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GPS考古学序論




朱の王国と神武大和侵攻


第1章 朱との出会い

第2章 神武伝説の地を訪れる

  

第3章 神武伝説の謎を解く


 住吉大社の埴使
   

第4章 神武の宇陀占領と天神山、黒塚古墳の謎

   

第5章 神武の正体と邪馬台国

   

第6章 武埴安彦の乱

   

第7章 壱与と物部の謎

   

第8章 天照の復興と女帝


朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻

                         (2017.5.23)
 

 第3章 神武紀の謎を解く 

◎ 日下(くさか)の戦いと神武の迂回作戦


 ここで日本書紀神武紀に基づいて、神武の大和攻略を振り返って考え直してみよう。

 最初は正攻法で、河内湾(湖)から上陸して、竜田越え、生駒越えの大和攻撃を試みたが失敗し、逆に長髄彦に日下(くさか)の戦いを挑まれて、激戦となる。この戦において、神武の長兄の「五瀬命」が深傷を負い、退却を余儀なくされる。

 そこで神武は、『私は日神の子なのに、日に向かって攻めるのは、天の道に背いている。逆に日を背にして攻撃すればよい。そうすれば、刃を血ぬらすことなく、敵は自ずと敗れるのだ』
と言って、大和を西からではなく東から攻める作戦に変える。

 この神武の言葉をその言葉通りに受け取るべきではない。
 ここでの作戦変更は、「大和の富の源泉である盆地の背後にある朱の産地を征圧した上で、大和を攻撃すれば、敵は自ずと降伏するはずだ。」
 という意味に捉えるべきである。
 そこで神武軍は大和盆地の背後に進入すべく、和歌山(名草)から紀ノ川を遡航して大和・宇陀を攻略する計画を立てたものと思われる。
 紀ノ川は水量が多く緩やかに流れる大河であるので、舟で吉野あたりまで容易に遡れる。
(途中、和泉の雄水門に立ち寄ったとあるが、そこでも、現地部族の攻撃を受け、五瀬命がさらに痛手を受けたようだ。)

◎ 名草の戦い


 しかし、和歌山でも、名草戸畔(なぐさとべ 戸畔とはその地の女首長すなわちその地の女王のことである。)の軍に阻まれ、名草戸畔を殺したものの、退却を余儀なくさせられた。
(この間の事情は、なかひらまい著「名草戸畔」に詳しい。その「名草戸畔」を祀る神社の宮司家に生まれた最後の元日本兵・小野田寛郎氏の話もあり、興味深い。)
 この後登場する丹敷戸畔の話も合わせて考えるなら、この地には、女王の支配する小国が多くあったことが分かる。
 また次章以降で述べるように「大和」自身が女王の支配する「邪馬台国」であったと私は推測しているが、もしそうだとするなら、この時代の日本は、まさに「女王国」と呼ぶにふさわしい状況であったと言えるだろう。


◎ 熊野からの大迂回は無かった


 その後、神武軍は熊野に行く。そしてなぜか「天磐盾」に登る。

 (小路田泰直氏の「鉄の道」によると、「くまの」ではなく、「ゆや」と読むべきで、湯屋、すなわち、金属冶金に関係する近隣の地だろうという。
 確かに近くには、湯浅、由良、金屋 等の地名がある。
しかし、なぜ神武は、熊野の「天磐盾」にわざわざ登る必要があったのか。
 小路田氏によると、名草の南の有田川沿いの「金屋」近くに、生石高原があり、その生石ケ峰の見晴らしの良い山上には「笠石」と呼ばれる巨石がある。  そこに登り、地形の確認をしたのではないかと言う。)

 その後、熊野沖で暴風雨に会い、神武の2人の兄を失う話が出てくる。
「その時、神武の2番目の兄・稲飯命は『ああ、我が先祖は天神であり、母は海神である。それなのに、私を陸で苦しめ、海でも苦しめるのか。』と言い、剣を抜いて、海に身を投げる。 3番目の兄・三毛人野命も同様に恨の言葉を吐いて、海に入水する。」

