《参考提示》再校前の原稿です。図は省略しております。参照・引用はかならずペーパーをあたってください。
石田 仁
2001「生物学的性別の規準:性別の決定因子を同定する研究に着目して」
『大学院研究年報』30、中央大学、文学研究科篇、pp.103-115.
石田 仁
keywords: sex, sex differentiation, biomedicine, SRY, TDF, criteria of sex division.
目次はじめに
I 生物医学の問題構成
I-1 生物医学の関心I-1-(1) 進化生物学の関心I-1-(2) 上記以外の生物医学の関心
I-2 本稿問題設定の意義
II 生物医学の性別のとらえ方
II-1 性別の「層」と「因子」II-2 性別の決定因子:SRY遺伝子
II-2-(1) 性腺性分化II-2-(2) SRY遺伝子の座位
III 生物学的性別の規準
III-1 TDF研究の流れIII-2 考察
結びにかえて
注
文献
ヒトは,なにを根拠にオスとメスとに分断されているのだろうか.これを問題にしよう.生物学的性別(sex)をオス(male)とメス(female)とに分ける規則(rules),それを生物学的性別の規準(criteria of sex division)とよぶことにする.もっとも,生物医学上で,「生物学的性別の規準は,これこれこういうものである.根拠はこうだからである」とは明確には書き込まれていない.しかしたしかに,生物医学は,ある個体をオスとして,別の個体をメスとして処遇している.とすればそこに,「はっきりとは意図されないながらも用いられている」(seen but unnoticed)[Garfinkel, 1964= 1989: 35]規準があるはずだ.したがって何よりも本稿が探求する課題は,この規準を明るみに出すところにある.
なお,病気の原因やメカニズムを生物学的理論を用いて説明し,それらの知見に基づいた治療法を行うことを生物医学的アプローチというが,このような方法を基本とする近代医学そのもの,あるいはその主要概念を生物医学(biomedicine)とよぶ[佐藤,1992: 45].この語は,生物学と医学の集成体としての医療システムに(多くは批判的な)まなざしを向けるときに使われる,医療人類学や医療社会学特有の用語である.当の生物学や医学,および各下位分野(進化生物学,内分泌学...)では用いられていない.いわば,外側から「レッテル貼り」された用語であり,わたしもあえてこの語を使うことを断っておく.
本編に先立って展開を簡単にしるしておきたい.
Iでは,生物医学が性別を研究対象とするとき,どういった問題構成をとるのかを,大きく進化生物学とそれ以外の生物医学とに分けて概説する.
IIでは,生物医学は性別をどのように理解しているか.その「層」と「因子」という発想にしたがいつつ概説する.特に「性別の決定因子」とよばれるものはIIIで重要となってくるので,それには少し紙幅をさいた.
以上の概説を基盤に据えながら,IIIで生物学的性別の規準の析出を試みる.ここでは「性別の決定因子を同定する研究」の推移に着目する.最後に,精巣性分化に規準があることを示して,稿を閉じる.
「性別」を研究対象とするとき,生物医学はどういった関心を抱き,どのような問いの立て方と答え方をするのだろうか.生物医学の問題構成を概説しておく.その問題構成は,進化生物学とそれ以外の生物医学とで大きく異なるので,二つに分けて紹介する.
I-1 生物医学の関心
大部分の生物医学にとって,「性別」はそれ自体きわめて自明な現象である.次世代を残すことを生殖(reproduction: 再生産)と一般的にはよぶが,この時,生殖のために特別に供される細胞を「配偶子」という.配偶子間で相対的に大きさの違いがある場合,大きな方の配偶子を「卵」,小さな方の配偶子を「精子」とよぶ.「オス」とは精子をつくる成体を,「メス」とは卵を作る成体を指し示す言葉である[長谷川, 1993: 31-36; 58-59]1).
定義はこのように,一見きれいに矛盾なくまとまっているが,それが可能なのは「性=生殖」,つまり有性生殖に限った場合であることに注意されたい.上記定義群において,性と生殖の関係は相補的である.(i)精子は相対的に小さな配偶子であるということ,(ii)小さな配偶子を作る成体をオスとよぶということ,(iii)異なる配偶子をもつ生物種が有性生殖種であるということ,...((i)に戻る)....定義が循環的であることは少しも論理的・科学的には思えないけれども,「実際そうなっている」という報告事例の厚さで乗り切られている気がしないでもない.おそらく大方の生物医学では「性と生殖のフシギ」はそう処理されている──こう考えたが現実的である.
