佐倉惣五郎

佐倉惣五郎直訴佐倉宗吾口説き宗吾霊堂義民の世界佐倉義民伝の心情的分析惣五郎の祟り宗吾の怨霊堀田騒動記東山桜荘子鎮魂の系譜怨霊伝説怨霊思想堀田氏呼び太鼓の歌・・・
穴井六郎右衛門日田義民伝百姓一揆・・・ 
戒名

雑学の世界・補考   

涼風道閑居士  
佐倉惣五郎1 (さくら そうごろう)

慶長10年(1605?)-承応2年8月3日(1653?)
いくつかの伝説をはじめ、講談や芝居で語り継がれてきた義民の代表格。当時の印旛郡佐倉藩主は堀田正信。百姓たちは重税にあえいでいた。困窮した彼らは、先祖伝来の田畑を売り払い、離散する者も出たという。租税はますます重くなり、百姓一揆を計画するまでに追い詰められた。その指導者が佐倉惣五郎である。まずは江戸屋敷に訴えたが顧みられず、次に老中に駕篭訴するも下戻しとなり、ついに将軍・家光に惣五郎が単身直訴。その願書は、堀田正信に下げ渡された。正信は減免を命じ、家臣に責任を問うたが、家臣は惣五郎一人に罪を着せ、夫婦と幼い男子四人を極刑にしたという。夫婦は我が子が殺されるのを見た後、磔刑になった。数年後、堀田氏は没落、惣五郎夫婦のタタリと言い伝えられている。
 
佐倉惣五郎2

江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾。江戸時代公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主堀田氏による苛政を藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかったことから、承応2年(1653)上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴した。その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔となる一方、男子も死罪となってしまった。その後、惣五郎は堀田氏に祟るようになり、堀田氏は改易となったという。しかし、資料では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はない。江戸時代中期以降「地蔵堂通夜物語」や「東山桜荘子」などの物語や芝居に取り上げられ、義民として知られるようになった。
東勝寺(成田市) / 惣五郎の霊を祀る堂があり、宗吾霊堂の名で知られる。
堀田正信 / 佐倉藩主在任中に惣五郎事件が起き、その後改易となったが、惣五郎の怨霊によるともされる。  
 
義民・佐倉惣五郎3

刑死承応2年(1653)
”義民”佐倉惣五郎の話は、江戸時代に講談や歌舞伎などで広く取り上げられて、世間に広まったので、ご存知の方もいるかと思われるが、一応、あらましを紹介してみよう。
佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎といって、下総国印旛郡公津村の名主である。
惣五郎が33歳の時、下総国も大飢饉に見舞われたことがあった。もちろん、佐倉領も貧窮状態に陥り、そのしわ寄せは農民に回ってきた。佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。
この状況に、惣五郎はたまりかねて他の村の名主たちとも話し合って、代官所への怠納処分の中止を願い出たが、この訴えはむなしく取り下げられ、状況は改善しなかった。
農民たちは、飢饉の苦しみと重税に対する怒りで一斉蜂起に至ろうかというところまで追い詰められていた。しかし、一斉蜂起しても、加担者全員が死罪や永牢などの重刑に処されるばかりである。そこで、惣五郎は、御法度である将軍家への直訴を決めた。惣五郎が代表となれば、代表者への処分だけのすむであろうと考えたからである。
惣五郎は、家族に害が及ばないように、妻に離縁状を渡して江戸に出向。上野東叡山入り口の三枚橋付近で将軍家綱に直訴に及んだ。
かくして佐倉領民の願いは聞き届けられ、3年間の課税免除となったというが、ご法度を犯した以上、惣五郎の処罰は免れない。惣五郎は磔刑、妻子も死罪となった(妻子は死刑にはならなかったともいう)。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津村の刑場で刑は執行された。
江戸時代には、他にも義民の話がいくつかある。各地の農民は飢饉のたびに飢えと重税に苦しみ、蜂起や嘆願を行ってきた。そして、そのたびに代表者が犠牲になったのである。
 
義民・佐倉惣五郎とその風景4

義民・佐倉惣五郎の伝説は江戸時代からいくつか語り継がれてきたが、幕末以来、歌舞伎で上演されたことによって、その名は全国に広がっていった。今年六月にも渋谷・コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」と銘打って串田和美演出、中村勘三郎主演で上演されたのは、記憶に新しいところである。
承知のように「佐倉義民傳」の要点は、一七世紀半ば、佐倉藩領内の名主木内惣五郎が、藩の悪政に苦しむ農民を救おうと将軍家綱に直訴し、その願いはかなったものの、直訴そのものの罪により家族全員が殺されたというものである。
この木内惣五郎は木内宗吾、佐倉宗吾、佐倉惣五などとも呼ばれているが、木内惣五郎が本名である。宗吾という名は、後の佐倉藩主が惣五郎の名誉回復をはかったさいの贈り名である。惣五郎の事績は「佐倉義民傳」「地蔵堂通夜物語」「堀田家騒動記」「惣五摘趣物語」などによって伝えられているが、確たる史料がほとんどない。そのため、惣五郎は架空の人物であるとか、ほかの土地で起こった百姓一揆の話と入れ替わったものだなどという説も以前はかなりあった。しかし児玉幸多の研究によって、いくつかの重要な事実が明らかになった。これについては昭和三三年発行の児玉幸多著「佐倉惣五郎」にくわしく述べられている。児玉幸多は東勝寺(宗吾霊堂)に残る過去帳や当時の文書を調査した結果、公津村台方に木内惣五郎という人物が実在し、村で一、二の田畑や屋敷を持っていたことを示す史料を発見した。さらにその史料の時代を裏付ける史料も旧佐倉藩主堀田家関係文書のなかから児玉によって発見された。このことから、惣五郎が実在したことは否定できなくなった。

現在も成田市台方に「宗吾旧宅」が残っていて、惣五郎から数えて一六代目の当主木内利左衛門氏が住んでいる。氏は語り部のように惣五郎の事績を、訪れる人たちに語り聞かせている。
氏によれば「宗吾旧宅」の建物は惣五郎の住んでいた当時のものだとのことである。土台まわりなどは古い時代の特殊な造りであったので、保存のために大修理をほどこしたが、間取りはもちろん柱や梁なども元のままだという。これが事実なら惣五郎の処刑が一六五三年であるから、この建物もそこから数えても三五七年以上前のものということになる。当主はそう説明してくれるのだが、伝説では惣五郎の住居、宅地、田畑、山林はすべて没収されたことになっている。そうだとするとこの家は少なくとも惣五郎の名誉回復がなされたあとに建てられたものと考えたほうが納得しやすい。いずれにしろこの「宗吾旧宅」の中に入ると、その広さや間取り、ことに奥座敷のたたずまいは、いかにもこのあたりの旧家の趣を残しているのが分かる。

次に述べるのは、現在一般に伝えられている義民・惣五郎伝説のあらましである。木内利左衛門氏の話も、ほぼこれに沿っていた。
当時佐倉藩の農民は、うちつづく凶作とそれに追い打ちをかける重税の取り立てに困りはてていた。裕福な商人百姓から冥加金を徴収し、凶作や基金対策を口実に年貢米を増税、そのほかさまざまなものに名目をつけて課税した。天秤税、鋤鍬税、野菜税、味噌税醤油税などまで設け、過酷な取り立てを行った。農民の中には先祖伝来の田畑山林を売り払い、あるいは他領に家財を持ち込んでその代金で年貢を上納したものもいた。一家離散、道ばたで餓死する者さえでる惨状だった。
名主たちは対策を話し合い、藩庁に交渉するが訴えはことごとく退けられてしまう。そこで名主たちはこぞって江戸まで出向き、藩主堀田家の上屋敷に嘆願書を差し出すがこれも却下されてしまった。つぎに将軍の後見職の保科正之の耳に届くよう、久世大和の守の籠先に訴える。この時は一応受け取られたものの、大名同士の礼儀から他家の内紛に関わることはできないとして、けっきょく却下されてしまう。
こうして万策つきたなか、惣五郎は責任を自分が全部背負って、単身将軍への直訴を決意する。実行したあとでは、生きて再び家族に会えないことは分かっていた。惣五郎には、その前にやっておかなければならないことが残っていた。

「佐倉義民伝」の山場の一つになっている「甚平渡し」の場面は、将軍への直訴を決意した惣五郎が、いったん密かに江戸から台方の家族のもとに戻る時の話である。家族に最後の別れを告げ、自分の死後家族に難が及ばないよう始末をしておくためであった。歌舞伎芝居ではこの場面を現在印西市に属する吉高の渡し場に設定しているが、現地の人は宗吾旧宅のある台方側の水神森の渡し場を甚平渡しといいならわし、ここに甚平の碑がたてられている。現在ここは県立公園に指定され「甚平渡し」と名付けられているから、県のお墨付きをもらったようなものだ。しかし江戸からの帰りとすればコースとして吉高から水神森に渡ったはずであり、甚平が禁を犯して渡し船の鎖を断ち切ったのは吉高でなくてはならないことになる。いずれにしても当時の沼は干拓され、現在は一本の水路をはさんだ広い田んぼになっている。そこを都心と成田空港を結ぶ京成電鉄成田スカイアクセスが走っている。
以前は手軽な日帰りバスツアーとして、成田山新勝寺、宗吾霊堂、甚平渡し(水神森)のコースがあった。現在は人々の好みや経済状況の変化で、手近な観光地はとかく軽視されるらしく、この観光コースも初詣の頃をのぞけばほとんどかえりみられなくなってしまった。しかし松の老木が多く残る甚平渡し(水神森)の景観はいまもみごとで、当時の面影をしのばせてくれる。
惣五郎を無事渡し終えた甚平は、役人の手にかかるよりはと自ら老いの身を沼に投じて果て、惣五郎と共にその名をいまに残している。甚平の命をかけた義侠心のおかげで家族と再会できた惣五郎は、家族の安全をはかろうと妻を離縁、子供たちを勘当したあと水杯を交わして別れた。その時水を汲んだという「椿井」が宗吾旧宅の庭の隅に残っているが、今はわき水が涸れて小さな池になっている。
こうして身辺整理を終えた惣五郎は、沼を迂回して江戸に戻り一六五二年暮れ一二月二〇日、上野寛永寺に参詣する将軍を、下谷広小路黒門前の三枚橋の、中の橋の下に隠れて待った。やがて午前八時将軍が中の橋にかかったとき、惣五郎は橋の下から躍り出て一間ほどの竹の先にはさんだ訴状を差し出した。
こうして四代将軍家綱への直訴は成功したが、当時の掟に従って惣五郎は捕らえられ、佐倉藩主堀田正信に引き渡される。面目を失った正信は惣五郎を磔、その子の一男三女を牢外での死罪とした。このような受難を怖れて勘当してあったのに報いられなかったばかりか、当時女子は処刑を免れるはずであったにもかかわらず、藩は姉妹の名を男の名に作り替えて打ち首にした。惣五郎の子孫を絶つためであった。処刑されたとき宗五郎は四二歳だった。妻の欽は人々の助命嘆願により連罪を免れたが、その後尼となり惣五郎父子の墓守として半生を捧げ、五四歳でこの世を去った。
現在惣五郎の墓のある鳴鐘山東勝寺(宗吾霊堂)の場所は、惣五郎が処刑された公津が原刑場跡だという。当時の東勝寺は少し離れた所にあったが、宗五郎父子が処刑されたあと、宗吾霊堂を守るためにこの地に移ってきたものだといわれている。

この事件に関わった佐倉藩主堀田正信は、松本城から移ってきた堀田正盛の嫡子である。正盛は三代将軍家光に重用されていたが、家光に殉死したため、二十歳の正信が家督を相続した。正信はほとんど江戸におり、若年のためもあって、国家老が藩政をほしいままにしていた。惣五郎事件は国家老の悪政の結果だったということになっている。
我が国には怨霊がしばしば出てくるが、惣五郎の死後、堀田家にはいくつか惣五郎のたたりと思われる事件が勃発した。懐胎中の正信の妻に変異が起こり、ついに病死する。正信自身は、江戸城ですれ違った若年寄酒井石見守を亡霊と思って斬り殺しその場から無断で佐倉城に帰ってしまうなど奇行、乱心が見られ、惣五郎のたたりだとされた。狂気と認定された正信はついに領地没収、身柄を弟の信州飯田城主脇坂安政にあずけられることになってしまった。まさに惣五郎の怨霊が堀田家を滅ぼす結果になった。

佐倉市内に将門・口ノ宮神社がある。この神社の石の鳥居に堀田正信の名が刻まれている。正信の時代にはここは将門山大明神だけがあった。名前からいって平将門を祀ったものにちがいないが、里人の間ではいつの頃からか惣五郎の怨霊を鎮めるために堀田正信が建立して、惣五郎を神に祀ったものと伝えるようになった。たぶん鳥居に刻まれた正信の名から誤り伝えられたものだろう。実際には将門大明神に寄進されたもので、惣五郎とは関係ないものと現在は考えられている。
再び堀田家が佐倉藩主となるのは、一七四六年山形から移封されて入ってきた堀田正亮である。正亮は正信の弟正俊の六代目の子孫である。正亮は里人のいいつたえをそのまま容認すると同時に、一七五二年みずからの手で惣五郎の百回忌を執りおこない、将門山大明神の杜に新たに口ノ明神の祠を造営し手厚く惣五郎を祀った。この口ノ明神は明治以後将門神社と合祀されて、現在の将門・口ノ宮神社になった。
木内家一六代当主利左衛門氏の話にも宗吾霊堂の説明書きにも、その後の堀田氏に対する恨みごとは出てこない。事件のあとこのように、惣五郎の霊を堀田氏みずから手厚く供養してきたためだろう。

木内惣五郎に関する史料が乏しいのは、時の支配者によって隠滅されてしまったためにちがいない。しかし庶民の口をふさぐことはできず伝説は生きつづけ、ますます広まっていった。
伝説が一人歩きしている木内惣五郎は、学者にとっては扱いにくい人物かもしれない。木内惣五郎という人物は実在しても、将軍への直訴が当時実現可能だったかという点になると、疑問なしとはいいがたいのである。
佐倉藩に限らず、当時悪政に苦しむ農民がどれほど多かったかは、江戸時代を通じて全国で三千件以上ともいわれる百姓一揆の発生件数を見ても想像はつく。一揆にならなくても、その一歩手前で押さえつけられていた農民はさらに何倍も多かったはずである。自分には怖ろしくてできない。でもだれかがやってくれたら、という思いはいつの時代にもある。その意味では木内惣五郎は農民の救世主だった。だから伝説を生み、ますます理想化され、美化され今日も忘れられることはない。惣五郎の処刑が磔であったとされるのも、人々を救うために死んだキリストの受難を思い出させないだろうか。
この観点をとると「佐倉義民伝」そのものの史実がどうの、ということとは別の意味あいが重みを増してくると思う。惣五郎を祀る霊堂や神社は全国的な広がりを見せ、確認されているだけで二十カ所以上におよんでいる。農民、しかも江戸時代の農民をこのように各地で広く祀る例はほかにない。

さて、血筋を絶たれたはずの木内惣五郎に一六代目の子孫が現存しているというのはなぜだろう。実は、惣五郎には殺された四人の子どものほかに二人の娘がいた。惣五郎の二人の妹という説もあるが、ここでは一六代目木内氏の話にしたがって娘としておく。上の娘がユキで常陸国信太郡羽賀村に、下の娘ハツは常陸国河内郡小野村にすでに嫁いでいたため、難をのがれることができた。ハツは夫と死別したのち郷里の公津村に帰り、利右衛門という人を婿にして木内家を再建した。これが現在宗吾旧宅に住む木内家だという 。
 
佐倉惣五郎5

義民として名高い佐倉惣五郎は,よく知られている人物である。堀田氏の苛酷な年貢に喘ぐ農民を見るに見かね、堀田家役人に訴願するが相手にされず、江戸に出て老中に直訴するも効を成さず、ついに上野寛永寺参詣途上の将軍に直訴を強行した。その結果、領主の非政は撤回されるが、大法を犯した惣五郎は妻子ともども磔刑に処せられることになる。この惣五郎の祟りにより堀田家に不幸がおこり改易されてしまう。以上が惣五郎伝承の基本的骨格である。
児玉幸多著「佐倉惣五郎」によると、公津村(千葉県成田市)に惣五郎という大高持の農民がいたことが史料により証明されている。そして彼が承応2年(1653)刑死しているのもわかっている。しかし一揆や惣五郎の直訴は関係する史料からは確認されていないという。記録好きの日本人にそうした古文書がないことからして惣五郎を義民とするのを疑問視する声も聞かれる。(保坂智「義民伝承の継承と展開」)
惣五郎を研究なさっている鏑木行廣氏(成田高校教諭)によると、公津村は承応2年に台方・下方・江弁須・大袋・飯仲の5か村に分村され,翌3年の検地により157石増の1338石となった結果,年貢量が増えたことを史料で示された。分村の動きが起こった時点で,年貢負担の増加を恐れて惣五郎が何らかの行動を起こしたことは,十分考えられるとしている。
堀田正信は惣五郎を慰霊するため,承応3年に大佐倉村の将門山に石の鳥居を寄進している。さらに,後の佐倉領主が戒名や院号を贈ったり,惣五郎の子孫に土地を与えるなど,一農民に対する処遇としては,破格の扱いをしている。いくら領民の人気取りとはいえ、義民でなければ領主はここまではしないであろう。
一揆や直訴した農民のリーダーは刑死して、神として祀られている。これは日本中でみられることです。江戸後期の一揆には蜂起する際に、処刑された者は必ず祀る、と約束事までとりきめた例があるという。多くの神になった農民リーダーの中で、惣五郎の名が顕著なのは、芝居の影響といってもいいだろう。芝居に取り上げられたために、有名になったが、脚本化されたものだからその実態は大きく食い違うことは、多くの例がみられる。たとえば忠臣蔵、大岡越前、水戸黄門、河内山宗春など一杯ある。
嘉永4年(1851)「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)の主人公・浅倉当吾こと佐倉惣五郎がその人である。百姓一揆がテーマであるこの作品は、関係者の予想をはるかに超えるヒットとなり、とりわけ地方巡業芝居で人気を得て、またたく間に日本中に広まった。各地の農村では、この物語を受け入れる素地ができていたのであろう。明治期以後は「佐倉義民伝」という名題となり、実名で登場したため庶民の喝采を浴び、日本一の義民となったのである。
 
木内惣五郎6 (きうちそうごろう)

近世の代表的な義民。佐倉惣五郎(宗五郎)と通称される。下総国(千葉県)佐倉藩領公津村の名主。承応年間(1652-55。異説が多くあり,それより前の正保年間とするものもある)藩主堀田氏の苛政に対して,領民の先頭に立って江戸藩邸への門訴,老中駕籠訴などの訴願を行うが容れられず,上野の寛永寺に参詣途中の将軍に直訴した。要求は認められたが,妻と共に磔,子供は死罪に処された。惣五郎とその妻の怨霊は藩主夫妻に祟り,夫人を呪い殺し,藩を改易に追い込んだとされる。しかし堀田氏時代の公津村に,惣五郎という百姓が存在したことは当時の名寄帳で確認できるが,これらの事蹟を証明する史料はない。「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」などの題で残されている惣五郎物語は,18世紀後半に地元に残る伝承を参考にしながら創作されたものである。この物語が広範に流布するに至った要因のひとつは,延享3(1746)年に山形から佐倉に入封した同族の堀田氏が,惣五郎の怨霊を祭ったことに求められる。さらに嘉永4(1851)年,江戸中村座が「東山桜荘子」(3代瀬川如皐作)と題する惣五郎物語を上演し好評を得た。このとき将軍直訴を決意した惣五郎が,妻子に会うために故郷に戻る途中で渡守甚兵衛の義侠に助けられ,幼い子供と最後の別れをする子別れの場面が挿入され,現在に伝えられる物語が完成した。その後幕末から明治にかけて「花雲佐倉曙」「桜荘子後日文談」「佐倉義民伝」などの外題で上演が繰り返され,また出版物も相次いだため,物語は佐倉地方にとどまらず,広く全国に普及することになった。明治2(1869)年上野国(群馬県)高崎藩5万石騒動の惣代たちは,蜂起に先立ち宗吾霊堂に詣でるなど,明治初年一揆の頭取たちに影響を与え,また自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられた。なお近世期に惣五郎を祭った口ノ明神は,明治以降衰退するが,惣五郎の墓所とされる成田市東勝寺は宗吾霊堂として現在も多くの人々に信仰されている。
 
佐倉宗吾7

千葉県成田市にある、鳴鐘山東勝寺は、下総国佐倉藩の名主、佐倉宗吾(さくらそうご)様の菩提寺として知られ、宗吾霊堂の名で親しまれています。境内は緑につつまれ、春には桜が咲き、秋には美しい紅葉がみられ、毎年250万人の参詣者が訪れています。
佐倉宗吾(本名・木内惣五郎)様は、承応2年12月に4代将軍家綱公に直訴を行いました。その頃、佐倉藩は、大変な飢饉に襲われていました。しかし当時の藩主は年貢を緩めることもなく、農民の実情を無視した過酷な検見が行われ、農民は餓死寸前の状態にありました。
たまりかねた城下の名主達が集まって、木内惣五郎様他6人で、将軍お側用人である久世大和守様に直訴を申し出たのですが、聞き届けられませんでした。やむなく惣五郎様は1人で4代将軍家綱公へ直訴を行う決心をしたのです。当時の直訴の罪は重く、家族にまで刑罰が及びました。家族の身を案じた惣五郎様は直訴の前に奥様を離縁、子供達を勘当しようとしますが、奥様は惣五郎様の考えを聞き入れず、運命を共にする覚悟で離縁を拒みました。
雪の降る中、惣五郎様は家族に別れを告げ、1人江戸へ向かいました。そして上野寛永寺で墓参りに来た4代将軍家綱公の駕籠を待ち受け、直訴を行なったのです。
惣五郎様はその場で取り押さえられましたが、家綱公は墓参りが終わった後、惣五郎様からの訴状の内容を確認し、佐倉藩の状況を調べました。そして佐倉藩の深刻な状況を知り、3年間の減免を行いました。飢饉に苦しんでいた農民は救われたのです。
しかし、直訴の罪で惣五郎様は、はりつけになり、子供達までが打ち首になってしまいました。のちに、佐倉藩主堀田正亮公は、1752年の百回忌のときに、当時の失政に胸を痛め、惣五郎様に「宗吾道閑居士」の法号を授けました。それ以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになったのです。
宗吾霊堂の裏手にある宗吾御一代記念館には「ベロだしチョンマ」という民芸品が売られています。そしてこの「ベロだしチョンマ」には、宗吾様と共に処刑された子供達の、とても悲しい話しが伝えられているのです。
処刑場で、怖がって泣く幼い妹のウメに兄の長松が
「こわくねえぞ!アンちゃんを見ろ!」
と言って、眉毛を下げて舌をペロっと出したのです。長松は12歳、ウメはまだみっつでした。長松は普段から妹のウメが泣くと、いつもこうしてベロを出して笑わせてきたのです。長松はベロを出したまま、槍に突かれて死にました。見ていた村人達は、泣きながら笑い、笑いながら泣いたといいます。
この「ベロだしチョンマ(長松)」の話しを読んだとき、私は涙が止まらなくなりました。多くの人を救うためとはいえ、子供達まで犠牲にしなければならなかった宗吾様の悲しみは、想像することもできないほど深いものだったことでしょう。
書物によっては、処刑された宗吾様が怨霊となって、藩主であった堀田家に祟ったというような伝説もあり、幽霊画や錦絵も残されています。宗吾様の話を人々が語り伝えていくうちに、いつの間にか、話しに尾鰭がついて、このような怪談めいた話しになったものと思われます。
また宗吾様の奥様までも一緒に、はりつけになったとする説や、奥様と子供達は、はりつけにはならずに親戚預けになったとする説もあります。私はこの親戚預けになった説を信じたいです。
 
佐倉惣五郎8

一族の身命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した義民
佐倉惣五郎は江戸時代前期、自身の命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主だったといわれる。その結果、藩主の苛政は収まったが、惣五郎夫妻、そして4人の子供までも磔となってしまった。後世、物語や芝居の題材に取り上げられ、佐倉惣五郎は“義民”として知られるようになった。生没年は不詳。俗称は宗吾。
佐倉惣五郎の名は江戸時代の百姓一揆の指導者として有名だ。しかし、有名なのは芝居として上演されたりしてきたためで、史実ではなく伝説としての惣五郎といった色彩が濃い。そのため、少し前までは惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないかと主張する研究者もいたほどだ。実在か非実在かの論争に決着をつけたのは児玉幸多氏だ。当時の名寄帳に「惣五郎」という名前があることから、惣五郎の実在が確認されたのだ。その名寄帳によると、惣五郎は3町6反の田畑を持ち、9畝10歩の広さの屋敷を持っていたことが分かる。そこで、当時の百姓としては上層部に属していたことも判明した。しかし、確実な史料によって確認されるのはそこまでで、彼が名主だったとか、さらに割元名主(大庄屋)だったとか、直訴を行ったなどということは確かめることはできない。
土地の農民たちの間で語り伝えられていた惣五郎伝説が、文字となって他の地域の人々に知られるようになったのは、18世紀に入ってからのことと思われる。1715年(正徳5年)、磯部昌言編の「総葉概録」に惣五郎伝説の概要が記されている。しかも、惣五郎が冤罪で殺され、その祟りで藩主堀田氏が滅びてしまったことまで書かれている。しかし、今日流布しているような物語性を持った惣五郎伝説が成立してくるのはもっと後のことで、「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」「佐倉義民伝」が世に出てからのことだ。これらは18世紀末から19世紀初めにかけての成立と思われ、伝えられる直訴事件があってからすでに150年近くも経っていたわけで、これらから史実を探っていくことは困難といわざるを得ない。
惣五郎の住む公津村は佐倉藩領だった。藩主堀田正盛が1651年(慶安4年)、三代将軍家光の死に殉じ、子の正信の代になって急に年貢・諸役の増徴を始めたのだ。佐倉藩領は1644年(正保元年)からの凶作ですでにかなり疲弊していたが、そのうえの増徴ということで、百姓たちは困窮の極みに達していた。そこで、惣五郎をはじめとする藩領村々の名主たちは、とりあえず百姓たちの窮状を代官や奉行および家老たちに訴えた。しかし、その訴えは取り上げてもらえなかったのだ。その頃には百姓一揆を起こそうとする動きも起き始めていたが、惣五郎ら名主はそうした動きを押さえ、名主たちの連判状を持って、江戸の藩邸へ訴え出た。こうした「代表越訴型一揆」までも江戸の藩邸では却下されてしまい、惣五郎らは老中の久世広之に駕籠訴をしている。しかし、それも成功しなかった。
こうなると、百姓一揆の蜂起を食い止めるには、将軍への直訴しかない。そこで、惣五郎は四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣するときを狙って越訴に及んだというわけだ。もっとも、越訴を決行した時期については1652年(承応元年)とする説、その翌年とする説がありはっきりしない。しかし、越訴の結果、1654年(承応3年)、佐倉藩は加重した年貢・諸役を免除している。このまま何もお咎めがなければ、あるいは惣五郎伝説は生まれなかったかも知れない。越訴は違法行為なので、成功しても成功しなくても、自分は死罪を免れないと思って覚悟していたろう。惣五郎だけの死罪であれば、あるいは怨霊伝説は生まれていなかった。
ところが、堀田正信は24歳という若さのゆえか、越訴をされ自分のプライドに傷をつけられた思いだったからか、惣五郎の妻子にまで過酷な処罰を科したのだ。妻はもちろん、何の罪もない4人の子供まで磔にされているのだ。惣五郎とその妻が見ている前で4人の子供を殺すという残虐ぶりだった。このときの惣五郎の怨みが以後、怨霊となって正信に祟ることになる。
千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺、東勝寺には義民・佐倉惣五郎を祀る霊堂があることから、同寺は宗吾霊堂(そうごれいどう)とも呼ばれる。
 