 日本書紀の言うように、海神の子でもあり、百戦練磨の神武軍であれば、暴風雨ぐらい簡単に予知し、陸地に船を寄せて難を避けられたはずである。 どうも腑に落ちない話である。
 名草は紀の水軍の本拠地であり、たぶん神武軍と大海戦が行われ、2人の兄を失ったのだろう。
 暴風雨の話は「天磐盾」の後に来るのは不自然であるが、当時紀ノ川は現在と異なり、和歌山市あたりで南に折れ、河口は和歌山市南部にあったので、神武軍は地形を観察した後、川を遡行しようとして、河口近くの名草沖で、名草軍と海戦になったのであろう。
 名草の海戦で敗れたと言う根拠は本章の紀ノ国での敗北の節で述べたい。
 元々、紀ノ国は「木の国」であり、伝説上の人物、「五十猛命(いたけるのみこと)」 (素戔嗚尊の子: 和歌山「伊太祁曾神社」の祭神) が韓国から船造りにふさわしい木の種を持ち帰り、植林したと伝えられている。

 そして日本書紀によれば、神武は、『熊野の荒坂の津に至る。 又の名は丹敷浦で、そこで丹敷戸畔を殺す』 とある。

 「丹敷」「にふ」と読めば、「丹生」である。
 やはり「朱」の採取に関係した地の部族を征圧している。
 熊野は遠すぎるので、紀ノ川沿いの「丹生」かも知れない。そうだとすれば、紀ノ川の丹生族と戦ったことになる。

 こう考える理由は、神武軍を先導した大伴氏の先祖・日臣命は名草近隣出身であり、 日臣は、昔名草戸畔らによって山奥に追いやられ、恨みを持っていた縄文的な部族である久米族を率いて、遠い不案内な熊野からではなく、地理に明るい紀ノ川沿いの山道を辿り、神武軍を導いた可能性が充分にあるからである。(小野田寛郎氏談) 
 大伴氏が名草近隣出身であることは、日本書紀でも明確に証言されている。  雄略紀9年の記事に、天皇の言葉として、『汝、大伴卿と紀卿等とは、同国近隣の人にして、由来ひさし。』 と述べられている。

 これらのことから、行軍不可能な新宮のある熊野からの山越えの大迂回はどう考えても不自然であり、無かったと考えた方がよい。

 熊野からの大迂回を主張せざるをえなかった理由については、後ほど述べたい。

◎ 毒ガスにやられる。

 「神武軍はその「丹敷戸畔」殺害の直後に毒ガス攻撃にあって全員気を失った。」 とある。

 水銀を扱う部族であれば、仙術(化学)の知識も持っていたはずであり、それを使って反撃したのだろう。

 この後、高倉下という物部氏につながる人物が現れ、全員を救い出す。
  さらに、「八咫烏」が現れ、不案内な熊野(たぶん吉野)から宇陀への道案内をする。

 たぶんその「八咫烏」とは、葛城(鴨)に住む後世の山伏か行者のような人物だったろう。
 ちなみに、修験道の開祖と言われる「役行者」は、葛城(御所)生まれの「賀茂氏」系統の人物であり、また「八咫烏」の功績を讃えるために後世に建てられた宇陀の八咫烏神社」には賀茂氏の祖神の建角身命(たけつのみのみこと:下鴨神社の祭神でもある)が祀られている。  (このことは、釈日本紀中にある「山城国風土記」逸文にも明確に述べられている。『賀茂健角身命が神倭磐余彦の先導役に立たれ、最初は大和葛城の峯に住み、・・・』とある。)
 記紀の記述と相まって、道案内をした山岳行者である「八咫烏」と、いにしえの「徐福」以来の修験道の聖地である「熊野」とが容易に結び付けられ、「神武が熊野から来た」との誤解が増幅されたのだろう。
 (もともと、八咫烏とは、古代中国で信じられていた太陽の中に住む巨大なカラス、つまり太陽表面に時たま現れる巨大な黒点のことで、この太陽の使いが現れて、日神の御子の神武を導くと言う神話の話に仕立てたかったのだろう。


◎ 吉野部族の服属

  ともかく、こうして目的地の宇陀・宇賀志に進入し、前章で述べたように、兄猾(えうかし)を退治して、首尾よく最大の辰砂地帯を征圧する
 古事記では、宇陀進入の前に、五條近くの吉野川の河口に出て、阿太族を服属させ、
 吉野では『尾の生えた人が、光る井戸から出てきた。』とあるので、
 朱を採取していた吉野の「井光」族 (純度の高い辰砂の採掘井戸では自然水銀が井戸の底に溜まるので底が光って見える。 また、鉱山労働者はどこでも座れるように尻に毛皮をぶら下げているため、尾が生えているように見えたのだろう。)を服属させている。
 さらに、宇陀の手前、国栖(くず)では『尾の生えた人が、岩を押し分けて出てきた。』 とあるので、
 横穴堀のたぶん銅鉱山を押さえたのであろう。

