魯迅と法印様 ブログからの抜粋

もう1度だけ魯迅 「薬」


スケッチは1982年9月のもの。中国、蘭州、朝7時、杖をつきつつ、てんそくの老婆が、コトンコトンと歩いている・・・とか、道端でトウモロコシを干しているとか、木にも、屋根の上にも、トウモロコシを干す、とか書いています。シルクロードへ行った時のもの。てんそくって言っても、もう知らない人が多いでしょう。成長期に足を縛って小さな足のままでお嫁入りするのが良家の娘のしるしでした。大足は労働者階級のもので、下賎のしるしだったのです。魯迅の姉が、痛くて夜も寝られず泣いていたと書いています。魯迅は難解で・・・とコメント下さったかたもいらっしゃいます。ここで一つ、「薬」という短篇を紹介します。この、短編の主人公、老栓は、いくばくかの銀貨を手に、真っ暗闇の夜に、こっそり周囲の目を恐れながら出かけます。後ろには肺を病った幼い息子、小栓の咳き込む声。真っ暗な中にポッと明かりが見え、怪しげな人影、やがて数人の兵士のすがたもうごめいています。そこで彼は、金と引き換えに小さな真っ赤な饅頭をもらいます。ポタポタ赤いものがしたたった饅頭です。家に帰って待ち構えていた妻と、真っ赤な饅頭をはすの葉にくるんでかまどに押し込みます。パッと赤い炎が、黒い煙に混じって出て、家中に一種異様なにおいが立ち込めます。「おあがり。病気が治るから」肺病病みの子供はおそるおそる二つに割ると、焦げたはすの葉の中からパッと湯気が上がり・・・それは、二つ割りの小麦粉の饅頭でした。間もなくすっかり腹におさまって、彼は、又、胸を押さえてひとしきり咳き込んだ。この短編の中には、その饅頭が処刑された罪人の肺の血をしみこませた饅頭とはどこにも書いていません。肺病に効くという迷信。しかし、この日、魯迅を慕う若い学生達が反政府運動をしたとの罪で処刑されていたと日記にはあるのです。魯迅は官憲に追われながら執筆していますので、ストレートに物を言っていません。中国が中国人の手で有為な若い力をそいでいくことに対しての、非常な悲しみと憤りが彼に書かせているのです。民衆は、まだ、頑迷に迷信にとらわれています。結局、小栓も死んでしまいます。短編ですのでお時間あれば、お読みください。(No254)

法印様が23才のとき、はたちの美しい娘と恋に落ちました。陸上の中距離選手であった法印様は毎日、上海の海岸道を走ってらした。アジア大会に出場。3位入賞だったか??ちょっとももりの記憶がはっきりしません。その、選手の打ち上げパーティーが「ライオン」という当時、上海で一番のフランス料理店であり、その店の養女であった薫子さんと、たちまち熱い恋におちたのです。将来を誓い合いましたが、法印様は修行の身、家庭をもつわけにはまいりません。「4年待ってほしい」と、娘に言い残して去った法印様が、4年後、約束の場に現れた時、娘は幼い2人の子供の手を引いていました。これでは、もう、どうしようもないと、2人は全く別の人生を歩むかに見えました。日中戦争はいよいよ激化、法印様は帰国。すすめる人もあり妻帯。そして、40年近くたち、奥様が亡くなられた一年の法要の日、ホロリと寺に現れた女性がありました。それが、あの、上海で別れたきりの娘だったのです。こちらもご主人に死なれ、身寄りの少ない寂しい身の上でありました。「お母さんの一周期に来てくださるなんて、きっと死んだお母さんの引き合わせよ」という娘のすすめで2人は再婚。奥様は当時80才を過ぎたとはとても思えぬ可愛らしさで、なんとも、うれしくなるカップルでした。「生き形見よ」と頂いた、すばらしいカメオのブローチは、ももりの宝物です。