だがなにも,性の定義の論理的な誤謬をここで深く糾弾するつもりはない.性別とは生殖である,生殖とは性別であるといった「性=生殖」の循環論が,大方の生物医学では,はっきりとは意図されないながらも用いられ続けている.このことだけをとりあえずは押さえておけばよい.
I-1-(1) 進化生物学の関心
性=生殖の自明性もしくは循環が,有性生殖のみに通用する説明の仕方であるということは,当の生物医学でも知らないわけではない.「性=生殖」の循環を断ち切ろうとする考えは,有性生殖も無性生殖も扱っている分野には存在しうる.進化生物学という分野がそれにあたる.以下,進化生物学における性別の問題関心を説明しよう.
ポイントは,進化生物学において「性はなぜあるのか」という<存在>の問いは,「性はなぜうまれたのか」という<発生>の問いに変換されて解かれることである.なぜなら生物の進化史を見渡せば,性が介在しない複製づくりが「性=生殖」の様式より先立つため,性とは,進化の途中で生体内に発生した機構と考えるほかないからだ.進化生物学における問いの立て方と答え方を,以下手短に紹介する.
(1) 進化生物学では,さまざまな種の配偶や再生産の様式を進化の系譜のもとにとらえ直そうとする.生殖は性より先立って存在するため,有性生殖にしか通用しない性(別)の考えは御破算とし,性(別)の定義を仕切り直すところからはじまる.(2) 進化生物学での定義はおおむね,「性」とは遺伝情報の交換であり,「生殖」とは個体数の増加である[Margulis; Sagan 1986 = 1995: 34].たとえば細胞性粘菌アクラシアの場合《土中で別々に存在する何百もの細胞が,走化誘引物質により集合して融合する.細胞は接合して,より大きなかろうじて肉眼で見えるくらいの「なめくじ型」生物となる.細胞接合体を作った後に細胞数の正味の増加はなく,むしろ減少しているのだから,複製がおきたとはいえない.それでもなお「なめくじ型」の形成は複数の親の間でおきた性的出来事と見なさなければならない.》[Margulis; Sagan 1986 = 1995: 35]
(3) 「性は遺伝情報の交換である」といった定義から生物界をとらえ直すと,進化生物学特有の「難問」が,ひとつ浮かび上がる.生物が有性生殖という生殖様式を採る以上,単体では複製を行えないような個体(そのものだけでは複製ができない配偶体:いわゆる<オス>)が必ず存在する.単純に考えても,無性生殖の生物より有性生殖の生物の方が二倍,次世代を残すのにコストがかかる2).これを「二倍のコスト問題」という.にもかかわらず歴史的にみた場合,性はどこかの時点でたしかに発生している.そればかりか有性生殖の様式を採る生物は,進化史を下るごとに生物界に占める比率を上げている.これはどういうことか.生物が有性であることは,二倍のコストを上回る何らかの利益があるのではないか──このような問いが立てられる.
(4) 「二倍のコスト問題」は,換言すれば「なぜ性はわざわざ個体をこえて遺伝情報の交換をするのか」だが,この問いに対し,いろいろな解答が試みられている.ごく簡単に列挙すると,(a) 遺伝情報を交換するのはユニークな遺伝子からなる個体をつくり,環境の変化に適応するためだという「種内多様説」.(b) 無性生物の宿命として弱有害遺伝子が致死閾値まで不可逆的に蓄積してしまうことが挙げられる(ラチェット効果)が,それを回避するために遺伝子交換を果たすのだという「突然変異決定仮説」.(c) 紫外線などによって傷ついた遺伝情報を修復するためという「遺伝子修復説」.(d) 細胞内に別の細胞が入り込むことで性ができあがったとする「パラサイト説」などがある.ただし今のところ,この問いに対し,満足のいく答えはまだ現れていないため「難問」とされる[河田, 1997].
ゆえに進化生物学においては,「性別」はたしかによく研究されているが,<発生>の問題としてしか扱われないことに注意しよう.