 このように、大和周辺の鉱物資源地帯の豪族達を片っ端から戦わずして服属させていることが読みとれる。
 日本書紀では神武は、宇陀征圧後に、古事記と全く同様に吉野地方を巡っている。
 これは、熊野からどういうコースを辿って宇陀に来たのか、記紀の解釈が異なっていたためだと想像できる。
 つまるところ、どちらも、吉野地方の部族を従えたことは確かであるが、神武は熊野からどのようなコースで宇陀に来たのか、皆目わからなかったのだろう。(ーーまたそれは、無理からぬ話である。記紀の著者達は「熊野」をそのまま現在新宮のある遠い「熊野」だと間違って解釈していたのだから。ーーそんな所から険しい山越えの大部隊の行軍は不可能、食糧調達すら不可能!ーー)

◎ 記紀は神武の真の目的を隠している。

 それよりも、ここで強調しておきたいのは、古事記・日本書紀とも、「朱」と云う言葉は一言も使わず、辰沙地帯を押さえたこと、神武の主目的がそれであったことを、徹頭徹尾隠している、否むしろ、隠そうとしている点である。
(例えば、「丹生」をわざわざ「丹敷」と書き「にしき」と読まそうとしている。など )

◎ 宇陀での神事


  宇陀征圧後、盆地に敵の大軍が満ちていることが分かると、神武は興味深い事を行う。
 夢で、『天香山の社(やしろ)の中の埴土を取って、沢山の平瓮(ひらか・平たい皿)と、厳瓮(いつへ・神聖な壷)を造り、天神地祇を祭り、また呪いをかけなさい。 そうすれば、敵は自ずと降参するだろう。』
 とのお告げがあった。
 また、それと全く同じことを行うように弟猾が神武に奉上したので、椎根津彦を老父(おきな)に、弟猾を老嫗(おみな)変装させて、敵陣に入り、埴土を取りに行かせた。
 首尾よく取ってきた埴土で、多くの平瓮、多くの皿と厳瓮を造り、宇陀の丹生の川上で神事を行った。
(余談: 宇陀ではなく、吉野にも「丹生川上神社」と銘打った神社が多数あるが、これは後に天武天皇が「壬申の乱」での「吉野」側の功績に感謝して、吉野で神事を行ったためである。 しかし、宇陀の方がはるかに吉野より「朱」の産出量は多く、日本書紀にも、神事を行ったのは「宇陀の丹生の川上」と明言されている。 たぶん、兎田野の入谷(にゅう谷)辺りであろう。)
 ここまでは良いのだが、さらに神武は、平瓮を使って『水無しで、飴(たがね)を作ろう』と言い出す。
そして、水無しで飴を作るのに成功すると、『壷を川に沈めて、魚が麻痺し浮き上がるなら、我はこの国を平定できるだろう。』と言い、それを実行すると見事成功した。
 『椎根津彦から、この報告を受けた神武は大いに喜んだ。』とある。
    これらは、いずれも、深い意味を持つので、解説したい。

