多かった。境内スペースというのは江戸っ子にとっての歓楽街であった。それが巨大であればある程、歓楽街の形成が進んでいった。浅草寺を見ると、安永九年(一七八〇)には境内に二六三もの店があった。芝居小屋や見世物小屋なども多かった。浅草寺だけで二万人以上を養っていたことになるという。人口百万の都市で、浅草寺だけで雇用の2%(町人の人口でいえば4%)を占めたわけだから、そのほかの寺院も考えると江戸時代における寺院の経済活動に与える影響は大きかった。境内に人が集まると、そこから有名人が生まれることも多くなる。有名な美女として「笠森のお仙」などがその代表例である。意外なことに、江戸で通行人が土下座の必要があったのは徳川姓の大名行列だけだったという。それ以外はしなくて良かった。例外は寛永寺門主の登場行列で、寛永寺の住職は徳川御三家と同格を意味した。最後に。題名は江戸時代のベストセラーである寺門静軒の「江戸繁昌記」からとったであろうことはすぐに推測される。 
 
北斎と幽霊 国枝史郎

 


文化年中のことであった。
朝鮮の使節が来朝した。
家斉いえなり将軍の思おぼし召しによって当代の名家に屏風を描かせ朝鮮王に贈ることになった。
柳営絵所えどころ預りは法眼狩野融川かのうゆうせんであったが、命に応じて屋敷に籠もり近江八景を揮毫きごうした。大事の仕事であったので、弟子達にも手伝わせず素描から設色まで融川一人で腕を揮ふるった。樹木家屋の遠近濃淡漁舟人馬の往来坐臥、皆狩野の規矩に準のっとり、一点の非の打ち所もない。
「ああ我ながらよく出来た」
最後の金砂子きんすなごを蒔まきおえた時融川は思わず呟つぶやいたが、つまりそれほどその八景は彼には満足に思われたのであった。
老中若年寄りを初めとし林はやし大学頭だいがくのかみなど列座の上、下見の相談の催おされたのは年も押し詰まった師走しわすのことであったが、矜持きんじすることのすこぶる高くむしろ傲慢ごうまんにさえ思われるほどの狩野融川はその席上で阿部あべ豊後守ぶんごのかみと争論をした。
「この八景が融川の作か。……見事ではあるが砂子が淡うすいの」
――何気なく洩らした阿部豊後守のこの一言が争論の基で、一大悲劇が持ち上がったのである。
「ははあさようにお見えになりますかな」融川はどことなく苦々にがにがしく、「しかしこの作は融川にとりまして上作のつもりにござります」
「だから見事だと申している。ただし少しく砂子が淡うすい」
「決して淡くはござりませぬ」
「余の眼からは淡く見ゆるぞ」
「はばかりながらそのお言葉は素人評かと存ぜられまする」
融川は構わずこういい切り横を向いて笑ったものである。
「いかにも余は絵師ではない。しかしそもそも絵と申すものは、絵師が描いて絵師が観る、そういうものではないと思うぞ。絵は万人の観るべきものじゃ。万人の鑑識めがねに適かなってこそ天下の名画と申すことが出来る。――この八景砂子が淡い。持ち返って手を入れたらどうじゃな」
満座の前で云い出した以上豊後守も引っ込むことは出来ない。是が非でも押し付けて一旦は自説を貫かねば老中の貫目かんめにも係わるというもの、もっとも先祖忠秋ただあき以来ちと頑固に出来てもいたので、他人なら笑って済ますところも、肩肘張って押し通すという野暮な嫌きらいもなくはなかった。
狩野融川に至っては融通の利かぬ骨頂で、今も昔も変わりのない芸術家気質かたぎというやつであった。これが同時代の文晁ででもあったら洒落しゃれの一つも飛ばせて置いてサッサと屏風を引っ込ませ、気が向いたら砂子も蒔こう厭なら蒔いたような顔をして、数日経ってから何食わぬ態ていでまた持ち込むに違いない。いかに豊後守が頑固でも二度とは決してケチもつけまい。
「おおこれでこそ立派な出来。名画でござる、名画でござる」などと褒めないものでもない。
「オホン」とそんな時は大いに気取って空からの咳せきでもせいて置いてさて引っ込むのが策の上なるものだ。
それの出来ない融川はいわゆる悲劇の主人公なのでもあろう。
持ち返って手入れせよと、素人の豊後守から指図さしずをされ融川は颯さっと顔色を変えた。急せき立つ心を抑えようともせず、
「ご諚じょうではござれどさようなこと融川お断わり申し上げます! もはや手前と致しましては加筆の必要認めませぬのみかかえって蛇足と心得まする」
「えい自惚うぬぼれも大抵にせい!」豊後守は嘲笑あざわらった。「唐もろこし徽宗きそう皇帝さえ苦心して描いた牡丹の図を、名もない田舎の百姓によって季節外れと嘲られたため描き改めたと申すではないか。役目をもって申し付ける。持ち返って手入れ致せ!」
老中の役目を真っ向にかざし豊後守はキメ付けた。しかし頑かたくなの芸術家はこうなってさえ折れようとはせず、蒼白の顔色に痙攣する唇、畳へ突いた手の爪でガリガリ畳目を掻きながら、
「融川断じてお断わり。……融川断じてお断わり。……」
「老中の命にそむく気か!」
「身不肖ふしょうながら狩野宗家、もったいなくも絵所預り、日本絵師の総巻軸、しかるにその作入れられずとあっては、家門の恥辱にござります!」
彼は俄然笑い出した。
「ワッハッハッハッこりゃ面白い! 他人ひとに刎ねられるまでもない。自身みずから出品しないまでよ。……何を苦しんで何を描こうぞ。盲目めくら千人の世の中に自身みずから出品しないまでよ!」
融川はつと立ち上がったが見据えた眼で座中を睨む……と、スルスルと部屋を出た。
一座寂然と声もない。
ひそかに唾を呑むばかりである。
その時日頃融川と親しい、林大学頭が膝行にじり出たが、
「豊後守様まで申し上げまする」
「…………」
「狩野融川儀この数日来頭痛の気味にござりました」
「ほほうなるほど。……おおそうであったか」
「本日の無礼も恐らくそのため。……なにとぞお許しくだされますよう」
「病気とあれば是非もないのう」
――ちと云い過ぎたと思っていたやさきとりなす者が出て来たので早速豊後守は委せたのであった。――
しかしそれは遅かった。悲劇はその間に起こったのである。

ちょうど同じ日のことであった。
葛飾北斎は江戸の町を柱暦はしらごよみを売り歩いていた。
北斎といえば一世の画家、その雄勁の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺あたりの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃はやされているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨みじめなものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府用達ようたし鏡師かがみしの子。中島または木村を姓とし初め時太郎後のち鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋たずね、さらに雪舟、土佐に遡さかのぼり、明人みんじんの画法を極むるに至れり」
云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場なんばが来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃こめびつの方にも離れたのである。
彼はある時には役者絵を描きまたある時には笑絵わらいえをさえ描いた。頼まれては手拭いの模様さらに引き札の図案さえもした。それでも彼は食えなかった。顔を隠して江戸市中を七色唐辛子を売り歩いたものだ。
「辛い辛い七色唐辛子!」
こう呼ばわって売り歩いたのである。彼の眼からは涙がこぼれた。
「絵を断念して葛飾かつしかへ帰り土を掘って世を渡ろうかしら」――とうとうこんなことを思うようになった。
やがて師走しわすが音信おとずれて来た。
暦が家々へ配られる頃になった。問屋といやへ頼んで安くおろして貰い、彼はそれを肩に担ぎ、
「暦々、初刷り暦!」
こう呼んで売り歩いた。
「暦を売って儲けた金でともかくも葛飾へ行って見よう。名主の鹿野紋兵衛様は日頃から俺わしを可愛がってくださる。あのお方におすがりして田地を貸して頂こう。俺には小作が相応だ」
ひどく心細い心を抱いて、今日も深川の住居から神田の方までやって来たが、ふと気が付いて四辺あたりを見ると、鍛冶橋狩野家の門前である。
「南無三宝、これはたまらぬ」
あわてて彼は逃げかけた。しかし一方恋しさもあって逃げ切ってしまうことも出来なかった。向かいの家の軒下へ人目立たぬように身をひそめ、冠った手拭いの結びを締め、ビューッと吹き来る師走の風に煽られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっと門内を隙すかして見たが、松の前栽に隠されて玄関さえも見えなかった。
「別にご来客もないかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも御殿へお上がりか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば俺もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご薫陶を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、宇都宮の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た錆さびでこのありさま。思えば恥ずかしいことではある」
述懐めいた心持ちで立ち去り難く佇たたずんでいた。
寛政初めのことであったが、日光廟修繕のため幕府の命を承わり狩野融川は北斎を連れて日光さして発足した。途中泊まったのは蔦屋つたやという狩野家の従来の定宿であったが、余儀ない亭主の依頼によってほんの席画の心持ちで融川は布へ筆を揮ふるった。童子どうじ採柿さいしの図柄である。雄渾の筆法閑素の構図。意外に上出来なところから融川は得意で北斎にいった。
「中島、お前どう思うな?」
「はい」と云ったが北斎はちと腑に落ちぬ顔色であった。「竿が長過ぎはしますまいか」
「何?」と融川は驚いて訊く。
「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられます」憚はばからず所信を述べたものである。
矜持きんじそのもののような融川が弟子に鼻柱を挫かれて嚇怒かくどしない筈がない。
彼は焦いらってこう怒鳴った。
「爪立ちするは大人の智恵じゃわい! 何んの童子が爪立とうぞ! 痴者たわけものめが! 愚か者めが!」

しかし北斎にはその言葉が頷き難く思われた。「爪立ち採るというようなことは童子といえども知っている筈だ」――こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。この執念しゅうねい沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。
「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと佇んでいたが、寒さは寒し人は怪しむ、意を決して歩き出した。
ものの三町と歩かぬうちに行く手から見覚えある駕籠が来た。
「あああれは狩野家の乗り物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様子をお伺がいすることにしよう」
――北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺めやった。
今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時なくさっきから隙ひまなく降り続いたためか、往来みちは仄ほのかに白み渡り、人足絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠がやって来た。
今北斎の前を通る。
と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴したたるものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は紅くれないと一変した。
「あっ」
と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、
「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」
グイと棒鼻を突き返した。
「狼藉者!」と駕籠側わきにいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の柄へ手を掛けて、颯さっと前へ躍り出した。
「何を痴たわけ! 迂濶者めが! お師匠の一大事心付かぬか! おろせおろせ! えい戸を開けい」
北斎の声の凄じさ。気勢に打たれて駕籠はおりる。冠った手拭いかなぐり捨て、ベッタリと雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。
「お師匠様。……」と忍び音に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。
融川は俯向き首垂うなだれていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で紅斑々こうはんはん、呼息いきを刻む肩の揺れ、腹はたった今切ったと見える。
「無念」と融川は首を上げた。下唇に鮮やかに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡である。……額にかかる鬢の乱れ。顔は藍あいより蒼白である。
「そ、そち誰だ? そち誰だ?」
「は、中島めにござります。は、鉄蔵めにござります……」
「無念であったぞ! ……おのれ豊後!」
「お気を確かに! お気を確かに!」
「……一身の面目、家門の誉れ、腹切って取り止めたわ! ……いずれの世、いかなる代にも、認められぬは名匠の苦心じゃ!」
「ごもっともにござります。ごもっともにござります!」
「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」
「お屋敷近くの往来中……薬召しましょう。お手当てなさりませ」
「無念!」と融川はまた呻いた。
「駕籠やれ!」と云いながらガックリとなる。
はっと気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。
「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」
変死とあっては後がむつかしい。病気の態ていにしたのである。
ちらほらと立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。
この時ばかりは彼の姿もみすぼらしいものには見えなかった。
その夜とうとう融川は死んだ。
この報知しらせを耳にした時、豊後守の驚愕は他よその見る眼も気の毒なほどで、怏々おうおうとして楽しまず自然勤務つとめも怠おこたりがちとなった。
これに反して北斎は一時に精神こころが緊張ひきしまった。
「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧かえりみなかったのは大丈夫でなければ出来ない所業しわざだ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠おぎゅうそらいは炒豆いりまめを齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活きられる。……葛飾へ帰るのは止めにしよう。やはり江戸に止どまって絵筆を握ることにしよう」
――大勇猛心を揮い起こしたのであった。

こういうことがあってからほとんど半歳の日が経った。依然として北斎は貧乏であった。
ある日大店の番頭らしい立派な人物が訪ねて来た。
主人の子供の節句に飾る、幟のぼり絵を頼みに来たのである。
「他に立派な絵師もあろうにこんな俺わしのような無能者やくざものに何でお頼みなさるのじゃな?」
例の無愛相な物云い方で北斎は不思議そうにまず訊ねた。
「はい、そのことでございますが、私所ところの主人と申すは、商人あきゅうどに似合わぬ風流人で、日頃から書画を好みますところから、文晁先生にもご贔屓ひいきになり、その方面のお話なども様々承わっておりましたそうで、今回節句の五月幟さつきのぼりにつき先生にご意見を承わりましたところ、当今浮世絵の名人と云えば北斎先生であろうとのお言葉。主人大変喜ばれまして早速私にまかり越して是非ともご依頼致せよとのこと、さてこそ本日取急ぎ参りました次第でござります」
「それでは文晁先生が俺わしを推薦くだされたので?」
「はいさようにござります」
「むう」とにわかに北斎は腕を組んで唸り出した。
当時における谷文晁は、田安中納言家のお抱え絵師で、その生活は小大名を凌ぎ、まことに素晴らしいものであった。その屋敷を写山楼しゃざんろうと名付け、そこへ集まる人達はいわゆる一流の縉紳しんしんばかりで、浮世絵師などはお百度を踏んでも対面することは困難むずかしかった。――その文晁が意外も意外自分を褒めたというのだからいかに固陋ころうの北斎といえども感激せざるを得なかった。
「よろしゅうござる」と北斎は、喜色を現わして云ったものである。
「思うさま腕を揮いましょう。承知しました、きっと描きましょう」
「これはこれは早速のご承引しょういん、主人どれほどにか喜びましょう」
こういって使者つかいは辞し去った。
北斎はその日から客を辞し家に籠もって外出せず、画材の工夫に神しんを凝らした。――あまりに固くなり過ぎたからか、いつもは湧き出る空想が今度に限って湧いて来ない。
思いあぐんである日のこと、日頃信心する柳島やなぎしまの妙見堂へ参詣した。その帰路かえりみちのことであったがにわかに夕立ちに襲われた。雷嫌いの北斎は青くなって狼狽し、田圃道を一散に飛んだ。
その時眼前の榎えのきの木へ火柱がヌッと立ったかと思うと四方一面深紅となった。耳を聾ろうする落雷の音! 彼はうんと気絶したがその瞬間に一個の神将、頭かしらは高く雲に聳え足はしっかりと土を踏み数十丈の高さに現われたが――荘厳そのもののような姿であった。
近所の農夫に助けられ、駕籠に身を乗せて家へ帰るや、彼は即座に絹に向かった。筆を呵かして描き上げたのは燃え立つばかりの鍾馗しょうきである。前人未発の赤鍾馗。紅べに一色の鍾馗であった。
これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。
彼は有名にはなったけれど決して金持ちにはなれなかった。貨殖かしょくの道に疎うとかったからで。
彼は度々住家いえを変えた。彼の移転性は名高いもので一生の間に江戸市中だけで、八十回以上百回近くも転宅ひっこしをしたということである。越して行く家越して行く家いずれも穢ないので有名であった。ひとつは物臭い性質から、ひとつはもちろん家賃の点から、貧家を選まざるを得なかったのである。
それは根岸御行おぎょうの松に住んでいた頃の物語であるが、ある日立派な侍が沢山の進物を供に持たせ北斎の陋屋ろうおくを訪ずれた。
「主人阿部豊後守儀、先生のご高名を承わり、入念の直筆頂戴いたしたく、旨むねを奉じてそれがし事本日参上致しましてござる。この儀ご承引くだされましょうや?」
これが使者の口上であった。
阿部豊後守の名を聞くと、北斎の顔色はにわかに変わった。物も云わず腕を組み冷然と侍を見詰めたものである。
ややあって北斎はこう云った。
「どのような絵をご所望かな?」
「その点は先生のお心次第にお任せせよとのご諚にござります」
「さようか」と北斎はそれを聞くと不意に凄く笑ったが、
「心得ました。描きましょう」
「おおそれではご承引か」
「いかにも入念に描きましょう。阿部様といえば譜代の名門。かつはお上のご老中。さようなお方にご依頼受けるは絵師冥利にござります。あっとばかりに驚かれるような珍しいものを描きましょう。フフフフ承知でござるよ」

その日以来門を閉じ、一切来客を謝絶して北斎は仕事に取りかかった。弟子はもちろん家人といえども画室へ入ることを許さなかった。
彼の意気込みは物凄く、態度は全然狂人きちがいのようであった。……こうして実に二十日間というもの画面の前へ坐り詰めていた。何をいったい描いているであろう? それは誰にも解らなかった。とにかく彼はその絵を描くに臨本りんぽんというものを用いなかった。今日のいわゆるモデルなるものを用いようとはしなかった。彼はそれを想像によって――あるいはむしろ追憶によって、描いているように思われた。
こうして彼は二十日目にとうとうその絵を描き上げた。
彼は深い溜息をした。そうしてじっと画面を見た。彼の顔には疲労があった。疲労つかれたその顔を歪めながら会心の笑えみを洩らした時には、かえって寂しく悲しげに見えた。
クルクルと絵絹を巻き納めると用意して置いた白木の箱へ、静かに入れて封をした。
どうやら安心したらしい。
翌日阿部家から使者が来た。
「このまま殿様へお上げくだされ」
北斎は云い云い白木の箱を使者の前へ差し出した。
「かしこまりました」と一礼して、使者はすぐに引き返して行った。
ここで物語は阿部家へ移る。
阿部家の夜は更けていた。
豊後守は居間にいた。たった今柳営のお勤め先から自宅へ帰ったところであってまだ装束を脱ぎもしない。
「北斎の絵が描けて参ったと? それは大変速かったの」
豊後守は満足そうに、こう云いながら手を延ばし、使者に立った侍臣金弥から、白木の箱を受け取った。
「どれ早速一見しようか。それにしても剛情をもって世に響いた北斎が、よくこう手早く描いてくれたものじゃ。使者の口上がよかったからであろうよ。ハハハハハ」とご機嫌がよい。
まず箱の紐を解いた。つづいて封じ目を指で切った。それからポンと葢ふたをあけた。絵絹が巻かれてはいっている。
「金弥、燈火あかりを掻き立てい。……さて何を描いてくれたかな」
呟きながら絵絹を取り出し膝の前へそっと置いた。
「金弥、抑えい」と命じて置いて、スルスルと絵絹を延べて来たが、延べ終えてじっと眼を付けた。
「これは何んだ?」
「あっ。幽霊!」
豊後守と金弥の声とがこう同時に筒抜けた。
「おのれ融川!」と次の瞬間に、豊後守の叫び立てる声が、深夜の屋敷を驚かせたが、つづいて「むう」という唸うなり声、……どんと物の仆れる音。……豊後守は気絶したらしい。
幽霊といえば応挙を想い、応挙といえば幽霊を想う。それほど応挙の幽霊は有名なものになっているが、しかし北斎が思うところあって豊後守へ描いて送った「駕籠幽霊」という妖怪画はかなり有名なものである。
白皚々はくがいがいたる雪の夕暮れ。一丁の駕籠が捨てられてある。駕籠の中には老人がいる。露出した腸はらわた。飛び散っている血汐。怨みに燃えている老人の眼! それは人間の幽霊でありまた幽霊の人間である。そうしてそれは狩野融川である。
「そうです私は商売道具で、つまり絵の具と筆と紙とで、師匠の仇を討とうとしました。豊後守様が剛愎でも、あの絵を一眼ごらんになったら気を失うに相違ないと、こう思ってあの絵を描いたのでした。私の考えはあたりました。思惑おもわく以上に当たりました。あれから間もなく豊後守様はお役をお退きになられたのですからね。私は溜飲を下げましたよ。そうして私は自分の腕を益々信じるようになりましたよ。しかし私は二度と再び幽霊の絵は描きますまい。何故なぜとおっしゃるのでございますか? 理由わけはまことに簡単です、たとえこの後描いたところで到底あのような力強い絵は二度と出来ないと思うからです」
これは後年ある人に向かって北斎の洩らした述懐である。 
 
正雪記

 

山本周五郎 慶安四年(一六五一)に由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし駿府にて自害した由井正雪を主人公とした小説。駿府に生まれ、紺屋のせがれという説もあるが、はっきりとしたことは分かっておらず、事件以前の半生は詳しくは分かっていないらしい。この小説では、由比の染め物職人の息子として設定しており、幼少期からの前半生を、当時起きた事件などを織り込んで進めている。幕府の転覆をもくらんだとされる由井正雪だが、本書ではその説を採用していない。むしろ、浪人が増えすぎたことによる政情不安定を一掃するために、時の権力者の松平信綱がでっち上げた事件という見方に近いかもしれない。それより、本書の由井正雪は、浪人救済のための具体的な施策を模索する姿が強く描かれている。「...(略)...浪人たちが人間らしく生きてゆけるように、幕府の政策の改廃とかれらに生業を与えることを仕事にしてゆくつもりです」という点でもその姿勢が鮮明である。本書での正雪は具体的な施策をもっているのだが、それがどういうものなのかは本書を読んでのお楽しみである。さて、正雪が浪人救済を考えるようになったのは、正雪が江戸に来たばかりの頃に見たある浪人の姿があった。その浪人は次のように叫ぶ。「侍だって人間に変りはない、侍だって妻子を食わせなければならない、浪人して扶持にはなれれば、たとえ人足をしても侍だって生きてゆかなければならない、そうじゃないだろうか」と彼は悲鳴のように叫び続けた。「天下が泰平と定まってから、武家では人減らしをするばかりだ、次から次へと大名が潰される、扶持にありつく望みのない浪人が殖えるばかりだ、独り者はまだいいとしても、妻子ある者はどうしたらいいのか、扶持にありつけない、人足稼ぎもできないとしたら、いったいどうして生きていったらいいのか、妻子を抱えたまま死んでしまえとでもいうのだろうか」こうした浪人が多かった時代なのである。福島、加藤、蒲生という大名が潰され、浪人があふれかえり、徳川政権がようやく定まりかけているが、不満がたまってきている時代であった。天草では島原の乱があり、徳川政権に少なからず動揺を与えている。ちなみに、本書では、島原の乱は宗教戦ではなく、領主松倉氏の暴政に対する百姓一揆と見ている。本書のように、江戸時代の初期を描いた小説というのは少なく、当然その当時の町並みや風俗を描いているというのも少ない。だから、本書で描かれているものは興味を惹くものが多かった。寛永元年の頃、主要な表通りには商家が軒を並べており、店は少なくなかったが、横丁や路地裏の家は板葺きの狭くて小さい長屋建てが多く、下町では埋立地のため至る所に空き地があり、葦が生え、水のたまった湿地があった。時代小説などではおなじみの本所や深川あたりのことであろう。そして、風俗もまだ質素で、着物はたいてい麻か葛布で、木綿は高価だった。冬になると男は革足袋に河の打掛、革の袴というのが贅沢とされていた。女は紫革の足袋が流行で、帯は細く鯨尺で幅は二寸くらい、芯は紙であった。礼服の場合、もっと細いのをこの帯の後ろに結んで垂らし、付け帯といったそうだ。金襴を最上とし、黒地に梅桜松など織出したのを鉢の木帯といって、婦人たちにもてはやされたこともあったという。

大阪の戦いが終わって十年そこそこの頃。由比の染め物職人の息子・小太郎は同じ名前の少年とその父親とあることがあり出会うが、やがて分かれることになった。
小太郎は久米と名を変え、細工師だという又兵衛に頼んで江戸に連れて行ってもらうことにした。
久米は石川主税助という浪人のもとで楠木流兵学の講義を聴き、他にも勉強を続けた。久米が江戸に来たのは侍になるためであった。
だが、生きるために足かけ四年日雇い稼ぎをして暮らした。そして、めざましく発展していく街の様子や、没落し繁栄していく人たちの生活を見た。特に貧しい人たちや没落して浮かび上がる希望のない人たちの中で、その嘆きや絶望の声を聞いた。
やがて、久米は石川主税助のところに身を寄せ、元服して久米与四郎と名乗ることになる。
主税助にははんという娘がいた。与四郎ははんに心惹かれるものがあった。
石川家に思いがけない来客があった。紀伊家から呼ばれたのだ。主税助の代理として与四郎が向かったが、ここで与四郎は付家老の安藤帯刀から一喝されほうほうの体で逃げ帰ってしまう。
このことがあって、与四郎は旅に出て修行することにした。
二年放浪し、木曾へ入った時のこと。勾坂喜兵衛という男と味平兵庫という浪人と知り合う。
勾坂喜兵衛が熱心に自分の家に寄ってくれというので、与四郎と味平兵庫はしばらく滞在することにした。ここで、与四郎は喜兵衛の妹・小松と出会う。
ある日小松が与四郎を言い伝えのある洞窟へと連れ出した。
与四郎は洞窟の中から必死に出ようとして、気がついたら山小屋の中にいた。助かったのだ。山小屋の主は勘次といった。
勘次は紫金洞という洞窟を探しているという。それは勾坂家に伝わる埋蔵金の伝説である。そして、この伝説は本当であったことを与四郎は知る。
江戸では石川主税助が亡くなった。はんは移り住み、近所の子女に手習いを教え初めた。
西の方では肥前の天草で切支丹の暴徒が謀叛の旗揚げをしたという話が伝わってきた。
この戦場に与四郎はいた。ここで与四郎は味平兵庫、勾坂喜兵衛、金井半兵衛らに再会する。そして丸橋忠也という男とも出会う。
この戦場には浪人が数多くいた。徳川の天下になり、次々と大藩が潰されている中、浪人の数は増える一方である。仕官の道は厳しく、こうした戦場はまさに千載一遇の好機といえた。
そこで、与四郎は三軍の総帥である松平信綱にひそかに会い、ある進言をする。
はんは金座の後藤家の分家である銭座の肝煎をしている後藤庄之助の息子・庄三郎の嫁にとこわれた。だが、はんは断った。与四郎がいたからだ。
島原の合戦は、幕府の軍勢が大勝したという報知があり、市中は活気だったいた。
与四郎は島原から信濃にやってきた。島原での他の仲間とははぐれてしまった。特に気になったのは丸橋忠也であった。
その忠也と再会したのは、与四郎が泉州堺へ行く途中でのことだった。
再会を果たして、与四郎は忠也に生い立ちからの全てを話した。そして、二人は意外な因縁があったことを知り驚く。
江戸では大火があり、はんは後藤庄三郎のおかげで難を逃れた。だが、庄三郎には生涯消えない傷が残り、はんは償いをしなければならないと思うようになる。そして、はんは、与四郎を思い続けた自分は大火で死んだのだと思うようになった。
そんなはんが西丸御殿にあがることになった。そして、この頃には、与四郎は正雪と名を変え江戸にいた。 
 
かぶき大名

 

海音寺潮五郎 豪快・豪傑の人物を扱っている。よくもまぁ、これだけ沢山の頑固者、偏屈者がいたもんだと思ってしまう。最初の「かぶき大名」が約一五〇ページと長く、中編といってよい。この水野藤十郎勝成は、とんでもなく気の荒い武者である。が、多年の流浪の間に広く世を見て、多くの人に接してきたせいもあり、徳川家帰参の折りには思いやり深い名君といってもよい人柄になっていた。人も長く生きれば丸くなるということであろうが、それでも歌舞伎興行を行うなど豪快さは変わらなかった。「乞食大名」の鮭延越前は己の我を通して、乞食の身に甘んじているが、ある出来事が起きて、その我を通すことを止める。それは、自分を慕ってきている家臣が迷惑をするという事に気が付いたからである。この決断は見事である。この心境の変化は物語の最後に書かれているが、この描写がまた泣かせる。「阿呆豪傑」では信玄をして、「人間じゃと思えばこそ腹も立とうが、忠義な狩犬じゃと思えばかんにんならぬことはあるまい。」と言わしめた曲淵勝左衛門が主人公。武田家に使えている三十八年間に、七十四度も人と争論して訴訟沙汰を起こしている。そして勝ったのはわずか一回。示談が一回。のこり七十二回は敗訴。典型的なトラブルメーカーである。今の世の中にいたら、迷惑千万な人物であろう。「戦国兄弟」の岡田庄五郎義同が加藤清正に仕えていたときのエピソードが可笑しい。清正が普請作業の慰労のために席を設けた際、岡田庄五郎義同が労働着で出席し、清正から叱責を受けた。翌日から、普請場で長上下をつけ、シャナリシャナリと歩きながら指揮をする。人々が「異なお姿で」とあきれていると、「ごぞんじないか、礼儀と申すものでござるそうな」。人を食っているというか、偏屈者の典型であるが、こういう人物でも、すぐれた吏才があったというから不思議である。「男一代の記」の中馬大蔵の人を食ったような受け答えも可笑しい。義弘が村で見た娘の名と身分を大蔵に聞きにいかせ、その報告を受けたときのこと、義弘が見たのは「拙者の妻でごわした」「そちの妻?そちはまだ独り身ではないか」「今日唯今もらいもした」「誰のことわってもろうた」「これよりお届けしようと思っているのでごわす...」。この後の人生も豪快である。そして、死に方も豪快であり爽快でもある。

かぶき大名 / 水野藤十郎勝成。十六にして初陣を飾り、その年齢の少年の武功としては稀有な活躍をみせた。度々の戦場働きにも活躍したが、おそろしく気の荒い人間となっていった。甲斐信濃を巡る北条との争い、小牧長久手の戦いでもその武功は優れていた。だが、この小牧長久手の戦いの後のこと、藤十郎は家臣を斬ってしまう。父の怒りが恐ろしかった藤十郎は家康に泣きついたが、父の怒りはおさまらず、浪人の身となった。藤十郎は京へと向かった。そして、羽柴家に奉公する。だが、喧嘩を理由に人を斬り、再び浪人する。その後は、肥後の佐々家、佐々の死後は小西行長、次には加藤清正、そして黒田長政と主を変えていく。おそらくいずれも喧嘩による刃傷沙汰によって家にいられなくなったためであろう。黒田家も長くは続かず、再び浪人する。その中で、毛利家被官の三村家の姫に一目惚れしてしまう。その姫が為に、藤十郎は三村家に奉公する。やがて、藤十郎はその姫・お才と忍び逢う仲になる。この頃に、太閤秀吉が亡くなった。
日もすがら大名 / 肥前島原でおきたキリシタン一揆征伐の陣見舞いに方々から使者がやってきた。その中に内藤帯刀の家臣・土方大八郎がいた。ある夜、一揆方が大仕掛の夜討を行ってきた。諸家の使者も勇敢に戦った。とりわけ、土方大八郎の働きはめざましかった。だが、この戦いで土方大八郎は戦死する。この報告は諸家の使者を通じて、内藤家にもたらされた。そして、しばらくしてから、土方大八郎の遺書が主君・内藤帯刀忠興に届いた。そこに書かれていたのは、意外なことであった...
乞食大名 / 寛永元年。一団の武士が江戸に出てきて下谷不忍池の岸辺に住み着いた。そして、一団は乞食になった。この一団には頭領がいた。この頭領を客がたずねてきた。この客との会話で頭領が最上家随一の勇将といわれた鮭延越前である事が分かった。鮭延越前がこの様な身分になったのは、最上家のお家騒動のためである。当時の主君・最上義俊が愚妹のため様々な問題を起こし、ついにはお家取り潰しとなってしまったのである。
阿呆豪傑 / 武田家の老臣・板垣信方の草履取りなどをしていた曲淵勝左衛門。強いことは途方もなく強いが、頭がまるでなく、人並みな挨拶さえ出来ないので、士分に取り立てられることがなかった。だが、本人には不満はない。だが、後に戦功著しく、信玄により士分に取り立てられる。しかし、もともとがもともとである、方々で軋轢を生み、問題を引き起こした。
戦国兄弟 / 信長の子・信雄は秀吉を討つ計画をしていた。その秀吉も信雄の家臣が秀吉に通じていると見せかけた謀略をはじめ、これに信雄はひっかかった。信雄は秀吉と通じていると思われる重臣三人を呼んで成敗しようと考える。その噂を聞きつけた岡田庄五郎義同は兄・岡田長門守重孝に注意を促す。しかし、岡田長門守重孝は討たれてしまい、これが小牧長久手の戦の発端となる。時は下り、岡田庄五郎義同は前田家に仕え、後に加藤家に仕官している。朝鮮役にも従軍したが、帰ってきてから、奇行が目立つようになる。
酒と女と槍と / 関白豊臣秀次が秀吉の怒りを買い、切腹させられた。秀吉への面当てのために高札が立った。富田蔵人高定が追い腹するというのだ。高定は名うての伊達者である。高定は切腹の日まで、この世との別れのために遊蕩にふけるつもりでいた。そして当日。高定は様々な人から酒を勧められ、しばし眠ってしまう。だが、このことが予想外の事態を引き起こす。秀吉からの使者が着き、切腹ならんと申し渡されてしまうのだ。しまったと思ったが時既に遅し、高定は天下一の臆病者と呼ばれながら生き続けなければならなくなってしまった。
小次郎と武蔵の間 / 佐々木小次郎が宮本武蔵に敗死した後、細川家は専門の兵法者を長いこと召し抱えなかった。だが、細川忠利は村山主水という兵法者を召し抱えた。今日、肥後に伝わる伝説では主水は稲綱使いだったそうだ。稲綱使いとは信州戸隠にある稲綱という山にある稲綱権現を信仰することによって得られる妖術を使うものをいう。この村山主水は隠居の忠興に憎まれていたようである。
男一代の記 / 島津義弘が村で見かけた娘の名と身分を中馬大蔵に聞きにいかせた。大蔵は娘・草乃に会うと、その場で嫁に貰ってしまった。帰って報告すれば、おそらく義弘のものになるだろうと思ったからである。帰って、義弘には、義弘が見たのは拙者の妻でごわしたと報告した。義弘はあきれかえってしまう。この中馬大蔵、紛れもなく豪傑の男であった。 
 
黒田騒動

 

はじめに
三大御家騒動の一つに数えられる黒田騒動(あとの2つは伊達騒動と加賀騒動)は、江戸時代初期に福岡藩黒田家で起きた騒動で、その主人公を栗山大膳という。黒田家はよく知られるように、戦国末期に黒田孝高(如水)が播磨国で豊臣秀吉に仕えてから躍進した家であった。孝高は名軍師として名を挙げ、常に秀吉の側近くにいて豊前中津12万石の大名となった。秀吉が没すると家康に即座に乗り換えて、孝高の子の長政は関ヶ原で調略でも武力でも大活躍し、家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略には扱わない」との感状を得ている。長政は関ヶ原の功で一躍筑前福岡で50万石余りを得て、国持大名となった。長政が死去すると、その子の忠之が跡を襲った。この忠之の時に黒田騒動が起きる。
一方栗山家は、まだ孝高が秀吉に仕える前に、栗山善助と名乗る若者が孝高のもとに出仕してきた家である。したがって黒田家中ではもっとも古くからの家臣であった。黒田家では栗山家のように播磨時代の取立ての家を大譜代、中津時代の取立てを古譜代、福岡に入部してからの取立てを新参と呼んで区別した。栗山善助は大譜代衆の中でももっとも黒田家に忠誠を尽くして働き、今日の黒田家あるは栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。したがって福岡入部後栗山家は家老職にあり、上座郡左右良の城を預けられ、1万5千石を得ていた。実力や能力はあまりなくとも家柄だけで重職に就ける家であり、こういう家を家柄家老という。
家柄家老というのは先祖の功績で家老になれるわけだから、後代の藩主にとっては時として煙たい存在であった。確かに表面上は感謝はすれど、かといって心底は先祖の勲功をいつまでも鼻にかけということになるのである。藩主とすればそんな家柄家老より、ある程度自分の思い通りになる重臣がほしい。また、家柄家老の能力が低く、新たに有能な重臣を据えなければ藩が持たないというケースも出てくる。こういう事情で藩主が新たに家老を取り立てる場合、そういう家老のことを仕置家老という。栗山善助は黒田孝高が有岡城で1年近く監禁されたときに、有岡城に何度も忍んで孝高と繋ぎをつけ、最後には有岡城から救い出している。また関ヶ原役前夜に大坂屋敷から孝高と長政の両夫人を脱出させて中津に送り届けている。まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。
黒田家の場合は、忠之が家柄家老の栗山大膳を忌避し、倉八十太夫なる児小姓を寵愛し、やがて仕置家老にまで取り立てた。その過程で相当ごり押し的なことをやり、それに大膳が反発し、忠之と大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪となった。お互いに譲らず、ついには大膳が忠之に謀反の気配ありと訴えでて、幕府の評定が行われる。評定の結果は、忠之は騒動を惹起したことを問題にされて所領は召し上げられたが、即日所領を宛行われ実質お咎め無し、大膳は盛岡藩南部家に預けられたが、終生150人扶持を貰うなど寛大な処分であった。大膳の訴えも策略の一環であったと伝えられている。つまり黒田騒動とは、君臣間の対立が抜き差しならなくなって起きたものであり、真の悪者はいないのである。
ただし栗山大膳に対する評価は分かれており、大忠臣というものもあれば、逆臣というものもある。ちなみに福岡藩では江戸期を通じて栗山は逆臣で栗山姓すら許されなかったという。
大膳と忠之
黒田騒動の主人公栗山大膳は、天正19年(1591年)1月に栗山備後(善助)の子として生まれた。まだ黒田家は中津にあったころである。大膳は通称であり、名は利章という。一方、大膳と対立することになる福岡藩二代藩主忠之は、慶長7年(1602年)11月9日に生まれている。忠之が誕生したのは福岡城東ノ丸にある栗山備後の邸であった。忠之が生まれたとき大膳はすでに12歳で、年齢的には元服前ではあったが、すでに2人の行く末は運命付けられていたのかもしれない。
大膳は父の備後の致仕を待たずに、元和3年(1617年)に27歳で家老職に列している。元和9年(1623年)8月に忠之の父で福岡藩祖長政が京都で没し、この年10月に忠之が正式に家督を継いだ。このとき忠之27歳、大膳は39歳で、大膳も首席家老となった。長政と備後という関ヶ原役を経験した老練なコンビから、忠之と大膳という新進のコンビにバトンタッチされ、福岡藩も名実ともに新世代となったわけだが、実際はこの新進コンビは性格からして合わなかった。
忠之は相当に問題があったらしい。苦労知らずの若殿様という形容がぴったりだというのだ。忠之の生まれたのは関ヶ原役の2年後であり、すでに黒田家は筑前の太守のなっている。ここまで黒田家を育て上げた祖父如水や父長政のことを身近に見ているわけではない。大坂の陣では出陣前に病に倒れ、結局戦闘には間に合わなかった。このとき黒田家のことを警戒した家康に仮病ではないかと疑われ、意地でも出陣したのだった。フラフラになって大坂に着いた忠之を家康も秀忠もねんごろにねぎらったというから、面目は保ったものの、参陣は形式的に終わった。長政も忠之のことを嫌った。わがままで短気で粗暴で思慮が浅いと思ったらしい。廃嫡を真剣に考えて、その弟の長興を世子にしようとした。
このとき間に入って忠之を救ったのは忠之の傅役でもあった大膳である。大膳は長政に忠之廃嫡の意志が固いと知ると、忠之を謹慎させ、同志を糾合して忠之廃嫡となれば同志一同切腹して果てると長政に申し送った。驚いたのは長政で、藩の主要な家臣が一度に切腹されては藩政は成り立たなくなるどころか、幕府に知れたらどんな咎めを受けるかわからない。やむなく忠之廃嫡の件はとりやめとなった。長興は長政の遺言で支藩である秋月藩初代を藩主となるが、忠之からはこお件で疎まれ仲はよくなかった。
ただ、一般に膾炙されるほど忠之は暗愚ではなかったらしい。たしかに長政に比べれば格段に落ちることは否めないが、三代目の馬鹿殿ではなく、事実この後の騒動における対処も見事な面もあり、騒動後は問題なく藩主としての勤めを果たしている。ただ短気であるが故に血気に逸り、さらに我が強くて好き嫌いが激しい人物ではあったらしい。長政は死去する際に忠之の将来を心配して、大膳と家老の小河内蔵允を呼んで忠之の将来を懇ろに託した。その際に関ヶ原のときの家康から感状を大膳に預け「不心得者あって取り潰されるような重大なことあれば、この感状を老中方に見せ祖先の功を申し述べて嘆願せよ。謀反以外の罪なら赦されるだろう」と語ったとされる。
さて、一方の大膳である。大膳の父備後は風格があり温厚篤実を絵に描いたような人であったというが、子の大膳は父親とはまったく違った人物であった。好学であり努力家であり責任感もあり、儒学や漢学、詩文などの教養も身につけていた。ここまでなら申し分ないのだが、得てしてこういう人間にありがちな押し付けがましく傲岸なところがあった。忠之に対しても、微に入り細に入る諌書を何度も出している。朝は早起きをせよとか、客扱いは丁寧にせよとか、しかも一々諸子百家や経書などの文句を引用して書いた。相手は主君しかも筑前一国の太守である。しかも武張った性格だから漢学や儒学の素養もない。大膳にすれば忠之のためを思ってしているだけで他意はないのだが、忠之はたまったものではない。大膳のことがだんだん疎ましくなってきた。
倉八十太夫の登場
前に書いたように家柄家老というのは藩主にとってもともと煙たいものだ。藩主の思い通りになるわけではないし、まして罷免や隠居などおいそれとはできない。ましてや大膳は一回りも年長であり、首席家老である。そうなると自分の思い通りになる仕置家老を置きたくなろのが自然で、忠之もそうした。まずは側近グループが形成される。側近グループというと聞こえはいいが、ようは忠之の我儘が何でも通る、追従者の集まりである。その中でも特に忠之の寵愛を受けたのが、倉八十太夫であった。十太夫の父を倉八長四郎といい、黒田家が中津から福岡に入る際に2百石で召抱えられた。十太夫は、はじめ忠之の小姓として上がったが、眉目秀麗であり忠之の男色の相手になった。
このころはまだ戦国の気配が色濃く残り、武士の世界も男色が流行していた。したがって十太夫が男色の相手を勤めるのは異常でもなんでもないが、忠之の傾倒ぶりは異常であった。十太夫が小姓になった頃、倉八家の加増を受けていて千5百石くらい得ていたといわれるが、十太夫が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9千石にまでなったという。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話が、いくつか伝わっている。十太夫はやがて家老職になるのだが、十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去するときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであった。
忠之はこの兜と鎧を大膳に返せと言った。黒田家にとって由緒ある宝を備後なき今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつも、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧を十太夫に下賜してしまった。十太夫も家老職にあり9千石の大身であるので、それなりの家宝も必要であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。これだけのことをやるのに大膳は一言も忠之に断らず、事件を聞いて忠之は一言も大膳にこのことを持ち出さなかったという。嵐の前の静けさのようで不気味である。
ただ、十太夫というのは巷間では俗悪な奸臣として描かれているが、事実はそうではなかったらしく、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。おそらく小姓上がりの小心な人物が思いがけなく出世し、精一杯肩肘を張って生きようしていた程度だろうし、忠之と大膳が自分を巡って対立していく構図に辟易していたに違いない。なお、この事件は俗説黒田騒動では長政の水牛の兜ということになっているが、事実は如水の兜と鎧であった。俗説ではことさら十太夫を悪玉にするために例えば大船鳳凰丸の建造も十太夫の甘言に忠之が乗せられたものとされている。
このころ幕府の許可なく大船を作ることは違法であった。それを敢えてしたというのであるが、このことは許可を受けていたともいうし、よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったのであろう。ただ鳳凰丸というのは藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであった。その罪を十太夫が着せられた可能性が高い。いずれにしても十太夫は必要以上に悪者にされているのは間違いなく、奢り高ぶったのは事実ではあるがそんなに悪い人物ではなかった。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの悪人ではないことがわかる。
君臣の対立激化
藩主と首席家老の対立、藩主が寵愛する小姓上がりの出世という騒動の条件が整ってきた。忠之と大膳の対立は激しくなるばかりで、必要なとき以外は会うこともなくなった。こんな状態に嫌気が指したのか寛永5年(1628年)に大膳は家老職の辞任を申し出た。忠之はこれを許し、大膳は所領の左右良に引きこもった。ところがこのことが幕府に聞こえ、翌寛永6年に大膳は幕府から召喚され調べを受けた。その結果、幕府より大膳の家老職復帰が命ぜられている。大藩の首席家老ともなれば幕府の監視を受け、その進退は藩主の一存では決められなかったのである。このことひとつをとってみても、いかに大藩の家柄家老の地位がすごいものかわかるであろう。
いずれにしても大膳は首席家老として復職したが、このことは忠之との仲をさらに悪くしただけであり、対立はより根深くなっていった。そんなとき将軍秀忠が死去し、江戸で葬儀が行われた。兜と鎧の事件の翌年寛永9年(1632年)正月のことである。忠之も葬儀に列席し形見分けを受けて福岡に帰国した。藩主の帰国の際には城外には重臣が居並んで出迎えるのが慣例であった。だが、そこに大膳の姿はなかった。忠之は大膳の姿が見えないので、大膳はどうしたかと尋ねた。すると重臣の一人が大膳は病気で臥せっていて出迎えができない。大膳からもしお尋ねのことあれば、よろしく申し上げてくれ、とのことであったと返答があった。
忠之はなおも詳しく尋ねたうえ城内に入り、大膳の邸の前を過ぎるときに山下平兵衛というのものを使者に差し向け、大膳を見舞ったという。これまでの忠之と大膳の間柄を考えれば不思議なことではあるが、忠之も大膳が病気と聞いて今までの経緯を反省したのかもしれない。忠之はその後も度々見舞いの使者を出したが、大膳は一向に登城しない。医師に様子を尋ねてみると、大膳の病気というのは重いものではなく、登城しても一向差し支えない程度のものと知れた。これには説があって、忠之の態度が掌を返したように優しくなったので、大膳は毒殺されるのではないかと疑ったとも言われている。忠之の反省が裏目に出た形だが、この大膳の病状を聞いた忠之が気分を害したのは言うまでもない。いったんすれ違うと、何事もすれ違うという典型であった。
この寛永9年というのは肥後の加藤家が取り潰されたときでもあった。加藤家は清正の跡を忠広が継いでいたが、いわゆる豊臣系の大名であり、幕府にとっては取り潰したくてしょうがない家であった。当時の幕府の政策は、徳川家安泰の為に外様大名はできるだけ取り潰すというのが基本方針であった。とはいえまったく落ち度がなければいくらなんでも取り潰せないから、些細な落ち度を見つけたり、ときには落ち度を作ったりした。加藤家の取り潰しも理由ははっきりせず、どちらかといえば落ち度を作って大げさに騒ぎたてた類のものであった。このことは外様であった黒田家にも緊張を生んだ。
理由はどうあれ加藤家は取り潰されることになり、5月になると上使として老中稲葉正勝が熊本に向った。この正勝というのは将軍家光の乳母春日局の子であり、したがってその力たるやたいへんなものであった。正勝は5月下旬に黒田領内の遠賀郡山鹿を通過することになった。黒田家としてもここは多いに機嫌を取っておかなければならないところである。忠之は山鹿に接待の使者を出すことにして、正使に十太夫を副使に黒田市兵衛を選んだ。十太夫は張り切って総勢350人という大人数で山鹿に入ったが、市兵衛の方はわずか38人という少人数だった。黒田家から挨拶の使者が来たとの報せに正勝は「倉八十太夫という名は聞いたことがない。黒田市兵衛は筋目のものと聞く。市兵衛だけを通せ」と、十太夫は会ってももらえず面目丸つぶれとなった。
こういう話は世間にパッと広まるものだ。福岡に隣接する商人町の博多では、寄ると触ると十太夫のことを笑い話にした。忠之にすれば十太夫に箔を付けるために行ったことであり、自分が笑われているようなものと感じた。忠之はもともと短気だからこうなると頭に血が上って逆上し、この話をしているものは見つけ次第に討ち取れと命じた。商人や漁師が討ち殺され、博多の町は一時恐怖が支配した。これらによって興奮した忠之は同年6月13日に焚火の間に出て、黒田市兵衛らに大膳の邸に行ってすぐに登城するよう申し渡せと命じた。ところが大膳は病を楯にして動かない。これを聞いた忠之はますます逆上して意地でも登城させようとする。何度か使者が往復し、つにに埒が明かないと見ると忠之は自ら大膳の邸へ押しかけるとわめく始末。老臣の井上道柏と小河内蔵允が急遽まかり出て、なんとか忠之を宥めた。この騒ぎの翌日に大膳は剃髪し、さらに夫人と二男の吉次郎を人質に出した。
大膳、忠之の謀反を訴える
寛永9年(1632年)6月15日、先日の騒ぎの翌々日、大膳の邸から飛脚体の者が出て行った。目付が見つけて後をつけて捕らえ、調べてみるとふところから大膳の書状が出てきた。宛名は豊後府内城主竹中采女正で、「忠之が謀反を企み、それを諫言したところ不届きとして成敗しようとしている。ここに至って、この大膳は公儀一途に思い、忠之を訴えることにした」と、とんでもないことが書いてある。竹中采女正は全九州の目付役であり、いってみれば九州探題とも言うべき立場にあった。飛脚は取り調べに対して、昨日も竹中采女正のところに飛脚が立ったと述べた。これで大膳の処分は勝手にできなくなった。処分をすれば公儀に対して罪を認めるようなものだ。訴えの内容が事実かどうかは別として、公儀の裁決を仰がなければならない。おそらく大膳はこの二度目の飛脚をわざと見つかるようにしたのであろう。
この訴えは事実無根であった。忠之は謀反など考えたこともなかった。そのこと事態は大膳も知っていた。大膳は肥後の加藤家の取り潰しを見て、このままでは黒田家も危ないと感じ、先手を打って訴えでたのである。裁決で忠之に謀反の疑いなしとなれば、少なくとも取り潰しは免れると思い切った手段に出たのだった。ところが、これには家中一同が怒った。家中一同は大膳の考えを知らないし、また首席家老であれば謀反の事実があったとしても、公儀に訴える前に他の手段があろうというものだろうと。黒田家のほうでも対抗手段として竹中采女正の許に使いを立て、事情を述べて徹底的に取り調べてくれるように申し立てたという。
7月に入って竹中采女正が福岡に入り、3日まで井上道柏や小河内蔵允と語らい府内に帰っていった。その翌日に大膳が福岡を立退いた。大膳の立ち退きは鉄砲には弾を込めて火縄に火をつけ、槍で取り巻くという物々しいものであったという。8月15日に幕府から使者が来て忠之に参府を命じた。忠之は黒田美作と小河内蔵允を供にして江戸に急ぐ。箱根まで来ると江戸からの飛脚に会い、急ぐ必要はないとのことだったので、そこからは普通に道中した。江戸近くまで来ると、ひとまず品川の東海寺に入るよう公儀の意向が伝えられた。忠之は「どうせ囚われの身となり破滅するならば本邸で果てたい」と言い出し、もっとも申し出なので小河内蔵允が工夫して、忠之は単身桜田の藩邸に向った。その後を忠之なしで正式の行列を組んで品川口まで来ると東海寺に入れとの指示が待っていた。小河内蔵允はとぼけて、主人忠之は公儀の命をかしこんで道中を急ぎ、すでに昨夜のうちに藩邸に入っているはずと言い、待ち構えていた旗本衆を呆れさせた。
そうこうするうちに今度は黒田家と昵懇の尾張家付家老成瀬隼人正と紀伊家付家老安藤帯刀が藩邸に来て、忠之を説得して郊外の長谷寺に移させた。これらのことが福岡に知らされると、福岡では大騒ぎになり籠城戦の準備を始めたという。11月17日に老中よりの使者が来て、18日に西ノ丸へ出頭するように言ってきた。18日に西ノ丸に出頭すると老中立会いの下で大目付による取調べが行われた。忠之の取調べはこの18日と翌寛永10年(1633年)3月4日の2回行われているが、もともと事実無根の訴えだからボロの出ようがない。さらに忠之は暗愚ではないから返答もなかなか見事であり、老中らも感心したという。もともと黒田家に対しては将軍も老中らも好意的であり、取り潰す気など毛頭なかった。
一方、大膳の方はこの年の正月10日に江戸に入っていた。君臣の対決が予定されたが、これには忠之が反発した。「君臣の対決など古来から聞いたことがない。臣下と対決するような不面目なことは忍びがたく、疑いあらば切腹して果てるのみ」と毅然として言い切った。これには列席の老中らも申し出でもっともということになり、君臣の対決はなくなった。3月11になって大膳と黒田美作、井上道柏、小河内蔵允らとの対決が行われた。大膳は弁舌を駆使して黒田家の重臣らと対決し、ときにはやり込めた。だが所詮は事実無根の訴えであり、状況証拠やこじつけ的なものばかりである。聞く側にも大膳の訴えは事実無根というのが明らかだった。
騒動の結末
大膳対黒田家重臣対決の翌日の寛永10年(1633年)3月12日、大膳一人が井伊家の邸に呼ばれた。ここで大目付から大膳に対して「謀反の訴えは偽りと認む。なぜ事実無根の訴えをしたか」と問い詰められた。大膳は涼しげな顔で「忠之が諫言を聞かぬため、このままでは取り潰されかねないと考え、計略として訴えを起こした。さすれば忠之は成敗かなわず、公儀の面前で悪政を申したてられ、深く反省することになろう」と述べたという。さらに裁判の最初からこのことを申し出れば、さほど苦労なく育った忠之の心根は改まらず、また諫言一つしない重臣どもも無事に済んでしまうとも申し述べた。これを聞いて老中らは一様に感心し感動したという。
3月16日に忠之は重臣らと供に酒井雅楽頭の邸に出頭を命ぜられた。忠之に対して「はなはだ仕置よろしからず。また君臣遺却の段、不届きにつき領地を召し上げる。さりながら代々忠節を尽くした家であり、筑前の国を新に賜う」という裁決が言い渡された。早い話がお咎めなしである。一方、同日大膳も井伊家の邸に呼ばれ、南部山城守へお預けの処分が言い渡された。ただし終生150人扶持を与えられ、4里四方お構いなしという破格の処遇であった。大膳は南部家でも大切にされたという。もうひとりの役者倉八十太夫は高野山へ追放されたが、島原の乱が起きると山を降りて黒田家の陣に加わったという。
これが黒田騒動と呼ばれる江戸初期に起きた大騒動であるが、結末を見ても明らかなように悪者が一人もいないし、その裁決は減転封や切腹などがなく陰惨なものではない。唯一倉八十太夫だけが追放されたが、前に書いたように十太夫も悪人ではなく、本人は追放されなかったとしても黒田家にはいられなかったろう。ただ江戸時代を通じて福岡藩では評判が悪く、栗山姓は福岡では名乗れなかった。大正期以降には主君を貶めたということで評判を落としている。また長政が大膳に預けた家康の感状は結局使われないままになった。この感状は黒田家家臣の梶原某に預けられ、のちに六代藩主継高に献上されている。  
 