I-1-(2) 上記以外の生物医学の関心
それでは進化生物学以外の数多くの生物医学の分野では,すでに述べた通り,「性」は「性=生殖」の自明性に身をゆだねたまま,まったくの関心の埒外なのかというと,そういうわけでもない.むしろ,性は少なからず関心事でもある.ただしその関心は,「○○種のオスとメス,どこが違うか」といった,「性的二型」(sex[ual] dimorphism)の発見・解説に終始する.たとえば,「イトヨのオスは繁殖期になると腹部が赤くなります」「セイウチのオスはハレムをつくります.メスがハレムをつくることはありません.そしてオスの体格はメスのそれよりずっと大柄です」といった説示である.「性差の記述的関心」とでも言えようか.このような問題構成にのっとって,さまざまな個体や種の事例が発見・解説される.ついで,個体を越えた種としての・または種を越えた生物としての経験的一般化がなされる(「配偶の相手を見つけるために闘うのは,たいていオスです」).「性差の記述的関心」といった問題構成であることは,強調しすぎることはない.というのも,記述にもとづくこの経験的一般化は,仮に一貫性をうまく保てないことになったとしても,性的二型の「分割の根拠それ自体」(=生物学的性別の規準)の枠組みへは視線は向けられないからである.オスとメスを分かつ,その分割のあり方自体へ視線がさし向けられることは,この分野でもなされない.
I-2 本稿問題設定の意義
I-1で紹介したことをまとめておく.進化生物学は<存在>の問いを<発生>の問いに変換処理して解こうとする学問である.そこにおいては性の発生は問題となるが,それ以外のことは問題としてなかなかあがってこない.かたや進化生物学以外の生物医学については,「性差の記述」がなされるままで,性別の分割の根拠や二分法的性別の枠組みへの懐疑はなされない.
わたしが問題にしたいことは,進化生物学で関心に挙げられているような「なぜ性が発生したのか」でも「なぜ性が存在するか」でも「なぜ性が必要なのか」でもない.また,それ以外の生物医学で関心とされる「オスとメスどこが違うか」や「種の性差」でもない.問わんとすることは「二分法的な生物学的性別は,なにを規準にオスとメスに分割されているのか」である3).
なぜこの問題関心に固執するか.生物学的性別の規準がなんであるかを知ることは,性別関与的な社会事象を解くのに非常に重要であるからだ.なぜなら一般的には──性別に関与的な社会事象は当然に,(心理社会的性別・養育上の性別・法的性別などと時には列挙され,時には非-生物学的な位相の相対としてみなされるいわゆる)<ジェンダー>によって編成されている.しかしその<ジェンダー>も,生物学的性別が土台となって成立しうる──このように考えらえているからだ.次に挙げる性別関与的な社会事象は,確実にそのような「重層モデル」からできあがっている例ではないだろうか:
(a) 新生児の性別が「あいまい」(ambiguous)なものであったとき,どのようにそれが問題化され,どのような根拠をもとにいかに対処されるのか.(b) SRS(性別再指定手術)とはそもそも「なにを」いかなる理由で判定し,「なにへと」いかなる根拠にもとづいて再判定しているのか.
本稿は,生物学的性別から<ジェンダー>へとなだらかに,しかし確実に接続しているその編成のされ方を制度個別的に明らかにするための,基盤的見地を提供するものである4).
生物学的性別の規準をさぐる準備として,生物医学の,性別に対する理解の仕方を押さえておく必要があろう.
II-1 性別の「層」と「因子」
生物医学では性別は「層」と「因子」というふたつの発想を軸に理解がなされる.以下,簡便に列挙していく.
(1) 性別はいくつかの層からなっている,と考える.具体的には「染色体の性別」「性腺の性別」「内性器の性別」「外性器の性別」といった層で区分けされる.これに後続して「脳の性別」「第二次性徴」をつけ加える論者もいる.この4層は表に示すと表-1 (正常の染色体,性腺,内性器および外性器の性)のようになる.(2) この性別の層は,遺伝情報それ自体であるものと,生体に仕組まれた遺伝情報が作用した結果とに分けられる.「染色体の性別」が前者であり,遺伝子型(genotype)とよばれる.それ以外の層の性別は,遺伝情報の作用結果であり表現型(phenotype)とよばれる.
(3) XY,もしくはXXである遺伝子型が表-1の列に合致するように性分化をとげた場合,当該個体がXY個体ならオス(male),XX個体ならメス(female)とされる.また,そのような性分化を指して「典型的な性分化である」という.
(4) 各性別の層に注目した場合,ある水準の性別が表-1のような様態では「ない」時,もしくは性別の重層性でみた場合に表-1のような重なり方では「ない」とき,「非典型的な性分化をしている」という.たとえば前者では,(a)性染色体がXXYである個体(クラインフェルター症候群)や,性腺の形成が十分ではない個体(性腺形成不全)などが挙げられ,後者では精巣を持っていると同時に大陰唇様の外性器を備えている個体(男性仮性半陰陽)が挙げられよう.なお,非典型的性分化は病症名「性分化異常症」(abnomal sex differentiation synd.)としてくくられる場合もあるが,本稿ではできるだけ「正常/異常」のことばをつかわず,「典型的/非典型的」(typical/ untypical)の語を使うことにする(引用部や言い換え不能な術語を除く).典型的/非典型的という言い回しは非典型的性分化の当事者(いわゆるインターセクシュアル: intersexual)や当事者にコミットする医療従事者が使っている.