◎ 大和の天香久山

 大和三山の中でも、天香山(あめのかぐやま)が古くから最も神聖視された山である。
 神話の天の岩戸の話もこの山が舞台だと言われている。山頂には天地開闢神話で最初に登場する神「国常立命(くにのとこたちのみこと)」を祀る「国常立神社」があり、太古の縄文時代からの信仰の山であったことを窺わせる。
 あとで述べるように、大和には、既に何度かの外来勢力の侵入・侵略があったはずだが、山で囲まれた地形のお陰で大規模な侵入は防がれて、それら外来勢力は、大和古来の在地部族と共存する形、あるいは、在地部族達が共立する形の支配構造をとっていて、古い社会構造である「部族連合制」「長老支配(=長老合議制)」の社会が温存されていたと考えられる。
 (その長老支配の根は、世界的にみても、原始共同体に共通する。 書物のなかった時代、最も尊敬されたのは、経験を積み、古くからの知恵と伝承を受け継いでいる「長老達」であった。 日本でも、猿楽で、「翁」が神のように尊敬されていることを思い起こすと理解できよう。)
 その、古い「長老支配」の根拠地が「天香山」であり、幾度の侵略にも抗して、温存されてきたのである。
 そして、そのシンボルが、天香山の埴土であった。 これは「大和の物実(ものしろ)」と呼ばれ、特別な埴土として扱われて来ている。
 神武以降でも、後で述べる武埴安彦の反乱神功皇后の大和侵攻(?)でも、これを獲得することが「大和支配」と等価であると、信じられていたのである。
 別稿で述べるように、現在でも住吉大社から、毎年、年2回「埴使い」が訪れ、埴土を採取する行事が続いている。
    別稿 「住吉大社からの埴使い」 へ
 今述べたこれらを理解した上で、神武紀のこの記事を読むと、その意味が分かるだろう。

 この神聖な埴土を取りに行くのに、翁、嫗に姿をやつしたことで、難なくその聖地にたどり着くことが出来たのである。
 また、その埴土で作った器で、神事を行うことは、「大和の伝統」「長老支配」を尊重する意志表示であり、特に、既に支配下に置いた吉野・宇陀の諸部族の反抗心を取り除き、神武に従わせる効果を持ったであろう。
 そして、このことが、ゆくゆくは盆地の諸部族にも伝わり、神武に対する敵がい心を薄める効果を生むことを期待したであろう。

◎ 水無しで飴を作るとは

  ところで、「水無しで飴を作る」とは、どう言うことであろうか。
 常識的には、不可能であるが、神武は辰沙地帯を征圧したことを考えると、「飴(たがね)」とは、水銀アマルガムと考えるとどうだろう。
 朱を加熱すれば、容易に分解して、水銀蒸気が発生する。これを常温に冷やせば、液体の水銀が得られる。あるいは、自然水銀も採掘井戸から得られたはずである。
 水銀は(鉄以外の)他の金属を容易に溶かし込んで、軟らかい飴のようになる。
 神武は、丹生族のように、水銀を操る術を得ようとして、様々な実験を試みたと解釈すれば、どうであろうか。
 そう考えれば、川に瓮を沈めて、魚を浮き上がらせたのは、丹生族によって、受けた毒ガスの発生および攻撃の術を、神武らが手に入れたことを意味する。
 これによって、未だ残存する丹生族に対抗する手段を得たことになる。
 日本書紀の『神武は椎根津彦から、この成功を聞き、おおいに喜んだ』とある記事の意味がわかるだろう。
 そして、この私の推論が真相なら、「丹生族との戦いに破れたという事実」をひた隠しするために、宇陀侵入コースが紀ノ川の丹生を通っていなかったことに、つまり熊野大迂回をしたことにする必要があったのである。
 これで神武紀の大きな謎の一つが解けたことなる。 (さらに重要な理由は、あとで述べたい。)
 こう考えると、古事記にはない、日本書紀のこの箇所の記事は一見すると、奇妙な作り話のように思えるが、重要な真実を教えてくれていることに気づく。
 私の上述の謎解きが可能なように実に簡潔に無駄なく記述されているのである。  (日本書紀の編者は頭が良く、後世の者が謎解き出来るか、ヒントを与え、楽しんでいるようである。)

 ◎ 紀ノ国での敗北

 事実、紀ノ川の丹生族は後世まで、大きな勢力を維持し続け、そして、決して大和朝廷の支配下に置かれなかった。そのことは、この地域は大和や和泉に隣接しているにも係わらず、畿内の範囲外に置かれたままであった事実からも知れる。

  
       紀ノ川中流にある通称「蛇島」を境に、手前が「畿内」、向こうの下流が「畿外」である。

 また、この地域には、大和と比べて高密度で丹生神社が分布し、しかも、大和の丹生神社の祭神は、元の「丹生都比売(にゅうつひめ)」から、水の女神である「罔象女(みづはのめ)」に変えられているのに対して、この地域は本来の祭神である「丹生都比売」を維持している。
  また、時代は下っても、中世まで紀ノ川北岸にある根来寺根来衆(ねごろしゅう)が大きな勢力を保持していたこと関係があるかも知れない。