佐倉惣五郎9

義民たちは愛郷者であった
与党と民主党が、互いに新教育基本法案を出し合っているが、その中で、国を愛することの表現で対立している。
国を愛する心を、国民に教育することは至極当たり前のことで、むしろ今までなかったことが可笑しいことではある。しかしいきなり国を愛せよと教えようとしても、少年少女たちに理解されないではないか。国は個人にとって余りにも大きすぎるし、それに複雑で遠い。
愛国の情は、はサッカーの試合に湧き立つのとは、大きな意味で違っているのである。
愛郷・愛国の原点は、家族愛であり、同時に、育った集落や街に抱く愛情にほかならない。
郷土愛は父母兄弟・親族などの眷属や友人・知人などと共に、好ましく育った人間関係と、お祭りやお盆などの行事や学校などを共にした、好ましい生活体験が織り重なることで、初めて健全に育まれるものではないか。そしてそこに欠かせないのは、故郷に感ずる誇りであろう。
これは、運命共同体意識というべきで、このような中にあっては、お互いに助け合い、守り合いたいという集団的生存欲求が自然に生じてくるのである。その心がしっかりと核になっていれば、やがて成長しても郷土愛・国家愛に自然に育まれて行くものではないか。いまや極端な競争社会となり、隣人意識や共同体意識が希薄化している郷土社会を立て直すため、国はここで長期的施策を打ち立てるべきであろう。そこがしっかり出来れば、愛国の表現などは、どちらでも構わないと思う。
義民といわれる人たちは、重税と不作に喘ぐ村人を助けようと、わが身を捨てて困難に当った指導的な人たちであった。わが身を捨ててでも、他人を助けようと思う真心の発露が、運命共同体の中にあって、自らの立場に相応しい行動をとらせたのである。
彼等に共通するのは、誰もが家族を愛し、村民を愛したことであった。その愛が己を郷土の防波堤に仕立てたのである。
全国的に見ても、名主は、帰農した武士を先祖に持つものが多い。読み書きの素養やものの道理・条理を心の芯にした人間教育が、代々継承されてきた家柄に育った者が、立派な人として、名主に推挙されたのであろう。武士は「義」に生きることを何より尊ぶが、当時の名主たちの、農民ではありながら、公共のために尽くした崇高な使命感こそ正にサムライというべきものであった。彼らが貫いた行動に今更ながら感動する。
これから述べたい佐倉惣五郎の痛ましい直訴事件の30数年後には、信州松本藩でも多田加助(中萱加助)等を頭領とする奉行所への越訴事件(貞亨騒動)が発生し、28人もの犠牲者を出している。 
封建農民の重い年貢
日本の封建制度は、鎌倉時代にほぼ固まったが、家康の天下統一によって、江戸幕府を頂点とする支配体制は、その下に全国くまなく領主を配する形で完成した。中には幕府直轄地もあった。
江戸幕府の力は強大で、領主を絶対管理下におき、頻繁に移封を重ね、参勤交代を強い、不備があれば直ちに改易を行なうなど強権を欲しいままに使って専制的に君臨していた。
このような支配体制は、幕府に対して常に服従と忠誠を強いるものであった。
当然ながら領主たちは富国策を講じたが、幕府は諸国が余力を蓄えることを好まず、諸役を負はすなどして国力が余りつかないように調整をしていた。領主も領民に対しては、生かさず、殺さずの封建支配(常に重負担)を強い、士農工商の身分制度の中にあっても、特に土地に釘づけされている農民の生活は想像を超える苦しいものであった。
農民が領主に納める税は、年貢といわれ、生産に対して非常に高い率で課せられていた。
佐倉宗吾(惣五郎)が生きた時代の、佐倉藩の年貢は、村により相違があるものの5割から8割ほどの高率であった。これらの年貢は、領主から幕府への上納もあり、領主の取り分の後が家来へ分配された。
当時の年貢は、予め算出される石数(こくすう)に、領主主導によるその年の検見(けみ・作物の出来具合をを調べること)の結果により決められていた。宗吾の住む佐倉藩では各農民の石高を次のように定めていた。
一反(いったん・300坪・約10アール)当りの米換算石高として、上田1石5斗、中田1石2斗、下田7斗、上畑9斗、中畑6斗、下畑3斗、屋敷1石分とし、これを基に持分の田畑・屋敷の面積を掛けて各人の石高が算定されるのである。
この石高を足して一村の石高が決まるが、領主はそれを基に、村単位に今年は何百石と決めてくるのである。その結果が村ごとに、40数lから79lという高率な年貢となっていた。大体は60数lであった。100俵の収穫のうち自分の取り分は30余俵しかないことである。収穫の悪い年の検見であっても、年貢の石数は減収に見合うものではなく、実質的には多くの場合、それほど考慮されることはなかった。
それでも稔りの出来がまあまあならどうにか生きてゆけたが、冷害や旱魃、水害などの場合はそれに見合う減税がないと直ちに死活問題になるほどであった。冷害などが続けばそれこそ万事休すである。農民はいつもぎりぎりの生活を強いられていたのである。 
佐倉宗吾(木内惣五郎)
佐倉宗吾は、高い年貢に困窮した農民たちを助けるために、自ら代表して天下の将軍に直訴することで願いを果たし、その結果磔になった義人として、全国に知られている。
彼は、秀吉の天下統一のとき、小田原の北条氏と共に亡びた千葉氏の家人、木内氏の血を引く者で、公津村の名主であった。
千葉氏は頼朝決起にいち早くはせ参じ、関東の平氏諸将をまとめて、鎌倉幕府樹立の最大の功労者となった千葉常胤(ちばつねたね)に連なる光栄ある一族である。
宗家の千葉氏は佐倉城主であった重胤が、北条方についていたために小田原城陥落と共に亡びることとなった。
宗吾の曽祖父となる木内源左衛門と云う武士が重胤に仕えていたといわれる。源左衛門は、千葉氏滅亡後、旧臣と共に印旛沼(印旛沼)の辺りに帰農したのであった。
宗吾霊堂内の宗吾霊宝殿に展示されている、領主(堀田正盛公)下賜の裃の紋所は九曜紋である。九曜紋は千葉氏の紋所である。木内氏は、常胤の5男・東胤頼(とうのたねより)を祖とする家柄に繋がっていた。
公津村は宗吾直訴後、間もなく5つの村に分割されるが、その前の村高は1380石ほどであった。その中で宗吾は27石で村で2番目の持ち高であった。手持ちの田畑は、中田6反9畝、下田1町8反1畝、上畑7畝、中畑4反4畝、下畑5反7畝、屋敷9畝、合わせて3町6反9畝である。これは上農といえるものである。
天下の御法度である直訴の原因は、領主の代替わりを折りに、一挙に年貢を増やされたことで、辺りの農民が困窮し、年貢も納めることが出来ず、先祖伝来の土地を手放して路頭に迷う者、食うものがなくて飢え死ぬ者などが続出している現状を、何としても打開したいとするものであった。
年貢が上がることは、村を運営する名主たちにとって何よりも重い悩みであった。当時の名主は、名望家であると共に、農民たちの指導者であり、実質世話役であり、親的存在であった。困難に直面したとき名主は率先責任を以ってことに当ったのである。
宗吾は、いち早く、多くの私財を投げ打って、困る村人のために供出していた。
この直訴の前にも、名主たちは代官、郡奉行、勘定頭、家老の家と順に伺っては年貢減免を訴えたが、聞き届けられることがなく、ついに彼ら157人は領主の江戸屋敷へ出向き訴えることにした。しかしここでも相手にもされず追い返される始末であった。
名主たちは、この上は幕府に願い出るしかないと、当時衆望篤かった老中久世大和守に籠訴したのであった。籠訴であれ何であれ、訴えは勿論ご法度である。その罪は即ち死罪であった。彼らは初めから自らの死を覚悟して訴えを敢行したのである。
滞在経費軽減のため、宗吾他数人だけが代表して残って待機していると、久世から呼び出しがあり、ご法度の籠訴は特別お咎めなしとするが、これは佐倉藩のことであり、別途国元で救済を受けるようにとの沙汰があった。
万策尽きた6名の名主たちであったが、宗吾はこの上は将軍に直訴するしかないと、自分ひとりが代って行なうことを申し出たのであった。しかし他の5人も死なばもろともと共に直訴状をしたため、一同で決行することとなった。 
佐倉藩主堀田正盛(旧松本藩主)と子正信
佐倉藩の年貢は、代替わりした新しい領主によって突然大幅に引き上げられたのであった。時の領主は堀田正信である。正信は父正盛に代わって領主となるや、折からの年貢時に、農民が持ち込む郷倉で、役人に命じて、新しい大き目の枡で計り直させ、増量を図るというおぞましいものであった。1斗枡も1升枡も中側をタテ、ヨコ、タカサとも5分(l)長くした枡を新しく作り、1割2分(12l)も多くなるようにしたのである。かてて加えて鎌、鍬、天秤棒などに片端から新しい税を掛けるという猛烈なものであった。この新税は全部で29種類あったという。
これは、直訴状にも、「正信様が家督を相続されると、その年の年貢から高1石につき米1斗2升ずつの増税となりました」と書かれている。この重税は次の年も変わらなかった。
正信の父である先代の堀田正盛は、3代将軍家光の乳母であった春日局が、母の父である稲葉正成の継室であったことから、家光の側に仕えることとなり、次第に碌も上がってついに1万石の譜代大名となった。さらに若手側近六人衆と呼ばれて、幕政の審議にも関わり、やがて老中(宿老)となった。老中を退いた後は、川越3万5千石領主となったが、その後寛永15年には、10万石に加増の上、信州松本藩主となった。
正盛の松本在藩は寛永19年までの僅か4年間であったが、年貢については、なかなか厳しいものがあった。また年貢を多くするために、新田開発にも熱心だったという。
寛永19年には、安曇郡南小谷村の重税による惨状の訴えがあった。
その訴えによると、南小谷村での税は全て貨幣納であったが、換金率が幕府の金1両・米7表に対して、ここでは米12俵か13俵と高くなっていた。この為、村では困窮し、餓死者が147人、身売りが92人、逃亡者38軒、餓死した馬82頭、同牛83頭という惨状を呈すまでになった。この年と前年が大きな飢饉であったこともあり、その中での重税はまさに村を破滅の底へ追い落とすもとなった。
お国替えは、現代の高級官僚が、数年ずつを腰掛であちこち廻るようなものであった。
そのようなところに、治世の情けなど、微塵も入り込むことは無かったであろう。
彼ら領主にとって、農民は家畜と同じであった。農民は農奴以下の存在でしかなかったのである。
その訴えの直前、正盛は寛永19年晩秋、11万石となって佐倉へお国替えとなった。新領地にあっても記録によれば、やはり年貢は相当厳しいものであった。正盛は領内を、鏑木組、本町組、酒々井組、千葉組、土気組、東金組、府川組、相馬組、小張組、川崎組、伊野組の11組に分け、そのうち10組には2人、他は1人の代官を置き、厳しく支配した。新田開発にも熱心であったようである。
慶安4年、3代将軍家光が47歳で急逝した。28年の長きにわたる政権であった。この日正盛は今まで蒙った家光の恩顧に報いて殉死した。46歳であった。他にも老中で岩槻藩主の安部重次や鹿沼藩主の内田正信等も殉死した。殉死した藩主に殉死する者もいた。このような殉死の例は当時いくらもあった。
仙台の政宗公霊廟には、公に殉じて死んだ者と、殉死者に殉じて死んだ者の宝篋印塔(墓)が左右に並んで20基建っている。
新しい将軍の座には10歳の家綱がついた。4ヵ月後、正信も父の後を継いだ。これから秋の収穫が始まろうとしていた8月であった。恐らく年若な領主に家老などの役職が進言しての増税策であったのであろう。何れにせよ殿様のお達しにより、この年から増税は強行されたのである。 
直訴決行
直訴は、新しく将軍職となった家綱が、上野の寛永寺に参詣することを聞きおよんで、その折に決行することとなった。直訴状には、領内佐倉組合84ヶ村、千葉組合74ヶ村、府川・守屋組合39ヶ村、東金組合7ヶ村の名主たちの連名で6項目にわたって年貢の高いことと農民の窮状が書かれていた。
増税のことは先述した通りであるが、窮状については、次のようであった。「どうにか増税の1ヶ年は納めましたが、田畑を村方に差し出して、他国他領へ離散した者が195軒・730人に及び、寺院も11ヶ寺が無住となりました。無耕作の田畑は高で6千石となり、ますます村々の負担が大きくなります」
直訴は、先に久世大和守に籠訴したあと、江戸待機で残った6人の名主で行なう手はずであった。宗吾の他の5人は、武射郡瀧沢村名主六郎兵衛、印旛郡下勝田村名主重右衛門、印旛郡高野村名主三郎兵衛、千葉郡千葉町名主忠蔵、相馬郡小泉村名主半十郎である。
宗吾は、前夜皆と酒を酌み交わしながら、警護が厳しいので、6人が一緒だと失敗しかねないと、自分が独りで決行したいと申し出で同意を受けた。彼はそのあと、黒門前の三枚橋の下に忍び込んで、明日に備えることにした。
当日、将軍の長い行列を待っていた宗吾は、籠が近かずくと1間ほどの竹の先に直訴状を挟み、奏上奉ると叫びながら将軍の籠に走りより、警護の役人や徒に妨害されて手足に傷を負いながらも、どうにか籠の脇にいた役人に手渡すことが出来た。その後、直訴状は月番の井上河内守から堀田正信に下げ渡された。この直訴によって、佐倉藩の異常な収税状況が幕府の知るところとなり、これを憂慮した老中より当然厳しい指摘があったのであろう。 
宗吾処刑と年貢軽減
直訴後、宗吾は囚人籠により、あとの5人は腰縄を打たれて江戸から佐倉へ送られた。佐倉では、江戸へ行った村々は勿論、連判しただけの村々の村役も呼び出され、藩から申し渡しがあった。申し渡しの内容は、領主の命令に従わずに宗吾等に誘われて行なった言動は不届きであるが、この度は格別の思し召しでこれを許し、年貢については先代の殿様のときと同じにするというものであった。
年貢は、ここで元の水準に戻され、あの29種類の新税も取り払われたのである。
5人の名主は、江戸、佐倉10里四方追放となり、宗吾は処刑を申し渡された。処刑は、宗吾の家族にも及ぶもので、宗吾は磔(はりつけ)、11歳の長男と3人の女子も死罪、家財・田畑の没収というものであった。当時10歳未満の女子については、死罪はないとされていたが、佐倉藩は女児の籍と名を、をわざわざ男子に変えて処刑を行なった。これは特に宗吾を憎んだ正信の強い意向があったという。
宗吾が住んだ旧宅は、今もそのまま残され、守られているが、その仏壇の位牌には、彦七(11歳)、とく(9歳)、ほう(6歳)、トチ(3歳)と書かれている。藩では、長男以外の女児に、徳治、乙治、徳松と名をつけて処刑したと言われる。宗吾は42歳であった。妻はつ(39歳)と常陸領(現茨城県)に嫁いでいた2人の娘、ゆき(21歳)、かつ(16歳)は不問となった。妻についてはどのような理由付けでそうなったか不明だが、家族の処刑後剃髪して、刑場(現宗吾親子の霊場)付近(今の霊堂あたりに)に住み、終生家族の菩提を弔ったといわれる。
宗吾の木内家はその後、嫁いでいた姉妹のうちの1人が夫と死別したため、実家へ戻って婿(利左衛門)を迎えたことから家督が継がれることになった。当代の木内利左衛門氏はそれ以来16代目の当主である。(二人の娘は、宗吾の妹とする説もある) 
惣五郎の祟り
今から350余年前の承応2年(1653)宗吾と宗吾の幼い子供が処刑され、共に直訴に関わった5人の名主も田畑没収、江戸・佐倉10里四方追放という処分を受けた。訴えは叶えられたが、大きな傷あとを残して、この事件は嵐のように去っていった。
5人の名主たちは、みな剃髪し、仏門に入って高野山に登り、その後は諸国を廻って、宗吾父子の霊を弔ったと伝えられるが、あとはいずれもはっきりしていない。ただ印旛郡栄町(現成田市)にある龍角寺の、常念仏堂建立にまつわる話の中に僅かに語り継がれている。この堂は、宗吾25回忌に当る延宝5年、郡内280ヶ村から寄付を集めて建てられているが、その音頭をとった宗念・宗心・宗閑は、共に5人の名主のうちの3人であったというものである。これはかなり信用してもいい話ではないかと思われる。
宗吾の妻はつは剃髪し、終生を刑場跡に建てられた父子の墓を守り続けたという。
人が死ねば霊魂が残ると信ぜられている。この霊魂の存在を信ずればこそ、我々は、死者や墓に手を合わせ、念じるのである。この点世界中のどんな国や宗教でも本質的には同じであろう。
特に日本の場合、霊は、死者や神仏のみならず、天地や自然の中にも宿ると多くの人が信じている。さらにわが国では昔から、霊は時に人間にある種の影響を与える大きな力をもっていると信じられてきた。
考えられる影響のうちで、最も怖いものは、祟りであった。祟りというのは、神仏や霊などを怒らせることによって、引き起こされる災いや悪い報いのことである。
祟りを恐れ、それを慰撫するために、古来日本人は神仏や、祖霊に物を供え、歌舞音曲を奏で、呪文や祝詞や経を奉納してきている。そしていま在ることに感謝したあと、今度は色々の望が叶うようにお願いするのである。お祭りや供養会は本来そうゆうものであった。
宗吾は、殺される前、首を刎ねられた4人の子を前にして、磔(はりつけ)台の上で、自分はここで死ぬが、一念はここに留まり、領主正信を修羅の道に誘い、永く子孫に思い知らせるであろうと叫んだと云う。
宗吾の祟りかどうか。宗吾が処刑されて暫くして、佐倉藩主堀田正信の奥方が懐妊中に急死するという出来事が起きた。人々は宗吾様の祟りだと話し合ったという。しかし凶事はそれだけに留まらなかった。正信が世襲して10年も経たない中に、それは驚く形で堀田家に降りかかったのである。 
堀田正信の改易とその後
父の後を継いで9年経ったとき、藩主正信は、とんでもない文書を江戸幕府の老中に宛てゝしたためた。それは、幕閣の失政を糾弾するものであった。時の老中は松平信綱、保科正之、安部忠秋3人である。宛名に松平の名は無かった。
松平については、老中であった父と共に、3代将軍家光公の寵愛を受けた身でありながら、殉死もせず、いまだ老中であり続けていることが、許せなかったようである。自分が、父の後をついで幕閣になれない不満も大きかったのであろう。世の中の困窮は幕閣の失政によるものとし、旗本たちを救うためには、佐倉藩11万石を差し出しても良いとまで書き、また万一将軍に不慮の死があった場合は、自分は直ちに殉死するであろうとも書いた。
所領を差し出すなどとは、本気ではなかったであろう。家光に仕えて老中にも上がり、果ては殉死した父正盛の後継者としての不遜な思い入れが、頭から離れなかったのではないか。この程度のことは当然許されるであろうと高を括った鼻持ちならないエリート意識の口すべりであったとも言えよう。
当然、幕閣では問題となり、翌月には乱心によるものとして改易・領地没収と決まった。そして直ちに正信は、弟である、信濃国の飯田藩主脇坂安政(わきさかやすまさ)に預けられることとなった。宗吾が死んで8年後の万治3年(1660)11月のことであった。佐倉の人々は、宗吾様の祟りとして、怖れると共に、存分に心を満たしたことであろう。
宗吾のことを決して忘れない領民たちは、処刑以来、忌日には籠って菩提を弔っていたと云われる。
脇坂氏は元和3年(1617)先代安元のとき、伊予大洲(愛媛県大洲市)から信濃の伊那郡と上総長柄郡(千葉県長柄郡)に合わせて5万5千石を与えられて飯田に入っていた。正信の弟である安政は、寛永17年に脇坂氏へ養子入りし、承応3年(1654)に遺領を継いでいたのであった。
正信は城の近くの守谷というところに蟄居したと言われているが、そこは脇坂氏時代の飯田城の絵図に見える「上野介様御座所」であると思はれている。
ここでどのような生活をしていたのかは記録もなく良くわからない。市の中心地の江戸町にある正永寺には正信の子の墓と言われる2基の五輪塔があると云われるが、飯田での正信は4・5人の子供を為したらしく、また数人の家臣が随行していたと言われるからそれなりの生活が為されていたのであろう。
正信を預かってから12年後の寛文2年(1672)、脇坂安政が播磨の竜野(兵庫県龍野市)へ移封となったことで、正信は、今度は若狭小浜(福井県小浜市)藩主酒井忠直に預けられることとなった。小浜では米2千俵を与えられ、やはり家臣が常駐している。酒井家は正信の母の実家であった。5年後、正信は、密かに抜け出して京都へ入ると言う事件を引き起こした。このことは幕府で問題となり、父正盛に免じて死一等を減ぜられて阿波(徳島県)徳島藩に預けられてこととなった。その3年後の延宝8年(1680)、将軍家綱公が40歳で逝去したと聞いて悲しみ、そこの座敷牢のようなところで鋏によって自害して果てた。刀を取り上げられていた為という。50歳であった。改易から20年後のことである。霊魂を信ずる人たちには、堀田家の改易と正信の悲惨な20年は、正に宗吾の怨念による執拗な祟りの果てと映ったことであろう。 
堀田家支流の堀田正亮が佐倉藩主となる
延亨3年(1746)、山形藩主の堀田正亮(ほったまさすけ)が佐倉藩主となった。この移動は正亮の老中就任に伴うものであった。この堀田家は、約100年前に、ここ佐倉藩主であった堀田正盛の3男正俊を始祖とする家柄である。正俊は宗吾を処刑した正信の弟で、生れた翌年、将軍家光の命により春日局の養子となった。後は長ずるに従って累進し、ついに下総古河(茨城県古河市)領主となり、併せて幕府大老となった人物である。正亮は、その正俊の4男正武の子であった。
正亮(まさすけ)は、寺社奉行、大坂城代を経て、山形藩主となり、更に老中に就任すると翌々年に松平乗佑と入れ替わって佐倉へ入ることになった。
1世紀前、曽祖父が信濃松本から入った佐倉へ、奇しくも自分がまた藩主となって入ることに正亮は不思議な感慨を覚えたことであろう。正亮は一族が抱えている、この佐倉の地での暗い歴史を何時でも頭の隅に置いていたはずである。
正亮は、就任する前に一度前もって佐倉を見ておきたいと思った。堀田家にとって因縁の、佐倉とは一体どんなところであろう。
恐らく正亮は、ある年齢に達したとき、父母から大伯父正信が佐倉で起こした直訴事件とその後の行方などを繰り返し聞かされていたことであろう。だから佐倉という名は幼い頃から知っていて、ある懐かしさがあると共に、決して好い意味ではない響きもあったのではないか。権力を振り回して、虫けらのように農民を切り捨てた一族の負う罪の意識といえるようなものも感じていたであろう。
国替えに当って、前もって領主自身が其処へ行って、見聞するなど決してある話しではないが、老中でもある正亮のこの希望は将軍に直ぐ許された。
正亮の旅は佐倉城を初め、藩の施設以外にも領内の各所に及んで半月に渡っている。宗吾に関係する土地なども通って見ていたことであろう。 
口の明神の建立と惣五郎の100回忌・140回忌ほか
文化11年の序文がある十方庵敬順という人物の記録帳によれば、正亮が佐倉へ入ったその夜から、夜毎、磔柱(はりつけばしら)を背負い、両脇を血に染めた宗吾が、正亮の枕元に現われて恨みごとを語るようになった。正亮は恐怖に怯え、加持祈祷を行なったが効果がないことから、将門山(まさかどやま)に「宗吾明神」を建てて祀り、怨霊を鎮めたらようやく収まったと言う。将門山は昔、平将門の塁があった処といわれるが、そこに「宗吾明神」は実際に建立された。
将門山は、刑場の近く(現在の宗吾霊堂付近)にあり、あの直訴事件の前、農民たちがこの上は一揆しかないと集まったところを、宗吾が一先ず止めた場所でもあった。
この話に誇張があるとしても、正亮が、自らの深層に溜まっていた氏族の罪の意識によって、夢を見てうなされ、怯えたことは充分考えられる。藩主が、100年前の一農民を「宗吾明神」として祀り弔うことは異常であり、何か特別の理由がなければ決してありえないことだからである。
一方、後の佐倉藩の記録によると、これは(宗吾を磔にした)正信が、自ら寄進した鳥居と共に建てた社で、地元の人たちが「宗吾の宮」と呼んでいるが、これは「口の明神」のことである。としている。
恐らく、正信が建てたものであるが、住民に明らかにしないまま私的に宗吾を祀ったのであろう。正亮は、この社を「宗吾明神」として再建し、改めて公に祀り、鎮魂したのである。宗吾に許しを請い、神として丁重に祀ったことで、心のわだかまりも解けたのではないか。
正亮は直ぐこのあとの宝暦2年(1752)の宗吾100回忌に当り、改めて宗吾を「義民」として称揚し、涼風道閑居士の諡号(しごう)を贈って篤く弔った。道閑信士がそれまでの宗吾の戒名であった。宗吾明神建立に引き続き、領主が此の様に宗吾を篤く扱ったことで、それからは口の明神(宗吾明神)では、春秋二回、盛大な祭礼が行なわれるようになった。また宗吾の墓も大っぴらにお参りできるようになった。
これら一連の堀田家の行いは、罪を悔いて謝り、霊魂を慰撫して、その祟りを鎮めるための重要な儀式であったと言えよう。
堀田家はこれらのことを通じて、領民の心を捉え、藩政の佳き運営をも図ったものであろう。義という日本人がもつ基本美意識が、領主と農民の共通意識として認められたことの意義は大きかった。
堀田正亮(ほったまさすけ)は、佐倉へ入って4年後、年貢納入についての農民の強訴に会っている。このことは佳き領主たらんと考えていた正亮を驚かせ、老中として特に幕府を通して全国に改めて訴えの禁止令を出すなどの手を打たせている。自藩のことを幕府の名を借りて収めようとするまでに至ったことは、正亮のうろたえぶりを物語るものである。正亮はこの強訴をとっさに宗吾の祟りと感じ取ったのではなかったか。このことが契機となり、正亮は、堀田家に対する亡霊の祟りをなくするにはどうすれば良いのかを考え始めたのであろう。
その一つが前述したように、宗吾の名誉を回復し、堀田家の非を詫びて篤く弔い直すことであった。これは領主として、武門として、一番大事な誇りと自尊心を捨てて(差し出して)まで、一農民にひれ伏すことを意味していた。この決心は、正亮が如何に真剣に堀田家にまつわる宗吾問題の解決を考えたかの証左であろう。現代では考えられないほど、当時はまだ神仏や霊魂というものに大きな畏怖とこだわりを持っていたのである。少し遡るが、平安時代に菅原道真が北野天満宮に祀られたのは、右大臣であった道真が、讒言によって遠く大宰府に左遷されて死んだ後、次々起こった怪異現象を彼の祟りとして捉え、その霊を祀って鎮めるためであった。靖国神社も創立の趣旨は、戦場に死んで鬼となった霊魂を、護国の神として祀り慰撫し鎮め賜うものであった。
正亮のもう一つの策は、善政を敷いて農民に報いることであった。これは宗吾の霊に対する鎮魂の意味もあると考えたのであろう。
正亮は、民政に力を注ぎ、役人には有能な人物を抜擢する反面、賄賂を貰った役人を重く罰するなど農民に対する不正には極めて厳しい態度で臨んだという。また社倉法(しゃそうほう)なる農民救済策を定めた。これは村高100石に付き米1俵余を与えて蓄えさせ、窮民が出たときにはここから借りて、秋の収穫時に1割の利息をつけて返させるという制度であった。
正亮は宝暦11年(1761)に病死するが、これを聞いた領民が、佐倉藩は代々老中が領主になる慣例があることから、堀田氏が移封となるのではないかと恐れ、幕府に嘆願する動きをしたという。このことは堀田氏の藩政が上手くいっていて、領民に慕われる存在になっていたからであろう。
正亮(まさすけ)の後を継いだ正順(まさなり)は、天明3年(1783)に佐倉藩主のまま、社寺奉行となったが、その年有名な天明の災害があった。この年は春から天候が悪く雨が降り続いて、6月には関8州は大水害に見舞われた。7月に入ると突然浅間山が大噴火し、山麓東側に溶岩流が噴出すると共に噴煙が長期に天を覆って灰を降らせ、日をさえぎり、全国的な飢饉を迎えることとなった。領内でも困窮した領民による一揆が頻発したが、佐倉領にあっては、事後の処分に死罪はなく、死一等を減じた刑が最高であったという。これも宗吾を崇敬する堀田家の基本思想があってのことといわれている。
寛政3年(1791)、正順(まさなり)は宗吾140回忌に当り、さらに諡号(しごう)として、宗吾に徳満院の院号と石塔一基を贈って、手厚く弔った。更に正順を継いだ正時は、文化3年(1806)宗吾を継いでいる木内家が困窮していることを聞き、田高5石(下田7畝余)を与えた。また嘉永5年(1852)には、ときの藩主堀田正睦(まさよし)が200回忌の法要を行なっている。
別に、宗吾を磔刑にした正信の子孫で、近江宮川(現滋賀県長浜市)藩主(1万3千石)となっていた堀田氏が、享和3年に宗吾の150回忌供養を行った。正信が改易となったとき、子の正休(まさやす・6歳であった)に1万俵の扶持米が与えられたが、以来家系が連綿と続いて、当時、小大名と成っていたのである。正休は老中であった故正盛の孫ということで特別の待遇を受けたのであった。 
宗吾信仰
義を貫いた宗吾は、江戸末期以後、芝居・講談などによって広く知られるようになった。知られることで、宗吾は人々に身近に親しみの持てる救世主として信仰されるようになった。この信仰は、苦しみからの解放を求める人々に力を与え、勇気を齎すものであった。苦しむ者たちには、宗吾はまさに希望の星であった。
宗吾を祀る神社霊堂は、千葉県はもとより新潟、山形、秋田、福島、東京、群馬、埼玉、山梨、長野、静岡、愛知、岐阜、愛媛、熊本と全国規模で点在しているという。
但し東京浅草の宗吾殿は、前述の宮川藩堀田氏の江戸屋敷に祀られていたものを維新後一般に開放されたものという。また長野県飯田市郊外松川ダム近くにある佐倉神社も、由緒では、飯田藩に預けられた正信が邸内に祀っていたものを、小浜に移るときに家人の屋敷に移されたものが基であるという。このことから、正信とその子孫が共に宗吾を殺したことに、人知れず後悔し、怖れて祀っていたことがわかる。
信州飯田には、上記の佐倉神社以外に、市内竜江の大願寺に南山一揆のときに勧請した宗吾大明神が、北方には昭和初期、不況の苦しみからの解放を願って創建された佐倉神社が、また丸山町にも佐倉神社があるという。
更に大鹿村にも慶応年間に大河原村の「裃公事」といわれる農民対村役人・代官との抗争事件に際して農民が勧請した佐倉神社があるとのことである。
地元に伝わる話では南北朝時代の大河原は、後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王及び子の尹良(ただよし)親王の終焉の地といわれているが、村内にある堀田城跡は、堀田氏の遠祖である堀田正重が拠ったところで宗良親王を守護した城という。堀田氏と信濃の縁の不思議を思うばかりである。一度機会を作り、是非飯田市周辺を訪ねたいと思う。 
宗吾霊堂とお待夜祭(おまちやさい)
宗吾が42歳で刑死したのは承応2年(1653)旧暦8月3日であるが、その日にあわせて、現在は新暦9月3・4日-今年からは9月第1土・日、霊堂ではお待夜祭と呼ぶ宗吾祭が行われる。特に夜は信徒僧侶が堂に籠り、宗吾親子と追放された5人の名主の追善供養が行なわれるのである。これは昔から旧佐倉領の各地で行なわれてきた宗吾の忌日の供養の形そのままのものである。両日は屋台も繰り出し、また出店の数の多さに江戸末期以降の宗吾祭の賑わい振りが想像できるような気がした。平成十四年には、宗吾350年祭が盛大に行なわれた。
私は千葉へ住むようになったとき、最初に訪れた一つが宗吾霊堂で、近くの成田山新勝寺と一緒であった。宗吾のことは子供の頃、父が集めていた民謡のレコードの中にあった八木節の唄で聞いて偉い人であると思っていた。確か唄は堀米源太(?)だったと思う。その後の知識の加入で、もう少し知ることが出来たが、霊堂の中にある宗吾1代記館と霊宝殿に入って、初めてその偉大さが身にしみた。それからは、土地の偉人として何冊かの本に接し、何回も霊廟を訪ねるなどしてようやくある程度分かってきたところである。
お待夜祭の夜、元気一杯の八木節の奉納があった。聞くと以前から毎年、わざわざ群馬県から来ているとのことであった。直に見る八木節の唄や踊りは始めてであったが、子供の頃のレコードの記憶が懐かしく蘇った。
宗吾霊堂は、明治になって大きく再建されたが、大正の初め大火にあって焼失し、その後昭和初期に再建された。霊堂境内は、入り口に建つ宗吾父子の霊廟を始め、仁王門、本堂、霊宝殿などを連ねる一大堂宇である。寺名は正式には、真言宗豊山派鳴鐘山医王院東勝寺と謂い、坂上田村麻呂に関わる千有余年の古刹であるという。真言宗の御本尊は大日如来であるが、この寺院のご本尊は宗吾様であることが特色である。霊堂の別の場所に祀られていた名主5人もいまは本堂に納められている。信者は全国に普く、参詣者は年間250万人を数えるとのことであった。
渡し守甚兵衛の大きな碑が、供養堂とともに今は浜から遠くなった旧印旛沼渡船場跡に建っている。甚兵衛は、家族との別れのために帰宅した宗吾のために、禁を破って渡し舟を出し、役人の刃に掛かるよりはと印旛沼に身を投じたといわれている。しかしこの人は、芝居上の人物ではないかという向きもあり、いま一つはっきりしない。地元では、綿貫甚右衛門という人の子で、吉高村に住んでいた実在の人物といわれている。協力者がいなければ、あのとき宗吾は渡れなかったであろう。
 
佐倉宗吾の直訴

承応2年12月20日(1653/一説に承応元年)下総国佐倉藩印旛郡の君津村・名主総代・木内宗吾(惣吾、宗五郎)が、上野東叡山寛永寺に墓参りの4代将軍家綱に直訴をした。
当時佐倉では数年来の不作により大変な飢饉に襲われていました。しかし藩は年貢を緩めることはなく、足りない分を名主が財産を処分して代理で納めてもなお足りず、結果的に滞納になった農家には厳しい処分が行われました。この事態に宗吾は他の名主とともに、窮状を訴えせめて処分だけでも免除して欲しいと藩に申し出ますが、却下されてしまいます。ここに至り、宗吾は将軍様に直訴する以外ないとして、この日の行動になりました。
最初は宗吾のほか数名の名主が共同で直訴すると言っていたのですが、将軍様への直訴は超御禁制のこと。死罪は免れがたい上、多人数での行動は目立つとして宗吾一人で行動することになります。また直訴に先だって宗吾は妻を離縁、子供たちとともに実家に帰しました。当時農民がその土地を離れることは、お伊勢参りのような特殊な場合を除いては絶対に不可能なことです。宗吾はあくまで隠密に行動。印旛沼の渡し守・甚兵衛もこれに協力して、本来渡してはいけない沼を死罪覚悟で渡し、宗吾を送り出しました。
将軍様の行列が通りかかります。先導する武士たちが行きすぎて将軍様の駕籠が目の前に来た所で宗吾は飛び出しました。「お願いで御座います、お願いで御座います」一瞬、将軍の駕籠が止まります。直ちに宗吾は取り押さえられます。駕籠の中の家綱がそばに控えていた者に短い指示を出します。訴状はその者が取り上げ、宗吾は拘束されました。そして将軍の駕籠が再び動きだし、行列は何事もなかったかのように継続されました。
墓参りが終わった後、家綱は訴状の内容を確認、ただちに佐倉藩の状況を調査報告するよう命じました。そして佐倉藩の深刻な不作が確認され、そのあと3年間年貢の減免が行われます。農民たちは救われたのです。
しかし宗吾は当然のことながら死罪と決まりました。佐倉藩中の名主たちが助命を嘆願しますが認められず、翌年9月3日君津村にて磔。村中の者が合掌し念仏を唱えました。なお、妻子も一緒に磔にされたという説もありますが、親戚預けになったという説の方を採っておきたいと思います。
この木内宗吾(通称佐倉宗吾)の処刑の地の後には、現在宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺/千葉県成田市)が建っており、参拝の人は今も絶えません。
彼の物語は歌舞伎や講談などでも語られています。  
 
佐倉宗吾口説き

これは過ぎにしその物語 国は下総因幡の郡
佐倉領にて岩橋村よ  名主総代宗吾と言うて
心正直利発な者よ 事の由来を尋ねて聞けば
国の役人おごりに長子 年貢取立厳しくなさる
下の困窮目もあてられず  今は暮しも出来がたなれば
国の村々相談極め 年貢加役の御免を願い
去れど役人邪なれば 背く輩はお仕置きなりと
尚も厳しき取立なれば  百姓残らず思案に暮れて
組合隣村始めといたし 二百二十のその村々へ
廻状回して相談なせば 佐倉宗吾を始めとなして
名主総代残らず合せ  江戸の屋敷へ願いを上げる
又も今度も取り上げられず 宗吾心で思案を定め
諸人一同身の苦しみを 我身一人の命にかえて
いっそお上へ願わんものと  国の妻子によくよく頼み
暮の二十日の御成の場所は 花の上野の三枚橋の
下に忍んで待ち受けまする そのや折から将軍様は
御成相済み官許となりて  橋の袂へお籠はかかる
兼て用意の宗吾やこそは 竹の端へと願書を挟み
橋の下より立ち出でながら 恐れ多くもお籠の中へ
願書差し入れ平伏いたす  それを見るより御供の衆は
直に宗吾に早縄かけて 奉行所へと御渡しなさる
されば佐倉の後領主様は 憎い宗吾が将軍様へ
直接願いを上げたる故に  直に上より言い渡されて
年貢加役も御免となれば 国に残りし百姓達は
心落ち着き安心いたし 下の騒ぎは静まりたれど
これに哀れは佐倉の宗吾  上へ直訴をなしたる罪で
国へ引かれて獄牢住い 殿の憎しみ昼夜の責に
今は裁きも極りまして 親子六人仕置きの場所へ
力なくなく引き出だされる  宗吾夫婦の見るその前で
子供並べて成敗いたす 修羅の太鼓が合図の地獄
下にも地獄の牛頭馬頭なるが 未だ二つの三之助からよ
首を切らんと太刀振りあげる  これを見て居る母親こそは
心身もこの世も哀れな思い 我身夫婦は責苦に逢って
如何に苦しみいたせばとても いとしあの子は残忍たらしや
幼子供になぜ科ありて  殺し給うか無惨の人よ
鬼か天魔の仕業であるか 物の報いはあるものなるぞ
思いは知らさる覚悟をせよと はっと吐く息火焔の如く
嘆き苦しむ早やその内に  あとは五つの喜八を始め
なかは九つ源助云うて 総領十一総助までも
情け容赦も荒みの刀 子供四人は両挙を合せ
これや父さんあの母さんよ  先へ逝くから後より早く
急ぎ給へと気勝の言葉 南無という声此の世の暇
首は夫婦の前へと落ちる これに続いて夫婦の者を
台にかけ置き大身の槍で  哀れ無残や成敗いたす
数多諸人のその見物が ワッと声立て皆一同に
嘆き泣き立つ声凄まじく 天に響いてあら恐ろしや
身の毛粟立ち見る人々も  共に心も消え入るばかり
去ればその後夫婦の者は 凝りし一念この世に残り
その夜霊魂現れ出て 殿の館のあの御庭先
雪見燈籠の木陰に立ちて  細き声さえ一入かれて
殿の御為に御国を思い 苦労苦間の年月積もり
恐れ乍らも将軍様へ 直の御願いいたせし罪よ
是も非道の役人方の  上を欺く偽りなれば
なおも恨みの数重なりて ここに現れ恨みを晴らす
聞いて殿様家老を始め 国の百姓皆一同に
宗吾魂魄神にと崇め  思い晴らして豊作守る
今に佐倉の鎮守の祀り 後の世迄も大明神と
国の守りと皆奉る  
 
別格大本山鳴鐘山東勝寺/宗吾霊堂

当山は宗吾霊堂と呼ばれ広く知られていますが、正しくは鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といいます。境内は木々の緑につつまれ、春の花見に秋の紅葉にと年中人出が絶えません。約10万m2の広さに、年間参詣者は約250万人の人々が訪れる霊場です。当山の縁起は、桓武天皇の時代に征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のためため建立された真言宗豊山派の寺院です。我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名木内惣五郎)様は、佐倉藩国家老による暴政に苦しむ領民の救済を四代将軍家綱公に直訴し、その罪により承応2年(1653)公津ケ原刑場で磔刑に処せられました。この時当山の住僧澄祐和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。現在のお墓がそれで、惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752)百年忌の時に堀田正亮公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになり、寛政3年(1791)堀田正順公は徳光院の院号と石塔一基を寄進しました。文化3年(1804)堀田正時公が惣五郎様の子孫に田高五石を供養田として与えました。長い間、宗吾様をまつる堂宇の建立は許されませんでしたが、現在は本堂、客殿、霊宝殿、仁王門、鐘楼堂他宗吾様の御生涯を66体の等身大の人形により再現した日本有数の大パノラマ式の宗吾御一代記館等の建造物があり、信仰に参詣に多くの人々の人気を博しています。  
 
義民の世界1 / 佐倉惣五郎伝説

嘉永四(1851)年、歌舞伎に新しいヒーローがうまれた。 「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)の主人公浅倉当吾こと佐倉惣五郎がその人である。
百姓一揆がテーマであるこの作品は、関係者の予想をはるかに超えるヒットとなり、またたく間に日本中に広まった。
各地の農村では、この物語を受け入れる素地ができていたのである。 幕府が作られてから250年、数多くの百姓一揆が発生し、義民を顕彰する活動も十八世紀後半から活発になっていった。
明治以降も惣五郎歌舞伎は頻繁に上演され、佐倉義民伝として定着した。
また講談・浪花節などでも積極的に取りあげられた。
福沢諭吉や自由民権活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげた。
また昭和恐慌や戦後改革の時期などに、惣五郎の物語は新たな解釈を伴いながら思い起こされた。 西暦2000年の今、惣五郎物語は何を語ってくれるのだろうか。
佐倉藩と「惣五郎一揆」
惣五郎一揆を証明しうる史料はない。
彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。
ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。
この惣五郎が藩と公事(くじ 訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられていった。
惣五郎物語の成立
宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる。
延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政>門訴(もんそ)>老中駕籠(かご)訴>将軍直訴>処刑>怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。
歌舞伎の惣五郎
「東山桜荘子」は嘉永(1850年代)の大ヒット後、幕末から昭和初年まで頻繁に上演された。
外題は改作にともない「花雲佐倉曙(はなぐもりさくらのあけぼの)」「桜荘子後日文談」などと変化するが、明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着する。
見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。
嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
ひろがる惣五郎
歌舞伎の成功により講談や浪花節などでも惣五郎物語が取りあげられ、各地で物語が写本された。
幕末から明治初年の一揆では、その組織化に惣五郎物語が取り入れられることもあった。
自由民権家は惣五郎を民権の先駆者としてとらえ、その偉業を受け継ごうとした。
惣五郎物語は数多く出版され、日本の代表的な物語として外国語に翻訳されたりした。
東勝寺は宗吾霊堂として多くの信者を集め、全国に惣五郎を祀る神社などが建立された。
 