(5) 各層の性別への性分化は,複数の「因子」が作用した結果である,と考える5).もっとも,副次的な因子もあるため,その層における一番強力な因子を「決定因子」とよぶ(たとえば「外性器形成の層において陰茎へと性分化したことは,アンドロジェンが決定因子となって働いたことによる」というように表現される).
(6) 因子の中に「精巣決定因子」とよばれているものがある.この因子の本態はY染色体上にあるSRY遺伝子とよばれているものである.そしてこのSRY遺伝子が,現在,性別それ自体の決定因子であると考えられている.
次節ではこの性別の決定因子:SRY遺伝子について説明する.
II-2 性別の決定因子:SRY遺伝子
性別の決定因子とみなされているSRY遺伝子を概説する.SRY遺伝子は性腺の性分化において一番はじめに寄与する遺伝子であるため,まず性腺性分化全体を概観しておく.次にSRY遺伝子の座位を説明する.この時,SRY遺伝子が関与する非典型的性分化(診断名:SRY(+)46,XXmale)も併せて紹介した方が,この遺伝子に関してより理解が深まるため,この非典型的性分化の発生メカニズムについても言及する.
II-2-(1) 性腺性分化
胎児の性腺原基は,その基本形(prototype)が胎児卵巣である.性腺の発達分化のことを第一次性決定機構ともいう(図-1 第一次性決定機構).
性腺の発達について述べる.胎児の性腺原基が精巣と卵巣,どちらに性分化するかは精巣決定因子(TDF: testis determining factor)をもつSRY遺伝子 (sex determining region Y-gene)に依存する.性腺原基はそもそも,両性へ分化する能力を持っているが,SRYが存在するときには精巣決定因子がswitch-onとなって,性腺原基の髄質部分が精巣に分化する.胎児精巣への分化は,胎生7週頃と考えられている.
SRYが存在しないときは,精巣決定遺伝子群の作用はswitch-offのままであり,性腺原基の皮質部分が自然に胎児卵巣へと分化する.胎児卵巣の分化過程には,卵母細胞の相同染色体が重要と考えられているが,詳細はなお解明されていない[長谷川, 1997: 46].卵巣の分化は,精巣とは対照的に受動的であり,卵巣決定因子のようなものは存在しないとされてきたが,最近では卵巣決定遺伝子Od (Ovarian determining gene)がマウスで想定されてはいる(同定はされていない).
以上述べた性腺性分化は,逆に,「性腺原基は卵巣の分化をすべく運命づけられているが,TDFの存在により特別に精巣が分化する」という言い方もできる[堤; 武谷, 1994: 150].
II-2-(2) SRY遺伝子の座位
SRY遺伝子は,通常,Y染色体上に存在するため,性染色体の構成にY染色体が含まれるならば,胎児の性腺原基は基本的には精巣へと性分化し,Y染色体が含まれない場合,基本的には卵巣へと分化する.精巣性分化をとげた後は,精巣由来のテストステロンが隣接するウォルフ管に直接作用して,輸精管・貯精嚢系(精巣上体,精管,精嚢腺)を形成する.また,5α-ジヒドロテストステロンというホルモンが尿生殖洞の細胞群に作用して前立腺を,尿生殖結節と尿生殖隆起に作用して尿道,陰茎,陰嚢などを形成する[小森; 村中; 香山, 1997: 59].
ただし,性染色体構成がXXであるにもかかわらず,性腺原基は精巣,内性器は前立腺と精管,外性器は陰茎へと発達分化する場合がある.このような非典型的性分化をXXmaleという.XXmaleという性分化が生じる原因ついては分かっているものと分かっていないものがあり,うち,SRY遺伝子が原因として特定されているものを「SRY(+)46,XXmale」とよぶ.SRY(+)とは,「SRY陽性」という意味.(-)なら陰性である.以下,SRY(+)46,XXmaleという性分化が生じるメカニズムを挙げながらSRY遺伝子の座位を説明していきたい.
