司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について

このページは、對中如雲 著 広重「東海道五十三次」の秘密 祥伝社 1995年刊 および同じ著者の監修になる司馬江漢「東海道五十三次画帖」−広重「五十三次」には元絵があった− ワイズ出版 1996年刊のテーマに対しての考察をしていきます。
 それらの本の内容は、一言で言うと、歌川広重の保永堂版「東海道五十三次」には元絵が存在し、それは江戸中後期の画家・司馬江漢作の画帳であるというものでした。 
 しかし、それは真っ赤な大嘘で、そもそも江漢作と称する画帖そのものが、後世たぶん昭和以降に描かれた贋作であるというのが本当です。この對中氏の著書が発表され、マスコミに取り上げられて、テレビ番組にもなり、問題の画帖は對中氏が館長を勤めていた伊豆高原美術館で公開されていました。しかしながら現在この美術館は閉鎖しており、その画帖も売却したと伝えられています。

 私は以前当「WEB浮世絵」で、對中氏の著書の主張に対して反論を展開しました。そして美術館の閉鎖、絵の売却はとりもなおさず、對中氏の主張の敗北と判断して、そのコンテンツの掲載を中断していましたが、ここに再開します。
その理由として、
1.對中氏の著作は、「日本美術の鑑定技術の国家的研究機関を設置すべきだ」や「美術界への提言」等、正論を述べている。正しいことを言っている人なのだから、彼の説も正しいだろうと読者が判断しかねないこと。
2.江戸時代の知識も豊富であり、著作の文章の展開、レトリックが実に巧みであること。著名な歴史小説家の方もころっと信用しましたし、恥ずかしながら私自身がそうでした。
3.江戸時代の自然科学研究の先達でもある司馬江漢(著名度は今一つですが、平賀源内の様に時代を先取りした多才な人物)と、世界の芸術にも影響を与えた歌川広重の名誉を、結果的に著しく損なっていること。私は後になって無茶苦茶に腹が立ちました。
4.これは私見ですが、日本の美術・骨董界というのは、贋作に対して大変甘いのが現実です。お金持ちが目が利かずに騙されるのなら、それは仕方がないのではないかと思われる方も多いと思います。ですが、公的な団体が贋作を掴まされたとしたらどうでしょう。こういう事例もあります。結局は我々の税金が無駄になるわけです。
実は伊豆高原美術館で公開された画帖以外にも、江漢作と銘打った東海道の肉筆画のシリーズがあるのです。都内の某デパートの美術売り場で展示即売されたとのこと。時代がバブル期だったという背景もありますが、再びこういう事を起こらない保障はありません。
5.これは研究者の間ではかなり前から言われているのですが、実際に広重は東海道を旅行していないのではないか(していても江戸近辺だけ)という説があります。というのは東海道五十三次の中で構図が「東海道名所図会」などと似かよったものが多数存在するからです。これ自体とても有力な説だと私も思います。実際に旅行・スケッチしたのであれば資料を参考にする必要が通常ないと考えられるからです。
 そしてこの「いわゆる元絵」というのは、この点を巧みについて「元絵のシリーズ」を捏造しているのです。
 
江漢に江漢なし

そもそも司馬江漢とはどういう人なのでしょうか?彼は多色刷りの錦絵で一世を風靡した鈴木春信の弟子であり、日本の洋風画家(油絵)の開拓者で、また日本で初めて銅版画を作成したことでも知られています。長崎にも何度も足を運び、西洋の事物にも詳しく当時の最先端を行っていた人物でもあります。ですが、その分極めて鼻っ柱の強い性格であったと伝わっています。
 彼の描いた油絵というのは、現在の油絵のように亜麻仁油を使うのではなく、荏胡麻(しそ科の植物)から採った油を使用しました。また顔料の違いなどから、現在の油絵とは色合い・タッチが異なります。
 對中氏の著作では広重の作品との対比ばかりに重点が置かれ、その作品が本当に司馬江漢作なのかという考察が不足しています。何故なら司馬江漢は、「江漢に江漢なし」と言われる程、贋作の多い画家だからです。
まず、司馬江漢の実際の作品を見て下さい。ボストン美術館所蔵の「驟雨待晴図」です。


これを見ますと、横長の画面に海岸のカーブを配した構図の中に、描きこまれた樹木なども枝先まで、細かく描写されていますし、絵がとてもエネルギッシュだというのが、おわかりになると思います。風雨の表現も見事というほかなく、風によって波が立っているところや、雲の様子も絵の主題にぴったりですね。そして人物も存在感があります。絵そのもののトーンは、当時の油絵の具の加減で、冷たくて硬質な肌触りがあります。経年変化により、どうしても退色するわけです。
他の作品も見てみましょう。
 神戸市立博物館所蔵の「異国風景人物図」「相州鎌倉七里浜図」です。背景の空の色や、人物の描写に注目して下さい。

それでは、次にいわゆる江漢作という元絵「日本橋」をご覧下さい。

 比較してどうでしょうか?まったくタッチが違うのがお分かりになると思います。

 左図は、よくいえば色に透明感がありますがこれは別の言い方だと、いかにも手早く色を塗っているように思われますし(瓦の色など)、それに人物も存在感が薄く、何といっても「絵が生きていない」のです。
 江漢は北斎ほどデッサン力がある、上手い画家ではありませんが、いくら何でもこんなに下手ではありません。そして重大なことは、そういう事以外にこの左の絵には江戸時代の「約束事」を無視したおかしな点がいっぱいあるのです。以下その点を検証していきます。なおこれは私個人の見解だけではなく、岡野亮介氏、山田庄一氏、和田光平氏らのご指摘をまとめたものです。

 左図と、下の図を御覧下さい。

 A 日本橋の欄干がすべて黒く塗られている。こんな馬鹿なことはない。実際は擬宝殊の部分だけが黒というのでないとおかしい。こちらに写真と別の浮世絵があります。
 B 大名行列の槍持ちの槍に「毛槍」(ふさふさの毛を穂先に被せたもの)が付いていない。
 C 橋の構造が変。当時の橋の構造はこういう風でないといけません。(広重は正しく描いている)
 D 日本橋の左側と右側の水位が合っていない。
 E 高札場の真下にまで、川の水が描かれている。一体この高札はどこの上に立っているというのでしょうか?
 F 木戸の門が巨大過ぎる。他の宿場の絵でもそうなのですが、横長の広重の浮世絵を元にして、無理に縦長の画面の絵を描いたために、不自然でおかしな絵になっています。

 実は、広重の「日本橋」の絵の両脇に描かれている門のようなものは、木戸といわれるものなのです。こちらに広重が別角度から描いた日本橋の図があります。つまり木戸と橋の間にかなりの空間があり、木戸の門が手前にあるために大きく描かれているわけです。また広重がこの木戸を描いたねらいは、「朝になって木戸が開いたこと」(当時夜10時から朝6時まで閉められていた)と、「東海道の旅が、さぁこれから始まりますよ」ということを言いたかったからだと思います。
 以上見てきたように、、この「江漢作と称する絵」の作者は、江戸時代の人間なら当然知っていたことを、まるで知らないというのがお分かりいただけたと思います。そしてこれはまだほんの序の口なのです。





    


   


 最後にこの「江漢作と称する絵」の「日本橋」図を描くのに、元となった広重の日本橋の「変り図」を紹介します。


「三島について」に続く