義民の世界2 / 「佐倉義民伝」の心情的分析

( 文中に惣五郎と宗吾の表記が交錯する場面がありますが、基本的には論考を惣五郎で通しています。歌舞伎の「佐倉義民伝」に限定した場合のみ宗吾としています。)
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今日では「佐倉義民伝」として知られる三代目瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演されて大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ちなみに浦賀沖にペリー率いる黒船が来航したのはその2年後の嘉永6年のことになります。幕末の世相は次第に混乱の様相を呈してきます。ところでいつぞや「佐倉義民伝」の解説を眺めていましたら、どなたの解説だか忘れましたが、「幕末の世相穏やかならぬ時期に直訴の芝居を上演差し止めにできなかったのは、当時の幕府の権威がいかに落ちていたかを示すものである」という趣旨のことを書いているのが目に付きました。残念ながらこれは認識がちょっと違いますね。確かに佐倉惣五郎はその後の明治において自由民権運動のシンボルとして祀り上げられた背景がありますから「佐倉義民伝」を見るとこんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかと驚くのかも知れませんねえ。しかし、逆にして考えてみれば、そのような体制批判の因子を持つ(と思われるような)芝居を幕府が問題視せず・上演が許可されたということは、幕府はこの芝居をそのように解釈しなかったということなのです。それはどうしてかという背景を考えないから上記のような誤解をするわけです。本稿ではこのことをきっかけとして「佐倉義民伝」という作品を考えていきます。
まず嘉永4年(1851)江戸中村座での「東山桜荘子」初演は当初その成功が危ぶまれて・座主が上演を渋ったと言われています。しかし、その理由はこの芝居が百姓農民を主人公とする地味な芝居(これを木綿芝居と呼びました)で派手さがないので・これでは巷の話題にならないと心配したからでした。農民直訴の芝居がお上の神経に触って上演差し止めになるかも・・・という心配をしたのでは ないのです。ところが蓋を開けてみれば興行が100日を越える大ヒットとなったのでした。こうして本作は「切られ与三郎」と並ぶ如皐の代表作となりました。
もちろん「東山桜荘子」は佐倉の惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなくて、本作は題名から分かる通り世界を東山に採り・つまり室町時代であると仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げたのです。このような形になったのは当時は幕府の規制により実在の人物や事件をそのまま芝居にすることが出来なかったのでそうなったのです。全七幕の芝居のなかで特に三幕目の「甚兵衛の渡し」と「子別れ」が好評でした。また大詰め「織越家館の場」で惣五郎の怨霊が殿様を悩ませる場面で燈篭抜け・居所抜けなど小団次が得意とするケレンが用いられて、歌舞伎年代記ではこれが「大出来」と書かれています。
本稿では「佐倉義民伝」(東山桜荘子)をいろいろな角度から考えていきたいと思いますが、とりあえずどうして幕府が農民直訴の芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由のひとつ目を挙げておきます。はっきり言えばそれはこの芝居で描かれている農民の窮状はあくまで藩主織越大領政知の不始末によるもので、別に封建制度の批判なんてところに作品の主眼がないからです。お上である足利将軍は主人公の朝倉当吾(佐倉惣五郎)の直訴を受け入れて、お上としての慈悲を示した。足利幕府は正しい裁きを行ない、御政道の正しいことが示された。殿様も 当吾の怨霊に悩まされますが、最後は改心します。当吾は大明神として祀られてメデタシメデタシということになります。これが時代物というものの構造です。「 東山桜荘子」は後の世から見れば確かに由々しい主題を秘めた作品には違いないのですが、とりあえずお上はそのことを見ないことにするのです。時代物の世界構造がしっかり守られている限りお上は寛大なのです。
しかし、幕末期にも幕府により上演差し止めになった芝居は数多くありました。慶応2年(1866)2月守田座での「鋳掛け松」はしがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうという場面が大評判となりました。この芝居が原因となって幕府は「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを出し、芝居に対する検閲強化に乗り出しました。小団次はこの報を聞いて身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。
『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)
小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなっていき、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。ちなみに慶応2年とは明治維新の前年のことです。当時の幕府の権威が(少なくともお膝元の江戸においては)どれほど凄いものであったか・これで想像が付くと思います。ところで「鋳掛け松」は普通の世話物で、別に封建体制批判をしたわけでもないのです。「あれも一生、これも一生・・・」とやっただけのことです。これのどこがいけなかったのでしょうか。幕府はこの芝居を「今の世の中は嫌だ、こんな生活はご免だ、こんな世の中は変わってしまえ」という民衆の気分を煽っていると受け取ったのです。だから無視するわけにいかなかったのです。
嘉永4年の「東山桜荘子」と慶応2年の「鋳掛け松」は上演年代も作品も違っていますが、幕府が芝居に対して常に警戒するのはどういう点であるか、このふたつを比べてみれば分かると思います。それは実に曖昧な判断基準であるのですが、為政者はその絶対的権威を以って民衆に慈悲を示す「許しの構図」がその作品に見られるならばこれを許すのです。それは為政者が自らがそうありたいと願う・もっとも望ましい姿だからです。現在の「子別れ」中心の上演形態ではそのことが明確に分からないかも知れませんが、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)はそのような世界構図を取っているのです。これが幕府はこの作品を上演差し止めにする必要はなかろうと判断したことの理由のまずひとつ目なのですが、さらに「佐倉義民伝」という作品背景を探っていきたいと思います。  
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「東山桜荘子」が初演された8年後の安政6年(1859)のことですが、信州伊那谷で南山一揆と呼ばれる農民一揆が起こりました。指導者小木曽猪兵衛は佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したということです。この頃には義民としての惣五郎の名は各地に広まってい ました。これには歌舞伎の成功が一役買ったのです。もっとも歌舞伎の惣五郎は領主の圧政に 農民の憤懣が高まって一揆になりかねない雰囲気なのを抑えて・単身で直訴に及ぶわけです。だから惣五郎はホントは一揆の指導者ではないのですが、惣五郎というのは農民の権利意識のシンボルだということなのでしょう。さらに明治になると惣五郎は民衆運動のシンボルにも祀り上げられていきます。
ところで嘉永4年「東山桜荘子」初演の時になぜ幕府はこの芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由をさらに考えていくために、江戸時代の農民一揆というのはどんなものであったかということを知っておかねばなりません。ついちょっと前(吉之助の子供の頃)は農民一揆と言えば鋤や鎌を持って年貢の減免を訴える農民たちを侍たちが情け容赦なく斬り倒して・首謀者を片っ端から磔刑に処すというようなイメージが あったと思います。このような支配階級であり・生産手段を持たない・しかし武装手段を持つ武士が、領民であり・非武装である農民から生産物を一方的に搾取したというイメージは明治政府が前政権であった江戸幕府を貶めるために意図的に広めたもの でした。その後はこの収奪のイメージがマルクス経済学の階級闘争理論にも合致したので強い固定観念として民間に定着しました。しかし、近年は江戸時代の農村の実態調査が進んでこのような封建主義の暗黒的収奪構図はかなり修正されてきました。それでも一般の江戸の 暗黒イメージは依然として根強く残っています。
しかし、最新の歴史学の成果を踏まえれば江戸時代の一揆というものは、領主の圧政に苦しんだ農民たちが暴れるのを・武士が武力で一方的に弾圧したというようなものでは決してなかったのです。確かに室町期の一向一揆 などには階級闘争的な性格のものがありました。江戸初期の島原の乱(当時の観念から見ればこのようなものこそが一揆でした)もそのような性格のものでした。しかし、島原の乱を最後に、江戸の封建体制が整備されて以後の一揆はその性格を大きく変化して、労働争議みたいなものになっていきます。つまりそれは会社で従業員が鉢巻を巻いて・シュプレヒコールして賃上げ要求をして、時にストライキを打つというようなものなのです。 これが江戸の農民一揆の実態でした。これはどういうことかと言えば、領地を治める為政者(武士)と・そこでその庇護を受けるべき領民(農民)との関係をお互いに認め合っている範囲で起こる小競り合いということなのです。
このような為政者と領民のある種の信頼関係は、社会契約論などと小難しいことを言わなくてもどのような歴史段階の社会においてもあるものです。この関係が崩れればホントに内乱になるのです。 歴史的にみればそうやって政権は交代してきたのです。つまりガバナビリティ(被統治能力)ということです。江戸期の農民一揆はそのような為政者と領民の関係を互いに認め たところで・その一線を越えない範囲でやりあうものでした。どうしてそうなるかと言えば、まず武士の側から見ると、武士が武力にまかせて農民を無差別に殺戮して弾圧するならば・農民は土地を放り出して米作りをしなくなり、そうすると武士は年貢が取れなくなって政権が立ち行かなくなるからです。江戸時代の国家経済の基盤は米であったからです。だから武士はそこまで農民を怒らせない範囲でうまく治める必要があったのです。嘉永6年(1953)、南部藩での一揆において駆けつけた役人が一揆勢に「百姓の分際でお上を恐れぬ不届き者」 と怒鳴りました。これに対して百姓たちはカラカラと笑い、次のように言ったという話が当時の百姓一揆物語に出てくるそうです。
『汝ら百姓などと軽しめるは心得違いなり、百姓のことをよく承れ。士農工商天下の遊民みな源平藤橘の四姓を離れず、天下諸民はみな百姓なり。その命を養ふ故に、農民ばかりを百姓と云うなり。汝らも百姓に養わるなり。この通理を知らずして百姓らと罵るは不届き者なり。その処をのけて通せ』(「遠野唐丹寝物語」)
こんな風に農民に怒鳴られて・スゴスゴと道を明け渡す武士の姿を想像してみてください。しかし、ここで怒って農民を斬ったりすれば藩の対応が問われることになる。そのような行為はご法度なのです。百姓は国の御宝だからです。ですからもし百姓一揆が起きた場合は適当に暴れさせてガス抜きさせる(つまり多少の打ちこわしは黙認する)のが一番だということになります。一揆の指導者については一応形通りの処分をするけれども、誰彼も無用に磔刑に処することなど絶対にしませんでした。一揆する農民の側にも無言のルールがありました。鋤や鎌は持っても、刀や銃 などは絶対に使わない。火付けは絶対しないなどです。あくまでお上に待遇改善を願うのであって体制転覆を図るのではないというところが、一揆する側の立場なのです。ですからお互いに治め・治められる立場を認め合うところで江戸期の農民一揆は行なわれたものでした。江戸期は一揆が頻発し数えれば三千数百件くらいの一揆が起こったそうですが、大抵はそんなものだったのです。(これについては保坂智著:「百姓一揆とその作法」あるいは白川部達夫著:「近世の百姓世界」などが参考になります。)
このような認識を以って「東山桜荘子」(佐倉義民伝)の舞台を見るならば、こんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかなどと驚くことは決してないはずです。佐倉宗吾の将軍直訴自体は確かに穏やかではないことですが、そこにお互いに治め・治められる立場を認め合うところがあるならば、それを許さないほどお上に慈悲がないわけではないのです。むしろ このくらいの寛容を見せることはお上の度量の大きさを示す絶好の機会だから望ましいくらいのものです。まず「東山桜荘子」の世界構造がそのようにあって、その世界観のうえに「甚兵衛の渡し」と「子別れ」のドラマがあるのだということを知っておく必要があります。
別稿「世界とは何か」でも触れましたが、歌舞伎の時代物の「世界」構造とはどういう意味を持つのでしょうか。お上の規制があるので同時代の事件をそのまま描けないから・方便として架空の出来事に仕立てて勧善懲悪のパターンで逃げを打ったということも、建前としてもちろんあります。しかし、歌舞伎の「世界」がひとつの作劇の概念として定着した後においては「世界」のハンデを逆手にとって作劇に利用するという積極的な意味があったのです。「世界」の積極的な意味とは「そうでなければ叶わない」と誰もが納得する結末に芝居を至らしめるということです。佐倉惣五郎の物語をそのような視点で見てみたいものです。  
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誤解ないように付け加えれば、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)にはレジスタンスの精神がなく・結局はお上賛美の芝居で・お上にひれ伏してただお慈悲を乞うだけの芝居であると言っているのではありません。それでは惣五郎のドラマが 余りにいじましく 惨めな感じになってしまいます。それでは「子別れ」のドラマの感動の説明ができません。惣五郎はその後に民権運動のシンボルに祀り上げられていくほどですから、レジスタンス精神の萌芽のようなものは間違いなくあります。その過程を検証することはもちろん意味あることです。しかし、その前に吉之助は惣五郎の自己犠牲の行為のピュアなところをちょっと考えてみたいのです。
「歌舞伎素人講釈」ではこれまでもかぶき的心情の考察で触れてきましたが、江戸時代の民衆は個人と社会の関係を対立構図として明確に意識することはなかったのです。それは明治期になって西洋思想が流入してきてから以後の視点です。だから地域の窮状を見かねて直訴に打って出る惣五郎の自己犠牲の心情は、そのような人権思想のフィルターを取り除いて見ないと、 惣五郎の心情のピュアなところが見えてこないわけです。ひとつ例を挙げます。幕末の江戸の蘭学塾と言うと伊東玄朴の開いた「象先堂」が有名でした。これは大坂での緒方洪庵の適塾に比せられるもので す。この象先堂の蔵書のなかで玄朴が「読むと気が狂う」と言って閲覧を決して許さなかった本がありました。後に分かったことですが、それはオランダの民法書であったそうです。
『なるほど身分制度のやかましい江戸封建制のなかで、フランス革命の落とし子ともいうべきヨーロッパの民法書を読んだとすれば、平等の思想や権利の思想を知るだけでも、血の気の多い者ならば欝懐を生じ、気が狂う破目になるかも知れない。(玄朴は読んだのだな)と、明治後、良順は思った。読んだ時の玄朴の思いはどうだったのであろう。玄朴の場合、わずかに蘭方という新奇な医学を身に付けることによって他から軽侮されることをまぬがれたが、それでもなお、オランダの民法書を読んだ時は、暮夜ひそかに自分の出身階級を思い、多量の欝懐を感じたかと思われる。良順は明治後、このことを思うたびに玄朴に愛情を感じたりした。』(司馬遼太郎:「胡蝶の夢」)
身分社会のなかに生き・それが当然と思って生きてきたなかで、多少でも志のある若者がひとたび平等の思想や権利の思想を知ったとすれば、自分のしたいことが出来ない悔しさに自分の出身階級を泣き・あるいは社会の理不尽さを呪い、懊悩することに当然なる と思います。だから玄朴は「読むと気が狂う」としてヨーロッパの民法書を読むことを禁じたのです。当時の人々にとって平等の思想や権利の思想はそれほどの強い衝撃 であったわけですが、そのような成文化されたものではなかったにしても「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは当時の日本人にももちろんあったに違いないのです。それは倫理あるいは道徳感覚から来るもので、理屈ではなく・心情から発するものでした。それは吉之助がかぶき的心情として提唱するものとほとんど同じものです。(付け加えれば、これは現在連載中の「折口信夫への旅」のなかで触れましたが、理不尽な神の仕打ちをグッと耐え忍ぶ時に内心に湧き上がってくる倫理的感情と同じものです。折口信夫が「自分の行為が神の認めないことと言う怖れが古代人の心を美しくした」と言う指摘がこれに当たります。そこから「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というピュアな心情が生まれるのです。)
「与えられておらねばならぬ」と言って一体誰から与えられるものなのかという問題があると思います。それが為政者なのか・神なのか・社会なのかが明確ではありません。どこか他力本願のようにも思われます。 しかし、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情があるのは間違いありません。その心情が強い方向性を以って為政者の方へ向いた時には、それはルソーの 「社会契約論」のような形を取ったりもするわけです。恐らくヨーロッパの民権思想もそのようなピュアな心情から発したものでしょう。ルソーの 「社会契約論」は1762年の出版ですから、ヨーロッパにおいても民権思想の歴史は実はさほど長いわけではありません。現在でもヨーロッパ社会は深層部分では日本人が驚くほどの強固な身分社会であることは知っておいた方が良いです。むしろ日本の方がずっと平坦な社会だと言えます。 逆に言えばスイスの時計職人の息子(ルソーのことです)が「社会契約論」を書かねばならなかった素地がそこにあったわけです。ヨーロッパでは権利は勝ち取らねばならないものでした。しかし、どうも日本ではそうではなかったようですね。
江戸期の日本人においては「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは多少の憤懣はあってもそこそこ充足された段階で、自らが享受すべき権利として強く意識する必要があまりない状況であったのかも知れません。そのことが良かったか悪かったかということは一概に言えません。政治に不満があっても・お上のことは仕方ないでナアナアで済ませるところは現代日本人にもあって・そういうところは江戸時代に発するのかなと思いますが、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情はもちろん現代の我々にもあるはずです。その心情のピュアなところを現代の我々はもう一度見詰め直していく必要があるかも知れませんねえ。そうしないと平等の思想・権利の思想は正しく我々の身に着いたものにならぬのです。義民佐倉惣五郎のドラマはそういうことを考えるきっかけになるかも知れません。  
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斎藤隆介氏は「ベロ出しチョンマ」や「八郎」などで知られる創作民話の作家です。斎藤氏は自らの創作民話の理念として「従来の社会を変革して・人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない・その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていく・これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ」(「八郎」の方法・1973)」ということを語っています。「ベロ出しチョンマ」(1966)は佐倉の惣五郎伝説をべースにしたとされてます。長松(チョンマ)の父親(注:作品では惣五郎ではありません)は農民たちの苦しみを見かねて将軍に直訴に及び・捕われの身となり ・磔(はりつけ)の刑を受けることになります。長松兄妹も父ともども捕らえられて刑場に送られます。刑を執行される時、妹のウメが槍の穂先を見て泣き出します。 その横で磔になっている長松は「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んで、眉毛をカタッと「ハ」の字に下げてベロッと舌を出して見せたという話です。いかにも惣五郎の息子にありそうな挿話ですが、これは斎藤氏のまったくの創作です。
ところで斎藤氏は当時いわゆる偏向作家(左翼系の作家という文部省用語)と見なされたもので、発表当時は「ベロ出しチョンマ」も封建社会のもとで厳しい収奪を受けてきた民衆が権力の非人間的な弾圧に屈することなく、踏まれても蹴られても・たくましく真実を貫いてきた民衆の不屈の精神を描いた作品であるとよく評されたもので した。当時は小学生だった吉之助もそんな風に教えられたような記憶があります。こうした読み方は斎藤氏の言動と考え合わせると・なるほどそんなものかと頷いてしまいそうなところがありますが、ところが当の斉藤氏がこのような読み方に猛然と反発するのには驚かされます。
『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)
どうやら斎藤氏の真意は、社会が何だ・人権が何だとこざかしい理屈を言う前に・長松という子供の気持ちを素直に捉えて読んで欲しい・それこそが民話の原点であり・すべての出発点であると言うところにあるようです。
「佐倉義民伝」を考える時に上記の斎藤氏の主張がとても参考になると吉之助は思います。惣五郎の自己犠牲の行為のピュアな要素を考える時には、社会と民衆とか・人権という問題をちょっと置いて・惣五郎の気持ちの核を想像してみる必要があります。それは結局、清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りにあるのです。理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係ということです。折口信夫は次のように書いています。
『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
古代の人々は理不尽な神の仕打ちに黙々と耐えた・それが道徳らしきものを生み出したと折口は言います。佐倉惣五郎にも同じように強い宗教心(適当な言葉がないので便宜上そう書きますが・要するに神をひたすら信じる純な気持ちということです)があります。しかし、惣五郎は古代人ではありません。惣五郎はずっと時代が下った江戸初期という・道徳規範が既に固まり・アイデンティティがやっと芽生え始めた時代に生きた人間ですから、その宗教心は古代人とはちょっと違った表れ方を見せます。惣五郎には為政者と民衆を対立構図に見るような視点はまだありません。清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りだけがそこにあります。ここが大事なポイントですが、そのような憤りが生じるのは「清く正しく真面目に 生きるべし」という倫理道徳の基準がそこにあるからで、それに沿うなら良し・それにはずれれば悪いという判断があるということです。ですから惣五郎の憤りの場合には、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないという ことになるのです。そのような惣五郎の憤りが熱い自己主張を以って噴出します。そのような憤りを誰かにぶつけなければ居られないという・やむにやまれぬ思いは、江戸初期の・かぶき者 (仁侠者)の行動によく似ています。実はそこに江戸初期の時代的気質が反映しているわけです。 だから惣五郎の自己犠牲の行為はかぶき的心情の行為であるということです。  
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『憤りというのは、胸がどきどきするほど腹が立つこと。動詞で、憤る。形容詞では、憤ろし。また、憤ろしいと私の生まれたところでは言うた。この腹が立って腹が立ってしようがないという気持ちが、我々の道徳を支持しているのである。我々の民俗の間にできてきた道徳観念をば守り、もちこたえていく底の力になるのが憤りである。(中略)ああいうことが世の中で行なわれてよいのか、これから先、どうなってゆくのか、と思うことがある。この気持ちを公憤と言う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)
折口信夫は、憤るという感情が我々の道徳の根本にあると言っています。しかし、折口はまたこういうことも言っています。憤りはそのような美しい形を備えていないこともよくあって、しばしばそれは一種のねたみ・そねみから発していることがあり、むかつきの場合に過ぎないことも多いというのです。平安朝の語で「おほやけはらだたし」とか、略して「おほやけばら」という語がありますが、個人的なむかつきを公憤の形にして出すことも少なくないようです。世にいう正義派というのがそれで、特に政治的な争いで負けた場合にそういう風になりやすいようです。身分の高い人の場合は公人という 性格も持つので、個人のむかつきの感情も公のそれとして重ねて読まれることが必然的に多くなるからです。いわゆる御霊と呼ばれているもの(歌舞伎においては荒事に取り上げられているキャラクター)の多くが政治的敗北者です。これは菅原道真などを見れば分かります。
逆に町人や農民など身分が低い人の憤りを公のものとして読むことは普通はできないわけですが、しかし、数少ないケースですが、その個人の憤りがピュアで無私なもので・なおかつそれが社会の道徳観にぴったりと当てはまるものならば、その憤り が公的な性格を帯びてくる場合があり得ます。例えば佐倉惣五郎の憤りがまさにそれに当たります。平穏に暮らしている村に、権力が何かとんでもないことを要求して来たとします。そういう場合に、お上が言うことだから仕方がないと 卑屈に諦めてしまうならば何も起こりませんが、そうするとただ言いようのない不平不満ばかりが残ります。状況は何も変化することがありません。しかし、誰かが自分たちはこのような扱いを受ける謂われはないというような憤りを発して、自分たちに突きつけられた刀を無意識のうちに振り払うような行動に出たとすれば、状況は一変します。 惣五郎の直訴の行動がそのようなものです。
『水呑み百姓をいじめて暴利を得て出世した良くない役人が威張ることがある。水呑み百姓の社会では行為に対する判断はできずに、ただ反感だけがある。何か説明できぬ気分が漂うている時、誰かがひとつの清純な感情をほとばしらせて、その感情で批判して反抗する。田舎における任侠行為は、こんな時に起こってきて、無頼漢などはあずからない。佐倉宗吾などが代表的人物として言われているが、すべて道理も何も分からぬ人が、何かを要求し、説明を求めて来、ぴったりはまる判断がついてくると、そこに出てくるものは、いちばん古い判断や感情である。われわれは、こういう生活を先祖から与えられておらねばならぬ、そういうはずはない、という判断になる。だから、任侠ということも、田舎の生活の道徳的な鍛錬淘治の行き届いておらぬ社会のいちばん最後に到達するものだから、大事だと思う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)
話がちょっと脇にそれますが、別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界・その3」で2009年2月に作家村上春樹が文学賞であるエルサレム賞受賞式において「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」というスピーチをしたことについて触れました。村上氏は「やってはいけないこと」を強制するものに対して徹底的に憤るのです。この憤りはたとえば「ねじまき鳥クロニクル」の主人公の「僕は詰まらない人間かも知れないが・少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という発言にも出てきます。個の「憤り・怒り」だけが「システム」の暴走を阻止する絶対的な力になると信じるのが村上氏の作家としての立場です。村上文学のなかでは主人公の世界は原則としてひたすら「個」です。惣五郎の憤りも同 じように考えたいと思います。逆に言えば、無国籍文学のように言われる村上文学の日本的な感覚の一端がここにあると吉之助は考えるわけです。それが「黙阿弥的世界」というタイトルになっているわけですがね。
今日的視点からすると、佐倉惣五郎の憤りも人間の尊厳とか生きる権利であるとか・そのような公的な憤りに重ねて読むことも可能かも知れません。だから現代人はついついそのように読んでしまい勝ちです。まあそれも無理ないことですが、しかし、それは個人と外界を対立的に見てしまうからそういうことになるのです。そうではなくて、まず惣五郎の憤りのひたすらに「個」であるところを見詰めてもらいたいと思います。そうすると、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・ということになるのです。これが惣五郎の憤りの原点となる論理です。それはひたすらに無私であり・ピュアなものです。そして、なおかつそれは当時の道徳感覚に触れてくるものですから、その憤りは自然と公的な性格を帯びてくることになるのです。
佐倉宗吾(惣吾)が惣五郎とも呼ばれるのは、そこに御霊(=五郎)の音を重ねて・民衆がその憤りに公的な性格を持たせようとしたからだと考えられます。現在の宗吾霊堂は千葉県成田市東勝寺にありますが、実は昔は宗吾由縁の場所が 別のところにありました。それは近くの・かつては将門山と呼ばれていた小高い丘で、そこに平将門の居館があったと伝えられています。江戸時代には将門山の「口の宮神社」に宗吾は祭られており 、そこは「佐倉宗五郎大明神」と呼ばれていました。 これが後に東勝寺に移されました。このことは分かるように宗吾は将門と重ね合わせて御霊神として地元の民に崇められていたことが明らかなのです。惣五郎の憤りがひたすら「個」であるからこそ、その憤りは公のものとなる。こう考えることで惣五郎の御霊神的性格が分かって来ると思います。  
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福沢諭吉は「学問のすすめ」(明治7年・1872)のなかで、「人民の権義を主張し、正理を唱え政府に迫り、其命を棄てて終をよくし、世界中に対して恥ることなかる可き者は、古来唯一名の佐倉宗五郎あるのみ」と書きました。明治の初め各地で民権運動が始まりますが、民権意識を地域に定着させるために、出版・講談・芝居・双六などいろいろな場面で惣五郎が喧伝され、民権のシンボルとして分かりやすく通俗的な形で取り込むことがされました。
「魚屋宗五郎」の初演は明治16年(1883)5月市村座のことでした。理不尽な理由で妹お蔦を手打ちにした磯部の殿様の処置に対して、次第に沸きあがってくる憤りを宗五郎は抑えきれません。それで宗五郎は禁酒していた酒を飲んでしまって、暴れ出します。別稿「荒事としての宗五郎」において、酒を飲んで荒れ狂う宗五郎の酒乱は世話の「荒れ」であり、「宗五郎」という役名は佐倉宗吾(惣五郎)に重ねられているということを書きました。これは吉之助の推察ですが、もちろん根拠はあります。文久元年(1861)8月守田座での再演にあたって瀬川如皐の原作「東山桜荘子」に、黙阿弥が改訂を施したものが現行の「佐倉義民伝」なのです。改訂の際に黙阿弥は原作の田舎源氏の筋を抜いて・筋をシンプルにして、代わりに仏光寺の場を書き加えました。仏光寺祈念の場では宗吾の叔父・光然はせめて子供の命は助けてもらいたいと祈念を込めますが、その願いが叶わず子供たちが処刑されたのを知って・数珠を切って憤怒の表情で印旛沼に入水します。この場は明らかに荒事の荒れの系譜を引いています。佐倉宗吾(惣五郎)=御霊神のイメージが、黙阿弥のなかに確かにあるのです。明治10年代 というのは民権運動がピークの時期で、明治16年の黙阿弥も無関心でいられたはずがありません。確かに「魚屋宗五郎」は酔いが醒めてしまうと殿様にペコペコするのでちょっとガッカリしするところがありますが、封建社会・身分社会の理不尽に対して宗五郎が強烈な怒りを発するところは、そこに黙阿弥なりの民権意識があったに違いありません。
明治17年(1884)市村座では「東叡山農夫願書」で九代目団十郎が佐倉宗吾を演じることになりました。最初、団十郎は義民・義民・・と言って役作りに意欲を燃やしていたのですが、そこに当時の劇評家の権威とされていた依田学海が現れて、「領主の非行を暴いて直訴するなど穏当ではない」 などと罵倒し、事あるごとに「宗吾は三百代言(大嘘付き)だ」と触れ回ったので、団十郎はだんだん嫌気が差してきて・演技が投げやりになってしまい、そのため芝居の評判は甚だ良くなかったそうです。実は当時の依田学海は文部省の役人でありました。明治政府の立場からすると民権運動を刺激するこのような芝居は面白くなかったのです。また学海は旧佐倉藩の出身でした。ちなみに幕末の佐倉の殿様は堀田氏と言いますが、宗吾伝説に登場する堀田正信が改易になった何代か後に、延享3年(1746)山形から佐倉に入封したのが堀田正亮で、この正亮の家系が幕末まで続いた堀田氏です。正亮は正信の弟正俊の家系に当たります。正亮は惣五郎伝説の問題人物の血筋であることを気にしたようで、惣五郎百年忌に当たる宝暦2年(1752)に供養を行ないました。もともと惣五郎伝説は資料的な裏付けが少ないもので・地域の 伝承に過ぎなかったものですが、藩が公にこれを認める形になったことで惣五郎伝説が確立することになります。18世紀後半には「地蔵堂通夜物語」、「堀田騒動記」などの惣五郎物語が完成しました。学海は旧佐倉藩士という関係で、佐倉宗吾という題材がそもそも気に入らなかったということ もあったかも知れません。
以上は年代関係ごちゃごちゃしてますが、 要するに地域の伝説に過ぎなかった惣五郎のイメージが次第に流布して拡大し、歌舞伎にも取り上げられて、さらに明治になって民権運動のシンボルに祀り上げられていくということです。ただし、前節で書きました通り、惣五郎の憤りの原点となるところのピュアなものを見詰め直す必要があると思います。  
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明治9年(1876)、明治天皇は元老院議長へ国憲起草を命ずるの勅語を発せられ、それ以後に各地でいろいろな憲法私案(私議憲法)が議論されました。その内容はさまざまですが、これからの近代国家日本をどう構築していくかという根本に係わることですから、民衆も必然的に熱くなったと思います。明治10年代は自由民権と憲法の議論がとても 盛んな時期でした。しかし、明治政府にとってこのような自由民権意識の高まりは迷惑なことでしたから、これらの私議憲法を取り上げて議論することはありませんでした。 逆に明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して、私議憲法の検討・議論を禁止してしまいました。大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されたのは明治22年(1889)のことですが、これは欽定憲法・要するにお上が人民に下された憲法ということです。憲法が発布されてしまうと、自由民権運動は急速に冷めていきました。
このような私議憲法の議論に惣五郎はもちろん直接関係はしませんが、清く正しく・真面目に生きている庶民は正当な扱いを受けて当たり前だ・・というピュアな思いは間違いなく惣五郎と共通したものがあったのです。幕末から明治前半に掛けて 、初演の瀬川如皐から黙阿弥の改訂を経て今日出来上がった歌舞伎の「佐倉義民伝」にも、そのような惣五郎のピュアな思いを見なければなりません。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いです。これが直訴という行動になって現れる惣五郎の憤りの原点です。それが「佐倉義民伝」の世界観になっているのです。
「佐倉義民伝」には直訴という穏当でない行動が登場しますが、江戸幕府がこれを咎めることなく上演を許可したということは、作品の「世界」があるべき形で然りとあるならば幕府はこれを正しく認めるということに他なりません。この点において幕府は公正です。むしろ明治政府の自由民権に対する態度の方がずっと捻じれていて変じゃないのか?ということを考えてもらいたいのです。
ですから「佐倉義民伝」に出てくる直訴という行動自体に格別の政治的な意図はないのです。それは当時の農民の弱い立場ならそうする以外に状況打開の方法が考えられなかったからです。 だから「佐倉義民伝」のシチュエーションにおいては筋がとりあえずそうなっているに過ぎません。そこを取り違えると、惣五郎の自己犠牲の意味がまったく変ってしまいます。「ベロ出しチョンマ」の作者である斎藤隆介氏は次のように言っています。
『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)  
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直訴というのは確かに穏当ではない政治的行動ですが、強者である為政者に対する弱者・被統治民からの命を掛けた・やむを得ぬ行動であると考えられます。これはかぶき的心情からは次のように読めます。かぶき的心情の行為においては、自らのピュアな心情の強さによって相手の心を揺さぶり・自分の気持ちを理解させようとする情念の行動が見られます。自分は命を棄ててここまで訴えている・だから貴方はこの訴えを理解してほしい(理解すべきである)・・という論理プロセスです。例えば「伊賀越道中双六・沼津」の平作は、事情があって敵の行方を明かせない十兵衛に対して、自ら腹を切ってみせて問いかけることで、これを十兵衛から聞き出します。つまり、その心情によって相手の心を揺さぶり・動かそうとするのです。命を掛けて問うてはならないことを聞き、問われた者は答えてはならぬことを答える。多くの場合、それは良い結果にはなりません。結局、双方とも死ぬことになります。「伊賀越道中双六」でも後段・伏見において十兵衛は敵の一味として討たれることになります。
しかし、問われる相手が数段格上であるとドラマの様相が全然違ってきます。六段目の勘平が腹を切るのは、直接的には自分が金が欲しくて故意に舅を殺したのではない(実はこれは誤解ですが)ことを証明するためで した。しかし、時代物としての六代目の構造から見れば、勘平は命を棄てて自らの忠義を由良助に訴え・討ち入りの仲間に入れてもらうことを強く願い、由良助はこれを聞きいれ・判官刃傷の際の勘平の不手際の罪を許し・討ち入りの仲間に加えることを許すということになるのです。この場合、訴えた勘平は死にますが、相手の由良助は死ぬことはありません。差し出された勘平の命を「然り」と受け取って赦すのが由良助の役割です。しかし、これは命を 差し出して勘平が由良助の心を強く揺さぶったということでもあるのです。ここまでしないと他者は動くことはないのです。これが時代物の赦しの構図です。
惣五郎の直訴も同様に考えられます。天下人の将軍に対して下々の者が直接訴え出ることは本来あるまじき事で、そのこと自体が重い罪に問われます。しかし、それを覚悟で・命を棄てて訴え出たということは、たとえ身分の低い者であっても、 そうまでするのは・そこにやむにやまれぬ熱い思いがあるのであろう。だから訴えを直接取り上げることはならぬ。しかし、訴え出たおぬしの気持ちは理解したぞ、そこを含んで・後のことは こちらに任せよ、ということになるわけです。「佐倉義民伝」の直訴の場面は、このような時代物の赦しの構図を引いているわけです。 宗吾(=惣五郎)の直訴はかぶき的心情の行為であり、その裏付けとなる相手の心を強く揺さぶるためのピュアな思いがなくてはなりません。繰り返し書きますが、それは我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾の強い憤りなのです。
吉之助が「宗吾のピュアな思い」ということがとても大事であると考えるのは、「佐倉義民伝」を見る時にそのことに強く思いを馳せないと、宗吾のドラマが全然違った方向に行ってしまうからです。実はその危険性を「佐倉義民伝」自体が孕んでいます。嘉永4年江戸中村座での「東山桜荘子」初演においても三幕目の「甚兵衛の渡し」と「宗吾内・子別れ」が特に好評でした。以後の再演においてはこれら二場を中心に上演され、やがて「佐倉義民伝」は歌舞伎の定番として定着することになります。もちろん演劇的にも優れた場ですから至極当然のことですが、「宗吾内・子別れ」において江戸に出立しようとする宗吾に・行ってくれるなという感じで妻子がまつわりついて泣き叫ぶ、これを振り切って宗吾は江戸に立つという場面は、大抵の場合には、暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界というステレオタイプの対立構図でこのドラマを読もうとすることがされてきました。まあ「重の井子別れ」ならば確かにその読み方 でも良ろしいのです。しかし、この「宗吾内・子別れ」の場合はその構造が捻じれています。ここでは妻子の嘆きが惣五郎のピュアな思いの実現を阻む枷として使われています。このことは別稿「子別れの乖離感覚」のなかで触れました。女房の叫びも子供たちの泣き声も、本来なら宗吾にとって最も大事な者たちの声が、ここでは宗吾にとって最も忌まわしいものに感じられます。子供たちの「ととさまいのう」という泣き声を宗吾に聞かせて「どうだ、大事な家族を棄てて、それでもお前は江戸へ行こうというのか」と悪魔があざ笑うかの如く感じられるということです。そこに「宗吾内・子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚があるのです。こう考えた時に、先ほど述べた我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・というピュアな憤りが見えてくるのです。
暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界という対立視点だけで歌舞伎の「宗吾内・子別れ」を見ようとすると、クローズアップされるのは宗吾が肉親と別れることの辛さ・悲しさということ になります。もちろんそれは間違いではありませんし、そこから彼ら親子を引き裂く無慈悲な力への怒りが湧いて来るということも確かにあるでしょう。しかし、別れが辛いのは確かに分かる。それは親子ならば当然ですが、そもそも宗吾が直訴を志した動機は何だったのか?というところが見え難くなってしまいます。宗吾の直訴の行為の原点にあったはずのピュアな憤りが見えなくなって来ます。初演の「東山桜荘子」が東山の世界に仮託した時代物であったことはもちろん当時の作劇法のお約束から出たことですが、直訴の場面だけ取ってみれば、恐らくその時代物の枠組みが直訴という行為のかぶき的心情と赦しの構図を浮き彫りに見せる効果があったかも知れません。
一方、現行の歌舞伎の「佐倉義民伝」での場割り(甚兵衛渡し・宗吾内・寛永寺直訴の三場)では、「宗吾内・子別れ」の親子の別離の悲しさに どうしても重点が置かれます。実録の世話物っぽく演じられてきたことに隠された政治的意図があったと言うつもりはありませんが、結果として宗吾のピュアな憤りが見えなくされて来たということも確かなのです。  
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付け加えますと、宗吾の直訴についてはその犠牲的行為を自由民権の鑑として称える見方がある一方で、直訴という行為には封建体制への批判がなく・お上のお慈悲にすがって憐みを乞うものでしかないとして、宗吾を嫌う見方もあるわけです。例えば「講談全集・佐倉宗五郎」(昭和29年発行)を見ると磔刑になった宗五郎がこんなことを言いながら死にますが、権力に対する卑屈な態度と批判精神の無さにゲンナリしてしまいますねえ。
『御直訴がお取りあげになり、御年貢米運上とも従来通りになった以上は、(中略)御領主さまと百姓と、上下和合して、上は下を子の如く愛しみ、下は上を親の如く敬い、御領主さまも百姓万民も、ともにともに千年万年の後までも、天の下の限りないように、子を孫々無事に栄えますよう心からお祈り申し上げます。・・・お役人さま、ありがとうございました。』(「講談全集・佐倉宗五郎」・大日本雄弁会講談社)
この「講談全集」が昭和29年発行であることにご注意いただきたいですが、国民は天皇の赤子(せきし)であると言われた戦前ならばともかく、戦後になっても卑屈な隷属根性が幽霊のようにそのまま生き残っているようで、上から降りてきた戦後民主主義の基盤の脆弱さを見る思いがしますねえ。 このような卑屈な宗吾像ならば、これを嫌う理由も確かによく分かります。このような印象は、ひとつには歌舞伎でも講談でも 同じですが、「宗吾内子別れ」をお客の涙をたっぷり絞り取るために情緒的に処理しようとする傾向がどうしても強くなることから出てくるものです。歌舞伎の「宗吾内 ・子別れ」も多くの場合そういう感じで上演されてきたのです。もちろんそのような要素は「宗吾内・子別れ」に内在するものに違いありません。 そうすると確かに泣ける芝居にはなりますが、そこをあまり強調し過ぎると 、子供と別れる親の悲しみの方に焦点が行ってしまって、何のために宗吾は行かねばならぬのかという肝心なところが見えなくなってしまいます。そうすると直訴という行為の過酷な意味が観客に突き刺さって来なくなります。直訴の場面が、将軍さまが宗吾の訴えを受け取ってくれて良かった・良かった・・・将軍さまはお慈悲のある方だ・・・と安堵する感じになってしまいます。時代物の持つ赦しの構図が、現状体制を肯定し・隷属状況に甘んじ・支配者に憐みを 有難く戴くという印象になってしまいます。
まあそれも確かにひとつの受け止め方ではあるのですが、時代物の持つ赦しの構図が正しく機能するためには、常に「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りを含まなければならないのです。「佐倉義民伝」の場合には、その憤りとは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾のピュアな思いです。創作童話「ベロ出しチョンマ」で磔になった長松がベロを出すことについて、作者である斉藤隆介氏は次のように書いています。
『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)
ということは、斉藤隆介氏の論理を借りれば、最後に宗吾とその一家は磔刑になるわけですが、罪もない妻子までも磔刑にしてしまうのは残酷だ・可哀想だということ、それ自体はその通りですが、そこに固執してしまうとドラマの重大な点を見落とすということ なのです。この一家にはそれとは別に、とても無私でピュアな思いがあるのです。これこそ「佐倉義民伝」の核心です。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いであって、そのピュアな思いに殉じて私たち一家はお父さんと一緒に死ぬのだと言うことです。 これを政治権力への批判とか反抗だとか言う前に、原点にあるのは民衆の思いであり、その核となるところの家族の思いだということです。磔刑はそのような一家の意思的に選び取った行為の結果としてあるものです 。
だから「ベロ出しチョンマ」の長松は笑って死ぬことになります。この点をしっかり踏まえないと、「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りが生まれてきません。この憤りを起爆剤にして社会の変革の鼓動が生まれて来るのです。 また、そうでなければ良い世の中にはなりません。政治的・イデオロギー的感情はその次の段階・作品の後に生まれるものです。作品それ自体はそのようなイデオロギー的なものから 離れて存在しているもので、原点としての感情はとてもピュアなものから発しているのです。斉藤隆介氏の言いたいことはそういうことです。残念ながら歴史的に見れば、日本ではそのような民衆の変革への鼓動は何度も押し潰されて来ました。だから、先に引用した講談のように卑屈に歪んだ宗吾像が生まれて来ることにもなるのです。しかし、それでは斉藤隆介氏が指摘する通り、重大な点を間違うことになります。
「宗吾内」では宗吾はそっと離縁状を置いて・家族に危害が及ばないようにしようとしますが、女房おさんはこれを拒否します。これはもちろん「貴方と一緒に死ぬ覚悟です」という 意思表示なのです。おさんは一緒に直訴に行くわけではありませんが、それは彼女の意思的な共同行為なのです。 一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。子供たちはもちろん事情が呑み込めていません が、幼い子供たちもまた両親のただならぬ気配を感じてこれに反応しています。「宗吾内」のドラマのなかでは子供たちに別の役割が与えられます。「俺は行かねばならぬ・一刻も早くこの不正を正さねばならぬ」という宗吾を前に押し出す力を感じさせるために、子供たちの「ととさまいのう」という泣き声がまるで前に進もうとする宗吾を邪魔しようとしているかのように、逆の方向へ引っ張る強い力になって聞こえ ます。このように農村を舞台にした地味で写実な世話物芝居では義太夫では描線が 強くなってしまって、本来あまりふさわしくない音楽であるはずです。吹雪を表現する三味線の細かいリズムが、子供の泣き声にヒクヒクと震える宗吾の胸を表現しているよう です。三味線の刻みが宗吾に突き刺さるように感じられます。宗吾にとって 子供は今は振り払わねばならぬものですが、同時に宗吾は子供を振り払うことで実は子供を道連れに共に直訴に向かうということです。一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。義太夫が子別れのなかで醸しだすものは、とてもアンビバレントな引き裂かれた感情です。これが四代目小団次の意図した演出効果です。(別稿「子別れの乖離感覚」を参照ください。)
小団次は封建体制批判・社会変革の要素をどれくらい意識したものでしょうか。多分明確には意識してはいなかったでしょう。小団次としては観客の心をグッと掴む芝居をどうやって作るか、ただそれだけのことであったでしょう。しかし、小団次の時代への鋭い感性は、幕藩体制の崩壊に向けてヒタヒタと迫ってくる波をしっかり感じ取っていたのです。そしてその感情 の震えを作品のなかに正確に写し取ったのです。 徳川幕府の瓦解は目前に迫っていました。「東山桜荘子」はそうした時期に生まれた作品なのです。「東山桜荘子」が大評判を取ったことにより、義民惣五郎の名前は全国各地へ知れ渡り、安政6年(1859)・信州伊那谷での南山一揆の指導者小木曽猪兵衛は惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織しました。この事実を見ても、小団次の意図は確かに起爆剤となったに違いありません。小団次の嗅覚は実に鋭いと感嘆せざるを得ません。  
歌舞伎の雑談
1)荒事としての宗五郎
史料を丹念に調べなければ気が付かないことですが、戸板康二が「魚屋宗五郎」は「「ひらかな盛衰記・逆櫓」を世話に砕いた作品であるということを指摘しています。どこがどうして?と思いますが、こういうことだそうです。
「魚屋宗五郎」の初演は明治16年5月市村座のことですが、この時の一番目が「逆櫓」で・二番目が黙阿弥の新作「新皿屋舗月雨暈」すなわち「魚屋宗五郎」なのです。「逆櫓」で樋口を演じたのは四代目芝翫・権四郎は九代目団十郎でした。この「逆櫓」でお筆の話から孫の槌松が取り違えで殺されたことを知り・さらに若君を返してくれと簡単に言われて、権四郎は怒り狂ってこう叫びます。
「チエヽ、思へば思ひ廻すほど、身も世もあられぬ、よう(孫を)大それた目に逢はせたなあ。それになんぢゃ。思ひ諦めて若君を戻して下され。エヽ、町人でこそあれ孫が敵。首にして戻さうぞ」
結局、権四郎は正体を明かした松右衛門(樋口)に説得されるので・権四郎は大暴れするというところまではいきませんが、この権四郎の叫びには権力の非情と・その犠牲になってもただ泣くしかない庶民の憤りが込められています。この「逆櫓」を世話に砕いたのが「魚屋宗五郎」 だと言うのです。さらに永遠のライバル九代目団十郎演じる船頭権四郎に・五代目菊五郎の魚屋宗五郎を得意の世話物で密かに対抗させようという黙阿弥の意図も込められているというわけです。
なるほどねえ。まあ、こういうことは現在のように「魚屋宗五郎」だけ切り離されて演じられている分にはあまり関係ないかも知れませんが、いろいろ調べてみると、演目や配役などに密かな工夫がされていることはよくあることです。そこで思わぬ発見があったりします。
ところで吉之助がずっと気になっていることは・別のことで、「宗五郎」という主人公の名前のことです。宗五郎というと江戸(東京)の民衆が真っ先に連想するのは佐倉宗五郎のことではないでしょうか。これは 吉之助の想像で別に根拠はないですが、宗五郎という名に・農民たちの苦境を見かねて将軍に直訴をして磔(はりつけ)の刑に処されたというあの義民のことが重ねられているのではないかということを前から考えています。
宗五郎の酒乱というのは一種の「荒れ」ですね。世話の荒事であると言ってもよいものです。言うまでもなく荒事とは御霊神の怒りを表現するものであって、そこに反体制的な要素を持つものです。「ごりょう(御霊)」の音は「ごろう(=五郎)」に通じ、曽我五郎も鎌倉権五郎もそれゆえ御霊に連想されます。佐倉宗吾(惣吾)が「宗五郎」と呼ばれるのも、この義民が内面に持つ憤りがまさに御霊神の持つ反体制的な怒りと同じものであることを庶民が嗅ぎ取っているからに違いありません。 (注:「佐倉義民伝」に荒事の要素があることは「宗吾内・子別れ」の場では分かりませんが、「仏光寺祈念の場」において・せめて子供の命を助けてもらいたいと僧光然が祈念するが叶わず・怒りで数珠を切って印旛沼に入水する場面があります。この場面は荒事の系譜を引いているのです。)
魚屋宗五郎の荒れも同様で、まったく理不尽な理由で妹お蔦を手打ちにした磯部の殿様の処置に対して・次第に沸きあがってくる憤り・怒りというものがその荒れの根底にあります。やはり黙阿弥はここに御霊神としての宗五郎のイメージを重ねているように思われます。だから宗五郎の酒乱は世話の荒事なわけですが、黙阿弥が巧いと思うのは、普段であれば庶民はそういう怒りがあってもストレートにその憤懣をぶちまけるわけにはいかないわけですから・酒の力を借りてそれを行うように劇の段取りを構築していることです。 そこに世話の工夫があるのです。逆に言うと「酒のせい」にしないと怒れないのです。そこに庶民の哀しさが見えてきます。
磯部の殿様の屋敷に暴れ込んだ宗五郎は酔いが醒めると恐縮して・殿様は自分の短慮を詫びて宗五郎に弔意金を与えて幕となります。この磯辺邸への暴れ込みは「義民伝」の佐倉宗五郎の上野寛永寺での将軍への直訴と対照させればよく理解できます。将軍は佐倉宗五郎の訴えを慈悲を以って聞き入れ、佐倉領主堀田家を処分します。同様に磯部の殿様はおのが短慮を悔い・お蔦を不義者だと嘘の報告をした用人岩上吾太郎・典蔵親子を処分し・「宗五郎、健吾で暮らせよ」と情けの言葉を与えてそれで終わりです。宗五郎はひたすら恐縮して・殿様の言葉を有難がるだけです。
観客をハラハラさせておいてこの場で宗五郎が無礼討ちになる結末にならないところが、まあ明治の世の作品であるとも言えましょうか。結局、芝居は小悪の処分だけで終わり・反体制的な怒りを秘めつつも・体制への本質的な 批判にまでは至りません。ここら辺が黙阿弥の限界ということであるのかと・吉之助も昔はそう思って見ていましたが、もしかしたらこれが寡黙な黙阿弥の精一杯の時代への抵抗であったのかも知れません。
五代目菊五郎が黙阿弥に「安達元右衛門のような酒乱の役が演りたい」と頼んだのが本作執筆のきっかけであったそうです。それはそうなのでしょうが、そうした娯楽性だけが本作の要素ではないかも知れません。酒乱のきっかけに・元右衛門とは全然違う・身分社会批判的な設定を入れているのですから、やはり「宗五郎」という名前も含めて・黙阿弥にそれなりの問題意識があったということではない かと思います。あるいは本作執筆当時・すなわち明治10年代の黙阿弥の精神状況も察せられます。
黙阿弥の本心は「ご維新でお上の顔ぶれは変わったけれど、ちっともこれと状況が変ってねえじゃねえかい」ということかなと思っています。 「上からはめいじめいじと言うけれど・治まるめえと下からは読む」と言う当時の川柳もあります。明治の世に時代遅れと蔑まれながら・江戸の生世話の芝居をなおも送り 続ける黙阿弥の気持ちというのはなかなか複雑なものがあったと思います。(別稿「明治維新以後の黙阿弥」その1・その2をご参照ください。)
2)三津五郎のうまさ
そこで平成16年5月歌舞伎座での三津五郎主演の「魚屋宗五郎」のことです。特に「宗五郎内」は前半の怒りを抑えた演技から禁酒の誓いを破って酒を飲み始め・次第に酒乱の目つきになって暴れ出す件について、五代目菊五郎・六代目菊五郎から二代目松緑へ受け継がれた世話の段取りが伝わっていますが、これを三津五郎が見事に消化しているのに感心させられます。決めなければならない手順が約束事として浮き上がるのではなく、様式と写実がよく溶け合っています。
六代目菊五郎はこの芝居の舞台稽古の時に芝居をなるべく時代に時代にと教えていたそうです。どうしても空っ世話になり勝ちなところをちょっと時代の方へ寄せるように教える辺りが六代目の教授法の巧さでありましょう。生世話のなかに時代の息をちょっと加えてテンポに伸縮を加えるということです。しかし、現代ならば逆に黙阿弥はどうしても時代時代と重い方向に傾き勝ちですから、今なら六代目も世話に世話にと教えなければならないかも知れません。三津五郎はそこの兼ね合いがうまいと思いますねえ。二代目松緑よりうまいかも知れないと思うくらいです。松緑は荒事を得意としましたし、そのイメージのせいか酒乱の迫力はなかなかのものでしたが、生世話となりますとちょっと印象が重たかったかも知れません。(もっとも 吉之助の知っていますのは晩年の松緑です。)何と言いますか・三津五郎だと酒でカーッと頭に血が上って暴れても・ちょうど磯辺邸の玄関先くらいで酔いが醒めてきそうな「程の良さ」があるという気がします。イヤその辺で酔いが醒めてこないとホントに無礼討ちになっちゃいますから。「宗五郎内」は周囲の役者もよく揃っていい芝居になりました。
「磯部邸奥庭」が演じにくいのは、現代ではまあ致し方ないところでしょう。 実は磯部の殿様は宗五郎と同じ酒乱の癖があって・その辺で身分を越えた相互理解があったということになっていますが、酒の上のことなら許せるのですかね。「宗五郎内」で幕にしちゃうわけにもいかないでしょうが、 吉之助は心情的にはこの芝居はそういうつもりで見ております。  
 
