園部町とももり 大塚春嶺のこと
大塚春嶺と言っても知ってくれている人はいない。私の母方の祖父の兄で絵描きである。「春嶺はん」は母の自慢の種であった。。園部町に南陽寺という禅寺があってその寺の天井に龍を描いている。鳴き龍でもある。世俗の欲の少なかった人らしく、明治天皇お買い上げという作もあるのに、早くに園部の田舎、小向山に引きこもってしまったらしい。法事などで見慣れた龍は腹部に大きな穴があき、痛みが激しく、この絵も遠からず消える運命にあるなと悲しく思っていた。しかし寺が修復してくれることになり、文化庁へ費用をお助け願えないかと申し出たら、資料が要るということで調べてみたら以下のことがわかった。以下は園部町立文化博物館のスタッフが教えてくれた内容である。
大塚春嶺、通称勝之助、画室は歓生堂。文久元年、園部村に生まる。大阪の四条派の深田直城に学び、後、京都の谷口香喬に学ぶ。明治35年、第五回国内勧業博覧会にて天皇陛下御臨幸あそばされ、その出品「豊公醍醐花見図」は畏れ多くも御買上の栄を賜った。ついで翌年東京美術協会主催の展覧会に於いて、「義経捧熱盤図」は又もや、東宮殿下御用品たるの誉を得た。(原文のまま)大阪の市立博物館にも一点あるそうだ。
園部には古い言い伝えの面白い物がいろいろあるが、生見天満宮という神社がある。私の家はちょうど南陽寺と生身天満宮の中間くらいの位置にあって、それぞれの檀家であり氏子である。生身天満宮というのは菅原道真が生きたまま祭られたという伝承がもとになってその名があるが、寺の宮司の先祖の武部宿禰守が菅公の死に臨んで遺体を持ち帰り祀ったということである。その寺には、春嶺はんの遺作がいろいろある。絵馬堂には36歌仙の絵があるし、公開されてはいないが、6曲2双の「琴棋書画図」や小品があるそうだ。
面白い話を聞かせてくれたのが、天満宮、武部家の娘さんで、私よりちょっと年上の幼ななじみでもある。「あんなきれいな人がこの世にいるのかしら」と子供心にあこがれていた人で、その人のおばさんという人に春嶺はんはお熱で、いつでも扇子や色紙に絵を描いては天満宮に来ていたという。ところがその美しいおばさんには梅棋子爵家からの縁談が持ち上がり、天満宮としてはたいそうな名誉と嫌がる娘を無理やり京都へ嫁がせてしまった。東山のどこやらにその子爵l家のお墓があるという。傷心の春嶺はんがその後どうなったのかはもう今となってはわからない。
戦後のひどい時期だったのにかかわらず私の初めて習い事は絵だった。春嶺はんの孫の平井良人さんという絵描きさんが園部に疎開していらした。この人が又、宝塚歌劇団の衣装を担当していたという大物で、ほんの小学校1年か2年だった私には勿論その人の値打ちはわからなかった。半年も通っただろうか。その人は疎開をやめて宝塚へ帰ってしまわれて私の初体験は終わった。