  
            高野山の西北の高地「天野」にある「丹生都比売神社」
         畿内にあるが、高野山の守護神として、別格扱いで守られてきた。.巨大な神社である。

  また、「播磨国風土記」の「賀古の郡」の段には「景行天皇」が摂津の国の渡しを渡ろうとしたとき、「紀之国」出身の渡し守が「私は天皇に奉仕する者ではないのだから、どうしても渡りたいなら渡し賃をください。」と言ったという話が出てくる。 どうも 「景行天皇」の時代には、「紀之国」は天皇の支配が及ばなかったようだ。
 このことは「景行紀」にも、『「紀国」に行こうとして卜したが、「不吉」と出たので、取止めた。』、との記事があることからも推測できる。
 それだけではなく、風土記の記事は、重要な海上交通の支配権も、「紀之国」に握られていたことを示している。
 つまり、前述したように神武(崇神)軍名草(和歌山)沖の海戦で大敗したことの影響が、(「崇神」から2代後の)「景行天皇」の時代まで続いていたことが分かる。
 2人の兄を失った名草の海戦で大敗した事実を隠すためにも、熊野沖で暴風雨に会って沈没したことにする必要があったのである。 つまり「熊野大迂回」の話をねつ造する必要があったのである。
 また、「神武東征」は古い時代ではなく、比較的新しい時代(「景行天皇」に近い時代)の出来事であったと言える。

 崇神紀(崇神17年の記事)において、なぜか唐突に 「諸国に命じて、船の建造を急がせた」 ことが書かれているが、それは失った瀬戸内海の制海権を何とか取り戻そうと努力したことの、日本書紀編者からの証言であろう。  しかし瀬戸内海の制海権を得るまでに至らなかったようだ。
 重要なことは、この瀬戸内海の制海権を失うと、半島との「朱の交易」で得られるはずの「鉄」が輸入出来なくなり、折角の「大和征服」が意味をなさなくなることである。 

 瀬戸内海は「大和政権」にとって、まさに「生命線」であった。

◎ 「謎の4世紀」の謎が解ける


 このことに気づくなら、従来いわれてきた「謎の4世紀」の謎が解けるのではないか。

 私は、後述するように崇神(=神武)王朝は2代しか続かなかったと考えている。 つまり、2代で「大和」を放棄せざるをえなかったのではないか。 その証拠として、三輪山祭祀の開始は、4世紀後半から始まっていることが挙げられよう。  それは、「大和」が天皇の支配から解放されたのは、三輪山の神の力だと考えて、感謝の祭祀が行われたものと想像する。
 また、4世紀後半から、「大和」では紀ノ国と繋がりのある葛城氏が大きな勢力を持ち、盆地にいくつもの巨大古墳が作られるようになった理由ではないだろうか。(葛城氏は半島、特に伽耶に早くから進出し富を得た。)
 そして、数世代のちの神功・応神朝において、紀ノ国出身の「武内宿祢」に象徴される葛城氏らの協力を得て、瀬戸内海の制海権をやっと手に入れることが出来たのでは。 また、「朱の貿易により鉄を得る」ことをやめ、「鉄の産地である半島・伽耶の直接支配」に乗り出すという政策に転換したのではないだろうか。
 こう考えるなら、神功皇后による所謂「三韓征伐」の意味とその歴史的な動機が理解出来るだろう。

 また、私は天皇が再び「大和の地」に本格的に戻るのは、5世紀半ばの「雄略天皇」からでは、なかったかと想像する。

 一時期「大和」を放棄せざるをえなかった事実は、「大和」中心の歴史を描こうとする日本書紀の編者にはどうしても隠さなければならないことだったであろう。 そのために、発端の名草沖・海戦での”不名誉な敗北はなかったことにする。 すなわち、その事実を”スルー”するため、紀ノ川沿いではなく熊野から宇陀に行ったことにしたと、私は想像するのである。