惣五郎の祟り

今から350余年前の承応2年(1653)宗吾と宗吾の幼い子供が処刑され、共に直訴に関わった5人の名主も田畑没収、江戸・佐倉10里四方追放という処分を受けた。訴えは叶えられたが、大きな傷あとを残して、この事件は嵐のように去っていった。
5人の名主たちは、みな剃髪し、仏門に入って高野山に登り、その後は諸国を廻って、宗吾父子の霊を弔ったと伝えられるが、あとはいずれもはっきりしていない。ただ印旛郡栄町(現成田市)にある龍角寺の、常念仏堂建立にまつわる話の中に僅かに語り継がれている。この堂は、宗吾25回忌に当る延宝5年、郡内280ヶ村から寄付を集めて建てられているが、その音頭をとった宗念・宗心・宗閑は、共に5人の名主のうちの3人であったというものである。これはかなり信用してもいい話ではないかと思われる。
宗吾の妻はつは剃髪し、終生を刑場跡に建てられた父子の墓を守り続けたという。
人が死ねば霊魂が残ると信ぜられている。この霊魂の存在を信ずればこそ、我々は、死者や墓に手を合わせ、念じるのである。この点世界中のどんな国や宗教でも本質的には同じであろう。
特に日本の場合、霊は、死者や神仏のみならず、天地や自然の中にも宿ると多くの人が信じている。さらにわが国では昔から、霊は時に人間にある種の影響を与える大きな力をもっていると信じられてきた。
考えられる影響のうちで、最も怖いものは、祟りであった。祟りというのは、神仏や霊などを怒らせることによって、引き起こされる災いや悪い報いのことである。
祟りを恐れ、それを慰撫するために、古来日本人は神仏や、祖霊に物を供え、歌舞音曲を奏で、呪文や祝詞や経を奉納してきている。そしていま在ることに感謝したあと、今度は色々の望が叶うようにお願いするのである。お祭りや供養会は本来そうゆうものであった。
宗吾は、殺される前、首を刎ねられた4人の子を前にして、磔(はりつけ)台の上で、自分はここで死ぬが、一念はここに留まり、領主正信を修羅の道に誘い、永く子孫に思い知らせるであろうと叫んだと云う。
宗吾の祟りかどうか。宗吾が処刑されて暫くして、佐倉藩主堀田正信の奥方が懐妊中に急死するという出来事が起きた。人々は宗吾様の祟りだと話し合ったという。しかし凶事はそれだけに留まらなかった。正信が世襲して10年も経たない中に、それは驚く形で堀田家に降りかかったのである。
堀田正信の改易とその後
父の後を継いで9年経ったとき、藩主正信は、とんでもない文書を江戸幕府の老中に宛てゝしたためた。それは、幕閣の失政を糾弾するものであった。時の老中は松平信綱、保科正之、安部忠秋3人である。宛名に松平の名は無かった。
松平については、老中であった父と共に、3代将軍家光公の寵愛を受けた身でありながら、殉死もせず、いまだ老中であり続けていることが、許せなかったようである。自分が、父の後をついで幕閣になれない不満も大きかったのであろう。世の中の困窮は幕閣の失政によるものとし、旗本たちを救うためには、佐倉藩11万石を差し出しても良いとまで書き、また万一将軍に不慮の死があった場合は、自分は直ちに殉死するであろうとも書いた。
所領を差し出すなどとは、本気ではなかったであろう。家光に仕えて老中にも上がり、果ては殉死した父正盛の後継者としての不遜な思い入れが、頭から離れなかったのではないか。この程度のことは当然許されるであろうと高を括った鼻持ちならないエリート意識の口すべりであったとも言えよう。
当然、幕閣では問題となり、翌月には乱心によるものとして改易・領地没収と決まった。そして直ちに正信は、弟である、信濃国の飯田藩主脇坂安政(わきさかやすまさ)に預けられることとなった。宗吾が死んで8年後の万治3年(1660)11月のことであった。佐倉の人々は、宗吾様の祟りとして、怖れると共に、存分に心を満たしたことであろう。
宗吾のことを決して忘れない領民たちは、処刑以来、忌日には籠って菩提を弔っていたと云われる。
脇坂氏は元和3年(1617)先代安元のとき、伊予大洲(愛媛県大洲市)から信濃の伊那郡と上総長柄郡(千葉県長柄郡)に合わせて5万5千石を与えられて飯田に入っていた。正信の弟である安政は、寛永17年に脇坂氏へ養子入りし、承応3年(1654)に遺領を継いでいたのであった。
正信は城の近くの守谷というところに蟄居したと言われているが、そこは脇坂氏時代の飯田城の絵図に見える「上野介様御座所」であると思はれている。
ここでどのような生活をしていたのかは記録もなく良くわからない。市の中心地の江戸町にある正永寺には正信の子の墓と言われる2基の五輪塔があると云われるが、飯田での正信は4・5人の子供を為したらしく、また数人の家臣が随行していたと言われるからそれなりの生活が為されていたのであろう。
正信を預かってから12年後の寛文2年(1672)、脇坂安政が播磨の竜野(兵庫県龍野市)へ移封となったことで、正信は、今度は若狭小浜(福井県小浜市)藩主酒井忠直に預けられることとなった。小浜では米2千俵を与えられ、やはり家臣が常駐している。酒井家は正信の母の実家であった。5年後、正信は、密かに抜け出して京都へ入ると言う事件を引き起こした。このことは幕府で問題となり、父正盛に免じて死一等を減ぜられて阿波(徳島県)徳島藩に預けられてこととなった。その3年後の延宝8年(1680)、将軍家綱公が40歳で逝去したと聞いて悲しみ、そこの座敷牢のようなところで鋏によって自害して果てた。刀を取り上げられていた為という。50歳であった。改易から20年後のことである。霊魂を信ずる人たちには、堀田家の改易と正信の悲惨な20年は、正に宗吾の怨念による執拗な祟りの果てと映ったことであろう。
堀田家支流の堀田正亮が佐倉藩主となる
延亨3年(1746)、山形藩主の堀田正亮(ほったまさすけ)が佐倉藩主となった。この移動は正亮の老中就任に伴うものであった。この堀田家は、約100年前に、ここ佐倉藩主であった堀田正盛の3男正俊を始祖とする家柄である。正俊は宗吾を処刑した正信の弟で、生れた翌年、将軍家光の命により春日局の養子となった。後は長ずるに従って累進し、ついに下総古河(茨城県古河市)領主となり、併せて幕府大老となった人物である。正亮は、その正俊の4男正武の子であった。
正亮(まさすけ)は、寺社奉行、大坂城代を経て、山形藩主となり、更に老中に就任すると翌々年に松平乗佑と入れ替わって佐倉へ入ることになった。
1世紀前、曽祖父が信濃松本から入った佐倉へ、奇しくも自分がまた藩主となって入ることに正亮は不思議な感慨を覚えたことであろう。正亮は一族が抱えている、この佐倉の地での暗い歴史を何時でも頭の隅に置いていたはずである。
正亮は、就任する前に一度前もって佐倉を見ておきたいと思った。堀田家にとって因縁の、佐倉とは一体どんなところであろう。
恐らく正亮は、ある年齢に達したとき、父母から大伯父正信が佐倉で起こした直訴事件とその後の行方などを繰り返し聞かされていたことであろう。だから佐倉という名は幼い頃から知っていて、ある懐かしさがあると共に、決して好い意味ではない響きもあったのではないか。権力を振り回して、虫けらのように農民を切り捨てた一族の負う罪の意識といえるようなものも感じていたであろう。
国替えに当って、前もって領主自身が其処へ行って、見聞するなど決してある話しではないが、老中でもある正亮のこの希望は将軍に直ぐ許された。
正亮の旅は佐倉城を初め、藩の施設以外にも領内の各所に及んで半月に渡っている。宗吾に関係する土地なども通って見ていたことであろう。
口の明神の建立と惣五郎の100回忌・140回忌ほか
文化11年の序文がある十方庵敬順という人物の記録帳によれば、正亮が佐倉へ入ったその夜から、夜毎、磔柱(はりつけばしら)を背負い、両脇を血に染めた宗吾が、正亮の枕元に現われて恨みごとを語るようになった。正亮は恐怖に怯え、加持祈祷を行なったが効果がないことから、将門山(まさかどやま)に「宗吾明神」を建てて祀り、怨霊を鎮めたらようやく収まったと言う。将門山は昔、平将門の塁があった処といわれるが、そこに「宗吾明神」は実際に建立された。
将門山は、刑場の近く(現在の宗吾霊堂付近)にあり、あの直訴事件の前、農民たちがこの上は一揆しかないと集まったところを、宗吾が一先ず止めた場所でもあった。
この話に誇張があるとしても、正亮が、自らの深層に溜まっていた氏族の罪の意識によって、夢を見てうなされ、怯えたことは充分考えられる。藩主が、100年前の一農民を「宗吾明神」として祀り弔うことは異常であり、何か特別の理由がなければ決してありえないことだからである。
一方、後の佐倉藩の記録によると、これは(宗吾を磔にした)正信が、自ら寄進した鳥居と共に建てた社で、地元の人たちが「宗吾の宮」と呼んでいるが、これは「口の明神」のことである。としている。
恐らく、正信が建てたものであるが、住民に明らかにしないまま私的に宗吾を祀ったのであろう。正亮は、この社を「宗吾明神」として再建し、改めて公に祀り、鎮魂したのである。宗吾に許しを請い、神として丁重に祀ったことで、心のわだかまりも解けたのではないか。
正亮は直ぐこのあとの宝暦2年(1752)の宗吾100回忌に当り、改めて宗吾を「義民」として称揚し、涼風道閑居士の諡号(しごう)を贈って篤く弔った。道閑信士がそれまでの宗吾の戒名であった。宗吾明神建立に引き続き、領主が此の様に宗吾を篤く扱ったことで、それからは口の明神(宗吾明神)では、春秋二回、盛大な祭礼が行なわれるようになった。また宗吾の墓も大っぴらにお参りできるようになった。
これら一連の堀田家の行いは、罪を悔いて謝り、霊魂を慰撫して、その祟りを鎮めるための重要な儀式であったと言えよう。
堀田家はこれらのことを通じて、領民の心を捉え、藩政の佳き運営をも図ったものであろう。義という日本人がもつ基本美意識が、領主と農民の共通意識として認められたことの意義は大きかった。
堀田正亮(ほったまさすけ)は、佐倉へ入って4年後、年貢納入についての農民の強訴に会っている。このことは佳き領主たらんと考えていた正亮を驚かせ、老中として特に幕府を通して全国に改めて訴えの禁止令を出すなどの手を打たせている。自藩のことを幕府の名を借りて収めようとするまでに至ったことは、正亮のうろたえぶりを物語るものである。正亮はこの強訴をとっさに宗吾の祟りと感じ取ったのではなかったか。このことが契機となり、正亮は、堀田家に対する亡霊の祟りをなくするにはどうすれば良いのかを考え始めたのであろう。
その一つが前述したように、宗吾の名誉を回復し、堀田家の非を詫びて篤く弔い直すことであった。これは領主として、武門として、一番大事な誇りと自尊心を捨てて(差し出して)まで、一農民にひれ伏すことを意味していた。この決心は、正亮が如何に真剣に堀田家にまつわる宗吾問題の解決を考えたかの証左であろう。現代では考えられないほど、当時はまだ神仏や霊魂というものに大きな畏怖とこだわりを持っていたのである。少し遡るが、平安時代に菅原道真が北野天満宮に祀られたのは、右大臣であった道真が、讒言によって遠く大宰府に左遷されて死んだ後、次々起こった怪異現象を彼の祟りとして捉え、その霊を祀って鎮めるためであった。靖国神社も創立の趣旨は、戦場に死んで鬼となった霊魂を、護国の神として祀り慰撫し鎮め賜うものであった。
正亮のもう一つの策は、善政を敷いて農民に報いることであった。これは宗吾の霊に対する鎮魂の意味もあると考えたのであろう。
正亮は、民政に力を注ぎ、役人には有能な人物を抜擢する反面、賄賂を貰った役人を重く罰するなど農民に対する不正には極めて厳しい態度で臨んだという。また社倉法(しゃそうほう)なる農民救済策を定めた。これは村高100石に付き米1俵余を与えて蓄えさせ、窮民が出たときにはここから借りて、秋の収穫時に1割の利息をつけて返させるという制度であった。
正亮は宝暦11年(1761)に病死するが、これを聞いた領民が、佐倉藩は代々老中が領主になる慣例があることから、堀田氏が移封となるのではないかと恐れ、幕府に嘆願する動きをしたという。このことは堀田氏の藩政が上手くいっていて、領民に慕われる存在になっていたからであろう。
正亮(まさすけ)の後を継いだ正順(まさなり)は、天明3年(1783)に佐倉藩主のまま、社寺奉行となったが、その年有名な天明の災害があった。この年は春から天候が悪く雨が降り続いて、6月には関8州は大水害に見舞われた。7月に入ると突然浅間山が大噴火し、山麓東側に溶岩流が噴出すると共に噴煙が長期に天を覆って灰を降らせ、日をさえぎり、全国的な飢饉を迎えることとなった。領内でも困窮した領民による一揆が頻発したが、佐倉領にあっては、事後の処分に死罪はなく、死一等を減じた刑が最高であったという。これも宗吾を崇敬する堀田家の基本思想があってのことといわれている。
寛政3年(1791)、正順(まさなり)は宗吾140回忌に当り、さらに諡号(しごう)として、宗吾に徳満院の院号と石塔一基を贈って、手厚く弔った。更に正順を継いだ正時は、文化3年(1806)宗吾を継いでいる木内家が困窮していることを聞き、田高5石(下田7畝余)を与えた。また嘉永5年(1852)には、ときの藩主堀田正睦(まさよし)が200回忌の法要を行なっている。
別に、宗吾を磔刑にした正信の子孫で、近江宮川(現滋賀県長浜市)藩主(1万3千石)となっていた堀田氏が、享和3年に宗吾の150回忌供養を行った。正信が改易となったとき、子の正休(まさやす・6歳であった)に1万俵の扶持米が与えられたが、以来家系が連綿と続いて、当時、小大名と成っていたのである。正休は老中であった故正盛の孫ということで特別の待遇を受けたのであった。
宗吾信仰
義を貫いた宗吾は、江戸末期以後、芝居・講談などによって広く知られるようになった。知られることで、宗吾は人々に身近に親しみの持てる救世主として信仰されるようになった。この信仰は、苦しみからの解放を求める人々に力を与え、勇気を齎すものであった。苦しむ者たちには、宗吾はまさに希望の星であった。
宗吾を祀る神社霊堂は、千葉県はもとより新潟、山形、秋田、福島、東京、群馬、埼玉、山梨、長野、静岡、愛知、岐阜、愛媛、熊本と全国規模で点在しているという。
但し東京浅草の宗吾殿は、前述の宮川藩堀田氏の江戸屋敷に祀られていたものを維新後一般に開放されたものという。また長野県飯田市郊外松川ダム近くにある佐倉神社も、由緒では、飯田藩に預けられた正信が邸内に祀っていたものを、小浜に移るときに家人の屋敷に移されたものが基であるという。このことから、正信とその子孫が共に宗吾を殺したことに、人知れず後悔し、怖れて祀っていたことがわかる。
信州飯田には、上記の佐倉神社以外に、市内竜江の大願寺に南山一揆のときに勧請した宗吾大明神が、北方には昭和初期、不況の苦しみからの解放を願って創建された佐倉神社が、また丸山町にも佐倉神社があるという。
更に大鹿村にも慶応年間に大河原村の「裃公事」といわれる農民対村役人・代官との抗争事件に際して農民が勧請した佐倉神社があるとのことである。
地元に伝わる話では南北朝時代の大河原は、後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王及び子の尹良(ただよし)親王の終焉の地といわれているが、村内にある堀田城跡は、堀田氏の遠祖である堀田正重が拠ったところで宗良親王を守護した城という。堀田氏と信濃の縁の不思議を思うばかりである。一度機会を作り、是非飯田市周辺を訪ねたいと思う。
宗吾霊堂とお待夜祭(おまちやさい)
宗吾が42歳で刑死したのは承応2年(1653)旧暦8月3日であるが、その日にあわせて、現在は新暦9月3・4日-今年からは9月第1土・日、霊堂ではお待夜祭と呼ぶ宗吾祭が行われる。特に夜は信徒僧侶が堂に籠り、宗吾親子と追放された5人の名主の追善供養が行なわれるのである。これは昔から旧佐倉領の各地で行なわれてきた宗吾の忌日の供養の形そのままのものである。両日は屋台も繰り出し、また出店の数の多さに江戸末期以降の宗吾祭の賑わい振りが想像できるような気がした。平成十四年には、宗吾350年祭が盛大に行なわれた。
私は千葉へ住むようになったとき、最初に訪れた一つが宗吾霊堂で、近くの成田山新勝寺と一緒であった。宗吾のことは子供の頃、父が集めていた民謡のレコードの中にあった八木節の唄で聞いて偉い人であると思っていた。確か唄は堀米源太(?)だったと思う。その後の知識の加入で、もう少し知ることが出来たが、霊堂の中にある宗吾1代記館と霊宝殿に入って、初めてその偉大さが身にしみた。それからは、土地の偉人として何冊かの本に接し、何回も霊廟を訪ねるなどしてようやくある程度分かってきたところである。
お待夜祭の夜、元気一杯の八木節の奉納があった。聞くと以前から毎年、わざわざ群馬県から来ているとのことであった。直に見る八木節の唄や踊りは始めてであったが、子供の頃のレコードの記憶が懐かしく蘇った。
宗吾霊堂は、明治になって大きく再建されたが、大正の初め大火にあって焼失し、その後昭和初期に再建された。霊堂境内は、入り口に建つ宗吾父子の霊廟を始め、仁王門、本堂、霊宝殿などを連ねる一大堂宇である。寺名は正式には、真言宗豊山派鳴鐘山医王院東勝寺と謂い、坂上田村麻呂に関わる千有余年の古刹であるという。真言宗の御本尊は大日如来であるが、この寺院のご本尊は宗吾様であることが特色である。霊堂の別の場所に祀られていた名主5人もいまは本堂に納められている。信者は全国に普く、参詣者は年間250万人を数えるとのことであった。
渡し守甚兵衛の大きな碑が、供養堂とともに今は浜から遠くなった旧印旛沼渡船場跡に建っている。甚兵衛は、家族との別れのために帰宅した宗吾のために、禁を破って渡し舟を出し、役人の刃に掛かるよりはと印旛沼に身を投じたといわれている。しかしこの人は、芝居上の人物ではないかという向きもあり、いま一つはっきりしない。地元では、綿貫甚右衛門という人の子で、吉高村に住んでいた実在の人物といわれている。協力者がいなければ、あのとき宗吾は渡れなかったであろう。この稿では紙面の都合もあり翁のことは割愛した。
老鶯や臥して憩へる渡し守    万亀 
 