 

福岡藩
筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより、当藩が成立した。国主、本国持の大名家である。
以後、徳川将軍家は福岡藩・黒田氏を優遇し、2代・忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した。江戸城、席次は大広間松の間、9代斉隆以降、大廊下上之部屋。松平筑前守黒田家として幕末に至る。
筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。同時に領内に於いて福岡藩と小倉藩の藩境に筑前六端城(益増城、鷹取城、左右良城、黒崎城、若松城、小石原城)を築き、黒田八虎で筆頭重臣の栗山利安、井上之房を始めとする家臣らが城主となる。なお、長政は質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷、大名庭園などは築庭しなかった。黒田家は6代藩主継高が隠居屋敷、数寄屋庭園の友泉亭、(現・友泉亭公園)を建立した程度である。
2代・忠之は、父・長政の遺言により弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。後述。
3代・光之は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史、『黒田家譜』を編纂させた。それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝や立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。
4代・綱政は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。
5代・宣政は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。
6代・継高は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。
7代・治之は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。
8代・治高は、婿養子(末期養子)として多度津藩・京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。
9代・斉隆は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。
10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来し見聞を広げている。
11代・長溥は、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。
12代・長知は、伊勢津藩・藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。
幕末には、慶応元年(1865年)当初、第一次長州征討中止の周旋に奔走した筑前勤王党(尊皇攘夷派)を主とする勤王派が主力を占めるが、勤王派は同時に三条実美ら五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになったが、その事を藩主である黒田長溥が幕府に責められていた。さらに犬鳴谷に建設されていた犬鳴御別館が藩主を幽閉するための物と噂され、謀反の疑いがかけられた。そして幕府が第二次長州征討を決定した結果、勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾き、勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。その後、慶応4年(1868年)再び勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。
明治3年(1870年)、日田県知事松方正義が福岡藩士による太政官札偽造事件を告発。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代・長知は知藩事を解任、後任には黒田家と縁のある有栖川宮熾仁親王が就任したが廃藩置県までの12日間に過ぎなかった。とは言え、知藩事は江戸時代の藩主と同様に世襲が認められていたことから、嫡男が知藩事を継げない事態は江戸時代の改易に匹敵する厳罰であり事実上の廃藩と言われている。この際、見せしめとして事件に関わった最高幹部である大参事立花増美・矢野安雄、権大参事小河愛四郎、小参事徳永織人・三隅伝八の5名が実行犯として処刑され10人以上が閉門や流罪などにされている。長知一族は福岡を離れ、東京に移住した。その後、廃藩置県により福岡県となった。この事件で名前を上げた松方正義は明治新政府で出世の道を掴んだ。
明治17年(1884年)長知の子、黒田長成は新政府の華族令により侯爵を叙爵、華族に列した。
黒田騒動
黒田騒動は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、さらに200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。
大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡南部藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。
また、江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎も数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題御伽譚博多新織。のちに河竹黙阿弥により狂言黒白論織分博多として加筆集約化された。 
黒田52万石を救った栗山大膳
杷木志波の西側に標高300mほどの麻良山があり、麻氐良山頂そばに左右良城跡が今も残っています。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで活躍した黒田長政はその功績で豊前中津12万石(大分県)から52万石に加増され、筑前の国に入ります。黒田家の筆頭家老であった栗山備後守利安(大膳の父)は、杷木志波の左右良城主として志波以東の領地を与えられ、30年ほど栗山利安・大膳親子の治世が続きました。
黒田藩のこと
黒田長政は名島城に入りますが土地が狭かったこともあり、新たに福岡城を築き、城下町に福岡と名づけました。徳川家康は、長政こそ「家康を天下人に押し上げた最大の功労者」と称し、「黒田家子々孫々まで粗略にしない」旨の感状を与えています。また、長政は家康の養女(姪)を正室として迎え、徳川家とは縁戚関係となっていました。
しかし、徳川家の代も変わり三代将軍家光の時代になるころには、黒田藩をはじめ多くの外様大名が「藩とりつぶし」の恐怖にさらされます。江戸幕府が開かれて50年の間に、200を超える藩がとりつぶされたり、領地を削減されたりしています。
長政は、幼いときから人質生活で何度も死線を乗り越え戦国時代を勝ち抜いた武将ですが、長政の嫡子・忠之は、幼いころからわがままで短気で問題を起こしていました。贅沢を好み遊興を重ねるわが子に長政は不安を抱き、幾度も廃嫡を考えたようです。この長政の「忠之廃嫡」の動きに、忠之の守役であった栗山大膳が防波堤となって、ことごとく守っています。
長政は、人望ある筆頭家老の栗山大膳や重臣たちが藩の運営を間違いなく補佐してくれるだろうと後事を託します。
黒田騒動
世に知られている「黒田騒動」は、元和9年(1623年)長政没後から始まります。
新藩主になった忠之のわがままは治まらず、家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。大膳をはじめ藩の重臣たちが忠之に何度諫言してもとりあってもらえず、藩政は険悪な状況になっていきました。忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府のとがめを受けます。大膳などの謝罪で事なきを得ましたが、忠之の乱行は治まりません。
忠之は、領主になる前から小姓として仕えていた倉八十太夫をかわいがり、食禄は加増を重ね9000石にまで取り立てています。さらに、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみます。諫言をなすのは大膳のみとなり、諫言してもしりぞけられ続けました。
忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。大膳は、若輩の十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼します。十太夫はこれを握りつぶし、大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。
寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
思惑どおり寛永10年(1633年)3月、大膳は裁きの庭で諸老中を前に「御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず公訴の手段をとりました。家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える。」「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える。」
こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。お墓は岩手県盛岡市にあります。
栗山大膳と父・利安の業績
大膳は、遠賀川流域の洪水調整や灌漑、水運を目的に、遠賀川から洞海湾に通じる堀川の工事を元和7年(1621年)に着工しています。長政の死によって中断しましたが、128年後の宝暦元年(1751年)に再開し、宝暦12年(1762年)に完成しています。灌漑用水として田畑を潤し、物資の輸送路としても活用されました。全長約12.5kmで「大膳堀」と呼ばれています。
大膳の父・利安が、長政の父・官兵衛孝高(如水)の菩提を弔うため建立したのが杷木志波の「円清寺」で、黒田家ゆかりの品々が文化財として大切に保管されています。
松末地区の杷木星丸にある「野手八幡宮」の元宮は杷木林田にあり、宇佐八幡の神領で、寛永7年(1630年)に大膳が宇佐八幡宮を勧請したものです。1686年に現在の地に遷宮しています。
杷木神社に伝わる春の大祭の「杷木市」は農機具の展示・販売の市が起源ですが、大膳は城下町の賑わいのために一時期、杷木志波に移しています。
国道386号線沿い香山入り口に「大膳楠」があります。昔、この楠木の側に大きな池があり、「大亀が住んでいて旅人を襲うので退治して欲しい」と村人から願いが出されます。一方、別の村人からは「あの亀は村の守り神だから殺さないで」と頼まれます。現場に出向いた大膳は、池中央の岩の上で甲羅干しをしている牛ほどもある大亀が長い首を出しにらみ付けるのを見て、鉄砲で殺してしまいました。とたんに黒雲が一面を覆って激しい雨が降り、地面が揺れて香山の半分が崩れ落ちたため、大膳はほうほうのていで逃げ帰りました。
そのがけ崩れで、民家も池も埋もれてしまいましたが、楠の木は残りました。地元の人はこの楠を「大膳楠」と呼び、がけ崩れのことを「大膳崩れ」と呼んでいたと、そんな話が伝わっています。 
■黒田騒動
大山鳴動し、鼠一匹
まず黒田騒動とは何ぞや? と、簡単に説明すると――
藩祖・黒田長政が死ぬと、跡目を継いだ黒田忠之は倉八十太夫を筆頭に側近を形成し、好き勝手に政事を取り仕切ります。そんな忠之に対し、福岡藩の宰相たる栗山大膳が何度も諫言しますが聞き入れられず、このままでは先行きが危ういと、日田代官であった竹中采女正に忠之に叛意ありと直訴。すったもんだの末に、忠之は所領を取り上げられたが、その日の内に戻され、また大膳は盛岡に配流、奸臣とされた倉八十太夫は高野山に追放という結果を迎えました。
さてお家騒動というものには、決まったパターンがあります。
一、一族内の内紛:二月騒動、天文の乱、伊達騒動
二、跡目争い:花倉の乱、お由羅騒動、津軽騒動
三、派閥争い:牛方馬方騒動、和霊騒動、
四、君臣対立:お下の乱、七家騒動
以上のようなパターンに、愛妾や弟君、悪家老が加わるというのが一般的なお家騒動ですが、この黒田騒動には四の君臣対立ではあっても、愛妾も弟君も登場せず、あくまでも黒田忠之と栗山大膳の個人的な、二人だけの対立なのです。倉八十太夫が悪家老的なポジションかもしれませんが、彼は決して悪家老でもなく、終始大膳に気を使っている姿が、記録から読み取れます。よく女を勧めたとか、奇行を勧めたなどと書かれますが、そんな証拠は全くないですし、よくよく精査すると単なる脇役に過ぎません。また騒動の背景には、藩主専制の中央集権化を目論む改革派と戦国古来からある黒田家の形を残そうとする保守派の争いという印象を強く感じますが、それは史実として残っているわけではありません。少なくとも、大膳は徒党を組んでおらず、あくまで〔俺VS殿様〕だったのです。
もう一つ、この騒動が特殊な点は、死者が0という点です。これだけの騒動ながら、斬罪・切腹は0。忠之は引き続き藩主、大膳は盛岡で百五十人扶持を貰って安泰。倉八十太夫は前述したように高野山に追放されましたが、福岡藩から扶持をもらって暮らしました(島原の乱が起こると、福岡藩軍に馳せ参じて戦い、討死)  以上のように、騒動では誰も犠牲になっていません。当時は、藩主家を上回るような、絶大な権力を持つ家臣を排除する時代の流れがありました。それを死者0で抑えられたケースは稀有なものだと思います。
黒田騒動とは、まさに「大山鳴動し、鼠一匹」というもので、それが珍騒動たる由縁です。家臣や領民は「いいから早く仲直りせいや」と思ったにちがいありません。
毒婦お秀の実像と新見一族
黒田騒動というものは、題材として歌舞伎や映画、小説に取り上げられていますが、史実と創作の差が非情に大きいものがあります。その差異が、黒田忠之が暴君として、栗山大膳が忠臣とされてきた背景でありますが、今回はその最たる存在、お秀の方について語りたいと思います。
お秀の方は、忠之に見初められた女で、美麗抜群であるが奸智に長けた毒婦として物語に登場します。騒動解決後には死んだり放逐されるのが大方の筋ですが、その存在は創作で、どう探しても史実には登場しません。
ですが、このお秀の方のモデルを史実に求める事は出来ます。それが忠之の継室・早良郡橋本に住む坪坂という浪人の娘(後に新見に改姓)、養照院ようしょういん。忠之は鷹狩りの帰りに、坪坂の娘を見初めて福岡城に側室として連れ帰ります(鷹狩りの帰りにお秀を……という描写の作品もあります)
そして懐妊し、橋本で三代藩主となる光之を出産します。
都合よく(?)光之が誕生した二か月後、正室の梅渓院が二十三歳の若さで亡くなります。正室の死を受け、養照院は光之と共に黒田美作くろだ みまさかの屋敷に預けられ、満を持して継室になります。彼女は非常に賢く、そして継室という身分を弁えた人格者として知られ、改革を進める忠之を終生支えたと伝わっています。お秀の方とは随分と違いますよね。ですが、正室の死を乗じて、継室の座をゲットする辺りはもしかして……。
そして、養照院には新見太郎兵衛という弟がいました。
忠之に三百石の武士として仕え、義弟として卑怯な振る舞いは出来ないと精勤し忠誠を尽くしたようです。そして、太郎兵衛は千石取りになった時に島原天草の乱を迎えると、無足組組頭として福岡藩軍を率い奮戦。しかし寛永十五年二月二十日の攻撃で、二か所の矢傷と五か所の槍傷を受けて討死しました。享年二十七。太郎兵衛は、その遺言により光専寺に葬られました(墓は福岡大空襲により焼失。現在は碑が残る)
以上のように、新見一族は浪人の身分から引き上げてくれた忠之に、身命を賭して尽くしました。ここが、創作との大きな差異ではないでしょうか?
主家、滅ぶべし
黒田騒動を語る上で、無視できない男がいる。かつては、身を呈して主家を守った忠臣として描かれ、現在では既得権益を守る為に主家に楯突いた叛臣と描かれる男。
黒田如水の参謀にして、最大の功労者たる栗山備後の子、栗山利章。そう栗山大膳である。
大膳は、天正十九年(1591年)に誕生。戦国も終わりを告げる頃で、同年代には豊臣秀頼・伊達秀宗がいて、彼がニューエイジである事が判る。
大膳は備後の跡目を継ぎ、黒田家でも屈指の勢力を有する事になる。その石高は、ざっと二万石。彼の領地は上座郡一帯で、左右良まてら城に本拠を構えた。二万石の内、自分の取り分を一万二千四百十石とし、残りを馬上格の家臣三十九人に分け与えている。上座郡の総石高が二万一千二百石であるから、その力の程が知れる。この状況を、福岡藩という国の中に、また別の主従と支配体制を持った国があるという風に考えると理解し易いと思う。また、こうした小国が栗山家のみでないという事も、黒田騒動を考える上で、無視出来ない事項でもある。先にも述べたが、福岡藩創設の功臣三十二家が、総石高の四十三%を知行として握っていた。つまり、栗山家を筆頭に功臣達が己の国を形成し、その連合という不安定な玉座の上に、如水も長政も、そして忠之も君臨していたわけである。さぞや、藩主家は功臣達に気を使った事であろうし、これが忠之を改革に走らせた原因でもある。
さて、大膳は一般的に〔武断派〕或いは〔質実剛健な武士〕という印象があるが、史料を紐解けば、実はそうでもない。彼の実戦経験は、記録に残る限り初陣である大阪の陣のみ。忠之も大阪の陣が初陣であるから、経験の差は殆ど無い。大膳は養育する忠之に「ちゃんといつ戦があってもいいように、武士らしくしろ!」と叱った際に、忠之は「てめぇも戦を知らんだろう」と思った事だろう。この大膳、武断派ではなく、文治派というべき男だった。特に行政官としての能力に秀で、家督相続前から、長政の側近として仕えていた。その最たる功績は、遠賀川流域の洪水調整や灌漑、水運を目的に、遠賀川から洞海湾に通じる堀川の工事だろう。これは長政の死により中止され、「まずは城下とその近郊の整備」という政策を採った忠之により頓挫したが、僕が大好きな六代藩主・継高により再開され、十二年後に完成。今では〔大膳堀〕という名が残っている。個人的には〔継高堀〕にすべきと思うが(笑)
長政の側近として働き、忠之の代には宰相が如く振る舞っていた大膳は、誇り高い男だった。それが行き過ぎて、横柄かつ傲慢不遜。目上の功臣を呼び捨てにする事もあれば、とある村の守り神である大亀にガンを飛ばされた事に腹立ち、鉄砲で撃ち殺した事もある(これは、大亀が人を襲うから殺したという伝承もある)。彼のそうしたエピソードは、意外と多い。イメージ的には、石田三成というものかもしれないと、僕は思っている。頭が切れて、融通が利かない辺り……。
そうして福岡藩宰相として君臨した大膳だが、忠之が徐々にコントロール出来なくなるやいなや、騒動を起こすに至る。すったもんだで騒動が決着し、筑前退去が決まった大膳は、恐るべき行動に出たと、細川家史料が記しているので紹介したい。それは、槍百本・鉄砲二百五十挺・騎馬武者五十からなる七隊の軍団を編成し、福博両市を威嚇し、騒然とさせたというもの。よほど退去が悔しかったのかもしれない。なお、この時に忠之が藩軍に討伐命令を出さなかったのは、幕命により「手を出すな」と言われていた為であろう。大膳もそれを知って挑発したのかもしれない。何とも、憎たらしい男である。
(多分)涙を堪え盛岡に流された大膳は、意外と悠々自適に暮らしたそうである。息子の大吉は南部藩主から内山姓を貰って藩士となり、その大膳は当地で妻を娶り、娘が生まれているという。
以上、栗山大膳について触れたが、僕は前々から述べているように、終始忠之視点で述べているので、ご容赦願いたい。僕には、中央集権という近世大名化を図る忠之に、公然と立ち向かった大膳が、福岡藩の癌であったように見えるのだ。ただ、そうした大膳に共感はしないが、非難もしない。彼は、自らの生存権を主張したに過ぎないのだから。
最後に、栗山大膳の敵として描かれる、倉八十太夫について。彼は二百石という鉄砲頭の息子として生まれるが、忠之に気に入られ、みるみる出世した人物。(多分、男色的意味合いもあったであろう)倉八は、忠之の片腕たる経済官僚として様々な政策を打ち出していくのだが、これが大膳の癪に障り非難される事態に陥ってしまう。が、当の倉八は大膳と争わぬように、最大限の気を使っているから笑えてしまう。時には髷を切って謝罪まで……。面倒臭い大膳に絡まれて、さぞ迷惑な事だった事だろう。そんな倉八は、騒動の処置で福岡藩を放逐され、高野山で隠遁生活に入る。そうなっても食い扶持は福岡藩が与えているので、ある意味でスケープゴートされた倉八への同情の表れだったかもしれない。倉八は、大膳を忠臣とする余り、長く佞臣として描かれてきた。今でもそのイメージは覆っていない。しかし、倉八は天草の乱の折に、忠之率いる福岡藩軍の為に駆けつけ、華々しく討死をしている。放逐されても忠義を貫いたのだ。騒動後、栗山姓が禁じられた大膳と、現在までその名跡は残り、幕末にも活躍した倉八。さて、どちらが忠臣で佞臣であるか。
黒田騒動とは何であったか
誰も死なず、転封・改易もなされず、結果として栗山大膳と倉八太夫だけが追放されるだけに終わった、黒田騒動。日本三大お家騒動でありながら、伊達騒動や加賀騒動のように、一滴の流血を見ずに終結した、この不思議な騒動について、シリーズの最終回となる今回は、私見の総まとめをしたい。
黒田忠之が、第二代福岡藩主を継いだ時、福岡藩は総石高五十三万石の中に、己が裁量で支配する小国が乱立するという、旧態然とした状態にあった。その割合は、四十三%と約半分であり、三十二家の功臣がその富を独占しているという、極めて歪な状況だった。無論、三十二家はそれだけの功績があった。彼らこそが、精鋭無比の黒田武士団の中核なのだ。彼らがいて、はじめて黒田如水や長政の知略が成功されたと言っていい。故に、如水も長政も、彼らに対し最大限の礼で報いた。その結果が、この歪な支配体制を生んだわけだが、藩主になった忠之は、そのような事を気にしなかった。それには理由があり、忠之による大膳への発言から、彼の真意が窺える。
「別に、お前が功績を挙げたわけじゃないっしょ」 (※忠之が倉八に栗山備後の兜を下賜しようとして、怒鳴り込んできた大膳に吐いた言葉。)
この時、三十二家の当主は殆ど代替わりし、戦国を知らぬニューエイジが占めていた。そう、忠之にしてみれば、三十二家など〔ただの人〕なのだ。そのただの人が大禄を得て、領主風を吹かしているから気に入らない。また、この歪な支配体制を改革し、中央集権的支配に移行させねば、福岡藩の未来は無いとも考えていた。何しろ、残りの五十七%で藩士の給金や領国経営、手伝い普請に必要な資金を調達せねばならないのだ。これは、甚だ難しい話である。そこで、忠之は三十二家を尽く潰すという荒業に出た。ブルドーザー改革である。乱暴だが、最短距離で目的を達成出来得る政策だったと言えよう。当然の如く、異論や不満もあった。忠之の改革は、名門三十二家の生存権を否定するが如き所業なのだ。だが、誰もが黙した。公然と反対を唱えれば取り潰しされるのは目に見えているからだ。そうした状況で立ち向かったのが、栗山大膳だった。名門三十二家筆頭にして、忠之の教育係。そして、最大の敵と呼べる既得権益保持階級の代表たる男である。大膳は自らの生存権を死守する為に、改革反対を幕府に訴えるという、こちらも荒業に出た。しかも訴えは改革の反対ではなく、「黒田に謀叛の動きあり」という、際どいものだ。忠之を追い落とし、後釜に舎弟の誰かを据えるか、これを機に独立大名化を目論んだのだろう。通説では主君を諌める為とあるが、この時期に謀叛の疑いは、正気の沙汰ではない。諌めるにしても、やり過ぎなのである。これでは諌めた後に施政を為す国が無くなってしまう。それほどの所業なのだ。だが、大膳の乾坤一擲の策は功を奏さなかった。幕府裁定は、事実上の忠之勝利。大膳は盛岡へ退去。道連れに出来たのは、忠之ではなく、小物と見下していた倉八太夫であった。さぞや悔しかったであろう。大膳無き後は、忠之の中央集権もとい絶対君主制は確立され、その力は絶頂期を迎えた。東長寺にある忠之の墓の大きさを見れば、その力の程を知る事が出来るので、機会があれば見学されるとよいだろう。
以上が、黒田騒動の私見である。騒動の影響から、忠之が長く暗君とされ、大膳は忠臣とされてきたが、僕はそうではないと考えている。忠之は暴君であれ暗君ではなく、大膳も梟雄であれ忠臣ではない。忠之が暗君ならば、これほどまでの改革を為せなかっただろう。そして大膳も、忠臣ならば謀叛の疑いがあるかのような博打は打たなかったはずだ。また、この騒動で幕府が温情的な沙汰をしたから、福岡藩はそれを恩と感じ、幕末には佐幕的な態度を貫いたという話もある。僕はそれを否定しているが、それについては幕末篇で語る事にする。 
 
青山伯耆守忠俊

 

青山忠俊は、天正6年(1578年)に遠江浜松で生まれ、幼少時より秀忠に近侍し、慶長8年(1603年)常陸江戸崎に5千石を賜り、慶長12年(1607年)から家光の傳役となった。慶長15年(1610年)書院番頭、翌16年に下野鹿沼に5千石加増され大名に列した。慶長18年(1613年)父忠成が死去し、その遺領2万8千石を継いだ。その際に弟幸成と通直に1千5百石づつを分知し、差し引き3万5千石となる。大坂の陣では冬の陣、夏の陣ともに出陣して功あり、その後酒井忠世、土井利勝とともに家光の撫育にあたった。
家光は厳正な酒井忠世、明敏な土井利勝、剛勇な青山忠俊から教育を受けて将軍としての資質を身につけたといわれる。この3人の人選をしたのは家康であったといわれ、忠世には慈悲深く思いやりのある行動をとるように教育せよと命じ、利勝には判断力を身に付けさせるようにせよと命じた。そして忠俊には何事にも屈せずに勇気ある人物に育てよ命じた。もともと家光の幼少の頃からの傳役であった忠俊にとっては、この人選はさらなる名誉であった。責任感が強い忠俊は家康に頼まれたとおり、家光を勇猛果敢な将軍にするためだけに生きようと決心した。
戦国時代を生きた忠俊は、剛直な性格であった。剛直な人物は時として煙たがられ、またそのために損をする。だが当人は至って大真面目であり、絶対に節を曲げないから、周囲からは頑固で頑なな人物とされ、さらに煙たがられる。忠俊もそんな人物であった。家光が少しでも道に外れたことをしたり言ったりすると、すぐに諫言をした。諫言を受け入れないと諸肌脱いで「それがしの申すことお聞き入れなくば、すぐさまこの首を刎ねられよ」と迫るから家光も渋々ながら従わざるを得ない。忠俊も筋金入りであるから手加減などせず、いつもこの調子でやるから家光もいい加減いやになったであろう。
こういう場面では利勝や忠世がなだめ役になった。この辺は阿吽の呼吸であり、3人の連携は上手くいき家光は次第に次代の将軍らしさを身につけていった。元和2年((1616年)家康が死去し、名実ともに秀忠の時代になる。すでに老中になっていた忠世や利勝は政務が忙しくなり教育係に専念できなくなってくる。この年忠俊も老中に就任、そのために新たに酒井忠利、酒井忠勝、内藤清次らが家光の教育係になった。ただ責任感の強い忠俊は、老中就任後も家光の養育についてはいろいろと意見を言っていたようである。
元和9年(1623年)7月秀忠は将軍職を家光に譲り隠居し、大御所となった。翌8月の家光の上洛には忠俊も嫡男宗俊とともに供奉。家光の晴れ姿を見て忠俊は泪するほど嬉しかったであろう。しかし、その2ヵ月後の10月19日、忠俊は老中を罷免され改易されてしまう。所領の武蔵岩槻4万5千石は収公(元和6年に1万石加増のうえ武蔵岩槻城主になっていた)され、上総大多喜2万石に減転封される。この2万石は秀忠の配慮であったというが、やがてその2万石を忠俊は返上し、下総細戸に蟄居たのち寛永元年(1624年)相模高座郡に、翌2年には遠江国小林村に移される。さらに弟幸成の領地である相模国今泉村に移るように命ぜられて、寛永20年4月15日66歳でにその地で没した。
老中罷免、改易の理由については家光の勘気をこうむったとされる。一説には忠俊が公の席で家光に諫言し、これが勘気をこうむった直接の原因とされるが、忠俊ならいかにもやりそうなことではある。もし本当なら家光とすれば面目丸つぶれであり、忠俊が勘気をこうむるのは当然である。しかし、逆に忠俊ならやりそうなことであるだけにフィクションくさいとも言える。あるいは、諫言ではなくごく軽い苦言くらいのことを、さも大げさに言ったのかもしれない。いずれにしても、忠俊改易の真相を糊塗する方便であり、その裏にはさまざまな事情があったことは確実である。
一つには秀忠と家光の確執である。家光は将軍となったものの、秀忠は大御所として後にいた。秀忠を中心に旧世代のグループがおり、一方家光を中心とする新世代のグループがある。旧世代は戦国の遺風を持つ人物で、土井利勝や井上正就らで、忠俊も当然ここに属する。一方の新世代は将軍側近の若手官僚グループで松平信綱、阿部忠秋、酒井忠勝、稲葉正勝らである。旧世代グループからすれば将軍側近の若手は頼りない面々であるが、若手からすれば旧世代グループは煙たい存在であった。
土井利勝あたりは、そのあたりは起用に動いたが、剛直な忠俊はことあるごとに意見をいい、口を出した。特に家光は歌舞伎に熱を上げたり、男色趣味に走ったりと極端な遊びを好んだ。忠俊にすれば、将軍ともあろう人間がそんなことにうつつを抜かすのも側近が悪いからだということになり、叱責する。叱責された方は面白くないし、頑固爺の繰言としか思わなくなる。さらに春日局の存在があった。春日局は家光の将軍就任までは利勝や忠俊を頼りにしていたが、家光が将軍になると若手官僚グループを支援するようになった。若手グループの稲葉正勝は春日局の実子で、老中の一員でもあった。春日局は今や政治を操るほどになったのである。
利勝や忠世は時代の流れを的確に読み、徳川長期安定政権を目指すための将軍権力強化こそが第一であると考えていた。そのためにも将軍の力で諸大名を押さえ込むことが肝心であり、その点は春日局も同じ意見であった。そのためには将軍の権威は絶対であり、時には非情にもならなければならない。正義や友情では権威は保てない時代になっている。もはや武の時代ではないのである。そこが忠俊にはわからなかった。おそらく理解できなかったのだろう。そのために忠俊は犠牲になった。剛直に過ぎ非情にもなれない不器用な人間であった忠俊は、政治の流れに飲み込まれたと言える。
忠俊の嫡男宗俊は、忠俊が蟄居するとこれに従い、その後も父とともに命ぜられるまま遠江小林村、相模国今泉村に移った。宗俊は父のことを敬愛し、尊敬していたようだ。また忠俊の弟の幸成(摂津尼崎5万石)の兄忠俊を敬愛していたようだ。ちなみに相模国今泉村は幸成の領地であった。宗俊は寛永9年(1632年)に赦免されて、寛永15年(1638年)書院番頭となり武蔵・相模国内で3千石を賜る。慶安元年(1648年)に信濃2万7千石を加増されたほか、1万5千石を預けられて小諸城主となり、ここに青山家は大名に復した。同時にこの年家光は宗俊に将軍家世子家綱の教育係を命じている。その時家光は宗俊に、「お前の父のしたように教育してくれ」と言ったという。 
 

 

青山忠俊 1
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩主、上総大多喜藩主。青山家宗家2代。
天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世とともに徳川家光の傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。
寛永20年(1643年)に死去、享年66。 
青山忠俊 2
徳川秀忠が素行の悪かった若き日の徳川家光を更生させる為に配属した三人の目付役の一人。謹厳実直な性格で、家光に対してスパルタ教育を以って接したが、そのせいで家光から疎まれ更迭させられた。
忠俊は土井利勝、酒井忠世と共に「寛永の三輔」と称されている。この三人は、家光を補佐する為に父親の秀忠が付けた傅役である一方で、家光の素行を改善させ、また大御所である自分に逆らえなくするように掣肘させる監視役でもあった。
この中でも忠俊は家光に最も干渉した。若い頃に家光は夜遊び三昧をしていて、弟の徳川頼房も夜遊びに誘うなど、素行の悪さに歯止めが聞かず、その度に忠俊は強く諌めた、という美談が伝わっているが、実際には、秀忠の命令で、家光を秀忠に従順な人間にするために「教育」という洗脳を施していたのである。
忠俊は「幕府の壊し屋」として知られている。といってもこの人のように内紛ばかり起こして体制を崩していたわけではない。忠俊は実際に「モノ」を破壊していた。
忠俊は家光を強く戒めるあまり、家光の所有物を数え切れないほど破壊している。ある時は金魚が大量に入った金魚鉢を放り投げて破壊し、またある時は家光の愛用していた鏡を鉄拳で叩き割った。忠俊の教育は峻厳極まったため、家光は忠俊に強い憤怒を抱いていた。
やがて秀忠が将軍を退いて大御所となり、家光が将軍になったが、忠俊は相変わらず強く諌める姿勢を改めず、子供を叱るように接していた。ところが、とうとう我慢の限界に達した家光によって、老中まで登りつめ、岩槻4万5千石を拝領していながら、改易され転落した。一方で寛永の三輔の他の二人である酒井忠世と土井利勝は、その後も順調に出世して大老にまで登りつめている。差を考慮すると酷い落差が伺える。
人物
土井利勝が「智」、酒井忠世が「仁」の人物と言われるのに対して、忠俊は「勇」の人物と言われた。しかし忠俊の「勇」は蛮勇の勇と言っても良く、家光に諫言し、それが聞き入れられないとなると激昂して「切腹して諫死する」と喚き散らすことが多かった。激昂すると死ぬ死ぬと喚き散らす様はメンヘラの要素も含んでおり、忠俊は熱心すぎるあまり少し病んでしまった人だったのかもしれない。
忠俊が切腹して諫死しようとする度に、家光は制止することになった。家光にしてみれば忠俊は煙たい存在だったので内心では勝手に死んでくれと思っていたが、忠俊は元々父秀忠の側近であり、その忠俊が腹を切って諫死するようなことが本当にあれば父秀忠との間に軋轢が生じる危険性もあった。ただでさえ家光を廃嫡して弟の徳川忠長を将軍に据えようとする動きもあったため家光は必死になって忠俊を制止しなければならなかったのである。
改易後
一度改易されてから数年が経過した後、家光は忠俊を許して再度の出仕を許可しようとした。ところが忠俊は、自分の改易は上様が決定したことであり、それを撤回して再出仕を許すのは、上様の采配が誤りであったと公に周知させることになる、という理論を展開し、再出仕の打診を謝絶した。主君を思う美談のようにも聞こえるが、善意で教育してきたのに疎外されたことで忠俊はすっかり拗ねてしまっていたのだ。打診の辞退もある種の意趣返しであった。
雉の忠俊
「勇」の青山忠俊、「智」の土井利勝、「仁」の酒井忠世、この三人の位置付けは、桃太郎における三匹の従者を見立てたものである。「仁」は犬、「智」は猿、そして「勇」は雉を象徴することから、忠俊は桃太郎における雉のような立場であったと言える。だが勇猛という要素よりも、諫言しすぎたために勘気に触れて疎外されてしまった、「鳴かずば撃たれまい」という要素において、忠俊と雉は酷似している。
厳格な男が見せた寛容な一面
家光に対する厳格な話ばかり伝わっている忠俊だが、家光に対して寛容さを見せる話もある。家光は、実は女装癖のある人物であり、誰も見ていない所でしばしば女装をしていた。ところが、女装している場面を忠俊に見られてしまった。激怒するかと思いきや、忠俊何も言わずに見てみぬふりをして屏風を閉め、女装についても誰にも公言しなかったという。このエピソードからは、女装というセクシャルマイノリティに対して寛容であった忠俊の性格を推察することができる。説教好きな古臭い武士という印象の強い忠俊だが、以外と進歩的な考えも持っていたのだ。 
徳川家光の報復を享受した老職・青山忠俊
家光がここまで育ったのは、もちろん青山忠俊の功績が大きい。しかし忠俊はそうは思わない。というのは、家光自身が最近忠俊に対し、非常に悪感情をつのらせていることを知っていたからだ。忠俊にすれば、あいかわらず死んだ家康から命ぜられた、「竹千代に勇武の道を叩きこめ」ということを至上命令として励んでいる。家光が将軍になったからといって手加減はしない。あいかわらず厳しい諌言を行う。そのたびに家光は嫌な顔をする。まわりの者がハラハラして、「青山殿、もはや家光公は天下人だ。少しひかえられてはいかが」と言うが聞かない。
「これが俺の役割なのだ」と言って、自己の信条を絶対に曲げなかった。本当なら家光も、自分の私感情を抑えて長年世話になった息俊を、例えば正式に幕府の老中に任命するとかの通があったはずだ。しかし家光はそうはしなかった。逆に、私感情による報復行為に出た。家光は将軍になってから二か月後、突然、青山忠俊に次のような命令を下した。
「本丸老職を解任する。領地のうち二万五〇〇〇石を没収する」
江戸城内は大騒ぎになった。中には良識派もいる。その連中は、「家光公は恩を知らない。あのいくじなしの竹千代様が、今日のような立派な天下人になれたのは、青山息俊殿のお蔭ではないのか」そうささやき合った。しかし忠俊は二言も弁明はしなかった。固く口を結んだまま、黙って家光の命令に従った。
家光の報復はそれだけではすまなかった。二年後の寛永二年(一六二五)には、「領地はすべて没収する。遠江(静岡県)小林の地において、蟄居を命ずる」と言われた。連座制がとられて、長男の宗俊も同じように蟄居を命ぜられた。
一説によれば、この処分は、家光の父秀忠の指示によるものだといわれる。秀忠は、家光が将軍になった後もあいかわらず厳しい諌言をやめない忠俊に腹を立てていた。秀忠の考えは、「昔ならいざ知らず、天下人に対して大勢の人間の前で性懲りもなく諌言を行うなどというのは、不忠の臣である」と断定した。もっと勘繰れば、「青山忠俊は、あたかも自分が家光を将軍にしたという意識があるのだろう。依然として諌言をやめないのは、それを天下にひけらかしているのだ」と感じた。青山息俊にそんな気は全くない。しかし彼は、「俺が進んでこういう目にあうことが家光様の天下人としての地位を安定させる」と思っていた。だから、いってみれば、「自分からク″見せしめ″の役を買って出る」という心持ちだったのである。
蟄居の地にあって、二言も弁明もせず沈黙を守り続ける忠俊の姿に、多くの武士が感動した。家光もさすがに考えた。そこでまず手はじめに、同じ蟄居を命じた忠俊の息子宗俊を呼び出し、旗本に登用した。そして、それを一種の謝罪の意味として息俊に使いを出した。
「一時の怒りに任せて蟄居を命じすまないと思っている。蟄居を解くので、もう一度、私の側にきて仕えてはくれぬか」と申し出た。しかし、忠俊は使者にこう答えた。
「ありがたいお言葉ではございますが、お受けするわけには参りません。なぜなら、蟄居を許されて私が江戸城にもう一度まかり出れば、世間では上様(家光)が、過ちを犯されたと噂をいたします。絶対にそんなことはあってはなりません。上様は、私が死ぬまで蟄居の刑を解いてはなりませぬ。さようお伝えください」
使者からこのことを聞いた家光は初めて、「浅はかであった」と深く反省した。忠俊はそのまま蟄居を続け、寛永二十年(一六四三)に相模国(神奈川県)今泉村で死んだという。彼の信念は、「沈黙こそ、武士道の真髄だ」というものであった。  
 
阿波騒動

 

はじめに
阿波騒動とは、阿波徳島藩第10代藩主蜂須賀重喜が、久保田藩佐竹家の分家から養子となって徳島藩主となり、改革意欲に燃えて藩政改革を手がけるが、家臣たちの反発にあって失敗に帰す一連の出来事を指す。つまり蜂須賀重喜の存在と行動が騒動の中心ということになる。前半の重喜の藩主就任までは、悪人達が自分らが擁立を目指す重喜を藩主とするために陰謀をめぐらすというドラマ風な展開。重喜の藩主就任後は一転して改革派の藩主と守旧派の家臣たちの対立という、現代にも通ずるような形をとる。
蜂須賀氏は濃尾国境付近で主に水運業に従事していた蜂須賀小六正勝が、秀吉の与力となって以後、秀吉の出世に連れて大きくなっていき、正勝の子の家政の時に阿波一国の大名となった。秀吉の死後は関ヶ原役を上手く乗り切り本領安堵。さらに大坂の陣での活躍を認められ淡路国を加増されて、阿淡二国25万7千石の大名となった。以後明治維新まで転封もなく両国に君臨するが、小六正勝の血は正勝から数えて9代目(徳島藩主としては8代目)の宗英で途切れる。宗英自身、一門ではあるが臣下として家老職にあった。しかし宗家に跡継ぎがなかったために、養子となって宗家を継いだのである。襲封時既に50歳を越えており、この宗英にも子がなかったために、隣国讃岐高松藩の松平家から養子として宗鎮を入れた。
重矩の死
やがて宗鎮の代となるが、ここからは蜂須賀の血統は他家の血になる。宗鎮は世子として2代前の藩主宗員の二男であった重矩を立てた。この重矩は江戸深川の下屋敷にいて日夜文武に励み、藩内の期待も大きかったのであるが、この重矩が一夜上屋敷に招かれ藩主宗鎮と歓談したあと数日を経て死んでしまった。
話はこうだ。久保田藩主佐竹家の分家に壱岐守家というのがある。代々の当主が壱岐守を名乗ったのでそう呼ばれるのだが、2万石の大名であり秋田新田藩といわれていた。ここの当主は当時佐竹壱岐守義道という人物だった。この義道は佐竹宗家の当主義真を毒殺して自分の長男義明に宗家を継がせたという噂もあり、相当な野心家であった。この義道の四男を義居(のちに政胤)という。義道は義居をどこかの大藩の養子にと考えていたが、こちらから持ちかけるわけにもいかない。
そんな時、どこかの交際の席で徳島藩江戸家老賀島政良と出会った。この賀島政良という人も我欲が強く義道と似たところがあったらしい。義道は賀島の性格をたちまち見抜き、賀島のことを調べてみた。すると賀島家はもともと1万石の知行であったが、祖父の代に何か失敗をやらかして5千石に減知されていることがわかった。義道は賀島を屋敷に招いたりして親しくなっていき、ある時5千石を1万石に復するためには、自身が藩主を擁立すれば大恩を負った藩主がすぐに加増をすると吹き込む。その擁立する藩主とは、もちろん義道四男の義居のことだった。ここに賀島は宗鎮の世子重矩を暗殺し、その跡に養子として義居を入れるという密約を義道と交わした。そして世子重矩が上屋敷に来たときに酔い覚ましに出した薄茶に毒を仕込んで、重矩を殺したというのである。これで義居を世子に推薦すれば…ところがそうはうまくいかなかった。
重喜、藩主となる
宗鎮は今度は三代前の綱矩の子隆寿の子で、やはり分家を立てていた重隆を世子としたのである。賀島は落胆したが、そこは陰謀家であり、すぐに次の計略を巡らす。今度は世子だけでなく藩主ともに毒を盛ることにした。さすがにすぐでは怪しまれるので、人々が重矩の死を忘れるまで待った。重矩が死んでから3年ほどして、もうよかろうというので、やはり上屋敷での酒宴のおりに酒に毒を入れて出した。この時は賀島も杯を頂戴して飲み干し、後で解毒剤を服用したという。
数日後、毒が効いて宗鎮、重隆とも不例となった。死にはしなかったが廃人同様となり、公儀向きのことにはとても耐えられないということで、宗鎮は隠居、重隆も廃嫡ということになった。ところが、ここでも養子として義居が…ということにはならなかった。高松藩から急遽宗鎮の弟至央が養子に迎えられて10代藩主となった。しかし、この至央はわずか2ヶ月あまりで急死してしまう。ここでやっと義居が養子に迎えられて、名を重喜と改め阿淡両国の太守となるというのが前半である。
一般にはこのように語られているが、賀島政良は宝暦2年(1752年)5月に4千石を加増されている。目標であった1万石には千石足りないが、良しとしなければならない。ところが、この宝暦2年というのは重矩が死去した翌年であり、重隆はまだ世子とはされていない時期である。(重隆が世子となったのは宝暦2年10月) であれば、賀島は何も危険を冒してまで宗鎮と重隆に毒を盛らなくてもいいわけで、これをもって前記の話は相当に脚色されたものといわれている。
おそらく賀島がかなり我欲の強い人間であり、評判の悪い人間であったのは事実であろうし、また義道と交際があったのも事実であろう。そこに重矩の不審の死、さらに宗鎮と重隆の急病、至央の急死が立て続けに起きた。江戸家老の賀島は、この時点で迅速に動かなければ蜂須賀家は取り潰されてしまう。国許には相談する暇もなく、かねてから昵懇の佐竹義道の子義居を急養子としたのであろう。義居改め重喜という人は、世評はともかく徳島藩では悪評の高い藩主であるから、後世これらを含めて賀島が必要以上に悪役に仕立て上げられた感がある。
重喜の初入部
さて騒動後半である。義居改め蜂須賀阿波守重喜は、宝暦4年(1754年)8月幕府より朱印状を貰い、正式に藩主になった。翌宝暦5年阿波に初入部する。このとき重喜はまだ18歳であった。重喜という人は決して愚昧な人物ではなく、むしろ聡明な人であった。この時もある考えを持っていたといわれる。それは藩主への権力の集中、一種の独裁制に近いものの実施であった。このころの徳島藩の体制は家老仕置、つまり藩政を行うのは家老であり、藩主はある意味象徴的な存在であった。もともと藩政初期の四代綱通の代までは藩主の直仕置またはそれに準じる政治体制であった。しかし五代綱矩は正勝の血は引いているとはいえ、家臣に降下して家老となった家から養子に入った。それがコンプレックスとなって藩政を家老に委ねた。綱矩の治世は52年にも及び、その間一通も判物を発給しなかったという。
この綱矩治世期以降、家老仕置が常態化し、それがやがて家老の専横を招くようになった。綱矩が没した後の藩主たちは、これを藩主独裁に戻したいと願ったが、いずれも果たせなかった。重喜が藩主として独裁制への回帰を目指したのは、乱れ始めた藩内秩序を回復する意味でも当然のことであった。重喜が独裁制、藩内秩序の回復を図った最大の理由は財政の逼迫にあった。このころには全国諸藩が例外なく財政難に陥り、徳島藩でも財政が逼迫し、累積赤字も巨額になってきている。家老以下役人に任せ切りにしていると、役人というのは昔も今も旧態を変えようとしないから、財政は悪くなる一方であった。
当然改革が必要となるが、封建制度下において改革を行なうためには上からの指示、つまり藩主が方針を示して率先してやっていくしか方法はない。そのために権力の集中が必要であると重喜は考えていたようだ。ここに一つ障害がある。それは重喜が他家から来た養子で、しかもそこが2万石の小藩であったことである。徳島藩の藩士たちは、口ではいろいろと尊ぶようなことを言うが、「しょせん2万石の小藩より入った繋ぎの殿様」と思っている。これは当時の一般的な考え方であり、重喜も当然知っていた。繋ぎの藩主とは、家老に言われたとおりに行動し、嗣子を残すのが仕事で、それ以外のことは家老に任せておけばいいのである。このあたり凡庸な人間ならそのまま受け入れるのだろうが、聡明な重喜にはコンプレックスとなった。
初入部の時、徳島城の城門に近づくと「まず武器庫を見たい。武備の検査をいたす」と言ったという。これには家臣も驚いた。太平の世が続き武器庫など名のみで、中身はいいかげんにしてある。これは何も徳島藩だけのことではない。重喜もそれを知っていての発言だが、仮にも藩主の言だ。誰も答えられず、それを見て重喜は家臣たちを叱責したという。この一事が、この後の重喜と家臣たちの関係を表している。重喜にすれば小藩からの養子と侮られないための示威的な言動であったのだが、家臣たちからすれば意地悪でひがみっぽい殿様ということになる。初入部のとき、まだ城に入る前からこの有様であった。
職班官録の制
重喜は先に書いたように藩主独裁論者であった。しかも自分の考え方ややり方に自信を持っていた。もっとも独裁など自信がなければできるものではない。重喜は阿波に1年いて、宝暦6年(1756年)参勤のために江戸に向かった。その際に、
・奉行に少しでもも私曲があれば調べて江戸に報告し、指図を待て。
・士民で大罪を犯した者や藩士のうち遊学する者、病気の療養で国を離れる者は江戸に申告して藩主の決済を得よ
などと指示していった。権力集中化政策の第一歩であった。
宝暦7年(1757年)は在府、翌8年に再び阿波に戻った重喜は、ここでとんでもない爆弾を投げた。この爆弾の名を職班官録の制という。なお、職班官録の制とは「阿波国最近文明史料」の呼方で、蜂須賀家文書では役席役高制と表現している。早い話が家臣の知行地を固定給部分と職能給部分に分ける制度である。封建体制のもとでもっとも重視されたのは家柄であり、家柄と職は連動していたといってよい。家老は家老になれる家の中から選ばれた。能力があろうがなかろうが、あるいはほかにもっと能力のある者がいようが関係はなかった。逆に家柄が低ければ、どんなに有能であっても重臣クラスにはなれなかった。職班官録の制は、これを打破するのが目的だった。
それに一度職に就いて加増がなされると、その職を辞しても加増はそのままであった。これが藩財政圧迫の原因の一つであった。これも含めて各家に固定給を付し、役職に就いたときだけ役職給がつき、職を辞せばまた固定給だけになる。現代では珍しくない制度だが、この当時の武士の最重要なものは封地であった。封を増やすために戦い、その戦いのプロが武士である。天下泰平となって戦いはなくなったが、武士の考え方まで変ったわけではない。職班官録の制は、その根本を否定するものであった。
この制度はなにも徳島藩だけのものではなく、八代将軍吉宗も足高の制として幕府で実施しており、他藩でも行なわれていた。そういう制度であったから家老たちは内心は反対ではあったが、表面上は受け入れようとした。唯一人を除いては… 反対したその家老を山田織部真恒という。真恒は重喜に対し諌書をしたため反対した。諫書の趣旨は従来の体制を重喜一人の考えだけで変更するのは先祖に対して尊敬の念が欠けており、嫡流であっても3年間は父道を改めないのが道理であるのに、養子であればなお一層父祖の道を改めるには慎重であるべきというものであった。
重喜はこの諌書に激怒し、隠居すると言い出した。山田の諫書の新法反対の部分は多くの藩士の賛同するところであり、表立って争論とならなかったが、重臣たちは不遜な表現の部分を攻めた。そして重喜に対し隠居を思いとどまるように願い出た。重喜もこのままでは大騒動に発展しかねず、幕府からも責任を問われるのでは志半ばとなってしまう。重喜は隠居をやめ山田真恒を閉門とし、その代わり職班官録の制は引っ込めた。
対立の激化
宝暦10年(1760年)重喜は出府し、翌11年に帰国する。この年あたりから重喜と家老たちの対立は段々と激しくなってくる。まず、会計検査をしたところ、藩の歳入をはるかに上回る歳出が続き、負債が30万両もあることが重喜に報告された。重喜はすぐさま倹約令を出し、隠居すると言い出した。家老たちへのあてつけである。次に平島公方問題が起きる。平島公方とは戦国時代に阿波に避難した足利十代将軍義稙の子義冬の子孫のことである。避難したといっても当時の阿波守護であった細川氏とその執政三好氏に匿われたのであるが、この子孫が連綿と那賀郡平島に住し、この頃でも平島公方といわれ敬われていた。
所領はわずか百石だが家柄がいいから公家衆を初め交際範囲が広い。交際費が不足気味なので百石の加増を要求してきた。これを聞いた重喜は、百石の加増をするのに条件を付けた。格式を捨てて徳島城下に住み家臣となるなら百石の加増を聞くというのだ。没落したとはいえ相手は源氏の名門で蜂須賀家などとは比較にならない。その名門意識だけで生きているようなものだから、絶対に承諾できるような条件ではなかった。このあたり重喜の小藩出身コンプレックスから抜けきれない。結局、条件をつけただけで参勤のため江戸に出府した。
江戸に入った重喜は大倹約令を出した。まず藩主の費用を千両から2百両、つまり五分の一とすることを宣言、食事も質素にし衣服も原則として新調せず、乳母の数も一人にするなど徹底したものであった。ここに国許から報せが入る。家老合議のうえで平島公方に百石の加増をしたというのだ。激怒した重喜は怒りの手紙を国許に発する。驚いた国許では賀島政良ら家老が弁明のために江戸に出てきたが重喜は会わない。ついに筆頭家老の稲田九郎兵衛まで引っ張り出した。
重喜は稲田には会った。そして稲田を説得して味方にしてしまったのだ。このあたり筆頭家老とはいえ稲田九郎兵衛は、あまり頭の出来が良くなかったらしい。この結果、重喜の改革が矢継ぎ早に実施される。まず大倹約令、公儀向きを除く一切の費用の節減であった。次に景気浮揚策として淡路国由良港の開港と城下郊外大谷の藩主別邸の建造、藩からの借金の帳消し、社倉の設置、それ増税である。ところが宝暦12年(1762年)に帰国すると、ここに意外な事件が起きていた。先に閉門を申し渡された山田織部真恒が重喜を呪詛調伏していることが発覚したのだ。既に閉門は解かれていたが、山田は重喜に対する不平不満の塊となり、呪詛に走った。
山田の呪詛の一件は、徳島城下近郊の沖浜村にある歓喜院という山伏が行った。山田はこの歓喜院をもともと信仰しており、正妻の安産祈願などをしていたが、重喜を憎むあまり歓喜院に重喜呪詛を依頼した。山田家は徳島藩では稲田家、賀島家に次ぎ5千石を給される家老の家柄であった。これほどの重臣が藩主を呪詛するなど謀反である。山田は捕らえられ切腹させられたが、これは当然至極なことである。重喜にすればこの一件は、改革に向けて大きく前進するための格好の材料であった。山田の行動そのものにも大きな問題はあるが、これほどの敵失は望んでも望めるものではなく、重喜は独裁性実現に向けて動き出すこととなる。
幕府の介入
この後明和3年(1766年)初頭、帰国中であった重喜は念願の職班官録の制の実施に踏み切った。第一班を家老として定員5名、知行は5千石〜1万4千5百石、第二班中老で定員37名、知行は4百石〜3千石、第三班は物頭で定員12名、知行は5百石〜千石、以下中下級に及ぶ。さらに門閥を打ち破るための抜擢人事を行なった。ところが、この前後の阿波は水害や日照りなど天災が続き、士民の不平不満は高まり、その怒りの矛先が重喜の改革に向かった。
そこに追い討ちをかけるように明和4年(1767年)幕府は木曽川と揖斐川の治水工事の公役を課してきた。この時期にと重喜は歯噛みしたことであろうが、幕命であり拒否はできず、なんとかやり繰りして乗り切った。これなども幕閣に対する根回し資金の不足が遠因である。さらに平島公方問題が再燃した。平島家では重喜を危険人物と見做し、格式の保全や増録を目指して広範囲な運動を展開した。江戸城大奥の実力者であった老女松島や川越藩主松平家などの親族、親交のあった京都の公家衆などを引き入れての大掛かりな運動であり、これだけでも重喜を隠居させるに充分な勢力であったともいわれている。
明和6年(1769年)重喜は参勤により出府した。藩内の対立、不和は幕府に聞こえ、幕府は、
・ 代々の家法をなぜ乱したか
・ 国民が難儀に及んでいると聞くが、これは新法のせいではないか
・ 重喜は遊興におぼれ、国民が難儀しているというが本当か
と質問してきた。重喜はこれに対して一切の弁明をしなかった。おそらくストライキであろう。内政について幕府に介入されるいわれはない。幕府に何者かが訴えたのだろうが、それを真に受けた幕府の問いに不信の念を抱いたのだろう。
徳島藩では親戚の高松松平家などに相談し、隠居願いを出すか押し込めするかとまでなったが、結局幕府により同年10月強制的に隠居させられ、家督を嫡子治昭に譲る。明和7年(1770年)に深川の下屋敷に移り、安永2年(1773年)に帰国を許された。帰国すると完成していた大谷の別邸に入り、今度は著名な金蒔絵師観松斎桃葉を召抱えたり、陶芸や茶道に嵩ずるなど派手で豪奢な生活を始めた。これがまた幕府に聞こえ、幕府は重喜を江戸に呼んで幽閉しようとしたが、治昭は老中に哀訴し、江戸幽閉は免れた。治昭の諌めもあって、以後は質素な生活に戻り、享和元年(1801年)10月20日64歳で死去した。
おわりに
この時期、15万石の出羽米沢藩では上杉治憲(鷹山)の改革が始まる。治憲の襲封は明和4年(1767年)だから重喜の改革の末期で、恐らく治憲も参考にしたのではないか。治憲も小藩から養子に入った人物で重喜と同じような立場にあり、藩内の反対派の反発も徳島藩と同様であった。しかし治憲は成功し、今でも江戸期を通しての名君中の名君と評価されているし、米沢でも尊敬されている。対して重喜の評価は改革に失敗した藩主とされ、徳島でも評判はあまりよくないという。
治憲は抵抗にあうと説得した。重喜の失敗は説得せずに強い態度に出たり、拗ねたり、いやがらせの行動をしたりした。聡明すぎたのだろう。言ってわからなければ強行し、そのうち言うのも面倒くさくなった。わからない人間に言うのは無駄だと考えたのかもしれない。幕府から詰問されたときに弁解しなかったのも、ストライキの一種だ。これでは人は付いてはこないし、反発するばかりである。重喜の改革は見る限り積極的であり、まっとうなものが多い。反対するほうがどうかと思うものばかりである。打ち続く天災など不幸な面はあったにしろ、やり方さえ間違えなければ成功し、上杉治憲とともに名君と称えられたかもしれない。  
 