精子形成過程の減数分裂(第一分裂)の際には,XとY染色体は互いに対合し遺伝情報を交換する.これを「キアズマの形成」とか「交叉」という.この交換が行われる部分をPAR(Pseudo Autosomal Region: 偽常染色体領域)という(図-2 X染色体とY染色体の短腕と長腕).PARの全長は106塩基対(2.5〜2.7メガベース)である.なお,Y染色体においてはPARより近位側に,300塩基対ほどのAlu配列が挿入されている.この配列はX染色体にはない6).この部分はとくにPABY(Y染色体PARの近位側境界)と呼ばれる.PABYのすぐ近位側(動原体寄り)10キロベースの位置に,SRY遺伝子が座位をしめる[中込; 中堀, 1994: 261].
Alu配列は,交叉がPARの範囲に止まり動原体側に及ばないように区切っているものと理解されている.ただしこの部分からわずか近位側にSRY遺伝子の座位が存在するわけであり,数万回に一回の頻度ではあるが,SRY座位をこえた近位側でキアズマが生じることがある.この時,Xの短腕にSRYが転座する[中込, 1997: 5].転座したSRY遺伝子をふくむX染色体の精子が,卵(X)と受精することで,XXmaleが生じる(SRY(+)23,X + 23,X = SRY(+)46,XX).
I,IIの概説をベースとして,生物学的性別の規準の析出を試みる.焦点を当てるのは,性別の決定因子を同定する際に着目され続けた精巣決定因子(TDF)の一連の研究である.III-1では,まずTDF研究の流れがどのようであったのかを少し詳しく説明する.以上の説明をもとにIII-2で生物学的性別の規準を析出する.
III-1 TDF研究の流れ
ヒトのY染色体に精巣決定因子(TDF)というものがあるという結論がでたのは,ターナー症候群が45,X,クラインフェルター症候群が47,XXY,という染色体所見が相次いで明らかになった1959年である.もっともこの研究に先立って,ウサギの胎仔を用いたJostの実験があった.その後ヒトの非典型的性分化の観察により,Jostの観察は基本的にはヒトにもあてはまることが確認された.そこでは「ヒトの体は基本的には女性であり,プログラムを男性型に切り替えるのが精巣決定因子である,という大枠が明らかになった[中込, 1997: 3].
以後TDFはなにかという研究が開始する.これら研究はおおむね,まず,Y染色体の全部または一部の有無と関連づけられるような特有の非典型的性分化に焦点があてられ,次にその特異的発現を担う遺伝子の位置を積極的あるいは消去法的にY染色体上に求める,といった方法でなされた.
TDFの位置については,微小Y染色体にもかかわらず男児例であった中込らの報告(1965年)があり,それによりY長腕部の大部分はTDFの推定領域から除外された.翌1966年,さらに,Y染色体の長腕のみを含む構造異常の個体の研究が報告されている.この構造異常の個体がもつ表現型は「女性」型であるとのJacobsの報告が出て,TDFはY染色体短腕上と確定した[中込, 1997: 3].
さらに1975年にはY染色体短腕にある組織適合性Y抗原(H-Y抗原)が性決定因子として提唱された[長井, 1997: 33]:
《同系マウスで雌雄の各種組み合わせを作り,皮膚の移植をしているうちに,雄-雌の組み合わせの場合のみ,拒否反応の起きることが分かった.この雌による雄の組織に対する不適合現象は,Y染色体の存在と密接に関連しており,この抗原をH-Y抗原(histocompatibility-Y)と呼んだ.》[坂倉,1983:161]
一昔前の論考やテキストのほとんどには,「TDFはH-Y抗原である」と書かれている(図-3 TDF=H-Y抗原).しかしこの仮説に合わない事実が発見されるなど,その最終的な証明はいまだなく[長井, 1997: 33],現在,TDFが言及される際にはH-Y抗原はほとんど姿を消している.
1980年代は,Y染色体のクローン化が進展したことで,TDFの本態遺伝子が何であるのかを同定する激しい競争の時代でもあった[並木, 1996: 547-548].ただしなかなかTDFにあたるものが見つからなかった.ショウジョウバエでは1980年代に,性腺分化にいたる主要遺伝子の同定はおろか,精巣または卵巣への分化につながる過程の全貌が明らかにされていた:
《Y染色体は最も早くYACクローンの整列化が完了した染色体であるが,反復配列が多いことなどが研究を難しくしている.》[新家, 1997: 23]《[ショウジョウバエの研究が非常に先んじていることは]ヒトの性腺分化にかかわる機構の解明と比べて落差は大きく,関係者のフラストレーションが溜まっていた.》[中込, 1997: 3]
1980年,減数分裂時にX染色体とY染色体とがしばしば遺伝情報を交換する部分があることが判明する.この部分をPARと呼んだ(既述).もし,PARの部分に精巣性分化を決定する遺伝子があると仮定すると,減数分裂時にその遺伝子がX染色体へ移ったり,Y染色体にもどったりするわけであり,性別決定の規則性は全く失われてしまうと考えられる.ゆえにY染色体上での安定保存を考えれば,PARの部分には精巣を決定する遺伝子は存在しえないだろうということになった[新井, 1998: 599-600].