佐倉宗吾の怨霊

千葉に住む人でなくとも、義民・佐倉宗吾について聞いた事があるだろう。重税で苦しむ農民たちを見捨てられず、立ち上がった義民・ヒーローである。
まず佐倉宗吾こと木内惣五郎(なお宗吾とは後に贈られた名前)は、佐倉藩領の名主総代として領主・堀田上野介正信の悪政に苦しむ農民達を救ったのである。名君の誉れ高かった堀田正盛と違って、堀田正信が領主に就任すると、再度検地が行われ、重税が課せられた。しかも、その税を納められない者には「水牢」や「石子詰め」という過酷な拷問が待っている。忽ち佐倉領内の農民達は窮地に陥った。
宗吾は久世大和守に駕籠訴(駕籠で移動する高貴な人物に直訴すること)するもののその願い叶わず、宿預かりとなった。しかし、宗吾はこれで諦めない。こっそり宿を抜け出し、子供達と涙の別れを告げると印旛沼を越え、江戸に向かった。当時、渡し船は禁止されていたが、老船頭が宗吾の気持ちにうたれ、命がけで印旛沼を越えたのだ。
江戸に出た宗吾は、上野東叡山参拝中の将軍・徳川家綱との接触を試みた。三枚橋で直訴したところ、見事聞き届けられ、佐倉藩の重税が軽減された。ここまではよかったのだが、この後宗吾一家の悲劇が始まる。税は軽くしたのだが、すっかり、領主としての面目が潰された堀田公は激怒し、宗吾とその妻・お欽、子供4人をとらえる。そして、宗吾の目の前で子供をなぶり殺しにする。(史実では妻子は無事との説が強い)更に妻・お欽を惨殺すると最後は宗吾を獄門で殺してしまった。宗吾は絶命しながら、堀田公を呪ったと伝えられる。その日以降、堀田家家中では怪異が続いた。張りつけ獄門で殺害された宗吾が、張りつけられたそのままの姿で何度も姿を現したのだ。また堀田公自身も精神に破綻をきたし、老中松平伊豆守を弾劾し、無断で領地・佐倉に帰国した咎で、佐倉堀田家は改易され信州に流されてしまった。宗吾が処刑されてから7年目の万治3年(1660年)の事である。この一連の事件を見て、人々は「佐倉宗吾の怨霊」によって堀田家は滅びたのだと噂した。
これが有名な佐倉宗吾の伝説である。芝居や読み物で題材に採用されており、大幅に史実とは異なると言われているが、驚くべき事に話がオーバーになるどころか、佐倉宗吾自身がいなかったという説や、それほど宗吾は義民ではなかったという説、また宗吾は千葉家の旧臣でお家再興を将軍に直訴したという説があるのだ。
果たして、佐倉宗吾こと木内惣五郎は実在したのであろうか。いや、そもそも苦しむ人々を救う義民であったのであろうか。少なくとも言えることは、庶民を苦しめた領主と、その圧政と闘った人がいたのは事実であろう。ひょっとすると人々を救う為、複数の宗吾(義民ヒーロー)がモデルとなり、犠牲となっていったのかもしれない。哀しいことだが、人々が現在保有する平和は、長い歴史の上での災害や、戦争・闘争・政治で犠牲になった人々の屍の上に成り立っている。
延享三年(1746年)宗吾の処刑から約百年後、再び堀田家が佐倉の領主に戻ってくる。すると、四年後まるで宗吾の怨霊が乗り移ったかのように農民の強訴が領内で起きる。
そして、更に二年後の宝暦二年(1752年)惣五郎の百回忌にあたり、領主・堀田正亮は先祖の非をわびるかのように「口の明神」という宗吾を奉った神社を再建、惣五郎に涼風道閑と戒名と宗吾という尊称を与えた。ここに百年に渡る宗吾と堀田家の因縁は決着するのである。
 
「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の比較研究

木内惣五郎の一件に関する写本は私の現認したものでは28冊あり、外に、未確認(書名が紹介されているもの)が3冊あります。
これらを大きく分けると「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の二つの流れがあり、このほかに「その他の騒動記」とも言うべきものがあります。
「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の相違点を端的に言えば、前者は六部の話があるが後者はないこと、惣五郎の事件の発生を前者は承応2年(1653)としているのに対し、後者は正保元年(1644v)としている点でしょう。「その他の騒動記」は基本となる惣五郎の話が前二者と異なる点です。
ただし、宗吾本、雨宮本はこれらの写本内容の基本とも言うべきものです。内容は、「地蔵堂通夜物語」系の本が10冊、「堀田騒動記」系の本が10冊あります。
「その他の騒動記」系は8冊です。これらを旧所蔵者名などによって略称することにして分類すると次のようになります。
「地蔵堂通夜物語」系・・円城寺系7冊、藤崎本系3冊、
「堀田騒動記」系・・堀田騒動記系5冊、佐倉騒動記系5冊、
「その他の騒動記」系・・・宗吾本、雨宮本、長吉本、藤代本、小野本、宮籠本、瀬山本、木下本
これらは「地蔵堂通夜物語」系の明治本と、「堀田騒動記」系の戸張本を除き、すべて江戸時代に属する写本です。
木版印刷による刊本はありません。またその出現時期は、宗吾本・宝暦4年(1754)が最初で、堀田騒動記系の田中本・宝暦13年(1763)(ただし疑問がある)、円城寺系(円城寺本・安永2年(1773)、が次いでいます。
つまり、これらの写本の作成は後期堀田氏に属する堀田正亮の佐倉入部(延享3年=1746)以降であり、宝暦年間の全国的な百姓一揆の多発期間と合致することから、書写活動はこの辺りから行われたこと、全国的な風潮と無縁ではないことが分かります。
このうち書写年月が判明しているのは次ぎの16冊です。
円城寺系・・円城寺本・安永2年(1773)、小川本・文政5年(1822)、羽山本・文政10年(1827)
藤崎本系(伊藤本・文政10年(1827)
堀田騒動記系・・田中本・宝暦13年(1763)松野本・嘉永7年(1854)、斉藤本・文久3年(1863)
佐倉騒動記系・・匝瑳本・文化10年(1813)、柴山本・文政12年(1829)、安埜本・天保9年(1838)、
その他の騒動記系・・宗吾本・宝暦4年(1754)、雨宮本・文政7年(1824)、長吉本・弘化3年(1864)、
藤代本・弘化4年(1874)、小野本・安政4年(1857)、木下本・嘉永6年(1853)。
これらのうち、木下本をのぞく26冊に共通しているのは、正信の登場から佐倉領内名主たちの努力、大和守・将軍への直訴、捕縛、惣五郎ほかへの刑の言い渡しまでの「直訴」、刑場への引き立てから惣五郎一家の処刑、奥方の狂乱、惣五郎への祭祀までの「怨靈」、正信の佐倉帰還から改易までの「騒動」の三つの内容が含まれており、かつ、この順序で叙述されていることです。
この事から、これらの写本が共通した原本から派生したのではないかと考えることができます。
この原本が如何なる形であったかは不明ですが、可能性としては、上記の三つの話が本来別々に伝えられていて、それを単純に1冊にまとめたものが宗吾本に近い形であり、その時期が宝暦年間ではないかと思われます。
宗吾本と雨宮本との相違点は文末が堀田正信の佐倉帰還で「アキレハテケリ」で終わる宗吾本に対して、雨宮本は、堀田正信の改易され、「人の一念の恐ろしさ末代までの鑑なるべし」まで物語るところにあります。
円城寺系はこの雨宮本に、六部や勝胤寺の庵主、惣五郎夫婦の亡霊と見られる夫婦者を登場させ、各々が語る形に仕上げていることです。狂言の展開にも似たこの構成は、「地蔵堂通夜物語」を物語として完成した姿にしているといえます。
藤崎本系は基本的には円城寺本系であり、円城寺系より古い写本ではないかと思われるくだりもありますが、挿入されている「弥五郎物語」と「成田山新勝寺縁起」の挿入場所が異なること、後に述べる騒動記系の内容(正信復活の内容)に影響されていると見られる叙述があることが特色です。
また円城寺本系の写本が活発に作られたと見られるのは文化文政期で、幕末期の写本は見られません。
騒動記系の12冊に共通する事は、惣五郎の直訴を円城寺系が承応2年(1653)とするに対して、これより8年早い正保2年(1645)とすること。将軍家光の逝去(慶安4年=1651)による大赦で宇都宮城主に復活することです。史実から言って全くありえない順序で書かれています。
それは承応(「しょうおう」)を正保(「しょうほう」あるいは「しょうぼう」)と聞き間違えて、その後の話しのつじつまを合わせたと見るには、あまりにも大きなずれがあり、このあたりの改変はやはりかなり意図的と見るほかはありません。
その意図について、公津村・東勝寺などを登場させて公津村のみを意識させようとした円城寺系に反発して、騒動記系の作者が、もっと広い立場(佐倉領内の事件という立場)でこの騒動を表現したいということから、あえて時期や村名を替えたのであるとした論調もありますが、果たしてそうでしょうか。
円城寺系よりも騒動記系の方が読み手やこの話が広がっていく先を意識したものであるということではないでしょうか。しかし全く架空の地名や人物では読み手の興味を失うことから一部を改変し、当代の領主(後期堀田氏)にも配慮してできたというものではないでしょうか。
「東山桜荘子」も佐倉惣五郎を浅倉当吾としていますが、観客は初めから惣五郎の話と見破っています。最後に正信を宇都宮城主に復活させ、写本によっては老中までになったとし、後期堀田氏の祖である堀田正俊(正信の弟)にも配慮して「実に目出度き事」としているのはその片鱗と思われるのです。堀田騒動記系4冊と佐倉騒動記系5冊の相違点はほとんどありませんが、旧所蔵者の所在地は前者が成田周辺が多く、後者が県外に多いというのみです。
これは堀田・佐倉という人名地名に対する認識度の違いであろうと思われます。その他の騒動記系三冊は、内容は変わりませんが表題の付け方が各々異なるので一応別枠でまとめたものです。木下本はこれらと全く異なる惣五郎話です。騒動記系の写本活動の中心は天保期から明治期にかけてです。一冊だけ宝暦年間とされる写本がありますが、本文中に宝暦年間と確信できる文字がないので確定できません。
ですからこれを除くと、匝瑳本(文化10年)が一番古い写本ということになりますが、数多く現れるのは天保年間以降です。円城寺系と騒動記系の相違点はこれまで述べた中にありますように、物語の構成の違い、惣五郎の直訴年の違い、騒動記系の正信の復活のあることが先ずあげられますが、物語作成の意図が大きく異なると見ています。
それは円城寺系が仏神三宝を強調し、佛家による広宣的意図が如実であるに対して、騒動記系は「怨靈」や「騒動」を強調した読み物的な特色があることです。
また円城寺系では惣五郎に対して金鉄のごとき意志のために祖先の家を滅ぼしてしまったとか、今では全く忘れられてしまっているなどと云う記述があり、惣五郎の事績についてやや否定的であるのに対して、騒動記系では万人のために命を落としたとか皆人は宗吾大明神におまいりしているという記述があります。又騒動記系の数冊には坂戸村善兵衛を発頭人とする惣五郎妻子の助命嘆願の話があり、年貢課役が下げられたのは偏に惣五郎殿のおかげであると記述されています。このまま見過ごしては佐倉領内の一揆の「解死人」(みがわり)として惣五郎を差し出したことになってしまうといい、惣五郎は「不及是悲」としても妻子は佐倉領各村に下げ渡してほしいとしているのです。
この善兵衛外二人は助命訴願に失敗した次の日に惣五郎一家の処刑を見、その場から善光寺をまわって、高野山に行き出家しています。これは円城寺系にはない表現です。
つまり、惣五郎を義民(そのような単語・概念はありませんが)としてみる内容が含まれているのです。ですから、義民宗吾という意識、幕末から明治初期の義民宗吾伝につながるものは、円城寺系よりも騒動記系の方が強く出ているといえます。
一般に市川小団次による「東山桜荘子」は、「地蔵堂通夜物語」から脚本の発想を得たといわれていますが、嘉永年間(上演は嘉永四年)には既に騒動記系の写本は出回っており、特に前述の坂戸村善兵衛の妻子助命嘆願の話が最初に現れる長吉本(弘化3年(1864)は、東山桜荘子上演の五年前ですから市川小団次もこれは読んでいたであろう事は想像できます。
大野政治が紹介しているように「地蔵堂通夜物語」は参考にしたとしても、惣五郎一家刑死の凄惨場面や怨靈出現のおどろおどろしさの強い場面は「堀田騒動記」などから発想を得たのではないでしょうか。
市川小団次による迫真の演技もさることながら、その部分が強調されることで義民宗吾への意識の高ぶりがあり、劇中に観客が舞台にあがって役人に抗議をしたということもあって、義民惣五郎の事績確認に大きな影響を与えたといえます。
円城寺系の写本は嘉永年間以降はほとんどなく明治に入って明治本(明治17年)があるのみです。円城寺系の写本活動は弘化年間までで終了し、騒動記系の方に庶民の関心は移ったと見られます。
研究者の間では騒動記系の評価は一様に低く、あまり義民研究の中には出てこないようです。それは取上げられている史実に誤りと混乱が多いからです。
そもそも正信は老中にはなっていないのに父正盛の後に着任したとしていること。惣五郎の直訴を正保年間としたことで領主は堀田正盛であり、直訴の相手は将軍家光となるのに、物語上では正信(佐倉城主になるのは慶安4年)になっていること、正信が改易後家光の死によって佐倉帰還の罪を赦され宇都宮城主となりさらに大老となり越前守となっている事などです。
このあたり全く史実とは相容れません。正信は延宝八年に配流先で自殺しているのです。
この史実ではないことに目をつぶり、一つの物語としてみた場合は地蔵堂通夜物語より騒動記のほうがはるかに興味深い話になります。騒動記系の多くの写本が堀田正信の復活を歓迎して「実に目出度き事」とし、更に惣五郎に対しても人々が崇敬してお参りを欠かさないとか万民のために命を落とした人であると説いている点は、めでたし目出度しで終わっているにせよ一応の盛り上がりを感ずることができるのです。
この騒動記系に見られる史実の誤りと混乱が全く意図的であるとすれば、作者はどのような狙いを持ってこのようにしたのか一層の検討が必要になってきます。
円城寺本系はそれに対して史実的にはほぼ確かな背景を持っている書き方をしています。もちろん、惣五郎の将軍直訴、大和守越訴の事実は全くありえないとするのが歴史家の指摘するところで、これを根拠に惣五郎の存在自体も疑問視しフィクションであると断ずる義民研究かもいますが、全体としては破綻はなく、義民伝として整っているといえます。
しかし、話の進めるところが仏教説話的であり、狂言仕立てで物語としては整っているにしても、途中に関係のない説話が入ることで意識が断絶し、かえって盛り上がりに欠けるところが難点です。
そして円城寺系の最後は「虚と実を取り合わせ」云々と閉じていて、当局からの指弾を免れるような書き方をしており、かえって肩透かしをされた感じになる事は否めません。
ですから果たして作者に義民伝として後世に伝えるものとしての意識があったかは判断に苦しむところです。

佐倉義民伝・東山桜荘子

昨年十二月の歌舞伎座に「東山桜莊子・佐倉義民伝」がかかりました。「東山桜莊子」は嘉永四年(一八五一)三世瀬川如皐が書いたもので義民佐倉惣五郎の話に偽紫田舎源氏をない交ぜにしたもので、当時大当たりを取ったと伝えられています。江戸時代は、芝居にするときは実際の時代や実名を使うことはご禁制に触れるため時代や名前を変えておりましたが、観客には、佐倉の義民伝であると分かっていました。佐倉藩の苛政、門訴、老中駕籠訴、将軍直訴、処刑、怨霊という筋立で、登場人物は、義民は浅倉当五で、領主は織越政知。浅倉当五は、佐倉惣五郎、織越政知は堀田正信をあてたものです。事件は、家光の後の家綱の時代で、正信は将軍家綱の死を知って配流先の阿波徳島で自害を自殺をしています。
ところで、この義民騒動は、史実として証明しうる史料は無いと云われていますが、公津村(現在、成田市)に惣五郎と云う名主がいたことは分かっており、公事(訴訟)を起こして破れ、怨みを残して処刑されたこと。その惣五郎の霊が祟りを起し堀田氏を滅ぼし、その霊を慰めるために将門山に祀ったという話が公津村や佐倉領内の人々に伝えられていたようです。世直しや義民の話は江戸時代の重要なキーワードといわれています。
当時の大当りは、ない交ぜとして加えたこの怨霊騒ぎが評判を呼んだようで錦絵にたくさん残されています。正信が去った後の佐倉藩は、館林から松平乗久、唐津から大久保忠朝、岩槻から戸田忠昌、越後高田から稲葉正往、山城淀から松平乗邑と統治者が入れ替わり、延享三年(一七四六)山形から堀田政亮(正信の弟の正俊の家系)が領主となり、明治を迎え、現代に続いています。
宝暦二年(一七五二)政亮が惣五郎百回忌の時、宗吾道閑居士の法号を諡号し、以来、宗吾様と呼ばれるようになり、寛政三年(一七九一)二代堀田正順は徳満院の院号と石塔一基を寄進。さらに文化三年(一八〇四)三代目正時は惣五郎の子孫に田高五石を供養田として与えたといいます。事実であるかどうか分からない事にこれだけのことをするのは何故か。義民顕彰による藩内統治の施策なのかもしれません。
この四十七年後の嘉永四年(一八五一)に「東山桜莊子」が世に出たわけですが、文久元年(一八六一)河竹黙阿弥が「桜莊子後日文談」の名題で「田舎源氏」の筋を抜いて補綴、その後、「甚兵衛の渡し」「子別れ」「直訴」の場を中心とした上演となり、役名は実名どおりに改まり明治以後は「佐倉義民伝」の名題にほぼ定着。自由民権活動のたかまりにつれてしばしば上演されました。今回、歌舞伎座での上演は数十年ぶりですが、本名題の「東山桜莊子」を併記しているところに、ない交ぜの名残をにじませるなど味わい深いものがあります。
将門神社平親王将門大明神
平の小次郎将門は平安の時代坂東の地に桓武六代の帝系として生まれました。
一族の横暴と都で栄華を極める藤原摂関政治のもとに苦しむ民衆のために決起し,瞬く間に坂東一円を治め平親王と名乗りましたが,志半ばにして非業の最期を遂げたと言われています。死後多くの民衆から坂東の英雄として追慕する声が高まり各地に将門神社が建立されました。
大佐倉の将門神社の創建は定かではありませんが,桓武平氏の同族である本佐倉城主の千葉氏により建立(敷地三百坪)されたと伝えられています。
石の大鳥居は三百五十年前佐倉藩主堀田正信公による奉献されたと記録されています。
奥の宮の桔梗塚は将門の愛妻の桔梗の墓といわれていますが,将門を偲びこの地には桔梗の花は咲かないと言い伝えがあります。
口ノ宮神社口ノ明神
江戸時代,高い税に苦しむ百姓を救うため将軍に直訴した佐倉惣五郎は義民として映画や芝居になり広く知られています。惣五郎百年忌に際し(二百五十年前)藩主堀田正亮公により口ノ明神に祀られ宝珠院が別当として祭祀を行ない,佐倉藩の保護の下に下総一円の領民に崇敬されてきたといわれます。
大正八年本社拝殿等を失火により消失しましたが,地元大佐倉の氏子世話人有志により惣五郎の命日といわれる九月三日には宮なぎ行事として毎年供養と祭祀が行なわれています。石の大鳥居は佐倉市の指定文化財として観光マップのコースに入っています。
大佐倉将門口ノ宮神社再建の碑(平成十三年)より。
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。大河ドラマ「風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をした。同じく、現在の千葉県市川市の大野地区にも、将門公伝説・縁の郷とされ、旧くからの地元住民は、成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こると、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えないといった言い伝えを、今でも聞くことができる。 
 
黒田俊雄「鎮魂の系譜・国家と宗教をめぐる点描」

黒田氏は当該文節「1」において、まず「霊魂」を祀る行為の背後に、為政者側のご都合主義的な動機を指摘する。また、それは「仏」であれ「神」であれ「政治が宗教を利用してつくりあげた虚偽意識にすぎない」ものとも看做した。そのため必然的に、霊魂の神格化における希薄性が浮き彫りとなり、それは近世期の民衆社会内におけるおいてもまた同様であると結論付けているといえよう。
発表者は、義民・佐倉惣五郎を事例として取り上げ、事件の顛末とともに、惣五郎没後の顕彰の経緯と、その後の歴史的位置づけについて追ってみた。黒田氏は「佐倉宗五郎など百姓一揆の先頭に立った人物は、死後「義民」として、民衆の側から、また逆に領主の側から、慰霊・感謝・顕彰がなされ、「大明神」として祀られた例も多いというが、この神号はいわば尊称であって、意味するものは主として生前の人格への尊崇であり、その心情を呪力視して崇拝するまでの宗教的性格をもっていたかどうかは、慎重な判断が必要であろう。ことに、社会的・政策的配慮からの領主側による顕彰もあったとすれば、なおさらというべき」として、特に「社会的・政策的配慮からの領主側による顕彰」された点を強調している。そもそも義民への慰霊と鎮魂のすべてが、佐倉惣五郎に代表される「呪力視」に基づく崇拝対象に一元化できるものかは疑問である。また黒田氏が本論の前提として述べる「政治が宗教を利用してつくりあげた虚偽意識にすぎない」との言辞は、惣五郎の件に関しては符節する内容があったとしても、他の事例には、必ずしも一致するものではない。高山彦九郎「墓前日記」天明7年6月27日の記事には、高山の生国である上野国が生んだ新田義貞の顕彰に努めるとともに、郷土の偉人の霊が永く留まり、一つの模範となって後世へ継続的に遺志の伝承がなされていくと見ていることが窺われる。また自由民権運動家の1人で、平田派の国学者に位置する小室信夫の養子の信介は、「東洋民権百家伝」(序言)において、惣五郎の他に地方に多く潜在した義民に関する伝承を蒐集することを通じて近代初頭における民衆運動の淵源に位置づけ、その霊魂を鎮めようとしたことを述べる。ここにいう霊魂の存在とは、黒田氏が中世社会に見出した可視化される幽霊や呪力を伴う、といった影響や効験を齎す存在ではなく、歴史的存在としての当該人物が、人々によって様々な形で語り継がれることにより、後世の所縁ある時と場所において、影響を齎す存在と看做されているものと思われる。また黒田氏は、当該文節「2」「3」において、近世期の国学(復古神道)においては「中世風の宗教的感情・情熱の冷め果てた時代の、むしろ学説と名付けるにふさわしい性格」であったと指摘する。幕末国学者矢野玄道は「八十能隈手」(一之巻)において、霊魂が「歡喜」「瞋怒」といった人間と同様の感情を有し、幽世から人間社会(顕世)に対して何らかの影響を齎す存在であることを治世の側面から指摘し、祭祀の必要性を指摘した。このような霊魂観は、人を祭神とする神社に関して、「其神祇を崇敬するの精神は、かの冥想の所産たる唯一絶對の宗ヘ上の所謂「神」を敬するの意にはあらで、吾等の祖先、吾等の恩人に對し、その恩澤に報謝するの意に外ならず。(中略)嘗てはわれ等と等しき精神と肉体とを具有し、われ等子孫の爲に心命を惜しまず活動したる大人格のみ。」(土方久元著・安原清輔、佐伯常麿編「天皇及偉人を祀れる神社」大正元年、帝国書院)とも述べられるような、祭神を生前と等しい人格と感情を有する存在対象と看做した端的な表現であると考えられる。黒田氏の言う「霊魂を祀るとはいってもそれは御霊信仰のように霊魂の機能を神格化する方向をもたず、生前の人格の尊崇という色合を強くもち、生身の人間の面影がついてまわる。」との指摘は、近世期以降の霊魂観の一面において理解されるものであろう。しかし当該時期の霊魂観には、個別の事例や社会背景の多様性からみても、必ずしも人の霊魂が黒田氏の指摘するような、常に「呪力視」される怨霊的存在でありつづける必要があったわけではなく、人を神と祀る場合に、生前の人格等を引き続き持ち続ける存在であることによって、「敬い」や「顕彰」といった神格の位置づけへの営みが育まれ、それが近世以降に芽生えた霊魂観の発展の一つであったと考える視点も必要だと思われるのである。 
 
平将門と佐倉惣五郎の怨霊伝説を追って

昨年、男の大厄年に病気をして入院をして続けざまに武蔵野から千葉に引っ越し、慣れない土地で心細いしさてどうすると思っていたが、昔を懐かしむよりも千葉のいいところを探して歩こうと思い立ったのがこのレポートのきっかけである。
私は素人であるから間違いは前提でとにかく自分で歩いて調べようと思った。このレポートはその稚拙な記録であるから間違いやご意見があったらなんなりとご指摘いただければ幸いである。
千葉県佐倉市将門山
千葉県の佐倉市に将門山という台地が広がっている。
京成線大佐倉の駅の南に30数メートルくらいの低い丘陵であるが上は平坦で畑や山林に少しの住宅がある。
この地には平将門と佐倉惣五郎の遺跡と二人の怨霊伝説が重層して残っている。ここは町名も将門町となっているし神社「将門大明神」がある。また近くの畑の中には将門の妾である桔梗の前の墓とされる「桔梗塚」があり、この辺の桔梗には将門の祟りで花が咲かないという伝説が残っている。また江戸時代の義民で知られる「佐倉惣五郎」の霊もこの「将門大明神」に祭ったとされている。つまり将門と惣五郎の伝説がダブっているのである。
ここは江戸時代は将門御林といい幕府の植林地であった。
将門山の地名のいわれについては諸説があり、ここに将門の父良将の居館があったとも将門の砦があったともされている。しかし将門山の名の真実のところは近くに本佐倉城という千葉氏の城があったからでは無いかと思う。
千葉氏の祖先は平良文といい、平将門の叔父に当たり、将門とともに戦った人物である。事実、千葉氏の家伝でも将門の事を強く敬っており、将門と良文は一緒に妙見菩薩に導かれたとされている。そこでこの将門山に「妙見宮」と「将門宮」を祭ったのが名の起こりであるのでは無いか。
私は平成十二年三月十二日、インターネットのホームページ「闇の日本史」で知り合った桔梗さんとその御父様(なんと99歳)とこの将門山を訪れた。桔梗さんと言っても男性である。私の父と同い年と言うのも何か縁を感じた。桔梗さんの御父様はとても99歳と思えないほどかくしゃくとして、言葉もはっきりしておられる。細かい日付も覚えていらっしゃって記憶力は私よりいいのではと思われた。
しょぼふる春の雨の中、私たちは車をおり将門山にある「口の宮(口の明神)」の石の鳥居の前に立った。この鳥居は承応三年(1654)に佐倉城主堀田正信が寄進されたものとなっていてこの鳥居にも掘ってある。
桔梗さんの御父様のお話ではここは道が90度にぶつかっておりまさに「まっかど」からその名が云われたとも云う。
ガイドブックなどではここが「将門大明神」となってはいるし石の鳥居にもはっきりと掘ってはあるが話はそんなに単純ではない。江戸時代の地図では「将門大明神」は「口の宮」と言うことになっているし別のところに「将門宮」と「妙見宮」があるのである。ここを訪れた一つの目的はこの安政年間の古地図にある「将門宮」と「妙見宮」を見つけることだった。地図によると私たちの立っているところが口の宮で南に約二百メートルのところにその二社があるはずなのだがどうしても見つからない。畑と民家が建っているだけである。やはり朽ち果ててしまったのだろうか。
私たちは「将門宮」と「妙見宮」が消えたままの謎を残して将門山を後にした。
千葉氏の最後の居城、本佐倉城跡
次は本佐倉城に向かう。将門山からはさほど遠くは無いのに道が入り組んでいてなかなか行き着かない。あぜ道のようなところを自動車で通ってやっと城のあった山の裾につく。昨年の12月に来たときは偶然にも酒々井町の社会教育課で城内見学会をやっていて城の仕組みを見て回ったことがある。城域はかなり広く、土累や空堀など様々な軍事的な施設がされていることが解って興味深かった。
いつもは山裾にある妙見社から登っていくのだが今日は桔梗さんのお父様の事を考え、車で細い道を登っていった。普通トラクターか四輪駆動でなければ登れない道であろうが桔梗さんは無理矢理登っていった。
この本佐倉城は先にも記したとおり、千葉氏の城であり終焉の地である。頼朝時代に有力御家人だった千葉氏は戦国時代には衰え始め、ついには小田原陥落とともに滅んだ。
私たちは二の丸の跡である台地に立った。私たちの他は誰もいない。今では畑となっているがこの台地にはかなり大きな妙見宮が鎮座していた。しかし千葉氏が滅びると妙見社は下の登り口まで引きずりおろされたらしい。変わりに空堀を挟んだ向こうに諏訪神社が鎮座している。昨年、私一人でここに来たときは本丸跡や空堀、虎口などを見て回ったが今日は雨が邪魔してままならない。車が行き着いた辺りで我慢することにした。
千葉県にやたらと妙見社が多いのは妙見菩薩が千葉氏の氏神だからである。ちなみに千葉駅の近くにある千葉神社も妙見社である。
千葉氏は自分たちの始祖である良文と共に戦った将門を強く意識したのだろう。ここからさほど離れていない地に将門を祭るのは自然なことだと思った。
惣五郎の物語の舞台になった勝胤寺
私たちは今度は佐倉惣五郎の伝承を追って将門山の北にある勝胤寺を訪れた。佐倉惣五郎については古くから将軍に直訴をして民衆を救った義民として知られているがその惣五郎伝説を綴った「地蔵堂通夜物語」では将門山の北にある勝胤寺を訪れた六部の行者がこの将門山にある「口の宮」はどういういわれの神社かと庵主に問いただすと、「口の宮」には処刑された惣五郎が祭られていること答えることになっている。しかし今日は外をちょっと見ただけで勝胤寺では収穫を得ることが出来なかった。
宗吾旧宅
次に印旛沼岸にある「甚べえ渡し」の碑を見て昼になったので千葉県で一番うまい鰻をご馳走になり(御父様もぺろっと食べてしまわれた)「宗吾旧宅」に向かった。
「宗吾旧宅」は宗吾参道から細い道をおりた山裾にひっそりと建っていた。ここには佐倉惣五郎の生家と言われていて彼の位牌がある。その旧家の中に入ると大きな土間があり梁も大黒柱も見事で名主の家といえどもこんなに立派な家は他に残っていないだろうと思われた。この旧家を守っている惣五郎の子孫の木内家の奥様が迎えてくれた。桔梗さんの家とは遠い親戚筋に当たるそうである。私たちが来ることは予め伝わっていたらしい。
奥様は私たちを囲炉裏端に座らせると一通り惣五郎の話を聞かせてくれた。
「佐倉宗吾というのは芝居とか読み物の名前で本名は木内惣五郎と言います。宗吾は堀田の殿様がつけた尊称で戒名は涼風道閑と言います」なるほど、こういう使い分けがあるのかと解った。
「惣五郎は妻と一緒に処刑されたことになっているけれども実は累を及ばさないように離縁しているんです。それに二人の娘がいて水戸の方に嫁いでいて累を免れたのが本当です」と読み物や芝居とは違った話を聞かせてくれた。話では惣五郎を処刑した堀田正信のところに夫婦の亡霊が現れるのだが、これはやはり作り話だと言うことになる。
「ある説によると惣五郎は千葉氏の子孫で民衆の窮乏を直訴したのでは無くて千葉氏の再興を訴えたのだと言う説がありますが如何でしょう」と聞くと奥様は「確かに千葉氏の家来の子孫だと言う話はありますが再興を願ったのは無いと思います。二十数年ほど前に研究された方がいてそうおっしゃっていましたが私はそれは違うと思います」とはっきりおっしゃった。
「大佐倉の将門山に行って来たんですけれども口の宮はあるけれども地図にある将門宮と妙見宮は無くなっていますね」と聞くと「今日は主人がいないから私には解らない」と云うことだった。
そして私たちは成田山と宗吾霊堂を結んでいた電車の通りを通って成田まで行き桔梗さんと御父様に再会を約束して別れた。
消えた将門宮
再び将門山の謎に戻る。
古図によると将門山には八幡神社本殿に続く長い参道がありその鳥居から道を挟んで200メートルくらいいくと「石の鳥居」と「口の宮(口の明神)」があり奥に「将門宮」と「妙見宮」が向かい合っている。
酒々井町で作っている史跡地図を手に入れたのだがこれにもはっきりと「口の宮」と「将門宮」と「妙見宮」は載っている。つまり少なくとも最近まではこの宮はあったはずである。(後日、この新地図では「将門宮」と「妙見宮」は単にマークされただけで今は実体が無いことが判った)
しかし行ってみると「八幡神社」と「石の鳥居」と「口の宮」であるはずの祠はあるが「将門宮」と「妙見宮」は近辺を探しても見つからない。地図にあった「将門宮」と「妙見宮」は消えてしまっているのである。
また「口の宮」に戻ると「石の鳥居」には承応三年、寄進者は堀田正信とある。その奥に小さな祠があり中に五輪塔が入っている。そして将門大明神という新しいお札が張ってある。その祠の脇、10メートルくらいの草むらの中に朽ち果てた祠があるが中には何もない。桔梗さんの御父様によるとこここそが惣五郎の首を埋めてあるという。
「口の宮」に祭られているのは将門?惣五郎?
ここに一つの解決の資料がある。
「千葉県の歴史散歩」の著者の県立成田高校の鏑木行廣氏の書いた「佐倉惣五郎と宗吾信仰」である。この本ではいくつかの資料によれば将門山には新旧二つの将門宮があった。しかし承応三年(1654)に石の鳥居が堀田正信より寄進されるとこの「新将門宮」は宗吾の宮とされてきたようである。それは佐倉惣五郎の処刑が鳥居寄進の前年の承応二年(1653)に行われていて正信改易も寄進の年となっている。つまり地元の人は惣五郎の怨霊の祟りのため祭り上げ供養をしなくてはならず、石の鳥居の寄進と口の明神の建立をしたのではないかと思っているということである。
また正信の子孫の正亮の時に惣五郎の百回忌(1752)として「口の明神」を建立したという記録がある。しかし宝永六年(1709)の村明細帳に「口の明神」「将門平親王」「妙見宮」「石の鳥居」とあるから正亮が始めに「口の明神」を建立したのでは無いことが解る。
鏑木行廣先生と酒々井町と佐倉市の話
三月十八日、偶然にも近くの公民館で先に紹介した佐倉惣五郎研究の権威、鏑木行廣先生の講演を聴くことができ懇親会で消失した「旧将門明神」と今も残る「口の宮(口の明神)」の謎について伺った。「当初、妙見宮と将門宮の旧社があって堀田正信の時に新将門宮と石の鳥居が寄進されそれが惣五郎の処刑の年と正信の改易の年と重なり地元の人は惣五郎の怨霊と結びつけた。それが口の明神となってさらに堀田正亮の惣五郎100回忌で事実上の宗吾霊を祭る神社となった。口の明神は大正時代に全焼するまで相当栄えていた神社であったが焼失後、再建されずに荒れてしまい石の鳥居だけが残って後は周りの人が見かねて祠を造ったりしたのでしょう。旧将門宮も妙見宮もその時に燃えて無くなってしまったのでしょう。酒々井町の遺跡地図ではおそらくここにも神社があったとマークしただけしたのではないか」とおっしゃっていた。
次の日、私は酒々井町の役場に電話をした。もしかしたらそういうことが調査で一番先にすべき事だったかも知れない。
「一体、将門宮と妙見社はどうなったのでしょうか?」
酒々井町曰く「今は整地して山林になっているはずですがね」
私「いつ頃まで将門社と妙見社があったのでしょうか?」
酒々井町「あそこは佐倉市の区域になるので解りません。佐倉市で調べていただけますか」すぐに佐倉市文化課に電話をした。すると女性が資料を送ってくださるという事だった。
将門宮と口の宮の変遷
次の日送られてきた資料をみると「口の宮神社」一帯の変遷図のコピーがあった。なんとこれによると「新将門宮」=「口の宮」ではなく石の鳥居を挟んで反対側に「新将門宮」がマークされているのである。またこの「新将門宮」は石の鳥居と同じ承応三年に建立され享保年間に廃祠されていることが解った。「旧将門宮」の方は建立された年は解らないが明治二年に廃祠となっている。つまり新しい宮の方が古い宮より早く無くなっているのである。これでは混乱するわけである。
後日、この図を持ってもう一度この辺を歩いてみた。「口の宮」には土手を築いた跡があり今でも神域として成り立ってはいるが前にも記したとおり石の鳥居の他は小さな祠と朽ち果てた祠だけである。「新将門宮」は石の鳥居をはさんで祠と反対側にあったらしく跡地は民家の敷地の中である。また「旧将門宮」跡地は畑の中にあり痕跡すら見いだせない。「妙見宮」のあった位置は畑の中に狭い林となっており神域であったことが伺われるが建物の痕跡は無い。
こうして大体の事は解った。
おそらく承応三年(伝説では惣五郎処刑の翌年)に「口の明神」と「石の鳥居」「新将門宮」が建立されたがこれが70年ほどたつうちに荒れ果てたので享保年間に「旧将門宮」を再建して「新将門宮」は廃祠した。続いて惣五郎百回忌にあわせて「口の明神」を再建して宗吾霊を改めて祭った。そして大正八年焼失まで宗吾神霊の神社として崇められていたが明治期に宗吾霊を祭ることは禁止されたが地元の人達には宗吾を祭った神社だとされ続けた。
これが皆さんのお話と資料をまとめた結果である。
将門、惣五郎と口の明神、将門大明神に関係する年表
話がややこしくなってきたので年表をまとめてみた。
寛平二年(890)平高望の三男良将(将門の父)、下総守に就任、大佐倉に住む
天慶三年(940)天慶の乱平将門負死
享禄元年(1528)千葉勝胤により後の「地蔵堂通夜物語」の舞台になる勝胤寺創建
天正十八年(1590)本佐倉城の千葉氏小田原落城共に滅びる
承応二年(1653)佐倉惣五郎、将軍に直訴(承応三年説もあり)
同じく惣五郎処刑
承応三年(1654)堀田正信将門山に「新将門宮」と石の鳥居を寄進
万治三年(1660)堀田正信幕府を批判して不穏な行動をしたため改易(物語本では発狂)
宝永六年(1709)大佐倉村の村明細帳に「将門平親王社」「妙見宮」「口の明神」「石の鳥居」の記載が見える
正徳五年(1715)「総葉実録」に新旧将門社の記載が見える
享保七年(1722)「佐倉風土記」に新旧将門社の記載が見える
延享三年(1746)堀田家(正亮)佐倉に再び入封
寛延三年(1750)佐倉藩成田筋の農民の強訴
宝暦二年(1752)惣五郎百回忌堀田正亮「口の明神」を再建、惣五郎に涼風道閑と戒名と宗吾という尊称を与える。
宝暦十二年(1762)「佐倉古今真砂子」このころ成立、将門山に「そうづの宮」の記載が見える
明和八年(1771)このころ総五郎の物語「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」が成立
寛政三年(1791)台方村にあった「惣五塚」に墓碑が建てられ後の宗吾霊堂となる
嘉永四年(1851)芝居「東山桜荘子」が江戸中村座で上演され大人気を博し惣五郎義民伝承を広げる
明治二年(1869)佐倉藩布告により「口の明神」に宗吾を祭ることを禁止される
明治三年(1870)「口の明神」が「口神社」と改められる・
明治三十六年(1906)「口神社」の境内から瓶に入った白骨が発見される
明治四十年(1910)「宗吾大人系譜」が発行される
同じく「口神社」は「口の宮神社」に改められる
大正八年(1919)「口の宮神社」一帯が全焼し再建されず石の鳥居と小さな祠を残すのみとなる
怨霊伝承の系譜
この年表を良く見ると怨霊伝承がどのように形成され加工されてきたか解る。つまり始め大佐倉にあった「将門平親王社」が最初の怨霊伝説の元になったこと。次に佐倉惣五郎の処刑の翌年に堀田正信が石の鳥居をここに寄進したしたこと。
その後、彼が幕府を批判(物語では発狂したことになっている)して改易となって惣五郎の怨霊伝承が語られるようになったこと。その怨霊伝承を打ち消すように佐倉藩の「総葉実録」や「佐倉風土記」などで「口の明神」を「新将門宮」とし惣五郎の伝承とは関係ないように装ったこと。惣五郎処刑後、約百年たってから再び堀田家が佐倉藩主となった際に成田筋の強訴が起こり堀田正亮が先祖への遺恨を晴らすかのように惣五郎の百回忌と戒名を送っていること。
また宗吾霊堂が整備され芝居などにより宗吾義民伝承が広がり、「口の明神」もそのため繁栄して怨霊伝説をあおったこと。
そして「口の明神」が宗吾霊の事実上の神社になっていったこと。
明治初期の廃仏毀釈令により「口の明神「に惣五郎を祭ることが禁止され、再び将門を祭るようになったが地元の人々では総五郎の伝説は根強く残ったこと。
しかし「口の明神(口の宮)」は大正八年に全焼しその後再建されずに宗吾の供養所は「宗吾霊堂」だけになり、「口の宮」一帯は将門と惣五郎の伝説が交差し重複して複雑なものになっていること。たった三百数十年といえども、伝承は人から人へ語られるうちに建物などの建立によって変化し互いに交差して加工されていく。
大正期まで栄えていたのであろう「口の宮神社」は大きな木々に囲まれ荒れ果てていて昔の面影はない。
真実を語るのは今も残る石の鳥居だけになったようである。