 

蜂須賀重喜
阿波徳島藩第10代藩主。
元文3年(1738年)、出羽秋田新田藩主・佐竹義道の四男に生まれる。母は内藤政森の娘。幼名は岩五郎、初名は佐竹義居(さたけ よしすえ)。
宝暦4年(1754年)8月25日、阿波徳島藩第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任する(至央は第8代藩主・蜂須賀宗鎮の実弟で、兄弟ともに讃岐高松藩松平家の一門松平大膳家からの養子である)。養子入りに際しての諱を政胤(まさたね、「政」は藩祖・蜂須賀家政の1字を取ったもの)と改名する。この末期養子は、相次いで後継ぎが早世したために、家老の賀島出雲の提案により決定した。しかし、阿淡夢物語によれば、義道は四男である義居をどこかへ養子に入れようと画策しており、賀島出雲を懐柔して、義居が藩主になるよう根回しした結果徳島藩へ養子縁組が決定したとされる。しかし、阿淡夢物語のこの記述は潤色であり、事実ではない。
同年9月15日、第9代将軍・徳川家重に御目見する。同年11月25日に元服して家重より偏諱を受けて重喜と改名、従四位下阿波守に叙任する。後に侍従に任官する。
宝暦5年(1755年)4月15日、初めて領地に赴任する許可を得る。留野留川の規制という法令を出し、家中の統制を図る。宝暦・明和期の藩政改革の萌芽と言える(中期藩政改革)。重喜が中心となって行なった改革の内容は、財政再建としての倹約令の施行と、藩体制の変革としての役席役高の制、若年寄の創設などであった。役席役高とは第8代将軍徳川吉宗(家重の父)の享保の改革で行なわれた足高の制を模範としているが、身分序列の崩壊を招いたことで、その性格は異なる。
明和6年(1769年)10月晦日、藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(のち治昭に改名)に家督を譲る。重喜32歳。隠居後は明和7年(1770年)5月、江戸小名木屋敷に移り、大炊頭を称す。安永2年(1773年)、療養のため国元へ帰り大谷別邸に住む。天明8年(1788年)、かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、同年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。
享和元年(1801年)10月20日、富田屋敷で卒去した。享年64。
阿淡夢物語によれば、女漁りを行い淫行に耽溺し、家臣達にも淫行を促したと書かれている。
重喜は小さな藩の生まれであるコンプレックスがあったとされ、それゆえ功を焦って性急な改革を行ったと言われる。 
■阿波踊り

歴史的に阿波の四季を彩る民衆芸能は数多いが、人形浄瑠璃と阿波踊りの知名度は抜群のものがある。とくに阿波踊りは今日においては海外にも関心がもたれ、「阿波といえば阿波踊りの国」とまで認識されるまでになっている。しかし、この踊りがどのような起源をもち、またどんな展開を経て今日に至っているかについては、ほとんど知られていないというのが現状で、その歴史的な研究は今後における阿波踊りの、さらなる発展を図るためにも緊急の課題となっている。
ところで歴史的に徳島城下で、特定地域の町人たちが相互の安全や人的結合を願って発生し、また、他地域との交流を通じて異質な芸態が影響し合ったり、時代の経過とともに創造が加わることによって、著しい変遷がみられることは、民衆芸能のもつ特質だといえるだろう。それにもかかわらず民衆芸能の展開について正確に伝えてくれる記録はほとんど皆無の状態に等しいといってよい。 阿波踊りについても決して例外ではなく、そうした事情が阿波踊りの歴史的研究を困難なものとしてきたはずである。
さて、阿波踊りの芸態上の特徴は、不特定多数の徳島城下の町人たちが、市中にくり出して大乱舞を展開するものであるので、僅かな刺激によって暴動化する危険性もあった。しかも盆踊りという宗教的なイベントとして盛り上がった踊りであったため、抑圧することもできず、領主の側からすれば不安がつきまとったのは当然である。つまり、精霊踊りを建て前とする踊りであるため全面的に禁じることもできなかった。そのうえ踊りを経済的に支えていたのは、各町における富商層で、これら富商たちは藩財政を支える大切な人びとであったことも、藩にとって踊りを規制することを困難にしていたことにも注目しなくてはならないであろう。
こうして藩は城下の盆踊りに対して、手を拱いていたかというと、決してそうではなく、組踊りや俄踊りなどのような、「有来りの踊り」といわれていた精霊踊り以外の踊りに対しては、たびたび禁止したり、きびしく取り締っている。それはこれらの「有来りの踊り」に合流してきた異質な踊りは、宗教的な基盤をもっていなかったからだと考えることもできる。これらのことは阿波踊史を考えるうえで、きわめて重要な視点であろう。 そのような視点から藩の民衆芸能政策のあり方を明らかにすることは、幕藩制国家の領民支配の特質を理解するうえで、研究上の重要な契機となることを疑えない。
以上のような阿波踊りと藩政の関わりのほかに、踊りの芸能史的な展開過程を明確にすることこそ、もっとも興味深い課題である。いまも一般的には蜂須賀家政による徳島城の完成を祝って、城に招かれた町人たちが踊り狂ったのが、この踊りの起源だとする俗説が信じられている。しかし、史実は城下の町人が盆踊りとして盛り上げてきた踊りであり、この踊りに対する藩の関わりは、踊りに水を差し、きびしく規制しただけのことである。 その事実を明らかにすることも大切であるとともに、藩の禁止や取り締りが強化されるたびに、踊りの芸態に変化がみられたり、藩に対する抵抗も強まっていることなども、興味深い研究対象であろう。
いずれにしても、阿波踊りは阿波が誇り得る郷土芸能であり、ますますその発展を期待するためにも、その歴史から多くのことを学び取り、より創造性を加えることは大切であろうと思う。そのような意味において、できる限り多くの阿波踊りに関する歴史上の情報を、読者のみなさんに提供しようと考えているが、それらの情報が阿波踊りのさらなる発展のために役立てられるとすれば、私としてそれこそ望外のよろこびである。 
1 徳島城下における盆踊りの発生
1 ぞめき踊り
「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。具体的には二拍子の軽快で陽気さを特徴とする踊りで、今日の阿波踊りというのは、基本的にこの踊りを継承するものである。また、この踊りのことを徳島藩では御触書などの文書では「有来りの踊り」と表現しているが、それはこの踊りが城下における盆踊りの源流であるとともに、盆踊りの主流と考えられていたことを明確に示している。
現代の阿波踊り
さて、ぞめき踊りを描いた最古の絵画史料とされているのは、徳島市の森家所蔵の鈴木芙蓉の筆になる作品で、寛政期ごろの芸態を知る手掛りとされている。その特徴は風流傘の下で歌い手と三味線を弾く人が鳴物方を担当し、それに合わせて数人が輪になって踊っている。 踊り子の頭に注目すると、揃いの頭巾をつけていて、そこには祖霊を迎えるための姿の一端が表現されている。これは明らかに盆踊りであり精霊踊りを描いたものである。こうした踊りは小規模なもので、多分このような盆踊りは各町で迎え火を焚いて新仏を迎え入れ、供養のために空地や辻で踊ったものと考えることができよう。
こんなタイプの踊りとして、いまも踊られているのは津田(徳島市)の盆踊りである。津田では漁師やその家族たちが海岸に集い、迎え火を焚いて新仏の名を海に向かって呼ばわり、仏とともに踊るというものであって鈴木芙蓉の絵と、ほぼ同一の芸態をもつことを知る。そう考えたとき徳島城下の町屋の整備がすすむ過程で、津田をはじめ周辺部の村浦で演じられていた盆踊りを城下の町人たちが真似て、盂蘭盆行事として定着していったものこそ、ぞめき踊りの発生であったと考えてよいと思うのである。
その直後の文化・文政期になると、阿波では藍玉の全国市場への進出が著しくなる。当然のように城下における経済活動も活況を呈するようになり、踊りに加わる町人たちも急増して、踊りの輪が大きくなると、辻や空地では踊れなくなり、往還道にくり出して踊りすすむ練行型の踊りに変化していったのであって、今日の阿波踊りによく似た踊りが形づくられていった。そのように練行型に変化したぞめき踊りは、今日に至るまで大規模化の一途を辿っている。それは同時に原初の宗教性を稀薄化し、次第に遊芸的な踊りに転化していくのだが、いずれにしても大規模化すると藩による取り締りも困難なものとなっていくのは当然である。そこで藩は天保期から盆踊りの町切り策を断行しているが、それについては次章で詳述する。
2 組踊り
ぞめき踊りに対して、最初から大規模の踊りとして華麗さを誇っていたのが組踊りである。この踊りは中世の畿内で人気を博した風流踊りを継承するもので、戦国末期の畿内を征圧した三好政権を、軍事的に支えた阿波の国人衆の間にも大流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事となって定着していたようである。天正6年(1578)の盂蘭盆には、時の城主十河存保は京都から風流の芸能集団を招いて勝瑞城内で演じさせ、だれにも観覧することを許したことが福島玄清の『三好記』に詳述されていて、当時の阿波に風流熱が高揚していたことを知ることができる。
勝瑞城は同10年に長宗我部元親によって落城させられ、その後は同13年に蜂須賀家政が阿波入部を果たすと、その居城として徳島城を築城し、その周辺に城下町を整えていくが、その町屋には続々と勝瑞城下から商工業者が移住しはじめ、やがて城下の町屋における多数派が形成されていった。町屋の整備がすすみ、町内の結束を強化することが必要になってくると、城下の中心部である内町や新町の町人たちの氏神である春日神社の秋祭りのとき、勝瑞から移住した町人たちを中心に、風流踊りを復活して各町が組踊りをくり出して競演するようになった。その記録として注目しておきたいのが『春日祭記』という慶安3年(1650)の記録である(四国大学図書館蔵の凌霄文庫)。
組踊りというのは100から120人ほどの大規模な踊りで、華美な舞台で小人数で演じるメインの踊り(中踊り)と、その回りを多数の踊り子が回り踊りで景気づけるほか、踊りを乱されることがないように警固役を配していた。この踊りは本来華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙った贅をつくした踊りであった。
藩政初期の組踊りは、そのように春日神社の神事として当社の氏子によって演じられていたが、助任・福島・富田・佐古などの町屋にも勝瑞からの移住者は多い。それぞれわが町でも風流踊りを復活したいと思うようになるのは自然である。ところが藩の側からすれば、各町が氏神の神事として大規模な組踊りを奉納することになると、9月17日の春日神社から10月末の金刀比羅神社の祭礼まで、毎日のように城下のどこかで華麗な組踊りが演じられ、それを観ようと見物衆が押し寄せると、約半月に亘って市中の日常性が失われることになる。そのために神事から分離して盂蘭盆の3日間に集中して演じるように、藩が指導したものと考えられるが、それがいつごろのことであったかについては、史料がないので即断はできない。しかしそのような経過を辿ったことは確実だと思う。
その後の組踊りは大踊りといって、盆踊りの主流に踊り出てきたが、その最初のピークは元禄期のことであったと考えられる。藩としてもそのころまでは組踊りを奨励こそしなかったものの、呉服商や諸職人にとっては盆景気によって儲かるし、それは藩財政の収入増を期待できるイベントとして、規制することが決して得策でなかったものと考えられる。こうして初期の組踊りを経済的に支えていたパトロンは、各町の特権的な初期豪商たちであるが、この踊りがピークに達した元禄期は、阿波藍の需要が急増したことから、城下にも新興の藍商や肥料商などの進出が目立つようになって、藩の経済政策も転換期を迎えることになる。そのような状況の変化を背景にしてやがて、組踊りは下火になっていくことを避けられなかった。
3 俄踊り
18世紀になると徳島城下では、藍商をはじめとする新興商人の進出が顕著となる。それは相対的に初期豪商の後退を意味するが、そのような経済変動を背景として、組踊りが徐々に減少していったのに反して、新興商人によって俄踊りが盛り上げられ、盆踊りの3日間の賑わいを大きく支えていった。
もともと俄踊りというのは阿波特有の芸能ではなく、上方をはじめ諸国で盛んに流行していた民衆芸能である。
その基本は即興の寸劇のことで、1人または数人で歌舞伎・人形浄瑠璃などの真似ごとを演じたり、世相を風刺したり寄席を真似たり、さらに声色や手品を演じるものなど、まったく多彩な芸態に分けられる。その契機となったのは江戸や大坂に藍玉を売り込んだ藍商たちが、歌舞伎風の衣裳を着飾って芝居の触りを演じたものである。ところが阿波の伝統芸能として人気があったのは人形浄瑠璃であるが、そのため旦那劇として義太夫の稽所が隨所にあって、少し腕を上げると人前で演じたくなるもので、人形のような衣裳で市中にくり出すことも多かったとされている。そのような俄芸のことを衣裳俄と称し、盆踊りで賑わう市中で、見物人の集まっているところに出向いて寸劇を披露した。この衣裳俄は富商でなくては演じることができなかった。
しかし、豪華な衣裳を纒うことなどできなかった下層の町人たちは、浴衣で目隠しをして落語の小咄や声色、風刺劇や手品などによって市中の人びとから拍手喝采を得ながら、城下狭しと走り演じたのである。そのためこのような俄芸のことを走り俄といった。
もっとも興味深いのは早俄と子供俄であろう。早俄は若い家臣たちが歌舞伎衣裳に身をやつして俄を演じるものだが、寛文期から家臣に対する禁足令が出ているため、市中で公然と演技することはできない。そこで衣裳を持ち歩き、商人たちの宴席に招かれて演じ、もちろん酒食や礼金が出ることになる。 それほど家臣たちの生活が窮迫していたという経済的な背景があったといえるが、当時の町人文化は武家社会にも深く浸透していて、芸事に大いに魅力をもっていた家臣が多かったことも、このような早俄を盛行させる要因であったことを否定できない。
このような家臣たちの行動は、藩とすれば身分制を動揺させ、藩の支配を弱体化させる由々しき現象と捉え、徹底的な禁止に踏み切っている経過も注目されるが、それについては次章で詳述したい。
武家社会との関わりで、いま一つ注目しておきたいのが子供俄である。子供俄は衣裳俄の子供版と考えてよいが、盆中に市中に出ることを禁じられている武家は、子供俄を屋敷に招き入れて演じさせることが多かったといわれている。 これについても次章に譲るが、多分俄を演じた後は、武士とその家族たちも子供たちとともに賑かにぞめき踊りで盛り上げたものと考えられ、禁足という抑圧からの解放感を満喫したものであろう。
いずれにしても、18世紀から盛行に向かった俄踊りは、武家社会も町人社会にも深く浸透することによって、市中の盆踊りをも大いに盛り上げていたことを、藩の触書や記録の断片などによって知ることができる。その他に昼間の市中を彩った三味線流しも、俄踊りとともに流行したことであろう。
以上のようにぞめき踊り、組踊り、俄踊りは、それぞれ芸態を異にするだけでなく、その発生の背景も相違している。もともと本流とされる踊りがあって、他の踊りはその本流から派生するというようなものではなく、まったく異質の踊りが、それぞれ個性を発揮しながら盆の市中に混然と覇を競っていたというのが、18世紀以降における近世城下の盆踊りであるということを、正しく認識しておくことが大切であろう。 
2 藩による盆踊り支配と町人勢力
徳島城下の盆踊りに対する藩の規制として最古の史料は明暦3年(1657)の触書である。それはこの触書が出されたころには、藩が取締りを強めなくてはならないほど、隆盛に向かっていたと類推できるであろう。この触書によると盆中の踊りを取締ったのは20人の町横目(下級藩士)で、もちろん町奉行の下でその任を担っていたが、この史料には取締りの具体的内容については何も示されていないことから考えると、市中に群衆が乱舞するほどの盛り上りは見られなかったのではないだろうか。
ところが、それから14年後の寛文11年(1671)の盆踊りに対しては、触書の内容は具体的なものになってくる。もちろん、このころから延宝期(1673〜80)にかけては、徳島藩政の確立期に当たり、身分支配の体制が急速に整備される画期的な段階である。そのような藩体制の整備を背景にするとともに、当時の徳島城下は都市的な構造も充実し、それに伴なって盆踊りも組踊りが合流したこともあって、踊りの規模も大きくなり、見物人も市中に溢れるようになってきた。そのようにして藩の盆踊り規制も具体的なものとし、取締りを強化しなくてはならなくなったことが考えられる。この触書は次のような3項目を示している。
1) 盆踊りは7月14日から16日までの3日間に限ること。
2) 家中は盆の3日間の外出を禁じられ、どうしても踊りたければ門を閉ざした屋敷内で踊ること。
3) 諸寺院に踊り込むことを厳禁する。
この触書が出されたことによって、藩による盆踊り規制が本格化したと考えることができるが、この種の規制は他の諸藩においては早期に示されているもので、鳥取藩などでは承応期(1652―54)という18年ほど以前に出されている。しかも、その内容はそっくり鳥取藩の触書を真似されていることも興味深いことである。
この触書で盆中の武士に対する禁足令を命じていることは、盆中の城下では人が溢れ、市中の喧騒に家中が巻き込まれることが、藩の権威の低下につながるといった危惧を表現していることに注目しなくてはならないのではないだろうか。
貞享2年(1685)は徳島立藩からちょうど100周年に当たる年であり、城下町の整備も著しくすすんでいた。そのときに出された盆踊りに対する触書は、その後の取締りの基本となったものである。それは寛文の触書が寺院に踊り込むことを禁じるだけのものであるのに対して、家人の動向も監視できるように開放することや、見物人は整然と見物することを命じるなど、踊り子だけでなく見物人にも規制が及ぶようになっている。
その直後の元禄期にかけて、次第に規制が強化されていくが、17世紀末から18世紀初頭の徳島藩は財政事情も悪化していたし、城下の商人による経済活動は活発化し、窮乏化する家臣の風紀も乱れてくることなど、身分制の矛盾も徐々に顕在化した段階があった。盆踊りに対して具体的で細かい取締りが必要になってきたのは、そのような社会経済的な背景を反映しているものと理解できる。
徳島藩における貞享・元禄期の動向は、吉野川流域農村部に広大な藍作農帯を形成し、藍商たちの市場進出もめざましく、また「肥食い農業」として知られるように、干鰯や油粕などの大量の金肥を必要とした藍作のため、肥料商も活躍の場が用意されたのである。
これらの藍商や肥料商は徳島城下に進出し、とくに船場や新町に店舗を構え、新町川畔に藍玉や肥料を貯蔵するための土蔵を建て並べ、これら倉庫から直に積み下しできるようにしたので、この一帯は徳島城下の経済活動の盛況に向う様子を象徴する景観を形成していったのである。
経済活動が盛り上がりをみせたことによって、藍商や肥料商をはじめ新興商人の下に、労働力も急速に吸収されるようになると、徳島城下はその積極的な経済活動によって注目を集めるようになり、全国的にも10指に数えられるような大都市に発展した。そのように藍を核とする経済活動の拠点化がすすむようになると、当然のように藍商などの藩に対する発言力も強まって、町人勢力は大きく台頭することを背景として、町人文化も形成され、それは盆踊りにも大きく反映されるようになるのは必然であった。
そうした城下の経済発展を背景として、藩の盆踊り対策のうえでも、貞享・元禄期は画期的段階を迎えていることを、当時の法令から読み取ることができる。そこで、貞享2年(1685)の触書に注目すると、在来は規制されていなかった見物人に対する細かい取締り方針が示されている。そこには市中の盆踊りが大いに盛り上がり、見物人もその数が激増したことによって、取締りも容易でなくなったことを反映していると考えられるだろう。また、藩祖家政の城下町建設の着工から、ちょうど100周年というこの年には、町屋にも商家が建ち並び、それまでの盆踊りが辻や空地で行われていたものが、空地などがなくなれば精霊の輪踊りも、街路にくり出す練行型のものに変化し、踊りの集団も大きく膨れ上がってきたと考えられる。そのように貞享規制が出された背景には、今日の踊りに継承される練行型の踊りが発生し、市中は喧騒の巷と化してきたという、決定的な変化に対応するための規制強化であったと考えざるを得ないだろう。この触書が出されたころから、ますます城下は繁栄に向かい、踊りや見物人口も激増するため、その規制も困難となっていった。
徳島藩の経済活動は一貫して活気に満ちていたが、それに対して徳島藩の財政事情は悪化の一途を辿っていた。10代藩主の重喜が襲封した宝暦4年(1754)には、藩は莫大な負債で窮迫し、家臣層の窮乏化も目に余るものがあったことが記録されている。こうして重喜とその子で11代藩主治昭は、たびたびの藩政改革を実施することによって、藩財政の建て直しに全力投球しなくてはならなかった。その改革は当然のように増税をめざし、領民に質素倹約を押し付けることを基調としていた。また、家臣たちに対しても風紀を引締めることを命じるものであった。それは盆踊りにも大きく反映することを避けられなかったが、もっとも規制の対象とされたのは華麗な芸態をもつ組踊りや衣裳俄であった。こうして盆踊りの本流である「有来りの踊り」といわれていたぞめき踊りと、浴衣懸けでも演じることのできる走り俄などは許したが、こうした抑圧は城下の盆踊りの態様を大きく変容させるものであった。
そのような藩の対策は、当然のように町人社会の反発を招いたようである。組踊りが禁じられたことから、城下周辺の各所では密かに組踊りが演じられていたことが記録されていることも注目しておきたい。また、盆中に顧客を招待した商人たちは、その宴席に武士による早俄を招いて演じさせるなど、藩の規制の網目をくぐって、何としても踊りの伝統の火を消させないように苦心していることも、かなり多くの史料によって確認することができる。
これらの対策は藩による盆踊り規制の一例に過ぎないが、盆踊りは規制を受けるたびに不死鳥のようによみがえり、そこに新たな創造を加えながら、より魅力的な芸態を生み出すとともに、その規模も限りなく大きくしている。そのようなところに盆踊りに対する城下町人たちの自負を感じさせるところがあるだけでなく、それに対して藩も取締りを徹底させることができなかった、どうしようもない経済的な背景があったことにも注目しておきたいが、いよいよ藩政の危機を深める天保期になると、もはや手心を加えられなくなる。 
3 城下の町人が盛り上げた盆踊り
18世紀初頭以来、城下の盆踊りが異常な盛行に向かったのは、城下の富商層の経済力を背景とする現象であったことは、すでに前章でも触れておいた通りである。ところが藩財政の窮迫は止まるところを知らず、宝暦・天明期にはいよいよ深刻の度合いを増大させていく。そのために当然のように、たびたびの藩政改革に取り組まなくてはならなかった。前節にも述べたように、10代藩主の蜂須賀重喜の行政改革も注目しなくてはならないが、主として藩債を整理して財政を再建するための方策にも注目しておきたい。この改革といっても富裕層からの借上をはじめ、藩が藍玉の流通過程に介入して取引税を徴収したり、運上銀や冥加銀を増徴しようとするものであった。そこで税収を確保することを目的として、倹約令を出し租税負担者の担税能力を落ちないようにしようという考えの一環として、盆踊りに対する禁止や規制を格段に強化したのである。
こうした藩政改革の一環として盆踊りを抑圧しているが、その取締りもかなりきびしいものであったと考えられる。ところが目下のところ藩政中期までの取締りの様子を伝える史料は発見されていない。そのことを理由として藩は盆踊りを取締らず、若干の違法も黙認しつつ町人層のガス抜き効果を期待したなどという主張もある。ガス抜き論は別としても、つねに藩は触書の線に添って盆踊りを取締らなかったなどと結論づけることができるであろうか、それは余りにも非論理的な考察結果のように思われる。ただ該当史料がたまたま発見されていないだけのことで、いつの盆踊りにもきびしい監視がつづけられ、厳重注意や指導が加えられていたものと考えられる。それは藩の権威を背景として、きびしい規制をしながらも、それを自ら形骸化するように規制違反の踊りを黙過しつづけていたとすれば、それこそ藩の権威は維持できず、自ら墓穴を掘ることになるからである。ただ、この種の史料が確認されていないということは、町人層が藩に対して反発を強めることがないように、かなりな手心を加えていたと考えることはできるであろう。
そのことは城下の商人勢力が大きく伸びてきたことと、藩の盆踊りの取締りに町人層に対する、かなりの妥協を引出す重大な要因となったことを知らされるであろう。逆に考えれば藩の城下支配はきわめて困難であったことを考えさせる。そのような藩と城下商人との妥協が現実に行われていたとしても、幕藩制の下では領民に対して藩の権威が目に見えて低下することは、何としても阻止しなくてはならないというのが、藩の最低限の取り組みであった。
そうした藩の妥協的側面=最低限の施策として盆踊り政策を考えてみると、触書の文面に見られるように、その抑圧方針は徹底したきびしさを打出していることが読み取れる。そこに藩の権威が誇示されているのだが、取締りには相当に手心が加えられていることは前に述べた通りである。
そのような事情は町人層の間でも深刻に受け取られていたものと考えてよい。つまり、藩に対する反発は極力押え、楽しい盆踊りを衰退させることがないように、一部に抵抗の動きがあったことも事実であるが、その大勢は藩による規制の手心に応えて、徹底した取締りの対象とされないように、心配りがされていたことも事実である。それにしても重喜・治昭の2代の治政の下では、一部例外を除くと町人衆の間で自己規制も徹底していたことに注意しておきたい。ところが2代の改革時代を経て斉昌治下の文化・文政期に入ると、盆踊りは再び盛り上がりをみせるようになってくる。その状況を具体的に伝えているのが藩が公儀に報告した「諸国風俗問状答」によって知ることができるが、それについてはこれまでに詳細に紹介しているので、ここでは触れないが、そこには藩政改革期と打って変り、徳島城下の盆踊りは未曽有の盛り上がりを見せていることを記している。
盆踊りが大きく盛り上がるということは、いわば踊り景気を通じて藩経済に還元されるという政治的効果が期待できたことにも注目しておかなくてはならないだろう。そのことに関しては徳島藩の財政運用の構造的な反映としての特質にも深く掘り下げた考察を避けることができないが、ここではその内容について触れる余裕がない。そのため盆踊りの直接的な経済効果だけに絞って考えてみることにする。
城下では盆踊りともなれば、踊り景気で浮き立った。とくに組踊りや衣裳俄はもちろん、娘たちの三味線流しには衣裳を新調し、とくに商家の親たちは豪華な衣裳を娘に買い与え、その華美を競う風があったといわれている。また髪結いや小間物商から雑貨商まで、その景気は俄然よくなる。また盆踊りの市中は見物人も大挙して市中に押しかけるために、酒食を商う小商人たちも大繁盛である。とくに組踊りが行われると舞台造りをはじめ、鳴物の楽器にも注文が殺倒する。それを盆景気と呼んでいたというが、こうして城下経済を活性化するうえで、藩もできることなら盆踊りを保護し奨励することによって、財政収入を増やすことができることは明らかである。それにも拘らず藩が盆踊りにきびしい規制を加えているということは、藩体制を動揺させ権威の低下を何としても阻止しなくてはならないという差迫った政治課題を抱えていたことによると考えなくてはならない。そこに徳島藩政の複雑な矛盾を感じ取ることができるであろう。
ここで大胆な推理を働らかせるとすれば、ぞめき踊りが今日の阿波踊りのような形態に固定するのは、ほぼ文化・文政期のことだと考えられる。こうして各丁ごとに集合して大集団を形成してぞめき踊りを楽しむようになるのだが、これを満足に踊らせるためには、伴奏である鳴物や囃が果たす役割は大きさを増してくる。多数の三味線や締太鼓の参加を不可欠とするが、その必要を充足させようとすれば、三味線の弾き手が急増しなくてはならない。それが可能となるのが文化・文政期のことだといわれていることからしても、この推論が必ずしも根拠のないことだとは考えることができない。
また、ぞめき踊りが宗教的な踊りから楽しく踊り、見物人をも浮き立たせるような踊りに変質を遂げたのも、この段階のことではないだろうか。そこに城下で藍大市が立てられるようになり、花街が隆盛をみせていったことが、重要な背景として考えられるし、そんなところから潮来節が伝わり、踊りの中にヨシコノ節が持ち込まれたことも、そのような事情を現出することになった要因だと考えることもできるのである。この文化・文政期は盆踊りを大きく変えていった重要な画期として位置づけることができるであろう。 
4 阿波踊り取締りの本格化
1 天保期の動向
天保期の徳島藩は全国的動向と同じく、天災や飢饉に見舞れたし、天保13年(1842)には藩最大の上郡一揆も発生するなど、藩の屋台骨をはげしく揺り動かした。とくに危機的状況にあった藩財政を建直すために、藩官僚の能力では対処できなかったことから、藍商の志摩利右衛門を財政方に登用し、利右衛門は領内の藍商をはじめとする富裕層の協力によって、莫大な国恩銀を掻き集め、やっと藩の負債を解消させたほどである。そのことは逆に商業資本の成長を意味し、その下において阿波踊りもますます遊芸化し、盆中の城下は騒然としてきたため、その風俗や治安も乱れていった。
藩とすればそのような阿波踊りを黙認することはできなかったものと考えられる。そこで天保期の踊りに対する規制として注目しておかなくてはならないのが踊りの町切り規制であろう。この町切り規制は鳥取藩などでは、すでに近世初頭に制度化されていることと比較して、徳島藩の場合は200年も遅れて実施されたことは注目に価しよう。そこには徳島藩が盆踊りの背後に存在した城下の有力町人との妥協を必要とした経済的理由や、盆踊りが宗教的な民俗芸能であるという建て前を考慮せざるを得ないといった、さまざまな理由があったものと考えられるであろう。しかし、踊りが時代とともに宗教性を薄め、遊芸化していったことや、家臣に対する禁足令が無視されるようになると、規制を強化することによって、藩の権威を回復させる方策が打ち出されることは必然のなり行きであった。そこに町切りが断行されて踊りを町内に閉じ込め、また家臣に対する風紀の引締めを強化するほか、町人に対しても違法な踊りをきびしく取締ることによって、城下支配を強化するための挺入れを図っていて、藩にとって天保期が危機的段階にあったことが知られる。
2 蜂須賀直孝の改易事件
ここに取り上げる蜂須賀直孝は10代藩主重喜の子で、幼名は次郎吉、中老の士組頭蜂須賀一学直芳の養子となり、天保元年(1796)6月10日に直芳の死により7月19日に家督相続して士組頭を勤めた。当時は11代治昭による寛政改革の厳格さが緩み、12代斉昌の治下で城下の町人社会には解放感が漂って、風紀も乱れがちで、その風潮は家臣層の間にも及んでいた。また天保8年(1803)から藩は家臣に対する綱紀引締めと、藩財政再建のために富商層への増税も意図される。そうした政策転換は盆踊りにも微妙に反映された。とくに家臣に対する引締め方針を出したが、そのためのターゲットとされたのが直孝である。
御老中千石の蜂須賀一学様、昨子年七月盆踊りの砌、兼て近年諸家中踊りの場所へ出候義は堅く御停止のところ、抜けて御出候所見つけられ乱心に申し立て座敷牢に入り候ところ、当7月牢を抜け出し讃州白鳥辺りまで参り候を、古物町商人三人参り合せ、御屋敷へ飛脚差し越し、御迎えに参り連れ帰り申すにつき右三人へ金五匁宛の御礼これあり候趣、右につき又々内牢に入れ置き候さて、天保期ともなれば盆踊りに関する記録なども若干利用できるようになるが、新町の商人中村利平によると、家臣たちも変装などして踊りの群衆の中に合流し、ぞめき踊りを楽しむようなことは、決して珍らしいことではなかったと記している。
そこで考えてみると、藩は、とくにその任を担当した目付たちが、家臣たちの踊りをきびしく取締めようとすれば、それはそれほど困難なことではなかったものと思われる。しかし、なぜ本格的な取締りをしなかったかについて考えると、家臣たちを片っ端から逮捕し処分するということになれば、町人層に藩の権威の低下を見破られ、ますます権威を保つことが困難になるのではないかという、配慮が働いたことがあったであろう。その上に直孝のような大臣を改易させるということは、家臣たちの自粛を促がすことになると考えたことであろうし、まして町人たちの違反に対してきびしく処断することを容易にするだろうという思惑が働いていたとも考えることができるであろう。
そのようにみてくると、家臣層の禁足令違反の取締りの徹底を期するためには、どうしても直孝のような名を知られている武士にターゲットを絞ることによって、その政治的な効果を狙うということも当然であろう。そのように考えるとき直孝は家臣の風紀を糾すための犠牲に供されたといえるであろう。こうして直孝は改易されるというきびしい扱いを受けることになるが、その後に藩は一学家に養子を入れて御家再興の取り計いをしていることからすれば、ますますこの措置が狙いとしていたものが、きわめて明確に理解できるように考えられてくる。
3 異躰踊りの市中引き回し
城下の盆踊りは、町切りを命じると群衆は「新町橋まで行かんかこいこい」と声を揃えて橋をめざす。これは一種の抗議行動であるが、すでに文化・文政のころからきびしく禁じられたのが笹踊りである。笹踊りは盆だけでなく神社の祭礼にも演じられていたもので、歌舞伎風の衣裳で寸劇を演じたり、仮装や裸体の演技を披露することで、広儀には俄踊りの範疇に属するといわれている。風俗の乱れに神経質であった藩としては、盆踊りに混乱を持ち込むことを恐れてきびしく禁止していた。しかし、笹踊りを実際に取締った事例は幕末の史料でしか確認することができない。
天保15年(1844)の記録には「組踊り少し、俄は多し、昼夜ともぞめきは例年のごとし、御免許町に野稽古の踊を趣向して、右発願人町役人など皆々御咎を蒙る」と記している。御免許町は西新町5丁目であるが、組踊りに武家社会を風刺する野稽古の踊りを演じたことで、きびしく取締められたというものである。
また、弘化3年(1846)には仮装で踊った20人の婦人が捕えられて入牢、その後に市中引廻しという厳罰に処せられたと記録されていることに注目したい。この史料によると坊主姿や半裸の仮装で演じた俄踊りであるが、御免許町の出し物といい、この婦人の俄といい、ともに武家支配を揶揄したり、藩の規制を全面的に無視した踊りであって、当然そこには藩政に対する抵抗の意思が城下の町人層の間に漲っていたという社会状況を象徴している。ここまでくると藩でも黙認することはできなかったのであろう。
以上のようにして、徳島城下における盆踊りは時代とともに隆盛をみたが、いよいよ藩の危機が深刻さを増した天保期から幕末期には、踊りも大規模に展開すると、一部には藩の規制強化に対する反発も強まりをみせるようになる。そうなるとこうした踊りを看過すことが困難となって、蜂須賀直孝の改易といった思い切った処分を断行したり、笹踊り風の違反行為を徹底的に取締らざるを得なくなってくる。 私たちは以上のような天保期以降の異常な取締りを必要とするようになった政治や社会経済的背景について、しっかりと見据えながら、そこから城下の盆踊りとは何であったのか、またそれを今日にどう繋げていくべきか、さらにどう変えなくてはならないかなど、学びとるべきことは山ほどある。 
5 阿波踊りの近代的展開
1 「ええじゃないか」と盆踊り
慶応3年(1867)12月に、いよいよ「ええじゃないか」の乱舞が撫養に上陸し、翌4年にかけて阿波一円は「ええじゃないか」で浮き立つことになる。当時の数少い記録によると徳島城下では群衆が「ええじゃないか、ええじゃないか、何でもええじゃないか……」と囃しながら勢見の金刀比羅神社に練行し、そこから讃岐の金刀比羅宮や施行の船に乗り込んで伊勢神宮に向う人も多かったことを伝えている。ここで「ええじゃないか」の経緯については述べないが、この乱舞が阿波踊りの芸態を変化させたか、何も変化させなかったか、在来の諸説を考慮しながら考察の一端について書いてみよう。
いうまでもなく阿波踊りと「ええじゃないか」では、囃す文句も踊る所作ももともと異なるものである。ところがその前提を少し考えておかなくてはならない。そこで文政13年(1830)の御蔭詣では徳島城下から始まり、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。この踊りがおもしろいというので大流行し、上方の豊年踊りに転化したとする有力な説がある。「ええじゃないか」は豊年踊りをモデルとしたというのもよく知られる説である。
そのような説から考えてみると、阿波では得意の阿波踊りで「ええじゃないか」を踊ったのはごく自然なことであった。ただそれまでの阿波踊りは、人形浄瑠璃の太棹が鳴物の主力を占めていたといわれるように、若干テンポの緩やかな踊りであったのに対して、テンポの早い「ええじゃないか」の大流行を契機として、阿波踊りもテンポを速め、鳴物の主役も細棹に取り替えられていったというのも、かなり多くの人たちの主張である。その真偽について実証することはできないことだが、興味深い課題の一つである。
2 最初の阿波踊り中止
これまで考察してきたように、徳島藩による城下の盆踊りに対する対策は、建て前のきびしさに対して、本格的に取締ることは諸般の事情によって容易ではなかった。とくに宗教的な発生事情をもつぞめき踊りに対しては、たびたびの規制の強化が行われているが、実際には「有来りの踊り」と規定して、一貫して踊りを禁止することはなかった。これが初めて禁止されたのは版籍奉還後の明治3年(1870)のことであった。中止の理由は庚午事変の発生であるが、この事件はそれほど徳島藩を大きく揺るがした。
もちろん事件の発端は版籍奉還そのものにあったが、この事件の経過などについては、すでに多くの成果もあるのでそれらを参照して欲しいと思う。ただ庚午事変が幕藩制下でも禁止されることがなかった盆踊りを中止させているということは、その事実から逆に歴史を遡及して考えるとき、徳島藩政約270年の間に、庚午事変に匹敵するだけの危機に見舞われることはなかったと考えることもできるし、また、動揺をくり返しながらも藩の権威が保たれていたということもできるのであろうか。
その翌年には廃藩置県が断行され、明治政府による相次ぐ改革が実施に移されることになり、その一環として四民平等をはじめ封建制が音をたてて解体されていく。こうした新しい時代を迎えたことによって、盆踊りも規制の枠がはずされていったように考えていたが、数こそ多くないが明治初期の史料でみる限り、盆踊りに対する統制はかなりきびしいことに気づくが、その理由を考えてみることも興味深い。
明治3年の盆踊り中止を始めとして、近代の盆踊りはたびたび中止の措置がとられている。そのような中止の理由について調べてみると、数度の戦争や大正7年(1918)3月の米騒動などのときである。そのことからもいえることは、盆踊りは祖先の霊を供養するという宗教上の理由は別としても、平和を謳歌し互の繁栄を願い、どこまでも楽しむといった踊りであるということが確認されてもよさそうに思う。今日の踊りについて考えるとき、この踊りのもつ宗教性や繁栄を祈願するといった理念は忘れられ、踊りの本来の姿からはますます遠ざかっているように思うところがある。大切なことは踊りの歴史から、そのような精神を呼び戻すことが、いまほど大切なことはないのではあるまいか。
3 ぞめき踊り子こそ阿波踊りの本流
城下に大きい盛り上がりをみせた盆踊りは、古く複雑な歴史をもった民衆芸能であることは、これまでの記述でほぼ知っていただくことができたと思う。ここではその芸態上の展開過程について、簡単にまとめておきたいと思っている。
いうまでもなくこの踊りの源流は、16世紀末における徳島城下町の建設とともに、周辺部の農漁村に行われていた盆踊りが取り込まれながら、盂蘭盆行事として城下一円に展開されるようになった精霊踊りとして定着していったものである。それに対して17世紀の中ごろには、城下の内町や新町の町人たちを氏子とする春日神社の祭礼に、各丁が組踊りをくり出して競演していたが、この踊りは中世の細川・三好氏の本拠であった勝瑞城下で盛行していた風流踊りを復活したものである。やがて組踊りは盆行事に移されると、城下全域に波及し大踊りなどといわれて、大いに人気を博したが、この踊りは豪華絢爛で見物する人びとを幻想の世界に誘うような芸態を特色としていたことから、財政再建をめざすたびたびの藩政改革などのとき、きまって禁止されるなどの措置がとられる宿命を負っていた。そのたびしばしば中断されているし、明治維新以降は盆踊りの市中から組踊りの姿は消え去ってしまった。
また、元禄期を中心とする18世紀前半は、わが国の衣料革命の進行を背景として、阿波藍の需要は急増し、藍商たちは大坂や江戸をはじめ各地の市場に進出して、活発な藍玉の売り込みに奔走した。また藩内の農村では藍生産を増大させたが、その栽培には大量の金肥を必要としたので、肥料商の活動も活発となるなど、徳島城下は藍商や肥料商などの積極的な活躍によって、その商況は急激に活発になっていった。これら新興商人の台頭と各地の芸能の伝播も盛行することになるが、そのうちもっとも注目されるのが俄踊りの流行であった。こうして18世紀以降の城下の盆踊りは、伝統的なぞめき踊りと盆行事に移行した組踊りのほか、手軽に演技できる俄踊りという3種の踊りが併行して互に影響しながら盆踊りを盛り上げていたのである。この俄踊りも明治後半の日清・日露の戦間期になると、各種の大衆娯楽の普及によって、次第に新鮮な魅力を失って、急速に衰退していったのである。
ところで徳島城下は芸所だとよくいわれるが、とくに三味線の普及は徹底していた。そうした三味線人口の増加から流行し始めたのが、盆中の昼間に展開される娘たちの三味線流しであるが、これは太平洋戦争中に姿を消している。
そのように盆踊りの諸芸について整理してみると、精霊踊りとして発生したぞめき踊りこそ、その本流として今日にまで継承されているのに対し、近世の後半に大いに人気を博した組踊り、盆踊りを盛り上げた俄踊りなどは、時の流れとともに衰退を余儀なくされていったもので、そのような展開のことを私はy型展開と規定しておきたい。あくまで主流の座をキープしてきたのはぞめき踊りであることを改めて再確認しておきたい。それをぞめきや俄踊りは組踊りから派生した踊りだとする主張もあるが、本来その芸態や発生の要因を異にする踊りを、本流と支流の関係などと考えること自体、非科学的な思い込み以外の何物でもないであろう。 
おわりに
私は以上で阿波踊りの展開過程について、史料に基いてできる限り詳しく述べるとともに、この踊りに徳島藩がどのように関わってきたか、また近代の阿波踊りがどう変遷してきたかを明らかにすることに努力してきた心算である。そのような意図がどれほど満たされたかについては、まったく自信はないのであるが、ただ阿波踊史がまさに吉野川デルタ地帯のように、網目のような複雑な流れがあって、それにも拘らず「ぞめき踊り」という本流は、ますます水勢を強めながら大海に注いでいる。というのも全国に東京の高円寺の阿波踊りなど、70ほどの都市イベントとして、ますます発展しつづけている。やがてそれは世界の各地にもということは、決して夢ともいえない状況である。
どうして阿波踊りが、これほど広範な地域の人びとに愛され、受容されるのかについて考えてみると、そこに名もない徳島城下の町人たちが、藩による妨害に抵抗しつつ、その誇りを守り抜き、時に応じて創造性を加えることによって、より楽しく、より明るいものに仕上げていった踊りであることに思い当たる。
また、本稿では取り上げられなかったが、徳島城下をはじめ阿波は芸所として、個有の文化が展開したところである。その背景に阿波藍を中心とした商人の活動が、広範な全国市場を形成したことがある。とくに19世紀に入ると城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉を需めて顧客が殺到した。その接待の場となったのは色街であり、そこは諸国の芸能を受容され、それに創造を加えて阿波の諸芸として再生産された場であった。ぞめき踊りの変遷や俄踊りの波及にも色街の果たした役割が大きかったことが知られるはずである。
そのような芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行するため、三味線の稽古所が続々と出現する。少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆中の三味線流しとなった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。こんな盆の市中を彩る情緒が定着していたのも、阿波が芸所であることを自然に表現する珍らしい行事の一つであった。 こうしてそのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であったという意味においても、色街の果たした役割や阿波踊りを演出した機能について、十分な調査や研究が進むことを期待するものである。
さて、阿波踊りの芸能的な特徴として注目しておきたいのは、囚われることのない民衆芸能だということである。もちろんこの踊りには伝統があり、また思想があり、約束ごともある。それは正しく踏襲されなくてはならないのだが、多くの郷土芸能のような面倒な正調などはないのである。わが連は正調を守っているなどと自慢する声も聞くが笑止千万である。そこにいう正調とは、その連だけの正調ということで、それを他の連や踊り子たちにも求めようというのは邪道であるし、すべての踊りに「正調」と思っている芸態を押し付けることはエゴの極みであろう。要するに阿波踊りの精神だけは正しく継承しておれば、どの連も自由自在の芸態を創造すればよいのであり、さらにいえば、連を構成する一人ひとりが、その個性を出し合ってバラバラであっても、全体として阿波踊りにまとまっていれば理想的ではないだろうか。今日に継承されているぞめき踊りとは、本来そのような踊りであるということを、ここで確認しておくことが、きわめて大切なことではないであろうか。
いずれにしても今日の阿波踊りは、夏の終りを告げる徳島で、多くの観光客を迎えて市中が踊り一色に彩られるという大イベントとして知られている。このイベントが巨大化するにつれて、衣裳が派手になったり、さまざまな工夫も見られるようになってきた。それは一定の評価をすべきだと思うのだが、踊りの伝統や精神については次第に忘却の度を深めているように見受けられる。そんな伝統や精神を取り戻すためには、どうしても阿波踊りの正しい歴史を学習することを必要とするだろう。本稿はそのための手掛りの一端として役立ててもらうことを考えてまとめたものである。
ところで、この数年の間に私と同じような疑問を懐く人びとが増えつつあることは心強いことである。それらの人びとも徐々にその思いを行動に移しつつあるのが現状である。本年の盆踊りにはいくつか勇気ある取り組みが市民の眼前に展開されようとしている。そうした状況を踏まえながら、ここに阿波踊りのルネサンスを呼びかけたいのである。 
 
飯田藩の騒動

 