◎ 皇祖は「天照大神」ではない


 さて 話を元の「日本書紀」の神武紀に戻そう。
 この「丹生の川上の神事」の節の、最後の話も意味深である。
 『この時から、祭礼で厳瓮を置くことになったのである。天皇はそこで「私は今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)になり代わって、祭を執り行いたい。・・」と仰せになった。』とある。
 この起源となった重要な祭祀において、天皇の皇祖は「天照大神」ではなく「高皇産霊尊」となっているのである。
 このことは、多くの研究者がすでに指摘するところであり、この箇所の記事は、実際に行われた祭祀行為を記録したものと考えられるので、意味は重い。
 事実、今でも、宮中で執り行われている祭祀の主神は「高皇産霊尊」であり、「天照大神」は宮中には祭られておらず、ただ祝詞の言葉の中で登場するだけである。
 ただし、誤解を避けるために付け加えると、天孫族の祖神「たかみむす」は「天照大神」と同様、太陽神でもあるので、天孫族は「日の御子」であることには変わりがない。
 これは、重要なことだが、ここでは、指摘するだけに留めて置こう。

◎ 盆地への神武の侵攻

 この後、いよいよ盆地に下り、戦いになるが、古事記では、後世の久米歌で戦いを紹介するのみであり、日本書記と共通するのは、忍坂(宇陀から下った桜井の南部山沿い)の大室で原住民の土蜘蛛(鉱山労働者) をだまし討ちにしたことだけである。
 日本書紀では有名な「金の鵄(とび)」の話があるが、これは、「太陽を背にして戦うと日が味方して勝利する(実際には、墨坂、男坂、女坂という坂(=峠のこと)で戦闘がおこなわれ、高所から攻撃する神武軍に有利だったことを言ったのだろう。)」と、桜井の地名の「外山(とび)」をこじつけ、さらに騎馬民族的な勝利伝説を取り入れて創作したものだろう。 実際は、大和の富の源泉である辰沙地帯を完全に征圧されたため、動揺して大混乱に陥り、あっけなく降伏したのだろう。ーー朱を失った大和は、ただの辺鄙な一地方にしか過ぎないのだから。ーー
 次に日本書紀では、長髄彦が使いをよこして、『昔、天神の子と称して、にぎはやひ命がやってきて、それに仕えてきました。あなたが天神の子と言うなら、その徴を見せて欲しい。』
と言うので、徴の品を見せると、にぎはやひ命のものと一致した。
 それでも長髄彦は従おうとしなかったので、討ち殺したとある。
 古事記では、にぎはやひが、直ぐ参上して、しるしの玉を献上して降伏したとある。
 たぶん、長髄彦の軍勢の大半はすでに逃亡していたのだろう。

◎ 大和平定

 こうして、神武の大和平定が完了した。
 この後、日本書紀、古事記とも、神話風の物語に変わる。
 橿原に宮の造営、 天皇に即位、 神武の皇后選びの物語等であるが、 私は不審に思うのは、 橿原の畝傍山の麓に宮を造ったことである。
 記紀は一貫して隠してはいるが、神武の目的は、朱の交易の支配であったはずである。そのための場所としては、三輪山の麓、現桜井市の巻向、あるいは椿市(つばいち)の辺りが最適である。

◎ 橿原の宮

 そこからかなり離れた、当時は水運が主であったろうから、川からも離れた盆地の奥の畝傍山の麓の橿原に宮を造るとは、とても考えられない。
 しかも、さらに、この「かしはら」であるが、実はもう一つ候補地がある。御所市の東部に「柏原」の地名があり、ここに、神武社があって、神武は国見をして『大和はとんぼの様に美しい』「秋津島」と形容したことで有名な低い小丘「ほほまの丘」があるのです。
         
            御所の「柏原」にある「神武天皇社」 うしろの山が「ほほまの丘」 

 こんな盆地の奥の低い丘からでは、盆地は見渡せない。 国見をするなら、より標高のある「畝傍山」のほうが適している。
  江戸時代、大和を訪れた本居宣長は、「かしはら」の地を探したが、畝傍山の近くには存在せず、更に南のこの「柏原」しか無かったそうである。
 明治の橿原神宮の選定に当たっては、この地の住民が立ち退きを恐れて、候補地として手を挙げなかったそうである。
 この地は出雲系「事代主」支配地域であり、もしそうだとすれば、勇ましく行軍して、大和を占領したはずの神武は事代主の配下に収まったことになってしまう。
 また、ここではなく、畝傍山の麓の地「橿原」であったとしても、別稿で述べるように、そこも事代主の支配地域であったことに変わりはない。
 しかも、神武は事代主の娘と結婚しているのである。(古事記では大物主の娘と結婚。) これは、どう考えたらよいのだろうか。
( 余談: この掖上の地は、「弓月の君」に率いられた、「秦の民」の最初の入植地であり、その記憶と、「神武伝説」とは何らかの関係があるかも知れない。  「ほほまの丘」からの国見の話も、初の入植地の美しさを讃えた言葉だったかも知れない。 もしそうであるなら、伝説の「いわれびこ」はもっと新しい「神功・応神朝」の時代になる。 そして、「国譲り」も後の時代であったかも知れない。 ...この話は後の章で検討したい )