1982年,マウスY染色体上に精巣決定因子Tdy(Testis Determining locus on the Y-chromosome),X-Y交換などに起因した性腺異形成などからヒトY染色体上にTDF(Testis Determining Factor)の遺伝子の存在が,おのおの推定された.さらに1987年には,マウスのY染色体上のZfy遺伝子がTdyの,ヒトの場合はZFY遺伝子がTDFの候補とされたが,ヒトZFY遺伝子の発現を欠く男性型個体の症例や,生殖細胞を欠く精巣を持つような変異マウスはZfy遺伝子を発現しないなどといった実例があったため1989年に否定された[長井, 1997:33].
この時期は,TDF作用を発現する遺伝子はTDFという名を持ち,それは理論上の存在であったことに留意されたい:
《多彩な性染色体異常やXX男性あるいはXY女性などの報告はあったものの,TDFはあくまで「Y短腕があると胎児期に睾丸の分化が誘導されるので,睾丸決定因子がその上に乗っているはずだ」という理論上の存在であった.本態についての解明は1990年のSRY遺伝子のクローン化までまたなければならなかったのである.》[中込,1997:3](傍線部筆者).
1990年Sinclairらによって,X-Yの転座したXXmaleの染色体からSRY遺伝子は単離された[Sinclair, 1990].SRY遺伝子はイントロンがない単一のエクソンからなる遺伝子であった.エクソンとは実際にコード化しているDNAのことである.
1991年Koopmanらが,性染色体XXであるマウス受精卵にSry (sex-determining region of the Y)というPAR付近に存在する遺伝子を含んだDNAを導入すると,精巣などをもつマウス(トランスジェニックXXmaleマウス)が誕生することを証明した.この時,導入したDNAはZfyを含まなかったのでZFY/ Zfy遺伝子はTDF候補ではないことが最終的に確証した[Koopman, 1991].これにより,Sry遺伝子(ヒトの場合はSRY)こそTDFであることが判明した.こうしてTDFはやっと同定されたのである.
《精巣決定遺伝子の産物であるSRY蛋白は哺乳類のY染色体に共通保存されているHMB(high mobility group) box familyの転写因子である.このSRYが精巣決定因子(Testis determining factor; TDF)である.》[島, 1997: 73]《ヒトの性決定遺伝子SRY「Sex determining region Y-gene」は1990年にSinclairらによりY-X転座したXX-雄性の患者の染色体から単離された.同1990年に,マウスSryもY染色体短腕上のPAR近傍に同定される.SRY/SryがTDF/Tdyの最も確からしい候補遺伝子であることは,1991年のKoopmanらの実験によりマウスで確認された》[長井, 1997: 33](傍線部筆者).
III-2 考察
われわれが注目したいのは語法(rhetoric)──SRYとTDFをめぐる語法──である.
III-1で紹介したTDF研究の歴史をまとめれば,以下に述べるようになる(図-4 Y染色体上の精巣決定遺伝子の決定の歴史).染色体の機能が解明されはじめた数年のうちに,まず,Y染色体に精巣決定因子(TDF)が想定された.ついで,遺伝子の研究が増進してヒトのY染色体クローン化が中心的な課題になっていく(すでに「まるごとのY染色体」は,直接的な男性型性分化の象徴的存在とみなされなくなっている).Y染色体長腕のほとんどが1965年にTDF候補から除外され,翌年Y染色体短腕と決定する.Y染色体長腕短腕のH-Y抗原は長らく有力視されてきたが,ついに確証はなされていない.そのうち,TDFの遺伝子候補として,マウスのTdy遺伝子,ヒトのTDF遺伝子が推定存在される.TDFは確定されないまま7年ほど推移した.1987年には,ZFY/ Zfy遺伝子がTDFの候補に上がったが,1989年にほぼ否定的になった.1990年にTDFはSinclairらによりPABY近傍と座位が確定し,単離されたそれをSRYという名でよんでいる.1991年にSinclairらの研究をKoopmanらがマウスで検証したことでTDFはSryでありZfyではないことが確証した[長井, 1997: 33].