南信濃伊那谷の飯田は、関ヶ原後に小笠原氏、脇坂氏が短期間領主を勤めたのち、寛文12年(1672年)に親良系堀氏の堀親昌が入り、以後12代200年にわたり支配した。堀氏の飯田藩は、石高2万石(のちに1万5千石)の小藩であり、多くの騒動や一揆が発生した。
牛之助騒動
四代堀親賢の時代のことである。元禄11年(1698年)とも12年ともいわれているが、牛之助騒動というのがあったらしい。あったらしいと言うのは、伝承はされているがはっきりした記録はなく、本当に騒動があったかどうかもわからないからである。
藩の用人である牛之助が親賢の世話で結婚をした。その翌日牛之助がお礼を言うために親賢のもとに行くと、親賢は側室の一人に髪を結わせているところであった。これも側室というより愛妾であったらしいが、その愛妾と牛之助は知り合いであったらしく、お互い顔を見合わせて微笑みあった。ちょうど、その笑顔が鏡に映り、それを見た親賢は両者が不義密通しているものと思い込んで、刀を持って牛之助に斬りかかる。
牛之助は夢中で逃げて欅堀まで来たが、そこで追手に追いつかれて切られてしまう。これを聞いた牛之助の母親は「永く堀家に祟ってやる」と狂死。堀家では牛之助母子の霊を慰めるために、堀家の祈願寺である普門院で毎年霊を弔ったとされる。筆頭家老であった堀宇右衛門はこの騒動に愛想をつかして、堀家を立退いたとする。しかし、藩主が世話をするほどの士でありながら、牛之助の姓も伝わっておらず、騒動の起きた年も不明、さらに鏡に映った笑顔を見ただけで狂ったように臣下を追い回すとも考えられず、本当のところは不明のままである。
千人講騒動
江戸時代も下って半ばごろになると、各藩とも財政難に見舞われるようになった。飯田藩も例外ではなく、小藩でかつ耕地面積も限られた山間の土地であったので、財政の確保は簡単にはいかなかった。そういう時は、借金と増税で凌ぐということになる。これは昔も今も変わらない。それでも財政は好転せず、さらに逼迫の度を増すばかりで、どうにもならなくなったとき飯田藩では千人講を作ることにした。発案者は郡奉行黒須楠衛門。月々2分づつ集めて年6両(1両は4分)、計画では年間7千2百両、5年続けて3万6千両という予定で、宝暦11年(1761年)12月に城下桜町に千人講会所を建てた。
実際に集まったのは711口、総額は355両2分であった。本来、講というのは任意の集まりであり、資金を出し合って目的を達するものであるが、この講は資金集めの手段であり、領民へも半強制された。百姓も年貢高一斗以下の小作以外は全て月2分を拠出させられた。困窮する者も多く、初会はともかく第二会よりは辞退者が出始め、第三会になるとさらに辞退者が増えた。黒須は立腹して「辞退するなら、田地を差し出して立退け」と言い放った。これを伝え聞いた百姓たちは怒り、一揆の相談を始める。
最初は城下北部の上郷あたりから一揆の話が出たらしいが、たちまち他村に伝播して、これを知った藩庁では一揆が起きる前に取り静めようと役人を派遣した。多くの村では治まったが、下郷南端の3ヶ村(桐林、時又、上川路)の百姓は、一揆を決行した。宝暦12年(1762年)2月22日、この3ヶ村の百姓が長石寺に集まり城下に向けて出発すると、たちまち人数が膨れ上がり、各地で庄屋の屋敷を打毀しつつ、城下に入った。藩では城下の入口を固めたが、百姓の数の多さに圧倒されて防ぐことができず、町中が大混乱となる。
翌23日には上郷地区の百姓も押し寄せ、町人も一揆に加わった。藩で収拾のために千人講の廃止と黒須の罷免を主とする願いを入れざるを得なくなり、重臣5人連署の墨付を与えた。その後暫くは打毀しが続いたが、24日には治まった。この騒動で講は廃止され、黒須は罷免されて一揆の目的は達したが、百姓側も30人近くが捕縛され、町人も11人が閉門処分となった。だがその多くの者は、のちに赦免された。
紙問屋騒動
千人講騒動から約45年後の文化6年(1809年)に、紙問屋騒動が起こる。この地方は古くからの和紙の産地であり、百姓たちは冬の間、紙を漉いてその紙を上納した。一種の内職であり、家内工業であった。上納した紙は安い値段で藩に入り、その分が年貢から差し引かれ、また藩士個人へ売り渡した分は安価ながら現金収入になっていた。ところが文化4年(1807年)のこと、毛賀村林新作(のちに六郎左衛門と改名)が、御用紙の一手引き受けを条件に、公許の紙問屋の設立を願い出たことから騒動が起きる。
この林新作というのは、苗字も許された豪農であり、藩でも財政的な支援を受けているために、願いは簡単に許可された。しかも「領内の紙のみならず、他領の紙も改印にないものは取り扱わないように」との条件まで付けてくれた。独占販売である。これに対して一斉に反対の声があがった。藩内や他領の紙漉業者、紙仲士、城下の商人、元結職人(紙を原料とする元結こき)とその問屋等々である。この中でもっとも強硬であったのは城下の商人たちであった。
元来、江戸時代は士農工商という身分制度のもとに成立していた社会であった。そのために商人を城下に集めて商売をさせ、農村には商人を置かないというのが建前であった。しかし、この頃になると街道筋にあたる農村では、商売をする農民も現れる。これは城下商人の権利を侵害するものであったが、一旦崩れだすと建前だけでは止められず、なし崩し的に商人の権利が侵されていくこととなった。そういう時に豪農とはいえ百姓の林新作に紙問屋をさらわれてしまったのだ。さらに元結職人がこの反対運動に加わった。元結とは髷の元の部分を縛る紙のことである。さすがに新作も恐れをなして紙問屋設立の延期を願い出た。
しかし、今度は藩の方が熱心になった。紙問屋からの運上(税)に魅力を感じたのだ。そして城下の商人に対して紙問屋を免許した。商人たちも紙問屋そのものに反対していたわけではなく、林新作に儲けを持っていかれることに反対していたわけであるから、こうなるとスムーズに事が運び、文化6年(1809年)に本町一丁目に紙問屋が開かれた。しかし紙漉の反対は激しく、領内のみならず付近の天領今田村や美濃高須藩領の知久平村、虎岩村などで紙漉が立ち上がり、ついに一揆となった。
一揆勢は、まず駄科村の紙仲士金作の家に向いこれを打毀すと、毛賀村に移り紙仲士の清八、治郎作の家を襲い、林新作の屋敷に向った。新作は夜衣のまま山中に逃れて一夜を明かし、妻子は薪小屋に隠れ、老人は便所に難を避けた。新作宅は打毀しにあったが、新作にすれば城下商人に紙問屋をさらわれたうえに、打毀しにあい散々な目となった。
一揆はやがて沈静化したが、天領や他領の紙漉に手を出すわけにはいかず、領内では37人が捕まり、入牢、手鎖宿預けなどに処せられた。天領の今田村では飯島代官所によって取調べが進められ、9人の紙漉が江戸に召喚されて、入牢5人、手鎖宿預け3人の処分となった。紙問屋の方は領内については藩の意向に任されたが、領外については以前に戻され、藩では紙問屋制度を継続し、結局紙漉職人が馬鹿を見ることになった。
飯田騒動
堀家十代藩主親寚は、堀家随一の名君とされ、幕閣でも重きをなし、天保14年(1843年)には老中となり水野忠邦の片腕ともいわれ、諸大名から「堀の八方にらみ」と恐れられた人物だった。ところが奥向きの仕置については中々表向きのようにはいかなかったようだ。親寚の江戸藩邸奥向きの取り締まりをする老女に若江というのがいた。若江は、先代藩主親長に仕え、親長が没したのち宿下がりをし、10年後に再び出仕した女で、美人ではないが才に優れ、文筆がたった。そのため親寚は秘書役として重用し、次第に寵を得て奥向きでの権力を握るようになり、ついには跡継ぎのことにまで口をだすようになった。
親寚の世子は長男が早世したために二男の親義とされていたが、この親義は発育が悪いうえに癇性であった。親義の2歳下の同母弟金四郎は利発であり、親寚も次第に金四郎を嗣子にと思い始めたが、これを献策したのも若江だという。これに対し国家老安富主計季記は、親義擁立を強く主張し、親寚に若江の放逐を迫った。親寚は若江を放逐し、表面上は一件落着したが、1年後に再び若江を召し出した。それほど若江は親寚にとって必要な存在になっていたのだ。若江は豊浦と名を変え再び江戸藩邸の奥で実権を握る。
ここにふじという娘が奥に入ってきた。ふじは飯田藩士山口弾二の娘であった。このふじに親義の手が付いた。ところが親義の正室は水野忠邦の妹であり、ということは親寚の上司の妹である。遠慮から側室など許されるはずがなく、ふじは豊浦から宿下がりを命じられ、半ば強引に金貸しの盲人鈴木松奥に嫁がされた。鈴木は間もなく死んだが、ひどい梅毒もちでふじも梅毒に感染させられてしまう。このふじは鈴木の死後、再び堀家の奥向きに出仕した。だが上屋敷ではなく下屋敷勤務である。ふじは梅毒により体調がすぐれず、日ごとに豊浦への怨みが募る。
一方、豊浦は出世を重ね、天保4年(1833年)に若山と再度名を改めて、御年寄に昇進した。若山は奥向きのみならず、表向きのことにも公然と口を出し、それがさらにふじの怨みを増幅させた。天保10年(1839年)9月2日、ついにふじは決心をし、若山のもとを訪れる。若山に「ぜひともお耳に入れたいことが」と迫り、一室で2人きりになると、ふじは今までの怨みつらみを述べ自決を迫った。若山が聞く耳持たぬと立ち上がると、ふじは隠し持った懐剣で若山の脇腹を突いた。ふじは取り押さえられ、一方若山は手当てを受けて快方に向かったが、11月に入り傷口が化膿して死去した。
ふじの方は取り調べの後、飯田で処刑されることとなった。網籠で飯田に下ると、飯田の獄舎にはふじへの差し入れが山をなしていたという。若山の専横を嫌い、それを斃したふじは英雄であったのだ。逆にそれほど皆から若山は嫌われていたのだった。命乞いもなされたが叶わず、天保10年(1839年)12月2日、ふじは刑場の露と消えた。ふじは烈女山口不二、忠婦富志などと呼ばれ、後世に生き続けた。  
 

 

飯田藩 (信濃飯田藩)
信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。
飯田は戦国時代、武田氏の家臣・秋山虎繁、徳川氏の家臣・菅沼定利、毛利秀頼(斯波氏の一族)が治めていた。文禄2年(1593年)に秀頼が死去すると、その娘婿であった京極高知が後を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高知は東軍に与して本戦で戦功を挙げたことにより、丹後宮津藩へ加増移封された。代わって慶長6年(1601年)、下総古河藩から小笠原秀政が5万石で入るが、慶長18年(1613年)に信濃松本藩へ移封され、飯田藩は廃藩となり、天領とされた。
元和3年(1617年)、伊予国|伊予大洲藩より脇坂安元(脇坂安治の子)が5万5,000石で入る。安元の後は脇坂安政が継いだが、叔父の脇坂安総に2,000石分知し、寛文12年(1672年)に播磨龍野藩へ移封され、代わって堀親昌が下野烏山藩から2万石で入部した。しかし堀氏の藩政は財政窮乏により早くから不安定であり、藩財政は御用達から借り上げることによって賄われるという「御定借」体制であった。このため、宝暦12年(1762年)には藩政改革反対一揆、文化6年(1809年)にも同様の騒動が起きている。
第10代藩主・堀親寚は水野忠邦の天保の改革で幕閣の一人となり、奏者番・寺社奉行・若年寄・老中などを歴任して7,000石を加増されたが、水野失脚に伴い7,000石は収公の上、本高3,000石も減封され、その分は陸奥白河藩領に加えられた。
また幕末期には、常陸水戸藩の武田耕雲斎の天狗党に対して何の対処もとらず、清内路関所の通行阻止も懈怠したため、幕府から2,000石を減封され、その分は旗本・千村平右衛門の預地に加えられた。第11代藩主・親義は、京都見廻役をつとめている。戊辰戦争では新政府に恭順した。
明治4年7月、廃藩置県により廃藩となって飯田県、同年11月には筑摩県、明治9年(1876年)8月には長野県に編入された。
飯田藩前史
飯田藩は天竜川に沿った信濃伊那谷の飯田周辺を領有した小藩である。信濃は室町時代小笠原氏が守護を勤めていたが、地域が広大で、谷筋に幾多の国人がおり最初から安定しなかった。伊那谷には鈴岡に小笠原氏(松尾小笠原氏)が入ったが力が弱く、室町中期には土豪が割拠していた。そこに隣国甲斐から武田家、越後から長尾(上杉)が信濃を盛んに侵しだした。小笠原家は国人層の支配を最後までできず戦国大名化に失敗、早くから国人層を支配下に置いた甲斐武田氏や、守護代として力をつけ戦国大名化した長尾氏に付け込まれることになった。
伊那地方は地理的な条件から甲斐の武田氏が勢力下に置いた。天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)自ら兵を率いて松尾小笠原氏を追い、伊那谷一帯を平定した。武田氏は家臣秋山信友を最初は高遠、次いで飯田に置き郡代として支配させた。飯田がこの地方の中心となるのはこの時からである。
やがて武田氏は信玄の病没により勢威を失い、設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に破れると伊那谷は織田氏の支配下に置かれた。織田氏は毛利秀頼を飯田城主とし伊那郡一円を支配させたが、すぐに本能寺となり飯田は無住の城となった。この隙に徳川家康が信濃に軍を進めて伊那谷一帯を占領、関東移封により家康が信濃を去ると信長の死後秀吉に仕えていた毛利秀頼が再び飯田城主に返り咲いた。
文禄2年(1593年)の文禄の役の陣中で秀頼が没すると、秀頼の女婿の京極高知が伊那郡一帯を領有した。高知は関ヶ原戦で家康に付き岐阜城攻撃や関ヶ原本戦で功を挙げ、それにより丹後宮津12万3千石に転封された。家康は高知の後を松尾小笠原氏の正統であり、お気に入りの小姓であった小笠原信之に与えようとしたが固辞され、仕方なく小笠原のもう一流である深志小笠原氏の秀政に与えた。
初期の飯田藩
秀政は慶長6年(1601年)に飯田に入ったがその所領は5万石、前の京極家は10万石だったから半減である。これは山間地帯であるこの地に大大名を置くことを好まなかった家康の戦略によるものと、伊那谷の木材を幕府直轄にするためのものだったと考えられる。秀政は慶長18年(1613年)に在封12年で故地松本に転封となった。
秀政転封の後飯田は3年間天領となる。大坂の陣の後の元和2年(1616年)に伊予大洲から脇坂安元が5万5千石で入部するが、飯田領は飯田周辺と下条・箕輪一帯の98ヶ村約5万石で小笠原時代そのままであり、残りの5千石は上総一宮で領した。脇坂安元は賤ヶ岳七本鑓で有名な脇坂安治の二男で、兄安忠が早世したために脇坂家を継いだもので文武両道に優れた剛直な人であった。安元は承応2年(1653年)に70歳で病死し、養子の安政が継いだが、安政は寛文12年(1672年)播磨龍野に転封となった。
堀親昌の入部
脇坂氏の後に飯田藩主となったのは堀親昌であった。堀氏は信長の武将であった堀秀政が秀吉の側近となり、信長死後に秀吉に取り立てられて栄達した家で、秀政死去後は嫡子秀治が継ぎ、関ヶ原のころには越後春日山で45万石を領し、関ヶ原でも家康についた。秀治の弟親良は、兄秀治の与力大名として越後蔵王4万石を与えらたが、慶長8年(1603年)に兄の政治を不満として越後を去った。その後本多正純の家臣を経て、寛永4年(1627年)下野烏山2万5千石の大名となり、その子親昌が信濃飯田に転封となった。以後飯田藩主として代々封を受け継ぎ幕末まで続く。ちなみに兄秀治の系統は、秀治の子の忠俊の代に家老間の争いから取り潰されてしまう。
親昌は家督を継ぐときに弟2人に5千石を分知したので、飯田に入ったときは2万石の小大名であった。脇坂氏の領地のうち、残りの3万石は天領となり飯島に代官所が置かれて支配された。親昌は飯田に入部するとそれまでの知行制から蔵米制に改めた。農民支配は庄屋、組頭、長百姓の村方三役にによって行われ、庄屋も世襲制ではなく廻り庄屋と呼ばれる、一種の持ち回り制であった。
親昌は飯田入部の翌年延宝元年(1673年)に死去し、親貞、親常、親賢と継ぐ。親貞は延宝元年襲封するが12年の在封で貞享2年(1685年)に死去、次の親常は12歳で家督を継ぎ、これも在封12年で元禄10年(1697年)に死去した。親貞は松平光長改易の後の高田城在番中の急病死であり、親常も24歳の若死にで、親常の代の12年間は、重臣による執権政治であった。
牛之助騒動と藩財政
飯田藩四代藩主親賢の時に牛之助騒動が起きた。側用人牛之助が親賢の世話で殿中の女中と結ばれた。婚礼の翌日、牛之助は御礼のために登城すると、親賢は側室に髪を結わせていた。その側室と牛之助は日ごろから見知った仲なので、側室は牛之助を見て何気なく微笑した。鏡に映ったその笑顔を見た親賢は、側室と牛之助が不義の関係にあると思い込み、牛之助を惨殺したという、なんともお粗末な話である。
藩主がこれでは家臣もあきれ返るのだろう、藩内には退廃の気が漂い、元禄12年(1699年)には堀宇右衛門ら50人が暇をとり藩を去ってしまった。その後、宝永4年(1707年)には大地震、正徳5年(1715年)6月には天竜川大洪水と事件が相次ぎ、親賢の跡の親庸の代にも、享保2年(1717年)江戸の大火で江戸屋敷焼失、享保4年(1719年)天竜川大洪水など災害に見舞われる。
小藩ゆえ藩財政はたちまち揺らぎ、享保年間には「御定借」と呼ばれる豪商や豪農からの借用による賄い金制度が一般化した。この頃の飯田は伊那街道の物資運輸の中心地として発展し、特に輸送機関として中馬の中心地となった。当時の陸上輸送は馬によって行われたが、通常は各宿駅で馬から馬へ荷物が付け替えられる中継による方式がとられていた。中馬とは付け替えの手間を省き、一頭の馬で長距離を輸送し経費を節約する方式であった。
信州から太平洋岸へは中山道の木曽路と伊那街道の伊那路があったが、中山道は人の往来多く、日光例幣使や朝鮮通信使も通り何かとやかましい。もっぱら貨物輸送に使われたのは、脇往還である伊那街道であった。そのために飯田は物資の中継地、中馬の中心地として発展し、小藩の城下ながら商業都市となり、富商が生まれた。やがて藩の毎月の必要経費は富商を中心とする町人が賄うようになり、これが「御定借」と呼ばれるものになった。従って飯田藩の財政は町人層に握られることとなった。
千人講騒動
飯田藩の財政は御定借や御用金に頼らざるを得なくなっていたが、宝暦5年(1755年)の江戸屋敷焼失、宝暦8年(1758年)には駿府城加番と事件や公役が相次ぎ藩財政は逼迫した。そこで郡奉行黒須楠右衛門の発案で千人講を行うことになった。公営の無尽である。城下桜町に千人講会所を作り、町家や各村は強制参加であった。村は大小にかかわらず全村で二口、一口は毎月一分年で六両としたから、一村では毎月一両の拠出が必要であった。
これを村中で出すのであるが、小村ではそれでも無理であった。第二会あたりから辞退する者が現れだしたが、黒須楠右衛門は「辞退するなら、田地を差し出して立ち退け」と激怒。これに怒った農民たちは一揆の相談を始めた。藩では不穏の動きを察知し、農民たちが意見一致を見る前に説得し、一旦は収拾しかけた。ところが下郷三ヶ村といわれる藩南端の桐林、時又、上川路の農民は一揆の決行を決め、宝暦12年(1762年)2月22日に城下に向けて出発した。
道々人数は膨れ上がり、城下に入った頃には圧倒的な人数に防ぎようがなく、城下の富商の屋敷は打毀しにあった。翌23日には上郷など他地域の農民も飯田に押し寄せ、打毀しを恐れた町人までが加わり、収拾が付かない状態になった。藩では農民たちの要求である千人講の廃止と責任者の黒須楠右衛門、小林源五左衛門の罷免を決めて農民を説得、一揆を収めた。
千人講騒動は基本的には農民の要求が受け入れられた形であった。藩では騒動の始末が一段落すると騒動の首謀者を内偵捕縛、その数は50人余りに及んだという。また町人でも一揆に肩入れしたとして11名が閉門となった。しかし死罪、追放など重い罪にはならず手錠お預けや入牢などで、やがてそれらも許されて千人講騒動は終った。
紙問屋騒動と堀親寚
千人講騒動は終っても藩財政の困窮は終ったわけではない。その後も飯田藩では財政絡みのゴタゴタが続く。豪農林新作が御用紙の一手引き受けを願って許可され、城下商人の反対にあった。新作は藩財政の一端を担うほどの豪農であり、藩では願いを拒否できず許可したのであるが、その後商人が騒いだために紙問屋の林新作独占は延期となった。
藩はよくよく考えてみると新作一人に儲けさせるより、城下商人たち利用し、その元締めを役人がやるほうが藩の直接の利益になると考えなおし、ここに公許紙問屋を設立した。この紙問屋の公印がない紙は売買を一切禁止され、運上金と手数料を取った。たちまち紙の値段は上がり紙漉職人を巻き込んで騒動になった。規模は小さかったが打毀しもおたが、結局は鎮圧され首謀者が処罰された。これを紙問屋騒動という。
千人講騒動、紙問屋騒動と藩政は不安定で、藩財政の窮乏は相変わらずであったが、寛政8年(1796年)家督を継ぎ藩主となった親寚は、辣腕家であった。文化11年(1814年)奏者番、文政9年(1826年)寺社奉行ついで若年寄となり、さらに天保12年(1841年)側用人、同14年(1843年)に7千石加増され老中格、天保15年(1844年)には老中となった。水野忠邦の側近で、天保の改革を忠邦とともに推し進め、諸大名に恐れられる存在となった。しかし弘化2年(1845年)忠邦の失脚により1万石を減封され、逼塞を命じられる。翌3年に逼塞は解かれたが、そのまま剃髪隠居した。
幕末維新の飯田藩
親寚の跡は親義が継いだが、この時に親寚五男で才気煥発、親寚も溺愛する金四郎とのあいだで家督を巡る争いが起こる。国家老安富主計は親寚を諌めて親義の家督となったというが、それが奥向きの勢力争いに絡み、奥向で権勢のあった老女の刺殺事件にまで発展した。これを飯田騒動という。一方で藩政面でも嘉永3年(1850年)と5年に一揆がおきた。親義は嘉永6年(1853年)に奏者番、文久3年(1863年)に寺社奉行に進み、文久4年(1864年)大坂警備、元治元年(1864年)には長州征伐に向かう。
このころ飯田藩は清内路峠の関所を管理していたが、その関所を水戸浪士に破られ、その責任を取らされて親義は逼塞の上2千石減封。清内路関所は高遠藩の管理となった。領内では米騒動が盛んに起き、一方で行政は機能せず、すでに藩の態をなしていなかった。慶喜の大政奉還により、小藩である飯田藩は大勢に順応せざるを得ず、藩論は勤皇に決して戊辰戦争では官軍に従い各地を転戦した。
なお明治維新の混乱期飯田藩内に二分金騒動が起きる。贋金のような粗悪な二分金が多量に藩内で使われたために、その二分金の交換を要求した農民や商人が騒ぎ打毀しに発展したものである。藩では犯人たちを捕縛し罰金を課し、城内枡形の杉や外堀の木を売って金を作り、藩札を作って二分金と引き換え収拾した。飯田藩は小藩ゆえか一揆をはじめ騒動の多い藩であったが、最後の最後まで騒動続きであった。 
 
生駒騒動

 

江戸時代初期のお家騒動である生駒騒動。暗愚の藩主高俊が原因で譜代の重臣と新参の重臣が争う派閥抗争となり、その結果生駒家は改易となってしまう。
藤堂高虎、生駒家の後見となる
秀吉の時代に中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老の一人であった生駒親正は、関ヶ原役の際に行きがかり上、西軍に与したものの、その子一正は東軍につき、讃岐一国の本領を安堵された。本領安堵をどう評価するかというと、一族を挙げて東軍についた大名家が(藤堂家や浅野家は例外として)僻地へ転封されたとはいえ大幅な加増を受けたことを思えば、結果的に二股をかけた家が本領を安堵されたことは妥当なところであろう。生駒家は親正が関ヶ原役直後に隠居し、一正、正俊と続いたが一正、正俊ともあまり長生きはせず、一正は慶長15年(1610年)に56歳で没し、正俊も元和7年(1621年)に36歳で死去した。
この当時は徳川幕府の草創期であり、幕府としては外様大名の取り潰しにやっきとなっていた。少しでも落ち度があれば、というより取り潰したければ少々無理をしても落ち度を仕立て上げても取り潰していた。そのために外様大名は取り潰されぬよう幕府の機嫌を伺い、様々な対策を打った。一正はその対策として正俊の正室に伊勢津の大名藤堂高虎の女を娶った。
藤堂高虎は生駒家同様外様大名であったが、高虎に対する幕府の信任はたいへんなものであった。家康は高虎を厚く信任して、要衝であった伊勢津を与え幕府軍の先鋒とした。二代将軍秀忠もまたしかりであった。秀忠は高虎を始終江戸城中に招き様々な諮問をし、夜話を聞いた。烏の飛ばぬ日はあっても江戸城に高虎が上がらぬ日はないと言われるほどであった。それほどの人物だから高虎の女を正室に迎えるということは、幕府や将軍家とも高虎を通じてつながりができたといことで、生駒家の将来を磐石なら占める手段の一つであった。
やがて正俊の世となり、正俊が在封11年で死去した。正俊と正室藤堂氏との間には嫡子の小法師がいた。このとき11歳、元服前であった。小大名や譜代大名ならともかく、17万石の当主としてはあまりに幼かった。相続は許されたが、場合によっては減知転封となるかも知れず、封地は安堵されても幕府からは目付が派遣されること必定であった。幕府の目付というのは藩政の監察であるから、落ち度があったり争いがあれば幕府にすぐに知れ、結局は取り潰されてしまう危険がある。そうはならなくても家中は気を使う、鬱陶しいものであった。
生駒家の場合は小法師の母の父、つまり外祖父である高虎の奔走もあったのだろう、高虎が後見することで目付の派遣もなく本領も安堵され、生駒家中は胸をなでおろした。
高虎は生駒家に対して
(1)先代と変わらぬ政治をせよ。特に町人・百姓が困窮しないように注意すること。
(2)小法師幼少につき家中一同注意して争い事のないように気をつけよ。
(3)公事ごとはひいきをせず、家中にて処置できかねる場合は高虎に報告して指示を受けよ。
という定書きを下した。ここまでは別にどうということはない。
騒動主役の登場
暫くして生駒家の江戸詰めの家臣であった前野助左衛門、石崎若狭の両人が高虎のもとに来た。この両人は、もともと生駒家譜代の家臣ではなかった。両人とも殺生関白と言われ、秀吉に自害を強要された豊臣秀次の重臣前野但馬守長秦の一族であり、秀次事件で浪人をしたが、前野家と生駒家が親しくしていたために、生駒親正が2人を家臣とし、その後一正、正俊にも仕えた。
両人ともに才気があり、勤勉でもあったので正俊も重用していた。高虎もかつては秀吉の弟で大和大納言と言われた豊臣秀長の家老であったので、秀次付きの両名を知っており、高虎が生駒家の後見となると、高虎をよく知る両人は生駒家中でも格が上がるし、高虎としても生駒家中の様子を知るために両人に対して格別の情を示す必要があり、当時の両人は家中でもかなりの羽振りのよさであったろう。その前野・石崎が言うには、国元の主席家老生駒将監は藩主の一門でもあり、次第に権勢を増してきて最近では専横のこと著しいというのである。
高虎は家中の争いとなることを恐れ、両人を諭して帰したが、これは前野・石崎が出世のために将監の失脚を狙ったという説と将監に本当に専横の振舞いがあったという説がある。このときはこれで済んだが、高虎が讃岐の様子を見ていると前野・石崎のいう将監専横の事実が本当のことのように思われることが起きた。
讃岐はもともと水利の悪いところで、今でも溜池などが多いが、戦国の世が終わって間もない当時は、少し日照りが続けばたちまち干害に襲われるところだった。事実大干ばつに見舞われたから、干害対策が急務となった。高虎は讃岐に西島八兵衛という者を派遣していて、その西島は干害対策や農政などのプロであった。さっそく溜池の整備や用水の開鑿などに奔走した。ところが生駒家中の重臣たちがまったくついてこない。将監など主席家老でありながら人ごとのようで、干ばつのときも対症療法に終始するばかりだった。
それでも西島の奔走と努力によって新田が開かれ、干害に対する備えもでき、おかげで藩財政は安定を見た。すると生駒家中は途端に華美になり贅沢にはしった。呆れ返った西島の報告を聞き、高虎は苦々しく思ったに違いない。さらにここで将監はヘマを一つやった。高虎のもとに使いを出して、大和郡山の大名水野勝成の女を、将監の子帯刀の正室に娶りたいと言ってきたのだ。大身の家臣の縁組は幕府の許可がいるために、その前に後見である高虎の許しを得に来たのだ。これを聞いた高虎は激怒した。奢りがましいというのだ。絶対に許さぬと言い、この縁談は立ち消えになったが、高虎はこの一連のことで、先に前野・石崎が言ってきた将監専横の件は、まんざら根拠がないことでもないと思ったのであった。
前野助左衛門と石崎若狭の専横
この当時小法師は既に元服を終えていた。小法師の元服は寛永2年(1625年)のことで、高虎が烏帽子親となり自身の一字を与えて高俊と名乗らせ、翌年には従五位下壱岐守となった。高虎はこの孫のために、幕府主席老中土井利勝の女を正室にすべく、その仲を取り持った。高俊はまだ若く経験も乏しいために、元服後も高虎が後見していた。その高虎は将監の専横を憂い、将監の権力を殺ぐことを考えた。そのために将監に対抗できる人物として、高俊の叔父にあたる生駒左門を家老にし、目付役として前野・石崎の両人も江戸詰め家臣から家老に昇格させた。
このことで将監の力が弱くなったのは確かであるが、前野・石崎の権力は格段に強くなった。やがて寛永7年(1630年)高虎が死去し、藤堂家の家督は高次が継ぐ。高次は生駒家の後見役も引き継いだ。高次は父高虎とは比ぶべきもない凡人であり、とても他家の後見役など勤まるような人物ではなかったようだ。一方前野・石崎にしてみれば、藤堂家がバックにあることで家中に権勢を保っていられるのであるから、高次に対しても取り入る必要があった。
前野・石崎は高次に対して「家中の気風を当世風に直すために、しかるべき人物の推薦を賜りたい」と願い、高次から野々村九郎衛門という人物の推薦を受ける。家中に対しては後見役の意向として、強引に召抱えさせた。さらに、前野・石崎に批判的で、藩の経済面を担っていた重臣三野四郎左衛門の弟庄左衛門が病死すると、その領地を半減させて嗣子権十郎に相続させ、その後も三野一族にことごとく辛くあたり、ついに三野一族を失脚させてしまう。
一方で前野・石崎にへつらう者を取り立てるなどやりたい放題の事を始めた。寛永12年(1635年)、幕府は江戸城修築の手伝いを諸大名に命じ、生駒家もその一部を割り当てられる。普請奉行となったのは前野と石崎であったが、藩は財政難で費用が出ない。そのために江戸の材木商木屋六右衛門から金を借り、無事普請を勤めた。ここまではまだよかったが、ここで前野・石崎は図に乗ってお手盛りで千石づつ加増をしたのだ。ここでも高次公の内意とし、石崎に加増をつかわす指図書を前野が書き、前野への指図書は石崎が書くという手口で、藩主高俊の承諾ももらい、半ば勝手な加増をした。それも加増分については年貢率を五分増しにしてしまった。通常の年貢率は四割だが、四割五分としたのだ。
ところが木屋に対しては借金返済のあてがない。そこで高松城の南にある石清尾山(いわせおやま)の松林の松を伐採させて木屋への返済に充てることにした。木屋は高松に招待されて松林を見て多いに気に入り、その後前野の息子治大夫の勧めで讃岐国内を見物した。治大夫はそのころ家老並となっていて、木屋の国内見物に際して、大切な客人である旨、国内各所に触れを回すほど気を使った。
しかし石清尾山は親正入府のときから高松城を守る南の要害とされ、松の伐採はおろか入山すら厳しく禁止された山であった。それを伐採させたのだから大騒ぎになり、しかも妙な噂が立った。松の伐採は木屋への借金返済のためではなく、前年に前野が後妻を娶った際に木屋がその世話をし、それに対する礼であるという噂で、事実ではないのだが日頃から専横の振舞い多い前野だから家中ではほとんどのものが信じたという。
生駒おどり
この間高俊はどうだったかというと、驚くべきことにこうした状況をまったく知らなかったのだ。高俊は先代正俊と藤堂氏の間の一粒種で大事に育てられて我儘であり、かつ暗愚であったようだ。かねて婚約していた老中首座土井利勝の女と23歳で結婚したが、高俊には男色趣味があった。男色は戦国時代には戦場に女を連れては行けないから、ごく普通の風習であり、江戸初期にもまだ風習として残っていた。
有名なところでは三代将軍家光がそうであった。あるとき家光が気鬱になり、その慰みのために小姓らを着飾らせて舞を踊らせた。これが家光の気に入り、しばしばやらせては見物をした。上様のお気に入りということで、老中らまで家中から美少年を選んで家光の前に連れて行き躍らせる。諸大名家でも風流おどりと名前がついて真似をする。
高俊には男色趣味があったのでさっそくこれを真似して、毎晩のように風流おどりをやった。さらに参勤交代の時にも気に入りの美少年を召し連れて、美衣で飾らせて馬に乗せたので、生駒おどりと世間の評判になる。これらが夫人の父土井利勝の知るところとなり、土井利勝は生駒家の重臣を呼びつけて叱りつけた。ところがこれが高俊の耳に入ると高俊は、「後見である藤堂殿の言ならば聞かねばならぬが、利勝殿は岳父に過ぎぬ。聞く必要はない」というのだから暗君といっていいだろう。こんな状態だから家中で何が起きているかなど一切無関心だし、重臣たちも藩主を頼みにしていないから誰も味方に引き入れない。
二転三転
このような状態のところに先の石清尾山の騒ぎが起きたのだから、藩内の対立はついに沸点に達した。生駒将監は既に亡く、その嗣を息子の帯刀が継いでいて反前野・石崎の藩士は帯刀を説いた。帯刀もついには決起することに決心して、江戸に出て前野・石崎らの行状を藤堂家・土井家、それに縁戚でもあった脇坂家に書状を持って訴えた。
後見役であった藤堂高次は書状を見て驚き、土井家・脇坂家の家老らを集め、その席に前野・石崎始め江戸詰めの生駒家の重臣たちを呼んだ。このときは結局帯刀方、前野・石崎方双方に対して訓戒をして引き取らせたが、生駒家の家風は武士の意地を張る傾向が恐ろしく強く、とてもこれでは収まらなかった。双方とも白黒はっきりさせて相手方を処断することを望み、対立は日ごとに激しくなる。ついにはお互い挨拶すらしないようにまでなった。前野・石崎の専横も相変わらずで改まらない。
ここで再び帯刀方は高次に訴えた。再び藤堂家の邸に土井家・脇坂家の家老らが集まり、結局先代からの後見である高次に処置が一任された。高次は万事生駒家のためとして、双方の主だった者を切腹させることにした。土井・脇坂両家も賛成した。なんとも凄まじい解決策ではあるが、事ここに至っては他に解決策はなかった。前野・石崎ともこの裁きに不満ではあったが、家のためとあれば仕方がない、承服した。
ところが、これに帯刀方の若い藩士が反発をした。彼らにすれば、忠義の者が逆意の者と同罪というのは納得できないという。高度の政治的判断など受け入れる頭はないのだ。さっそく代表を選び、選ばれた多賀源助という者が江戸に出て江戸屋敷にいた藩主高俊の前に出た。高俊は何で多賀が江戸に出て来たかわからない。問いただすと、今までの顛末を語る多賀の言に、前野・石崎のその場を取り繕った話しか聞かされていない高俊は驚いた。いかに暗君であったかがわかる。
暗君であるから考え方は単純で、忠義の者の切腹などとんでもないと思い、高次のもとに乗り込んだ。後見とはいえ、一言の相談もなく家臣の切腹を決めるとは何事というわけだ。高次は高俊の説得にかかるが、高俊はついに首を縦に振らず、高次の「勝手にされよ」と席を蹴った。これですべてがぶち壊しになった。もっともこれは高俊の言い分ももっともで、いかに暗愚とはいえ藩主は藩主、後見とはいえ他家の家臣に勝手に切腹を命じるとはあまりの行いである。この辺が高次という人の限界であり、後見役としても適任とは言い難いところだ。
騒動の決着
高松ではこれを聞いて忠義が不忠に勝ったと喜んだが、前野・石崎も黙ってはいない。幕府に訴状を出し、高松城下では前野・石崎方は一斉に城下から立ち退いた。それも鉄砲に火縄をかけ、弓に矢を添え、槍・薙刀の鞘をはらっての立ち退きであった。訴状によって幕府の裁きとなった。なお、前野助左衛門はこのころ重病になり、まもなく死去した。
1回目の公判は双方の水掛論に終わったが、2回目で帯刀がかつての千石加増がお手盛りであったことを、指図書の筆跡鑑定によって立証し、これによって前野(助左衛門死去のために息子の治大夫が出頭)・石崎の心証は格段に悪くなった。3回目の裁きの席で高松城下立ち退きの件が披露されると、幕府役人の態度が俄かに厳しくなる。徒党を結んでの不穏な行動が幕府の禁制に触れたのだ。
これによって結審し、前野・石崎方のほとんどのものは切腹または死罪、帯刀方も他家預けとなった。藩主高俊はその身持ちよろしからずとして改易、出羽矢島に堪忍分として1万石が与えられた。これによって生駒家は実質取り潰された。なお、高俊死去後生駒家は交代寄合となって幕末まで続いた。 
 

 

生駒騒動
江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。大名としての生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与した。関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居、一正の後は子の正俊が襲封した。正俊は伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。高虎は豊臣系の外様大名だが、秀吉の死後は徳川家康への忠勤に励み江戸幕府の信頼が厚かった。
発端
元和7年(1621年)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が後を継いだが、小法師が若年であったため外祖父の高虎が後見することになり、高虎は西嶋八兵衛など藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。寛永2年(1625年)、小法師は元服して高俊を名乗り、翌年には従五位下壱岐守に叙任し、さらに幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年(1633年)に輿入れ)。高虎は生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。
寛永7年(1630年)、高虎が死去して藤堂家は息子の高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになった。前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。藩主の高俊は無責任で暗愚、怠惰な人物であり、藩政を両人に任せきりにして、自身は専ら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだ。正室が父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが高俊の乱行は一向に収まらなかった。増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。
騒動勃発
寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の石清尾山の松林を木屋に伐採させた。この山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨した。彼らは家老生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになった。
寛永14年(1637年)7月、帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。訴状を受け取った高次は容易ならぬことと思い、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、帯刀を尋問した。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に召して尋問の上で厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。
しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀を伊勢津藩に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639年)4月、参勤交代で江戸に出た高次は安元及び利勝(前年に幕府大老に就任)と相談、このままでは訴訟が絶えず遂には生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎及び国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせた。
8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に遣わし、江戸での決定を家中の者たちに伝えた。これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めた。12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。これまでの事情を全く知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。寛永17年(1640年)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き高次に抗議した。高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙を投げ、生駒家の家政から手を引くことにした。藤堂家の兵も讃岐から立ち去った。
帯刀は帰国。帯刀派は歓喜したが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにした。4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を引き連れて立退くよう指図した。讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。
結末
幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにした。この間に一方の首領の前野助左衛門が病死した。7月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を申し立て、更に彼らが武装して立退いたことを訴えた。3回の対審の後に幕府の裁定が決した。帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。前野・石崎派に対しては石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。
同時に幕府は藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えた。高松藩はその後天領となり、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸下館藩から12万石で転封された。 
讃岐生駒氏(矢島生駒氏)
大名生駒氏、土田生駒氏(どたいこまし)、美濃生駒氏とも称される。生駒豊政の妹が嫁いだ土田氏より子親重を養子に迎え生駒姓を与え養子分家としたのが始まりであり、元は六角氏傍系の土田氏、土田甚助である。
土田氏には信長の祖母いぬゐ、母土田御前、信長・秀吉に仕え重用された親正が出る。讃岐国6万石余りを与えられ丸亀城に移り大名となる。
初代親正が豊臣政権の三中老として遇されるなど重用されていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家門の存続を図るため親正が西軍に属する一方で、親正の子の生駒一正が東軍の徳川家康に属して戦う。戦後丸亀城から高松城に移る。
1640年(寛永17年)親正のひ孫高俊の時お家騒動(生駒騒動)が起こり、騒動の責を受け出羽国由利郡矢島へ配流となり堪忍料として1万石が与えられた(矢島生駒家)。高俊の次男俊明に2000石が分知され、嫡男高清が8000石の旗本となり、以後幕末まで続いた。
1868年(明治元年)親敬の功が評価されて賞典禄1000石を賜った。また、維新後には実高による高直しが行われた結果、石高が1万5200石となり諸侯に列せられた。1884年(明治17年)7月8日親承は男爵を授けられた。 
高松藩
江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。
四国平定後の天正15年(1587年)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐1国、17万3000石を与えられたことに始まる。親正の子・一正は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に加担したため、戦後に所領を安堵された。しかし、第4代藩主・高俊の代の寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩に転封された。
その後讃岐国は一時、隣国伊予国の3藩、西条藩主・一柳直重、大洲藩主・加藤泰興、今治藩主・松平定房により分割統治された。
寛永18年(1641年)、西讃地域に山崎家治が入り丸亀藩が興った。
寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。
頼房は兄である尾張藩主・義直・紀州藩主・頼宣に先だって男子をもうけたことを憚って、長男の頼重ではなく三男の光圀を水戸藩主に立てた。しかし、光圀は後嗣を頼重の子である綱条に譲り、自身の子である頼常を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、幕末には財政は逼迫した。
松平氏第5代藩主・頼恭は平賀源内を起用し、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。また、医師の向山周慶に製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にした。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主頼恕は久米通賢を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、一方で藩主・頼聰の正室弥千代が井伊直弼の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となった。高松藩の庇護を受けていた京都の興正寺は高松に使者を派遣し、責任者の処罰を行って新政府に謝罪することを勧めた。そこで、家老2名を切腹させて恭順の姿勢を示すことになり、藩主・頼聰も浄願寺にて謹慎、同様に前藩主松平頼胤も江戸にて謹慎した。一方、土佐藩を中心とする討伐軍は丸亀藩・多度津藩を従えて高松に向かっていたが、高松藩と縁戚である徳島藩が協力に消極的で、松山藩討伐にも兵力を割く必要があった土佐藩や整備されていない丸亀・多度津両藩では攻略困難と見込まれたところに高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城されると、直ちに同城に入って接収を完了させた。興正寺などの取り成しによって2月には藩主・頼聰に上京・謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤退した。その結果、4月15日に新政府への軍資金12万両の献上と引換に宥免された。ところが、この一連の動きに対する藩内の不満が高まり、明治2年9月に尊王派の松崎渋右衛門が暗殺され、頼聰以下の藩首脳はこの事件を松崎が新政府への反逆を企てた事が発覚した事による自殺として届け出た。だが、松崎と知己である木戸孝允らはこれを疑い、弾正台に再調査を命じる。その結果、藩内保守派による殺害と判明し、藩主頼聰は廃藩置県直前の明治4年7月に閉門処分を命じられるなど、多くの藩士が処分された。
明治4年(1871年)、廃藩置県により高松県となり、のち香川県となった。
 
越丸騒動

 

越前丸岡藩本多家は、鬼作佐といわれた本多作左衛門重次の家系である。重次は歯に衣着せぬ物言いと融通のきかない古武士然とした人物だったらしく、家康からも煙たがられた。したがって出世も遅く、重次自身は大名になれず3千石の旗本どまりであった。家康も天下取りの過程ではこういう家臣も大事にしたが、天下を取ってしまうと頑固で柔軟性のかけらもない、重次のような人物は疎まれることとなる。もっとも重次本人はそんなことは気にもかけていなかったろう。
家康が関ヶ原で勝って全国の大名の配置転換が行なわれた。越前は大半が反家康方の西軍の大名だったから、領地はほとんど没収された。そこに家康は自身の二男松平秀康を封じた。家康の長男は信康、二男は秀康、三男は秀忠で子沢山だからこの後も続くが、この3人あたりまでは家康の天下取りの過程で、各々重要な登場人物であった。信康は早くに織田信長の命で殺さざるを得なくなり、秀康は豊臣秀吉の養子となって関東の名族結城氏の嗣を継いだ。そして三男の秀忠が徳川の嫡流となった。
秀康は幼い頃からなぜか家康に嫌われていたし、その後豊臣秀吉の養子となったため、ますます疎まれた。とは言え秀忠の兄であり、秀康も武勇に優れていたから、そこそこの待遇は与えなければならず、越前67万石の太守とした。しかし秀康は本来ならば自分が将軍との思いがあるから、幕府に対してはあまり素直ではなかったらしい。その秀康が没し、跡を長子忠直が継ぐ。忠直は幼少であり越前松平家は、あくの強い秀康の風が残っているから重臣間に対立が起きた。権勢を張り合ったのは府中(武生)の本多富正と丸岡の今村盛次であり、日ごと対立が激しくなって、やがて御家騒動(越前騒動)に発展する。幕府は親藩での事件を重く見て騒動に介入し、結局今村盛次に非ありとして配流処分とした。
今村盛次に代って越前松平家の附家老として丸岡に入ったのが、本多重次の長子成重であった。所領は4万3千石、同じく附家老で越前騒動の一方の旗頭であった本多富正は従兄にあたる。本多成重が派されたのは、騒動で動揺した越前松平家を押えるためであり、その後藩主忠直は両本多の活躍もあって大坂の陣で武名を挙げ、面目を施している。しかし大坂の陣の活躍に対する加増の沙汰がないのに腹を立てて生活が荒れ、改易されてしまう。このときに本多成重が罰せられなかった理由はわからないが、忠直の行状があまりに常識はずれであったか、幕府が越前家を目障りにおもったか、いずれにせよ家老の責任ではないためであろう。
本多成重は罰せられなかったどころか、丸岡で独立した大名となった。本多家は成重のあと重能、重昭と継ぎ、そのあとの重益の代に改易される。その改易の騒動が越丸騒動である。本多重益という人物は典型的な暗君であったようで、政治は家老に任せきりで一切顧みず、日夜歓楽に耽ったという。家老の本多織部、寺田蔵之丞らの奸臣が不正に走って政治を私したという時代劇ドラマそのままの状態であったらしい。ドラマでは藩士の中から立ち上がる者がでるが、この時にも出た。その名を太田又八という。又八は本多織部らの不正を我慢できず、重益の親類大名の松平頼元(常陸額田2万石)、大久保忠朝(下総佐倉9万3千石、老中)に対して家中の状態を訴え、驚いた頼元、忠朝らは他の親類たちとも相談のうえ、本多織部、寺田蔵之丞らを改易とし、太田又八は家老に登用され本多姓を与えられる。
ところが本多織部もそれであきらめるような人物ではなく、巻き返しにかかる。そこに本多重益の公儀向きの不首尾があったらしい。そのため元禄2年(1689年)に本多又八は、重益を病気と称して身柄を拘束した。これを押込という。押込はこのままでは家が潰れるというときに、家臣団が一致してとる非常手段で、押し込められた主君は狂気や病気ということで、強制的に引退させられる。例は多くないが、本多家以外にも押込は行われている。ところが本多家の場合には、この押込が失敗に帰したのだ。
かねてから巻き返しを狙っていた本多織部は、老中大久保忠朝に対して重益の再出仕を働きかけて、この結果元禄6年(1693年)に重益は病気平癒ということで再出仕を許された。もともと暗君であった重益だから、すぐに本多又八らに対して報復を始める。又八は嫡子丸八郎ともども捕らえられて獄につながれ、獄内で餓死。ほか数名の者も同様であったが、本多刑部、本多源五衛門らは丸岡城下を立ち退き、大垣藩戸田家の庇護を受けた。本多家では立ち退き者のことを幕府に報告、幕府も探索を命じ、逃げられぬと悟った本多刑部、本多源五衛門は江戸に出て深川方面で幕吏と立ち回りを演じたあと自害した。この大騒動に幕府もさすがに本多家中を吟味し、その結果重益は「家中の仕置よろしからず、そのうえ家来を餓死させること非なり」として改易処分となり、鬼作佐の家もここに絶えた。  
 

 