◎ 二人の「神武」


 私の前述の疑問に対する回答は、神武の時代を古く見せるためであったと考える。
 神武が来る前に、大和には、すでに外来勢力「にぎはやひ」長髄彦の支配する国があったことを、記紀は認めているのだが、私はそれだけではなく、何度も大和への外来勢力の進入があったと考える。

 その最初の進入者が出雲系の「事代主」であった。
 それは、大和に住む私が、古くからの農村の祭りや行事を調べて、実感するところである。
 村井康彦氏の指摘するように、大和の深層には「出雲」がある。
 この銅鐸・弥生文化の古層「出雲」の上に、さらに、何度かの外来勢力の進入によって、神武以前に「にぎはやひ」「長髄彦」で象徴される「プレ大和政権」がすでに誕生していた。これは、記紀が認めるところである。
 そして最後に天皇族の進入で「大和政権」が生まれた。 しかし、最も古い「出雲」支配の時代に神武の政権が誕生したことにすれば、それ以降の大和の歴史を天孫族(天皇家)の歴史に包摂出来るからである。
 つまり、この神武建国神話を古く偽り、「出雲政権」の時代に「タイムスリップ」させて潜り込ませることで、「プレ大和政権」の歴史をも、後の「大和政権」の枠内の出来事に、つまり天皇支配の歴史に組み入れようとする意図があったと考えるのです。
                                               橿原市五井の巳(みい)さん

◎ 「いわれ彦」の名前

 実際、記紀によれば、神武の寿命は百歳を越え、神武に続く、いわゆる欠史八代のいずれの天皇も異常に長寿であり、また10代崇神から13代成務までいずれの天皇も百歳を越えており、神武紀元を出来るだけ古い時代に持っていこうとする作為が明らかである。
 また欠史八代の天皇の実在性も乏しいと考えるのが大方の意見である。
 (私は「大和政権」以前の「邪馬台国」時代、あるいは更に古い時代の人物をその中に取り込んでいる可能性もあると考えているが。)
 タイムスリップさせて、「神武」を「本当の神武」より古い時代に潜りこませると、論理的に奇妙なことが起こります
 潜り込ませた神武を「伝説の神武」と呼ぶと、歴史上、二人の「神武」が存在することになる。
 「伝説の神武」「本当の神武」です。  「本当の神武」と区別するために、「伝説の神武」を、かむやまと「いわれ彦」と呼んだのではないだろうか。
 「いわれ」
とは、ものの「いわれ」、つまり、「由緒」「言い伝え」「伝説の」と言う意味である。
 「いわれ」は地名の可能性も考えられるが、日本書紀で『「磐余(イワレ)」と呼ばれる地は、元々は「片居」あるいは「片立」とよばれていた。』と、明言されているので、「いわれ」は元々地名ではない。
 逆に「磐余(イワレ)」の地名は、伝説の「いわれ彦」が大和盆地に降り立った地であるとの「いわれ」のある地であるので「磐余(イワレ)」の地と呼ばれるようになったのではないだろうか。
 そうだとすれば、「笑い話」か「冗談」の類いになる。
 ( ここでも、いたずら好きな日本書紀の編者は、わざと、「イワレ」は地名ではないと明かしたのかも知れない。 )
 実際、「磐余(イワレ)」はどの範囲を指すのか、今もって曖昧であるのは、その所為であろう。

  [ 伝説のイワレビコとは、もしかすると、第5章で述べる、卑弥呼以前の大倭王のことかも知れない。....]

 欠史八代の歴史は信頼出来ないので、これから先の私の話は、日本書紀、古事記から離れざるを得ない。 代わりに私は、今までに調べられ、判明した考古学的事実の中に神武の大和進攻の痕跡がないか、探っていくことにする。     
             第4章 天神山古墳と黒塚古墳の謎へ

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