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文春新書
邪馬台国は「朱の王国」だった(2018.7.20 出版予定)の著者
蒲池明弘氏
とは関係がありません

GPS考古学序論


朱の王国と神武大和侵攻


第1章 朱との出会い

第2章 神武伝説の地を訪れる

  

第3章 神武伝説の謎を解く

 
住吉大社の埴使
   

第4章 神武宇陀占領と天神山、黒塚古墳

   

第5章 崇神と邪馬台国

   

第6章 武埴安彦の乱

   

第7章 壱与と物部の謎

   

第8章 天照の復興と女帝


朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻


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                       ( 2017.5.23)

第4章 神武の宇陀占領と天神山古墳、黒塚古墳

                          柳本古墳群
 
 

◎ 天神山古墳の不思議


 桜井から天理に向かう国道169号線は、山辺の道の西を平行に、盆地より一段高い山裾を走る。
 右手に、有名な箸墓古墳、景行天皇陵、崇神天皇陵が見え、何時来ても古代の息吹を感じる緑の爽やかな道である。
 その(伝)崇神天皇稜の少し手前、左手に切り削られたように見える小丘の横を国道は走るが、この丘こそ、不思議な古墳、天神山古墳である。
 昭和35年、当時県道だった桜井ー天理線の拡幅改良工事に伴って、この古墳の一部が破壊されることになり、急遽石室の発掘調査が実施された。
 この前方後円墳の墳丘には葺き石や埴輪は見られず、丘陵を削って造られたのではなく、土を盛って作られたことがわかった。
 石室は竪穴式で側壁は扁平な自然石を積み上げ、上にゆく程左右の壁が狭まり石室上部で合わさる、いわゆる合掌型の構造をしていた。 これは前期古墳によく見られるものである。

◎ 朱のみの埋葬

 
 そして、驚くべきことに、中央に置かれた高野槇で作られた柩には、大量の真っ赤な水銀朱が充填されいたのである。
しかも、全く遺骸の痕跡がなく、遺体に添えられるべき玉類の宝飾品も皆無であった。
 代わりに、銅鏡23面と刀剣類が、鏡は鏡面を上にして柩を周りを囲んで並べられていた。
 調査の結果、元から遺骸の代わりに水銀朱が入れてあったことが判明した。その量は約41kgに達する。
 このような古墳は前例がなく、鏡の数も当時までに調査された古墳の内では、多い部類に属するものである。
 また、初期古墳に通常見られる三角縁神獣鏡は無く、わずかにその変形したものが2面あるのみであった。
 しかも鏡の種類も方格規矩鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡など九州北部の弥生時代後期の墳墓で発見されている古い時代の鏡後漢鏡)が殆どであった。

                                           棺には 大量の朱のみが入れられていた


 

 黒塚古墳


     
               黒塚古墳全景 (天理市黒塚展示館 提供)
 この天神山古墳から、北西に500m離れた位置に大量の三角縁神獣鏡が見つかったことで有名な黒塚古墳がある。
ここには江戸時代には柳本藩1万石の陣屋が置かれ、周濠も堀として利用されていた。それが幸いして、盗掘を免れたようである。
 (余談であるが、私は発掘より以前に訪れたことがある。その前方部にはブランコが置かれ、児童公園として使われていたので、”前方公園墳”だと、冗談を言ったのを覚えている。)

◎ 大量の三角縁神獣鏡の発見


 橿原考古学研究所を中心にして平成9年から平成10年に第一次、平成10年から平成11年に第二次の発掘調査が実施された。
 第一次では、後円部の石室の調査が行われ、天神山古墳と同じく合掌型の竪穴式石室からは、33面の大量の三角縁神獣鏡が見つかった。 
 卑弥呼が魏から賜ったのではないかと思われていた鏡が、大和で初めて大量に見つかったため大騒ぎとなった。
 その現地説明会には、考古学ファンが多数訪れ、JR柳本駅から長蛇の列が出来た。

・京都府南山城町の椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡の場合

 三角縁神獣鏡の発見はそれ以前には、京都府南部、山城町にある椿井大塚山古墳での32面が最多であった。
 それは終戦直後に国鉄奈良線(京都と奈良を結ぶ国鉄線)で土砂崩れ防止のために線路左右の法面を広げる工事中、石室が現れた。すでに工事で石室の半分は破壊されていたが、多数の三角縁神獣鏡とその他の鏡4面の計36面、多数の刀剣類、10kgを越えるが見つかった。
 これが、きっかけとなり、小林行雄氏による三角縁神獣鏡の詳細な研究がなされたのである。
 鏡の数と三角縁神獣鏡の多さは、黒塚古墳とそっくりである。 しかし、鏡の埋納状況は、すでに石室が破壊されていたため、不明であった。