丸岡藩
越前国(現在の福井県)坂井郡などを支配した藩。居城は丸岡城(現在の福井県坂井市丸岡町霞)。
丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入った。青山氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。その後の慶長18年(1613年)5月、徳川家康のもとで仕えて「鬼作左」の異名をとったことで有名な本多重次の子・本多成重が4万石を与えられて入り、秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。大坂の陣でも活躍し、武功を挙げている。寛永元年(1624年)、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられた。成重とその子・本多重能、そして孫の本多重昭の3代は検地・城下町の整備・新江用水の新設など、藩政の確立に尽力したが、重昭の子・本多重益は酒色に溺れては無能の上、家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり、遂に元禄8年(1695年)に幕命により改易されてしまった。
代わって戦国時代のキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入部する。第2代藩主・有馬一準の時代である正徳元年(1711年)に外様大名から譜代大名へ格上げされた。第5代藩主・有馬誉純は若年寄、第8代藩主・有馬道純は老中という幕府の要職に就任した。特に誉純の代は安永元年(1772年)から約50年間という長期にわたって藩主を務め、藩政改革を行なって藩政を安定させた上、藩校である平章館の設立や藩史・地誌の編纂に力を注ぐなど、文化面でも大いに貢献した。明治2年(1869年)6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年(1871年)9月の廃藩置県により、道純は東京に移住して丸岡藩は廃藩となったのである。
丸岡藩の成立
丸岡の地は、豊臣時代には青山忠元が領して4万6千石を得ていたが、関ヶ原役で西軍に属した為に役後除封され、松平(結城)秀康の所領となった。秀康は家康の二男であったが秀吉の養子となり、その後関東の名族結城家の家督を継いだ。家康の跡継は三男秀忠となったが、秀康は秀忠の兄ということで松平姓を名乗り、越前北の庄(のちの福井)67万石の太守となった。これ以後越前松平家とよばれ、いくつかの特権を有して制外の家とも言われ、格式は御三家並であった。
秀康は越前に入ると丸岡に家臣今村盛次を置き2万5千石を与えた。慶長12年(1607年)に秀康が没して嫡子忠直が封を継いだが、慶長16年(1611年)に重臣間の内紛から越前騒動(久世騒動)が起きる。対立する派閥の一方の旗頭は今村盛次であり、もう一方は府中(武生)の本多富正であった。翌慶長17年に騒動は決着し、今村盛次は配流処分となった。このため幕府は若年の藩主忠直を補佐し、越前松平家の動揺を抑える目的で、付家老として本多成重を付属させ、成重は4万7千石を与えられて丸岡に入った。
本多成重は鬼作左として名を馳せた本多作左衛門重次の嫡男であった。作左衛門重次は武名高く、歯に衣着せぬ物言いをする古武士的な男であったが、その性格や言動が災いして天下人秀吉に嫌われた。家康も頑固な重次を次第に持て余して、3千石を与えて隠居させた。「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」という簡潔に要点を述べた、手紙文の模範とされる文章があるが、これは重次が戦場から国許の妻女に送ったもので、この中に書かれたおせん(仙千代)が成重である。成重は丸岡に入ると武生の富正とともに両本多と称され、福井藩政に尽力する。ちなみに本多富正は重次の甥であり、したがって成重とは従兄弟同士となる。
本多氏時代
成重が丸岡に入ったのは慶長18年(1613年)のことであり、翌慶長19年には大坂冬の陣が起こる。さらに翌年の元和元年(1615年)には夏の陣と続くが、大坂の陣における両本多の活躍は目覚しいものであったという。特に夏の陣で成重は、3百騎を率いて真田幸村の軍を破り、大坂城一番乗りを果たし、戦後従五位下飛騨守に叙任された。これら越前勢の活躍で家康の孫忠直も面目を施したが、家康から「初花」の茶入と秀忠から「貞宗」の脇差を与えられただけであった。
本来将軍職を継いでもおかしくない家柄であると考えていた忠直は、これを不満として次第に酒色に耽り、乱行に走る。暴虐の限りを尽くしたとも言われるが、どこまでが本当かはわからない。しかし忠直が政治を顧みなかったのは事実で、幕府も処分せざるを得なくなった。忠直は改易となり、その嫡男仙千代(光長)は越後高田に移された。代って越後高田から秀康の二男忠昌が50万石で福井に入った。このときに成重は6千石を加増されて4万6千石となり独立した譜代大名となった。
成重は領内の開発に力を注ぎ、検地を実施して財政の基礎を確立し、新江用水の開鑿を行った。しかし丸岡藩領は狭い上に生産性が低く、石高の増加はほとんどなく、このことが藩政の大きな障害となっていく。成重は正保2年(1645年)に隠居して、その後重能-重昭-重益と継いだ。このうち重昭は浄土真宗西本願寺派の僧侶寿法に深く帰依し、参勤交代にも伴ったほどであった。領内の神仏にも広く保護を加えている。だが、次の重益は政治に関心がなく、もっぱら酒色に耽ったために、重臣間に対立を生んだ。重益のもとで実権を握って藩政を牛耳る本多織部に対し、本多又八らは重益を引退させ、織部一派を追放しようと画策した。
一時は重益の押込に成功したが、織部一派の巻き返しにあって重益が返り咲く。重益は本多又八らに報復を行い、又八は嫡子丸八郎ともども捕らえられて獄につながれ、獄内で餓死させられた。本多刑部らは丸岡を立退き、その後江戸に出て深川で幕吏らと立ち回りを演じ、自害した。この大騒動に幕府も介入せざるを得ず、重益は家中の仕置よろしからず、そのうえ家臣を餓死させるは非道なりとして改易処分となった。
本多重益
越前丸岡藩の第4代藩主。
寛文3年(1663年)、第3代藩主本多重昭の長男として生まれる。延宝4年(1676年)、父の死去により家督を継ぐ。延宝5年(1677年)に従五位下、飛騨守に叙任する。
重益は信仰心は厚い人物だったが、藩主としては暗愚で、藩政は家臣に任せて自らは酒色に溺れたという。このため、家臣団内部で藩政の実権をめぐっての争いが起こる。さらに重益に実子が無かったことで太田又八は暗愚な重益を隠居させて弟の重信を擁立しようとした(重信は早世したため、のちに重修に白羽の矢が立つことになる)。これに対して本多織部は暗愚な重益を傀儡として、自らは実権を掌握して思うがままに藩政を操ろうとした。この両派による争いは激化し、幕府も捨て置けず、元禄8年(1695年)3月23日、幕府は重益の家臣団統率がよろしくないとして改易に処し、重益は池田仲澄に身柄を預けられることになった。
宝永6年(1709年)、徳川家宣が新将軍に就任すると、恩赦により罪を許され、宝永7年(1710年)に2000石の旗本寄合組として復帰した。
享保18年(1733年)2月25日に死去した。享年71。跡を五島盛暢の子で、養子の成興が継いだ。 
丸岡城
柴田勝家の甥である柴田伊賀守勝豊が築いた現存する最古の天守が存在する城郭
広大な坂井平野は福井県随一の穀倉地帯であるが、その東寄りに丸岡城が存在する。市街地の北東部に位置する小高い独立した丘陵に築かれた丸岡城は、本丸、二の丸、東丸、西丸、三の丸で構成された連郭式平山城である。丸岡城の小規模な天守は、北陸地方では唯一となる現存天守で、初層の大入母屋の上に廻り縁をともなう小さな望楼を載せた2層3階の独立式望楼型天守である。古式な外観や、掘立柱を用いている点などから現存最古の天守とも考えられている。この丸岡城の現存天守と天守台の石垣は、昭和23年(1948年)に発生した福井地震によって倒壊しており、昭和25年(1950年)に国の重要文化財の指定を受け、昭和30年(1955年)に保存していた古材を使って修復再建したものである。その際、8割程度は当時の部材が使われたというが、最上階の窓が引き戸から突き上げ窓に改変されている。江戸期に記された『柴田勝家公始末記』には、天正4年(1576年)に丸岡城を築くとあることから、一般的にはこの時にこの天守が築かれたと考えられている。これに対しては異説もあり、1階と2階の通し柱がないことや、廻り縁が見せかけであること、安土・大坂・岡山などの関ヶ原の戦い以前の天守の最上階は三間四方しかないのに、丸岡城は四間×三間と大きいことを挙げて、これらは慶長年間(1596-1615年)後期の特徴であるとしている。この説に従うと、現在の丸岡城天守は柴田氏時代のものではなく、本多氏が城主となった慶長18年(1613年)頃のものとなる。この天守の特徴は、石瓦と腰屋根である。寒冷地では通常の土瓦は積雪や寒さのために割れてしまうことが多く、その対策として約6千枚の屋根瓦にはすべて笏谷石(しゃくだにいし)を瓦状に加工した石瓦が使われている。石瓦1枚が20〜60kgの重さで、屋根全体では120トンにもなる。笏谷石は福井市の足羽山周辺で採掘される石材で、福井城(福井市大手)の石垣もこの笏谷石で作られている。凝灰岩の一種で、その色合いから越前青石と呼ばれた。天守台の石垣は、野面積みという自然石をそのまま積み上げる古い方式で、隙間が多く粗雑な印象であるが、排水性に優れており頑丈であるという。しかし野面積みの天守台では、天守台の石垣上端に揃えて天守を建てることができず、石垣の方が天守初層の外寸よりも余裕を持って造られる。このままだと雨水が隙間から入り込んで石垣が崩れる恐れがあるため、石垣の余裕部分に小さなスカート状の腰屋根とか板庇と呼ばれるものが取り付けられ、雨水が入り込むのを防いでいる。天正4年(1576年)丸岡城を築城する際に、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を入れることとなった。城下に住む片目の貧しい未亡人「お静」は、息子を侍に取り立ててもらう事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は天守の中柱の下に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、初代城主の柴田勝豊(かつとよ)はほどなく移封となり、その約束は果たされなかった。それを怨んだお静の怨霊は大蛇となって暴れたという。毎年4月の堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼んだ。天守台の階段前には、お静の慰霊碑と供養塔が存在する。地元には「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。丸岡城の築城後に越前一向一揆の残党が城を襲うことがあったが、その度に天守下の巽(南東)の隅にある「雲の井」という井戸から大蛇が現れて霞(かすみ)を吹き、城を隠して危機を救ったという伝説もある。このことから別名を霞ヶ城といった。
この伝説により、有馬氏の城主時代には雲井龍神を勝利の守神として祀ったが、明治以降に荒廃してしまい、昭和40年(1965年)になって再興された。徳川家康の家臣で、鬼作左の勇名をとどろかせた本多作左衛門重次(しげつぐ)が、長篠の戦いの陣中から妻に宛て「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」と書き送った話は有名である。この書簡碑が天守の北東下に建てられている。文中のお仙とは嫡子の仙千代で、後に初代丸岡藩主となる本多飛騨守成重(なりしげ)のことである。往時は山麓部分に大規模な内堀が廻らされており、丘陵自体が大きな五角形の内堀に浮かぶような威容で、大手門と不明門の2箇所からしか内堀を渡ることはできなかった。本丸、二の丸、東丸、西丸などの主郭部を取り囲んでいた最大91mにもおよぶ内堀は、近世になって徐々に埋め立てられて消滅したが、近年この内堀を復元する計画があるという。外郭には侍屋敷を配置し、さらに河川を利用して外堀を設け、寺院や民家を包容して城下町を形成していた。外堀は用水路となっており、その多くは当時と同じ場所を流れている。特に丸岡城南側の賢友橋から神明橋あたりまでは、田島川として流れる外堀跡に沿って歩くことができる。移築現存する建物としては、丸岡町野中山王の民家に不明門と伝わる城門がある。もともとは2層の櫓門であったが、福井地震により大きな被害を受けたため、上層を取り払って単層の門に改修したという。2階部分は失われてしまったが、その風格は堂々たるもので、笏谷石を用いた鬼瓦は左右が阿吽の形状となる。他にも、興善寺(石川県小松市)および、蓮成寺(あわら市前谷)に、それぞれ城門が移築されている。丸岡藩主本多家の菩提寺である本光院(坂井市丸岡町巽)の境内の左手奥には、本多重次から3代藩主重昭(しげあき)までの4基の大きな五輪塔が立ち並んでいる。お家騒動で改易となった4代藩主重益(しげます)の墓はここにはない。また、高岳寺(坂井市丸岡町篠岡)は丸岡藩主有馬家の菩提寺のひとつで、元々は初代藩主清純(きよすみ)、2代一準(かずのり)、3代孝純(たかすみ)と、日向国延岡(宮崎県延岡市)時代の直純(なおずみ)、康純(やすずみ)などの墓碑のみであったが、大正になり江戸の菩提寺であった本覚寺(東京都台東区)から4代允純(まさずみ)、5代誉純(しげずみ)、6代徳純(のりずみ)、7代温純(はるすみ)などの墓碑が移された。本多家歴代墓所と有馬家歴代墓所は、ともに坂井市指定史跡となっている。古墳時代となる5世紀末、のちに第26代の継体(けいたい)天皇となる男大迹王(をほどのおおきみ)が、坂中井(さかない)の麻留古乎加(まるこのか)に住んで越国(こしのくに)を統治していた時、その妃の倭媛(やまとひめ)との間に2男2女を授かった。第1皇子が椀子皇子(まろこのみこ)といい、皇子の胎衣を丸岡城の地である乎加の南に埋めたと言い伝えられいる。いつしか「麻留」が「丸」に、「乎加」が「岡」になり、丸岡という地名になったとする。一方、この椀子皇子の名前から「まるおか」となったという説や、丸岡城の丘は椀子皇子が生まれた場所という伝説に因んで椀子岡と名付けられ、いつしか丸岡と呼ばれるようになったという説もある。現在、霞ヶ城公園に保存されている4世紀頃の牛ヶ島石棺は、御野山古墳(坂井市丸岡町牛ヶ島)から出土したもので、継体天皇の母である振媛(ふりひめ)の一族の石棺と考えられている。継体天皇は聖徳太子の曾祖父に当たる人物である。丸岡城の築城前、このあたりの軍事拠点は豊原寺(坂井市丸岡町豊原)であった。
丸岡城より東方約4kmの山中に豊原寺(とよはらじ)跡がある。この寺は白山豊原寺と号し、平泉(へいせん)寺(勝山市平泉寺町)とともに越前の白山信仰の拠点であり、最盛期には豊原三千坊と称されるほど隆盛を極めた。『白山豊原寺縁起』によれば、大宝2年(702年)越の大徳と称された泰澄(たいちょう)により創建されたとしており、源平合戦では木曽義仲(よしなか)に従い、南北朝争乱では北朝方の越前守護の斯波氏を助けている。戦国時代になると、越前守護の朝倉氏と共に一向一揆に対抗して勢力を拡大した。『朝倉始末記』によると、豊原寺は越前で最も勢力のある寺院に成長し、平泉寺と共に越前僧兵として多くの戦功をたてて活躍した様子が記されている。中世において豊原衆徒は、越前の動向をも左右する武力を備えており、本願寺の北陸の拠点である吉崎御坊(あわら市吉崎)と全面戦争に入っていた。元亀2年(1571年)朝倉氏は織田信長との戦いのため、半世紀以上にわたって敵対した本願寺と和睦しており、朝倉義景(よしかげ)の娘と本願寺第11世の顕如(けんにょ)の子・教如(きょうにょ)の婚約が成立、信長包囲網を形成した。しかし、天正元年(1573年)信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされており、朝倉氏の旧臣の多くが信長に臣従することによって旧領を安堵された。その後は、守護代に任命された朝倉氏旧臣の前波吉継(まえばよしつぐ)が越前を支配したが、天正2年(1574年)これに不満を持った同じく朝倉氏旧臣の富田長繁(とだながしげ)が大規模な土一揆を扇動して前波吉継を殺害した。さらに長繁は、敵対してもいない朝倉氏旧臣の魚住景固(うおずみかげかた)とその一族までも殺害している。一揆衆は長繁の横暴な振る舞いに怒り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周(しちりよりちか)や杉浦玄任(げんにん)を大将として招き、土一揆は越前一向一揆と化した。富田長繁は一揆軍と交戦するが、味方の裏切りにより殺されており、勢いを増した一揆軍は、朝倉氏旧臣を次々と攻め滅ぼしていった。このとき、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅、豊原寺は一向一揆に降伏した。本願寺の顕如は、下間頼照(しもつまらいしょう)を越前守護として派遣し、杉浦玄任を大野郡司、下間頼俊(らいしゅん)を足羽郡司、七里頼周を府中郡司としており、本願寺が越前・加賀の2国を支配した。天正3年(1575年)織田信長は、越前一向一揆を殲滅するために10万といわれる大軍を派遣し、一揆軍が籠る木ノ芽峠城塞群を突破して一気に越前を制圧した。越前一向一揆の総大将である下間頼照は豊原寺に本陣を置いていたため、豊原寺は攻略されて寺坊はことごとく焼き払われた。信長は論功行賞をおこない、筆頭家老の柴田勝家(かついえ)に越前8郡を与え、北ノ庄に築城を命じた。勝家は甥であり養子となった伊賀守勝豊を豊原に4万5千石を与えて派遣し、北ノ庄城(福井市中央)の支城として豊原城という山城を構えさせたという。豊原に残る古城跡としては、雨乞山城、三上山城、西の宮城の3箇所があるが、勝豊が築城した豊原城がどれに該当するのかは不明である。勝豊は豊原寺の伽藍の再建を図り、東得坊や西得坊などを整備した。しかし、翌天正4年(1576年)勝豊はあまりに天険である豊原から丸岡に移り、一向一揆への備えとして丸岡城を築いた。これに倣って多くの寺院が丸岡に移り、豊原は急速に衰退したという。天正10年(1582年)信長死後の清洲会議により、柴田勝豊は勝家の所領となった近江長浜城(滋賀県長浜市)の守備を任された。代わって丸岡城には、安井家清(いえきよ)を城代として置いた。
柴田勝家は羽柴秀吉と覇権を争うことになるが、勝家から冷遇されていた勝豊は長浜城ごと秀吉に寝返った。しかし、勝豊はすでに病を得ており、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いの直前に病没してしまう。秀吉によって柴田勝家が北ノ庄城で滅びると、越前は丹羽長秀(ながひで)の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(むねかつ)を置いた。天正13年(1585年)長秀が死去すると、青山宗勝は羽柴秀吉の直臣となり、黄母衣衆に列せられ、引き続き丸岡城と2万石の領地を与えられた。天正15年(1587年)には九州征伐に従軍、山城伏見城(京都府京都市伏見区)の普請でも功績を挙げたことから、慶長3年(1598年)4万6千石に加増、従五位下修理亮に叙任され、豊臣姓も与えられた。しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、青山宗勝・忠元(ただもと)父子は西軍に属し、東軍の前田利長(としなが)と戦っており、戦後に改易された。その後の青山氏の行方は不明である。関ヶ原の後、徳川家康の次男・結城秀康(ひでやす)が越前一国68万石を与えられて北ノ庄に入封し、丸岡城には家老の今村掃部助盛次(もりつぐ)が2万6千石で入城した。慶長12年(1607年)結城秀康は病にかかり死去、跡は嫡男の松平忠直(ただなお)が13歳で継いだ。浅井氏旧臣の今村盛次は新参家臣らの支持を得て勢力を増し、越前松平家の筆頭家老である本多伊豆守富正(とみまさ)ら徳川系家臣と対立、慶長17年(1612年)藩内は2派に割れて争い、久世騒動が勃発する。今村盛次と本多富正は江戸に呼ばれ、家康の裁断により今村一派は追放処分となった。慶長18年(1613年)江戸幕府より新たに附家老として派遣された本多成重は、4万石で福井藩の次席家老となり丸岡城に入った。元和9年(1623年)2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)は乱行の目立つ忠直に隠居を命じた。この時、本多成重は一旦幕府に召し返され、寛永元年(1624年)福井藩より独立して4万6千余石の丸岡藩が成立、譜代大名として取り立てられた。その後の丸岡城は、江戸時代を通じて丸岡藩の政庁として利用されている。しかし、本多家は4代しか続かず、元禄8年(1695年)4代重益は越丸騒動を起こして改易となり、代わって有馬清純が越後国の糸魚川藩より5万石で入封する。以後、幕末に至るまで有馬氏が8代にわたって続き、老中・若年寄など数々の幕府要職を務めている。幕末になると鎖国下の日本に外国船の来航が相次ぎ、幕府は海防の必要性を認めて、全国諸藩に海岸線を警備するよう命じた。嘉永5年(1852年)丸岡藩は沿岸警備のため、加越台地から日本海に突き出た小半島の台地上に砲台を建設した。ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊(黒船)が浦賀沖に来航する前年のことである。この丸岡藩砲台は丸岡藩砲台跡公園(坂井市三国町梶)に現存しており、梶台場とも呼ばれた。これほど原形を留めている砲台跡は全国的にも珍しく、昭和5年(1930年)国の史跡に指定されている。海岸からわずか数mの場所に、弧状の胸墻(きょうしょう)が築かれ、5つの砲眼と呼ばれる大砲を据える開口部が設けられている。胸墻とは敵弾を防ぐための低い防御壁で、外面は盛土で築き、内面と側面は石塁を積み上げている。東西約33m、高さは1.8mで、砲眼は約4.5m間隔で設けられており、すべて海に向けられている。高島流砲術の創始者である高島秋帆(しゅうはん)の門人と伝えられる丸岡藩の砲術家・栗原源左衛門が設計したものである。明治4年(1871年)丸岡城は廃藩置県によって廃城となり、天守以外の全てが解体された。廃藩時には6基の櫓と5つの櫓門もしくは城門が存在したという。 
 
延宝郡上騒動

 

美濃郡上八幡は、関ヶ原役後に遠藤但馬守慶隆が封ぜられて郡上藩2万7千石の藩祖となった。遠藤氏は入封ののち大坂の陣への参陣や駿府城、彦根城、名古屋城などの普請手伝いに駆りだされたこともあって、当初より財政は苦しかった。藩祖慶隆から慶利、常友と継ぎ、常友が延宝4年(1676年)に49歳で没すると四代常春が襲封した。三代常友は治世30年に及び、その間城下町の整備、八幡城の修築、歌集常縁集編纂などを行い、また検地を行って年貢の増微を図り新田開発に努め財政難に対処しようとしたが、小藩ゆえ悪化していく財政を立て直すには、遠かった。
常春は襲封時10歳と幼少であったために、常春の伯父にあたる美濃大垣藩主戸田氏西をはじめ、板倉周防守、常友の弟で分家して旗本となった常昭(乙原遠藤氏)、常紀(和良遠藤氏)が常春の後見となった。重臣の顔ぶれは江戸詰家老遠藤十兵衛・池田庄兵衛、国家老遠藤新左衛門・遠藤杢助、仕置家老松井縫殿助・野田九右衛門らであった。重臣たちは逼迫した藩財政を立て直すために、年貢の増微か支出の削減かを迫られていたが、延宝5年(1677年)に評議の末に年貢増微の方針を決定して領内に布れた。
当時の郡上藩の年貢の基準率いわゆる定米は約32%といわれているが、そのほか付加税である口米が一石について4升、また枡も納枡という3割増の枡が使われ、それらを全て合せると52%程度の税率であった。これが基本の税で、このほかに雑税として綿や雑穀、薪、大豆、茶、紙など多くの物品に税がかかり、そのうえに人足として徴発される労役がある。このうえに増税であるから、たちまち農民の反発を呼び、増税中止を藩に訴えた。しかし聞き入れてくれるはずもなく、8月には大島村の十左衛門、川辺村の喜兵衛ら農民代表20名が江戸藩邸に出訴をした。農民の訴えは年貢や諸税、諸役を慶隆の代に戻し、人足徴発の軽減、昨延宝4年未進の借米・借金の返済を十年賦とすること、新田開発を中止することなどであった。
一方、藩側も増税一色というわけではなく、増税派と反対派があった。増税派は農民の出訴を知ると遠藤七郎右衛門を江戸に上らせて、増税の意見具申を行う。事態を憂えた反対派の国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。杢助の進言は常春はじめ後見役の入れるところとなり、増税は中止され家臣の俸禄削減が決定された。さらに杢助らが農民を煽動していると讒言した遠藤七郎右衛門の知行は没収された。また年貢は7%免除され、口米は一石につき3升、雑税も引き下げられ、借米・借金の十年賦も認められた。農民は喜び杢助に深く感謝した。
しかし俸禄を削減された家臣の不満は大きく、同志を集めて杢助を糾弾した。即ち百石以上の藩士が連判して杢助の罪状を挙げた訴状を野田九右衛門が江戸藩邸に提出した。藩邸では後見役戸田氏西らが協議し、紛争を鎮めるために杢助に切腹させることにしたが、それを知った杢助は反訴状を江戸藩邸に提出した。野田九右衛門は、これを杢助の女婿であった遠藤新六郎が内通したことによるものと思い込んで、新六郎の邸に乱入したが、捕らえられて斬首された。
一方、郡上では延宝6年(1678年)正月2日の歌初めに増税派を中心に、杢助暗殺が計画される。だが、この計画は事前に洩れ、杢助を慕う農民が城下に結集して暗殺計画は失敗した。これにより増税派と杢助一派の対立はますます激しくなり、増税派は再三杢助を襲撃しようとする。後見役戸田氏西は、大から使者を出して集結した農民を説得し、また尾張藩も自領であった美濃洲原に藩兵を派遣するなど事態は悪化していった。同年2月に江戸から郡上に使者が出されて、杢助と増税派の国家老遠藤新左衛門が事態紛糾の責を負って隠居した。その後も家中一同や農民に対して説諭が続けられたが事態は好転せず、延宝8年(1680年)2月には家中不和による農民の困惑を農民5人が江戸藩邸に出訴する騒ぎとなった。
ようやく天和2年(1682年)3月になって家臣一同から和合の誓詞が出され、翌天和3年杢助、新左衛門ら48人に御暇など関係者が処罰されて、騒動は終結した。延宝郡上騒動とは財政立直しの方策を巡る増税派と歳出削減派の争いに領民、家臣の思惑がからみ騒動に発展し、それを喧嘩両成敗的に解決しようとするが失敗して、さらに事態が紛糾するという現代にも通じる話でもある。 
   
遠藤常春 (寛文7年-元禄2年 / 1667-1689)
美濃八幡藩の第4代藩主。第3代藩主・遠藤常友の次男。母は戸田氏信の娘。正室は松平源信の娘。継室は牧野富成の養女(村越直成の娘)。子は遠藤常久(長男)。官位は従五位下。右衛門佐。
延宝3年(1675年)2月、御目見を果たし、延宝4年(1676年)、父の死去により家督を継いだ。幼年のために戸田氏西らが後見とされ重臣らが執政した。延宝5年(1676年)、財政悪化により増税策がとられたが、もとより重税であったため、農民らの代表が江戸屋敷に訴え出たため、増税を主張する家老・遠藤七郎右衛門と俸禄削減を主張する家老・遠藤杢之助がそれぞれ江戸に上り意見具申を行い、杢之助の策が採用され、七郎右衛門は失脚した。しかし、国許では高禄の家臣らの不満が高まり、杢之助の娘婿を襲撃しようとした藩士が捕らえられる事態に発展し、杢之助を擁護しようとする農民が城下に集結する騒ぎとなった。これを延宝の郡上騒動という。杢之助と増税派の家老・遠藤新左衛門が責を負って隠居したが、その後も家中や農民の混乱は続いた。天和元年(1681年)、真田信利の改易に伴い、その次男の武藤信秋の預かりを命ぜられる。天和2年(1682年)、家臣一同より和合の誓詞が出され一連の騒動は終結した。元禄元年(1688年)、初めて国許下向が許されるが、翌年3月24日に郡上にて死去。跡を長男の常久が継いだ。
近年では、遠藤氏の派閥抗争は複雑で家督争いもあったらしく、その余波で常春も愛妾のお玉に毒殺されたと言われている。 
■郡上藩 
江戸時代に美濃国(現在の岐阜県郡上市八幡町)に存在し郡上郡の大半と越前国の一部を統治した藩。藩庁は八幡城。八幡藩(はちまんはん)とも。
郡上は戦国時代、織田信長や豊臣氏の家臣であった遠藤氏、次いで稲葉氏の支配下にあった。関ヶ原の戦いで稲葉氏が豊後臼杵藩に移された後、遠藤氏も関ヶ原で東軍に与して戦功を挙げたことから、遠藤慶隆は2万7,000石を与えられて旧領復帰を許され、ここに郡上藩が立藩した。第3代藩主・遠藤常友は弟の遠藤常昭に2,000石、同じく遠藤常紀に1,000石を分与したため、郡上藩は2万4,000石となった。そして寛文7年(1667年)に城を大改修したことから、遠藤氏は城主格から正式な城主として遇されることとなった。ところが第4代藩主・遠藤常春の時代である延宝5年(1677年)から百姓一揆と家中騒動が勃発する。常春はこれを天和3年(1683年)に一応鎮めたが、元禄2年(1689年)3月24日に謎の死を遂げた。その後を継いだ遠藤常久は元禄5年(1692年)3月29日に7歳で家臣に毒殺された。嗣子もおらず、本来であれば改易となるところだが藩祖の功績を賞して存続が許され、遠藤氏は一族の遠藤胤親が同年5月に常陸・下野両国内で1万石(三上藩)を与えられて移封となった。
同年11月、井上正任が常陸笠間藩から5万石で入った。しかし第2代藩主・井上正岑のときである元禄10年(1697年)6月、丹波亀山藩に移封された。その後に出羽上山藩から金森氏が入った。ところが第2代藩主・金森頼錦の時代である宝暦4年(1754年)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起こる(いわゆる郡上一揆)。さらには石徹白騒動(白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦8年(1758年)12月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。
その後、丹後宮津藩から青山幸道が4万8,000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。
明治4年(1871年)の廃藩置県で郡上藩は廃されて郡上県となり、同年11月に岐阜県と福井県に分割され編入された。
遠藤氏の入封
郡上藩は八幡藩ともいい、美濃国郡上郡を中心に江戸期を通じて存在した中小藩。郡上郡は戦国期には豪族の遠藤氏の勢力下にあった。遠藤氏は美濃の戦国大名斎藤氏に属し、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が斃れると織田信孝に属したが、信孝は秀吉と対立して挙兵する。しかし秀吉に敗れて自害させられてしまう。遠藤氏の当主慶隆は秀吉に属することとなったが、天正15年(1587年)に所領を減らされて美濃小原で7千5百石となった。
天正18年(1590年)に稲葉貞通が美濃国曾根から郡上に移されて八幡城主となった。貞通は関ヶ原役で岐阜城主織田秀信に通じて西軍に属し八幡城に籠ったが、遠藤慶隆や金森可重に攻められて落城した。福島正則の勧めもあって貞通は東軍に寝返り、その後は加藤貞泰郡に属して関ヶ原本戦に参じ、戦後豊後臼杵に転封となった。郡上には遠藤慶隆が郡上落城の功によって復帰した。その後、郡上藩は遠藤氏六代、井上氏二代、金森氏二代、青山氏七代と継承され明治に至る。
郡上に復した遠藤慶隆は、彦根、駿府、名古屋の諸城修築手伝い、大坂の陣参陣などに活躍する一方で、一方内政では八幡城修築や長尾銅山開発、寺社の保護などを行った。藩政の基礎を固めた慶隆は寛永9年(1632年)3月死去し、二代慶利を経て三代常友が継承する。このとき弟常昭に2千石、弟常紀に千石を分与し両家は旗本に列した。常友は溜池や治水工事を起こし新田開発に努めたほか、長尾山銅山や畑佐銅山の拡充、城下町の整備、八幡城の修築、歌集常縁集編纂などを行い、延宝4年(1676年)に死去した。
延宝騒動
常友の跡を常春が継ぐ。常春は襲封時10歳と幼少であったために、常春の伯父にあたる美濃大垣藩主戸田氏西をはじめ、板倉周防守、常友の弟で分家して旗本となった常昭(乙原遠藤氏)、常紀(和良遠藤氏)が常春の後見となった。郡上藩の財政は当初より苦しかったが、このころにはかなり逼迫していた。重臣たちは逼迫した藩財政を立て直すために、年貢の増微か支出の削減かを迫られていたが、延宝5年(1677年)に評議の末に年貢増微の方針を決定して領内に布れた。
たちまち農民の反発を呼び、農民は増税中止を藩に訴え、8月には大島村の十左衛門、川辺村の喜兵衛ら農民代表20名が江戸藩邸に出訴をした。農民の訴えは年貢や諸税、諸役を慶隆の代に戻し、人足徴発の軽減、昨延宝4年未進の借米・借金の返済を十年賦とすること、新田開発を中止することなどであった。藩側も増税一色というわけではなく、増税派と反対派があった。増税派は農民の出訴を知ると遠藤七郎右衛門を江戸に上らせて、増税の意見具申を行う。
この動きに対して、反対派の国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。杢助の進言は常春はじめ後見役の入れるところとなり、増税は中止され家臣の俸禄削減が決定された。また年貢は7%免除され、口米は一石につき3升、雑税も引き下げられ、借米・借金の十年賦も認められた。農民は喜び杢助に深く感謝した。
しかし俸禄を削減された家臣の不満は大きく、同志を集めて杢助を糾弾した。即ち百石以上の藩士が連判して杢助の罪状を挙げた訴状を野田九右衛門が江戸藩邸に提出した。藩邸では後見役戸田氏西らが協議し、紛争を鎮めるために杢助に切腹させることにしたが、それを知った杢助は反訴状を江戸藩邸に提出した。一方、郡上では延宝6年(1678年)正月2日の歌初めに増税派を中心に、杢助暗殺が計画される。だが、この計画は事前に洩れ、杢助を慕う農民が城下に結集して暗殺計画は失敗した。これにより増税派と杢助一派の対立はますます激しくなり、事態は悪化していった。
延宝6年2月に江戸から郡上に使者が出されて、杢助と増税派の国家老遠藤新左衛門が事態紛糾の責を負って隠居した。その後も家中一同や農民に対して説諭が続けられたが事態は好転せず、延宝8年(1680年)2月には家中不和による農民の困惑を農民5人が江戸藩邸に出訴する騒ぎとなった。ようやく天和2年(1682年)3月になって家臣一同から和合の誓詞が出され、翌天和3年杢助、新左衛門ら48人に御暇など関係者が処罰されて、騒動は終結した。
遠藤氏移封と井上氏二代
常春は元禄2年(1689年)に死去し、常久がわずか4歳で家督を継いだ。しかし3年後の元禄5年(1692年)3月晦日に7歳で没した。この死には陰謀説がある。元禄5年に常久が種痘に罹ると重臣池田主馬が常久を毒殺して自分の子を身代わりしようとしたが、重臣の中に反対派があって、仕方なく常久の死を幕府に届けたという。常久には子がなく美濃郡上2万4千石は無嗣によって収公されることになったが、祖先の功により親戚の大垣藩主戸田氏成の養子胤親に遠藤氏の家督を継がせた。
胤親は元禄5年(1692年)5月に常陸・下野両国内で1万石を与えられ、さらに元禄11年(1698年)近江三上に移封される。代って常陸笠間から井上正任が5万石で入る。正任は翌元禄6年(1693年)9月に嫡子正岑に封を譲り隠居した。正岑は元禄8年(1695年)12月に奏者番、翌元禄9年10月に寺社奉行兼帯となり、元禄10年(1697年)6月10日に丹波亀山に転封となる。井上氏の郡上在藩は5年ほどであったが、この間に年貢を定免法から検見法に改めている。
金森氏の入封
井上氏に代って出羽上山から金森頼時が3万8千9百石で郡上に入封した。金森氏は一世紀近く飛騨高山藩主を継承したが、頼時の代に飛騨高山から出羽上山に移された。転封については幕府が飛騨の森林と鉱山の直轄化を図ったものとされる。上山では飛騨と同じ石高が与えられたが、上山城は前藩主土岐氏の転封の際に破却されたままであり、家臣の屋敷にも困窮した。さらに実質的には減収であり、また不作が続いたために財政は悪化したほか、入封直後には年貢を巡る農民の強訴事件も起きている。
頼時の上山在封は5年ほどで、元禄10年(1697年)には美濃郡上に再度転封された。領地は美濃郡上周辺で2万3千8百石余り、越前大野郡内に1万4千9百石余りであった。元禄12年(1699年)に農民からの訴えにより前藩主井上氏時代からの検見法を定免法に改めるが、これが次代頼錦のときの騒動の遠因となる。郡上では財政難に苦しんだが、治世は安定していたが、頼時は元文元年(1736年)5月に死去し頼錦が家督を継いだ。
財政難と検見法強行
頼時は学問や文化を好む典型的な文人型の藩主であり、金森家累代の遺跡顕彰のための碑を建立した。また、目安箱を設置したり、天守台に天文台を設けたりした。頼時は延享4年(1747年)5月に奏者番となり出世の糸口を掴んだが、転封や江戸屋敷再建、さらに奏者番としての役儀上の出費などで藩の財政は困窮の一途を辿った。そこで頼錦は重臣たちと図り、宝暦4年(1754年)に定免法を取りやめて検見法により年貢を取り立てることとした。増収を目指したのだ。財政に詳しい黒崎佐市右衛門を200石で召抱え、農民に対して検見法への変更を布れた。これに反対する農民は城下に集結し強訴を繰り返した。
藩では農民の勢いに押されて願書を受取ったが、報せを受けた江戸藩邸では幕閣に働きかけて美濃郡代青木安清を農民の説得にあたらせた。翌宝暦5年に青木は庄屋を役所に呼んで検見法実施を強制し、これを知った農民が再び集結を始めると藩庁では厳しい態度で望んだ。当時、各地で起きていた百姓一揆に対して、幕府の方針は対決一色であり、その姿勢の現れでもあった。
藩側の検見法強行に対して、農民側は再び蜂起しようとしたが、藩兵が城下入口を固めたために城下に入れず、小駄良の雨宮神社や穀見野に集結した。そのうち有志50名余りが那留ヶ野に集まり傘連判状を作り江戸への出訴を決めた。農民有志は宝暦5年(1755年)8月江戸藩邸に前の十六条の願書に十七か条の嘆願書を添えて提出した。江戸藩邸では農民たちを牛込御箪笥町の屋敷に監禁してしまう。藩では農民の取締りを厳しくし、役人が農村を巡回して農民を懐柔したり威嚇したりして、一揆の分裂を図った。このために寝者(ねもの)と呼ばれる一揆脱落者が多くなり、立者(たてもの)と呼ばれる一揆参加者は当初の四分の一の500人程度まで減少してしまう。
騒動の激化
村対村の対立や村人間での対立が起き、一揆は拠点を移さざるを得なくなった。その後、一揆側の勝原村幸助、小野村半十郎、剣村三郎右衛門、同四郎左衛門、気良村小市右衛門、などが相次いで投獄された。これに対抗して東気良村善右衛門、同長助、切立村喜四郎、前谷村定治郎、那比村藤吉の5名は同年11月26日江戸城大手前で老中酒井忠寿の行列に駕籠訴を決行した。5人は取調べを受けた後、郡上藩邸に移され、さらに郡上に戻され庄屋預けとなった。駕籠訴による咎めは軽かったものの、効果もまたなかったのである。
宝暦6年(1756年)9月藩主頼錦は郡上に帰国して、農民の願いを聞き入れ入牢者を放免する懐柔策に出たが、これは逆に立者を勢いづかせ寝者への襲撃を誘発し、暴動は激化していくばかりだった。立者はさらに江戸訴願の落着まで年貢の上納延期を求めて、城下に集結して強訴に及ぶ。藩側では上納延期を許したが、12月に入り暴動の首謀者として気良村甚助を捕らえ、吟味もなく打首とした。宝暦8年(1758年)に入ると歩岐島村の四郎右衛門が立者の連名帳を所持していることを知った藩側は、藩兵を派して連名帳を奪いとり、これをきっかけに藩兵と農民の乱闘となった。これを歩岐島騒動というが、この騒動にまぎれて庄屋預けとなっていた前谷村定治郎、切立村喜四郎は脱走する。
同年3月に立者有志は再び江戸に出て町奉行依田和泉守に訴状を提出するが取り上げられず、最後の手段として箱訴を決行することにした。4月2日に剣村藤次郎、東俣村太郎右衛門、西俣村孫兵衛、二日町村伝兵衛、歩岐島村治右衛門、向鷲見村弥十郎の6名が目安箱に訴状を入れた。
石徹白騒動
郡上での農民一揆と前後して、郡上藩領である越前国大野郡石徹白村で紛争が生じた。石徹白村には白山中居神社があり、白山信仰の村として栄えていた。村人は白山中居神社の社人となり、無税で帯刀も許されていた。神頭職杉本左近が代々支配して京都白川家に属していたが、神主上村豊前が京都吉田家と結んで、杉本家から支配力を奪おうと画策を始めた。上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門に贈賄して、藩への工作を進めた。宝暦4年(1754年)に根尾は手代の片重半助を石徹白村に派遣して、杉本左近ら主だった社人に対し、今後は吉田家に属し上村豊前に従うよう命じた。
しかし上村豊前がもともと傲慢であったこともあり、左近らは一向に命令に従わなかった。根尾は左近らを郡上に召喚して命令服従を強要するが、左近らは断固拒絶して失敗した。業を煮やした上村豊前は、左近派の上村次郎兵衛を片重と謀って追放処分とし、さらに根尾ら藩の後ろ盾を得て神社の山林や神木を伐採し始めた。左近らは次郎兵衛追放処分の取消や山林伐採中止を郡上藩に訴え出るが聞き入れられず、宝暦4年(1754年)8月に左近と上村十郎兵衛、桜井吉兵衛の名で幕府寺社奉行本多長門守忠央に訴状を提出した。
しかし忠央は郡上藩主頼錦と親しく、訴状は取り上げられず、逆に金森家に通報されてしまう。左近らは郡上に送還されて、左近は投獄され十郎兵衛と吉兵衛は上村豊前に預けられた。翌宝暦5年5月には左近、十郎兵衛、吉兵衛のほか左近派の3名を合せた6名が領外に追放された。さらに12月に入ると左近派の503名を領外追放した。この時は美濃口を遮断して雪深い飛騨側に追放したために、途中72名の凍死者、餓死者を出した。
追放された杉本左近は美濃国厚見郡芥見村の篠田源兵衛宅で援助を受けて運動を続けていたが、宝暦6年(1756年)8月江戸に上り、老中松平右近将監武元の行列に社人82名の連判をもって駕籠訴を決行した。しかし、これは寺社奉行の管轄であるとして本多長門守忠央に戻されてしまい、左近は最終手段として宝暦8年(1758年)4月11日、21日、7月2日と箱訴をした。しかし沙汰がなく7月21日に四度目となる箱訴を行った。
金森氏改易
杉本左近の訴状には上村豊前の行状のほかに、追放されて凍死したり餓死した社人や農民の悲惨さ、郡上藩や幕府の訴状の不受理などが綴られていた。それが、四度も提出されたうえに、4月には郡上の農民の箱訴もあり、こうも重なっては幕府も訴状を取り上げないわけにいかなかった。杉本左近の四度目の箱訴の前日から、郡上の農民騒擾と石徹白騒動を評定所で取り上げて始めた。勘定奉行大橋近江守の召喚と訊問から始まり、幕府関係者、藩主頼錦ほか郡上藩関係者、郡上農民、石徹白村社人らの調べが行なわれ、宝暦8年10月には裁決が出た。
藩主頼錦は閉門のうえ謹慎していたが、10月2日に失政の責任を問われ領地を召し上げられて、陸奥盛岡の南部家に永預けとされた。嫡子出雲守、三男伊織も改易、五男熊蔵・六男武九郎・七男満吉は15歳まで親類に預けられた。幕府関係者でも老中本多伯耆守正珍や若年寄本多長門守忠央、勘定奉行大橋近江守など多くの処分者を出したほか、農民側も16人が獄門や死罪、遠島1名、追放20名など多くが罰せられている。
青山氏時代
金森氏の失政の後を受けて丹後宮津から青山幸道が4万8千石で郡上藩主となった。幸道は入封後法制の整備を手がけ、領民や家中の生活を規制し綱紀を正すように努めた。具体的には入封の際に町人への土産に大判を用意し、金森氏の旧家臣を受け入れ、家中に倹約を奨励した。特に法令では徒党・強訴の禁止、しきたりの順守、賭博・喧嘩口論は死罪など過去に多発した一揆を意識したものであった。しかし藩主が代っても郡上藩の財政難は相変わらずであった。ことに幕末近くになると出費も多く、安政3年(1856年)には借金は5万1千両余りに達し、藩主であった幸哉は、諸経費を三分の一に切り詰め、藩士をはじめ農民、町人、寺社などから5千両を13年賦返済で借り入れて資金を調達した。
さらに万延元年(1860年)には領内の富裕層から10年賦で5万両の調達を計画した。しかし調達は上手く行かず、藩では財政確保のために、生糸の専売を行うこととした。領内から生糸を藩札で買い上げて、江戸の生糸相場で利益を上げ、利益の半分を藩札の引換え準備に充て、残り半分を借金の返済に充てようとするものであった。しかし、この生糸専売は農民の収益の減少をもたらし、藩札の下落と物価高騰を招き、万延元年7月に農民一揆が起きて、わずか2年後の文久2年(1862年)には中止された。
慶応3年(1867年)に将軍慶喜による大政奉還が行われたとき、藩主幸宜は幼少であり、藩論は国元では勤皇、江戸では佐幕と統一をみなかったが、翌慶応4年に美濃の雄藩大垣藩が朝廷に帰順したために、ようやく郡上藩も朝廷側となった。郡上藩では在京の家老鈴木兵左衛門から朝命を奉ずる旨上奏し、飛騨国警備を請願した。これは東征軍に加われば莫大な費用がかかるが、飛騨警備であれば経費も少なく、様子見も出来るという多分に日和見的な理由であった。
この願いを入れて朝廷では飛騨鎮撫使竹沢寛三郎に協力するよう郡上藩に命じ、これを受けて藩では益田街道から100余名、郡上街道から200余名を飛騨高山に向わせた。飛騨では竹沢寛三郎並びに郡上藩兵に対する排斥の念が強く、東山道鎮撫総督岩倉具定に対して、両者への排斥運動が展開されるほどであった。これは安永2年(1773年)に飛騨で一揆が起きた際に、代官大原紹正の要請で郡上藩兵が鎮圧にあたり、そのことを飛騨の領民が恨んでいたためである。このため一時郡上藩兵は総督の命によって飛騨から引き揚げたが、そののち再び飛騨防備に復帰している。
慶応4年(1868年)に江戸城が開城され、将軍慶喜は水戸に退いた。これを不満とする幕府の将士のほか、佐幕派の譜代諸藩の兵も多く江戸を去った。郡上藩でも江戸家老朝比奈藤兵衛の子茂吉を隊長に45名が脱走し、凌霜隊と名乗り会津藩の援護に向った。表面上は脱走であるが、実際は佐幕派の朝比奈藤兵衛によって命じられたものだという。佐幕派の他藩の諸隊とともに結城や小山で新政府軍と戦って勝利を得たが、続く宇都宮では戦に敗れた。3ヶ月ほど塩原に留まった後に、日光から会津若松に入り、白虎隊とともに西ノ丸を守備した。しかし新政府軍の総攻撃の前に白虎隊の悲劇を生み、会津若松城は降伏し、凌霜隊は8名が戦死し1名が逃亡、負傷して病院に残るものを除く26名が郡上に護送され獄舎に繋がれた。明治3年(1871年)に至り釈放されたが、反逆者とされて冷ややかな目で見られた。
一方、郡上では明治2年(1869年)版籍奉還により幸宜は郡上藩知事となる。この年は凶作であり、年貢軽減と救助米を求めて領内の村の有力者から嘆願があった。その交渉の過程で生まれた誤解から那留ヶ野に農民3千人以上が集結する騒ぎが起きた。やがて誤解が解けて農民は解散したが、藩では首謀者を探索し68名を捕縛した。だが捕縛した68名は取り調べを受けることなく釈放された。明治初混乱期における出来事である。そして明治4年(1871年)7月廃藩置県が行われ、郡上藩は郡上県となり11月には岐阜県に統合された。
 
宝暦郡上騒動

 

郡上藩金森家の財政難
金森氏は織田信長、豊臣秀吉に仕えた金森長近が、飛騨国平定の功によって飛騨一国3万8千石の大名となり、高山に築城し六代に渡り100年余り在封した。六代頼時は元禄5年(1692年)7月に出羽上山に転封となったが、これは将軍綱吉の側用人であった頼時の失策によるものとか幕府が飛騨の森林資源や鉱山資源を直轄統治しようとしたためとされる。その後、明治維新まで飛騨が幕領であったことを考えるとおそらく後者であろう。出羽に移った頼時は5年後の元禄10年(1697年)6月に今度は美濃郡上に移され、3万8千石を領した。領地は美濃郡上2万4千石と越前大野郡内1万5千石に分かれていた。頼時は元文元年(1736年)死去するが、嗣子であった可寛は既に若くして没していたために、孫の頼錦が跡を継いだ。
頼錦は温和な性格で、絵画や漢詩などをよくする文化人であった。金森氏は初代長近が茶湯や蹴鞠などをよくする風流人であったために、代々文化的家風であり頼錦もその例に洩れなかった。さらに頼錦は延宝4年(1747年)5月に外様大名ながら奏者番に任じられた。奏者番とは江戸城中で大名や旗本が将軍に謁見する際に、奏上や進物の披露をしたり将軍家からの下賜品を伝達する役職であり、出世の登竜門であった。大名や旗本の官名や序列、役職など全て頭に入っていなければならず、優秀な者が任命されたのが奏者番であり、頼錦も有能であったのであろう。
一方で交際範囲は広くなり、それだけ金がかかる。もともと風流人であり公家などとも親交があったから、支出はたちまち膨らんだ。さらに出羽上山時代は痩せ地であったために蓄えは出来ず、短期間での2度の転封が財政を悪化させ、頼錦の交際費の増大とも相俟って郡上藩の財政は深刻さを増していた。このため藩では収入の増加を図ることとして、宝暦4年(1754年)にそれまで定免法によっていた年貢の徴収を検見法に変更することとした。
定免方とは決められた石高に一定税率を掛ける方法で、実収がどれだけあろうと徴収される年貢量は一定である。つまり豊作であれば税負担は減り、不作であれば税負担は重くなる。これに対し検見法は実収に対して一定税率を掛けるから豊作のときも不作のときも税負担は同一であり、豊作のときは年貢収入が増え、不作のときは年貢が減る。検見の方が合理的なようだが、不作のときは年貢不足を補うために新たな負担を求められるし、豊作のときは米相場が安くなっているから換算率が高くなって、結局は農民にとって増税となる。
検見法への変更を決めると江戸藩邸では姻戚の寺社奉行本多長門守忠央の紹介で、幕府勘定奉行大橋近江守親義と昵懇になり、大橋の推薦で黒崎佐市右衛門を200石で召抱えた。佐市右衛門は常陸の出身で、長崎奉行の勝手方や美濃加納藩で代官も勤めたことがあって、「百姓と濡れ手拭いは絞るほど出るものなり」と言ったといわれている。佐市右衛門は郡上藩国家老渡辺外記、粥川仁兵衛らと図って領内を巡見して新田畑を検出、宝暦4年7月17日に村役人を集めて検見法実施を通達した。
検見法強行
これに対して農民は検見法実施に強く反対し、小駄良郷中桐村の南宮神社に集結し、村高百石につき3人ずつ人を出して八幡城下に群集し、藩当局に強訴した。城下に集結した農民は約千人といわれる。この事態に藩では渡辺、粥川両家老が対応して代官猪子庄九郎、別府弥角を通じて農民からの願書を受取った。願書のうち一通は検見法中止を願うもので、もう一通は貢租軽減を図ろうとする十六条の嘆願書であった。渡辺、粥川両家老は農民の勢いに押されて検見法の中止と十六条の訴えが認められるよう、江戸藩邸へ送ることを約束したが、農民側は両家老のほかに元家老で農民の信望が厚かった金森左近の連署を求めた。藩側は3名連署の覚書を農民に渡し事態は沈静化した。
藩では徒党禁止を布れ、黒崎佐市右衛門は身の危険を感じて逃亡した。渡辺、粥川両家老は半田園右衛門を江戸に急派して事態を報告。しかし江戸藩邸では幕府勘定奉行大橋近江守の後援を取り付けて検見法を強行しようと図る。国許での農民への妥協は時間を稼ぐ手段に過ぎなかった。翌宝暦5年3月、美濃笠松陣屋の美濃郡代青木次郎九郎安清は、上司である大橋近江守の意向を受けて郡上藩の役人とも協議した。そして7月に入って郡上藩内の庄屋36人を笠松陣屋に召喚した。
青木郡代は幕府の権威をもって検見法への変更を強制し、庄屋たちはやむを得ず検見法受諾の書面に押印し、さらに1年前の家老3名連署の覚書返還を命ぜられた。これは青木郡代の役職権限外の行為であり、その背後には勘定奉行大橋近江守ほか老中本多伯耆守正珍、若年寄本多長門守忠央、大目付曲淵豊後守らの介在があった。当時、各地で起きていた百姓一揆に対して、幕府の方針は対決一色であり、その姿勢の現れでもあった。藩側の検見法強行に対して、農民側は再び蜂起しようとしたが、藩兵が城下入口を固めたために城下に入れず、小駄良の雨宮神社や穀見野に集結した。そのうち有志50名余りが那留ヶ野に集まり傘連判状を作り江戸への出訴を決めた。また農民たちは富裕層への襲撃を行い、笠松の美濃郡代からの命令書を持った庄屋たちは藩境の母野村で農民に阻まれて、笠松に戻らざるを得なかった。
立ち上がる農民
宝暦5年8月、那留ヶ野において決定した江戸出訴の有志40名が、江戸藩邸に前の十六条の願書に十七か条の嘆願書を添えて提出した。江戸藩邸では農民たちを牛込御箪笥町の屋敷に監禁する。藩では農民の取締りを厳しくし、役人が農村を巡回して農民を懐柔したり威嚇したりして、一揆の分裂を図った。このために寝者(ねもの)と呼ばれる一揆脱落者が多くなり、立者(たてもの)と呼ばれる一揆参加者は当初の四分の一の500人程度まで減少してしまう。村対村の対立や村人間での対立が起き、一揆は拠点を武儀郡関村の新長谷寺付近に移さざるを得なくなった。
その後、一揆側の勝原村幸助、小野村半十郎、剣村三郎右衛門、同四郎左衛門、気良村小市右衛門、などが相次いで投獄された。これに対抗して東気良村善右衛門、同長助、切立村喜四郎、前谷村定治郎、那比村藤吉の5名は同年11月26日江戸城大手前で老中酒井忠寄の行列に駕籠訴を決行した。5人は取調べを受けた後、郡上藩邸に移され、さらに郡上に戻され庄屋預けとなった。駕籠訴による咎めは軽かったものの、効果もまたなかったのである。
宝暦6年(1756年)9月藩主頼錦は郡上に帰国して、農民の願いを聞き入れ入牢者を放免する懐柔策に出たが、これは逆に立者を勢いづかせ寝者への襲撃を誘発し、暴動は激化していくばかりだった。立者はさらに江戸訴願の落着まで年貢の上納延期を求めて、城下に集結して強訴に及ぶ。藩側では上納延期を許したが、12月に入り暴動の首謀者として気良村甚助を捕らえ、吟味もなく打首とした。宝暦8年(1758年)に入ると歩岐島村の四郎右衛門が立者の連名帳を所持していることを知った藩側は、藩兵を派して連名帳を奪いとり、これをきっかけに藩兵と農民の乱闘となった。これを歩岐島騒動というが、この騒動にまぎれて庄屋預けとなっていた前谷村定治郎、切立村喜四郎は脱走する。
同年3月に立者有志は再び江戸に出て町奉行依田和泉守に訴状を提出するが取り上げられず、最後の手段として箱訴を決行することにした。4月2日に剣村藤次郎、東俣村太郎右衛門、西俣村孫兵衛、二日町村伝兵衛、歩岐島村治右衛門、向鷲見村弥十郎の6名が目安箱に訴状を入れた。
石徹白騒動
郡上での農民一揆と前後して、郡上藩領である越前国大野郡石徹白村で紛争が生じた。石徹白村には白山中居神社があり、白山信仰の村として栄えていた。村人は白山中居神社の社人となり、無税で帯刀も許されていた。神頭職杉本左近が代々支配して京都白川家に属していたが、神主上村豊前が京都吉田家と結んで、杉本家から支配力を奪おうと画策を始めた。上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門に贈賄して、藩への工作を進めた。宝暦4年(1754年)に根尾は手代の片重半助を石徹白村に派遣して、杉本左近ら主だった社人に対し、今後は吉田家に属し上村豊前に従うよう命じた。
しかし上村豊前がもともと傲慢であったこともあり、左近らは一向に命令に従わなかった。根尾は左近らを郡上に召喚して命令服従を強要するが、左近らは断固拒絶して失敗した。業を煮やした上村豊前は、左近派の上村次郎兵衛を片重と謀って追放処分とし、さらに根尾ら藩の後ろ盾を得て神社の山林や神木を伐採し始めた。左近らは次郎兵衛追放処分の取消や山林伐採中止を郡上藩に訴え出るが聞き入れられず、宝暦4年8月に左近と上村十郎兵衛、桜井吉兵衛の名で幕府寺社奉行本多長門守忠央に訴状を提出した。
しかし忠央は郡上藩主頼錦と親しく、訴状は取り上げられず、逆に金森家に通報されてしまう。左近らは郡上に送還されて、左近は投獄され十郎兵衛と吉兵衛は上村豊前に預けられた。翌宝暦5年5月には左近、十郎兵衛、吉兵衛のほか左近派の3名を合せた6名が領外に追放された。さらに12月に入ると左近派の503名を領外追放した。この時は美濃口を遮断して雪深い飛騨側に追放したために、途中72名の凍死者、餓死者を出した。追放された杉本左近は美濃国厚見郡芥見村の篠田源兵衛宅で援助を受けて運動を続けていたが、宝暦6年(1756年)8月江戸に上り、老中松平右近将監武元の行列に社人82名の連判をもって駕籠訴を決行した。しかし、これは寺社奉行の管轄であるとして本多長門守忠央に戻されてしまい、左近は最終手段として宝暦8年(1758年)4月11日、21日、7月2日と箱訴をした。しかし沙汰がなく7月21日に四度目となる箱訴を行った。
騒動の結着
杉本左近の訴状には上村豊前の行状のほかに、追放されて凍死したり餓死した社人や農民の悲惨さ、郡上藩や幕府の訴状の不受理などが綴られていた。それが、四度も提出されたうえに、4月には郡上の農民の箱訴もあり、こうも重なっては幕府も訴状を取り上げないわけにいかなかった。杉本左近の四度目の箱訴の前日から、郡上の農民騒擾と石徹白騒動を評定所で取り上げて始めた。勘定奉行大橋近江守の召喚と訊問から始まり、幕府関係者、藩主頼錦ほか郡上藩関係者、郡上農民、石徹白村社人らの調べが行なわれ、宝暦8年10月には裁決が出た。
藩主頼錦は閉門のうえ謹慎していたが、10月2日に失政の責任を問われ領地を召し上げられて、陸奥盛岡の南部家に永預けとされた。嫡子出雲守、三男伊織も改易、五男熊蔵・六男武九郎・七男満吉は15歳まで親類に預けられた。幕府関係者では老中本多伯耆守正珍は役儀取上げ逼塞、若年寄本多長門守忠央は領地召し上げのうえ松平越後守へ永預け、勘定奉行大橋近江守は知行召し上げのうえ陸奥中村相馬家へ永預け、大目付曲淵豊後守は役儀取上げ閉門、美濃郡代青木次郎九郎は役儀取上げ逼塞となった。
郡上藩関係者では家老渡辺外記・粥川仁兵衛は遠島、江戸家老伊藤弥一郎は中追放、寺社奉行根尾甚左衛門と下僚の片重半助は死罪、黒崎佐市衛門は遠島を申し付けられた。農民や社人では駕籠訴した切立村喜四郎(獄死)と前谷村定治郎は獄門、東気良村善右衛門(獄死)・同長助・那比村藤吉は死罪、箱訴した剣村藤次郎ら6人も死罪となった。石徹白騒動関係者では、社人上村豊前は死罪、杉本左近は30日押込とされた。
金森頼錦は金森氏累代の家宝什器を売却して、その益を藩主、菩提寺、藩士で三分することとした。その売却は郡上八幡の慈恩寺で行われ、金森家の名器を求めて名古屋や京、大坂から多くの商人が集まったという。郡上八幡城には岩村藩主松平能登守が在番し、やがて郡上には丹後宮津から青山幸道が4万8千石で入封した。農民一揆がもとで改易されたのは江戸期を通じて金森氏が最初で最後であり、この騒動は幕府関係者の大量処分と合せ前代未聞であった。これらの騒動の間、藩主頼錦の顔がほとんど見えないのは、風流の道に染まるあまり藩政を家臣に丸投げしたからであろうか。 
   