「明和騒動」と「口之神社」  
新潟県の特産・名物はというと、「米」「酒」「雪」「朱鷺」などが知られてきました。また、新潟県人は、辛抱強く努力家ではあるが、あまり自己主張をしない・消極的というイメージのようです。
一方で、近年は、アルビレックス新潟を応援する熱狂的なサポーターのことがテレビやラジオ等の全国ネットで放送されたり、全国紙や雑誌に紹介されたりするようになり、県民の熱い力で盛り上がる新潟というイメージも全国に発信されています。
情熱といえば、江戸時代、新潟の市街地で町民達がそれぞれ仮装し、即興の音楽に合わせて3日3晩熱狂的に踊り続けたというお祭りがありました。それを再現する市民参加型の「新潟総踊り」が、新潟を代表するお祭りの1つになりつつあります。熱い魂を持つ新潟の人達が、独創的で情熱的な踊りで見せる表情は、とても消極的とは程遠いもので、この踊りからは強烈なエネルギーを感じずには得られません。
このように、県民・市民の力で盛り上がる活気溢れる新潟のイメージが全国に広がっていくのは、新潟の活性化をライフワークとしている私にとって大変喜ばしいことです。
さて、新潟市が古くからこうした民衆の熱く強いエネルギーを持つ港町であったという歴史は、私が宮司をしている愛宕神社の境内にある口之神社という小さなお社からも窺えます。
この口之神社は、明治17年、御祭神に千葉県の口の宮の御祭神であります木内惣五郎(木内宗吾あるいは地名から佐倉宗五郎とも称す)の御分霊をお迎えし、新潟の義人湧井藤四郎と岩船屋佐次兵衛を合祀してお社が建立されました。
なぜ千葉の神社の分社が新潟の愛宕神社境内に建てられたかについては、次のような歴史があります。
正保2年(1645)、下総国佐倉十二万石は徳川3代将軍家光の信頼厚い堀田加賀守正盛が治めておりましたが、幕閣に参与し江戸に住まいすることが多く、藩地に帰ることがありませんでした。藩主の留守をいいことに私腹を肥やさんとした国家老池浦主計をはじめとする家臣達の悪政に対し、木内惣五郎を中心とした大きな農民一揆が起こりました。当然、一揆の重要人物達は極刑に処せられました。ところが、その後領主以下に度重なる凶事が続いたため、惣五郎の御霊を鎮めるために千葉に神社を建立したといわれています。
新潟にも、民衆が持つ熱い魂を感じさせる事件がありました。それが、新潟の市街地で2ヶ月間に渡り町民自治が組織立って行われた「明和の騒動」と呼ばれる大きな一揆です。
明和5年(1768)、新潟市の町は港町として長岡藩の一部でした。前年からの大飢饉により、長岡藩に納めなければならない1500両のうち、半金の750両は納めたものの残りの半金が捻出できませんでした。町民達は延分納をお願いしましたが、明和5年頃はどこも凶作で、新潟港には船の出入りもほとんど無く、米をはじめ生活物資は高騰し、町民の暮らし向きは大変苦しくなっていました。そこで、更に延期をお願いしましたが、藩の財政も苦しかったため受け入れてもらえませんでした。このとき立ちあがったのが、新潟の商人、湧井藤四郎です。延分納の嘆願書を提出しようと新潟町中の商人たちに呼びかけました。その動きが新潟町奉行所の知るところとなり、湧井藤四郎は投獄されました。
その投獄を知った1000人近くの町民たちは、早鐘を合図に蜂起し、町役人宅や米屋などを打ち壊しました。手に負えなくなった町奉行は、とうとう湧井藤四郎を釈放、その後新潟町民は湧井藤四郎を中心に町民による政府を樹立しました。約2ヶ月間、町民だけで独立運営は続きましたが、長岡藩の策謀に遭い町民自治は弾圧され、湧井藤四郎や岩船屋佐次兵衛等の中心人物達は極刑に処せられました。
その後、長い間この事件は町民や芸妓達の間で義人伝として口承されていました。しかし、江戸時代の当時、罪人として扱われた湧井藤四郎等をたたえ、神々としてお祀りしお社を建立することなどできるはずもありませんでした。
明治になり、お社を建立することが国の許可制になると、町民達は何度も何度も時の政府にお社建立の嘆願をしました。そして明治17年、同じ義民である佐倉惣五郎の御分霊を千葉からお迎えしやっとのことでお社建立の許可をもらい、湧井藤四郎と岩船屋佐次兵衛が合祀されたのでした。
私は、世界で初めて民衆自治を行ったとされる「パリ・コミューン」の100年も前の封建時代に、町民自治を組織立って行った新潟町民を大変誇りに思います。そして、地方自治の分権が叫ばれ自立を求められる今の時代に、それに呼応するかのように、県民・市民の力で活気に満ち溢れる町をつくろうと取り組む新潟の人々を思うとき、口之神社に祀られている義人、湧井藤四郎、岩船屋佐兵衛をはじめとする新潟の民衆の情熱的な魂を受け継いでいると感じずにはいられません。
口之神社は、新潟市古町2番町の愛宕神社境内にひっそりと建立された小さなお社ですが、そんな歴史を思い浮かべながらお立ち寄りいただけたら幸いと思います。 
 
怨霊思想の真相

昭和47年10月、当時京都大学教授であった梅原猛氏が、「隠された十字架」を発表した。この中で、氏は、法隆寺の資材帳、勧進帳なだから、藤原氏と法隆寺の関係を明確にし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺とした。藤原氏によって聖徳太子の怨霊に対する鎮魂の寺が、建設されたと考えた。
当時、この意見に対する学界や法隆寺側からの反論があった。学界は、怨霊思想は、平安時代から起きたことであり、奈良時代には、怨霊思想はなかった。したがって、藤原氏が、怨霊封じのために法隆寺を建設することはありえないというのである。また、法隆寺側の反応は、全く理屈にならないものであった。
しかし、これ以降、怨霊思想に対する関心が、各方面から起こり、映画や小説の題材としてもたびたびとりあげられるようになった。特に、一般的に怨霊思想が、知られたのは映画「八つ墓村」(原作:横溝正史)で、戦国時代の犠牲者の怨霊が蘇り、さまざまな事件を引き起こすという筋書きである。
歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。
これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
こうして見ると、誰もが怨霊になる訳ではない。怨霊になる人は、一定の前提がある。第一に、生前、目的を達しなかった人であること、第二に、恨みを残すような死に方であること、第三に、殺した人が権勢を誇っていることである。
したがって、怨霊は、誰に祟るかが明確である。崇徳上皇の怨霊は天皇家に祟り、菅原道真は藤原氏に祟り、平将門は朝廷に祟り、佐倉惣五郎は江戸幕府に祟り、西郷隆盛は明治政府に祟るのである。
また、一部の指摘ではあるが、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王は藤原氏に祟り、藤原三代は源頼朝に祟り、後醍醐天皇は足利尊氏に祟っている。これらの中でも、怨霊が全国的に知られた人は、崇徳上皇、菅原道真、平将門の3人である。
この三人は、それぞれ、今では神として奉られているが、崇徳上皇は四国に、平将門は東京の神田明神に(大手町に首塚がある)菅原道真は全国の天神様に祭られている。
菅原道真は、藤原氏以外から出た国際派の政治家である。菅原道真は、仁和寺を作った宇多天皇(上皇)の強力な支持で、右大臣まで昇った人である。宇多天皇(上皇)が、第一線から退いてから、藤原氏の菅原道真排斥運動は露骨になり、ついには、大宰府に流された。
菅原道真の業績は、当時、唐の属国であった日本を、独立国にまで、引き上げたことにある。もっとも、独立国になったからといって、当時は、内外とも何一つ変わるものではなかった。変わったことと言えば、当時、遣唐使は、実質的には、藤原氏が政敵の子弟を、唐に追い払う道具として使っていたので、これができなくなったくらいである。
菅原道真自身、藤原氏の陰謀により、遣唐使長官にされたほどである、本来ならば、菅原道真は、これにより、遣唐使として唐に行かなければならなかったが、宇多天皇の支援もあり、遣唐使の廃止運動に走った。
当時、遣唐使を廃止することは、唐に弓を引くことであり、普通ならば、即刻、唐から使者が来て、打ち首になるところであるが、この頃には唐にはその力がなく、日本政府としても正式に遣唐使の廃止を取り決めたのであった。
この方法で、菅原道真を追い払うことができなかった藤原氏は、宇多天皇を上皇にしてから、菅原道真の追い落としを計った。つまり、次の天皇のときに、菅原道真の大宰府左遷を電撃的に決めたのである。
一般的には、道真は罪人として大宰府に行ったと思われているが、そうでなく、大宰府の下級役人として、任地に赴いたのである。大宰府では、雨漏りのするみすぼらしい家が与えられ、実質的に軟禁状態であった。そして、2年後に、死ぬことになる。
これは、藤原氏の陰謀であった。当時から、藤原氏に対する非難は強かったのである。そうこうしている内、京都に落雷が起こり、御所が焼け、死者が出る始末にであった。
世情は、これを道真の「祟り」と噂したのである。おそらく、噂の出所は、宇多上皇あたりである。それ以降、日本全国に、飢饉、地震、天災が相次ぎ、道真は、「祟り神」として恐れられると同時に、雷神、風神の代名詞である「天神様」と呼ばれるようになった。
また、道真は、生前、学問を好み、知識豊富があったので、学問の神様として、敬まわれるようになったのである。道真にまつわる伝承がいまに残っている。雷が鳴ると、お年よりは、「くわばら、くわばら」といって、逃げるように、拝んだりする。
これは、道真の所有地であった京都近郊の「桑原」には、雷が落ちないという言い伝えによるものである。すなわち、雷がなったとき、「ここは、あなた様の領地の桑原ですから、落ちないで下さい。」といっているのである。この話は、雷神、風神となった道真も民衆には、悪さをしないということである。
菅原道真を神にしたのは、宇多上皇であり、藤原氏に反感を抱いていた一般民衆であった。これが、外国であったならば、権力者(藤原氏)の力で、徹底的に道真の遺品や親族を排斥するであろうが、日本では、そのようなことはしない。人知を超えた怨霊に対して、権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。
これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。
これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

堀田氏

堀田正盛 (ほったまさもり)
1608-1651(慶長13-慶安4)、幼名三四郎、従五位下、従四位下、出羽守、加賀守、侍従 武蔵川越3万5千石→信濃松本10万石→下総佐倉11万石 堀田正吉と稲葉正成の女との間に生まれたのが正盛である。正成の妻は将軍家光の乳母春日局で、正盛の母は正成と先妻との女であったから、正盛から見れば春日局は義理の祖母にあたる。 正盛が生まれた当時、父正吉は江戸城西の丸目付であり、正盛も元和6年(1620年)に家光の近習となった。元和9年(1623年)に相模国内で7百石を賜り、寛永2年(1625年)5千石加増、翌3年にも5千石を加増され1万石となった。 寛永10年(1633年)に松平信綱らとともに六人衆(のちの若年寄)となり、5千石を加増され都合1万5千石となった。 家光の信任が厚く、翌寛永12年(1635年)3月に老中となり、2万石を加えられて川越城主となった。寛永15年(1638年)3月に老中職を解かれたうえ、10万石となって信濃松本に移された。 松本転封の理由は川越大火による左遷説もあるが、大幅に加増されていることや転封後の家光の信任は変らず老中に準じた身分であったことなどから否定的な見解の方が有力である。 幕政の重要会議には参画し続け、そのためにほとんど在府していた。松本在封は約5年間で、寛永19年(1642年)7月1万石を加増されて下総佐倉に移った。 佐倉では家臣団の拡張と軍事力強化に努め、江戸城守備に備えたほか、領内を組分けして代官を配置して支配機構の整備を行った。 慶安4年(1651年)4月20日に家光が死去すると阿部重次らとともに殉死した。殉死は家光の遺言とも周囲の期待ともいわれる。 正盛の出世には春日局の後ろ盾があったことは間違いないが、家光と衆道の関係にあったとも言われている。
堀田正信 (ほったまさのぶ)
1631-1680(寛永8-延宝8)、幼名与一郎、従五位下、上野介 下総佐倉11万石 先代正盛の嫡男で、正保元年(1644年)12月に従五位下、上野介に叙任し、慶安4年(1651年)に父正盛が将軍家光に殉死したために、同年8月14日に襲封した。その際、弟正俊に新田1万石、正英に5千石、勝直に3千石を分与している。 家光の信任が厚く、老中でもあった父正盛が家光に殉じて果てたことから、正信は自分も幕閣の要職に登用されるものと考えていたが、何の音沙汰もなかった。 父正盛と立場を同じくしながら殉死しなかった松平信綱を嫌い、やがて自分が要職に就けないのは信綱の妨害工作によるものと考えるようになったという。 思いつめた正信は、万治3年(1660年)10月8日、老中阿部忠秋と家光の弟で将軍補佐役であった保科正之に幕閣批判の意見書を提出し、無許可で佐倉に帰国してしまう。 意見書の内容は、幕府首脳の失政批判、旗本と御家人の窮乏を訴えその救済のために自身の領地を返上するというものであった。 幕閣には正信に同情する声もあったが、重大な幕法違反の事実は重く、松平信綱は正信を傷つけないために狂疾として処理することを主張して入れられ、同年11月3日に領地没収のうえ実弟である信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。 堀田家は先代正盛の忠義によって家名存続は認められ、正信長男正休に1万表が給され、その後正休は近江宮川藩主となって堀田家は明治まで続いた。 正信は寛文12年(1672年)に若狭小浜藩主酒井忠直に、その後延宝5年(1677年)からは阿波徳島藩主蜂須賀綱通に預けられる。 延宝8年(1680年)に将軍家綱の死去を聞くと、番人の目を盗んで鋏で自害した。親子二代の殉死であった。 なお、日本義民の代表とされる佐倉惣五郎一揆が起きたのは正信の代とされている。惣五郎の存在は確実視され、佐倉藩の農民のために尽くしたというのは確かであるらしいが、伝えられているような一揆が起きたかどうかは不明であり、むしろ疑問視する声が多い。 ただし正信の当時の佐倉藩の租税が、ほかと比べて高かったのも事実であるらしい。 
堀田正休 (ほったまさやす)
1655-1731(明暦元-享保16)、幼名正清、従五位下、豊前守 上野吉井1万石→近江宮川1万石 先代正信の長男で、正信が万治3年(1660年)10月に幕閣を批判した上で無断帰国し、幕法違反を咎められて領地没収となった。 正休も信濃国飯田藩に預けられたが、初代正盛の忠義によって家名存続を認められ、正休に1万表が給された。 天和元年(1681年)大番頭、天和2年(1682年)3月五代将軍綱吉の子の徳松付きとなり、上野国多胡、緑野、甘楽、武蔵国埼玉4郡内で1万石が与えられ、上野国吉井に陣屋を営んだ。 翌天和3年7月に奏者番となり貞享3年(1686年)まで勤め、元禄11年(1698年)3月7日に近江宮川に転封となる。近江での封地は甲賀、坂田、蒲生、愛知の4郡に分散していた。 正徳5年(1715年)6月29日に高齢により致仕して嫡子正朝に家督を譲り、享保16年7月12日に77歳で江戸で死去した。 
堀田正朝 (ほったまさとも)
1680-1719(延宝8-享保4)、幼名仙四郎、従五位下、駿河守 近江宮川1万石 先代正朝の子で、宝永7年(1710年)11月に正休の嫡子となり、正徳5年(1715年)6月29日正休の致仕によって封を継いだ。 享保3年(1718年)大坂加番となるが、翌享保4年8月20日に40歳で死去した。 
堀田正陳 (ほったまさのぶ)
1709-1753(宝永6-宝暦3)、幼名小太郎、従五位下、出羽守、加賀守 近江宮川1万3千石 先代正朝の長男として生まれ、享保4年(1719年)父正朝の死去により11歳で宮川藩主となった。 享保19年(1734年)8月に大番頭、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。 宝暦3年10月4日に45歳で死去。 
堀田正邦 (ほったまさくに)
1734-1772(享保19-明和9)、幼名三四郎、従五位下、出羽守 近江宮川1万3千石 先代正陳の子として生まれ、宝暦3年(1753年)父正陳の死去により家督を継いだ。宝暦8年(1758年)11月大番頭となる。明和9年6月2日に39歳で没した。 
堀田正穀 (ほったまさざね)
1762-1819(宝暦12-文政2)、幼名門次郎、従五位下、豊前守 近江宮川1万3千石 先代政邦の子として生まれ、明和9年(1772年)に父正邦が死去したために家督を継いだ。天明6年(1786年)正月に大番頭、寛政9年(1797年)2月に奏者番となった。 文化12年(1815年)2月6日に隠居して正民に家督を譲り、文政2年閏4月27日に58歳で死去した。 
堀田正民 (ほったまさたみ)
1781-1838(天明元-天保9)、従五位下、美濃守、豊前守、加賀守 近江宮川1万3千石 先代正穀の子として生まれ、文化12年(1815年)2月6日に正穀が隠居し家督を譲られた。治世23年ののち天保9年8月19日に58歳で死去した。絵画を得意として蜻蝶譜などをあらわした。 
堀田正義 (ほったまさよし)
1816-1841(文化13-天保12)、従五位下、豊前守 近江宮川1万3千石 美濃大垣藩主戸田氏庸の三男として生まれ、先代正民の急養子となって天保9年(1838年)10月11日に襲封したが、天保12年8月3日に26歳の若さで死去した。 
堀田正誠 (ほったまさみ)
1824-1863(文政7-文久3)、従五位下、豊前守、加賀守 近江宮川1万3千石 旗本本多助信の子として生まれ、先代正義の急養子となって天保12年(1841年)9月25日に18歳で家督を継いだ。文久3年5月12日に40歳で死去した。 
堀田正養 (ほったまさやす)
1848-1911(嘉永元-明治44)、従五位下、豊前守、出羽守 近江宮川1万3千石 出羽亀田藩主岩城隆喜の子で、先代正誠の養子となり、文久3年(1863年)正誠の死去により家督を継いだ。戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。 明治2年(1869年)版籍奉還により宮川藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県によって免職となり、貴族院議員を経て明治44年5月10日に64歳で死去。  
堀田正睦 (ほったまさよし)
(解説1) 1810-1864(文化7-元治元)、江戸時代末期の大名・老中首座。下総佐倉藩の第5代藩主。正俊系堀田家9代。 日米修好通商条約調印の為の勅許の裁可を賜るために上洛し、あれこれ折衝し、賄賂までつぎ込んで尽力したものの、勅許の承諾を得られずに頓挫してしまい、幕府の威信を低下させて「墓穴を掘った正睦」と民衆から揶揄された幕末の老中。地元の佐倉藩を大いに発展させたことや、開国問題以前にも老中の座に着いていたことには、あまり言及されず、勅許の取り付けに失敗したという点ばかりがクローズアップされ、弁才は今ひとつの愚直な老中という評価が定着していて、評判はあまり芳しくない。 最初は堀田正篤(まさひろ)と名乗っていたが、薩摩から天璋院篤姫が輿入れしてきたため、フェミニストの正睦は彼女に憚って正睦と改名した。もし篤姫が入内してこなかったら、正睦は正篤という名前のままだったであろう。その結果名前の読みが同じの阿部正弘と混同され、日本史を専攻する学生を大いに混乱させたことは、想像に難くない。篤姫の功績は偉大である。 篤姫に憚って名前を変えたことからも判るとおり、正睦は女性にとても気を遣うフェミニストであった。にもかかわらず、阿部正弘と違い、大奥の女中達の評判は芳しくなかった。その理由の一つに、彼が蘭学に傾倒していたことが指摘される。幕府は朱子学のみを正学としており、他の学問、とりわけ蘭学は「異学」として松平定信などから厳しく排撃され、シーボルト事件や蛮社の獄などの弾圧も生じている。大奥にも蘭学嫌いは波及しており、女中達は、鳥居耀蔵などからフィルタリングされた情報を吹き込まれた所為で、蘭学はカニバリズムを奨励し、スプラッタによる人体解剖を日常茶飯事的に行う狂気の学問であるという、相当穿った解釈をしており、蘭学を奨励する者に恐怖した。当然、堀田もその例外ではなかったのである。 二つ目に、彼の風采が冴えなかった事が指摘される。大奥の女性達が堀田をあまり好まなかったのは、むしろこちらの理由に依拠するところが大きい。とりあえず、堀田老中の肖像画を拝見していただきたい。 こんなフグのような面構えでは女性受けが良いはずも無い。眼光が鋭い分、井伊直弼の方がまだイケメンと呼ぶに相応しいだろう。ましてや、容姿端麗であった阿部正弘に女性人気で決して及ばなかったのは当然のことである。 
(解説2) 文化7年(1810年)8月1日、佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として生まれる。 文化8年(1811年)、正睦が2歳の時に父が死去したが、藩主は嫡系(正時の兄の子)の堀田正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。 文政8年(1825年)、正愛が長年の闘病の末に病死した際には、若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めていたが、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが、正敦がこれを拒否したために正篤が藩主に就任した。当時の佐倉藩では金井右膳が専制を振るっていたが、これは当時、度重なる外国船の接近に対して佐倉藩は幕府の命令により、文政6年(1823年)以来、病気がちの藩主・正愛に代わって金井の主導により江戸防衛のための準戦時体制を取っていたことによる。 藩主となった正篤は、幕府の信任が厚い金井に時には掣肘を加えながらも、天保4年(1833年)に金井が死去するまでこの体制を維持した。金井の死後は、藩主として独り立ちをして藩政改革を指揮する。幕府では寺社奉行や大坂城代などを務め、天保8年(1837年)に老中となるが、天保14年(1843年)に辞職した(辞職の理由として、正篤自身が第11代将軍・徳川家斉の側近であったこと、蘭学好きという理由から水野忠邦と対立したこと、忠邦の推進した天保の改革はやりすぎである、と土井利位ら他の老中と語らっていたことなどとされる)。老中辞任後、江戸城溜間詰となる。 正篤は、藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどから「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。その後、安政2年(1855年)に阿部正弘の推挙を受けて再び老中になる。そして正弘から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねた。安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。 安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、堀田は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。 一方、同年、第13代将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が第14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋ひいきの朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。 しかし正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免された。そのため、安政6年(1859年)、家督を四男の正倫に譲って隠居した。ただし、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。だが、これはかえって堀田と井伊が結んだという憶測を招き、桜田門外の変後の文久2年(1862年)に謹慎処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされた。 元治元年(1864年)3月21日に死去。享年55歳。 明治維新後、佐倉藩堀田家は最後の佐倉藩主で佐倉藩知事の堀田正倫の時に華族令によって伯爵を授けられた。 
功績 / 勅許承諾に失敗したことから、凡庸な人物の印象が浸透している堀田だが、地元佐倉では多大な功績を残している。蘭学に傾倒していた堀田は、医学にも造詣が深く、多くの蘭医を招聘して病院を多数建設させた。そして戊辰戦争の折、これらの病院は敵味方問わず負傷者を収容して治療に当たり、官軍、旧幕府軍双方の将兵を多数救済した。これに官軍が恩義を感じたのか、佐倉藩は会津藩の如く官軍に蹂躙されずに済んだ。
何故勅許取次ぎに失敗したか / 日米修好通商条約の勅許を取り付けるため、堀田は粘り強く交渉を重ね、賄賂まで積んだ。にも拘らず、何故交渉が妥結しなかったかというと、岩倉具視に嵌められたからである。孝明天皇に反幕府感情を吹き込み、過激な攘夷論に誘導した岩倉の能弁は周知のところだが、岩倉はさらに周到に、堀田に呪詛をかけて体調を悪化させる事で弁舌を鈍らせようとした。彼が呪詛に用いた怨霊の名は、佐倉惣五郎。伝説の義民である。 正睦の祖先である堀田正信は、佐倉惣五郎による義挙が起こった当時の佐倉藩主であった。義挙は失敗し露と消えた佐倉惣五郎だが、強い義憤からか怨霊として顕世に留まり、正信に祟りを為して発狂させ改易に追い込んだ。その後も成仏しきれずに顕世に留まり、各地で義民を煽動したり、幕府の政策を妨害したりした。田沼意次による印旛沼開拓が失敗したのも、惣五郎のたたりの所為だといわれている。 岩倉は堀田家と因縁の深い惣五郎の怨念を利用する事で正睦を調伏しようとした。そして岩倉の目論見通り、惣五郎の怨念は正睦に効果覿面であった。祟りに懊悩する正睦は弁舌が鈍り、ついに交渉を妥結させることができなかった。 
 
呼び太鼓の歌

一番始めは一ノ宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の惣五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田のお不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十で東京心願寺
あれこれ心願懸けたのに
浪子の病は治らぬと
轟々轟々行く汽車は
武男と浪子の行き別れ
二度と逢えない汽車の窓
早く帰って来てちょうだい 
岩船大祭の呼び太鼓として親しまれているこの歌は、原曲は明治初期に流行したわらべうたである。(私が小学校の時、この歌の前半部分が東京のわらべうたとして音楽の教科書に載っていた。NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」の最終回で田中裕子扮する西郷隆盛の妻が、同じメロディーを別の歌詞で歌っていた。)歌詞は数え歌になっているが、明治31-32年に国民新聞に連載された、徳富魯花の「不如帰(ホトトギス)」によっている。
「一ノ宮」は各地の最も由緒ある神社を指す(越後一ノ宮は弥彦神社、というふうに)。地名として有名なのは愛知県一宮市で、尾張一ノ宮真清田(ますみだ)神社がある。日本の一ノ宮なら、三重県伊勢市にあり皇室の祖天照大神(あまてらすのおおみかみ)を祀る伊勢神宮であろう。しかしここでは東京で歌われたということで、武蔵の国(現在の東京都、埼玉県)一ノ宮の、埼玉県大宮市にある氷川神社を指すと解釈したい。
「中禅寺」は栃木県日光市にある天台宗の寺で、古来山岳修業の道場として人々の崇敬を受けている。二荒山(ふたらさん)神社境内にあり坂東三十三札所の第十八番。
「佐倉惣五郎」は江戸前期の義民。(現在の千葉県)佐倉郷の名主として、百姓のために領主の悪政を将軍に直訴して捕らえられた。死後、口ノ明神として将門山に祀られる。
「善光寺」は長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。本尊は阿弥陀如来で、中世以降盛んに信仰される。
「出雲大社」は島根県大社町にあり、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。伊勢神宮を筆頭とする天津神(あまつかみ)系に対する、国津神(くにつかみ)系の筆頭であり、古来より大いに信仰されている。
「成田のお不動様」は成田山新勝寺。千葉県成田市にある、真言宗智山派の別格大本山。不動明王を本尊とする。
「八幡の八幡宮」は京都府八幡市の石清水(いわしみず)八幡宮。大分県の宇佐八幡宮を勧請して創建。歴代朝廷の崇敬を受ける。源氏の氏神としても有名。
「高野山」は和歌山県の高野山金剛峰寺のこと。真言宗の総本山で、開祖空海が自らの入定地として建立。
「心願寺」は、所在不明。実在しないのかもしれない。
前出の「不如帰」は、数多くの演劇・映画の原作となっている当時の大ヒットドラマである。この歌も、すでにあったメロディーを使った劇中歌か、誰かの作った替え歌が、大衆に定着したものと思われる。浪子の悲運を織り込んで替え歌を完成させるために、架空の「東京心願 寺」を作り出したのではないだろうか。いつどのように岩船に伝えられたのか、なぜお祭りの歌として今に残るのか、幻の心願寺とともに、すべての謎は歴史の霧の中である。

一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
十で東京招魂社(しょうこんしゃ)

一番初めは一の宮
二は日光の東照宮
三は佐倉の宗五郎
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ山田の伊勢神宮
九つ高野(こうや)の弘法様
十で東京二重橋

十一 一願かけたれど
浪子(なみこ)の病いは なおらない
ごう ごう ごうごと 行く汽車は
浪子と武夫の別れ汽車
ハンカチふりふり ねえあなた
はーやく帰ってちょうだいな
泣いて血を吐く ほととぎす

十一 心願掛けたなら
浪子の病は治らぬか
ごうごうごうごうなる汽車は
武雄と浪子の別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐く不如帰

十一 心願掛けたなら
浪子の病は治らぬか
武雄が戦争に行くときは
白い白い真っ白い
ハンカチ振り振り
「ねえあなた、早く帰ってちょうだいね」
ごうごうごうごうなる汽車は
武雄と浪子の別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐く不如帰、不如帰

一番初めは一の宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社(おおやしろ)
六つは村村鎮守様
七つは成田のお不動さん
八つは八幡の八幡宮
九つ高野の弘法様
十で東京泉岳寺
これほど信(神)願 かけたのに
浪子の病はなおらない
武夫が戦地に行くときは
白きま白きハンカチを
うちふりながらも ねえあなた
はやくかえってちょうだいね
泣いて血を吐く ほととぎす

一番はじめは一宮
二また日光東照宮
三また桜の咲く頃に
四また吉野の八重桜
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡様
九つ高野の弘法様
十で東京二重橋
これほど 信心掛けたのに
浪子の病は治らない
ぴーぴーごーごー鳴る汽車は
武夫と浪子の別れ汽車
二度と会えない あの汽車に
ハンカチ振り振り さようなら さようなら

一番はじめは一の宮
二また日光中善寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つは村村鎮守さま
七つは長野の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十は東京心願寺
これほど心願かけたなら
ナミコの病は治るだろう
ゴーゴーゴーゴーと鳴る汽車は
タケオとナミコの別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓
泣いて血を吐く不如帰
いよいよ戦争が始まった
日露の戦争が始まった
さっそく逃げるはロシア人
死んでも進むは日本人
八月十日の戦いで
6人残して皆殺し

いちばんはじめは一宮
二で日光東照宮
三は佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守さま
七つ成田の不動さま
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さま
十で東京本願寺
これほど心願かけたのに
浪子の病は治らない
ああ 浪さんよ なぜ死んだ
わたしをおいて なぜ死んだ

一番はじめは一の宮
二また日光東照宮
三また讃岐の金毘羅さん
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ、村村天神さん
七つ、成田の不動さん
八つ、八幡の八幡さん
九つ、高野の弘法さん
十で所の氏神さん
これほど信心したなれど
ナミちゃんの病は治らせぬ
ゴーゴーゴーと鳴る汽車は
タケオとナミコの生き別れ
二度会われぬ汽車の窓
泣いて血を吐く不如帰

タケオがボートに移るとき
ナミコは白いハンカチを
振り振りながら、ねえあなた
はやく帰ってちょうだいな

一列談判破裂して 日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシアの兵
死んでも尽くすは日本の兵
5万の兵を引き連れて
6人残して皆殺し
7月8日の戦いに
ハルピンまでも攻め寄せて
クロポトキンの首落とし
東郷大将万々歳 大山大将万々歳 中条大将万々歳

一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々天神(てんじん)様
七つ名古屋の熱田(あつた)様
八つ山田の伊勢神宮
九つ高野(こうや)の弘法(こうぼう)様
十で東京二重橋 
 