◎ 粗末な鏡の扱い


 それと比較して、黒塚古墳の場合は、手つかずの状態で見つかったため、その奇妙な埋納の仕方が明らかとなったのである。
 長さ約6mのクワ科の巨木をくり抜いて作られた棺の中央部に水銀朱が塗られ、その北枕の頭部上端に小さな画文帯神獣鏡1面が立った状態で発見された。
 棺内に置かれた鏡はその1面のみで、他の鏡すべては三角縁神獣鏡で、それらは棺外、しかも棺ではなく、石室壁面に、鏡の面を上にして立てかけられ並んでいたのである。
 明らかに、大切に扱われたのは棺内に置かれた1面の小鏡のみで、棺外に置かれていた大量の三角縁神獣鏡とは異なっていた。
発見当時、その粗雑な扱いに驚く研究者も多かった。三角縁神獣鏡は果たして、本当に重要な鏡だったのだろうかと。...
         
     
   棺内には、直立する画文帯神獣鏡1つのみ、三角縁神獣鏡は棺外に置かれていた。
              黒塚古墳の石室内のようす(黒塚展示館 提供)
    

    
                 発見された三角縁神獣鏡(黒塚展示館)

 ◎ 黒塚古墳で 墓道の発見


 石室の調査に続いて、平成10年に第二次の調査が実施され、主に前方部および前方部と後円部の接続部が発掘調査された。
              
                 墓道の発見  黒塚古墳調査概報(橿原考古学研究所)より

 墳丘は盛り土により造られていたが、後円部西側、前方部との間の斜面を切り通して石室に達する作業道(墓道)が検出された。
 この作業道は短期間に作られ、埋め戻されたように見える。
 このことは、この墓道が石室からの元々あった排水路を破壊して作られ、すぐ埋め戻された後、再度新たな排水路を作っている様子が土質の違いから、推測されたからである。
 合掌型石室は天井石が無く、石室完成後に、副葬物を入れることが困難なため、後で宝物を納めるために作られたと想像される
 なぜこのような、面倒なことをしなければならなかったのか。

◎ 神武の宇陀占領と盆地での鏡の緊急避難・秘蔵

 
 ここまで、話を進めたら、神武に宇陀が占領された後、盆地で何が起こったか、賢明な読者には想像出来るだろう。
 大和の富の源泉である朱の産地を押さえられて、大混乱に陥り、逃亡者が続出する。
 残る者は今まで持っていた宝物を、神武に収奪されないように、隠そうとするだろう。
 すでに時代は古墳時代になっていた。
 「伝説の神武」弥生時代であったろうが、「実在の神武」古墳時代であってもおかしくはない。
 隠し場所として、最適な所は古墳である
 宇陀が神武に占領された時点で、造成中であった古墳「天神山古墳」には、大切に祖先より受け継いできた鏡伝世鏡)の後漢鏡を収納する。  まだ亡骸を納めていない棺にはを入れ、石室内に大切な「伝世鏡」を仕舞い込み、石室ならびに墳丘を完成させる。
 それだけでは、隠し場所が足りないので、既存の古墳である「黒塚古墳」をも掘り返して、すでに完成していた石室内に忍び込んみ、新しい種類の鏡であった「三角縁神獣鏡」を石室内に並べて、壊した石室部分と排水路を新しく作り直した上で、墳丘を再び埋め戻した。と考えたらどうだろう。
 これは、飽くまで私の想像であるが、「天神山古墳」を単に、「副葬品のみを納める為に作られた極めて珍しいタイプの古墳だ」と考えるより、はるかに合理的ではないだろうか。
 また、黒塚古墳の場合は、いわゆる「合掌型石室」の為、天井石が無く、石室内には簡単に入ることが出来ない。
 そのため比較的丈夫な石室低部の排水溝付近(足元)をトンネル状に穴開け進入したのではないだろうか。
 元々棺の中に副葬されていたのは、画文帯神獣鏡1面のみであり、後で運び入れた鏡は『それに比較して粗末に壁際に並べられていた』のは無理からぬことであったろう。
 これを「鏡に格の違いがあった」とか「墓道の発見」、さらに一般化して「今まで分からなかった合掌型石室への埋葬の仕方が明らかになった」のではなく、緊急事態に対応して行われた作業の痕跡と捉えるべきだろう。
 初期古墳には、1つの古墳に多数の鏡が、しかも先祖伝来の古い鏡(伝世鏡)を埋葬する例が多いのは、上と同様の事態が起こったためかも知れない。 
 つまりそれらの古墳は”邪馬台国時代”に属する古墳と考えられるのではないだろうか。


     漢鏡5期(AD1世紀後半)の鏡の分布図  (岡村 秀典 「三角縁神獣鏡の時代」 より)

   上図の北九州は方形周溝墓(弥生時代後期)、大和は前期古墳(古墳時代)からの出土である。


                     第5章 神武の正体と邪馬台国へ

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