金森頼錦 (かなもりよりかね)
江戸時代の美濃八幡藩の第2代藩主。金森可寛の長男。
父の可寛は初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが、37歳で死去したため、頼錦は享保21年(1736年)の祖父の死去により家督を継いだ。延享4年(1747年)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。
頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた。宝暦13年(1763年)6月6日死去、享年51。
嫡男出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵(錦豊・かねとよ)、六男武九郎(頼興)、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に常陸下妻藩井上家に養子に入っており、四男可端も金森可郷の養子となっていたためお咎めなしだった。頼方は明和3年に罷免、頼豊はさきに宝暦12年江戸芝神明別当金剛院観空の願いにより罷免され後に弟子なった。六男の頼興は、明和3年(1766年)に赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続した。満吉だが頼錦の没後に赦されている。また、嫡男頼元に娘が1人いたが、頼興の嫡男可儔(ありとも)の養女となり、末期養子可続(金森可始次男)の妻となった。
頼錦の娘だが、長女は金森詮央と婚約するが破談となり金森可英の養女となり、井上正相の妻となっている。次女は森川俊孝と婚約するが破談となり小出有相の養女となった。(寛政重修諸家譜)
頼錦が没すると盛岡の法泉寺に葬られたが、金森家再興の翌寛政元年(1789年)に頼興は遺骨を引き取り火葬の上、京の大徳寺の金森家墓所に改葬した。 なお、金森可重の五男・重勝を祖とする分家の金森左京家は3,000石の石高のまま、宗家改易後は越前国南条郡白崎に領地を移され交代寄合の旗本として存続している。

先代頼時には嫡男可寛(ありひろ)がいたが、頼時に先立って37歳で死去したために可寛の嫡男であった頼錦が頼時の世子となった。元文元年(1736年)に頼時が死去し、嫡孫頼錦が家督を継いだ。延享2年(1745年)に芝の藩邸が焼失して再建に多大な費用がかかった。また藩政では目安箱を設置したり、天守台に天文台を設けたりした。学問や文化を好む典型的な文人型の藩主であり、金森家累代の遺跡顕彰のための碑を建立した。
延享4年(1747年)5月に奏者番となり出世の糸口を掴んだが、転封や江戸屋敷再建、さらに奏者番としての役儀上の出費などで藩の財政は困窮の一途を辿った。そこで頼錦は重臣たちと図り、宝暦4年(1754年)に定免法を取りやめて検見法により年貢を取り立てることとした。増収を目指したのだ。財政に詳しい黒崎佐市右衛門を200石で召抱え、農民に対して検見法への変更を布れた。これに反対する農民は城下に集結し強訴を繰り返した。
藩では農民の勢いに押されて願書を受取ったが、報せを受けた江戸藩邸では幕閣に働きかけて美濃郡代青木安清を農民の説得にあたらせた。翌宝暦5年に青木は庄屋を役所に呼んで検見法実施を強制し、これを知った農民が再び集結を始めると藩庁では厳しい態度で望んだ。この様子に農民側の結束も崩れ、脱落する農民も多かったが、農民代表5名が江戸に上り老中酒井忠寄に駕籠訴を決行した。しかしこの駕籠訴は失敗に終わり、捕らえられた農民5名は頼錦に引き渡され、願書は受け付けられなかった。
頼錦は拘禁した農民の放免などで懐柔を行ったが農民側は納得せず、宝暦7年(1757年)には年貢の延納を求めた農民が再び城下に集結して強訴を行う。藩では要求を受け入れたものの首謀者を処刑し、翌宝暦8年には過激派の農民に弾圧を加えた。同年4月農民側は最後の手段として評定所への箱訴に及んだ。一方、この農民騒動と前後して越前大野郡石徹白村の社人間に紛争が起きた。石徹白村は白山中居神社の社人であるが、神主上村豊前が郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門と謀って石徹白村の支配権を奪おうとした。これに対し社人杉本左近を中心とする勢力が反対し、幕府寺社奉行本多忠央に上村らの非法を訴えた。
だが本多忠央は訴えを取り上げず、上村らを頼錦に引き渡す。これが宝暦4年のことで、翌宝暦5年に郡上に送還された左近らは投獄され、さらに宝暦6年には左近一派は領外追放となった。左近らはその後評定所へ箱訴を行い、幕府も郡上藩の騒動を黙視できなくなり、評定所で吟味を行い、その結果藩主金森頼錦は、検見法を強行するために老中や勘定奉行など幕閣の取り入ったこと、農民強訴の首謀者を届けなく処刑したこと、石徹白騒動で幕府の裁断を仰がなかったことなどを咎められ、その罪軽からずとして領地没収の上南部利雄に預けられ嫡子出雲守頼元も改易された。この騒動では処分は金森家だけでなく老中、若年寄、勘定奉行、大目付、美濃郡代など幕府役人が多数処分されたほか、農民側も16人が獄門や死罪、遠島1名、追放20名など多く処分者を出している。頼錦の改易は宝暦8年(1758年)のことであるが、天明8年(1788年)に頼錦六男の頼興が赦免され1500俵で旗本に取り立てられている。  
 
宝暦郡上一揆

 