義民の世界3 / 穴井六郎右衛門

日田代官の悪政に苦しむ農民を救うため、命を投げ捨てて幕府に直訴した義民。六郎右衛門は、延宝4年(1676)庄屋の長男として、現在の天瀬町馬原村の庄屋の長男に生まれました。享保19年(1734)に岡田代官が着任すると厳しい年貢の取り立てに農民たちは苦しめられました。そこで、六郎右衛門達は謀って江戸幕府に直訴することを決断、村民から拠出した金額と自ら田畑を売り払って費用を捻出し、次男の要助、組頭の飯田惣次と3人で延享2年(1745)冬、13ケ村の連判状からなる訴状を携えて江戸に旅立ちました。翌年正月江戸に到着した3名は、先ず評定所に訴えましたが却下されたため、目安箱へ訴状を投じました。時の将軍吉宗は、日田に検使を派遣する一方、ご法度である直訴を行った六郎右衛門たちを捕らえ、投獄します。そのころ日田では岡田代官が密告者の調査を開始していました。その後、代官の悪政が認められ六郎右衛門たちは釈放。喜んで日田に帰郷すると代官に捕らえられて延享3年(1746)12月28日浄明寺川原で処刑されました。助命を願っていた財津村竜川寺の住職は、3人の首級を密かに持ち帰り、境内に手厚く埋葬しました。亀山公園に顕彰碑が建てられています。  
日田義民伝口説き
ここに語るは豊後の国の 日田の月隈代官所にて
音に聞えし代官様は 姓は岡田で名は庄太夫
ひどい年貢の取立てなさる たまりかねたる馬原の庄屋
人情床屋でその名も高い 穴井六郎衛門とゆうて
我が身捨てても村人救う まこと仏の庄屋の談し
ある日村中の組頭たち
庄屋宅にと呼び集めます 善後策をばご相談なさる
お床屋集めがこりゃ良かろうと あまた床屋のあるその中で
求来里下井手刃連の村や 女子畑村苗代部村と
湯山大島八人の床屋 月の隈なる代官所へと
村の苦しさ訴えました とても聞入れ下さりませぬ
無礼者じゃと追い返えされる
そこで日田玖珠三百ケ村 六郎衛門は集めに回る
そこで集まる二十六の床屋 玖珠の山の中お茶場と言うて
里をはなれて人目をさける ないしょ秘密のご相談なさる
江戸へ直訴のはなしと成りて 二度も三度もお茶屋場会議
そこで最後は十三ケ村 将軍様にと直訴ときまり
そこで下原平左の宅で 直訴願書に血判なさる
江戸へ上るは三人だけよ 路銀餞別集まりました
庄屋穴井の六郎衛門 組の頭の飯田惣次郎
せがれ要助ともにとつれて 水で別れの盃かわし
十と三ケ村のお床屋さんは これを見送り涙の別れ
延享二年は師走の半ば 日田と玖珠との百姓にかわり
遠くはなれたお江戸をさして 死罪覚悟でお出かけなさる
南無よ鞍形尾八幡様よ 守りたまえと心の中で
祈りつづけて正月半ば たどりついたるお江戸の役所
なれど直訴はご法度でござる これでなるかと六郎衛門
勘定奉行所の役人様に 両手地に突き平伏すれば
此処の役人情をかける 目安箱にと訴状を入れる
神の助けが御殿に届く 時の将軍吉宗様の
お目にとまりて評定なさる 勘定奉行が上便となりて
明けて三年二月の末に 日田の百姓の暮しのもよう
刃連城内村々回る 豆田、堀田や庄手の村と
竹田村から上井手すぎて 女子畑村苗代部村よ
柚の木村過ぎ続きの村よ 五馬市村出口村と
村のくらしをお調べなさる も早三月終りとなれど
今だ帰らぬ六郎衛門 国を出てからはや四ケ月
さても留守居のお庄屋さんは 又も集まりご相談なさる
馬原幸助は理衛門つれて 六郎衛門をむかえに上る
江戸でご放免帰りはしたが 岡田代官のお縄にかかり
月の隈なる牢屋に入れて やがて打首獄門きまる
目指す目的果たしたからは すでに覚悟の六郎衛門ら
早く我等の首打ちたまえ 時は師走の二十八日よ
慈眼山から暮六つの鐘 浄明寺川原で打首の刑
露と消えゆく六郎衛門 神と仏としたわれまして
後の世までもその名を残す 義民くどきも先ずこれまでよ  
天領日田と西国筋郡代
日田は文禄2年(1593)太閤蔵入地となり、慶長6年(1601)には幕府領となって代官小川光氏が月隈山に丸山城を築き日田北部を支配し、南部は佐伯藩毛利氏の預かりとなった。
以後、元和2年(1616)−寛永10年(1633)の譜代大名石川忠総領、天和2年(1632)−貞享3年(1686)親藩大名松平直矩領となった時代をのぞけば、明治維新まで幕府直轄領であった。
代官所は寛永16年(1639)に永山城の南に置かれ、以後幕末まで続いた。代官は府内(現大分市)高松に在陣し、日田支配を兼任する場合も、また逆に日田在陣高松支配の場合もあった。
代官から郡代に始めて昇格するのは明和四年(1767)揖斐政俊である。支配高も約15万石となった。以後日田は西国筋郡代所として西国直轄領の重要な要となった。
特記すべき代官は享保19年(1734)時の幕府の徴税政策を厳密に実施した岡田俊惟である。延享3年(1746)、馬原村穴井六郎左衛門を中心に幕府に直訴した馬原騒動がおこり、義民として関東の佐倉宗五郎と対比される。
また文化13年(1816)に着任した塩谷正義は、現在も利用されている小ヶ瀬井路の開削や、筑後川を利用した日田川通船の完成あるいは豊後各地の新田開発などの民政・民心の安定に日田の豪商の財力と英知を活用し、手腕をふるった。  
百姓一揆
近世農民が連合して、領主などに対して一定の要求を通そうとする行動闘い。その形態によって、訴願(そがん)蜂起(ほうき)逃散(ちょうさん)打ちこわしなどに分類されることもある。
徒党強訴逃散
明和7年(1770)幕府の出した高札は通例「徒党(ととう)強訴の禁」といわれている。幕藩領主は、各村に年貢の納入や治安の維持には「村請(むらうけ)制」という連帯責任を負わせた。しかし、領主にとって「よろしからさる事」を農民たちが相談する事は「徒党」であり、そのうえで願い事を通そうとするのは「強訴」であり、さらに相談して居村から立ち退くのが「逃散」であり、いずれも違法行為とされた。そうした申合わせを密告(訴人)した者には、褒美として銀100枚(4貫300匁)が与えられ、徒党などを知っていながら訴えなかった者は、同罪とされた。領主の命令や方針に従う横の連合は奨励され、それに歯向かったり抵抗する横の連合は、罪となったのである。
豊後の百姓、徒党強訴す
幕府は寛延3年(1750)、はじめて公私領に向けての一揆(いっき)禁令を出している。これは、農民たちが年貢や救済を求めて大勢が集まって訴訟することは徒党強訴逃散にあたり、今後は厳罰に処するというものだった。この法令の趣旨説明をした、時の勘定奉行神尾(かんお)若狭守春央は「豊後岡田庄太夫支配所百姓共、徒党強訴致し候につき、厳重吟味の上重き御仕置き仰付けられ候」と述べている。では神尾はわざわざ豊後の農民の行動とそれへの「重き御仕置き」をいったのだろうか?延享3年(1746)正月、幕領日田郡馬原(まばる)村(天瀬町)の元庄屋穴井六郎右衛門彼の次男要助馬原村組頭飯田惣次を代表とする日田玖珠郡13か村の農民は、幕府に「夫食(ふじき)米」(食糧用の米)の拝借願いを直訴した。それは、定免(じょうめん)制の実施以来貢租負担がふえ生活が困窮していたところへ、代官岡田庄太夫の新増税助合穀(たすけあいこく)銀の設置など(延享2年の新法)があり、困窮がいっそう進んだために行われたものである。六郎右衛門らは、この直訴に先だって3回も代官所へ訴えた。しかし、増税政策をとった岡田代官がその訴えを聞くことはなかった。そのため違法行為とされていた直接の幕府への訴え(直訴)をしたのである。いっぽう、この年春には、日田郡では大山筋の農民700余人が久留米藩領へ逃散をし、ほかに小倉森領へ逃げたものもいた。さらに、城内村(日田市)農民が代官所へ大挙押しかけている。
義民穴井六郎右衛門
寛保元年(1741)に極められた「御定書(おさだめがき)百箇条」の「地頭へ対し強訴其上徒党致し、逃散の百姓御仕置之事」では頭取の死罪をはじめ追放所払い過料(罰金)など重い罰則となっている。江戸に出た六郎右衛門らは入牢となり、きびしい調べをうけたが、12月には帰国を許された。しかし、代官所から「徒党強訴」の罪で捕えられた。穴井父子は、死罪獄門、飯田は死罪、連合して要求を出した15か村で450人近くの農民が追放田畑屋敷取り上げ過料に処されている。処刑された3人の首級は龍川寺(りゅうせんじ)(日田市)の和尚がひそかに持ち帰り、葬った。宝暦2年(1752)の7回忌に際して、あらためて供養塔を建て、法要が営まれた。この供養塔は今も残っている。苦しむ農民の代表として一命を賭して行動を起こした六郎右衛門らは「義民」としてながく人々の尊崇を集めている。県下では、日出(ひじ)藩領の大庄屋阿南清兵衛、島原藩領江熊村(宇佐市)の三右衛門、岡藩領大野郡原尻(はらじり)組(緒方町)の奥之丞、中津藩領赤尾村(宇佐市)の赤尾丹治多志田村(本耶馬渓(ほんやばけい)町)の江利角五左衛門、臼杵藩領黍野(きびの)組(野津町)の大庄屋佐土原基右衛門らの義民がおり、それぞれ地域で顕彰されている。百姓一揆史では「日田玖珠郡一揆」(馬原騒動)のようなものを代表越訴型一揆という。
傘連判状は何を物語るか
文政9年(1826)、延岡藩領国東郡黒土村(真玉町)の玄益権九郎を発頭とする「車状(くるまじょう)」(傘連判状)が領内村々を回った。これは、「郡中入用減し方」を要求してのものだった。車状は全村を回らないうちに発覚し、発頭人は3年の牢舎のうえで村替えに処されている。同じ延岡藩領では、これより前の文化3年(1806)、大分郡下光永村の枝村立小野村(大分市)の農民が、本村との紛争で全村民が逃散し、さらに延岡での訴訟のなかで、村人による「傘連判状」を作成している。傘連判状は、一揆などにおいて発頭人(村)に罪がかけられるのを防ぎ、全員が平等の立場で署名するために考え出されたものだった。農民たちの成長を示している。
多様な闘い
農民たちの闘いは、領主支配の末端にある庄屋を中心とする村役人層と村運営などをめぐってもくりひろげられた(村方騒動)。また、文化一揆以降は、破却を伴う打ちこわしや城下町への出訴などが、各地で発生している。文化15年(1818)慶応2年(1866)の杵築藩領、文政4年(1821)の府内藩領(さんない騒動)、天保7年(1836)安政2年(1855)の時枝領騒動などは明治初年の農民一揆につながるものである。  
 
日田義民伝

岡田正太夫と穴井六郎右衛門
徳川幕府にとって日田は特に重要な所であったので、江戸時代は殆ど、幕府領(御料、俗に天領)として支配して来た。大名領は元和、寛永年間の石川忠総(譜代)と、天和。貞享年間の松平直矩(親藩、家康の曽孫)の20余年にすぎない。
代々の郡代や、代官は民治に勉めて、後世にまでその功績の称讃せらるるものも多い。併し享保19年から宝暦4年まで、代官として日田に在陣した岡田庄太夫は、21年という最も長い任期中に、いろいろな、悪名を後世に残している。彼の人物を知るものとして、和歌を好んだと亀山抄に記されており、また大超寺に建っている奥方の碑にも、万葉仮名で一首刻まれているが、他には詠んだ歌も伝わっておらず、V延元年(973)玖珠郡へ遷されたと伝えられる清原正高の重臣であったが、曽孫美濃守蔭連の跡継ぎ正高の曽孫長野通平の次男道隆を迎えたので、清原姓を名乗るし年貢は前代官増田太兵衛の豊作の年の通りに徴収したので[諸人嘆くこと限り無し]と述べている。
また元文5繁住し、錦袋山(きんたいざん)地蔵菩薩を尊崇し、その孫丈左衛門尉は、馬原村本村に永住して農を業とした。 丈左衛門の孫、治郎左衛門は、挙げられて村役を勤め、六郎右衛門はその五代目にあたる。 生年月日は明かでないが、延享三年71歳で処刑されているのから逆算して延宝四年の生まれと思われる。
享保十年(六郎右絵門が50歳で庄屋在勤中)の馬原村は明細帳によれば、村高は931石4斗6升7合で、日田郡第一の大村であった。 この広いたり、家族のための供養塔や、代官所の神社を奉祇する等には熱心であったが、かんじんの天領の農民の統治は、只立身出世の手段にしか過ぎなかったようである。
だから後に述べるように、凶作が続いても救済手段をとらぬだけでなく、豊作の年と同様の年貢をかけた上に、過酷な新しい税をかけようとしたのである。
義民穴井六郎右衛門の遠祖、穴井四郎将監張継ぐは、天延元年(973)玖珠郡へ遷されたと伝えられる清原正高の重臣であったが、曽孫美濃守蔭連の跡継ぎ正高の曽孫長野通平の次男道隆を迎えたので、清原姓を名乗るようになったと伝えられている。
元亀年間(1570−72)に至り、穴井和泉守重きは馬原(まばる)村字袋に住し、錦袋山(きんたいざん)地蔵菩薩を尊崇し、その孫丈左衛門尉は、馬原村本村に永住して農を業とした。 
丈左衛門の孫、治郎左衛門は、挙げられて村役を勤め、六郎右衛門はその五代目にあたる。 生年月日は明かでないが、延享三年71歳で処刑されているのから逆算して延宝四年の生まれと思われる。
享保十年(六郎右絵門が50歳で庄屋在勤中)の馬原村は明細帳によれば、村高は931石4斗6升7合で、日田郡第一の大村であった。 この広い村をよく治めて、享保17、18年の飢饉にも、最も初めに慈善の拠銀を行ったと云われている。
また凶作にも困らぬように、新田の開墾や、大ため池の造成、畦延べとか切り添えとよばれた田畑の拡張工事も行ってきた。これらの土木事業は、食糧増産のためのみでなく0これに従事する多くの百姓、ことに水のみ百姓の救済事業でもあった。
また平素から、神仏を崇敬する念が厚く、特に日田郡八幡宮の起源である鞍形尾八幡宮と、代々信仰してきた錦袋山地蔵尊への信仰と礼拝は、日夕怠ることがなかった。
直訴を思い立った時の六郎右絵門は、年すでに70であり、馬原の庄屋には給米7石も給せられており、また凶年を考慮して開墾事業等もすすめておる程で、六郎右衛門個人としては、代官の悪政以外には生活には、たいして困るところはなかったのである。
直訴はまったくの天領の農民のためのものであった。両者を比較すれば、岡田代官:自分の栄達、高慢不遜の生活、重税の賦課、不要の土木事業等六労右衛門:自己を犠牲、敬神崇祖の日常、江戸に直訴、天領農民の救済となるであろう。

六郎右衛門 50歳の頃の馬原村明細帳 (ー)
一、庄屋百姓持の山。薮143ケ所 但し□薮わづかの場所ども相積もり申し候、雑木、柴、株、野薮、小笹、小雑木等御座候。
一、茶漆実(?)、竹の皮少し宛売り申し候。
一、楮の儀、定小物成の外、銘々高内併せに野畑御運上の内(ニ)植え置き申し候、銘々紙織仕り候に付助成と成、年により少は売申し候。
一、作間稼ぎの事
紙すき25人但し広形、ちり紙。年により増減仕り候。医者2人、大工2人、木挽2人、桶や3人
上記の類作間に稼ぎ仕り候、其外は日用伐売または、葛根。蕨等堀り夫食に仕り候、女は布木綿少なし宛仕り申し候 
飢餓の百姓と直訴の苦心
岡田代官は豊作凶年の別なく年貢徴収に専心したが、その凶年がしばしば襲来した。着任した享保19年(1734)には大つじまき(旋風)があり、田方は半分の収穫であった。元文2年(1737)は6月から7月にかけて50日の大干ばつであり、寛保元年(1741)秋は大風が吹いて作物をいため、翌2年は20年ぶりの大洪水の、甚大なる被害があり、さらにその翌3年8月13日は大風が吹いて農作物はもとより、各地の大木が損する大被害であった。
その次の延享元年(1744)は大浮塵子(うんか)の発生で稲作の被害が甚だしく、その上大水大風もあり、特に大水は50年ぶりの大洪水であった
翌2年も7月5日は町中が床上浸水の大洪水、13日も続く、同年の秋、馬原村10組の組頭を自宅に召集して協議した結果、全員が手分けして、日田、玖珠両郡の庄屋の同意を得た上で、代表者が、減税と夫食拝借の嘆願をする事に決まった。早速33子の発生は凶作となってあらわれ、凶作は物価高と農民の飢餓とをもたらしたが、代官噂)とが、減税と夫食拝借の嘆願を行ったが聞き入れられなかった
(第一回嘆願)。続いて求来里(くくり)、刃連(ゆきい)、上井手(のぼて)、女子畑(おなごはた)、苗代部、大鳥、湯山等近隣諸村の庄屋7、8人と愁訴哀願したが、これも失敗に帰した。(第二回嘆願)。代官に愁訴しても聴き入れられない以上、残された唯一の手段は江戸表への直訴だけである。
そこでまた村内の組頭と百姓代を庄屋宅に召集して、協議した結果、組頭、百姓代は届、永荒。切添え等の無税の所にも課税しようとした。但しもう農民には、年貢どころか食物もなかった。延享3年正月には多数の餓死者が出て、2月には、数千人の百姓が領外に脱走する事件が起こってくるのである。
この天領の農民の悲惨なありさまに、身を犠牲にして、これを救済しようとしたのが、穴井六郎右衛門で、彼は先ず岡田代官に嘆願することにした。
寛保2年の秋、馬原村10組の組頭を自宅に召集して協議した結果、全員が手分けして、日田、玖珠両郡の庄屋の同意を得た上で、代表者が、減税と夫食拝借の嘆願をする事に決まった。
早速33ケ村の同意を得たので、晩秋に六郎右衛門(庄屋代表)と草三郎組頭飯田惣次(組頭代表)とが、減税と夫食拝借の嘆願を行ったが聞き入れられなかった(第一回嘆願)。続いて求来里(くくり)、刃連(ゆきい)、上井手(のぼて)、女子畑(おなごはた)、苗代部、大鳥、湯山等近隣諸村の庄屋7、8人と愁訴哀願したが、これも失敗に帰した。(第二回嘆願)。
代官に愁訴しても聴き入れられない以上、残された唯一の手段は江戸表への直訴だけである。そこでまた村内の組頭と百姓代を庄屋宅に召集して、協議した結果、組頭、百姓代は日田、玖珠の両郡内をひそかにまわって、直訴のための会合をしようと同意を求めた。
そして会合の日には同意をしていた殆どの村から代表の者が集まったが、重大な事件であるから更に数日考慮すると云う事になった(第一回直訴寄り合いーー庄屋宅)。
次の寄り合いは、草三郎と玖珠境の、お茶屋場と言う山中で開かれたが、日田郡中から20ケ村、玖珠郡から5、6ケ村の庄屋が集まっただけであった(第二回直訴寄り合いーーお茶屋場)。更に最後の協議のための寄り合いが開かれたが、この時は日田郡10ケ村と玖珠郡からの3ケ村の庄屋だけであった(第三回直訴寄り合いーーお茶屋場)。
江戸表への直訴に同意する村村も確誰の冬には一応赦されて帰国したのである。併し豊後国日田郡玖珠郡13ケ村庄屋宅の東南1000メートル代の下原部落(当時一軒家)平左衛門方に組頭、百姓代を集めて、近隣の村村へ内談する事、妄に(妻子にも)口外せぬ事、寄り合いの費用等、第七ケ条の極証文をしたためて血判をした(第一回下原寄り合い)。
次は11月24日同所で、直訴状が完成判形をとること、入用銀、江戸へ出府する者の人選等四ケ条の極証文に血判した(第二回下原寄り合い)。次は28日、近村に直訴条を持参して印形を揃えるもの、銀子の調達をする者等の極証文の血判が行われた(第三回下原寄り合い)。12月5日7ケ村の代表の出銭の打ち合わせ、訴状への印形の事等の申し極めと血判が行われた(第四回下原寄り合い)。
最後は12月22日に、費用の銀子刃24日までに届ける事、25日には出発する事の申し極めの最後の血判状が作成された(第五回下原寄り合い)。
出発は隠密に行われ記録もないが、12月末に出発して、翌くる延享3年正月には江戸に着き、直訴状と連判状とを評定所に提出して却下されたので、目安箱に投入したと伝えられている。
そのため捕らえられて入牢させられたが、同年の冬には一応赦されて帰国したのである。併し豊後国日田郡玖珠郡13ケ村徒党強訴百姓一件御仕置きによって、12月25日に捕らえられ、28日の暮れ6ツ刻(午後6時頃)に浄明寺川原で処刑せられた。 日田義民伝概説の表紙に戻る。 
直訴状その他の嘆願書
直訴状は何回か書き改めたらしく、字句や内容の幾分異なったものが伝えられている。そこで先ず直訴に用いたと思われるものを読み下しに書き、三字下げて、さらに各条毎にその大意をのべることにした。また最後の直訴状を書くときに削られたと思われる嘆願事項については、その要点を追加することとした。

恐れ乍ら書附を以って御訴訟申し上げ候御事
岡田庄詫夫様御代官所、豊後国日田郡求来里村。馬原村。上井手村。刃連村。苗代部村。庄手村。大島村。柚の木村。女子畑村。湯山村。玖珠郡戸畑村。代太郎村。魚返村。御訴訟申上候。
当村々の儀、元禄年中室七朗左衛門様御代官以来、当御支配様迄、御取箇(とりか)辻段々御高免(こうめん)に罷(まか)り成り、大小百姓至極困窮仕り、当時飢寒に及び=C来る寅年麦作収納時分迄には、おびただしき飢人出来仕る可きも、斗り難く存じ奉り候。此の段御検使様御差し下し遊ばされ、上記村々御見分、成し下され候らえば、飢人の訳、歴然に相見え申すべく候う御事。
室、南条、池田、増田と代官の替わるたびに増税になっているが、この点は全国同一と思います。岡田代官は7年間の定免となり、今年には二分増しの定免を命ぜられて、難儀に思っております。
四、五十年以来、大変な増税で百姓は、食べ物にも差し支え・禄年中、室七朗左衛門様御支配、その後、南条金左衛門様、池田喜八郎様、増田太兵衛様、当御代官岡田庄太夫様迄、御支配毎に、重々御増免仰せ付けられ、然し乍ら此の段、諸国一統の御儀と承知仕り候。
尚又当御代官、御下向以後7ケ年御定免仰せ付けられ、当丑年又又二分増しの御定免仰せ付けられ、難儀至極に存じ奉り候え共、御請け申し上げず候えば、何分にか仰せ付けらるべきもはかり難く、恐れ入り御請け申し上げ候。然れば百姓共より、御願い申し上げ候との連判御取り遊ばされ候。
四、五十年以来の御免に積もり合わせ候えば、大分の御高免にて、百姓極々困窮仕り候。
当丑の暮れより夫食に差し支え、当時難儀仕り候に付き、来る寅年麦作収納時分迄には、おびただしき飢人出来仕る可きも、斗り難く存じ奉り候。此の段御検使様御差し下し遊ばされ、上記村々御見分、成し下され候らえば、飢人の訳、歴然に相見え申すべく候う御事。
室、南条、池田、増田と代官の替わるたびに増税になっているが、この点は全国同一と思います。岡田代官は7年間の定免となり、今年には二分増しの定免を命ぜられて、難儀に思っております。
四、五十年以来、大変な増税で百姓は、食べ物にも差し支え、来年の麦の取り入れ頃迄には、多数の餓死人が出ると思います。この点は御検使様に調べていただければ、よくわかると思います。

一、当丑年、新規に御改め成され候古田畑伐添(きりぞえ)並びに新開見取高入、楮畑、百姓自山、刈敷場御運上、当年分御赦免遊ばされ、来る寅の春、又又再御改め遊ばされ、御取箇仰せ付けらる可き由、仰せ渡され候らえ共、前々これ無き御運上故、いよいよ以って、困窮之百姓相立ち難き仕合に、御座候間、恐れ乍ら新規の品々面御竿切村絵図、並びに見取田畑絵図、荒地絵図、私領境の絵図等、麦作収納時分より6、7月迄、別して日限急に仰せつけられ候故、村村大小百姓相談候えて、根付けも、旬後れ、根付け後も間違いに相成り、いよいよ不作仕り候御事。
今年の春以来、新税法の実施のために、帳簿や絵図面の提出を命ぜられたが、それが麦の収穫から植え付け、種蒔きの忙しい時期に、日限も急に言われたので、百姓はその談合等で、根付けも遅れたり、時期がはずれたりして、いよいよ不作になった。

一、上記新規の品々、御改めとして、当秋収納最申、御代官様御父子様御家中、御役所近所へは御出て成され、その村方に2、3日御逗留成され、遠方は御手代衆両人宛、御廻村成され候うて、是も御逗留は上記の通りに候うて、迷惑千万に存じ上げ奉り候御事。
上記のような改革のためと言う事で、秋の取り入れの忙しい時に、御役所の近くは御代官父子等が、遠方の村村には御手代が二人宛、廻村せられて2日も、3日も御逗留になるが、大変迷惑しております。

取田畑絵図、荒地絵図、私領境の絵図等、麦作収納時分より6、7月迄、別して日限急に仰せつけられ候故、村村大小百姓相談候えて、根付けも、旬後れ、根付け後も間違いに相成り、いよいよ不作仕り候御事。
今年の春以来、新税法の実施のために、帳簿や絵図面の提出を命ぜられたが、それが麦の収穫から植え付け、種蒔きの忙しい時期に、日限も急に言われたので、百姓はその談合等で、根付けも遅れたり、時期がはずれたりして、いよいよ不作になった。

一、上記新規の品々、御改めとして、当秋収納最申、御代官様御父子様御家中、御役所近所へは御出て成され、その村方に2、3日御逗留成され、遠方は御手代衆両人宛、御廻村成され候うて、是も御逗留は上記の通りに候うて、迷惑千万に存じ上げ奉り候御事。
上記のような改革のためと言う事で、秋の取り入れの忙しい時に、御役所の近くは御代官父子等が、遠方の村村には御手代が二人宛、廻村せられて2日も、3日も御逗留になるが、大変迷惑しております。

一、村村より永荒と申す無地高御座候を、御毛附(けつけ)に御請仕り、御年貢上納仕り候様に仰せ付けられ、尤も(もっとも)御請け仕らず候はば、御代官様地押し遊ばさされ候由、当秋仰せ渡され、其の節に至り、御訴訟ケ間敷き儀、申し上げ間敷くとの神文(しんもん)。庄屋、組頭より召し上げられ候。
之に依って、永荒少分の村方は、是非無く御請候え共、荒れ高大分これ有る村村は、前々の御取り箇さへ、漸々御上納仕り候儀にに候間、御請申し上げず候。いよいよ上記の通り御検地遊ばせられるべき御儀に御座候はば、御江戸より御役人さま、御起し下され候様、恐れ乍願い上げ奉り候御事。
永荒といって税を納めないでよい所があったが、その永荒地にも普通の耕地同様に、年貢を納入するよううに申し付けて、不承知の村は岡田代官が土地を調査するとの事である 今までの年貢でさえ漸々納めているのである。検地をされるならば、代官でなく江戸から来られた役人にお願いしたい。

一、当御代官様御支配以来、打ち続く凶年に御座候処、毎年豊年と仰せ立てられ、御取箇辻しげしく仰せつけられ、其の上前々数代御代官様にこれなき、新規に百姓助合石等と御名附け、御取箇辻の外に、雑穀五ケ年百姓小前に、御取り立て遊ばされ何共難儀千万に存じ奉り候。
上当秋入札仰せ付けられ、落札主には御払い成されずして、高札の上増値段を以、御取り立て成され、其の上銀子を、当所豆田隈両町人へ、御預け遊ばされ差当たり困窮仕り候御事。
凶作が続いても、豊作の年同様に、年貢を取立て、その上新しく助合石と名付て、雑穀を五ケ年取立られた。これは今年の秋に入札したが、高札の者に値段を増して払い下げ、しかもその代銀は隈豆田の町人に預けて利殖をはかった。

一、御城米之儀、近年長崎廻り仰せ付けられ、麦作仕事も仕らず、10月10日より極月上旬限り、皆出津仰せ付けられ、夫れ共御用たつ御事に御座候はば、是非なしと存じ奉候得共、長崎表年内残らず御用筋とも承知仕らず候処、急に仰せ付けられ候故、改め所込み合い、日帰りの者も2、3日逗留仕り、漸々御米壱俵納め候者多く御座候に付、駄賃馬にて附け出し候えば、賃銀高値に相成り迷惑仕り候。
はた又御米河岸舟積所改め庄屋も、前には弐人にて勤め来たり候処、近年は4人に成され其の上津出し催促庄屋両人、新規に郡中へ御廻し成され、賃銀相増し申し候。
前々其村村庄屋組頭共、油断無く申し附け来たり候えば、滞り申す儀御座なく候。新規の御吟味に付き、入用相増し百姓重々迷惑仕り候御事。
年貢米はいままで中津に送ったが、長崎に回送する事にしたために、麦作にもさしつかえ、米を積み込む改め所が込み合い2、3日逗留したり、高賃銀の駄賃馬に積んだりで困っている。
又河舟積所の庄屋も2人から4人となり、津出し催促庄屋も2人郡中を廻すことになり、百姓の入用が増して迷惑している。

一、川辺御地方又は堤崩(つつみくずれ)等の凶事これ有り候節は。尤も(しかも)及ばず、其の村方の力及び申さず候処は、前々の御代官様は、郡中人夫仰せ付けられ、御普請成し下され来り候処、是は御公儀様より、御扶持米下し置かせられ候条、其の村方精力を尽くし、御地方取り繕い(つくろい)来たり申し候処、庄太夫様は、前々よりの御普請所も、決して仰せ付けられず、場所により作毛仕付も申さざる所も多く御座候。
斯様(かよう)の儀は前々の通り、仰せ付けせられ候はば、御公儀様御扶持下され候儀に御座候えば、少分の儀にても百姓の助かりに成られ、広大の御慈悲と存じ奉り候御事。
川端の土地や堤防等が決壊して修理を行う場合にも、持ち主や村村で出来かぬる場合には、従来の御代官は郡中の人夫を仰せ付けて、御公儀からの扶持米を賜って修繕してきたのであるが、庄太夫様はそのようにしないから、作毛出来ぬ荒地も多くある。前々の代官様のようにして頂きたい。

一、当丑年田畑ともに以外の不作仕り、あとあと凶年の追越し、其の上御上納仕り候えば、当時よりの夫食これなく候者ども多く御座候条、御慈悲の上来る寅の春夫食御拝借願い上げ奉り候。
尤も(もっとも)子の年虫附き大凶年に付き、おびただしき御拝借仰せ付けなされ有り難く続命仕り、尤も上御拝借御返納当御代官様御年賦に仰せ付けられ、当年迄御条納仕り候処、打ち続く凶年にて、殊におびただしき御返納に御座候ゆえ、かたがた困窮仕り候。
これに依って上御返納御年賦相済み申さざる内、又又夫食御拝借願い上げ奉り候儀、何とも恐れ多く存じ奉り候え共、上の仕合いゆえ是非なくこの度願い上げ奉り候御事。
当丑年の凶作で、現在の食べ物さえない者が多い程であるから、来年の春には夫食の拝借をお願いします。尤も子年の凶作で夫食の拝借をして、年賦の返納も済んでないのに、さらに夫食御拝借は恐れ多い事ではあるが、是非お願い致します。

上之通り言上し奉り候御事、恐れ多く存じ奉り候えども、拾弐年以来凶年打ち続き、なお又新規の品々御吟味に付、御地方にては他借差し支え、極々困窮仕り百姓相務め難く存じ奉り候間、上お願い申し上げ候通り、夫食拝借願い上げ奉り候。
万一御上様より御拝借御叶い遊ばせられざる御儀に候はば、上助合石代銀拝借願い奉り候百姓困窮の儀は、御江戸より御検使様お越し下され、何とぞ百姓相続き仕り候様に願い上げ奉り候。
尤も上村村大小百姓共銘々罷り上がり、御訴訟申し上ぐべく候処、遠国殊に上の通り困窮にて、当時送り兼ね候う百姓共に御座候えば、さし当たり銀用の償いも成り難く、これに依って上村村惣代是非無く、この度拙者ども御訴訟申し上げ候、上の条条逐一御勘弁の上、御慈悲をもって、当村村大小百姓末々相続き仕り候様、成し下され候はば広大の御救いと有り難く存じ上げ奉り候。
全文のしめくくりである。12年来の凶作が続き、しかもお互いに困窮して、借りる事も出来ない状態であるから、夫食の拝借か、助合石代銀の拝借をお願いします。 私達の困窮の状況は、御検使様を派遣してしらべてください。
村村の百姓が全員お願いに上がるところでありますが、遠国でもあり、困窮しておりますので路銀もなく惣代として私達がお願いする次第です、百姓の生活が出来るように、御救いに下されば有り難く思います。
延享3年寅 正月22日  日田郡13ケ村

また直訴状の原案の一つであろうが、尾当町中島秀雄氏所蔵の訴状には次の箇条もしるされている。
(1)百姓には倹約の仰せ付けをなされるが、御役所では倹約の必要もないのか、御長屋(役人等の住居)を、間もおかないで二度建て替えられている。其の他に修繕や御普請も多く、畳等はだいぶん造り替えになり、その度に多額の出銀(費用)もさせられている。もっともこれは宰領(さいりょう)の庄屋が悪いのかもしれぬが、私達にはよくわからない。
(2)御役所の前と后に、天満宮と稲荷社を建てられ、祭礼の日を極めて、豆田、隈、両町や近村の者を寄せて相撲をとらせて見物されるが、その賄い(まかない)(費用)も、私達の出銀になる様にきいている。
(3)釣り鐘を拵えて(こしらえ)、時の鐘と名付けて、つかわせておるがこのようなものは無くても差し支えなかったのに、このような無駄で、倹約をしても、凶年続きで困窮している百姓はいよいよ困窮する。
(4)宇佐神宮に奉幣使の御いでの時も、接待その他の多額の諸経費は、すべて各村村に割り付けて徴収し、百姓には大きな負担であった。これにも宰領(さいりょう)の庄屋達の、不正があったかとも思われる。