昭和8年(1932年)というと、1月、上海事変おこり、満州国成立。共和政府が対日戦線布告をした年に当たります。そんな時、法印様は上海別院の行僧でいらした。ある日、租界の中の電車の停留所に、魯迅が薬びんを持って立っているのに出会いましたので「どうかなさいましたか」と聞きますと「子供が病気でネ」という返事。当時の官憲、中国の国民党に、つまり同朋に追われていた魯迅は、中国人の医者にかかれず、日本人の医者にかかっていたのです。そこで、法印様はお見舞いにと、木で作った鉄砲のおもちゃと汽車をさし上げられました。ホラ、押すとポンと飛び出すあのおもちゃです。すると、魯迅は、じいっと法印様の顔を見て、「あなたは、坊さんだけど、やっぱり日本人ですね。鉄砲と機関車を持ってきた」なんとも皮肉・・・さすが・・魯迅の日記によれば、1月28日の上海事変では、流れ玉が家に飛び込む始末。内山書店の店員、鎌田誠一に守られて、英国租界の内山書店に避難しています。2月13日、息子、海嬰にはしかがでて大江南飯店に移るとあります。同朋に追われ、敵国日本人にかくまわれている中、子供は高熱で、彼の心中は察するに痛ましい限りです。まさに、このとき、わが法印様が登場なさるのです。同年12月21日、法印様のために、扇面一筆書す、の記述があります。法印様が帰国なさる翌年3月には、日本軍は満州から長城線に進出。5月には、北京へあと3キロとせまり、その後は引くにひけない泥沼へとのめりこんで言ったのは周知のところです。この機関車と鉄砲のおもちゃは、今、魯迅記念館にあるんですって。

若狭、高浜の青葉山の中腹にある中山寺の、あうんのお仁王さまが、大英博物館に華々しくお目見えすることになり、杉本勇乗様は「わしゃ、うちのお仁王様がどうしておられるか、どうしてもロンドンで見たい」とおっしゃり、荷物持ちに力自慢のももりが同行しました。高名な法印様と、ももりが知り合ったのは、1冊の「風」っていう短歌の同人誌でした。編集後記に「昭和8年、上海高野山別院から、帰国するにあたり、魯迅先生が、扇面を揮毫してくださった」という1文があったのです。当時、わたしは魯迅を読み込んでいました。そこで、早速手紙を書いたのです。分厚い丁寧な返書が届き、お会いすることになりました。それ以来京都へ出ていらっしゃるたびにお会いするようになりました。法印様のお話に登場する人物は、みな、ももりなんかとは別世界のお方々。五島慶太や近衛文麿公、川端康成、佐々木野信綱、釈超空・・・当時、周令飛氏の「北京よさらば」という本が出ていまして、法印様もそれを読んでくださいました。周令飛は魯迅の孫。父親の周海嬰は上海で生まれたみどり児という意味でいかにも魯迅らしく、人を食った名前です。続きは又、あすにでも・・・写真はちょっと不鮮明で申し訳ありませんが魯迅が揮毫した扇面です(No251)

ロンドンのお仁王さま

この写真のパンフレットは、イギリス大英博物舘で1991年に行われた「THE KAMAKURA」という展覧会のものですが、この展覧会に、ももりもホンの少し関わりました。その1年前、「大英博物館展」というのが文化庁、外務省、英国大使館などなどによって大々的に行われ、関西は、茨城の国立国際美術館でした。そして、英国へのお礼にと、日本の鎌倉時代の彫刻を大英博物館に展示することになったのです。メーンのお仁王さまは、若狭、中山寺の阿吽の2体。快慶作と伝えられるたっぷりとしたお仁王さまです。その中山寺の法印様、杉本雄乗と申されるお方が、当時、ももりの最年長のボーイフレンドだったのです。えらいお方ですので、ももりごときが、ボーイフレンドなどと軽々しく口にしては、多くの権威主義的な方々からは、しかめっ面をされるでしょうが、なんとも、大きな人物で、84才でしたが、美しく素晴らしいお方でした。歌人としても、一家をなしてらしたかたです。後日、ももりがNYで個展をするっていう運びになったのも、この法印様のおかげです。法印様には、誰か荷物持ちが必要ということで、ももりが手をあげたのです。大英博物館では、副館長の女性に案内してもらい、あの立派なド−ムの図書館や、館長室にもおじゃましました。この法印様は、大分な小説になりそうなスケールの大きな経歴の持ち主でしたので、明日から、少しずつお話しましょう(No250)

若狭、中山寺の法院様、杉本勇乗というお方は歌人で、仁和寺の官長選で2票差で破れ、野に下ったというドエライ傑物でした。私の最年長のボーイフレンドとの交流をブログから抜粋しました。書道から、中国史に入り、日中戦争へと興味は移り、やがて魯迅に行き着いたももりの前に現れた人、杉本勇乗師は、魯迅と深い交流があた人だったのです。魯迅を一生懸命読み込んでいた頃・・・デハデハ・・下へ