江戸時代に美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。
郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた。
農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した。しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る。
老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく。また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。
最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった。裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった。 
一揆の遠因
豊かではなかった郡上藩領
郡上一揆の舞台となった郡上藩は美濃国郡上郡と越前国大野郡にまたがった山間部の小藩であった。美濃国郡上郡は三方を山に囲まれており、郡上郡の北東部を南北に吉田川が流れ、吉田川流域のことを明方筋、北西部を南北に上之保川(現在は一般的に長良川と呼ぶ)が流れ、上之保川流域を上之保筋と呼んだ。そして吉田川、上之保川の合流地点から下流の郡上郡南部を下川筋、郡上八幡城周辺を小駄良筋と呼んだ。
郡上藩領全体の石高は元文元年7月18日(1736年8月24日)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38,764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内は宝暦6年(1756年)の記録では23,293石となっている。
当時の郡上郡内では水田による稲作と畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆、蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力は限られたものであった。
江戸時代の郡上一揆発生当時に農民たちは郡上での農業について、郡上藩は白山に近く大日ヶ岳、鷲ヶ岳などという山々に囲まれているため、春は遅くまで雪が残る上に水が冷たく、秋は霜や降雪が早く、稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシ、シカ、サルが作物を荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章が残っている。
延宝4年(1676年)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民は強く反発し、増税取り下げを要求した。当時の郡上藩主遠藤常春は幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争いが激しさを増して藩政の主導権争いとリンクし、大混乱に陥った。そのような情勢下で農民たちは一揆を起こし、結局、喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税派双方の責任者クラスを処分したという事態が発生していた。
その上に、もともと生産性が高くなかった郡上郡内にも、時代の変革の波はやってきていた。郡上一揆が発生した江戸時代の中期には商品経済が発達を見せ、米以外に養蚕やタバコなどといった換金性の高い生産活動に従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製の農機具や肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性が高まっており、この結果、郡上でも養蚕や紙漉きなどといった労力を要する現金収入手段を得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化が始まっていた。またこのような社会情勢の変化に応じて、郡上藩は商品作物などに対する課税強化を進めていた。
転封が続いた金森家
郡上一揆当時の郡上藩主は金森頼錦であった。金森氏は天正18年(1585年)に金森長近が飛騨を平定し、3万8,700石の領有を認められた後、関ヶ原の戦いで東軍に属したため、金森氏は引き続き高山藩主として飛騨一国を治めていた。
第6代藩主である金森頼時の元禄5年(1692年)7月、金森頼時は飛騨の領地を召し上げられ出羽上山に転封となった。金森氏領地であった飛騨は天領となり、これは幕府が飛騨の豊かな山林資源や鉱物資源に目を付け、天領とするために金森氏を転封させたとも言われているが、転封の真の理由ははっきりしない。しかし金森氏の上山領有はわずか5年足らずで終わり、元禄10年(1697年)6月、今度は郡上へ転封となった。
二度に渡る転封により金森氏の財政は大きく圧迫された。上山時代、財政難に見舞われた金森頼時は幕府の許可を得て家臣の召し放ちを行ったが、郡上藩主となった直後の元禄12年(1699年)、前々藩主であった井上正任、前藩主井上正岑の定めた、作物の収穫高を行った上で年貢高を決定する検見法による税率が高かったことにより、農民らが江戸表の金森藩邸に訴えるという事態が発生したため、金森頼時は作高に関わらず定率の年貢を賦課する定免法へと変更し、それに伴い税率も引き下げられた。転封とその直後に実施した税率引き下げにより財政状況が更に悪化したため、元禄14年(1701年)には幕府の許可を得て更なる家臣の召し放ちを行わざるを得なかった。
その上、江戸の芝金椙邸は享保2年(1717年)に焼失し、享保8年(1723年)9月には再建されたが、翌10月に再び焼失してしまった。藩の財政難を案じた金森頼時はその後江戸藩邸の再建を行わず、元文元年(1736年)、仮住まいの江戸芝の藩邸で死去した。
幕府経済政策の曲がり角
17世紀初頭の江戸幕府の開始時からしばらくの間、幕府財政は健全財政を保っていた。当初、幕府の財政を支えていたのが天領からの年貢収入の他に、金山、銀山からの鉱業収入、そして貿易収入であった。しかし17世紀後半になると鉱山の金銀産出量は激減し、貿易も厳しい制限が加えられるようになったためやはり収入が激減し、勢い幕府財政はそのほとんどを天領からの年貢収入で賄わざるを得なくなった。
また支出の面から見ても、明暦の大火、そして5代将軍徳川綱吉による盛んな神社仏閣の建立、そして貨幣経済の発展による物価上昇によって、支出は膨らむ一方となり、元禄年間に入り幕府財政は赤字に転落した。幕府はまず貨幣の改鋳で収入を得るなどの対応策を立てるが、徳川吉宗による享保の改革によって、新田開発による耕地面積の拡大、そして年貢徴収率を高める年貢増徴策を押し進めることになった。幕府で年貢増徴策を強力に進めたのが老中の松平乗邑と勘定奉行の神尾春央であり、農村支配に通暁した「地方巧者」と呼ばれた人材を登用し、その結果、延享元年(1744年)には年貢収公量が180万石と江戸幕府最高の数値を記録した。
幕府の天領で進められた厳しい年貢の取立ては、やはり財政難に悩む諸藩にも広まっていったが、年貢増徴は必然的に農民の激しい反発を招いた。享保期には一揆が頻発するようになり、更に一揆そのものの形態も、宝暦、天明期には年貢増徴策に対抗するために藩全体が蜂起する、全藩一揆と呼ばれる広範囲に影響が及ぶ大規模な一揆が頻発するようになった。郡上一揆はこうした全藩一揆の1つであった。
そのような中、幕府は寛延3年(1750年)には幕領、大名領の農民の強訴、逃散を禁じる法令を出し、その後も厳しく一揆を取り締まる法令を次々と出して一揆の封じ込めに腐心したが、延享元年(1744年)以降、年貢収公量はじりじりと下がり始めた。また、米の値段が他の物価に比べて安い状態が続いたため、年貢米に依存する幕府や諸藩、そして武士の実収入も伸び悩み、そのような点からも年貢を厳しく取り立てることによって幕府財政健全化を図る政策に限界が見えてきた。郡上一揆が発生した宝暦期、幕府では享保の改革の方針を守る年貢増徴派に対し、商業資本などからの間接税収入に活路を見出そうとする派が現れ始め、路線対立が表面化していた。 
一揆のきっかけ
金森頼錦藩主となる
元文元年5月23日(1736年7月1日)、郡上藩主金森頼時は江戸芝の仮藩邸で没した。頼時の長男であり嫡子であった金森可寛はすでに亡くなっていたため、可寛の長男である頼錦が元文元年7月18日(1736年8月24日)に正式に郡上藩藩主の地位を継承した。頼錦は藩主継承時23歳であった。金森頼錦は自ら絵筆を取って寺社に絵馬を奉納し、また現在まで頼錦が描いた絵画が遺されており、歌集、漢詩集の編纂を行い、盛んに詩碑の建立を行うなど、詩歌、書画を好んだ文化人であった。そして時の将軍徳川吉宗は、金森頼錦が学問の志厚く、天文に興味を持っていることを聞き及び、延享元年(1744年)、頼錦に対して郡上八幡で天文観測を行い、その成果を報告するよう命じた。頼錦は吉宗の命に従い郡上八幡で天文観測を行い、翌延享2年(1745年)に観測結果を献上したとの記録が残っている。
延享4年(1747年)、金森頼錦は奏者番に任じられた。奏者番は大名や旗本らが将軍に拝謁する際の取次ぎや、法要や大名家の不幸に際して将軍の代参を行う等の役目を担っており、将軍の身近で仕事をこなすために高い能力が必要とされた。そのため幕府内で有望株と目される若手大名が任命されるポストとされ、奏者番で有能であると認められれば、奏者番に寺社奉行の兼任を命じられ、その後大坂城代、京都所司代を経て若年寄そして老中へと出世していく道が開かれた。奏者番に任じられた頼錦の前途は明るいものと思われた。
だが、奏者番は職務上諸大名らとの広い交際を必要としまた社交も派手になるため多くの費用が必要となった。藩邸の再建を抑えた祖父の頼時とは異なり、藩主継承後まもなく藩邸の再建に取り掛かったり、盛んに詩碑の建立を行うなど、文人肌の金森頼錦の生活は元来派手な面があったが、奏者番就任後は衣服等が華美になっていくなど、ますますその派手さを増していった。
郡上藩財政の逼迫化と賦課の増大
金森頼錦は藩主就任当初、将軍吉宗の施策に倣って郡上八幡城下に目安箱を設け、民衆の声を取り入れようと試みたが、目安箱に投じられた誹謗中傷をよく調べることなく採用して処罰を行うなどの失策を犯していた。
そして藩主金森頼錦を苦しめたのが郡上藩の財政難であった。元来郡上領は豊かではない上に、二度の転封の結果、金森家の財政に余裕がなくなっている中で、元来派手な一面があった藩主頼錦は奏者番就任後にその派手さを増し、また諸大名家との交際費も嵩み、その結果として郡上藩の財政状況はどんどんと厳しくなっていった。また宝暦初年になると豊作のため米価が下落したため、藩財政はよりいっそう困窮することになった。
厳しい財政事情の改善策として、藩主頼錦は藩士の俸禄の切り下げを行うなど、経費節減策を全く講じなかったわけではない。しかし財政難の解決方法として主に採用した対策はやはり増税であった。早くも頼錦が藩主となった直後の元文元年(1736年)に、藩邸の再建のために臨時の賦課にあたる御用金の徴収を命じ、領内の農民、町人、寺院に御用金を割り当てて2500両を集めた。そして金森頼錦はその後も毎年のように御用金、御供米の賦課を行い続けた。また生糸にかける税を引き上げたり、牛馬の往来に通行税を徴収することとしたり、そして親類などへの贈り物を持って番所を通過する際に、贈り物に対して税を取り立てるなど、あの手この手を使っての課税強化に努めた。また税の取立て以外にも多くの馬を御用として徴用したり、郡上城の工事などに人々を徴用するなど賦役も度重なるようになった。
このように様々な手段で税を取立てるようにした上に、御用金、御供米の賦課、工事などへの使役といった施策を行っても、藩財政は改善を見せず厳しい状況が続いたため、元禄12年(1699年)に前藩主金森頼時によって定免法とされた年貢取立てを、見取免(検見取)にして年貢の増徴を図ることとなった。
年貢徴収法改正の試み
財政難に苦しんだ郡上藩は、年貢を増徴して収入の増加を図ることとなった。藩主頼錦の側近であった金森藩の江戸詰め役人である家老の伊藤弥一郎、用人の宇都宮東馬、宮部半右衛門らと、国元の役人の大野舎人、半田園右衛門らは協議して、年貢の徴収法をこれまでの毎年基本的に同じ分量の年貢を納める定免法から、実際の収穫高を算定して年貢高を決定していく検見法の中でも、特にそれぞれの田の収量を細かく把握して年貢高を決めていく有毛検見法に変更し、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことを計画した。
年貢の徴収方法の変更には幕府老中の承認のもと、幕府勘定奉行の許可が必要であった。ここで役に立ったのが藩主金森頼錦の縁戚関係であった。金森頼錦は当時老中を務めていた本多正珍の娘と婚約していたが、正珍の娘は婚姻前に死去したものの、その後頼錦は正妻を娶らなかったので、本多正珍は頼錦の義父とされた。また金森頼錦の実弟、本多兵庫頭の養父は寺社奉行本多忠央であった。幕府要人との縁戚関係の他に、金森頼錦が務めていた幕閣と諸大名との交渉窓口である奏者番の役職も年貢徴収法の改正の許可を得るのに役立ったと考えられる。結局、勘定奉行の大橋親義から年貢徴収法改正の許可を得た上に、大橋勘定奉行から検地の名人とされる黒崎佐一右衛門を紹介され、宝暦3年(1753年)12月、郡上藩は黒崎を用人格として新たに召抱えることとなった。
宝暦4年(1754年)2月、郡上藩は領内の各村に対して、田畑の詳細について記録した「田畑反別明細帳」の提出を命じた。同年6月から黒崎佐一右衛門は郡上藩領内を巡検し、各村から提出された田畑反別明細帳をもとに田畑の調査を始めた。黒崎の経歴ははっきりしないが常陸国の農民の出とも言われ、農村事情に明るく、郡上藩に召抱えられる以前も美濃国加納藩で代官を務め、やはり検見法の導入を図った前歴があり、郡上領内でも厳しく田畑の調査を進めていった。
黒崎が行った郡上領内の田畑調査は、農民らに大きな不安を巻き起こした。まず宝暦4年7月11日(1754年8月28日)、小駄良口(旧八幡町)の庄屋たちが御用金負担が重いことを訴え、新規の課税と御用金の徴収を止めるよう嘆願した。宝暦4年7月15日(1754年9月1日)には、郡上領内の農民が吉田村(旧八幡町)に集まって藩に対して万事これまでの先例通りに行うように嘆願することを決め、宝暦4年7月16日(1754年9月2日)には那留ヶ野という場所に郡上郡内の庄屋、組頭が集まって、黒崎佐一右門が行った郡上領内の巡検は容認できるものではなく、何事によらずこれまでの先例通り行って欲しい旨の嘆願書を作成した。なおこの際、ほとんどの郡上郡内の庄屋が参加したが、3、4名の庄屋は参加しなかった。嘆願書は郡上藩側に宝暦4年7月17日(1754年9月3日)手渡された。黒崎佐一右衛門の郡上領内巡検に対して郡上領内で広範な抗議行動が発生したことにより、結果としてその後まもなく行われた郡上藩側の年貢徴収法の改正申し渡しに対して、農民側がすばやく抗議態勢を固めることが可能となった。 
一揆の発生
年貢徴収法改正の申し渡しと一揆の発生
宝暦4年7月20日(1754年9月6日)、郡上郡全域の庄屋を郡上藩庁に呼び出した上で、代官猪子庄九郎、別府弥格の名で年貢の徴収法を元禄12年(1699年)に定めた定免法から検見法に変えることを申し渡した。申し渡しの趣旨としては、現行の年貢徴収法である定免法は元禄12年(1699年)に定められたもので、幕領ではすでに年貢徴収法が改正されており、現在の年貢徴収法は定法と異なっているため改正が必要であり、豊作年には多くの年貢を納め、凶作時には減免を行う検見法によって年貢を納めることは農民にとっても利益になるという内容であった。
申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる。各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した。しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された。
強訴
庄屋中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決が行き詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員がかけられた。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)郡上郡中そして郡上藩の越前領内からも集結した大勢の農民たちは、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに、金森頼錦が藩主となって以降の各種の税や御用金、使役の負担増を指摘し、負担免除を願った十六か条の願書を差し出すという強訴に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民が現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる。
強訴に対して藩側はまず代官猪子庄九郎、別府弥格が対応を行った。両代官は大勢の農民らの剣幕に恐れをなし、続いて家老である渡辺外記、粥川仁兵衛らが農民たちへの対応に当たった。農民の怒号が響き渡る中、両家老は願書を受け入れ検見法への年貢徴収法改正を断念する旨記した免許状を渡し、十六か条の願書についても了承する旨の免許状を手渡した。しかし免許状には渡辺外記、粥川仁兵衛両家老の署名印形はあったが、当時蟄居中であった筆頭家老の金森左近の署名印形がないことに農民たちが騒ぎ出したため、金森左近の署名捺印を経て、農民代表の小野村半十郎、剣村庄屋に免許状が手渡され、要求が受け入れられたことを確認した農民らは各村へと引き上げていった。なお郡上藩に召し抱えられた後、藩領の巡検を行って年貢取立て方法の改正を進めていた黒崎佐一右衛門は、宝暦4年8月10日の強訴騒ぎの中、郡上藩領から逃亡した。
農民たちの強訴が当初比較的すんなりと受け入れられたのは、郡上藩内での路線対立が背景にあったものと考えられている。郡上藩内には年貢徴収法の改正によって農民たちから厳しく年貢を取り立て、藩の収入増加を図る方針に反発する勢力があり、筆頭家老の金森左近はその勢力の代表格であった。藩内の意見対立はその後も尾を引き、年貢増徴反対派の金森左近らは罷免されていくことになる。
強訴後の藩と農民
宝暦4年9月9日(1754年10月24日)、郡上郡内の庄屋たちは南宮神社に参拝し、宝暦4年8月2日に作成した傘連判状と三家老の署名印形がされた免許状を重要文章として1年ごとに各村巡回で庄屋が預かることを決定した。
一方藩側は、農民らの強訴が行われた翌日の宝暦4年8月11日(1754年9月27日)、事態を伝える飛脚が郡上八幡から江戸へ向かい、江戸在府中の藩主に国元の事態を伝えた。続いて宝暦4年9月10日(1755年10月25日)には家老の渡辺外記、粥川仁兵衛らが江戸へ向かい、藩主金森頼錦に事態の報告を行った。宝暦4年11月26日(1755年1月8日)には郡上藩国元の役人の人事異動があり、年貢増徴派の役人が登用された。しかし宝暦4年12月8日(1755年1月20日)には、郡上郡中の村方三役が呼び出され、8月10日の強訴は不届きではあるが、農民らの訴えを聞き届ける旨の藩主の意向が示された。 
年貢増徴派の巻き返し
藩主の姻戚関係を利用しての巻き返し工作
宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の農民らの強訴によって、農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状が出され、藩主金森頼錦も国元家老の措置を追認したことによって、郡上藩の有毛検見法への年貢徴収法の改正はいったん頓挫した。しかし郡上藩内の年貢増徴派は有毛検見法採用を目指して巻き返し工作を開始した。年貢増徴派は美濃郡代の代官である青木次郎九郎から検見法採用の申し渡しを行い、幕命ということで農民たちに納得させる方法を考えついた。
まず宝暦4年(1754年)12月、藩主金森頼錦の病気見舞いに幕府寺社奉行の本多忠央が訪れた際に、美濃郡代の代官から検見法採用の申し渡しを行うアイデアを説明し、代官青木次郎九郎の上司にあたる幕府勘定奉行の大橋親義への仲介を依頼した。先述のように本多忠央の養子である本多兵庫頭は金森頼錦の実弟であり、縁戚関係を利用しての依頼であった。本多は郡上藩側の依頼を了承し、宝暦5年(1755年)正月、江戸城内で大橋親義に対して郡上藩の意向を伝え、協力を指示した。その結果、大橋親義のもとに郡上藩の江戸家老伊藤弥一郎や、宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の強訴時に郡上藩領内から逃げ出した黒崎佐一右衛門らが出入りするようになり、美濃郡代代官である青木次郎九郎を利用して郡上藩の検見法採用を強行する作戦が固められていった。
その結果、幕府勘定奉行の大橋親義は美濃郡代代官の青木次郎九郎に対して郡上藩の検見法採用への協力を命じることとなった。しかし当初、青木次郎九郎は大橋の命令遂行に難色を示した。それは幕領ではない郡上藩領の年貢徴収法について、幕府役人である代官が命令するのは筋違いではないかという理由からであった。そこで郡上藩側は藩主金森頼錦の義理の父に当たる老中本多忠珍、そして大目付曲淵英元にも協力を依頼した。その上で大橋親義から更なる厳命もあり、青木は郡上藩領の検見法採用の命令を行うことは幕命同様のものであると判断し、郡上藩主頼錦ともたびたび相談をした上で、郡上藩領民に対して検見法採用を命じることとなった。なお金森頼錦は青木次郎九郎との相談時に、自らが幕府における重要な職である奏者番を勤めていることをことあるごとに強調し、圧力を加えた。
郡上郡内の庄屋の代官所呼び出し
宝暦5年7月16日(1755年8月23日)、郡上郡内36ヵ村の庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出され、笠松陣屋に出頭するように命じられた。庄屋らは郡上藩の役人らに引率され笠松陣屋へ向かった。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)、笠松陣屋で庄屋らは美濃郡代代官の青木次郎九郎から、昨年、領主から検見法の採用を言い渡されたが、検見法は土地の善し悪し、収穫の多少によって年貢高の変更がなされるため、農民にとって不都合な点はない。また郡上藩領でいまだに定免法が採用されているのは地方役人の怠慢と言え、幕府の定めた年貢徴収法である検見法を説明し、受け入れるように言い渡すものである。また十六か条の願書は検見法の受け入れ反対に乗じて強訴を行ったものであるため認め難いものではあるが、検見法を受け入れるのならば十六か条で取り上げられた課税について考慮することにするとの内容の申し渡しがなされた。
その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。また笠松陣屋の元締めからは郡上藩主の金森頼錦が昨年は病気であったこともあって、美濃郡代に検見法の言い渡しを頼まれたものであるとの説明があった。
青木次郎九郎らの言い渡しに対して、庄屋らは昨年の経緯を説明してみたものの、全く聞き入れる様子も無い上に代官所の役人、同行していた郡上藩士らの圧力もあって、庄屋らはやむを得ず印形をした。宝暦5年7月27日(1755年9月3日)には、笠松陣屋から11名の使いの庄屋が郡上に来て、残りの郡上郡内の約100名の庄屋も笠松陣屋へ出頭することとなり、宝暦5年8月1日(1755年9月6日)には、全ての庄屋がやはり強制的に印形をさせられた。もっとも富裕な農民、地主であった庄屋たちにとって、検見法を受け入れれば各種の税や御用金、使役の負担増の軽減を願った十六か条の願書受け入れの検討をするという方針は、商品作物や通行税への課税減免の検討という利益に繋がる内容であり、検見法受け入れは庄屋たちの利益に即したものであったとの説もある。
宝暦5年8月2日(1755年9月7日)、笠松陣屋から三家老の免許状を受け取るための飛脚として小野村孫兵衛、甚十郎が派遣された。免許状を預かっていた小野村半十郎は飛脚に対して、いったんは農民らと相談した上で書状を渡すと告げたが、美濃郡代の命であると引渡しを強要されたため、やむを得ず渡すこととなった。しかし小野村半十郎は各村に三家老の免許状引渡しについて知らせており、宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、問題の書状を携えた飛脚は追いかけてきた大勢の農民たちに郡上境の母野で追いつかれ、書状はその後行方知れずとなった。その結果、小野村半十郎、小野村組頭弥兵衛、小野村孫兵衛、甚十郎は三家老の免許状紛失の咎で村預け扱いとなった。
一揆の再燃
宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、笠松陣屋からの飛脚から三家老の免許状を奪い取った大勢の農民たちは、ただちに解散することなく今後の対策を協議した。その中でまず郡上郡中の代表として各村1名ずつ、総勢130名あまりが藩庁に行き、三家老の免許状を笠松陣屋に渡さぬように嘆願した。しかし藩側は、三家老の免許状を笠松陣屋に渡すことは殿様(金森頼錦)のご意思であり、殿様のご意思に背くのか背かぬのかと詰問され、これに対して橋詰村庄兵衛が「背くでもあり、背かぬでもあり」と答えたため、村預けとなってしまった。
宝暦5年8月11日(1755年9月16日)には、笠松陣屋から庄屋代表9名と足軽4名が美濃郡代の命を携えて郡上郡境までやって来たが、大勢の農民たちによって追い返された。その後も農民たちは郡上郡境を固め、宝暦5年8月17日(1755年9月22日)には15名の庄屋と4名の足軽の計19名が郡上へと向かったが、農民たちは検見取了承に印形をした庄屋たちを郡上に入れるわけにはいかないとして、やはり追い返された。農民たちの庄屋の帰還阻止行動は約2ヵ月半に及ぶことになる。 
一揆の拡大
那留ヶ野の盟約
宝暦5年8月12日(1755年9月17日)、藩の弾圧が及びにくい郡上八幡の中心部から離れていて、山に囲まれた谷間である白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まり盟約を結び傘連判状を作成した。その上で読み書きの能力などを考慮の上で各人の役割分担を行い、更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた。この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。農民代表らの構想は、まず藩主へ直訴することによって悪い役人が強行しようとしている年貢徴収法の改正を中止させることを目指した。
那留ヶ野の盟約の後、郡上郡内の各地で農民らの盟約が交わされ、連判状、傘連判状などが作成された。これは農民らが団結して笠松陣屋から宝暦5年7月21日(1755年8月28日)に行われた申し渡しを受け入れないことと、庄屋の同申し渡しの受け入れ印形撤回を要求するものであった。
江戸出訴
那留ヶ野で盟約を交わした翌日の宝暦5年8月13日(1755年9月18日)、70余名の農民代表が江戸の金森藩邸に出訴するため郡上を出発した。農民代表の江戸出訴を1500名余りと伝えられる多くの農民が見送ったが、江戸に送った代表たちのことが気がかりになった農民は、宝暦5年8月22日(1755年9月27日)には、百石につき一名の割合で選んだ200名余りを新たに江戸に送った。しかし8月13日に出発した農民たちは那留ヶ野の盟約時に選ばれた農民代表であったが、8月22日に出発した農民は特に選ばれた人たちではなかったため統制が取れず、いつしかちりぢりとなってしまい全く役に立たなかった。なお当時、各街道には関所が設けられ通行手形のチェックが行われていたが、乞食、非人、渡世人ら村や都市に籍を置いていない人々については手形無しの関所通過が黙認されていた。江戸に向かった郡上の農民たちのいで立ちはみすぼらしく、乞食同然の姿であったため、通行手形無しの関所通過が咎められることはなかった。
宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に郡上を出発した農民代表は、9月初旬に江戸に到着した。江戸到着時、出発時70余名であった農民代表は40名に減少していた。江戸到着後、農民代表は馬喰町猶右衛門、鉄砲町太郎右衛門などに分かれて宿を定めた。代表たちはまずは江戸金森藩邸に願書を提出することとした。
金森藩邸への願書提出
宝暦5年9月5日(1755年10月10日)、農民代表40名のうち3名が、宿屋江口屋仁右衛門の案内で郡上藩江戸屋敷に出向き、総百姓名で「宝暦4年に定免法の継続を明記した三家老の免許状を頂いたが、このたび笠松陣屋から庄屋たちが呼び出され、検見法を了承してしまった。ただでさえ生活が苦しい我々農民たちは検見法にされては生きては行けぬので、国元でもお願いしたが叶わなかったので、こうしてお願いに参上した。昨年秋に提出した十六か条の願書は添えなかったが、お尋ねがあればお渡しする。定免法にしていただければ大勢の農民が助かるのでぜひお願いしたい」という内容の願書を提出した。この願書を受け取った江戸金森藩邸は十六か条の願書提出を命じたため、農民たちは十六か条の願書に加えて、新たに十七か条の願書を作成し、一緒に提出した。十六か条と新たに作成された十七か条の願書を比較すると、十七か条はまず十六か条にはなかった総百姓名での提出であることと、農民が使役された際の賃金支給や、藩が勝手に村有林を伐採して伐採した材木を農民に運搬させることを中止するように願うなど、農民の生活に直接関係する訴えが多く、一揆の運動主体が中、貧農層に移ってきたことが想定される。
宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に農民代表が江戸へ向けて出発したことが、郡上藩の国元から江戸屋敷への急使によって知らされていた。郡上藩江戸家老の伊藤弥一郎らは対応策を練っており、農民代表らの対応に当たった用人の宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸に呼び寄せたあげく、最終的には農民代表全員を牛込御箪笥町の藩別邸に監禁した。 
一揆勢の危機
意見対立の表面化
郡上領の境にあたる母野には、庄屋たちの郡上帰還を阻止するために大勢の農民が集まり続けていた。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)の笠松陣屋における検見法受け入れの強要後に再燃した一揆は、騒動開始直後の高揚に加えて、農民内の主だった者が江戸に出訴した後には押さえが効かなくなったこともあり、過度に先鋭化した行動も見られた。例えば年貢を納めるように郡上藩側から指示が有ると、母野から少しも年貢を納めてはならない旨の指示がやってきたり、特に水呑百姓の中には寺社奉行の高札を引き抜くなど過激な行動に走る者も現れた。
しかし早くも一揆勢内部に意見対立が現れ始めた。まず江戸出訴を行った40名の農民代表が分かれて宿泊した馬喰町猶右衛門宿、鉄砲町太郎右衛門宿の農民たちの間に意見対立が発生した。馬喰町猶右衛門宿に止宿した切立村喜四郎らはあくまで検見法を受け入れない立場を貫くべきだと主張したのに対し、鉄砲町太郎右衛門宿に止宿した歩岐島増右衛門らは宝暦4年(1754年)の十六か条、そして江戸出訴組が提出した十七か条の願書の受け入れを条件として検見法を受け入れるべきであると主張した。検見法受け入れ絶対阻止の切立村喜四郎らは郡上一揆の主流派となり、その後の運動を主導していくことになるが、反主流派となった歩岐島増右衛門らはやがて一揆に反対する強固な寝者となっていった。
庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設
宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった。
宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した。
庄屋が郡上郡内に帰還した頃には藩による弾圧が強化されたため、母野に集結していた農民たちは郡上藩外の関(現関市)の新長谷寺付近に家を借り、活動拠点を移すことにした。関寄合所と呼ばれようになった新たな拠点は、新長谷寺の門前町として賑わい人々の往来が盛んな関にあるため、郡上の農民らの出入りが目に付きにくかった。また郡上からも比較的近く、交通の要衝にあるため、郡上、江戸との連絡にも便利であった。宝暦8年(1758年)の郡上一揆解決まで、関寄合所は郡上藩の弾圧から逃れる避難所として利用されるとともに、江戸からの情報は藩や一揆に反対する寝者の情報操作を警戒して、必ず関連絡所を通じて郡上に伝えられることにするという情報統制を行い、文字通り郡上と江戸とを繋ぐ中枢の役割を担った。
追訴の実行
江戸に出訴を行った農民たちからの連絡がないため、宝暦5年10月下旬、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の2名が新たに江戸に派遣された。二名は宝暦5年10月29日(1755年12月2日)、江戸に到着し、豊島町森田屋藤右衛門宅に宿を定めた。剣村藤次郎、栃洞村清兵衛はさっそく金森屋敷に向かい、40名の農民代表の消息について探りを入れてみたが全く手がかりがつかめなかったため、40名が郡上藩によって軟禁されているものと判断し、郡上藩に改めて訴えを行うことは危険性が高いため、公事師であった医師の島村良仙の協力で新たに訴状を作成した上で、藩主金森頼錦の弟である井上遠江守の邸に訴状を提出した。
訴えを受けた井上家側は、翌宝暦5年11月1日(1755年12月3日)、家老の井上源太夫が郡上藩邸に出向き、訴状を役人に見せたが郡上藩側は全く取り合おうとはしなかった。かえって郡上から新たに上訴を行う農民がやって来たことを知った藩側は、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛が泊まる豊島町森田屋藤右衛門宅に足軽を差し向け捕えようとした。突然、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の消息を尋ねる郡上藩足軽が現れた森田屋藤右衛門宅では、藤右衛門がとっさに2人とも不在である旨伝えたものの、足軽からは2人の引渡しを命じられた。善後策を協議した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛は、1人が江戸に残りもう1人が江戸の状況を伝えるために郡上に戻ることにしたが、大きな危険が予想される江戸に残る役割を、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛ともに自分が担うといって聞かなかった。結局2人のうち年長の栃洞村清兵衛が江戸に残り、剣村藤次郎が郡上に戻ることになった。栃洞村清兵衛はまもなく郡上藩側に捕えられ、江戸金森藩邸に監禁された。清兵衛は取調べが行われることも無く重病になっても監禁され続け、結局牢死した。後に評定所で郡上一揆の吟味が行われた際に、郡上藩役人の手落ちの1つとして栃洞村清兵衛の牢死が取り上げられた。また郡上に戻った剣村藤次郎はその後も一揆の中核の1人として活躍を続け、宝暦8年(1758年)に行われた目安箱への箱訴を行った農民の1人となった。
藩の弾圧と一揆の弱体化
庄屋たちが郡上藩領内に戻った宝暦5年(1755年)10月末頃から、藩による一揆の弾圧が激しさを増すようになった。弾圧は江戸在府中の藩主金森頼錦の命を受け郡上に戻った用人宮部半左衛門が中心となり、宝暦5年10月25日(1755年11月28日)に三家老の免許状を紛失した件で村預けになっていた小野村半十郎に入牢を申し付けたのを皮切りに、一揆の首謀格と見られた農民30名あまりを拘束し入牢を申し付け、更に100名余りを手錠、村預けの処分を下した。
宝暦5年11月になると藩の弾圧はいよいよ激しさを増した。郡上領内では入牢、手錠、宿預けの処分が連日60-70名行われ、激しい弾圧を避けるために郡上領内から逃げた農民も約200名に及んだ。一揆を弾圧しながら藩側は検見法による年貢取立てを強行し、とりわけ抵抗が激しい郡上郡内の上保之川(長良川)流域の上保之筋と吉田川流域の明方筋では、藩側も重点的に一揆勢の取締りを行った。井上正辰邸に訴状を提出した後に郡上へ戻ることになった剣村藤次郎も、11月半ばに関寄合所まで戻って江戸の情勢を伝え、その後郡上領内に戻ったものの、やはり藩側に拘束後投獄された。
一揆勢に対する藩側の攻勢により、一揆から脱落する農民が続出し、最盛期には約5000人の農民が参加していたという一揆勢は数百人にまで減少した。この頃からあくまで一揆に参加し続ける農民たちを立者、立者が多い村を立村、一方、一揆から脱落し藩側に従順な農民たちを寝者、寝者が多い村を寝村と呼ぶようになった。
なお郡上一揆と同時期、郡上藩の預り地であった石徹白では石徹白騒動が起きており、宝暦5年11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて500余名の人々が石徹白から追放されるなど混乱が長期化していた。郡上一揆と石徹白騒動は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない。しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった。 
一揆勢の巻き返し
越訴の実行を決める
宝暦5年(1755年)11月半ばに江戸から戻った剣村藤次郎は、関寄合所、それから郡上領内に戻って江戸の実情を伝えた。藤次郎から宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に江戸に向かった農民代表らが郡上藩側に拘束されたと見られ、また藩主の弟、井上遠江守の邸に訴状を提出した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛も藩側から追われる身となったことが伝えられ、一揆勢に参加する農民たちは憤激した。折りしも郡上領内では藩側の弾圧が激しさを増し、一揆から脱落する農民が相次いでいた。一揆勢は窮地に追い込まれている状況を打破するために、郡上藩ではなく幕府に直接裁きを受ける越訴を行うことを決定した。
関寄合所では越訴を実行する願主を選ぶこととし、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、那比村藤吉の5名が願主に選ばれ、うち東気良村善右衛門、切立村喜四郎の両名が本願主となった。宝暦5年(1755年)11月半ば過ぎ、5名の願主に55ヵ村から選ばれた73名が付き添い、江戸へ向かった。一行は江戸に到着すると神田橋本町の秩父屋半七宅に宿所を定め、井上遠江守への追訴の際にも訴状作成に協力した公事師島村良仙の協力を仰ぎ、訴状を作成するなど幕府への追訴の準備を進めた。
駕籠訴決行
宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた。
老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた。
なお江戸時代を通じ、老中など幕府要人の駕籠に直訴を行ういわゆる駕籠訴はしばしば見られたが、駕籠訴という言葉が初めて用いられたのは、郡上一揆における宝暦5年11月26日(1755年12月28日)の老中酒井忠寄に対して行った直訴が最初であり、越訴という言葉もほぼ同時期に定着することから、宝暦から天明期にかけて一揆や騒動の訴訟で越訴、そして駕籠訴という方法が多く用いられるようになったものと考えられる。
また駕籠訴の実行は、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に加えて高原村弁次郎が参加したと考えられるが、弁次郎は土地を持たぬ水呑百姓であったため、正式な駕籠訴人とは認められなかった。そのため駕籠訴の後も、他の5名の駕籠訴人と異なり村預けの処分も下されることなく、一揆勢の江戸への飛脚などとして活躍を続け、後の評定所の裁判の際も罪を免れることになった。
駕籠訴の吟味開始と広がる波紋
宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、駕籠訴人願主の5名が町奉行の依田政次に呼び出され吟味を受け、宿預けとなる。宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、宝暦6年(1756年1月19日)以降、町奉行依田政次によって駕籠訴人が提出した訴状の内容についての吟味が続けられた。そして笠松陣屋に提出を指示され、飛脚が陣屋へ向かう際に農民らに奪われた三家老の免許状も依田町奉行に提出された。
駕籠訴によって郡上一揆の吟味が行われることとなり、あわてたのが美濃郡代代官の青木次郎九郎に対し、郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を命じた幕府勘定奉行の大橋親義らであった。幕領ではない郡上藩の年貢徴収法に対して幕府の代官が命令することは筋違いの異例な措置であり、事実が明るみとなれば問題とされるのは明らかであった。大橋親義はともに郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を行った大目付の曲淵英元らと相談してもみ消し工作を行い、更に町奉行による駕籠訴についての吟味や、宝暦7年(1757年)に行われた勘定所内の吟味においても、大橋はやはり曲淵らと話を合わせながら、美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正問題への介入への関与を否定し続けた。
宝暦5年12月6日(1756年1月7日)、関寄合所に江戸からの駕籠訴決行の知らせが届いた。藩側の弾圧により窮地に追い込まれていた一揆勢にとって、駕籠訴決行は反転攻勢のきっかけとなった。同時期に駕籠訴について連絡を受けた郡上藩側は、まずは拘束していた農民に厳しい事情聴取を行ったが、続いて一揆勢との対立を和らげることを目的とした妥協策を立てることになった。
また駕籠訴決行の連絡後、江戸からは駕籠訴の願主から資金不足について訴える書状が届けられている。江戸で訴訟を進めていくためには多くの資金が必要となるため、闘争資金の調達が大きな課題となってきた。またこの時期の願主からの書状には、郡上には「犬」がいると聞いているので、これまで交わした書状の扱いなどには十分に気をつけるように書かれているものがあり、一揆勢にとって体制を固めていくことが大きな課題となっていた。
一揆勢の反転攻勢開始と藩側の対応
宝暦5年(1755年)末、関寄合所から郡上郡内へ送られた回状で、駕籠訴の決行と幕府による吟味が開始されたことを伝えるとともに、駕籠訴によって一揆が解決するとの見通しを伝え、併せて運動資金の調達を依頼した。このように駕籠訴は藩側の弾圧によって弱体化した一揆勢の組織再強化に格好の材料となった。また宝暦5年(1755年)末以降、一揆勢を構成する農民たちは駕籠訴を決行した5名の願主に対して証文を提出して結束を固めるようになった。駕籠訴の願主は立者と呼ばれる一揆勢から御駕籠訴様、願主様ないし大御公儀様と呼ばれるようになり、組織の象徴として強い権威を持つようになっていった。また一揆勢の間で指導者を選び出し、選ばれた指導者と一揆参加者がお互いに頼み頼まれ証文という証文を交わすといった組織固めが始まった。この組織は既存の村方三役といった農村組織とは異なった一揆勢独自のものであり、一揆組織の指導者を帳元と呼んだ。
駕籠訴の受理を受け、郡上藩の別邸に監禁されていた40名の農民代表は放免された。宝暦6年1月6日(1756年2月5日)、放免された農民代表のうち15名が飛脚のように郡上に急ぎ帰った。江戸から郡上に戻った15名の農民代表から江戸の状況が詳しく知らされるとともに、江戸に残った農民代表は郡上に帰る旅費が工面できないので資金を送るように要請された。なお15名の農民代表が郡上に帰る際、藩側は農民たちに検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の、一揆勢との妥協案を記した添状を託した。郡上に戻った農民代表はすぐに郡上藩側に添状を渡した。
宝暦6年1月18日(1756年2月17日)、郡上藩側は郡上郡内の村方三役を呼び出したが、明方筋、上之保筋の三役らはほとんど逃散し、下川筋の三役も逃散が相次ぎ、結局下川筋24村の村方三役が、藩側から検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の申し渡しを受けた。24村の村方三役は農民たちの意見を確認したいとして即答を避けた。藩側の意向で24村の村方三役は逃散した各村の村方三役にも藩側の意向を伝え、郡上郡内の村方三役は農民たちに検見法取りやめ、定免法で税率2分5厘増しとの藩側の妥協案を伝えた。しかし農民たちはこれまでかたくなに検見法にこだわっていた藩側が、駕籠訴が行われるや妥協案を提案してきたことに何か裏があるのではないかと考え、藩側の提案を受け入れようとはしなかった。結局村方三役らは宝暦6年1月25日(1756年2月24日)、農民らが承知しないとして藩側の提案を断った。
一揆勢の巻き返しと資金調達
一揆勢は大勢の人員を動員し、駕籠訴は大願成就であり、訴状が受け入れられるとの見通しを郡上郡内で宣伝し続けた。宝暦6年(1756年)の1月から2月にかけて、藩側の激しい弾圧によって一揆勢から脱落した上之保筋の寝者の多くが、立者と呼ばれた一揆勢に詫び証文を入れた上で一揆側への再加入するようになった。そして上之保筋で優勢となった一揆勢は明方筋そして下川筋でも攻勢に転じ、一揆勢への加入を強制する動きが強まった。このような藩に従順な反一揆側である寝者に対する一揆勢の攻勢を「寝者起し」と呼んだ。また一揆勢は立者と寝者を厳しく峻別するようになり、立者同士の団結を固めた。一揆が長期化する中で立者と寝者との対立は激しさを増していく。
宝暦4年(1754年)7月の藩側の検見法言い渡しに始まる郡上一揆は、翌宝暦5年(1755年)7月には幕府の美濃郡代が介入し、その後、江戸出訴、追訴そして駕籠訴と活動を強化し、それに伴い多くの人員が訴訟のために江戸に詰めるようになり、また藩側の弾圧に対抗して郡上藩外に関寄合所が設けられ活動拠点となった。一揆勢は宝暦4年(1754年)8月の一揆開始当初から必要な費用を地域ごとに分担していたが、江戸、関、郡上をまたに掛けた活発な活動を継続するためには資金調達が欠かせず、活動資金を郡上郡内で分担する郡中割が行われるようになった。
駕籠訴人と村方三役代表との対決
宝暦6年8月27日(1756年9月21日)、郡上藩側から、郡上郡内の村方三役から庄屋10名、組頭10名、百姓代10名の計30名が選ばれ、駕籠訴吟味において事情を確認するため江戸に向かわせることが言い渡された。一揆勢との軋轢に悩んでいた村方三役にとって、江戸で駕籠訴吟味の事情聴取を受けることは大きな負担であり、遠慮したい旨嘆願した。一部の村方三役は江戸行きを強く拒否して逃走したり、入牢、手鎖処分を受けた者もいたが、幕府の手によって進められている吟味を断りようもなく、9月に入って郡上藩代官猪子庄九郎、別府弥角の引率で30名の村方三役は江戸に向かい、宝暦6年9月17日(1756年10月10日)到着した。
宝暦6年10月24日(1756年11月16日)、町奉行の依田政次役宅に5名の駕籠訴人と30名の村方三役が呼び出され、両者が対決する形で駕籠訴の吟味が進められた。吟味は駕籠訴で提出された訴状の内容について確認する方法で進められ、依田町奉行は5名の駕籠訴人の申し立てに好意的であり、吟味も優勢に進められた。また30名の村方三役に付き添った代官猪子庄九郎、別府弥角にも尋問がなされたが、両代官は厳しく叱責された。
老中の駕籠になされた駕籠訴が受理され、町奉行による駕籠訴吟味の内容が一揆側の農民たちに比較的好意的であったのは、幕府内の路線対立が影響しているとの説がある。当時、あくまで年貢増徴によって幕府財政を維持しようという派と、年貢増徴策に対する農民たちの頑強な抵抗を目の当たりにして、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派の対立が表面化しており、郡上一揆の駕籠訴吟味は、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派によって推進されていたため、一揆勢に好意的なものになったと考えられる。
また駕籠訴吟味が一揆勢に好意的であったことは、その後の一揆活動に少なからぬ影響を与えた。幕府は一揆勢の訴えに好意的であると判断したため、駕籠訴吟味の判決が出されることなく継続した一揆の裁きを、農民たちは目安箱への箱訴を行い改めて幕府に求めた。しかし箱訴によって開始された評定所での吟味は、一転農民たちにとって極めて厳しいものになった。
郡上での動き
郡上藩主金森頼錦は、宝暦6年(1756年)7月に参勤交代に伴う郡上帰国を予定していたが病気により延引され、宝暦6年9月7日(1756年9月30日)に郡上へ戻った。藩主の郡上入りに際し、在郡中であった郡上郡内の村方三役は藩領入り口で恒例の藩主の出迎えを行ったが、この時の藩主帰国時には出迎えに来なかった者も現れた。
江戸での駕籠訴吟味の過程で、駕籠訴人は郡上で拘束されている者たちの赦免を願い出ていたがそれが認められ、郡上藩側に赦免を行うように通知された。その結果、宝暦6年(1756年)10月には郡上郡内で入牢、手鎖、村預けとされていた者の多くが赦免された。
一方、藩主の郡上帰国後、郡上一揆のきっかけとなった有毛検見法の採用に批判的であった筆頭家老の金森左近が改易され、替わりに田島又五郎が取り立てられた。金森左近以外の有毛検見法採用に反対した郡上藩士も次々と失脚し、一方経済関連の役職が増員された。そして郡上藩側は宝暦6年も検見法による年貢取立てを強行し、宝暦6年中に年貢を納められない農民らは各村で手鎖の処分を受けた。 
一揆勢と藩側の攻防
駕籠訴人の帰国と駕籠訴吟味の停滞
宝暦6年10月24日(1756年11月16日)に町奉行の依田正次役宅で行われた5名の駕籠訴人と30名の村方三役の吟味後、宝暦6年(1756年)12月、駕籠訴人と村方三役代表双方に帰国が言い渡された。村方三役代表は自由に郡上へ向かうよう言い渡されたが、駕籠訴人5名は郡上藩の江戸藩邸から25名の足軽が付き添い、郡上へと向かった。
5名の駕籠訴人は当時罪人扱いの者が乗せられた、籐丸駕籠に乗せられることもない上に、当時百姓身分では厳禁であった帯刀をして郡上へ向かった。なお、郡上への帰途に帯刀したことは後に行われる郡上一揆の幕府評定所での判決で罪状の1つに挙げられることになる。宝暦7年1月7日(1757年2月24日)、大勢の一揆勢農民の出迎えを受け、駕籠訴人は郡上へ戻った。駕籠訴人は郡上藩側から村預けを言い渡され、各村の庄屋宅の座敷牢に監禁処分となった。各駕籠訴人の座敷牢は郡上藩の足軽、そして各村の農民らによって昼夜わかたず交代で見張り番が行われ、親類縁者や立者農民との接触は厳しく禁止された。
駕籠訴人の帰国によって一揆勢の活動は更に盛り上がり、駕籠訴受け入れの採決が下るであろうとの内容の文書を郡上郡内に広めた。一方、駕籠訴人と同時期に郡上へ戻った30名の村方三役代表や藩側は、駕籠訴は却下されたと触れ回った。実際には駕籠訴の吟味は裁決が下されることなく放置された。一揆勢の中で急進派であった上之保筋の立者は一揆勢有利の裁決が下されるものと楽観視して活動を更にエスカレートさせていくが、明方筋や下川筋の立者は上之保筋の活動に必ずしも同調せず、駕籠訴の吟味についても店晒しになるのではないかと冷静に分析していた。なお、駕籠訴の吟味は進められることなく放置されたが、幕府内部では宝暦7年(1757年)から宝暦8年(1758年)にかけて、郡上藩の年貢徴収法について幕府役人である美濃代官が介入したことに関して、勘定奉行の大橋親義に対する事情聴取は続行されており、これは幕府内特に勘定所内での年貢増徴派とそれに反対する派の路線対立が影響していた。
郡上帰国当初、厳しい軟禁状態に置かれた駕籠訴人であったが、宝暦7年(1757年)3月には見張り役の足軽が引き上げ、同月、庄屋宅の座敷牢に監禁されていたものが自宅軟禁へと切り替わった。その後駕籠訴人らは村預け処分は変更されないものの、駕籠訴人名義で各村に回状を回すなど一揆勢の指導的な役割を果たすようになる。
一揆勢の体制と活動強化
宝暦7年(1757年)1月、帰国中の藩主金森頼錦に対して一揆勢は、三家老の免許状で約束した通りに検見法を取りやめることと、いまだに拘束されたままであった農民の釈放を求めた願書を提出する。そのような中、宝暦7年2月4日(1757年3月23日)讒言によって入牢していた中津屋村太郎左衛門が牢死し、他の入牢中の立者農民も衰弱が激しくなっていた。一揆勢は会合を開き、讒訴を行った者の家や庄屋に押しかけて赦免嘆願を行うよう圧力をかけた。金森頼錦は宝暦7年2月25日(1757年4月13日)、参勤交代により江戸へ向けて出立したが、庄屋らの嘆願もあり宝暦7年3月6日(1757年4月23日)、入牢者は釈放された。
この頃になると、一揆勢の中から選ばれ、一揆参加者の間で取り交わされた頼み頼まれ証文で誓約を行った歩岐島村四郎左衛門を中核とした帳元が、資金の割り当てや活動方針の取りまとめなど一揆全般の活動を取り仕切るようになり、一揆勢の組織整備も進んだ。そして一揆全体の活動を統括した歩岐島村四郎左衛門を中核とした帳元に対し、一揆の実行部隊として、気良村甚助、寒水村由蔵、向鷲見村五郎作(後に改名して吉右衛門)らが活躍するようになった。
宝暦7年(1757年)2月には、郡上郡内の一揆勢農民が白鳥那留ヶ野に集結してこれまでの一揆の経過について確認する中で、内々に相談してきた内容が藩側に漏れ、大勢の仲間が手鎖や入牢の処分を受けて苦しむことになったのは、立者から寝者へと寝返った上に藩側に情報を漏らした者たちのせいだという話となり、藩側に情報を漏らした寝者の代表的人物として24名が挙げられた。上之保筋ではさっそく寝者の代表として槍玉に挙げられた農民宅に乱入し、誤りを犯した旨の証文の提出を強要した上に米や麦を横領した。寒水村由蔵はこの時の行動が翌年の評定所の判決で獄門とされた一因となった。
宝暦7年3月7日(1757年4月24日)、帳元から一揆を進めるに当たり必要とされる資金の調達が言い渡された。この時、帳元から調達を指示された金額は郡上郡の年貢額の約1割に当たる1160両という大金であり、上之保筋、明方筋、下川筋それぞれに分担金が割り当てられることになった。すると上之保筋で寝者の家や庄屋宅に押し入って金銭の差し出しを強要する動きが始まった。この動きは上之保筋から明方筋へ、更には下川筋にも広がり、一揆勢に加担しない人々からも強引な金集めが行われた。そして郡上八幡城下の町名主のところにまで一揆勢は金の徴収に現れたが、藩から出された一揆勢からの金銭要求に応じてはならぬとの命に従うといって、町名主たちは要求を拒絶した。すると町名主から金銭要求を拒絶された一揆勢は、町方が所有する田畑の作物を勝手に収穫する挙に出た。
このような一揆勢の体制強化と攻勢の中、農民たちが立者に加入するケースが相次ぐようになった。宝暦7年(1757年)に立者に加入した中には村方三役が多く含まれ、特に宝暦7年(1757年)6月には上之保筋で63名という大勢の村方三役が立者に仲間入りした。
強まる軋轢
宝暦7年6月11日(1757年7月26日)、駕籠訴人の前谷村定次郎、切立村喜四郎の名で村々に回状が回った。回状では殿様、農民の敵は寝者であり、寝者の亭主子どもはもちろん、家来であっても決して挨拶してはならないとし、同じ農民同士でありながら、一揆勢の立者と反一揆勢の寝者との間の厳しい対立を示したものであった。また村によっては寝者と交際したことが判明した場合、罰金を徴収することを取り決めた。
このような情勢下、宝暦7年(1757年)6月には、反一揆勢である寝者の側でも、強固な寝者同士の結束を固めるために駕籠訴仲間不加入連署状という証文が交わされる事態となり、立者と寝者の対立はエスカレートしていった。ただ、郡上郡内の立者、寝者間の対立は激化していたが、一揆勢の立者の中でも活動に消極的な人たちがあり、寝者も駕籠訴仲間不加入連署状を取り交わした強固な反一揆派から、一揆そのものに関心が薄い人たちまで様々である。その他立者、寝者の中立の立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた。そして一揆勢に有利な情勢になると立者が増え、逆に藩の締め付けが厳しくなるなど一揆勢が困難な課題に直面すると寝者が増加するなど、立者、寝者は決して固定的なものではなく、その時々の情勢によって流動的であった。また立者、寝者にも深入りせず村として中立の立場を堅持した正ヶ洞村のような存在もあった。
そして一揆勢から金銭要求を受けた上に所有する田畑の収穫物を取り上げられていた町方は、郡上藩側からの働きかけもあって、江戸で訴えを起こすことを計画した。結局宝暦7年(1757年)7月、町方と村方の代表が藩役人に連れられて江戸に向かい、郡上藩主金森頼錦の親族でもあった幕府寺社奉行の本多忠央のところへ向かい、訴訟について相談した。しかし本多忠央から、藩のやり方が良くないせいで郡上藩がらみの訴訟が頻発しているのだから、これ以上訴えなど起こさぬ方が良いなどと忠告されたこともあり、一揆勢に対する訴訟は不発に終わった。
藩の統制が及ばない上之保筋
宝暦7年9月30日(1757年11月11日)、上之保筋の一揆勢帳元が責任者となって「定」を制定した。「定」では、各所から金銭的な要求があっても駕籠訴の結果が出るまで繰り延べするようお願いすること、そして借金については決して乱暴なことをしないこと等、一揆などの大衆運動にありがちな無法を禁じ、統制が取れた行動をしていく取り決めがなされていた。また「定」は、一揆勢が村方三役を中心とした江戸時代の農村秩序に替わる、自治的な新たな決まりを制定したことを表している。
「定」の制定からもわかるように、宝暦7年(1757年)後半から宝暦8年(1758年)にかけて、上之保筋は郡上藩の威令が及びにくい状況となった。宝暦7年(1757年)12月に作成された上之保筋の立者、寝者人別帳によれば、上之保筋の約9割が立者であり、村内全てが立者であった村も23村あった。このような立者の圧倒的な優勢下、年貢納付も十分に行われない状態に陥った。 
藩側と一揆勢の対立激化
新町太平治の投獄と一揆勢の暴動
郡上郡内の農民が一揆勢である立者と反一揆勢である寝者とに分かれ、激しく対立する中で、郡上八幡の城下町にも一揆勢に味方する町方立者が現れるようになった。そのような町方立者の1人に新町太平治がいた。太平治は一揆勢に肩入れしているため郡上藩役人に狙われていたが、宝暦7年(1757年)10月、自宅に商人を宿泊させながら藩庁に届けを出すのが遅れたことをとらえられ、微罪であるのにもかかわらず投獄されてしまった。
子細なことで町方立者の新町太平治が入牢したことを聞き、一揆勢はとしてもこのままにしておけないとして、宝暦7年10月26日(1757年12月7日)、郡上郡内で動員された600名あまりの一揆勢農民が町名主の原茂十郎宅に押しかけ、藩庁に新町太平治の赦免願いを提出するように圧力をかけた。しかし原茂十郎は要求を受け入れようとしなかったため、一揆勢は原茂十郎宅で暴れまわった。騒ぎを聞きつけた藩側から数十名の小頭、足軽が駆けつけ、「訴えを取り次ぐのでまず静まるよう」説得した。一揆勢は説得を受け入れ、各村々に引き上げる最中、200名程度にまで少なくなったところに100名あまりの小頭、足軽が追いつき、一揆勢を率いていた気良村甚助、寒水村由蔵、大久角村喜平次、那比村助次郎の四名が呼び出され、領主を恐れず騒動を起こすとは不届きであると強く叱られた。直後に一揆勢と小頭、足軽との間に小競り合いが起き、一触即発の状態となったが、このときは仲裁する者がいたため騒動になることはなかった。
一揆勢の暴動が藩側の対応によって抑えられたことを見て、寝者農民の勢いが増した。そのような中で一揆勢を抑えつけるような動きを計画されるようになった。これが翌年の歩岐島騒動の伏線となった。
用人大野舎人の村方三役、駕籠訴人の呼び出し
宝暦7年(1757年)11月、江戸から用人大野舎人が郡上に戻った。大野は宝暦7年12月3日(1758年1月12日)に明方筋、下川筋の村方三役全員を呼び出し、駕籠訴の吟味で、駕籠訴人と30名の村方三役代表は御定法に従って33か条の願書を取り下げたためお許しを貰えたのにもかかわらず、駕籠訴人は未だに判決を待っており不届きであるとし、この申し渡しを各村々に広めるように命じた。なお、上之保筋の村方三役が呼び出されなかったのは、上之保筋では一揆勢が「定」を制定した自治状態となっており、藩の統制が効かなくなっていたためと考えられる。
大野は引き続き駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を呼び出した。これは駕籠訴人と村方三役代表を対決させることによって、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すことを狙ったものであったが、宝暦7年12月15日(1758年1月24日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の5名の駕籠訴人のうち、上之保筋の切立村喜四郎、前谷村定次郎両名の駕籠訴人は出頭せず、結局駕籠訴人と村方三役との対決は実現することなく駕籠訴人と村方三役とも翌日には各村へと戻り、大野舎人のもくろみは失敗に終わった。
気良村甚助の処刑
宝暦7年10月26日(1757年12月7日)の暴動を指揮した気良村甚助、寒水村由蔵、大久角村喜平次、那比村助次郎の4名のうち、一番の首謀者と見られていた気良村甚助は藩側から特に目をつけられていた。宝暦7年12月3日(1758年1月12日)、郡上八幡城下にやって来ていた甚助は藩側に捕らえられ、全く吟味もなされないまま宝暦7年12月18日(1758年1月27日)、穀見の刑場でひそかに打ち首にされた。これは先の大野舎人による呼び出しにも関わらず、上之保筋の切立村喜四郎、前谷村定次郎両名の駕籠訴人は出頭せず、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗したことの意趣返しとの説がある。
当時としても、全く吟味を行うことなく理由も明らかにしないまま処刑を行うのは違法であり、事実を知った一揆勢は激しく抗議するが、藩側は「甚助の罪状はお前たちがよく知っているはずだ」と言うばかりで全く抗議に取り合おうとしなかった。この気良村甚助の違法な処刑は翌年の幕府評定所における郡上一揆吟味の際、郡上藩側の重大な手落ちとされ、藩主金森頼錦改易の理由の1つとされた。
追訴の失敗
駕籠訴の結論が出ることなく一揆勢と藩側との対立状態が続いていることについて、一揆勢の中で懸念する声が出るようになり、宝暦7年12月26日(1758年2月4日)、鮎走村甚左衛門、那比村久助が追訴を行うために江戸に向かった。宝暦8年(1758年)1月、両名は江戸に着いて、駕籠訴の後も弾圧が止まることがない上に、藩側は駕籠訴は取り下げられたとの虚偽の話を広めるありさまであり、早く駕籠訴の訴えを聞き届けていただきたいとの内容の訴状を町奉行所に提出する追訴を行ったが、町奉行側は訴状を受け取ることなく門前払いされた。
かねてから郡上の一揆勢が利用していた公事宿である神田橋本町の秩父屋半七宅に宿泊していた鮎走村甚左衛門、那比村久助の両名は、追訴が門前払いされ意気消沈していた。この様子を見た秩父屋は同情して、これまでも郡上農民の訴状作成に協力していた公事師島村良仙の協力を改めて仰ぐよう助言した。鮎走村甚左衛門、那比村久助の両名は島村良仙に会い、協力を要請したところ、宝暦8年(1758年)2月上旬、島村は偽造した謀書を両名に渡した。その後の経過ははっきりしない点があるが、那比村久助は逃亡し、鮎走村甚左衛門は郡上に戻って藩側に謀書を提出したところ、郡上藩側に拘束されたと考えられる。後の評定所での判決では、偽の書状を郡上藩側に提出したことをとがめられ、鮎走村甚左衛門と公事師島村良仙は重追放とされた。
歩岐島騒動
郡上藩用人の大野舎人は、駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を対決させて、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗した後も、一揆勢の弱体化を狙った画策を続けていた。大野は一揆勢の組織を切り崩すために資金と帳面を押収することとした。そこで一揆勢の司令塔である帳元について郡上郡内を徹底的に捜索した結果、宝暦8年(1758年)2月上旬には歩岐島村四郎左衛門が帳元の中核であると判明した。藩側はまず歩岐島村四郎左衛門を呼び出してみたが呼び出しに応じなかったため、四郎左衛門と同じ歩岐島村に住む寝者である歩岐島村久右衛門を呼び出し、四郎左衛門の様子について尋ねてみると、家に隠れて外出していないことが報告された。そこで藩側は久右衛門に対し、四郎左衛門宅から帳面と金銭を奪い取るよう指示した。
宝暦8年2月24日(1758年4月2日)、郡上藩の足軽4名と歩岐島村久右衛門を始め十数人の寝者農民が、歩岐島村久右衛門の家に押し入り、帳面、金銭などを奪った。歩岐島村四郎左衛門はからくも逃げることに成功し、隣家に匿われた。帳元元締めの歩岐島村四郎左衛門の家が藩足軽、寝者に押し入られ、金銭や帳面を奪い取ったことを聞きつけた近隣の一揆勢は、さっそく大挙して駆けつけ、久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を捕え、逆に四郎左衛門宅に監禁した。
久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を四郎左衛門宅に監禁した後、郡上郡内に15歳から60歳の男は歩岐島村の帳元のところに集結するよう回状が回った。その結果、宝暦8年2月26日までに約3000人の立者農民が集結した。事態を寝者農民から知らされた藩側は驚き、約30名の小頭、足軽が歩岐島村に派遣した。歩岐島村に到着した藩側の小頭、足軽は、大勢の一揆勢を前に、このように大勢で集まることは不届き千万であると叱った。すると一揆勢は、先日、歩岐島村四郎左衛門の家から帳面、金銭などを奪われたが、奪った盗人を拘束している。盗人を取り調べて帳面、金銭などを返してもらいたいと主張した。そこで藩側は取り調べを行うので拘束している久右衛門を引き渡すよう伝え、実際に一揆勢から引渡しを受けた。しかし翌日、新たに足軽20人が増派されると、棒で一揆勢を殴りつけながら歩岐島村四郎左衛門を拘束しようとした。武器を持っていなかった一揆勢はいったん退却したが、帳面、金銭を奪われたあげくに暴力まで受けて引き下がるわけにはいかないと、石を大量に集めて四郎左衛門の家を取り囲み、大声を上げながら石投げを行った。最初は藩側の小頭、足軽らは棒で応戦していたが、大勢の一揆勢の投げる石の雨に見舞われ、命の危険を感じ抜刀した。しばらくして石の雨が弱まったと見るや、小頭、足軽らは血路を開こうと一揆勢に刀を振り回しながら突入し、一揆勢も大勢が傷つきながら応戦した。結局機転を利かせた藩側の足軽頭が「後詰早く来い、早く来い!」と、実際には来ることのない後詰を呼ぶ声を発し、新たな増援部隊がやって来ると一揆勢を警戒させた上、折からの土砂降りの雨にも乗じて何とか逃げ切った。一方一揆勢も藩側の大規模反攻を警戒していったん山林に隠れた上で、やはり土砂降りの雨に乗じて解散した。
この歩岐島騒動と呼ばれる郡上一揆で最大の一揆勢と郡上藩側との衝突により、死者は出なかったものの、一揆側農民は30名あまりの重軽傷者を出し、藩側の小頭、足軽も17名の負傷者を出した。歩岐島から何とか逃げてきた小頭、足軽たちの報告を聞いた藩側は、このような騒動が起きた以上、一揆勢の首謀者たちは江戸に訴えに行くと想定し、また郡上郡中の村方三役に対して騒動参加者について報告を命じた。藩側の動きを察知した一揆勢は、歩岐島村四郎左衛門の名で「藩側の足軽たちに理不尽な仕打ちを受けたことに納得できない。参上して談判したい」との書状を藩側に送りつけた。一揆勢が大挙して郡上八幡城下に殺到する事態を恐れた藩側は急ぎ防備を固めた。その隙を突き、一揆勢の指導者クラスであった歩岐島村治衛門、剣村藤次郎らが郡上郡内から脱出した。
また歩岐島騒動の発端となった歩岐島村四郎左衛門宅にあった帳面は、何者かがひそかに持ち出していて一揆側が保持し続けていた。このことは秘密にされており、帳面が藩、反一揆勢に奪われたことにしておくことは、郡上一揆の訴訟を有利に進めるための一揆勢の作戦であった。 
目安箱への箱訴
駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の脱走と一揆勢の体制再構築
歩岐島騒動による混乱の最中、村預け中であった駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の両名は監禁中の自宅を出て、飛騨との国境近くの山深い場所の、猪や鹿などの害獣から農地を守るために設けられた鹿番小屋に一時期身を隠した後、前谷村吉郎治、切立村吉十郎とともにひそかに江戸へと向かった。
切立村喜四郎、前谷村定次郎らが行った駕籠訴は、審理が事実上ストップしていたとはいえまだ判決が出ていない未決状態のままであり、幕府から身柄を預かった郡上藩が村預け処分を行っていた。つまり郡上藩側としては幕府の未決状態の囚人に脱走されたことになり、まず藩内を必死になって捜索した。しかしすでに江戸に向かっていた切立村喜四郎、前谷村定次郎を見つけ出せるはずがなく、宝暦8年(1758年)3月20日過ぎになって幕府に駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の逃亡を届け出た。郡上藩内での厳しい捜索状況と、幕命に反して逃亡した形となったことを懸念した関寄合所は、まず両名に幕府への自首を勧めた。しかし喜四郎、定次郎ともにすぐには自首せず、再度の追訴、そして目安箱への箱訴の実行に尽力し、宝暦8年(1758年)8月末、評定所での裁判が始まった後に自首した。
また郡上藩から報告を受けた幕府も、前谷村と切立村の庄屋、組頭らを江戸に呼び出し、宝暦8年4月21日(1758年5月27日)、30日以内に切立村喜四郎、前谷村定次郎の両名を探し出すよう命じた。しかしやはり江戸に出ていた両名を探し出せるはずもなく、6月になって捜索期限の日延べを願い出た。
歩岐島騒動後、藩側は騒動参加者そして駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の捜索とともに、一揆勢による半ば自治状態となっていた上之保筋に対する締め付けを開始した。そのような中、宝暦8年(1758年)3月には上之保筋での一揆勢優勢という状況下で一時期活動を休止していた関寄合所の活動を、歩岐島村四郎左衛門を中心として再開することとした。一揆勢は藩側の攻勢に対し、関寄合所を中心とした体制を再構築し、江戸と郡上郡内との連絡調整、闘争資金の調達、そして一揆の訴訟作戦を進めていくことになる。
再度の追訴失敗と箱訴の決断
歩岐島騒動の勃発という事態を受け、江戸で活動していた一揆勢は訴訟作戦についての検討を行った。宝暦8年3月12日(1758年4月19日)、江戸で潜伏生活を開始していた駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎は、幕府に対して訴訟を進めるための人材を新たに派遣するように依頼する書状を関寄合所に送った。
しかしここで問題が発生した。切立村喜四郎、前谷村定次郎からの書状を受け取った関寄合所では、訴訟のために新たに人員を派遣するということは重要な判断を要するため、郡上郡内の一揆勢全体で相談して決めようと考えたが、明方筋、下川筋の一揆勢からは、歩岐島騒動は上之保筋で発生した事件なので上之保筋で訴訟を行うのが筋であると主張し、人員を新たに送ることを拒否した。結局訴訟実行の人員として上之保筋から向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎を派遣することとした。これは強硬派の上之保筋に対して、明方筋、下川筋は必ずしも共同歩調を取らないようになったことを示している。
駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎と関寄合所との間で訴訟についてやり取りを行っている最中の宝暦8年3月20日(1758年4月27日)、歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛ら、江戸にいた一揆勢9名が訴状を北町奉行依田政次の番所に持参し、追訴を行おうとしたが訴状は受理されなかった。追訴の不受理という結果を受けて、一揆勢は目安箱への箱訴を決断することになる。
箱訴決行
宝暦4年7月20日(1754年9月6日)の郡上藩からの検見法言い渡しに始まった一揆は、その後幕府代官である笠松陣屋の介入があり、江戸藩邸への出訴、藩主実弟の井上家への追訴を行うも郡上藩側の弾圧を受け、宝暦5年11月26日(1755年12月28日)には老中酒井忠寄への駕籠訴を行い、ようやく訴状が受理され吟味が開始された。しかし審理は停止状態となり、駕籠訴から2年あまりが経過しても判決はなされなかった。駕籠訴の判決が下されない中、一揆勢は2度の追訴を行ったが訴状は受理されず、ここに目安箱への箱訴を行うことに決した。
当時、江戸には郡上一揆の一揆勢とともに、同じ郡上藩の預地であった石徹白で続いていた石徹白騒動の関係者も滞在していた。郡上一揆の一揆勢と石徹白騒動の関係者は情報交換を行い、その中で石徹白騒動の関係者から、郡上藩主金森頼錦は縁戚関係を利用して訴訟を握りつぶしているとの情報に接し、もはや将軍が自ら訴状の内容を確認する目安箱への箱訴を決行するしかないと判断したとの資料もある。
宝暦8年4月2日(1758年5月8日)、江戸に滞在していた郡上一揆勢のうち歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門の4名と、訴訟実行の人員として派遣された向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎の2名の計6名が、目安箱に訴状を投函する箱訴を決行した。箱訴の決行は江戸に潜伏中の駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎が中心となって進められたと考えられるが、両名とも公式には村預けの処分中であったため訴人に名を連ねることはなかった。
訴状にはこれまでの一揆の経過を説明する中で、歩岐島騒動や気良村甚助の処刑などの藩側の不当な弾圧を指摘し、改めて吟味と訴訟の裁決を願う内容であった。また訴状の他に歩岐島騒動での一揆勢負傷者35名の名前と負傷状況を記したリストが添えられた。後の評定所での吟味において、35名のうち33名が江戸に呼び出され、厳しい尋問によって十数名が牢死し、生存者も所払いの判決を言い渡されることになる。
箱訴は宝暦8年4月2日(1758年5月8日)に続き、宝暦8年4月11日(1758年5月17日)には初回と同様の内容で2度目の箱訴を行った。結局2度目の箱訴が受理され、訴人の6名は町奉行の依田政次に呼び出され、訴状が受理され吟味が行われることを告げられた上で、6名の訴人に宿預けが言い渡された。
箱訴の吟味開始と郡上の情勢
宝暦8年4月11日(1758年5月17日)に行われた2度目の箱訴が受理されたことによって、改めて郡上一揆についての吟味が開始された。吟味は宝暦8年(1758年)の4月末から6月にかけて、まず6名の箱訴人を奉行所に呼び出し、訴状の内容等について確認する方式で進められ、吟味の内容は吟味書にまとめられた。
箱訴が受理され吟味が開始されたものの、一揆勢は資金不足に悩んでいた。これまで一揆勢は多くの資金を分担して集めていたが、前年の宝暦7年(1757年)は凶作であり、しかも一揆の影響もあって収穫が減り、多くの農民が困窮したため、集めた資金の一部を貸し出していた。しかし長引くばかりの江戸での裁判は多くの費用がかかり、宝暦8年(1758年)5月の段階で資金がほぼ底をついた。また江戸での裁判の再開という事態の中、郡上と江戸との連絡調整を担う関寄合所の人員も不足していた。資金調達は思うように捗らず、裁判を抱えた江戸の一揆勢の資金不足は更に深刻化したため、やむなく困窮していた農民に貸し出した金の取り立てを行うことにしたが、明方筋、下川筋からは入用金の取り立てが厳しいとの声が挙がった。
このような情勢下、郡上郡内では一揆勢に対する不満が高まり、明方筋の下津原村が立村から脱落し寝村となるなど、一揆勢からの脱落が見られるようになった。一揆が始まってから既に4年近く、駕籠訴からも2年以上が経過していたが、事態の進展が見えない中、評定所での本格的な吟味開始直前には資金、人材不足そして一揆勢からの離脱が見られるなど、一揆勢は困難に直面していた。 
幕府評定所での本格的な吟味
将軍家重の疑念
郡上一揆の件で目安箱への箱訴が行われ、吟味が開始される中、宝暦8年6月11日(1758年7月15日)には郡上藩預地の石徹白で続いていた石徹白騒動についても箱訴が行われた。石徹白騒動の箱訴は宝暦8年7月2日(1758年8月5日)、宝暦8年7月21日(1758年8月24日)と繰り返し行われ、3回目の箱訴が受理されて吟味が開始されることになった。
郡上藩絡みの箱訴が繰り返される中、将軍家重はこれらの事件の背後に幕府要人の関与があるのではないかとの疑いを抱く。もともと郡上一揆に関する駕籠訴における吟味でも、郡上藩の年貢徴収法改正に幕府役人である美濃郡代が介入したことに関して幕府勘定奉行の大橋親義らの関与が疑われており、大橋はもみ消し工作に奔走していた。そして駕籠訴の吟味が中断状態になった後も、大橋は勘定所内の吟味で事情聴取を受け、箱訴受理後の宝暦8年(1758年)5月、7月と更なる尋問を受けていた。また将軍直属の御庭番からも郡上一揆における幕府要人関与の情報が上げられていたとも推察される。
情報を把握した家重は、郡上一揆に幕府要人の関与があったとの確証を抱くに至った。将軍の疑いはこれまでなかなか進まなかった郡上一揆の裁判を徹底審理する方向へと導いた。また郡上藩絡みのもう1つの大事件であった石徹白騒動についてもやはり幕府要人の関与が疑われたため、郡上一揆とともに評定所御詮議懸りによる本格的な吟味が行われることになる。
本格的な吟味開始と明らかになった幕府要人の関与
宝暦8年7月20日(1758年8月23日)、江戸城に寺社奉行阿部正右、町奉行依田政次、勘定奉行菅沼定秀、大目付神尾元数、目付牧野成賢の5名が呼び出され、老中の酒井忠寄から2通の箱訴状、これまでの吟味の結果を記した吟味書等、関係書類を手渡された上、評定所の御詮議懸りに任命され、老中の指揮の下で郡上一揆に関する吟味を行うように命じられた。これは五手掛と呼ばれる幕府評定所における裁判で一番規模が大きい体制であり、また江戸時代を通じても百姓一揆の裁判で評定所の御詮議懸りが任命された例は郡上一揆のみである。
幕府の中で評定所御詮議懸りによる吟味の指揮を取ったのが、勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、そして御用取次であった田沼意次であった。田沼は御詮議懸りメンバーの依田正次に対し、この事件は将軍のお疑いがかかっているので、勘定奉行大橋親義、寺社奉行本多忠央が関与しているからといって、少しも手加減する必要は無いと申し渡した。
郡上一揆の幕府評定所御詮議懸りによる吟味は、このように幕府内部の問題解決を主目的として開始された。そのため吟味開始翌日には大橋親義が尋問されたのを皮切りに、美濃郡代青木次郎九郎やその手代、郡上藩役人の尋問が先行して行われた。吟味の中で美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正への介入は、寺社奉行本多忠央から勘定奉行大橋親義への働きかけが行われ、その上で美濃郡代青木次郎九郎に対して上司である大橋親義が命じたということが明らかになった。まず宝暦8年8月3日(1758年9月4日)、大橋親義は佐竹壱岐守へ預処分を言い渡された。そして宝暦8年8月22日(1758年9月23日)には、老中酒井忠寄は石徹白騒動についても郡上一揆の吟味と同じく評定所御詮議懸りが行うよう、御詮議懸りの5名に覚書を交付した。
吟味の過程で、美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正への介入に関与した幕府高官は本多忠央、大橋親義ばかりではなく、大目付曲淵英元、そして老中本多正珍の関与まで明らかとなった。青木次郎九郎が提出した書状に老中本多正珍の名を見出した御詮議懸りは、宝暦8年8月25日(1758年9月26日)、さっそく吟味の指揮を取っていた勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、御用取次田沼意次に報告するとともに、言語不明瞭な将軍家重の言葉を良く解するため、将軍の側近となっていた大岡忠光にまで報告が行われた。宝暦8年9月2日(1758年10月3日)、老中本多正珍は罷免され、翌宝暦8年9月3日(1758年10月4日)には御用取次の田沼意次が郡上一揆、石徹白騒動の吟味への参加が命じられることになる。将軍側近である御用取次が評定所の吟味に参加した例はこれまでに無く、幕府中枢の老中まで事件に関与していたことが明らかとなり、幕府評定所御詮議懸りによる吟味の主目的であった幕府高官の事件関与の解明とその解決が困難を極める中、将軍の信頼厚い田沼意次が吟味に参加することによって事件処理の円滑化を図ったものと考えられる。
幕府役人の吟味終了と判決
将軍側近の田沼意次が吟味に正式参加するようになったものの、本多正珍に対する尋問は認められなかった。また寺社奉行から西丸若年寄に昇格していた本多忠央への尋問も困難を極めた。吟味に正式参加するようになった田沼意次は本多忠央の責任追及に積極的であったが、郡上一揆に関して大橋親義への尋問で明らかになった事実を突きつけてもそのほとんどを否認し、石徹白騒動についての尋問では自らの行動は寺社奉行間の合議に基づくものであることを認めさせた。それでも宝暦8年9月14日(1758年10月15日)には本多忠央は若年寄を罷免される。能吏との誉れが高い幕末の川路聖謨は事件処理に関する書類を読み、田沼意次の手腕を激賞しており、評定所吟味の過程で思惑通りには行かなかった点もあったが、田沼は吟味の過程で高い政治的、行政的能力を遺憾なく発揮したと考えられる。田沼は幕府中枢部が関与した難事件である郡上一揆の評定所吟味に参画を命じた将軍家重を始め、幕府内の期待に見事に応えた。
宝暦8年10月8日(1758年11月8日)には本多忠央に対する吟味が終了したことによって幕府役人への吟味はほぼ終了した。宝暦8年10月29日(1758年11月29日)、元老中本多正珍以下、幕府役人に対しての判決言い渡しが行われた。判決では石徹白騒動については幕府役人の責任は問われず、全て郡上一揆に関しての罪状であった。
先に老中を罷免された本多正珍は老中一座から、事件について聞き知っていたにもかかわらず適切な処置を怠ったとして逼塞処分が言い渡された。その他の関係者は全て御詮議懸りから判決が言い渡された。まず西丸若年寄を罷免された本多忠央は、郡上藩の年貢徴収法改正に幕府役人である美濃郡代が介入するように動いた事実を認定され、改易の上松平重孝に永預けを言い渡された。大目付曲淵英元は事件のいきさつについて把握しておきながら、駕籠訴吟味の際に事実を述べなかった責任を問われ、御役召放、小普請入、閉門を申し渡され、勘定奉行大橋親義は本多忠央とほぼ同等の理由により改易、陸奥相馬中村藩に永預けを言い渡された。そして美濃郡代の青木次郎九郎に対しては、幕領でもない郡上藩の年貢徴収法について介入したことは筋違いであるとされ、御役召放、小普請入、逼塞を言い渡された。
百姓一揆に関連して老中、若年寄、大目付、勘定奉行といった幕府高官が大量処分されたのは郡上一揆以外に他の例は無い。しかし実際の幕府高官に対する吟味は、特に老中であった本多正珍に対して吟味や処分は徹底さを欠き、幕府高官の郡上一揆への介入問題については、おおむね勘定奉行大橋親義らの私的理由による権力の濫用として処分が決定された。これは当時の幕府勘定所が個人の裁量による権限行使を戒め、組織による対応を進めていたことにも対応している。
また郡上一揆の裁判によって、幕府内ではあくまで農民に対する年貢増徴によって財政再建を図る本多正珍らの勢力が衰退し、田沼意次に代表される商業資本への間接税を推進する勢力が主導権を握るようになる。田沼は郡上一揆の裁判が進む中、宝暦8年(1758年)9月には加増されて1万石となって大名に列した。加増された領地は郡上一揆の判決で西丸若年寄を罷免され、改易された本多忠央の領地であった遠江の相良であり、また将軍世子家治付きの西丸若年寄を務めており、家治が将軍となった暁には権力の座に就くことが予想された本多忠央の失脚は、田沼意次が更に権勢を拡大させる要因の1つとなった。
郡上藩役人、農民らの吟味
評定所御詮議懸りによる郡上一揆の吟味ではまず幕府役人の吟味が先行したが、宝暦8年(1758年)7月の吟味開始直後から事件に関係した大勢の郡上藩役人、農民らが江戸に出頭を命じられ、江戸へと向かった。郡上から江戸に向かった農民は総勢309人に及んだとの記録も残っている。また江戸に潜伏していた駕籠訴人の切立村喜四郎、前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日(1758年9月27日)に、切立村吉十郎、前谷村吉郎治とともに御詮議懸り依田正次の邸に駆け込み訴えを行い、そのまま入牢となった。
評定所御詮議懸りによる吟味は、以前の駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった。郡上藩役人、農民、そして石徹白騒動の関係者に対する吟味は、幕府役人に対する判決言い渡しが終了した宝暦8年10月29日(1758年11月29日)以降、集中的に進められた。吟味ではまず農民が新たに開発していた切添田畑の有無について確認した上で検見取を正当化し、続いて一揆の組織や首謀者について厳しく追及した。拷問を含む厳しい取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦8年11月3日(1758年12月3日)には、駕籠訴、箱訴人を厳しく取り調べた結果、一揆勢の指導者が判明した。
藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味も進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩の年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官が介入した件についてどのような関与を行ったかと、気良村甚助の違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった。吟味の最中、宝暦8年9月26日(1758年10月27日)に金森頼錦は松平遠江守に預かり処分を受けた。そして郡上藩士の多くが江戸に呼び出されている状況が続いているとして、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持を目的とした郡上への出兵が命じられた。
宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した。また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月9日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する。そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった。
一揆勢に対する判決
宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には郡上一揆と石徹白騒動についての判決がほぼ固まり、宝暦8年12月15日(1759年1月13日)には申渡書が作成された。判決言い渡しは5名の老中、側用取次の田沼意次、御詮議懸り5名らが列席する中、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)夕刻から翌日早朝までかけて行なわれた。判決の中で一揆勢の、騒動の原因は郡上藩の年貢徴収法改定の違法な押し付けで、百姓が安定して生活が営めることこそが国が上手く治まる条件であり、幕府の御慈悲によって郡上藩などの不正を取り締まることによってその実現を願っているとの主張を退け、逆に検見法の採用によって切添田畑の存在が明るみになることによる課税強化を恐れ、領主の申しつけに逆らって強訴を行い、更に駕籠訴を起こした上に、強訴と駕籠訴吟味の際には切添田畑の存在を隠したと、一揆勢を厳しく断罪した。
その他、駕籠訴人が郡上への帰国の際に帯刀したこと、公儀を恐れない行為の首謀者となったこと、村の秩序を破り庄屋らを脅し証文を取ったこと、騒動の活動資金を集める帳元となったこと、歩岐島騒動において藩役人らの命令に従わず暴動を起こしたこと、村預け処分でありながら脱走したこと、駕籠訴の判決を待たずして事実に反する内容で箱訴を行なったことなど、判決ではこれまでの一揆勢の行動全般にわたって断罪された。
判決では一揆勢の頭取と判断された切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の4名が獄門とされ、駕籠訴人の東気良村善右衛門、東気良村長助、那比村藤吉、箱訴人の歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門、向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎、そして鷲見村吉右衛門の10名がやはり一揆の頭取同様に当たるとして死罪を言い渡された。その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など、一揆勢は大量処分を受けた。判決後、獄門、死罪を言い渡された者たちは腰に獄門、打首と書かれた札を付けられ、次々と刑場に引かれ処刑が行なわれた。
郡上藩主、郡上藩役人に対する判決
郡上藩主の金森頼錦は、郡上藩の年貢徴収法改正について、幕府役人である美濃郡代の青木次郎九郎や幕府要人の介入を求めたことが筋違いであると厳しく断罪された。また気良村甚助の違法な処刑、更には石徹白騒動の処理の不手際について厳しく指摘され、改易、盛岡藩永預けを言い渡された。ここに金森家は大名家としては断絶した。判決言い渡し後、即日金森頼錦は盛岡藩に身柄を引き取られ、まず盛岡藩の江戸藩邸に用意された囲いの間に収容された。宝暦9年(1759年)1月には幕府の許可を受けた上で盛岡に移送され、宝暦13年(1763年)の死去まで盛岡で監禁生活を送ることになる。
一方、郡上藩役人に対する判決では、石徹白騒動の責任も問われた家老の渡辺外記、粥川仁兵衛が遠島とされたが、その他の郡上藩役人への判決は比較的軽いものであり、これは二名の郡上藩役人に死罪が言い渡された石徹白騒動の判決とは対照的であった。郡上一揆に関する郡上藩役人の罪状は、美濃郡代の青木次郎九郎や幕府要人に対して郡上藩年貢徴収法改正への介入を依頼したこと、検見取の導入が強引であったこと、そして気良村甚助の違法な処刑に関与したことなどが挙げられている。
郡上一揆関連の郡上藩役人の処分が石徹白騒動の処分よりも軽かったのは、郡上藩全体を巻き込み、歩岐島騒動のような大規模な騒動を起こすなど、力で対抗してくる農民たちを相手とした郡上一揆に対し、野心家の神主、石徹白豊前と郡上藩役人の癒着が事件をこじらせることになった石徹白騒動の方が、郡上藩役人の責任追及がやりやすかったためであると考えられる。
江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門
郡上一揆の裁判が進む中、老中を筆頭とする幕府高官が処罰を受けるのを見た江戸町民は事件に関する関心を高めた。事件は「金森騒動」と言われるようになり、失脚した幕府高官や金森家を痛烈にあてこすった川柳、狂歌などが数多く作られた。
また講釈師馬場文耕は幕府評定所で進められていた裁判の情報を入手し、金森家による郡上藩の乱脈極まる支配の様子や、金森家と幕府高官との癒着についての情報を集め、講談としてまとめた。馬場は講談を執筆するに当たり郡上一揆関係者の農民からも取材したと考えられている。
馬場文耕はもともと主に明君徳川吉宗を顕彰する講談を発表してきた講談師であり、鋭い社会批判や政治批判を題材としていたわけではない。しかし宝暦8年(1758年)頃から社会や政治批判を明確にした講談を行うようになっていた。そのような中で馬場は江戸で話題となった金森騒動を題材とした講談を執筆し、発表した。この当時、百姓一揆を題材とした講談や本がしばしば発表されていた。内容的には太平記などの軍記物語からの引用、比喩を基本として、例えば高師直をモデルとした悪役(悪代官など)を、楠木正成をモデルとした正義の味方が懲らしめるという内容であり、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといった筋書きであった。
馬場文耕は宝暦8年9月10日(1758年10月11日)から「武徳太平記、珍説もりの雫」と題した、評定所での郡上藩関連の吟味についての講談を行った。宝暦8年9月16日(1758年10月17日)、200名あまりの聴衆で超満員の中、講談を終えた馬場は南町奉行所の同心に捕縛された。馬場は吟味中も政治批判の手を緩めることは無く、評定所での金森家関連の裁判について幕府批判を続けた。幕閣中枢にまで処分が及ぶことになった郡上一揆の裁判を主題とした講談は幕府支配の綻びを指摘する行為と取られ、馬場文耕の講談は弾圧の対象となったが、罪状としては遠島相当であった。しかし取調べ中も政治批判を続けたことが問題視され、宝暦8年12月29日(1759年1月27日)、馬場文耕は市中引き回しの上打首、獄門とされた。また講釈会場の家主など関係者も軽追放、所払いなどの判決を受けた。
もともと市井で徳川吉宗の善政を題材としてきた講談師馬場文耕が、幕閣中枢まで処罰が及んだ郡上一揆の裁判を題材とした講談を発表し、逮捕されて取調べ中も幕府政治批判を繰り返し獄門に処せられた事実は、当時しばしば発表されていた一揆を題材とした講談や本における、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといったストーリーでは括りきれないものを示している。これは郡上一揆が発生した宝暦期、これまでの秩序の綻びが見え始め、政治秩序の行き詰まりが明らかとなってきたことの現れと評価できる。 
一揆後の郡上
一揆勢のうち獄門の判決を受けたのは切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の4名であったが、うち切立村喜四郎は牢死して遺体は取り捨て処分を受けていたため、実際に処刑され獄門となったのは前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の3名であった。判決直後に処刑された3名の首は首桶に入れられて郡上へと運ばれ、宝暦9年1月18日(1759年2月15日)から宝暦9年1月20日(1759年2月17日)にかけ、穀見刑場で獄門にされた。獄門の開始時には3名の親族を呼び出し獄門に処することを申し渡したところ、親族からは「空しく牢死した者の多い中、裁判の結果を聞いた後に処刑された上に、首をここまで持ってきていただいて獄門にされるのは、一揆勢の中でもこの上もない幸せ者であり、本懐を遂げたことを本当に嬉しく思います」。との大胆不敵な声が上がり、役人たちから追い立てられたとの逸話も残っている。
獄門、死罪や追放を言い渡された農民の土地や家屋は競売にかけられることになり、美濃本田代官川崎平右衛門が欠所検使役を命じられ、宝暦9年2月28日(1759年3月26日)までに19名の土地が競売された。その際、競売には同じ村の者でしかも立者の参加しか認められず、他村の者、寝者は競売から排除された。この温情ある計らいに獄門、死罪や追放を言い渡された農民の家族や村人たちは大層喜んだ。土地の競売に続いて家屋の競売も進められたが、やはり他村の者、寝者は競売から排除された。
一揆勢の帳元クラスの幹部の中で、大間見村田代三郎左衛門は用心深く行動したこともあって評定所御詮議懸りによる取調べから逃れることができた。大間見村田代三郎左衛門は判決を見届けた後、帳元クラスの中で田代三郎左衛門以外では最も軽い追放刑を言い渡された剣村庄右衛門とともに関寄合所へ向かい、両者で一揆勢の資金についての最終精算を行った。
宝暦8年12月26日(1759年1月24日)、芝の金森屋敷は大混乱の中で午前10時頃までに引き払われ、藩別邸など江戸にあった他の郡上藩関連の施設とともに同日中に召し上げられた。大晦日の宝暦8年12月30日(1759年1月28日)には、藩主世子であった金森頼元が渋谷の祥雲寺に江戸詰めの家臣を集め、一同に離散を言い渡し、藩士は散り散りとなった。また宝暦8年12月26日(1759年1月24日)には江戸から郡上へ飛脚が送られ、大晦日の宝暦8年12月30日(1759年1月28日)夜、郡上に到着した。年も押し詰まった大晦日の夜にお家断絶を知らされた金森藩士は大騒ぎとなった。宝暦9年1月5日(1759年2月2日)には側用人の三浦連が江戸からやって来た。三浦は藩士全員を集めてこれまでの経緯を説明した上で、金森頼元の命としていたずらに動揺しないよう、そして金森家の所有する家宝などを全て売却し、売却益を藩士などに分配するよう指示した。
改易された金森頼錦の後釜として、宝暦8年12月27日(1759年1月25日)、幕府より丹後国宮津藩の青山幸道が新たな郡上藩主として転封を命じられた。青山氏が郡上に入るまでの間、近江国信楽代官の多羅尾四郎左衛門が郡上を一時支配することになり、宝暦9年2月7日(1759年3月5日)、多羅尾四郎左衛門一行は郡上に到着した。多羅尾四郎左衛門の郡上到着後、郡上八幡城引き渡しの準備が急ピッチで進められた。宝暦9年(1759年)2月、幕府からは引き渡しを受けるための人員が派遣され、宝暦9年3月1日(1759年3月29日)には幕府からの使いが郡上に到着し、主に郡上領内の治安に関する高札を立て、更に旧金森家家臣を集め、今後30日以内に立ち退きを行うよう命じ、もし事情により30日間に立ち退くのが困難な場合には借宅証文を渡すと伝えた。
郡上八幡城の接収と青山氏入部までの在番は、岩村藩藩主松平乗薀が命じられた。宝暦9年3月1日(1759年3月29日)には岩村藩の先遣隊が郡上に到着し始め、城受け取りの準備を開始した。松平乗薀は宝暦9年3月12日(1759年4月9日)郡上に到着した。翌宝暦9年3月13日(1759年4月10日)午前6時頃、松平乗薀は多羅尾四郎左衛門らとともに郡上八幡城に入城し、城引き渡しを受けた。旧金森家家臣らは泣く泣く城を後にし、離散していった。
金森家改易の結果、数百人の郡上藩士が浪人となった。彼らは金森浪人と呼ばれ、一部は金森家の後に郡上藩にやって来た青山家に仕えることが出来たが、郡上で町人となった者も多く、そして数多くの金森浪人が郡上を離れ他国へと流れていった。
宝暦9年(1759年)4月には青山氏の先遣隊が郡上に入った。5月末から6月にかけて青山家家臣が続々と郡上に到着し、宝暦9年6月17日(1759年7月11日)、城の引き渡しが行われた。郡上に入った青山氏に対して、幕府は切添田畑についての調査を行うよう命じた。これは郡上一揆の判決で、農民が一揆を起こした主因が切添田畑を隠すことが目的であったと断定したことによるもので、藩は郡上郡内の各村に調査が命じられた。宝暦10年(1760年)6月の各村からの届出によれば、郡上郡内全体で333石あまり、郡上郡内全体の石高の約1.5パーセントに当たる切添田畑が明らかとなった。
また郡上一揆最大の闘争目標であった検見法についても、宝暦9年(1759年)10月には正式に採用が言い渡されている。そして農民には厳しく質素倹約を命じて年貢の確保を図った。また村々の庄屋の上に数人の大庄屋を置き、村で発生した問題はまず庄屋が解決を図り、それでも解決が困難な場合には大庄屋が、更に解決困難な問題は藩が解決に乗り出すことにするなど、農村支配体制の強化を図った。
農業生産性が高いとはいえない郡上藩では、青山氏の時代も厳しい財政難が続くことになる。しかし農民たちの願いに応じて村ごとに三ヵ年限定の定免法採用をしばしば認め、飢饉時には農民に対する支援も行った。また歴代藩主は領内を巡検して農村事情を確認するなど、厳しい財政状況に悩ませられながらも、青山氏はきめ細かい農村への配慮を欠かさなかった。青山家の農民支配は厳しい統制を行う反面、農民たちに対する配慮も見られた。
また青山氏が郡上に転封となった郡上一揆直後、領内は立者、寝者の厳しい対立や、一揆によってお家断絶となった旧金森家家臣である金森浪人の存在など様々な反目が渦巻いていた。実際、金森氏改易後、青山氏の着任までの間郡上を治めた代官の多羅尾四郎左衛門に対し、立者たちが多数を占める村で寝者が孤立して難儀しているとの訴えが多く出され、また金森浪人の指示で一揆勢の墓石を破壊した上、川に投げ捨てるといった事件も発生している。このような藩内がずたずたとなった状態を和らげ、人々の融和を図るため、郡上に転封された青山幸道が夏の盆踊りを奨励したことが、郡上おどりの起源であるとの説がある。
郡上一揆後、農民たちは一揆で犠牲となった人々の供養を行うようになった。明和元年(1764年)に七回忌が行われたのが最初の供養とされ、嘉永2年(1849年)から嘉永3年(1850年)にかけ、郡上郡内全域で百回忌が行われた。しかし江戸時代に村方三役や藩などと厳しく対立した郡上一揆の参加者を顕彰することはやはり無理であり、ようやく明治以降になって一揆の顕彰が始まるようになった。本格的な顕彰の動きは、明治44年(1911年)北濃村の三島栄太郎が「濃北宝暦義民録」を刊行し、義民顕彰碑建立の計画を立てたことに始まり、現在郡上市内各地には、「宝暦義民碑」「郡上義民碑」など、一揆に加わった農民たちを顕彰し、記憶にとどめるための記念碑が数多くある。
昭和39年(1964年)、岐阜の劇団はぐるまのこばやしひろしは戯曲「郡上の立百姓」を製作した。郡上の立百姓は昭和40年(1965年)の第二次訪中日本新劇団公演のレパートリーに採用され、主役の定次郎は滝沢修が演じ、評判となった。戯曲郡上の立百姓はその後も折に触れ公演が行われ、岐阜県の農家出身の映画監督神山征二郎は郡上の立百姓を原作とした映画、「郡上一揆」を平成12年(2000年)に完成させた。 
郡上一揆の特徴と影響
年貢徴収法改正をきっかけとして郡上一揆を起こし、藩と長期間の抗争を続けた郡上の農民たちは、藩や幕府を倒すなどといった革命を起こそうとしたわけではなく、これまでの定免法による年貢徴収法の堅持を願った、いわば現状維持を要求として掲げた闘争を戦った。郡上農民たちは「仏神三宝のお恵み」を心の支えとし、「先規の通り」を願っており、基本的には素朴な宗教心に支えられた現状維持を願う保守的な闘争であった。このような一揆勢の思想は、お上の慈悲を願う形を取りつつ、仁政を行うことを為政者に要求する一揆の基本的な闘争方針へと繋がった。
その一方で、郡上一揆は単に保守的な現状維持を目指した闘争という視点では括りきれない複雑な一面を持っている。一揆が発生した宝暦期は、商品経済の発達や幕府や諸藩による年貢増徴策が強行された影響で、豊かな農民と貧農との格差が拡大していた。郡上一揆では豪農や庄屋などという豊かな農民たちの多くが検見法を受け入れていくのに対して、貧しい農民たちの多くは定免法の現状維持を願うとともに、水呑百姓が寺社奉行の高札を引き抜いたり、評定所の吟味終盤で「公儀を恐れず」という発言が飛び出したり、更には一揆首謀者3名が獄門にされる際、親族が役人に対して不敵な発言をするなど、一揆に参加しながら硬直した社会体制に対する一種の異議申し立てを顕在化させた。これは講談師馬場文耕が幕閣中枢まで処罰が及んだ郡上一揆の裁判を題材とした講談を発表し、逮捕されて取調べ中も幕府政治批判を繰り返した結果、獄門に処せられたこととともに、これまでの社会秩序に綻びが見え出した現れと考えられる。
また郡上一揆は当初一揆に参加していた庄屋層の脱落、藩側の度重なる弾圧、そして反一揆勢である寝者との対立などを乗り越え、足かけ5年に及ぶ長期間に渡る闘争を継続した点も大きな特徴といえる。多くの困難を抱えながら闘争を継続できたのは、帳元らを中心としたしっかりとした組織固めを行って一揆勢の意思統一を図り、庄屋帰還阻止運動や歩岐島騒動など節目となる重大事には数千人の大衆動員を行い、郡上郡内各地域で分担して献金を集めて闘争資金とするといった、現代的とも言える優れた方法で闘争を進めていたことがその理由として挙げられよう。
その他郡上一揆の大きな特徴としては、藩主金森頼錦が改易された上に、老中、若年寄、大目付、勘定奉行という幕閣中枢が罷免されたという点が挙げられる。百姓一揆が原因で大名が改易された例としては、正徳2年(1712年)に安房国北条藩の屋代忠位が万石騒動によって改易された例があるが、幕閣中枢が罷免される事態を招いた例は郡上一揆以外ない。
宝暦期は幕府が大名に対する統制を強化した時代であり、金森頼錦の改易も大名統制の一環との見方もあるが、当時、これまで幕府を支えてきた石高制の矛盾が現れてきており、そのような中で幕府内では年貢増徴によって財政健全化を図ろうとする勢力と、年貢増徴策の限界を見て商業資本への間接税課税に活路を見出そうとする勢力との路線対立が表面化していた。郡上一揆の裁判の結果、年貢増徴で財政健全化を図る勢力が衰退し、商業資本との共生を通じて間接税課税を進める勢力が主導権を握るようになった。そのような中、急速に台頭してきたのが田沼意次であった。郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味に参加を命じられた田沼は、幕閣中枢が関与した難事件であった郡上一揆の吟味の経過で辣腕を見せ、田沼を信任して評定所吟味に参加させた将軍家重を始め、幕府内でその政治的、行政的能力が認められることになる。そして田沼は事件終了後も評定所への参加を継続し、幕政に直接関与するようになった。また田沼は郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味の最中である宝暦8年(1758年)9月、郡上一揆の責任を問われ失脚した西丸若年寄本多忠央の領地であった遠江相良の領地を加増され、大名に列した。将軍世子家治付の若年寄であった本多忠央は、家治が将軍になった暁には権力の座に就くことが予想されていたため、結果として本多忠央の失脚も田沼意次台頭の要因の1つとなった。歴史学者の大石学は、「田沼時代はまさに郡上の農民たちによって幕が開けられた」と評価している。 
 