次に日田市に依托して、博物館保管の訴状は
(1)日田郡巡視の際に、代官御用提灯の少し破損を怒り、手槍で十二町村の庄屋に重傷を負わせた事。
(2)玖珠郡巡視の時に、宿泊予定の南大隈村庄屋宅が、同家の都合で隣家に変更されていたので、上を侮蔑するものと憤り、庄屋の面部を乱打して、庄屋は百ケ日の怪我をした。横暴ぶりを記しておる。 
その他にも訴状はないが、婦人の使用する木綿車、織機、住宅の坪数、茶、漆、櫨、梶、牛馬まで課税したことが伝えられている。 
著述資料
1)日田郡十三ケ村騒動始末
成立の年代は不明であるが、日田義民伝(武石)にも引用せられており、写本として伝わっている。章節は分けてはいないが、「御料豊後国日田郡村村百姓乍恐奉願上候御事の延享2年12月付けの嘆願書」、「六郎右エ門ら三人の義挙や柚の木藤三郎の出家」、 「同志275人の処刑の申し渡し」、「十五庄屋への褒美」、「御検使下向等」の五項からなっている。
2)義民穴井六郎右衛門小伝
大正14年8月、武石繁次著、B6版、「義民穴井六郎右衛門の碑」の亀山公園(きざんこうえん)建設の際に刊行したもので「て挿絵も多い。
3)日田義民伝
昭和24年8月、中島市三郎著、B6版、日田義民刊行会(代表岩橋賢竜)刊。井上正之の著書の序文、写真(亀山公園内の迫獅フ、義侠不朽飯田惣次
之碑を読んだこと等が動機で義民研究に取りかかり、義民穴井六郎右衛門小伝や、義民劇、建碑等にも尽くして来たが、殊に昭和25年の財津町竜川寺の義民堂建設の議と、馬原村での義民生誕地での建碑に関連して思い立った著述である。
従来の諸書に比べて、頗(すこぶる)る詳細正確である。目次2gを投じ大衆を救う」「凶作に比の誅求、稀代の吸血鬼」「すべて水の泡、ああ愁訴空し」「九州の諸大名と行政区画」「進退谷(きわ)まって直訴に決する」「秘密厳守の誓書、先ず最初の血判」「獺(うそ)の尾の小町、花カンザシの美しさ」「訴状を携えて恙(つつが)なく江戸に入る」「一念徹って強訴聴許さる」「幕の命を帯び日田へ検使下る」「直訴総代は斬首と決まる」「助命を恐れて密かに首打ち」「父の敵同志の仇、利右衛門庄太夫を刺す」の、見出しでもわかるように、読み物風に書かれていて挿絵も多い。
4)日田義民伝
昭和29年2月 武石繁次著、B6版、馬原(まばる)村建碑委員会の刊行、代議士広瀬正雄氏の序、と著者の自序があるが、自序によれば大正11年の春頃、千葉県の佐倉宗五郎の霊堂に参詣したことや、関東大震災後郷里馬原の草三郎部落の、義侠不朽飯田惣次之碑を読んだこと等が動機で義民研究に取りかかり、義民穴井六郎右衛門小伝や、義民劇、建碑等にも尽くして来たが、殊に昭和25年の財津町竜川寺の義民堂建設の議と、馬原村での義民生誕地での建碑に関連して思い立った著述である。
従来の諸書に比べて、頗(すこぶる)る詳細正確である。目次24項で梗概(こうがい)を述ぶれば、
日田代官の政治−岡田代官の着任−岡田代官の苛政(かせい)−馬原庄屋穴井氏−六郎右衛門の義憤−13ケ村の同盟−同志の会合と誓約−総代の出府−幕府へ上訴−日田窮民の逃散−農民の蜂起−幕吏実情調査に日田下着−大坂奉行所へ提訴−幕吏再度の下着−代官領民に弁疏の書−義民の帰国−讒者(ざんしゃ)の官府に内通−強訴徒党者の御仕置き−代官付庄屋の褒賞−義民の終焉−義民に殉じた同志−岡田代官飢えぬ法を伝授−岡田俊惟刺客に斃さる。−義民の余栄、となっており、巻末に穴井氏の略系と、仏堂並びに墓碑所在地が挙げてあり、巻頭に亀山公園(きざんこうえん)と馬原本村の碑、血判状、義民堂、馬原地蔵、弁当筒の写真が掲載されている。 
研究史料
1)豊西記追補録
武石九右衛門の筆録で、日田義民伝(武石)にも、しばしば引用してあるが、岡田代官の悪政、直訴状、十三ケ村徒党強訴百姓一件の御仕置、十五庄屋の表彰、三義民の処刑、其の他が記されている。史実と百姓達に伝えられた話とである。なお同追補録はS54年、日田史料(第21)として刊行された。
2)大友没落後公料代官交代之記
弘化4年に栄正寺了義の筆記したものであるが、「。。岡田庄太夫源俊惟、享保19年甲寅年甲州より来着支配20年、此公江府に功を立て、自分之立身を専にして、諸物残らず新に運上を懸んと謀れしを、馬原村庄屋父子大に愁へ江戸表へ越訴せん事を企つ、郡内13ケ村此催しに属し、既に江府に訴せし処、右運上方ことごとく御停止となる。。。
張本人なれば終に死罪に行はる、柚之木村藤次郎は出奔せし間罰せられず、後年筑後善導寺に於いて入定す、されば此人々一命を抛(なげうつ)ち愁訴せしに依て郡中串難を遁たり。」等と伝えている。
3)江戸直訴状
日田市尾当町中島秀雄氏所蔵で「御料豊後国日田郡村村百姓乍恐奉願上候御事」の題で、「一当郡之儀元禄年中代官室七郎左衛門様御支配より。。。」の書き出しで、日田義民伝(武石)70頁に引用の直訴状と、大意は同じであるが、日田義民伝に洩れている箇条もある。殊に、義民伝では愁訴の期日を゜延享3年寅正月」としているが、この訴状は「延享2年丑11月」になっている。何回かの会合を開いて、文辞を練った中で、丑の11月に書いた訴状であろう。尚六郎右衛門の義挙は、岡田代官の悪政とは、関係のない森藩領の尾当(有田)にさへこの直訴状が伝えられた程の大事件であったことを思わせる。
4)馬原村願写覚書帳
日田市鶴城町古田梶原哲氏蔵で、表紙には「天保7年、凶年違作覚書、馬原村写覚、丙申秋、梶原平右衛門」と並び記されている。丙申(天保7年か)秋に凶作について書いた中に、延享2年丑11月の直訴状が引用せられておる。訴状は丑の11月の文を写したものと思われるが、義民の直訴したことと、帰国したことが附記してある。
5)豊後国日田永山年代記
県立図書館の蔵書(写本)であるが、岡田庄太夫の項に、延享3年に、「正月より日田郡併びに玖珠郡戸畑村の内併びに代太郎加へ14ケ村百姓共(か)私領へ掛込、夫食願い致し度く強訴候処、庄太夫様より御吟味の上、頭取兵左衛門、同次男要助(は)獄門、同村組頭惣治(は)死罪同年12月28日仰せ付けられ候、其の外国払い等数百人。。。」とある。
6)日田史料第10回配本「諸家日記」
直訴事件の時に代官所に務めていたと思われる人の日記で、その当時を知る上で貴重な資料であるので、以下参考として少ししるすこととする。
享保19年の10月朔日(ついたち)に岡田庄太夫様が御入部されたが、大のいぢわるで、不作であっても前の代官の豊年の通り課税せられたので、人々は限りなく嘆いた。
延享3年正月2日、飢饉で飢え死にが多い、それで(昨年の)冬から段々に、江戸へ訴訟に上がるものがある。2月10日頃から五馬筋(いつますじ)と玖珠の百姓が、二千人ほど森藩領に走りこむ、千三、四百人ほどは小倉藩領に走りこむ、大山筋の800人余は、久留米藩の吉井まで逃げた。これらは皆つれ帰ったが、5人は入牢、2人は手錠の刑罰に処せられた。
13ケ村の者が毎日毎日、牢に入れられ魚町の蔵にも38人入る。
4月15日筑前藩から五百石取六百石取の一組二十二、三人の武士四組が警固のため来着して、二組は豆田町に宿泊し、二組は渡里村に宿泊した。17日には千石取りの武士の組が来て大超寺に宿泊したが、この人達は皆出陣の用意をしていた。
20日御上使が御着きになり、富永靭負様(1300石)は伊豫屋申左衛門方に御宿、酒依清十郎様(900石)は油屋平次郎方に御宿、神谷左門様(2100石)は長福寺に御宿。御上使様の人足が四人御とがめをうけて、七日のつなぎ手錠、五月二日久留米から侍衆が一組、森からも一組来て、いずれも2、3日宛逗留して帰られた。
又13ケ村より他に血判した者が知れて手錠入りがだいぶん出来た。
六月21日牢屋が破損したので修理したところ大工の手間や金具代が大ぶんかかった。又入牢者が多い魚町の空き家を修理して、町中所々に罪人を入れた。
12月29日馬原隠居兵左衛門悴要助の二人は獄門、同村百姓惣次郎死罪、戸畑、馬原両村の者五人田畑家財取上豊後一国払い、村村にて12人田畑取上所払、又10人は田畑家財取上所払、又26人右同断、又70人は過料10貫文より7貫文迄出し御赦免、又30日手錠に而御赦免、又13人御しかりにて御赦免。。。、御ほうびの分白銀10枚大小仰せ付けらるる庄屋。。。
7)懐旧楼筆記(淡窓全集上)
土人に苗字帯刀永々御免ノコト、イマダカッテ旧例ナシ、百年前、土民党ヲ結ビ、上ヲ犯スコトアリシトキ、荘屋二人功ヲ立ツルコトアリ、苗字帯刀ヲ許サル」とあり、淡窓先生も直訴事件を、よくしっておられたのである。
8)豊後四日市村年代記
四日市は西国郡代(日田在陣)の陣屋のあった処であり、この史料は庄屋渡辺氏の慶長四年(1599)から明和四年(1767)にわたる「年代記」であるが、中山重記氏はこれを豊後四日市村年代記として、大分県地方史に昭和四十八年から七懐にわたって発表した。その延享三年(大分県地方史77号)の項に、
当春日田郡13ケ村の百姓立退、筑前、筑後、小倉、玖珠辺に有附、御代官より江戸伺に相成、12月27日、日田間原村庄屋全佐衛門親子獄門。組頭壱人打首残12ケ村280軒御追放。
と書かれている。文中の「間原」は「馬原」であり、「全佐衛門」は「六郎右衛門」である。六郎右衛門の義挙は、遠い四日市の庄屋にも伝わっていたのである。
9)山国農民と年貢「山国町郷土誌叢書第二集」
延享3年。日田代官岡田庄太夫が、苛酷な年貢を取り立てて領民を苦しめ。馬原村の庄屋穴井六右衛門が、その暴状を幕府に直訴し。帰国した庄屋ら3人は岡田代官のため捕らえられて殺され。なお岡田代官は、山国町平小野の菅原神社に合祀されている。あるいは権威にこびる民衆の悲しいジェスチャーかもしれません。
10)馬原村史
大正8年高尾小学校長佐藤寛吾氏の編著であり罫紙13枚にわたって書かれているが、第二章第二節の「二 仏堂」の「1、仏生寺」に、「仰々仏生寺ノ由来ヲ尋ヌルニ。。。」に始まる由緒が出ているが、日田義民伝の穴井井山仏生寺縁起と同様であるので省略する。 義民に就いては第7章過去の人物の、「義民穴井六郎右衛門」い直訴の顛末と訴状の写しを記し、「二 飯田惣次」に惣次の事蹟と建碑の事をのべ、さらにこれに参加した虎丸の組頭治右衛門(田畑取上豊後一国払)のことに及んでいる。
11)江戸時代史(国史講座)
昭和4年栗田元次氏の著であり、筆者には郷土史以外で穴井六郎衛門の義挙を取り扱ったものとしての初見であった。貞享から天明までの大一揆31件を、年代、地方、領主、原因、結果と分類したものであるが、延享3年豊後日田の一揆は悪政を原因としているが、結果は成功とも失敗ともしていない。
12)大分県偉人伝
(昭和10年)大分県教育会発行(昭和51年大分県人物志として復刻刊行)政治家、学者、勤王家等とともに義人志士の項目があり、第一に穴井六郎右衛門と飯田惣治がとりあげられて、代官の悪政、訴状、結末が記されている。尚偉人伝では他には、次に中津藩の赤尾丹治、江利五左衛の事件が出ているだけである。
13)永山布政史料
昭和11年9月千原豊太編著、武石繁次発行。中巻第7節岡田庄太夫俊惟(再任)に、 38頁(第7節の殆ど全部)にわたって義民直訴の史料と千原氏の見解が述べられている
14)みくま
日田高校郷土史部機関誌「みくま第六号−昭和42年刊」にも、簡単ではあるが「穴井六郎右衛門直訴の事蹟」で、代官の重税から救うために直訴を企てた事をのべて、穴井六郎右衛門翁は「日田の生んだ偉大なる魂である」といっている。
15)大分県の百姓一揆
昭和五三年久米忠臣著並びに刊。同書は福岡県資料−石原家記、永山布政史料、窓のすさび穴井六郎右衛門小伝、大分県偉人伝、寛延雑秘録等の資料で説いている。
16)豊後年表
大正14年発行 編集者 工藤寛次、「延享三年12月29日義人日田郡馬原村里正穴井六郎右衛門同村組頭飯田惣治等減租を強訴し浄明寺川原にて梟首せらる墓は竜泉寺境内にあり香花絶えずと云う」とあげている。
17)極証文等
血判状(申極書)等の根本史料は、日田市立淡窓図書館と、博物館とに依託保管せられている。 日田義民伝概説の表紙に戻る。 
遺跡と遺物
1)竜川寺
財津町松雲山竜川寺は、財津氏累代の寺で、初め禅宗であったが、永禄元年和泉守永邦と何左衛門尉永忠の再建以来、浄土宗に改めたと伝えられている。第13世水誉上人が一身を賭して獄門棚の義民の首級を奪って帰り、手厚く葬った寺院であるから、種々の遺跡、遺物がある。
寺の境内に入って門柱のすぐ左に、墓は当寺内にあり 義民穴井六郎右衛門 記念碑は亀山公園にありと彫った1メートル(台石とも2メートル)余の碑が建てられている。大正14年6月に建てたものである。
山門に通じる石段の東側の石段を登った処に、義民堂がある。竜川寺24世定誉和尚は、義民200年忌(昭和20年)に義民堂を建設する積もりであったが、昭和24年旧三花村有志竜川寺門徒総代等と謀り、日田玖珠の特志家の協力によって、その4月に200年祭わかねて落成式をあげた。なお「義民堂」の扁額は、馬原供養塔縁起を建設の際の、元郵政大臣広瀬正雄氏揮毫である。
額の板材は江藤近氏の寄付。本堂に向かって左に財津氏や、歴代和尚の古い墓が並んでいるが、その上がり口に供養塔縁起がある。
松雲山竜川寺馬原供養塔縁起
幕藩体制下の日田は九州天領の枢軸として歴代の代官能く民治に励みしが、岡田正太夫の苛斂(かれん)誅求の為餓死に瀕して流浪逃散する者続くに至れり 馬原庄屋穴井六郎右衛門大いに概き日田玖珠の庄屋に詢り減税と夫食の哀願屡(る{しばしば})なるも聴容せず 卒に13ケ村の訴状を携へ71才の老躯を以て次男要助、草三郎組頭惣次と延享3年−1746−江戸直訴に及びしも 12月28日強訴徒党の罪にて浄明寺川原に獄門に処せらる。
玄に助命を画策中なりし竜川寺第13代水誉上人は 処刑の報を聞くや夜闇に乗じて刑場獄門台の首級を奪取して境内に密葬したり 程無く御仕置きの解除と祭礼執行の特赦行はれ小野筋隣村中施主として
猛誉勇阿浄誉居士 穴井用助清原祐廉
勇誉智阿宗栄居士 穴井六郎左衛門清原祐長
礼誉義阿浄恵居士 飯田惣次郎
と雕刻(ちょうこく)したる供養塔を建立し法要を行うに至りたれども 名前の一字は公儀を憚(はばかり)りて改めたり爾来義民偉徳の顕彰と遺跡巡拝は累年多きを加へ 200年忌に当たり第24代定誉上人は義民堂の建立を志し昭和24年落成するを得たれども 義民墓縁起を識る者甚だ少きの憾あれば当代海誉上人有志一族相議して広く後世に伝えんがため之を録す。
昭和51年3月 高倉芳男撰 大石登書
石段を登った処に馬原供養塔があり、八角の台座の正面に六郎右衛門、右に要助左に惣次の法名が、更に左の面に一字宛違えた三義民の名が彫られている。
裏面は塔身に延享三丙寅 馬原供養塔 12月29日 とあり、その下に願主 法誉普門 穴井潤左衛門 施主 小野筋隣村中 としてある。
その墓標の自然石は、この馬原供養塔の土台石の中に入れたと云われている。
墓は供養塔のやや左後方にあり
当山13世 徳蓮社水誉上人竜作和尚 時明和五戊子6月24日の字が210余年の風化の中に残っている。
2)浄明寺
浄明寺川原派廃寺の趾で、旧幕時代から明治初年にかけての処刑場であり、獄門。斬罪等の処刑が行われた記録が散見する。刑場跡は現在は立派な舗装道路が通じ、近代的な人家が立ち並んでいるが、以前は川に沿った細い路があるだけで、梅雨の頃に少し増水すれば、通れなかったといわれている。
俗に首斬台と言われた蓮花形の台石も、礫の柱を立てたと伝えられる穴のある大石も、今は残っていない。少し移動した遺蹟(物)の現況は日田市教育委員会の簡単な解説板が道路わきにあり、地蔵堂(馬原地蔵堂)と、鳴呼義民終焉之地の碑が立っている。
地蔵堂は昭和3年6月義民供養のため建立したもので、三体の地蔵尊が安置せられている。地蔵堂の建立と同時に碑も建設したが、「鳴呼義民終焉之地」の字は、旧日田郡長尾形善忠氏であり、「抑当地を古えより浄明川原と称し。。。」の碑文は、武石繁次先生の撰並書である。なお建碑の発起人は、武石繁次。東洋国華。木薮順の三氏で、東洋。木薮の両人は演劇で各地に、穴井六郎右衛門の義挙の普及に尽力した人達である。
3)馬原本村と付近
旧馬原村本村の庄屋屋敷跡は、山を後にした稍々(しょうしょう)高台にあり、庭園の祠(ほこら)や庭木等遺(のこ)っていて、往時を偲ばせるものがあるが、その東隅に、西面して、「義民穴井六郎右衛門之碑」が屹立(きつりつ)している。
馬原村では本村の義民生誕地に記念碑建設のもくろみがあり、昭和24年義民碑建設委員会を組織し、遂に翌25年四月この跡地に大きな記念碑の竣工となった。
碑の撰文も書も武石繁次先生であるが、碑文1100余字は義民業蹟の巨細を適確に叙述している。
記念碑の前方に「義民生誕之地」の石柱がある。昭和40年3月10日、子孫等によって建立除幕せられたものである。
鞍形尾−六郎右衛門が、日夜篤く崇敬礼拝して、12月25日代官の補吏に襲われた時も、暫く猶豫を乞うて、参詣(さんけい)したと伝えらるる鞍形尾八幡宮は、本村部落の南西半里、日田市境にあり、古くは岩松ケ峯と称して、天武天皇の九年八幡神が、日田では初めて降臨された峯と伝えられている。
なお八幡神は貞観年間に大原(元宮)に、さらに寛永年間に新大原(現在地、田島)に遷座せられたのである。
下原−江戸直訴の諸準備を整えた下原部落(当時一軒家)は、本村より約1キロメートルの東南であり、その平左衛門(宝暦酉年8月2日没、法名釈円智)(子孫戸田渡氏)の墓も墓地に建っている。
4)草三郎・土草・その他
江戸表上訴を決意した六郎右衛門が二回の会合を開いたというお茶屋場は、草三郎部落の裏の山腹の、玖珠郡荻ケ原村から日田郡に通ずる道筋であるが、山林続きではあり、密談には恰好の場所である。
草三郎の飯田多久美氏は義民惣次の子孫であり、大正初年に神社の祭礼等で興行されたノゾキ(覘機関(てんきかん)−のぞきからくり)の看板絵二枚が保存せられている。なほノゾキ絵の巻物は、火災で焼失したそうである。
飯田氏の前の墓地(山腹、旧金ケ塔道)に義民惣次の墓がある。
正面に義阿浄恵 左面に延享三年 右面に12月29日 北面に飯田惣次郎
と太い字で刻つてあるが、風化がひどく漸く(よた。明治25年本堂を新築して穴井山蓮台寺と公称していたが、後に穴井山仏生寺と改めた。穴井山の山号迫獅フ前、土草に通ずる道の側に、飯田惣次之碑がある。
「義侠不朽飯田惣次郎之碑」の題字で、裏面に約400字の碑文が記されている。題字、撰文、書ともに大正8年4月に当時の高尾小学校長であった佐藤寛吾氏のものであり、義民関係の碑文では最も古い。武石繁次氏も大正11年にこの碑文から、強い感激をうけて義民研究に着手したと述べている。
草三郎の南東の土草部落あみだ様の下には、直訴状を浄書したと伝えらるる与三左衛門の墓がある。
宝暦10年 釈 玄古 辰7月14日
とあり、側面に「与三左門」と刻つてある。また同部落の阿部一夫氏は、穴井六郎右衛門ノゾキの下絵を所蔵している。第一 穴井六郎右衛門村廻りの場、第二 談義会の場、第三 悪人(代官白州(しらす)?)の場等から、仇討ちの場まで15場面が描かれている。
仏生寺−>矢瀬部落の西に穴井山仏生寺がある。昔から馬原村には寺院がなかったので、明治8年旧馬原庄屋穴井祐一氏等は、三花村竜川寺の20世住職田辺達誉氏と議して、義民供養の趣旨から寺院の建立を思い立った。明治25年本堂を新築して穴井山蓮台寺と公称していたが、後に穴井山仏生寺と改めた。穴井山の山号は義民の苗字よりとり、寺の寺号は大分市浄安寺 の末寺仏生寺によっている。
袋−>六郎右衛門が平素最も厚く信仰していた袋部落の、錦袋山地蔵尊は、現在も同部落の森厳な寺域に鎮座ましまして近隣の参詣者も多く、年々祭礼が執り行われている。また江戸表への出発に先だって、向島に所有する田地の内、7畝24歩を地蔵尊の御供田に寄進したが、これは地蔵様田と云って、部落民が輪番で耕作し、その収穫を祭事の費にあてている。
向島−>合田上ノ釣の対岸で、御供田の碑が建てられていたが、大正10年の洪水で流失し、現在は大正11年9月に再建した
錦袋山地蔵尊御供田再建碑 寄進者 馬原村庄屋穴委六郎右衛門 が建てられている。
北平−>高塚行下北平(高塚行北平バス停下車)に、田畑取り上げ所払いの御仕置きの、馬原村百姓宇右衛門の家(現穴井知氏)がある。(小田多満太氏の説)とあるが、墓碑は不明である。また過料銭60貫文の御仕置きの、馬原村百姓伝蔵も、同じ下北平の穴井勝氏の先祖と思われる。(小田多満太氏の説)
5)日田市の各地
遺品−>弁当入れ。鈴蓮町林の井上欽一(馬原庄屋の親戚)氏宅に、義民上京中に用いたと、伝えられる竹製の円筒の弁当入れが、秘蔵せられている。
慈眼山永興寺地蔵塔−>現在は永興寺重要文化財収納庫の西側に、他の石彫の供養塔等と一緒に安置してある。高さ20センチメートル、一辺29センチメートルの六角形の台座の上に、一辺18。5センチメートル、高さ47センチメートルの六角形の塔身がおかれている。
正面に地蔵大菩薩の5字が彫られていて、その向かって左の面に 勇阿 浄栄 浄恵 智阿 宗栄 宗善と法名が彫ってある。竜川寺の馬原供養塔の「勇阿 浄知られていなかであり、「智阿 宗栄」は穴井六郎右衛門であり、飯田惣次は「義阿 浄恵」である。
併し浄恵と、宗善とがあるが、浄恵は惣次と思われるが、宗善も惣次であろうか?又は別人であろうか。法名の何も彫っていない面の次には、  延享三寅年   勇穴井用丞教正 古城氏撰書の格調高い漢文の碑文がしるされている。
景流寺と堀田−>六郎右衛門は求来里(くくり)村堀田の田畑二反六歩の内、三畝六歩を景流寺に寄進し、残りは売却して江戸表直訴の費用に充てた。堀田は求町(もとめまち)の小西にあり、景流寺も同町の坂の下にある。
6)その他
中川駅−>直訴の13ケ村は殆ど、九大線の沿線であり、かつ豊後中川駅は六郎右衛門等の出身地たる馬原村の中心部に接しているので、昭和43年3月大分鉄道管理局は、豊後中川駅構内に名所案内版N目にあたり、この時にも供養が行われたと思われる。
なお略系図によれば、庄屋穴井潤右絵門は、「。。。三名百年忌執行、郡内面立庄屋衆案内、賑々敷事也」と百年忌(弘化2年か?)を執り行つているが、天保4年の供養塔はそれより12年以前の建立である。併し願主の氏名等は勿論、その供養のことも、塔の存在さえも知られていなかったので、少し詳しく述べたわけである。
亀山公園−>日田市大字庄手、亀山公園の南西の清流に面して、大正14年8月日田町村の有志によって、建設せられた日田市郡で最大の 記念碑がある。「義民穴井六郎右衛門之碑」と自然石に太く彫刻して下に、「大教正 古城氏撰書の格調高い漢文の碑文がしるされている。
景流寺と堀田−>六郎右衛門は求来里(くくり)村堀田の田畑二反六歩の内、三畝六歩を景流寺に寄進し、残りは売却して江戸表直訴の費用に充てた。堀田は求町(もとめまち)の小西にあり、景流寺も同町の坂の下にある。
中川駅−>直訴の13ケ村は殆ど、九大線の沿線であり、かつ豊後中川駅は六郎右衛門等の出身地たる馬原村の中心部に接しているので、昭和43年3月大分鉄道管理局は、豊後中川駅構内に名所案内版を建てた。併し老朽化したので、更に建立を申請中である。 下の釣−>徒党の一人で処刑の終わった頃出奔して、仏門(筑後善導寺)に入って、義民の英霊を吊ったと伝えられる柚ノ木村組頭藤三郎は、大字合田字下の釣部落の人で、小関小一郎氏は、その九代目の孫に当たる。(佐藤鎮寛氏による)
柿西−>玖珠町柿西に、豊後一国払いの御仕置きの戸畑村組頭、柿ノ木儀三郎の墓がある。碑の高さ41。2センチメートルで台石はなく、浄安不退位、の法名と延享五年辰五月儀三良の字が刻られている。また御仕置きに際して内河野まんじゅうの由来も語り伝えられている。(中島明、日野秀次両氏調査) 
資料
六郎右衛門 50才の頃の馬原村 明細帳
一、 造酒屋 一軒 作り主源内 当時造高一石五斗
一、 鉄砲十三挺 猟師筒
   持ち主−>六郎右衛門、源内、次郎右衛門、庄次郎、市右衛門、平兵衛、
   〆六挺 是ハ当村山方故、従前ノ定小物成ノ内運上差シ上ゲ猟仕リ来リ申シ候
   威し(おどし)筒
   預主−>孫三郎、市之丞、仁兵衛、市十、作兵衛、惣次郎、源六、
   〆七挺 是ハ当村方遠方方々ニテ猪鹿多く、作毛荒らし、右猟師筒ばかりにては
   不足ニ付、前々より御願申上げ、御役所より月切り拝借仕り。。。
一、 鞍形尾八幡宮  九月一五日御神酒上申候
一、 豊前坊社    九月二七日祭、本村に在り、
一、 地蔵堂     袋にあり
一、 歳神社     十月十五日御神酒上申候、尾戸ニ在リ
一、 阿弥陀堂    高尾ニ在リ
一、 大神宮     毎年九月十六日御神酒上申候、 虎丸ニ在リ 
 
百姓一揆

高まる農民の声
近世農民が連合して、領主などに対して一定の要求を通そうとする行動 闘い。その形態によって、 訴願(そがん) 蜂起(ほうき) 逃散(ちょうさん) 打ちこわしなどに分類されることもある。
徒党 強訴 逃散
明和7年(1770)幕府の出した高札は通例「 徒党(ととう) 強訴の禁」といわれている。幕藩領主は、各村に 年貢 の納入や治安の維持には「 村請(むらうけ)制 」という連帯責任を負わせた。しかし、領主にとって「よろしからさる事」を農民たちが相談する事は「徒党」であり、そのうえで願い事を通そうとするのは「強訴」であり、さらに相談して居村から立ち退くのが「逃散」であり、いずれも違法行為とされた。そうした申合わせを密告(訴人)した者には、褒美として銀100枚(4貫300匁)が与えられ、徒党などを知っていながら訴えなかった者は、同罪とされた。領主の命令や方針に従う横の連合は奨励され、それに歯向かったり抵抗する横の連合は、罪となったのである。
豊後の百姓、徒党 強訴す
幕府は寛延3年(1750)、はじめて公 私領に向けての 一揆(いっき)禁令を出している。これは、農民たちが年貢や救済を求めて大勢が集まって訴訟することは徒党 強訴 逃散にあたり、今後は厳罰に処するというものだった。この法令の趣旨説明をした、時の勘定奉行 神尾(かんお)若狭守春央は「豊後岡田庄太夫支配所百姓共、徒党 強訴致し候につき、厳重吟味の上重き御仕置き仰付けられ候」と述べている。では神尾はわざわざ豊後の農民の行動とそれへの「重き御仕置き」をいったのだろうか?延享3年(1746)正月、幕領日田郡 馬原(まばる)村(天瀬町)の元 庄屋 穴井六郎右衛門 彼の次男要助 馬原村組頭 飯田惣次 を代表とする日田 玖珠郡13か村の農民は、幕府に「 夫食(ふじき)米」(食糧用の米)の拝借願いを直訴した。それは、 定免(じょうめん)制 の実施以来貢租負担がふえ生活が困窮していたところへ、代官 岡田庄太夫 の新増税 助合穀(たすけあいこく)銀 の設置など(延享2年の 新法 )があり、困窮がいっそう進んだために行われたものである。六郎右衛門らは、この直訴に先だって3回も代官所へ訴えた。しかし、増税政策をとった 岡田代官 がその訴えを聞くことはなかった。そのため違法行為とされていた直接の幕府への訴え(直訴)をしたのである。いっぽう、この年春には、日田郡では大山筋の農民700余人が久留米藩領へ逃散をし、ほかに小倉 森領へ逃げたものもいた。さらに、城内村(日田市)農民が代官所へ大挙押しかけている。
義民穴井六郎右衛門
寛保元年(1741)に極められた「 御定書(おさだめがき)百箇条」の「地頭へ対し強訴其上徒党致し、逃散の百姓御仕置之事」では頭取の死罪をはじめ追放 所払い 過料(罰金)など重い罰則となっている。江戸に出た六郎右衛門らは入牢となり、きびしい調べをうけたが、12月には帰国を許された。しかし、代官所から「徒党強訴」の罪で捕えられた。穴井父子は、死罪獄門、飯田は死罪、連合して要求を出した15か村で450人近くの農民が追放 田畑屋敷取り上げ 過料に処されている。処刑された3人の首級は 龍川寺(りゅうせんじ) (日田市)の和尚がひそかに持ち帰り、葬った。宝暦2年(1752)の7回忌に際して、あらためて供養塔を建て、法要が営まれた。この供養塔は今も残っている。苦しむ農民の代表として一命を賭して行動を起こした六郎右衛門らは「義民」としてながく人々の尊崇を集めている。県下では、 日出(ひじ)藩領 の大庄屋 阿南清兵衛 、 島原藩領 江熊村 (宇佐市)の 三右衛門 、 岡藩領 大野郡 原尻(はらじり)組 (緒方町)の 奥之丞 、 中津藩領 赤尾村(宇佐市)の 赤尾丹治 多志田村 ( 本耶馬渓(ほんやばけい)町)の 江利角五左衛門 、 臼杵藩領 黍野(きびの)組 (野津町)の大庄屋 佐土原基右衛門 らの義民がおり、それぞれ地域で顕彰されている。百姓一揆史では「日田 玖珠郡一揆」( 馬原騒動 )のようなものを代表越訴型一揆という。
傘連判状は何を物語るか?
文政9年(1826)、 延岡藩領 国東郡黒土村(真玉町)の玄益 権九郎を発頭とする「 車状(くるまじょう)」( 傘連判状 )が領内村々を回った。これは、「郡中入用減し方」を要求してのものだった。車状は全村を回らないうちに発覚し、発頭人は3年の牢舎のうえで村替えに処されている。同じ延岡藩領では、これより前の文化3年(1806)、大分郡下光永村の枝村立小野村(大分市)の農民が、本村との紛争で全村民が逃散し、さらに延岡での訴訟のなかで、村人による「傘連判状」を作成している。傘連判状は、一揆などにおいて発頭人(村)に罪がかけられるのを防ぎ、全員が平等の立場で署名するために考え出されたものだった。農民たちの成長を示している。
多様な闘い
農民たちの闘いは、領主支配の末端にある庄屋を中心とする村役人層と村運営などをめぐってもくりひろげられた( 村方騒動 )。また、 文化一揆 以降は、破却を伴う打ちこわしや城下町への出訴などが、各地で発生している。文化15年(1818) 慶応2年(1866)の 杵築藩 領、文政4年(1821)の 府内藩領 ( さんない騒動 )、天保7年(1836) 安政2年(1855)の 時枝領騒動 などは明治初年の 農民一揆 につながるものである。 
岡田代官
親子四代にわたる岡田代官
元禄11年7月天領となった宇佐郡 下毛郡のうち5万1、000石の最初の代官として、翌年4月宇佐郡四日市に着任、 四日市陣屋 を創建した代官で15年間在任したのが、 岡田庄太夫 俊陳(としのぶ) である。俊陳が転任した正徳3年(1713)に、その支配地は日田代官所付きと天草代官所付きとに二分されるが、その翌年には全部 日田代官 の支配下におかれた。初代の 四日市代官 岡田俊陳の子が、岡田庄太夫 俊惟(としただ) である。俊惟は日田代官として享保19年(1734)から宝暦4年(1754)まで20年間在任。幕府の年貢増徴策を忠実に、かつ強力に実行し勘定吟味役に栄進した。その跡をついで日田代官となったのが俊惟の長男九郎左衛門 俊博(としひろ) で、宝暦4年から同8年まで4年間在任して、これまた勘定吟味に転じた。その弟で 揖斐(いび)家 に養子に入った十太夫 政俊(まさとし)が兄俊博の跡をうけて宝暦8年日田代官となり、明和4年(1767)日田で最初の 西国筋郡代 に昇任した。在任14年で明和9年(1772)4月29日病死した。
岡田俊惟の年貢増徴強行
享保の改革 の方針に忠実にしたがって年貢増徴を強行するため、田畑の切添(拡張開墾)を見つけて 年貢 をかけ、 定免(じょうめん) を更新するたびに増免(年貢率を増すこと)をおこなった。日田郡渡里村の場合延享2年には、田高免が7ツ8分8厘7毛、畑高免5ツ1分1厘3毛となっている。これは米の生産高の7割8分8厘7毛を年貢として取り立てることになる。また畑の場合は大豆の5割1分1厘3毛を年貢にとることにして、これを銀納させたのである。また、支配下の村々にある 永荒(えいあれ) といって耕作できない場所を、その面積と共に絵地図に記入して出させ、その開墾を強く指示し、いつまで開墾できるかの見とおしを書かせて提出させた。日田郡北内河野 南内河野村の当時(延享2年)の地図の 控(ひかえ)で、それを知ることができる。但し開墾できない永荒は、その旨をはっきり書いている。新田畑として年貢を課していた部分の 米 大豆 の生産高を村高に加えた。渡里村の場合それまで144石4斗9升5合であった村高を延享4年(1745)10月の年貢割付状から148石1斗6升1合に増加している。この村高は幕末まで存続している。村高を基準にして課する六尺給 御伝馬宿入用 御蔵前入用のような附加税は、村高が多くなると少しではあるが増加するのである。
助合石(穀)と助合石代銀
正規の年貢の他に寛保元年(1741)から5年間、支配下の村々の農民からその富に応じて米 雑穀などを取り集めた。これを 助合穀(たすけあいこく) と云い其の集まったものを延享2年に入札させて売り上げたお金を助合石(穀)銀と呼んだ。この助合穀銀を 豆田 隈 両町の 掛屋(かけや) や 御用達 などの商人に預けて利子を取り、元利の増大をはかった。俊惟代官の時には、その額が銀85貫であったのが後には629貫に達するほど増加した。これらの助合穀銀の内相当額が無利息で10年間で返却するという条件で、困った村々や個人に貸し出されておるので、後の時代の百姓で恩恵を受けた者が相当あった。しかし俊惟代官の時代には、助合石は年貢外の負担であり、凶年が続いたので農民にとっては不満であった。利息をとってではあるが商人に貸しても農民には貸してもらえなかった。日田郡城内筋の村々や玖珠郡の村を加えた12か村の630余人が 穴井六郎右衛門 らに託した訴状で岡田代官の悪政を数え上げて、救済を江戸幕府に直訴した事件が起きた。差し出した訴状に名を連ねた 庄屋 組頭 農民は代官所に呼出され酷しい取り調べを受けた。その結果延享3年12月16日幕府の命令で、江戸に直訴した穴井六郎右衛門 次男要助、馬原村草三郎の組頭惣次らは獄門と死罪、他の者たちは、田畑屋敷取り上げ所払 田畑取り上げ所払 過料銭(額に多少あり)、その上に手錠30日、 叱(しか)り等の刑を受けた。参加しなかった村々の庄屋は恩賞にあずかった。これを 馬原(まばる)騒動 という。 襖(ふすま)の下張りから出てきた楽水(揖斐十太夫の俳号)の書いた文によれば、俊惟は和歌のたしなみもあり、また謡曲特に「野宮」を好んで謡っていたとのこと。なお俊惟の年貢増徴策は九郎左衛門俊博、 揖斐十太夫政俊 に受けつがれ、俊惟の場合よりも高い免になっている。田高免は九郎左衛門の宝暦5年には8ツ3厘8毛、揖斐十太夫の宝暦10年には8ツ1分5厘8毛に達している。岡田俊惟代官によって始められた助合石代銀の取り立ては、揖斐十大夫によってもおこなわれ、公金貸し付け政策も俊博 政俊に引きつがれた。
揖斐政俊につづく郡代冨次郎 俊(ゆきとし) (安永元〜6年) 靭負政喬(ゆきえまさたか) (安永6〜天明6年)←兄弟、政喬の養子造酒助政恒(天明6〜寛政5年)も政俊の年貢増徴策 公金貸し付け政策をうけついだ。政恒は 俊時代の不正事件で郡代罷免、揖斐家の支配は4代35年で終わる。 
 

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