注目すべきことは,いったん想像上の遺伝子名となったTDFは,SRY発見後にふたたび作用名(=TDF)として名を永らえていることである.そして,現在では次のように考えられている.Y染色体PABY近傍の座位にある遺伝子が「精巣性分化を決定づける作用」(TDF)をもち,それこそが「性別決定遺伝子」(SRY)である,と.ここから:
精巣決定因子(testis determining factor)=性別決定遺伝子(sex determining region of the Y)
といった接合(articulation)があることがわかる.
このように述べると,生物医学では次の二つのような反論がある.(1) TDFはSRYだけではなく複数の因子からなる. (2) 特にSRYは,精巣に分化する一連の複雑な過程の一番最初を担う,引き金(trigger)役の遺伝子でしかない.よく次のような注釈がSRYにはつく:
《SRYがただ一つの性腺決定遺伝子ではなく,X染色体や常染色体に存在する複数の性腺決定遺伝子にも依存し,SRYが性腺決定のswitchをonにすることによりX染色体や常染色体の性腺決定遺伝子が発現することが明らかとなってきた.》[宮地; 尾込; 松本; 広井; 薬師寺, 1998: 1043]《[未分化生殖細胞をセルトリ細胞に分化させる]因子として,Y染色体上に存在するSex-determining region of Y gene (SRY)が1990年に睾丸決定遺伝子として同定された.これにより,性決定の機構が解明されたかに思われたが,しかし,性腺の形成・分化に関与するいくつかの遺伝子が単離されてきたこと,さらにその後の研究によりSRY遺伝子は性決定の最上流の遺伝子でもなければ,性を絶対的に決めている遺伝子でもないことが明らかになっている.》[藤枝, 1997: 11]
なるほど,TDFを十全に達成する候補遺伝子にはSRYのみならず,(a)Ad4BP/SF-1,(b)WT-1,(c)DAX-1,(d)SOXなどが挙がっている7).かつてはSxr遺伝子というものも想定された[坂倉, 1983: 163].
しかし,逆性マウスの研究やヒトの性腺異形成の研究からTDF/ Tdyの存在がまず推定され,TDFとして同定された遺伝子をとSRYよび,続いてマウスの遺伝子をSryとよんだのが一連の経過であった.したがって,仮に,現在支持されているようなSRY遺伝子ではなく──つまりPABY近傍に座位を占める「あの」エクソンではなく──別の座位の遺伝子だったとしても,今度はそちらの遺伝子が「TDFという作用をもつ性別決定遺伝子(SRY)」とよばれていただろうことは想像に難くない.
結論を急ごう,「性別の決定因子を探し出す研究」は,「精巣性分化の決定因子を探す研究」と分かちがたく癒着しており,「性別決定」と「精巣決定」は,研究の枠組みとして前件的に与えられている接合であることが今や明らかとなった8).よって「性別の規準」は,精巣性分化の有無にあると結論づけることができる.
本稿では「性別の規準はどこに?」という問いに集中し,その規準が精巣性分化にあると答えた.後続するものとして当然想定される「なぜ精巣性分化か?」という問いまでは答えらえていない.昨今の社会学では「なぜ(why)」の問いを一端は拒否し「どのように(how)」の問いを採るものが増えているが,もちろん「なぜ?」の問いが放棄されてよいわけではない.だから消極的にではあるが答えておきたい──「なぜ精巣性分化か.それは「精巣は生殖機能を持つから」.こう答えるとすれば,それは早計である」──このように答えておこう.
進化生物学で紹介したような「性=生殖」の循環を有性生殖に注意深く限定する姿勢は,その使用の文脈によっては逆に,ヒトの性を生殖にたやすく還元してしまうことにもなる.なるほど,精巣は生殖機能を持つといえるかもしれない.しかし生物学的性別の規準は,仮に生殖を反映しているという答えが妥当だとしても,べつに精巣ではなくてもよかったはずである.たとえば,精子の形成じたいが欠けたら生殖は達成しえないが,それらはなぜ規準となりえていないのか.あるいは卵巣性分化や卵が欠けても生殖を達成しえないが,こちらはどうして考慮されないか.あるいは性腺原基の形成そのものはどうか.げんに,性腺原基を形成する遺伝子や精子形成を制御する遺伝子が証明され・候補にあがっている.あるいは,外性器はどうか.外性器が十分でないと生殖行為は達成できないはずだが,そうでなくとも精子や卵を取り出すことによって生殖が可能になったのは,ごく最近である.したがって,「なぜ精巣性分化なのか?」という問いはこれから詳細な分析をもとにじっくり検討する必要があるだろう.