加藤式部少輔明成

 

会津40万石の加藤家二代藩主であった明成の騒動には主人公が二人いる。一人は加藤式部少輔明成その人であり、もう一人は筆頭家老の堀主水という人物である。会津の加藤家は、先代の加藤嘉明が一代で築いた家である。父親とともに流浪し、博労をしていた嘉明は、長浜時代の秀吉に父とともに仕え、2百石取りとなった。このころ一緒に仕えた仲間に福島正則や加藤清正がいる。秀吉のもとで数々の合戦に出陣して功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは福島正則、加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられている。
秀吉の四国攻めの際に水軍を指揮したことから、のちには水軍の将として名を馳せる。文禄・慶長の役では脇坂安治、藤堂高虎らとともに水軍の将として出陣して、朝鮮水軍との戦いで武功を挙げた。嘉明という人は武功重視の人であった。有名な話としてこういうのがある… 慶長の役で伊予水軍を率いた藤堂高虎が閑山島沖の適水軍に奇襲をかけた。これが成功し、多数の敵兵船を獲り、敵兵の斬首数千に及んだ。これを知った嘉明はじめ脇坂安治、島津義弘、来島道之らほかの水軍も閑山島沖に集まって戦に加わり、結果大勝した。
戦いが終わって諸将が集まると皆口々に、「本日の武勲の第一は高虎殿」と称える。それを聞くと嘉明は「高虎殿は不意を襲ったに過ぎず、さしたる働きをしたとは思えぬ。遅れたりとはいえ、それがしは敵船に囲まれた中に斬り込み、敵船を捕獲した。これをもってしても武勲第一はそれがし」と言い放つ。さらに宥める高虎やほかの諸将に対し「皆の目は節穴」と暴言を吐いた。長老格の松浦鎮信がその場を治めたが、これ以来嘉明と高虎は犬猿の仲となった。このこと以ってしても嘉明が武功一辺倒であったことがわかる。
それが故か、また秀吉股肱の臣でもあってか、秀吉にも愛されて、その死の直前の慶長3年(1598年)5月には伊予松山10万石の領主となった。慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると武断派と呼ばれるグループと、吏僚派と呼ばれるグループの対立が表面化する。嘉明はもちろん武断派であった。この争いを利用して徳川家康は天下人への道の歩みを早めた。武断派の武将たちは家康に巧みに取り込まれ、慶長5年(1600年)のころには家康の子分のようになっていた。そして関ヶ原となるが、嘉明は当然東軍に与し、戦後伊予で20万石と加増された。
所領が倍増した嘉明は、新たに勝山の地を選んで築城を始める。完成後に勝山は松山と名を改められる。嘉明はこの城の築城に全精力を傾け、完成した城は20万石には過ぎた城と言われるほど、世人の関心を集め、その眺めは素晴らしいものがあった。嘉明が松山築城に心血を注いでいる間にも、世間は動いている。やがて大坂の陣となったが、冬の陣の先には江戸城留守居、夏の陣の際には出陣したものの取り立てて武功は挙げていない。大坂の陣で豊臣家は滅亡し、名実ともに徳川の世となると豊臣恩顧の大名たちの周辺は俄に騒がしくなった。
秀吉の無二の忠臣であった福島正則が真っ先に槍玉にあがり、言いがかりに近い理由で安芸国広島49万石を改易され信濃川中島4万5千石に移された。4万5千石で宗家を保ったのではなく単なる名目であり、正則が死去すると全て没収されそうになった。嘉明も既に老いの域に達していて、これらを見てため息をついたことだろう。そんな嘉明のもとに、寛永4年(1627年)会津への転封が命ぜられた。それまで会津の地を治めていた蒲生忠郷が25歳で急逝し、嗣子がなかったために断絶した。そのあとに40万石をもって嘉明が入った。
そのときのこと…
当初、将軍秀忠は会津を藤堂高虎に与えるつもりで高虎に話をすると、高虎は「老齢ゆえ、要地の会津藩主などとても勤まりません」と断った。秀忠は「それでは誰がよいと思うか」と高虎に問うと、高虎はすかさず「加藤嘉明殿を措いてほかにはございません」と答えたという。嘉明と高虎の不仲を知る秀忠はそのことを問うと、「それがし嘉明の不仲は私事であり、会津の太守のことは公事でございます。私事とは区別しなければなりません」と述べた。これを伝え聞いた嘉明は、転封の途中で高虎を訪ねて旧怨を詫び、その後は親しく交わったという。
会津での石高は40万石、伊予の倍であった。しかし、嘉明は内心この転封を喜ばなかったという。心血を注いだ松山城から離れたくはなかったとうのが理由で、それほど松山の城に愛着があったのだろう。しかし幕命を断るわけにはいかず会津に入ったが、その4年後に69歳で死んでしまった。嘉明の跡は長男の明成が継いだ。この明成という人は父に似ない凡愚の将で、民を虐げ、武備を守らず、金銀珍器を好み、諸人の肉を削りても金銀を集めることを好むという人物であった。それも唯集めるのではなく一分金を集めたから、人々は官名の式部少輔に引っ掛けて加藤一分殿と噂した。吝嗇で偏執狂的な我儘人間という人物像が浮んでくる。
この明成に対する筆頭家老が堀主水という人物。もともと多賀井主水といったが、大坂の陣の際に敵将と組み打ったまま堀に転落した。そこで屈せずに首を獲り、功を挙げたというので堀と改姓した男で、戦国時代そのままの人物であった。この手柄に感激した嘉明から采配、つまり軍事指揮権を与えられた。藩主の代理である。自他共に認める功臣であった。古い型の武将であるからプライドも高い。こんな2人が藩主と筆頭家老だったから合うはずがない。主水にすれば明成は世間知らず、苦労知らずの我儘な若僧でしかなく、明成からすれば主水は何かというと先代先代と言いつのる、時代遅れの老人で主と従の区別もつかぬ奴ということになる。
もっともこれは加藤家だけでなく、他家でもあったことではあるが、加藤家の場合はお互いが極端であり我慢が効かずに騒動になった。きっかけは主水の家来が喧嘩をして朋輩を傷つけたことであった。明成が裁くことになり、主水の家来に理があったのだが、明成は意地悪をして主水の家来に非ありとした。怒った主水は明成の前に出て文句を言ったあげく「先君には似もやらぬ殿」と言い捨てた。明成も「主を誹謗する不埒な奴輩」とやり返し、家老を罷免して采配を取り上げた。黙って引き下がる主水ではなく、もはやこれまでと会津城下を立退く決心をした。
主水は一族郎党3百人を引き連れて、白昼堂々城下を立退き、途中の中野村というところで手切れのしるしとして若松城に一斉射撃をし、倉橋川の橋を焼き払い、関所を押し破っての立退きというから凄まじい。これを明成の出府中にやった。すぐさま報せが江戸に飛ぶ。聞いた明成は激怒した。当然である。たとえ明成が悪くてもかりにも主君である。立退くのであれば、言い捨てでも一言あってしかるべきなのに、徒党を組んで城に発砲し橋を焼くというのは言語道断な行為だ。明成はすぐさま帰国し主水を追った。主水もすぐに捕まるようなヘマはしない。鎌倉に入ると妻子を東慶寺に預ける。縁切り寺として有名な東慶寺は女人保護を看板にした格の高い寺で、大名といえどもうかつに手出しできない。
そして主水自身は高野山に入った。さらに寺格の高いところだ。明成は口惜しかったが、まさか高野山に兵を向けるわけにはいかない。そこで幕府に「所領40万石を返上してでも高野山中の探索をお許し願いたい」と申し入れた。明成の性格がよく現れた言い振りである。他はどうなっても、どうしても主水の首が欲しいのだ。この訴えを聞いた幕府の方でも放ってはおけない。このまま主水が逃げ徳ということになれば、秩序が保てない。幕府が高野山に圧力をかけたとする説と、明成のあまりのしつこさに迷惑がかかると判断した主水が自ら山を降りたという説があるが、とにかく主水は高野山を出た。
そして破れかぶれになったのかも知れないが、江戸に出て大目付井上筑後守政重に明成の悪行を訴える挙に出た。この訴状は7ヶ条とも21ヶ条とも言われるが、その中で明成はかつて豊臣秀頼に内通し、今でも徳川家に逆心を抱くという条が問題になった。明成にも出府が命ぜられ審理の結果、主水の訴えはまったくのデタラメであり、不忠の臣として主水は明成に引き渡された。明成の全面勝訴である。主水が会津を立退いてから2年後のことである。
明成は狂喜した。2年間その首欲しさに追ったのである。明成は主水とその弟2人を縄目のまま輿に乗せて前後に揺り動かして眠らせないという拷問にかけた。眼をつむれば顔面をつつき激しくゆするのである。「うつつ責め」という最も苦しい拷問であり、さすがの主水もヘトヘトになって音を上げたが謝罪の言葉だけは口にしない。結局寛永18年(1641年)3月25日、主水は首を斬られ、弟2人は切腹となった。ここまでで終わっていれば何とかなったかも知れないが、明成は主水だけでは飽き足らず、鎌倉東慶寺に兵を向け主水の妻子らを捕らえ処刑してしまう。もちろん無許可であった。
幕府公認の聖域に兵を入れたこの暴挙に、幕府は明成の処分を決めた。寛永20年(1643年)4月明成は、「病のため大藩を維持するに堪えず。封土を返納仕りたい」と前代未聞の申し出をした。凡そ大名にとって最大の願いは、領地を子々孫々まで伝え残すことである。にもかかわらずそれを返し、代地も求めないというのである。常識では考えられず、いかに明成が世間知らずであろうと自らの意思だけで言い出すことではない。幕府に言わされたのである。
明成の正室は三代将軍家光の弟保科正之の娘であり、このあたりを通じて「取り潰される前に謹慎でもして、後はお上の慈悲にすがるがよい」とでも幕府の内意を伝えられ、意地になった明成が、やけくそになって領地返納を申し出たというのが、当たらずといえどものところだと言われている。さすがに幕府も気がとがめてか「男子があれば申し出よ。家名立つように取り計らう」と言ってきたが、家を継ぐ男子などいないと、ここでも意地を張って突っぱねる。実際は妾腹ではあるが、孫三郎という男子がいた。幕府はこの孫三郎を召し出して、石見国吉永で1万石を与え家名を伝えさせた。孫三郎はのちに明友を名乗る。明成は剃髪して休意号し、晩年は吉永に下って、明友のもとで暮らした。加藤家に代わって会津に入ったのは岳父の保科正之であり、加藤家はのちに1万石を加増の上、近江水口に移り幕末まで続く。 
   
加藤明成
江戸時代前期の大名。陸奥国会津藩の第2代藩主。水口藩加藤家2代。
天正20年(1592年)、加藤嘉明の長男として生まれる。寛永8年(1631年)の父の死後、家督と会津藩40万石の所領を相続した。慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築く。
堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された。その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し、万治4年(1661年)1月21日に死去した。享年70。
長男(庶子)の明友は、はじめ家臣に養われていたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継いだ。天和2年(1682年)には近江国水口藩2万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続した。 
会津騒動
陸奥会津藩において、藩主・加藤明成の時代に起こった江戸時代前期のお家騒動である。
加藤明成
寛永4年(1627年)、伊予松山藩主・加藤嘉明は20万石から40万石に加増された上で会津藩主として移封された。そして寛永8年(1631年)9月に死去する。
嘉明の死後、家督は長男の明成が継いだが、明成は古今武家盛衰記において「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」、また飯田忠彦の『大日本野史』によれば「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」と伝えられる。
堀主水との対立
堀主水は嘉明時代の功臣で、本姓は「多賀井」であるが、大坂の役では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったということから「堀」と名乗ることを嘉明に許されていた。 先代からの実績もあり、戦国時代の気骨があった堀は明成の素行に対して何度も諫言したが、堀と明成は次第に不仲になっていく。 そんなとき、堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こる。一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として蟄居を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現れ、再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は怒り家老職を罷免する。
堀主水の出奔
寛永16年(1639年)4月16日、堀は実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と若松城から立ち去った。しかもこのとき、若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている。 堀は鎌倉に立ち寄ったあと高野山に逃れた。高野山は堀主水を匿いきれず、主水は紀州藩を頼るが、明成は紀州藩にも引き渡しを要求する。堀主水は紀州にも居られなくなり、江戸へ出て幕府へ「おのれつみなきよしを申す」が、 家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけたことは「家臣の礼を失ひ国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」と明成に引き渡され、明成によって弟二人と共に処刑された。
所領返上
寛永20年(1643年)4月、明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出た。5月、幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮して、明成に1万石を新たに与えて家名再興を許した。しかし明成が応じなかったため、幕府は明成の子・明友に石見吉永藩1万石を新たに与えて家名を再興させた。 『徳川実紀』が伝えるのは以上のような経緯である。ただし『徳川実紀』巻53、寛永20年5月2日条は改易の事実を記したあとで「世に伝うる処は」と経緯を記し、そこに堀主水の一件があるので、この経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではなく、同時代の確実な史料はない。 明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送り、万治4年(1661年)1月に死去した。 
天秀尼
(慶長14年-正保2年 1609-1645) 江戸時代前期の人物。豊臣秀頼の娘で、千姫の養女。鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持。
出生から出家まで
母の名も、出家前の俗名も不明である。 記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には無い。同時代の日記『駿府記』に大坂落城の7日後の元和元年(1615年)5月12日条に「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」とあるのが初出である。
なお、『台徳院殿御実紀』巻37、元和元年5月12日条には「これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを」とあるが、『台徳院殿御実紀』は19世紀前半に編纂されたものであり、同時代の史料には見られない。また、『台徳院殿御実紀』は「京極若狭守忠高は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず」と八歳と記しているが、同時代史料では、『駿府記』のほか大坂落城の10日後の細川忠興書状などでも七つとなっており、慶長14年(1609年)の生まれと見られる。
同母か異母かは不明ながら、天秀尼の年子の兄・国松は直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが『駿府記』『台徳院殿御実紀』にある。
しかし天秀尼の方は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命された。『台徳院殿御実紀』前述の5月12日条には「北方(千姫)養ひ給いしなり」と、大坂城内に居た頃から千姫の養女であったとも読める記述があるが、東慶寺の由緒書には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」と記されている。「大坂陣山口休庵咄」などにも、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、淀君の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあるため、天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り、落城後に千姫の養女となったと見られる。
東慶寺入山と出家
同時代史料としては、元和2年(1616年)10月18日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と書いている。
出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼(けいざんに)の弟子となる。時に八歳」とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の元和2年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天秀法泰。
東慶寺は北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝えるが、南北朝時代以前での確実な証拠は鎌倉時代末期、四世の果庵了道尼の時である。
東慶寺の過去帳には、南北朝時代に後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、寺記等ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺」なりとある。
ただし東慶寺の過去帳、および由緒書は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない。同寺は永正12年(1515年)に火災があり、本尊の墨書銘にかろじて本尊のみ避難できたとあるので、それ以前の古文書はその際に焼失したと思われる。
「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状である。
室町時代には鎌倉尼五山第二位とされた。代々関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持となっている。後北条氏のころ廃寺となった鎌倉尼五山第一位大平寺最後の住持・青岳尼は瓊山尼の叔母。その当時の東慶寺住持・旭山尼も叔母にあたる。尼寺でこの格式ということから天秀尼の入寺する先として東慶寺が選ばれたとされる。また瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘正清院に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」とする。
東慶寺は鎌倉時代には北条氏、室町時代には関東公方、戦国時代には後北条氏の庇護を受け、天正19年(1591年)の豊臣秀吉による二階堂、十二所等の寄進時点で合計112貫380文に達し、これを石高に換算すると450石となる。
徳川家康は関東移封時後に「先例により」との朱印状を下し、前述の史料は江戸時代を通じてほぼ維持されている。この寺領は、徳川家康の側室で水戸徳川家の祖となった徳川頼房の養母・英勝院が開基となり、代々水戸徳川家の姫を住持とした鎌倉扇ガ谷の尼寺英勝寺とほぼ同じ石高であり、鶴岡八幡宮、円覚寺に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺より遙かに多い。
参禅
天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていただろうが、塔銘によれば円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとある。古帆周信は中国臨済宗楊岐派の幻住中峰禅師に始まる幻住派である。
また沢庵宗彭に参禅しようとしていたことが、沢庵の書状により明らかになっている。書状であるので8月29日と日付はあるが、年は書かれていない。沢庵は寛永16年(1639年)より江戸に戻り、徳川家光によって創建された萬松山東海寺の住持となっている。東慶寺の住職だった井上禅定は、天秀尼が参禅していた古帆周信が寛永18年(1642年)2月1日に示寂しているので、沢庵に参禅しようとしたのはそのあとではないかとする。
権現様御声懸かりの縁切寺法
東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と群馬(旧上野国新田郷)の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある。
満で云えば6 - 7歳の子供と家康のやりとりが本当にあったのかは確認出来ないが、江戸時代を通じて寺社奉行に提出する寺例書や訴訟文書ではこの「権現様御声懸かり」の経緯を述べて寺法擁護の最大の武器としたこと、実際に東慶寺の寺法に幕府の後ろ盾があったことは確かである。縁切寺法と一般にはいわれるが夫婦の離婚にだけ関わるものではなく、中世以来のアジールの性格を持つ。
会津四十万石改易事件
天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に会津騒動とも云われる加藤明成の改易事件がある。事件の記述は『大猷院殿御実紀』巻53、寛永20年(1643年)5月2日条にあるが、『大猷院殿御実紀』には改易の事実を記したあとで、「世に伝うる処は」と経緯を記している。従ってその経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではない。また、その「世に伝うる処」の内容は作者不明の『古今武家盛衰記』の記述に酷似している。しかしながらその両方ともに東慶寺も天秀尼も出てこない。
天秀尼と事件の関係を記した史料は正徳6年(1716年)に刊行された『武将感状記』という逸話集と、文化5年(1808年)に水戸の史館で編纂された『松岡東慶寺考』である。『武将感状記』巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうある。
「その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣わしぬ。・・・鎌倉に逃れたる主水が妻子を、明成人を遣わして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫って領地会津四十余万石差上げ、衣食の料一万石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる。」
「天樹院殿」(千姫)が出てくるので「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判る。もうひとつの「松岡東慶寺考」は
「住持大いに怒り古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不尽の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ」
とあり、「頼朝より以来」は「古来」に修正されているが、それ以外は上記『武将感状記』下線部分とまったく同じである。『武将感状記』は「成田治左衛門亡妻と契る事」などと『雨月物語』まがいの話まで載せている逸話集であり、そのまま事実とみなす訳にはいかないが、当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは解る。掘主水の妻は確かに東慶寺の天秀尼に命を助けられていたことが近年判明した。その妻の墓が会津にあり、かつその妻が事件後に身を寄せていた実家の古文書の跋文に経緯が書かれていた。
「(天秀尼は掘主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰え宝光院観誉樹林尼と法名を給わり、命を与え給ふ事強く頻なり。されば明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給わりたるより… 」
つまり明成が折れて、掘主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと。それも「明成殿」から「給わりたる」と。つまり掘主水妻の身柄は明成の元にあったということになる。これが事実とすれば『武将感状記』に記された結末は短絡しすぎで不正確であり、「事の勢解くべからざるに至る」ではなく「解けた」ことになる。両方をつなげて整合性を取るなら、会津藩の武士が東慶寺から主水の妻達を寺側の制止を振り切って強引に連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて以下跋文の通りとなる。両方とも後世の文書であるので正確性には欠けるが、いずれにせよ掘主水の妻は東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えて、その助命を実現したことだけは判る。
天秀尼の死去
天秀尼は霊牌により正保2年(1645年)2月7日 、会津加藤家改易の2年後に37歳で死去したことが判る。その十三回忌に、千姫は東慶寺に香典を送っている。天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。
この墓は「天秀和尚御局」と刻銘があるので天秀尼の世話をしていた人。世話と云っても、墓は格式のある宝篋印塔で、「御局」とあり、戒名が「院」ではなく「院殿」であることから、ただの付き人ではなく相当に身分の高い人、かつ尼ではない一般在家の女性であることは確かである。東慶寺の住職・井上正道は前述の他に
・東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた天秀尼にとっての功労者。
・常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物。
・天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか
と推測している。ただし「寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている」という。
歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である。
豊臣家との関係を示す物
元和元年5月12日に捕えられた秀頼息女が東慶寺に入寺したと記されている『台徳院殿御実紀』は19世紀前半の編纂であり、同時代の日記である『駿府記』その他にはない。
漆器・蒔絵の世界では高台寺蒔絵に次いで東慶寺伝来蒔絵が有名であるが、その中に豊臣桐の紋・五七の桐の描かれた漆器も残されている。ただ、桐紋は江戸時代の『寛政重修諸家譜』では473家が使用しているほど一般的な家紋であり、これは天秀尼のものかもしれないが、そうだとは断定できない。
しかし東慶寺には 寛永19年(1642年)に父・秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために天秀和尚が鋳造したとの銘文のある雲版が残されており、鎌倉市文化財に指定されている。
また、過去帳には、元和元年(1615年)5月23日に満世院殿雲山智清大童子とある。この日は豊臣秀頼の子・国松が京都六条河原で処刑された日である。
もうひとつの豊臣家との関係を示す物は、同時に千姫との関係を示す物でもある。
千姫との関係を示す物
東慶寺に伝える棟板に以下の墨書銘がある。
「(表面・右) 大旦那征夷大将軍太政大臣従一位源朝臣秀忠公御息女天寿院御建立焉
(表面・左) 維持 寛永十一年十月吉日 住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚 弟子右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女法泰蔵主御寄進
(裏面) 当大樹乳母春日局御執持焉 」
表面・右の「天寿院」は千姫の生前の号、没後は「天樹院」と同じ読みでも字を変えている。表面・左の「法清和尚」は東慶寺十九世・瓊山法清尼、「秀頼公息女法泰」が天秀法泰尼である。裏面の「大樹」は将軍のことを指し、「当大樹」とは当時の将軍・徳川家光のことである。その「乳母(めのと)」春日局は、この頃大奥の公務を取り仕切っていた。
東慶寺の寺例書には「駿河大納言様の御殿御寄付…客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有」とある。「駿河大納言」とは家光や千姫と同様に淀殿の妹・崇源院を母にもつ徳川忠長であり、寛永10年(1633年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進されたのはその翌年の寛永11年(1634年)である。このような墨書銘は古建築の屋根の改修工事のときなどに見つかる。
「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主」とあるので、当時20代なかばであった天秀尼はまだ二十世住持にはなっていなかったことになる。「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつである。
寺伝や編纂物の歴史書以外に千姫との関係を示すものに書状等が十数通あり、『鎌倉市史』編纂時の昭和29年に高柳光壽により整理解読された。その中には千姫にびわ、筍、花などを送ったことへの千姫侍女筆の礼状などもある。
 
加藤肥後守忠広

 

豊臣秀吉子飼いの勇将加藤清正が、熊本城で没したのは慶長16年(1611年)6月24日のことであった。すでに関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立し、豊臣秀頼の今後がどうなるか、というときのことで、清正は二条城での秀頼と家康との対面の場で秀頼のことを終始守護し、無事に対面を済まして帰国する船中で発病、回復することなく死去したのだった。二条城の対面の場で秀頼の姿を見た家康は、思いのほか立派に成長した秀頼に内心驚き、このままでは豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかつぎ上げることを心配したあまり、豊臣大名の筆頭格である清正を毒殺したとの説もあるほど、家康にとってタイミングのよすぎることであった。一方清正にしてみれば、数年後の豊臣家の滅亡を見ることなく没したことは、ある意味で幸せなことだったかもしれない。
清正が秀吉一辺倒であり豊臣恩顧の人物であったことは間違いないことであるが、だからといって情勢を考えれば再び豊臣の天下を実現しようとまでは思っていなかったろう。一大名としてどこかで存続できればいいと考えていたのかもしれない。もし、大坂の陣のとき清正が生存していたとしても秀頼に味方して戦ったとは考えられないし、清正というのはそれほど無分別な男とも思えない。だが清正が秀吉のもとに奉公してから肥後熊本54万石の太守になったのは、秀吉のひきが大きく与ったことも、また事実であった。地盤も何もない人間が一代での出世である。清正一代記は自身の槍一筋と秀吉の贔屓で成り立っている。
そんな清正だから家中の仕置もワンマンであった。加藤家では家老を置かず、清正一人が判断して政治をしていたという。戦場では勇将であった清正だが、民政でもまた名君であったらしい。とくに築城や土木の才に恵まれ、治水工事などでは実績を挙げて領民からしたわれたという。清正が生きてるうちは、それでよかったのだが、死んでしまうとそうはいかなくなった。清正の跡を継いだのは二男の虎藤。清正没後に元服して将軍秀忠の一字を賜り、忠広と名乗る。ときに10歳とも16歳ともいう。勇将にして名君加藤清正が一代で築き上げた54万石を得、2年後に将軍の養女となった蒲生秀行の女を正室に迎え、将軍家の縁戚となる。
ところがこの忠広というのが苦労知らずの凡庸を絵に描いたような二代目であったことが、加藤家の運命を分けた。凡庸なうえに幼い忠広でが大国の統治は難しいし、先に書いたように清正は独裁体制を布き家老職を設けていなかった。したがって幕府は藩政に介入して家老職を置くこととした。加藤与左衛門、加藤右馬充、加藤美作、並河金右衛門、下川又左衛門の5人で、藤堂高虎が監察役となった。さらに慶長18年(1613年)には、高虎に替えて幕臣の阿部正之、朝比奈正重が監察役として熊本に送り込まれた。加藤家は間接的に幕府の支配下に置かれることとなったのである。というのは、いよいよ大坂の豊臣家との間が風雲急を告げつつあったからで、ここで豊臣恩顧の加藤家に下手な動きをされてはたまらない。翌慶長19年の大坂冬の陣、このとき忠広は大坂に向かったが、途中で講和が成立して帰国している。つまり何もしなかったのであり、これは幕府の望むところでもあったろう。意図的に出兵を遅らせたのかもしれない。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣では島津在国中は守りを固めよ、との命を受け在国した。つまりあてにはされていなかった、というより出陣する必要なしとされたのだ。大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると当面の憂いがなくなり、翌元和2年に家康が死去すると幕府は豊臣恩顧の大名に何の遠慮もいらなくなった。幕府は豊臣氏が大坂にあることを前提にして諸大名の配置や政策を考えていたのだが、幕府の都合だけで大名政策を実行すればよくなった。それは豊臣恩顧の大名だけでなく、譜代大名や徳川一門にも及んだ。家康没後に越後高田の家門松平忠輝(家康六男)や安芸広島の福島正則が改易されたのは、まさに政策の一環であった。
秀忠政権にとって忠輝や正則は憂いでしかなく、ささいな落度、それもなければ冤罪を着せてでも改易して憂いを絶ち、同時に将軍家の権威を高める必要があったのだ。この重大なときに加藤家では家老達が対立して派閥を競い、権力闘争を始めた。家老達は錚々たるメンバーで、苦労知らずの忠広に抑えられるわけもない。出羽山形の最上家が改易されたのも、幼君を補佐すべき重臣達の権力闘争が原因であったが、加藤家もまったく同じ道をたどり始めた。最上家の場合は大身の重臣達が知行地を持ち、治外法権的な政治を行うという中世的な統治体制を布き、近世大名に脱皮できなかったのであるが、加藤家の場合は戦国時代の気風をそのまま受け継ぎ、家老職の役割をはき違えたことが、改易の原因となったように思う。
とにかくも派閥争いは激しさを増し、その一方は加藤美作を筆頭に、その子息の丹後、中川周防、玉目丹波、和田備中ら。他の一派は加藤右馬充を頭に下川又左衛門、並河志摩、加藤平左衛門、下津棒庵、庄林隼人、森本儀大夫などであった。対立が激化する中、元和4年(1618年)右馬充派の木造左京とその子の内記が脱藩した。その原因は忠広が大名の織田信良の招待を受けたときのことにある。当時は、このような時は料理や給仕は招かれた側がするのが風習であった。暗殺や毒殺の用心のためである。もちろん信良もそのつもりでいたが、忠広はそのような配慮は無用のことと挨拶した。ところが信良の方も引かなかったので、忠広は小姓2人だけを連れて行くことにした。
このことを伝え聞いた木造内記は左京と相談して、当日織田家の勝手方に詰めた。もともと木造父子は信良の親戚であり、よかれと思ってやったことだし、家老の加藤丹後の許可も得ていた。当日、忠広は勝手方に詰めている木造父子を見て不快に感じ、帰邸後に2人を呼び叱責した。信良に対して嘘を言ったことになるからである。叱られた2人は丹後の許可も得ていると答えたが、忠広に問われた丹後は「許した覚えはない」と逃げた。これが左京と内記の脱藩の原因で、左京の義父の下津棒庵も家を立退いた。いくら戦国の気風がまだ残っている時代といっても実にくだらない。こんな藩主や重臣に政治をやられてはたまらない。しかもこれに留まらずに棒庵は、加藤家の政治の乱れや家老職の私曲を幕府に訴え出たのだ。
幕府の方でもおそらく加藤家の政治の乱れを掴んでいたのだろうが、向こうから訴えが出たのだから内心喜んだだろう。加藤家もまた幕府にとっては憂いの家であったのだ。幕府では関係者を呼び出して、秀忠が親裁することとなった。この席で両派の頭目である右馬充、美作とも一歩も譲らずに相手方の私曲専横を主張したが、つに右馬充の口から聞き捨てならない発言が飛び出した。美作と丹後の父子は大坂冬の陣の際に、先に海運のためと称して建造した大船2艘をもって、大坂方に兵糧と援軍を送ろうとしたというのだ。しかも美作父子は忠広出陣の際に国元で豊臣方に拠って挙兵を企てたともいうのだ。これが事実かどうかはともかく、この発言で美作父子は言葉も無く狼狽し、秀忠は気分を害して席を立ったという。美作派の敗北であった。
美作父子はじめ中川周防ら33名が流罪となり、大坂方に内通したとされる横江清四郎、橋本掃部介、同作太夫は斬罪となった。忠広は若年の故をもって、また将軍家の姻戚でもあったために許され、今後は右馬充らが国政を輔導すべしとされた。宿敵美作一派が排除されたことで、熊本藩政は右馬充一派に牛耳られた。元和8年(1622年)幕府は加藤家の領内にあった八代城を出雲松江に移すことにし、加藤家にその作業を命じた。この移転費用で加藤家の財政は急激に悪化し、これに対処するために寛永元年(1624年)領内総検地を行い、その結果として苛酷な年貢を領民に課した。このとき総検地で打出されたのは96万石であったという。54万石の石高に対してである。新田開発などにより若干の増加を見るのは当然としても、96万石というのはベラボウに過ぎる。
このことは領民の反感をよび、周辺諸大名もその実態を批判して、幕府の知るところとなった。もちろんこうなることは幕府の筋書き通りといってもいい。八代城移転も加藤家の財政悪化を目論んで命じたことだったし、目的はいかに加藤家をもっともらしく取り潰すかにあったのだから、領内のゴタゴタは幕府の歓迎するところであった。やがて秀忠が隠居し、家光が三代将軍となった。家光は生まれながらの将軍と公言したというが、それはまた家康や秀忠のように戦場疾駆や幕府創設の苦労がないということである。それがために権威を確立し、絶対君主としての地位の裏付けとする必要があった。してがって絶対君主確立の妨げになるものは排除しなければならなかった。それが弟の駿河大納言忠長の改易であり、加藤忠広の改易であった。
忠長は幼少時から聡明の誉れが高く、秀忠の寵愛も深かった。一時は三代将軍は忠長との噂もしきりであったが、それを家光に引き戻したのは、家光の乳母春日局と家康であった。忠長は駿府50万石に封ぜられたが不満は大きく、兄である家光を軽んじた。やがてストレスがそうさせたのか、傍若無人な振る舞いが目立つようになった。家光は秀忠生存中は我慢したが、寛永9年(1632年)秀忠が死去すると、直ちに忠長を改易した。不孝なことに忠広は、この忠長と親しかった。豊臣恩顧、重臣間の騒動、苛政、さらに忠長との親交とくれば加藤家の運命は決した。これというはっきりした理由のないまま加藤家は取り潰されてしまう。
幕府の大名に対する政策では、とくに中国、四国、九州は豊臣恩顧の大名の整理が遅れ、外様大藩がひしめいていた。そのために幕府としては隙あらば外様大名を改易して、譜代大名を配置したかった。そういう流れの中で隙だらけだった加藤家が、改易の標的になったというのが真相であり、それが家光の将軍としての権威確立に寄与することになったのだが、表向きはそんなことは言えない。それが加藤家改易の不明朗さになっている。いくつかの俗説はある。そのひとつは、寛永9年4月10日、旗本室賀源七郎の屋敷に侍がやってきて文箱を差し出したが、差出人のわからぬ文箱は受取れぬと断ると、その侍は文箱を隣家の井上新左衛門の屋敷に捨てて逃げて行った。新左衛門の家臣が文箱を見ると、将軍家に対する謀反の密書である。驚いた井上家では老中に届け出て件の侍を探索し、やがて発見捕縛した。その侍は加藤光正家臣前田五郎八と名乗った。光正とは忠広の嫡男で、当時14歳になり江戸屋敷にいた。これがもとで忠広、光正が糾弾されたという。
また「武家盛衰記」では光正の家臣に広瀬庄兵衛という愚鈍な男がいて、いつも光正のなぶりものになっていた。あるとき光正は広瀬を召し出して「このたび密かに謀反を企て、挙兵することとした。ついては汝を一方の大将とする」とからかったが、愚鈍な広瀬は疑うことを知らず震え上がって逃げ出した。光正はさらにイタズラ心を発揮して、数日後に広瀬に再び謀反の相談をする。広瀬は「我君御一人でかような大事は無理」と真剣な顔で諫止した。光正は内心大笑いしながらも真面目な顔で偽作した謀反の廻状を見せて、「各大名も連判している上、間違いのないこと」とさらに広瀬をからかった。広瀬は最早これまでと、大老土井利勝の屋敷に駆け込んで訴えたが、さすがに利勝は光正の戯れと推察した。しかし、これを改易の理由にしない手はないとして、忠広、光正を喚問したとする。
いずれにせよ幼稚な話であり本当とは思えないが、そんな話がでるほど忠広の改易の理由は不明朗なのだ。ただ忠広以上に苦労知らずの光正が、イタスラ好きだったのは本当のようだ。加藤家改易は幕府の既定方針となり、寛永9年夏に帰国中の忠広に対して21ヶ条の詰問状を渡して、速やかに出府して弁明せよとの命令が出された。その21ヶ条の内容が何であったかは不明だが、加藤家の方でも事情は把握しており、一部では命令を拒否して籠城するのが良策との意見も出たようだ。幕府でも周辺大名に動員準備を命じたという。しかし加藤右馬充は、「籠城して反逆者の汚名を残すのは末代までの恥」とし、忠広もその言を容れて出府した。
しかし幕府は忠広を品川宿で止め江戸に入るのを許さず、池上本門寺に待機させた。幕府は嫡子光正の不届き、母子を無断で国許に送ったこと、さらには平素の行跡よろしからずとして肥後一国を収公、忠広は出羽庄内酒井忠勝に預けられ1万石が宛行われ、光正は飛騨高山金森重頼に預けられた。光正はこの翌年に忠広に先立って死去したが、自害であったともいう。一方、忠広は庄内丸岡村で22年暮らして、承応2年(1653年)に57歳で死去した。丸岡村での暮らしは幽閉そのもので、幕府は悪地を選んで与えるよう酒井家に命じたという。加藤家改易の跡には豊前小倉から細川忠利が移された。細川氏も外様大名であったが幕府との関係はよく、好感をもたれていた。そして細川氏の跡の小倉には譜代大名である小笠原氏が入り、小笠原氏は九州諸大名の監察の役目も負ったという。  
   
加藤忠広
江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。
慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。
慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、江戸幕府は加藤家に対して9か条から掟書を示し、「水俣城・宇土城・矢部城の廃止」「未進の年貢の破棄」「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」「支城主の人事・重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件とした。後に一国一城制によって、鷹ノ原城・内牧城・佐敷城の廃止も命じられ、最終的には熊本城と麦島城だけの存続が許された。藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられているが、年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。また、細川忠興は周辺大名の情報収集に努めていたが、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた。
寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。
流人の生活
その後、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正応院の母)も呼び寄せて、丸岡で22年間の余生を過ごした。丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見える。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を「塵躰和歌集」に編んでいる。
徳川義宣の研究によれば、『小倉百人一首』で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、『伊勢物語』にも大きな影響を受けており、東国へ下った業平のように身をやつした己を見て感慨にむせぶ様子が窺え、同様に光源氏にもその身を投影したものか『源氏物語』からの引用も多く見られるという。尺八など楽器に親しむ歌もある。表では小姓たちに、奥では母・乳母・祖母・愛妾・侍女たちに囲まれ、歌を詠み、源氏を繙き、音曲を奏で、酒に酔っては花鳥を慈しみ風月を愛でるといった、地味でありながらも充実した生活をおくっていたことが垣間見える。
20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった。遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。
改易の理由
嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことが、改易の理由であるとされるが、他にも改易の理由には諸説ある。忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも、駿河大納言事件に連座したためとも言われている。春日局の兄・斎藤利宗は父の清正により5,000石で召し抱えられ、忠広にも仕えていたが、徳川忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。
また、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名、しかも豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたという説もある。
また、父・清正が残した課題が忠広の統治に大きな影響を与えたとする研究もある。加藤清正は新田開発や治水工事の逸話が知られている一方で、朝鮮出兵に対応するための動員体制が、その後も関ヶ原の戦い・天下普請に対応するために継続され、その結果百姓は度重なる動員や重税に悩まされて農村は荒廃した。また、支城主には大きな権限が与えられ、清正が没して幼少であった忠広が家督を継ぐと幕府が直接介入して彼らを抑制しようとしたが、その統制も困難になってきた。それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったとされる。
子孫
正室の崇法院は忠広の配流に同行しなかった。
嫡男の光広は飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年(1633年)に病死した。これには自刃説、毒殺説もある。
次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。娘の献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。
丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。子孫は5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893年 - 1989年、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去により、その本家筋は断絶した。筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は、山形県を中心に全国各地に散らばっている。
逸話
父の清正と違って暗愚だったという。ある夜、老臣の飯田直景を呼んで「わしは力を持ちたいと思う。十人力もあれば、重い鎧が2着は着れる。それならば矢や弾丸も決して通さないだろう」と述べた。飯田は「父君の清正公は薄い鎧を着て多くの合戦に出て、一度も怪我などされませんでした。それに用心しても運命次第で怪我などします。そのような力など必要ございません」と諫めた。飯田は退出後「これでは加藤家も末よ」と嘆いたという(神沢杜口の翁草)。
一方で忠広には思いやりがあったとされる。庄内に流されると、この豆は西国には産しないからと肥後時代に懇意にあった知人に贈った。この豆は西国で広まるが、忠広が農事に心がけていたことを示す逸話となっている(広瀬旭荘の九桂草堂随筆)。 
加藤忠広が改易処分に至るいきさつ
『徳川実紀』『徳川十五代史』による概略。
寛永九年四月頃、幕府小姓組の番士室賀源七郎の家に空名の書(差出人・宛名なしの書状)を持参した者があり、室賀の家僕が受取りを拒むと、その者は同書を幕府代官井上新左衛門の邸内に投げ込んで行きました。
井上がこれを開き見ると、『将軍家光の日光参廟(家康十七回忌法会のため)の虚を狙い、首謀土井大炊頭利勝以下、天下転覆の挙兵な踏み切るべきである』と言う内容が書かれていました。
幕府宿老土井利勝の名がなぜ唐突に担ぎ出されているのかと言う疑問がありますが、『細川家資料』によると、同書には、利勝の別心に気付いている家光が成敗を考えているゆえ、先手を打って行動に出るべきだーと言う意の内容が記されていたようです。
幕府は急ぎ届け出た井上、さらには当人の顔を覚えているはずの室賀の家僕に対し、書状を運んできた男の探索を命じ幾日後かに、問題の男は麹町で見つかり、捕縛されて厳しい糾問を受け、男の名は前田五郎八、肥後熊本藩主加藤忠広の嫡子光広(光正)の家士で、あるじの命により同書を持ち運んだと言い、ただちに光広への糾問が行われ、同書は彼の悪戯であり、謀叛の意思がなかったことが判明するも、幕府は笑い飛ばすほど寛大ではなく、五月下旬急遽、肥後からやって来た忠広の江戸入りを池上本門寺で足止めし、光広謹慎中の泉岡寺に移して査問が進められ、ここで父親は無関係だったことが明らかになりましたが、幕府は赦さなかった。
ただし、幕府は悪戯と言うには度の過ぎた光広の行為だけをもって改易に処したわけではなく『加藤忠広の常々身の行い正しからず、其の上、府内に生まれし妾の子を、密かに行かしめたこと、其の罪軽きに非ずとて、遂に此の罪を蒙るに至る』(徳川十五代史)と側室に江戸で生ませた子を無届けで熊本に送ったことを咎めています。
日頃の不行跡と言うのは世間を納得させるための付け足しと考えられ、主な処分理由は贋密書問題と考えられ『細川家資料』によると、家光が五月二十四日、伊達政宗・前田利常・島津家久・上杉定勝・佐竹義宣の有力五大名を江戸に呼び寄せ、問題の贋密書を見せているようです。したがって、贋密書なるものはおそらく実在したものと考えられます。
( 徳川側に立って書かれた史書なので、鵜呑みは出来ない ) 
大局がみえなかった加藤忠広
日本三名城といわれ。加藤清正の優れた土木治水の技術で、 七年をかけてつくりあげられた熊本城も平成十九年には築城四百年を迎えます。今回は、その華やかな舞台裏で、加藤清正の後をうけ藩主となった忠広が辿った悲運の歴史を紹介していただきます。
順風と翳り
慶長十六年(一六一一)三月、家康と秀頼の二条城の会見に立ち会った清正は、四月下旬、船で帰る途中倒れ、 熊本城で六月二四日、その一生を閉じた。死因は脳溢血という嗣子の虎藤はまだ十歳、加藤家は廃絶か小大名への転落かと、 藩内は激しく動揺した。
重臣たちが存続のため、必死に奔走した結果、幕府は襲封を許可し、五人を家老に任命、家老合議制による執政とした。
虎藤に翌年四月一日、五百万石の領治朱印状が与えられたが、幕府は九ヶ条の掟書をだして、藩政の組み替えを行った。 この結果、加藤右馬充が筆頭家老兼八代城代となり、筆頭であった加藤美作が並みの三千石に格下げとなった。 これがお家騒動のきっかけとなったのである。
十八年二月、虎藤は将軍秀忠から一字をもらい忠広と名乗った。翌年四月、幕府は秀忠の養女を忠広に嫁がせるなど、 忠広の前途は順調そのものであった。
しかし元和四年(一六一八)加藤右馬充派(馬方)の下津棒庵が加藤美作派(牛方)の謀反を幕府に訴えたことから、 加藤家の内紛が表面化した。一歩も譲らの両派の主張は、幕府重臣たちでは決着がつかず、 将軍の直裁を仰ぐと言う醜態をさらし、馬方の勝利となった。牛方は全員流罪、断罪となったが、 忠広が責めを免れたのは将軍養女・琴姫との婚姻が幸いしたのであろう。
修羅の道をたどった忠広
忠広の蔵入分(藩の収入)は、全領地方七三万石中、地方知行(家臣に土地で受給)を除けば、わずか二〇万石である。 当時は三つ八分であるから年貢として納入されるのは役八万石程度である。加えて元和五年の大地震で麦島城の倒壊、 松江に築城と出費は嵩む。年貢を徹底して取り立てるより他、忠広にはなす術がない。鉄砲衆を村々に派遣して、 未納年貢を脅し取り、さらに農民に必要な山野、藪、沢まで奪った。堪えかねた農民たちは、 人身売買や他領への逃散などで凌ぐほど、農民はたちまち荒廃していった。
大局がみえない忠広
将軍秀忠とお江の方は、二男竹千代(家光)より、才気も容貌も勝れている三男国松(忠長)を溺愛した。 次に将軍職を継ぐ者は?下の者はそれを悟っていた。竹千代の乳母福(春日局)には、それが癪にさわり、 ついに駿府城へ駆け込み、大御所家康に直訴した。福は美濃国稲葉城主、稲葉正成の妻であったが、夫の愛妾を手に掛け、 夫と四人の子どもを捨て家出したほど気性の激しい一面があった。
加藤忠広は三歳年下の家光より五歳下の忠長と馬が合う。忠長へのご機嫌伺いに参上するのを楽しみにしていた程の 打ち解けようであった。福の弟、斉藤俊光は五千石を拝領して清正、忠広と仕えていたが、忠広と忠長の親交が深まると、 暇を願い出て熊本から退去し、幕府へ同石高で召し抱えられている。
元和九年(一六二三)秀忠引退して大御所となり、三大将軍は家光となる。 寛永三年(一六二六)母お江の死。だが五五万石駿府藩主忠長の目にあまる振る舞いはやまない。忠広の駿府詣でも続いた。
改易
寛永九年一月、大御所秀忠死去。
同年五月忠広に「二十一ヶ条の不審の条々を申し渡す。至急出府せよ」との幕令が届いた。忠広が品川に着いたとき、 池上の本門寺で待機せよとの支持。六月一日平素の行跡正しからずの名目で五四万石没収の幕命である。
忠広は出羽庄内(山形県)に、生涯一万石の沙汰で、直ちに配所へ出発した。従ったのは母の他、家臣など七〇余名。五三歳で没。
長子・光正は飛騨高山(岐阜県)生涯百人扶持。途中で自殺説、一年後病死説などある。
幕命により、福の子稲葉正勝が熊本城受取りに来た。正勝はその功により、丹波守四万五千石から、 八万五千石小田原藩主に抜擢される。
翌寛永一〇年徳川忠長は切腹を命じられた。  
■改易まで 
ここからは清正の嫡子忠広の時代になります。しかし、配流の身となった忠広に関する史料は極めて少なく、 特に配流後の様子を直接記載したものはほとんどありません。父は、忠広に近い関係者についての古書や古文書の中にある、 忠広についての僅かな記載を集め、その中から真実と思われるものを推察していくという作業を繰り返していたようです。 それらから、忠広の半生をまとめたのが戯曲「身は明星に似て」です。劇作畑出身の父は、 戯曲という形で、改易の真相や背景、また配流地での忠広の心情などを登場人物に語らせていますが、 この「身は明星に似て」の附記の方では、父の見解を多くの資料をもとに解説しています。 この戯曲「身は明星に似て」とセミナーの教材としてまとめられた「加藤忠広と庄内」から抜粋して、 忠広の物語を紹介します。
忠広の継承
忠広は、清正の嫡男で、慶長五年の生れ(他説あり)、幼名を虎之助といいました。生母が正応院で、あま姫の実の兄です。 この虎之助は、慶長十六年、父清正の逝去により封を継ぎ、同十八年二月、従五位下肥後守、元和六年閏十二月、 従四位下侍従に任ぜられ、又秀忠の一字を貰って忠広と改名しました。
清正没後の慶長十六年八月四日に、江戸より安藤對馬守重信が、将軍秀忠の使いとして駿府の家康に赴き、 清正の子虎之助の襲封について承認を得、更に、同月二十四日、虎之助が亡父の遺領を相続したお礼に駿府に参上、 金五十枚、銀百枚を献じています。この頃の事が「駿府政事録」等にいくつか出てきますが、 家康、秀忠の忠広に対する温かい配慮がうかがえます。
忠広が若年にもかかわらず、国除になるまでの二十年間、よく父の遺業を守ったことは、 配流に関係する古文書の中にも明らかに窺い知ることが出来ます。父清正のあの幅広い遺業を、 つつがなく継承することは容易な業ではありません。勿論すぐれた家臣たちの協力があずかって大ではありますが、 忠広自身に、領民への愛情があったればこその事です。父の創業の功と配流という大事の陰に、 その業績がかすんでしまったのは遺憾なことです。忠広治下の二十年間は、 領民にとって誠に平安な幸せな日々であったからです。
忠広が配流された事について、清正・忠広両人に仕えた家臣西山宗因(江戸文学の始祖といわれ、弟子に井原西鶴などがいる)の文が残されています。
宗因の「飛鳥川」を読むと、
「飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更驚くべきにあらねども、過ぐる寛永九年九月の頃ほい、 太守思いがけぬ事にあたり給いて、遠き境に赴き給う。万の人嘆き悲しむに堪えず、おしみとどむるに力なくて、 こなたかなたより従いてゆきちりぬ。まことに犯しなき配所の悲しみにしずめるたぐひ、 もろこしの古き跡にも日の本の近きためしにも聞けど、かかるとみのことは無くやありけむ。」
つまりこんな悲惨な、こんなひどい事は今までにあっただろうかと嘆き、その後に、
「そもそもこの肥後の国を保ちはじめ給いしその年月を数ふれば、四十年余り、二代の管領にていまそかりければ、 たけき武士も、恩沢のあつきになづき、あやしの民の草葉も徳風のかうばしきになびきて、家富み、 国栄えたるたのみを失いてより、所なけに惑いあえることわりにも過ぎたり。」
清正、忠広と二代の善政で領民も仕合せに毎日を送っていたのに、何というむごいことであろうと宗因は嘆いています。
家臣の訴訟事件
牛方馬方騒動として知られています。改易の原因になったという話もあります。実際は大阪との関係や、 家臣たちの苦労など、表に出ない話がいろいろあるようです。
「身は明星に似て 附記」から抜粋
「大坂冬の役(慶長十九年)の際、忠広の重臣加藤美作、玉目丹波の一派が、大坂方に内通、ひそかに物資を供給した。 ところがこの一派に対して、同じく重臣の加藤右馬之允正方、下川元宣の一党は、これを非難し、ついには表沙汰になり、 元和四年八月には幕府に訴告するに至った。為に大阪方への内通者である美作、丹波等一派は皆斬罪又は配流に処せられた。 忠広は幼稚にして科なきを以て宥免された。これがいわゆる牛方馬方騒動と呼ばれるものだが、しかし一方、 この事件の中心は、家臣同志の権力闘争にあり、大阪方へ云々は、美作一派を葬るための一理由に過ぎないという、 大分ニュアンスの異なる記載をしている古書もある。その真相はわからぬが、ともかくこの事件が、 国除になるまでの忠広治下最大のものであったことは争えない。
さて、これが単なる家臣同志のいがみあいならば、何をか云わんやだが、大坂方への内通事件であるとすれば、 表に現れたことは甚だ納得しかねる。第一、大坂方への物資の供給などという大それた事を、 二、三人の重臣がこそこそやる筈も、又やれる筈もあるまい。かりにもしやったとしても、これを発見した他の重臣が、 非難するのは勝手だが、幕府に訴告するなどは、言語道断、正気の沙汰とは思われない。家内のあらを、しかも大変なあらだ。 表に出して何の得るところあろう。まかり間違えば、お家断絶ともなりかねない。しかし、 両派の中心人物である前記四人は、いずれも清正以来の忠臣であり、若い忠広を補佐してお家安泰に導いて来た者達である。
大坂方から物資の供給を頼まれ、協議の結果、忠広は関知しないことにして、美作父子、玉目丹波等が主となって運んだ。 ところが後年、これが幕府の耳に入り、騒ぎ出したので、加藤家全体に罪のふりかかるのを防ぐ為に、美作、 丹波等が独断でやったことにして、右馬之允等が訴え出たものと思う。或いは事露見したならば、 そうすることに最初から取決めていたのかも知れない。美作、丹波は自ら進んで訴えて貰うことを願ったであろうし、 右馬之允等は涙をおさえて、訴告したのではあるまいか。こういうことはよくある事だ。
当時は、加藤と宿命的に反発し合っていた石田三成はすでに亡く、如何に淀君派に縁遠い存在であっても、 徳川の下に潔しとしない諸侯が、全く成算のない戦に散然と出陣しているのをみれば、 殊に豊臣に恩顧を受けていた加藤家としては、物資の供給位は断り切れない立場にあったであろう。と