
ただ、この神事が熱田神宮では行われておらず、知名度が今一つなので、このコーナーで紹介したいと思います。かつては熱田神宮でもこの行事は、「端午・馬の塔」として人気を博し、色々と絵に描かれました。
尾張名所図絵 (天保15年発行)より 熱田神宮の馬の塔の様子を描いたもの
昭和56年名古屋市博物館の発行の「部門展 馬の塔と棒の手―祭りに生きる伝統―」には次のように記述してあります。
1. 馬の塔はかつて尾張、西三河で行われた代表的祭礼習俗のひとつで、標具(ダシ)と呼ばれる札や御弊を立て、豪華な馬具で飾った馬を社寺へ奉納するものである。
2. 熱田神宮(熱田区)では古く端午の走り馬といって5月5日近郷から馬を曵いて走らせることが行われていた。
江戸時代になるとこの日に馬の塔が出され日置村(現中区)や熱田前新田(現港区)をはじめ多くの村から献馬された。また、井戸田村(現瑞穂区)を端馬(ハナ合宿の先頭になる村)とする井戸田合宿や高田村(現瑞穂区)を端馬とする高田合宿などがあったが、明治の初めには行われなくなった。
熱田の馬の塔には本馬と俄馬(にわかうま)とがあった。本馬は馬の塔の行列をつくるもので、先頭に村の名前を入れた村印を持つ印持ち、次いで棒の手や薙刀に飾り馬が続いた。馬から後方へ長い綱(跡綱)を曵き子供にもたせた。人々の行装には華美を尽くし風流であったという。
俄馬は裸馬に荒薦(あらごも)を巻き劔祓を付けたもので、俄馬が駆けゆく様には端午の走り馬の姿が残されていたと思われる。跡綱の人々は風流異形の出で立ちで駆けていったという。熱田の馬の塔は、縮緬や錦の衣装を揃え、馬の塔の行列に伊勢参りや巡礼などの趣向をとり入れるなど多くの観衆を集めた。
また5月18日は、大須観音の奉納の馬の塔が行われ、こちらも盛んだったようです。前述の「馬の塔と棒の手」には、
文政2(1819)年頃には藩主斉朝(なりとも)が丸の内まで曵かせて見物したという(『猿猴庵日記』)。大須の馬の塔は大勢の参加者と見物人とで賑わい、いわば都市の祭礼として江戸時代を通して行われた。
とあります。ちなみに、この高力猿猴庵(本名種信)という人物は、300石取りの尾張藩士で、葛飾北斎が文化14年に名古屋の西本願寺別院の境内で120畳敷大の大達磨絵を描いたイベントを記録した、「北斎大画即書細図」の著者です。
参考文献 「部門展 馬の塔と棒の手―祭りに生きる伝統― 」 名古屋市博物館発行
星野晴美 新内俊次 著 「御座船浪漫」 エフエー出版