注
1) 長谷川は上記定義群を《人間だけでなく,哺乳類だけでなく,すべての動物,植物,何にでもあてはまる,雄と雌の定義》[長谷川, 1993: 31]としているが,すぐ後でもわたしが述べるように,有性生殖に限ってのしかも循環的な定義でしかない.ここでおかしているミスとは,有性生殖の性についての定義というよりはむしろ,無性生殖の生殖についての定義を考えた際,おそらく上記定義群ではうまくいかないというところにある.
2) この<オス>を生み出す損失の他に,有性生殖の親は自分の子どもに自分の遺伝子の半分しか伝えることができないという損失,配偶者を見つけるためのエネルギー・時間・資源を消費するという損失などが考えられる[河田, 1997: 9-10].
3) もちろんわたしの関心をさらに押し進めた,性別の二分法(sex dichotomy)という枠組み自体を疑うような問いも設定できる.だが,本稿ではさしあたり二分法自体は不問としよう.なぜなら,すぐ後に例示する問題群を解くためには,この水準の深さまでに問いをとどめておかないと,せっかくの問題群をとらえそこなってしまうからである.
4) 社会学やジェンダー論ではもはや古いとらえ方になってしまったが,社会学以外の研究領域においても,日常生活の領域においても,性別というものは,生物学的性別(sex)と心理社会的性別(gender)の二分法で理解され,その前者/後者は,生得/獲得,氏/育ち,自然/文化,ヒト/人の二項対立かつ,土台/上部の重層モデルとして理解され・流通している.社会学者やジェンダー論者がその二項対立や重層モデルを歓迎しないことと,そのモデルこそが「教養」層に膾炙された性別観であることとは別である.もちろんわれわれは,二項対立や重層モデルこそが生物学的性別を温存する「からくり」であることを見破らねばならない(たとえばその仕事として[Nicholson, 1983= 1994][Butler, 1990= 1999][加藤, 1998]参照).だが,それとは別の仕事として,社会的に膾炙している性別観によってつくりあげられているところの,性別関与的な諸制度の作動(法的性別の裁定やSRSなど)を微細に分析せねばならないはずだ.
5)《性染色体の確立後,性の最終決定までにはいくつもの因子が関与し,そのメカニズムを複雑にしている》[小澤; 福地; 吉村,1999:1032]
6) 真核生物のDNA中には,イントロンとよばれる一見まったく無意味な短い反復配列が大量に存在し(「ジャンクDNA」),ショウジョウバエではACAACTという配列が何万回,何百万回と高度に反復している.ヒトの場合の代表的な「ジャンクDNA」は,Alu配列といわれるもので50万回以上も反復する[柳田, 1984: 109-110].
7) (a) Ad4BPもしくはSF-1とは,性腺原基の形成に関与する遺伝子である[長谷川, 1997: 45].(b) WT-1とは,Wilm's腫瘍の発生と関係があるガン抑制遺伝子である.SRYとは別に性腺発生に重要な役割を有していると考えられている[並木, 1996: 548-549].(c) DAX-1について.X染色体短腕が重複することにより逆性(sex reversal)がみられる.このことから性決定に関与するであろうことが想定されている遺伝子があり,それはX染色体短腕の21領域に存在する.これをDSS(Dosage Sensitive Sex reversal)遺伝子という[藤枝, 1997: 12].先天性副腎低形成の候補領域とDSSの領域がオーバーラップしていることが後日分かったが[新家, 1997: 19],この領域からさらに単離されたDAX-1遺伝子(for DSS-AHC critical region on the X chromosome, gene 1)がある[藤枝, 1997: 12].(d) SOXについて.SRYと類似の塩基配列をもつ遺伝子が常染色体の上に複数コピーがあり,SRYはそのうちの一つがY染色体上で特殊化したものと考えられている.この関連遺伝子はSOX(Sry-type HMG box)ファミリーとよばれ,17番染色体上のSOX9やX染色体長腕のSOX3などいくつかがある[中込, 1997: 6].
8) スチュアート・ホールの用語を使えば[Hall, 1996: 14],「二つの述語,SRYとTDFは,あたかも必然的な照応(necessary correspondence)関係として接合(articulation)している」と表現できるだろう.
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